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« 浅川マキへ | トップページ | 耳嚢 土屋相模守御加増ありし事 及び 時代うつりかはる事 »

2010/01/19

耳嚢 有德院樣御鷹野先の事 附羅漢寺御請殊勝の事

「耳嚢」に「有德院樣御鷹野先の事 附羅漢寺御請殊勝の事」を収載した。

 有德院樣御鷹野先の事 附羅漢寺御請殊勝の事

 賢君或時、羅漢寺筋御成の時、大雨にて御召物も悉く雨濡れに被爲成候間、御膳所(ごぜんどころ)羅漢寺へ御立寄被遊、御裸に被爲成、御上げ疊の上に御着座被遊、其儘にて住僧を被爲召、上意有之けると也。天下の主將はかく御取餝(かざり)なき事左も有るべき事也。其節羅漢寺御目見(おめみえ)の節、雨天は如何に候得共御獲物も多く恐悦の段申上けるを、御側廻りの若き衆、上の御機嫌克(よき)を恐悦とは可申事ながら、出家の身分にて御獲物の多(おほき)を祝しけるは何とやら似氣(にげ)なしと笑ひければ、達上聞、若き者共却て心得違なれ、出家にても其身こそ殺生はいましむべけれ、將軍の放鷹(はうよう)に得物あるをば可祝事也、流石に禪僧也とて却て御賞美ありけるとや。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に認められない。一貫して認められる根岸の畏敬する徳川吉宗の事蹟連関である。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延41751)年)の諡(おく)り名。

・「羅漢寺」目黒区下目黒に現存(但し、本文の場所は後述するように異なる)現在の正式名は天恩山五百羅漢寺とする(宗教法人としては羅漢寺)。本件当時の宗旨は黄檗宗(現在は浄土宗系単立寺院)。開基松雲元慶、開山鉄眼道光、本尊釈迦如来。名前の通り、305体の羅漢像を祀る(創建当初は536体あった)。当初は本所五ツ目(現・東京都江東区大島)に所在し、本話柄の位置もそこである。創建当時より将軍家の信仰厚く、徳川綱吉や本話主人公徳川吉宗などが帰依して発展したが、建立された場所が埋め立て地にあったことから、度々洪水に襲われ衰退、明治201887)年に本所緑町(現・東京都墨田区緑4丁目)にまず移転、後、明治411908)年の末に現在の目黒に移った。以下、参照したウィキの「五百羅漢寺」から引用する(記号の一部を変更した)。『当寺の五百羅漢像は開基の松雲元慶(16481710)が独力で彫り上げたものである。松雲は京都の出身で、「鉄眼版一切経」で知られる黄檗宗の僧・鉄眼道光に師事した。松雲はある時、豊前国の羅漢寺(大分県中津市本耶馬渓町)の五百羅漢石像を見て、自らも五百羅漢の像を造ることを発願した。貞享4年(1687年)、40歳で江戸に下向した松雲は托鉢で資金を集め、独力で五百羅漢像など536体の群像を造る。羅漢寺の創建は元禄8年(1695年)のことで、松雲が開基、師の鉄眼が開山と位置づけられている。当時の羅漢寺は本所五ツ目(現在の東京都江東区大島3丁目)にあった』。『3代住持の象先元歴(16671749)は、羅漢寺中興の祖とされており、彼の時代に大伽藍が整備された。象先は正徳3年(1713年)に羅漢寺住持となり、本殿、東西羅漢堂、三匝堂(さんそうどう)などからなる大伽藍を享保11年(1726年)までに建立している。三匝堂は江戸時代には珍しかった三層の建物で、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の百か寺の観音を祀ったことから「百観音」ともいい、その特異な構造から「さざえ(さざゐ)堂」とも呼ばれた。建物内部は螺旋構造の通路がめぐり、上りの通路と下りの通路は交差せず一方通行となっていた。三層にはバルコニーのような見晴台があった。この建物の様子は葛飾北斎が代表作「冨嶽三十六景」の中の「五百らかん寺さざゐ堂」で描いているほか、歌川広重、北尾重政などの浮世絵師も題材にしている。松雲元慶の造立した五百羅漢像は本殿とその左右の回廊状の東西羅漢堂に安置され、参詣人が一方通行の通路を通ってすべての羅漢像を参拝できるよう工夫がされていた。「江戸名所図会」などの絵画資料を見ると、参拝用の通路はゆっくり参拝する人たちのための板張りの通路と、旅人が土足のままでも参拝できる通路とに分かれ、それぞれの通路が交差しないようになっていた』(引用元のウィキの「五百羅漢寺」に該当の葛飾北斎作「冨嶽三十六景」の「五百らかん寺さざゐ堂」画像有り)。『安政2年(1855年)の安政の大地震では東西羅漢堂が倒壊するなどの大被害を受けた。明治以降寺は衰退し』、先に記した通り、現在地に移転したが、『この間、明治23年(1890年)にはチベット探検で知られる河口慧海(18661945)が当寺に住し』たことがある。近代以降の当寺の歴史はリンク先でお読み頂くとして、最後に一言申し上げたい。私が長々と本寺の引用を行ったのは、ここが私にとって、数少ない好きな東京の寺の一つ、であったからである。今は画像や説明によると、立派なコンクリート製の建物に変容してしまったらしいが……孤独な私がたびたび足を向けたあの頃(大学時代、私は上目黒に下宿していた)は、閑静な場所にあった木造の寺院で、夕刻に訪れると人気もなく、堂の中にぎっしりと居並ぶ羅漢に不思議なエクスタシーを覚えるのを常としていた……そうして、その羅漢のど真ん中に……そいつは居たのだ……白沢(獏王)一軀……私は、これが好きでたまらなかった……私は、こいつに逢うために、わざわざ30分もかかる銭湯まで足を延ばして、ここを訪ねたものだった……そのチュパカブラのように異形でキッチュで慄っとするほど素敵な顔と牙に……私はよく、そっと指を触れたものだった……勿論、あの頃も、そして今も……僕の夢は悉く、実際の夢はおぞましくて、現実の夢は完膚無きまでに打ち砕かれたものであったのだが……僕は死ぬ前にもう一度、あの獏を見ておきたい……僕と言う悪夢を獏に食べてもらうために…………

・「御膳所」将軍家外出の際の食事や休憩をする場所。「ごぜんじょ」とも読む。

・「御上げ疊」貴人の座所として畳を重ね敷いた場所を言う。

■やぶちゃん現代語訳

 有徳院様御鷹狩りの際の事 附羅漢寺住持の将軍家御接待の際の殊勝なる事

 賢君吉宗公が、鷹狩りのため、本所五ツ目にある羅漢寺近辺に御成になられた際、折柄、大雨に見舞われ遊ばされ、お召し物も悉くお濡れになってしまわれた故、御一行は急遽、従来、御膳所であった羅漢寺にお立ち寄りになられることと相成った。

 上様は素っ裸のまま御上げ畳に着座遊ばされ、そのままにて、羅漢寺住持をお召しになられると、急の御成りに就き、労いの御言葉をおかけになられたということである。

 天下の大将軍たるもの、かくおとり飾りなんどをなさらざるということ、誠に有難きことなるかな!

 ――――

 さてもまた、まさにその羅漢寺住持お目見えの折りのことで御座る。住持は一声、

「――雨はかく候えども、上様におかれましては、御獲物も多く、恐悦至極に存ずる――。」

と申し上げたのを、御側周りの若衆が聴きつけ、

「……上様の御機嫌麗しきことを伺い、恐悦至極と申し上ぐるならば、まだしも……出家の身分にて、御鷹狩りの御獲物多きことを言祝ぐは……何やらん、似つかわしからざる……。」

なんど申して笑って御座ったところが……

 たまたま、これが上様のお耳に達するや、即座に聞き咎めなさると、

「お主ら若い者どもは、とんだ心得違いを致いておる――。出家なれば、己(おの)が自身、殺生を行(おこの)うこと――これをこそ戒むべきものにてはあれど――将軍家の放鷹(ほうよう)に獲物あるを言祝ぐは、これ、当然のこと!――いや、美事! 流石は禅僧じゃ!」

と仰せられ、却ってこの住持を、大層お褒め遊ばされたということである。

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