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2010/01/21

耳嚢 土屋相模守御加増ありし事 及び 時代うつりかはる事

「耳嚢」に「土屋相模守御加増ありし事」及び「時代うつりかはる事」の二件を併載した。前項は面白くないが、我慢して読むと、二つ目の話の最後で何だかイイ感じである。

 土屋相模守御加増ありし事

 嚴有院樣御代迄勤仕(ごんし)ありし土屋相模守父但馬守は、土屋惣藏次男にて小祿より四萬石に昇進し、其子相模守引續き老職に至り、一代に五萬石の御加増拜領ありて當時九萬石餘の諸侯たり。右相模守老年に至り、加判の列御免の上隱居いたし度段被願(ねがはれ)けるに、有德院樣御聞に達し、加列の列御免勝手攻第登城の樣被仰付、隱居の儀は御差留有ける(が、暫く有りて一萬石御加増にて願の通り隠居被仰付けるが、)隠居後は一度登城有し由。尤老職の通御城内下座會釋等有之、御老中口より登城の由。其節相模守に勤し石川自寛、八十餘にて予が許へ來り咄ける。古への致仕の砌御加増有りし、珍敷事故記之。

□やぶちゃん注

○前項連関:有徳院吉宗絡みで連関。

・「土屋相模守」土屋政直(寛永181641)年~享保7(1722)年)。老中。元駿河国田中藩主、後に常陸国土浦藩主となった。土浦藩主土屋数直長男。以下、ウィキの「土屋政直」によれば、延宝7(1679)年の父の逝去を受けて土浦藩を相続後、天和2(1682)年に駿河田中に国替となったが、5年後の貞享4(1687)年には再び土浦に復帰した。『漸次加増をうけ、最終的に9万5000石とな』った。徳川家綱の奏者番に始まり、老中としては綱吉・家宣・家継・吉宗と『4人の将軍に仕えたが、側用人制度には内心反対し、ポスト家継の後継争いの際、側用人の廃止を条件とし、徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍につくと、老中たちに口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは3問中2問を答えられた政直のみであった』とする。享保4(1719)年に老中を辞したが、本件に記される通り、後も格別の前官礼遇を受けた。『茶道を嗜み、小堀政一の門人の一人で』もあった。以下、ウィキの載せる経歴の内、主に加増に関わる部分を示す。

貞享元(1684)年  44歳 大坂城代に異動。加増2万石。

貞享2(1685)年  45歳 京都所司代に異動。

貞享4(1687)年  47歳 老中に異動。常陸国土浦に国替。加増1万石。

元禄7(1694)年  54歳 加増1万石。

元禄11(1698)年 58歳 老中首座に就任。

正徳元(1711)年  71歳 加増1万石。

享保3(1718)年  78歳 老中職実質免除、加増1万石。

享保4(1719)年  79歳 隠居致仕。

享保7(1722)年  82歳 1116日逝去。

・「嚴有院」第四代将軍徳川家綱(寛永181641)年~延宝8(1680)年)。

・「土屋相模守父但馬守」土屋数直(慶長131608)年~延宝7(1679)年)常陸土浦藩初代藩主。土屋忠直次男。徳川秀忠の命を受けて徳川家光の近習となり、後、若年寄・老中となった(以上はウィキの「土屋数直」を参照した)。以下、ウィキの載せる経歴の内、主に加増に関わる部分を示す。

寛永元(1624)年  20歳 従五位下大和守に叙任。500俵取。

寛永5(1628)年  24歳 200石(上総国)。

寛永10(1633)年 26歳 200石(常陸国)。

寛永18(1641)年 34歳 書院番組頭、駿府城番。

慶安4(1651)年  44歳 加増1000俵取。

承応2(1653)年  46歳 御側衆。

明暦2(1656)年  49歳 加増2000俵取。

明暦3(1657)年  50歳 加増1300石(常陸国宍戸)。

寛文2(1662)年  55歳 若年寄。計1万石。

寛文4(1664)年  57歳 加増5000石。

寛文5(1665)年  58歳 老中就任。

寛文6(1666)年  59歳 加増2万石。

寛文9(1669)年  62歳 加増1万石。計45000石の大名となる。

寛文10(1670)年 63歳 侍従に任官。

延宝7(1679)年  72歳 42日逝去。

・「土屋惣藏」土屋忠直(天正101582)年~慶長171612)年)安土桃山から江戸前期にかけての武将。上総久留里藩初代藩主。惣蔵は幼名。『天正10年(1582年)、「片手千人斬り」で有名な武田氏の家臣・土屋昌恒の長男として生まれる(生年は天正5年(1577年)や天正6年(1578年)という説もある)。父は忠直が生まれた年に天目山の戦いで武田勝頼に殉じ』、『忠直は母に連れられて駿河国清見寺に逃亡していた。やがて徳川家康の召し出しを受けて家臣となり、徳川秀忠の小姓として仕えるようになる。のちに秀忠の「忠」の字を与えられて、忠直と名乗』った武家の名門である。彼の場合も天正191591)年に相模において3000石、慶長7(1602)年には上総久留里藩主となり、2万石が与えられているが、慶長171612)年324日に31歳の若さで逝去している(以上はウィキの「土屋忠直」を参照した)。

・「加判の列」公文書に花押を加えるような重職の地位。江戸幕府にあっては老中職を言う。

・「隱居いたし度段」底本では鈴木氏はここに注して、「寛政譜」の政直の条を以下のように引用してこの間の事情を明確にされている(『(享保)』は鈴木氏補注と思われ、二箇所の「をいて」はママ。)。

「三年(享保)三月三日、政直重職にある事三十年余、齢も八旬にちかきより職をゆるさるといへども、猶しばしば登営すべきむね恩命蒙り、常陸国筑波、下総国相馬二郡にをいて一万石を加賜せられ、すべて九万五千石を領す。十日、これよりのち朔望の出仕には奥の廊下にをいて拝賀し、その余、営にのぼるときは老中伺候の席に参り、またみづから登営せざるの間にも家臣もて御気色をうかゞふべき旨仰下さる」

・「(が、暫く有りて一萬石御加増にて願の通り隠居被仰付けるが、)」底本にはこの右に『(一本)』と注がある。この通り、補って訳した。

・「石川自寛」未詳。諸注も載せず。但し、次の項「時代はうつりかはる事」によって彼の生年が元禄141701)年か翌元禄15年であることが分かる。土屋政直が老中職の実質免除と加増1万石を受けたのは享保3(1718)年のことであるから、その折に政直の家来であったとして、17歳か18歳――まさしく「紅顔の美少年」である(次項参照)。彼は、根岸の生まれる以前の将軍家及び幕臣絡みの出来事についての、「耳嚢」の有力な情報源の一人であった可能性が極めて高い。次の項も必ず参照されたい。

■やぶちゃん現代語訳

 土屋相模守に御加増のあった事

 厳有院家継様の御代まで勤仕した土屋相模守政直殿の父上たる但馬守数直殿は、土屋惣蔵忠直殿の御次男で、五百俵取りの小禄から四万石余にまで昇進し、その子の相模守政直殿も父上と同じく引き続き老中を相勤め、一代で五万石の御加増を拝領された、当時計九万石余の御大名で御座った。

 この相模守政直殿が老年に至り、現役を引退の上、隠居致したき旨願い出たところ、有徳院吉宗様の御耳達し、老中職辞任に就いてはお許しになられたが、格別に、その後も登城は致すよう仰せ付けられたため、隠居の儀はお差し止めとなった。

 その後、暫くして相模守殿には更に一万石の御加増があり、当初の願い出通り、隠居の儀も仰せつけられ、許されたので御座ったが、その隠居後にも一度登城されたということである。その折りも、かつて老中職にあられた時の通りの仕儀を以って、御城内にて下座・御挨拶もなされ、その登城の際も、老中口よりお入りになられたということである。

 これは、その当時、相模守殿に勤仕(ごんし)して御座った石川自寛という「若侍」――今は既に八十歳余りになるが――私のもとを訪ねて来た折りに話して呉れたことにて御座る。古え、老齢にて御役御免という間際にあって、更に一万石もの御加増があったという、誠に珍しいこと故、ここに記しおく。

*   *   *

 時代うつりかはる事

 右老人自寛咄しけるは、同人事元祿十四年淺野家士報讐の年の生にて、大地震は覺へず、砂の降りし事はおぼろに覺へしが、強く降時は晝もくらく覺へける由。根津權現今の通御建立にてその砌殊の外賑ひし事も覺へたり。其外世の中の樣子思ひ合すれば悉く違ひし事、自寛抔若年の節は殊外若衆流行、渡り小姓抔とて大名旗本にて美童抔抱へし事也。自寛も壯年の頃は右渡り小姓をいたし、土屋家譜代にも無之、其砌より相模守に勤仕のよし。我も美少年にありしとかたりしが、唐詩の紅顏美少年半死白頭翁を思ひておかしく、爰に記す。

□やぶちゃん注

○前項連関:同じく石川自寛の談話。前項と同じく「古へ」の話でもある。

・「自寛」前項「石川自寛」注参照。

・「元祿十四年淺野家士報讐の年」これは根岸若しくは石川自身の誤り。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄151702)年1214日のことである。敢えて言うなら、前年元禄141701)年は、事件の発端である殿中での浅野内匠頭の吉良上野介刃傷に及んだ事件の年ではある。現代語訳は討入事件に合わせて元禄十五年とした。

・「大地震」元禄大地震のこと。元禄161703)年1123日未明に関東地方に発生した大地震。以下、ウィキ「元禄大地震」によれば、『震源は房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され』、『マグニチュードは8.1と推定されている』。大正121923)年の『関東大震災と同タイプの海溝型地震であり、震源分布図も類似することから関東大震災以前の関東地震であると考えられている。大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌した』とある。但し、江戸の被害状況は比較的軽微で、『江戸城諸門や番所、各藩の藩邸や長屋、町屋などでは建物倒壊による被害が出た。平塚と品川で液状化現象が起こり、朝起きたら一面泥水が溜っていたなどの記録がある。相模湾沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、東海道の諸宿場でも家屋が倒壊した。上総国をはじめ、関東全体で12ヶ所から出火、倒壊家屋約8,000戸、死者約2,300名、被災者約37,000人と推定される。この地震で三浦半島突端が1.7m、房総半島突端が3.4m隆起した。また、震源地から離れた甲斐国東部の郡内地方や甲府城下町、信濃国松代でも被害が記録され』た。『相模湾から房総半島では津波の被害も発生し、熱海では7m程度の高さと推定される津波が押し寄せ、500戸ほどあった人家のほとんどが流出し、残ったのはわずか10戸程度であったという。また、鎌倉では鶴岡八幡宮へも津波が押し寄せ、伊東では川を遡った津波が水害を及ぼしたという。新島では津波で島が分断され、現在の式根島ができたという伝説もある。津波は九十九里辺りで5m、横浜で3mに達し、江戸でも日本橋を中心に約1mの津波があったと記録されている。六義園も被害を受け、ほとんどの松が塩害で枯れてしまい、元に戻すのに8代将軍吉宗の頃まで30年近くかかった。さらに北は釜石まで津波が届いている』。この地震に伴い、世間では『この年の3月(旧暦2月)に赤穂浪士46人が切腹しており、浪士たちの恨みで起こった地震と噂された。元禄地震は社会不安を引き起こし、翌元禄17年には虚説への取締を命じる町触が出されており、同3月には「宝永」への改元も行われた』という記載がある。自寛は2~3歳で、記憶がないのは当然。

・「砂の降りし事……」宝永4(1707)年1123日午前10時頃に始まった宝永大噴火のこと。以下、ウィキ「宝永大噴火」によれば、『噴火の始まる49日前の10月4日(1028日)に日本最大級の地震(推定マグニチュード8.68.7)といわれる宝永地震が起こった。この地震は定期的に巨大地震を起している2箇所の震源域、すなわち遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したと考えられている。地震の被害は東海道、紀伊半島、四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達した』が、この『宝永地震の余震が続く中、1122日(1215日)の夜から富士山の山麓一帯では強い地震が数十回起こった。23日(16日)の10時頃、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなっていった。噴火の始まりである。富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下し家屋を焼き田畑を埋め尽くした。夕暮れには噴煙の中に火柱が見え、火山雷による稲妻が飛び交うのが目撃された』とある。ここで自寛の言う江戸の降灰については、当時江戸に居住していた新井白石の「折りたく柴の記」の以下の部分を引用している。

「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」

以下続けて江戸の状況。『江戸でも前夜から有感地震があった。昼前から雷鳴が聞こえ、南西の空から黒い雲が広がって江戸の空を多い、空から雪のような白い灰が降ってきた』。『大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばならなかった。別の資料では、最初の降灰はねずみ色をしていたが夕刻から降灰の色が黒く変わったと記されている』(伊藤祐賢「伊藤志摩守日記」による)。「折りたく柴の記」には更に、2日後の25日(18日)の条に『黒灰下る事やまずして』と降灰が記されているとある。『ここで注目すべきは最初の火山灰は白灰であったが、夕方には黒灰に変わっている事である。噴火の最中に火山灰の成分が変化していた証拠である。この時江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば2寸~4寸(5~10㎝)であるが、実際にはもう少し少なかったと推定されている。東京大学本郷キャンパスの発掘調査では薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約2㎝積もっていることが確認された。この降灰は強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸器疾患に悩まされた。当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれている。

これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬもおほかたは咳

(蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」をふまえた歌)』

以下、「噴火の推移」が時系列で示されている。『宝永大噴火は宝永4年1123日(17071216日)に始まり12月8日(1231日)に終焉した。この期間噴火は一様ではなく最初の4日は激しく噴火したが、その後小康状態をはさみながらの噴火が続いた。以下噴火の推移を説明する。

1123日(1216日):昼前から噴火が始まる。火口の近くには降下軽石が大量に落下し江戸まで白っぽい火山灰が降った。午後3時頃小康状態となるが夕方から再度激しくなる。夕方からの降灰は黒色に変わり、火口近くにはスコリアが降下した。噴火は夜も続いた。

1124日(1217日):朝方一旦静まるが、その後小田原から江戸にかけて終日断続的に降灰。

1125日(1218日):前日同様朝小康状態のあと、断続的に噴火。江戸にも降灰。

1126日(1219日):江戸では断続的な降灰が続くが、小康状態の期間が多くなってくる

1125日~12月7日(20日~30日):噴火の頻度や降灰量が減っていった。

12月8日(1231日):夜になって噴火が激しくなる。遅くに爆発が観測され、その後噴火は終焉した。』

引用文中の「スコリア」“scoria”とは岩滓(がんさい)、火山噴出物の一種で、塊状・多孔質のものの内、一般には黒色・暗灰色(条件よっては紫色・赤色)のものを言う。

続いて「被災地の状況」が記載されており、関東の周辺域では『家屋や倉庫は倒壊または焼失し、食料の蓄えが無くなった。田畑は『焼け砂』(スコリアや火山灰など)に覆われ耕作不可能になり、用水路も埋まって水の供給が絶たれ、被災地は深刻な飢饉に陥った。当時の領主・小田原藩は被災地への食料供給などの対策を実施したが、藩のレベルでは十分な救済ができないことは明らかであった。そこで藩主・大久保忠増は江戸幕府に救済を願い出た。幕府はこれを受け入れ周辺一体を一時的に幕府直轄領とし、伊奈忠順を災害対策の責任者に任じた。また被災地復興の基金として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金(石高100石に対し金2両)の拠出を命じ、被災地救済の財源とした。しかし集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両で、残りは幕府の財政に流用された。御厨地方の生産性はなかなか改善せず、約80年後の天明3年(1783年)には低い生産性に加えて天明の大飢饉が加わり、「御厨一揆」が起こった』と被災後の状況を伝える。自寛は既に7~8歳であるから、もっと明確な記憶があるはずであるが、有に80歳を越えている以上、呆けも始まっており、致し方あるまい。

・「根津權現」現在、文京区根津に所在する根津神社。ウィキの「根津神社」によれば、日本武尊が1900年近く前に千駄木に祀ったとされる古社で、『文明年間には、太田道灌により社殿が創られたが、江戸時代になり、現在地に移転。現存する社殿も江戸時代の権現造である。「根津権現」の称は明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために衰退したが、地元では使う人もいる。単に「権現様」とも称される』とあり、細かくは『社殿は宝永3年(1706年)の創建で、宝永2年(1705年)江戸幕府五代将軍・徳川綱吉が養嗣子六代将軍家宣のために屋敷地を献納して天下普請した』ものであること、『権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)』の傑作とされており、現在、『社殿7棟が国の重要文化財に指定』されている、とある。ここで自寛が言う社殿建立は宝永3(1706)年であるから、彼は4~5歳で、時系列からは戻ってしまうが、所謂、その頃のことを思い出すという話柄にあっては不自然ではない。更に『東京大学の移転にともなって門前の根津遊郭は廃されて江東注区の州崎遊郭へと移転させられた』とあるので、今現在の様相とも、大きく異なっていることに注意が必要であろう。個人のHP「鬼平犯科帳と江戸名所図会」の「根津権現」のページに、池波正太郎の「鬼平犯科帳」の「女掏摸お富」を掲げ、笠屋の女房、実は元名女掏摸であったお富が昔の稼業をネタに強請(ゆす)られ、根津権現の盛り場で再び掏摸を働こうという場面が引用されている(ルビは省略した)。

宏大なけ境内を包む鬱蒼たる木立に、蝉の声が鳴きこめている。

お富は、総門から門前町の通りへすすむ。

両側は料理屋がびっしりと建ちならび、客を呼ぶ茶汲女の声がわきたった。

リンク先には「江戸名所図会」(天保7(1836)年刊)の「根津権現」の画像が示されており、「耳嚢」記載時より50年程後の映像であるが、当時の様子が相応に偲ばれるものである。是非、ご覧あれ。

・「若衆」若衆道のこと。男性の同性愛を言う。個人を指す場合は、同性愛行為に於いて受け手役の少年を言う。この所謂、女役を務める時期について、ウィキの「若衆」は寛永201643)年に書かれた衆道書「心友記」(一名「衆道物語」とも)を引き、「衆道といふは、少人十二歳より二十歳まで九年の間也」と規定されているとする。その中でも「二八」(16歳)が妙齢とされており、寛文5(1665)年刊の楳条軒の筆になる「よだれかけ」(ネット上の別記事によれば本書全体は衆道書というより男色女色双方を比較検討した内容となっているそうである)巻五には「十六歳を若衆の春といふなり」という記述が認められるとある。また、「男色二倫書」(恐らく前掲「よだれかけ」巻五の内)』には、若衆の年齢を以下の3期に分け、それぞれの心得を教えている、と引用している。

主童道(1214歳)

幼い年頃らしく利口ぶらずにふるまうのがよい

殊道 (1518歳)

最も花のある時期であり、多感な年頃なのでただ清い嗜みでいるべき。

終道 (1920歳)

互いに「道」を助け、万事誤りの無きように殊勝な心の上に男の義理を添えて嗜むべき。よって「主道」ともいう。

最後に、以上の時期が過ぎても、念者(男役)と若衆の関係が終るとは限らず、井原西鶴の「好色一代男」の記述によれば、もっと前後が拡大されて7歳~25歳を若衆の時期としており、衆道を好む者の中には30歳の「若衆」を相手とする者もいると記す、とある。

・「渡り小姓」そのルーツは小草履取(こぞうりと)りに求められる。小草履取りとは戦国時代以後の武家に於ける男色の流行の中で、武士が草履取りの名目で同性愛相手として召し抱えた少年のこと。ウィキの「小草履取り」によれば、1516歳の眉目秀麗な少年で、『下に絹の小袖、上に唐木綿の袷を着て、風流な帯をしめ、夏は浴衣染めなどを着て、美しい脇差しをさし、客へ馳走の給仕にもだされ、供にも連れ歩かれなどもされたが、小草履取りが原因でしばしば喧嘩口論がおこったため、慶安年間には禁止されたが、寛文年間ころ再び流行し、のちに再度禁じられた』とあり(寛文は16611673年)、これが後に大名・旗本などに渡り奉公をした美少年、渡り小姓となったと考えてよい。

・「土屋家譜代にも無之」当時の「土屋家」当主は土屋相模守政直(前項注参照)。「譜代にも無之」は、土屋家の昔からの代々の家臣ではないことを言う。

・「相模守」土屋相模守政直(前項注参照)。

・「唐詩の紅顏美少年半死白頭翁」「唐詩選」に所収する初唐の夭折詩人劉廷芝(劉希夷とも 651678)の有名な詩「代悲白頭翁」(楽府題として「白頭吟」とも呼ばれる)の一節(16句の一部と14句の一部をカップリングした表現)。詩句には諸本により異同があるが、私のよしとするものを採り、訓読も敢えて定式でない読み方をした部分がある。

 代悲白頭翁

        劉廷芝

洛陽城東桃李花

飛來飛去落誰家

洛陽女兒惜顏色

行逢落花長歎息

今年花落顏色改

明年花開復誰在

已見松柏摧爲薪

更聞桑田變成海

古人無復洛城東

今人還對落花風

年年歳歳花相似

歳歳年年人不同

寄言全盛紅顏子

應憐半死白頭翁

此翁白頭眞可憐

伊昔紅顏美少年

公子王孫芳樹下

清歌妙舞落花前

光祿池臺開錦繡

將軍樓閣畫神仙

一朝臥病無人識

三春行樂在誰邊

宛轉蛾眉能幾時

須臾鶴髮亂如絲

但看古來歌舞地

惟有黄昏鳥雀悲

○やぶちゃん書き下し文

 白頭を悲しむ翁に代はりて

               劉廷芝

洛陽 城東 桃李の花

飛び來つて飛び去り 誰(た)が家にか落つる

洛陽の女兒     顏色を惜しみ

行(ゆくゆ)く落花に逢ひて 長歎息

今年 花落ちて 顏色改まり

明年 花開きて 復た誰(たれ)か在る

已に見る 松柏摧(くだ)かれて 薪と爲るを

更に聞く 桑田變じて      海と成るを

古人 復(ま)た無し 洛城の東

今人 還(ま)た對す 落花の風

年年歳歳 花相似たり

歳歳年年 人また同じからず

言を寄す   全盛の紅顏子

應に憐むべし 半死の白頭翁

此の翁    白頭眞に憐むべし

伊(こ)れ昔 紅顏の美少年

公子王孫  芳樹の下(もと)

清歌妙舞  落花の前

光祿池臺 錦繡を開き

將軍樓閣 神仙を畫(ゑが)く

一朝  病ひに臥して 人の識る無く

三春の 行樂     誰が邊にか在る

宛轉たる蛾眉  能く幾時ぞ

須臾(しゆゆ)にして鶴髮 亂れて絲の如し

但だ看よ 古來歌舞の地

惟だ黄昏 鳥雀の悲しむる有るのみ

○やぶちゃん語注

・「松柏」マツ裸子植物門マツ綱マツ目マツ属 Pinusの類や、マツ目ヒノキ科コノテガシワPlatycladus orientalis。中国では古来、墓地に植えることが多かった。

・「言を寄す」呼びかけを示すため、冒頭に置く語句。以下、紅顔の美少年たちへ、白頭翁が直に注意を喚起する構造。

・「伊れ」下に置く語を強調する語。

・「光祿池臺」前漢の政治家王根(?~B.C.6)。前漢の第11代皇帝成帝(B.C.51B.C.7)の皇太后の異母弟として権勢を揮い、B.C.12年に光禄大夫(光禄勲のこと。皇帝に政策進言等を行う相談役)となった時、邸宅の庭に広大な台を築いて皇帝の宮殿を模した建物を建てて豪奢を誇り、その噂が市井で流行歌にさえなったという。

・「錦繍を開き」豪奢な錦と絢爛たる縫い取りを施した絹織物で出来た帷を張り巡らせること。若しくは華麗荘厳な建物をそれらに擬えた表現。

・「將軍」後漢の政治家梁冀(?~159)のこと。順帝(115144)・桓帝(132167)の皇族(順帝の皇后は彼の妹)として権勢を揮い、141年父が死ぬと後を継いで軍の最高位である大将軍となった。1961年岩波書店刊の「唐詩選」で前野直彬氏は、彼は『華美を尽くした生活を送った。ある時、宏大な屋敷を建て、その壁に神仙の像を描かせたという。神仙の不老不死にあやかろうとしたものであろう』と注する。後、横暴驕慢激しく、遂に桓帝によって捕縛命令が出され、『梁冀は妻と息子の梁胤と共に自害し、梁一族も悉く処刑された』が、その『没収された梁冀の財産は国家の租税の半分ほどあり、梁冀に連座して死刑になった高官は数十人、免職なった者は300人余りになり、一時朝廷は空になるほどだったという』(引用はウィキの「梁冀」より)。

○やぶちゃん現代語訳

 白頭を悲しむ翁に代わりて詠める

                 劉廷芝

洛陽城の東(ひんがし)に 桃や李(すもも)の咲き乱れ

風に吹かれて 飛ぶ花は 何方(どなた)の屋敷にそれ散らす

洛陽城の乙女らは ただひたすらに顔(かんばせ)の うつろいゆくを惜しめども

やがては己(おの)が世の春の 終る落花におち逢(お)うて ただ溜息をつくばかり

今年 花散り 行く春に 美人の色香も変わりゆき

来年 花咲く その日迄 一体誰(たれ)が生きて御座ろう

既に見た――墓地にあったる松柏(しょうはく)の くだかれ薪になり果つを

更に聞く――見渡す限りの桑畑(くわはた)の 大海原となりぬるを

昔日 花散る洛東に 嘆いたあの子は もういない

今のお人は これもまた 花散る風に 嘆きをる

来る年毎に 咲く花の 姿容貌(かたち)は変わらねど

来る年毎に 見る人は 同じき人はひとりとてなし……

――この世の春を 謳歌する 類稀なる紅顔の 美童よ どうか

 憐れめや 棺桶片足突っ込んだ 白髪頭のこの儂を……

白髪頭のこの儂は 如何にも憐れな者なるも

これでも昔は紅顔の したたるような美少年

貴公子連と 手に手をとり 花香ぐわしき木(こ)の下(もと)に

集うては散る花びらの 前に歌って舞いを舞う

光禄大夫王根に まごうかという宴(えん)開き

梁冀将軍楼閣の 如き館に神仙の 姿描きて長寿を請うた……

――されど一度(ひとたび)病に臥せば 訪ね来たれる友もなく

――三月(みつき)の春の享楽は 二度とこの手に戻りゃせぬ

――眉目秀麗 婀娜なる美形 それも長くは続かない

――忽ちにして白髪の 乱れ散たる糸の如

――見るがよい そなたがかつては舞ったあの 芳(かぐわ)しき香の花の園

――今ぞ聴け 人気(ひとけ)去ったるかはたれ時 小鳥ら 哀れに鳴く その声を……

■やぶちゃん現代語訳

 時代は移り変わる事

 また、この石川自寛殿は、こんな話もして御座った――。

「……儂は元禄十五年、かの浅野家家臣御一党が、吉良に美事、仇討ち本懐を遂げなさった年の生まれで御座ったが……いいえ、流石に翌年の大地震は記憶に御座らねど……その四年後(のち)の宝永の富士山の噴火!……あの折り、江戸に仰山、砂が降った……それは朧ろ気に覚えて御座りますなぁ……そうさ、多く降った折りには、昼なるに夕暮れの如、薄暗うなりました……はあ?……はい! あの、今ある根津の権現さま!……あれが新しう建立されましてな……いや、その節は……もう賑やかなこと!……他にも、へえ、世の中の様子は、そりゃもう、あんた! 随分、今とは違うて御座りましたのう……儂が若い頃は、いやもう、ほれ、あの若衆道が大流行(はや)り!……渡り小姓なんどと申しまして……大名旗本衆におかせられては、美童をたんと抱えて御座った……かく言う儂も、えへん!……若い頃は、その、渡り小姓をして御座っての……それで……まあ、土屋家の譜代の家臣でも御座らぬに……かの相模守様の、その御元にて、かく勤仕申し上げ奉った、という次第……

……いやぁ! あの頃の儂も……誠(まっこと)美少年にて御座ったよ…………」

――私はそれを聴きながら、内心、唐詩の「紅顔美少年半死白頭翁」の一節を思い出して、思わず笑ってしもうた――なればこそ、ここに書き記しおくものである――。

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