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2010/01/30

耳嚢 卷之二 蛇を養ひし人の事 / 耳嚢巻之二突入セリ……

「耳嚢 卷之一」全訳注完成を受けて、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、「耳嚢 巻之二」の頁を創設、これより全10巻1000話全翻刻全訳注プロジェクト第2期を開始、冒頭第一話「蛇を養ひし人の事」を収載した。

 蛇を養ひし人の事

 江戸山王永田馬場邊の事也、或は赤坂芝ともいひて共所定かならず。御三卿(さんきやう)方を勤る人の由、苗字は不知、清左衞門と名乘る人なりし由。いか成事にか小蛇を養ひ、夫婦とも寵愛して、箱に入れ椽の下に置て食事などあたへ、天明二年迄十一ケ年養ひけるが、段々と長じて殊の外大きくなりて見るもすさまじけれど、愛する心よりは夫婦とも、朝夕の食事の節も床(ゆか)をたゝき候へば、椽の上に頭を上げけるに、其身の箸を以食事など與へける由。家僕男女も始は恐れおのゝきしが、馴るに隨ひて恐れもせず、縁遠き女子抔は右蛇に願ひ候へなど夫婦のいふに任せ、食事など與へて所念なせば、利益等ありて其願ひ叶ひし事もありし由。然るに天明二年三月大嵐のせし事有しが、其朝も例の通呼侯て食事など與へしが、椽の上へ上り何か甚苦痛せる趣故、如何致しけるやと夫婦も他事なく介抱せしに、雲起り頻に雨降出しければ、右の蛇椽頰(えんばな)に始はうなだれ居たりしが、頭を上げ空を詠(ながめ)、やがて庭上迄雲下りしと見れば、椽より庭へ一身を延すと見へしに、雨強くやがて上天をなしけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:「卷之一」末の「怪僧墨蹟の事」とは連関を感じさせない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、私の翻刻の「卷之一」の途中に現れる「羽蟻を止る呪の事」「燒尿まじないの事」[やぶちゃん字注:「尿」は「床」の誤り。「い」はママ。]「蠟燭の流れを留る事」の三本が最後であるが、この後ろから二番目の「燒床まじないの事」の中に、「大澤に大蛇(をろち)がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず」という呪文が示され、そこに蛇が登場してはいる。昇龍譚は第一話として相応しく、根岸の縁起担ぎが感じられる配置である。

・「山王永田馬場」「山王」は現在の千代田区永田町二丁目にある日枝神社の別名。江戸三大祭の一つ、山王祭で知られる。ウィキの「日枝神社」によれば、『明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治二年(1659年)、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する』とある。その門前辺りは江戸初期、永田姓の屋敷が並んでいたため、一帯が永田馬場と呼称された。現在の国会議事堂の西の一帯。

・「赤坂芝」「赤坂」は現在の港区の北端、前記日枝神社の更に西の一帯を指し、「芝」は同港区東北部分から南の東京湾岸にかけての一帯を言う。

・「御三卿」徳川将軍家一族の内、江戸中期に分立した田安・一橋・清水の三家。田安家は八代将軍吉宗次男で宗武、一橋家は同吉宗四男宗尹(むねただ)、清水家は九代将軍家重の次男重好を始祖とする。将軍家に後嗣がない場合、その候補者を提供することを目的として起立された。格式は徳川御三家(徳川家康九男徳川義直を始祖とする尾張徳川家・同家康十男徳川頼宣を始祖とする紀州徳川家・徳川家康十一男徳川頼房を始祖とする水戸徳川家)に次ぐ。

・「天明二年迄十一ケ年養ひける」天明2年は西暦1782年であるから、その11年前は明和8(1771)年である。一般的な飼育下のヘビの寿命は数年から20年程度とされており、この蛇が如何なる種であるかは分からないが、描写印象から相当に大きな個体と思われ、11年というのは決して不自然な数値ではないと思われる。

・「椽頰(えんばな)」は底本のルビ。「椽」は通常は垂木のことを言うが、芥川龍之介なども、「縁」の代わりに、しばしばこの「椽」を用いている。

・「詠(ながめ)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 蛇を飼う人の事

 江戸山王永田馬場辺りか、若しくは赤坂・芝辺りに住もうて御座っとも言われ、正確な住所は定かではない方で――御三卿のどちらかの御家に勤めて御座って――名字は存ぜねど――名を清左衛門と言うた御人の話の由。

 如何なる謂われが御座ったものかは知らぬが、この御仁、小さな蛇を飼って御座った。

 これがまた、夫婦ともに寵愛して、箱に入れ、縁の下に置いて餌なんどを与え、天明二年に至る迄、実に十一年もの間、飼(こ)う御座った。

 これが、だんだんと――年を経るに従い――殊の外、大きくなり、見るもすざまじい大蛇(おろち)で御座ったれど――こうなっても、依然として――夫婦の蛇を愛ずるの心、これ、より深うなって――朝夕、庭近き床(ゆか)を叩けば、縁側の上へと鎌首を擡げる――すると、夫婦でそのぺろぺろと赤き下を出だいて御座る口に夫婦箸にて餌を与える――といった塩梅にて……。

 下男下女らも、勿論、始めは恐れ戦いて御座ったが、それが日常となって慣れるに従い、何時の間にやら気にもならぬようになったということで御座る。それどころか、

「良縁に恵まれぬ娘さんがおられれば、この蛇に願掛けなされるがよい。」

なんどと夫婦に言われるまま、そうした娘子がやって来ては、手づから初穂のごと、餌なんど与えて祈念致せば、不思議にご利益めいたこともあったということで御座った。

 然るに、天明二年三月のこと、大嵐(おおあらし)が江戸を襲った日のことである。

 その日の朝も、例の通り、床を叩いて蛇を呼び、縁側で餌など与えて御座ったところが、何時になく、するすると縁側に上がり込んで参って、何やらん、如何にも苦しそうな風情。

「……如何致いた!?……」

と夫婦打ち揃うて懸命に介抱して御座った折りから、一天俄かに掻き曇り、雨、滂沱(ぼうだ)と降り注ぐ……

……すると……

……この蛇、始めは縁側にて何やら、項を垂れたようにして御座ったが――

……ふいに鎌首を擡げ、空をキッと眺めて御座ったかと思ううち――

……天空から一群れの白雲(しらくも)が音もなく庭先に降りて参る――

……と、見る見るうちに……

……蛇は、庭へ……その白雲の中へ……しゅるしゅるとその一身を延ばすかと見えた――

……と……

雨の一頻り激しくなる中……そのまま、昇天して御座った――とのことである。

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