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« 耳嚢 異物又奇偶ある事 | トップページ | 南方熊楠 武辺手段のこと »

2010/01/28

耳嚢 武邊手段ある事

「耳嚢」の「武邊手段ある事」を収載した。

 武邊手段の事

 寛延末にもありなん。日本左衞門といへる盜賊の張本ありて召捕(とら)れ刑罰になりけるが、その餘類に一人の山伏有。三尺に廻り一寸餘の鐵棒を所持して、是に向ふ者手を負ざるはなし。其手練の早業いふ斗りなし。依之諸國にて手に餘りし惡黨也けるを、大坂の町同心の内に武邊の者ありて、手段を以難なく召捕ける由。其手段を尋るに、此同心五尺程に廻りも弐寸に近き鐵棒を拵へ、姿をかへて彼の山伏が寄宿に至り、知る人になりて段々物語りの上、側にありし鐵棒をみて、扨々御身はすさまじき鐵棒を用ひ給ふもの哉。我等も鐵棒を好み所持せしが、その業(わざ)存樣(ぞんずるやう)に無之由を申、持參の鐵棒を彼山伏に見せければ、山伏も驚きて扨々御身は力量すさまじき人哉、哀れとくと見せ給へとて、己が鐵棒を同心へ渡し、同心持參の鐵棒受取り詠(ながめ)賞しける樣子を見斗ひ、彼が渡したる鐵棒を取て聲を懸、山伏が眞向を打けるに、山伏も心得たりと、取替し鐵棒を取上しが、兼て遣ひ覺へし寸尺より遙かに延(のび)て、持なやみ惡しき故、存分に働難く、其内手組(てぐみ)の者も立入難なく召捕し由。面白き手段なりと人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:「けころ」がぶっとい一物を受け入れる企略を廻らしたことと、同心が山伏の得物よりもぶっとい鉄棒を以って企略を廻らした点で、諧謔的に美事、連関している。

・「武邊」広義には武道に関する色々な事柄・華々しき戦歴の数々・またその人の謂いであるが、ここはもっとプラグマティックに、腕に覚えがある、といった意味である。

・「寛延末」寛延は西暦1748年から1751年。「末」となると、寛延3(1750)年から翌寛延4・宝暦元(1751)年頃。これを日本左衞門が処刑された延享の末年の誤りととることも可能であるが、その後もこの後3年程、この鐵棒山伏が逃走しながらも暴れ廻ったと設定した方が如何にも面白い。

・「日本左衞門」(にっぽんざえもん 享保4(1719)年~延享4(1747)年)は本名浜島 庄兵衛といった大盗賊。以下、ウィキの「日本左衞門」を引用する。『尾張藩の下級武士の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道諸国を荒らしまわった。その後、被害にあった地元の豪農の訴えによって江戸から火付盗賊改方の長官徳山秀栄が派遣される(長官としているのは池波正太郎著作の「おとこの秘図」であり、史実本来の職位は不明)。日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっている(本所築地奉行は代々の徳山五兵衛でも重政のみ)。逃亡した日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)』、『1747年1月7日に京都で自首し、同年3月11日(14日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。上記の碑には向島で捕縛されたとある。処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。罪状は確認されているだけで14件、2622両。実際はその数倍と言われる。その容貌については、180㎝近い長身の精悍な美丈夫で、顔に5㎝ほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている』。『後に義賊「日本駄右衛門」として脚色され、歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている』。

・「大坂の町同心」大阪町奉行配下の同心。同心は、与力の下にあって現在の巡査に相当する職務を担当した(同心はこれに限らず、その他の諸奉行・京都所司代・城代・大番頭・書院番頭等の配下にもおり、諸藩の藩直属であった足軽階級の正式名を同心とするところもあったとウィキの「同心」にある)。

・「手段を以」底本で鈴木氏は『これと同趣の話が、デカメロン(第五日第二話)にあることを、続南方随筆に指摘してある』とする。これは南方熊楠が大正2(1913)年9月の雑誌『民俗』に載せた本「耳嚢」の記事から書き起こした考察、ズバリ「武邊手段のこと」を指す。現在、ネット上にはテクストがないので、この注のために、南方熊楠「武邊手段のこと」のテクストを翻刻した。参照されたい。

・「手組」与力・同心配下の捕り方のことであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 企略の捕物の事

  以下の話は寛延も末頃のことであったろうか。

 日本左衛門という盗賊の首領が御座って、先立つ延享の末年に召し取られ処刑されたが、その生き残りの子分に、一人の山伏が御座った。

 この男、長さ三尺・外周り一寸程の頑丈な鉄棒を得物と致し、これに立ち向かった者は、手傷を負わぬ者はないという強者。その手練の早業たるや、言葉に表せぬほどで御座った。

 そのため、逃げ回って御座った諸国にあっても、ほとほと持て余す悪党で御座った。

 ところが、大阪は町同心のうちに、腕に覚えある者が御座って、誠(まっこと)美事な企略を以ってこの山伏を難なく召し取ったという話。その手段を尋ねたところが――

 この同心、まず長さ五尺、外周り二寸に近い鉄棒を拵え、旅の山伏の風に変装の上、その鉄棒を携えて、かねて探索方が発見しておったところの、かの山伏の潜伏しておる旅宿にぶらりと立ち寄って御座った。

 当の本人に近づきとなり、徐ろに世間話なんどをし乍ら、打ち解けたところを見計らうと、彼が傍らに置いて御座った鉄棒に、今初めて気付いたかのように眼を向け、

「……さてもさても! 御身はすざまじき鉄棒を扱われることじゃ! いや、我らも鉄棒を好み、実は……得物として所持しおるが……ただ我らが物は、お主の所持して御座る物ほどには……出来は……良うは御座らねど……」

と、やおら持参の鉄棒を山伏に見せたところが、それを見た山伏は、

「……これは驚き! さてもさても! 御身はすざまじき力量の人じゃ! あ、さても! その鉄棒、とくと見せたまえ!……」

山伏は思わず己(おの)が鉄棒を相手に渡し、彼の持ち来たった例の鉄棒を受け取り、感嘆して褒めそやす――それを見計らい、山伏に化けた同心、手にしたかの山伏当人が渡した鉄棒を上段に構えるや、

「――ええいッ!!!――」

と声をかけて、山伏の真っ向をしたたかに打った――

――山伏も、ここに至って謀られたことを悟ったか、

「……グブゥ! ウゥゥ、ッツ!……こ、心得たッ!!!……」

と一声唸るや、手にした鉄棒を構えたので御座ったが……

……兼ねてより遣いなれた鉄棒より寸尺共に一回りも長大なれば……持ち悩んで、使い勝手、悪(あ)しく……もう、まるで思うように扱えざるうち……

――宿屋の周囲に張り込んで御座った捕り方もどっと家内へと押し寄せて参り、難なく召し捕らえたとのことで御座る。

 誠(まっこと)面白い奇略、いやさ、企略である、と、とある人が語った。

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