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2010/02/20

耳嚢 巻之二 賤妓家福を得し事

「耳嚢 巻之二」に「賤妓家福を得し事」を収載した。

 賤妓家福を得し事

 是は近此の事也。下谷廣小路邊に茶屋を出し情を商ふ彼けころ家(や)へ、加賀の足輕體の男來てけころを買ひあげて遊び歸りけるが、鼻紙さしを落し置ぬ。追かけて見しに最早影見へねば、又こそ來り給はん迚中を改め見れば何事もなく、谷中感應寺の富札壹枚ありければ親方へ預け置けるが、其後右足輕來らず、尋べきにも名を知らねば詮方なく、右富札は捨置んも如何也とて、富定日(ぢやうび)には感應寺へ至り見んとて、其日彼富札を持て谷中へ至りけるに、不思議にも右札一の富に當りて金子百兩程受取ぬ。去(さる)にても右足輕を尋みんと、加賀の屋敷分家の出雲守備後守屋敷抔をもより/\聞き侍れど、元より雲をつかむの事なれば知るべきやうもなし。誠に感應寺の佛の加護ならんと、右門前へ彼金子を元手として酒鄽(さかみせ)を出し、いまだ妻やなかりけん、右のけころを妻として今は相應に暮しけると、感應寺の院代を勤ぬる谷中大念寺といへる僧の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:賤しき身分ながら正直な娼婦のハッピー・エンド第三弾。類話ながら、差異を際立たせて、前項が「餘程むかしの事」に対し、これは「近此の事」。

・「下谷廣小路」上野の山の南にある、現在の上野広小路。広小路は火除け地で、上野広小路は明暦5(1657)年の明暦の大火後に設置された。但し、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸期には下谷広小路と呼ばれていたのである。

・「けころ」は「蹴転」で、けころばし、蹴倒しとも言った江戸中期の下級娼婦の称。特に上野山下から広小路・下谷・浅草辺りを根城とした私娼で、代金二百文と格安、短時間で客をこなし、その由来は、断って蹴り転がしても客を引きずり込むほどの荒商売であったからとも言う。

・「家(や)」は底本のルビ。

・「加賀」加賀藩102万5千石を有した御三家に準ずる大藩。加賀・能登・越中の三国の大半を領地としていた。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)は第10代藩主前田治脩(はるなが 延享21745)年~文化7(1810)年)の代である。

・「谷中感應寺」現在の台東区谷中にある天台宗護国山尊重院天王寺。以下、ウィキの「天王寺」より引用しながら、補足する。『日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来する。関小次郎長耀が日蓮に帰依して草庵を結んだ。日蓮の弟子の日源が法華曼荼羅を勧請して開山』、『開創時から日蓮宗であり早くから不受不施派に属していた』。不受不施派とは日蓮宗の中の一種のファンダメンタリズムの一派で、不受は法華経の信者以外からの施しを受ぬこと、不施は法華経以外の教えを広める僧侶には施しをしないという戒律を意味する。安土桃山時代頃から弾圧を受けていたが、江戸幕府も禁圧を加え、『日蓮宗第15世日遼の時、1698年(元禄11年)に強制的に改宗となり、14世日饒、15世日遼が共に八丈島に遠島』にされ、廃寺の危機を迎えたが、天台座主で日光山や寛永寺頭首・東叡山輪王寺門跡などを兼任して将軍綱吉の帰依厚かった『公弁法親王が寺の存続を望み、慶運大僧正を天台宗第1世として迎え』て、とりあえず事なきを得た。その後も、『1833年(天保4年)、法華経寺の子院知泉院の日啓や、その娘で大奥女中であったお美代の方などが林肥後守・美濃部筑前守・中野領翁らを動かし、感応寺を再び日蓮宗に改宗する運動が起きる。しかし、輪王寺宮舜仁法親王の働きにより日蓮宗帰宗は中止となり「長耀山感応寺」から』現在の『「護国山天王寺」へ改号』するという経緯を辿った寺である。更にウィキは本話に関わる富籤についても記している。この感応寺では元禄131700)年『から徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった。1728年(享保13年)に幕府により富突禁止令がだされるも、興行が許可され続け、1842年(天保13年)に禁令が出されるまで続けられた』とのことである。

・「富札」ギャンブルは私の最も苦手とする分野であるので、以下、ウィキの「富籤」から、引用させて頂く(一部改行を省略した)。富籤(とみくじ)は、富突きとも言い、『普請の為の資金収集の方法であり、宝くじの起源といわれるくじ引の一種であり、賭博でもある』。主に寺社普請が中心で、江戸期の典型的なやり方は『富札を売り出し、木札を錐で突いて当たりを決め、当たった者に褒美金すなわち当額を給する。富札の売上額から褒美金と興業入費とを差し引いた残高が興業主の収入となる仕組みであ』った。『享保時代以後、富籤興行を許されたのは主に社寺で、収入の他にも当金額の多い者から冥加(みょうが)として若干を奉納させた』。抽選や配当法を詳しく見ると、『始めに、大きな箱に、札の数と同数の、番号を記入した木札を入れる。続いて箱を回転し、側面の穴から錐を入れて木札を突き刺し、当せん番号を決める。そして当せんした富札の所有者に、あらかじめ定めた金額を交付する』。『当には、本当(ほんあたり)が1から100まである。つまり100たび錐で札を突くのであり、たとえば第1番に突き刺したのが300両、以下5回目ごとに10両、10回目ごとに20両、50回目は200両、100回目(突留(つきとめ))には1000両、という様に褒美金がもらえる。これらの21回数を節(ふし)という。節を除いた残り(平(ひら)という)に、何回目ということをあらかじめ定め、間々(あいあい)といって、少額金を与えることがあった。節の番号数の前後の番号にいくばくかの金額を与えたが、これを両袖といった。袖といって、両袖のかたわらの番号に、少額のものをくれることがあった。札数が大多数に上る時は、番号には松竹梅、春夏秋冬、花鳥風月、または一富士、二鷹、三茄子、五節句、七福神、十二支という様に大分類を行い、そのそれぞれに番号を付け、たとえば松の2353番が当せんした時は竹、梅の同番号の札にもいくぶんかの金額を与えることがあった。これを印違合番(しるしちがいあいばん)といった。この場合、両袖が付けてあると、各印ごとに300枚ずつ金額の多少にかかわらず当たるわけで、本当の他は花といった。元返(もとがえし)といって、札代だけを返すものもあった。たとえば、頭合番999人に渡すとあれば、当たった3300という番号だけを除き、3000代の番号どれにも元金だけを返してくれる。突留の頭合番に渡すという方法もあった。当せんした者は褒美金全部を入手したのではなく、突留1000両を得たものはその100両を修理料として興行主に贈り、100両を札屋に礼として与え、その他諸費と称して450両取られたから、実際に得るところはおよそ700余両であった。これは平(ひら)の当(あたり)まで同じである』とある。これによって、この主人公たちは百両を丸々もらったのではないことが分かる。以下、販売・購入方法が続く。『興行主において数千または数万のくじ札(富札)を作り、それに番号を付ける。日を定めて抽せんされる。仮に興行主から富札店(札屋)が富札1枚を銀12匁で買い入れたとすると、札屋はこれに手数料を取って1314匁で売り出す。売り出す時は当局に申告するため定価があったが、札屋から庶民に売るものは、その時の人気で上下した。1人で数枚を買うこともできたし、1枚を数人で買うこともできた。後者は割札といい、本札は取次人の手に留めて仮札をもらう。半割札を買った場合、褒美金はもちろん2分の1になる。4つに分けたものを4人割といった』。次に歴史(記号の一部を変更した)。『起源はすでに寛永ころ京都でおこなわれていたらしく、元禄5年5月の町触にはその禁止がある(「正宝事録」八には、『元禄五壬申年(改行)覚(改行)一 比日町中にてとみつき講と名付 或ハ百人講と申 大勢人集をいたし 博奕がましき儀仕由相聞 不届に候 向後左様之儀一切仕間敷候 若相背博奕の似寄たる儀仕者於レ有レ之ハ 本人ハ不レ及レ申 名主家主迄曲事ニ可二申付一者也(改行)申五月(改行)右は五月十日御触 町中連判』とある。)から当時流行していたらしい』(ここは執筆者以外から出典の明示を要求されている)。『流行の頂点は文化、文政ころであった』とするが、ここで更に遡り、『最も古い記述としては鎌倉時代の夫木集にある藤原兼隆の歌に、現在の大阪府箕面市にある瀧安寺 の箕面富に関する記述があり、これが起源ではないかとされている』(ここでも執筆者以外から出典の明示を要求されている)。『そこからすると約950年前にはその実があったと言える。当初は金銭の当たる籤ではなく、弁財天の御守「本尊弁財天御守」が当たるものだったようである。富籤は頼母子(無尽)、とくに取退無尽(とりのきむじん)が変じたもので、頼母子は出資者数が少なく獲得額に限度があり、射幸心を充分には満足させられないなどの理由があった。そのため、債権債務関係が1回限りで、配分額の多い富籤という方法が案出された。富会といわれ新年の縁起物としての行事であった。自身の名前を書いた木札を納めその中から「きり」で突いて抽せんしたのが始まりと言われる。当せん者はお守りが貰えただけであったが、次第に金銭が副賞となり賭博としての資金収集の手段となった』とする。以下は「幕府の対応」という項。『この方法が時勢にあったのか大いに流行し、幕府はしばしば禁令を発した。1692年5月に出された江戸の町触には、富籤を禁止しする旨の条文があったという。しかし1730年(享保15年)、幕府公認の下、仁和寺門跡の宅館修復の名目による富突を護国寺で3年間行った以降、富籤は主に寺社の修理費用に充てるために興行された。このため、許可は寺社奉行に出願することとなり、抽籤の際には与力が立ち会った。谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神は江戸の三富と呼ばれるほど盛んであったという』。『寛政の改革期は、松平定信によって江戸・京都・大阪の3箇所に限られ、あるいは毎月興行の分を1年3回とするなど抑制されたが、文政、天保年間に入ると再び活発化し、手広く興行を許され、幕府は9年、三府以外にもこれを許可し、1年4回の興行とし、口数を増やし、1ヶ月15口、総口数45口までは許可する方針をとった。これは、1842年(天保13年)3月8日に水野忠邦が突富興行を一切差止するまで続いた』とある(最後にこのウィキの執筆者に感謝して終わりとする)。

・「右富札は捨置んも如何也とて……」以下は主語が誰であるか、判然としない。読みようによってはこの「親方」が富籤を得るまでの行動の主体であるようにも読めるが、それではこの「賤妓家福を得し事」という標題が生きてこないし、第一、面白くない。私は、けころを主人公とし、想像した仮想シーンも織り込んで訳してみた。そもそも、曖昧茶屋の主人=けころを支配していた若い親方、という等式も私の勝手な判断である。

・「富定日」富籤の抽選日。

・「出雲守」加賀藩支藩富山藩のこと。越中の中央部(現在の富山県神通川流域)を所領とした藩で、石高10万石。藩主は前田氏。家格は従四位下。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)は第7代藩主前田出雲守利久(宝暦121762)年~天明7(1787)年)であろう。彼の藩主就任は安永6(1777)年8月である。

・「備後守」加賀藩支藩大聖寺藩のこと。加賀国江沼郡(現在の石川県南西端)にあり、江沼郡及び能美郡の一部を領した。石高7万石(後に10万石)。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)で、備後守だったのは第6代藩主前田利精(としあき 宝暦8(1758)年~寛政31791)年)であるが、この人物、ウィキの「前田利精」によれば、安永7(1778)年に藩主となるものの、安永101781)年に前藩主の父前田利通が死去すると、頻りに遊郭に通って『女狂いとなり、無頼と交じって好き放題をやらかしたりするなど、無法を繰り返すようになる。これら一連の行動に関して、家臣団は無論、本家の藩主・前田治脩も諫言したが、利精は聞く耳を持たなかった』とある(前田治脩(はるなが)は加賀藩第10代藩主。前の「加賀」の注を参照のこと)。問題はここからで、『このため天明2年(1782年)8月21日、前田治脩は利精を「心疾」として監禁し、家督は利精の弟である前田利物に継がせた』とある点である。これによって、本話は最近とは言うものの、前田出雲守利久が藩主に就任した安永6(1777)年8月から前田備後守利精が藩主であった天明2年(1782年)8月の5年間の限定された時期に同定出来る可能性がきわめて高いことが分かるのである。

・「酒鄽」「鄽」は店の意。男の前の商売柄から考えて酒屋ではなく、相応な居酒屋であろう。

・「院代」には(1)院家(いんげ:皇族や貴族が出家して居住した特定寺院である門跡寺院のこと。)の寺格を持つ寺の住持の職務を代行する者。(2)寺の住職の代理者。(3)普化宗(ふけしゅう)の寺の住職の三つの意味があるが、ここは(2)。

・「谷中大念寺」岩波版長谷川氏注には『鶴林山泰然寺か』とある。しかし現在、このような山号及び寺名の江戸(東京)の寺院は検索にかかってこず、「江戸名所図会」の索引にもない。廃寺となったものか。現存するもので「大」がつく幾つかの寺があるが、高光山大円寺は感応寺の旧宗旨の日蓮宗で発音も近い。他には同じ日蓮宗の円妙山大行寺、長昌山大雄寺というのもある。識者の御教授を乞うものである。

■やぶちゃん現代語訳

 卑賤の娼婦が思わぬ家福を得た事

 これは最近の出来事である。

 下谷広小路辺りに、あの辺りを徘徊する例の下賤の売女(ばいた)であるけころが、専ら二階を御用達としている、通称「けころ茶屋」と申す一群の曖昧宿が御座った。

 ある日、加賀藩の足軽らしい男が、通りすがりのけころを買って上がると、一時、遊んで帰って行ったのだが、その折り、財布を落としていったので、直ぐにそのけころが茶屋から出て追い駆けた。しかし、沿道からは最早、男の姿はかき消すようになくなっていた。

 女は、広小路の真ん中で、財布をぽんと掌で打ち上げて、また摑むと、

「……まあ……これで、また……来て下さる、わ、ね……」

と見えぬ足軽の影に向かって、色っぽく声かけたのだった――。

 茶屋へ戻って中を改めてみると、谷中感応寺の富札が一枚入っているだけ――。

 とりあえず、その財布は茶屋主人――実は、そのけころの、若い親方――に預け置いた。

 ところがその後、この足軽、一向にやってこない。

 尋ねようにも、名も分からねば、探しようもない。

 親方は、この富札、捨ておいてしまうのも如何にも勿体なかろう、ということで、かのけころ女に、

「お富の日には感応寺さんへ行って見といで。お前さんには、よう当る有難いお『的』があるで……『一発』、当たらんとも、限らんぜ……。」

と軽口を言って渡した。

 女は富籤当日、その富札を袂に入れて、序でにいいカモの一人も見つかればいいわ、ぐらいな気持ちで感応寺を訪れた。

――ドン!――

と一発、太鼓が打ち鳴らされる――一等の符丁が読み上げられる――。

「……!!!……」

女は――声が出ぬ――。開いた口が塞がらぬばかりか、外れんばかり――。

「……ヒ、ヒ、ヒエ~ッ!!!……」

握った札が震え出す――。富籤の口上が高らかに叫ぶ!――

「――大当たり~ぃ!――金、百両!――」

 大枚を懐に巻き入れ、腰も抜けんばかりになって、女は下谷広小路茶屋へ戻った。

 親方も驚くまいことか、目にしたこともない大金に、思わず、小心者故の正直な性質(たち)故に、

「……それにしてもさ……ともかくも、何だよ、そら……この富籤は儂らのもんでは、ないんだから……その何とか、この足軽を捜して出してだな……ま、その、この金を渡そう、な……少しは礼も貰える……それで儂らには十分だろ?……」

と、何やらん、もじもじとして独りごちた。そんな若い親方を見ながら、このけころの女は内心、

――可愛い!――

と思った……。

 翌日より、この親方、加賀藩藩邸は勿論のこと、加賀藩御分家にて御座る出雲守殿、備後守殿御屋敷その他関わりのありそうなところを、総て残る隈なく尋ね歩いたのであったが、もとより、名も分からぬ相手なれば、雲を摑むような話、結局、その足軽は見つからず仕舞いであった――。

 その夜のこと、親方の若い男は、籤を拾うたけころと差し向かいで、

「……これはまあ、誠に感応寺の仏の御加護であろうて……」

と、二人して大枚の金子に手を添えて、感応寺さんに感謝致いたという――。

 暫くして、感応寺門前にそれを元手に相応にしっかりした居酒屋を開業致し――いまだ独り身だったその男、例のけころを妻に迎えて――今も豊かに暮らしているということで御座る――。

 とは、感応寺院代を勤めて御座る谷中大念寺という寺の僧が語ったことにて御座る。

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