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2010/03/02

耳嚢 巻之二 戲藝侮るべからざる事

「耳嚢 巻之二」に「戲藝侮るべからざる事」を収載した。

 戲藝侮るべからざる事

 寶暦の頃迄存命せし歌舞妓役者市川柏莚海老藏、澤村訥子長十郎、市村河郷羽左衞門は、右類の上手名人といひし者也。或る時去(さる)屋敷にて右の者共を呼て、河東(かとう)山彦(やまびこ)など謠曲を藝して後、何ぞ三人の者共へも其業なす事も出來んやと有けるに、色々咄しはなしけれ共藝を施す事はなかりしが、海老藏長十郎申けるは、羽左衞門家に四ツ竹八ツ拍子といへる事あり、御好有れかしと申故、強て好しかば右藝を施しけるが、三味線三挺にて、羽左衞門は麻上下を着し扇を二本乞ふて立上り、右藝をなしけるに殊の外面白き事の由。勿論けやけき事にてはなく、仕舞を舞ひ候やうなる趣にて其拍子ゑもいわれざる事也。まのあたり見しと松本豆州かたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:一合二合の米行商とても侮るべからず、たかが戯れの芸とても侮るべからざるにて連関。

・「市川柏莚海老藏」二代目市川團十郎(元禄元年(1688)年~宝暦8(1758)年 享年71歳)。柏莚(はくえん)は俳号。父であった初代が元禄171704)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺されて横死(享年45歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。

・「澤村訥子長十郎」初世沢村宗十郎(貞享2(1685)年~宝暦6(1756)年 享年72歳)京都の武家の出。初世「沢村長十郎」の門人で、江戸に下り写実的演技力で評判をとり、名優とされた。誤りやすいが後に「三世長十郎」を名乗っている。ただ、この「訥子」(とつし)というは俳号は通常、三代目澤村宗十郎(宝暦3(1753)年~享和元(1801)年)のことを指すので、誤りと思われる。それとも俳号も共有したか。

・「市村河郷羽左衞門」八代目市村羽左衛門(元禄111698)年~宝暦121762)年 享年65歳)のこと。俳号「河郷」は「可江」が正しい(「かこう」と読むか)。元文2(1737)年に八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748)年に羽左衛門と改めた(以後代々「羽」を名乗るようになった)。座元を60年間務める傍ら、舞台でも若衆・女形・実事・敵役など幅広い役柄をこなした。なお、市村座は延宝初年頃(1670年代)には幕府によって歌舞伎興行権が認められ、中村座・市村座・森田座・山村座の江戸四座の一つとなった後、正徳4(1714)年 に山村座が取り潰されて江戸三座となっている。三人の没年と、「寶暦の頃迄存命せし」という語り出しからも、本話柄は宝暦元(1751)年から宝暦6(1756)年以前に限定出来るように思われる(以上の八代目市村宇左衛門の事蹟は、主にウィキの「市村宇左衛門(8代目)」を参照した。底本注で鈴木氏が「三代目市村羽左衛門」とするは誤り)。

・「河東」河東節(かとうぶし)四代目十寸見河東(ますみかとう ?~明和8(1771)年)のこと。河東節は浄瑠璃の一種で豪気にしていなせであったが、江戸中期以降、廃れ、歌舞伎の伴奏からも排除されて、お座敷での素浄瑠璃として生き残った関係上、吉原との縁が深い。現在の歌舞伎で河東節が用いられているのは「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)一本のみである。

・「山彦」初代山彦源四郎(?~宝暦6(1756)年)か。河東節の三味線方。本名村上源四郎。享保2(1717)年の江戸市村座興行で初代が初めて河東を名乗って以後、初代から四代目十寸見河東に至るまで、一貫してその三味線方を勤めた名人。河東節三味線は細棹で、その語り口は現在の山田流箏曲に影響を与えているとされる(以上は主に朝日日本歴史人物事典を参考にした)。岩波版長谷川氏は他に初代山彦源四郎の門弟であった山彦河良(かりょう ?~安永8(1779)年)の名も挙げる。河良は宝暦111761)年に四代目十寸見河東の立三味線で、先に掲げた名曲「助六所縁江戸桜」を作曲した人物であるから遜色ない。

・「四ツ竹八ツ拍子」「四ツ竹」は4045㎝の竹を裂いたものをそれぞれの手に二枚ずつ持って、カチカチ打ち鳴らして拍子を取る、現在のカスタネットのようなものを言う。「八ツ拍子」は、その四ッ竹で打つリズムのことを言うものと思われるが、不詳。但し、ネット上には、「豊年おどり」の一種である岡山市重要無形文化財指定及び岡山市伝統郷土芸能指定の「津島八朔おどり」(つしまはっさくおどり)の紹介ページ(私企業のページ)に、ズバリ「四っ竹八つ拍子」が現れる。この踊りは、『江戸時代(備前藩主池田家)から約250270年の歴史をもち、いい伝えによると、備前藩主池田家が代々御後園(後楽園)内の井田で「お田植」をする時、津島の娘たちもたびたび奉仕していてお田植が終了した後で、稲がよくできるようにと娘たちがおどり、殿さまの上覧に供したといわれています。これがもとになり、津島地方では毎年八朔(旧8月1日)に村の老若男女がそれぞれ夕涼みをかねて庭先などでおどるようになりました』。『備前藩ではたびたび盆踊りの禁止令をだしていましたが、津島八朔おどりは「盆踊り」ではなく、豊年祈願のための踊りであり、しかも質素であることから黙認されてきました』。『現在では「津島八朔おどり保存会」によって毎年8月1日に津島西坂の公園で盆踊りとしておどられております。おどりは「四つ拍子」「八つ拍子」等9種からなり、大太鼓と四っ竹で拍子をとる音頭とりの掛け声により変わっていきます。音頭は浄瑠璃(じょうるり)から引用した語句をそのまま歌詞としています』。『「津島八朔おどり」は古来から伝えられた、流れるようななめらかな踊りと音頭、四つ竹、太鼓が織り成す美しい踊りです』とある(下線部やぶちゃん)。う~む、八朔祭りではないか! これは、エクスタシーを感じぬわけが、ないのじゃ!……

・「仕舞」能楽の一部分を素で舞うこと。

・「ゑもいわれざる」の「ゑ」はママ。

・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。「卷之一」の「河童の事」にも登場した「耳嚢」の一次資料的語部の一人。先の私の年代推測(宝暦元(1751)年から宝暦6(1756)年以前)が正しければ、その当時は松本秀持2126歳、「卷之二」の執筆下限天明6(1786)年頃は56歳……と、如何にも……青春は遠い花火では、ない……いい設定じゃないの!

■やぶちゃん現代語訳

 戯れの芸も侮れぬ事

 宝暦の頃まで存命していた市川柏筵海老蔵、澤村訥子長十郎、市村何江羽左衛門は、歌舞伎界の上手・名人の呼び声も高い役者であった。

 ある時、さる御屋敷に、この三人の者どもを招いた上、主人より所望されて、同じく参って御座った十寸見河東や山彦源四郎らによって河東節が披露された後のこと、

「――何ぞ、主ら三人の内にも、何ぞ戯れに致すべき斯くなる芸はなきか――」

と、彼等三人にも主人からお声が掛かる。

 三人は暫く話し合(お)うて御座ったが、流石に浄瑠璃を一節唸るという仕儀には及ばずに御座ったものの、申し合わせたように海老蔵と長十郎の二人、揃うて口上致いたは、

「――羽左衛門家に四ッ竹八ッ拍子と言えるもの――これあり――御好みに合いますものやら――」

と申し上げる故、主人、

「是非に所望。」

とあれば、その場に御座った羽左衛門三味線方三名が三味を受け取ると、麻上下に着替えた羽左衛門、徐ろに扇を二本、主人に乞いて手に取って、すっくと立ち、その三味に合わせて……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

――と、その四ッ竹八ッ拍子なる芸をなした――そのまあ、面白いこと!……

「……いや、勿論、奇を衒うた踊りにては、これなく……そうさ、能の舞にも似て御座ったれど、違(ちご)うな……その拍子、これ、えも言われぬ絶妙なるもので御座ったのぅ……」

と、その場にあって目の当たりに見た松本豆州殿の語ったことにて、御座る。

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