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2010/05/28

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月28日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十六回

Kokoro13_8   先生の遺書

      (三十六)

 私は其翌日も暑さを冒して、賴まれものを買ひ集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないやうに考へてゐたのが、いざとなると大變臆劫(おくくふ)に感ぜられた。私は電車の中で汗を拭きながら、他の時間と手數(てすう)に氣の毒といふ觀念を丸で有つてゐない田舍者を憎らしく思つた。

 私は此一夏を無爲に過ごす氣はなかつた。國へ歸つてから。日程といふやうなものを豫(あらかじ)め作つて置いたので、それを履行するに必要な書物も手に入れなければならなかつた。私は半日を丸善の二階で潰す覺悟でゐた。私は自分に關係の深い部門の書籍棚(しよせきたな)の前に立つて、隅から隅迄一冊づつ點檢して行つた。

 買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟であつた。小僧にいふと、いくらでも出しては呉れるが、偖(さて)何れを選んでいゝのか、買ふ段になつては、只迷ふ丈であつた。其上價が極めて不定であつた。安からうと思つて聞くと、非常に高かつたり、高からうと考へて、聞かずにゐると、却つて大變安かつたりした。或はいくら比べて見ても、何處から價格の差違が出るのか見當の付かないのもあつた。私は全く弱らせられた。さうして心のうちで、何故先生の奧さんを煩はさなかつたかを悔いた。

 私は鞄を買つた。無論和製の下等な品に過ぎなかつたが、それでも金具やなどがぴか/\してゐるので、田舍ものを威嚇(おど)かすには充分であつた。此鞄を買ふといふ事は、私の母の注文であつた。卒業したら新らしい鞄を買つて、そのなかに一切の土産ものを入れて歸るやうにと、わざ/\手紙(てかみ)の中に書いてあつた。私は其文句を讀んだ時に笑ひ出した。私には母の料簡が解らないといふよりも、其言葉が一種の滑稽として訴へたのである。

 私は暇乞をする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立つて國へ歸つた。此冬以來父の病氣に就いて先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、何ういふものか、それが大して苦にならなかつた。私は寧ろ父が居なくなつたあとの母を想像して氣の毒に思つた。其位だから私は心の何處かで、父は既に亡くなるべきものと覺悟してゐたに違ひなかつた。九州にゐる兄へ遣つた手紙のなかにも、私は父の到底故(もと)の樣な健康體になる見込のない事を述べた。一度などは職務の都合もあらうが、出來るなら繰合(くりあはせ)て此夏位一度顏丈でも見に歸つたら何うたと迄書いた。其上年寄が二人ぎりで田舍にゐるのは定めて心細いだらう、我々も子として遺憾の至りであるといふやうな感傷的な文句さへ使つた。私は實際心に浮ぶ儘を書いた。けれども書いたあとの氣分は書いた時とは違つてゐた。

 私はさうした矛盾を汽車の中で考へた。考へてゐるうちに自分が自分に氣の變りやすい輕薄ものゝやうに思はれて來た。私は不愉快になつた。私は又先生夫婦の事を想ひ浮べた。ことに二三日前晩食(ばんしよく)に呼ばれた時の會話を憶ひ出した。

 「何つちが先へ死ぬだらう」

 私は其晩先生と奧さんの間に起つた疑問をひとり口の内(うち)で繰り返して見た。さうして此疑問には誰(たれ)も自信をもつて答へる事が出來ないのだと思つた。然し何方が先へ死ぬと判然(はつきり)分つてゐたならば、先生は何うするだらう。奧さんは何うするだらう。先生も奧さんも、今のやうな態度でゐるより外に仕方がないだらうと思つた。(死に近づきつゝある父を國元に控へながら、此私が何うする事も出來ないやうに)。私は人間を果敢(はか)ないものに觀じた。人間の何うする事も出來ない持つて生れた輕薄を、果敢ないものに觀じた。

Line_7

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「國へ歸つてから。日程」は「國へ歸つてからの日程」の誤植。

♡「丸善の二階で潰す覺悟でゐた。私は自分に關係の深い部門の書籍棚の前に立つて、隅から隅迄一冊づつ點檢して行つた」このシーンは明治451912)年の7月であるが、丸善はその2年前、明治431910)年5月に日本橋区通町3丁目に新社屋を落成している。赤煉瓦4階建の日本最初の鉄骨建築であった。丸善は国内刊行物も扱ってはいたが(但し一階)、二階は洋書売り場で、後半の「隅から隅迄一冊づつ點檢して行つた」というのも和書ではなく、その棚の本総てが洋書であった故のニュアンスを感じるところである。和書ならば専門書でも「一冊づつ點檢」するという大仰な言葉遣いを私ならしないからである。また、ここでは、文学書や文学系研究書ではなく、冷徹に「一冊づつ點檢」しなくてはならないという点、俄然、心理学・哲学の専門書の印象が強いとも言える。

♡「半襟」掛け襟の一つ。襦袢(じゅばん)の襟の上に重ねて掛ける飾り襟。当時は贈答品としてよく用いられた。

♡「金具やなどがぴか/\してゐるので、田舍ものを威嚇かすには充分であつた」この鞄の購入指示は母からであったが、ここに言う田舎者をビビらせてやるに足る金ピカ、とほくそ笑んでいるのは「私」であることに注意。既に見てきたように作中、こうした田舎者への徹底した差別意識は多くの登場人物に反映されている。「坊つちやん」漱石の拭い難いトラウマなのである。

♡「見に歸つたら何うた」の「何うた」は「何うだ」の誤植。

♡「さうした矛盾」ここは私には少々読みにくい(論理的にすっきりしない)部分である。「私」は、当然、致命的な病に罹患している父を「一番心配しなければならない地位にありながら、何ういふものか」直近に迫りつつあるはずの父の死という事実を真剣に実感することが出来ず、それどころか「大して苦に」さえ「ならなかつた」。いや、それどころか不謹慎にも「寧ろ父が居なくなつたあとの」ことに専ら思いを馳せ、父を失った「母を想像して氣の毒に思つた」りした。即ち、「私は心の何處かで、父は既に亡くなる」ことが決まったもの、そのようなものとして諦め、残った者達の未来を考えるのが最も適切な「ものと覺悟してゐたに違ひなかつた」。

――ところが――(と私なら逆接の接続詞で繋げたいところなのである)

同じ頃、「九州にゐる兄へ遣つた手紙」では(「のなかにも」が私にはおかしな表現に思える)、「私は父の到底故の樣な健康體になる見込のない事を述べ」、「一度などは職務の都合もあらうが、出來るなら繰合て此夏位一度顏丈でも見に歸つたら何う」だ「と迄書いた」りしたのである。「其上年寄が二人ぎりで田舍にゐるのは定めて心細いだらう、我々も子として遺憾の至りであるといふやうな感傷的な文句さへ」も「使つ」て不実な兄を暗に責め、故郷への帰還さえ仄めかしたりした。いや、その筆を染めていた時は「私は實際」に「心に浮ぶ儘を書いた」のである。嘘はなかった。「けれども」その手紙を書き終えた途端、「氣分は」あっという間に「書いた時とは違つ」たものになっていた。即ち、元の木阿弥、「死に近づきつゝある父を國元に控へながら、此私」は「何うする事も出來ない」、出来ないんだからあれこれ悩んでもしょうがない、生きている人間の方が死んだ――死につつある、死ぬことが定まった――人間より大切だ――という感懐に「私」は捕らわれ、「さうした矛盾を汽車の中で考へ」ているのである。しかし、問題はここからであって、「考へてゐるうちに自分が自分に氣の變りやすい輕薄ものゝやうに思はれて來た。私は不愉快になつた」という部分にこそ、そのような(正に先生と同じく)『矛盾な存在』である自己の内実に、「私」が覚醒しつつあるのだということに気づかねばならぬ。]

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