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2010/04/24

耳嚢 巻之二 強勇の者御仕置を遁れし事

「耳嚢 巻之二」に「強勇の者御仕置を遁れし事」を収載した。

 強勇の者御仕置を遁れし事

 常憲院樣御代、生類御憐みにて殺生堅く御誡(いましめ)の折から、御家人の内阿久澤彌太夫、松本理兵衞といへる者忍びて釣をせしを、廻りの者咎聞(とがめきこえ)ければ以の外惡口抔して立別れぬ。彼廻りの者より申立ぬる故、兩人共御吟味の上入牢なしけるが、彌太夫は釣せし段無相違由をいひ、理兵衞は兩人とも釣せし事なきといひ、互に右の由爭ひ、幾度御吟味有けれども兎角落着せざれば御仕置も延びて居たりし内、常憲院薨御(こうぎよ)有りて、生類御憐の御掟(おきて)も解けるゆへ、兩人とも御咎に不及元の如く勤しと也。右兩人は伊豆守、彌左衞門が父が租父也。其頃予が實父も右兩人と親しかりしが、御吟味の始、彼兩人へ羽二重の下帶一筋あたへ、若切腹せば見苦しからず切腹せよと餞別に遣しけるとて與へける由。予幼き頃夫(その)の甥なる老人語りぬ。其頃は人の心も勇氣なる折と覚(おぼゆ)る。

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「常憲院」第五代将軍徳川綱吉(正保3(1646)年~宝永6(1709)年)。常憲院は諡名(おくりな)。

・「生類御憐みにて殺生堅く御誡」一般に言われる「生類憐みの令」のことであるが、これは第五代将軍徳川綱吉が貞享4(1687)年に制定した殺生禁止に関わる法令とそれに付随した多数のお触れを総称したものであって、「生類憐みの令」という成文法令があるわけではないということは余り理解されているとは思われない。以下、ウィキの「生類憐みの令から引用する。一般にこの法令群が発布された背景として『従来、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされてきた。しかし最初の生類憐みの令が出された時期に、まだ隆光は江戸に入っていなかったため、現在では隆光の関与を否定する説が有力である。生類憐みの令が出された理由については、他に長寿祈祷のためという説もあるが、これも隆光僧正の勧めとされているため、事実とは考えにくい』。『当初は「殺生を慎め」という意味があっただけのいわば精神論的法令であったのだが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられ、元禄9年(1696年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。そのため単なる精神論を越えて監視社会化してしまい、この結果、「悪法」として一般民衆からは幕府への不満が高まったものと見られる』。『武士階級も一部処罰されているが、武士の処罰は下級身分の者に限られ、最高位でも微禄の旗本しか処罰されていない(もっとも下記にあるように[やぶちゃん注:省略しているのでリンク先を参照のこと。]、武士の死罪は出ている)。大身旗本や大名などは基本的に処罰の対象外であった。そのため、幕府幹部達もさほど重要な法令とは受け止めていなかったよう』であるとする。『しかしこの法令に嫌悪感を抱いた徳川御三家で水戸藩主の徳川光圀は、綱吉に上質な犬の皮を20枚(一説に50枚)送りつけるという皮肉を実行したという逸話』は有名ではある。『地方では、生類憐みの令の運用は、それほど厳重ではなかったようだ。「鸚鵡籠中記」を書いた尾張藩士の朝日重章は、魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでの間だけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ、「殺生」を重ねていた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったらしい』とあり、本話柄も告発があり、現場での反省の念がなく、一方が意固地に否認したことが事態を悪化させたものと思われる。『この法令に熱心だった幕閣は側用人であり、中でも喜多見重政は、綱吉が中野・四谷・大久保に大規模な犬小屋を建てたことに追従して、自領喜多見に犬小屋を創設している。この喜多見をはじめとする側用人たちが法令のそもそもの意味を歪めて発令したと主張する者もいる』。『徳川家宣(綱吉の甥で、養子となる)は将軍後見職に就任した際、綱吉に生類憐みの令の即時廃止を要求したといわれている。継嗣がいなかったとは言え、綱吉はこの廃止要求を拒絶し、死の間際にも「生類憐みの令だけは世に残してくれ」と告げた。が、綱吉の死後、宝永6年(1709年)、新井白石が6代将軍家宣の補佐役となると綱吉の葬式も終えぬうちに真っ先にこの法令は廃止された。この時、江戸市民の中にはこれまでのお返しとばかりに犬を蹴飛ばしたりしていじめる者もいたという。以降、江戸庶民の間に猪や豚などの肉食が急速に広まり、滋養目的の「薬喰い」から、肉食そのものを楽しむ方向へと変化し、現在まで続く獣肉(じゅうにく)料理専門店もこの時期(1710年代)に現れている』とあり、本話柄の雰囲気も伝わってくる。『当時の処罰記録の調査によると、ごく少数の武家階級の生類憐みの令違反に対しては厳罰が下された事例も発見できるものの、それらの多くは生類憐みの令に違反したためというよりは、お触れに違反したためという、いわば「反逆罪」的な要素をもっての厳罰であるという解釈がある。町民階級などに至っては、生類憐みの令違反で厳罰に処された事例は少数であるとする。また、徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保の日記には、生類憐みの令に関する記述があまりなく、重要な法令とは受け止められていなかった可能性が強いのではないかと推論する。ただし、「生類憐れみの令を100年守ること」を綱吉はわざわざ遺言しており、重要でないのなら、綱吉の遺言もある筈もなく、わざわざ儒学者の白石が廃止を宣言する必要もなかったとする見解もある』。『また、生類憐れみの令が遵守されたのも江戸近辺に限られ、地方においてはほとんど無視されていたという説もある。「鸚鵡籠中記」の記述によると、尾張藩においても立て札によって公布はされたものの、実際の取り締まりは全くなされておらず、著者の朝日重章自身も魚捕りを楽しんでいた。親藩においてもこのような状態であった以上、前述の元禄の大飢饉において、飢饉の最中の東北地方において生類憐みの令が厳しく取り締まられたという事は到底考えられない。飢饉の最中に人間が禽獣に襲われる事はよくある話であり、生類憐みの令と特に関連があったとは考えにくい』ともある(文中書名の『 』を「 」に変更した)。

・「阿久澤彌太夫」底本鈴木氏注に、『行広。万治二年御徒、のち組頭。その子広保は正徳元年遺跡を相続』とある。万治2年は西暦1659年、正徳元年は1771年。高柳光壽「新訂寛政重修諸家譜」によれば、阿久澤行広は行次の子で兄に行佐がいる。広保は行広の子である。

●行廣(ゆきひろ)彌太夫

萬治元年二月六日御徒にめし加へられ、のち組頭をつとむ。

廣保(ひろやす)長右衞門

正德元年七月二十三日遺跡を繼、のち支配勘定をつとむ。

行梢(ゆくすゑ)吉右衞門【行廣子・廣保弟】

阿久澤彌平次義守が祖。

阿久澤家系譜については先行する「小兒手討手段の事」の「阿久澤何某」注を参照のこと。

・「松本理兵衞」底本鈴木氏注に、根岸の友人松本秀持(後注参照)の祖父松本重政とする。『明暦二年父正重の遺跡を継ぐ。御天守番、御徒目付を経て押太鼓役』とある。明暦2年は西暦1656年。

・「廻りの者」その土地のヤクザ者。

・「薨御」親王・女院・摂政・関白・大臣が死去すること。綱吉は右近衛大将・征夷大将軍・右大臣で、死後、贈正一位太政大臣である。一部訳でここを「薨去」とするものを見たが、厳密には「薨御」は「薨去」と同義ではない。「薨去」(「薨逝」とも)はもっと広く皇族及び三位以上の者の死去に用いるものである。

・「伊豆守」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任中の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。「卷之一」の「河童の事」に既出。

・「彌左衞門」底本鈴木氏注に、『広高。弥太夫行広の曾孫行光の養子。宝暦三年遺跡を継ぎ、安永六年御勘定』(宝暦3年は西暦1774年、安永6年は西暦1777年)とするが、この言いは事実にそぐわない点に付、鈴木氏は『要するに、松本理兵衛の祖父と阿久沢弥兵衛の曽祖父両人が話題の人物であるという意味』であるとし、岩波版長谷川氏の注では、やはり齟齬を指摘、『ただし広高は行光の養子で、行光は行梢の長男で行保の後を継いだので、祖父を行広の子行梢とも解せるが、弥太夫ではない。誤解があるようである』と記す。高柳光壽「新訂寛政重修諸家譜」によれば、阿久澤廣高は系譜上は阿久澤行光の子であるが、以下の通り(「■」はネット画像で判読できなかった部分)。

●廣高(ひろたか) 龜吉 藤助 彌左衞門

實は垣■彌太郎行篤が長男。母は玄蕃頭家臣西川小左衞門正補が女。行光が養子となる。

寶暦三年六月六日遺跡を繼、のち富士見御寶藏番をつとめ、安永七年四月六日班をすゝめられて御勘定となる。【割注:時に四十歳高米百五十俵】天明元年四月二十六日さきに關東の川々普請の事をうけたまはりしより、時服二領、黄金二枚をたまふ。

天明元年は西暦1760年。阿久澤家系譜については先行する「小兒手討手段の事」の「阿久澤何某」注を参照のこと。ちなみにこの手の系譜にまるで興味のない一読者に過ぎぬ私から見れば、注としての厳密さは別として『要するに』という鈴木氏の謂いの方が、スッキリ! である。

・「予が實父」安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ 延宝7(1679)年~元文5(1740)年)。根岸鎭衞は元文2(1737)年に150俵取りの下級旗本であった、この安生定洪の三男として生れた(この父定洪も相模国津久井県若柳村、現在の神奈川県津久井郡相模湖町若柳の旧家の出身で安生家の養子であった。御徒頭から死の前年には代官となっている)。ウィキの「根岸鎮衛」によれば、『江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが、同じく150俵取りの下級旗本根岸家の当主根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として、根岸家の家督を継がせた。鎮衛が22歳の時のことである。(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であり、そのため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある。)』とある。衛規は「もりのり」と読み、宝暦8(1758)年2月15日に病没している。

・「夫の甥」実父安生定洪の甥。

・「覚る」はママ。

■やぶちゃん現代語訳

 剛勇なる者ら御仕置を遁れし事

 常憲院様の御代、生類御憐れみの御意にてあらゆる生き物殺生なんどが堅く戒められて御座った。

 ある時、御家人の内の阿久沢弥太夫及び松本理兵衛という者、こっそり釣りを楽しんで御座ったところが、市中見回りの者に咎められた。

 適当に誤魔化せばよかったものを、売り言葉に買い言葉、激しい口論となり、見回りの者に以ての外の罵詈雑言を吐き捨てて、その場を去ってしまった。

 後日、この見回りの者より本件に付、正式に告発がなされてしまったため、両人とも吟味の上、入牢と相成ったのだが、弥太夫は、

「釣りせし段、これ相違なし。」

由認めたものの、理兵衛の方は、

「両人とも、釣りせし事、これなし。」

と言い張り、飽くまで互いを譲らず、本件の立件自体を当事者二人が言い争うという事態に相成った。

 これが二人ともに頑なにて、何度も吟味致いても、いっかな、両人の証言、真っ向から対峙して譲らぬため、すっかり膠着致いて、御仕置きの方も、延び延びになって御座った。

 そんな折り、常憲院様薨御あらせられた。

 さればこそ、生類御憐れみに関わる数多の御禁令も解けて、両人とも御咎めに及ばず、元の如く勤仕に復帰致いたということで御座る。

 この両人――それぞれ、私も知れる松本伊豆守秀持殿の祖父、及び同じく私の知人である阿久沢弥左衛門殿の曾祖父であられる――その頃、私の実父もこの両人と親しくして御座ったが、両名、告発されていよいよ御吟味始まりと決した際、この両人へ羽二重の下帯をそれぞれに一本ずつ、

「もし切腹と成ったれば、見苦しきこと、これなく、切腹せよ。これ、餞(はなむえ)に遣わす。」

と言い添えて贈ったということである。

 私がごく幼かった頃のこと、父の甥である御仁から、この話を聞かされた。

 その頃は、人の心も、勇気と覚悟とに満ち満ちて御座った、そんな時代もあったので御座る。

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