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2010/03/31

耳嚢 巻之二 外科不具を治せし事

「耳嚢 巻之二」に「外科不具を治せし事」を収載した。

 外科不具を治せし事

 

 予が元へ來りし外科に阿部春澤といへる有。【春澤放蕩不覊にして近頃出奔せしよし也。】或時咄しけるは、此程不思議の療治いたし不思議に手がらせり。牛込赤城明神の境内に隱し賣女(ばいた)あり。【世にネコといふ。】彼元より賴こし候故其病人を尋しに、年頃十五六才の妓女也。容貌共にして煩はしきけしきなし。其愁ふる所を問ひしに右主人答て、此者近頃抱へけるに、陰道なき片輪故千金を空しくせし由故、其樣躰を見るに前陰小便道ありて陰道なきゆへ得(とく)と其樣子を考へし。肉そなはりしにもあらず、全血皮の塞る所なれば、其日は掃り翌日にいたり、一間なる所に至り彼女の足手を結ひ、せうちうをわかし且獨參湯(どくじんたう)を貯へて前陰を切破しに、氣絶せし故獨參湯を與へ、せうちうにて洗ひ膏藥を打しが、此程は大方快、無程勤も有ぬべし、親方も悦びしとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。二話前の登場人物の「白人」(素人風私娼)という設定と、「隱し賣女」はやや連関するとも言える。

・「阿部春澤」諸注注せず、不詳。

・「【春澤放蕩不覊にして近頃出奔せしよし也。】」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの割注が『【春澤放蕩不覊にて本町弐丁目に住しが、近頃出奔せしよしなり】』となっている。これだと阿部春澤のかつての住所がはっきりする。長谷川氏の注によれば、この『本町は常盤橋から浅草橋に至る東西の通りの両側の町』とある。現在の中央区。

・「牛込赤城明神」現在、新宿区赤城元町にある赤城神社のこと。神楽坂上右手にある。当時は赤城大明神又は赤城明神社と呼ばれ、底本の鈴木氏注によれば、神職はおらず別当であった天台宗等覚寺の別当坊が神務を執行していた、とある。ウィキの「赤城神社」によれば、『徳川幕府によって江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集め』、境内には宮地芝居と称する芝居を打つ小屋も建てられて、門前にはここに示されたような水茶屋(底本鈴木氏注によれば明神の敷地の内、実に277坪を占有していたとある)があって繁昌していた。

・「ネコ」底本鈴木氏注に、『三味線に猫の皮を張ることから、三味線の異名をネコといったので、転じて芸者の異名に』なったとあり、更に夜鷹のような下級私娼の蔑称化したものであろう。

・「陰道なき……」以下の叙述から、この症例は解剖学的な先天性女性性器の異常で、処女膜閉鎖症(無孔処女膜)が疑われる。処女膜切開術を以って施術する。実際の婦人科のHPを参照すると、現在の処女膜切開術では局部麻酔を用い、メスと炭酸ガス・レーザーによる切開・吸収糸(「刑事コロンボ」ですよ! 溶ける糸だ)による縫合で、術式時間は約10分で費用は31,500円とある。但し、これは完全閉塞の症例の術式ではない(術式の目的の部分に挿入時の痛みの軽減を目的とある)ので、本話のような症例では時間・費用共にもっと掛かるであろう。因みに、そのページに示されている(敢えてリンクは張らないが「処女膜切開術」で検索をおかけになれば私の記載が正しい婦人科的記載であることがお分かりになるはずである)「処女膜形成術」の術式と費用。術式は破損した処女膜を医療用の特殊糸で縫い縮めるもので、吸収糸を使用するので性行為が可能となった際には違和感を感じることはない、とある。『本物の状態とほとんどかわらない自然な処女膜再生が行え』、『性行為は術後約1ヶ月から可能』、費用は21万円で術式時間は約20分である。ちょっと微妙な注記があり、対応が無理な場合には手術を断わる場合があるが、それでも『どうしてもという場合には、別途で膣縮小術を行った後に対応する事にな』るという記載がある。勿論、この手術を受ける方の中にはレイプの被害者の方も含まれるので、軽々な好奇心で語るわけには行かない。行かないが、ふーん、と思った。こんな注を書かない限り、このような情報を私も知り得なかった。鎭衞殿に感謝する。

・「得(とく)と」は底本のルビ。

・「獨參湯(どくじんたう)」ルビは底本のもの。漢方製剤の一つで朝鮮人参(双子葉植物綱セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジンPanax ginseng )を原料とする気付薬。経口飲用する煎じ薬である。出血多量・創傷・激しい下痢及び嘔吐・発熱・感染症全般・心不全等によるショックの際に救急投与する。強心・中枢神経系統や下垂体・副腎系統の過剰興奮によるチアノーゼ・血圧降下といった一次性の急性のショック症状の緩和に即効性があるとする。但し、最善の効果を得るにはともかく大量投与が基本で、通常でも1830gを処方、普通量では全く無効とある。但し、ショックの緩和の後には対症療法から病因の根本的な治療に速やかに切り替える必要があるともあった(以上は複数の漢方記載を参考にした)。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 外科医が女子の先天的生殖器障碍を治療した事

 

 私の屋敷に出入りする外科医に安部春澤という者がいる[根岸注:ただ、この春澤なる者、放蕩無頼にして、最近、出奔して行方知れずという。]。或る時、

 

……この度、実は……世にも稀なる不思議な病いを施療致し、これがまた……不思議に成功致いて御座いました。……ほれ、牛込赤城明神の境内に、隠し売女(ばいた)がたんと御座いましょう[やぶちゃん注:世間では俗に「ネコ」と呼称している。]。先日、あそこの売女元締めの親方より、たってのことと頼まれした故、往診致いてみたところ……診て欲しいというのは、まだ年の頃十五、六才の妓女、容貌は美にして、これと言って病んで御座るような気配も、これ、御座いません。……取り敢えず、調子の悪いところは何処か、と問診致いたところが、本人ではなく、傍についた親方が苦りきって、

「……いえね! こいつぁ、近頃抱えた女なんで御座(ごぜ)えやすが……そのう、実は……あっちの大事(でえじ)な穴が、ですね……ねえんで。……いやもう、とんだ片輪者(もん)で!……全く以って千金、溝(どぶ)に捨てたようなもんでげす!……」

と答えます。

 そこで、まずは会陰部を視診して見ましたが、確かに、尿道はあるものの、その下部に開いていなくてはならない膣が見当たりません。

 そこで更に細部を観察致し、触診も試みましたところ、私の見立てでは――これは膣が完全に肉で塞がって存在しないという訳ではなく、血管を持った処女膜が肥厚し、肉芽様に盛り上がり、膣口部分を覆っているのである――という見当。いえ、それはほぼ確信に近いものにて御座いました。

 そこで取り敢えずその日は診察のみにて帰り、施術の準備を調えた上、翌日再度出向き、この度は、感染を最小限に抑える目的と施術上の利便性から、親方に密閉度の高い一間を用意して貰い、その娘の手足を四方の柱に縄にて拘束、煮沸した焼酎と気付薬である独参湯(どくじんとう)を事前に用意して術式に臨みました。

 会陰部膣口周辺の閉塞部位を一気に切開しましたところ、娘が気絶致いたため、直ちに独参湯を強制経口投与致し、切開部は先の煮沸した焼酎を以って洗浄の上、創傷に即効性のある膏薬を貼って止血処置致しました。

 近頃は術後経過も良好で、ほぼ全快致し、

「いや! ほどのう、あっちの勤めにも、出られましょうぞ!」

と、かの親方も、殊の外悦んでおりました。……

 

と語って御座った。

2010/03/30

耳嚢 巻之二 畜類又恩愛深き事

「耳嚢 巻之二」に「畜類又恩愛深き事」を収載した。

今日は、これより妻の増悪した変形股関節症の診断に付き添い、東京へ行く。

 畜類又恩愛深き事

 天明五年の比(ころ)堺町にて猿を多く集め、右猿に或は立役或は女形の藝をいたさせ見物夥しき事あり。見物せし者に聞しに、能(よく)仕込しものにて、常時流行役者の意氣形(いきかた)を呑込、身振り抔をもしろき事の由かたりぬ。しかるに右猿の内子を産し有しが、其子盛長せしに、殊の外虱たかりてうるさがりし故、猿廻しの者湯を浴せ虱など取りて、毛の濡たるを干んため二階の物干に繋ぎ置けるを、鳶の見付て觜を以てつつき殺しぬるを、猿廻しも色々追ちらして介抱をせしが終に空しく成ける故、かの猿廻し親猿を呼て、さて/\汝が多年出精(しゆつせい)して我等が家業にもなりし、此程出産の小猿を愛する有樣、左こそ此度のわかれ悲しくも思ひなん、我等も鳶の來らんとは思ひもよらず、物干に置し無念さよと慰めけるに、彼猿涙に伏沈みし躰(てい)也しが、猿廻しの者其席を放れ兎角する内、彼母猿狂言道具の紐を棟にかけて縊(くびれ)て死しと也。哀れなる恩愛の情と人のかたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:あまり連関を感じさせないが、芝居絡みではある。母猿や育てていたメスが、死んで干からびミイラと成った小猿を抱いて放さない行動を映像で見たことがある。印象的な話柄である。しかし縊死は有り得ない。そのように懐疑的に見るならば、この話柄自体が人情と同じ「猿情」を売り物にした猿回しの、人寄せのためのえげつない都市伝説であった可能性が強い気もしないでもない。

・「天明五年」西暦1785年。

・「堺町」現在の日本橋人形町3丁目。岩波版長谷川氏注によれば江戸三座の一つであった中村座の他にも、人形浄瑠璃の芝居小屋や見世物小屋があったとある。

・「立役」歌舞伎芝居で主人公クラスの善人の男役をいう。

・「意氣形」名優・流行役者の、オリジナリティのある演技・仕草を指すものと思われる。

・「盛長」底本では右に『(成長)』と注する。

・「鳶」タカ目タカ科トビ Milvus migrans は、本来は動物の死骸・蛙・蜥蜴・魚類といった小動物を捕食する肉食性であるから、小猿を襲うことは十分考えられる(但し、近年のゴミを漁る習性を見るに雑食性という説もある)。最近でも、人の食べているものを狙って飛来し、子供などが怪我をするというニュースをしばしば耳にする。

・「恩愛」には広義の慈しみ・恵み・情け以外に、親子や夫婦の深い情愛を表わす語でもある。

■やぶちゃん現代語訳

 畜生にもまた人と同じい深い愛情のある事

 天明五年頃、堺町にて小屋掛けし、沢山の猿を集めて、この猿に歌舞伎の立役或いは女形の芸をさせて大人気を博した見世物があった。見物致いた者に聞いたところでは、大層よく仕込んでおり、当時評判であった流行役者の演じる形(かた)を驚くばかりに呑み込んでいて、その真似る仕草なんどもまことに面白いもので御座ったとのことであった。

 ところが、その猿の内に子を産んだ猿がおり、その子猿もよう育っておったところが、その子猿ばかりに何故か殊の外、虱がたかり、頻りに痒がっておったれば、猿回し、子猿に湯を浴びさせ、粗方、虱を取ってやった。びしょ濡れになった小猿を干そうと、小屋の二階にあった物干しに繋ぎ留めておったところ、鳶がこれを見つけ、鋭い嘴で以って突き回した。小猿の悲鳴に気付いた猿回しは、急いで物干しに登ると竿なんどを持って振り回し、ようよう鳶を追い払って小猿を救い上げはしたものの、いろいろと介抱してやったれども、その甲斐もなく、遂に息を引き取ってしもうた。

 畜生ながら不憫でもあり、猿回しは母猿を呼んで、猿芝居を仕込む折りと変わらずに、人にするように、

「……さてさて、汝が永年、精を出して芸を磨いて呉れたお蔭によって、儂の稼業も成り立って御座る……このほど生れ出でたる小猿を可愛がって御座った汝の様子を見るにつけ……さぞかし、この度の別れ……悲しく思うておることであろ……我らも、まさか鳶が襲うてくるとは思わなんだ……物干しに繋ぎおきにしたは誠(まっこと)無念じゃ……」

と心を込めて慰めの言葉をかけた。

 ……それを聞いて、かの母猿は涙を流し、俯いたままで御座った……

 ……居た堪れなくなった猿回しは、一時、母猿をその場に残して席を離れたが……

 ……暫く致いて戻ってみると……

 ……かの母猿は……猿芝居の狂言道具の紐を棟木に掛けて……自ら縊れて、死んで御座ったという――。

「……猿とは言え……何と親子の、深き情で御座ろう……」

とある人が語って御座った。

2010/03/29

ぼくらの町は川っぷち  作詞 峯陽   作曲 林光

ぼ、く、ら、の、町、は―― 川っぷち――――
え、ん、と、つ、だらけの―― 町なんだ――――
太い――えんとつ―― こんにちは――――
高い――えんとつ―― またあした――――
川の――――向こうに―――― 日が――――のぼり――――
えんと―つの――けむりに― 日が――沈む――
そんな――― ぼくらの―町―なんだ――

ぼ、く、ら、の、町、は―― 川っぷち――――
えんとつ――だらけの――町なんだ――
低い――えんとつ―― せのびしろ――
細い――えんとつ―― かぜひくな―――
と―うさん――かあさん――――帰―るまで――
えんと―つの林で― おに――ごっこ――
そんな――― 僕らの―町――なんだ――

ぼ、く、ら、の、町、は―― 川っぷち――――
えんとつだらけの―― 町なんだ――――
白い――えんとつ―― 歌ってくれ――――
黒い――えんとつ―― おんちだな――――――
昼―でも――――夜でも―――― 元――気――よく――
けむりを――――はいて―――― 歌―ってる―――――
そんな―― 僕ら―の―町――なんだ――

これが僕の聴こえなくなった耳に響く確かな――ネット上にある如何なるものよりも、正しいと信ずる「西六郷少年少女合唱団の謳う『ぼくらの町は川っぷち』」である――

僕の好きなこの永遠の歌に乾杯!

耳嚢 巻之二 好色者京都にて欺れし事

「耳嚢 巻之二」に「好色者京都にて欺れし事」を収載した。

 好色者京都にて欺れし事

 

 年々御茶壺の御用にて上京し侍る御數寄屋の者語けるは、或年江戸表より登りしゑせもの、京女郎はいかにも誮(やさ)しくあづまなる女とは違ひぬるといふ事なれば、哀れ京都にて傾城遊女はかたらふ事も安けれど、常の女と交りをなし家土産(いへづと)にせんものと、宿のあるじに語りけるに、あるじ答へて、少し入用だに懸け給はゞ大内(だいだい)の官女にも契りなんとある故、大に悦び頻りに心こがれて、何卒して官女に枕を並べ生涯の物語りにもせんと、ひたすらに亭主に賴ければ、何か其最寄に右樣の事に馴し者を賴み、一兩日過て、祇園にて望みを叶へんと、色々手入金など請取りて、其日にも成しかば晝より祇園へ同道して、茶屋によりて酒食など申付待居たりしに、暫く有て乘物にて來るものあり。一間(ひとま)奧成る座敷へ通りぬるに、年頃廿斗にて艷成婦人、其粧も氣高く見へしに、年老いたる局(つぼね)やうの女子も附添、年頃六十計なる撫付の侍も附添ぬ。いかにも御所の女臈(ぢよらふ)の物詣ふでせると見へしが、案内いたしたる者何か右老侍へ向ひて囁て、暫く有て歌學の事に付あの老人へ御逢の事申たれば、懸御目(おめにかかる)との事也とて引合けるにぞ、相應の挨拶なしければ、彼老人申けるは、兼て歌道執心の事主人も及承奇特に存られ、今日は御所よりの御代參にて參詣の序、下々の咄し御聞有らんも御慰みなれば、御内々御逢可被成事也とて、彼婦人に引合せけるが、誠にうや/\しき有樣故、膝行頓首して漸々其容色を望む計なり。歌執心の由聞及び悦入などの挨拶の上、右老侍も立出でければ、老女申けるは、かゝる御物參の御忍びなれば何かくるしからん、禮儀を止めて御酒を下され、打くつろぎて鄙の咄など御聞あらんも御慰みのひとつと酒抔進め、我等は祇園の境内其外今一應皆々を伴ひ見物致し度候と也ければ、其意に任せ候樣にとの事にて、右上臈と彼おのこ計殘し置出ぬ。跡にて何か立よりて、高龍雲雨の交りをなして、殘多(のこりおおく)も老人老女など立戻りし故立分れぬ。かの手引せし町人へ厚く禮式をなし宿へ歸りけるに、右老人老女への取入かた、茶屋の挨拶諸雜用、召連し六尺等の手當何か算用しぬれば、金子五六十金百金にもちかくかゝりしが、よしなき望にて無益の入用懸しと思ひしが、猶程過て聞ぬれば、彼上臈と聞へしは白人(はくじん)にて、右局老侍等も皆拵へ者にてありし。白人と假の情に夥しき金子を遣ひ捨し事のおかしさよとかたりぬ。

[やぶちゃん字注:「女臈」及び「上臈」の「臈」は底本では(くさかんむり)が全体に架かる字体であるが、これに代えた。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:公家という格に拘るばかりの愚昧なる名ばかりの「たかが公家」から、とんでもない「似非公家」へ連関。これ、わざわざ上京した「御數寄屋の者」を登場させて語らせる必要を感じない。さすれば、これは嘲笑している「御數寄屋の者」自身の、実は実体験ではなかったか? 直接体験過去の助動詞「き」を後半に多用するのは、そうしたニュアンスを根岸は微妙に感じ取り、それを本話柄の中にそれとなく伝えたかったのではあるまいか、というのが私の解釈である。最後はそのような感じで現代語訳してみた。

・「御茶壺の御用」宇治採茶使のことを言う。以下、ウィキの「宇治採茶使」よれば、これは『京都府宇治市の名産品である宇治茶を徳川将軍家に献上するための茶壷を運ぶ行列のこと。俗に御茶壷道中と』呼んだもので、『起源は慶長18年(1613年)、江戸幕府が宇治茶の献上を命じる宇治採茶師を派遣したのが始まりで、元和年間、使番が使者に任命され宇治茶を運んでいた。徳川家光の時代の寛永9年に制度化され、寛永10年(1633年)から、幕末の慶応2年(1866年)まで続けられた』。『4月下旬から5月上旬に行われた。責任者たる徒歩頭(かちがしら)が輪番でその任を務め、茶道頭や茶道衆(茶坊主)のほか茶壷の警備の役人など、徳川吉宗の倹約令が出るまで膨れ上がり、多い時には1000人を超える大行列となった。道中の総責任者は、宇治の代官の上林家が代々務めた』。『100以上の将軍家伝来の茶壷に最高級の碾茶を詰めて、往路は東海道を復路は中山道・甲州街道を通った。甲州街道を通った行列は甲斐国谷村(現・都留市)の勝山城の茶壷蔵に納められ、富士山の冷気にあてて熟成してから、江戸に運んだ』。『この御茶壷道中は、将軍が飲み徳川家祖廟に献ずるものであるから自ずからたいへん権威があり、摂関家や門跡並で、御三家の行列であっても、駕籠から降りて、馬上の家臣はおりて、道を譲らねばならなかった』。『行列が通る街道は、前もって入念な道普請が命ぜられ、農繁期であっても田植えは禁止された。子供の戸口の出入り、たこ揚げ、屋根の置き石、煮炊きの煙も上げることは許されず、葬式の列さえ禁止された。権威のあるこの行列を恐れていた沿道の庶民は、茶壷の行列が来たら、戸を閉めて閉じこも』り、万一、路上で『出くわしたら、土下座で行列を遣り過すしかなかった。茶壺の行列の様子は、現代でも童歌のずいずいずっころばしに良く表現されて歌い継がれている』とある。文中の「碾茶」(てんちゃ)とは蒸した緑茶のことで抹茶の原料。

・「御數寄屋の者」数寄屋坊主のこと。江戸幕府職名。若年寄の支配で、坊主頭3名の下に坊主組頭6~7名、その支配下の坊主約40名から構成されていた。将軍家身辺の茶道一般と雑務を掌った。因みに私の好きな芥川龍之介の養家芥川家は代々徳川家に仕えた御数寄屋坊主の家系であった。

・「ゑせもの」ママ。「似非者」であるが、ならば「えせもの」である。身分の低い者・軽薄者・下らない奴・馬鹿者などの意があるが、ここは「軽薄者」としておく。

・「誮(やさ)しく」ルビは底本のもの。優しく。

・「ひたすらに亭主に賴ければ、何か其最寄に右樣の事に馴し者を賴み、一兩日過て、祇園にて望みを叶へんと」の部分、やや分かり難いので、直接話法を用いた会話体に意訳してみた。

・「撫付の侍」深く額部を剃って、後頭の髪を撫で付け(バック)にして、後ろに垂らした髪型。武士階級では医師・剣術指南役及び浪人に見られたが、若者のかぶき者の中にはしばしば見られたようであるから、この老侍も実はそうした輩――ちょいわる親爺系の者であったか。

・「女臈」奥向きに仕える女性。但し、この語には女郎の意味もあり、「上臈」とせず、「女臈」と記したのは、最後のどんでん返しを意識してのことかも知れない。

・「物詣ふでせると見へしか」底本では「しか」であるが、おかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「見へしが」とある。こちらで補正した。

・「祇園の境内」花街祇園に隣接する京都府京都市東山区祇園町の八坂神社のこと。当時は祇園社と呼んでいた。

・「高龍雲雨の交り」「雲雨の交り」は、楚の懐王が朝は雲となり夕には雨となると称した女に夢の中で出逢って契りを結んだという宋玉「高唐賦」の故事から生じた性交を示す有名な雅語。「高龍」は勃起した男根をも、龍の交尾の様としての「交龍」をもイメージさせもする。現代語訳はすっきりあっさり――あっさりで男は不満足であったのだが――『雲雨の交わり』とした。

・「六尺」当時のの乗用物であった駕籠の中でも、高級な公家・武家が乗るものは「乗物」と呼ばれ、一般の駕籠掻きの駕籠とこれを区別し、これを担ぐ者を「駕籠者」とか「六尺」(「陸尺」とも書く)と呼んだ。因みに、これは「力者」(りきしゃ)の転訛という。

・「白人」一般名詞の「素人」=「白人」を音読みしたものであるが、ここはもっと限定された固有名詞で、京都の祇園や大坂の曾根崎などにいた一見素人風に仕立てた私娼のことをいう。「しろうと」とか「はく」とか呼んだ。今なら、その手のAVビデオで素人を扱ったとキャッチ・コピーするところのものに出演している女優と全く同様である。現代のものもそうだが(見たことがあることをここに告解しておこう)、あの手のもので素人を演じるという事自体、そもそも千両役者の大化け物の雰囲気を醸し出していると言ってよかろう。底本の鈴木氏も、ここではぶっ飛んでいて、『素人の売色という点で遊客の好奇心をひこうとするのは、現代のアルバイトサロンとか、未亡人キャバレーの類と共通性がある』と記される(底本は1970年の発行であることに注意されたい)。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 好き者が京都にて欺かれた事

 

 毎年の御茶壺御用の宇治採茶使として上京する数寄屋坊主が、次のような話をしてくれた。

 

 ある年、江戸表から上洛致いた軽薄者、

「京のお女郎衆は如何にもやさしく、東国のそれとは大分違(ちご)うと聴いておるが……傾城・遊女衆と語らう、てえのは誰にだって出来ることでな……ここは一つ、全く素人の京女と、一夜を共に致いて……江戸への土産としたいもんだ……」

なんどと、宿屋の亭主に持ちかけたところ、主(あるじ)答えて、

「少しばかりの費用をかけさえすれば……禁中の官女と契るらんも……これ、無理な話や、あらしまへんで……」

とのこと故、男、狂喜乱舞し、

「……何としても!……これ、官女と枕を並べ、生涯の語り草にも致さん!」

とひたすら亭主に頼んだところ、

「よろしゅうおます。」

と請合(お)うた。亭主曰く、

「わての近しい者のうちに、こうした禁裏の内と通じる仕儀に手慣れた者がおりますよって、頼んでみまひょ。」

と言う。

 さても一両日過ぎて、その手配師が現われ、

「わてが、祇園にてお望み叶えまひょ。」

と、当座必要という世話料を男から受け取って、男の満願の日を告げると帰って行った。

 さても、その日と相成る。

 その日は晝から、その手配師同道の上、祇園へ行き、茶屋に寄ると、酒や食事を注文して待っているうち、暫くして、当茶屋前に乗物にて来駕した者がある。彼らのいる座敷より一間奥の座敷へと通るのを覗(うかご)うて見たところが、年の頃二十歳(はたち)ばかり、匂い立つような艶なる婦人――その粧いも気高げに見ゆる美女――、それに年老いたるお局(つぼね)風の女が附き添い、加えて、年の頃六十ばかりの、髪を撫で付けに致いた侍も附き添うて御座った。見るからに御所の上臈が物詣でにお忍びにて参った、といった風情であったが、ここに手配師、すっと立つと、最後に彼らの座敷の前の廊下を通り抜けんとする、その老いた侍へ向かって近寄り、何やらん、耳打ち致いた。暫く何かやりとりして席に戻ると、やおら、男にこう言った。

「今、御先方に歌学のことにつき、お話し申し上げたき旨、あの老人を通して申し入れましたところ、御先方はお逢い下さるとのことにて御座います。」

 先方の座敷の口にて、男は如何にも歯の浮くような嘘を並べた――これも手配師が抜かりなく用意致いた台本の文句なれば――それでも相応の挨拶を致いたところ、先の老人、

「……そなた、かねてより歌の道を究めておるとのこと、御主人様もお聴き及びになられ、また大層、そなたの歌学の話に興味を覚えられてあらっしゃいますれば、今日は御所よりの御代参として祇園社御参詣の序でにてはあらっしゃいますが、下々の話、お聴きになられるも御慰みになるとのことなれば、極内々にお逢い下さしゃるとのことにてあらっしゃいます。」

と答えて、その老人に導かれて中に入る。

 男の目の前にはさっきの美麗なる婦人が御着座――誠に気高き御有様にて、男は亀か蚯蚓の如、膝行頓首して、緊張でかちかちになったまま、漸くちらちらっと御姿を仰ぎ見るばかりであった。

「……歌を御精進の由、お聞き及び申し上げまして御座る……誠に恐悦至極に存じまする……」

てな、うろ覚えの台詞でご挨拶、と、先の老いた侍が座を退出する。するとすかさず、婦人のお傍に控えた老女が、

「まあまあ、今日はこのようなお忍びの御物詣であらっしゃいますから、……何も堅苦しい挨拶は抜きになさっしゃれ。……そんな礼儀は退(の)いて……さっさ、御酒(ごしゅ)をお召しになられ……どうぞ、ゆるりとうちくつろがれて。……姫さまも鄙(ひな)の話なんどお聴き遊ばされるも、お慰みの一つなればこそ……」

と、男に酒盃を勧めた上、

「……時に、妾(わらわ)は祇園社境内その外の社寺なんどを、今一度、お供の皆々を連れ、暫く見物致いたく存知ますればこそ……」

と言う。姫さまも、

「……よきにはからうがよい……」

との仰せ。

 さても、男とこの上臈の二人きりを残して出て行ってしもうた――。

 ――その後は……姫さまに寄り添い……雲雨の交わりをなして、名残り多くもあったのだが、例の老いた侍と老女なんどが、そのうち帰って来てしまったので、致し方なく別れを惜しんで宿へと立ち返った――。

 その際、かの手引きをした町人に求むるままに厚く謝礼を成して宿に帰ったのだが、老いた侍及び老女へのそれぞれ別個の取引料・茶屋への挨拶他飲食代金雑費諸々・姫様が召し連れていた乗物の駕籠者への手当なんど――流石に、男、駕籠者への手当というは少しばかりおかしいとは思ったものの――あれやこれやひっ包めて算盤を弾いてみたところが、何とまあ、金子五、六十両は言うに及ばず、百両近くかかった計算――。

『……あっという間の契り……何だか如何にも他愛のない望みのため……無駄金をかけちまったわい……』

と少しばっかり後悔した……。

……ところが……

……かけた金の手前、癪な気持ちもあって、仲間内にて、内裏上臈との契りのこと、如何にも面白可笑しゅう吹聴致いておったところが……暫くして、そうしたことに通じた者から、あの上臈と思い込んで御座った女、実はこれ、新手の素人風私娼の巧みなる芝居にて、あのお局や老成した侍みたような者どもも皆、一切合財何もかも、仕立て上げられた役者であったことを知ったのであった――。

 

「……ど素人の立ちんぼと……仮初めの情を交わすに……夥しき金子を使い捨てたとは……は、はっは! 全く以って……可笑しなことに……御座る……な!」

と、その数寄屋坊主、妙に口元を強張らせながら語って御座ったが、何故か印象に残って御座る。

2010/03/28

耳嚢 巻之二 公家衆其賢德ある事 / 位階に付さも有るべきことながら可笑しき噺の事

「耳嚢 巻之二」に「公家衆其賢德ある事」及び「位階に付さも有るべきことながら可笑しき噺の事」の公家噺、シリアスとコメディ二篇を一挙収載。

 公家衆其賢德ある事

 明和の頃、仙洞御所の御普請ありて、松本某など上京せしに、歸り後咄しけるは、公家は何れも貧窮なるが多し。かかる中に、松本某旅宿せし向ふに輕き公家衆有しが、至て不勝手の樣に見受ぬ。或日宿の亭主に、何といへる公家衆なるやと尋ければ、何某と申御方にて、至て御不如意にあらせ姶ふ。夫に付いたはしき咄あり。年久敷召仕ひ給ふ女の童のありぬ。夫婦共に不便を加へ給ふに、最早袖をも留候年頃成故、袖留宮詣ふでを心懸け給へど、雜費の差支ありて心に任せぬと、我等に語り給ふ事のありしといひし故、何程の雜費やと尋ければ、聊の事にありける故、餘りのいたわしさに纔の事なるが、我等より進じ候筋は成難し、其方へ可遣間、其方よりよく取計ひ進じ可然と申ければ、彼亭主兩三日過て松本へ申けるは、此間の趣申つれば、志の程いか計嬉敷思召ぬ。内々ながら關東より助力ありては心も濟ず、其方より取替貰はんも其所謂なし。志は嬉しけれど、心の底に右の趣殘てはいかゞ也、斷給へとの事也、さて不都合共取賄ひ給ひて、此程袖留宮詣ふでも濟しと語りしよし也。やさしき事也と松本かたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:たとえ名刀と雖も徳川家御禁制の妖刀を身に近づくることなかれという幕臣の節と、飢え渇えても公家は公家、江戸の武家の下には置かせぬという節で連関。

・「明和」西暦1764年から1772年。

・「仙洞御所の御普請」「仙洞御所」本来は一般名詞として上皇及び法皇の御所のことを言う。ここでは現在の京都御苑内御所南東にある仙洞御所を指している。『これは1627年(寛永4年)に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は桜町殿という。小堀遠州によって作事された庭園が広がっている』。『仙洞御所の建築群は1854年(安政元年)の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っている』とウィキの「仙洞御所」にある。岩波版長谷川氏注によれば、次に示す『松本秀持は明和八年(一七七一)四月、この普請の功を賞せられた』と記し、この話柄の年代を限定する。

・「松本某」「耳嚢」の一次資料的語部として既に多出する松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)のこと。最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。当時は御勘定組頭で前注に示したように底本鈴木氏注でも『御所造営の事にあずかり、明和八年四月、功を賞賜、ついで翌年には吟味役に抜擢され』たと記す。ここで根岸が「某」を用いているは松本が異例に昇進して話柄の登場人物として憚ったからか。であれば、先行話でも同様な処置がなされてしかるべきであろうし、もしかすると既に勘定奉行に一気に昇進した彼の過去の出来事ととして、公家の貧窮の報告・それへの私的な援助行動というものが微妙に問題があると考えられたからかも知れない。

・「袖をも留候年頃」袖留。留袖を着る年頃のこと。女子の成人の印として、振袖の長い袖丈を短くし、身八口(みやつぐち:着物の脇の下の部分。)を縫い留める習慣があった。現在の既婚女性の礼装と言う意味に留袖が用いられるのは、このようなイニシエーションがあったからである。

・「志の程いか計嬉敷思召ぬ」の「思召ぬ」は文脈上はこの公家自身の自敬表現であるが、それではおかしい(実際、文末では宿主人に対してさえちゃんと尊敬語を用いている)。ここは「いか計嬉敷までの思召」し=「志の程」という捩れが生んだ表現と採るべきであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 落ちぶれし公家衆にもかかる聡明にして品格のある事

 明和の頃、仙洞御所の御普請があって、松本某が上京、職務完了致いて帰府後、私に話して呉れたこと。

……いやもう、公家は何れも経済的に困窮致いて御座っての、どうにも首の回らぬ者、これ、実に多い。……そんな中でも、の、拙者が旅宿して御座った宿の向かいに、身分の高からざる、とある公家の屋敷があったが、……これがまあ、見た目も至ってみすぼらしく、内実は誠(まっこと)不如意ならんとお見受けするばかりの趣きじゃった……。どうにも、そうじゃなあ……『悲惨』を建物にしてみたような佇まい……と申せば分かってもらえようか、のぅ……。

 遂にある日、宿の亭主に、

「向かいは何と申される公家衆かの?」

と訊ねた。

「○○家○○とおっしゃるお方で御座いまして……その、言うのも何で御座いますが……貴方さまもお気づきになられましたでしょうが……その、御家内、至って不如意にあらさっしゃいます……それにつきまして、誠(まっこと)傷ましき話が御座います……何でも、年久しく召し使ってあらっしゃる女童(めのわらわ)が一人おりますが……子なきこの公家夫婦、ともに偉(えろ)うこの子を可愛がってあらっしゃいましたが……この子が、丁度、今日び、もう、袖を留めるような年頃となり、袖留(そでとめ)の儀やら、そのお祝いの宮詣りやら、なさらねばならんようになりましたが……実は先だっても……『……何やかやと、いろいろの雑費が掛かり……思うようにならしまへん……』……と私にこぼしてあらっしゃいました……。」

と言うので、

「……いかほどの雑費なるや?」

と訊いたところ、これが、まあ――貴殿にとっても、拙者にとっても――これ、たいした額にては、これなき程なれば、余りのいたわしさ故、

「……僅かな御援助に過ぎぬものなれど、……見知らぬ拙者から直接差し上ぐるのもおかしな話じゃ。……一つ、その方へその支度金全額遣わす故に、……ま、そなたのよきように取り計らって、贈答するがよい。」

と告げて、金一封を渡しおいた。

 ところが、その亭主、三日後のこと、封したままの金子を持って参り、

「……恐れ多きこと乍ら……先日の有難いお志、○○家○○さまにお会い致し、申し上げましたところが……

『……そのお武家さまのお志……ほんに心より嬉しくお思い申し上げました……なれど、内々とはいえ……関東の、それもお武家さまより、御助力を得たとあっては……公家の手前、私どもの気(きい)が済みまへん……たとえ、その御方に「立て替えてもろうた」としても……「立て替えてもろう」ということの、人に聞かれても胸張って言える謂われも、これ立ち申しませぬ……ほんにほんに、お志は嬉しゅう御座いますれど……我らが心の底に、こうした思いを残したままにてお受け致いては、これ、如何なものかと……なればどうか、丁重に丁重を重ねて、御貴殿より御先方さまへ、お断り下しゃっされ。』

とのことで御座いました。――しかし、お武家さま、一つ、良いことが御座いましてな。

 このお公家さま、この度、手元不如意なれど、何とかうまくお取り繕いになられ、この程、女子(おんなご)の袖留と宮詣り、ともに恙なく済んだとのことにて御座いました。」

と語って御座った。

「……いや、誠、品格に満ちた言葉で御座ったよ……。」

と松本某が語った。

*   *   *

 位階に付さも有べき事ながら可笑しき噺の事

 川西某語けるは、同人ちなみある者也し由。遠江三河の邊の者也しが、娘壹人ありしを縁によりて上方へ遣はし、堂上(たうしやう)へ奉公いたさせけるが、久々對面せざりしに、右娘今は宮仕へせし主人の情を受、内室やうになりけると便りに聞侍れば、行て逢ん事を企て上京し、かの公家衆の許を尋ねしに、位たかく祿重き公家衆ならねば家居(いへゐ)のかゝりも美々(びび)しからず、いと貧しげに見へけるが、案内を乞ければ、いかにもきたなげなる親仁(おやぢ)出て尋し故、しかじかの事にて來りたる由答へければ、先夫に扣(ひか)へ候へとて玄關の隅に差置、漸く暫くありて、申上ぬる聞こなたへ來り給へと、塀重門(へいぢゆうもん)やうの口より通して、白洲へ莚やうの物を敷て其上にさし置、外に人もなかりけるや、直に右の老夫白丁(はくちやう)を著し、もみゑぼしなどして簾を卷上げぬれば、堂上なる人我が娘ともに著座にて、遙々尋來し嬉しさよとの言葉をかけ、無程翠簾(みす)を下げぬる故、よしなくも尋來しと思ひけるが、又彼老人の案内にて座敷へ通し、其後は娘にもゆる/\逢て立歸りしが、さるにても氣の毒にもおかしき事なりと語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:聡明さと実に満ちた品格の「されど公家」から、公家という格に拘るばかりの愚昧なる名ばかりの「たかが公家」へ連関。本話柄、没落した公家の描写力に欠ける憾みがある。現代語訳では、これでもかと言うぐらい浅茅が宿をごてごて描写した。悪しからず、堂上様。

・「川西某」岩波版長谷川氏注によれば、川西兼郷(かねさと 享保8(1723)年~安永4(1775)年)で『評定所留役・御勘定組頭』とあるから根岸より14歳年上であるが、根岸の本話柄執筆時には根岸は佐渡奉行で、上役になる。

・「遠江三河」遠江国は現在の静岡県大井川西部(但し、当時の大井川河口は現在より東であったから、現在の焼津市の旧大井川町域も大井川の右岸であり、遠江国榛原郡(はいばらのこほり)であった。三河国は現在の愛知県東部。

・「堂上」狭義には室町以降の公家の家格の一つで、清涼殿への昇殿を許された家柄又は公卿に就任可能な家柄を言ったが、近世では広く公家方の呼称となっていた。

・「塀重門」関から表座敷に通ずる庭とを限る高塀にある中門を言う。左右に柱を立てた両開きの扉で笠木を持たない。寝殿造の中門を簡略化したもので、屏中門・壁中門・平地門などとも言う。行幸や勅使到着のための、本来は最も格式ある出入り口として公家屋敷に据えられたものという。玄関からではなく、とりあえずここを通したということは、礼儀上は、この父を相応に迎えたことを意味している。最初、私も調べずに誤読したが、裏木戸などではない。

・「白丁」 糊を強く張った白い布の狩衣ので、下級役人の雑色(ぞうしき)などが着たもの。

・「翠簾」御翠簾(おみす)のこと。一般には黄色地の簾(すだれ)に赤地・青地に彩色した縁取りを施し、白・赤・黒の三色に染め分けた房を複数垂らした簾を指す語。

・「もみゑぼし」揉烏帽子。薄布で作って漆などをかけて揉み込み柔らかくした烏帽子。兜などの下に折り畳んで着用した実用的なもので、古くから庶民が着用した。

■やぶちゃん現代語訳

 位階からすればさもあらん尤もなる事乍ら実際には如何にも可笑しき話である事

 川西某が語ってくれた以下の話は、彼の親族の者の体験談であるとか。

 遠江・三河辺の者、一人娘が御座ったが、縁あってその子を上方に遣わし、あるお公家に奉公させて御座った。

 永らく娘に会うこともなかったところ、この女、そのお仕えしている御主人のお情けを受け――偶々そのお公家におかせられては妻なき故――御内室同様の扱いを受けて御座います、との便りを受け取ったれば、

「これはこれは、嬉しきことじゃ! 祝いの序でに、永らく対面(たいめ)致さざる娘なれば、会いに参ろう。」

と思い立って上京致いた。

 さて、かの公家衆の屋敷を訪ねて見る――と――位もたいして高くもなく、また禄も多くないお公家衆なれば、その家居(いえい)――とても立派と言える代物にては、これなく――いや、失礼乍ら、大層貧窮と、これ、お見受けする御屋敷――。

 案内を乞えば――これでも公家の下男かと思われるよな――如何にも汚ならしいなりの爺いが出て来て、

「何や?」

と質す故、

「――拙者、かくかくの者にして、しかじかの事ありし故、参上致いて御座る――。」

と応(いら)えたところ、その親爺、言葉を改め、

「……左様(さよ)か……なら、まずは、それにお控えなされ……」

とむさ苦しい土間の如き玄関の、その隅に差し置いたまま、永いこと、待たされる――。

 暫く致いて、

「御来駕の儀、上に申し上げまする間……どうぞ、こちらへお入りなされ……」

と言う。

 されば薄汚き下男と見たは、これ、用人であったかと又しても呆れながら――茅屋の荒れ垣根の裏木戸かと見紛(まご)う――嘗ては塀重門であったと思われるようなる門より通され、――ここそこに泥が見えて白き処の殆んどない――お白洲に、――乞食(こつじき)の敷く莚のようなるものを敷(ひ)いた、その上に、座らされる――。

……そうして……

……そうして、呆れたことに……

……実は、この屋敷には、召し仕われておる「下男」も「用人」も御座らなんだらしい……

……じきに御出座になされたお公家さまなる御主人……これ、先般より鼻も抓まんばかりに見下して御座った臭(むさ)い爺い、その人にて……着するものとてないと思しく、賤しい白丁(はくちょう)の狩衣に、――本来の烏帽子が何十年も年経て、ぼろぼろになったかと思われるよな――揉烏帽子なんどをちょこんと被って現れると、――元は確かに御翠簾(みす)であったことが、巻き上げるという、その動作によってのみ辛うじて感受し得る、向うがすっかり透けて見える――御翠簾を巻き上げて、――巻き上げた爺いが、徐ろに、内に……仕草ばかりは流石に厳かに――それが「堂上の人」と相成って……その横には懐かしい己(おの)が可愛い娘……二人して御着座の上、

「……遙々訪ね来さっしゃる嬉しさよ……」

と一言と言葉をかけたかと思うと、元の爺いに戻って慌てて立つと、するすると――いや、ばらばらと、が正しい擬音であるが――――御翠簾を下げた……。

 父なる男、呆然として、

「……なに!?……これで終わりか!?……何とまあ、馬鹿馬鹿しい! とんだ無駄足じゃったわ!」

と腐り切って、その場を退(さが)らんと致いたところ、例の爺い――いえ、お公家の御主人様が、ひょこひょこと出で来ると、黙ったまま、同じその座敷へと――そこも「座敷」と言うよりは「お化け座敷」とも言うべきもので御座ったが――通して、自分は奥へと隠れた。

 そこでまあ、ようやっと、娘にもゆるりと親しゅう対面(たいめ)致し、語らった後、里と立ち帰ったということで御座る。

「……それにしても……公家なればとて、さもあらん尤もなること乍ら……如何にも気の毒にして……いや……可笑しきことで御座った……。」

と川西某が語って御座った。

へへ

スイッチが入ると僕はとんでもないんだ――部屋をカスタマイズし終わったのは今……これから僕の夢へおいで……

おいで

僕の夢へ

悔恨

……僕は……バッハを……あらゆる楽器で弾け……母語であるドイツ語で歌える音楽家に……なりたかった……

恋をすると   村上昭夫

恋をするとまっすぐに歩けなくなる

そう言いながら倒れていった詩人がある

 

恋をするとほんとうの道がわからなくなる

そう言いながら

彼は一層はげしい恋を

宇宙のなかに燃やし続けた

 

どうかマジエル様

あらゆるいきものの幸いを捜すそのためならば

私のからだなど

なんべんひき裂かれてもかまいませぬ

 

恋をすると見えるものが見えなくなる

けれどもそのことが

ほんとうの恋ではないのだとしたら

私は私のいのちを

それこそ何遍賭けてもいい

 

恋をするとすべての願いがだめになる

そう恐れながら

私はあのまっくらな虚空のなかを

何処までも行かなければならないのだ

2010/03/27

不器用な君は

僕と永遠に一緒にいるのだ……でなくて、どうして不器用な僕が生きていられよう?!

僕は総てのかつての「僕の君」に、そう、言おう(妻は除外する。数日後に妻は身体上人生上の選択を迫られているからである。僕は妻を総ての集合体から除外して、特異的に愛さねばならぬ)。

そんなことが出来るのか?……

……いや、それが出来なければ、僕らはただ――「影」そのものではないか?!――

[やぶちゃん注:僕はいつも思うのだ! 雨垂れが先か、耳垂れが先か、って! でもさ、その人に確かな思いを告げるためには僕は、「!」が最後以外には考えられないんだ! これが不器用な僕の「節」なのさ!]

僕の鮮やかな憂鬱……

……白い月見草の鉢植え……ポール・デルヴォーの絵葉書……君と見た「道成寺」……座布団の血の染み……「誓いの休暇」……ドルイドの鈴……中目黒の白いタチアオイ……「何するんだよ……」と呟く君……ジョアンの「声とギター」を口ずさみながら歩いた森戸海岸……氷見の神社……新宿の駄菓子屋……槍ケ岳……銀座のスナックのピアノ弾き……江ノ島のおでん屋のおばさん……「もう逢えないのかな……」という君の声……七夕の竹取り……「水の駅」……タクシーの中の秘やかなベーゼ……一本の赤い薔薇……紙袋に入ったアリス……仄かな紫陽花のような匂い……タルコフスキイの「ノスタルジア」……君の、君の、そして君の幽かな香り――愛した僕――死ぬ私――万華鏡が綺麗だな……僕があの人から貰った万華鏡が……

世界の涯まで連れてって   寺山修司

みんなが行ってしまったら
わたしは一人で手紙を書こう
みんなが行ってしまったら
この世で最後の煙草をすおう
みんなが行ってしまったら
酔ったふりしてちょっぴり泣こう
みんなが行ってしまったら
せめて朝から晴着を着よう
一番最後でもいいから
世界の涯まで連れてって
世界の涯まで連れてって

巻き戻し

右腕が痛い――

せめて荒れた自分の部屋を5年前の何処にどの本があるか分かる部屋に巻き戻すことにした――

10時間かかって整然としたかつての僕の部屋に戻った……愛する教え子からもらった無数のCDを聴きながら――

本の帯も捨てた……帯のあるなしは古本では桁違いになる……しかしそれも僕の死後のことだから興味はない――

無数の小物フィギアも廃棄した……サンダーバードと好きなウルトラ怪獣は残してだが……多分、売れば数万円は下るまい――

今年の140枚以上の年賀状も総て捨てた(呉れた方は失礼)――多分、それ以外にも捨てるべきではなかったものもあるに違いない――

本棚をごそごそするうちにインターネット用の電話線が断線するという予期せぬハプニングはあったが――

教え子の何枚かの絵、そして……ゴジラが……笑顔の素敵な夏目雅子が……バルタン星人が……ソロニーツィンのルブリョフが……ジャミラが(これは生徒が紙粘土で作って呉れたものを筆頭に無数)……アリスが……僕の撮った光触寺の地蔵が……キング・ジョーが……永遠の愛人原節子が……ベックリンの「死の島」が……フィギアのハオリムシが……瀧口修造の絵が……ツインテールが……昔、教え子が送ってくれた蝶の葉書が……タルコフスキイが……メトロン星人が……娘の文(あや)が……カネゴン(大伴昌司の解剖図の)が……「鬼火」のアランが……走るケムール人が……「黒いオルフェ」のユリディス=マルペッサ・ドーンが……病に臥せったセブン、いや、ダンが……アランの吸っていた「スゥイート・アフトン」が……母にエネルギーを御尻に刺されるアトムが……北脇昇の「クオ・ヴァディス」が……ブルトンが(勿論、「ウルトラマン」のだ)……チェスを指すデュシャンが……幸せなタスマニアのコバヤシチヨジの写真が……クレージー・ゴンが……「色ガラスの街」が……ハンモックを破いた僕のカリカチャアが……45年前城ヶ島で父が買ってくれた貝の標本が……星の王子さまが……Cordyloceps aurum が……今の、この独りぼっちの僕を、優しいまなざしで見ていてくれる――

……こうして……僕の気分はまた……大事なものを酔って自暴自棄のままに捨て去った、いつかの夜のように……あの新鮮な僕だけの憂鬱に……再び立ち戻ったのだった――

幽かな得体の知れぬ動物の、臓物のような匂いが僕の心に香っている……アレクサンドル・タローのピアノが、今日の、そんな最期の僕を、迎えてくれたのだ……

耳嚢 巻之二 村政の刀御當家にて禁じ給ふ事/利欲應報の事

「耳嚢 巻之二」に「村政の刀御當家にて禁じ給ふ事」及び「利欲應報の事」の妖刀村正がらみ二篇一挙収載。

 村政の刀御當家にて禁じ給ふ事

 村政の刀を御當家にて禁じ給ふ事は、後風土記・三河記等にも委しく、人の知る所也。ある日藏書にありし迚(とて)人の語りけるは、難波御陣(なんばごぢん)とや、又は其已前の事也けるか、織田有樂齋(うらくさい)手づから討留し首を持參して、御前へ出けるに、手柄いたしたりやと上意あり。老人のおとなげなく少し働き、手作りの首の由申上ければ、遖の由御賞美にて、其打物御覧可被遊由にて、有樂の鑓を上覽の處、いかゞ被遊けるや少々御怪我ありし故、此鑓は村政の作なるべしと御尋被成。御尋の通の由申上けるに、村政は不思議に御當家に相當なき由人々申けるゆへ、即座に折り捨しと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:妖猫から妖刀(妖刃と言うべきか)で連関。

・「村政」村正が正しい。伊勢国桑名(現・三重県桑名市)の刀匠の名及びその流れを汲む刀鍛冶及びその系統の鍛えた刀剣類の呼称。別に千子(せんご)村正とも呼ぶ。以下、ウィキの「村正」には、本話柄の妖刀伝説について詳細な記述が見られるので、以下、長くなるが引用する。『村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子で、赤坂千手院鍛冶の出と伝えられている。然しながら活動拠点は伊勢であり、定かではない。他国の刀工と同様に、室町末期に流行した美濃伝を取り入れ本国美濃の刀工の作と見える刃を焼いた作もあり、技術的な交流をうかがわせる。しかし美濃だけではなく、隣国の大和伝と美濃伝、相州伝を組み合わせた、実用本位の数打ちの「脇物」刀工集団と見られている。その行動範囲は伊勢から東海道に及』び、『「村正」の銘は、桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続いた。同銘で少なくとも3代まで存在するというのが定説である。村正以外にも、藤村、村重等、「村」を名乗る刀工、正真、正重等、「正」を名乗る刀工が千子村正派に存在する。江戸時代においては「千子正重」がその問跡を幕末まで残している』。『なお、4代目以降、「千子」と改称したと言われているが、これは徳川家が忌避する「村正」の帯刀を大名や旗本が避けるようになったことが原因と考えられている』とし、その妖刀伝説を分析する。冒頭に語られるのは、正に本話柄と殆んど同じであるが、人物が織田信長の弟織田有楽齋長益(後注参照)からその長益の長男であった織田長孝(?~慶長111606)年)は、戦国時代の武将。本姓は自称平氏。実際は忌部氏か。家系は平資盛を祖と称する越前国織田剣神社祠官の流れで尾張守護代織田氏の庶流。江戸時代前期の大名で、美濃野村藩の初代藩主。長益系織田家嫡流2代。に代わっている。また、場面も関ヶ原である。『徳川家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったという。さらに関ヶ原の戦いのおり、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。その槍を家康が見ている時に家臣が取り落とし、家康は指を切った。聞くとこの槍も村正であった。家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した』というもの。以下、「伝説の真偽」として、『実際には現在でも徳川美術館に家康が所持していたと思われる村正が所蔵されている。これは尾張徳川家に家康の形見として伝来したもので』、『徳川美術館は徳川家が村正を嫌ったのは「後世の創作」であると断言している。然しながら、この尾張家伝来の村正が』無傷の完成した刀であるにも関わらず、『「疵物で潰し物となるべき」と尾張家の刀剣保存記録(享和年間)には残されており』、『時代が下がるにつれて、徳川家でも村正が忌避されていたことは間違いないと考えられる』とする。但し、本来、『村正は徳川領の三河に近い伊勢の刀工であり、三河を始めとする東海地方には村正一派の数が多く、村正一派の刀剣を所持する者は徳川家臣団にも多かった。三河に移った村正一派を「三河文珠派」と呼ぶ。たとえば徳川四天王の一人、本多忠勝の所持する槍「蜻蛉切」には、村正の一派である藤原正真の銘が残っている。また、四天王筆頭であった酒井忠次の愛刀(号 猪切)も藤原正真の作である』と記す。最後に、伝説のルーツである家康の父広忠の死因は多くの史料が病死と記しており、『謀叛による暗殺説は岡崎領主古記等の一部の説』に過ぎない旨、注する。続いて「妖刀伝説の由来」の一つとして、『家康は村正のコレクターであり、没後、形見分けとして一族の主だった者に村正が渡された。これが徳川一門のステータスとなり、他家の者は恐れ多いとして村正の所有を遠慮するようになったが、後代になると遠慮の理由が曖昧となり、次第に「忌避」に変じていった』という説を示すが、『この説には疑問があり、家康の遺産相続の台帳である「駿府御分物帳」に村正の作は2振しか記されておらず、現在は尾張家の1振が徳川美術館に保存されている』のみと疑義を呈している。次に「妖刀伝説の流布」という見出しで、『寛政9年(1797)に初演された歌舞伎「青楼詞合鏡」で村正は「妖刀」として扱われており、この頃にはすでに妖刀としての伝説が広まっていた。1860年(万延元年)には河竹黙阿弥の八幡祭小望月賑が初演され、大評判を博し』ていた事実を示すが、本「耳嚢」の「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、本話柄から考えても、恐らく1700年代中期頃(元文から寛延、西暦で1736年から1751年)には本伝承は広範囲に一般的記録として(「藏書」とある。これは特別な人物という限定もなく、また特殊で一般人が披見できないような「藏書」とも思われない表現である)流布していた考えてよいであろう。『幕末から維新期にかけて執筆された「名将言行録」には、「真田信繁(幸村)は家康を滅ぼす念願を持っており、常に徳川家に仇なす村正を持っていたという。このように常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と徳川光圀が賞賛したという逸話が記載されており、村正は徳川家に仇なす妖刀であるという伝説は幕末頃には定着していたと見られる』。『この伝説は、徳川家と対立する立場の者には、良いゲンかつぎとして好まれた。徳川政権初期に謀反の疑いで処刑された由井正雪も村正を所持していたと』伝えられ、『幕末期の倒幕派志士らも好んで村正を求めたといわれ、西郷隆盛も村正を所持していた。このため、多数の村正の贋物が出回ることになった』とある。こうなると逆に妖刀様々、大変な金蔓となるというのが面白い。末尾に「その他の妖刀・村正のエピソード」として、幾つかの興味深い事実が示されているので抜粋する。『五郎入道正宗の弟子という俗説もあるが事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話である。そもそも正宗は、鎌倉時代末期、村正は室町時代中期以降が活動時期である』。『戦前、東北大学工学博士・本多光太郎が、試料を引き切る時の摩擦から刃物の切味を数値化する測定器を造ったところ、皆が面白がって古今の名刀を研究室に持ち込んだのだが、妖刀と呼ばれる村正だけが、何故か測定ごとに数値が一定しなかった。科学雑誌『ニュートン』に書かれた、本多光太郎伝の一エピソードである。本多氏はこのことから、「これが本当の『むら』正だ」と言い、「あの先生が冗談を言った」としばらく研究室で話題になった』。『南総里見八犬伝には「村雨」という刀が登場するが、後世になって村正と混同され「妖刀村雨」と呼ばれることもある』。最後に研師のリアルな話。『村正の斬れ味に纏わる逸話は数多いが、刀剣研磨師にもエピソードがある。「村正を研いでいると裂手(刀身を握るための布)がザクザク斬れる」「研いでいる最中、他の刀だと斬れて血がでてから気がつくが、村正の場合、ピリッとした他にはない痛みが走る」(永山光幹著「日本刀を研ぐ」から要約)』。正しく今も妖刀であるらしい。なお、根岸が本話柄の標題や冒頭で「村政」と書くのも、正宗の弟子という伝承もさることながら、徳川家に仇なす妖刀故に別字を以って示す呪(まじな)いのようにも取れる。現代語訳では総て「村正」とした。

・「御當家」徳川家。

・「後風土記」「三河後風土記」著者不詳。全45巻。以下、ウィキの「三河後風土記」によれば(記号の一部を変更した)、『徳川氏創業史の一つで、徳川氏の祖とされる清和源氏から徳川家康将軍就任までを、年代順に記述する。著者・成立年代については、慶長15年(1610年)5月成立の平岩親吉著と序にあるものの、正保年間以後の成立と考証され、著者も不明である。のち改編を行った成島司直は沢田源内の著作とする。また、「三河物語」、「松平記」といった他の創業史参照は見られない。類書として「三河後風土記正説」、「三河後風土記正説大全」があり、広く流布したと目されるが、速見行道の「偽書叢」など偽書目録の多くで偽書とされ、著者・成立年代に不備があり、徳川家歴代を賛美する面が強い』。『天保3年(1832年)9月には、徳川家斉の命により、成島司直の手で「三河後風土記」の改編および「三河物語」などでの校正がなされ、序文・首巻が付けられた「改正三河後風土記」全42巻(天保8年完成)が作られている。こちらは将軍に献上もされており、偽書ではなく江戸幕府の編纂物の一つともいえる。ただし成島の完全な著作ではなく、原典に他の文献を出典として明示している形式である』という。偽書から出た正史とは、摩訶不思議な代物。

・「三河記」前掲注の中の「三河物語」のこと。「大久保彦左衛門筆記」「大久保忠教自記」とも言う。別名でお分かりの通り、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた御存知、大久保彦左衛門忠教(ただたか 永禄31560)年~寛永161639)年)の家訓書。「ウィキ」の「三河物語」によれば、『元和8年(1622年)成立。3巻からなり、上巻と中巻では徳川の世になるまでの数々の戦の記録が、下巻では太平の世となってからの忠教の経験談や考え方などが記されている』。『本来門外不出とされ、公開するつもりもなく子孫だけに向けて記されたため、逆に忠教の不満や意見などの思いがそのまま残されている。しかし忠教の思惑とは裏腹に写本として出回り、人気になったと伝えられている。もっとも、下巻の巻末には読み手に対して、「この本を皆が読まれた時、(私が)我が家のことのみを考えて、依怙贔屓(えこひいき)を目的として書いたものだとは思わないで欲しい」といった趣旨の言葉が記されており、門外不出と言いながらも読み手を意識しているという忠教の人間くささがうかがえる』。『内容的には徳川びいきの記述が目立ち、また、大久保氏が関わった部分にも創作がある。しかし、同時代の一次資料とも合致する部分も多く、多くの学術書の出典となっており、良質な資料として評価されていると言える。また、珍しい仮名混じりの独特の表記・文体で記されており、この時代の口語体を現代に伝える貴重な資料としての側面もある』と記す。

・「難波御陣」大坂の陣。江戸幕府が豊臣宗家を滅ぼした大坂冬の陣及び大坂夏の陣の戦闘を総称した呼び名。慶長191614)年~慶長201615)年。この場合、人物が旧豊臣(後に離反、徳川間者説もある)の「織田有樂齋」となれば、大坂夏の陣の戦闘しか考えられない。但し、先に記したウィキの「村正」の妖刀伝説が古形であり、伝承のルーツとしては正しいとするならば、この大坂の陣ではなく関ヶ原の戦い(慶長51600)年)まで遡り、且つ、登場人物も弟織田有楽齋長益(後注参照)からその長益の長男であった長孝ということになるが、この織田長孝は関ヶ原の合戦に父有楽齋と東軍の将として従軍し戦功を挙げ、一万石の大名となっているから、本話柄の役柄として不足はない。

・「織田有樂齋」織田長益(ながます 天文161547)年~元和7(1622)年)織田信長実弟。織田信秀十一男。有樂齋如庵(うらくさいじょあん)と号し、茶人としても知られた。ウィキの「織田長益」によれば、『千利休に茶を学び、利休七哲の1人にも数えられる。のちには自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている』とある。私事ながら、この如庵、かつては大磯に移築されていた。私は小学校4年生頃だったか、まる半日、父母と共にこの国宝如庵に滞在したことがある。海遊びに行った帰り、偶々迷い込んだそこで、私たちだけに管理人のお爺さんが解放してくれ、案内してくれたのであった。嘘のような素敵な体験だった。僕はあの時、数寄屋造という哲学の中に教外別伝で貫入していたような気がする。少なくとも知識や作法ばかりが脳味噌に入った今の僕は、茶室に入っても何らのエクスタシーを感じなくなってしまったことは確かである。『1570年代頃から織田信長の長男信忠の旗下にあり、天正10年(1582年)の本能寺の変の際は、信忠とともに二条御所にあった。この時、信忠が長益の進言に従って自害したのに対し、長益自身は城を脱出。近江安土を経て岐阜へ逃れた。この時のことを、京の民衆たちには「織田の源五は人ではないよお腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と皮肉られている。しかし、信忠が腹を切った時点では既に二条御所は明智軍に重包されており、脱出はほぼ不可能である。事実としては明智勢の来襲以前に逃亡していたと思われる』とする。『変後は甥である織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と豊臣秀吉の講和に際して折衝役を務めたという。その後、知多郡に所領を与えられて大草城に居城した。天正18年(1590年)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡味舌(現大阪府摂津市)2000石を領した』。『関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男長孝とともに総勢450の』兵を率いて参戦し、少数の乍ら『長孝が戸田重政、内記親子の首を取ると有楽斎も石田三成家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げ』たとする。この時に出来事がまず妖刀伝承のルーツであるから、一応、首を掻っ切られた人物を示しておく。この「戸田重政」とは戸田勝成(かつしげ 弘治3(1557)年~慶長5(1600)年1021日)の別称。豊臣秀吉家臣。ウィキの「戸田勝成」によれば、『慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に共鳴して西軍方につき、北国口を守備していたが、東軍が迫るとともに美濃方面へと陣を移した。本戦においては、大谷吉継隊に属して奮戦したが、松尾山に陣を張る小早川秀秋に続く脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠ら四隊の寝返りにあい壊滅、勝成も織田有楽斎長男の織田長孝の部隊に捕捉され、応戦するも槍を受けて討たれた。この時、嫡男内記も同じく討死している』とあり、知られる妖刀伝説譚とぴったり一致する。なお、『勝成は諸大名と広く親交を深め、東軍の将の中にその死を悼んで涙を流したものが多かった。優れた人物として伝わっており、「謀才俊雄の英士」と称されたという』名将でもある。本話柄では、首は語られない。せめて、本注でその遺蹟を讃えておきたい。話を織田有樂齋長益に戻す。『戦後に有楽斎は大和国内で32000石、長孝は美濃野村藩に1万石を与えられた。しかし、戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた』。『大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに豊臣家を支える中心的な役割を担った。大坂夏の陣を前にして豊臣家から離れた。豊臣家内の和平派であったためと思われる。一説には幕府の間者であったともいう』とある。案外、本話柄が大坂の夏の陣にずれているのは、間者―妖刀という邪悪な連想でも働いたものか? 『大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた』とある。……そうか、あの静謐な如庵の持主は、少年の僕がイってしまったあの空間を創り出したのは、こんな人だったのか(私は戦国時代史は全くの守備範囲外である)……今更ながら知って、感慨無量である……。

・「老人」織田有樂齋長益ならば、関ヶ原にては54歳、大坂夏の陣にては72歳である。息子の長孝より老人の有樂齋方が、話として様になる。また、伝承では家康は怒って立ち去るのだが、ここでは家康が怒らなくて(少なくとも怒っている感じはまるでない。家康がその程度で有樂齋に怒っては「鳴くまで待つ」ことは出来まいよ)、逆にいい感じがする。現代語訳は、そのようなシーンに仕立てた。

■やぶちゃん現代語訳

 村正の刀御当家にては御禁制である事

 村正の刀が御当家にては御禁制なること、「後風土記」「三河記」なんどにも詳しく記されて御座って、人も知り申し上げて御座ることであるが、ある日、自身の蔵書の中の一節に、その由来をこう書いてあったと、ある人の語った話にて御座る。

 難波の御夏の陣或いはそれよりも以前――関ヶ原の戦さ――の折りのことか、織田有楽齋殿、自ら討ち取った首を持ち参って権現様御前へ出でたところ、

「いやとよ! 良き手柄致いたの!」

と御上意あり、有楽齋、畏まって、

「……老人の、年甲斐ものう、少々働きまして、大汗をかき申しましたが、……一つ、とりあえずは誰(たれ)の手も加えて御座らぬ、手作りの首にて御座る……。」

と敵将の首級を差し出だした。

「遖(あっぱれ)じゃ!」

と上様、お褒めになられた上、槍の上手と言われし有楽齋殿の持ったるそれをちらと御覧になられ、

「一つ、その打ち物、見たいものよ!」

との仰せにて、有楽齋殿、その敵将を仕留められし槍を上覧に供し申し上げた。

「――痛(つ)ぅ!――」

何がどういう弾みで御座ったかは分からねど、その刃先にて、上様、少しばかりのことながら、御怪我なされてしまわれた。

 有楽齋殿のことを鑑みられた上様、周囲の騒ぐをお鎮めになられ、

「大事ない……掠り傷じゃて……時に、有楽齋殿……この槍、村正の作にて御座ろう?……」

とお訊ねになられた。

 己(おの)が槍にて上様御怪我なれば、すっかり恐縮して畏まって御座った有楽齋殿は、

「……ははッ!……流石は上様、仰る通りの、得物にて御座る……」

とお訊ねの通り、消え入るような声で申し上げるや否や、地べたに蟇の如く、這い蹲る。

 上様は、さもありなんとの御表情をされると、少し苦笑なさった。

 その時、お側の者ども、何人も合点し、首を縦に振りつつ、

「……村正は不思議に……御当家には相応(ふさわ)しからざるものなればこそ……やはり……」

と呟いた。

 それを聴いた有楽齋殿は、その場にて即座に、その槍を折り捨てて、上様にお詫び致いたということで御座った。

*   *   *

 利欲應報の事

 村政は正宗の弟子にて美濃の住に有りし由。至ての上手にて切れ物なれども、其人となり亂心同樣の生質(せいしつ)にてありし故や、右打物所持いたし候へば、御當家昵近(ぢつきん)の者に限らず怪我致候由。今も村政が子孫差添(さしぞへ)にて剃刀など打しが兎角怪我いたしける故、今は其家業も止めしと也。いつの此にやありし、打物の商ひしける者、村正の短刀を才覺し、村正と銘有ては人々嫌ひ候ゆへ銘をすり潰し侯へば正宗に成侯とて、甚悦しを心安き人聞て、夫は不宜事也と意見加へしに、商賣筋に左樣の事を忌嫌候ては金のもふけはならざる物也と欺き笑ひて過しが、其妻いかゞせしや、右村政の短刀にて自殺しけるゆへ、驚きて右刀を捨てしと也。予一年佐州に在勤の折から、召仕ふもの村政の拂ひ物調ひ候積の由にて見せけるが、至て見事成ものにて好しき刀也。然し聞及びし事もあれば、此刀は調ひ申事かならず無用の旨切に申含め早々返させける。

□やぶちゃん注

○前項連関:妖刀村政連関。前話の注は総て参照されたい。

・「正宗」鎌倉末期から南北朝初期にかけて相模国鎌倉で活躍した刀匠正宗(生没年不詳)及びその流れを汲む刀鍛冶及びその系統の鍛えた刀剣類の呼称。刀鍛冶としての正宗は日本刀剣史上最も著名な刀工と言ってよい。但し、前の「村政」の注にウィキの「村正」からの引用で示した通り、ここにあるような村正が『五郎入道正宗の弟子という俗説もあるが事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話』に過ぎない。

・「其人となり亂心同樣の生質」というような異常性格の記載が何処にあるのか、定かでない(そもそも村正の大雑把な事蹟さえ不明である)。これは妖刀からの逆輸入現象であろう。

・「美濃の住」前話の「村政」の注にウィキの「村正」から引いた通り、『村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子で、赤坂千手院鍛冶の出と伝えられている。然しながら活動拠点は伊勢であり、定かではない』とする。「赤坂千手院鍛冶」とは大和の最も古い刀鍛冶師の集団で大和の千手院という寺に所属していた寺院鍛冶集団のこと。正宗も手本としたと言われる名刀工の誉れ高い職能集団であった。

・「差添」通常は刀に添えて腰に差す短刀・脇差のことを言う。太刀は最早鍛えず、脇差ばかりにて、それでも妖刀の噂絶えず、剃刀などを打っていたが……という意味か? 岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「美濃」とする。分かり易いが、底本で以上のように訳す。

・「予一年佐州に在勤の折」「耳嚢」の執筆の着手は根岸の天明4(1784)年の佐渡奉行着任の翌天明5(1785)年頃に始まったとされ、且つ「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この部分は5年末か天明6年初と、一応、考え得る。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「信州」となっており、これだとそれよりも前、天明の大噴火後の天明3(2783)年の勘定吟味役浅間山復興事業のための巡検役の頃ということになる。

■やぶちゃん現代語訳

 利を貪らんとする者に必ず相応の報いある事

 村正は正宗の弟子で美濃の国の人であったということである。

 至って神技に類する刀匠の上手にして、その作、業物(わざもの)として知られものの――その人となり、乱心同様の異常なる性格の持主で御座ったためか――彼の打ちし物なんどを所持致いて御座ると、御当家に所縁(ゆかり)のあられる方に限らず、きっと怪我を致すことに相成る由。

 村正の子孫というは、太刀は最早、流石に鍛えず、最近まで脇差ばかりにて鍛えて御座ったというが、それでも妖刀の噂が絶えず、剃刀なんどを打って御座ったれど、その剃刀にても、とかく怪我致す者の後を絶たざるにて、今は家全く鍛冶の家業はやめてしもうたと聞いて御座る。

 何時の頃のことか忘れたが、打ち物の商いを致いておる商人(あきんど)、物好きにも、あれこれ苦心致いた上に、この村正の短刀を手に入れた。

「……切れ味は申し分ない、いや、神技の如き斬れ味じゃて!……しかし……この『村正』の銘があるばっかりに……人に嫌われる……されば、これほどの業物……勿体ない……銘を磨り潰しさえ致さば……この切れ味じゃて! 『正宗』になる、わ、い、な!……」

と大喜びした。

 ところが、偶々それを親しい者にこっそり洩らしたところ、

「……嘘偽りのことを置くとしても……これは妖刀村正じゃ……いや……それは宜しうないぞ!……」

と切に諫めた。しかし商人、

「商売筋に、そんなこと気に掛けて忌み嫌(きろ)うて御座ったら、へぇ、金の儲けは、ハァ、ないわいナア!」

なんどと浄瑠璃みたような声色して、嘲笑ってとり合わなんだ。

……ところが、ほどなく……

……その商人の妻……何が御座ったかは知らねど……この村正の短刀を用いて……自殺致いた。

 商人も驚懼(きょうく)して、この短刀を捨てたとのことである。

 附けたり。

 私も佐渡に在勤して既に一年、ある時のこと、召使って御座るある者、

「……名刀の誉れ高い、村正の、売り払われて御座る打ち物、この通り、古物商の持ってまいりましたれば……」

と言って私の元に持って参って――この者、私がこれをきっと買い求めるであろうと見越して――私に見せた。

 見た――。

 ――確かに、流石は村正――至って美事なる出来の如何にもよい太刀で御座った――。

 ――が、しかし、かく聞き及んで御座ったこともあれば、

「――この刀、買い調い候こと、決して無用――。」

の旨、屹度申し渡し言い含め、早々に返品させたは、言うまでもなきこと。

2010/03/26

耳嚢 巻之二 猫の人に化し事 及び 猫人に付し事

「耳嚢 巻之二」に「猫の人に化し事」及び「猫人に付し事」の二篇を収載した

 猫の人に化し事

 鄙賤の咄に、妖(ようびやう)猫古く成て老姥などをくらひ殺し、己れ老姥と成る事あり。昔老母を持たる者、其母猫にて有し故、甚酷虐にて人をいためし事多けれど、其子の身にとりてすべき樣なく打過しが、或時猫の姿を顯し全く妖怪に相違なし、しかれば、我母をくひし妖猫とて切殺しける。母の姿となりし故大に驚き、全く猫に紛(まがふ)なき故に殺しぬるに、母の姿と成し是非もなき次第也、いわれざる事して天地のいれざる大罪を犯しぬるとて懇意の者を招きて、切腹いたし候間此譯見屆呉候樣申しける時、かの男申けるは、死は安き事なれば先暫く待給へ、猫狐の類一旦人に化して年久しければ、縱(たとへ)其命を落しても暫くは形を顯はさぬもの也とて、くれぐれ押留ける故其意に任せぬるが、其夜に至りて段々形を顯し、母と見へしは恐ろしき古猫の死がひなりけるとぞ。性急に死せんには犬死をなしなんと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:見た目の母殺害(せつがい)という尊属殺人、その責任をとって性急に自害に及ばんとし、間一髪で大団円というモチーフで直連関。にしても、この話柄も如何にもおかしな感じがする。特に事実譚ならば、最もリアルに描写し得るはずの「或時猫の姿を顯し」の部分が余りにもあっさりし過ぎている点、事実ならば最も詳述されてよいエンディングの変容シーンがまるで描かれていないという点である。この老女は実は、本来、他虐性の強いサディスト的異常性格であったものに加えて、ある種の精神病や脳神経障害若しくは老人性痴呆やアルツハイマー等が発症し、それを持て余した息子が懇意の者と騙らって、斬殺した老女の死体を隠匿した上、猫の死骸に老女の衣服など被せて、周りの者にかくなる虚言を信じさせたものではなかろうか。昨今の事件を考えると、こんな想像も突飛とも思えぬのが、恐ろしい……。

・「全く妖怪に相違なし」この部分は前文と繋がって句読点がないことから、地の文であると鈴木氏は採っておられるようである。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも「相違なし。」として地の文としている。私としては息子の言葉として臨場感を出したいと思う。

・「いわれざる事して天地のいれざる大罪を犯しぬる」「「いわれざる」はママ。正しくは「言はれざる事」で、「言はれざる」は一般に「言はれぬ」と用いて、「言ふ」+可能の助動詞「る」+打消の助動詞「ず」の連体形から構成される連語で、「道理に外れた・無理な」又は「余計な・無用な」の意を表わす。人が猫に変じたという現象を錯覚と捉えて、そのような幻覚に惑わされた自身の意識を「道理に外れたもの」と表現したものか。動揺している男の様子を良く伝えるが、後の「いれざる大罪」にリズムとして呼応し、「犯しぬる」の慙愧の念を示す完了(強意)の助動詞の連体形の「ぬる」の活用語尾の一部である「る」との響きも小気味よい。

■やぶちゃん現代語訳

 猫が人に化けた事

 田舎の下賤の者の語った話。

 年経た妖猫が老女を喰い殺して、自身、化けて老女に成りすましていたという話である。

 昔、老いた母を持った男がいた。

 その母――実は妖猫――は老女なれど、甚だ粗暴にして冷酷、残虐にして酷薄なる性質(たち)で、誰でも彼(か)でも打擲罵倒すること甚だしかったのじゃが、息子の身にてあれば、男は如何ともし難く、苦痛の内にも、何とのう、日を過して御座った。

 そんなある日のこと、男は遂に――その母御前(ごぜ)が猫の姿を露わにしておるのを目の当りにした――。

「これは! 全く以って妖怪に間違いなかったッ! されば! 既に我が母者(ははじゃ)を喰い殺した妖獣であったっかッ!」

と、おぞましき妖猫を、その場で一刀の元に斬り殺した……

……しかし……

……しかし、その猫の死骸は……瞬く間に母御前の姿に変じてしまった――。

 男は大いに驚き、

「全く猫と紛(まご)うことなき故に殺したに!……いや! これ、紛れもなく我が母御前になった!……なった……のでは、ない……母御前、じゃ!……こうなっては……是非もない!……道理に外れた錯覚に陥って、母殺しという天神地祇の許さざる大罪を……犯してしまったッ!……」

と慙愧の念にうち震え、思い余った男は近隣の懇意にして御座った者を家内に密かに呼ぶと、母御前の遺体をありのままに見せた上、

「……かくかくの訳にて母者を斬り殺したれば……これより切腹致すによって、是非もなき以上の顛末、呑み込んで貰(もろ)うた上……どうか見届けて下されい……」

と頼んだ。それを聞いた知れる者、口を極めて、

「死は易きことなれば! 先ず、暫く! 待たらっしゃい! 猫・狐の類いの、一旦人と化して年久しく経て御座ったれば、たとえその命を失いても……暫くは、その本性を現さぬものにて御座るぞ!……」

と、何度も押し留めた。

 されば、男も半信半疑ながら思い留まり、取り敢えずは懇意の者の言に従って――待った。

 その日の夜に至り……彼らの眼前にて……母御前の遺体は……徐々に……そう、徐々に、その姿を変え……その本当の姿形を、現わし始め……遂に……母御前と見えたその「もの」は……見るも恐ろしい老猫(ろうびょう)の死骸となったという――。

 この男、性急に自害致いておれば、これ、妖猫死ぬるばかりか――男も犬死にをするところで御座った――。

*   *   *

 猫人に付し事

 右猫の人に化し物語に付或人の語りけるは、物事は心を靜め、百計を盡し候上にて重き事は取計ふべき事也。一般猫の付しといふもあるよし也。駒込邊の同心の母有しが、件の同心は晝寢して居たりしに、鰯を賣もの表を呼り通りしを母聞て呼込、いわしの直段(ねだん)を付て、片手に錢を持此いわし不殘可調聞直段を負候樣申けるを、かのいわし賣手に持し錢を持候を見受、それ計にて此鰯不殘賣べきや、直段も負候事も成がたしと欺笑ひければ、殘らず買べしといひざま、右老女以の外憤りしが、面は猫と成耳元迄口さけて、振上し手の有樣怖しともいわん方なければ、鰯賣はあつといふて荷物を捨て逃去りぬ。其音に倅起かへり見けるに、母の姿全くの猫にて有し故、扨は我母はかの畜生めにとられける、口惜しさよと、枕元の刀を以何の苦もなく切殺しぬ。此物音に近所よりも駈付見るに、猫にてはあらず、母に相違なし。鰯賣も荷物とりに歸りける故、右の者にも尋しに猫に相違なしといへども、顏色四肢とも母に違ひなければ、是非なく彼倅は自害せしと也。是は猫の付たといふ者の由。麁忽(そこつ)せまじきもの也と人のかたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:化け猫から猫憑きで直連関。前掲の尊属殺人とも連関するが、こちらはどちらと比しても悲劇的結末である点で極めて対照的。しかし、これなど、見るからに病的なヒステリーを主症状とする、ある種の精神病と考えてよい。因みに、猫が人に憑いたとされた精神病様状態の最も最近の報告例としては、国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪データベース」の「猫憑き」のカード(No.0770007)に、執筆者江口重幸氏の論文「滋賀県湖東―山村における狐憑きの生成と変容」(昭和621987)年国立民族学博物館発行『国立民族学博物館研究報告』1241113p~1179p1158pに昭和541979)年の『精神医学』21巻4号に滋賀県愛知郡愛東町の事例として『嫌いな男から逃れるために週刊誌で見た呪術を用いた24歳の女性が猫憑きになり発病し、四足で歩いたりの記述がある』とあり、決して過去の馬鹿げた出来事と一蹴は出来ぬのである。

・「欺笑ひ」底本では「欺」の右には『(嘲)』とある。無論、「嘲笑」で採る。

■やぶちゃん現代語訳

 猫が人に憑くという事

 前話にて人に猫が化けた話を致いたが、それを聴いたある人が、こういう話もある、と語って呉れた話をもう一つ。

 この一件は、何事も事を処理するに当たっては心を静め、百計を尽くした上、その結果として重大な実行行為を行使するに際しては、十分過ぎるほどの深慮を図らねばならないという、よい例である。

 具体的には、猫は――化けるのではなく――人に憑依するという例もある、ということなのである。

 駒込辺りに、さる同心が母とともに住んで御座った。

 倅であるその同心、ある非番の日、居間の厨近くにて昼寝を致いておったところ、表を鰯売りが売り声を上げて通ったのを、厨にあった母親が屋敷内に呼び込んだのを、うつらうつらしている耳に聴いて御座った。

 ――鰯売りを前に、母御前(ごぜ)は鰯の値段を聴いた上、片手に僅かばかりの銭を乗せた手を差し出し、

「……この鰯……一匹残らず買い取ります故……値段を、おまけなされ……」

と言う。この鰯売り、老女の持ったそのはした金を見て、呆れ果て、

「それっぱかりでこの鰯を残らず買う、だ? 『値段をおまけなされ』たあ、ちゃんちゃら可笑しいゼ!」

と嘲笑った。

――と――

「……残らず……買うと言ったら……買うん、ダ! ヨッ!」

急に叫びながら、老女、異様な興奮と共に怒りだしたか――

――と見る見るうちに――

――その面相、猫そのものとなり!

――その口、耳元まで裂け上がり!

――銭投げつけて振り上げたその両腕、それ! 猫の手振りそのままにて!

――最早! 怖ろしいなんどと言うどころの騒ぎではない!

鰯売り、

「わああッツ!」

と叫ぶが早いか、ばーん! と棒手振(ぼてぶ)り振り捨てて逃げ去ってしまった。

 その騒ぎに目が覚めた倅、居間から、ふと庭表を見る――

――と――

――そこに母御前(ごぜ)……と思いし人の姿は――

――これ、全くの猫なればこそ!

「さては! 真実(まこと)の母者は、かの化け猫めに喰われてしもうたかッ! 口惜しやッ!!」

――と――

――枕辺の刀抜き取って、一刀両断の下に斬り殺してしまった……。

 しかし……この物音に近隣の者どもが駆けつけて見れば、

……猫にてはあらず……

……見紛う方なき、その倅の母御前の御姿、そのまま……

 暫く致いて、鰯売りも荷物を取りに戻って参った故、この者にも問い質いたところが、

「……いえ! もう、確かに猫にて! 相違なし!……」

との答えが返っては御座ったれど……

……遺体の顔も、その姿も……何時まで経っても……常の女……倅は勿論のこと、近隣の者どもも知るところの……かの常の母御前に相違なきことなれば……

……この同心、是非なく、その場にて自害致いた、ということで御座った……。

 これ、猫が人に憑いたという例に他ならぬ、という由。

「……いやもう何より、物事、早計に断ずること、これ、決して致いてはならぬものにて御座る……」

と、その人が語って御座った。

2010/03/25

耳嚢 巻之二 異變に臨み熟計の事

「耳嚢 巻之二」に「異變に臨み熟計の事」を収載した。

 異變に臨み熟計の事

 名は障りなれば洩しぬ。近き頃の事とや、さる小身旗本の母は家の女にて別に隱居家もなく居間續きの部屋に住居せしが、密に密通の男ありて右部屋へ通ひけるを、其子はしらざりしに、或夜母の居間にて物音高く何か爭ふ聲聞へければ、全く盜賊と思ひ刀を追取りて立向ひしに、逃出る者有りし故切倒し、同く駈出る者をも殺害に及びけるが、火を燈し見れば、最初に殺したるは實母なる故大に驚き、同じく切倒しけるものを見れば見覺へざる男也。實母を殺し、助るべきやうあらざれば自滅せんと刀を取直しけるが、此趣を我のみ知りては彌々惡名を重ねなん、幸ひ隣家に相番の者ありし故、呼寄て此樣子を語り、頭支配へ屆給はれ、我は自害いたし候と申ければ、彼相番(あひばん)聞て、自害は遲き事あるべからず、我等が歸り來る迄いくへにも待給へと制し、取あへず組頭の方へ至り、始よりの次第を用人を以て申出しければ、右組頭さるものにやありけん。尚又用人を以申出しけるは、誰殿方へ盜賊忍入て母を切害せし故、誰殿事右盜賊を打留め給ひしと申口上と相聞へぬ。家來の承り方不分明故、押附可懸御目。今日も不快にて只今療治いたし居候、暫く待給へとて、料理など出し漸二時(ふたとき)程も得せてやうくに出立で、不慮の事にて盜賊忍入御母儀を切害せし事是非もなき仕合也。然し其盜賊其席にて直に討とめ給ひしは、遖れの手柄、責てもの事と申けるにぞ、右相番も始て其趣意をさとり立歸りて當人へも申聞、其趣の屆書認め、頭へも申立、事なく濟しと也。右組頭、相番を待せ置てひそかに頭の宅へ至り、初中後の相談をなしてかく取計ひける由。右組頭あしく取計なば、其者の家を斷絶せんは是非もなけれど、御旗本の身分にて間違て親を害し候などゝいはんは、世の聞所も如何ならん。虚實はしらず、面白き取計と思し故爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。しかし、人が二人死に、母子の過失の尊属殺という一見救いのない事件に対して、関わった人物たちが誰もが皆、如何にも粋な計らいをするという話柄――何やらん、「北の国から」見たような、ほっとするいい話である。そうして、こうした感覚が後の名南町奉行根岸根岸鎭衞その人を生んだのだと言ってよい。

・「小身旗本」一般には3000石未満の家禄の低い旗本で、旗本は江戸城警備・将軍本人の警護を行う大番(番方)・役方(文官相当)の町奉行・勘定奉行・大目付・目付等に就任することが出来たが、無役の旗本の場合、3000石以上の者は寄合席、それ以下は小普請組に編入されていた。実際には旗本の9割は500石以下であったらしいから、殆んどがこの「小身旗本」であったといってよい。主に参考にしたウィキの「旗本」によれば、『100石から200石程度の小禄の旗本は、小十人の番士、納戸、勘定、代官、広敷、祐筆、同朋頭、甲府勤番支配頭、火之番組頭、学問所勤番組頭、徒(徒士)目付の組頭、数寄屋頭、賄頭、蔵奉行、金奉行、林奉行、普請方下奉行、畳奉行、材木石奉行、具足奉行、弓矢槍奉行、吹上奉行、膳奉行、書物奉行、鉄砲玉薬奉行、寺社奉行吟味物調役、勘定吟味改役、川船改役をはじめとする諸役職についた』とあるが、本話柄の「頭支配」というのは、恐らくこうした役職上の「頭支配」ではなく、彼が属していた小普請組の「頭支配」という意味であろう。また、一般に下位の御家人との違いとして『徳川将軍家直属の家臣団のうち、石高が1万石未満で儀式などで将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格をもつものの総称』とされるが、『小禄や無役の旗本は将軍に拝謁の資格があったものの、実際に拝謁できたのは家督相続・跡式相続のときのみであった』とある。

・「家の女」この母は武家の一人娘で、婿をもらい、主人公の男子をもうけ、婿の主人は既に逝去しているということである。住み馴れた自家であったから、隠居所を設けて居所を移すわけでもなく(同一敷地内に別な隠居所を建てることもなく、ということであろう)、家督及び屋敷を継いだ息子と、同じ屋敷内の同一建物内、同じ居間続きの部屋に住んでいたということである。

・「密に密通の男ありて右部屋へ通ひけるを、其子はしらざりしに」どうもここが分からない。まず、「密通」をそのままの「不義密通」の意味でとるには無理がある。彼は既に家督を継いでおり、文脈上、父は既に逝去しているとしか思われない。未亡人であれば、男性と交際することは江戸時代であっても「不義密通」とは言わないし、表立ってはいなくても許されていたし、再嫁もあった。とすれば、これは、母親が子に対して内心忸怩たるものを感じていたから内密にしていたか、或いはこの恋人が息子と変わらぬほど、もしくは息子よりも若い男性でもあったからか、もしくは身分の低い町人や凶状持ちでもあったのか、はたまた、この男に妻子でもあったのか(だとしても「不義密通」とは言わないと思われる)といった書かれていない条件を仮定する必要がある。――更に言えば実は冒頭で『何やらん、「北の国から」見たような、ほっとするいい話である』と言ったのであるが――その口が乾ぬ間に――そこには一抹の不審への皮肉もあるのである。――前注で言った通り、母と息子は同じ屋敷内の同一建物内、同じ居間続きの部屋に住んでいたとあるのであるから、この息子がそれを知らないでいたというのは、如何にも嘘臭い気がするのである。夜半のアヘアヘに気付かない程の呆けた馬鹿息子が、この晩に限って、物音に気付き、誤認で一方は女とはいえ、二人の人間を鮮やかに斬り殺して、果ては覚悟一決自害せん――というのは芥川龍之介の「藪の中」の三証言のように、私にはとても解し兼ねる事実なのである。もしかすると、この話柄には実は隠された真相があったのではないか……という展開は折角の「北の国から」見たような、ほっとするいい話を汚すことになれば……これはこれで、信ずることと致しやしょう……

・「相番の者」小普請組の中で同じ頭支配(小普請支配)下の同僚という意味であろう。

・「頭支配」小普請支配という主人公の組頭の上に、更にその組頭を支配する組頭支配がいる、という意味の注が岩波版の長谷川氏の注にある。以下の叙述から正式な文書の届け出は、小普請支配組頭→頭支配のルートを辿ったもので、頭支配の裁可を必要としたものと考えられる。

・「用人」主人の用向きを家中に伝達、庶務を司ることを職務とした上級の家臣であって、単なる使用人格ではない。この話柄のような旗本にあっては、家中に家老・年寄を置くことは通常は出来なかったため、用人は諸藩の家老と同じ職権を持つ重臣、家中最高の役職名であった。例えば500石級の旗本では用人の定数は1名が一般的であった(以上はウィキの「用人」を参照した)。

・「二時」約四時間。

■やぶちゃん現代語訳

 危機的状況にあっての熟慮肝要の事

 人物の名は差し障りがあるので、総て控えることとする。どうも最近の出来事であるらしい。

 さる小身の旗本、入り婿であった父亡き後、家督屋敷も継いで御座ったが、母が住み馴れた家内なれば、別に隠居所を設けるということもせず、母屋の居間続きの部屋に住んで御座った。

 この母には密かに関係を持っている男がおり、この母の私室に、夜毎、こっそりと通って来ておったのじゃが――息子はそれを知らないでいたのじゃった――。

 ――ある夜更け、隣の母の居室で大きな物音がして、何か争うような鋭い声が聞こえてきた。うとうととしかけていた息子は、てっきり盗賊が入ったものと思い、押っ取り刀で駆けつけると母居室の真っ向に立って迎えんとしたところ、真っ暗な中、矢庭に部屋から逃げ出して来た者がいたため、すわ、盗人、と有無を言わさず斬り捨て、続いて走り出して参った同賊と思しい者をも是非に及ばず切り倒した。

 さて、己が息の静まるを待って、

「母者、ご無事かッ!」

と灯した火を持って部屋にいれば――誰もおらぬ――廊下に出ずれば――成敗したと思って御座った最初にの一人は――何と母御前(ごぜ)で御座った……

「……!……」

今一人の者は、これ、見覚えなき男にて御座ったが――実母に斬りつけ、最早、命終の体(てい)にて御座れば、

「――自害せん!――」

と、母御前斬りしその刀を逆手に構えて切腹致さんとせしが――刃を腹に突き立てんとする間際――ふと、思い至った――。

「……かくなる事態に至った趣、これ、我のみ知る……それにては、なおのこと、我の乱心ならん、との誤解を以って、世に悪名を残すことにもならん……」

 さても幸いなことに、隣家に同じ小普請組の同僚が御座ったので、夜更けなれど内密に呼び寄せ、

「……かくかくの次第にて、我らが頭支配にお届け下されい。拙者はこれにて自害致し候えばこそ――」

と告げたところ、その同輩は慌てて、

「待たれい! 自害のこと、後にても遅きこと、これあらず!――お主の、支配への言上の願い、確かに承った――さればこそ、拙者がここ元へ帰り来る迄、重々、待たれいッ!――」

ときつく自害を制し納得させた上、取り敢えず彼らの組頭の屋敷へと走った。

 組頭の屋敷に付くと、起きて来た用人に一部始終を語った上、直ちに組頭様に御面会、御判断を仰ぎたき旨、申し上げた。

 ところが、この組頭は――なかなかに深慮ある者にて御座ったらしく――用人から話を聴くや、再び、この用人に応対させ、この同輩なる男に以下のように命じた。

「――○○殿方へ盗賊押入り、その母を殺害(せつがい)致いた故、○○殿こと、盗賊討ち果たし給う――との物謂いなる口上と相承った。事件仔細に付、家来の承り方及び言上、これ、不十分にて御座れば――追っ付け御目に掛かって委細伺はんものと存ずる。――なれど只今、体調、これ、優れざるによりて、床にて療治なんど致いて御座ればこそ、暫く待ち給え――。」

 そうしてこの男には、夜食なんどが振る舞われ、二時(ふたとき)ばかりも待たされた上、漸く暁近くなってから組頭が御出座、男に向かって、

「――不慮のことにて盗賊忍び入り、御母儀を殺害(せつがい)せしこと、如何ともし難き出来事にて、我ら言葉もない。――然れども、その仇敵盗賊を、その場にて直ちに美事討ち果たされ給いしは、これ、天晴れの手柄、せめてもの慰みなり――。」

と徐ろに告げた上、凝っと部下である、この男を見つめたまま、黙って御座った。

 その瞬間、この同輩なる男も組頭の真意を悟って御座った。

 急ぎ、立ち帰ると、約束を守って自害致さず、まんじりともせずに彼の帰りを待って御座った当人のもとへ駆けつけ、当人へもこの万事委細を語り伝えて諭した上、組頭の言葉通りの趣きを以って届書を認め、組頭より頭支配に申し立てを行ったところ、何事もなく済んだという。

 この時、この組頭は、当の同輩なる男を待たせている間に、実は密かに組頭自身の上司であった、その頭支配の屋敷へ赴いて、本件に付、善後策を協議致いて、かく取り計らったということで御座った。 本件の場合、組頭が悪く――杓子定規に――取り計らったとすれば、これはもう、法に照らしても尊属殺人にして、その者の御家断絶は免れないものである――また、誤認による過失致死や重過失致死が認定され、執行猶予やお構いなしとなったと致いたとしても、御旗本という高貴な武家にありながら、『間違って親を殺害致いた』なんどと言うは、世の噂として如何なものかは、想像に余りあるというものであろう。

 この話、本当か嘘か、定かではない――なれど、面白くも適切なる取り計らい方と思えばこそ、ここに記しおくものである。

2010/03/24

杉山君へ――極私的通信

ジャイアン杉山! 東京海洋大学合格、おめでとう! お前には分からんかも知れんが、海の生き物好きの俺にはこたえらんないぐらい、羨ましい!!!

大船鉄道機関大学文学部国語学科講義要綱2 車構内放送学演習Ⅱ 附戦後国鉄史

僕は昔からあの円歌の「新大久保~新大久保~」のトーンで駅のアナウンスを認識している。それは恐らく僕の中に刷り込まれた記憶である。そのようなものとして鉄道のアナウンスは「在る」のである。しかし、考えてみれば、あの奇妙にハスキーなドスのきいた低音、意味深長にして頭が普通で、タメを入れて語尾を伸ばすという典型的アナウンス術は、もう、やめろ、と言いたい。近日、僕は急激に聴力が落ちたことはブログにもしばしば書いた。最近、この伝統的スタイル(若い人の中には極めて明解達意のアクセントとイントネーションの方もいる)のアナウンスが半分以上聴き取れなくなっている自分自身を、今日、JRの車内で見出したのである。僕はボランティアで――これは本気だ。鉄道関係者は何時でも僕にアクセスし給え――JRの放送に関わる職員全員に、アナウンス術の講義をみっちりしてやってもいいと思っている。もっと乗客に分かる言い方と喋り方を学ばねばだめだ! 君らのやっているのは、鉄ちゃんとして少年時代に憧れた誰かの、芝居がかったカッコいいけど、何言ってんだかわかんないお喋りなのである!

古き良きなんどと思い込んで御座った聴こえぬアナウンスは、最早、消え去るべきである! 「一歩後退、二歩前進」! 「我々は」進化し、そして「団結せねばならない!……」(……という言葉が誰のどんな時の台詞だったのか……あの涙の言葉……それを知る鉄道労働者諸君も、次第に少なくなってゆくのであろう……)

大船鉄道機関大学文学部国語学科講義要綱1 車構内放送学演習Ⅰ 附小論文試験

最近は構内放送で「降り乗り」という言い方が当たり前になっている。馬鹿な日本人は現実に即して言い換えているのだから当然だと思っているらしい。では、なぜ「降乗」(こうじょう)と言わないのか? 僕は「乗降」という放送や「乗降口」という掲示は見たことはあるが、「降乗」とアナウンスする駅員や「降乗口」という指示板(鉄道の場合は滅多にないが)は見たことも聞いたこともない(車内放送で私は聞いたことがないと再限定しておく。そうアナウンスした人がいることを私は逆に光明のように祈る。その人は正しく現実を見ているからだ)。漢字は和語である訓よりも硬性なのだなんて僕でも言えそうな説得力のない説明では僕は全く肯んじない。関係ない。我々は日本人だ。漢字だろうが何だろうが、変えたらいいだろ!? 糞のように外来語を垂れ流して平気な俺達じゃないか? プラグマティックに「降乗口」で統一しろよ!――簡体字を受け入れ、ピン音を取り入れた中国だって、鉄道関係者だからといってこんなに安易に自分たちの日常の言葉を変えはしないと僕は思う。言葉とはそういう「節」を持ったものだと僕は思う。「降り乗り」が当たり前なのに「降乗」はおかしいという日本語は、逆に僕には「おかしい」ね。因みに、僕は今以って「降り乗り」という気持ちの悪い日本語は、口にしたことが、ない。あんたは、どうよ?

山岳部の鉄ちゃん――むすぶんやユーリ、カッシーよ、200字以内で論理的に僕を納得させ得たら、一杯、驕る!

耳嚢 巻之二 藝道手段の事(二篇)

「耳嚢 巻之二」に「藝道手段の事」(二篇)を収載した。

 藝道手段の事

 

 古人のかたりけるは、享保の初めに山中平九郎といへる戲場役者ありしが、公家惡(くげあく)の上手にて、山中隈取(くまどり)とて怨靈事其外の面隈取方あり。寶暦の頃迄座元せし市村羽左衞門が顏の塗は則平九郎が傳にてありし由。山中が公家惡の粧ひ威有て猛く、見物の小兒など泣いだし候程の事也しが、古市川柏莚、未(いまだ)若年の※(かほ)見せに山中は坊門の宰相の役、柏莚は篠塚の役にて、大福帳とやらんを引合ふ狂言ありしが、柏莚橋掛りより出て、舞臺の平九郎と立合大福帳を引合に、見物の者平九郎のみを見て其上手を稱歎し、柏莚をよきと言ふ事なく、我心にも平九郎にのまれ候樣に覺へければ、色々工夫して着せる大紋をいかにも大きく拵へ、橋懸りより出るや否、足早に出て右大紋の袖を平九郎が面へ打かぶせ、袖にて平九郎をかくし例の通り睨みければ、見物の貴餞どつと柏莚を稱美しけると也。

[やぶちゃん字注:「※」=「白」()+「ハ」(下)。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:歌舞伎役者名人譚で連関。

・「享保の初め」享保年間は西暦1716年から1736年。次注に見るように初代山中平九郎は享保9(1724)年に没している。

・「山中平九郎」初代山中平九郎(寛永191642)年~享保9(1724)年)公家悪(後注参照)・怨霊事を得意とし、「江戸実悪の開山」と称される。鬼女の隈取を試みていた平九郎の顔を垣間見た妻が失神したというエピソードが伝わり、現在の歌舞伎隈取の型の一つとして「般若隈」(目と口に紅を加えて般若の面相を象徴)別名「平九郎隈」として伝わる。これは正に「山中隈取とて怨靈事其外の面隈取方あり」のことであろう。「実悪」とは所謂、悪玉の敵役(かたきやく)の中でもトップ・クラスの、国盗りや主家横領を企む極悪人の役柄を言う。

・「公家惡」は皇位を奪取せんとするような身分の高い大逆の公家の役柄を言う。

・「寶暦」宝暦年間は西暦1751年~1764年。

・「座元せし市村羽左衞門」八代目市村羽左衛門(元禄111698)年~宝暦121762)年)市村座座元。元文2(1737) 年八代目を襲名後、寛延元 (1748)年に芸名を羽左衛門と改めた(以後、襲名は羽左衛門となる)。座元を60年間務めながら若衆・女形・実事・敵役等の幅広い役柄をこなして名人の誉れ高かった(以上はウィキの「市村羽左衛門 8代目を参照した)。

・「古市川柏莚」二代目市川團十郎(元禄元年(1688)年~宝暦8(1758)年 享年71歳)。柏莚(はくえん)は俳号。父であった初代が元禄171704)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺されて横死(享年45歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。岩波版長谷川氏の「古市川柏莚」の注には『以下の記述に混乱がある』として、まず以下に記される狂言は享保2(1717)年に森田座で顔見世(後注参照)興行された「奉納太平記」で、そこで篠塚五郎を演じたのがこの「古市川柏莚」=二代目市川團十郎、坊門の宰相役を演じたのは山中平四郎(平九郎ではない)であると記す(以下、後注の便を考え、一部に恣意的な改行を施した)。

「篠塚五郎」は篠塚貞綱(定綱とも)なる武人であるが歌舞伎に暗い私には如何なる人物・役柄かはか不詳(因みに同様の理由により「奉納太平記」なる外題についてもここに語ることが出来ない)。

「坊門の宰相」というのは坊門清忠(?~延元3・暦応元(1338)年)は南北朝時代の公家。本名は藤原清忠。後醍醐天皇の側近。忠臣楠木正成を戦死させた人物として極めて評判の悪い人物である。この「大福帳」なる場面については吉之助氏の「歌舞伎素人講釈」の「歌舞伎とオペラ~新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」の一篇「アジタートなリズム・その13:荒事の台詞・2」の中に、正にその享保2(1717)年の「奉納太平記」のズバリ二代目市川團十郎自作の「大福帳」についての詳細な解説があるので引用させて頂く。但し、長谷川氏の注によれば、本文の「大福帳」の出来事は、この狂言ではないとするので注意されたい(後述)。

   《引用開始》 

歌舞伎十八番の「暫」の始まりは、初代団十郎が元禄10年(1697)に演じた「大福帳参会名護屋」と言われています。「暫」になくてはならないのが「つらね」です。それは大福帳の来歴を豪快かつ流麗に言い立て・「ホホ敬って申す」で終わる様式的な長台詞で、初代・二代目団十郎ともに名調子で鳴らしたものでした。この「しゃべり」の技術は元禄歌舞伎の話し言葉の原型を残すものです。(注:その後の歌舞伎は人形浄瑠璃を取り込むことで語り言葉に傾斜していきます。)次に挙げるのは同じく「暫」の系譜である・享保2年(1717)森田座での「奉納太平記」での二代目団十郎自作による大福帳のつらねの最後の部分です。

『天下泰平の大福帳紙数有合ひ元弘元年、真は正徳文武両道紅白の、梅の咲分前髪に、かつ色見する顔見世は、渋ぬけて候栗若衆、幕の内よりゑみ出ると隠れござらぬいが栗の、神も羅漢も御存じの、十六騎の総巻軸、篠塚五郎定綱が、大福帳の縁起ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足、万々ぜいたく言ひ次第、大福帳の顔見世と、ホホ敬つて申す。』

この台詞を口のなかでムニャムニャつぶやきながら・どうしたら荒事の台詞らしくなるか想像してみて欲しいのですが、「ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足、万々ぜいたく言ひ次第」の部分は棒に一気にまくし立てるところで、「ぐわつ/ぽう/てん/ぽう/・・」という風にタンタンタン・・という機関銃のようなリズムが想像できます。これがツラネ全体のリズムの基本イメージですが、それだけでは台詞が単調になりますから、実際には前後にリズムの緩急・音の高低をつけて・それで変化をつけるのです。ですから「ぐわつぽうてんぽう」の直前の「大福帳の縁起」はテンポを持たせて・大きく張り、最後の「大福町の顔見世と」でテンポをぐっと落として・「敬って申す」で声を高く・裏に返して張り上げる形となります。これで荒事の台詞になります。最後の「敬って申す」で声を張り上げる様式的印象が鮮烈なので・忘れてしまいそうですが、タンタンタン・・のリズムを決めるところが基本的に写実であり・そこが話し言葉の原型を持つ箇所なのです。台詞の語句はしっかりと明確に噛むように発声しなければなりません。ただし、緩慢ではあるがタンタンタン・・のリズムのなかに急き立てる感覚が感じられます。この点に注意をしてください。

   《引用終了》

長谷川氏は続いて、正徳4年顔見世興行の「万民大福帳」で、この「古市川柏莚」=二代目市川團十郎が鎌倉権五郎景政を、この山中平九郎が松浦宗任を演じており、ここで根岸が書いた

『大福帳を引き合うこと、平九郎に団十郎をあなどる振舞のあったことは』、享保2(1717)年の「奉納太平記」ではなく、この正徳4年顔見世「万民大福帳」でのことであると解説されている(先と同様の理由により、私は「万民大福帳」なる外題についても、該当大福帳場面についてもここに語る能力を持たないが、登場人物から少なくとも前九年の役と後三年の役をカップリングして舞台に借りていることは確か)。

「鎌倉権五郎景政」(延久元(1069)年~?)十六歳で後三年の役に従軍、右目を射られながら、射た敵を切り、戦友が目の矢を抜こうとしたが抜けず、足下に顔を踏んで抜こうとしたところ、それを無礼と斬りかかったというエピソードで知られる勇将。御霊信仰の対象である。

「松浦宗任」は安陪宗任(長元5(1032)年~嘉承3(1108)年)のことと思われる。安陪貞任の弟。前九年の役で奮戦、捕虜となって四国伊予国、治暦3(1067)年には再度、筑前国宗像郡筑前大島に再配流された。一説に彼は肥前の水軍集団松浦(まつら)党の開祖とも伝えられていた。

なお、以上の語部である老人の(根岸のではあるまい)錯誤部分については、複雑な様相を呈しているため、現代語訳ではその錯誤のまま、訂正を加えていないので注意されたい。

・「※(かほ)見せ」歌舞伎で年に一度、役者を交代して新規の配役にて行う最初の興行を言う。当時の役者の雇用契約は満1年で、11月から翌年10月を一期間とした。従って配役は11月に一新、その刷新された一座を観客に見せるという歌舞伎界にあって最も重要な行事であった(以上はウィキの「顔見世」を参照した)。

・「坊門の宰相の役」前掲「古市川柏莚」注中の「坊門の宰相」の箇注を参照のこと(わざと改行してある)。

・「篠塚の役」前掲「古市川柏莚」注中の「篠塚五郎」の箇所を参照のこと(わざと改行してある)。

・「大福帳とやらんを引合ふ狂言」前掲「古市川柏莚」注中の『大福帳を引き合うこと、平九郎に団十郎をあなどる振舞のあったことは』の箇所を参照のこと(わざと改行してある)。

・「大紋」元は鎧の下に着た直垂(ひたたれ)の一種。以下、ウィキの「大紋」から引用する(記号の一部を省略した)。『鎌倉時代頃から直垂に大きな文様を入れることが流行り、室町時代に入ってからは直垂と区別して大紋と呼ぶようになった。室町時代後期には紋を定位置に配し生地は麻として直垂に次ぐ礼装とされ』、『江戸時代になると江戸幕府により「五位以上の武家の礼装」と定められた。当時、一般の大名当主は五位に叙せられる慣例となっていたから、つまり大紋は大名の礼服となったのである。このころの大紋は上下同じ生地から調製されるが、袴は引きずるほど長くなり、大きめの家紋を背中と両胸、袖の後ろ側、袴の尻の部分、小さめの家紋を袴の前側に2カ所、合計10カ所に染め抜いた点が直垂や素襖との大きな違いである』とする。『現在では歌舞伎や時代劇の「勧進帳」で富樫泰家が、「忠臣蔵」松の廊下のシーンで浅野長矩が着用している姿を見ることが出来る。このように今では舞台衣装としてのみ存在している着物である』とあり、如何にも本話柄にぴったりな記載を、ウィキの執筆者の方、忝い。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芸道絶妙の演技の事

 

 ある年寄の語った話。

「……享保の初めの頃、山中平九郎という歌舞伎役者が御座ったが、公家悪の名人として知られ、今に「山中隈取」と言って、怨霊事その他に用いられておる隈取り方の考案者でも御座った。

 宝暦の頃まで市村座座元を勤めた名優市村羽左衛門の顔の塗り方は、皆、この平九郎から伝授されたもの、とも言われる。

 山中の描く公家悪の粧いは、これ、見るからに猛悪で御座って、見物の小児なんどは見るなり、泣き出した者もあった由。

 かの名人、後の市川栢莚団十郎が今だ若かりし頃、さる顔見世にて、山中は坊門の宰相清忠の役、栢莚が篠塚五郎の役にて大福帳か何かをを奪い合う芝居が御座ったが――栢莚が橋懸かりより出でて、舞台上の平九郎とはっしと向き合い、大福帳を引っぱり合う――

――と――

――見物の者、平九郎の演技ばかりに魅了され、その妙技を称嘆するばかり――

――栢莚には声をかける者ばかりか、目を向けている者とて一人として、これ御座らぬ――――栢莚自身も平九郎の演技にすっかり呑まれたかのように感じて御座ったれば……

 直ぐに演技や何やらさんざん悩んだ挙句、一つの工夫を思いついた。

 舞台で着る篠塚五郎の大紋を、とんでもなく大きく拵えた。

 次の舞台にて、栢莚、橋懸かりより出でるやいなや、足早に平九郎に駆け寄ったかと思うと――

――その大紋の巨大なる袖を以って――

……ふわん……

――と、平九郎の頭にすっぽり被せ――

――その大いなる袖にてすっかり平九郎の姿を隠しおおせた上――

――普段通りに――

――はっし!――

と睨んだ――。

見物の貴賤からは、どっと、栢莚、賞美の声起こり……やんや! やんや!……

……そんなことが御座いましたなあ……」

 

 

*   *   *

 

 

   又

 

 是も右柏莚弟子に市川門之助とやらいへる女形ありしが、柏莚十郎の役にて門之助大磯の虎の役をなしけるが、何か狂言の仕組にて、嫉妬にて十郎祐成(すけなり)を恨み胸ぐらをとりての愁歎の所有しが、狂言濟て柏莚門之助に申けるは、嫉妬のやつしあの通りにては情のうつるものにてなしといふ。門之助も色々工夫してかく其事をなしぬれど、いくへにも柏莚よしといわず。餘りの事に澤村訥子(とつし)長十郎といへる、柏莚同樣其頃上手といわれし役者へ尋ければ、夫は其筈なり、嫉妬の時胸ぐらをとり膝に喰付などするまねをなすならん。翌日の狂言には膝へ誠にくひ付、胸ぐらも其本心にてとり見べきと教へければ、忝由を述て翌日其通りになしけるに、果して見物も聲をかけ、殊の外樣子よかりしが、樂屋へ入て柏莚かの門之助に向ひ、今日のは殊の外よかりし。しかし其方が工夫にては出來まじ。誰が教へたると尋ける故、始はいなみしが、後は有の儘に語りければ、訥子ならでは其傳授の仕やうは爲るまじといひしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:古市川柏莚=二代目市川團十郎絡み歌舞伎芸道譚その二。

・「柏莚」二代目市川團十郎。前話注参照。

・「市川門之助」初代市川門之助(元禄4(1691)年~享保141729)年)市川柏莚=二代目市川団十郎の弟子。市川長之助・市川弁次郎という芸名を経、初代市川門之助を名乗った。容貌口跡共に優れ、「若衆方の開山・名人」と称された(「若衆方」とは美少年役及び専らそうした役を演じることを得意とする役者を言う)。時代物・世話物にも巧みで、丹前六法の演技や濡れ場、武道、音曲などを得意としたと言う。「丹前六法」とは「丹前振り」とも言い、歌舞伎の演技様式の一つ。丹前風呂(後述)に通う遊客・粋人の風俗を様式化した演技法で、特殊な手振り・足の踏み方を特徴とする多様なメソッドであったらしいが、現在は荒事の引っ込みの芸として知られる所謂「六方」(六法とも書く)にのみ名残があるだけで、その多様な型は伝承されないという。「丹前風呂」とは江戸初期に神田佐柄木(さえぎ)町堀丹後守屋敷前で営業していた銭湯の屋号。美麗な湯女(ゆな)を置いて客を誘い、かぶいた町奴や通人に人気で、大いに繁盛したが、風俗壊乱を理由に明暦3(1657)年に禁止された。

・「大磯の虎」虎御前(安元元(1175)年~寛元3(1245)年)のこと。相模国大磯の遊女。和歌にも優れ、容姿端麗であったという。「曾我物語」では曾我十郎祐成の愛人として登場し、曾我兄弟が仇討ちの本懐を遂げて世を去った後、兄弟の供養のために回国の尼僧となったと伝えられる。「曾我物語」のルーツは彼女によって語られたものとも言う。これは後、踊り巫女や瞽女などの女語りとして伝承され、やがて能や浄瑠璃の素材となり、曾我物と呼称する歌舞伎の人気狂言となった。特に柏莚の父初代市川團十郎が延宝4(1676)年正月に江戸中村座で「寿曾我対面」(ことぶきそがのたいめん)を初演し、この時の曽我五郎が大当りして後、正月興行の定番となった。以下、ウィキの「寿曽我対面」から引用して、曾我物の概略を押さえておきたい。まずは梗概。『源頼朝の重臣工藤祐経は富士の巻狩りの総奉行を仰せつけられることとなり、工藤の屋敷では大名や遊女大磯の虎、化粧坂の少将が祝いに駆け付けている。そこへ朝比奈三郎(小林朝比奈)が二人の若者を連れてくる。見れば、かつて工藤が討った河津三郎の忘れ形見、曽我十郎・五郎の兄弟であった。父の敵とはやる兄弟に朝比奈がなだめ、工藤は、巻狩りの身分証明書である狩場の切手を兄弟に与え双方再会を期して別れる』という江戸っ子好みの人情武辺譚に美化されている。先に記したように『享保期に江戸歌舞伎の正月興行に曽我狂言を行うしきたりができてから、最後の幕の「切狂言」に必ず演じられるようになった。それ以降初春を寿ぐ祝祭劇として、更にさまざまな演出が行われるようになり、一千種ともいわれる派生型ができた。現行の台本は河竹黙阿弥により整理され、明治36年(1903年)3月に上演されたものが行われている』。その配役は『座頭の工藤・和事の十郎・荒事の五郎・道化役の朝比奈・立女形の虎・若女形の少将・敵役の八幡・立役の近江・実事の鬼王と、歌舞伎の役どころがほとんど勢ぞろいし、視覚的にも音楽的にも様式美にあふれた一幕である。特に五郎は典型的な荒事役として知られる』。『江戸時代には毎年さまざまな演出が行われてきた。戸板康二によれば、「釣狐の型」や工藤が鳥目になったり、障子で琴を弾いたりするのがあった。桜田門外の変をとりこんだ「雪の対面」もあったという』から、いや、流石は江戸時代! かぶいたぶっ飛びの芝居ではある。岩波版長谷川氏注によれば本話柄の「曾我物」は「若緑勢曾我」(わかみどりいきおいそが)で享保3(1718)年に『門之助虎、団十郎十郎』で演じられたものとする。因みに、これは歌舞伎十八番の一として知られる「外郎売」(ういろううり)、そう、あの演劇に関わった者ならまずは発声練習でお目にかからでおくべきかの台詞が登場する芝居の、実は正式な原題名なのである。曾我十郎が、実在する小田原の「透頂香」(とうちんこう)通称「外郎」(ういろう)の売薬に身を窶して現れ、その由来や効能を立板に水するという絶技である。私の記憶では、二代目市川團十郎自身が生薬透頂香(現在・小田原ういろう本舗)を愛用、自ら進んでこの台詞を編み出して勝手に入れたものと聞いている(透頂香側からのオファーがあったわけではない)。早口言葉としてとして知られる「外郎売」には異同が多いが、ウィキの「外郎売」から引用してそろそろ本注を〆たい。改行は総て排除した。蛇足すると、私は発声練習の早口言葉は苦手だったから、これも恐怖ものであったが、『武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具』の部分は、実は大好き!

拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする。元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。帝へ参内の折から此の薬を深く込め置き、用ゆる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。依ってその名を帝より「透頂香」と賜る。即ち文字には頂き・透く・香と書いて透頂香と申す。只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういろう」と記せしは親方圓斎ばかり。もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさるるか、又は伊勢御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。御上りなれば右の方、御下りなれば左側、八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって、系図正しき薬で御座る。イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、されば一粒食べ掛けて、その気味合いを御目に掛けましょう。先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。魚・鳥・茸・麺類の食い合わせ、その他万病即効在る事神の如し。さて此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭ごまが裸足で逃げる。ヒョッと舌が廻り出すと矢も盾も堪らぬじゃ。そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。アワヤ喉、サタラナ舌にカ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重。開合爽やかに、アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ。一つへぎへぎ、へぎ干し・はじかみ、盆豆・盆米・盆牛蒡、摘蓼・摘豆・摘山椒。書写山の社僧正、小米の生噛み、小米の生噛み、こん小米のこ生噛み。繻子・緋繻子、繻子・繻珍。親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親嘉兵衛・子嘉兵衛、子嘉兵衛・親嘉兵衛。古栗の木の古切り口。雨合羽か番合羽か。貴様が脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆。尻革袴のしっ綻びを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ。河原撫子・野石竹。野良如来、野良如来、三野良如来に六野良如来。一寸先の御小仏に御蹴躓きゃるな、細溝にどじょにょろり。京の生鱈、奈良生真名鰹、ちょと四五貫目。御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ。茶立ちょ、青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。来るは来るは何が来る、高野の山の御柿小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。麦、塵、麦塵、三麦塵、合わせて麦塵、六麦塵。あの長押の長薙刀は誰が長薙刀ぞ。向こうの胡麻殻は荏の胡麻殻か真胡麻殻か、あれこそ本の真胡麻殻。がらぴぃがらぴぃ風車。起きゃがれ子法師、起きゃがれ小法師、昨夜も溢してまた溢した。たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一丁蛸。落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。中でも東寺の羅生門には、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃる、彼の頼光の膝元去らず。鮒・金柑・椎茸・定めて後段な、蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って小掬って小寄こせ。おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、灸を擦り剥く。三里ばかりか、藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。アレあの花を見て、御心を御和らぎやと言う、産子・這子に至るまで、此の外郎の御評判、御存じ無いとは申されまいまいつぶり、角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼杵擂鉢ばちばちぐわらぐわらぐわらと、羽目を外して今日御出での何れ様にも、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っ張り、東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って外郎はいらっしゃいませぬか。

・「十郎祐成」曾我祐成(すけなり 承安2(1172)年~建久4(1193)年)。河津祐泰の長男。曾我五郎時致(ときむね)の兄。安元2(1176)年祐成5歳の折り、父河津祐泰が伊豆国伊東荘を巡る所領争いによって同族工藤祐経に闇討ちにされた後、母の再嫁先であった相模国曾我荘領主曾我祐信を養父として育ち、曾我氏を称した。建久4(1193)年、将軍頼朝の富士の巻狩りの際、弟時致と共に仇敵工藤祐経を殺害し、本懐を遂げたが、彼は頼朝家臣仁田忠常に討たれ、弟時致は頼朝を襲撃するも捕縛された。本人から仔細を聞いた頼朝は助命を考えたが、祐経遺児の懇請により斬首された。

・「澤村訥子長十郎」初代沢村宗十郎(貞享2(1685)年~宝暦6(1756)年)京都の武家の出。初代「沢村長十郎」の門人で、江戸に下り写実的演技力で評判をとり、名優とされた。誤りやすいが後に「三世長十郎」を名乗っている。ただ、この「訥子」(とつし)というは俳号は通常、三代目澤村宗十郎(宝暦3(1753)年~享和元(1801)年)のことを指すので、誤りと思われる。それとも俳号も共有したか。前出「戲藝侮るべからざる事」に既出。そこでも同じ「澤村訥子長十郎」の表記である。現代語訳では、後文で俳号で呼称しているので、そのまま用いた。

・「膝に喰付」勿論、喰らい付くかのように縋りつくことを言う。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芸道絶妙の演技の事 その二

 

 市川栢莚二世團十郎の弟子に市川門之助という女形が御座った。

 さる顔見世にて、栢莚が曾我十郎、門之助が大磯の虎役を務めたのじゃが、さて、そこに妬心に胸焦がす虎が十郎を恨んで、その胸倉を摑んで愁嘆にくれる、という濡れ場が御座った。

 ところが初日の舞台がはね、楽屋へ戻るや、栢莚が門之助に一言、

「お前さんの嫉妬の演技――あのまんまじゃあ、十郎どころか、俺の情せぇ、微動だにしねぇな」――

 翌日から門之助、いろいろと工夫を凝らしてはみたものの、何日経っても、かの場面の演技に、栢莚、頑として肯んじては呉れぬ。

 策極まって、門之助、当時栢莚と並に称せられて御座った現し身の達人、後の沢村訥子長十郎という役者のもとを訪ね、教えを乞うた。

 訥子は一言、

「……それは、当たり前というものじゃ。……そなた、その嫉妬の折り、ただ……胸倉を摑んだ真似をしい、ただ……膝にとり縋る真似をして御座っしゃろう……一つ、明日の芝居にては、その膝に……がっし! と喰らいつくが如、縋りつき……その胸倉をも、本気で、しっか! と摑んでみられい――」

と教えた。門之助、何かが落ちたかのように、

「忝(かたじけな)き仰せ!」

と清々しい面持ちで礼を述べると、早々に辞去致いた。

 翌日の舞台――門之助、自然体にて訥子の教え通りに演じたところ――

――果たして見物の者からも驚嘆讃美の声がかかり――

――その日の内に殊の外の評判となって御座った。

 その日、楽屋へ戻るや、栢莚、門之助に向かい、

「……今日のは……殊の外、良かったじゃねえか!……だがよ、こいつぁ、お前さんの工夫じゃあ、編み出せる代物(しろもん)じゃあ、ねえな?……誰ぞに教わったか? あん?」

と糺した。門之助も己が面子もあれば、最初の内は否んで御座ったれど、流石に師匠の手前、遂にありのままに白状致いたところ、栢莚、

――ぱ~ん!――

と一打ち膝を打って、何度も首を縦に振りながら、

「……訥子ならでは……そんな伝授の仕方、誰にも出来んの!……」

と一人ごちで御座ったと。

白金豚

最近、行きつけのイタリアン・レストランや豚カツ屋で「白金豚」(はっきんとん)という名をよく耳にし、食いもした。美味い。先日、イーハトーボを訪れた時、農家のおばちゃんたちの経営するスーパーで、白金豚のベーコンをたんまり土産に買って、家でカリカリに焼いて早池峰山麓の地ワインの肴にして食った。とんでもなく美味かった。ふと、そのパッケージを見て、二度、びっくりした。この商標「白金豚」とは……宮澤賢治の「フランドン農学校の豚」の冒頭から採ったネーミングだった!

皆さんは知ってましたか?

〔冒頭部原稿何枚か破棄〕
以外の物質は、みなすべて、よくこれを摂取して、脂肪若くは蛋白質となし、その体内に蓄積す。」
 とこう書いてあったから、農学校の畜産の、助手や又小使などは金石でないものならばどんなものでも片っ端から、持って来てはふり出したのだ。
 尤もこれは豚の方では、それが生れつきなのだし、充分によくなれていたから、けしていやだとも思わなかった。却ってある夕方などは、殊に豚は自分の幸福を、感じて、天上に向いて感謝していた。というわけはその晩方、化学を習った一年生の、生徒が、自分の前に来ていかにも不思議そうにして、豚のからだを眺めて居た。豚の方でも時々は、あの小さなそら豆形の怒ったような眼をあげて、そちらをちらちら見ていたのだ。その生徒が云った。
「ずいぶん豚というものは、奇体なことになっている。水やスリッパや藁をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機態では豚なのだ。考えれば考える位、これは変になることだ。」
 豚はもちろん自分の名が、白金と並べられたのを聞いた。それから豚は、白金が、一匁三十円することを、よく知っていたものだから、自分のからだが二十貫で、いくらになるということも勘定がすぐ出来たのだ。豚はぴたっと耳を伏せ、眼を半分だけ閉じて、前肢をきくっと曲げながらその勘定をやったのだ。
 20×1000×30=600000 実に六十万円だ。六十万円といったならそのころのフランドンあたりでは、まあ第一流の紳士なのだ。いまだってそうかも知れない。さあ第一流の紳士だもの、豚がすっかり幸福を感じ、あの頭のかげの方の鮫によく似た大きな口を、にやにや曲げてよろこんだのも、けして無理とは云われない。
 ところが豚の幸福も、あまり永くは続かなかった。……

(以下は私の愛するHP「宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス」「フランドン農学校の豚」をお読みあれ。引用も同所のものを使わさせて頂いた)

なんで、私が東大に?!

1 このキャッチ・コピーを作った奴は頭が悪い。

1・1 「なんで」という疑問詞に加えて耳垂れと雨垂れを附した時、この予備校が徹頭徹尾、「自律性を養わない教育」を施して、それ故に自社が加工したに過ぎない「商品」を、自他共に最高学府として喧伝する「東大」なる場所に「遺棄」していることを意味している。

1・1・1 自律性を養わない教育は教育ではなく、ただの加工である。

1・1・2 東大は噂として最高学府ではあるが、個人にとって必ずしも最高学府ではない。

1・1・3 大学は総てが最高学府であるが、最上の学問を教えている訳ではない。

1・1・4 最低限度の学問をさえ教えていない大学の方が多い。

1・2 大学は最低限度の学問を教えなければならない責務を負わない。何故なら、大学とは「自律的に」学問をする場であるからである。

2 従って、冒頭のキャッチ・コピーを胸を張って偉そうに広告している予備校は重過失致死罪と特別背任罪の併合罪を構成している。

3 こんなキャッチ・コピーを胸を張って偉そうに広告している予備校は教育機関ではない。

3・1 東大・一橋・早慶もろもろ有名進学校(含高校受験)に多重受験をさせ、頭数を増やして自社「商品」の「高級性」を喧伝する有象無象の予備校は、その全部が上記「3」に等しい。

3・2 東大・一橋・早慶のみの合格者に一喜一憂している高等学校も上記「3」に等しい。

4 故に今の世に教育機関は殆んどと言っていいほど、ない。

4・1 今の世に教育はない。

5 あるべき定立的世界に教育は不要である。必要なのは自律的学問だけである。 

2010/03/23

耳嚢 巻之二 賤者又氣性ある事

「耳嚢 巻之二」に「賤者又氣性ある事」を収載した。

 賤者又氣性ある事

 寶暦の初迄在し戲場役者坂東薪水彦三郎といひしは、名人と人の評判せし者也。日蓮宗にて至て信心の者成しが、或時外より日蓮正筆の曼陀羅の由にて大金にかへ調ひしが、兼て歸依しぬる僧に見せて目利を賴ければ、かの僧得(とく)と見て、高金を出し姶へど是は正筆には無之、あからさまなる贋筆也。扨々費成る事し給ひぬ。然し調ひ候價にはならずとも、我等拂ひ遣すべしと有ければ、彦三郎有無の答に及ばず、傍成火鉢へ打入煙となしぬ。彼僧驚きて尋ければ、いやとよ正眞と思ひて調しに、似せ物なれば貯へて益なし。此末貯へ置ば、今御身の仰の通、價をへらしなば調る人も有なん。左ありては我贋ものに欺れ又人をも欺んやと答えへける。賤敷河原者ながら、上手名人と人のいふも理り也と、或る人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:前話主人公俳諧宗匠雲桂は「寶暦の頃迄ありし」男、本話主人公歌舞伎役者坂東薪水彦三郎は「寶暦の初迄在し」男で連関。

・「寶暦の初」宝暦年間は西暦1751年~1764年。以下に見る通り、初代坂東彦三郎は寛延4年1月1日に逝去しているのであるが、寛延4年は1027日(グレゴリオ暦で17511214日)に宝暦に改元されていることから、このような謂いとなったものであろう。

・「戲場役者」歌舞伎役者。

・「坂東薪水彦三郎」初代坂東彦三郎(元禄6(1693)年~寛延4(1751)年)。薪水は俳名。ウィキの「坂東彦三郎(初代)」によれば、『大坂の立役篠塚次郎左衛門の甥とも山城国伏見の武士の子とも、また相模国足柄下郡江浦の生まれともいわれ』、『最初江戸で篠塚菊松の名で修行する。宝永311 (1706) に大坂篠塚次郎左衛門座で坂東菊松を名乗り、角前髪で拍子事を演じたのが初舞台。翌年11月坂東彦三郎と改める。宝永8年11月京都へ上り、同地に留まること2年間、この間所作事、武道、やつし事などで好評を得て京坂で活躍』、『1729年江戸に下り初代坂東又太郎の門に入る。174011月江戸に帰り、江戸の大立物として大御所の二代目市川團十郎、初代澤村宗十郎、若手の初代大谷廣次と共に当時の四天王といわれた』とある。岩波版長谷川氏注には『実事・武道を得意とし、実悪を兼ねた』とある。「実事」は「じつごと」と読み、立役(たちやく:主人公クラスの善人の男役。)の中でも、常識を供えたスマートな役柄を言い、対する「実悪」は所謂、悪玉の敵役(かたきやく)の中でもトップ・クラスの、国盗りや主家横領を企む極悪人の役柄を言う。

・「日蓮正筆の曼陀羅」とは一般に日蓮の法華曼荼羅呼ばれる法華曼荼羅のこと。ウィキの「法華曼荼羅」によれば『法華曼荼羅とは、法華経の世界を図、梵字、漢字などで表した曼荼羅の一種』で、天台宗・真言宗の密教に於ける法華曼荼羅は『法華経前半十四品(迹門)に登場する菩薩などを表したもので』あるが、ここに示されたものは日蓮宗独特のもので、『日蓮が末法の時代に対応するべく、法華経後半十四品(本門)に登場する、如来、菩薩、明王、天などを漢字や梵字で書き表した文字曼荼羅である。中央の題目から長く延びた線を引く特徴から、髭曼荼羅とも呼ばれている。また、一部には文字でなく画像で表したものもある』。『十界の諸仏・諸神を配置していることから十界曼荼羅(日蓮奠定十界曼荼羅・宗祖奠定十界曼荼羅)などとも称され』、『1271年(文永8年)に書いたものが最初で、日蓮直筆は127幅余が現存する』とある。

・「得(とく)」は底本のルビ。

・「河原者」河原乞食。本来は日本古来の被差別民への卑称であるが、この場合は芸能者・役者の蔑称として限定的に用いられている。明白な職業差別用語である。以下、ウィキの「河原者」より引用する(一部の記号を変更し、改行を省略した)。『平安時代の「左経記」長和5年(1016年)正月2日の記述から、当時、死んだ牛の皮革を剥ぐ「河原人」のいたことが知られる。これが史料上の初出である。室町時代に入ると「河原者」の多様な活動が記録に表れるようになる。彼らの生業は屠畜や皮革加工で、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれた。それらの地域に居住した理由は、河原が無税だったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説とがある。ちなみに、当時は屠畜業者と皮革業者は未分化であった。それ以外にも、河原者は井戸掘り、芸能、運搬業、行商、造園業などにも従事していた。河原者の中には田畑を所有し、農耕を行った例もある。河原者の中で最も著名なのが、室町幕府の八代将軍足利義政に仕えた庭師の善阿弥で、銀閣寺の庭園は彼の子と孫による作品である。その他、京都の中世以降の石庭の多くは河原者(御庭者)の作である。河原者は、穢多や清目と称される事もあった。ここでいう穢多は江戸時代のそれとは異なる。近世初頭、豊臣秀吉、徳川政権によって固定的な被差別身分が編成された際に、河原者はその中に組み込まれたと言われる。近世において「河原者」「河原乞食」と呼ばれたのは主に芸能関係者である(近代以降も「河原乞食」と賤しんで呼ぶことは続いた)。中世の被差別民は一般的に非人と称されたが、河原者がその中に含まれるかどうかについて、論争が行われている。近年、中世の河原者の居住地と、近世の被差別民の居住地が重なる例が京都や奈良を中心に報告され、部落の起源論争の大きな焦点となっている。これを理由に、部落の中世起源説を支持する人々もいる』。

■やぶちゃん現代語訳

 賤しい者にも優れた見識ある事

 宝暦元年頃まで存命していた板東薪水彦三郎は名人の誉れ高い歌舞伎役者であった。

 彼の宗旨は日蓮宗で、これまた、熱心な信者であったが、ある時、日蓮真筆の曼荼羅なる代物を大金を叩いて手に入れ、かねてより懇意に致いて御座った宗僧に見せて、目利きを頼んだ。

 その僧、凝っと見つめて御座ったが、

「……大金をお出しになられたそうで御座るが……遺憾乍ら、これは真筆にては、これなく……見るもまごうように筆遣いを似せただけの贋作にて御座る。……さてさて、勿体ないことをなさったものじゃ……いや、されど、誠によく似せて御座る品にて、これ自体は、真面目で立派な曼荼羅に仕上がって御座れば……勿論、貴殿がお買い上げになられた額というわけには参らねど、相応な金額にて、一つ拙僧が買い上げて進ぜましょう程に……」

と答えた。

 彦三郎はそれに応えることなく、黙って傍らの火鉢にその曼荼羅を投げ入れた。

 曼荼羅は勢いよく白煙を上げて燃え上がると、みるみるうちに白い灰となってしまった。

 かの僧、余りの仕儀に聊か驚いて、彦三郎に訳を尋ねたところ、

「いや――真筆と思えばこそ買い求めたものにて、偽物(ぎぶつ)となれば持っておっても無益。――万一、このまま所持致いておらば、今正に御身が仰せられた通り、値を減ずれば買わんとせし人も御座ろう。――そうなっては、我ら、偽物に欺かれしのみならず、また、その御仁をも欺くことに他ならず――。」

と答えたという。

「……賤しき河原者ながら、芸道上手歌舞伎名人と人の呼ぶも、これ、理(ことわり)あることにて御座る。」

と、ある人が語って御座る。

2010/03/22

木下君へ――極私的通信

今日は楽しい山をありがとう! この4年間の山の思い出が走馬燈のように蘇ってきた! また、今日は参加出来なかった者たちも皆で、こんな風に出来たら、――そうだ、僕の憂鬱はしっかり完成吹っ飛ぶよ!

……時に……君は僕のブログを仔細に丁寧に読み込んでいますね……今日、君が僕に指摘し、僕が意味深長に示したこと……僕が僕のブログに秘かにしくんだ「あの」こと……「あれ」は、私が死んだ後でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中に仕舞つて置いて下さい――

耳嚢 巻之二 臨死不死運の事

「耳嚢 巻之二」に「臨死不死運の事」を収載した。

本未明これより、多分、「最後の」山行に赴く。

僕はもう、世間の人々が「人生の山」なんどと呼ばうものを、わざわざ越えることは――多分、ない――。

 臨死不死運の事

 俳諧の宗匠をして寶暦の頃迄ありし雲桂といへる者の俗姓を尋るに、武家の次男にて放蕩の質にて、新吉原町へ通ひ、深く申しかわせし妓女のありしが、揚代につかへ誠に二度曲輪へも立越がたき程の事なりし故、右遊女へも其譯かたり、遊女も馴染今更別れんも便なしと歎きけるが、兎角相對死をなさんと覺悟を極め、右女を差殺我も死んとせしに、人音に驚きて暫く猶豫の内、表の入口の潛り戸を明る音しければ、此所にて死なず共、一先此所を立出宿にて死せば外聞もあしからずと、支度して表へ立出、程なく大門(おほもん)を出て、堀より船にのり兩國迄來りしが、さるにても數年かたらひし女を殺し、少しも跡に殘らんはいかゞと、船端に立あがり入水せんとせしを、船頭見付て大きに驚き、其儘舟のもやひにて船ばりに結付、柳橋より小石川岸岐(がんぎ)と言る河岸迄飛がごとくに漕付て、我等が舟にて入水ありては我身の難儀也、此所よりあがりて、其後は死ぬとも活るとも勝手になし給へと、言捨て舟漕出しぬ。雲桂も詮方なく、宿へ歸り死せんとせしを、一族など取鎭め、暫くは亂心也とて人も附居たりしゆへいかんとも詮方なし。日數かさなれば其身も死ぬ氣も失て、果は俳諧の宗匠となり渡世を送りけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。死のうにも死ねない落語のような話しながら、私には死んだ遊女が哀れで、その上、こういう奴が俳諧の宗匠ときた日にゃ、不愉快極まりない。前の話と反対に、数少ない「耳嚢」の中でも何やらん、好きになれない話柄の一つである。

・「臨死不死運の事」「死に臨みて死せざる運の事」と読む。

・「寶暦」西暦1751年~1764年。

・「雲桂」諸注不詳。ネット検索でも掛からない。

・「俗姓」俳諧宗匠は僧形を装ったことからこのように言ったものであろう。

・「新吉原町」浅草寺裏手の千束村日本堤にあった吉原遊廓のこと。元の吉原遊郭は葺屋町(現在の中央区堀留2丁目附近)から明暦3(1657)年に浅草の北、に移転して来た。

・「大門」新吉原の唯一の入り口。これは「おおもん」で「だいもん」とは読まない。

・「船」猪牙舟(ちょきぶね)であろう。船首が特徴的に尖って全体にスマートな造りで、船速も驚くほど速かった。吉原通いは猪牙舟で、というのが通であった。

・「もやひ」舫(もや)い綱。舟を繋ぐ綱。

・「柳橋」神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一番目の橋。新吉原へ向かうには、ここから舟で漕ぎ出した。現在の中央区と台東区に跨る。

・「小石川岸岐」底本にはこの右に『(專經閣本「小石川市兵衞がん木」』(丸括弧の後ろが落ちている)とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「小石川市兵衞岸岐」とあり、美事折衷なればこれを採用。岩波版長谷川氏注によれば『小石川御門対岸(北岸)辺の河岸。文京区後楽園南方』と同定する。「岸岐」とは河岸や船着場にある乗降用の階段のこと。

■やぶちゃん現代語訳

 死を決しながら遂に死ねなかった運命を持った男についての事

 俳諧の宗匠として宝暦の辺りまで存命していた雲桂という者、元を尋ぬるに、武家の次男であったものが、放蕩者にて新吉原へ入れ込み、深く契りを交わした妓女があったのだが、そのうち、揚げ代に事欠く様(ざま)となって、遂に二度と廓へ立ち入ることも出来難くなってしまうという仕儀に陥った。そこで、かの妓女へもその事実を打ち明けたところ、彼女もすっかり彼を頼りにして御座ったれば、

「……今更……お別れするは、辛うありんす……」

と泣きすがる……かくなる上は最早相対死に成さんと……覚悟を決め……女を刺し殺し……己(おのれ)も死なんせしが……深夜にも関わらず廊下を慌しく走る人の気配に驚き……息を潜めておったのだが、そのうちに夜が明け、表の潜り戸を開ける音も聞こえてきたので、

「……何も、ここで死なんでもよいじゃ……あいつももうこと切れて、冷とうなった……一先ず、儂にはもう縁のない、こんな廓なんぞは後にして……そうじゃ、自分の屋敷で死のう……されば……外聞も悪うはないわ……」

と身支度をして何食わぬ顔にて表へ抜け、大門を足早に立ち出でると、目の前の堀から猪牙舟(ちょき)に飛び乗り、一気に両国まで下って行く。

 ……その舟中にて……

『……それにしても……』

『……それにしても……数年の間、契りを交わした可愛い女を刺し殺した上は……このように! 少しでも後に生き残っておるとは! 堪えがたきこと!……』

と思いが込み上げて参り、矢庭にぬっと船端に立ち上がり、あわや入水せんと致いたところ、これを見た船頭、大いに驚き、瞬く間に舫(もや)い綱でもって彼を縛り上げると、そのまんま、柳橋から小石川市兵衛岸岐まで飛ぶように漕ぎ着け、乱暴に繩を解くや、どんと岸岐に突き倒し、

「おいらの舟から入水された日にゃあ、とんだ迷惑でぇ! ここから上がった後は、死ぬも生きるも、勝手にしろぃ!」

と言い捨てて、さっさと舟を漕ぎ去って行った。

 彼は如何ともし難く、呆(ほお)けたようなって屋敷へ立ち帰ると、今度は自室にて死なんと試みたたが――この数日、如何にも不審なる様子を見てとって御座った――一族の者どもに見咎められ、叱咤甘言で取り鎮め、暫くの間は内々に「乱心致いた」とて軟禁の上、常に傍らに人が附いて監視怠らざれば如何とも詮方なく、そうこうしているうちに日数(ひかず)も重なれば、死ぬ気のその身も――死ぬ気のやる気も――すっかりしっかり失せて御座った。

 ――それからは何だ神田と御座る内……

  ――気がつきゃ五七俳諧の……

   ――五万と御座る宗匠と……

    ――なって渡世の私(わたし)舟……

2010/03/21

スクリプターよ! 何をしよっとか! ―― 坂本竜馬より

風呂から上がったらNHKの大河ドラマを妻がつけっぱなしでカウチで居眠りしと――いつものことじゃけ よか――じゃがの――ふと見たら――香川照之(岩崎弥太郎らしいの)が山道走るっとるが――その髷、見た――箒のように美事に開いとよ――その演出は、よか――じゃけんど、2秒後に「そのまま」家に走り込んだっち香川の髷は、よ!――これ綺麗に丸まっと!――美しう丸まっと!――おい! これ、最低じゃろが!――スクリプターよ! 何をしよっとか!――これじゃ! あん?――日本の夜明けは、真っ暗ぜよ!

青春の死神 徐京植

昨年、ネット上の靉光の評を縦覧していた際、徐京植「青春の死神」という著作から引用された「白い上衣の自画像」の評が眼に止まった。

『がっしりとした肩幅をもち、苦悩をうちに秘めて屹立している。だが、斜め上方に向けられたその眼は眩しげに細められていて、何かを見つめているというより、もう何も見えないと言いたげである。靉光はただ不器用だったのではない。本質的に、戦争と共存することのできない人間だった。』

という一文に激しく共鳴した。本作については、不安定なシュールレアリスム的手法や画想に靉光が訣別した確かな証拠みたようなアカデミックな評論家の言に、激しい不快を感じたことが蘇って、清々しかった。

そこで本書

「青春の死神 記憶のなかの20世紀絵画」徐京植(ソ・キョンシク)

2001年毎日新聞社刊 2200円

を入手、昨年暮れに読んだ。手にした時の正直な印象は、31人もの強烈に特異な画家たちを取り上げて語るというには、この本、如何にも薄いぞ、という思いであった。

しかも、30人中、僕の知らない作家は1人――少し、意地悪い視線で本を開いたが、見開きカラー挿絵で ガツン! ときた。その知らない1人、

アルベール・マルケ「グラン=ゾーギュスタン河岸、パリ」

の孤独と静謐と誠意に満ちたその絵に、やられた。

徐京植――ソ・キョンシク氏について、以下、ウィキによれば『徐 京植(ソ・キョンシク、1951年 - )は、京都市生まれの在日朝鮮人作家、文学者。東京経済大学現代法学部准教授。兄に立命館大学教授の徐勝、人権運動家の徐俊植がいる。本人は4人兄弟の末っ子。在日朝鮮人の父母のもと、京都市に生まれる。早稲田大学在学中の1971年、二人の兄が留学中のソウルで国家保安法違反容疑で逮捕される(学園浸透スパイ事件)。すぐさま逮捕の不当性を訴えて母や支援者とともに救援活動を展開。1974年に早稲田大学第一文学部仏文学科を卒業するも、依然兄弟は獄中にあり、自らも進学を諦めて兄の解放と韓国民主化運動のため活動を継続する。この活動中に母を亡くす。投獄から17年目の1988年に徐俊植が釈放され、1990年には徐勝も釈放。長期にわたる救援活動の経験は、その後の思索と文筆活動へとつながっていく。この頃より都内の大学などで「人権」や「マイノリティ」をテーマとした講義を持っている。2000年、現在の東京経済大学助教授に就任。作家としての活動は多岐にわたるが、その原点は兄2人の救出活動の経験と共に、在日朝鮮人としての自身のアイデンティティにあるとされる。自叙伝『子どもの涙 - ある在日朝鮮人の読書遍歴』(1995年)は「日本エッセイストクラブ賞」を受賞。以後、ディアスポラ(離散者・難民)をめぐる諸問題に多角的考察を試みる著作活動を展開。ほぼ毎年何らかの著作を上梓し続けるなど、精力的な活動を行っている』とある。

本篇は、こうした氏の政治的現実体験を絡めながら――いや、その体験を軸に作家たちが、その軸線上に立ち現れてくる――絵が、ではない。絵を透かして、その作家自身の実像が、作家を飲み込んだ歴史の血塗られた現存在が、である。

ムンクの「生命のダンス」に始まり、ピカソ・クリムト・コルヴィッツ・マルケ・ルオー・コリント・シャガール・カンディンスキー・キルヒナー・ココシュカ・シーレ・グロス・関根正二・モディリアニ・クレー・池田遙邨・佐伯祐三・マレーヴィッチ・シャーン・リベラ・ディックス・ツィーグラー(この作家をご存知の方は少ないだろう。ヒトラー政権下のナチス・ドイツの御用画家にして帝国美術院総裁であった男である。この忌まわしき彼の章をソ氏は「総統のポルノグラフィー」と皮肉っている。僕も彼の「四元素」の現物を直に見たが、言い得て妙である)・野田英夫・長谷川利行・スーチン・ノルデ・ヌスバウム(僕はこのアウシュヴィッツに死んだこの人の故郷オスナブリュックの美術館にだけは行きたくてたまらない。行き止まりの美術館に)そして靉光、最後は藤田嗣治の戦争画を指弾して、現代日本への痛烈な批判で幕を閉じる。

絵画の成立した政治的な背景、そうした読みに生理的嫌悪を持つ、絵画をマスターベーションとされる方には、全く以って不向きである。

少なくとも僕にとっては、最後には読み終わるのが惜しくて、毎朝の行きの通勤電車、それも東戸塚を過ぎてから開く、一章を過ぎずという拘束までかけた程に、気に入った昨年の摑みの一冊であった。

……実は本ブログに「Art」というカテゴリを創りたくなったのも、この一冊が動機であったことを告解しておく。

ともかくも、思いを書きたかった「吉屋信子」とこの二冊への、昨年の感動した僕への義理、これは一応、果たせた。

吉屋信子 生霊

去年の暮に読んだものながら、何となく記憶に残った一冊が、ちくま文庫の

「文豪怪談傑作選 吉屋信子集 生霊」(東峰夫編)

である。この一冊総てが、奇妙な味わいの怪談である。僕は恐らくこの一群に相当するような怪談を他に殆んど知らない。

――断っておくが、それほど稀有の傑作だ、というのではない。神経症の症例や実話譚としてなら、このような内容はごまんと読んできた。しかし「小説」として構築されているという点、僕はこのようなテイストの「怪奇小説」を今まで殆んど知らない、という奇妙な褒め言葉なのである――

……小説全13篇(それ以外に随筆4篇を附す)何も起こらぬ……せいぜい「音」がしたかのような気がする……程度である……紫式部ではないが「心の鬼」の方が恐ろしいと言ってしまえば陳腐である……神経症的関係妄想の陳腐に堕さない程度に怪奇「小説」の香気がするのである……

特に冒頭を飾る「生霊」がいい。これは怪奇「小説」であるが、読者は一切の怪奇に遭遇しない。というより読者には怪奇でない理由が最初から暴かれている。にも拘らず、それが必ず陥るはずの滑稽に堕していない。

僕は作品の後半、高原のバンガローを去る「生霊」である主人公菊治が、世話になった爺さんのいる家の方に向かって『蔭ながら遠くから手を振る恰好をして急ぎ足に通り過ぎて――菊治はやがて朝霧の中にその姿を没した』というシーンで、思わず目頭が熱くさえなった――たいして深い感傷のシーンとは言えないないのに――我乍ら、何やらん、不思議な気がした――

騙されたと思って――御一読あれ。

言い忘れた。下の表紙絵は金井田英津子と言う方のもの――「生霊」のワン・シーンを彼女がインスパイアしたものだ――素晴らしい! 僕はこの絵で、確かに金井田さんのファンになった。

Iki

この文豪怪談傑作選シリーズは、昨今では手軽には読めなくなった掌編を渉猟してなかなか見逃せない(と言っても既に全巻刊行済であるが)。

僕が所持しない作品が含まれていることから、吉屋以外に「室生犀星集」「三島由紀夫集」「特別篇 百物語怪談会」「特別篇 文藝怪談実話」の四冊を求めたが、今まで読みたいと思いながら、読めなかった数篇をまるでオーダー・カットしてくれた生ハムように編集されている点、如何にも嬉しかった。東氏はかの『幻想文学』の編集者でもあったから、さもありなん、である。

但し、相対的に言えば、「特別篇 文藝怪談実話」の一篇は資料的価値として買い求めるもので、内容としては最も退屈であった(既に知っている話柄か、その変形譚が2/3を越えていたことも仇となったかも知れぬ)。これは編者の東氏のせいではない。

小説家の書いた「実録」怪談ぐらい、素材が思いの外陳腐で、セットされたクライマックスこれ見よがしで、クソ「小説」臭い――即ち「ありそうな作り物」臭い――従って意地悪く眉に唾する仕草を「如何にも」という感じで読み終わってからせざるを得ぬほど臭いものはない――という命題が真であることを実感させる作品群である。

但し、この中に川端康成の「香の樹(『海の火祭』より)」という作品が含まれている。澁澤龍彦が、物陰でせせら笑いそうな作品(但し、書かれたている「事実事例」は面白い)であるが――これ、どこが文藝怪談「実話」なのか、僕には分からない。元の「海の火祭」なる作品を知らないから如何とも言い難いが(これが「実話」であることを東氏には是非解説して欲しかった。私は読み始めたとたんに、東氏の解説にそうした一条を急いで探したほど、本篇の中にあって極めて奇異なる印象である)、それとも僕が馬鹿なのか?……これは逆立ちしても小説にしか見えないのだが?……あそれとも……この疑問そのものが怪談「実話」なのか?…… 

耳嚢 巻之二 妖術勇気に不勝事

「耳嚢 巻之二」に「妖術勇気に不勝事」を収載した。この話柄、好き!

 妖術勇気に不勝事 此一條鳩巣逸話を剽竊せる也

 上州高崎の人、當時武陽にありて語りけるは、或時怪僧壹人高崎の城下に來りて、色々奇妙の事などいたし呪(まじなひ)をなしけるゆへ、町家の者共信仰なしけるが、家中の者共も右の出家を呼て尊崇する者あり。雨中の徒然なる儘に、若侍四五輩集りて錢又は域砲の玉などを握りて居候を、右出家差向ひて取之に、其防成がたし。彼出家申けるは、我等右の手の中の品を取候間、右の手に小刀を持て我等が取候處の手を突き申さるべしとて、幾度か其業なしけるに、出家の手を突く事はならずして、兎角に握りしものをとられぬ。然るに同家中にて年ぱい成者其席へ來りて、手の内の物を人にとらるゝといふ不埒の事やある。われらが握りし品を取可申迚、左の手にて握り、右の手に小刀を持差出しけるに、彼僧さらば取り候とて立向ひしが、何分御身の掌中の品はとり侯事成難しと答ふ。さも有べし、武士の掌中の物を人にとらるゝなどいふては濟ぬ事也。かゝる戲れはせざるものなりとて其座を立て歸りぬ。跡にて若き者ども、何故にあの者の掌中の品はとられざるやと尋ければ、出家答ていふ。各が我等がとらんとする手を小刀にて突んとし給ふ故とらるゝ事なれ。彼人は其身の握りし拳ともに突んとし給ふゆへとらるべきやうなしといひて、高崎を立さりぬと人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:神道の真実(まこと)の霊験に対して、怪僧の幻術で連関。前話の謂いを用いるならば、これこそ「神變不思議をかたり奇怪の事をなす」ものであり、根岸が「其怪妄を親しき兒女の戲れ」と断ずる類のものである。

・「妖術勇気に不勝事」の「気」はママ。

・「此一條鳩巣逸話を剽竊せる也」章題の下にポイント落ちで附されている。これは狩野本章題下に書き込まれた後人の附加文であって根岸の言葉ではない。「鳩巣逸話」は「鳩巣小説」の別名。「剽竊」は「剽窃」と同音同義。室鳩巣(むろきゅうそう 万治元(1658)年~享保191734)年) は新井白石と並び称せられる儒学者。京都で儒学者木下順庵(元和7(1621)年~元禄111699)年:金沢藩主前田利常に仕え、後に幕府儒官・徳川綱吉侍講となる。)に師事し、同門の新井白石の推挙によって幕府儒官となった。合理的な人材登用制度である足高の制を設けるなど、享保の改革のブレーンとなった。後、吉宗及び家重二代に渡って侍講となった。赤穂事件の際には「義人録」を著して、主従の義を重んじた浪士を讃えたことでも知られる。底本鈴木氏注によれば、本話柄は室鳩巣が著わした随筆「鳩巣小説」(続史籍収覧所収)の三巻の下巻に、大久保彦左衛門の逸話として記されるという。『狐つきの老婆が侍たちの手巾を握らせ、取れと声をかけさせる拍子に、目に見えぬうちに抜取って見せるので大評判となったが、彦左衛門に対してはこの老婆も最初から手が出なかった。それは手拭を取ろうとすれば腕を斬落そうという勢だったからとてもできなかったと、老婆は後で語ったとある』とする。但し、鈴木氏も「剽竊うんぬんの語は当たらない」と付言されているように、私も根岸が確信犯で剽窃したものではないと考える。このような話柄が所と人を変えて、都市伝説として蘇えったものと考えるべきものであろう。根岸が「鳩巣小説」を読んでいなかった、読んでいたが内容が同一であったことを失念していた――いや、それこそこれは「鳩巣小説」の話柄の剽窃であることを十分承知していながら、その話柄の面白さから敢えて再生都市伝説としてここに採用したのではないかとさえ私は思うのである。何故なら、「耳嚢」の「ここ」に挿入する話柄として、これは如何にももってこいのものであり、更に武人譚としても極めて魅力的な話柄――根岸好みである。「鳩巣小説」の原文を読んでいないので明確には言えないが、鈴木氏の梗概と比して、こちらの方がシチュエーションとしてはよく出来ている感触さえ受ける――だからである。私は「鳩巣小説」は所持しない。何時か、「剽窃」原話の採録をしたいとは思っている。なお、この一条は批評注であるから、現代語訳では省略した。

・「高崎の城下」高崎藩。大河内長沢松平家。譜代大名8万2000石。本話柄前後の時系列から天明年間であったとすれば、藩主は第5代松平輝和(てるやす 寛延31750)年~寛政12年(1800)年)。天明元(1781)年に家督を相続している。先代ならば父輝高(享保101725)年~天明元(1781)年)。

■やぶちゃん現代語訳

 妖術は勇気に勝てぬという事

 上州高崎の人が、江戸に出て来た折りに語った話で御座る。

 ある時、一人の怪僧がぶらりと高崎の御城下に現われ、色々不思議なる幻術やら呪(まじな)いを致いて見せた故、あっという間に、町屋の者ども雲霞の如く、この怪僧の足下に跪き、御家中の者の中にさえ、この出家を呼び迎えて軽率にも尊崇致す者が現われた。

 そんなある雨の日のこと、宿直(とのい)の退屈なるにまかせて、若侍四、五人が集まった上、この僧を呼び出だいて、例の幻術の仕儀を乞うた。

 その幻術なるもの――

――若侍どもが、銭又は鉄砲の弾丸(たま)等を片手にぎゅっと握り締めておるのを、差し向かいに座って御座るこの僧が、その掌中の物を奪い取るという単純な技であった――。

……ところが、誰一人として、奪い取られるのを防ぐことが出来ぬ――

……何やらん、しゅるるっと、僧の手が触れたかと思うと――一瞬にして銭や弾丸は彼らの面前に広げられた僧の掌上に――

――ちょこんと、鎮座しておる――

 更にその僧、

「……さても次は、握られた同じ手に、一緒に小刀(さすが)をお持ちになれれよ……そう、そのように……さても、では今度は、拙僧が貴殿らの右手に握って御座る銭や鉄砲の弾を掠め取らんとする際、その同じく一緒に握って御座る小刀を以って、奪わんとする拙僧の手を手加減なく突いてご覧になるがよい。」

と言うので、試してみる――

……と……

……同じように銭や弾丸は彼らの面前に広げられた僧の掌上に――

――ちょこんと、鎮座しておる――

……この若侍ども、余りのことに、武士なれば流石に、真剣になって何度も試してみたのじゃが――

……僧の手に一創の掠り傷を与えることも出来ずに、やはり――

――銭弾丸は僧の手に――

――ちょこんと、鎮座致いておる――

 しかるに、そこへ偶々家中の者の中でも相当に年輩の、一人の侍がやって来て、

「掌中の玉を人に取らるるなんどという不埒なること、あってはならぬことじゃ――御坊――一つ、拙者が握った品を取ってみらるるがよい――」

そう言うと、その侍、

――左の手に品を握り、右手に小刀を執って、左手を徐ろに差し出した――

かの僧曰く、

「……さらば、戴きまするぞ……」

と言って差し向かいに座った――

――ところが――

――僧、何時までたっても手を出さぬ――

――いや、それどころか、全身を堅くこわばらせた儘、微動だにせぬ――

……暫く致いて、

「……いや……どうも……何分、御身の掌中の物……これ、取ること、叶いませぬ……」

と俯いたまま呟いた。

 すると侍は穏やかに、

「そうで御座ろう。当然のことじゃ。武士の掌中のもの、これを他人に取られたとあっては、ただでは済まぬことじゃて。このような戯れ、やってはならぬ部類のこと、じゃの――。」

と言って、その場を立つ去った。

 後に残った若侍どもが、

「どうして……彼の掌中の品、取れなんだのじゃ?」

と訊ねたところ、僧は聊か恥じ入った様子で答えた。

「……方々は……我らが取らんとする、その拙僧が手を、小刀で突こうとせられた……故、拙僧に玉を取られて御座ったのじゃ……なれど、あの御仁は……その御自身の拳諸共に、拙者の手を串刺しにせんとの御覚悟……とても取るべき手だてなんど、ない……」

と告げて、そのまま高崎を後に致いたという――ある人の、確かに語って御座った話。

2010/03/20

愛さんへ――極私的通信

「こころの電話」相談員認定合格の御手紙、今、手にしました。おめでとう。

自分でもいろいろなハンディを抱えながら、ここまで辿り着いた貴女に心から拍手を送ります。

人の痛みが分かるためには、自分がその痛みを共有していて初めて一緒のスタートに立てるのですから、貴女は誰より相応しいカウンセラーです。

僕と同じく、メールは嫌いな貴女でしたから、まずはこの公の場を借りて御祝します。

本当に、おめでとう! 愛ちゃん!

君の好きな「星の王子さま」も、あの星で、マフラーを振りながら、喜んでいるよ!

片山廣子訳 アイルランド伝説 カッパのクー

芥川龍之介の「河童」への密やかなオードである片山廣子のアイルランド伝説集訳から「カッパのクー」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。本年2月になって入手し、なんとしてもテクスト化したかった作品である。本年の最初の目玉と言っても過言ではない。

作品の内容は淡々としたものである。コーダもアイルランドの垂直の断崖のように、すっぱりと断たれる。

――が――

……私はこのジャック・ドハルテに、ジューディ・リーガンに、そしてクーマラに……「影」を見る……それは勿論、ユングが示すところの「トリック・スター」でもあるのに違いないのだが……それはジャックであり、ジューディであり、クーマラであり、 「聖者の泉」のマーチンであり、メリーであり、「ゴドーを待ちながら」のウラジミールであり、エストラゴンであり、そして「河童」第二十三号であり、漁師の河童バックであり、霊媒師の口を借りるトックであり、芥川であり、廣子であるような多層的な「影」なのである……

耳嚢 巻之二 神道不思議の事

「耳嚢 巻之二」に「神道不思議の事」を収載した。

 神道不思議の事

 凡そ世の中に巫女神人(じにん)など神變不思議をかたり奇怪の事をなすなどあり。予其怪妄を親しき鬼女の戲れと思ふ事のみなりし。安永の酉年より同亥年迄、日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤せしに、日光山御宮の御威光奇特(きどく)は申も恐れなれど、正(まさに)外遷宮(げせんぐう)の夜は今まで打曇りし空もはれ渡り、吹風枝を鳴らさぬ有樣、申もおろかながら、是は誠に宇宙を平均なし給ひ、御武德千歳の今も津々浦々迄其澤(たく)を蒙らざるものもなく、萬人渇仰の御所德なれば申も愚かならん。其外日光は深山幽谷たり、魔魅の住所迚(とて)是迄色々の奇怪を申習しぬれど、予三年の在勤の内聊怪しき事も聞かず。或日新宮の御湯立(ゆだて)とて、本坊御留守居の寺院より案内にて、右拜殿の棧敷へ至り、松下隠州丸毛一學依田五郎左衞門など一同見物なしけるに、湯立の釜三つ鼎(かなへ)を並べ熱湯玉をほとばしる、神人白き單物(ひとえ)を着し風折(かざをり)烏帽子にて白きさしぬきをして、神樂(かぐら)に合せ舞曲を盡す。右舞曲神樂のさまいかにも古雅にして、今江戸表などにて舞はやすの類ひにあらず。さて熱湯に向ひ何か祈念して幣帛(へいはく)をとりて、右柄をもつて湯の中ヘ書き湯中を廻しぬるに、湯氣ほとばしり煮たつ煙すさまじかりしが忽に靜りぬ。扨笹の葉をとりて己が身へ浴びけるに、湯かたさしぬきもひた濡れに成ぬれど、聊かあつきと思ふ氣色もなし。傍に見物せし者へ右湯のかゝけるに、誠にたゆべくもあらぬ由。誠に神國のしるし、神道のいちじるき事を始て覺へぬる故爰にしるし置ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:日光東照宮連関。それにしても前にも指摘したが根岸は神道には寛容。かなりの国学肌を感じる。

・「神人」日本史の用語では神社に隷属し雑役などを行った下級の神職・寄人(よりゅうど)を指し、正式な神主・神官とは厳然と区別されるが、ここでの根岸の謂いは神主・神官などをも広く含んでいるものと思われる。

・「安永の酉年より同亥年迄」安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。

・「日光御宮」徳川家康を神格化した東照大権現を祀る日光東照宮。

・「御靈屋」岩波版長谷川氏注では徳川家光廟があるとのみ注する。これは日光東照宮は徳川家康を神格化した東照大権現を祀るものであり、所謂、狭義の「御靈屋」家光の大猷院廟のことのみを言うと判断されての注と思われる。また、厳密に言うと大猷院廟は神仏習合であった輪王寺の中にあるので、「日光御宮」は家康の霊廟を示したものとし、これを大猷院廟とされたのでもあろう。

・「本坊向」「本坊」は日光山輪王寺のこと。天台宗。当時は神仏習合で日光東照宮・日光二荒山(ふたあらやま)神社と合わせて「日光山」を構成していた。ウィキの「輪王寺」によれば『創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた』。『「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもあり、堂塔は、広範囲に散在して』おり、先に記した『徳川家光をまつった大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い』とある。「向」は輪王寺関連付属施設の謂い。

・「奇特」これは「きどく」と読んで、神仏の持つ超人間的な力や霊験のことをいう。

・「外遷宮」日光東照宮では本社を修理する際には祭神東照大権現の神霊が一時的に御仮殿(おかりでん)と呼ばれる建物に移された。この儀式を外遷宮と言う。一般的に伊勢神宮のような例外を除いて神社本殿の改築・修理では仮社殿を直前に設置し、新本殿完成後は仮社殿は取り壊すのが普通であるが、日光東照宮では古くは本社修理が頻繁に行われたために、この御仮殿は常設建物となった。寛永161639)年建立と伝えられ、本社と同様、拝殿・相の間・本殿からなる権現造りとなっており、神儀一切が本社と同様にここで行われた。この外遷宮式は過去19回行われているが、文久3(1863)年を最後として、その後は行われていない。

・「新宮」上記「本坊」で示した「日光山」を構成する日光二荒山神社のこと。日光の三山である男体山(二荒山)・女峯山・太郎山の神である大己貴命(おほなむちのみこと:大国主)・田心姫命(たごりひめのみこと:宗像三女神の一人。)・味耜高彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)三神を二荒山大神と総称して主祭神とする。以下、ウィキの「日光二荒山神社」から引用する。『下野国の僧勝道上人(735 - 817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に766年に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建て、それに続いて神護景雲元年(767年)、二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたのが当社の始まりと伝える』。二荒山は「ふたらさん」とも読むが)これは一説に『観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、のちに弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。空海はその訪れた際に女峯山の神を祀る滝尾神社を建てたという。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った』。戦国期には一時衰退したが、『江戸時代初め、隣接して徳川家康を祀る日光東照宮が創建され、当社はその地主神として徳川幕府から厚く崇敬を受けた』。『江戸時代までは神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400ヘクタールという、伊勢神宮に次ぐ面積となっている』。

・「湯立」神前に釜を据えて湯を沸騰させ、トランス状態に入った巫女が持っている笹や御幣をこれに浸した後、即座に自身や周囲の者に振りかける儀式やそれから派生した湯立神楽などの神事を言う。これらのルーツは熱湯でも火傷をしないことを神意の現われとする卜占術の一種であった。

・「本坊御留守居の寺院」これは恐らく寛永寺門主で日光山主を兼ねる輪王寺宮が寛永寺に在って「不在」の折りの「留守居」役=執事役の塔頭寺院のことであろう。

・「松下隱州」松下隠岐守昭永(あきなが 享保6(1721)年~寛政9(1797)年)。岩波版長谷川氏注に、御先手鉄炮頭・作事奉行・鑓(やり)奉行を歴任したとある。「卷之一」の「人性忌嫌ふものある事」に既出。

・「丸毛一學」岩波版長谷川氏注に、丸毛政良(まさかた)とする。それによれば、安永8(1779)年に本話柄に示された日光修理の業績で賞せられ、同9(1780)年普請奉行に、天明2(1782)年には京都町奉行就任したと記す。しかし、この人物、京都東山学園教諭石橋昇三郎氏の「天明伏見町一揆越訴事件の顛末記」によれば、京都町奉行としてはとんでもない悪吏となったようである。『天明七年の洛中での「天明の飢饉」による米価高騰の折、町衆が「お千度参り」なるデモンストレーションを御所の周りで繰り広げたが、時の東町奉行丸毛政良が、町民を救済するどころか、逆に米商人近江屋忠蔵らと結託し、米を隠匿し、米価をつり上げ、暴利を貪り、町年寄をも圧迫した為、町衆が「丸毛和泉守は商人なり」、奉行は「丸屋毛兵衛だ」と棹名して嘲ったという』とある(引用元注によればこれは原田伴彦著「江戸時代の歴史」三一書房の二五二頁及び辻ミチ子著「京都こぼればな史」京都新聞社刊の九一頁を参照した由)。直前で天明の飢饉の仁慈を称揚した同じ町奉行となった根岸にしてみれば、この丸毛の悪行三昧、怒り心頭に発したであろうこと、想像に難くない。

・「依田五郎左衞門」岩波版長谷川氏注に、依田守寿(もりかず)とする。それによれば『日光修理に関係。天明三年駿府町奉行。同八年御留守居』とある。

・「三つ鼎」「鼎」は金属製の器で通常は3本の脚を持つ。中国古代に於ける王侯の祭器とされ、後には王権の象徴ともなった。ちょっと分かり難いのであるが、「三つ」は三脚を意味し、その鼎を炉として、その上に釜を置いたのであろうか。とりあえずそのように訳しておく。

・「風折烏帽子」正式な立(たて)烏帽子は機能的でないため、上部1/3程度を折って用いることがあったが、これを烏帽子の一種として実用的に改良したもので、見た目は立烏帽子の頂が風に吹き折られた形になっている。狩衣(かりぎぬ)着用の際に用いられ、細かな礼式にあっては上皇仕様右折りで組紐使用、左折りで紙捻使用は一般用であった。極めて類似した略式のものに平礼烏帽子(ひれえぼし)というものもあった。

・「さしぬき」「指貫」と書く。袴の一種。裾口に紐を刺し通して、着用の際に裾を括って足首に結ぶもの。

・「幣帛」本来は神社で神官が神前に奉献するものを総称するが、所謂、一般に良く見るところの幣(ぬさ)のことである。ここでは前出の笹の葉が幣である。

■やぶちゃん現代語訳

 神道の不思議真実(まこと)の事

 凡そこの世にあっては、巫女やら神主やらと称する者の中に、やれ、神変、やれ、摩訶不思議なんどと称し、語りならぬ騙りを致し、見るからに怪しげ千万な奇術なんどをして見せては、人を惑わす輩がおるものである。私は、永年、こうした奇術妄説の類い、十把一絡げに、女子供を驚かすだけの他愛のない戯れに過ぎぬとのみ思って御座った。

 しかし乍ら神道の不思議なること、これ真実(まこと)なり、という経験を致いたことがかつて御座った――。

 私は安永六年より安永八年に至る三年の間、日光東照宮・大猷院様御霊屋・本坊日光山輪王寺及びその附属建物、並びに日光山諸寺諸堂諸社諸祠の御普請御用のため、日光山に赴任して御座った。

 日光山の御宮の御威光やそのあらたかなる御霊力御霊験の程は、今更申し上げるも畏れ多いもので御座るが――まさにかの外遷宮の夜は――それまで曇って御座った空があっという間もなく晴れ渡り、それまで吹いて御座った風もぴたりと止んで、一枝一葉さへ鳴らさぬ有様となって、一山水を打ったように静まり返って御座った。申すも愚かなること乍ら――これは、真実(まこと)に全宇宙森羅万象を一つ残らず統べなさって、その広大無辺の御武徳が千年の後の今に至るまで、本邦津々浦々に至るまで、蒙らざるものは一つとしてない、この世のありとある万民が渇仰するところの御神徳の成せる技なればこそ――やはり、申すも愚かなることなので御座ろう――。

 今一つは、それとは別のこと、日光という場所、深山幽谷多き地にて、魔性のものや魑魅魍魎の類いが住まう所と噂され、これまでもいろいろと奇怪なる出来事これ有り、なんどと世間にては噂されて御座るが、私が三年在勤して御座った内、奇怪なる一件だに見聞きしたことはなかった――ところが――

 ある一日、新宮二荒山神社の御湯立神事の儀、これ執り行うに付、是非とも御参詣あれかし、と本坊輪王寺留守居の塔頭(たっちゅう)より案内(あない)これあり、二荒山神社拝殿の桟敷へと参り――当時共に日光山御普請御用に携わって御座った松下隠州守昭永(あきなが)殿、丸毛一学政良(まさかた)殿、依田五郎左衛門守寿(もりかず)殿らと一緒に見物致いたので御座ったが――。

 ……神前には三脚の鼎、その上に湯立の釜を置いたものを並べて、釜の内には熱湯が煮え滾(たぎ)って御座る……そこに神主、白き単衣(ひとえ)を着し、風折烏帽子を冠し、白き差貫を穿いて、神楽に合わせて神楽を舞う……その舞曲、これが如何にも古雅にして、今時の江戸表なんどで流行っておるところのえげつない舞いの類いなんどとは、比べものに成らぬほど品格が御座る。

 ……その後、神主、ごほごほと沸き立つ湯気に向かいて、何やらん祝詞を捧げ、幣帛(へいはく)を手にし、その柄を以って熱湯の中にずいと差し入れたかと思うと、柄にて何やらん文字なるようなものを熱水中に書いて御座る様子……と、かっと熱湯をこき混ぜる……と……それまでぐわらぐわらと迸(ほとばし)って煮立って濛々たる白煙を噴き上げて御座った朦々たる熱湯が、忽ちのうちに静まった……さても神主、徐ろに笹の葉を執りて湯にずんと差し入れ、即座に抜き取ると……己が身へばっさばっさと浴びせかける……神主の薄き浴衣差貫、すっかりひた濡れに濡れて、身ぐるみこれ熱湯にてずぶ濡れとなる……されど……聊かも熱がって御座る気色もない……時に、傍らにて見物致いて御座った者の一人に少しばかりこの幣帛の飛沫(しぶき)がかかって御座ったところが……その者、余りの熱さに耐えようもないほどであった由……。

 誠(まっこと)、神国の御印(みしるし)、神道の著しき霊験を初めて目の当たりして感無量、故にここに永き真実(まこと)の摩訶不思議として、記しおくものである。

2010/03/19

古武士村田良平氏悼

日本への米軍核搭載艦船寄港・通過を日米安全保障条約上の事前協議の対象外とした核持ち込み密約に関して、外務省内に該当文書が存在し、歴代次官がそれを引き継いできたことを証言された村田良平元外務次官が18日、肺がんの為、80歳で逝去された。

僕は滅多に人の死を悼まぬ。

しかし、ここに、古武士村田良平殿の意気に感じ、その死を心より悼むものである。

安藤先生へ――極私的通信

拝啓。安藤先生。

僕は貴女を教えたことはなかったけれど、貴女が僕のHPを読んで下さっていること、先日、金子先生よりお聞きしました。

何だか大層、嬉しく思ったのでした。

連絡の手立てもなく、貴女に直接、御礼を申し上げることも出来ないのですが――この公の場を借りてでも一言御礼を申し上げたかった僕のこの気持ちを――もしかしたらこれを御覧になられるかも知れないという宝くじを買うような気持ちで――ここに記す、その僕の嬉しさを、お察し下されるならば、恩幸、これに過ぎたるはありません。

ありがとう。

一つ、少しリニューアルした「夜の雲」を、貴女へ、贈ります。

耳嚢 巻之二 仁慈輙くなせし事

「耳嚢 巻之二」に「仁慈輙くなせし事」を収載。

 仁慈輙くなせし事

 御靈屋(おたまや)へ予拜禮せし序、東叡山の執事たる佛頂院の許へ立寄けるに、酒などいだし暫く物語せしが、咄の序に、過し天明卯の年諸國農作不熟して米穀の價ひ百文に四合五合に商ひし頃、萬民難儀なしけるが、淺間の燒砂降し村々、公儀より御救ひの御普請も被仰付、其外百姓及び御府内(ごふない)の賤民へも御救ひを給り、家々戸々よりも志のある者は夫々の施しをなしぬ。佛頂院などは釋門(しやくもん)の事なれば、朝夕此事に召仕ふ者にも申仕て心懸しかば、限あるを以はかりなきに施す事可行(ゆくべき)樣(やう)もなかりしが、佛頂院へ隨身せし小僧ありしが、日々佛前へ備へ、或は法施(ほつせ)の米食など、常は庭上に其所を極め鳥などにあたへけるを、取集め置て飢に沈む者へ給るやう致べしとて申ける故、尤の事也とて其意に任せぬれば、辰春(たつのはる)に至りては餘程の干飯(ほしいひ)にいたしぬ。よく社(こそ)致しぬるとて、辰の四月日光へ御門主の御供して罷りし頃、旅中飢渇のものへ散財して施し與へしに、御神領などよりは厚く禮に參りしも有しと語りぬ。その小僧は賴母しき出家也、今は如何致せしと尋ければ、此節は上方へ學問に遣しけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない、というか、どうも前話は、既に述べてある通り、私には不快な話(言っておくが、それは「生理的に」ではない。やはり被差別者に関わる話だからである)であって、その連関を述べたい気持ちさえ失せると言っておく。

・「仁慈」思いやりや他者への深い情け。

・「輙く」は「たやすく」=「容易く」と読む。

・「御靈屋」一般名詞としては先祖の霊や貴人の霊を祀る霊廟のことであるが、ここでは徳川将軍霊廟のこと。寛永寺と増上寺及び日光の輪王寺(徳川家康と家光)の三箇所に分納されている(最後の徳川慶喜は霊廟はなく東京谷中霊園に墓所がある)が、ここでは直後に山号「東叡山」とあるので寛永寺を指す。徳川将軍15人の内、家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定の6人を祀る霊廟があった。現在、日光以外があまり知られていないのは太平洋戦争の空襲によって殆んどが焼失したためである。

・「執事」寺院に常駐して家政及び事務一般を司る僧侶。住職代理に相当。

・「佛頂院」寛永寺塔頭(たっちゅう)の一つであるが、現存しない。

・「天明卯の年」天明3(1783)年。

・「米穀の價ひ百文に四合五合に商ひし頃」前掲「鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事」の「米穀百に四合五合」の注を参照のこと。

・「法施」仏に向かって経を読み、法文を唱えることを言う。ここでは仏像への日々の供物としての仏飯に対して、勤行法要等の際に、それとは別に施主から施される仏飯等を言っているものかと思われる。

・「辰春」翌天明4(1784)年の春。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この謂いからは、本話柄を根岸が聞いたのは天明5(1785)年か翌6年の間に絞り込むことが出来るものと思われる。但し、鈴木氏の執筆区分を考えずに推測するならば、天明の大飢饉の終息後のこととも考えられ、だとすれば天明8(1788)年以降の話柄とも考え得るが、終盤の遊学云々の描写はここから5年以上が経過しているようには思われない。

・「御府内」江戸町奉行支配の及ぶ江戸市街区域を言う。文政元(1818)年に、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内と定められた。

・「御門主」門跡寺院(皇族・貴族が住職を務める特定の寺院)の住職を言う。寛永寺は問跡寺院で、特にその門主を「輪王寺宮」と呼称した。寛永201643)年に開山の南光坊天海没後、『弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山する。その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。法親王は承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなった。以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた』。輪王寺宮は『水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国に皇族を常駐させることで、西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)』とある(以上、引用はウィキの「寛永寺」から)。

・「御神領」日光東照宮領。社殿神域に加え、経済維持のための周辺近隣に及ぶ。前記注の如く、その最高責任者も輪王宮である。

■やぶちゃん現代語訳

 仁慈なるものは容易に行い得る事

 ある時、寛永寺御霊屋を拝礼致いたついでに、その頃、同寺執事に当って御座った塔頭仏頂院に立ち寄ったところ、酒など出されて歓待されたことがあった。その際の雑談の中で聞いた話で御座る。

 過ぎし天明三年のこと、諸国農作物不作となり、米価、小売り百文で四、五合という値いまで高騰、万民難渋致いたは記憶に新しい――。

 加えて同年七月の浅間大噴火――その火山灰や土石流が降り下った村々には、御公儀より救援の御普請方も仰せつけられ――私自身、その役を仰せつかったので御座った――その他広範な地域の百姓及び御府内の賤民に至るまでも御救済方思し召しを賜わり、ありとある町屋百姓の主だった家々からも、その志ある者は、それぞれに出来得る限りの施しを致いたもので御座った――。

「……本院などは、これ、仏門のことなれば、言うに及ばず、朝夕この窮民救援の仁慈のこと、召し使(つこ)うておるあらゆる者どもに申しつけ、心懸けさせては御座ったれど……仏道の本意たるところの――「施さん」との無辺の仁慈を以って、しかも聊かも「施さん」という卑小なる作善の思い上がりを持たずに「施す」こと――これ、なかなか難しいことにて御座った。

 そんなある日のことで御座った。

 本院にて修行致いておる一人の小僧が御座ったのじゃが、この少年が、

『日々仏前へお供え致し、或いは法事の際に御布施として致します仏飯などは、今まで、それを目当てに致いて常に庭にやってくる鳥なんどに与えておりしたが、これをやめ、皆々集めた上で腐らぬように保存致し、飢餓の底に沈み苦しむ民へ給わられるよう、取り計らわれるとよろしいかと存じます。」

と申します故、

『それは誠(まっこと)よきことを思いついたの。』

とて、この小僧の思うように任せてみ申したところ、翌天明四年の春までには相当量の干飯(ほしいい)を造り成して御座った。

 同年四月初夏、この小僧は寛永寺御門主輪王寺宮様に随身して日光東照宮へ参詣致いたので御座ったが、かの干飯を、道中、沿道の飢渇せる者どもに、広く施し、分け与えたので御座った。

 後日、沿道に当って御座った御神領各所の、その施しを受けた民ぐさの中には、輪王寺宮様へ厚く礼に詣でた者も御座ったと言いまする――。」

聞き終えた私は、感嘆して言った。

「その小僧――なかなかに頼もしき沙門じゃ。さても、今はどうして御座るか?」

と尋ねたところ、

「この度は上方へ学問に遣わして御座います。」――

2010/03/18

綺亞羅

「……何処に行くの?……」

「……随分、窮屈になっちゃったんだね、ここも……」

「……どうして、何も聴かないの?……」

「……私が誰か、とか……何処から来たか、とか……」

「私は綺亞羅……」

……そっか……うん……知ってたよ、君の名前……あの台詞、何故か、忘れられない……そうして気がつくと……綺亞羅は“Santa Chiara d'Assisi”だったじゃないか……聖御遺体の……やっぱり彼女は「ルケリヤ」だったのだ……あのИван Сергеевич Тургенев“Живые мощи”の……

耳嚢 巻之二 人の血油藥となる事

「耳嚢 巻之二」に「人の血油藥となる事」を収載した。

 人の血油藥となる事

 ひゞあかぎれの類其外切疵などに、穢多の元より出る膏藥妙なる由。右穢多膏藥は專ら人油(じんゆ)を用るといふ物語の序、是も石黑かたりけるは、同人一族の由、尾州にての事成しが、至て強勇の兄弟あり。或夜盜賊大勢押入て家財を運ぶ樣子聞付て、兄弟枕にありし刀を引下げ立出けるに、盜賊共庭へ逃出しを追缺(おひかけ)、矢にはに兩人切倒しけるが、兄なる者けさに切倒したる胴の中へ、其足先を踏込(ふんごみ)しと也。跡にて兄語りけるは、右胴へ踏込侯節は、誠に熱湯へ足を入し如く、扨々人の血肉は熱する物也と語りしが、右兄從從來垢切にて難儀せしに、其年よりは右踏込し方の足はあかぎれ絶てなかりしとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:石黒平次太談話にて連関。一種のプラシーボ効果かも知れず、はたまた、かくなる効果がないとも言い切れぬであろう。しかし、どうも本件には、その導入部分からして、明白な差別意識が働いている。その点を十分理解しながら、批判的に読み下されんことを望むものである。

・「油藥」読みは「ゆやく」か。「あぶらぐすり」でもよい。

・「人油」この話柄は前後が天明の大飢饉絡みであることから、高い確率で飢饉で人肉食が行われた事実が談話の中に上ったことから引き出されてきた話ではないかと私は推測するものである。

・「穢多」平凡社「世界大百科事典」より引用する(句読点及び記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって17世紀後半から18世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。1871年(明治4)8月28日,明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが,これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ,「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては,鎌倉時代中期の文永~弘安年間(126488)に成立したとみられる辞書「塵袋(ちりぶくろ)」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ 穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また,ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが,末尾の「穢多」の2字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は,鎌倉時代末期の永仁年間(129399)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では,鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取(えとり)」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』(著作権表示:横井清(c 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

・「石黑」石黒平次太敬之。前話注参照。

■やぶちゃん現代語訳

 人の血が油薬となる事

 ひび・あかぎれの類、その他、切り傷などに、穢多が製薬した油薬(あぶらぐすり)が絶妙な効果を持っている由。

 偶々談話の折り、この穢太膏薬なるものは専ら人肉・人血を素材とした油を用いるらしいという話に及んだ際に、やはり石黒平次太が語った話で、以下、同人一族の、知れる者の実話なる由。

 尾張国での話、恐ろしく強腕の兄弟があった。

 ある夜のこと、彼等の屋敷に盗賊一党が押し入り家財を持ち出す様子を聞き付け、兄弟、枕元の刀を引っ下げて立ち出でたところ、盗賊どもは庭に逃げ出した。

 それを追撃して矢庭に二人切り倒したが、兄なる者――兄弟して先に袈裟懸けに切り倒した盗賊の――その残骸の胴の中に、もろに足を踏ん込(ご)んだという。

 その後、兄なる者の話に、

「あの時、斬ったばかりの遺骸の胴に足を踏ん込(ご)んだ時は、誠(まっこと)、熱湯に足を入れた如く、さてもさても人の血肉とは、熱きものじゃ!」

と語ったというのだが――この兄なる者、それまで冬になればあかぎれ致いて難儀致いておったものが――その件の御座った年の冬以来、この踏ん込(ご)んだ方の足のみ、あかぎれが絶えて生じなくなったとのことである。

2010/03/17

耳嚢 巻之二 人の命を救ひし物語の事

「耳嚢 巻之二」に「人の命を救ひし物語の事」を収載した。

 人の命を救ひし物語の事

 予留役勤たりし頃同役なしつる石黑平次太は、尾州の産にて親は尾州の御家中なりし。彼親小右衞門とやら言し由、壯年の頃任俠をもなして豪傑にてありしが、獵漁を好みて勤の間には常に漁獵などを慰みけるが、或日川漁に出て夜深(よふけ)の川邊へ出しに、年若き男女死を約せしと見へて、今はこふと思はれければ、早速立寄て引留、何故に死せるやと尋ければ、兎角に死なねばならぬ譯あり、見ゆるし給へとかこちけれども、何分我等見付ては殺し候事成がたしと、品々教諭して、ひそかに我宿へ召連れ委しく承ければ、右男女ともに名古屋の町人の子共なるが、隣づらにてひそかに偕老のかたらひをなしけるが、娘の親なる者は近年仕出し候俄分限(にはかぶんげん)ゆへ、色々媒(なかだち)して願ひけれ共親々得心なく、娘の親も容儀の艷成(ゑんなる)にほこりて、令偶を求めて是亦心なかりければ、かく死を申合せぬるとかたりぬ。夫より彼石黑聞て、何か我に任せよ、始終よきに計らんと彼町人の許へ至り、何か物騷しく忌はしき體(てい)也、いかゞせしと尋しに、壹人の倅風與(ふと)罷出行衞不相知、隣成る娘も是又行衞しれざれば、申合缺落(かけおち)にても致したるならん。若(もし)申合相果もいたし候哉(や)と兩親の歎き大方ならず、江戸上方へも追々追手を差出し、國中をもかくごとく搜し侍ると申ければ、夫は氣の毒なる事也、命だにあらば隨分穿鑿の仕方あらん、隣の兩親をも呼て來れ、我相談いたし遣はさんといひけるにぞ、露をも賴の折から故、早速隣家へも申遣しければ、彼夫婦も取敢へず來りける故、ちと我等搜し方の工夫有り。然し何故年頃似合の兩人、夫婦には致さるぞと尋ければ、さしたる事もなけれど、かくあるべしとも思はず、等閑に打過ぬるよし答ければ、内證には譯もあるべけれど、此人兩人は死しと思ひ、我等に兩人を給りなば手段付可申(つけまうすべし)といふに、いかにも差上可申と兩家の夫婦とも歎きければ、さらば語り聞せん、かく/\の譯を見候故、品々異見して我方へ召連歸りたり。我等に給はる上は我等方にて夫婦の盃婚姻の禮をなして、爰元へ送り歸すべしと申ければ、兩夫婦は誠に我子の活返りし心地して悦び、早速婚姻を調へ目出度榮へけるが、親共存命の内は申に不及、右夫婦兩家の者は、石黑方へは親同前に立入り、今以通路しぬると語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:実際の三途の川一歩手前からの生還で連関。また先行する「孝子そのしるしを顯す事」「又」等と同じく評定所留役時代(宝暦131763)年~明和5(1768)年)の話でも連関。

・「留役」評定所留役。基本的には将軍の直臣である大名・旗本・御家人への訴訟を扱った司法機関の一つであるが、原告被告を管轄する司法機関が同一でない場合(武士と庶民・原告と被告の領主が異なる場合等)、判例相当の事件がなく幕府各司法機関の独断では裁けない刑事事件や暗殺・一揆謀議等の重大事件も評定所の取り扱いにとされた。本件は原告若しくは被告の連座する者の中に武士階級が居たか、廻船絡みであるから、原告被告の領主が異なるのかも知れない。「評定所留役」とは評定所で実際に裁判を進める予審判事相当格。この職は勘定所出向扱いであるため、留役御勘定とも呼称する。

・「石黑平次太」底本鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注ともに石黒敬之(よしゆき 正徳六・享保元(1716)年~寛政3(1791)年)とする。御勘定を経て、『明和三年(一七六六)より天明元年(一七八一)まで評定所留役』(長谷川氏)であった。父は尾張藩の臣牧七太夫舜尚の四男。文中、『小右衛門とあるのは牧七太夫の子で、石黒伴政の養子となって同家を嗣いだが、子がなかったので弟平次太を迎えて養子にした』(鈴木氏)とある。何か分かったような分からんようなフクザツなことで……。ともかくも間違えてはいけないのは、この話の主人公は石黒平次太ではなく、その親=兄である石黒小右衛門で、場所も尾張名古屋である点である。この話を根岸が聞いたのは石黒平次太敬之と根岸鎭衞の共有する時間内であるから、明和3(1766)年から明和5(1768)年の2年間に絞られる。

・「尾州の御家中」の「尾州」は尾張国。「御家中」は尾張藩。ウィキの「尾張藩」より引用すると、『愛知県西部にあって尾張一国と美濃・三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格にして最大の藩であり、諸大名の中でも最高の家格を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は619500石』。

・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。

・「俄分限」急に大金持ちになること。また、その人。

・「令偶」「令」は「よい」の意、「偶」は「配偶者・連れ合い」又は「めあわせる」の意であるから、高貴な家柄との縁組を言う。

・「此人兩人」底本では右に『(尊經閣本「此子供兩人」)』とある。「子供」は死に、立派な大人の夫婦となるべき流れなればこそ、こちらを採る。

・「夜深(よふけ)」は底本のルビ。

・「風與(ふと)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 人の命を救った物語の事

 私が評定所留役を勤めていた頃、同役で御座った石黒平次太は尾張の出身にて、親は尾張藩の御家中の者であったという。

 彼の父――実は実の兄――小右衛門(こゑもん)とやらは、壮年の頃、任俠を以って鳴らし、豪傑を誇っておったが、殊の外、狩漁を好み、勤めの合間には常に山野水辺を駆け回って、狩りを楽しみとして御座った。

 ある日のこと、川漁のために夜更けの川辺に出向いたところ、年若い男女がおり、相対死(あいたいじに)を約せしと見えて、今は最期と入水せんとすると思われたので、小右衛門、ずいと近づいて、二人をむんずと摑んで引き留め、

「何故に死なんとするカッ?!」

と雷のような声で糺した。すると、小右衛門のあまりの怒気に押されたのか、男は消え入るような声で、

「……兎も角も……死なねば成らぬ訳(わけ)が御座います……どうか……どうか何卒、お見逃し下さいませ!……」

と歎き訴えたけれども、小右衛門、

「――何分、我ら、うぬらの今わの際を見つけた以上は、見殺しに致すこと、これ成り難し!」

と一喝した。

 その後、あれこれ説教致いて、ともかくも取り敢えずはと、人目を忍んで小右衛門宅へ召し連れ、そこで詳しく訳を尋ねてみたところ――

……この男女、共に名古屋の町人の子供で、隣同士の幼馴染みにて、いつしか惹かれ合(お)うて秘かに夫婦(めおと)を誓い合う仲となった御座ったのだが、この娘の親なる者はこのところ、急に金回りが良くなって売り出してきたところの、所謂、俄分限で――男の親は内心俄分限の隣りを馬鹿に致し、俄分限の隣りは構えの割にはうだつの上がらぬ隣家を馬鹿にする――ここにきて男も女もいろいろと陰に陽に知る人がりに媒酌してもらい、夫婦(めおと)にならんことを願い出たけれども、双方親共、けんもほろろ。加えて俄分限となって勢いに乗っている娘の親は、ちょいとばっかり娘が艶っぽいのに思い上がって、名家に御縁を求めようなんどという欲を出し、およそ色好む二人の心を分かる心なんどは、これ全くない……

「……さればこそ……かくの如く、死を申し合わせまして御座います……」

と語った。

 小右衛門はそれを聞き終えるや、

「よし! 何もかも俺に任せろ! 悪いようには――しねえぜ!」

と言うが早いか、二人をそのまま屋敷に居させた上、自身はまず、男の方の町家を何食わぬ顔で訪ねた。

「――何だ! 何だ! 妙にもの騒ぎで五月蠅(うるせ)えじゃねえか! 何だってえんだッ?!」

と例のドラ声一発で質いたところが、吃驚した家の者、平身低頭、

「……これはどうも五月蠅きことにて失礼致しました……実はこの家(や)の一人息子が行方知れずと相成りまして……また、隣の家(や)の娘も、これまた行方知れずになって御座れば……これは申し合わせて駆け落ちでも致いたに違いない……いいや、もし相対死でも致いたのではあるまいかと……両親の嘆きも一方ならず……ともかくも江戸・上方へも追っ手の者を差し向け、国中をも何としても探し出さんものと……と申せ、両家とも実のところ、捜しあぐねておるので御座いまする……」

と申す。そこで小右衛門、徐ろに、

「それは気の毒なことじゃ! そうなれば、命さえ無事ならよしと致さば――うむ! ならこそ捜索の仕方もあろうぞ! されば、隣りの両親をも呼んで参れ! 儂が一つ、力になろう程に、まずは皆々相談の上――」

と提案した。これを伝え聞いた男の父は、藁にも縋りたい心持の折柄、早速、隣家にも伝えたところ、女の両親もとりあえず揃うた。そこで小右衛門、

「実はの、我らには探し方に我ら独特の伝手(つて)がある――されば大船に乗った気持ちでよいぞ。――しかしのう、仄聞致いた限り年頃似合いの両人、何故(なにゆえ)、夫婦(めおと)に致さざるか?」

と質したところが、両家共、

「……へえ……これと言って、さしたる理由は、これ、御座いませぬが……」

「……こんなこととは露知らず……等閑(なおざり)に致いて御座いましたれば……」

と如何にも歯切れが悪い。そこで小右衛門、すかさず、

「内々にはそれぞれに何ぞ訳も御座ろうがの――一つ、うぬらの子供両人は、最早死んだ、と思うて――我らに両人を呉れてやったという覚悟になれるのであれば――さすれば、探し出す手段に付、今すぐに申し上げること、出来ようぞ! 如何(いかが)?!」

と重厚な面持ちにてやらかした。すると、

「……如何にも!……」

「……へえ、差し上げ申しますればこそ……どうかよろしゅうに!」

とすっかり意気消沈している両家夫婦、訳も分からず気押されて、泣きの涙に合点した。

 それを聞いた小右衛門、すっくと背を伸ばして、

「さらば語り聞かさん! 我ら……かくかくしかじか……という訳で、実は両人相対死致さんとせしところを見咎め、いろいろ意見致し、我が屋敷に召し連れて帰ったのじゃ!――二人は我らが賜わった以上、我ら方にて夫婦(めおと)の盃、婚姻の儀を成してそこもとらへ送り帰さんと存ずる!」

と言上げ致いたところ、両家夫婦は、真(まこと)に子供らが生き返ったかのような心地して大いに悦んだのであった。

 小右衛門はそのまま屋敷に戻るなり、早速に二人の婚礼を調え、目出度く夫婦の契りを結ばせたという。

 二人はその後も末長く幸せに暮らして家も栄えた。

 二人の両親存命の間は申すに及ばず、その後もずっと、この夫婦及び両家の家人たちは、石黒家へは親元同様に立ち寄り、今以って親しく交わって御座る――と、実の弟石黒平次太が語ったことで御座る。

2010/03/16

夜の雲

夜の雲が大好きだ

雲の合間に薄青い空が見えるではないか

そこにちらちらとする星が瞬くではないか

僕は

そんな時に「宇宙」という存在を感じる

そこに僕は「宇宙」に繋がる自分を感じるのだ――

君は 感じないか?

今夜 僕は感じたんだ――

Lempire_des_lumiresren_magritte

René Magritte “L'Empire des Lumières”   

耳嚢 巻之二 鄙姥冥途へ至り立歸りし事 又は 僕が俳優木之元亮が好きな理由

「耳嚢 巻之二」に「鄙姥冥途へ至り立歸りし事」を収載した。

サブ・タイトルの意味は……注を御覧あれ。これはずっと何処かで言いたかったことなのだった……。

 鄙姥冥途へ至り立歸りし事

 番町小林氏の方に年久敷召造ひし老女ありけるが、以の外煩ひて急に差重り相果けるが、呼(よび)いけなどしてほとりの者立さはぎける内に蘇生しけるが、無程快氣して語りけるは、我等事まことに夢の如く、旅にても致し候心得にて廣き野へ出けるが、何地(いづち)へ可行哉も不知、人家有方へ至らんと思へども方角しれざるに、壹人の出家の通りける故呼かけぬれど答へず。いづれ右出家の跡に付行たらんには惡しき事もあらじと、頻りに跡を追ひ行しが、右出家の足早にして中々追付事叶はず、其内に跡より聲をかけ候者ありと覺へず蘇りぬと咄しける由。小林氏の親敷(したしき)牛奧(うしおく)子(し)のかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:霊験譚連関。

・「鄙姥」「ひぼ」と読み、田舎出の守女の意(老人とは限らない)であるが、老女でよかろう。

・「番町」所謂、山の手で、皇居に面した西の一帯。現在も当時と同じく名称は一番町から六番町で構成されている。北に抜けると靖国神社である。旗本の内、SPに相当する将軍警護役を大番組と呼んだが、彼等の居所がここにあった。

・「小林氏」不詳。

・「呼いけ」「魂呼(たまよばい)」のこと。私の好きな分野である。まずはウィキの「魂呼ばい」から引用する。これは『日本および沖縄の民間信仰における死者の魂を呼びかえす呪術行為である。死を不可逆的なものと見なさず復活の可能性が信じられたところからくる』もので、『現代日本では死体は火葬に付されるのが一般的で復活の観念は生じにくいが、後世火葬が完全に定着するまでには長い時間を要し、それまでは土葬が主流であった。特に古代では埋葬する前に殯(もがり)という一定期間を設け、復活への望みを託した』。現在でも『死者の出た家の屋根に登って、大声で死者の名を呼んだりする風習が』残っている。歴史的に『魂呼ばいが記録に残っている例としては、平安時代の「小右記」万寿2年8月に藤原道長の娘尚侍が死亡した夜行われた例が見える。このことからも当時の貴族の間にも儀式の慣習が残っていたことがうかがえ』(記号の一部を変更した。「小右記」は平安時代の公卿藤原実資(さねすけ 天徳元(957)年~永承元(1046)年)の日記。万寿2年は西暦1025年)、『沖縄では「魂込め(マブイグウミ)」「魂呼び(タマスアビー)」などの呼称があり、久高島では「マンブカネー(魂を囲い入れる、というような意味)」と呼ばれる。マンブカネーで興味深いのは、儀式から魂の出入り口が両肩の後ろ辺りに想定されていると思われる点である』とある。

――最も手頃にこれを見ることが出来る例は黒澤明の映画「赤ひげ」である。石見銀山を煽って危篤に陥った長坊に、療養所の女たちが井戸に向かって「ちょうぼう!」と叫び続ける印象的なシーンである(ここはカメラ・ワークも素晴らしい)。

――大学時代に私が唯一畏敬した漢文の吹野先生が講義の中で、御自身の出身地である茨城での少年期の記憶を話されて、亡くなった直後に親族の者がその人の衣服を持って屋根に上り、西(と言われたかどうかは今は定かでないが、とりあえず「西」としておく)に向かってその服をばたばたと煽った事実を話されたことを思い出す。

――また、俳優のジーパンこと松田優作が膀胱癌で亡くなった日(逝去は平成元(1989)11日午後6時45分であった)の夜のニュースを私は思い出す。松田優作の自宅門外が中継された映像で、記者がコメントをする背後に、「優作さ~ん!」と何度も連呼する男の声がかぶった。私は一聴、これは「太陽のほえろ!」で後輩刑事役に当たるロッキー刑事役木之元亮の声であると分かった。恐らく視聴者の中には、あの時、彼は目立ちたいの? なんどと思っている人いるんだろうなあと私は思った。彼は松田優作の、この世を離れんとする魂を呼んでいたのだった……私はしみじみ、あれ以来、俳優木之元亮が大好きになった。因みに、彼は北海道釧路市出身で、元漁師である。

・「出家」岩波版長谷川氏注に『冥界であう出家は地蔵』菩薩である旨、記載がある。

・「親敷」底本では右に『(尊經閣本「親友」)』とするが、採らない。

・「牛奥」旗本の中にこの姓があり、先祖は甲斐の牛奥の地を信玄から与えられてそのまま名字としたらしい。岩波版長谷川氏注には幕臣で、鎮衛の一族(但し、東洋文庫版鈴木棠三氏注の孫引きの指示有り)とする。

■やぶちゃん現代語訳

 老女が冥土に至りながら生還致いた事

 番町の小林氏の御屋敷に長年召し使っていた老女があったが、俄かに重き病を発し、瞬く間に危篤と相成って息を引き取ってしまった。

 普段の臨終と同様、大声で老女の名を呼んで魂呼ばいの儀式なんどを致いて、床の周囲の者どもが立ち騒いでおったところ、何と! 蘇生致いたのであった。

 老女はほどなく快気致いて、その折りのことを思い出して、次のように語ったという。

「……我らこと……誠(まっこと)夢を見ておりますような感じで御座いましたが……旅でも致しておりまするような心地にて、ふと気がつきますと……広い、広い野原へ出でおりました……何処へ行けばよいやらも分からず……ともかくも人家のある方へ参ろうと思いましたが……一向に方角も知れませなんだ……そこへ……ひとりのお坊さまが通りかかられたので……「もし!」……と声をお掛け致いたれど……返事は御座らず……ただひたひたとお歩みになられる……されど……いずれ……お坊様なればこそ……このお坊さまの後について行くならば悪しきこともなかろうと存知まして……ただもうお坊さまの後を追いかけて行きましたが……このお坊さま……いえもう大層足が早やいお方にて……なかなか追いつくこと叶いません……ただただ御跡を慕いて参りますうち……おや? 誰ぞ……後ろから声をかけて参る者が……おる……と思うか思わざるかのうち……蘇って御座いました……」

 小林氏と親しくして御座る牛奥氏が私に語った話である。

2010/03/15

耳嚢 巻之二 小堀家稻荷の事

「耳嚢 巻之二」に「小堀家稻荷の事」を収載した。

 小堀家稻荷の事

 京都に住宅せる上方御郡代小堀數馬租父の時とかや。或日玄關へ三千石以上ともいふべき供廻りにて來る者有り。取次下座敷へ下りければ、久々御世話に罷成數年の懇意厚情に預り候處、此度結構に出世して他國へ罷越候。依之御暇乞に參りたりと申置歸りぬ。取次の者も不思議に思ひけるは、洛中は勿論兼て數馬方へ立入人にかゝる人不覺、怪しきと思ひながら其譯を數馬へ申ければ、數馬も色々考けれど、公家武家其外家司(けいし)召仕への者にもかゝる名前の者承り及ばず、不審して打過けるが、或夜の夢に、屋敷の鎭守の白狐、年久敷屋敷の内に居たりしが、此度藤の森の差圖にて他國へ昇進せし故、疑はしくも思はんが此程暇乞に來れり、猶疑しく思はゞ明早朝座敷の椽(えん)を清め置べし、來りまみへんとなり。餘りの事の不思議なれば、翌朝座敷の椽を鹽水などうちて清め、數馬も右座敷に居たりければ、一ツの白狐來りて橡の上に上り暫くうづくまり居たりしが無程立さりけるにぞ、扨は稻荷に住白狐の立身しけるよと、神酒赤飯などして祝しけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:これといって連関を感じさせないが、順に読んできた私には、民百姓が飢えて「米穀百に四合五合といへる前代未聞の事」態に比して、稲荷とはいえ畜生たる狐が「三千石以上」、その立身に「神酒赤飯などして祝しける」武士という能天気さ加減には――単独で見れば映像もくっきりとして面白い話で、前の話しよりも百年も前の話ではある――が聊か呆れるものがないとは言えぬ。

・「上方御郡代」幕府では、比較的広域の幕府領を支配する代官のことを郡代と言った。江戸時代初期には関東郡代の他、この上方郡代、更に尼崎・三河・丹波・河内などでは、ほぼ一国単位で郡代が置かれていた(寛永191642)年の勘定頭制の施行に伴い、郡代・代官はその管轄下に置かれ、その後、関東郡代は老中支配となっている)。江戸時代中期以降は関東・美濃・西国・飛騨の4郡代となった。身分・格式は代官の上であったが、その職務内容(租税徴収監督・下級裁判訴訟)は代官とほぼ同じであった(以上は主にウィキの「郡代」を参照した)。

・「小堀數馬租父」「小堀數馬」小堀仁右衛門家第6代当主小堀邦直(享保131728)年~天明九・寛政元(1789)年)。4代惟貞の長男。その「祖父」は第3代当主であった小堀克敬(寛文十三・延宝元(1673)年~享保4(1719)年)である。小堀仁右衛門家は600石の旗本で、代々禁裏の作事を担った。武家茶道の一派小堀遠州政一(天正7(1579)年~正保4(1647)年)に始まる遠州流分家。小堀仁右衛門家初代小堀正春が遠州の異母弟に当たる(以上はウィキの「遠州流」を参考にした)。何となく感触でしかないが、これは遠州流茶道若しくは大名にして茶人、建築家・作庭家でもあった小堀遠州と何らかの関わりがある話柄なのかも知れない。

・「三千石以上」旗本で3000石以上になると正式な任官によって官職を名乗れるようになることから、後の「出世」に合わせたものであろう。

・「家司」平安中期以降、親王家・内親王家・摂関家・大臣家・三位以上の家にあって家政一般事務を司った職。いえつかさ。読みは「けし」の転。

・「藤の森」現在の京都府京都市伏見区深草鳥居崎町にある藤森(ふじのもり)神社。境内は現在の伏見稲荷大社の社地で、ウィキの「藤森神社」によれば、『その地に稲荷神が祀られることになったため、当社は現在地に遷座した。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した』とある。底本の鈴木氏注には、「雍州府志」(浅野家儒医で歴史家の黒川道祐(?~元禄4(1691)年)が纏めた山城国地誌)によれば、『弘法大師が稲荷神社を山上から今の処へ移した時、それに伴って藤杜社を現在地へ遷したものであるといい、稲荷と関係が深く、伏見稲荷に詣れば藤森にも参詣するのが例であった』と記す。伏見稲荷は正一位稲荷大明神である狐=稲荷神の本所である。

■やぶちゃん現代語訳

 小堀家屋敷内稲荷の事

 京都に住む上方郡代小堀数馬殿の祖父の代のこととか。

 ある日、殿のお留守に、屋敷玄関へ三千石以上と思しき多勢の供廻りを引き連れて参った者が御座った。取次ぎの者が主人の留守を詫びつつ、とりあえず下座敷にお通ししたところ、

「拙者○○儀、小堀殿に長々御世話に罷りなり、また長年の御厚誼御厚情に預かって参りましたが、この度、目出度く出世致いて他国へ罷ることと、相成り申した。これに依って、御暇乞いに参上致しまして御座る――どうぞ数馬殿にはよろしゅうにお伝え下され――。」

と言い置いて帰った。

 取次の者もそれを垣間見た者も誰もが不思議に思ったのは、洛中にての往還の折りは勿論のこと、嘗て、かくなる御身分御尊顔の「○○」という御方が、この小堀家に訪ねてこられたことは、ついぞなかったからである。

 如何にも奇怪(きっかい)なることと、帰宅した殿に、その不審と共にかくなる御仁の御来訪の由申し上げところ、公家・武家・その他家司、また過去に召使(つこ)うた者なんど、殿もいろいろ挙げてはみられたものの、「○○」という名前の者は、これ、存じ上げぬ――不審なるままに数日が過ぎた――。

 そんな、ある夜、殿の夢に、屋敷内に鎮守としてある稲荷の白狐が現れ、

「――久しく御貴殿御屋敷内に居住致いて御座ったが、この度、藤の森御指図これあり、他国へ昇進と相成ったれば、不審なる者と思われたことと存ずれども、まずは御暇乞いにと参ったまで。――なおも疑しくお思いならば、明朝、座敷の縁を清めておかれるがよかろう。最後に参って、御目見え申そうぞ――」

と殿に語りかけた。

 夢とはいえ、あまりに不思議な附合にては御座ったれば、翌朝、座敷の縁側を塩水などを打って清め置き、殿もその縁の内座敷にて座って御座った。

 ――と、庭先に一匹の白狐が現れた。

 ――ぴょん――とん――

と縁の上に上って、暫くの間、うずくまって――そうして程なく――立ち去った――

 これを見て、殿は、

「さては稲荷に住む白狐の立身出世して御座ったか!」

と御神酒や赤飯などを供えて祝したということで御座る。

2010/03/14

そうだね 君に恋してから

……そうだね……君に恋してから……かれこれ……47年――44年――43年――41年――38年――37年――26年――25年――24年――20年――10年――9年――5年――4年――1年……経ったね……でも、僕の口中には、今もまだ……蕾もつかない痩せた青白い茎が延びるばかりだ……

耳嚢 巻之二 鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事

「耳嚢 巻之二」に「鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事」を収載した。米価の感覚がつかめず、少々手間取った。

 鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事

 上州吾妻郡鎌原村は淺間北裏の村方にて、山燒の節泥火石を押出し候折柄も、たとへば鐵炮の筒先といへる所故、人別三百人程の場所、纔に男女子供入九十三人殘りて、跡は不殘泥火石に押切れ流れ失せし也。依之誠に其殘れる者も十方(とほう)にくれ居たりしに、同郡大笹村長左衞門、干俣村小兵衝、大戸村安左衞門といへる者奇特成にて、早速銘々へ引取はごくみ、其上少し鎭りて右大變の跡へ小屋掛を二棟しつらへ、麥粟稗等を少しつつ送りて助命いたさせける内に、公儀よりも御代官へ御沙汰有りて夫食等の御手當ありけると也。右小屋をしつらいし初め三人の者共工夫にて、百姓は家筋素性を甚吟味致し、たとい當時は富貴にても、元重立(おもだち)の者に無之侯ては座敷へも上げず、格式挨拶等格別にいたし候事なれど、かゝる大變(に逢ては生殘りし九拾三人は、誠に骨肉の一族と思ふべしとて)右小屋にて親族の約諾をなしける。追て御普請も出來上りて尚又三人の者より酒肴などおくり、九十三人の内夫を失ひし女へは女房を流されし男をとり合、子を失ひし老人へは親のなき子を養はせ、不殘一類にとり合ける。誠に變に逢ひての取計ひは面白き事也。右三人とも鎌原村に限らず、外村々をも救ひ合奇特の取計ゆへ、予松本豆州申合申上ければ、白銀を被下、三人共其身一代帶刀、名字は子孫まで名乘候樣被仰付ける。善事は其德の盛んなる事、たとへんに物なし。右三人の内、干俣村の小兵衞といへるはさまで身元厚き者にもなく、商をいたし候者の由。淺間山燒にて近郷の百姓難儀の事を聞て、小兵衞申けるは、我等の村方は同郡の内ながら隔り居候故、此度の愁をまぬがれぬ。しかし右難儀の内へ加り候と思はゞ、我が身上を捨て難儀の者を救ひ可然とて、家財をも不惜急變を救ひけると也。此故に其年は米穀百に四合五合といへる前代未聞の事也しが、小兵衞が名印(ないん)だにあれば、米金の差引近在近郷いなむ者更になく差引いたしけると也。呼出して申渡候節、右の者樣子も見たりしが、働有べき發明者とも見へず、誠に實躰(じつてい)なる老人に見へ侍りき。

□やぶちゃん注

○前項連関:庶民の誠心で連関。また根岸が担当した浅間山大噴火復興事業に於ける被災実見録シリーズの一篇。

・「(に逢ては生殘りし九拾三人は、誠に骨肉の一族と思ふべしとて)」底本では右に『(尊經閣本)』とある。これを補って訳した。

・「鎌原村」上野国吾妻郡鎌原村。浅間山火口北側約12㎞の吾妻川南岸。現在の群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原。ウィキの「鎌原観音堂」によれば、鎌原村は天明3(1783)年7月8日の浅間山の天明の大噴火による土石流に襲われて壊滅、噴火の際、村外にいた者と土石流に気付いて村内の高台にあった鎌原観音堂まで避難出来た者合計93名のみが助かった。『当時の村の人口570名のうち、477名もの人命が失われた』とあり、本文の記載とは異なる記録が示されるが、こちらの方が現在の定説数であるようだ(後掲)。『1979年(昭和54年)の観音堂周辺の発掘調査の結果、石段は50段あることが判明した(言い伝えでは150段あまりの長い石段であるとされていたが、この幅で150段もの長い石段を建設することは、現在の建設技術をもってしても物理的に不可能であること。仮に150段であったならば、およそ20メートルもの高さになるため、わざわざそれだけ高い位置に観音堂を建立する事自体が不自然であることなどが疑問視されていた)。現在の地上部分は15段であり、土石流は35段分もの高さ(約6.5メートル)に達する大規模なものであった事がわかった。また、埋没した石段の最下部で女性2名の遺体が発見された(遺体はほとんど白骨化していたが、髪の毛や一部の皮膚などが残っていて、一部はミイラ化していた)。若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹、母親と嫁など、近親者であると考えられている。浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に映している』。『また、天明3年の浅間山の噴火で流出し、すべてのものを飲み込んだ土石流や火砕流は、鎌原村の北側を流れる吾妻川に流れ込み、吾妻川を一旦堰き止めてから決壊。大洪水を引き起こしながら、吾妻川沿いの村々を押し流し、被害は利根川沿いの村々にも及んだ。この一連の災害によって、1,500名の尊い命が奪われる大惨事に及んだ。また、当時鎌原村にあった「延命寺」の石標や、隣村(小宿村=現在の長野原町大字大桑字小宿)にあった「常林寺」の梵鐘が、嬬恋村から約20km下流の東吾妻町の吾妻川の河原から約120年後に発見された』。『村がまるごと飲み込まれたことから、東洋のポンペイとも呼ばれ』るとあるが、火山災害では『生き残った住民が避難した先(場所)で新しい町を再建』するのが通例であるのに、本話の中で描かれるように鎌原では『生き残った住民が同じ場所に戻って、村を再建した非常に珍しい例である』とある。『現在、火山災害から命を救った観音堂は厄除け信仰の対象となって』いるそうである。また、この鎌原村を襲った火砕流・岩屑流については、酒井康弘氏のHP「鬼押出し熔岩流のナゾにせまる」の、「鎌原村を襲った土砂について」で詳細な考察が行われている。本話の重要なプレ場面であるから、少々長い引用となるがお読み頂きたい。『七月八日四ッ半時(午前十一時)に、山頂から熔岩流、砂礫などが多量の水とともに推定千二三百度の高音で流れ出し、アッという間に上州側の北側を流れ下り、六里ヶ原の何百年という原始林を押しつぶし、傾斜を嬬恋、長野原に向けて押し出した予想もしない泥流のために鎌原村が全滅した(嬬恋村史 下巻)』。また他に『浅間山が光ったと思った瞬間、真紅の火炎が数百メートルも天に吹き上がると共に大量の火砕流が山腹を猛スピードで下った。山腹の土石は熔岩流により削りとられ土石なだれとして北へ流れ下った。鎌原村を直撃した土石なだれはその時間なんとたったの十数分の出来事だった。家屋・人々・家畜などをのみこみながら、土石なだれは吾妻川に落ちた。鎌原村の被害は前118戸が流出、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げ延びた93人のみだった。火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下った』という従来の見解を提示しつつ、『しかし、最近では、その堆積物の見られる範囲が鬼押出熔岩流の下の方だけに限られていることから、別の考え方もある』として、『7月8日午前10時ころ、中腹のくぼ地辺りで大きな爆発があった。現在の火山博物館のすぐ西には当時柳井沼とよばれる湿地があり、この強い地震でその付近の山体の一部が崩れて岩なだれが発生した。このため流下しつつあった鬼押出熔岩流の一部が巨大な岩塊となって北麓の土砂、沼地を掘り起こし土石なだれとなって北麓を流れ下った。これが鎌原火砕流と呼ばれているが、実際は岩屑なだれと呼ぶのが正しいという。その他には噴火当時、浅間火山博物館の西側にくぼ地があって、水がたたえられており、火砕流がこれに突入して大規模な水蒸気爆発を起こし、岩屑流と泥流を発生させた。あるいは、沼の中から水蒸気爆発が起こり、火砕流が起こったと考える人もいる』という見解を紹介、『浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができた。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没させたという考え方が一般的である』とする。以下、1979年に始まり、13次に及んだ鎌原村の発掘調査結果に触れ、『十日ノ窪の埋没家屋の一部に火災を思わせる部分があったものの、ほかのすべてにおいて、建築用材、生活用品に焼けたり焦げたりした形跡は認められなかった。一方、火山地質の検討からしても、鎌原村を覆う押し出しによって堆積した層の中で、天明3年の噴火の際、直接火口から飛び出した熔岩は、全体の熔岩中5パーセント前後であることが判明した。このようなことから鎌原村を襲った押し出しとされる現象は、熱泥流とされるものではなく、常温に近いく、しかも乾燥したものであることが明らかとなり、“土石なだれ”と呼ぶこととなった』。『鎌原村の被害は、江戸時代という比較的新しい時代のできごとであり、その状況を示す古文書や記録類も多く、また、言い伝えもあが、発掘調査によって得た知見は、その多くが古文書や記録類では知ることのできなかった新事実が明らかとなり、言い伝えなどとはかなり異なるものもあった』とされ、ここに酒井氏の「鎌原土砂移動に関する仮説」が示される。『大噴火の当日、それまで3ヶ月ほど断続的に続いた噴火現象が静かになり、晴れ上がった夏の午前を村人はほっとして過ごしていたという。現在の嬬恋村鎌原(旧鎌原村)は突如、火砕流・岩屑流(土石なだれ)・泥流などのいずれかに急襲され、あっというまに土砂の下になったといわれ、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げた93人のみであった。発掘調査をした人の話では家屋、家財道具などの痛み具合からは、土砂による押出した力は従来から考えられたような高速でしかも強力な圧力ではないという。そして土砂が襲ってきたとき、高い方へ逃げた人は助かり、土砂を背にして逃げた人は埋もれてしまったという。地元の人の話では、旧鎌原村から観音堂の石段までは急げば5分位で到達できると言う。そして50段の石段も健康なひとであれば5分以内には登れるであろう。土砂移動をみてから逃げる時間は少なくとも10分くらいはあったのではないか』。『大量の熔岩が雪崩を起こして柳井沼に突っ込んだとき、大轟音が聞こえた。この大轟音は火山の噴火とは違う大きな音で人々は外へ出て、浅間山の方を見上げた。しかし、残念ながら旧鎌原村からは小高い丘がじゃまして浅間山はみえない。しばらくするとざざーという泥水が小熊沢に沿って流れてきた、次いでピチピチといいながら熔岩を混じえた大量の土砂が押し寄せてきた。逃げろと言う声とともに、その時、高い方向かって逃げた人と、下へ向かった逃げた人に分かれた。逃げ出す程度の時間的な余裕はあった』。土砂は『従来からかなりの高速で鎌原村を襲ったと考えられているが、中腹から吾妻川への傾斜は緩やかで、土砂の時速30から40kmくらいではないかと推測される(私の考えでは時速100kmなどいうことはない)。しかも大量の土砂は御林(一里あまりの松林)を押し倒しながら北へ向かう時、有る程度スピードが落ちるはず』で、『土砂の流れは時速30から40kmくらいではないか(私の考えでは時速100kmなどいう岩なだれではない)。鎌原観音堂の石段の五十段付近で見つかった老若二人の遺体も流される事なく、石段のところで倒れていた。もし、時速100kmほどの高速の岩なだれであれば、二人とも流されてしまうであろう』と推論されている。シャーロック・ホームズを髣髴とさせるスリリングな論考である。鎌原村遺跡発掘をなさった元嬬恋村郷土資料館館長松島榮治氏の研究によれば、宝暦131763)年の観音堂須弥壇造立の際の奉賀連名帳によれば村の総戸数は118戸と推定され、文化121815)年の観音堂参道入口にある供養碑によれば罹災時の戸数は95とある。これより天明3年被災時は100戸前後と推定され、その人口は安政4(1860)年に山崎金兵衛という人物が記した「浅間山焼荒之日并其外家并名前帳」に、犠牲者477人、生存者93人とあることから、被災時は、『一応570人とみられる。しかし、異なった数字をあげている史料もある』とし、『農業に不向きな標高900メートル前後の浅間山北麓の地に、戸数100戸前後、人口五百数十人の大型村落が形成されたことは意外である。しかし、この地は、上州と信州を結ぶ交通の要所にあり、加えて、200頭前後の馬が飼育されていることからすると、単なる山村ではなく、宿場的機能をもった村落と推定される』とする(以上は「元嬬恋村郷土資料館館長松島榮治先生講義録」を参照した)。訳では一般的に通りがよい「土石流」を採用した。

・「鐵炮の筒先」溶岩流・火砕流・土石流の直撃した場所を指す噴火後の呼称であろう。

・「人別」人別改による村民数。人別改は一種の人口調査で、後には宗門改と合わせて行われるようになり、享保111726)年以降は6年ごとに定期的に実施された。

・「大笹村」上野国吾妻郡大笹村。現・群馬県吾妻郡嬬恋村。鎌原村の西南西約2㎞の吾妻川南岸に位置する。現在の嬬恋村を横切っている国道144号線は、江戸時代には大笹街道(仁礼街道とも)と呼ばれた北国街道の脇往還で、沼田~吾妻~上田、高崎~仁礼~善光寺を結ぶそれの通行人・草津への入湯客等を取り締まるため、寛文2(1666)年に沼田薄主真田伊賀守により大笹関所が設置されている。山村ながら大笹宿として栄えた村である。

・「干俣村」上野国吾妻郡干俣村。現・群馬県吾妻郡嬬恋村干俣。鎌原村の西北約2.5㎞の吾妻川北岸の支流である干俣川上流に位置する。吾妻鉱山や万座温泉で知られる。

・「大戸村」上野国吾妻郡大戸村。現・群馬県吾妻郡東吾妻町で、鎌原村の東約10数㎞の吾妻川支流の温川及びその支流である見城川東岸にあり、かなり鎌原村からは離れている。同町から温川(ぬるがわ)を下った吾妻川合流地点にある郷原は、縄文期の印象的なハート型土偶の出土地として知られる。

・「夫食」一般庶民への救援食糧物資。

・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任時代の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。お馴染みの「耳嚢」の一次資料的語部の一人でもある。

・「白銀」贈答用に用いた楕円形の銀貨で白紙に包んである。通用銀の三分とされるが、通用銀は天保丁銀を指し、天保8(1837)年より通用開始されたもの。丁銀は銀の含有比率が低く(20~80%)形も重さも一定でなかったが、この白銀は銀純度が高く、形も切り揃えて成形してあり、重量も43匁と決まっていた。資料によると本話柄の40年程前、元文年間(17361741)で白銀一枚=0.7両とある。

・「米穀百に四合五合」100文で米4~5合しか買えない、1合が2025文したということである。以下にしらかわただひこ氏の「コインの散歩道」「1文と1両の価値」のページにある分かり易い対照表から、米一升の小売価格の推移と相対比較するための蕎麦屋の蕎麦(もり・かけ)の値段を引用する。

【米1升(小売値)】↓      【蕎麦一枚】

慶長・元和   25文        ↓

15961623)            

寛永      30文        ↓

16241643

寛文      50文       6文

16611672

元禄       80文       8文

16881703

享保・元文   80文

17161740

宝暦・明和  100文      16文

17511771

文化・文政  120文      16文

18041829

天保      150文      16文

18301853

慶応      500文      20文

~1000文     ~24文

18651867

明治33年    16銭     1銭5厘

1900

昭和35年  124円      35円

1960

平成12年  700円     474円

2000

一見2~3倍弱にしか見えないが、当時は今とは考えられないくらい米食に依存しているから(一日5合程度の消費量が考えられる)、天命の大飢饉に加えて浅間大噴火のダブル・ダメージを受けた当時の被災民にとっては、とんでもない高騰であったと考えてよいであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 浅間山山麓鎌原村で起こった大異変に際し稀に見る誠意に満ちた取り計らいを致いた者の事

 上州吾妻郡鎌原村は浅間山北側に位置している村であるが、かの天明三年の浅間山大噴火の際には、広範囲に溶岩や土石が押し寄せた折りから――この鎌原村は、特に噴火後には「鉄砲の筒先」と呼ばれたほど、直撃を受けた被災地であった――人別帳の上でも三百人ほどの村民の内、成人男子・女子・子供をも含んで九十三人だけが生き残ったばかり、後は残らず総て、流れ下る土石流に押し埋められ、皆、流失、亡くなった。

 この事態に、残されたその者たちもただただ途方に暮れていた。

 ここに同郡大笹村の長左衛門、干俣村の小兵衛、大戸村の安左衛門という者たち、稀に見る誠意を持って、即座にこれらの生き残った被災者をそれぞれに分担して引き取り、救援致いた。のみならず、浅間の噴火が少し鎮まって後には、三人の者共同で、この壊滅した鎌原村跡に仮住居として小屋を二棟掛け、それぞれの村から救援物資として麦・粟・稗なんどを少しずつ送っては彼らの生活を引き続き援助致いた。勿論、同じ頃には御公儀からも現地の代官にお指図これあり、当地の被災した一般庶民への広範な食糧援助等が行われていたことは言うまでもないので御座ったが。

 さても、右仮小屋を建てるに際し、以上の三人で協議致いて、救援の大方針として、さる秀抜なる工夫を編み出して御座った。

 ――そもそも百姓というもの、実は何やらん、誰ぞと変わらず、先祖伝来の家柄血筋やら先祖素性やらに、殊の外、拘るものにて、たとえ現在は富貴にして高雅なる家(や)の者であっても、その村にて先祖代々重んじられて御座った家系の者でない限りは、応対するに際しても己(おの)が座敷にさえ上げず、万事内外、格式やら挨拶やらに格別に五月蠅きものなれど――この三人、小屋二棟の被災者全員を招集致すと、

「さても、かくなる危難に遭(お)うて生き残りし九十三人は、これ、誠(まっこと)、骨肉相和す親族と思わねばならぬ。」

と、この小屋にて親族の約諾を致させたので御座った。

 その後、私も関わったところの御公儀による災害復興事業が成功裡に終わった頃、なおまた、この三人は、この鎌原村被災者全員に酒肴を送って祝った上――九十三人の内、夫を失した女には女房を流された男を取り合わせ――また、子を失った老人には親を亡くした子を養わせて、計九十三人、残らず、名実共に一家一族と成したので御座った。

 誠に変事に遭(お)うての味な取り計らい方、これ、見事なもので御座る。

 右の三人、実はこの鎌原村に限らず、外(ほか)の噴火罹災した村々へもやはり同じように稀に奇特なる救援を施し、同様に格別の取り計らいを致いて御座ったことなれば、私、勘定奉行であられた松本豆州秀持殿とも協議の上、お上へ上申致いたところ、三人総てに白銀を御下賜なされた上、一代限りの帯刀及び子孫代々姓を名乗ること、これ、お許しとなったので御座った。

 善行というものは、その徳、則ち、心からの誠意の表れあってこそのことと――その譬えとしてこれ以上相応しい出来事は御座らぬ。

 この三人の内、干俣村の小兵衛という者はさほど由緒ある人物にてはこれなく、ただ普通に商いを致いておる者である由。浅間山噴火により、近在の百姓の難儀を聞き及び、小兵衛思えらく、

「……我らの村は同じ郡乍ら、はるかに峰と川を隔たっておる故、この度の災厄を免れた……なれど、もし、同じように、かの被害に遭(お)うたとならば……今こそ、己(おの)が財産を捨て、難儀致いておる人々を救はんとするは、当たり前のこと――」

と、家財惜しまず投げ打って、急変を救ったのだということで御座った。

 この天変地異によって、その年の米価は高騰、百文出しても四~五合、という前代未聞の事態となったのであるが、この干俣村商人小兵衛の署名・印さえあれば、米の交換を拒む者は近在には一人としてなかったのであった。

 この小兵衛なる者には、恩賜の件に付、申し渡した際、この私も会うてその風体を実見致いたが、失礼乍ら、これと言って利発という感じの男にては、これなく、ただただ如何にも実直そうな老人とのみ見えて御座った。

2010/03/10

耳嚢 巻之二 孝子そのしるしを顯す事/又 併載

「耳嚢 巻之二」に「孝子そのしるしを顯す事」及びその二である「又」を併載した。前者の森鷗外の「最後の一句」の刑罰に付、僕は疑問があったので同僚の日本史の先生に質問をしてみたのだが、どうも難しい問題であるあらしく、すぐには答えが頂けそうにない。「耳嚢」本文に関わる疑義ではないので、ここで公開しておくことにする。新たな展開があった折りには、その旨、追加記載をお知らせする。

今日は久しぶりに八面六臂、もう既に12時間以上、フルにHPに関わった。今日の一連の仕事は正直、誠(まっこと)、充実感を感じさせるものであったことを、ここで申し上げておきたい。

 孝子そのしるしを顯す事

 享保の頃、廻船の荷物を内々にて賣渡し、其外罪ありて大坂町奉行にて吟味の上、其科極りさらしの上死刑にも申付侯積の治定(ぢぢやう)なりしが、右の者子供三人あり、惣領は娘にて十三四、夫より九ツ七ツ計の小兒ども、日々牢屋門前に至りて親の助命の事歎き悲しみ、叱り追のけなどすれどもかつて聞入れず、命を不惜晝夜寢食を忘れて歎きければ、其譯奉行へ申立、江戸表へ伺可通由にて御仕置を延し、御城代より伺の上死刑を御赦し追放被仰付し。誠に孝心の天に通ずるといへるも僞りならぬ事也。右は予評定所留役を勤ける頃、右の者赦願の事に付書留取調て、餘り哀れなる事なれば此事も別に書留ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:地方の百姓の希有の慈悲心から、都会の町人の孝心で、少年少女の無垢なる孝心孝行で連関。本件は森鷗外の「最後の一句」(大正4(1915)年10月『中央公論』)のモデルとなった話とされるが、岩波版長谷川氏注によれば、鷗外が典拠としたものは、大田南畝(寛延2(1749)年~文政6(1823)年)が安永4(1775)年頃から文政5(1822)年頃まで見聞したものを書きとめた「一日一言」所収のものであるという。更に、同様に江戸初期から享保年間(171636)までの松崎堯臣(たかおみ 正徳六・享保元(1682)年~宝暦3(1753)年)との見聞録「窓の須佐美」の続編である「窓の須佐美追加」下にある話柄も同様で、『元文三年(一七三八)、大坂の勝浦屋太郎兵衛の事とし、子や奉行の名もしるす。』とある。

 森鷗外の「最後の一句」では、冒頭、咎人は大阪の『船乘業桂屋太郎兵衞』とし、『木津川口で三日間曝した上、斬罪に處する』旨の高札が出たのが『元文三年十一月二十三日の事』とする。

 私は「一日一言」も「窓の須佐美追加」も所持していないので、とりあえず鷗外の設定を少しく示しておく。

 桂屋太郎兵衛の罪状は以下の通り(引用は青空文庫正字正仮名版「最後の一句」を用いたが、誤読の恐れのないルビの一部を省略、ユニコード表示可能な字は正字に変更した)で、現在で言う業務上横領罪か背任罪に相当するものと思われる。

『主人太郎兵衞は船乘とは云つても、自分が船に乘るのではない。北國通ひの船を持つてゐて、それに新七と云ふ男を乘せて、運送の業を營んでゐる。大阪では此太郎兵衞のやうな男を居船頭と云つてゐた。居船頭の太郎兵衞が沖船頭の新七を使つてゐるのである。

 元文元年の秋、新七の船は、出羽國秋田から米を積んで出帆した。其船が不幸にも航海中に風波の難に逢つて、半難船の姿になつて、積荷の半分以上を流出した。新七は殘つた米を賣つて金にして、大阪へ持つて歸つた。

 さて新七が太郎兵衞に言ふには、難船をしたことは港々で知つてゐる。殘つた積荷を賣つた此金は、もう米主に返すには及ぶまい。これは跡の船をしたてる費用に當てようぢやないかと云つた。

 太郎兵衞はそれまで正直に營業してゐたのだが、營業上に大きい損失を見た直後に、現金を目の前に並べられたので、ふと良心の鏡が曇つて、其金を受け取つてしまつた。

 すると、秋田の米主の方では、難船の知らせを得た後に、殘り荷のあつたことやら、それを買つた人のあつたことやらを、人傳(ひとづて)に聞いて、わざ/\人を調べに出した。そして新七の手から太郎兵衞に渡つた金高までを探り出してしまつた。

 米主は大阪へ出て訴へた。新七は逃走した。そこで太郎兵衞が入牢してとう/\死罪に行はれることになつたのである。』

 それを裁いたのが大坂西町奉行佐佐又四郎成意(なりむね)。実在した町奉行であることが確認されている(以下のリンク先参照)。なお、この審理、実に2年余りかかっている。これについては大阪高等裁判所第2刑事部伊藤寿氏のエッセイ「森鴎外と裁判員制度」に『当時の司法制度は効率性を重視していなかった上に、大阪や京都などの幕府直轄地である天領を治める遠国奉行は、死罪といった重罰を科する場合にはわざわざ江戸の老中に伺いを立てた』からである旨、記載がある。

『西町奉行の佐佐は、兩奉行の中の新參で、大阪に來てから、まだ一年立つてゐない。役向の事は總て同役の稻垣に相談して、城代に伺つて處置するのであつた。それであるから、桂屋太郎兵衞の公事に就いて、前役の申繼を受けてから、それを重要事件として氣に掛けてゐて、やうやう處刑の手續が濟んだのを重荷を卸したやうに思つてゐた。』

 桂屋太郎兵衛には、五人の子供がいることになっている。

『長女いちが十六歳、二女まつが十四歳になる。其次に、太郎兵衞が娘をよめに出す覺悟で、平野町の女房の里方から、赤子のうちに貰ひ受けた、長太郎と云ふ十二歳の男子がある。其次に又生れた太郎兵衞の娘は、とくと云つて八歳になる。最後に太郎兵衞の始て設けた男子の初五郎がゐて、これが六歳になる。』

この内、直訴に出向くのは、いちとまつ、長太郎の三人であるが、いちが示した請願の書状の内には、実子四人を身代わりにとしている。それと別に、後半の西町奉行所御白洲の場面では、いちが、実子でない長太郎から「自分も命が差し上げたいと申して、とうとうわたくしに自分だけのお願書を書かせて、持つてまゐりました」(いちの奉行所への直接話法部分)と言って、長太郎も正式に別に身代わりを書面で申し出ている。

 御白洲の場面で描写されるいちの様子は以下の通り。「祖母の話」とはとうとう高札が出たということを太郎兵衞の女房の母「平野町のおばあ樣」が太郎兵衞の女房に知らせに来た冒頭場面を指す(鷗外はこの小説で――いちの自律的行為に関与しないからと思われる――この祖母にも女房にも名を与えていない。こういう器械的な切り捨ての仕儀こそ、私が鷗外という作家に何とも言えぬ生理的嫌悪感を感じる部分なのである)。

『當年十六歳にしては、少し穉(をさな)く見える、痩肉(やせじし)の小娘である。しかしこれは些(ちと)の臆する氣色もなしに、一部始終の陳述をした。祖母の話を物蔭から聞いた事、夜になつて床に入つてから、出願を思ひ立つた事、妹まつに打明けて勸誘した事、自分で願書を書いた事、長太郎が目を醒したので同行を許し、奉行所の町名を聞いてから、案内をさせた事、奉行所に來て門番と應對し、次いで詰衆の與力に願書の取次を賴んだ事、與力等に強要せられて歸つた事、凡そ前日來經歴した事を問はれる儘に、はつきり答へた。』

以下、映像的に魅力的な場面となる。

『長太郎の願書には、自分も姊や弟妹と一しよに、父の身代りになつて死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあつた。

 取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに氣が附かなかつた。いちが「お呼になつたのだよ」と云つた時、まつは始めておそるおそる項垂れてゐた頭を擧げて、縁側の上の役人を見た。

「お前は姊と一しよに死にたいのだな」と、取調役が問うた。

 まつは「はい」と云つて頷いた。

 次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。

 長太郎はすぐに「はい」と云つた。

「お前は書附に書いてある通りに、兄弟一しよに死にたいのぢやな。」

「みんな死にますのに、わたしが一人生きてゐたくはありません」と、長太郎ははつきり答へた。

「とく」と取調役が呼んだ。とくは姊や兄が順序に呼ばれたので、こんどは自分が呼ばれたのだと氣が附いた。そして只目をつて役人の顏を仰ぎ見た。

「お前も死んでも好いのか。」

 とくは默つて顏を見てゐるうちに、唇に血色が亡くなつて、目に涙が一ぱい溜まつて來た。

「初五郎」と取調役が呼んだ。

 やう/\六歳になる末子の初五郎は、これも默つて役人の顏を見たが、「お前はどうぢや、死ぬるのか」と問はれて、活潑にかぶりを振つた。書院の人々は覺えず、それを見て微笑んだ。

 此時佐佐が書院の敷居際まで進み出て、「いち」と呼んだ。

「はい。」

「お前の申立には譃はあるまいな。若し少しでも申した事に間違があつて、人に教へられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。

 いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたはずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言ひ放つた。其目は冷かで、其詞は徐かであつた。

「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」

「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。

 佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。

 次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡した。

 白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先の恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の德川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗の鋒は、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。』

「マルチリウム」ドイツ語“Martyrium”(発音は「マルテューリウム」が表記上近い)で「殉教・受難」の意。但し、本邦ではポルトガル語“martirio”から、切支丹宗門の間での「まるちり」=「殉教」の意としては、古くから認識されていた。

 以下、コーダは次のように淡々としている。

『城代も兩奉行もいちを「變な小娘だ」と感じて、その感じには物でも憑いてゐるのではないかと云ふ迷信さへ加はつたので、孝女に對する同情は薄かつたが、當時の行政司法の、元始的な機關が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中(うかゞひちゆう)日延(ひのべ)」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會御執行相成候てより日限も不相立儀に付、太郎兵衞事、死罪御赦免被仰出、大阪北、南組、天滿の三口御構の上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。大嘗會と云ふのは、貞享四年に東山天皇の盛儀があつてから、桂屋太郎兵衞の事を書いた高札の立つた元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、櫻町天皇が擧行し給ふまで、中絶してゐたのである。』

ここで分かることは、大嘗会がなければ、御赦免はなかったということであろう。赦免するに相応な権威の側のタテマエの論理が必要であったということである。それが「最後の一句」に対する――というよりもあくまでいちという娘など眼中にないことを演じる――「お上の事には間違は」ないという権威という機関の、唯一絶対の答えなのである。

・「享保」西暦1716年から1735年。

・「廻船」国内沿岸の物資輸送に従事する荷船で、主に商船を言う。江戸・大阪の二大中央市場と諸国を結ぶ全国的な航路を形成していた。

・「御城代」幕府が大坂・駿府・伏見・京(二条城)の四城に設置した役名。(元和5(1619)年に伏見城代は廃止された)ここで言う大坂城代は将軍の直接支配の役職で譜代大名が任命された(駿府・二条城代は老中支配・大身旗本が任命された)。各城守護管理及び城下の政務を司った。

・「評定所留役」「評定所」は基本的には将軍の直臣である大名・旗本・御家人への訴訟を扱った司法機関の一つであるが、原告被告を管轄する司法機関が同一でない場合(武士と庶民・原告と被告の領主が異なる場合等)、判例相当の事件がなく幕府各司法機関の独断では裁けない刑事事件や暗殺・一揆謀議等の重大事件も評定所の取り扱いにとされた。本件は原告若しくは被告の連座する者の中に武士階級が居たか、廻船絡みであるから、原告被告の領主が異なるのかも知れない。「評定所留役」とは評定所で実際に裁判を進める予審判事相当格。この職は勘定所出向扱いであるため、留役御勘定とも呼称する。根岸が評定所留役であったのは、宝暦131763)年から明和5(1768)年であるから、本件出来時より3350年以上も後のことである。

■やぶちゃん現代語訳

 孝行な子がその効験を顕わす事

 享保の頃、廻船の積荷を密かに抜き取って、内々に売り捌き、その他にも附帯する罪を以って捕縛され、大坂町奉行所にて吟味の上――その咎、晒しの上、死罪――と申し附くること、ほぼ決定して御座った。

 この男には子供が三人おり、娘十三四を頭に、九つ七つばかりの小児が続く。

 その子らが――過去の判例から、残酷にもこの子らに誰ぞが教えしものか、はたまた、巷間の死罪らしいという噂を聴きつけたものか――日々、評定所牢屋門前にやって来ては、地べたに座り、親の助命を求めて歎き悲しみ、号泣する――門番が叱って追い立てようとするのであるが、頑として聞き入れず、一寸たりとも動こうとせぬ。

 不惜身命――昼夜寝食を忘れ、ひたすら門前に泣き続けて御座った――。

 評定所では、致し方なく――というより、不憫に思い――この子弟嘆願の趣の一件につき、大阪町奉行に申し上げたところ――奉行も、

「とりあえず江戸表に御伺いの儀、これ、通すべし。つきては御仕置きのこと、延期と致す。」

とのこと。

 大阪御城代から幕府に御伺いが立てられた結果、死罪をお減じになられ、大阪追放に処するべし、と仰せ付けられたのであった。

 誠(まっこと)「孝心、天に通ずる」と言うのも、決して偽りではないのである。

 以上は、私が評定所留役として勤仕して御座った頃、ある必要があって過去記録の閲覧をした際、この当時、この者に対する特赦請願についての一件に関わって書留められた書類を親しく読んだ。誠にしみじみとした気分にて読み終わった記憶も新しい故、ここに書き留めておく。

*   *   *

   又

 是も予留役の筋まのあたり見聞ける事也。安藤霜臺掛にて三笠附其外惡黨をなしたる者とて、遺恨にてもありしや、名は忘れぬ、雜司ケ谷在しやくじ村の者を箱訴の事有。名ざしける箱訴故呼出しけるに、年此七十計の病身に見へし老人なり。中々三笠附抔は勿論、惡業抔可致者ならねど、定法故難捨置、入牢の事霜臺申渡けるに、右老人の倅三人、跡に付添出けるが、惣領は廿才餘の者也しが進み出て、親儀は御覽の通年も寄、殊に病氣にて罷在候へば、入牢抔被仰付なば一命をも損じ可申、しかし御定法の御事に候へば、私を入牢奉願候。親儀は御免粕相願旨申けるに、其弟十三四才にも可成が進み出て、兄は當時家業專らにて、老親いとけなき者を養育仕候事故、我が身を入牢願ふ由相願ければ、末子は漸く九ツ十ウ計なるが、何の言葉もなく私入牢を願ひ候とて、兄弟互に泣爭ひけるにぞ、霜臺も落涙して暫し有無の事もなく、其席に居し留役又は霜臺の家來迄暫し袖をしぼりしが、其夜は入牢申付て翌日、跡方もなきに決して老人も出牢あり、無程無事に落着しぬ。誠に孝心の至る所忍ぶに漏るゝ涙は、實に天道も感じ給ふべきと思はるゝ。

□やぶちゃん注

○前項連関:少年の孝心その二。

・「評定所留役」は前項同注参照。そこでも記したが、根岸が評定所留役であったのは、宝暦131763)年から明和5(1768)年。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。「卷之一」にもしばしば登場した、「耳嚢」の重要な情報源の一人。安藤惟要が就任していた職務の中で、このような訴訟に関わるとすれば勘定奉行と考えられる。勘定奉行は勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれているので、安藤は公事方勘定奉行と考えてよいであろう。そうして安藤が勘定奉行として勤めたのは宝暦111761)年から天明2(1782)年であるから、根岸が評定所留役であった期間を完全に内包する。

・「三笠附」雑俳・川柳の変形したもので賭博の一種。本来は冠附(かむりづけ:上五に中七・下五を付けて一句に仕立てるもの。元禄(16881704)頃に始まる。江戸での呼称で、上方では笠付けといった。烏帽子付(えぼしづけ)とも。)の一つで、俳諧の宗匠・選者を名乗る点者が冠の五文字を三題出して、それぞれに七・五を付けさせて、三句一組で高点を競うもので、宝永年間(17041711)から行われていた。ところが、これが賭博化し、個人のHP「江戸と座敷鷹」――少々長くなるが説明すると、「座敷鷹」は「はえとりぐも」と読み、クモ綱クモ目ハエトリグモ科 Salticidaeのハエトリグモ類のことを指す。寛文から享保頃(16611736)、このハエトリグモを飼って蠅を捕らせて楽しんでいた好事家がいたが、彼等は翅を少し切って動き難くさせた蠅を獲物として、各自の秘蔵のハエトリグモを同時に放し、誰のものがいち早く蠅を捕捉するかを競わせた。当時、そうした遊びを室内版の「鷹狩り」に譬えて、「座敷鷹」と呼んだのである。これが流行して座敷鷹が大人の娯楽として定着、ハエトリグモ販売業や飼育するための蒔絵を施した高価な印籠型容器まで出現したという。強い蜘蛛は極めて高価で、当時の江戸町人の平均的月収に相当したとある。後には廃れたが、これは既に博打の対象と化していた座敷鷹が賭博禁止令に抵触したからであるとも言われる――の以下のページに冠附に先行する前句附から説明して、『宗匠が出題した前句(七・七の短句)に、一句あたりの応募料を取って付句(五・七・五の長句)を募集、宗匠が選んだ高点句を前句とともに発表し、上位の句には品物か金銀を与えると言うもの。昔は連句の付け合いの稽古という大義名分があり、まともな前句を出題していたが、徐々に適当となり、「ならぬことかな、ならぬことかな」「やすいことかな、やすいことかな」「ちらりちらりと、ちらりちらりと」「ばらりばらりと、ばらりばらりと」などどうでもいいような七・七の14文字となった。看板とあるのは、「前句附」の看板を出して商売をしていることを指し、庶民の間に人気の高かった証拠と言える。しかし、この適当な下の句(前句)に対してさえ上の句(付句)をつけるのは難しいとなり、おそらくもっと人を集めたい宗匠が多かったのであろう、下の句を出題するのは取り止め、上の句の五・七・五の内の初めの五字を宗匠が出題し、残りの七・五をつけさせるようになる。ところが、これも面倒だと、残りの七・五も宗匠が出題することになる。初めの五字の出題を三題に増やし、これに対して21種類の「七・五」を出題し、三つの優れた「五+(五・七)」の組み合わせをあてさせることになった。まったくのクイズ形式である。 21の数字はサイコロの目からきていると言う。1の裏が62の裏が53の裏が4、裏表を足すといずれも77×321。このクイズ形式の付け合わせを、「三笠附」(みかさつき)と呼んだ。参加料十文(約300円)で三題とも秀句をあてた者には一両(約20万円)の賞金が与えられたと言う。三笠附の名が町触に記されるのは、正徳5年(1715)。クイズ形式とはいえ、ここまでは文字のある句合わせであった。しかし、享保の時代に入ると、文字はなく完全に数字の組み合わせをあてる博打となったのである。競馬も数字だが、馬が実際に競争する。享保期の三笠附はサイコロ博打同然となったわけだ』とある(改行を省略した)。そこで幕府は享保111726)年に「三笠附博奕廃止者免罪高札」を出して禁止したが、跡を絶たなかったらしい。特に田沼時代となると綱紀弛緩し、安永から天明頃(17621789)には再び爆発的流行を見たのであった。正にこの話、この頃のことであったわけ。さてもそこで、やぶちゃん一句――

   世も末は骸子ころり五七五

御粗末様でした――

・「雜司ケ谷在しやくじ村」「しやくじ村」は岩波版長谷川氏注に『雑司谷の在の石神井村。練馬区』とある。但し、現在の雑司ヶ谷は豊島区南池袋である。

・「箱訴」享保6(1721)年に八代将軍吉宗が庶民からの直訴を合法的に受け入れるために設けた制度。江戸城竜ノ口評定所門前に置かれた目安箱に訴状を投げ入れるだけで庶民から訴追が出来た。

・「名ざしける箱訴故」これは勿論、その被疑者を実名で告発している訳であるが、一言言っておくと、目安箱への投書は投げ入れた者(告発者)の住所氏名があるもののみが採り上げられ、ない訴状は破棄されたそうである。

・「跡方もなきに決して」とあるが、因みに三笠附に対しては、どのような刑罰があったのか。大越義久「刑罰論序説」によれば、身分を非人に落とされる「非人手下」の例の中に「三笠附の句拾い〔賭博の一種〕、取抜無尽〔富くじに似たもの〕の札売り、下女と相対死して生き残った主人などに対して」とある。但しこれは属刑であるから、本刑としては追放なり敲きなりがあって、それに付属された刑ということであって……これ結構、キビシイ。

■やぶちゃん現代語訳

 孝行な子がその効験を顕わす事 その二

 これも私が留役の際、目の当たりに見聞きしたことである。当時、勘定奉行で御座った安藤霜台殿が担当された一件であった。

 三笠附その他諸々悪事を働いたる者とて――誰かの遺恨を受けたものか――名は失念したが、雑司ヶ谷の在は石神井村のある者を箱訴するという事件があった。

 名指しの箱訴であったため告発された当人を呼び出して見ると、これが年の頃七十ばかり、加えて病身と思われる老人であって――凡そ三笠附は勿論のこと、『その他諸々悪事を働』くことなんぞなど到底出来そうも、ない、爺さんであった――が、御定法故、捨て置くこともならず――真偽を糺してみたところが、何やらん、もぐもぐ言うばかりで埒が明かぬ――罪状をこれ認むるか否かもはっきりせぬ故、霜台は致し方なく、まずは入牢申し渡した。

 申し渡すに際し、老人に付き添って来ていた倅が三人、従っていたが、入牢申し付けた後、即座に長男は二十歳余りの者が進み出て、

「親父はご覧のと通り、年寄り、殊に病気も患っておりますれば、入牢など致すとなれば、その儘、一命をも落とすことにもなりかねませぬ。されど御定法を枉げられぬこと、これもまた、お上にあらせられましては尤もなることにて御座いますればこそ、どうぞ、私めを代わりに入牢致すようお申しつけ下さいますよう、相願い上げ奉ります――親父入牢の儀は、何卒、御赦免下さいまするよう相願い上げ奉りまする……。」

と言うたかと思うたら、つっとその弟の十三、四にもなるかと思しい者が進み出、

「兄は只今当方の家業を唯一身にて負うておりますれば、老いし親、幼き弟妹どもを養育致いておりまする。されば――我が身を入牢願い上げ申し上げまする……。」

由、願う。

 その横に控えて滑り込むようにくっ付いて座った末の子は――漸っと九つか十ばかりと見えるは――ただただ、如何にも幼き口つきであったれど、

「私、入牢、願い申し上げます……。」

とばかり何度も繰り返し言上するので御座った。

 兄弟互いに他の者を制し、また泣きながら争う――その様を見るに、評定役であった霜台も思わず落涙して、暫くは声も出なかった。

 いや、その場にいた留役――で御座った私も――そして、霜台の家来衆までも、暫しの間、袖を絞って御座った……。

 結局、最早刻限も遅くで御座ったれば、とりあえず、その夜のみの入牢――老人の身体に特別の配慮を十分に致いた上での入牢を申し付けて、翌日早朝、箱訴の一件、事実にあらざるものにして、その罪、これ本来、存在せざるものなり、として老人も出牢と決し、一件落着と相成って御座った。

 いや! あの時は本当に!

 誠(まっこと)、孝心の至る所、忍ぶに漏れざるを得ぬ涙は、実に天道も心をお動かし遊ばされるものなのであるなあと心打たれ申した……

南方熊楠「武辺手段の事」中「韃靼帝の子カッサン」注補正

南方熊楠「武辺手段の事」の「韃靼帝の子カッサン」の注を、同僚の世界史の先生からの教授を受けて以下のように補正した。カッサンの同定の誤りを直し、不明としていたガザン・ハンとエジプトとの戦い(イル・ハン国のシリア侵攻)について補足した。

・「韃靼帝の子カッサン」とはモンゴル帝国を構成したイル・カン国(イルハン国又はフレグ・ウルスとも呼ぶ)の第7代皇帝であったガザン・ハン(Ghāzān khān  ロシア語表記:Газан-хан 1271~1304)のことを指す。彼の曽祖父で初代のイル・カン国皇帝であるフレグはチンギス・ハーンの孫に当たる。ガザン・ハンはイスラム教に改宗してイラン人との融和を図るなどして内政を安定させ、政治的にも文化的にもイル・カン国の黄金時代を築いた名君であったが、34歳で夭折した。1299年当時のエジプトはバフリー・マムルーク朝ナースィル・ムハンマドの統治時代であったが、南方の述べる通り、この年、イル・カン国のガザンがシリア侵攻を開始、ナースィルはシリア北部のマジュマア=アルムルージュでガザン・ハン軍で迎え撃ったが実戦経験が乏しかったために大敗を喫して敗走、イル・カン国はシリアを支配下に置き、ダマスクスを百日に渡って占領した。

芥川龍之介「骨董羹」の「聊齋志異」に現れたる諸注『不詳』とせる「崑崙外史」は蒲松齡友人張篤慶なり!

 先日(2010年3月3日)、芥川龍之介を愛読され、私の電子テクスト芥川龍之介「骨董羹」をお読み頂いたSeki氏という方からメールを頂戴した。そこで、Seki氏は、私が「骨董羹」の「聊齋志異」の項に現れる「崑崙外史」に附した以下の注、

『「崑崙外史」筑摩・新全集ともに不詳とする。文脈から言っても、これは「聊齋志異」中の一篇に現われる台詞でなければ意味が通らぬのだが、「崑崙外史」という細項目は「聊齋志異」の中にない。両注がお手上げということは、続く「董狐豈獨人倫鑒」の文字列も「聊齋志異」には見出せないということであろう。今暫く探索してみたい。』

について、次のような事実をお知らせ下さった(メール本文から引用することを、Seki氏よ、お許しあれ)。

実は「崑崙外史」は蒲松齡の友人、張篤慶(字歴友)の雅号です。張篤慶は「聊齋志異」のために、三首の詩を題しました。「聊齋志異」の書首に載せられています。「董狐豈獨人倫鑒」云々の詩はその第一首にあたります。「題詞」は感想などの言葉を綴る文体で、「台詞」ではありません。卑見を述べさせて頂きましたが、ご参考になれば幸いです。

 私は舞い上がってしまった。

 「崑崙外史」は筑摩全集類聚版の脚注も、最新の岩波新芥川龍之介全集の注も伴に不詳としているのである。更に、この張篤慶なる人物をネット上で検索しても、邦文の記載では数件、それも中国の出版物の彼を含む文人の年譜書名「馮惟敏、馮溥、李之芳、田雯、張篤慶、郝懿行、王懿榮年譜」が上がって来るだけなのである。即ち、今現在、芥川龍之介の「骨董羹」を読む日本人の殆んどが知らない事実だと言ってよい。芥川龍之介が言った「崑崙外史」に関わるこの部分を、僕等日本人の多くが、訳も分からず読んでいた、私のように誤魔化して分かった積りでいた、という事実がはっきりしたのである。

 早速、Seki氏への御礼と共に、厚かましくも、この「聊齋志異題詞」の原文をお教え頂きたい旨、返信申し上げたところ――当然の事ながら現在、邦訳の出ている「聊齋志異」には所収していないと思われる。私の所持する3種類には少なくともない。そもそも何処かに所収していれば誰かがとっくに気づいていたはず、いや、いなければならなかったはずである――昨日(2010年3月9日)、該当部分の版本の画像をPDFファイルにして送付して下さった。今日、それをとりあえず電子テクストに翻刻、簡単な注を附し、今まで芥川龍之介の「骨董羹」で『不詳』であった真実を詳らかにし、世界中の芥川龍之介の愛読者と共有したい。

 世界中である――Seki氏は『今後とも同じく芥川の愛読家として、国境を越えた交流を図りましょう』とおっしゃって下さった――御本人は『芥川龍之介の愛読者』とおっしゃるだけである――――が、記された御本名から、実は有名な日本文化の研究者であられるようだ――しかし、私はここでSeki氏を「同じ芥川龍之介を愛する方」とのみ、名を記させて戴くに止めたい。

 今の私の至福は、Seki氏にとっても共有されていると確信するものである。

 最後にSeki氏に深い感謝の意を表して、翻刻を示し、私の電子テクスト芥川龍之介「骨董羹」及び『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん(copyright 2009 Yabtyan)』の注及び現代語訳を補正した。

聊齋志異題詞

冥搜鎭日一編中、多少幽魂曉夢通、五夜燃犀探祕籙、

十年縱博借神叢、蕫狐豈獨人倫鑒。干寶眞傳造化工、

常笑阮家無鬼論、愁雲颯颯起悲風、

盧家冥會自依稀、金盌千年有是非、莫向酉陽稱雜俎、

還從禹人問靈威、臨風木葉山魈下、研露空庭獨鶴飛、

君自問人堪説鬼、季龍鷗鳥自相依、

搦管蕭蕭冷月斜、漆燈射影走金蛇、嫏嬛洞裏傳千載、

嵩獄雲迸中九華、但使後庭歌玉樹、無勞前席問長沙、

莊周漫説徐無鬼、惠子書成已滿車、

          崑崙外史張篤慶歴友題

[やぶちゃん翻刻注:底本は上記Seki氏より頂戴した「同治丙寅年」西暦1866年刊「聊齋志異評註 青柯亭初雕維堂藏板」の部分画像を用いた。前文で「とりあえず電子テクストに翻刻し」としたのは、この詩が私には難解で訳はおろか、書き下しすらもままならないからである。まだまだこの注は未完成である。もう少し、お時間を頂きたい。

・「冥搜鎭日一編中」という冒頭から意味も分からずに翻刻するのであるが、ここ以外の活字を見ても「日」は確かに「日」であって「曰」ではない。

・「十年縱博借神叢」の「博」は原文では「扌」であるが、「博を縱(ほしいまま)にして」と意と判断し、補正した。「搏」や「塼」では意味が通らないように思われる。

・「蕫狐豈獨人倫鑒」芥川が引用したのはこの部分である。

・「張篤慶」(16421720)清代前期の文人。字は歴友、号は厚齋。別号、崑崙山人、崑崙文史。山東淄川(しせん:現在の山東省淄博市。)。の人。提督学政(:省の学務・教育の監督。)であった著名な詩人であった施閏章(しじゅんしょう 16181683)に師事、崑崙山麓に住み、博学才穎、詩文の名声高い人物で、「聊齋志異」の作者蒲松齡の友人あった。著作に「班范肪截」「両漢高士伝」「五代史肪截」「崑崙山房集」等がある(張篤慶についての事蹟は主に中文サイトの「馮惟敏、馮溥、李之芳、田雯、張篤慶、郝懿行、王懿榮年譜」のブック・レビュー記事等を参考にした)。]

2010/03/09

耳嚢 停滯の事

次話柄森鷗外最後の一句が原話と同話成由なれど當時御仕置に関はりて不審成箇所是有只今御公儀専門と致せし者に御伺立候附暫公開事停滯致候間皆々樣には乞御期待程願上候以上

2010/03/06

耳嚢 巻之二 百姓その心得尤成事

「耳嚢 巻之二」に「百姓その心得尤成事」を収載した。

旅立つ前の一仕事。では、随分、御機嫌よう。

 百姓その心得尤成事

 淺間山燒にて、上州武州數ケ村砂降泥押の難儀大方ならず。右御普請の奉行として予廻村せし折から、厩橋(まやばし)領大久保村の者どもは、三分川七分川といへる利根川押切り候處の堀割、并に天狗岩堰の用水路埋り候所を掘候ため人足抔出しけるが、右兩所共大造(たいさう)の浚(さらひ)故、近郷數ケ村の老少男女數萬人出て其業をなしけるに、年頃十計の小兒に笊(ざる)を持せ土をはこばせ、乳母やうの者小僧など召連たれば、いかなる者と尋しに、大久保村の内富民の子供の由也。依之右場所の懸り橋爪某、子供故望みて出しやと尋ければ、彼古老答て、小鬼故望みもいたし候へども、かれが親はきびしきおのこにて、此度淺間燒にて國民困窮し、其家督たる田畑を失ひ、或は養ひの基たる用水路を潰し、誠に天災の遁れざる時節、公より國民志にて莫大の御普請被仰付、諸役人も寒凍を侵して日々出役なるに、兎もかふもいたし暮せばとて安居せんは勿躰(もつたい)なし。小兒抔はかゝる時節もありし、かゝるおゝやけの御惠みもありしと覺へ候へば、末々に至る迄難有と申所も辨へ候者也とて、此頃日々右倅を出し候と語りしとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:都会人の極悪・独善性・無慈悲に対し、地方の百姓の希有の慈悲心で連関。一連の浅間山大噴火復興事業での実見記の一篇。

・「淺間山燒」以下、ウィキの「浅間山」の「記録に残る主な噴火」から当該箇所を引用する。天明3(1783)年4月9日『に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1ヶ月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた、6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになり、日を追うごとに間隔は短くなっていき、その激しさも増していった。7月6日から7月8日の噴火で3日間で大災害を引き起こしたのである。北西方向に溶岩流(鬼押し出し溶岩流)と北東方向に吾妻火砕流が発生、いずれも群馬県側に流下した。その後、約3ヶ月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石なだれとなって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。嬬恋村鎌原地域と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込み、一旦川を堰き止めた。天然にできたダムはすぐに決壊し、泥流となり大洪水を引き起こして吾妻川沿いの村々を飲み込んだ。本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運んでいく。このとき利根川の支流である江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられたのである。このとき被災した死者は、約1,500人に達した(浅間焼泥押)』(この天明の大噴火の死者総数は資料によって極端な差があり、一部には20,000人とも記される)。『長らく溶岩流や火砕流と考えられてきたが、最も被害が大きかった鎌原村(嬬恋村大字鎌原地区)の地質調査をしたところ、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、昭和54年から嬬恋村によって行われた発掘調査では、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている』。根岸はこの浅間大噴火後の天明3(1783)年、47歳の時に浅間復興の巡検役となった。そして、その功績が認められて翌天明4(1784)年に佐渡奉行に抜擢された。「卷之一」の「人の運は測り得ぬものである事 又」に浅間大噴火関連話柄が既出する。

・「上州」上野国。現在の群馬県。

・「武州」武蔵国。現在の東京都・埼玉県及び神奈川県東部を含む。

・「厩橋領大久保村」「厩橋」は現在の群馬県前橋市のことで、古くは「まやばし」と呼称し「厩橋」と書いた(前橋となったのは慶安年中(16481651)の酒井忠清が城主であった頃という)。但し、この大久保村は現在、北群馬郡吉岡町に編入されている。群馬県県のほぼ中央に位置し、榛名山南東山麓と利根川流域を占める。西半分が榛名山裾野の一部、東半分が洪積台地。町内には特徴的な古墳群を有する。大久保村はこの榛名山東麓の利根川沿岸にあった。

・「三分川七分川」岩波版長谷川氏注は、火山灰や泥流の土砂によって『川の埋まった程度を表わす語か。』とあるが、どうも解せない。これは文脈からは『大久保村の村の衆が、「三分川」とか「七分川」と部分的に呼んでいる利根川本流』という意味と推測され、足して一割になるのもその総体が「利根川本流」であるからではないかと思われた。加えて後文の「右兩所共」というのは正にこの「三分川」と「七分川」の二箇所を指しているとしか読めないのも気になったのである。そこで検索を掛けてみると、「利根川上流河川事務所」HPの「利根川の碑」の群馬県伊勢崎市戸谷塚410に所在する戸谷塚観音の利根川碑についての記載中に、ズバリ、「三分川七分川」という『河川名』が出現するのに出逢った(改行を省略し、下線部はやぶちゃん)。

   《引用開始》

沼の上から流下した利根川は南に八丁河原を衝いて左に折れ、島村の河原で烏川と合流していた。その後この流れは埋まり、新たに北方に流路ができた。それから後ここを掘り下げて利根の水を三割ここに流し、北の流路に七割を流下させた。ところが天明3年の浅間噴火で北の流れはすっかり埋まり、三割分流れていた流路が利根川の幹流となり今日におよんでいるので、この川を三分川といい、埋まった北流を七分川というのである。今の沼の上から東へ歩いてみたが、現在は柴町、戸谷塚、福島あたりに利根の水は一滴も流れていない。すなわち七分川の痕跡は見出せない。本庄から坂東大橋を渡り、すこし先の戸谷塚に子安観音堂がある。ここは浅間山の噴火の際押し流されて来た多くの水死人を葬ったところである。萩原進氏の「上州路」に「天保3年7月8日の浅間山大爆発は少なくとも千数百人の人命を失った・・・。急に泥流に押し流された吾妻川ぞいの人々は、家もろとも利根川に押し出された高熱の泥流に加えて酷暑の夏のことであったからその死骸はほとんどふらんして下流のあちこちに打ち上げられたものが少なくなかった。土地の人々は、気の毒なこれらの無縁仏を厚く葬り、その上供養塔をたてた。流は川巾が広く浅瀬があるので、なお多くの死骸が打ち上げられた。佐波郡の五料、柴、戸谷塚もそうだ・・・。子安観音境内に一基の座り地蔵尊がある。・・・これは半けっかの座像で、台石の上の竿石の表に「供養塔」、右に「天明4年辰年11月4日」左に「施主、戸谷塚村」と刻してある。・・・」ここには今は利根川の流れはないが、昔の七分川の流路がここにあったことが証拠立てられる。

   《引用終了》

前橋より下流の話柄であるが、これによって「三分川七分川」とは、大河である利根川主流の部分的に分岐した流路に対する名称であることが証明されたと言ってよい。これぞネット時代の、目から鱗の検索の醍醐味と言うべきである。

・「天狗岩堰の用水路」大久保村と漆原村の境界付近から利根川の水を引き入れた人工の用水路の名。何故、天狗と呼称するかについては、財団法人地域活性化センターが作る「伝えたいふるさとの100話」の前橋市の項に「天狗岩用水をつくり農民から敬慕された総社そうじゃ領主」に以下の記載がある(読みの多くと語釈の一部を省略した)。

   《引用開始》

 慶長六年(一六〇一年)関ヶ原の戦いの翌年、総社領主となった秋元長朝(あきもとながとも)は、灌がい用の水が得られれば、水不足とたび重なる戦いで荒れ果てた領地を実り豊かな土地にできると考え、用水をつくることを計画しました。

 長朝は総社領(現在の前橋市総社町あたり)の東の端を流れる利根川から水を取ろうと考えました。しかし、土地が川の水位より高い位置にあったので、上流の白井領に水の取り入れ口をつくらなければ、水を引くことができませんでした。

 そこで、白井領主の本多(ほんだ)氏の許しを得るために、高崎領主の井伊氏に協力を求めて相談しましたが、「雲にはしごを架けるようなもので無理であろう」といわれました。

 しかし、長朝の決意は固く、井伊氏に仲だちを頼み、本多氏と何度も話し合いました。その結果、水の取り入れ口を白井領につくることが許されて、用水工事の測量を始めることができました。

 知行高が六千石の長朝にとって用水づくりは経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成しない大変な事業でした。長朝は領民に協力してもらうために、三年間年貢を取り立てないことにして、慶長七年(一六〇二年)の春に用水工事に取りかかりました。

 工事は最初のうちは順調に進みましたが、取り入れ口付近になると大小の岩が多くなり、工事を中断することもありました。そして最後には、大きな岩が立ちはだかって、とうとう工事は行き詰まってしまいました。

 長朝や工事関係者、領民たちは困り果てるばかりでした。思いあまった長朝は、領内の総社神社にこもって願をかけました。その願明けの日、工事現場に突然一人の山伏が現れて、困り果てている人々にいいました。

 「薪になる木と大量の水を用意しなさい。用意ができたら、岩の周りに薪を積み重ねて火を付けなさい。火が消えたらすぐに用意した水を岩が熱いうちにかけなさい。そうすれば岩が割れるでしょう」

 人々は半信半疑でしたが、教えられたとおりにしたところ、見事に岩が割れました。人々がお礼をいおうとしたら、すでに山伏の姿がありませんでした。そんなことから、誰とはなくこの山伏を天狗の生まれ変わりではないかと語り合うようになりました。

 この話が、天狗が現れて大きな岩を取り除いたといわれている「天狗来助(てんぐらいすけ)」の伝説です。その後、人々は取り除かれた岩を天狗岩、用水を天狗岩用水と呼ぶようになりました。

 総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に祠(ほこら)を建ててまつることにしました。これが「羽階権現(はがいごんげん)」です。今も、総社町にある元景寺の境内にまつられています。

 長朝が計画し領民たちの協力によって進められた天狗岩用水は、三年の年月をかけて慶長九年(一六〇四年)にようやく完成しました。この用水のおかげで領内の水田が広がり、総社領は六千石から一万石の豊かな土地になりました。

 秋元氏は長朝の子である泰朝(やすとも)のときに、甲州谷村(こうしゅうやむら)(現在の山梨県都留市)に領地を移されて総社の土地を離れますが、総社領の農民は用水をつくった恩人である長朝に感謝を込めて、慶長九年より一七二年後の安永五年(一七七六年)、秋元氏の菩提寺である光巌寺(こうがんじ)に「力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ)」(田に力(つと)めて愛を遺(のこ)せし碑)を建てました。力田遺愛碑を建てるにあたって、村々では農家一軒につき一にぎりの米を出し合ったと伝えられています。

 このことは、農民が領主であった長朝をどんなに慕っていたかを示すものといえましょう。

 封建時代、領民が領主の業績をたたえて建てた碑はめずらしいものです。碑文の最後には領民らが碑を建てたことがはっきりと書かれています。刻まれた言葉には、年代を超えた領主と領民の温かい人間関係も見てとることができます。

   《引用終了》

・「大造の浚(さらひ)」の「さらひ」は底本のルビ。大規模な河川の浚渫作業。

■やぶちゃん現代語訳

 さる百姓の心懸け殊勝なる事

 浅間山噴火の際は、上州・武州数百箇村、砂降り、泥流押し寄せ、その被害は尋常ではなかった。

 この噴火災害復興の普請奉行として、私はこれらの地域の村々を廻村致いたのだが、厩橋領大久保村の村の衆は――現地で「三分川」及び「七分川」と呼んでいる利根川本流の二箇所の川筋の、泥流が押し切ってずたずたに致した堀割並びに天狗岩堰の用水路など――すっかり埋まってしまった場所を掘り返すため、人足を出して御座ったが、この「三分川」及び「七分川」二箇所は大規模な浚渫作業となった故、近郷の数箇村の老若男女数万人が出て、辛い川浚いの作業に従事して御座った。

 その巡検中、ふと見ると、年の頃十歳ばかりの子に笊を持たせ、土を運ばせておる。ところが、その子の傍らには、その子の乳母らしき者、また、その他、如何にも幼年の小僧としか思えぬような者をも召し連れており、その誰もが笊を持って働いておるので、

「あれらは、如何なる者どもか?」

と尋ねたところ、大久保村の富農の倅との由。

 そこでその現場の監督をして御座った橋爪某が、

「子供のこと故……自ずから望んで出ておるのか?」

と土地の古老に質してみたところ、

「へえ、子供のこと故、何とのう様変わって御座れば、好奇心からも自ずから望んでやっておりますことながら……あの子らの父親は、これが実に厳しい男にて、『この度の浅間山噴火により、上野・武蔵の国々の民百姓、甚だ困窮致し、皆、その財産たる田畑を失い、また、その源と言うべき用水路を潰され、誠に天の災い、逃るべからざる折柄、公(おおやけ)より諸国民への御恵みこれあり、莫大な労金を以って災害復興の御普請、仰せ付けられ、諸役人方も寒気を冒して、日々現場に出役なさっておられるのに、ともかくも聊かの蓄えあるによって暮らしの成り、安居して無為ならんは、勿体なくも理不尽なること! 子供心には――このような危難の折りもあった、また、その折りにも、かの公の御恵みもあった――ということを覚えておくことが出来れば、後々、年寄るまでも――有り難きこと――と、申す思いを弁えておることが、出来るというものである。』と言うて、かく、日々に、己が倅を出役させて御座いまする。」

と語ったのであった。

2010/03/05

イーハトーボへ

明日早朝「銀河鉄道の夜」を片手にイーハトーボへ。

随分御機嫌よう――

耳嚢 巻之二 淺草觀音にて鷄を盜し者の事

「耳嚢 巻之二」に「淺草觀音にて鷄を盜し者の事」を収載した。

 淺草觀音にて鷄を盜し者の事

 淺草觀音堂前には、所々より納鷄(をさめどり)鳩(はと)など移しく、參詣の貴賤米大豆等を調へ蒔て右鷄にあたへけるなり。天明五年師走の事なりしに、大部屋中間の類ひ成しや、脇差をさし看板一つ着したる者、右鷄を二ツ捕へしめ殺して持歸らんとせしを、境内の楊枝みせ其外の若きもの共大勢集りて、憎き者の仕業也とて、衣類下帶迄を剥取棒しばりといふものにして、右衣類を背に結付脇差も同じやうにして、殺せし鷄を棒の左右に付て、大勢集りてはやしたて花川戸の方迄送りしよし。いかゞなりしやと、予が許へ來る人の昨日見しとて語りぬ。佛場の事なれば結縁(けちえん)法施(ほふせ)等はなさずとも、納鷄を〆殺しなどせし志、極重惡心といふべけれ。萬人に恥辱をさらしけるは則佛罰ともいふべけれ。然し右境内の者ども、かゝる狼籍自刑を行ふ事いかなる心ぞや。若(もし)右の者舌を喰ひ身を水中に沈めなば、公の御吟味にもなりたらんは、かく計らひし者も罪なしともいわれじ。却て佛慮にも叶ふ間數不慈(ふじ)の取計ひと爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:神仏にかこつけた「霊験」なるものに盲目な庶民への批判から、仏罰にかこつけた「自刑(私刑・リンチ)」に及ぶ残忍なる庶民への批判で連関。後に名町奉行となる根岸の熱い思いが伝わってくる。

・「淺草觀音堂」金龍山浅草寺。本尊は聖観音菩薩で当時は天台宗(第二次世界大戦後、聖観音宗の総本山に改宗)。

・「納鷄鳩」寄進に境内に放つ訳であるが、これは所謂、江戸時代に流行った放ち泥鰌や放ち鰻・放ち鳥の習慣と同じで、殺生戒の御利益を狙ったもので、更に派生的にそうした鳥に餌を買って与えることが施しと見なされ、更なる利益(りやく)を呼ぶというわけである。私が小さな頃は、よく夜店で雄のヒヨコが売られており、大きくなって鳴き声殊の外五月蠅く、体よく神社に持っていって捨てたという話をよく聴いた。私の義父なんども、妻が小さな時に可愛がっていた雄鶏の「ピピちゃん」を納め鶏と称して熱田神宮に捨てちゃったの、と未だに恨み節を言っておる。嘗て訪れたタイの寺院では、蝶や亀、蛇、雀を始めとする多種の鳥の類等、多様な「放ちもの」を見たが、鳥の類は放った後、必ず売主の元に戻って来るので最も安上がりです、と現地ガイドが言っていたのも思い出す。

・「天明五年」西暦1785年。

・「大部屋中間」「大部屋」は大名屋敷で格の低い中間や小者(こもの)、火消し人足などが集団で寝起きした部屋を言う。足軽と小者の間に位置する中間は多くの場合、渡り中間(屋敷を渡り歩く専門の奉公人)が多く、脇差一本が許され、大名行列の奴のイメージが知られるのだが、年季契約で、百姓の次男坊以下が口入れ屋を通じて臨時雇いされたりし、事実上の下男と変わらない連中も多くいた。ここはそうした格下の質の悪い中間の謂いであろう。

・「看板」武家で、主家の紋所を染め出して、中間や出入りの者に与えた衣服。

・「楊枝みせ」楊枝店は浅草寺境内にあった床店(とこみせ:商品販売のみで人の住まない店のこと。)で、楊枝やお歯黒の材料などを売った店のことを言う。女を置いて、密かに売春の場ともなった。「楊枝屋」とも。

・「棒しばり」民間で行われた私刑の一種。公刑の晒(さらし)を真似たもので、ここに示されたように裸にして、背に十文字に棒を縛り付け、その棒の先に制裁を受けた内容を示す証拠の品をぶら下げ、市中を引き回すもの。花川戸ならば、それほどの距離ではない。

・「花川戸」現在の東京都台東区東部、浅草寺の東の隅田川西岸に位置する町の名。南部が雷門通りに、西部が馬道通りに、北部が言問通りに接する。町を東西に二天門通りが、南北に江戸通りが通る。古くは履物問屋街であった。確かに、それほどの距離ではない。しかし、ここは隅田川岸である。簀巻き同様、この中間、隅田川に突き入れられた可能性、私は極めて高いと思うのである。

・「結縁」仏に帰依して後日の悟達のために因縁を結ぶ祈願祈誓や参拝。

・「法施」仏に向かって経を読んだり、法文を唱えたりすること。「ほっせ」とも読む。

・「自刑」私刑。

■やぶちゃん現代語訳

 浅草観音にて鶏を盗んだ男の事

 浅草観音堂前にはあちこちからの納め鶏・納め鳩が夥しく棲みついて御座って、参詣の者は、貴賤を問わず、米や大豆を買うて蒔き、これらに施すのが習わしとなって御座る。

 天明五年師走のことであったが、大部屋中間の類いであろうか、脇差一本差し、看板一枚を着た如何にもやくざな男が、境内にいた鶏二羽をとっ捕まえて絞め殺し、持ち帰らんとした。

 それを見咎めた境内の楊枝店その他の若い衆が大勢集まって、

「ふてえ野郎だ!」

「何たる仕業!!」

と、捕えられた男は衣類・下帯まですっかり剥ぎ取られて、あそこも丸出し、素っ裸の上に――これを巷間に棒縛りという――その引き剥がした衣類を丸めて脇差と一緒に結わい付けて、左右の腕を張り渡した横棒の先に、彼が殺した鶏の死骸をぶら下げたままに、大勢でどやしつけ、囃し立てながら、花川戸辺りまで引き回して行ったとの由。

「……その後、どうなりましたやら……」

と、拙宅を訪れた人が、昨日見た話、と前置きの上、私に語った。

 そもそも仏を祭った神聖なる場のことなれば、結縁・法施(ほっせ)は致さずとも、納め鶏を絞め殺すなんどという所行、これ、極めて重き悪心に満ちた、悪(わる)と言うにふさわしい者ではあろう。巷の万人の民に、その恥辱を晒すこととなったは、則ち、仏罰ともいうべきものではある。

 しかし――この境内の者ども、かかる乱暴狼藉の私刑を行うというは、如何なる心積りにてあるか!

 もし、この男、かかる私刑の弾みに舌を嚙んで死ぬる、或いは、冗談半分、川に身を投じられて、そのまま溺れ死ぬるとなれば、これは逆に公(おおやけ)の御吟味ともなることなれば――そうなったとしたら、かくこの男を罰するを計らった者にも罪がないとは、到底、言えぬ。却って仏の広大無辺大慈大悲の深奥深慮にも叶うとはとても思われぬ惨忍至極の無慈悲なる取り計らい、とここに記しおくものである。

2010/03/03

耳嚢 巻之二 人の不思議を語るも信ずべからざる事 又は やぶちゃんの関係妄想的大脱線注 

「耳嚢 巻之二」に「人の不思議を語るも信ずべからざる事」を収載した。

この根岸の鋭い観察眼と、論理的な一面は僕の頗る好むところである。

また今回の注には、久々に僕の授業みたような関係妄想的大脱線を注にしくんでおいた。お楽しみあれ。

 人の不思議を語るも信ずべからざる事

 小湊誕生寺は、日蓮出生(しゆつしやう)の舊跡にて大地也。其最寄に日蓮矢疵養生の窟あり。今日は日蓮の像を安置して庵室あり。誕生寺は海邊なるが、夫より海邊に付少し山へ登りたる所也。予川々御普請の御用に付誕生寺へも詣で、右の岩窟へも古老の案内に任せ村移りの序立寄しに、右岩窟の内、其邊には白く鹽の付て居しを、所の者并召連れし者抔申けるは、此鹽は山上にて此通り生じ侯事、偏に宗租の悲願なれ。諸國より來る道者旅人等、此鹽を貯、眼を洗ひ或は疵抔を治するに至て妙也と語りぬ。げにも岩窟の内に鹽の生じぬる事も不思議と、召連れし宗旨の者など、紙に包み信心渇仰(かつぎやう)し懷中しける。夫より段々山を越へ村をうつりし侍るに、海上遠からぬ所の岩或は石古木には、風の吹荒候節自然と潮氣運び候ゆへや、右日蓮の窟の通り鹽を付てあり。道端の石地藏又は踏石にも有なれば、是も高租上人の悲願なるやと笑ひけるが、聊の事も神佛もたくしぬれば自然と靈驗もある也。可笑しき事也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。それにしても根岸家の宗旨は何であったのか。ここまでの話柄全体を俯瞰してみると、彼はかなり神道系の霊験に受容的であることが伺われる。少なくとも、本話柄によって東国武士に比較的多く見られる日蓮宗でないことだけは明らか。

・「小湊誕生寺」現在の千葉県鴨川市小湊にある日蓮宗の大本山である小湊山誕生寺。日蓮は貞応元(1222)年に小湊片海に生れ、12歳までこの地に暮らした。建治2(1276)年に日蓮の直弟子日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立したが、明応7(1498)年及び元禄161703)年の大地震や津波によって損壊、現在地に移転した。その後、26代日孝が水戸光圀の庇護を受けて七堂伽藍を再興、小湊山誕生寺と改称したが、宝暦8(1758)年の大火により仁王門を残して焼失、天保131842)年になって49代日闡(にっせん)により現在の祖師堂が再建された。私は少年の頃、ここを訪れた記憶がある。鯛の浦で鱗を煌めかせて舞い上ってくる鯛の鮮やかな映像と、海岸動物が大好きな私のために父が岩場でいろいろ採って呉れているうちに、役所の係員が密漁者と勘違いしてこっぴどく叱られているのを目の当たりにして、父がひどく可哀想になった思い出が妙に脳裏にこびりついている。そして、次は、「あのシーン」で再び私は「そこに」出逢った――。

 斯んな風にして歩いてゐると、暑さと疲勞とで自然身體の調子が狂つて來るものです。尤も病氣とは違ひます。急に他の身體の中へ、自分の靈魂が宿替をしたやうな氣分になるのです。私は平生の通りKと口を利きながら、何處かで平生の心持と離れるやうになりました。彼に對する親しみも憎しみも、旅中限りといふ特別な性質を帶びる風になつたのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、又歩行のため、在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來たのでせう。其時の我々は恰も道づれになつた行商のやうなものでした。いくら話をしても何時もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題には觸れませんでした。

 我々は此調子でとう/\銚子迄行つたのですが、道中たつた一つの例外があつたのを今に忘れる事が出來ないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊といふ所で、鯛の浦を見物しました。もう年數も餘程經つてゐますし、それに私には夫程興味のない事ですから、判然とは覺えてゐませんが、何でも其所は日蓮の生れた村だとか云ふ話でした。日蓮の生れた日に、鯛が二尾磯に打ち上げられてゐたとかいふ言傳へになつてゐるのです。それ以來村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至つたのだから、浦には鯛が澤山ゐるのです。我々は小舟を傭つて、其鯛をわざ/\見に出掛けたのです。

 其時私はたゞ一圖に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫がかつた鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。然しKは私程それに興味を有ち得なかつたものと見えます。彼は鯛よりも却つて日蓮の方を頭の中で想像してゐたらしいのです。丁度其所に誕生寺といふ寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでせう、立派な伽藍でした。Kは其寺に行つて住持に會つて見るといひ出しました。實をいふと、我々は隨分變な服裝をしてゐたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠を買つて被つてゐました。着物は固より双方とも垢じみた上に汗で臭くなつてゐました。私は坊さんなどに會ふのは止さうと云ひました。Kは強情だから聞きません。厭なら私丈外に待つてゐろといふのです。私は仕方がないから一所に玄關にかゝりましたが、心のうちでは屹度斷られるに違ないと思つてゐました。所が坊さんといふものは案外丁寧なもので、廣い立派な座敷へ私達を通して、すぐ會つて呉れました。其時分の私はKと大分考が違つてゐましたから、坊さんとKの談話にそれ程耳を傾ける氣も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いてゐたやうです。日蓮は草日蓮と云はれる位で、草書が大變上手であつたと坊さんが云つた時、字の拙いKは、何だ下らないといふ顏をしたのを私はまだ覺えてゐます。Kはそんな事よりも、もつと深い意味の日蓮が知りたかつたのでせう。坊さんが其點でKを滿足させたか何うかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向つて日蓮の事を云々し出しました。私は暑くて草臥れて、それ所ではありませんでしたから、唯口の先で好い加減な挨拶をしてゐました。夫も面倒になつてしまひには全く默つてしまつたのです。

 たしかその翌る晩の事だと思ひますが、二人は宿へ着いて飯を食つて、もう寐やうといふ少し前になつてから、急に六づかしい問題を論じ合ひ出しました。Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事に就いて、私が取り合はなかつたのを、快よく思つてゐなかつたのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だと云つて、何だか私をさも輕薄ものゝやうに遣り込めるのです。ところが私の胸には御孃さんの事が蟠まつてゐますから、彼の侮蔑に近い言葉をたゞ笑つて受け取る譯に行きません。私は私で辯解を始めたのです。

 其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自説を主張しました。するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。

 私が斯う云つた時、彼はたゞ自分の修養が足りないから、他にはさう見えるかも知れないと答へた丈で、一向私を反駁しやうとしませんでした。私は張合が拔けたといふよりも、却つて氣の毒になりました。私はすぐ議論を其所で切り上げました。彼の調子もだん/\沈んで來ました。もし私が彼の知つてゐる通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだらうと云つて悵然としてゐました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。靈のために肉を虐げたり、道のために體を鞭つたりした所謂難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどの位そのために苦しんでゐるか解らないのが、如何にも殘念だと明言しました。

 Kと私とはそれぎり寐てしまいました。さうして其翌る日から又普通の行商の態度に返つて、うん/\汗を流しながら歩き出したのです。然し私は路々其晩の事をひよい/\と思ひ出しました。私には此上もない好い機會が與へられたのに、知らない振をして何故それを遣り過ごしたのだらうといふ悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいといふ抽象的な言葉を用ひる代りに、もつと直截で簡單な話をKに打ち明けてしまへば好かつたと思ひ出したのです。實を云ふと、私がそんな言葉を創造したのも、御孃さんに對する私の感情が土臺になつてゐたのですから、事實を蒸溜して拵らえた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原の形そのまゝを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だつたでせう。私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ事をこゝに自白します。氣取り過ぎたと云つても、虚榮心が崇つたと云つても同じでせうが、私のいふ氣取るとか虚榮とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです。

 我々は眞黑になつて東京へ歸りました。歸つた時は私の氣分が又變つてゐました。人間らしいとか、人間らしくないとかいふ小理窟は殆んど頭の中に殘つてゐませんでした。Kにも宗教家らしい樣子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも靈がどうの肉がどうのといふ問題は、其時宿つてゐなかつたでせう。二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました。それから兩國へ來て、暑いのに軍鶏を食ひました。Kは其勢で小石川迄歩いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ應じました。

 宅へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚ろきました。二人はたゞ色が黒くなつたばかりでなく、無暗に歩いてゐたうちに大變瘠せてしまつたのです。奥さんはそれでも丈夫さうになつたと云つて賞めて呉れるのです。御孃さんは奥さんの矛盾が可笑しいと云つて又笑ひ出しました。旅行前時々腹の立つた私も、其時丈は愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久し振に聞いた所爲でせう。

勿論、「こゝろ」である(「先生と遺書」三十と三十一の章を繋げて記した。各章の鉤括弧は意識的に外した。因みに、この鉤括弧が曲者であることを皆さんはご存知か? 「先生と遺書」の鉤括弧は各章の頭にはついていながら、終わりにはついていないのだ)。この場面の直前には例の強烈な一場面「ある時私は突然彼の襟頸を後からぐいと攫みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向の儘、丁度好い、遣つて呉れと答へました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。」がある(二十八)。この誕生寺の先生とKの訪問は極めて重要なシークエンスである。生家が浄土真宗の寺であったKは、肉食妻帯のその思想を頗る嫌っていたと考えてよい。Kの思想を探るには日蓮の思想が不可欠だ。

――そうして――

Kとは賢治のKでもある。浄土真宗の徒であった父宮澤政次郎との確執、「雨ニモマケズ」には最後に以下の経文が記されていることを誰もが知っているとは私は思わない。否、「雨ニモマケズ」を紹介するに際して、何故にそれを排除してきたのかを、考えるべきである。私はそのことが、賢治の解読を賢治のイメージを不当に歪曲しているとさえ、私は思うのである。私は信仰もなく、日蓮を尊敬もしない(寧ろ人間としての親鸞の方が頗るつきに好きである)。しないが、このことに対しては大いに「不当」であると感じるのである――。

   南無無邊行菩薩

  南無上行菩薩

 南無多寳如来

南 無 妙 法 蓮 華 経

 南無釈迦牟尼佛

  南無浄行菩薩

   南無安立行菩薩

――以上、やぶちゃんの授業的な大脱線でした。御粗末。

・「日蓮矢疵養生の窟」現在の鴨川市内浦の岩高山日蓮寺にある。誕生寺の北東約1㎞の山上にあり、小松原の法難(現千葉県鴨川市小松原で予てより恨みを持っていた念仏信者で地頭の東条景信が日蓮を襲い、弟子日暁と信者工藤吉隆が斬殺され、日蓮も額を斬られて左手を骨折して重傷を負った)の際、この岩高山の窟の岩砂を削り、血止めに用いたという伝承が残る。剣難厄除けに効ありとされる。

・「大地」底本では右に『(大寺カ)』と注する。それで採る。但し、前掲した通り、宝暦8(1758)年の大火で誕生寺は仁王門以外既に焼失しており、根岸の言うのは規模(敷地)のことと思われ、なればこそ正しく「大地」ではある(そこまで皮肉に訳すことはやめた)。

・「川々御普請」幕府の基本政策の一つである用水普請(河川・治水・用水等の水利の利用事業)の一つで、堰普請や土手普請を含む河川改修事業。岩波版の長谷川氏の「卷之一」の「妖怪なしとも極難申事」の注には根岸が『御勘定吟味役の時、天明元年(一七八一)四月、関東川々普請を監督の功により黄金十枚を受けている』と記す(底本の同項の鈴木氏注にも同様の記載があり、そこには「寛政譜」からと出典が記されている)。根岸は安永5(1776)年、42歳で勘定吟味役に就任しており、天明3(1784)年まで同役に就いている。

・「悲願」これは、仏や菩薩が、この世の生きとし生ける総ての衆生を済度するために立てた誓願と同義の使用法。

・「信心渇仰」喉が渇けば水を欲し、山を慕えばそれを仰ぐように、仏を信じて慕い求めること。

・「越へ」の「へ」はママ。

・「たくし」は「託し」。

・「聊の事も神佛もたくしぬれば自然と靈驗もある也」ここで根岸は、必ずしも全否定している訳ではない。所謂、プラシーボ効果があることをも認めた上での、現実的考察として読むべきであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 人が摩訶不思議なことだと言うても容易には信ずべきでない事

 安房小湊の誕生寺は日蓮出生の地と伝えられる大寺(おおでら)である。そのすぐ近くに日蓮矢傷養生の窟(いわや)がというのがある。現在では日蓮の像を安置し、庵室も備える。誕生寺は海辺である。こちらの窟はそこから海伝いに行ったところを、少し山を登ったところにある。

 私は川々御普請御用のため、安房へも足を延ばしたことが御座って、この誕生寺へも詣で、また、件の窟へも土地の古老の案内(あない)するに任せて、次の村への職務上の移動の序でに立ち寄った。

 この窟の内壁には、所々白く塩が付着していたのだが、土地の者や召し連れて御座った者どもが申すことには、

「この塩、山上でありながら、この通り、生じて御座ること、偏えに宗祖日蓮御上人樣御慈悲の本願の顕現にて、これ、御座る。諸国から参る信者は言うに及ばず、旅人らも、この塩を貯え、目を洗い、あるいは傷なんどの癒すに用いれば、絶妙なる効験これあり!」

と語って御座った。

「如何にも。山上の窟の内に塩の生じるということ、これは確かに不思議のこと!」

と、召し連れて御座った日蓮宗を宗旨とせる部下なんどは、この塩を丁重にこそぎ落とし、紙に包み、如何にも大慈大悲日蓮上人への信心渇仰して、大事そうに懐中に収める。

 さて、その地を発し、更に山を越え、村を移って御座ったところが、道々の、海からさほど遠からぬ所の岩或いは石及び古木の表面には――風が吹き荒れたりした折り、自然、潮気が運ばれて来たからでもあろうか――かの日蓮の窟と全く同様に、塩が附着しているのである。

 道端の石地蔵から、踏みしだいておる敷石にまで附着致いておるので、

「この塩も高祖御上人様御慈悲本願ならんか? 本願大盤振舞じゃのう?」

と皮肉を言うて、皆で大笑い致いたので御座ったが、世の中、何でもないことであっても、神仏にかこつければ、自然、「霊験」とか申すものも「ある」ということになるのである。如何にも可笑しなことではある。

2010/03/02

ブログ210000アクセス記念 和漢三才圖會 巻第四十 寓類 恠類 完遂

本日の3時台に210000アクセスを突破、現在、

2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、

累計アクセス数: 210057 1日当たりの平均: 151.67

今後とも、随分、よろしゅうに!

そして

ブログ210000アクセス記念として

「和漢三才圖會」の「巻第四十 寓類 恠類」を完成、公開した。

ボーマンの耳

耳が悪くなってから、時々、両耳を指でふさぐようになった――そうすると、僕は一瞬にしてディヴィド・ボーマンになる――あのHAL9000のメモリー・センターへ侵入してゆく悲壮なボーマンに――あの時、ボーマンは宇宙の只中で、真に「たった独り」になることの覚悟の中にあるということに、君は気づいていたか?……

耳嚢 巻之二 戲藝侮るべからざる事

「耳嚢 巻之二」に「戲藝侮るべからざる事」を収載した。

 戲藝侮るべからざる事

 寶暦の頃迄存命せし歌舞妓役者市川柏莚海老藏、澤村訥子長十郎、市村河郷羽左衞門は、右類の上手名人といひし者也。或る時去(さる)屋敷にて右の者共を呼て、河東(かとう)山彦(やまびこ)など謠曲を藝して後、何ぞ三人の者共へも其業なす事も出來んやと有けるに、色々咄しはなしけれ共藝を施す事はなかりしが、海老藏長十郎申けるは、羽左衞門家に四ツ竹八ツ拍子といへる事あり、御好有れかしと申故、強て好しかば右藝を施しけるが、三味線三挺にて、羽左衞門は麻上下を着し扇を二本乞ふて立上り、右藝をなしけるに殊の外面白き事の由。勿論けやけき事にてはなく、仕舞を舞ひ候やうなる趣にて其拍子ゑもいわれざる事也。まのあたり見しと松本豆州かたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:一合二合の米行商とても侮るべからず、たかが戯れの芸とても侮るべからざるにて連関。

・「市川柏莚海老藏」二代目市川團十郎(元禄元年(1688)年~宝暦8(1758)年 享年71歳)。柏莚(はくえん)は俳号。父であった初代が元禄171704)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺されて横死(享年45歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。

・「澤村訥子長十郎」初世沢村宗十郎(貞享2(1685)年~宝暦6(1756)年 享年72歳)京都の武家の出。初世「沢村長十郎」の門人で、江戸に下り写実的演技力で評判をとり、名優とされた。誤りやすいが後に「三世長十郎」を名乗っている。ただ、この「訥子」(とつし)というは俳号は通常、三代目澤村宗十郎(宝暦3(1753)年~享和元(1801)年)のことを指すので、誤りと思われる。それとも俳号も共有したか。

・「市村河郷羽左衞門」八代目市村羽左衛門(元禄111698)年~宝暦121762)年 享年65歳)のこと。俳号「河郷」は「可江」が正しい(「かこう」と読むか)。元文2(1737)年に八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748)年に羽左衛門と改めた(以後代々「羽」を名乗るようになった)。座元を60年間務める傍ら、舞台でも若衆・女形・実事・敵役など幅広い役柄をこなした。なお、市村座は延宝初年頃(1670年代)には幕府によって歌舞伎興行権が認められ、中村座・市村座・森田座・山村座の江戸四座の一つとなった後、正徳4(1714)年 に山村座が取り潰されて江戸三座となっている。三人の没年と、「寶暦の頃迄存命せし」という語り出しからも、本話柄は宝暦元(1751)年から宝暦6(1756)年以前に限定出来るように思われる(以上の八代目市村宇左衛門の事蹟は、主にウィキの「市村宇左衛門(8代目)」を参照した。底本注で鈴木氏が「三代目市村羽左衛門」とするは誤り)。

・「河東」河東節(かとうぶし)四代目十寸見河東(ますみかとう ?~明和8(1771)年)のこと。河東節は浄瑠璃の一種で豪気にしていなせであったが、江戸中期以降、廃れ、歌舞伎の伴奏からも排除されて、お座敷での素浄瑠璃として生き残った関係上、吉原との縁が深い。現在の歌舞伎で河東節が用いられているのは「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)一本のみである。

・「山彦」初代山彦源四郎(?~宝暦6(1756)年)か。河東節の三味線方。本名村上源四郎。享保2(1717)年の江戸市村座興行で初代が初めて河東を名乗って以後、初代から四代目十寸見河東に至るまで、一貫してその三味線方を勤めた名人。河東節三味線は細棹で、その語り口は現在の山田流箏曲に影響を与えているとされる(以上は主に朝日日本歴史人物事典を参考にした)。岩波版長谷川氏は他に初代山彦源四郎の門弟であった山彦河良(かりょう ?~安永8(1779)年)の名も挙げる。河良は宝暦111761)年に四代目十寸見河東の立三味線で、先に掲げた名曲「助六所縁江戸桜」を作曲した人物であるから遜色ない。

・「四ツ竹八ツ拍子」「四ツ竹」は4045㎝の竹を裂いたものをそれぞれの手に二枚ずつ持って、カチカチ打ち鳴らして拍子を取る、現在のカスタネットのようなものを言う。「八ツ拍子」は、その四ッ竹で打つリズムのことを言うものと思われるが、不詳。但し、ネット上には、「豊年おどり」の一種である岡山市重要無形文化財指定及び岡山市伝統郷土芸能指定の「津島八朔おどり」(つしまはっさくおどり)の紹介ページ(私企業のページ)に、ズバリ「四っ竹八つ拍子」が現れる。この踊りは、『江戸時代(備前藩主池田家)から約250270年の歴史をもち、いい伝えによると、備前藩主池田家が代々御後園(後楽園)内の井田で「お田植」をする時、津島の娘たちもたびたび奉仕していてお田植が終了した後で、稲がよくできるようにと娘たちがおどり、殿さまの上覧に供したといわれています。これがもとになり、津島地方では毎年八朔(旧8月1日)に村の老若男女がそれぞれ夕涼みをかねて庭先などでおどるようになりました』。『備前藩ではたびたび盆踊りの禁止令をだしていましたが、津島八朔おどりは「盆踊り」ではなく、豊年祈願のための踊りであり、しかも質素であることから黙認されてきました』。『現在では「津島八朔おどり保存会」によって毎年8月1日に津島西坂の公園で盆踊りとしておどられております。おどりは「四つ拍子」「八つ拍子」等9種からなり、大太鼓と四っ竹で拍子をとる音頭とりの掛け声により変わっていきます。音頭は浄瑠璃(じょうるり)から引用した語句をそのまま歌詞としています』。『「津島八朔おどり」は古来から伝えられた、流れるようななめらかな踊りと音頭、四つ竹、太鼓が織り成す美しい踊りです』とある(下線部やぶちゃん)。う~む、八朔祭りではないか! これは、エクスタシーを感じぬわけが、ないのじゃ!……

・「仕舞」能楽の一部分を素で舞うこと。

・「ゑもいわれざる」の「ゑ」はママ。

・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。「卷之一」の「河童の事」にも登場した「耳嚢」の一次資料的語部の一人。先の私の年代推測(宝暦元(1751)年から宝暦6(1756)年以前)が正しければ、その当時は松本秀持2126歳、「卷之二」の執筆下限天明6(1786)年頃は56歳……と、如何にも……青春は遠い花火では、ない……いい設定じゃないの!

■やぶちゃん現代語訳

 戯れの芸も侮れぬ事

 宝暦の頃まで存命していた市川柏筵海老蔵、澤村訥子長十郎、市村何江羽左衛門は、歌舞伎界の上手・名人の呼び声も高い役者であった。

 ある時、さる御屋敷に、この三人の者どもを招いた上、主人より所望されて、同じく参って御座った十寸見河東や山彦源四郎らによって河東節が披露された後のこと、

「――何ぞ、主ら三人の内にも、何ぞ戯れに致すべき斯くなる芸はなきか――」

と、彼等三人にも主人からお声が掛かる。

 三人は暫く話し合(お)うて御座ったが、流石に浄瑠璃を一節唸るという仕儀には及ばずに御座ったものの、申し合わせたように海老蔵と長十郎の二人、揃うて口上致いたは、

「――羽左衛門家に四ッ竹八ッ拍子と言えるもの――これあり――御好みに合いますものやら――」

と申し上げる故、主人、

「是非に所望。」

とあれば、その場に御座った羽左衛門三味線方三名が三味を受け取ると、麻上下に着替えた羽左衛門、徐ろに扇を二本、主人に乞いて手に取って、すっくと立ち、その三味に合わせて……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

――と、その四ッ竹八ッ拍子なる芸をなした――そのまあ、面白いこと!……

「……いや、勿論、奇を衒うた踊りにては、これなく……そうさ、能の舞にも似て御座ったれど、違(ちご)うな……その拍子、これ、えも言われぬ絶妙なるもので御座ったのぅ……」

と、その場にあって目の当たりに見た松本豆州殿の語ったことにて、御座る。

2010/03/01

今日逢えなかった諸々の教え子へ

今日は耳の具合が悪くて、久しぶりに医者に行かねばならなかったから、一時間早く帰ってしまったのだが――もしかすると遂に逢はざりし人の面影となった諸君もいるかも知れぬ――しかし、勿論、僕は心から――「サキノハカといふ黑い花といつしよに」――

君たち一人一人の瞳に、乾杯!

今日卒業式をボイコットして学校を掃除していたI君へ

僕は今日、式場の外で君の横にいて清々しかった――

僕は確かに君の卒業を心から祝った一人であることを表明する――

今日卒業したOさんへ

式の後で泣いていた君

君の涙は美しかった――

僕は君一人のために拍手していたのだよ――

耳嚢 巻之二 兵庫屋彌兵衞松屋四郎兵衞起立の事

「耳嚢 巻之二」に「兵庫屋彌兵衞松屋四郎兵衞起立の事」を収載した。

 兵庫屋彌兵衞松屋四郎兵衞起立の事

 兵庫や彌兵衞松屋四郎兵衞とて、當時淺草花川戸にて相應に米商賣いたし、伊勢町小網町にも屋敷を持て有德の町人あり。右の者成立を聞に、借屋住居して始は舂米(つきまい)を買出して桶に入、荷ひて町方裏々へ商ひけるが、裏々にて其日過しの者は一升二升調ひ候事もならざる者あり、五合三合の米を米屋へ買ひに行兼るにより、壹合貳合づゝせり賣せしは右兩人より賣初めしと也。右兩人後には有德の米屋となりぬれ共、今以せり賣の者を右兩家よりは出しける。其譯は米商の儀は、相場をおもにいたし候者なれば、日々裏々を廻りて下賤租母婦女の事を耳に留め、或は上りを得んと思ふ時は、米を買入などする事米商ひの專一也。右手段には裏々の商ひなどよきはなしと或人の語り侍る。

□やぶちゃん注

○前項連関:武士の誠意から商人の誠意へ連関。但し、商人の誠意は、相応に儲けるための戦略でもあること。

・「淺草花川戸」現在の東京都台東区東部、浅草寺の東の隅田川西岸似位置する町の名。南部が雷門通りに、西部が馬道通りに、北部が言問通りに接する。町を東西に二天門通りが、南北に江戸通りが通る。古くは履物問屋街であった。

・「伊勢町」現在の中央区日本橋室町の一部及び本町の一部にあった町名。江戸橋北方で、堀留川から主に乾物穀類が荷揚げされる江戸商業の中心地。米問屋が多くあった。

・「小網町」同じく中央区日本橋小網町。日本橋川の江戸橋下流東岸の町名。奥州船積問屋・鍋釜問屋、商人宿が多くあった。

・「舂米」正しくは「しょうまい」と読む。米を臼で搗いて白く精米した米。つきよね。

・「せり賣」「競売」と書くが、所謂、競売・せりの意味ではなく、別義の、商品を持ち歩いて売ること、行商の謂い。

■やぶちゃん現代語訳

 兵庫屋弥兵衛及び松屋四郎兵衛事始めの事

 兵庫屋彌兵衞及び松屋四郎兵衞という、現在、浅草花川戸にて手広く米商いを致し、伊勢町や小網町にも屋敷を持っておる豪商がある。

 この者どもの仕事事始に付き、聞いた話。

 ――昔、彼らは借家住まいを致いており、当初は搗き米を仕入れ、それを桶に入れて担いでは、専ら裏町長屋を巡って売り歩いておった――今も変わらぬことなれど、裏長屋にあって、その日暮らしをする者どもの中には、一升・二升の米すら、買うもままならぬ者どもが大勢おる――また、かと言って、五合・三合のわずかな米を米屋に求めに参るも、これ、恥ずかしうて出来かねればこそ――そのような者どものために、一合・二合ずつ、量り売りを始めたは、この二人の米商人を嚆矢とする。

 後、今のように両人とも大店(おおだな)を構える豪商となったれど、実は、今以って、この量り売り行商を、両家は毎日、出だして御座るとのこと。

 その訳――米商いというもの、巷の相場を読むことが何より大事のことにて、日々裏町を廻っては、貧しい家計の婦女子の交わす世間話にも耳を留め、いろいろ聞き及んだことを合わせ鑑み、時には、この先、直ぐにでも物価が上らんとする気配やら、米相場で利益が得られるものと判断し得た折りには、即座に米の買い入れなんどをする――というのが米商いの摑みどころなので御座る。

「……このように、米相場の先行きを占うには、裏町にて商いをするに、若(し)くは御座らぬのじゃ。」

と、ある人が語って御座った。

生徒諸君に寄せる 宮澤賢治 又は 今日卒業する僕の君らへ

   生徒諸君に寄せる   宮澤賢治

この四ケ年が
    わたくしにどんなに樂しかつたか
わたくしは毎日を
    鳥のやうに教室でうたつてくらした
誓つて云ふが
    わたくしはこの仕事で
    疲れをおぼえたことはない

   (彼等はみんなわれらを去つた。
    彼等にはよい遺傳と育ち
    あらゆる設備と休養と
    茲には汗と吹雪のひまの
    歪んだ時間と粗野な手引があるだけだ
    彼等は百の速力をもち
    われらは十の力を有たぬ
    何がわれらをこの暗みから救ふのか
    あらゆる勞れと惱みを燃やせ
    すべてのねがひの形を變へよ)

新しい風のやうに爽やかな星雲のやうに
透明に愉快な明日は來る
諸君よ紺いろした北上山地のある稜は
速かにその形を變じやう
野原の草は俄かに丈を倍加しやう
あらたな樹木や花の群落が
あらたな樹木や花の群落が
あらたな樹木や花の群落が
あらたな樹木や花の群落が
あらたな樹木や花の群落が
あらたな樹木や花の群落が

 諸君よ 紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
 諸君はその中に沒することを欲するか
 じつに諸君は此の地平線に於ける
 あらゆる形の山嶽でなければならぬ

サキノハカといふ黑い花といつしよに
革命がやがてやつて來る
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である、
諸君はこの時代に強ひられ率ひられて
奴隸のやうに忍從することを欲するか
むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ
宙宇は絶えずわれらに依つて變化する
潮風や風、
あらゆる自然の力を用ひ盡すことから一足進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めなばならぬ

新しい時代のコペルニクスよ
餘りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て

新しい時代のダーヴヰンよ
更に東洋風靜觀のチヤレンジヤーに載って
銀河系空間の外にも至つて
更にも透明に深く正しい地史と
増訂された生物學をわれらに示せ

衝動のやうにさへ行われる
すべての農業勞働を
冷く透明な解析によつて
その藍いろの影といつしよに
舞踏の範圍にまで高めよ

素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである
おほよそ統計に從はば
諸君のなかには少なくとも百人の天才がなければならぬ

新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ
 
新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に變へよ

諸君この颯爽たる
諸君の未來圈から吹いて來る
透明な清潔な風を感じないのか

今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や特性はただ誤解から生じたとさへ見へ
しかも科學はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保證せぬ。

誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言つてゐるひまがあるのか
さあわれわれは一つになって……

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