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2010/03/10

耳嚢 巻之二 孝子そのしるしを顯す事/又 併載

「耳嚢 巻之二」に「孝子そのしるしを顯す事」及びその二である「又」を併載した。前者の森鷗外の「最後の一句」の刑罰に付、僕は疑問があったので同僚の日本史の先生に質問をしてみたのだが、どうも難しい問題であるあらしく、すぐには答えが頂けそうにない。「耳嚢」本文に関わる疑義ではないので、ここで公開しておくことにする。新たな展開があった折りには、その旨、追加記載をお知らせする。

今日は久しぶりに八面六臂、もう既に12時間以上、フルにHPに関わった。今日の一連の仕事は正直、誠(まっこと)、充実感を感じさせるものであったことを、ここで申し上げておきたい。

 孝子そのしるしを顯す事

 享保の頃、廻船の荷物を内々にて賣渡し、其外罪ありて大坂町奉行にて吟味の上、其科極りさらしの上死刑にも申付侯積の治定(ぢぢやう)なりしが、右の者子供三人あり、惣領は娘にて十三四、夫より九ツ七ツ計の小兒ども、日々牢屋門前に至りて親の助命の事歎き悲しみ、叱り追のけなどすれどもかつて聞入れず、命を不惜晝夜寢食を忘れて歎きければ、其譯奉行へ申立、江戸表へ伺可通由にて御仕置を延し、御城代より伺の上死刑を御赦し追放被仰付し。誠に孝心の天に通ずるといへるも僞りならぬ事也。右は予評定所留役を勤ける頃、右の者赦願の事に付書留取調て、餘り哀れなる事なれば此事も別に書留ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:地方の百姓の希有の慈悲心から、都会の町人の孝心で、少年少女の無垢なる孝心孝行で連関。本件は森鷗外の「最後の一句」(大正4(1915)年10月『中央公論』)のモデルとなった話とされるが、岩波版長谷川氏注によれば、鷗外が典拠としたものは、大田南畝(寛延2(1749)年~文政6(1823)年)が安永4(1775)年頃から文政5(1822)年頃まで見聞したものを書きとめた「一日一言」所収のものであるという。更に、同様に江戸初期から享保年間(171636)までの松崎堯臣(たかおみ 正徳六・享保元(1682)年~宝暦3(1753)年)との見聞録「窓の須佐美」の続編である「窓の須佐美追加」下にある話柄も同様で、『元文三年(一七三八)、大坂の勝浦屋太郎兵衛の事とし、子や奉行の名もしるす。』とある。

 森鷗外の「最後の一句」では、冒頭、咎人は大阪の『船乘業桂屋太郎兵衞』とし、『木津川口で三日間曝した上、斬罪に處する』旨の高札が出たのが『元文三年十一月二十三日の事』とする。

 私は「一日一言」も「窓の須佐美追加」も所持していないので、とりあえず鷗外の設定を少しく示しておく。

 桂屋太郎兵衛の罪状は以下の通り(引用は青空文庫正字正仮名版「最後の一句」を用いたが、誤読の恐れのないルビの一部を省略、ユニコード表示可能な字は正字に変更した)で、現在で言う業務上横領罪か背任罪に相当するものと思われる。

『主人太郎兵衞は船乘とは云つても、自分が船に乘るのではない。北國通ひの船を持つてゐて、それに新七と云ふ男を乘せて、運送の業を營んでゐる。大阪では此太郎兵衞のやうな男を居船頭と云つてゐた。居船頭の太郎兵衞が沖船頭の新七を使つてゐるのである。

 元文元年の秋、新七の船は、出羽國秋田から米を積んで出帆した。其船が不幸にも航海中に風波の難に逢つて、半難船の姿になつて、積荷の半分以上を流出した。新七は殘つた米を賣つて金にして、大阪へ持つて歸つた。

 さて新七が太郎兵衞に言ふには、難船をしたことは港々で知つてゐる。殘つた積荷を賣つた此金は、もう米主に返すには及ぶまい。これは跡の船をしたてる費用に當てようぢやないかと云つた。

 太郎兵衞はそれまで正直に營業してゐたのだが、營業上に大きい損失を見た直後に、現金を目の前に並べられたので、ふと良心の鏡が曇つて、其金を受け取つてしまつた。

 すると、秋田の米主の方では、難船の知らせを得た後に、殘り荷のあつたことやら、それを買つた人のあつたことやらを、人傳(ひとづて)に聞いて、わざ/\人を調べに出した。そして新七の手から太郎兵衞に渡つた金高までを探り出してしまつた。

 米主は大阪へ出て訴へた。新七は逃走した。そこで太郎兵衞が入牢してとう/\死罪に行はれることになつたのである。』

 それを裁いたのが大坂西町奉行佐佐又四郎成意(なりむね)。実在した町奉行であることが確認されている(以下のリンク先参照)。なお、この審理、実に2年余りかかっている。これについては大阪高等裁判所第2刑事部伊藤寿氏のエッセイ「森鴎外と裁判員制度」に『当時の司法制度は効率性を重視していなかった上に、大阪や京都などの幕府直轄地である天領を治める遠国奉行は、死罪といった重罰を科する場合にはわざわざ江戸の老中に伺いを立てた』からである旨、記載がある。

『西町奉行の佐佐は、兩奉行の中の新參で、大阪に來てから、まだ一年立つてゐない。役向の事は總て同役の稻垣に相談して、城代に伺つて處置するのであつた。それであるから、桂屋太郎兵衞の公事に就いて、前役の申繼を受けてから、それを重要事件として氣に掛けてゐて、やうやう處刑の手續が濟んだのを重荷を卸したやうに思つてゐた。』

 桂屋太郎兵衛には、五人の子供がいることになっている。

『長女いちが十六歳、二女まつが十四歳になる。其次に、太郎兵衞が娘をよめに出す覺悟で、平野町の女房の里方から、赤子のうちに貰ひ受けた、長太郎と云ふ十二歳の男子がある。其次に又生れた太郎兵衞の娘は、とくと云つて八歳になる。最後に太郎兵衞の始て設けた男子の初五郎がゐて、これが六歳になる。』

この内、直訴に出向くのは、いちとまつ、長太郎の三人であるが、いちが示した請願の書状の内には、実子四人を身代わりにとしている。それと別に、後半の西町奉行所御白洲の場面では、いちが、実子でない長太郎から「自分も命が差し上げたいと申して、とうとうわたくしに自分だけのお願書を書かせて、持つてまゐりました」(いちの奉行所への直接話法部分)と言って、長太郎も正式に別に身代わりを書面で申し出ている。

 御白洲の場面で描写されるいちの様子は以下の通り。「祖母の話」とはとうとう高札が出たということを太郎兵衞の女房の母「平野町のおばあ樣」が太郎兵衞の女房に知らせに来た冒頭場面を指す(鷗外はこの小説で――いちの自律的行為に関与しないからと思われる――この祖母にも女房にも名を与えていない。こういう器械的な切り捨ての仕儀こそ、私が鷗外という作家に何とも言えぬ生理的嫌悪感を感じる部分なのである)。

『當年十六歳にしては、少し穉(をさな)く見える、痩肉(やせじし)の小娘である。しかしこれは些(ちと)の臆する氣色もなしに、一部始終の陳述をした。祖母の話を物蔭から聞いた事、夜になつて床に入つてから、出願を思ひ立つた事、妹まつに打明けて勸誘した事、自分で願書を書いた事、長太郎が目を醒したので同行を許し、奉行所の町名を聞いてから、案内をさせた事、奉行所に來て門番と應對し、次いで詰衆の與力に願書の取次を賴んだ事、與力等に強要せられて歸つた事、凡そ前日來經歴した事を問はれる儘に、はつきり答へた。』

以下、映像的に魅力的な場面となる。

『長太郎の願書には、自分も姊や弟妹と一しよに、父の身代りになつて死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあつた。

 取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに氣が附かなかつた。いちが「お呼になつたのだよ」と云つた時、まつは始めておそるおそる項垂れてゐた頭を擧げて、縁側の上の役人を見た。

「お前は姊と一しよに死にたいのだな」と、取調役が問うた。

 まつは「はい」と云つて頷いた。

 次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。

 長太郎はすぐに「はい」と云つた。

「お前は書附に書いてある通りに、兄弟一しよに死にたいのぢやな。」

「みんな死にますのに、わたしが一人生きてゐたくはありません」と、長太郎ははつきり答へた。

「とく」と取調役が呼んだ。とくは姊や兄が順序に呼ばれたので、こんどは自分が呼ばれたのだと氣が附いた。そして只目をつて役人の顏を仰ぎ見た。

「お前も死んでも好いのか。」

 とくは默つて顏を見てゐるうちに、唇に血色が亡くなつて、目に涙が一ぱい溜まつて來た。

「初五郎」と取調役が呼んだ。

 やう/\六歳になる末子の初五郎は、これも默つて役人の顏を見たが、「お前はどうぢや、死ぬるのか」と問はれて、活潑にかぶりを振つた。書院の人々は覺えず、それを見て微笑んだ。

 此時佐佐が書院の敷居際まで進み出て、「いち」と呼んだ。

「はい。」

「お前の申立には譃はあるまいな。若し少しでも申した事に間違があつて、人に教へられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。

 いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたはずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言ひ放つた。其目は冷かで、其詞は徐かであつた。

「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」

「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。

 佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。

 次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡した。

 白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先の恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の德川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗の鋒は、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。』

「マルチリウム」ドイツ語“Martyrium”(発音は「マルテューリウム」が表記上近い)で「殉教・受難」の意。但し、本邦ではポルトガル語“martirio”から、切支丹宗門の間での「まるちり」=「殉教」の意としては、古くから認識されていた。

 以下、コーダは次のように淡々としている。

『城代も兩奉行もいちを「變な小娘だ」と感じて、その感じには物でも憑いてゐるのではないかと云ふ迷信さへ加はつたので、孝女に對する同情は薄かつたが、當時の行政司法の、元始的な機關が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中(うかゞひちゆう)日延(ひのべ)」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會御執行相成候てより日限も不相立儀に付、太郎兵衞事、死罪御赦免被仰出、大阪北、南組、天滿の三口御構の上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。大嘗會と云ふのは、貞享四年に東山天皇の盛儀があつてから、桂屋太郎兵衞の事を書いた高札の立つた元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、櫻町天皇が擧行し給ふまで、中絶してゐたのである。』

ここで分かることは、大嘗会がなければ、御赦免はなかったということであろう。赦免するに相応な権威の側のタテマエの論理が必要であったということである。それが「最後の一句」に対する――というよりもあくまでいちという娘など眼中にないことを演じる――「お上の事には間違は」ないという権威という機関の、唯一絶対の答えなのである。

・「享保」西暦1716年から1735年。

・「廻船」国内沿岸の物資輸送に従事する荷船で、主に商船を言う。江戸・大阪の二大中央市場と諸国を結ぶ全国的な航路を形成していた。

・「御城代」幕府が大坂・駿府・伏見・京(二条城)の四城に設置した役名。(元和5(1619)年に伏見城代は廃止された)ここで言う大坂城代は将軍の直接支配の役職で譜代大名が任命された(駿府・二条城代は老中支配・大身旗本が任命された)。各城守護管理及び城下の政務を司った。

・「評定所留役」「評定所」は基本的には将軍の直臣である大名・旗本・御家人への訴訟を扱った司法機関の一つであるが、原告被告を管轄する司法機関が同一でない場合(武士と庶民・原告と被告の領主が異なる場合等)、判例相当の事件がなく幕府各司法機関の独断では裁けない刑事事件や暗殺・一揆謀議等の重大事件も評定所の取り扱いにとされた。本件は原告若しくは被告の連座する者の中に武士階級が居たか、廻船絡みであるから、原告被告の領主が異なるのかも知れない。「評定所留役」とは評定所で実際に裁判を進める予審判事相当格。この職は勘定所出向扱いであるため、留役御勘定とも呼称する。根岸が評定所留役であったのは、宝暦131763)年から明和5(1768)年であるから、本件出来時より3350年以上も後のことである。

■やぶちゃん現代語訳

 孝行な子がその効験を顕わす事

 享保の頃、廻船の積荷を密かに抜き取って、内々に売り捌き、その他にも附帯する罪を以って捕縛され、大坂町奉行所にて吟味の上――その咎、晒しの上、死罪――と申し附くること、ほぼ決定して御座った。

 この男には子供が三人おり、娘十三四を頭に、九つ七つばかりの小児が続く。

 その子らが――過去の判例から、残酷にもこの子らに誰ぞが教えしものか、はたまた、巷間の死罪らしいという噂を聴きつけたものか――日々、評定所牢屋門前にやって来ては、地べたに座り、親の助命を求めて歎き悲しみ、号泣する――門番が叱って追い立てようとするのであるが、頑として聞き入れず、一寸たりとも動こうとせぬ。

 不惜身命――昼夜寝食を忘れ、ひたすら門前に泣き続けて御座った――。

 評定所では、致し方なく――というより、不憫に思い――この子弟嘆願の趣の一件につき、大阪町奉行に申し上げたところ――奉行も、

「とりあえず江戸表に御伺いの儀、これ、通すべし。つきては御仕置きのこと、延期と致す。」

とのこと。

 大阪御城代から幕府に御伺いが立てられた結果、死罪をお減じになられ、大阪追放に処するべし、と仰せ付けられたのであった。

 誠(まっこと)「孝心、天に通ずる」と言うのも、決して偽りではないのである。

 以上は、私が評定所留役として勤仕して御座った頃、ある必要があって過去記録の閲覧をした際、この当時、この者に対する特赦請願についての一件に関わって書留められた書類を親しく読んだ。誠にしみじみとした気分にて読み終わった記憶も新しい故、ここに書き留めておく。

*   *   *

   又

 是も予留役の筋まのあたり見聞ける事也。安藤霜臺掛にて三笠附其外惡黨をなしたる者とて、遺恨にてもありしや、名は忘れぬ、雜司ケ谷在しやくじ村の者を箱訴の事有。名ざしける箱訴故呼出しけるに、年此七十計の病身に見へし老人なり。中々三笠附抔は勿論、惡業抔可致者ならねど、定法故難捨置、入牢の事霜臺申渡けるに、右老人の倅三人、跡に付添出けるが、惣領は廿才餘の者也しが進み出て、親儀は御覽の通年も寄、殊に病氣にて罷在候へば、入牢抔被仰付なば一命をも損じ可申、しかし御定法の御事に候へば、私を入牢奉願候。親儀は御免粕相願旨申けるに、其弟十三四才にも可成が進み出て、兄は當時家業專らにて、老親いとけなき者を養育仕候事故、我が身を入牢願ふ由相願ければ、末子は漸く九ツ十ウ計なるが、何の言葉もなく私入牢を願ひ候とて、兄弟互に泣爭ひけるにぞ、霜臺も落涙して暫し有無の事もなく、其席に居し留役又は霜臺の家來迄暫し袖をしぼりしが、其夜は入牢申付て翌日、跡方もなきに決して老人も出牢あり、無程無事に落着しぬ。誠に孝心の至る所忍ぶに漏るゝ涙は、實に天道も感じ給ふべきと思はるゝ。

□やぶちゃん注

○前項連関:少年の孝心その二。

・「評定所留役」は前項同注参照。そこでも記したが、根岸が評定所留役であったのは、宝暦131763)年から明和5(1768)年。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。「卷之一」にもしばしば登場した、「耳嚢」の重要な情報源の一人。安藤惟要が就任していた職務の中で、このような訴訟に関わるとすれば勘定奉行と考えられる。勘定奉行は勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれているので、安藤は公事方勘定奉行と考えてよいであろう。そうして安藤が勘定奉行として勤めたのは宝暦111761)年から天明2(1782)年であるから、根岸が評定所留役であった期間を完全に内包する。

・「三笠附」雑俳・川柳の変形したもので賭博の一種。本来は冠附(かむりづけ:上五に中七・下五を付けて一句に仕立てるもの。元禄(16881704)頃に始まる。江戸での呼称で、上方では笠付けといった。烏帽子付(えぼしづけ)とも。)の一つで、俳諧の宗匠・選者を名乗る点者が冠の五文字を三題出して、それぞれに七・五を付けさせて、三句一組で高点を競うもので、宝永年間(17041711)から行われていた。ところが、これが賭博化し、個人のHP「江戸と座敷鷹」――少々長くなるが説明すると、「座敷鷹」は「はえとりぐも」と読み、クモ綱クモ目ハエトリグモ科 Salticidaeのハエトリグモ類のことを指す。寛文から享保頃(16611736)、このハエトリグモを飼って蠅を捕らせて楽しんでいた好事家がいたが、彼等は翅を少し切って動き難くさせた蠅を獲物として、各自の秘蔵のハエトリグモを同時に放し、誰のものがいち早く蠅を捕捉するかを競わせた。当時、そうした遊びを室内版の「鷹狩り」に譬えて、「座敷鷹」と呼んだのである。これが流行して座敷鷹が大人の娯楽として定着、ハエトリグモ販売業や飼育するための蒔絵を施した高価な印籠型容器まで出現したという。強い蜘蛛は極めて高価で、当時の江戸町人の平均的月収に相当したとある。後には廃れたが、これは既に博打の対象と化していた座敷鷹が賭博禁止令に抵触したからであるとも言われる――の以下のページに冠附に先行する前句附から説明して、『宗匠が出題した前句(七・七の短句)に、一句あたりの応募料を取って付句(五・七・五の長句)を募集、宗匠が選んだ高点句を前句とともに発表し、上位の句には品物か金銀を与えると言うもの。昔は連句の付け合いの稽古という大義名分があり、まともな前句を出題していたが、徐々に適当となり、「ならぬことかな、ならぬことかな」「やすいことかな、やすいことかな」「ちらりちらりと、ちらりちらりと」「ばらりばらりと、ばらりばらりと」などどうでもいいような七・七の14文字となった。看板とあるのは、「前句附」の看板を出して商売をしていることを指し、庶民の間に人気の高かった証拠と言える。しかし、この適当な下の句(前句)に対してさえ上の句(付句)をつけるのは難しいとなり、おそらくもっと人を集めたい宗匠が多かったのであろう、下の句を出題するのは取り止め、上の句の五・七・五の内の初めの五字を宗匠が出題し、残りの七・五をつけさせるようになる。ところが、これも面倒だと、残りの七・五も宗匠が出題することになる。初めの五字の出題を三題に増やし、これに対して21種類の「七・五」を出題し、三つの優れた「五+(五・七)」の組み合わせをあてさせることになった。まったくのクイズ形式である。 21の数字はサイコロの目からきていると言う。1の裏が62の裏が53の裏が4、裏表を足すといずれも77×321。このクイズ形式の付け合わせを、「三笠附」(みかさつき)と呼んだ。参加料十文(約300円)で三題とも秀句をあてた者には一両(約20万円)の賞金が与えられたと言う。三笠附の名が町触に記されるのは、正徳5年(1715)。クイズ形式とはいえ、ここまでは文字のある句合わせであった。しかし、享保の時代に入ると、文字はなく完全に数字の組み合わせをあてる博打となったのである。競馬も数字だが、馬が実際に競争する。享保期の三笠附はサイコロ博打同然となったわけだ』とある(改行を省略した)。そこで幕府は享保111726)年に「三笠附博奕廃止者免罪高札」を出して禁止したが、跡を絶たなかったらしい。特に田沼時代となると綱紀弛緩し、安永から天明頃(17621789)には再び爆発的流行を見たのであった。正にこの話、この頃のことであったわけ。さてもそこで、やぶちゃん一句――

   世も末は骸子ころり五七五

御粗末様でした――

・「雜司ケ谷在しやくじ村」「しやくじ村」は岩波版長谷川氏注に『雑司谷の在の石神井村。練馬区』とある。但し、現在の雑司ヶ谷は豊島区南池袋である。

・「箱訴」享保6(1721)年に八代将軍吉宗が庶民からの直訴を合法的に受け入れるために設けた制度。江戸城竜ノ口評定所門前に置かれた目安箱に訴状を投げ入れるだけで庶民から訴追が出来た。

・「名ざしける箱訴故」これは勿論、その被疑者を実名で告発している訳であるが、一言言っておくと、目安箱への投書は投げ入れた者(告発者)の住所氏名があるもののみが採り上げられ、ない訴状は破棄されたそうである。

・「跡方もなきに決して」とあるが、因みに三笠附に対しては、どのような刑罰があったのか。大越義久「刑罰論序説」によれば、身分を非人に落とされる「非人手下」の例の中に「三笠附の句拾い〔賭博の一種〕、取抜無尽〔富くじに似たもの〕の札売り、下女と相対死して生き残った主人などに対して」とある。但しこれは属刑であるから、本刑としては追放なり敲きなりがあって、それに付属された刑ということであって……これ結構、キビシイ。

■やぶちゃん現代語訳

 孝行な子がその効験を顕わす事 その二

 これも私が留役の際、目の当たりに見聞きしたことである。当時、勘定奉行で御座った安藤霜台殿が担当された一件であった。

 三笠附その他諸々悪事を働いたる者とて――誰かの遺恨を受けたものか――名は失念したが、雑司ヶ谷の在は石神井村のある者を箱訴するという事件があった。

 名指しの箱訴であったため告発された当人を呼び出して見ると、これが年の頃七十ばかり、加えて病身と思われる老人であって――凡そ三笠附は勿論のこと、『その他諸々悪事を働』くことなんぞなど到底出来そうも、ない、爺さんであった――が、御定法故、捨て置くこともならず――真偽を糺してみたところが、何やらん、もぐもぐ言うばかりで埒が明かぬ――罪状をこれ認むるか否かもはっきりせぬ故、霜台は致し方なく、まずは入牢申し渡した。

 申し渡すに際し、老人に付き添って来ていた倅が三人、従っていたが、入牢申し付けた後、即座に長男は二十歳余りの者が進み出て、

「親父はご覧のと通り、年寄り、殊に病気も患っておりますれば、入牢など致すとなれば、その儘、一命をも落とすことにもなりかねませぬ。されど御定法を枉げられぬこと、これもまた、お上にあらせられましては尤もなることにて御座いますればこそ、どうぞ、私めを代わりに入牢致すようお申しつけ下さいますよう、相願い上げ奉ります――親父入牢の儀は、何卒、御赦免下さいまするよう相願い上げ奉りまする……。」

と言うたかと思うたら、つっとその弟の十三、四にもなるかと思しい者が進み出、

「兄は只今当方の家業を唯一身にて負うておりますれば、老いし親、幼き弟妹どもを養育致いておりまする。されば――我が身を入牢願い上げ申し上げまする……。」

由、願う。

 その横に控えて滑り込むようにくっ付いて座った末の子は――漸っと九つか十ばかりと見えるは――ただただ、如何にも幼き口つきであったれど、

「私、入牢、願い申し上げます……。」

とばかり何度も繰り返し言上するので御座った。

 兄弟互いに他の者を制し、また泣きながら争う――その様を見るに、評定役であった霜台も思わず落涙して、暫くは声も出なかった。

 いや、その場にいた留役――で御座った私も――そして、霜台の家来衆までも、暫しの間、袖を絞って御座った……。

 結局、最早刻限も遅くで御座ったれば、とりあえず、その夜のみの入牢――老人の身体に特別の配慮を十分に致いた上での入牢を申し付けて、翌日早朝、箱訴の一件、事実にあらざるものにして、その罪、これ本来、存在せざるものなり、として老人も出牢と決し、一件落着と相成って御座った。

 いや! あの時は本当に!

 誠(まっこと)、孝心の至る所、忍ぶに漏れざるを得ぬ涙は、実に天道も心をお動かし遊ばされるものなのであるなあと心打たれ申した……

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