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2010/06/30

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月30日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十八回

Kokoro14_4   先生の遺書

    (六十八)

 「私は御孃さんの立つたあとで、ほつと一息するのです。夫と同時に、物足りないやうな濟まないやうな氣持になるのです。私は女らしかつたのかも知れません。今の青年の貴方がたから見たら猶左右見えるでせう。然し其頃の私達は大抵そんなものだつたのです。

 奥さんは滅多に外出した事がありませんでした。たまに宅を留守にする時でも、御孃さんと私を二人ぎり殘して行くやうな事はなかつたのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいふのは變ですが、奥さんの樣子を能く觀察してゐると、何だか自分の娘と私とを接近させたがつてゐるらしくも見えるのです。それでゐて、或場合には、私に對して暗に警戒する所もあるやうなのですから、始めて斯んな場合に出會つた私は、時々心持をわるくしました。

 私は奥さんの態度を何方(どつち)かに片付て貰ひたかつたのです。頭の働きから云へば、それが明らかな矛盾に違ひなかつたからです。然し伯父に欺かれた記憶のまだ新らしい私は、もう一歩(ほ)踏み込んだ疑ひを挾(さしはさ)まずには居られませんでした。私は奥さんの此態度の何方かゞ本當で、何方かゞ僞(いつはり)だらうと推定しました。さうして判斷に迷ひました。ただ判斷に迷ふばかりでなく、何でそんな妙な事をするか其意味が私には呑み込めなかつたのです。理由(わけ)を考へ出さうとしても、考へ出せない私は、罪を女といふ一字に塗り付けて我慢した事もありました。必竟女だからあゝなのだ、女といふものは何うせ愚なものだ。私の考へは行き詰(つま)れば何時でも此處へ落ちて來ました。

 それ程女を見縊(みくび)つてゐた私が、また何うしても御孃さんを見縊る事が出來なかつたのです。私の理窟は其人の前に全く用を爲さない程動きませんでした。私は其人に對して、殆ど信仰に近い愛を有つてゐたのです。私が宗教だけに用ひる此言葉を、若い女に應用するのを見て、貴方は變に思ふかも知れませんが、私は今でも固く信じてゐるのです。本當の愛は宗教心とさう違つたものでないといふ事を固く信じてゐるのです。私は御孃さんの顏を見るたびに、自分が美くしくなるやうな心持がしました。御孃さんの事を考へると、氣高い氣分がすぐ自分に乘り移つて來るやうに思ひました。もし愛といふ不可思議なものに兩端(りやうはじ)があつて、其高い端(はじ)には神聖な感じが働いて、低い端(はじ)には性慾が動いてゐるとすれば、私の愛はたしかに其高い極點を捕(つら)まへたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出來ない身體(からだ)でした。けれども御孃さんを見る私の眼や、御孃さんを考へる私の心は、全く肉の臭を帶びてゐませんでした。

 私は母に對して反感を抱くと共に、子に對して戀愛の度を増して行つたのですから、三人の關係は、下宿した始めよりは段々複雜になつて來ました。尤も其變化は殆ど内面的で外へは現れて來なかつたのです。そのうち私はあるひよつとした機會から、今迄奥さんを誤解してゐたのではなからうかといふ氣になりました。奥さんの私に對する矛盾した態度が、どつちも僞りではないのだらうと考へ直して來たのです。其上、それが互違に奥さんの心を支配するのでなくつて、何時でも兩方が同時に奥さんの胸に存在してゐるのだと思ふやうになつたのです。つまり奥さんが出來るだけ御孃さんを私に接近させやうとしてゐながら、同時に私に警戒を加へてゐるのは矛盾の樣だけれども、其警戒を加へる時に、片方の態度を忘れるのでも翻へすのでも何でもなく、矢張依然として二人を接近させたがつてゐたのだと觀察したのです。たゞ自分が正當と認める程度以上に、二人が密着するのを忌むのだと解釋したのです。御孃さんに對して、肉の方面から近づく念の萌さなかつた私は、其時入らぬ心配だと思ひました。しかし奥さんを惡く思ふ氣はそれから無くなりました。

Lineburoguhosob_4

[♡やぶちゃんの摑み:先生の遺書世界に最初に登場する重要な思想アイテムの提示部である。但し、その核心である4段落目以外、その前後を挟む叙述部分は『先生の阿呆さ加減』が著しい。聞き飽きたところのこうしたことにかけては単細胞生物である漱石由来の偏狭な「私は女らしかつた」という“Misogyny”(ミソジニー・女性蔑視・女性嫌悪) に始まり、『当り前田のクラッカー』状態の奥さんの接近と警戒の『フツーの態度が分からない人格障碍』である先生が美事である。まずは一章の2/3も費やして、この『分かり切った内容が何となくフツーに分かるようになるまでの自分』を細述する先生は、殆んどの読者が『フツーでない』と思ったということは認識すべきではあろう。その上で、アイテムを整理しよう。これが授業ならまずは板書で、

[先生の人生観(恋愛観)]

◎先生の御嬢さんへの「愛」は「信仰に近い愛」である。

◎この時点での先生の御嬢さんへの「愛」は“Platonic love”(プラトニック・ラヴ)である。

◎先生にとっての一般概念としては「本当の愛は宗教心とさう違つたものでない」。

◎神聖←――――――愛――――――→性欲

 「私の愛はたしかに其高い極點を捕まへたもの」だという鮮やかな言明。

と押えるところだ。

 またしても二極分化・二項対立である。恋愛という混沌(カオス)なればこそに全きものであるものを、先生は崇高な属性を付与させた「神聖」と忌むべき不潔なるものとしての属性の烙印を押してしまった「性欲」の二項に分化させて、さらにそれを鋭く対置させて、それで秩序的宇宙(コスモス)が出来ると幻想している。しかしそれは、先生の遺書世界(先生の世界ではない! 「先生の遺書世界」と私が言っていることに注意されたい!)にあって弁証法的な定立と反定立のようにアウフヘーベン(止揚)はしないのである。鋭く対置されたままに、引き裂かれ、遂には互いに互いを刺し貫いてしまうのだ。先生の悲劇はここに始まる、と言ってよい、と私は思うのである。

 因みに私は旧来、授業では「……ここで脱線すると……」と言いながら、“Platonic love”=プラトン哲学の愛=ソクラテスの考えた愛=「パイドロス」の「愛」とは何かを語ってきた。本来、真の“Platonic love”とは「精神的愛」なんどという薄っぺらい日本語で示し得るものではない、男女の肉体的欠損部を結合するだけの愛は不完全であり、男性同士の愛こそが至高の“Platonic love”であることをソクラテスは「パイドロス」で語っていることを声を大にして言ってきた。「パイドロス」を是非読みなさいとも言ってきた。――しかし、それが“Platonic love”の真理であり、私は「ヘンな先生」でも「アブナイ先生」でもなければ、況や本作の「脱線」でさえもなかった――ということに是非とも気づいて欲しいのである。]

2010/06/29

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月29日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十七回

Kokoro14_3   先生の遺書

    (六十七)

 「奥さんの此態度が自然私の氣分に影響して來ました。しばらくするうちに、私の眼(め)はもと程きよろ付かなくなりました。自分の心が自分の坐つてゐる所に、ちやんと落付いてゐるやうな氣にもなれました。要するに奥さん始め家のものが、僻(ひが)んだ私の眼や疑ひ深い私の樣子に、てんから取り合はなかつたのが、私に大きな幸福を與へたのでせう。私の神經は相手から照り返して來る反射のないために段々靜まりました。

 奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風に取り扱つて呉れたものとも思はれますし、又自分で公言する如く、實際私を鷹揚だと觀察してゐたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それ程外へ出なかつたやうにも考へられますから、或は奥さんの方で胡魔化されてゐたのかも解りません。

 私の心が靜まると共に、私は段々家族のものと接近して來ました。奥さんとも御孃さんとも笑談(ぜうだん)を云ふやうになりました。茶を入れたからと云つて向ふの室へ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買つて來て、二人(ふたにん)を此方へ招いたりする晩もありました。私は急に交際の區域が殖えたやうに感じました。それがために大切な勉強の時間を潰される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には一向邪魔にならなかつたのです。奥さんはもとより閑人(ひまじん)でした。御孃さんは學校へ行く上に、花だの琴だのを習つてゐるんだから、定めて忙がしからうと思ふと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に餘裕を有つてゐるやうに見えました。それで三人は顏さへ見ると一所に集まつて、世間話をしながら遊んだのです。

 私を呼びに來るのは、大抵御孃さんでした。御孃さんは縁側を直角に曲つて、私の室の前に立つ事もありますし、茶の間を拔けて、次の室(へや)の襖の影から姿を見せる事もありました。御孃さんは、其處へ來て一寸留まります。それから屹度私の名を呼んで、「御勉強?」と聞きます。私は大抵六づかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めてゐましたから、傍(はた)で見たらさぞ勉強家のやうに見えたのでせう。然し實際を云ふと、夫程熱心に書物を研究してはゐなかつたのです。頁(ページ)の上に眼は着けてゐながら、御孃さんの呼びに來るのを待つてゐる位(くらゐ)なものでした。待つてゐて來ないと、仕方がないから私の方で立ち上るのです。さうして向ふの室の前へ行つて、此方から「御(ご)勉強ですか」と聞くのです。

 御孃さんの部屋は茶の間と續いた六疊でした。奥さんはその茶の間にゐる事もあるし、又御孃さんの部屋にゐる事もありました。つまり此二つの部屋は仕切があつても、ないと同じ事で、親子二人が往つたり來たりして、どつち付かずに占領してゐたのです。私が外から聲を掛けると、「御這人(おはいん)なさい」と答へるのは屹度(きつと)奥さんでした。御孃さんは其處にゐても滅多に返事をした事がありませんでした。

 時たま御孃さん一人で、用があつて私の室へ這入つた序(ついで)に、其處に坐つて話し込むやうな場合も其内に出て來ました。さういふ時には、私の心が妙に不安に冒されて來るのです。さうして若い女とたゞ差向ひで坐つてゐるのが不安なのだとばかりは思へませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るやうな不自然な態度が私を苦しめるのです。然し相手の方は却つて平氣でした。これが琴を浚(さら)ふのに聲さへ碌(ろく)に出せなかつたあの女かしらと疑はれる位、耻づかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をする丈で、容易に腰を上げない事さへありました。それでゐて御孃さんは決して子供(ことも)ではなかつたのです。私の眼には能くそれが解つてゐました。能く解るやうに振る舞つて見せる痕迹さへ明かでした。

Lineburoguhosob_3

[♡やぶちゃんの摑み:今回の「摑み」には先生の遺書のフェイク私の私小説「御孃さんと私」を入れ込んである。お楽しみあれ。

♡「奥さんは心得のある人」やや分かり難い表現であるが、亡き軍人であった夫の細君として万事に気の利いた内助の功を発揮しててきたと思われるといった生活史から類推されるところの、気配りのある、気の利いた、万事呑み込みが早いタイプの女性であった、という意味であろう。

♡「わざと私をそんな風に取り扱つて呉れたものとも思はれますし、又自分で公言する如く、實際私を鷹揚だと觀察してゐたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それ程外へ出なかつたやうにも考へられますから、或は奥さんの方で胡魔化されてゐたのかも解りません」……いいえ、先生、絶対に前者なのですよ。奥さんは何もかも分かつてゐる呑み込みの早い「心得のある人」なのです……先から言つてゐるでせう、あなたは女を見縊り過ぎです……。

♡「時たま御孃さん一人で、用があつて私の室へ這入つた序に、其處に坐つて話し込むやうな場合も其内に出て來ました」この部分、現在の高校生ではややピンとは来ないのではないか、という気もするので一言付け加えておきたい。この私が若き日に「こゝろ」を読んだ時、著作当時の社会道徳・男女観からして、既にしてこの『異常な』行動をする靜や、それを黙認している母である奥さんは、先生を最早、はっきりとした靜の結婚相手として暗に公認していると受け取った(それほどに若き日の私は保守的な男女観を持っていた、という訳では決してないのでご注意あれ)。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏もここに注し、この靜の行為は当時の読者から見て『いささか常軌を逸したものであったと言えるかもしれない』とし、最後に興味深い引用をお示しになられている。『ちなみに間借りした家の娘とのちに結ばれた岩波茂雄の場合も、その娘は「掃除以外にには岩波の部屋にはひつたことはなかつた」(安倍能成『岩波茂雄伝』岩波書店。昭和32)という。ついでに言えば、このことへの安倍のことさらな言及は『心』の先生・Kとお嬢さんの場合を視野に入れてのことであった可能性もある。』(下線やぶちゃん)。先生と靜の結婚を私は明治341901)年と推定しているが、岩波茂雄の結婚は明治391906)年のことである。

   *   *   *

   御孃さんと私   やぶちやん     (copyright 2010 Yabtyan)

……私(わたくし)は大學時分、中目黑の素人屋に下宿してゐました。私の部屋の隣には年老いた大屋夫婦の三十に近い未婚のOLの御孃さんの部屋がありました。この御孃さんとは凡そ三年程の間一緒の屋根の下に暮らしたのですが、御孃さんと言葉を交はしたのは數へる程しかありませんでした。
 最終學年の十一月の上旬の事、唯一度だけ彼女の部屋の戸を叩いた事が有りました。
 私の大學の卒業論文は和綴で是が非でも題箋は筆で記さねばなりませんでした。私の卒論は「咳をしても一人」で知られる『層雲』の俳人を扱つた「尾崎放哉論」でしたが、彼の名前は之何れの字をとつても如何にも配置の難しい字に思はれました。御孃さんが書道を趣味にしてをられることは何時休日になると漂つて來る墨の匂故に入つた先(せん)から知れてゐましたから、其題箋を思ひ切つて彼女に賴んでみることにしました。まともに御孃さんの顏を拜したのも其時が初めてでした。
 突然の下宿人の懇請ではありましたが、御孃さんは當初二つ返事で快く請けがつて呉れました。
 ところが一週日が過ぎた頃、突然彼女が私の部屋の硝子戸の扉を矢張り初めて叩いたのでした(私の部屋は彼女と姉との昔の子供部屋だつたのです。戸は全面が半透明の硝子障子の引戸で、私は何時もその向かうに夜遅く仕事から歸つて來た彼女のシルエツト許りを目にして過して來たのでした)。
 狹い廊下のことですから殆ど彼女の化粧の香が鼻を擽る程數糎(センチ)の距離を置いて顏を見合はせることとなりました。彼女は、
「お書きするのは容易(たやす)いのですけれど、書道を少し齧つて來た私には矢張り貴方の卒業論文の表紙ですもの、御自身でお書きになる方が絶對好(い)いと思ふんです。」
と言ふのです。卒論は既に書き上げて餘裕で芥川龍之介全集の全卷通讀なんどに現をぬかしてゐた當時の私には晴天の霹靂でした。
「私、實は筆が大の苦手なもんですから」
と聊かはにかんで答へたのですが、
「失禮ですけれど下手でも御自身でお書きになるのが好いと思ふんです。私が書いたら、將來屹度失望なさると思ふんです」
御孃さんは「將來屹度失望なさる」といふところに妙に力を込めて言ふのでした。私はそれでもなほ、
「決して失望しませんから」
と決まりの惡い笑みを浮かべ乍らも實際本氣でさう思ひつつ食ひ下がつては見ました。が、
「いゝえ。屹度、失望なさいます」
と何故か少し焦点を外した目をし乍ら、請けがつて呉れませんでした。
 私は甚だ殘念に思ひつつ、禮を言ふと自室の戸を閉めやうとしました。
 すると其時、彼女が私の部屋のベツドを指さして、
「その、二段ベツド、狹いでしやう。小學生の頃、姉が下私は上に寢てゐたのよ」
と笑ひ乍ら訊きました(この子供部屋の姉妹の爲の二段ベツドは据付だつたのです)。
「えゝ、頭が突つかえるので此の三年の間ずつと斜めになつて寢てました」
と私は剽輕に答へた。お孃さんは大袈裟に體を震はせて如何にも可笑しくてならないといふ感じで笑ひました。それは私には少女のやうな可愛らしい笑ひに見えました。
 實は私は其時初めて彼女が斯くも綺麗な方だつたのだと今更乍ら氣づいたのでした。さうして内心何うして結婚されないのだらうなんどと訝しんだのさへ覺えてゐます。
 数カ月の後(のち)、私は首尾良く卒業し、神奈川縣の公立高校に赴任することとなつて其下宿を引き拂つたのでしたが、その間際、何時ものやうに夜遅くに歸つて來た御孃さんに廊下でばつたり出食はして別れの挨拶をせねばならぬ羽目に陷りました。
「御卒業お目出たう」
と彼女が言ひました。何か二言三言儀禮上の言葉を交はしたとは思ひますがすつかり忘れてしまひました。只最後に、私はもう此の御孃さんとも二度と會ふこともなからうと思ふと少し許り大膽な氣持になつてゐましたから、
「あの‥‥何故御結婚なさらないんですか。‥‥お美しいのに‥‥」
と如何にも失禮な問を御孃さんにかけて仕舞ひました。その頃の私は傍(はた)から見れば富山の田舍から出て來た垢抜けない書生位(くらゐ)にしか思はれてゐなかつたものと思ひます。御孃さんも例外ではありませんでしたらう(私の生まれは實は鎌倉で小學校を卒業するまでは其處に居たのですが、其のやうな話を大屋夫婦に話したのは卒業も間近になつてのことでしたから)。だから逆に御孃さんも質朴なる愚か者の問と受け流して氣障な嫌味とは取らずにゐて呉れたものか(勿論私の述懷は眞正直なものでしたが)、惡戯つぽく微笑んだ後(のち)、
「‥‥お世辭でも嬉しいわ。私はね、一寸體が丈夫ではないの。老いた父や母の面倒も私が見なくてはならないし。‥‥私ね、諦めてゐるの。‥‥でもね、結婚ばかりが人生ではないわよ」
と判然(はつきり)言ふと「お休みなさい」と笑顏の儘御孃さんは颯爽と自分の部屋の方に消えて行つたのでした。
 ――もう三十年以上前のことになりますが、私は今も時々あの御孃さんの最後の笑顏を思ひ浮かべるのです。すると何故か少し後ろめたいやうな不思議に哀しく懷しい心持が私の心を過(よ)ぎるのを常としてゐるのです。 (二〇一〇・六・六)

   *   *   *

♡「御這人(おはいん)なさい」勿論、「入」の誤植。

♡「さういふ時には、私の心が妙に不安に冒されて來るのです。さうして若い女とたゞ差向ひで坐つてゐるのが不安なのだとばかりは思へませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るやうな不自然な態度が私を苦しめるのです。然し相手の方は却つて平氣でした。これが琴を浚ふのに聲さへ碌に出せなかつたあの女かしらと疑はれる位、耻づかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をする丈で、容易に腰を上げない事さへありました。それでゐて御孃さんは決して子供ではなかつたのです。私の眼には能くそれが解つてゐました。能く解るやうに振る舞つて見せる痕迹さへ明かでした」青年期に読んだ際、一読、忘れ難いシーンだ……無意識か意識してのことの媚態か……読者である私が判断に苦しみ、そして、手にアセが滲み……心の臟が高鳴ってくるシーン……御嬢さんの体から“Femme fatale”ファム・ファタールの匂いが漂ってくるのだ……。]

2010/06/28

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月28日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十六回

Kokoro14_2   先生の遺書

    (六十六)

 「私の氣分は國を立つ時既に厭世的になつてゐました。他(ひと)は賴りにならないものだといふ觀念が、其時骨の中迄染み込んでしまつたやうに思はれたのです。私は私の敵視する伯父だの叔母だの、その他の親戚だのを、恰も人類の代表者の如く考へ出しました。汽車へ乘つてさへ隣のものゝ樣子を、それとなく注意し始めました。たまに向から話し掛けられでもすると、猶の事警戒を加へたくなりました。私の心は沈鬱でした。鉛を呑んだやうに重苦しくなる事が時々ありました。それでゐて私の神經は、今云つた如くに鋭どく尖つて仕舞つたのです。

 私が東京へ來て下宿を出やうとしたのも、是が大きな源因になつてゐるやうに思はれます。金に不自由がなければこそ、一戸(こ)を構へて見る氣にもなつたのだと云へばそれ迄ですが、元の通り私ならば、たとひ懷中(ふところ)に餘裕が出來ても、好んでそんな面倒な眞似はしなかつたでせう。

 私は小石川へ引き移つてからも、當分此緊張した氣分に寛ぎを與へる事が出來ませんでした。私は自分で自分が耻づかしい程、きよと/\周圍を見廻してゐました。不思議にもよく働らくのは頭と眼だけで、口の方はそれと反對に、段々動かなくなつて來ました。私は家のものゝ樣子を猫のやうによく觀察しながら、黙つて机の前に坐つてゐました。時々は彼等に對して氣の毒だと思ふ程、私は油斷のない注意を彼等の上に注いでゐたのです。おれは物を偸まない巾着切(きんちやくきり)見たやうなものだ、私は斯う考へて、自分が厭になる事さへあつたのです。

 貴方は定めて變に思ふでせう。其私が其處の御孃さんを何うして好(す)く餘裕を有つてゐるか。其御孃さんの下手な活花を、何うして嬉しがつて眺める餘裕があるか。同じく下手な其人の琴を何うして喜こんで聞く餘裕があるか。さう質問された時、私はたゞ兩方とも事實であつたのだから、事實として貴方に教へて上けるといふより外に仕方がないのです。解釋は頭のある貴方に任せるとして、私はたゞ一言(ごん)付け足して置きませう。私は金に對して人類を疑ぐつたけれども、愛に對しては、まだ人類を疑はなかつたのです。だから他(ひと)から見ると變なものでも、また自分で考へて見て、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平氣で兩立してゐたのです。

 私は未亡人(びぼうじん)の事を常に奥さんと云つてゐましたから、是から未亡人と呼ばずに奥さんと云ひます。奥さんは私を靜かな人、大人しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めて呉れました。けれども私の不安な眼つきや、きよと/\した樣子については、何事も口へ出しませんでした。氣が付かなかつたのか。遠慮してゐたのか、どつちだかよく解りませんが、何しろ其處には丸で注意を拂つてゐないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚な方だと云つて、さも尊敬したらしい口の利き方をした事があります。其時正直な私も少し顏を赤らめて、向ふの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で氣が付かないから、左右御仰るんです」と眞面目に説明して呉れました。奥さんは始め私のやうな書生を宅へ置く積ではなかつたらしいのです。何處かの役所へ勤める人か何かに坐敷を貸す料簡で、近所のものに周旋を賴んでゐたらしいのです。俸給が豐でなくつて、己(やむ)を得ず素人屋に下宿する位の人だからといふ考へが、それで前かたから奥さんの頭の何處かに這入(はいつ)てゐたのでせう。奥さんは自分の胸に描いた其想像の御客と私とを比較して、こつちの方を鷹揚だと云つて褒めるのです。成程そんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金錢にかけて、鷹揚だつたかも知れません。然しそれは氣性の問題ではありませんから、私の内生活に取つて殆ど關係のないのと一般(はん)でした。奥さんはまた女丈にそれを私の全體に推廣(おしひろ)げて、同じ言葉を應用しやうと力(つとめ)るのです。

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[♡やぶちゃんの摑み:

♡「私の氣分は國を立つ時既に厭世的になつてゐました。他は賴りにならないものだといふ觀念が、其時骨の中迄染み込んでしまつたやうに思はれたのです。私は私の敵視する伯父だの叔母だの、その他の親戚だのを、恰も人類の代表者の如く考へ出しました。汽車へ乘つてさへ隣のものゝ樣子を、それとなく注意し始めました。たまに向から話し掛けられでもすると、猶の事警戒を加へたくなりました。私の心は沈鬱でした。鉛を呑んだやうに重苦しくなる事が時々ありました。それでゐて私の神經は、今云つた如くに鋭どく尖つて仕舞つたのです」統合失調症の初期症状に似ている。また直後に「私は自分で自分が耻づかしい程、きよと/\周圍を見廻してゐました。不思議にもよく働らくのは頭と眼だけで、口の方はそれと反對に、段々動かなくなつて來ました。私は家のものゝ樣子を猫のやうによく觀察しながら、黙つて机の前に坐つてゐました。時々は彼等に對して氣の毒だと思ふ程、私は油斷のない注意を彼等の上に注いでゐたのです。おれは物を偸まない巾着切見たやうなものだ、私は斯う考へて、自分が厭になる事さへあつたのです」とあるのは関係妄想(被害妄想や視線恐怖)や強迫神経症様症状(この遺書の記載時ではなく、当時の先生自身に一定の病識が認められるような感じがする点では統合失調症ではなく、こちらのようにも思われる)が精神医学の症例のように示される。

♡「私が東京へ來て下宿を出やうとしたのも、是が大きな源因になつてゐるやうに思はれます」続く遺書を読んで見て、初めて了解されることであるが、この時、先生はKと同じ部屋に一緒に下宿している(場所は不明であるが、漱石の場合は東京人であるが東京大学予備門予科に入学(明治171884)年9月)後の翌年前後に十人程の友人と神田区猿楽町(現在の千代田区猿楽町)の末富屋に下宿しているのが一つのヒントとなりそうではある。ここからなら富坂辺りにぶらりと貸し家探しに来れる近距離である)。第(七十四)回で「私が東京へ來て下宿を出やうとした」時と同時間のシーンがやや違ったアングルから描かれる。

私の郷里で暮らした其二ヶ月間が、私の運命にとつて、如何に波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽鬱と孤獨の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入つて又Kに逢ひました。すると彼の運命も亦私と同樣に變調を示してゐました。彼は私の知らないうちに、養家先へ手紙を出して、此方から自分の詐(いつはり)を白状してしまつたのです。(以下略)

この後、Kの養子縁組解消から復籍迄が、凡そ年1年弱の期間で描写される。その間、Kとの絡みの中での先生の行動は示されるものの、そのKの復籍事件間のどの時点で、先生がKと別れてここに住まいを移したかは語られない。先生の物謂いから判断するに、感触では東京へ帰ってKの変調を知った直後(1~2ヶ月以内)のようには見受けられる。一見、窮地に陥ったKへの思いやりに欠けるように見受けられる行動ではあるが、Kの独立独歩自律自戒の禁欲的精神からも、またそれをよく理解していた先生――そして先生自身も疑心暗鬼から来る激しい人間不信(厭人傾向)に陥っていた――を考えれば、互いに少し一人になって考えてみる必要もあろうと考えて不思議ではない。また、先生としても小説としても、ここでKの存在を持ち出してしまうと、却って分かり難くなるから避けたと考えてよい。Kは経済状況が急迫し、直ぐにでもアルバイトを始めなければ生活が立ち行かなくなっていたから、生活時間も悩める小金持ちの先生とは真逆となり、二人で生活することは物理的に難しくなったものと容易に判断もされるのである。

♡「元の通り私ならば」「元の通りの私ならば」の「の」の脱字。

♡「貴方は定めて變に思ふでせう。其私が其處の御孃さんを何うして好く餘裕を有つてゐるか。其御孃さんの下手な活花を、何うして嬉しがつて眺める餘裕があるか。同じく下手な其人の琴を何うして喜こんで聞く餘裕があるか。さう質問された時、私はたゞ兩方とも事實であつたのだから、事實として貴方に教へて上けるといふより外に仕方がないのです。解釋は頭のある貴方に任せるとして、私はたゞ一言付け足して置きませう。私は金に對して人類を疑ぐつたけれども、愛に對しては、まだ人類を疑はなかつたのです。だから他から見ると變なものでも、また自分で考へて見て、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平氣で兩立してゐたのです」我々はアンビバレントな感情がコンプレクス(心的複合)として心に共時的に両在することを殊更に他者に説明することは不可能である。逆にそのような二律背反の共存は通常の人間一般にとって当たり前に存在し、それは決して異常で理解不能なことでは、ない、はずである。にも拘らず、先生はそれに理由付けを必要とした(それは「私」の持つ違和感を深読みし過ぎたとも言える。「私」という人間を見損なっているとも言えるように私は思う)。その理由が問題である。

私は『金』に対して人類を疑ぐった。最早、決して信頼することはない。

が、

私は『愛』に対しては未だ人類を疑ぐってはいなかった。

である。いや、直ちにこの命題は以下の発展命題の真であることを証明する。即ち、

私は『愛』に対しては未だ人類を疑ぐってはいなかったし、今、この遺書を書いている現在も私は『愛』に対して疑ってはいないのだ――だから愛する『人』を私は信頼している。即ち――現在の靜も、そして誰よりも君を――。

と先生は言っているのである。いや、この発展命題を厳密提示するなら、そこに必要条件が見えてくる。

『金』という概念から君たちが完全に遮断されていること、別乾坤にあることを条件として、私は現在の靜も、そして誰よりも君を『愛』する。

という命題である。これは厳しい言明であり、物凄い枷である。いや、それは先生自身にとってもである。先生は何事もこのような二項対立の中に自身を追い込んでしまう。そのように考えることが自他に対して分かりよいと安易に考える傾向にある。それが先生を生地獄へと導く導火線であるように私には思われるのである。

そして漱石と『金』に纏わる精神変調と言えば、ズバリ、ロンドン留学帰朝後4日目(1月28日か)に漱石がやらかした異常行動が直ぐに浮かぶ。火鉢にあたっていた満4歳にもならぬ長女の筆を、いきなり殴りつけたのである。コンパクトに纏められた平井富雄「神経症夏目漱石」(福武書店1990年刊)から引用する(「漱石の思い出」の引用は底本では全体が二字下げ)。

   《引用開始》

 この事件について、鏡子夫人は次のように説明している。

 「ロンドンにいた時の話、ある日街を散歩していると一乞食が哀っぽく金をねだるので一銅貨を出して手渡してやりましたそうです。するとかえって来て便所に入ると、これ見よがしにそれと同じ銅貨が一枚便所の窓にのっているというではありませんか。小癪(こしゃく)な真似をする、常々下宿の主婦(かみ)さんは自分のあとをつけて探偵のようなことをしていると思ったら、やっぱり推定通り自分の行動を細大洩らさず見ているのだ。しかもそのお手柄を見せびらかしでもするように、これ見よがしに自分の目につくところへのっけておくとは何といういやな婆さんだ。実に怪しからん奴だと憤慨したことがあったそうですが、それと同じような銅貨が、同じくこれ見よがしに火鉢のふちにのっけてある。いかにも人を莫迦(ばか)にした怪(け)しからん子供だと思って、一本参ったというのですから変な話です。私も妙なことをいう人だなと思いましたが、それなり切りでこの事ほ終ってしまいました」(『漱石の思い出』)

 これを、そのまま素直に受けとるなら、漱石は「被害的追跡妄想」に襲われていた、ということになる。しかし、愛する子供が火鉢にあたり、そこに銅貨一枚があったとしても、ここは日本の自分の家庭だという現実認識が働いたなら、娘を唐突に「一本参らせる」ことはまずあるまい。

 したがって、漱石はロンドンの異常体験を、東京へも持ちこんでしまい、両者の区別が現実に出来ていなかったほど頭が混乱していた、と取るのがまず妥当と言うべきであろう。あとは、陰うつ、悔恨、自罪感、空白感、不機嫌などの抑うつ的気分が、つい抑え切れなかったあげくの病癖と解して良いのではあるまいか。乞食や銅貨について云々のところは、後に漱石が自らの奇行を弁明するために鏡子夫人に語った事のように思われてならない。それほど、帰朝直後、漱石はロンドン生活における悪い体験を、漠然とでもなおかかえ続けていたのであろう。そうして、それほど、当時の漱石の気分は、抑うつが深く、かつ罪責感情の拡がっていたことを、この事件からぼくら知るのである。

   《引用終了》

なお、平井氏はロンドン時代の漱石を神経衰弱から進行した鬱病であったのではないかと推定されておられる。

♡「鷹揚」鷹が高い空を悠然と飛ぶ様から、小さなことに拘らず、ゆったりとしている様。おっとりとして上品な様。挙止動作が落ち着いていて、寛大な心の持主である様を言う。大らか。

♡「這入(はいつ)てゐた」の「つ」のルビは底本では上を左にして転倒している。

♡「奥さんはまた女丈にそれを私の全體に推廣げて、同じ言葉を應用しやうと力るのです」……先生、あなたは女を見縊り過ぎてゐますよ……特に奥さんを……奥さんはそんな単純じゃありません……そのようにお目出度く単細胞に振舞っているだけですよ……。]

2010/06/27

「心」第(九十四)回~第(九十六)回 ♡やぶちゃんの摑み メーキング映像

○上野公園。
K 「……どう思う?」
先生「何がだ?」
K 「……今の俺を、どう思う?……お前は、どんな眼で俺を見ている?……」
先生「この際、何んで私の批評が必要なんだ?」
 K、何時にない悄然とした口調で。
K 「……自分の……弱い人間であるのが……実際、恥ずかしい……」
 先生、Kを見ず一緒に歩む。先生、黙っている。
K 「……迷ってる……だから……自分で自分が、分らなくなってしまった……だから……お前に公平な批評を求めるより……外に仕方がない……」
 先生、Kの台詞を食って。
先生「迷う?」
K 「……進んでいいか……退ぞいていいか……それに迷うのだ……」
 先生、ゆっくりと落ち着いて。
先生「……退ぞこうと思へば……退ぞけるのか?」
 K、立ち止まる。黙っている。
 先生、少し行って止まる。しかし、Kの方は振り返らない。暫くして。
K 「……苦しい……」
 先生、振り返る。
 K、のピクピクと動く口元のアップ。
 先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿。
先生「精神的に向上心のないものは馬鹿だ。」
 K、微かにびくっとする。間。ゆっくりと先生の方へ歩み始めるK(バスト・ショット。僅かに高速度撮影で、散る枯葉を掠めさせる)。
 カット・バックで先生(バスト・ショット、Kよりも大きめ。僅かにフレーム・アップさせながら)。
先生「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ――。」
 Kの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。
K 「馬鹿だ……(間)……僕は馬鹿だ……」
 K、ぴたりとそこでへ立ち止まる。K、うな垂れて地面を見詰めているのが分かるように背後から俯瞰ショット。
 先生の横顔(アップ)。ぎょっとして顔を上げる。何時の間にか先生の前にKの姿はない。カメラ、ゆっくりと回る。先生がさっきの進行方向を向くと、Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。
 追いついて、Kと並んで歩む先生。夕暮れ。
K 「……○○……」
[やぶちゃん注:「○○」には先生の姓が入る。]
 先生の方を見るK(先生目線の上向きのバスト・ショット)。
 先生とK、立ち止まる(フルショット。背後に枯れた木立を煽って)。
 Kの悲痛な顏(真正面のフルフェイス・ショット)。
 先生の顏(夕日を反射する眼鏡は鏡面のようにハレーションして眼は見えない。見上げる真正面のフルフェイス・ショット)
 K、淋しそうな眼、表情(真正面のフルフェイス・ショット)。
K 「……もう、その話はやめよう。」
 対する二人(ミディアム・ショット)。
K 「……やめてくれ。」
先生「(ゆっくりと極めて冷静に)やめてくれつて、僕が、言い出したことじゃない。もともと君の方から持ち出した話じゃないか。……(間)……しかし、君がやめたければ、やめてもいいが、……(間)……ただ、口の先でやめたって仕方あるまい? 君の心でそれを止めるだけの、『覚悟』がなければ。……一体、君は、君の平生の主張をどうするつもりなんだ?」
 項垂れていることが分かるKの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。カメラがややティルト・アップすると、向うに先生(捉えた瞬間、先生を迅速にフレーム・アップ)。
K 「……覚悟?……」
 フレームの中の向うの先生が口を開いて何か言おうとする。しかしそれに合わせて、独白(モノローグ)のように、夢の中の言葉のやうに(台詞と共にややティルト・ダウンして、画面いっぱいにKの後姿。項垂れたままに)。
K 「覚悟?!……覚悟なら……ないこともない……」

DASH海岸管理人

最早、僕の貧しい人生でやりたいこと――それはたった一つだけだ……テレビに映らない……金も要らない……あの「DASH海岸」の管理人以外には、ない――これは、本気だ――

銀龍草――おかえり

初夏や母の面影銀龍草

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月27日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十五回

Kokoro14   先生の遺書

    (六十五)

 私は早速其家へ引き移りました。私は最初來た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。其處は宅中(うちぢう)で一番好(い)い室でした。本郷邊に高等下宿といつた風の家がぽつ/\建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間の樣子を心得てゐました。私の新らしく主人となつた室は、それ等よりもずつと立派でした。移つた當座は、學生としての私には過ぎる位(くらゐ)に思はれたのです。

 室の廣さは八疊でした。床の横に違ひ棚があつて、縁と反對の側には一間(けん)の押入が付いてゐました。窓は一つもなかつたのですが、其代り南向の縁に明るい日が能く差しました。

 私は移つた日に、其室の床に活けられた花と、其横に立て懸けられた琴を見ました。何方(どつち)も私の氣に入りませんでした。私は詩や書や煎茶を嗜なむ父の傍(そば)で育つたので、唐めいた趣味を小供のうちから有つてゐました。その爲でもありませうか、斯ういふ艶めかしい裝飾を何時の間にか輕蔑する癖が付いてゐたのです。

 私の父が存生(ぞんしやう)中にあつめた道具類は、例の伯父のために滅茶々々にされてしまつたのですが、夫でも多少は殘つてゐました。私は國を立つ時それを中學の舊友に預かつて貰ひました。それから其中で面白さうなものを四五幅裸にして行李の底へ入れて來ました。私は移るや否や、それを取り出して床へ懸けて樂しむ積でゐたのです。所が今いつた琴と活花を見たので、急に勇氣がなくなつて仕舞ひました。後から聞いて始めて此花が私に對する御馳走に活けられたのだといふ事を知つた時、私は心のうちで苦笑しました。尤も琴は前から其處にあつたのですから、是は置き所がないため、己(やむ)を得ず其儘に立て懸けてあつたのでせう。

 斯んな話をすると、自然其裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通るでせう。移つた私にも、移らない初からさういふ好奇心が既に動いてゐたのです。斯うした邪氣が豫備的に私の自然を損なつたためか、又は私がまだ人慣れなかつたためか、私は始めて其處の御孃さんに會つた時、へどもどした挨拶をしました。其代り御孃さんの方でも赤い顏をしました。

 私はそれ迄未亡人の風采や態度から推して、此御孃さんの凡てを想像してゐたのです。然し其想像は御孃さんに取つてあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからあゝなのだらう、其妻君の娘だから斯うだらうと云つた順序で、私の推測は段々延びて行きました。所が其推測が、御孃さんの顏を見た瞬間に、悉く打ち消されました。さうして私の頭の中へ今迄想像も及ばなかつた異性の匂が新らしく入つて來ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。

 其花は又規則正しく凋れる頃になると活け更へられるのです。琴も度々鍵の手に折れ曲がつた筋違(すぢかひ)の室に運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頰杖を突きながら、其琴の音を聞いてゐました。私には其琴が上手なのか下手なのか能く解らないのです。けれども餘り込み入つた手を彈かない所を見ると、上手なのぢやなからうと考へました。まあ活花の程度位なものだらうと思ひました。花なら私にも好く分るのですが、御孃さんは決して旨い方ではなかつたのです。

 それでも臆面なく色々の花が私の床を飾つて呉れました。尤も活方は何時見ても同じ事でした。それから花瓶(くわへい)もついぞ變つた例がありませんでした。然し片方の音樂になると花よりももつと變でした。ぽつん/\糸を鳴らす丈で、一向肉聲を聞かせないのです。唄はないのではありませんが、丸で内所話でもするやうに小さな聲しか出さないのです。しかも叱られると全く出なくなるのです。

 私は喜んで此下手な活花(いけはな)を眺めては、まづさうな琴の音に耳を傾(かたぶ)けました。

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[♡やぶちゃんの摑み:舞台となる家屋の詳細な推定間取りを以下に公開する。これは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の271ページ、Kを自分の下宿に引き取る「こゝろ」「下 先生と遺書」の「二十三」、「心」第(七十七)回相当の冒頭「私の座敷には控への間といふやうな四疊が附屬して居ました」の「控への間」の注に『間取り例』として画像掲載されている明治43(1910)年12月8日付『朝日新聞』「時代の家屋(十)」掲載の間取りの例を参考に、私が手を加えて作図したものである。私の妻(さい)や建築会社に勤務する知人の助言も参考にした。

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なお、上の通り、ここから第(七十一)回迄の7回分の飾罫は明らかに今迄のものとは異なり、有意に痩せてたものが用いられている。

♡「高等下宿」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は西山卯三「すまい考今学――現代日本住宅史」(彰国社1989年刊)から引用して「木造二階建で、日露戦争後の一九〇五年の建設、五本の二〇センチ角の大黒柱を上下につらぬく頑丈な建築で、当初は地方の金持ち息子や留学生の泊まる高等下宿であった」「本郷館」という高等下宿の存在を示されている。それは部屋も六畳から九畳と一般的な下宿屋に比べると広く、また明治451912)年7月15日付『朝日新聞』の「下宿の四苦八苦」という記事の引用には、「高等下宿を標榜して居るもの」「高等下宿と称して居る処」(これは、「という紛い下宿が」という含みであろう)が至るところにあったと注されている。この家はこの前者の真正高等下宿よりも、使用されている建具や雰囲気が遙かに高級であることを示している。

♡「私はそれ迄未亡人の風采や態度から推して、此御孃さんの凡てを想像してゐたのです。然し其想像は御孃さんに取つてあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからあゝなのだらう、其妻君の娘だから斯うだらうと云つた順序で、私の推測は段々延びて行きました。所が其推測が、御孃さんの顏を見た瞬間に、悉く打ち消されました。さうして私の頭の中へ今迄想像も及ばなかつた異性の匂が新らしく入つて來ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました」ここは先生が靜に一目惚れを我々に告白するシーンである。如何にも余裕派時代を髣髴とさせる漱石の語りである。若き日の私などはここで失笑してしまった。――だって、これって先生が、

『……ありゃ、悪いけどへちゃむくれの男みたようなオバサンだからな……あの面相を母親に持った娘なんだよな……軍人の娘でさ、この男みたような軍神の妻の人柄の娘でさ……こりゃ、とてもとても、期待は、出来んな……』

と思ってた。ところが! すっごい美人だったからびっくらこいた!……と述べているのだから――。また、ここでは(六十一)という不快な叔父の裏切りの中で喚起された初恋の女の面影が暗に比較されて、申し分なく靜が遙かに美しいという無言の支持がなされているのであろう。しかしそうした言辞が全くないことから、その結果として読者は先生の初恋をここに、靜が初恋の相手であるかの如くに、錯誤してしまうのである。

なお、私はこれを明治311898)年頃で、先生は満20歳、靜は1617歳と推定している。即ち御嬢さんの出生は明治141881)年前後となる。

♡「私は喜んで此下手な活花を眺めては、まづさうな琴の音に耳を傾けました」上手い台詞である。この日、大正3(1914)年6月27日土曜日のこの「心」の連載を読んだ男どもの多くは、一日中、多かれ少なかれ心の何処かで、初恋の頃の自分の気持ちを思い出して独り蔭で微苦笑していたに違いない――。]

2010/06/26

HP開設5周年テクスト 尾形龜之助歌集

本日をもってHP開設5周年となった。記念テクストとして「尾形龜之助歌集」を「心朽窩 新館」に公開した。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月26日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十四回

Kokoro14_5   先生の遺書

    (六十四)

 「金に不自由のない私は、騒々しい下宿を出て、新らしく一戸を構へて見やうかといふ氣になつたのです。然しそれには世帶道具を買ふ面倒もありますし、世話をして呉れる婆さんの必要も起りますし、其婆さんが又正直でなければ困るし、宅を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、と云つた譯で、ちよくら一寸(ちよつと)實行する事は覺束なく見えたのです。ある日私はまあ宅(うち)丈でも探して見やうかといふそゞろ心から、散歩がてらに本郷臺を西へ下りて小石川の坂を眞直に傳通院(でんづうゐん)の方へ上がりました。今では電車の通路になつて、あそこいらの樣子が丸で違つてしまひましたが、其頃は左手が砲兵工廠(はうへいかうしやう)の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐたものです。私は其草の中に立つて、何心なく向(むかふ)の崖を眺めました。今でも惡い景色ではありませんが、其頃は又ずつと趣が違つてゐました。見渡す限り緑が一面に深く茂つてゐる丈でも、神經が休まります。私は不圖こゝいらに適當な宅はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を横切つて、細い通りを北の方へ進んで行きました。今日(こんにち)でも好(い)い町になり切れないで、がたぴししてゐる彼(あ)の邊(あたり)の家並は、其頃の事ですから隨分汚ならしいものでした。私は露次を拔けたり、横丁を曲つたり、ぐる/\歩き廻りました。仕舞に駄菓子屋の上さんに、こゝいらに小じんまりした貸家(かしや)はないかと尋ねて見ました。上さんは「左右ですね」と云つて、少時(しばらく)首をかしげてゐましたが、「かし家(や)はちよいと‥‥」と全く思ひ當らない風でした。私は望のないものと諦らめて歸り掛けました。すると上さんが又、「素人(しらうと)下宿ぢや不可ませんか」と聞くのです。私は一寸氣が變りました。靜かな素人屋に一人で下宿してゐるのは、却つて家を持つ面倒がなくつて結構だらうと考へ出したのです。それから其駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教へてもらひました。

 それはある軍人の家族、といふよりも寧ろ遺族、の住んでゐる家でした。主人は何でも日淸戰爭の時か何かに死んだのだと上さんが云ひました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官學校の傍とかに住んでゐたのだが、厩(うまや)などがあつて、邸が廣過ぎるので、其處を賣り拂つて、此處へ引つ越して來たけれども、無人(ぶにん)で淋しくつて困るから相當の人があつたら世話をして呉れと賴まれてゐたのださうです。私は上さんから、其家には未亡人(びばうじん)と一人娘と下女より外にゐないのだといふ事を確かめました。私は閑靜で至極好からうと心の中に思ひました。けれどもそんな家族のうちに、私のやうなものが、突然行つた處で、素性の知れない書生さんといふ名稱のもとに、すぐ拒絶されはしまいかといふ懸念もありました。私は止さうかとも考へました。然し私は書生としてそんなに見苦しい服裝(なり)はしてゐませんでした。それから大學の制帽を被つてゐました。あなたは笑ふでせう、大學の制帽が何うしたんだと云つて。けれども其頃の大學生は今と違つて、大分世間に信用のあつたものです。私は其場合此四角な帽子に一種の自信を見出した位(くらゐ)です。さうして駄菓子屋の上さんに教はつた通り、紹介も何もなしに其軍人の遺族の家を訪ねました。

 私は未亡人に會つて來意を告げました。未亡人は私の身元やら學校やら專門やらに就いて色々質問しました。さうして是なら大丈夫だといふ所を何處かに握づたのでせう、何時でも引つ越して來て差支ないといふ挨拶を即坐に與(あたへ)て呉れました。未亡人は正しい人でした、又判然(はつきり)した人でした。私は軍人の妻君といふものはみんな斯んなものかと思つて感服しました。感服もしたが、驚ろきもしました。此氣性で何處が淋しいのだらうと疑ひもしました。

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やぶちゃんの摑み:本格的に先生の秘密の過去へと入る導入部である。「今日でも好い町になり切れないで、がたぴししてゐる」「隨分汚ならしい」町の「露次を拔けたり、横丁を曲つたり、ぐる/\歩き廻」る。再び「ぐる/\」と円運動をする先生――そして――太田豊太郎にとってのクロステル街のような、女だけの世界――奥さん・御嬢さん・下女――母性性・女性性・子宮の襞へと入り込んでゆく先生の後姿が見える。

 これからの重要な舞台となるこの素人下宿は何処にあったか? 先生の遺書を仔細に読み解いて見ると、それはかなり狭い範囲に絞り込むことが可能である。同定のための絞込み作業の過程は省略するが、私はこの下宿は富坂の中程の北にある中富坂町の中央部から北側を東西に走る堀坂の間にあったと考えている。

♡「傳通院」文京区小石川3-14-6にある浄土宗寺院。当時、高等師範学校英語嘱託であった28歳の夏目漱石は明治271894)年10月から翌年4月に松山の中学校に赴任する迄、小石川区表町七十三番地(現在の文京区小石川3-5-4)伝通院の西脇に付随した尼寺法蔵院(宝蔵院)に下宿している。この頃の漱石は神経衰弱で関係妄想や幻覚が著しかった時期で、数々の奇行が知られている。また、この3年前の明治241991)年7月17日には以前から心惹かれていたある女性と行きつけの眼科医で出会い、衝撃と激しい恋情を催したり(当時の正岡子規宛書簡による。3年後のこの伝通院下宿時期にも毎日のようにこの眼科へ通院していた)、また、この7月下旬には兄和三郎の妻登世(とせ)が重い悪阻のために死去したが、彼女への「悼亡」句を実に十三句も残しており、江藤淳は漱石がこの義姉登世に対しても、ある種の恋愛感情を抱いていたとしている(以上は主に集英社昭和491974)年刊の荒正人「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」等に依った)。

♡「砲兵工廠」東京砲兵工廠は日本陸軍の兵器製造工場。以下、ウィキの「東京砲兵工廠」より引用する。『1871年(明治4年)から1935年(昭和10年)にその機能を小倉工廠に移転するまで操業し、小銃を主体とする兵器の製造を行った。また、官公庁や民間の要望に応えて、兵器以外のさまざまな金属製品も製造した』。(中略)『18703月(旧暦)、造兵司は東京の旧幕府営の関口製造所と滝野川反射炉を管轄とし、それらの設備を元に東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡(元後楽園遊園地)に建設し、1871年に火工所(小銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業が開始された。後に板橋火薬製造所・岩鼻火薬製造所・十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場を管下においた』。(中略)『1879年(明治12年)「砲兵工廠条例」(陸軍省達乙第79号達)の制定に伴って、1010日陸軍省達乙74号より「東京砲兵工廠」となり、1923年(大正12年)41日より施行された「陸軍造兵廠令」(大正12330日勅令第83号)によって、大阪砲兵工廠と合併し「陸軍造兵廠火工廠東京工廠」と改称し』ている。その後は『同年9月1日の関東大震災によって甚大な被害を受けたあと、小石川工場の本格的な復旧には多大な経費が必要なことから、造兵廠長官の直轄であった小倉兵器製造所への集約移転が図られ、1931年(昭和6年)から逐次、小倉へ移転が実施された。1933年(昭和8年)10月、小倉兵器製造所は小倉工廠となり、兵器製造所に加え砲具製造所・砲弾製造所を増設。193510月、東京工廠は小倉工廠へ移転を完了し、約66年間の歴史の幕を閉じた。跡地は払い下げられ、後楽園球場となった』。『現在、小石川後楽園内には砲兵工廠の遺構がいくつか保存されており、また工廠敷地の形状をかたどった記念碑も設置されている』。――雨上がりの泥だらけの富坂……Kと靜に出逢う先生……その視線の左手……武器の製造工場……戦争……先生とK……。戦争と「こゝろ」!――私の教え子の「こゝろ」論の一つ「トゥワイス・ボーン」をお読みあれ!

♡「右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐた」ここが何故空地であったかは、江戸時代の切絵図を見ると判然とする。火除け地であったからである。

♡「私は露次を拔けたり、横丁を曲つたり、ぐる/\歩き廻りました」「心」の中の謎の円運動の一つの写像の内、遺書に表れる先生の実際行動の円運動の初出部分である。

♡「未亡人(びばうじん)」このルビは誤植ではない。この時代は「みばうじん」「びばうじん」両様の読みが用いられていた。因みに「未亡人」と言う語は本来、夫と共に死ぬべき存在なのに未だに死なない女の意で、元来は自称の卑語であった。

♡「主人は何でも日淸戰爭の時か何かに死んだのだ」この駄菓子屋の上さんの言は特に後で補正されないところを見ると、軍人であった奥さんの夫は日清戦争(明治271894)年7月~明治281895)年3月)で戦死していると断定してよい。

♡「厩などがあつて、邸が廣過ぎる」この叙述から若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」によれば、亡夫は陸軍の佐官級(大佐・中佐・少佐)であったか、若しくは将官(大将・中将・少将)であった可能性もないとは言えないとする。

♡「未亡人は正しい人でした、又判然した人でした。私は軍人の妻君といふものはみんな斯んなものかと思つて感服しました。感服もしたが、驚ろきもしました。此氣性で何處が淋しいのだらうと疑ひもしました」何だか猫の「我輩」か「坊つちやん」の坊ちゃんが出て来たみたようなシーンで、面白い。「正しい人でした」は私には奇異な言葉遣い、「判然した人でした」は女はうじうじして「はつきり」しない人種という女性蔑視、「感服もしたが、驚ろきもし」、「此氣性で何處が淋しい」もんか「と疑ひもし」た――ちょっと息抜きしているように『見える』……いや! 違う……気づかねばならぬ……

奥さんは「正しい人」であり

奥さんは「判然(はつきり)した人」であり

奥さんは果断に富んだ「氣性」の持主

なのである。そんな奥さんに――正しく判然としないこと――など、ない。

……この奥さんこそ本作中にあって鮮やかに唯一「正しい」「判然」とした判断を下している人物なのではあるまいか?

……靜の母=「奥さん」は実は本作中にあって『何もかも総てを知っていて「正しい」「判然」とした判断を下している人物』なのではあるまいか?!……]

2010/06/25

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月25日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十三回

Kokoro14_3   先生の遺書

    (六十三)

 「一口でいふと、伯父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出てゐる三年の間に容易く行なはれたのです。凡てを伯父任せにして平氣でゐた私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません。然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう。

 若し私が伯父の希望通り伯父の娘と結婚したならば、其結果は物質的に私に取つて有利なものでしたらうか。是は考へる迄もない事と思ひます。伯父は策略で娘を私に押し付けやうとしたのです。好意的に兩家の便宜を計るといふよりも、ずつと下卑た利害心に驅られて、結婚問題を私に向けたのです。私は從妹を愛してゐない丈で、嫌つてはゐなかつたのですが、後から考へて見ると、それを斷つたのが私には多少の愉快になると思ひます。胡魔化されるのは何方にしても同じでせうけれども、載せられ方からいへば、從妹を貰はない方が、向ふの思ひ通りにならないといふ點から見て、少しは私の我が通つた事になるのですから。然しそれは殆ど問題とするに足りない些細な事柄です。ことに關係のない貴方に云はせたら、さぞ馬鹿氣(げ)た意地に見えるでせう。

 私と伯父の間に他(た)の親戚のものが這入りました。その親戚のものも私は丸で信用してゐませんでした。信用しないばかりでなく、寧ろ敵視してゐました。私は伯父が私を欺むいたと覺ると共に、他(ほか)のものも必ず自分を欺くに違ひないと思ひ詰めました。父があれ丈賞め拔いてゐた伯父ですら斯うだから、他のものはといふのが私の論理(ロヂツク)でした。

 それでも彼等は私のために、私の所有にかゝる一切のものを纏めて呉れました。それは金額に見積ると、私の豫期より遙に少いものでした。私としては黙つてそれを受け取るか、でなければ伯父を相手取(どつ)て公け沙汰にするか、二つの方法しかなかつたのです。私は憤りました。又迷ひました。訴訟にすると落着迄に長い時間のかゝる事も恐れました。私は修業中のからだですから、學生として大切な時間を奪はれるのは非常の苦痛だとも考へました。私は思案の結果、市に居(を)る中學の舊友に賴んで、私の受け取つたものを、凡て金の形に變へやうとしました。舊友は止した方が得だといつて忠告して呉れましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷を離れる決心を其時に起したのです。伯父の顏を見まいと心のうちで誓つたのです。

 私は國を立つ前に、又父と母の墓へ參りました。私はそれぎり其墓を見た事がありません。もう永久に見る機會も來ないでせう。

 私の舊友は私の言葉通りに取計らつて呉れました。尤もそれは私が東京へ着いてから餘程經つた後の事です。田舍で畠地などを賣らうとしたつて容易には賣れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取つた金額は、時價に比べると餘程少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懷にして家を出た若干の公債と、後から此友人に送つて貰つた金丈なのです。親の遺産としては固より非常に減つてゐたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、猶心持が惡かつたのです。けれども學生として生活するにはそれで充分以上でした。實をいふと私はそれから出る利子の半分も使へませんでした。此餘裕ある私の學生々活が私を思ひも寄らない境遇に陷し入れたのです。

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やぶちゃんの摑み:先生がここで始めて明言する叔父による財産横領への私(やぶちゃん)の疑惑(否定ではない)の提示とその分析は前章までに十分に尽くした。ただ付け加えるならば、私は叔父による財産横領(先生の確認を得ずに行われた財産流用及びそれによる損失の不補填)が実際にあったとして(逆に1円たりとも全くなかった可能性も私は少ないように思う)、叔父自身も他の親族も含めて、それが横領であるという意識はなかったのではないかと考えている。「凡てを伯父任せにして平氣でゐた」と私が言う以上、当時の民法が規定していた最低年一回の親族会への報告義務など、田舎のことであるから酒の席のなあなあで済まされていたと考えてよいし、叔父のみならず親族会も、財産状況報告どころか、財産管理運用に関しては万事叔父の裁量に任せておけばよい、幾許かの金銭ならば一時的に流用してそれが増えれば悪いこっちゃない、ぐらいな理解であったと私は思うのである(これは現在の民法上の訴訟でも「面倒見てやってんだから」という幾等も見受けられる事例であろう)。即ち、犯罪としての罪障感などは、叔父ら(家族及びそれを知っていて黙認していた親族)の内心には微塵もなかった、と私思うのである。そう考えた時、私は、この場面での親族の動きも自然に納得されるのである。だいたいが、東京に行って好き勝手し、夏には帰ってへらへら遊び、そのくせ、従妹との結婚は厭です、あなた方はグルになって私を欺した、「策略で娘を私に押し付けやうとした」「好意的に兩家の便宜を計るといふよりも、ずつと下卑た利害心に驅られて、結婚問題を私に向けた」のだ、なんどと言い出す、頭でっかちの生意気な青書生に味方する人は、田舎でなくても、先生の親族には全くいなかったと断言出来るように思われるのである。更に言えば、民俗的運命共同体としての「ムラ」としての意識が未だ色濃く残っていた当時にあって、こういう人物は「ムラ」を危くする異人として認識され、排除・抹殺されても仕方がない存在であったと言ってもよい。先生は自分から故郷を出たが、実際には故郷を追われたと言ってもよいのである。ここに私が授業で先生を故郷喪失者とする真の所以がある。

「然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」私はこの台詞を、

『「凡てを伯父任せにして平氣でゐた」この「私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません」。が、「記憶して下さい、」これからお話する秘密の過去に纏わる一件を経てしまった後の私、「あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」が、「然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです」。』

という意味でとってきた――そして今後もそういう意味で取り続ける。ところが、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」では、どうもそのようには取っておられないように思われる。藤井氏は「塵に汚れた後の私」を(五十九)の「子供らしい私」を“innocent”の訳語的用法とし、ここはそれに対応して、『innocentでなくなった私、というほどの意味だろうか。すぐその前では、innocentであった時代を指して「純な尊い男」とも言っている。』と注されている。即ち、藤井氏は、

『「凡てを伯父任せにして平氣でゐた」この「私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません」。――そして私は、叔父に裏切られることによって「子供らしい」「生れたままの」「純な尊い」「姿」を完全に失いました。――「記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は」叔父に裏切られて人を信じられなくなった「塵に汚れた後の私です」。遂に「金に対して人類を疑」(六十六)うようになった――人間を信じられなった――「きたなくなつた」のです「きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」。』

という風に、座標軸をこの郷里出奔の時点に置いた前後として認識しているように読める。……言われてみると、書かれた文章をここだけ取り出して本作を全く知らない人に読ませれば、そのように読むのが自然だとも言えるようにも見える……

……が……しかし、果たして、そうだろうか?

もう一度「記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」を、実際に声に出して味わってみて欲しい。

 するとやはりそのような解は不能であるという強い思い湧いてくるのである。そもそも叔父に騙されたここまでの一件は「秘密の過去」でも何でもない。それは幼馴染みのKも、奥さんも、靜も知っていることだ。そんなものを「記憶して下さい」なんどと先生が言うこと自体、おかしい。私には「塵に汚れた後の私」という語は、もっと先生の人生総体の、非常に重い「過去」として、「私」にのしかかって「壓迫」(三十一)してくるのである。

 それは何故か?

 それはが正に『ここ』が先生の遺書の核心部である秘密の過去へ開かれる『門』であるからである。

 実際にこの章の最後の一文「此餘裕ある私の學生々活が私を思ひも寄らない境遇に陷し入れた」という一文がそのことを如実に示している。

 そして何より――「記憶して下さい」――である。

 私は「こゝろ」というと先ずこのフレーズが思い起こされるのである。このフレーズは御承知の通り、もう一度出現する。それが閉じられるもう一つの『門』である――

 記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散歩した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後(うしろ)には何時でも黑い影が括(く)ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を歩いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、嘘を吐(つ)いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度(きつと)會ふ積でゐたのです。

最終章の一つ前第(百九)章の終り近くである。これは極めて重要な部分である。この次の段落で明治天皇が崩御し、乃木の殉死があって、その中で先生の自死が慌しく決せられるのである。この「記憶して下さい」というフレーズは、それが始まる(六十二)の『ここ』から、この(百九)の『ここ』までに係るのだと私は思うのである。即ち、「記憶して下さい」こそが「先生の秘密の過去」という先生の生き血で描いた絵の、荘厳な「額縁」なのである。先生は私に、

これから語り出すことこそ大事だ! ここに、ここまで書かれた秘密の私の過去を記憶せよ!

と命じているのであって、間違えても、

×「下卑た」「叔父」に騙されて汚れてしまった私を記憶せよ!

なんどと言っているのでは毛頭『ない』!

「親の遺産としては固より非常に減つてゐたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、猶心持が惡かつたのです。けれども學生として生活するにはそれで充分以上でした。實をいふと私はそれから出る利子の半分も使へませんでした」前注では藤井氏の注に難癖(謂われなきと反論されるかも知れない)をつけたが、「漱石文学全注釈 12 心」の本章の注では特に「公債」や「それから出る利子」について詳細なデータが示されていて素晴らしい。詳細な計算は該当書を見て欲しいが、ここで藤井氏は、この時点で先生が手にした財産を24,000円と推定されている(月々の生活費を50円とした試算。一般的な標準から考えるともう少し生活費を下げて考えてもよいようにも思われる)。因みに先生は結婚後に、靜の実家の財産と寡婦扶助料(日清戦争で戦死した亡父の未亡人である奥さんに支払われいたと考えられるもので藤井氏の別な箇所の注によれば平均年額145円とある)等に加え、奥さんが持っていた可能性が高いと思われる国債(靜の亡父は軍人であるから海軍公債等)などを合わせ、そこから得られた利子(公債の殆んどが年5分で、償還期間も極めて長かったと藤井氏注にある)をまた新たな公債購入に当てたりし乍ら、財産を膨らまして高等遊民としての元金にしていったものと考えられる。ともかくもここでは、かなりとんでもない小金持ちの――高級マンションに住むような(住めるようなの謂いである)――お洒落でやや気障でさえある(先生は「その時分からハイカラで手数のかゝる編上を穿いて」(八十)いる)帝大生の先生をイメージしなくてはならない。]

2010/06/24

「心」第(八十七)回 ♡やぶちゃんの摑み メーキング映像

先生の遺書パートに入ったので、フライングのメーキングはもうやめにしようと決心していたのだが、こればかりはどうにもたまらなくなった!

昨日、僕はスリリングに体験したのだ!

先生が雨上がりの道でKと靜に出逢ってしまう、あの強烈なシーン――僕は遂に! このシーンのロケ地を正しく発見したのだ!

――そして私は遂にネット上で誰もが自由に拡大縮小して見られる明治時代のここの地図を発見した!

「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」内の明治161883)年参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」(現所蔵番号:YG/1/GC67/To 002275675)である。

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-15.html

(注:「国際日本文化研究センター」は原則HP以外へのリンクを禁じているので以上のアドレス表示に留める。これをコピーしてアドレスに入れれば表示される)

これを拡大して見ると、

蒟蒻閻魔源覚寺の東は斜面に茶畑が広がる広大な個人の邸宅

であることが分かる。私が想定している本作中時間は明治311898)年頃であるが、明治421909)年の東京1万分の1地形図でも依然としてこの邸宅は残っている(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」付録地図等参照)。更に拡大してこの明治16年地図を仔細に見ると、

「寺覚源」の「寺」の字の右、墓の西に標高7.8 m

のマークがあり、そこから南へ大邸宅の茶畑の下の小路を南へ移動すると、

邸宅の垣根の東南の角に出、ここは標高9.2m、ここがこの道の最高地点

であることが分かる。先生はここを通った。だから「細い坂路を上つて」と言っているのである。この地点から南の方には先生の下宿はない。何故か? さっき言った通り、ここが最高地点で、ここから南のルートは坂を下る(砲兵工廠方向へ)からである。先生は

「細い坂路を上つて宅へ歸りました」

と言っているのであってみれば、更に

邸宅の垣根の東南の角標高9.2 m地点から西の坂を登ったすぐの南辺りに下宿はあった

(北は大邸宅の石垣又は壁であるからあり得ない)と考えるべきではあるまいか。この地図上の等高線を見ても、ここはかなりの高台となっており、源覚寺の南の善雄寺から西に伸びる坂の頂点、この大邸宅の西南の角の部分(既に小石川上富坂町内になる)は標高が21.2mもある。

先生の下宿――それは例えば、この地図の

標高17.0mマーク近辺、大邸宅の石垣の向かい辺り、「小石川中富坂町」と書かれた地名の「中」の字の辺りにあった

と想定してみても決して強引ではないのではあるまいか。

「坂の勾配が今よりもずつと急でした」上記の地図上で中富坂町から南に下った地点

「坂富西」の「坂」の字の右上の地点で標高15.77m

(因みに、そこからもう少し登った標高20.05mの北にある荒地は第(六十四)回で故郷を捨てた先生が住むための家を探して立ったあの場所である。「其頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐたものです。私は其草の中に立つて、何心なく向の崖を眺めました。今でも惡い景色ではありませんが、其頃は又ずつと趣が違つてゐました。見渡す限り緑が一面に深く茂つてゐる丈でも、神經が休まります。私は不圖こゝいらに適當な宅はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を横切つて、細い通りを北の方へ進んで行きました。」に現れる場所である)で、

旧富坂の次の下った標高地点は9.7m

であるから、実に

標高差6.07m

である。道路標識にある斜度を示す『%』は高低差(垂直長)÷地図上の距離(水平長)でされるが、

この両地点間を仮に約50mとして12(この斜度はもっとある可能性がある)

となる。非舗装道路で、しかも雨上がりのこの斜度の坂を高下駄で歩くとなると、かなりしんどい。

「ことに細い石橋を渡つて柳町の通りへ出る間が非道かつた」上記「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」を拡大してみると、旧富坂(地図では西富坂と地名表示あるところ)を下ったところにある

標高6.63m記号表示の東に小さな流れに架かる橋

がまずある。しかし更にこの道を東に辿ったところ、

憲兵隊屯所の南方、荒地の只中にも同様な橋

が認められる。

先の標高6.63m記号表示のある橋からこの橋までの間は120m

で、南側には

砲兵工廠の鰻の寝床のような建物

が認められ、これが先生の言う

「其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐる」

であることは間違いない。ということはこの後に続く

「ことに細い石橋を渡つて柳町の通りへ出る間」とは、この憲兵隊屯所の南方に位置する橋と柳町交差点の間を指している

と同定してよい。この

橋から柳町の間は約60m

であるが、実はここで気がついた!

よくこの地図を拡大して見て頂きたい!

橋のすぐ東に標高5.6mのマーク

があるが、

柳町交差点中央地点は6.2m

なのである! ここは

高低差60㎝で、この道が東の柳町交差点に向かって既に東方の小石川の台地の裾野にかかっていて逆にやや登り勾配であったことが分かるのだ!

私は若き日にここを読んだ際、坂を『下っている』先生が幾ら近視だったとは言え、Kや御嬢さんを目の前に来るまで視認出来なかったことを永く不審に思っていた。

しかし、これで眼から鱗だ!

即ち、先生はやや登り勾配であったから、足に気をとられていたからだけではなく、先生の視野には、向うから『下ってくる』形になる二人が入らなかったのである!

ここでは先生は道を下っていたのではなく『上っていた』のである!

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月24日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十二回

Kokoro14_2   先生の遺書

    (六十二)

 「私は今迄伯父任せにして置いた家の財産に就いて、詳しい知識を得なければ、死んだ父母(ちちはは)に對して濟まないと云ふ氣を起したのです。伯父は忙がしい身體だと自稱する如く、毎晩同じ所に寢泊はしてゐませんでした。二日家へ歸ると三日は市の方で暮らすといつた風に、兩方の間を往來して、其日其日を落付のない顏で過ごしてゐました。さうして忙がしいといふ言葉を口癖のやうに使ひました。何の疑も起らない時は、私も實際に忙がしいのだらうと思つてゐたのです。それから、忙がしがらなくては當世流ではないのだらうと、皮肉にも解釋してゐたのです。けれども財産の事に就いて、時間の掛る話をしやうといふ目的が出來た眼で、この忙がしがる樣子を見ると、それが單に私を避ける口實としか受取れなくなつて來たのです。私は容易に伯父を捕(つら)まへる機會を得ませんでした。

 私は伯父が市の方に妾(めかけ)を有つてゐるといふ噂を聞きました。私は其噂を昔し中學の同級生であつたある友達から聞いたのです。妾を置く位(くらゐ)の事は、此伯父として少しも怪しむに足らないのですが、父の生きてゐるうちに、そんな評判を耳に入れた覺のない私は驚ろきました。友達は其外にも色々伯父に就いての噂を語つて聞かせました。一時事業で失敗しかゝつてゐたやうに他から思はれてゐたのに、此二三年來又急に盛り返して來たといふのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染め付けたものゝ一つでした。

 私はとう/\伯父と談判を開きました。談判といふのは少し不穩當かも知れませんが、話の成行からいふと、そんな言葉で形容するより外に途(みち)のない所へ、自然の調子が落ちて來たのです。伯父は何處迄も私を子供扱ひにしやうとします。私はまた始めから猜疑の眼で伯父に對してゐます。穩やかに解決のつく筈はなかつたのです。

 遺憾ながら私は今その談判(だんはん)の顛末を詳しく此處に書く事の出來ない程先を急いでゐます。實をいふと、私は是より以上に、もつと大事なものを控えてゐるのです。私のペンは早くから其處へ辿りつきたがつてゐるのを、漸(やつ)との事で抑へ付けてゐる位です。あなたに會つて靜かに話す機會を永久に失つた私は、筆を執る術(すべ)に慣れないばかりでなく、貴い時間を惜むといふ意味からして、書きたい事も省かなければなりません。

 あなたは未(ま)だ覺えてゐるでせう、私がいつか貴方に、造り付けの惡人が世の中にゐるものではないと云つた事を。多くの善人がいざといふ場合に突然惡人になるのだから油斷しては不可ないと云つた事を。あの時あなたは私に昂奮してゐると注意して呉れました。さうして何んな場合に、善人が惡人に變化するのかと尋ねました。私がたゞ一口金と答へた時、あなたは不滿な顏をしました。私はあなたの不滿な顏をよく記憶してゐます。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時此伯父の事を考へてゐたのです。普通のものが金を見て急に惡人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在(ぞんざい)し得ない例として、憎惡と共に私は此伯父を考へてゐたのです。私の答は、思想界の奧へ突き進んで行かうとするあなたに取つて物足りなかつたかも知れません、陳腐だつたかも知れません。けれども私にはあれが生きた答でした。現に私は昂奮してゐたではありませんか。私は冷かな頭で新らしい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きてゐると信じてゐます。血の力で體(たい)が動くからです。言葉が空氣に波動を傳へる許りでなく、もつと強い物にもつと強く働き掛ける事が出來るからです。

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やぶちゃんの摑み:ここでも先生の感じ方は冷静に読んでみるとおかしい。叔父が「忙がしい身體だと自稱する如く、毎晩同じ所に寢泊はしてゐ」なかった、「二日家へ歸ると三日は市の方で暮らすといつた風に、兩方の間を往來して、其日其日を落付のない顏で過ごしてゐ」た、また常日頃「忙がしいといふ言葉を口癖のやうに使」ったというのは、明らかに叔父が先生の実家を管理し始めた当初からのことで、今に始まったことではない。叔父は実家を管理する承諾をした際、「然し市の方にある住居も其儘にして置いて、兩方の間を往つたり來たりする便宜を與へて貰はなければ困るとい」(五十九)っているからである。そこは先生も「何の疑も起らない時は、私も實際に忙がしいのだらうと思つてゐた」「忙がしがらなくては當世流ではないのだらうと、皮肉にも解釋してゐた」と述べている。「何の疑も起らない時」とは即ち、3年前に実家管理を叔父に任せてから今日までの3年弱の期間を指していることは明白である。また過去2回の夏期休暇の限定された帰郷を通して観察してみて、時間的な余裕を持った中で総合的に解釈して、始めてその忙しがり方が「當世流」であるという「解釋」は下し得るのであるから、これもやはり『実家管理を叔父に任せてから今日までの3年弱の期間』の中で形成された見方と考えざるを得ない。私がくどく書いている理由がお分かり頂けるだろうか? 即ち、これらを『今心付いた』叔父が財産を横領していたから、ここで急に先生を避けているのではないか、という疑惑の理由として掲げるのは聊か『おかしい、ずれている』のである。叔父の態度は財産を手にした際、その直後の1回目の帰郷の時と2回目で、そうした態度は一貫して変わっていないのである――ところが、我々は巧妙な先生の語り口の罠(トラップ)に引っ掛かってしまうのだ。この直後に「けれども財産の事に就いて、時間の掛る話をしやうといふ目的が出來た眼で、この忙がしがる樣子を見ると、それが單に私を避ける口實としか受取れなくなつて來た」「私は容易に伯父を捕まへる機會を得」られなかった、という作中内現在時制を持ち込まれると、――あたかも「忙がしい身體だと自稱する如く、毎晩同じ所に寢泊はしてゐ」なかった、「二日家へ歸ると三日は市の方で暮らすといつた風に、兩方の間を往來して、其日其日を落付のない顏で過ごしてゐ」た、また常日頃「忙がしいといふ言葉を口癖のやうに使」う叔父はこの3度目の帰郷の際の叔父の、「掌を返」したような態度変容である――かのように読めるよう、巧妙に作られているのである。そして先生はその直後に「私は伯父が市の方に妾を有つてゐるといふ噂を聞きました」という決定的に『見える』疑惑の傍証を挙げてもいるのである。しかし、当時、畜妾は小金持ちのステイタス・シンボルみたようなものであって、怪しむに足らぬものである。皮肉ではなく、この精力的な叔父が、当時にあって妾の一人も持っているのは男の甲斐性だったはずだ、と現代の私(やぶちゃん)でさえ(知識としては)思うのである。ところがここでも多くの人がトラップに美事にかかるのではあるまいか。――『最近』この叔父が「二日家へ歸ると三日は市の方で暮らすといつた風に、兩方の間を往來して、其日其日を落付のない顏で過ごしてゐ」たのは「伯父が市の方に妾を有つてゐ」たからだ、だって「父の生きてゐるうちに、そんな評判を耳に入れた覺」はなかったんだから!――という時間軸を不当に圧縮して、正に『最近』の出来事――先生の財産の横領が半端でない大金に及んだ『最近』若しくはその横領分が更に金を生んだ『最近』の出来事――として読者に誤読させる方向を狙って書かれていると私は思うである。私は叔父はもう先から妾を持っていたものと私は思う。趣味人で叔父を買っていた先生の父親がそんな評判を息子に話すはずもなく、先生の叔父が先生の親代わりになる以前、先生の友人がこの叔父に特に興味関心を持つとも思われないし、妾を持っていることを知り、それをわざわざ先生に話すとも思われない。話す必要性がその時点ではないからである。逆に先生が叔父に疑惑を持って友人に根掘り葉掘り聞き始めれば、友人が財産管理以前から畜妾していたという時間軸を無視して語ってしまうことも大いにあり得るであろう。

 それでも先生が最後に放つ「一時事業で失敗しかゝつてゐたやうに他から思はれてゐたのに、此二三年來又急に盛り返して來たといふのも」中学の友人から聞いた叔父の財産横領「疑惑を強く染め付けたものゝ一つ」だったという叙述は確かに疑うには足るものである。と言うか、疑うに足るのはこれ一件と言ってもよいのである(細かいことを言うなら、ここでその友人は「此二三年來」と言っている。先生の財産の代理管理を叔父が本格的に受け持つようになったのはこの時点からは早くても3年弱前である。腸チフスの流行時機は夏から秋であるが、高等学校入学直前として父母の死は3年前の7~8月、法的措置が正式に取り交わされたのが郷里を立つこの時であるとすればである)。微妙な時機である。これが疑惑の決定的証拠とはやはり言えないのではないかという言いも決して排除は出来ないことになる(まるで叔父に雇われたやくざな弁護士が「疑わしきは被告人の利益に!」と主張しているようになって来たな)。天邪鬼に言えば、読者には灰色となるように設定されている痕跡さえ明らかと言えるようにも思えるのである。

「遺憾ながら私は今その談判の顛末を詳しく此處に書く事の出來ない程先を急いでゐます。實をいふと、私は是より以上に、もつと大事なものを控えてゐるのです」こうしたコマ落しは、次の章でも突如現われる。ここで我々は次章冒頭で明言される叔父の財産横領の事実を立証する弁論を全く提示されずに読み進めざるを得ないこととなる。私が裁判員であれば、意義を唱えるところである。何故なら、後はただ、先生の側の一方的な心理変容の叙述を読まされるだけで、そもそも叔父による現実の違法な財産横領があったのかなかったのか、あったとすればそれがどの程度のものであり、その民法上の有責性はどの程度のものであったのかを知ることは、遂に全く出来ないからである。この叙述のブレイクはその点、如何にも『先生』が疑わしい、と言わざるを得ない。私には決して看過出来るものではない。そういう意味で、本テクストの先生の叔父に関わる陳述部分を、私という裁判員が極めて疑いを持って読むこと、再審議の提案をここで強く請求することを、先生も漱石も拒否出来ないと言ってよいのである。

「思想界の奧へ突き進んで行かうとするあなた」そう、それが読者である、そう、あなたなのだ!

「私は冷かな頭で新らしい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きてゐると信じてゐます。血の力で體が動くからです。言葉が空氣に波動を傳へる許りでなく、もつと強い物にもつと強く働き掛ける事が出來るからです」「現に私は昂奮してゐたではありませんか」から引き出されるこの言葉は奇しくも(既に遺書を読んだ「私」が書いているんだから奇しくもないんだが)田舎に帰った「私」の第(二十三)章の以下の部分を髣髴とさせる。

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。兩方とも世間から見れば、生きてゐるか死んでゐるか分らない程大人しい男であつた。他に認められるといふ點からいへば何方も零であつた。それでゐて、此將棋を差したがる父は、單なる娯樂の相手としても私には物足りなかつた。かつて遊興のために往來をした覺のない先生は、歡樂の交際から出る親しみ以上に、何時か私の頭に影響を與へてゐた。たゞ頭といふのはあまりに冷か過ぎるから、私は胸と云ひ直したい。肉のなかに先生の力が喰ひ込んでゐると云つても、血のなかに先生の命が流れてゐると云つても、其時の私には少しも誇張でないやうに思はれた。私は父が私の本當の父であり、先生は又いふ迄もなく、あかの他人であるといふ明白な事實を、ことさらに眼の前に並べて見て、始めて大きな眞理でも發見しかたの如くに驚ろいた。

更にここで着目したいのは、「血の力で體が動く」という時の「血」である。これは霊としての魂としての「血」である。「言葉が空氣に波動を傳へる許りでなく、もつと強い物にもつと強く働き掛ける」という時、これは物理的な波動ではなく不可視の「霊波動」、「言霊」の意である。先生は「熱した舌で」語る時、そこには霊や魂が宿る、そうして語られた「平凡な説」は、最早言葉上の陳腐「平凡」を越えて霊の輝きを持っている、そうしてそれを捉(つら)まえた時、人間は真に「生きてゐる」と言えるのだ、と語っている。先生の内なる神秘主義的霊性が語られているところである。しかし、あの会話の文脈の中で「金」のことだ、と言われると……俄然、「私」同様、ぷいっと、したくなる。そうして、このように遺書で詳細に告白されても……私(やぶちゃん)は、やっぱり、ぷいっと、したくなるのである。]

2010/06/23

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月23日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十一回

Kokoro14   先生の遺書

    (六十一)

 「私が三度目に歸國したのは、それから又一年經つた夏の取付(とつつき)でした。私は何時でも學年試驗の濟むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷(ふるさと)がそれ程懷かしかつたからです。貴方にも覺えがあるでせう、生れた所は空氣の色が違ひます、土地の匂も格別です、父や母の記憶も濃かに漂つてゐます。一年のうちで、七八の二月を其中に包まれて、穴に入つた蛇の樣に凝としてゐるのは、私に取つて何よりも温かい好(い)い心持だつたのです。

 單純な私は從妹との結婚問題に就いて、左程頭を痛める必要がないと思つてゐました。厭なものは斷る、斷つてさへしまへば後には何も殘らない、私は斯う信じてゐたのです。だから伯父の希望通りに意志を曲げなかつたにも關らず、私は寧ろ平氣でした。過去一年の間いまだかつて其んな事に屈托した覺もなく、相變らずの元氣で國へ歸つたのです。

 所が歸つて見ると伯父の態度が違つてゐます。元のやうに好い顏をして私を自分の懷に抱かうとしません。それでも鷹揚に育つた私は、歸つて四五日の間は氣が付かずにゐました。たゞ何かの機會に不圖變に思ひ出したのです。すると妙なのは、伯父ばかりではないのです。叔母も妙なのです。從妹も妙なのです。中學校を出て、是から東京の高等商業へ這入る積だといつて、手紙で其樣子を聞き合せたりした伯父の男の子迄妙なのです。

 私の性分として考へずにはゐられなくなりました。何うして私の心持が斯う變つたのでらう。いや何うして向ふが斯う變つたのだらう。私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗つて、急に世の中が判然見えるやうにして呉れたのではないかと疑ひました。私は父や母が此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛して呉れるものと、何處か心の奥で信じてゐたのです。尤も其頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。然し先祖から讓られた迷信の磈(かたまり)も、強い力で私の血の中に潜んでゐたのです。今でも潜んでゐるでせう。

 私はたつた一人山へ行つて、父母(ふぼ)の墓の前に跪づきました。半は哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。さうして私の未來の幸福が、此冷たい石の下に横はる彼等の手にまだ握られてでもゐるやうな氣分で、私の運命を守るべく彼等に祈りました。貴方は笑ふかも知れない。私も笑はれても仕方がないと思ひます。然し私はさうした人間だつたのです。

 私の世界は掌(たなごゝろ)を翻へすやうに變りました。尤も是は私に取つて始めての經驗ではなかつたのです。私が十六七の時でしたらう、始めて世の中に美くしいものがあるといふ事實を發見した時には、一度にはつと驚ろきました。何遍も自分の眼を疑つて、何遍も自分の眼を擦りました。さうして心の中であゝ美しいと叫びました。十六七と云へば、男でも女でも、俗にいふ色氣の付く頃です。色氣の付いた私は世の中にある美しいものゝ代表者として、始めて女を見る事が出來たのです。今迄其存在(ぞんざい)に少しも氣の付かなかつた異性に對して、盲目(めくら)の眼(め)が忽ち開(あ)いたのです。それ以來私の天地は全く新らしいものとなりました。

 私が伯父の態度に心づいたのも、全く是と同じなんでせう。俄然として心づいたのです。何の豫感も準備もなく、不意に來たのです。不意に彼と彼の家族が、今迄とは丸で別物のやうに私の眼に映つたのです。私は驚ろきました。さうして此儘にして置いては、自分の行先が何うなるか分らないといふ氣になりました。

Line

やぶちゃんの摑み:ここで先生にはデリカシーのデの字もない、と若き日に「こゝろ」を読んだ私は思ったものである。今もこの一連のシーンの先生が私は嫌いである。従妹との結婚を断った時、せめて先生との結婚を承諾していた従妹の内心を気遣ってやってしかるべきなのに、逆に、断ると「從妹は泣きました。私に添はれないから悲しいのではありません、結婚の申し込を拒絶されたのが、女として辛かつたからです。私が從妹を愛してゐない如く、從妹も私を愛してゐない事は、私によく知れてゐました。私はまたました」なんどと描写し、従妹の心境を一刀両断して平気で「東京へ出」て行く。そして「いまだかつて其んな事に屈托した覺もなく、」一年後に「平氣で」「相變らずの元氣で國へ歸」って来て、何の屈託もないへらへら面(づら)で叔父一家と接しようとしている。そのデリカシーのなさに、先生は『いっちょも』気付いていないのだ。更に(というよりだからこそ)当然起こるべくして起こっている(起こった)叔父一家の当たり前の変容に「歸つて四五日」も「の間」気づかないという先生は――「變」も「變」、とんでもなく「變」だ!

 これは先生が「鷹揚に育つた」からでも、世間知らずのとっちゃん坊やだからでもない。――

 況や、先生自身が後で言うような、人が良いからとか、「生れたままの姿」の純真無垢な人柄であったから、でも毛頭、ない。――

 ただ、何処か妙に『鈍感』なのである。何とも言えぬ部分で『社会的に必要とされるような最低限の共有感覚・思いやりが欠落している』としか思われないのだ。――

 実はこれは、この後の成人後や結婚後の先生にも顕著に見られ(「私」や靜を交えた会話中にもしばしば現れた。挙げるまでもないが、とびっきりのものを示すなら第(八)章の「子供は何時迄經つたつて出來つこないよ」「天罰だからさ」であろう。これだけでも十分である)、それを我々はずっとKの事件による人格変容としてのみ捉えて来たのではなかったか。

 しかしどうであろう、ここを見ると、

●叔父一家の変容を「不思議」に思い乍ら、その分かりきった理由が分からないばかりか、例の関係妄想を中心とした「考へずにはゐられな」い「私の性分」を先生は起動させてしまう。

そこでは、当然考えねばならない自己側の問題性への心理的なベクトル、

●「何うして私の心持が斯う變つたの」かという自省的で、正しい解答に至れるはずのモーメントが『一応は』示される。

ところが、それは、

●「いや」という理屈抜きの否定辞によって一瞬のうちに鮮やかに逆転させられてしまう。

そして先生は、

●「何うして向ふが斯う變つたのだらう」という言明に置き換えてしまうと同時に、自己側の要因を完全に払拭し去ってしまう。

更にその後は雪崩の如くに、

■「私が伯父の」不審な「態度に心づいた」心の動き

□初めて女の美に目覚めた時の心の動き

と全く同じように、

★極めて直感的な作用によるもの

であって、

★「俄然として心づいたので」あって、それは非論理的で主観的なもの

★「何の豫感も準備もなく、」即ち、なんらの根拠もなく「不意に來たの」もの

だとさえ言い放つのだ。その果てに、

×「不意に」訳が分からないうちに叔父と「彼の家族が、今迄とは丸で」人間でないような「別物」に変容してしまった

×「此儘にして置いては、自分の行先が何うなるか分らないといふ氣にな」ってしまった

×「今迄伯父任せにして置いた家の財産に就いて、詳しい知識を得なければ、死んだ父母に對して濟まないと云ふ氣を起した」(次章冒頭)

という心理状態に陥ったと訴えるのである。

 以上の先生の心的変成(主訴)は一種の病的なゲシュタルト崩壊に見えてくる。俄然先生「個人の有つて生れた性格」上の問題として浮かび上がって来はしまいか?

 これらの現象は、現在で言うなら、他者と共感出来にくい、コミュニケーション障害若しくはコミュニケーション方法の偏頗性や特殊化が見られる“Asperger syndrome”アスペルガー症候群などの一種の高機能発達障碍に近い反応であるように思われるのである(私のこの謂いは決してアスペルガー症候群を差別するものではない。そもそも私はアスペルガーは人格の一つのパターンであって、病的なものだという認識に立たない。私なども最近、実はそのボーダーと称せられるところに位置しているのではないかとさえ思うこともあるほどである)。

――あなたという演出家・監督が、ある特定の役者に演じさせる以上(それはあなた自身であるのが最もよい)、我々は是が非でも先生という人間の等身大を知らねばならぬ。そのためには――そうした変異的人格・人格障碍や境界例、神経症・精神病的要素までも射程に入れておかなければ(勿論、一部の病跡学的評論のように、そのような障碍を持っているということを証明して作品分析が出来たと思うような、救いようのない解釈学の袋小路に入ることは厳に慎まねばならぬのだが)、先生という謎の人物は何時までたっても私達の前に『姿』として見えてこない、面影のままである、と私は言いたいのである。

 なお、私はこの場面をとりあえず、明治311898)年の夏、先生21歳の時と仮定している。

「生れた所は空氣の色が違ひます、土地の匂も格別です、父や母の記憶も濃かに漂つてゐます。一年のうちで、七八の二月を其中に包まれて、穴に入つた蛇の樣に凝としてゐるのは、私に取つて何よりも温かい好い心持だつたのです」「空氣の色が違」い「格別」な「土地の匂」に満ちた「生れた所」=故郷で何より「父や母の記憶」が「濃かに漂つてゐ」る中で「穴に入つた蛇の樣に凝としてゐる」ことが「私に取つて何よりも」「温かい好い心持」、至福の時であったと語る先生の心性は、極めて分かり易い母体回帰願望である。そしてそれは、すぐ後で先生にして意外な、霊的感懐にまで高められるのである。

「東京の高等商業」高等商業学校。現在の一橋大学の前身。この子が「東京の」と言っているのは、まだ校名が「高等商業学校」であったから。明治351902)年に神戸高等商業学校(現在の神戸大学)の設置に伴って東京高等商業学校に改称している。その後、東京商科大学から東京産業大学となり、戦後、東京商科大学へ戻してすぐ、学制改革によって一橋大学となった(名称は学生の投票によるそうである)。

「私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗つて、急に世の中が判然見えるやうにして呉れたのではないかと疑ひました。私は父や母が此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛して呉れるものと、何處か心の奥で信じてゐたのです。尤も其頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。然し先祖から讓られた迷信の塊も、強い力で私の血の中に潛んでゐたのです。今でも潛んでゐるでせう。」この一連の叙述を問題にしている論文を不勉強にして知らないのだが、これは意外にも理知的に見える先生の中の霊的世界観・祖霊崇拝や『血脈』という神秘主義的霊性――若しくはそのような思想によって代償され正当化され隠蔽され得るような非社会的或いは反社会的心性と言い直してもよい――が表明されているということである。そしてそれは「今でも」先生の心に「潛んでゐる」のである。冒頭「父や母の記憶も濃かに漂つてゐ」ると暗示され、更にこのすぐ後の段落でも示されるように、父母の魂が同じ空間に見えないけれども存在し、自分を生前と同じく守ってくれているという素朴な祖霊崇拝に象徴されるような民俗的心性が西欧近代思想を備えていると自任している先生の内には確かにあった、いや、今も、ある、のである。そしてそれは当然、我々を次のような答えを導く。即ち、「私は」どのような人間であれ、「此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛し」たり、憎んだりし続けてい「るものと、何處か心の奥で信じてゐ」るという命題へである。

『死んだ父母――は今も私の傍におり、私を愛し、守ってくれている、私は信じている。』

『死んだK――は今も私の傍におり、私を愛している或いは憎んでいる、と私は信じている。』

『死んだ奥さん――は今も私の傍におり、私と娘とを愛し、見守っている或いは監視している、と私は信じている。』

『死んだ私――このこの遺書を読む君や妻の傍におり、君や妻を愛し、見守っている或いは監視している、と私は信じている。』

これらの命題が総て真である世界、それが先生の世界、「先生の遺書」という世界なのだ、と先生は言明していると言ってよい――そしてそれは

先生は、この世に実体が無くなった今も、「私」が遺書の最後の約束を破らないかどうか、監視している――

ということをも、意味する。……しかし……しかしそれは、その民俗世界、先生の個人的な「精神」世界に止まるものではないと私は思う。――その「霊性」は、先生が正に最期に語るところの「明治の精神に殉死する」の「精神」という言辞と、ダイレクトに結びついてくるものであるように、私には思われるのである――。

「私の世界は掌を翻へすやうに變りました。尤も是は私に取つて始めての經驗ではなかつたのです。私が十六七の時でしたらう、始めて世の中に美くしいものがあるといふ事實を發見した時には、一度にはつと驚ろきました。何遍も自分の眼を疑つて、何遍も自分の眼を擦りました。さうして心の中であゝ美しいと叫びました。十六七と云へば、男でも女でも、俗にいふ色氣の付く頃です。色氣の付いた私は世の中にある美しいものゝ代表者として、始めて女を見る事が出來たのです。今迄其存在に少しも氣の付かなかつた異性に對して、盲目の眼が忽ち開いたのです。それ以來私の天地は全く新らしいものとなりました。」これは先生の初恋のエピソードの記載である。Kとの三角関係ばかりを高校2年生の教科書が抜粋、クロース・アップしてきた結果、我々は先生の初恋をどこかで「御孃さん」とのそれであったかのように錯覚しているが、実際には先生は新潟の地方都市で、満1516歳の中学校時代(正に現在の高校1~2年)、初恋を既に経験していたのである。そして先生は、特定の個人の女性に向けられた、その憧憬や恋情を、純粋な美へ昇華された感動、人生の鮮烈な一瞬として心に刻んでいたのである。先生の純情な心が垣間見られる美しい映像だ。僕が映画監督なら是非ともこのシーンを膨らまして撮りたい欲求にかられるであろう。

――だが、そんなことはどうでもいいのだ――

実は、問題はその異性への欲求に目覚めた忘れ難い刻印の記憶を、先生が『この場面』で用いている『異常性』にこそ気づかねばならぬのではないか?!

 まず、この「掌を翻へすやうに變りました」という語句は極めてねじれた使用がなされていることに着目せねばならぬ。これは普通に

『叔父一家の態度が掌を返したようにがらりと冷たく他人行儀になった』

という謂いでは、『ない』。これは

『先生の側の世界が非論理的な一瞬の先生の直覚によって掌を返したように変容した』

という謂い『以外のなにものでもない』のである。

 即ち、ここで先生は

叔父一家の外的変容によって、『先生自身の世界を見る目=人間を見る目』が掌を返したようにネガティヴな方向に開示された

のは、その数年前のこと、中学時分の少年であった先生の初恋の経験の時、

女人の美しさを真に感じた自己側の感性の変容によって、『先生自身の世界を見る目=人間を見る目』がポジティヴな方向に開示された

時の感覚と全く同じであった、と言明しているのである――

これは若き日に読んだ私には一見、感性的にも理性的にも不整合な、そして救いようのない不幸な共時感覚(シンクロニティ)であるように思われてならなかった。この時、先生の心性に何か得体の知れない異常な力が働いて、おぞましい関係妄想による関連付けがなされたのではなかろうか、とさえ思わせた。――しかし、先生=漱石が、『それでも』、冷徹に確信犯的に訴えているようにも、今は思われる――

「同じなのです! それはただ愛憎のベクトルの方向が異なっているだけで、全く同じものなのです!」

――と。

因みに漱石の場合はどうであったか? 25歳の時、明治24(1991)年7月17日には以前から心惹かれていたある女性と行きつけの眼科医で出会い、衝撃と激しい恋情を催したり(当時の正岡子規宛書簡による)、また、同年7月下旬には兄和三郎の妻登世が重い悪阻のために死去したが、彼女への「悼亡」句を実に十三句も残しており、江藤淳は漱石がこの義姉登世に対しても、ある種の恋愛感情を抱いていたとある(以上は主に集英社昭和49(1974)年刊の荒正人「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」等に依った)。しかし、それに遡ること2年前の23歳の折り、この「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」明治22(1889)年2月16日の条に興味深い一節を発見する。
『二月十六日(土)、文部大臣森有礼の葬儀が青山斎場で行われ、それに参列する行列を路傍で見送り、美しい娘を見そめたものと想像される。「其當時は頭の中へ燒付けられた樣に熱い印象を持つてゐた――妙なものだ」(『三四郎』)とも書いている(これは、創作とも事実とも受け取られる)。』
この「三四郎」の叙述は確かにこの「心」の叙述の言い換えのように見受けられる。

……これは「♡やぶちゃんの摑み」であって、思いつきに過ぎぬし、牽強付会であるのかも知れぬ。私自身の関係妄想とも言えよう……しかし……しかし私の中に「こゝろ」の中の謎が、確実にまた一つ、増えた気がしていることは事実である……]

2010/06/22

「心」大正3年 6月22日同日休載報知

本日の「心」連載は、大正3(1914)年6月22日(月曜日)の『東京朝日新聞』(遅延してゐた『大阪朝日新聞』共)に「心」第(六十一)回になる筈の掲載がなかつた爲(理由は不明)本2010年版「Blog鬼火~日々の迷走 附♡やぶちやんの摑み」も休載と致します。 店主敬白

2010/06/21

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月21日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十回

Kokoro14   先生の遺書

    (六十)

 「私は縁談の事をそれなり忘れてしまひました。私の周圍(ぐるり)を取り捲いてゐる青年の顏を見ると、世帶染みたものは一人もゐません。みんな自由です、さうして悉く單獨らしく思はれたのです。斯ういふ氣樂な人の中(うち)にも、裏面(りめん)に這入り込んだら、或は家庭の事情に餘儀なくされて、既に妻を迎へてゐたものがあつたかも知れませんが、子供らしい私は其處に氣が付きませんでした。それから左右いふ特別の境遇に置かれた人の方でも、四邊(あたり)に氣兼をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話は爲(し)ないやうに愼しんでゐたのでせう。後から考へると、私自身が既に其組だつたのですが、私はそれさへ分らずに、たゞ子供らしく愉快に修學の道を歩いて行きました。

 學年の終りに、私は又行李を絡(から)げて、親の墓のある田舍へ歸つて來ました。さうして去年と同じやうに、父母のゐたわが家(いへ)の中で、又伯父夫婦と其子供の變らない顏を見ました。私は再び其所で故郷の匂を嗅ぎました。其匂は私に取つて依然として懷かしいものでありました。一學年の單調を破る變化としても有難(ありかた)いものに違なかつたのです。

 然し此自分を育て上(あげ)たと同じ樣な匂の中で、私は又突然結婚問題を伯父から鼻の先へ突き付けられました。伯父の云ふ所は、去年の勸誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同(どう)じでした。たゞ此前勸められた時には、何等の目的物がなかつたのに、今度はちやんと肝心(かんしん)の當人を捕まへてゐたので、私は猶困らせられたのです。其當人といふのは伯父の娘即ち私の從妹(いとこ)に當る女でした。その女を貰つて呉れゝば、御互のために便宜である、父も存生中そんな事を話してゐた、と伯父が云ふのです。私もさうすれば便宜だとは思ひました。父が伯父にさういふ風な話をしたといふのも有り得べき事と考へました。然しそれは私が伯父に云はれて、始めて氣が付いたので、云はれない前から、覺つてゐた事柄ではないのです。だから私は驚ろきました。驚いたけれども、伯父の希望に無理のない所も、それがために能く解りました。私は迂闊(うくわつ)なのでせうか。或はさうなのかも知れませんが、恐らく其從妹に無頓着であつたのが、重な源因になつてゐるのでせう。私は小供のうちから市(し)にゐる伯父の家へ始終遊びに行きました。たゞ行く許りでなく、能く其處に泊りました。さうして此從妹とは其時分から親しかつたのです。あなたも御承知でせう、兄妹の間に戀の成立した例(ためし)のないのを。私は此公認された事實を勝手に布衍(ふえん)してゐるのかも知れないが、始終接觸して親しくなり過ぎた男女(なんによ)の間には、戀に必要な刺戟の、起る清新な感じが失はれてしまふやうに考へてゐます。香(かう)をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限る如く、酒を味はうのは酒を飲み始めた刹那にある如く、戀の衝動にも斯ういふ際どい一點が、時間の上に存在(ぞんざい)してゐるとしか思はれないのです。一度平氣で其處を通り拔けたら、馴れゝば馴れる程、親しみが増す丈で、戀の神經はだん/\麻痺して來る丈です。私は何う考へ直しても、此從妹を妻にする氣にはなれませんでした。

 伯父はもし私が主張するなら、私の卒業迄結婚を延ばしても可(い)いと云ひました。けれども善は急げといふ諺もあるから、出來るなら今のうちに祝言の盃(さかづき)丈(だけ)は濟ませて置きたいとも云ひました。當人に望(のぞみ)のない私には何方(どつち)にしたつて同じ事です。私は又斷りました。伯父は厭な顏をしました。從妹は泣きました。私に添はれないから悲しいのではありません、結婚の申し込を拒絶されたのが、女として辛かつたからです。私が從妹を愛してゐない如く、從妹も私を愛してゐない事は、私によく知れてゐました。私はまた東京へ出ました。

やぶちゃんの摑み:私は本件の出来事を明治301897)年の夏、先生20歳の時と推定している。上の通り、本章末には飾罫がない。なお、理由不明であるが、本第(六十)回掲載の大正3(1914)年6月21日日曜日(『大阪朝日新聞』の掲載は23日火曜日)の翌日6月22日月曜日は何故か『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』両紙共に掲載がない。漱石の原稿が遅れた訳ではあるまい(であれば二日遅れている『大阪朝日新聞』が第五十九回を掲載しているはずだからである)。これは専ら朝日新聞社側の問題であるようだ。本章には末尾の飾罫がない。

「同(どう)じでした」「同(おな)じ」のルビ誤植。

「結婚問題を伯父から鼻の先へ突き付けられ」「今度はちやんと肝心の當人を捕まへてゐ」「其當人といふのは伯父の娘即ち私の從妹に當る女で」「その女を貰つて呉れゝば、御互のために便宜である、父も存生中そんな事を話してゐた、と伯父が云ふのです。私もさうすれば便宜だとは思ひました。父が伯父にさういふ風な話をしたといふのも有り得べき事と考へました」従兄妹同士の結婚は古くは当たり前に行われており、明治30年代にあっては、至ってありがちな結婚であった。勿論、現在の婚姻法でも許されている。但し、この頃から同時に、遺伝学的な問題性が取り沙汰されるようになってはいた。例えば、私(やぶちゃん)が卒論とした明治181885)年生れの尾崎放哉は、明治381905)年、東京帝国大学法学部1年21歳の折りに、16歳で知り合い、相思相愛の仲であった従妹沢芳衛(よしえ:彼女の父が放哉の母の弟。)に結婚を申し込んだが、医科大学生であった芳衛の兄静夫の強い反対にあって断念している。この挫折感が放哉の人生を大きく狂わせることとなったが、ある意味、この挫折なしにはまた、かの絶唱群を我々は読めなかったとも言われるかも知れぬ。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」には、作家阿部次郎のケースを掲げている。これは先生の時代にもっと近く、条件もぴったりである。

●阿部次郎

は、明治341891)年 第一高等学校入学 18

で、次郎の母の弟である叔父の娘(本話と全く同じ従妹で、その頃未だ13歳であった)との結婚を高校入学直前に仄めかされたが、その内容は、

・彼の学費の半分を叔父が援助する。

代りに、

・従妹と婚約すること。

・阿部次郎の母の実家の跡継ぎとなること(この叔父は養子として家を出ていた)。

という交換条件が含まれたものでもあった。この婚約は翌351892)年に一旦纏まったが、381895)年に破棄されたが、この従妹は結局、阿部次郎の弟と結婚しているそうである。

更に、藤井氏は高校在学中の結婚(入籍)の例として寺田寅彦のケースを示している(従兄妹との結婚ではない。以下の資料は藤井氏のデータに私の調べたものを附加してある)。

●寺田寅彦

は、明治291896)年 熊本の第五高等学校入学 19

で、そこで正に本作の作者となる英語教師であった夏目漱石、物理学教師田丸卓郎と出会い、両者から大きな影響を受けたのであるが、彼は、 

明治301897)年 松山第十旅団長阪井重季少将娘坂井夏子と学生結婚 20

している。これは入籍であって、未だ15歳であった新妻夏子は寺田の郷里高知で別居、実際の同居は明治321899)年に東京帝国大学理科大学に入学後のことであった(しかし哀しいかな、明治351902)年に妻夏子は20歳で結核のため夭折した)。

最後に、私のオリジナル資料として、

●芥川龍之介

の場合を紹介しておこう。その初恋は従妹ではないが、先生と違って(日常的に見馴れると恋は起こらぬと言っている点)同年の幼馴染み(実家新原家の近所)であった吉田弥生である(父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた)。芥川龍之介は、

大正3(1914)年 7月20日頃~8月23日 23歳(満22歳)

で、この時、友人らと共に千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して二度目のラブレターを書いて、その後、正式に結婚も申し込んでいる(傍線部に注意! 更に言えば、先生の遺書中の先生とKの夏季休業の房州行の場面は実に同年7月14日~7月17日の連載である!)。

そしてこの時、芥川は未だ

東京帝国大学英吉利文学科1年

であった。しかし乍ら、この話は養家芥川家の猛反対にあい、翌年2月頃に破局を迎えることとなる。吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系)、弥生が同年齢であったこと等が主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があった)。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜にによれば、大正4(1915)年4月20日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来た。丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いた。4月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をしたともある。鷺只雄氏は河出書房新社1992年刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。正にこの弥生への強烈な恋情の炎の只中に書かれたのが避暑から帰った直後、

大正3(1914)年9月1日『新思潮』に発表したのが

「青年と死と

であり、破局後の大正4(1915)年4月1日に『帝国文学』発表したのが、かの作家級軍艦芥川船出の一篇、

「ひよつとこ」

で、その後、その傷心を慰めるための親友井川恭(後に恒藤姓)の誘いによって同年8月3日から23日まで井川の故郷松江を訪れ、

後に「松江印象記」となる「日記より」

が書かれている。

以上――やや年齢は高いものの、芥川龍之介でさえ大学一年で自律的に結婚しようと動いた事実が知れる。……そしてお気づきになられただろうか……傍線部……丁度、この滞在の前半は、正に……この「心」の連載最後に当たるのである……一宮の砂浜……「心」を読む恋に目覚めた龍之介……遠い夏、ハレーションの映像……そして「青年と死と」という意味深長な題名……その作品の末尾のクレジットは『(一五・八・一四)』……これは西暦

1914年8月15日

夏目漱石の「心」の『東京朝日新聞』の連載終了

は、正にこの4日前、

1914年8月11日

のことであった。

――芥川龍之介は当然、「心」を読んでいたと考えてよい。読まぬはずがない。――

――とすれば――

――この「青年と死と」という作品は、一つの――

――芥川の、漱石の「心」への答え――

として読むことが可能だ、ということである。……是非、私の電子テクスト「青年と死と」「ひよつとこ」「日記より」をお読みあれかし。

……さてさて、本線に戻す……もういいだろう。これらの具体的データを見ても、叔父の言は驚くべき言でも、異様な謂いでも何でない当たり前の提案なのである。そもそもこの章の頭をよく読めば、先生自身が当時の高校生で結婚という『普通の実体』を既に描写しているのではないか。「私の周圍を取り捲いてゐる青年の顏を見ると、世帶染みたものは一人もゐ」ず、一見「みんな自由で」「悉く單獨らしく思はれた」ものの、「斯ういふ氣樂」に見える「人の中にも、裏面に這入り込んだら、或は家庭の事情に餘儀なくされて、既に妻を迎へてゐたものがあつたかも知れ」ない。しかしとっちゃん坊やだった「私は其處に氣が付」かなかったに過ぎない。また「左右いふ特別の境遇に置かれた人の方でも、四邊に氣兼をして、なるべくは書生に縁の遠い」結婚や家督相続といった学問から遠く離れた軽蔑すべき「内輪の話は爲ないやうに愼しんでゐたので」ある。「後から考へると、私自身が既に其組だつた」にも拘わらず、私はそのことを全く解していない世間知らずのトンチキとして、好きな勉強さえしてりゃいいぐらいな気持ちで過していたのである、と述べているのである。そして当時の読者の多くも、逆にこの先生の過剰な反応にこそ異様な印象を受けていたと考えても強ち間違いではないと思われるのである。 

……そうそう、最後に……私(やぶちゃん)の両親はしっかり従兄妹同士である。――母方の祖父以外の親族は、やはり遺伝的弊害を慮って反対したが、歯科医であった祖父は「お前達がそれを覚悟して結婚をするのであればよい」と言ってくれたそうである。因みに生後一年過ぎに私は左肩関節の骨髄性結核性カリエスに罹患した。宣告した医師は「これは勿論、遺伝による病気ではないが、この先、このお子さんがどうなるか分からない上に、次に生む子が遺伝病になる可能性は普通の夫婦より高い。お子さんは御産みにならぬがよろしいでしょう。」と御丁寧に母に御忠告を垂れたという。だから私は一人っ子である。……

……最後の最後に、もう一つ言おうか?……私の場合、最初に『この女性と結婚しよう』とはっきりと思ったのは、何歳の時であったか?

……これは私自身のことですから判然言へるのです。それは大學一年數えで廿歳(はたち)の冬の、あの鎌倉の海岸でのことでした。確かに私はあの時、あの人を妻にしたい、確かに妻にしたいと思つたのです――いや、是では又しても脱線の脱線でした。話が本筋をはづれると、分り惡くなりますからまたあとへ引き返しませう……

「伯父の希望に無理のない所も、それがために能く解りました」「伯父の希望」を確認しよう。それは、

実家の跡継ぎとなるべき先生が、その後見(若しくは代理)管理権者である叔父の娘と、現在、高等学校在学中の20歳で結婚すること

である。そして後述するように如何にも尤もな現実的提案として叔父は、

「卒業迄結婚を延ば」して、実際の二人の同居は大学に入ってからでもよく、その場合、可能ならば形の上での「祝言の盃丈は」「今のうちに」「濟ませて置」くのが希望

なのだがという当時の田舎の跡継ぎの青年にとって真っ当至当梅干弁当的にオーソドックスな提案をさえしているのである。そしてよろしいか? それを先生は「伯父の希望に無理のない所も」種々の事情を勘案すれば真っ当至当梅干弁当的に「能く解りました」と述べているのである! 叔父は何にも見た目、「變」じゃないのだ! それを先生も認めているのである! では「變」なのは誰か? それは取りも直さず先生なのだ! 先生の「變」は一つに分かり易い解に向かうばかりなのである。即ち、

従妹は嫌いじゃないが、恋愛の対象者として見たことは一度としてなく、妻にしたいとは毛頭思わぬ見馴れ過ぎた大いして美しいとも思わぬ女

だ、という冷たい拒絶感だけなのである。先生の意識が明らかに「變」な方向へと向き始めるプレの部分であるから、十分に注意したい。先生が叔父の行動に疑問を抱き始めるように、先生の思考と疑心暗鬼――(五十七)で先生が注意を喚起した内容をもう一度蘇らせる必要があるのだ。整理してみよう。母の最期の床の叔父への疑義的言及記載を受けた部分である。それは次のような謂いに変換出来る。

――私は幼い頃からこのように「物を」殊更意味深長に「解きほどいて見たり、又」必要以上にしつこく「ぐる/\廻して眺めたりする」「變な」「癖」を身につけていました。――今、これを読んでいる貴方からは、例えば「當面の問題に大した關係のない」ように見える脱線のような私の「記述が、却て」この私の遺書全体を読み解く上には重要な意味を孕んでいて、思いの外、「役に立」つかもしれない「と考へます。貴方の方でもまあその積で讀んで下さい。此性分が倫理的に」私自身や他者の「個人の行爲や動作の上に」悉く「及んで」しまった結果、「私は後來益他の德義心を疑ふやうになつたのだらうと思ふのです」が、そのバイアスを、あなたはしっかり計算した上で、私のこの遺書の内容や私の言葉を冷静に勘案することが何より大切です。そこから生じた疑心暗鬼「が私の煩悶や苦惱に向つて、積極的に大きな力を添へて」、時には真実を歪めさせたり、時には対象を誤って認識させたりして「ゐる」ということあるのです。私の感懐や論理に批判的な視線で向かうことも必要であろうこと「は慥」なこと「ですから覺えてゐて下さい」。――

今、私は以上の書き換えを恣意的だとは思わない。何故なら、――これだけ一般論としての叔父の側の論理の尋常性を、先生自身に畳み掛けて述懐させている漱石を見ると――以前の注では、私は微妙にその確信犯性に留保を加えたこれども――先生の尋常ならざる病的な疑心暗鬼に気付くことが大切です、と精神病の病歴のある漱石先生が語りかけているのだ、という確信的な思いが、今回のこの同日公開プロジェクトで、章を追うごとに日増しに強くなってきているからである。

「布衍」は勿論、「敷衍」が正しい。

「戀に必要な刺戟の、起る清新な感じが失なはれてしまふやうに考へてゐます」この読点は不自然。原稿にはなく誤植。単行本では消失している。]

2010/06/20

感懐Ⅱ

沙の砂漠を行き/\て

沙を嚙むよな世なれども

沙で死ぬれば良からまし

何もすなとはな言ひそ

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月20日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十九回

Kokoro14_2   先生の遺書

    (五十九)

 「私が夏休みを利用して始めて國へ歸つた時、兩親の死に斷(た)えた私の住居には、新らしい主人として、伯父夫婦が入れ代つて住んでゐました。是は私が東京へ出る前からの約束でした。たつた一人取り殘された私が家にゐない以上、左右でもするより外に仕方がなかつたのです。

 伯父は其頃市(し)にある色々な會社に關係してゐたやうです。業務の都合から云へば、今迄の居宅に寢起する方が、二里も隔つた私の家に移るより遙かに便利だと云つて笑ひました。是は私の父母が亡くなつた後(あと)、何(ど)う邸(やしき)を始末して、私が東京へ出るかといふ相談の時、伯父の口を洩れた言葉であります。私の家は舊い歴史を有つてゐるので、少しは其界隈で人に知られてゐました。あなたの郷里でも同じ事だらうと思ひますが、田舍では由緒のある家を、相續人があるのに壞したり賣つたりするのは大事件です。今の私ならその位の事は何とも思ひませんが、其頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家は其儘にして置かなければならず、甚だ處置に苦しんだのです。

 伯父は仕方なしに私の空家へ這入る事を承諾して呉れました。然し市の方にある住居も其儘にして置いて、兩方の間を往つたり來たりする便宜を與へて貰はなければ困るといひました。私に固より異議のありやう筈がありません。私は何んな條件でも東京へ出られゝば好(い)い位(くらゐ)に考へてゐたのです。

 子供らしい私は、故郷を離れても、まだ心の眼(め)で、懷かしげに故郷(ふるさと)の家を望んでゐました。固より其處にはまだ自分の歸るべき家があるといふ旅人の心で望んでゐたのです。休みが來れば歸らなくてはならないといふ氣分は、いくら東京を戀しがつて出て來た私にも、力強くあつたのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後(あと)、休みには歸れると思ふその故郷の家をよく夢に見ました。

 私の留守の間、伯父は何んな風に兩方の間を往來してゐたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな一つ家の内に集まつてゐました。學校へ出る子供などは平生恐らく市の方にゐたのでせうが、是も休暇のために田舍へ遊び半分といつた格(かく)で引き取られてゐました。

 みんな私の顏を見て喜こびました。私は又父や母の居た時より、却つて賑やかで陽氣になつた家の樣子を見て嬉しがりました。伯父はもと私の部屋になつてゐた一間(ひとま)を占領してゐる一番目の男の子を追ひ出して、私を其處へ入れました。座敷の數も少なくないのだから、私はほかの部屋で構はないと辭退したのですけれども、伯父は御前の宅(うち)だからと云つて、聞きませんでした。

 私は折々亡くなつた父や母の事を思ひ出す外に、何の不愉快もなく、其一夏を伯父の家族と共に過ごして、又東京へ歸つたのです。たゞ一つ其夏の出來事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、伯父夫婦が口を揃へて、まだ高等學校へ入つたばかりの私に結婚を勸める事でした。それは前後で丁度三四回も繰り返されたでせう。私も始めはたゞ其突然なのに驚ろいた丈でした。二度目には判然(はつきり)斷りました。三度目には此方(こつち)からとう/\其理由を反問しなければならなくなりました。彼等の主意は簡單でした。早く嫁を貰つて此所の家へ歸つて來て、亡くなつた父の後を相續しろと云ふ丈なのです。家は休暇になつて歸りさへすれば、それで可(い)いものと私は考へてゐました。父の後を相續する、それには嫁が必要だから貰ふ、兩方とも理窟としては一通り聞こえます。ことに田舍の事情を知つてゐる私には、能く解ります。私も絶對にそれを嫌つてはゐなかつたのでせう。然し東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡(とほめがね)で物を見るやうに、遙か先の距離に望まれる丈でした。私は伯父の希望に承諾を與へないで、ついに又私の家を去りました。

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やぶちゃんの摑み:

「子供らしい私は、故郷を離れても、まだ心の眼で、懷かしげに故郷の家を望んでゐました。固より其處にはまだ自分の歸るべき家があるといふ旅人の心で望んでゐたのです。休みが來れば歸らなくてはならないといふ氣分は、いくら東京を戀しがつて出て來た私にも、力強くあつたのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後、休みには歸れると思ふその故郷の家をよく夢に見ました」穢れを知らぬ少年の先生が見える印象的なシーンである。また、(五十七)で先生の過去の開示が始まってから、最初に独立使用される語としての「心」(こころ)が現われる部分でもある。「休みが來れば歸らなくてはならないといふ氣分は」「力強くあつたのです」の「ならない」は、休みになったら故郷に帰らねばならないという平板な義務・責任の用法ではなく、必ず自ずから故郷へ帰るべきはずである、必ず自律的に故郷へ帰るに決まっている、という「力強」い意思表示の用法であることに注意したい。「休みには歸れると思ふ」という可能と期待の助動詞「る」を見ても明白である。故郷と先生との短い蜜月の、美しくも儚いロマンティックな描写となっている。私の好きな部分である。但し、この「子供らしい」という形容は戴けない。漱石が先生の遺書の中でのみ特異的に用いている語で、この後も複数回出現するが、これは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の藤井氏によれば、英語の“innocent”の直訳的な用法と思われ、『この頃の日本語表現としてはどちらかと言えば熟さない言い方』であると批評している。同感である。私も初回「こゝろ」を読んだ際、極めて奇異に感じた用語の一つである。意味としてはそれぞれの箇所で、純真無垢な、汚(けが)れなき少年のような、汚れを知らぬ、素直な、純真な、純情な、素朴な、真っ正直な、馬鹿正直な、とっちゃん坊やの、等の訳語に置き換えれば概ね文意が通じる。

「伯父夫婦が口を揃へて、まだ高等學校へ入つたばかりの私に結婚を勸め」「其突然なのに驚ろいた」「彼等の主意は簡單で」「早く嫁を貰つて此所の家へ歸つて來て、亡くなつた父の後を相續しろと云ふ丈」という部分を、その昔の私も含めた愚かな国語教師は、特にここで解説もせず(ひどい教師は教科書に載らないことをいいことに読みもせずに)、叔父の財産横領を隠蔽するための明々白々な策略として通り過ぎ、遂には純真な若々しい高校生たちに本作をとんでもない誤読に導いて来た。この時代に、この田舎で、且つ、相応な素封家の一人息子の遺産相続人であった先生のような若者の場合、高等学校入学前後(数え二十歳前後)に結婚を考えるのは、決して異例のことではない。いや、極、当たり前であったという事実を、現代の高校生にちゃんと認識させなくてはならぬのだ。この叔父夫婦がここで結婚話を持ち出すのは、当たり前のコンコンチキチキチキバンバンイチゴ白書なんだということを伝えなくてはならぬ! 現代の小便臭いモラトリアム・ゴブリン共とは訳が違うのだ(その代り、今のような過酷な受験地獄もなかったが)。社会的人間としての成長期待と成人としての社会的要請度が格段に異なるのだということを教えなくてはならぬ。そのようなものであるということは、先生自身が直ぐ後でも言っている。「父の後を相續する、それには嫁が必要だから貰ふ、兩方とも理窟としては一通り」どころでない至極尤もなことなのである! それは先生にも心底分かりきったことであったことは、更に直後に先生が「ことに田舍の事情を知つてゐる私には、能く解ります。私も絶對にそれを嫌つてはゐなかつた」とダメ押しのように述べていることからも明白なのだ(「絶對にそれを嫌つてはゐなかつた」とは、何も生理的にそうした提案や結婚を嫌悪していた訳では毛頭ない、と言ったニュアンスであろうか)。にも拘わらず、端折った誤った国語授業が、叔父の裏切りと財産横領を厳然たる事実として読者の意識に定着させてしまったのだ。――私は実はこの、これから先生の口から語られる『叔父の裏切り』『叔父による財産横領』なる事実が本当にあったかどうか、疑わしいとかなり以前から考えてきた。――これは殆んど都市伝説の類い、先生の病的な関係妄想(但し、一見正当に思われるような理路が総てに付けられた偏執狂的関係妄想)の結果であると、今はほぼ確信していると言ってよい。これ以降の『叔父の裏切り』『叔父による財産横領』に拘わる私の摑みはそうした傾向性を強く持っているということを押えておいてお読み頂きたい。]

2010/06/19

感懐

月の沙上の只中に
帆柱折れし舟一艘
我獨り乘せ漂ひたる
遠き砂丘の頂きに
砂漠の薔薇(サンド・ロウズ)の一缺片(ひとかけら)
その花辨もて我が首を
抉り迸(ほと)びる血の潮に
載りて彼方へ行かまほし

尾形亀之助編輯『月曜』第一卷第一號 編輯後記 画像追加

230000アクセス突破記念のテクスト、「尾形亀之助編輯『月曜』第一卷第一號 編輯後記」に附すつもりだった2枚の画像(表紙及び「編輯後記」の2枚目(下に奥付有)を附け忘れていた。今、追加した。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月19日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十八回

Kokoro14   先生の遺書

    (五十八)

 「兎に角たつた一人取り殘された私は、母の云ひ付け通り、此伯父を賴るより外に途はなかつたのです。伯父は又一切を引き受けて凡ての世話をして呉れました。さうして私を私の希望する東京へ出られるやうに取り計つて呉れました。

 私は東京へ來て高等學校へ這入りました。其時の高等學校の生徒は今よりも餘程殺伐で粗野でした。私の知つたものに、夜中(よる)職人と喧嘩をして、相手の頭へ下駄で傷を負はせたのがありました。それが酒を飲んだ揚句の事なので、夢中に擲(なぐ)り合(あひ)をしてゐる間に、學校の制帽をとう/\向ふのものに取られてしまつたのです。所が其帽子の裏には當人の名前がちやんと、菱形の白いきれの上に書いてあつたのです。それで事が面倒になつて、其男はもう少しで警察から學校へ照會される所でした。然し友達が色々と骨を折つて、ついに表沙汰(おもてさた)にせずに濟むやうにして遣りました。斯んな亂暴な行爲を、上品な今の空氣のなかに育つたあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿馬鹿しい感じを起すでせう。私も實際馬鹿々々しく思ひます。然し彼等は今の學生にない一種質朴な點をその代りに有つてゐたのです。其頃私の月々伯父から貰つてゐた金は、あなたが今、御父さんから送つてもらふ學資に比べると遙に少ないものでした。(無論物價も違ひませうが)。それでゐて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず數ある同級生のうちで、經濟の點にかけては、決して人を羨ましがる憐れな境遇にゐた譯ではないのです。今から回顧すると、寧ろ人に羨ましがられる方だつたのでせう。と云ふのは、私は月々極つた送金の外に、書籍費、(私は其時分から書物を買ふ事が好(すき)でした)、及び臨時の費用を、よく伯父から請求して、ずん/\それを自分の思ふ樣に消費する事が出來たのですから。

 何も知らない私は、伯父を信じてゐた許りでなく、常に感謝の心をもつて、伯父をありがたいものゝやうに尊敬してゐました。伯父は事業家でした。縣會議員にもなりました。其關係からでもありませう、政黨にも縁故があつたやうに記憶してゐます。父の實の弟ですけれども、さういふ點で、性格からいふと父とは丸で違つた方へ向いて發達した樣にも見えます。父は先祖から讓られた遺産を大事に守つて行く篤實一方の男でした。樂みには、茶だの花だのを遣りました。それから詩集などを讀む事も好きでした。書畫骨董といつた風のものにも、多くの趣味を有つてゐる樣子でした。家は田舍にありましたけれども、二里ばかり隔つた市(し)、―其市には伯父が住んでゐたのです、―其市から時々道具屋が懸物だの、香爐だのを持つて、わざ/\父に見せに來ました。父は一口にいふと、まあマンオフミーンズとでも評したら好(い)いのでせう、比較的上品な嗜好を有つた田舍紳士だつたのです。だから氣性からいふと、濶達な伯父とは餘程の懸隔がありました。それでゐて二人は又妙に仲が好(よ)かつたのです。父はよく伯父を評して、自分よりも遙に働きのある賴もしい人のやうに云つてゐました。自分のやうに、親から財産を讓られたものは、何うしても固有の材幹(ざいかん)が鈍る、つまり世の中と鬪(たしめ)ふ必要がないから不可(いけな)いのだとも云つてゐました。此言葉は母も聞きました。私も聞きました。父は寧ろ私の心得になる積で、それを云つたらしく思はれます。「御前もよく覺えてゐるが好(い)い」と父は其時わざ/\私の顏を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにゐます。此位(くらゐ)私の父から信用されたり、褒められたりしてゐた伯父を、私が何うして疑がふ事が出來るでせう。私にはたゞでさへ誇(ほこり)になるべき伯父でした。父や母が亡くなつて、萬事其人の世話にならなければならない私には、もう單なる誇りではなかつたのです。私の存在に必要な人間になつてゐたのです。

Line

やぶちゃんの摑み:

「高等學校」固有名詞としての本郷区向ヶ岡弥生町(現在の文京区弥生一丁目の東大農学部付近)にあった「第一高等學校」を指す。東京帝國大學(明治101877)年4月12日に東京開成学校と東京医学校が合併して「東京大學」が創立され、明治191886)年3月の帝国大学令により「帝國大學」と改称、明治301897)年年6月の京都帝国大学の設置に伴って「東京帝國大學」と改称後、昭和221947)年9月に再び「東京大学」に戻された)に入学するための予備門に相当する。先生の頃は、一部を除いて成績が劣悪でない限りは無試験で第一高等學校から東京帝國大學に入学することも可能であった。「私」も同じ学制であるから(但し、彼の頃は第一高等學校成績優秀者のみが無試験であったものと思われる)、ここで確認しておくと、現在の小学校と同様の就学年齢(数え7歳以下同様、)により義務教育尋常小学校6年制の後、中等学校に13歳で入学(5年制)を経、18~19歳で高等学校(3年制)入学、順調に進学したなら、大学(この頃は3年制。4年は医学部のみ)入学は21~22歳。卒業時で24~25歳(満で23~24歳)となる。実際には明治後期の東京帝國大學卒業生の平均年齢は27歳前後であったらしい。

「二里ばかり隔つた市」先生の実家と叔父の家のある市の距離であるが、7.8㎞は相応に離れている。未だ人力車の時代であることに注意。なお、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は次章のこの懸隔に注して二里=約4㎞とされているが、何かの勘違いであろう。そんなに近いものを(私は4㎞は近いと思う)田舎住まいの叔父が「二里も隔つた私の家」と、係助詞の「も」は使わない。

「詩集」新体詩なんどを想起してはいけない。漢詩集である。

「マンオフミーンズ」“a man of means”で、“means”は常に複数形で資産・財産の意味となるから、ここは資産家・素封家・財産家の謂い。既に(二十七)の郊外の植木屋のシーンで、「私」の家の財産の話に先生が問いかけ、それに対して「私」が、

「先生は何うなんです。何の位の財産を有つてゐらつしやるんですか」

と尋ねたシーンで先生の口から直接「財産家」の語が語られている。そこで先生は「私」に、

「私は財産家と見えますか」

と訊ね、「私」が、

「左右でせう」

と答えると、

「そりや其位の金はあるさ。けれども決して財産家ぢやありせん。財産家ならもつと大きな家でも造るさ」

と小金持ちであることは認め、しかし今は「財産家」ではないと言う。この直後、先生は例の謎の円をステッキで描き、それを(恐らく真ん中に)突き立てて、

「是でも元は財産家なんだがなあ」

と半ば独り言のように言った上、更に科白として再度、

「是でも元は財産家なんですよ、君」

と、わざわざ確認するように言い直してから「私の顏を見て微笑」するのである。この「財産家」というこ、の二人の会話から最も遠く感じられる単語の連発シーンをこうしてここに並べてみると、ある点に気付く。先生は自身を元財産家であると明言しているのである。これは叔父に卑劣にも奪われたが私は元財産家だった、という『だけ』の即物的な意味であろうか? 普通は、そう、とるであろう。しかし、ここに私は実の父と自分を重ね合わせている先生を見るのである。先生の実父はここ以外では具体的に描かれないが、少なくとも「私」が父に感じているような、決定的懸隔を感じているようには思われない。寧ろ、上品な趣味人、田舎紳士として「先祖から讓られた遺産を大事に守つて行く篤實一方の」父像に先生はとても共感しているのだと言ってよい。そして、続く『「御前もよく覺えてゐるが好い」と父は其時わざ/\私の顏を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにゐます』という部分を見るまでもなく、その父を見つめる少年の先生の眼差しは素直な尊敬と愛に満ちている。植木屋でのシーンでも先生は、実は無意識にこの父と自分を殆んどぴったりダブらせているように思われ、そこでの物謂いも、ここからフィード・バックすると、そのような先生の中にある無意識的な内実(潜在的古典的「家」意識)を伝えるているように思われるのである。また、こうした溝のない父子関係は、本作中では希有であり、それが先生の考える理想的な男=強権を発動しない誠実な父権者として先生に実は深く意識されていた――先生の中の至福の父存在であった――と考えてよいのではなかろうか。

「濶達」闊達、豁達とも書く。心が大きく、小さな物事に拘らない性格で、度量の大きい人物を評する語。 

「材幹」才幹。物事を成し遂げるための知恵や能力。手腕。

「鬪(たしめ)ふ」「鬪(たゝか)ふ」又は「鬪(たたか)ふ」のルビ誤植。]

2010/06/18

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月18日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十七回

Kokoro14_4   先生の遺書

    (五十七)

 「私が兩親を亡くしたのは、まだ私の廿歳(はたち)にならない時分でした。何時か妻(さい)があなたに話してゐたやうにも記憶してゐますが、二人は同じ病氣で死んだのです。しかも妻が貴方に不審を起させた通り、殆ど同時といつて可(い)い位に、前後して死んだのです。實をいふと、父の病氣は恐るべき膓窒扶斯(ちやうチブス)でした。それが傍(そば)にゐて看護をした母に傳染したのです。

 私は二人の間に出來たたつた一人の男の子でした。宅(うち)には相當の財産があつたので、寧ろ鷹揚(おうやう)に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時兩親が死なずにゐて呉れたなら、少なくとも父か母か何方(どつち)か、片方で好(い)いから生きてゐて呉れたなら、私はあの鷹揚な氣分を今迄持ち續ける事が出來たらうにと思ひます。

 私は二人の後に茫然として取り殘されました。私には知識もなく、經驗もなく、また分別もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍に居る事が出來ませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さへまだ知らせてなかつたのです。母はそれを覺つてゐたか、又は傍のものゝ云ふ如く、實際父は回復期に向ひつつあるものと信じてゐたか、それは分りません。母はたゞ伯父に萬事を賴んでゐました。其所に居合せた私を指さすやうにして、「此子をどうぞ何分」と云ひました。私は其前から兩親の許可を得て、東京へ出る筈になつてゐましたので、母はそれも序(ついで)に云ふ積らしかつたのです。それで「東京へ」とだけ付け加へましたら、伯父がすぐ後を引き取つて、「よろしい決して心配しないがいい」と答へました。母は強い熱に堪へ得る體質の女なんでしたらうか、伯父は「確(しつ)かりしたものだ」と云つて、私に向つて母の事を褒めてゐました。然しこれが果して母の遺言であつたのか何うだか、今考へると分らないのです。母は無論父の罹つた病氣の恐るべき名前を知つてゐたのです。さうして、自分がそれに傳染してゐた事も承知してゐたのです。けれども自分は屹度(きつと)此病氣で命を取られると迄信じてゐたかどうか、其處になると疑ふ餘地はまだ幾何でもあるだらうと思はれるのです。其上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通つた明かなものにせよ、一向記憶となつて母の頭に影さへ殘してゐない事がしば/\あつたのです。だから‥‥然しそんな事は問題ではありません。たゞ斯ういふ風に物を解きほどいて見たり、又ぐる/\廻して眺めたりする癖は、もう其時分から、私にはちやんと備はつてゐたのです。それは貴方にも始めから御斷りして置かなければならないと思ひますが、其實例としては當面の問題に大した關係のない斯んな記述が、却(かへつ)て役に立ちはしないかと考へます。貴方の方でもまあその積で讀んで下さい。此性分が倫理的に個人の行爲や動作の上に及んで、私は後來(こうらい)益(ます/\)他(ひと)の德義心を疑ふやうになつたのだらうと思ふのです。それが私の煩悶や苦惱に向つて、積極的に大きな力を添へてゐるのは慥(たしか)ですから覺えてゐて下さい。

 話が本筋をはづれると、分り惡くなりますからまたあとへ引き返しませう。是でも私は此長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他の人と比べたら、或は多少落ち付いてゐやしないかと思つてゐるのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響きももう途絶えました。雨戸の外にはいつの間にか憐れな虫の聲が、露の秋をまた忍びやかに思ひ出させるやうな調子で微(かす)かに鳴いてゐます。何も知らない妻は次の室(へや)で無邪氣にすや/\寢入つてゐます。私が筆を執ると、一字一畫(くわく)が出來上りつゝペンの先で鳴つてゐます。私は寧ろ落付いた氣分で紙に向つてゐるのです。不馴(ふなれ)のためにペンが横へ外(そ)れるかも知れませんが、頭が惱亂して筆がしどろに走るのではないやうに思ひます。

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[♡やぶちゃんの摑み:先生の生年が語られていない。一気に17歳から先生は書き出したのか? 拘りのある先生の書き方としては唐突な気がする。この頭に実は簡単な新潟の出身地に関わる叙述と生年及び生家の梗概等が簡単にでも語られるのが私は『普通』であると思う。そして先生が、それを省いてここから書いた、とは思われない。そうした年譜的事実の省略は文章に不自然さを齎さない。だから、今まで気づかなかったのだ。しかし、こうして指摘するとあたかも源氏が11歳から17歳の青年になるまでが描かれないのと同じく、妙に不満なのである。私は少なくともおかしいと思うのである。私が先生で遺書を書くとしたら、こんなはしょり方は絶対しない。数行でいいのだ。必ず生年と家柄を述べるであろう。生家への言及は実際、(五十九)で「私の家は舊い歴史を有つてゐる」と現われる。決して先生は財産が相応にある自家の家系について決して無関心ではなかったはずだ。その財産のルーツについて語るべき義務もあると思われるし、先生は『語ったはずである』。――だとすれば、やはり、その部分は「私」によって省略されたものと私には思われるのである。次回「私は東京へ來て高等學校へ這入」ったという叙述が出現する。これが、先生の出生年の根拠になる。高等学校が明治の学制の中に置かれるのは明治27(1894)年6月の高等学校令公布によってである。従って、先生の出生は明治8(1875)年が限界値で、それ以前には遡ることは出来ない。尋常中学校での留年等を想定すれば可能だが、先生とKは同級生で大学も同時に入学している。Kも先生も相当に優秀であったと考えてよいし、先生は至って健康体であることもよく語られる。従って留年の可能性は消去される。初めて新制の3年制である高等學校の1回生や2回生であったならば、その特異性(初めての学制や先輩が一つ上しかいない)から必ずや、それが語られるはずであろう。それを語らないのは、彼が入学した時、既に上級生が揃ってことを示すと私は考える。そこで私は、先生の青年を、

明治10(1877)年前後

新潟に生まれる

とするものである。

更にこの章以降、実は第(六十九)回に至るまで、看過出来ない誤りが、ずっと続くことを言っておかなくてはならない。先生を騙した(とする)人物である。次の(五十六)にはっきりと「父の實の弟」と語られている訳で、これらは総て「叔父」の誤植である。それが正されるのは、郷里を捨てたエピソードも終わり、下宿の奥さんへの猜疑心が起こるところ、「叔父に欺された私は」という第(七十)回の、最後の一文である。同時に「叔母」であるべき部分も総て「伯母」となっているので要注意。それにしても、ここまで徹底してしまうと、読者は、嘗て私が指摘したように、俄然「私」と兄が、父亡き後の実家の管理を「伯父」に頼もうと考えていることと重ね合わせ易かったものとは思われる。

♡「膓窒扶斯」腸チフスは真正細菌プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱エンテロバクター目腸内細菌科サルモネラ属の一種チフス菌Salmonella enterica var enterica serovar Typhiによって引き起こされる感染症。以下、ウィキの「腸チフス」より引用する。『感染源は汚染された飲み水や食物などである。潜伏期間は7~14日間ほど。衛生環境の悪い地域や発展途上国で発生して流行を起こす伝染病であり、発展途上国を中心にアフリカ、東アジア、東南アジア、中南米、東欧、西欧などで世界各地で発生が見られる。日本では感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律で三類感染症に指定されており、感染症病院での治療が義務付けられている。また、以前は症状が似ているため発疹チフスや腸結核と同一の病気と考えられてきていた。だが、病原菌が全く違ったため別の病気だとわかった。一方、腸チフスと類似した疾患であるパラチフスは、チフス菌と同じサルモネラの一種であるパラチフスA菌ならびにパラチフスB S. enterica serovar Parathyphi Aserovar Paratyphi B )による』。『日本において「チフス」と呼ばれる疾患には、この腸チフスの他、パラチフス、発疹チフスの3種類が存在する。このうち腸チフスとパラチフスはともにサルモネラに属する菌株による疾患であるが、発疹チフスはリケッチアの一種である発疹チフスリケッチア Rickettsia prowazekii))による疾患である。これらの疾患は、以前、同一のものであると考えられ、いずれもチフスと呼ばれていた』。『チフスという名称はもともと、発疹チフスのときに見られる高熱による昏睡状態のことを、ヒポクラテスが「ぼんやりした、煙がかかった」を意味するギリシア語 typhus と書き表したことに由来する。以後、発疹チフスと症状がよく似た腸チフスも同じ疾患として扱われていたが、1836年に W. W. Gerhard が両者の識別を行い、別の疾患として扱われるようになった。それぞれの名称は、発疹チフスが英語名 typhus、ドイツ語名 Fleck typhus、腸チフスが英語名 typhoid fever、ドイツ語名 Typhus となっており、各国語それぞれで混同が起こりやすい状況になっている。日本では医学分野でドイツ語が採用されていた背景から、これに準じた名称として「発疹チフス」「腸チフス」と呼び、一般に「チフス」とだけ言った場合には、これにパラチフスを加えた3種類を指すか、あるいは腸チフスとパラチフスの2種類のことを指して発疹チフスだけを別に扱うことが多い。ただし、英語に準じて腸チフスを「チフス熱」という呼ぶこともまれにある』以下、「感染経路」について。『無症状病原体保有者や腸チフス発症者の大便や尿に汚染された食物、水などを通して感染する。これらは手洗いの不十分な状態での食事や、糞便にたかったハエが人の食べ物で摂食活動を行ったときに、病原体が食物に付着して摂取されることが原因である。ほかにも接触感染や性行為、下着で感染する。胆嚢保菌者の人から感染する場合が多い。ネズミの糞から感染することもある。上下水道が整備されていない発展途上国での流行が多く、衛生環境の整った先進諸国からの海外渡航者が感染し、自国に持ち帰るケース(輸入感染症)も多く見られる』。以下、「発症病理」について。『腸チフスは、サルモネラの一菌型(血清型)であるチフス菌の感染によって起こる。食物とともに摂取されたチフス菌は腸管から腸管膜リンパ節に侵入してマクロファージの細胞内に感染する。このマクロファージがリンパ管から血液に入ることで、チフス菌は全身に移行し、菌血症を起こす。その後、チフス菌は腸管に戻り、そこで腸炎様の症状を起こすとともに、糞便中に排泄される』。以下、「症状」について。『腸チフスの症状の推移。グラフは体温の変化感染後、714日すると症状が徐々に出始める。腹痛や発熱、関節痛、頭痛、食欲不振、咽頭炎、空咳、鼻血を起こす。34日経つと症状が重くなり、40度前後の高熱を出し、下痢(水様便)、血便または便秘を起こす。バラ疹と呼ばれる腹部や胸部にピンク色の斑点が現れる症状を示す。腸チフスの発熱は「稽留熱(けいりゅうねつ)と呼ばれ、高熱が1週間から2週間も持続するのが特徴で、そのため体力の消耗を起こし、無気力表情になる(チフス顔貌)。また熱性せん妄などの意識障害を起こしやすい。2週間ほど経つと、腸内出血から始まって腸穿孔を起こし、肺炎、胆嚢炎、肝機能障害を伴うこともある』。『パラチフスもこれとほぼ同様の症状を呈するが、一般に腸チフスと比べて軽症である。』以下、現在の予防及び治療について。『弱毒生ワクチン(4回経口接種)と注射ワクチン(1回接種)が存在するが、日本では未承認。そのため日本国内でワクチン接種する際は、ワクチン個人輸入を取り扱う医療機関に申し込む必要がある。経口生ワクチンを取り扱っている医療機関は非常に少なく、輸入ワクチンを取り扱っている医療機関の多くは不活化である注射型のものを採用している。有効期間は経口ワクチンが5年、不活化Viワクチンが2~3年間程と言われている。そのほかは手洗いや食物の加熱によって予防できる。治療はニューキノロン系抗菌剤が多く用いられている。耐性菌を押さえるためにはシプロフロキサシンやトリメトプリムスルファメトキサゾール(ST合剤)を使用する。近年、バングラデッシュを中心に、治療耐性腸チフスが発生しているため、ワクチン接種が重要と思われる。ワクチンの効力が出るのは接種完了後2週間ほどしてからなので、現地での接種は賢明ではなく、国内で接種を完了することが薦められる。なお、経口生ワクチンを選択した場合、経口のコレラワクチン(新型コレラワクチン)の同日接種は6時間間隔をあけてからの服用が望ましいので注意が必要である』。なお、『治療後も1年間ほどチフス菌を排出する』とある。

♡「鷹揚」鷹が空を悠然と飛ぶようなさまから、人柄が、小さなことにこだわらずゆったりとしているさま、人品がおっとりとして上品なさまを言う。この評は後の(六十六)で下宿の奥さんの先生への評言としても再生される重要な先生の人格を表象する語である。

♡「だから‥‥然しそんな事は問題ではありません」このリーダの復元が必須である。まず、整理してみよう。まず関連事実を「○」で、リーダに関わると思われる先生の感懐を「●」で纏めて見る。

○先生は父母の死の後、茫然と知識も經驗も分別もない状態で取り残された。

○母は父の死に目に立ち会っていない。それどころか母は自分が死ぬ際に父の事実を伝えていなかった。

●しかし、死の床にあって母が暗に父の死を悟っていたか、回復期に向いつつあるものと信じていたかは、分からない。傍で看病した者が言うことにはそう信じていたというが、それが真実である言い得るかどうかは、甚だ疑問である。

○母は万事、伯父(実際には叔父)を信頼していた。

○殆んど死の床にあった母は私を指さすようにして、「この子をどうぞ何分」「東京へ」と言ったが、それは、私が既に以前から両親の許可を得て、東京の高等学校へ進学する手筈になっていたことを主に指す内容であったと判断してよい。その言葉だけで、伯父(叔父)は母の懇請を理解したかのように、「よろしい決して心配しないがいい」と答えた。

●母はチフスの引き起こす高い熱に堪え得る――論理的な思考を鈍らせずにはっきりと遺言として認識して口頭で示すことの出来る――体質の女性であったかどうかは、分からない。

○ところが、伯父(叔父)は「確かりしたものだ」と私に母の事を褒めた。

●「然しこれが果して母の遺言であつたのか何うだか、今考へると分らない」、甚だ疑問である。

○母は勿論、父の罹患した病気が腸チフスであること、それが看病している自分に伝染し、重い腸チフスの場合、接触感染した患者も同様の重症に陥るという事実も知っていた。

●「けれども」母が「自分は屹度此病氣で命を取られると迄信じてゐたかどうか、其處になると疑ふ餘地はまだ幾何でもあるだらうと思はれる」。

●「其上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通つた明かなものにせよ、一向記憶となつて母の頭に影さへ殘してゐない事がしば/\あつた」程である。

以上の「●」を辿ってゆけば、「だから‥‥」のリーダの復元は容易である。即ち、

「だから、『母が法的な意味に於いて、この伯父(叔父)を以って民法で言うところの私の後見監督人としての指定をした』という言明及びそう主張して後見監督者となった伯父(叔父)の見解とその後の後見監督権の行使には甚だ以って疑義がある。」

ということである。『しかし、それは今、この遺書を書く「今の私」にとっては』」「然しそんな事は問題ではありません」と言うのである。これは先生が思ったより――論理的に物事を冷静にちゃんと見ている、お目出度いとっちゃん坊やなんかではない――という厳然たる事実を示すものである。先生のいう私は「鷹揚」な性格だという言葉に、読者は欺されてはならないのである。それにまた気づくようにと、漱石はこうした巧妙な仕掛けを配しているのだとも言えるのである。

♡「たゞ斯ういふ風に物を解きほどいて見たり、又ぐる/\廻して眺めたりする癖は、もう其時分から、私にはちやんと備はつてゐたのです。それは貴方にも始めから御斷りして置かなければならないと思ひますが、其實例としては當面の問題に大した關係のない斯んな記述が、却て役に立ちはしないかと考へます。貴方の方でもまあその積で讀んで下さい。此性分が倫理的に個人の行爲や動作の上に及んで、私は後來益他の德義心を疑ふやうになつたのだらうと思ふのです。それが私の煩悶や苦惱に向つて、積極的に大きな力を添へてゐるのは慥ですから覺えてゐて下さい」これは意味深長な初期注記である。ここで漱石は、遺書の書き手である先生に、自分と同じような神経質な傾向、病的な関係妄想様の思い込みや強迫傾向があることを事前に注記しているのである(実際にそれは随所に現れることになる)。そうして、そのような認識(病識に近い謂いで私は用いている)の元に先生は遺書を書いている、従って、そのようなものとして遺書を読み解くように心掛けねばならぬ、という警告まで発しているというべきである。我々は先生の遺書を鵜呑みにしてはならないのである。――そしてもう一つの大事な点――「ぐる/\廻して眺めたりする癖」である。先生の心の動きが既にして円運動であることが示される。ここに最も分かり易い「心」の謎の円運動の解答の選択肢が示された。しかし、如何にもな分かり易い選択肢が必ずしも正解でないことは最早、高校生諸君の方が自明であろう。というよりも、これは「心」の中の謎の円運動の一つの写像に過ぎないのではないかということである。

♡「是でも私は此長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他の人と比べたら、或は多少落ち付いてゐやしないかと思つてゐるのです」授業でよく質問をしたもんだ。こんな当たり前のことにさえ、ろくに達意で答えられない高校生がいる。「私と同じ地位に置かれた他の人」とは、どんな人ですか? 勿論、自死を決意して遺書を書く「他の人」ですね。

♡「世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響きももう途絶えました。雨戸の外にはいつの間にか憐れな虫の聲が、露の秋をまた忍びやかに思ひ出させるやうな調子で微かに鳴いてゐます。何も知らない妻は次の室で無邪氣にすや/\寢入つてゐます。私が筆を執ると、一字一畫が出來上りつゝペンの先で鳴つてゐます。私は寧ろ落付いた氣分で紙に向つてゐるのです。不馴のためにペンが横へ外れるかも知れませんが、頭が惱亂して筆がしどろに走るのではないやうに思ひます」遺書の中で特異的に遺書を執筆している先生の姿が髣髴と描かれる印象的なシーンである(他にこのようなシーンは妻を伯母の家に看病に行かせ、時々帰ってくる妻、その際にこの遺書を隠したというやや説明的な最終章以外にはない)。如何にもロマン的だ。そこには先生のペンの音と共に、遠い電車――汽車ではない。あのレールの音だ――そして、隣室の靜の静かな寝息の音(ね)さえ聴こえてくるではないか。私には靜を愛する先生の優しさが、ここに感じられる。『先生だけの靜』の寝息である。]

2010/06/17

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月17日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十六回

Kokoro14_3   先生の遺書

    (五十六)

 「私はそれから此手紙を書き出しました。平生(へいせい)筆を持ちつけない私には、自分の思ふやうに、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、貴方に對する私の此義務を放擲(ほうてき)する所でした。然しいくら止(よ)さうと思つて筆を擱(おい)いても、何にもなりませんでした。私は一時間經たないうちに又書きたくなりました。貴方から見たら、是が義務の遂行を重んずる私の性格のやうに思はれるかも知れません。私もそれは否みません。私は貴方の知つてゐる通り、殆ど世間と交渉のない孤獨な人間ですから、義務といふ程の義務は、自分の左右前後を見廻しても、どの方角にも根を張つて居りません。故意か自然か、私はそれを出來る丈切り詰めた生活をしてゐたのです。けれども私は義務に冷淡だから斯うなつたのではありません。寧ろ鋭敏過ぎて刺戟に堪へる丈の精力がないから、御覧のやうに消極的な月日を送る事になつたのです。だから一旦約束した以上、それを果さないのは、大變厭な心持(こころもを)です。私はあなたに對して此厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆を又取り上げなければならないのです。

 其上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私丈の經驗だから、私丈の所有と云つても差支ないでせう。それを人に與へないで死ぬのは、惜いとも云はれるでせう。私にも多少そんな心持があります。たゞし受け入れる事の出來ない人に與へる位なら、私はむしろ私の經驗を私の生命と共に葬つた方が好(い)いと思ひます。實際こゝに貴方といふ一人の男が存在してゐないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで濟んだでせう。私は何千萬とゐる日本人のうちで、たゞ貴方丈に、私の過去を物語(ものかた)りたいのです。あなたは眞面目だから。あなたは眞面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云つたから。

 私は暗い人世(じんせい)の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。然し恐れては不可せん。暗いものを凝と見詰めて、その中から貴方の參考になるものを御攫(おつか)みなさい。私の暗いといふのは、固(もと)より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。又倫理的に育てられた男です。其倫理上の考は、今の若い人と大分(だいぶ)違つた所があるかも知れません。然し何(ど)う間違つても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着(そんれうぎ)ではありません。だから是から發達しやうといふ貴方には幾分か參考になるだらうと思ふのです。

 貴方は現代の思想問題に就いて、よく私に議論を向けた事を記憶してゐるでせう。私のそれに對する態度もよく解つてゐるでせう。私はあなたの意見を輕蔑迄しなかつたけれども、決して尊敬を拂ひ得る程度にはなれなかつた。あなたの考へには何等の背景もなかつたし、あなたは自分の過去を有つには餘りに若過ぎたのです。私は時々笑つた。あなたは物足なさうな顏をちよい/\私に見せた。其極(きよく)あなたは私の過去を繪卷物のやうに、あなたの前に展開して呉れと逼(せま)つた。私は其時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中(なか)から、或生きたものを捕(つら)まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臟を立(たち)割つて、温かく流れる血潮を啜(すゝ)らうとしたからです。其時私はまだ生きてゐた。死ぬのが厭であつた。それで他日を約して、あなたの要求を斥ぞけてしまつた。私は今自分で自分の心臟を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停(とま)つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足(まんそく)です。

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[♡やぶちゃんの摑み:ここは先生が何故、「私」にだけ秘密の過去を語るのかをはっきりと明示した重要な部分である。先生の遺書を抜粋で読む高校国語授業は掟破りと言わざるを得ないが(私は三十数年間、全文授業を自身にも生徒にも課してきた)、少なくともこの遺書の冒頭と、そして最後は教科書に載せるべきである。載っていなければ、必ず読ませ、教師が音読すべき部分である。それは勿論、見た目、一聴、実に不思議で謎めいた暗号のようにしか見えまい。しかし、それでいいのだ。諸君(ネット上に散見される「こゝろ」全文を読ませるのなんぞナンセンスという国語教師を指す)が抜粋しかやらないのであれば、せめて、そうした謎かけに終わる、将来、「こゝろ」を読みたくなるような読書案内としての授業に徹するがよい。――嫌悪感を覚える「舞姫」は豊太郎を憎悪するベクトルに於いて授業が可能であるが、「こゝろ」は、その作品を愛さぬ人間には、授業は出来ぬ。鮮やかに捨てるがよい。試験のためや統一授業のためにやるのなら、君は国語教師としての節や覚悟の欠片(かけら)もない愚者以外の何者でもない。
♡「私はそれから此手紙を書き出しました」というのは、前段と繋げた時、如何にもおかしい。実際にやってみよう。
   《復元開始》
 其後私はあなたに電報を打ちました。有體に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙を寄こして呉れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退けにして、何であなたが宅を空けらるものですか。その御父さんの生死を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。―私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症だからよく注意しなくつては不可いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の惱髓よりも、私の過去が私を壓迫する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。
 あなたの手紙、―あなたから來た最後の手紙―を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに己めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。
 私はそれから此手紙を書き出しました。平生筆を持ちつけない私には、自分の思ふやうに、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、貴方に對する私の此義務を放擲する所でした。然しいくら止さうと思つて筆を擱いても、何にもなりませんでした。私は一時間經たないうちに又書きたくなりました。貴方から見たら、是が義務の遂行を重んずる私の性格のやうに思はれるかも知れません。私もそれは否みません。私は貴方の知つてゐる通り、殆ど世間と交渉のない孤獨な人間ですから、義務といふ程の義務は、自分の左右前後を見廻しても、どの方角にも根を張つて居りません。故意か自然か、私はそれを出來る丈切り詰めた生活をしてゐたのです。けれども私は義務に冷淡だから斯うなつたのではありません。寧ろ鋭敏過ぎて刺戟に堪へる丈の精力がないから、御覧のやうに消極的な月日を送る事になつたのです。だから一旦約束した以上、それを果さないのは、大變厭な心持です。私はあなたに對して此厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆を又取り上げなければならないのです。
 其上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。……(以下、略)
   《復元終了》
直ぐに気がつくはずである。この文脈はおかしい。私「から來た最後の手紙」「を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひ」、「それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけ」たが、「一行も書かずに己め」た。何故なら「何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから」であると同時に、「此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已め」たと言うのに、ところが、そこで「來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つた」直後に「私は」「此」秘密の「私の過去」を総て記した「手紙を書き出し」た、という。こんな悪文は私だって書かない。明らかにおかしな文章である。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏もこの違和感に着目され、『読者は前項との矛盾にいささかとまどい、その間に予想以上の時間の経過があったのかといぶかしむ(連載の切れ目であることも関係するかもしれない)。』と記されている。連載云々は私も分かるが、私の推定によれば9月14日(土)か15日(日)に私からの電報を受け取った先生は、当然同日内に再び私へ「コナイデモヨロシイ」という返電をしたと思われ、9月16日(月)か17日(火)辺りには明確な自殺を決意し、遺書の執筆に入らなければならない。これは残る先生のリミットの時間が作品上でも明確に閉じられている以上、動かせないのである。従って読者が感じる遺書執筆に取り掛かるまでの(私もそう初読時、素直にそう感じた)「間に予想以上の時間の経過があ」ることは、あり得ないのである。――とすれば――どのような可能性が考えられるか――前の♡「此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから」の注を採録する。
これは遺書の最後に表われる遺書を書くための一人の時間の確保を言う。即ち、遺書が長いものとなることが分かっていた先生は丁度、靜の「叔母が病氣で手が足りないといふ」渡りに舟――その渡し守はカロン――の話を耳にし、自分から「勸めて遣」ることで、落ち着いて遺書執筆するための時間を確保し得た。叔母のところに自然に靜を送り出すための仕儀に、一日二日が必要であったことを言うのである。
この内容が、二つの章の間に挟まれていたとしたら如何であろう(下線部は私の復元例)。
   《復元例開始》
 其後私はあなたに電報を打ちました。有體に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙を寄こして呉れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退けにして、何であなたが宅を空けらるものですか。その御父さんの生死を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。―私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症だからよく注意しなくつては不可いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の惱髓よりも、私の過去が私を壓迫する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。
 あなたの手紙、―あなたから來た最後の手紙―を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに己めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。
 しかし此長い手紙を書くには相應な時間と何よりも家人に氣付かれぬやうにする必要がありました。ところが丁度、先達てから妻の親類の者が病氣で不如意だといふ話を耳にしてゐたものですから、私はその宅へ妻を手傳に遣ることで落ち着いて此手紙を書くための時間を確保し得たのです。
 私はそれから此手紙を書き出しました。平生筆を持ちつけない私には、自分の思ふやうに、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、貴方に對する私の此義務を放擲する所でした。然しいくら止さうと思つて筆を擱いても、何にもなりませんでした。私は一時間經たないうちに又書きたくなりました。貴方から見たら、是が義務の遂行を重んずる私の性格のやうに思はれるかも知れません。私もそれは否みません。私は貴方の知つてゐる通り、殆ど世間と交渉のない孤獨な人間ですから、義務といふ程の義務は、自分の左右前後を見廻しても、どの方角にも根を張つて居りません。故意か自然か、私はそれを出來る丈切り詰めた生活をしてゐたのです。けれども私は義務に冷淡だから斯うなつたのではありません。寧ろ鋭敏過ぎて刺戟に堪へる丈の精力がないから、御覧のやうに消極的な月日を送る事になつたのです。だから一旦約束した以上、それを果さないのは、大變厭な心持です。私はあなたに對して此厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆を又取り上げなければならないのです。
 其上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。……(以下、略)
   《復元例終了》
私はやはり疑惑を拭えぬのだ。やはり先生の遺書は完全ではないのだ。「私」によって、省かれた部分が、ある。――これは現在、殆んど私の中で確信に近いものになっているのである。
♡「私の過去」「を人に與へないで死ぬのは、惜いとも云はれるでせう。私にも多少そんな心持があります」ここに半ば公的な言説(ディスクール)が示される。これは漱石の矜持でもある。
漱石が本作の広告文として『自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を獎む。』と言った自信の源泉から吹き上げてきた言葉である。後の部分でも「是から發達しやうといふ貴方には幾分か參考になるだらうと思ふ」とまで言っている。「是から發達しやうといふ貴方」とは措定めされた不特定多数の若者への謂いである。不特定多数の、たった一人の「私」という若者への、である。
♡「たゞし受け入れる事の出來ない人に與へる位なら、私はむしろ私の經驗を私の生命と共に葬つた方が好いと思ひます。實際こゝに貴方といふ一人の男が存在してゐないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで濟んだでせう。私は何千萬とゐる日本人のうちで、たゞ貴方丈に、私の過去を物語りたいのです」ここに「私」が唯一選ばれた理由が開示される。即ちその冒頭部を解するなら、
○先生は私の過去の意味が理解出来ない、批判的対象でしかないとしか心に映らぬ輩ばかりがこの世には満ち溢れていると感じていた。
○そのような輩には私の過去を語る価値がない、語っても私の過去が愚かな思惟によって毒されるだけでなく、誤読されたその輩の精神やその誤読した輩が棲息する社会そのものに致命的な害毒とさえなるかも知れない。
と読んで大きな誤りはないと思われる。そして容易に気づくはずである。
○先生は「私」をこの世で今、誰よりも愛している。何故なら、愛している靜にさえ語らない自己の過去の秘密を「私」「たゞ貴方丈に、私の過去を物語りたい」と言っているからである。君は自分の知られたくない忌まわしい過去を誰になら、語れる? 愛してもいない人間には決して語れぬ。信頼する親族にも友人にも語ることを躊躇するであろう。その究極の秘密を語れるのは、至上の愛を感じている相手以外には在り得ない。先生は「私」(=読者である「あなた」)を愛している。
そして遂に全「日本人」(この批判的限定性に着目せよ!)の中で「私」が選ばれた理由の第一命題が示される。
♡「あなたは眞面目だから。あなたは眞面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云つたから」「たゞ貴方丈に」「私の過去を物語りたい」のは、
Ⅰ 「私」が全日本人の中で先生にとって唯一「眞面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと」いう思いを持った存在である。
から、である。もうお分かりの通り、この第一命題は直ちに真として認識され、そして「私」=読者である「あなた」への真の命題として示されるのである。お分かりか? 真摯な「私」である真摯な『唯一の先生の人生の総体・その実在・その精神から生き生きとした教訓を得たい! 絶対に得る! と既に言明している』「あなた」が、先生に、選ばれて在るのである。ここをぼんやり過ぎてしまい、この意味を十全に『覚悟』出来ずに先生の遺書を読んでも、君には、先生は、何にも! 語ってはくれないであろう――
♡「暗いものを凝と見詰めて、その中から貴方の參考になるものを御攫みなさい」と先生が言う時、よろしいか?! 既にしてこの手記を記している今の「私」(それは本作を読み終えた時の読者である「あなた」自身だ!)は、遺書の中から、その先生の言う「暗いものを凝と見詰め」得、「その中から」自分の「人生そのもの」の想像を絶する「參考になるものを」「攫」んでいる、捕(つら)まえている、のである! でなくて、どうして本作が在る価値があろうか?!
♡「倫理的に暗い」「私は倫理的に生れた男」「倫理的に育てられた男」「其倫理上の考は、今の若い人と大分違つた所があるかも知れません」この連続する「倫理」は字画の上からも強烈に読者の目を射る。極めて強烈である。さすれば我々はこの倫理を解析することは先生を理解する上で不可欠である。倫理という概念は大きく言って二つの柱から成り立つであろう。一つは善悪の判断という倫理的(道徳的)判断とその規準であり、それを受けた倫理的(道徳的)罰としての罪障感及びその倫理を宗教的法的な規準とする社会の道徳的批判と実行行為としての処罰である(私の謂いは飽くまで一般論を述べている。江藤淳がこれらの言葉を美事にうまく用いて「こゝろ」論を書いているからといって、それに組みするものではないことをお断りしておく)。そのような二階層の倫理の中で先生を正確に規定しなくてはならないわけだが、それが一筋繩ではいかないのが、私達自身の倫理の基底概念と先生の立脚点が大きく異なるからである。それを先生は「其倫理上の考は、今の若い人と大分違つた所があるかも知れません」という言葉で危ぶんでいるもいるわけだが、そこで一部の評論家のように、従って結果、「私」は先生の倫理的意味を理解出来ないなんどという、本書を読むことを無化してしまう解釈(『分からないことが分かるのだ』というような詭弁には私は全く組することが出来ない)を生み出すことにもなるのであるが、「私」にはその「今の若い人と大分違つた」「其倫理上の考」えが必ず分かる、のである。先生も、そして漱石も100%分かるものとして、遺書を書き、「心」を書いている。でなくて、先生が「私」(「あなた」自身!)を選ぼう?! 漱石があの広告文
『自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を獎む。』というとんでもない大上段の文句を書くだろう?! そして気づくべし! 「然し何う間違つても、私自身のものです」という自己同一性の鮮やかにして高らかな表明を! ここには先生の少年のような透明な瞳が見える。そしてそれは、その魂を共有出来た「私」や私やあなたと同じ眼の色をしているのだ!――

♡「損料着」貸衣装。

♡「貴方は現代の思想問題に就いて、よく私に議論を向けた」この言葉は、我々が「こゝろ」の「上 先生と私」の書かれなかった様々なシチュエーションを想起させてくれる、私にとってとても嬉しい一節である。即ち、そのようなシーンは一つも描かれていないけれど、「私」が先生に対してアップ・トゥ・デデイトな「現代の思想問題」について、頻繁に「議論を向けた」事実を物語っているからである。そこで語られた「現代の思想問題」とは如何なるものであったのか……そうして、そこでどんな風に「私」は私見を述べたのだろう?……それを聞く先生はどんな風に笑って、どんな一言を発したのだろう?……私は長く「こゝろ」を読んできたが(授業のためにも私は少なくとも有に20回以上は読み返している)……詰らないことですが、私はよくそれを思ふのです。……ところが、その議論の内容について、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」に誠に嬉しいコンパクトに纏められた注が附してあるのである。藤井氏の引用したものの孫引きで少々お恥ずかしいのであるが、如何にも分かり易いので以下に藤井氏の総括も含めて一部引用する。まずは権田保之助「貞操問題の文化的基礎」(『心理研究』大正4(1915)年12月~大正5(1916)年1月連載)を引用して(改行マークを実際の改行に変えた)、

   《引用開始》

「日露戦争の日本は精神界にはた物質界にまことに多事多難の時代でありました。其の前までは或は本能満足主義といひ或は自然主義と云ひまして、なほ理論家の空論にすぎませんでした個人主義思想は日露戦争後の社会経済状態の変化と共に今や空論家理想論者の手を離れて実際家実行家の手に移つたのであります。或は刹那主義と称し或はプラグマチズムと申しまして名は様々に異りは致しますが、詮じ詰めれば其等は最早空理空論としての個人主義ではなくして、実際としての個人主義の異名にすぎなかつたのであります。

 理想より現実に、空論より実行に移り行きました個人主義は二三文芸家や少数思想家の玩具たる地位を去つて、多数国民の生活に於ける生命に続く第二の要素となつたのであります」。要するに個人主義精神の浸透・定着を指摘しているわけだが、これをもう少し具体的に思想家名をあげながら、科学万能の唯物的傾向の時代から世紀末を経て唯心的傾向への転換をたどっているのが、野上白川述の「近代思想講話」(『新文学百科精講 前編』新潮社、大3。このあと『近代文芸十二講』(新潮社、大10)を始めとしていろんなところに再利用されることになる概括の定番)だ。一三〇頁にも及ぶ大部のものなので、目次を手がかりとして簡単に紹介してみると、ルソー=浪漫主義による権威の破壊に続いて、破壊のあとの懐疑厭世(=「世紀の痼疾」)を代表して登場してきたのがショーペンハウエルらであったとされる。十九世紀の半ばになると自然科学の勃興とともに科学的精神が台頭し、ダーウィンに代表されるごとく一八七〇年頃までは科学万能の時代が続く。そしてこの科学的精神と先の懐疑思想の流れとが個人主義的思想を育んだとされ、代表的思想家としてはニイチェ、キルケゴール、イプセンらがあげられている。いっぽう科学的精神にもとづいてこの個人主義をもおびやかしたのが機械的人生観=マルクスらの唯物史観だった。哲学上・文学上の自然主義もこの物質万能の精神に基礎をおくものだったが、やがて世紀末=デカダンの風潮が兆すのと並行して、物質万能への懐疑が生まれてくる。そうしてそれらの動きを経た現代の思想動向は、非物質的傾向=唯心論の台頭と捉えられる。その流れを代表する思想家としては、プラグマティズムのウィリアム・ジェームズ、人格哲学のオイケン、直覚主義のベルグソンらがあげられている。すなわち浪漫主義(唯心的傾向)→自然主義(唯物的傾向)→新浪漫主義(新唯心的傾向)という流れがたどれるわけであり、「肉の自覚」(自然主義)から「霊の自覚」へ、というのが大正三年時点での現代思想の到達点であった。

   《引用終了》

正に百花繚乱、唯心主義と唯物主義のみならず、哲学と宗教と科学と技術が四つに組んず解れつの異種格闘技戦をしていたのである。その組み方は、例えばキューリー夫妻によるラジウムの発見(1898年)は目に見えない放射線が神秘のパワーとしてお目出度く認識され、東京帝国大学助教授福来友吉の千里眼事件(明治431910)年)、日本に於ける最大規模の大正の心霊ブームといった一筋繩では行かない世界に発展してゆくことにも注意する必要があるように思われる。……実は私は「こゝろ佚文」の前に、昔、先生と「私」をホームズとワトソンに擬えて、鎌倉の矢倉の中で起こった猟奇的殺人事件を解決させるという推理小説を構想したことがあるのだ。……光明寺裏の別荘でウロボロスの輪を先生に説明させたり、鎌倉の矢倉の起源や矢倉の分布の特性・鎌倉石の特徴を利用した殺人トリック……そこには何とかの南方熊楠をも登場させる予定だったなあ……きっと楽しいエピソードになっただろうに……でももう、僕はもうそんな小説を書く気力はない……というより私にはもともと、その才能はなかったんだ……そんなことは、実は私は十歳になる前、とうの昔に自覚していたことなんだ……どなたかに、こうした設定や腹案は差し上げよう……どうです? あなた、書いてみませんか? 『書かれなかった』先生と「私」の蜜月の一齣を?

♡「あなたは物足なさうな顏をちよい/\私に見せた。其極あなたは私の過去を繪卷物のやうに、あなたの前に展開して呉れと逼つた。私は其時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臟を立割つて、温かく流れる血潮を啜らうとしたからです」全「日本人」の中で「私」が選ばれた理由の第二命題が示される部分である。

○「私」が先生に先生の過去を完全に開示するように要請したことが、先生に初めて「私」への尊敬の念を惹起させた。

○その尊敬の念が生じたのは、「私」が遠慮なく、先生が心に秘密にしている部分から、生々しいある真実を摑み出して、自己の人生の糧にしようという覚悟の決心を見せたからである。

Ⅱ 「私」が先生の心臓を断ち割って、そこから吹き出す熱い血潮を啜ることで、その中に含まれる先生の魂のDNAを(核情報を)「私」が「私」の遺伝子の中に取り入れよう(盗核しよう)とした。

から、である。これは第一命題の言い換えでないことに注意せねばならぬ。それは先生の「核」心に迫るための発展命題である。

♡「私は今自分で自分の心臟を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足です。」私がいつもここを朗読すると生徒に言うことを書いて終わりとしよう。これは先生の自死が無駄なものでない、意味ある行為である――即ち単純な罪障感による処罰なんどでない、ことを意味する。先生の自律的な自死によって吹き出す血潮は、「私」の顔に意識的に先生によって吹き掛けられ、そして先生の心臓停止と同時に、「私」の中にはヒラニア・ガルバ(黄金の胎児・宇宙卵・始まりである混沌)としての『新しい命』が宿る――断定する――「宿る」のである。本作を読む「あなた」の中には必ずその『新しい命』が宿る! でなければ、本作を読む価値は、全く、ない。――]

2010/06/16

230000アクセス突破記念 尾形亀之助編輯『月曜』第一卷第一號 編輯後記

本日は417アクセスという特異日(一日平均154.6)であったために、只今、230302と、一瞬にして230000アクセスを越えてしまった。「心」に集中しているためにどうなるかと思っていたが、かろうじて作製しておいたものが間に合った――

ブログ230000アクセス記念として「雑誌『月曜』第一卷第一號 編輯後記」を「心朽窩 新館」に公開した。

短いものながら、現在、尾形亀之助全集にも所収していないテクストであり、若き日の尾形亀之助の意気組みを伝える貴重な文章である。尾形ファンへのプレゼントとしては、決して小さなものではないと思っている。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月16日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十五回

Kokoro14_2   先生の遺書

    (五十五)

「‥‥私は此の夏あなたから二三度手紙(てかみ)を受け取りました。東京で相當の地位を得たいから宜しく賴むと書いてあつたのは、たしか二度目に手に入つたものと記憶してゐます。私はそれを讀んだ時何とかしたいと思つたのです。少なくとも返事を上げなければ濟まんとは考へたのです。然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです。御承知の通り、交際區域の狹いといふよりも、世の中にたつた一人で暮してゐるといつた方が適切な位(くらゐ)の私には、さういふ努力を敢てする餘地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。實をいふと、私はこの自分を何うすれば好(い)いのかと思ひ煩つてゐた所なのです。此儘人間の中に取り殘されたミイラの樣に存在して行かうか、それとも…其時分の私は「それとも」といふ言葉を心のうちで繰返すたびにぞつとしました。馳足(かけあし)で絶壁の端迄來て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のやうに。私は卑怯でした。さうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶したのです。遺憾ながら、其時の私には、あなたといふものが殆ど存在してゐなかつたと云つても誇張ではありません。一歩進めていふと、あなたの地位、あなたの糊口(ここう)の資(し)、そんなものは私にとつて丸で無意味なのでした。何(ど)うでも構はなかつたのです。私はそれ所の騒ぎでなかつたのです。私は状差へ貴方の手紙(てがみ)を差したなり、依然として腕組(うでぐみ)をして考へ込んでゐました。宅(うち)に相應の財産があるものが何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といつて藻掻(もが)き廻るのか。私は寧ろ苦々しい氣分で、遠くにゐる貴方に斯んな一瞥を與へた丈でした。私は返事を上げなければ濟まない貴方に對して、言譯のために斯んな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾(ぶしつけ)な言葉を弄するのではありません。私の本意は後を御覧になれば能く解る事と信じます。兎に角私は何とか挨拶すべきところを默つてゐたのですから、私は此怠慢の罪をあたなの前に謝したいと思ひます。

 其後私はあなたに電報(でんはう)を打ちました。有體(ありてい)に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語(ものかた)りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙(てかみ)を寄こして呉れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退(そつちの)けにして、何であなたが宅を空けらるものですか。その御父さんの生死(しやうし)を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。―私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症だからよく注意しなくつては不可いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の惱髓よりも、私の過去が私を壓迫(あつはく)する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我(が)を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。

 あなたの手紙(てがみ)、―あなたから來た最後の手紙―を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに己(や)めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、己(や)めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。

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[♡やぶちゃんの摑み:何よりも先生の遺書の冒頭の復元が大切である。「私」の叙述を素朴に信ずるなら、その遺書は、次のようになる(「‥‥」を連続した文章の前略表示とするならば直に改行せず続けてもよいと思われるが、実際にテクストとして表示してみると、明らかな息継ぎが見られるので、改行とした)。
   《冒頭復元開始》
 あなたから過去を問ひたゞされた時、答へる事の出來なかつた勇氣のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります。從つて、それを利用出來る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の經驗として教へて上る機會を永久に逸するやうになりますさうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉が丸で嘘になります。私は己を得ず、口で云ふべき所を、筆で申し上げる事にしました。
 私は此の夏あなたから二三度手紙を受け取りました。東京で相當の地位を得たいから宜しく賴むと書いてあつたのは、たしか二度目に手に入つたものと記憶してゐます。私はそれを讀んだ時何とかしたいと思つたのです。少なくとも返事を上げなければ濟まんとは考へたのです。然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです。御承知の通り、交際區域の狹いといふよりも、世の中にたつた一人で暮してゐるといつた方が適切な位の私には、さういふ努力を敢てする餘地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。實をいふと、私はこの自分を何うすれば好いのかと思ひ煩つてゐた所なのです。此儘人間の中に取り殘されたミイラの樣に存在して行かうか、それとも…其時分の私は「それとも」といふ言葉を心のうちで繰返すたびにぞつとしました。馳足で絶壁の端迄來て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のやうに。私は卑怯でした。さうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶したのです。遺憾ながら、其時の私には、あなたといふものが殆ど存在してゐなかつたと云つても誇張ではありません。一歩進めていふと、あなたの地位、あなたの糊口の資、そんなものは私にとつて丸で無意味なのでした。何うでも構はなかつたのです。私はそれ所の騒ぎでなかつたのです。私は状差へ貴方の手紙を差したなり、依然として腕組をして考へ込んでゐました。宅に相應の財産があるものが何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といつて藻掻(もが)き廻るのか。私は寧ろ苦々しい氣分で、遠くにゐる貴方に斯んな一瞥を與へた丈でした。私は返事を上げなければ濟まない貴方に對して、言譯のために斯んな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾な言葉を弄するのではありません。私の本意は後を御覧になれば能く解る事と信じます。兎に角私は何とか挨拶すべきところを默つてゐたのですから、私は此怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思ひます。
 其後私はあなたに電報を打ちました。有體に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙を寄こして呉れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退けにして、何であなたが宅を空けらるものですか。その御父さんの生死を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。―私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症だからよく注意しなくつては不可いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の惱髓よりも、私の過去が私を壓迫する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。
 あなたの手紙、―あなたから來た最後の手紙―を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに己めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。
   《復元終了》
但し、これはおめでたく「私」を信じた場合の復元案である。「‥‥」この箇所には、「私」が読者に示さなかった省略部分がある可能性がある。例えば、素朴な疑問としてこんなことをあなたは考えないか? これは遺書である。遺書は死にゆくものがその死を表明し、思いを残すためのものである。さすれば、死はそこで最重要表明である。死、特に自殺の場合、その表明は最優先される(Kの遺書を見よ)。死を最初に明言しない遺書と言うのは、何より、それを読むものにとって『不親切』である。特に本件のように異様に長い場合、その最後まで読みきらなければ実は執筆者が自殺することが分からないという『遺書』は『不親切』どころか『悪い遺書』の例となる。複雑な理由があって説明を要する場合でも、単刀直入に自死することを冒頭に述べることは遺書としての当然の体裁ではないか? ところが先生の遺書の場合、その冒頭で示されるのは、せいぜい「其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります。從つて、それを利用出來る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の經驗として教へて上る機會を永久に逸するやうになりますさうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉が丸で嘘になります。私は己を得ず、口で云ふべき所を、筆で申し上げる事にしまし」や、次章の「あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臟を立(たち)割つて、温かく流れる血潮を啜らうとしたからです。其時私はまだ生きてゐた。死ぬのが厭であつた。それで他日を約して、あなたの要求を斥ぞけてしまつた。私は今自分で自分の心臟を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足です」という言辞だけである。勿論、先生が自死を「私」に『止められたくない』という絶対的意思はある。さればこそ、先生はそれを避けたとも言い得るかも知れない。しかし、送られた手紙(「私」が遺書としてこれを厳しく意識する以前には飽くまで手紙である)をどう読むかは「私」の自由であって、実際に「私」はその末尾を読んで当たり前のこと乍ら、先生の自死を直覚し、東京へと旅立つのである。ところが、ここに新聞小説読者と単行本読者の大きな違いが生じてくることになる。即ち当時の読者には、その遺書の最後を読むすべがない――只管、読み進む外は、先生の死の意味を知ることは出来ないのである。ここで初めて我々は真っ正直に馬鹿正直にゆっくらと最初から先生の覚悟の遺書を読み進める「私」となる他はない――「私」と一体になる――恒星を食べて生きているバルンガが太陽と一体になるように――のである。だからこそ遺書を読んだ後のシーンに客観的に「私」を描く展開は不要となる。既にあなたは「私」となりきった後だからである――。
この特殊性は新聞小説として読者を最後まで読ませるに、実に意地悪く巧妙にして憎い手法である。しかし、作中の先生は、飽くまで漱石ではない。小説として遺書を書いているのでは、毛頭ない。とすれば、ここ、この遺書の冒頭に、何か――私の自殺を止めようとすることは最早不能であることを語る言葉――省略された言辞があったのではないか?――何より、私が先生であったならば、必ずそれを書いて、要らぬ無駄な「私」の心配を――「お止めなさい」――と「私」に優しく語りかけるであろう、と思うのである。但し、これは相応の死の覚悟の中で書いているその冒頭部であり、「それ所の騒ぎでなかつた」直後の死の決断の中で書かれている端緒であるから、そんな「私」への配慮は働かぬとも言われるかも知れない(しかし、そのような配慮は実際に「私」への謝罪として本章に表れているのだ)。だから必ずや省略されているのだ、とは言い切れぬ。しかし、このように検証してくると、逆にその可能性は寧ろ高いとさえ言い得る気が私にはしてくるのである。
以上、そのような「私」による先生の遺書の恣意的な省略の可能性を我々は射程に入れて先生の遺書を読み解かなくてはならない、ということである。
それは「こゝろ」を初めて読んだ際、誰もが感じる、ある不審にも基づく。
この(五十)の冒頭は引用を表わす通常の鉤括弧(「こゝろ」では二重鉤括弧)で始まりながら、章末には、閉じるための鉤括弧がない。実は最終章(百十)を除いて総てがそうなっている事実に着目せねばならぬ(最終章のみは全体が「 」で括られている)。これは何を意味するか? 勿論、最初の鍵括弧は、これが『遺書であること』を常に読者に喚起する必要上のものであり、更に最後の鍵括弧の消失は逆に連載小説として次回に『続いていること』を同じく喚起する必要上のものであるとも言われるであろう。しかしその手法は同時に次のような可能性を強く示唆するものでもある。即ち、
遺書は全文ではない、その途中に、「私」が施した恣意的な省略部分が存在する可能性があるという事実を示している可能性
である。私は「省略がある」と言っているのではない。
私は「省略の可能性を常に射程に入れるような批判的な注意深いテクストの読みが不可欠である」ということを、ここから教訓としなくてはならない
と言いたいのである。これは私には過去30年以上、常に本作に向かう時の、自戒の言葉でもあり、私が「こゝろ」のテクスト論的解釈へ許容する外延であると言ってよい(言っておけば、この外延には秦恒平のような「私」と靜の結婚という仮定は微塵も含まれない)。
以下、私の推定する先生の最期の時系列を以下に示しておく。但し、(四十九)の「♡やぶちゃんの摑み」に記した漱石がやらかした齟齬を無視したものである。
明治45(1912)年 35歳
7月30日(火)        明治天皇崩御。
9月13日(金)        乃木大将殉死の報に触れる。同日、私へ電報を打つ。
                「チヨツトアヒタイガコラレルカ」
9月14日(土)か       私からの電報を受け取る。同日、再び私へ電報を打つ。
  15日(日)        「コナイデモヨロシイ」         
9月16日(月)か       自殺を決意、遺書の執筆を始める。
  17日(火)
9月25日(水)~26日(木) 遺書を書き上げる。
9月26日(木)~27日(金) この間に遺書郵送。
9月26日(木)~28日(土) この間に自殺。
但し、先生には乃木大将殉死の報に触れた際に、漠然としたもの乍ら、自死へのスイッチが入っていた。でなければ「私」に逢って秘密の過去を告白する気になるはずがないからである。自死と過去の告白はそのような不可分のものであることは、最早、言うまでもないことだ。であるから、実際に遺書を書き終わる頃の先生には自分が自殺を決意したのは乃木の殉死の日である、という意識が刷り込まれたはずである。だから先生は遺書の最後で「私が死なうと決心してから、もう十日以上になります」という言い方をしているのである。そういう意味に於いて私の推定には齟齬はないと考えている(後述する(四十九)の「♡やぶちゃんの摑み」の注も必ず参照のこと)。
♡「二三度手紙を受け取りました」三度である。一通目は、
①(四十)で帰郷後、7月20日(土)~29日(金)の間、恐らくその前半の何処かで書いた「原稿紙へ細字で三枚ばかり國へ歸つてから以後の自分といふやうなものを題目にして書き綴つた」もの。「その手紙のうちには是といふ程の必要の事も書いてないのを、私は能く承知してゐた。たゞ私は淋しかつた。さうして先生から返事の來るのを豫期してかゝつた。然しその返事は遂に來なかつた」書簡。
であり、次は、
②(四十三)で、8月中下旬、「私」が「父や母の手前」社会での相応の「地位を出來る丈の努力で求めつゝある如くに裝ほはなくてはならな」くなり、仕方なく、しぶしぶ「先生に手紙を書いて、家の事情を精しく述べた。もし自分の力で出來る事があつたら何でもするから周旋して呉れと」依頼する書状である。その時、「私は先生が私の依賴に取り合ふまいと思ひながら此手紙を書いた。又取り合ふ積でも、世間の狹い先生としては何うする事も出來まいと思ひながら此手紙を書いた。然し私は先生から此手紙に對する返事が屹度來るだらうと思つて書いた」ものであったが、やはり遂に先生からの来信はなかった書簡。
である。最後の三通目は、
③乃木大将殉死の翌日である9月14日(日)、先生より「チヨツトアヒタヒガコラレルカ」との電報に対し、「出來る丈簡略な言葉で父の病氣の危篤に陷りつゝある旨も付け加へたが、夫でも氣が濟まなかつたから、委細手紙として、細かい事情を其日のうちに認めて郵便で出した」書簡。
の以上三通を指す。
♡「あたな」勿論、「あなた」の誤植。
♡「此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから」これは遺書の最後に表われる遺書を書くための一人の時間の確保を言う。即ち、遺書が長いものとなることが分かっていた先生は丁度、靜の「叔母が病氣で手が足りないといふ」渡りに舟――その渡し守はカロン――の話を耳にし、自分から「勸めて遣」ることで、落ち着いて遺書執筆するための時間を確保し得た。叔母のところに自然に靜を送り出すための仕儀に、一日二日が必要であったことを言うのである。
♡「私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です」繰り返さないが、この叙述はおかしい。先行する(四十九)の「♡やぶちゃんの摑み」の私の恨みの注を是非ご覧あれ。]

2010/06/15

夏目漱石 心 先生の遺書(三十七)~(五十四)――(単行本「こゝろ」「中 兩親と私」相当パート) 附♡やぶちゃんの摑み

朝日新聞連載 夏目漱石『心 先生の遺書(三十七)~(五十四)――(単行本「こゝろ」「中 兩親と私」相当パート) 附♡やぶちゃんの摑み』を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

遂に私たちは――「先生の遺書」に辿り着いた――

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月15日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十四回

Kokoro14   先生の遺書

    (五十四)

 病室には何時の間にか醫者が來てゐた。なるべく病人を樂にするといふ主意から又浣膓を試みる所であつた。看護婦は昨夜の疲れを休める爲に別室で寐てゐた。慣れない兄は起つてまご/\してゐた。私の顏を見ると、「一寸手を御貸し」と云つた儘、自分は席に着いた。私は兄に代つて、油紙(あぶらかみ)を父の尻の下に宛てがつたりした。

 父の樣子は少しくつろいで來た。三十分程枕元に坐つてゐた醫者は、浣膓の結果を認めた上、また來ると云つて、歸つて行つた。歸り際に、若しもの事があつたら何時でも呼んで呉れるやうにわざ/\斷つてゐた。

 私は今にも變がありさうな病室を退いて又先生の手紙を讀まうとした。然し私はすこしも寛(ゆつ)くりした氣分になれなかつた。机の前に坐るや否や、又兄から大きな聲で呼ばれさうでならなかつた。左右して今度呼ばれゝば、それが最後だといふ畏怖が私の手を顫(ふる)はした。私は先生の手紙をたゞ無意味に頁(ページ)丈(だけ)剥繰(はぐ)つて行つた。私の眼は几帳面に枠の中に篏められた字畫(じくわく)を見た。けれどもそれを讀む餘裕はなかつた。拾ひ讀みにする餘裕すら覺束なかつた。私は一番仕舞の頁迄順々に開けて見て、又それを元の通りに疊んで机の上に置かうとした。其時不圖(ふと)結末に近い一句が私の眼に這入つた。

 「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう」

 私ははつと思つた。今迄ざわ/\と動いてゐた私の胸が一度に凝結したやうに感じた。私は又逆に頁をはぐり返した。さうして一枚に一句位(くらゐ)づゝの割で倒(さかさ)に讀んで行つた。私は咄嗟の間(あひだ)に、私の知らなければならない事を知らうとして、ちら/\する文字(もんじ)を、眼で刺し通さうと試みた。其時私の知らうとするのは、たゞ先生の安否だけであつた。先生の過去、かつて先生が私に話さうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取つて、全く無用であつた。私は倒(さかさ)まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に與へて呉れない此長い手紙を自烈(じれつ)たさうに疊んだ。

 私は又父の樣子を見に病室の戸口迄行つた。病人の枕邊は存外靜かであつた。賴りなささうに疲れた顏をして其處に坐つてゐる母を手招ぎして、「何うですか樣子は」と聞いた。母は「今少し持ち合つてるやうだよ」と答へた。私は父の眼の前へ顏を出して、「何うです、浣膓して少しは心持が好(よ)くなりましたか」と尋ねた。父は首肯(うなづ)いた。父ははつきり「有難う」と云つた。父の精神は存外朦朧としてゐなかつた。

 私は又病室を退いて自分の部屋に歸つた。其處で時計を見ながら、汽車の發着表を調べた。私は突然立つて帶を締め直して、袂(たもと)の中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で醫者の家へ馳(か)け込んだ。私は醫者から父がもう二三日(にさんち)保(も)つだらうか、其處のところを判然(はつきり)聞かうとした。注射でも何でもして、保たして呉れと賴まうとした。醫者は生憎(あひにく)留守であつた。私には凝として彼の歸るのを待ち受ける時間がなかつた。心の落付もなかつた。私はすぐ俥(くるま)を停車場(ステーシヨン)へ急がせた。

 私は停車場(ステーシヨン)の壁へ紙片(かみぎれ)を宛てがつて、其上から鉛筆で母と兄あてゞ手紙を書いた。手紙はごく簡單なものであつたが、斷らないで走るよりまだ増しだらうと思つて、それを急いで宅へ屆けるやうに車夫に賴んだ。さうして思ひ切つた勢ひで東京行の汽車に飛び乘つてしまつた。私は轟々(ぐわう/\)鳴る三等(しう)列車の中で、又袂から先生の手紙を出して、漸く始めから仕舞迄眼を通した。

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[♡やぶちゃんの摑み:遂に先生の死が先生の手紙の直接話法によって我々の眼に飛び込んでくる。しかし、恐らく多くの読者には、これは実は衝撃ではない。それは既に十二分に伏線として示されてきたからである。だからこそ我々は、先生の単なる死という客観的興味――「どうやって死んだか」――では、なく――「どうして死んだのか」――への暗部へと美事に導かれて、遺書のラビリンスへと導かれて行けるのである。――いや、当時の読者には(……いや、今の読者にとっても実は余り変わらないように私は思う――君は危篤状態の父を置いて、何処でどう死ぬか分かりもしない恋人の家なんぞに、走れるかね?……)十分に衝撃的で意味不明であったのではないか? 危篤状態の実の父を捨てて、赤の他人の、既に死んでいるに違いない、何処で死んでいるかも分からぬ男を求めて、漠然と東京へ旅立ってしまう「私」は――。「私」はこの時、漠然と、この遺書を読めば、先生が何処で死んだかを推察出来るとでも思っていたのかも知れない(因みに、私は先生が最後に示した自死の厳しい条件から、遺書中(省略された部分がある可能性も射程に入れても)から先生の自殺塲所は推察することは不可能であると断言する。またそれは、先生ならそれは出来ないように書く、という二重のセキュリティが掛っていると言ってもよい)。
 なお、上の通り、この回からタイトル・バックのイラストが変更されている。このイラスト、はっきり言ってミョウにヘン。好きくない。話柄の展開を考えての模様替えでさえない。恐らく、編集者の気分――一定ではないが、月末か月半ば辺りの、季節的な気分の変わる辺りで――恣意的に変更しているのかも知れない。
♡「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう」第(百十)回、遺書の終わりから二つ目の段落の中間部に現われる文章であるが、正確には現物では「此手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう。」と「あなた」が漢字表記となっていて、違いが認められる。
♡「三等(しう)」勿論、「たう」のルビ誤植。この大事なシーンの掉尾に如何にも致命的な情けない誤植である。前章注で示したように、こうした杜撰な校正に対して、漱石の異常な癇癪は相当に昂じて来ていたものと推測される(想像するだにコワイ)。それは半月ほど後の7月9日第七十七回の冒頭の致命的誤植を迎えて、遂に爆発をすることとなる。それはまた、その時に――。
♡「又袂から先生の手紙を出して、漸く始めから仕舞迄眼を通した」やぶちゃんの最後の摑みがここに待っている!……私が「私」だったら、そうして実際に「私」のように「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう」の部分を見て、動転し、こうして汽車に飛び乗ってしまったなら……
――私ならこの長大な遺書を「始めから仕舞迄眼を通」して読む『前に』、必ず最終部分を何とか読みこなして、現在の先生の安否を兎も角知ろうとする! 絶対にする!
――いや! 「私」も恐らくそうしたはずである!
――だとすれば――
――『「私」は遺書の最後をどこから読んだか?』
が大きな問題とならなくてはならぬ。
 私は、私が「私」なら、「死んだ積で生きて行かうと決心した」という叙述に着目して、以下の「下 先生と遺書」の「五十五」(第(百九)回相当)以下最後までを必死で読み取ろうとしたと思うのである(以下、引用も「心」最終二回分を底本としたが、誤植(と思われる)部分は正した。(百十)の頭の鍵括弧をはずし、(百九)回と敢えて結合した)。
 勿論、「心」の連載を読む人間には、これは出来ぬ。しかしどうだろう? 単行本「こゝろ」を読む人にはこれが出来るのだ! 実際、「こゝろ」を読んだことのある人の中には、遺書の最後を先読みしてしまった人は多いはずだ(若き日の私もそうであった。私の後輩で現在の職場の20代の国語の女性教師もだ!)。いや、それは正しいことである!――この先生が心配な「私」である若き日の私やその女先生は、当然、その最後の部分を読まぬわけには行かなかったのだ! 即ち、作中の「私」の立場に真になってみるためには是が非でも、この作業は必要な仕儀なのだとさえ、私は思うのである。
   *
「死んだ積で生きて行かうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。然し私が何の方面かへ切つて出やうと思ひ立つや否や、恐ろしい力が何處からか出て來て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないやうにするのです。さうして其力が私に御前は何をする資格もない男だと抑へ付けるやうに云つて聞かせます。すると私は其一言(げん)で直ぐたりと萎れて仕舞ひます。しばらくして又立ち上がらうとすると、又締め付けられます。私は齒を食ひしばつて、何で他(ひと)の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷かな聲で笑ひます。自分で能く知つてゐる癖にと云ひます。私は又ぐたりとなります。
 波瀾も曲折もない單調な生活を續けて來た私の内面には、常に斯(かう)した苦しい戰爭があつたものと思(おもつ)て下さい。妻(さい)が見て齒痒がる前に、私自身が何層倍齒痒い思ひを重ねて來たか知れない位(くらゐ)です。私がこの牢屋の中に凝としてゐる事が何うしても出來なくなつた時、又その牢屋を何うしても突き破る事が出來なくなつた時、必竟私にとつて一番樂な努力で遂行出來るものは自殺より外にないと私は感ずるやうになつたのです。貴方は何故と云つて眼を睜(みは)るかも知れませんが、何時も私の心を握り締めに來るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道丈を自由に私のために開けて置くのです。動かずにゐれば兎も角も、少しでも動く以上は、其道を歩いて進まなければ私には進みやうがなくなつたのです。
 私は今日(こんにち)に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も樂な方向へ進まうとした事があります。然し私は何時でも妻に心を惹(ひ)かされました。さうして其妻を一所に連れて行く勇氣は無論ないのです。妻に凡てを打ち明ける事の出來ない位な私ですから、自分の運命の犠牲として、妻の天壽を奪ふなどゝいふ手荒な所作は、考へてさへ恐ろしかつたのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻(まは)り合せがあります。二人を一束(ひとたば)にして火に燻(く)べるのは、無理といふ點から見ても、痛ましい極端としか私には思へませんでした。
 同時に私だけが居なくなつた後(のち)の妻を想像して見ると如何にも不憫でした。母の死んだ時、是から世の中で賴りにするものは私より外になくなつたと云つた彼女の述懷を、私は膓(はらわた)に沁み込むやうに記憶させられてゐたのです。私はいつも躊躇しました。妻の顏を見て、止して可かつたと思ふ事もありました。さうして又凝と竦(すく)んで仕舞ひます。さうして妻から時々物足りなさうな眼で眺めらるのです。
 記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散歩した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後(うしろ)には何時でも黑い影が括(く)ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を歩いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、嘘を吐(つ)いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度(きつと)會ふ積でゐたのです。
 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな氣がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可(よ)からうと調戲(からか)ひました。
 私は殉死といふ言葉を殆ど忘れてゐました。平生使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談(ぜうだん)を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答へました。私の答も無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持がしたのです。
 それから約一ケ月程經ちました。御大葬の夜(よる)私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思はず妻に殉死だ/\と云ひました。
 私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪られて以來、申し譯のために死なう/\と思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月(としつき)を勘定して見ました。西南戰爭は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間死なう/\と思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刃(やいば)を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方(どつち)が苦しいだらうと考へました。
 それから二三日して、私はとう/\自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己れを盡した積です。
 私は妻を殘して行きます。私がゐなくなつても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に殘酷な驚愕を與へる事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬ積です。妻の知らない間に、こつそり此世から居なくなるやうにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思はれたいのです。氣が狂つたと思はれても滿足なのです。
 私が死なうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自叙傳の一節を書き殘すために使用されたものと思つて下さい。始めは貴方に會つて話をする氣でゐたのですが、書いて見ると、却(かへつ)て其方が自分を判然(はつきり)描(えが)き出す事が出來たやうな心持がして嬉しいのです。私は醉興(すゐきよう)に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。渡邊華山は邯鄲(かんたん)といふ畫(ゑ)を描(か)くために、死期を一週間繰り延べたといふ話をつい先達(せんだつ)て聞きました。他(ひと)から見たら餘計な事のやうにも解釋できませうが、當人にはまた當人相應の要求が心の中(うち)にあるのだから已むを得ないとも云はれるでせう。私の努力も單に貴方に對する約束を果すためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
 然し私は今其要求を果しました。もう何にもする事はありません。此手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世にはゐないでせう。とくに死んでゐるでせう。妻は十日ばかり前から市ケ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病氣で手が足りないといふから私が勸めて遣つたのです。私は妻の留守の間(あひだ)に、この長いものゝ大部分を書きました。時々妻が歸つて來ると、私はすぐそれを隱しました。
 私は私の過去を善惡ともに他(ひと)の參考に供する積です。然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何(なん)にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の祕密として、凡てを腹の中(なか)に仕舞つて置いて下さい。」
   *
……そうして……そうして、あなたは深い溜息をつく……そして、さあ、徐ろに読み出そう……だんだんに車窓にとばりが下りてくる……暗くなる車内……轟々とけたたましい三等列車の中……硬い座席の、そのぽっと灯った薄暗い裸電球の、その下で……先生の遺書を、始めから……]

2010/06/14

遅すぎた

僕があなたを愛するのが少しだけ遅過ぎたやうだ――「心」の先生のやうに――

あらゆる日本の圧力団体や過激派・テロリストへ告ぐ

沖繩へ! 沖繩へ!

愚にもつかぬ教祖の教えや内ゲバや殺戮の政治美学なんぞは、捨てたがいい!

そして増殖せんとする米軍基地ヘ完膚なきまでに“NO!”を!

君の身を挺して叫ぼうではないか!

やんばるを! 珊瑚を! ジュゴンを守るために!――

その時――僕らは確かに正しくウルトラマンになる!――

金城さん、僕等の正念場が来ました――

僕は

この地球に「さよなら」がしたいのです――あの「怪獣使いと少年」のように、ね――

お答えしましょう

僕と言う人生は確かに失敗でした――

「心」第(八十一)回 ♡やぶちゃんの摑み メーキング映像

「傳通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻つて又富坂の下へ出ました」この「植物園」は小石川植物園のこと。恐らく当時は正式には「東京帝國大學理科大學附屬植物園」であったか(現在は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」である)。古くは江戸幕府の小石川御薬園(おやくえん)で、更に八代将軍吉宗が享保7(1722)年に町医師小川笙船の目安箱投書を受け、園内に小石川養生所を設けた。明治201877)年の東京帝国大学開設と共に同大学理科大学(現・理学部)の附属植物園となって一般にも公開されるようになった。本作内時間当時は既に明治301897)年に本郷の大学敷地内にあった植物学教室が小石川植物園内に移転、講義棟が作られて本格的な植物学講義が行われていた(以上ウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」を参照した)。私は先生の下宿を中冨坂町(現在の北部分、現在の文京区小石川二丁目の源覚寺(蒟蒻閻魔)から南西付近に同定しているが、そこから北の善光寺坂通りに出て横断、現在の小石川三丁目を北西に横切って行くと伝通院裏手になる。そこから北東に向かうと小石川植物園のすぐ脇を南東から北西に抜ける通りに出られる。植物園の西の角で北東から南西に走る網干坂にぶつかって現在の営団丸ノ内線茗荷谷駅方向へ湯立坂を南へ登り、現在の春日通り(但し当時は旧道で現在より南側に位置していた)へ出、南東に下れば冨坂から冨坂下へ至り、そこから北へ下宿に戻るルートと思われる。これは地図上で大雑把に実測しても実動距離で5㎞は確実にある。当時の散歩の5㎞は大した距離ではないが、夕食後の腹ごなし散歩としては45分から1時間は短かくはない。私がこのルートに拘るのは、一つは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏が「このコースはせいぜい二、三キロメートルの距離』で『当時としてはむしろ短い距離とも言える』から、『あるいは、先生にとっての話題も重要性と、要領を得ないKの返答ぶりとが、実際以上に長く感じさせたということか。』と注されているのが納得出来ないからである。漱石がこんな心理的時間を「散歩としては短かい方ではありませんでしたが、其間に」という文脈で用いるとは思われない。尚且つ、ここ伝通院は漱石が実際に下宿した先でもあるのである。藤井氏のルートは恐らく私の考えているルートとは違い、もっと南西寄り(植物園から離れた通り)に出て、尚且つ、植物園も西の角まで至らずにすぐのところで春日通りに抜ける吹上坂か播磨坂を通るコースを考えておられるのではないかと思われるが、私はこの推測に異議を唱えるのである。

 ――何故か――

 それは私がもう一つ、このコースに拘る理由があるからである。それは――このコースが、実はあるコースの美事な対称形を――数学でいう極座標の方程式 r2 = 2a2cos2θ で示されるlemniscate レムニスケート(ウィキ「レムニスケト」)若しくは無限記号を――成すからである。もうお分かり頂けているであろう。そうだ。あの御嬢さんを呉れろというプロポーズをしてから先生がそわそわしつつ、歩いたあの「いびつな圓」の、美事な対称形である(第(百)回=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十六)。後に地図で示したいと思ってはいるが、あの距離も凡そ5㎞で、更に稽古帰りの御嬢さんとプロポーズ直後の先生が出逢うのが「富坂の下」=0座標である。ここからほぼ北西に今回のルートが、南東に後の「いびつな圓」ルートが極めて綺麗な対称が描かれてゆくのである。私はこれを漱石の確信犯であると思うのである。新しい私の謎である。――いや!――そこに今一つのルートが加わるであろう――勿論、お分かりだろうが……しかし、それはまた、そこで……。

明日「心」――「こゝろ 中 両親と私」該当パート――終了 又は 「K」は“KUWAIBUTU”の「K」

――明日で連載「心」は単行本「こゝろ」の「中 両親と私」該当パートを無事終了する予定である。自動更新システムを用いているけれど、僕の「やぶちゃんの摑み」部分は、現在進行形で読み進めながら、試行錯誤、常に新しい思いや発明が湧き上がってくるので、毎日、夜になると一回書いて保存してある分にも手を加えているんだ。決して一ヶ月前の書き古した損料着なんどではない。今日も今、明日の第(五十四)回の摑みを全面的に改稿した。――(仕事しろ? 仕事は厭になる程してるよ。昨日、文化祭が終わったのだ。8日間休みなしだった。今日は勤務は3:00迄であったのだ)――

――Kは“KUWAIBUTU”(怪物)のK――昨日から僕の脳髄に黒い染みとなった妄想――“Frankenstein: or The Modern Prometheus 「フランケンシュタイン、或いは現代のプロメテウス」はフランケンシュタイン』(Frankenstein)は、イギリス女性小説家Mary Wollstonecraft Godwin Shelleyメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(179718511797年は寛政9年に、1851年は嘉永4年相当)が1818年(本邦では文化15・文政元年に相当)年に匿名で出版したもので、現在我々が知っているストーリーは1831年の改訂版によるものである(但し、実際には原作ではフランケンシュタインは博士ではなく一学生で、正当な科学者でさえない)。以下、ウィキフランケンシュタインの梗概を引用しようじゃないか(下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

『スイスの名家出身の青年、ヴィクター・フランケンシュタインは科学者を志し故郷を離れてドイツで自然科学を学んでいた。だが、ある時を境にフランケンシュタインは、生命の謎を解き明かし自在に操ろうという野心にとりつかれる。そして、狂気すらはらんだ研究の末、『理想の人間』の設計図を完成させ、それが神に背く行為であると自覚しながらも計画を実行に移す。自ら墓を暴き人間の死体を手に入れ、それをつなぎ合わせることで11月のわびしい夜に怪物の創造に成功した

しかし、誕生した怪物は、優れた体力人間の心、そして、知性を持ち合わせていたが筆舌に尽くしがたいほど容貌が醜かった。そのあまりのおぞましさにフランケンシュタインは絶望し、怪物を残したまま故郷のスイスへと逃亡する。しかし、怪物は強靭な肉体を与えられたがために獣のように生き延び、野山を越えて遠く離れたフランケンシュタインの元へ辿り着いた。自分の醜さゆえ人間達からは忌み嫌われ迫害され、孤独のなか自己の存在に悩む怪物は、フランケンシュタインに対して自分の伴侶となり得る異性の怪物を一人造るように要求する。怪物はこの願いを叶えてくれれば二度と人前に現れないと約束するが、更なる怪物の増加を恐れたフランケンシュタインはこれを拒否してしまう(フランケンシュタイン・コンプレックス)。創造主たる人間に絶望した怪物は、復讐のためフランケンシュタインの友人・妻を次々と殺害。憎悪にかられるフランケンシュタインは怪物を追跡するが、北極に向かう船上で息を引き取る。そして、創造主から名も与えられなかった怪物は、怒りや嘆きとともに氷の海に消えた

   《引用終了》

以下、これを強引に「心」に書き換えてみようじゃないか。

新潟の名家出身の青年であった先生は学者を志し故郷を離れて東京で人間の「心」を解明する心理学を学んでいた。だが、ある時叔父に欺かれ、更には故郷の人間達からは忌み嫌われ迫害されたのを境に先生は、激しい人間の「心」への不信に陥ることとなった。一方、怪物Kは自分の頑なさゆえに養家を欺き、故郷の人間達からは忌み嫌われ迫害されて、遂には実家からも勘当同然となったが、強靭な肉体を与えられたがために獣のように生き延び、やはり故郷新潟の野山を越えて遠く離れた東京の先生の下宿へ辿り着いた。生命の謎を解き明かし自在に操ろうという野心にとりつかれていた先生は、知性ばかりが先行する、どこか人間の心を欠いている(ように見えると先生が判断した)怪物Kを『理想の人間』にすべく、その設計図を完成させ、怪物Kの心を操作する計画を実行に移す。自ら『理想の人間』の心と思い込んだパーツをつなぎ合わせることで先生は遂に怪物の創造に成功したしかし、誕生した怪物は、優れた体力と人間の心、そして、知性を持ち合わせているように先生には思われてきて、あろうことかその怪物Kに対して激しい憎悪にかられるに至る。そして遂に怪物Kは先生の危惧の通り、自分の伴侶となり得る異性の怪物を一人欲しいと要求するに至る。しかし、それは何と先生の愛する靜であった。だが怪物Kは自身の理想と現実の二項対立の中で激しく煩悶、孤独のなか自己の存在に悩む怪物Kは、創造主である先生にその助言を求める。しかし創造主でありながら、その被造物に我が身が滅ぼされるかもしれないと畏れる先生のFrankenstein Complex(フランケンシュタイン・コンプレックス)が「精神的に向上心のない者は、馬鹿だ」という創造主としての第一命題を突きつけて拒否してしまう。創造主たる人間に絶望した怪物K、創造主から名も与えられなかった怪物は、怒りや嘆きとともに自死する。しかし怪物Kは霊となって復讐のため先生の友人・妻にさえ暗い影を落とし続けるのであった。先生は自身の心に纏い付く怪物Kの影を追跡するが、明治という時代の船が沈み行くに際会して、その怪物Kの生成と消滅、更にはそうした時代精神の中にあった自己の存在に思い至り、その明治と言う船の沈み行く船上で自ら命を絶って息を引き取るという生き方を選び取るのであった。

……う~む、我乍ら、こりゃ遣り過ぎだわい――(今7:30。飯はどうしたって? 今日は妻が飲み会でね。こういうのをやりだすと僕は飯なんか食わんでも全然平気なんだわ)――

――明日の午前中には『「心」(「中 兩親と私」パート初出) 附やぶちゃんの摑み』も完全公開する予定である。――(明日は仕事はどうしたんだってか? 明日明後日は文化祭の代休でえ! 明日の午後には妻(さい)と熱海の温泉三昧じゃ! ところがじゃ、明後日には熱海から12:30の部活練習のために学校へ行かねばならんという、これまた、終わりがトンデモ・サイテーの温泉じゃ! 文句あっか?! バーカ!)

先生はフランケンシュタイン博士でありKはフランケンシュタインの「怪物」である

今日は記念すべき日です。何故ならもう御覧になつた通り、日本人に初めて、あの先生の遺書が開示された日だからです……

……ところが……そんな日に私は――

先生はフランケンシュタイン博士でありKはフランケンシュタインの「怪物」である。

という命題を大眞目に考へ始めてゐるのです。……私は眞劍です……いや、しかし私には是を落着いて考へるだけの世間的時間はないやうにも思はれる……

――君、好ければ、お採りなさい――

仮想敵国の対日本への第一撃

ターゲット1 日本国内の米軍基地及び自衛隊基地への戦術核攻撃

ターゲット2 日本国内に散在する原子力発電所の通常兵器による各個攻撃

・1への注:当たり前田のクラッカー! 沖繩? 奄美? やんばるの森もサンゴも「そんなの関係ねえ!」(どっかの馬鹿な幕僚長も使った言葉だな)

・2への注:安上がりで致命的。こんなに経済的で効果的な攻撃をしない馬鹿はいない。因みに原子力発電所の側面の壁がバズーカ砲でも壊れないという自慢話は記者発表で聞いたことがあるが、炉の上部が通常ミサイル攻撃に対して安全であるという話を僕は過分にして知らぬ。いや、その時、意地悪な記者が「飛行機が突っ込んで来たららどうなるか」という質問に、暫く黙った担当者が「そういうことは想定していません、」と平然と(内心、冷や汗)で答えたことだけを思えている。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月14日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十三回

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  先生の遺書

    (五十三)

 其日は病人の出來(でき)がことに惡いやうに見えた。私が厠へ行かうとして席を立つた時、廊下で行き合つた兄は「何處へ行く」と番兵のやうな口調で誰何(すゐか)した。

 「何うも樣子が少し變だから成るべく傍(そば)にゐるやうにしなくつちや不可ないよ」と注意した。

 私もさう思つてゐた。懷中した手紙は其儘にして又病室へ歸つた。父は眼を開けて、そこに並んでゐる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明して遣ると、父は其度に首肯(うなづ)いた。首肯かない時は、母が聲を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。

 「何うも色々御世話になります」

 父は斯ういつた。さうして又昏睡状態に陷つた。枕邊を取り卷いてゐる人は無言の儘しばらく病人の樣子を見詰めてゐた。やがて其中の一人が立つて次の間へ出た。すると又一人立つた。私も三人目にとう/\席を外して、自分の室へ來た。私には先刻(さつき)懷へ入れた郵便物の中を開けて見やうといふ目的があつた。それは病人の枕元でも容易に出來る所作には違なかつた。然し書かれたものゝ分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで讀み通す譯には行かなかつた。私は特別の時間を偸(ぬす)んでそれに充てた。

 私は纖維の強い包み紙を引き掻(か)くやうに裂き破つた。中から出たものは、縱横(たてよこ)に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿樣のものであつた。さうして封じる便宜のために、四つ折に疊まれてあつた。私は癖のついた西洋紙(せいやうし)を、逆に折り返して讀み易いやうに平たくした。

 私の心は此多量の紙と印氣(いんき)が、私に何事を語るのだらうかと思つて驚ろいた。私は同時に病室の事が氣にかゝつた。私が此(この)かきものを讀み始めて、讀み終らない前に、父は屹度(きつと)何うかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父からか、呼ばれるに極つてゐるといふ豫覺があつた。私は落ち付いて先生の書いたものを讀む氣になれなかつた。私はそわ/\しながらたゞ最初の一頁(ページ)を讀んだ。其頁は下(しも)のやうに綴られてゐた。

 「あなたから過去を問ひたゞされた時、答へる事の出來なかつた勇氣のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語(ものかた)る自由を得たと信じます。然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります。從つて、それを利用出來る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の經驗として教へて上(あげ)る機會を永久に逸するやうになりますさうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉が丸で嘘になります。私は己を得ず、口で云ふべき所を、筆で申し上げる事にしました」

 私は其處迄讀んで、始めて此長いものが何のために書かれたのか、其理由を明かに知る事が出來た。私の衣食の口、そんなものに就いて先生が手紙を寄こす氣遣ひはないと、私は初手(しよて)から信じてゐた。然し筆を執ることの嫌ひな先生が、何うしてあの事件を斯う長く書いて、私に見せる氣になつたのだらう。先生は何故私の上京する迄待つてゐられないだらう。

 「自由が來たから話す。然し其自由はまた永久に失はれなければならない」

 私は心のうちで斯う繰返しながら、其意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲はれた。私はつゞいて後を讀まうとした。其時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の聲が聞こえた。私は又驚いて立ち上つた。廊下を駈け拔けるやうにしてみんなの居る方へ行つた。私は愈(いよ/\)父の上に最後の瞬間が來たのだと覺悟した。

[♡やぶちゃんの摑み:遂に、遺書の冒頭が、我々の前に直に示される。気をつけよ! この遺書の冒頭は繰り返されない! 我々は、先生の遺書の完全なる復元を、心がけねばならない!(伊井弥四郎口調で)

上の通り、この章の最後には飾り罫がない。

♡「中から出たものは、縱横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿樣のものであつた。さうして封じる便宜のために、四つ折に疊まれてあつた。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して讀み易いやうに平たくした」当時、漱石が用いていた原稿用紙は、特注で200字詰のものであった(例えば芥川龍之介が遺書に用いているものも200字詰で、200詰原稿用紙は当時は極めてポピュラーなものである)。先生の遺書は、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の藤井氏の試算(同書185p)によればB4原稿用紙(400字詰)で約330枚とある。さすれば200詰原稿用紙であれば、単純計算で660枚(実際にはそれ以上に増える可能性の方が高いと思われる)、現在、私の所持するさる出版社から貰った原稿執筆用の比較的厚みのある200詰原稿用紙は100枚で凡そ9㎜弱である。先生の手紙は「西洋紙」とあるから、インディアン・ペーパーのような極薄い素材であったと考えて仮に7㎜としても、「封じる便宜のために、四つ折に疊まれてあつた」(660枚を纏めて四つ折にはし得ないが、とりあえず単純計算すると)となれば、7㎜×6.6×4=184.8㎜≒18㎝、分冊して封入、包装した「纖維の強い包み紙」(防水を考えていると思われ、それなりに厚いものであろう)も計算に入れれば、有に厚さ20㎝になんなんとする小包のようなものが出来上がってしまう。こんなものは「袂」には勿論(五十四)、「懷」にだって入りはしない。漱石はこの時点で、もうオムニバス方式は考えていなかったものの、先生の遺書を凡そ現在の1/2から2/3弱ぐらいの想定、連載回数にしてせいぜい二十数回から四十回分程度を考えていたのではあるまいか。だとすれば、その厚みは半分以下、恐らく10数㎝から8㎝以下には抑えられ、かろうじて懷には入る気がする(いずれにせよ、袂は重くて無理、袂が切れちゃう)。――と、そんなことを考えていたら――ふと気がついたのだ――連載の終了は「彼岸過迄」の由来で分かるように新聞社が決めていたはずであるから、漱石にはこの連載が8月上旬まで続くことは分かっていたわけだ。仮に切りのいい100回分だったとしても、残りは45回もある――すると――もしかすると、漱石は現在の「こゝろ」の「先生の遺書」パートの後に十数回から数回分の『遺書でないパート』――遺書を読み終えた後の「私」のパート――既に先生亡き先生の家に駆け込む「私」のパート――いや、必ずしもそうではないかも知れない場面――を想定していたとは考えられないだろうか?……

♡「あなたから過去を問ひたゞされた時、答へる事の出來なかつた勇氣のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります」「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は、この「世間的の自由」に注して、『結末まで読み進むと、これが奥さんを親類の元へやったことを指していたとわかるようになっている』と記されるが、これはとんでもない誤読であろう。この「世間的」とは、正に「現世的」という意味である(先生は仏教用語染みたものとして誤読され易いこの語を嫌ったのであろう。その気持ちは分かる)。即ち、私は「あなた」に私の「過去」を「明白に物語る」「勇氣」、その「自由を得た」。「然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又」「永久に」「失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないの」だ、と言っているのである。先生は最早、「世俗的」現世的に限られた時間しか生きられない、そう決意した、即ち、この言明そのものが、己の命の引き換えの秘密の過去の告白である、と先生は言っているのである。

♡「私は己を得ず」勿論、「已」の誤植。やっちゃった――って感じだ。この大事な遺書に、このとんでもない致死的誤植である。私自身、今回、このプロジェクトに取り掛かってみて、これ程ひどい校正ミスが連続しているとは、正直、思わなかったほどある。今まで読んで来られてお分かりの通り、この「已」と「己」の、所謂、校正係は烏焉馬の誤りとして最も気づかねばならぬ凡ミスが、驚くばかりに連発しているのである。――処置なしである――次章の最後の注も参照されたい。

♡「何うしてあの事件を斯う長く書いて、私に見せる氣になつたのだらう」ここは若き日に「こゝろ」を読んだ折りから引っ掛かった個所である。この手記執筆時の現在の「私」が――手記執筆時の『既に遺書を読んでしまった、先生の秘密の過去を既知である現在の「私」』が、この作中の過去の時間の「私」の内心を表明しているという、変な叙述になっているからである。これはしかし、漱石の確信犯的描写のようにも思われてくるのである。そっと遺書の中に現われる「事件」――それは今、読者であるあなたには闇に包まれている……いや、その暗がりには……忌まわしい血塗られた「事件」がある――という確信犯である――。]

2010/06/13

「心」第(七十九)回 ♡やぶちゃんの摑み メーキング映像 又は フランケンシュタイン「先生」或は現代のプロメテウス

「私は何を措いても、此際彼を人間らしくするのが專一だと考へたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像(イメジ)で埋まつてゐても、彼自身が偉くなつて行かない以上は、何の役にも立たないといふ事を發見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まづ異性の傍に彼を坐らせる方法を講じたのです。さうして其處から出る空氣に彼を曝した上、錆び付きかゝつた彼の血液を新らしくしやうと試みたのです」今回、ここを読みながら私が連想したのは、あの怪物であった。――Kの身長は高い。先生が見上げるほどに、である。「Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私は其時やつとKの眼を眞向に見る事が出來たのです。Kは私より脊の高い男でしたから、私は勢ひ彼の顏を見上げるやうにしなければなりません。私はさうした態度で、狼の如き心を罪のない羊に向けたのです。」(第(九十六)回=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十二)。――先生はK「の頭が偉い人の影像(イメジ)で埋まつて」いるだけ――魂の入っていない智の機械に過ぎないのだ気付き(=と思い込み)、その「彼自身」を「偉く」=「人間らしくする」「第一の手段として、まづ異性の傍に彼を坐らせる方法を講じた」。「さうして其處から出る空氣に彼を曝した上、錆び付きかゝつた彼の血液を新らしくしやうと試みた」(!)――「罪のない羊」を「心」を持った人間にすること――それは美事に『成功』しましたね!――そうですね? 先生?!――Dr.Victor Frankenstein?!――

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月13日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十二回

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  先生の遺書

    (五十二)

 父は時々囈語(うはこと)を云ふ樣になつた。

 「乃木(のぎ)大將に濟まない。實に面目次第がない。いへ私もすぐ御後(おあと)から」

 斯んな言葉をひよい/\出した。母は氣味を惡がつた。成るべくみんなを枕元へ集めて置きたがつた。氣のたしかな時は頻(しきり)に淋しがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室の中(うち)を見廻して母の影が見えないと、父は必ず「お光は」と聞いた。聞かないでも、眼がそれを物語つてゐた。私はよく起つて母を呼びに行つた。「何か御用ですか」と、母が仕掛た用を其儘にして置いて病室へ來ると、父はたゞ母の顏を見詰める丈で何も云はない事があつた。さうかと思ふと、丸で懸け離れた話をした。突然「お光御前にも色々世話になつたね」などと優しい言葉を出す時もあつた。母はさう云ふ言葉の前に屹度(きつと)涙ぐんだ。さうして後では又屹度丈夫であつた昔の父を其對照として想ひ出すらしかつた。

 「あんな憐れつぽい事を御言ひだがね。あれでもとは隨分酷(ひど)かつたんだよ」

 母は父のために箒(はうき)で脊中をどやされた時の事などを話した。今迄何遍もそれを聞かされた私と兄は、何時もとは丸で違つた氣分で、母の言葉を父の記念(かたみ)のやうに耳へ受け入れた。

 父は自分(しぶん)の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言らしいものを口に出さなかつた。

 「今のうち何か聞いて置く必要はないかな」と兄が私の顏をみた。

 「左右だなあ」と私は答へた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好し惡しだと考へてゐた。二人は決しかねてついに伯父に相談をかけた。伯父も首を傾けた。

 「云ひたい事があるのに、云はないで死ぬのも殘念だらうし、と云つて、此方(こつち)から催促するのも惡いかも知れず」

 話はとう/\愚圖(ぐづ)々々になつて仕舞つた。そのうちに昏睡が來た。例の通り何も知らない母は、それをたゞの眠(ねむり)と思ひ違へて反つて喜こんだ。「まああゝして樂に寢られゝば、傍(はた)にゐるものも助かります」と云つた。

 父は時々眼を開けて、誰は何うしたなどと突然聞いた。其誰はつい先刻(さつき)迄そこに坐つてゐた人の名に限られてゐた。父の意識には暗い所と明るい所と出來て、その明るい所丈(たけ)が、闇を縫ふ白い絲のやうに、ある距離を置いて連續するやうに見えた。母が昏睡状態を普通の眠りと取り違へたのも無理はなかつた。

 そのうち舌が段々縺(もつ)れて來た。何か云ひ出しても尻が不明瞭に了(をは)るために、要領を得ないで仕舞ふ事が多くあつた。其癖話し始める時は、危篤の病人とは思はれない程、強い聲を出した。我々は固より不斷以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるやうにしなければならなかつた。

 「頭を冷やすと好(い)い心持ですか」

 「うん」

 私は看護婦を相手に、父の水枕を取り更へて、それから新しい氷を入れた氷嚢(ひようなう)を頭の上へ載せた。がさ/\に割られて尖り切つた氷の破片が、嚢(ふくろ)の中で落ちつく間、私は父の禿げ上つた額の外(はづ)れでそれを柔らかに抑へてゐた。其時兄が廊下傳(づたひ)に這入て來て、一通の郵便を無言の儘私の手に渡した。空いた方の左手を出して、其郵便を受け取つた私はすぐ不審を起した。

 それは普通の手紙に比べると餘程目方の重いものであつた。並の状袋(じやうぶころ)にも入れてなかつた。また並の状袋に入れられべき分量でもなかつた。半紙で包んで、封じ目を鄭寧(ていねい)に糊で貼り付けてあつた。私はそれを兄の手から受け取つた時、すぐその書留である事に氣が付いた。裏を返して見ると其處に先生の名がつゝしんだ字で書いてあつた。手の放せない私は、すぐ封を切る譯に行かないので、一寸それを懷に差し込んだ。

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[♡やぶちゃんの摑み:遂に先生の遺書が「私」に送られて来た。以下、次の次の章で「私」が危篤の父を置いて東京へと出立するまでは、凡て半日程度のうちに起きる出来事である。私はこれを「私」満23歳の夏、明治45(1912)年9月28日(土)から30日(月)頃と推定している。

♡「お光」数少ない固有名詞で、且つ「私」の母の名である以上、何らかの思い入れがあるようにも思われる。因みに明治天皇の側室の第一に挙げられる女性の名は光子である。権典侍(緋桃典侍・初花典侍とも)葉室光子(嘉永6(1853)年~明治6(1873)年)は明治天皇の最初の宮稚瑞照彦尊(わかみつてるひこのみこと)を明治6(1873)年9月18日出産したが死産、光子も4日後の922日に逝去している。

♡『「今のうち何か聞いて置く必要はないかな」と兄が私の顏をみた。』以下、「二人は決しかねてついに伯父に相談をかけた」辺り、私が兄の出身が法科というのには、躊躇してしまうところなのである。

♡『伯父も首を傾けた。/「云ひたい事があるのに、云はないで死ぬのも殘念だらうし、と云つて、此方(こつち)から催促するのも惡いかも知れず」』この伯父なる者の助言に、私はある疑惑を感じる。即ち、それは後に明らかにされる先生の叔父の作為と同じ性質の臭いである。この伯父は、もしかすると「私」の父の遺産管理を、計算ずくで期待しているのではなるまいか? そもそも兄は(そして「私」も)、この叔父に頼もうと思っている以上、それはこの伯父とても気がついているはずである。だとすれば、父が奇妙な遺言をして、万一、財産管理が出来なくなったり、それが著しく制限されるような遺言がなされることは、望ましくない。そうした意識がこの何とも玉虫色の伯父の言葉になって現われたと、悪意を以って見ることは、十分に可能である。

♡「状袋」封筒。

♡「一寸それを懷に差し込んだ」次章で検証するが、この先生の遺書は、懐にすっと「差し込」められるような分量のものではないはずである。]

2010/06/12

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月12日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十一回

Kokoro13_2   先生の遺書

    (五十一)

 「先生先生といふのは一體誰(たれ)の事だい」と兄が聞いた。

 「こないだ話したぢやないか」と私は答へた。私は自分で質問して置きながら、すぐ他(ひと)の説明を忘れてしまふ兄に對して不快の念を起した。

 「聞いた事は聞いたけれども」

 兄は必竟聞いても解らないと云ふのであつた。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解して貰ふ必要はなかつた。けれども腹は立つた。又例の兄らしい所が出て來たと思つた。

 先生々々と私が尊敬する以上、其人は必ず著名の士でなくてはならないやうに兄は考へてゐた。少なくとも大學の教授位(ぐらゐ)だらうと推察してゐた。名もない人、何もしてゐない人、それが何處に價値を有つてゐるだらう。兄の腹は此點に於て、父と全く同じものであつた。けれども父が何も出來ないから遊んでゐるのだと速斷するのに引きかへて、兄は何か遣れる能力があるのに、ぶらぶらしてゐるのは詰らん人間に限ると云つた風の口吻を洩らした。

 「イゴイストは不可(いけな)いね。何もしないで生きてゐやうといふのは横着な了簡だからね。人は自分の有つてゐる才能を出來る丈働かせなくつちや嘘だ」

 私は兄に向つて、自分の使つてゐるイゴイストの言葉の意味が能く解るかと聞き返して遣りたかつた。

 「それでも其人の御蔭で地位が出來ればまあ結構だ。御父さんも喜んでるやうぢやないか」

 兄は後から斯んな事を云つた。先生から明瞭な手紙(てかみ)の來ない以上、私はさう信ずる事も出來ず、またさう口に出す勇氣もなかつた。それを母の早呑込でみんなにさう吹聽してしまつた今となつて見ると、私は急にそれを打ち消す譯に行かなくなつた。私は母に催促される迄もなく、先生の手紙(てかみ)を待ち受けた。さうして其手紙(てかみ)に、何うかみんなの考へてゐるやうな衣食の口の事が書いてあれば可いがと念じた。私は死に瀕してゐる父の手前、其父に幾分でも安心させて遣りたいと祈りつゝある母の手前、働かなければ人間でないやうにいふ兄の手前、其他妹の夫だの伯父だの叔母だのゝ手前、私のちつとも頓着してゐない事に、神經を悩まさなければならなかつた。

 父が變な黄色いものを嘔いた時、私はかつて先生と奧さんから聞かされた危險を思ひ出した。「あゝして長く寢てゐるんだから胃も惡くなる筈だね」と云つた母の顏を見て、何も知らない其人の前に涙ぐんだ。

 兄と私が茶の間で落ち合つた時、兄は「聞いたか」と云つた。それは醫者が歸り際に兄に向つて云つた事を聞いたかといふ意味であつた。私には説明を待たないでも其意味が能く解つてゐた。

 「御前此處へ歸つて來て、宅(うち)の事を監理(かんり)する氣はないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答へなかつた。

 「御母さん一人ぢや、何うする事も出來ないだらう」と兄が又云つた。兄は私を土の臭を嗅いで朽ちて行つても惜しくないやうに見てゐた。

 「本を讀む丈なら、田舍でも充分出來るし、それに働らく必要もなくなるし、丁度好(い)いだらう」

 「兄さんが歸つて來るのが順ですね」と私が云つた。

 「おれにそんな事が出來るものか」と兄は一口に斥けた。兄の腹の中には、世の中で是から仕事をしやうといふ氣が充ち滿ちてゐた。

 「御前が厭なら、まあ伯父さんにでも世話を賴むんだが、夫にしても御母さんは何方かで引き取らなくつちやなるまい」

 「御母さんが此處を動くか動かないかゞ既に大きな疑問ですよ」

 兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後に就いて、斯んな風に語り合つた。

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やぶちゃんの摑み:ここで最大のポイントは兄の口をついて出る「イゴイスト」である。因みに底本には「【参考】」として6月12日(金)の『大阪朝日新聞』の記事として「シーメンス事件公判」の記事を掲載している。これが、今回の(及び次回の)『大阪朝日新聞』への「心」掲載遅滞と何らかの関係があるのか? それともただのエポック・メーキングな時代背景を示すための「参考」事件なのか?(実は私は馬鹿なのか、何でここに、この、記事を参考として載せているのかが、私にはあまりピンとこないのである) 識者の御教授を乞うものである。

♡『名もない人、何もしてゐない人、それが何處に價値を有つてゐるだらう。兄の腹は此點に於て、父と全く同じものであつた。けれども父が何も出來ないから遊んでゐるのだと速斷するのに引きかへて、兄は何か遣れる能力があるのに、ぶらぶらしてゐるのは詰らん人間に限ると云つた風の口吻を洩らした。/「イゴイストは不可いね。何もしないで生きてゐやうといふのは横着な了簡だからね。人は自分の有つてゐる才能を出來る丈働かせなくつちや嘘だ」』先生の存在が当時の一般的庶民(高等遊民でないという意味に於いて)からすればどのように思われていたかが極めてはっきりと示される部分である。少なくとも大衆の大半は先生をこう捉えた――だが、勿論、『「私」の考える尊敬する先生は、そうではない。そして、一見、凡庸な人間からはそう見えるが、「私」から見ればそこに憧憬するに値する素晴らしい思想と存在がある。そうした人である』、訳だ――そういう否定論法から先生の真の思想と存在に迫り得るということにまず気づく必要がある。そしてやはり大事な点は主題の琴線に触れるところの「イゴイスト」という確信犯的言辞の使用である。そうしてここでは兄の謂わば、誤った用法としての「イゴイスト」が示されていることに注意せねばならぬ。即ち、兄は「何か遣れる能力があるのに、ぶらぶらしてゐる」ような輩は「詰らん人間」以外の何者でもなく、「何もしないで生きてゐやうといふのは横着な了簡」であり、そういう人間を「イゴイスト」というのである、「自分の有つてゐる才能を出來る丈働かせ」てこそ正しい人間と言えるのであり、そうでない人間、国家や集団に不断に貢献することが不能であったり、その能力を持ちながら怠るような非社会的人間は人間として失格である=「イゴイスト」である、という論理を展開していることに着目せねばならぬのだ。ここでの文脈から言えば、漱石は無知な大衆の多くは、エゴイズムという言葉の意味を、この兄のように『社会貢献が不能であったり、それを忌避しようとする人間』を十把一絡げにしてエゴイストの烙印を押して批難しているが、それは大いなる誤りだと言いたいのである。だからこそ、ここで「私」の「私は兄に向つて、自分の使つてゐるイゴイストといふ言葉の意味が能く解るかと聞き返して遣りたかつた」という強い不満を含んだ感懐を鋭く挟むのである(これは心内表現であってこの直後の兄との関係の展開自体に重大な変化を起こしていない点に注意すべきである。即ち、これは読者に向けて放たれた鋭い謂いなのである)。そもそも兄の「イゴイスト」は、今、こうして抜き出してみると、狭義の自己快楽主義としてのエゴイズムに基づきながら、社会的貢献性や功利主義、更にはこの大正時代、匂いつつあった国家主義への親和性を混入させた異様な誤った謂いであるとはっきり言える。その証拠にこの「イゴイスト」を「そういう輩」に置き換えると――「そういう輩は不可いね。何もしないで生きてゐやうといふのは横着な了簡だからね。人は自分の有つてゐる才能を出來る丈働かせなくつちや嘘だ」――ちょいと説教垂れる御仁の言葉として、何らの違和感がないことに気づくのだ。ところが、それは当時既に「イゴイスト」として批難されていた。漱石がこう書くということそのものが、当時のエゴイズムと個人主義を味噌も糞も一緒くたにしている大衆の根本的錯誤や致命的な浅薄さへの、漱石の指弾であるとさえ言えるのではなかろうか?――私が本作「心」で描かんとする、問題せんとするところの『人の心のエゴイズム』とは、君らの考えるような、生易しいものではなく、自ずから全く異なった、今まで諸君が考えたこともないような、人の現存在そのものに関わるところの哲学的なる謂いなのだ、『人間が真に人間であるための』奥深い謂いなのだ――と。

「監理(かんり)」この漢字であれば「かんり」のルビは正しい。監督・管理の意で取れないことはなく、違和感はない。但し、『大阪朝日新聞』6月13日(土)版(前章で述べた通り、一日づれている)では「管理(くわんり)」とある。原稿は「監理」である。

♡「御前此處へ歸つて來て、宅の事を監理する氣はないか」という兄の言葉は言下にそれを望んでいる謂いであるが、直後にきっぱりとした正論としての「兄さんが歸つて來るのが順ですね」との私の言を予想しており、仕事上、「おれにそんな事が出來るものか」と一蹴、直後に直ぐ、「御前が厭なら、まあ伯父さんにでも世話を賴むんだが、夫にしても御母さんは何方かで引き取らなくつちやなるまい」と来る辺りは、既に伯父に実家の管理を依頼することを半ば想定しているという印象を与える。実際にこの伯父は次章の父に遺言がないというところで正に二人から相談を受けている。そうして、それは結局、後に遺書で先生が叔父に財産を誤魔化された、叔父に裏切られたと告白する内容と美事にダブるように仕組まれていることに気づかねばならぬ。

♡「兄は私を土の臭を嗅いで朽ちて行つても惜しくないやうに見てゐた」というところに、この兄弟の決定的な溝が見える。兄は弟の「私」を人間的に認めていないのである。「私」は血の繋がった弟故に、その兄の冷酷さを既に諦観して決定的な距離を置いているのである。この兄は、実は「私」にとって最も近い生物学的遺伝的存在でありながら、人間としては恐らく作中、最も無限遠に近い距離に立っている存在として捉えてよいように思われる。即ち、何度も繰り返される凡庸で退屈ではあっても、血の繋がった肉親であることに吃驚する「父」や、センチメンタルな哀愁を帯びた「母」の在り方とは違い、何らのセンチメントを介在させない完全に一線を画した『他者たる血族』『近代法によって守られたエゴイスティクな家長権継承者』として、私のような兄弟のいない者には、かえって信じ難いほどに「私」から、冷たく描写されているとしか思えないのである。なお、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏はここに注して、『都会に出て高等教育を受けることが、多くの「忌郷病」患者を生んでいた』とし、社会的に『「地方に居る事を厭がつて、無闇に東京へ出て来たがる」(「一地方の大黒柱」『学生』明治45・7)青年は、この時期、集中攻撃の対象だった。このことは、当然、「土の臭を嗅いで朽ちて行つても」というような考え方をする私を、読者がどう見ていたか、ということにも関わってくるのである。』と記されている。こうした当時の読者(その読者の年齢と職業と立場の個別的階層的抽出と詳細な比較検討が必要ではあるが)が「私」の表現をどう思ったか、という視点は大変重要で、示唆に富むものと感じた。]

2010/06/11

芥川龍之介 或夜の感想 (「侏儒の言葉」エンディング)

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。 (昭和改元の第二日)

もう直き、河童忌がやってくる――

――僕は文」で「私」を秘かに芥川龍之介に擬えた。芥川は漱石の最後期の弟子と言って好い。

――漱石が危惧していたのは、国民が富国強兵へと傾斜して行く近未来の日本という国家の行く末と変貌、そしてその日本人の「心」の変容にあった。その問いかけが「心」という小説ではなかったか?

――漱石のエゴイズムというテーマを忠実に引き継いだ芥川龍之介は、それから13年後の、この7月24日に自死する。遺書の一変種である「或旧友に送る手記」に示された「ぼんやりとした不安」の一つが、既にして大陸侵略と太平洋戦争へと突入しようとする日本という国家の行く末と変貌、そしてその日本人の「心」の変容にあったことは言を俟たない。

――この言葉の最後の一言は――

――どこか――

――Kの言葉のようでも、ある、ではないか……

「心」第(六十九)回 ♡やぶちゃんの摑み メーキング映像

……実はそんなことより気になるのは、陳述する側の先生の言葉遣いである。叔父と穏やかならざる『日淸談判破裂して』(「欣舞節」若宮萬次郎作詞作曲)を思わせる「談判」を開き、この新しい戦線では敵方の「策略」による巧妙な心理戦を蒙って(いると思って)激しく「先生」の兵力は殺がれている。

――そうである。戦争である。――

そして「策略」というこの語は、忌まわしくも先生自身の良心が悪意の先生へと鏡返しで用いることになる語であることに注意せねばならぬのである。順に見ておこう。

 「策略」と言う語は実は既に叔父との談判一戦の際に出現している。初戦は第(六十三)回「一口でいふと、伯父は私の財産を胡魔化したのです」に始まる

『新潟実家の乱』

での一場面2段落目「伯父は策略で娘を私に押し付けやうとしたのです。好意的に兩家の便宜を計るといふよりも、ずつと下卑た利害心に驅られて、結婚問題を私に向けたのです。私は從妹を愛してゐない丈で、嫌つてはゐなかつたのですが、後から考へて見ると、それを斷つたのが私には多少の愉快になると思ひます。胡魔化されるのは何方にしても同じでせうけれども、載せられ方からいへば、從妹を貰はない方が、向ふの思ひ通りにならないといふ點から見て、少しは私の我が通つた事になるのですから」(下線部やぶちゃん。以下同じ)という部分である。叔父の「策略」に乗せられて敗北して知らずに居るところであったが、従妹の首を掻いた局地戦だけでも復讐相当にはならぬものの溜飲を下げた戦いであったと言うのである。

 第2ラウンドがご覧の通りのこの

『東京下宿の変』

での心理戦による膠着状態で、相手方の推定戦術として奥さんに対して「策略」の語が用いられ、更にはその特命「策略」を奉じた別働隊とも疑われる特別攻撃隊「靜」隊にも「策略」が疑われたのである。そして

『第九十五次対K戦争』

では

『私は丁度他流試合でもする人のやうにKを注意して見てゐたのです。私は、私の眼、私の心、私の身體、すべて私といふ名の付くものを五分の隙間もないやうに用意して、Kに向つたのです。罪のないKは穴だらけといふより寧ろ明け放しと評するのが適當な位に無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管してゐる要塞の地圖を受取つて、彼の眼の前でゆつくりそれを眺める事が出來たも同じでした。/Kが理想と現實の間に彷徨してふら/\してゐるのを發見した私は、たゞ一打で彼を倒す事が出來るだらうといふ點にばかり眼を着けました。さうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。私は彼に向つて急に嚴粛な改たまつた態度を示し出しました。無論策略からですが、其態度に相應する位な緊張した氣分もあつたのですから、自分に滑稽だの羞耻だのを感ずる餘裕はありませんでした。私は先づ「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と云ひ放ちました。是は二人で房州を旅行してゐる際、Kが私に向つて使つた言葉です。私は彼の使つた通りを、彼と同じやうな口調で、再び彼に投げ返したのです。然し決して復讐ではありません。私は復讐以上に殘酷な意味を有つてゐたといふ事を自白します。私は其一言でKの前に横たはる戀の行手を塞がうとしたのです』

と禁断の最終兵器である策略核を、突然、同盟していたK国の首都の宮殿にスパイを送り込み、美事に起爆させ粉砕してしまうのであった(しかもおぞましいことにその核物質はその同盟国が心血注いで開発した「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」物質という強力特殊な原子爆弾の覚悟の材料であったのだ)。

 このように先生は逸早い索敵を行い、勝利を収めたと確信する。ところがその結果は予想外の惨憺たるものとなった。

『第百二次対K戦争』

に向けて最強の隣国奥さん抜け駆けで決定的な同盟条約即日締結という策略に成功した先生は、実は自分の裏切り行為の策略を既に何日も前にKが知っていた事実を知り、驚愕するのである。先生は

『勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日餘りになります。其間Kは私に對して少しも以前と異なつた樣子を見せなかつたので、私は全くそれに氣が付かずにゐたのです。彼の超然とした態度はたとひ外觀だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考へました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遙かに立派に見えました。「おれは策略で勝つても人間としては負けたのだ」といふ感じが私の胸に渦卷いて起りました。私は其時さぞKが輕蔑してゐる事だらうと思つて、一人で顏を赧らめました。然し今更Kの前に出て、耻を掻かせられるのは、私の自尊心にとつて大いな苦痛でした』

と自国の完全敗北を自覚したものの、手を拱き、遂に手遅れとなってK国は自から滅亡してしまうのである。

 先生は「心」の総ての戦争で勝つことが出来なかった――

 それは何故か?

 それは――戦争をしていると思っていたのは、実は何を隠そう、先生だけだったからである――。

 今一度、言う。「こゝろ」とは一種の戦争論である。人間にとって、人間である以上、決して避けられぬ己のエゴイズムとの、戦争の話なのである――是非とも私の教え子の「こゝろ」論の一つ「トゥワイス・ボーン」を再読されたい。

Mercedes Sosa - Gracias A La Vida

さっき友が教えてくれた……

これは、激しく! 胸を撲(う)つ!――曲と歌声とチターロ……

Mercedes Sosa - Gracias A La Vida

その詩「人生……グラシアス……」の「心」――

Gracias A La Vida

「心」第(七十)回 ♡やぶちゃんの摑み メーキング映像

――以下は聞き流して戴こう。

私自身が

――「是から先何んな事があつても、人には欺まされまいと決心」する――

……それとほぼ相同な決心をしたことが若き日にあったことを告白する。

 

……中学2年の時、私は或る女生徒に恋をした。しかし告白した彼女からは

「ごめんなさい。さようなら。」

とだけ書いた手紙を貰った。自殺も考えた。……幸い、失恋で自殺した青年の生活史を新聞記者が追うさまを描いた如何にもクサい小説を書いて切り抜けた。……

 

……それから十年後のことである。神奈川で教員になった私が夏休みに両親の住む田舎へ帰ったところ、母が

「……あんたに縁談話が来てるんだけど……」

と言った。

妙に語頭も語尾も濁すのが気になった。

聞けば、それは私の親友の母から持ち込まれたものであった(その頃、公立高校の教師は安定した職業として田舎では婿の職業としては相応に評価されていた)。

……ところが、その相手の名を母から聞いた瞬間、私は愕然としたのだ――

「……実はあんたが昔好きだったっていう○○○子さんっていう人なんだけど……」

――それは、あの「ごめんなさい。さようなら。」とだけ別れの手紙を送りつけた女だった。……

私は

「はっきりと断って下さい。」

と吐き捨てるように母に答えたのは言うまでもない。

 

……そして

……そして私はその時、正に

「是から先何んな事があつても、」女「には欺まされまいと決心」したのだ――

 

……そうして

……しかし私はそれをその後忠実に貫いた故に……

……その仔細は語れぬが、結果として多くの女性を悲しませる結果となった、と今の私は、痛感している……

……だからと言って『欺すぐらいなら欺されるほうが好い』なんどというキリスト教的噴飯博愛主義を私は訴えたいのでは、毛頭ない……

……ただ私は……

――「人には欺まされまい」という対意識は既にして他者そして『自己自身でもある』ところの『人』を欺まさんとすることと相同である――

と……思うのである、とだけ言っておこう……

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月11日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十回

Kokoro13   先生の遺書

    (五十)

 父の病氣は最後の一撃を待つ間際迄進んで來て、其處でしばらく躊躇するやうに見えた。家のものは運命の宣告が、今日下るか、今日下るかと思つて、毎夜床に這入つた。

 父は傍(はた)のものを辛くする程の苦痛を何處にも感じてゐなかつた。其點になると看病は寧ろ樂であつた。要心のために、誰か一人位づゞ代る代る起きてはゐたが、あとのものは相當の時間に名自の寢床(ねども)へ引き取つて差支なかつた。何かの拍子で眠れなかつた時、病人の唸るやうな聲を微かに聞いたと思ひ誤まつた私は、一遍半夜(よなか)に床を拔け出して、念のため父の枕元迄行つて見た事があつた。其夜は母が起きてゐる番に當つてゐた。然し其母は父の横に肱(ひぢ)を曲げて枕としたなり寢入つてゐた。父も深い眠りの裏(うち)にそつと置かれた人のやうに靜にしてゐた。私は忍び足で又自分の寢床へ歸つた。

 私は兄と一所の蚊帳の中に寢た。妹の夫だけは、客扱ひを受けてゐる所爲(せゐ)か、獨り離れた座敷に入つて休んだ。

 「關(せき)さんも氣の毒だね。あゝ幾日も引つ張られて歸れなくつちあ」

 關といふのは其人の苗字であつた。

「然しそんな忙がしい身體(からだ)でもないんだから、あゝして泊つてゐて呉れるんでせう。關さんよりも兄さんの方が困るでせう、斯う長くなつちや」

 「困つても仕方がない。外の事と違ふからな」

 兄と床を並べて寢る私は、斯んな寢物語りをした。兄の頭にも私の胸にも、父は何うせ助からないといふ考があつた。何うせ助からないものならばといふ考へもあつた。我々は子として親の死ぬのを待つてゐるやうなものであつた。然し子としての我々はそれを言葉の上に表すのを憚かつた。さうして御互に御互が何んな事を思つてゐるかをよく理解し合つてゐた。

 「御父さんは、まだ治る氣でゐるやうだな」と兄が私に云つた。

 實際兄の云ふ通りに見える所もないではなかつた。近所のものが見舞にくると、父は必ず會ふと云つて承知しなかつた。會へば屹度(きつと)、私の卒業祝ひに呼ぶ事が出來なかつたのを殘念がつた。其代り自分の病氣が治つたらといふやうな事も時々付け加へた。

 「御前の卒業祝ひは己(や)めになつて結構だ。おれの時には弱つたからね」と兄は私の記憶を突ツついた。私はアルコールに煽(あふ)られた其時の亂雜な有樣を想ひ出して苦笑した。飮むものや食ふものを強ひて廻る父の態度も、にがにがしく私の眼に映つた。

 私達はそれ程仲の好(い)い兄弟ではなかつた。小さいうちは好く喧嘩をして、年の少(すく)ない私の方がいつでも泣かされた。學校へ這入てからの專門の相違も、全く性格の相違から出てゐた。大學にゐる時分の私は、殊に先生に接觸した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思つてゐた。私は長く兄に會はなかつたので、又懸け隔つた遠くに居たので、時から云つても距離からいつても、兄はいつでも私には遠かつたのであるそれでも久し振に斯う落ち合つてみると、兄弟の優しい心持が何處からか自然に湧いて出た。場合が場合なのもその大きな源因になつてゐた。二人に共通な父、其父の死なうとしてゐる枕元で、兄と私は握手したのであつた。

 「御前是から何うする」と兄は聞いた。私は又全く見當の違つた質問を兄に掛けた。

 「一體家の財産は何うなつてるんだらう」

 「おれは知らない。御父さんはまだ何とも云はないから。然し財産つて云つた所で金としては高の知れたものだらう」

 母は又母で先生の返事の來るのを苦にしてゐた。

 「まだ手紙は來ないかい」と私を責めた。

Line

やぶちゃんの摑み:

「何かの拍子で眠れなかつた時、病人の唸るやうな聲を微かに聞いたと思ひ誤まつた私は、一遍半夜に床を拔け出して、念のため父の枕元迄行つて見た事があつた。其夜は母が起きてゐる番に當つてゐた。然し其母は父の横に肱を曲げて枕としたなり寢入つてゐた。父も深い眠りの裏にそつと置かれた人のやうに靜にしてゐた。私は忍び足で又自分の寢床へ歸つた。」まるで映像化を意識したかのような、印象的描写である。この「私」の眼に映る情景と「私」の思いは、無音の中に印象的な味わいを醸し出している。私の「中」相当中、忘れ難い好きな一節。

「兄の頭にも私の胸にも、父は何うせ助からないといふ考があつた。何うせ助からないものならばといふ考へもあつた。我々は子として親の死ぬのを待つてゐるやうなものであつた。然し子としての我々はそれを言葉の上に表すのを憚かつた。さうして御互に御互が何んな事を思つてゐるかをよく理解し合つてゐた」これ「子としての我々」が「言葉の上に表すのを憚かつた」内容を復元して語るならば、「兄の頭にも私の胸にも、父は何うせ助からないといふ」厳然たる生物学的死の事実認識「があつた。何うせ助からないものならば」、母の心労や我々の人生上の今後の問題等を考慮するなら、なるべく早く迅速に苦しまずに死に至って欲しいもの「といふ考へも」しっかりと心底には「あつた。」言わば「我々は」単に血縁であるという理由、父に対する「子として」という人間社会の民俗学的習俗上、作られたに過ぎぬ関係性の中で、単に「子」の対義語としての「親」という名を冠したに過ぎぬ生物体の「死ぬのを待つてゐるやうなものであつた。」「さうして御互に御互が」以上述べたようなあらゆるドライで、ある意味、非情なる「事を思つてゐるかをよく理解し合つてゐた」のであった。漱石は巧みである。この直後に兄と「私」の強烈な相違を提示し、その最後で「それでも久し振に斯う落ち合つてみると、兄弟の優しい心持が何處からか自然に湧いて出た。場合が場合なのもその大きな源因になつてゐた。二人に共通な父、其父の死なうとしてゐる枕元で、兄と私は握手したのであつた」と記すのだ。「兄と私」が「握手した」のは、「久し振に斯う落ち合つてみ」たら、「兄弟の優しい心持が何處からか自然に湧いて出」てきたから、なんかではない。その証拠に図らずも「私」は真実を暴露してしまっているではないか! 「その大きな源因」は「場合が場合な」ためなのだ。「二人に共通な父」に対する早々に死をという血塗られた願望の暗黙の確信犯としての共犯性合意に於いて、「兄と私は握手したのであつた」。

「學校へ這入てからの專門の相違も、全く性格の相違から出てゐた。大學にゐる時分の私は、殊に先生に接觸した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思つてゐた。私は長く兄に會はなかつたので、又懸け隔つた遠くに居たので、時から云つても距離からいつても、兄はいつでも私には遠かつたのであるそれでも久し振に……」まず「遠かつたのであるそれでも……」は勿論「遠かつたのである。それでも……」で、新聞の組で原稿の句点が脱落したものである。これが単行本「こゝろ」では「兄はいつでも私には近くなかつたのである。それでも……」と書き換えられている。以下、(四十二)に附した兄の専門の相違の注を元に補足しておく。「私」の専門が不明なため、(四十二)にある「兄さんと私とは專問も違ふ」という謂いも同定に苦しむところであるが、「私」を文科と考えてよいことから、「專問も違ふ」を広義にとれば、一つは兄は理科、それも医学・薬学系や生物・化学系ではない(父の病気について知識が全くなく、観察もいい加減である)、工学・土木系が考え得る。そう考えても、ここで「學校へ這入てからの專門の相違も、全く性格の相違から出てゐた。大學にゐる時分の私は、殊に先生に接觸した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思つてゐた」という兄の人間像はそれほどおかしいとは思われない(気をつけるべきは「動物的」というのは「殊に先生に接觸した私」との対比構造の中で極めて「私」個人の特殊な謂いとして用いられているということに注意せねばならぬ。この「動物的」とは情愛やデリカシーを聊か欠いたやや冷徹で現実的打算的に――「動物的」を納得し得るように弱肉強食的と追加してもよいし、もっと言うなら次の章で示されるような社会的国家的有用性のみが人間には必要なのだというナショナリズム的思考を伝家の宝刀とするようんな、でもよい――人生を生きるさまを言っているものと思われるのである)。そうした観点で、理系を選択肢から外すのであれば、文化でも法科出身の役人である可能性が浮上してくる。若草書房2000年刊「漱石文学全注釈 12 心」では藤井淑禎氏もそのような可能性を示唆しておられる(同書p177「中」十四の「兄弟の優しい心持」の注)しかし、ここで「一體家の財産は何うなつてるんだらう」という「私」の言葉に、「おれは知らない。御父さんはまだ何とも云はないから。然し財産つて云つた所で金としては高の知れたものだらう」とそっけなく答えている。いくら民法上、長男優遇措置がとられていたとしても、法科出身の者にしては、いい加減な感じがするけれども、法科は役人へのステップ程度にドライに考えていた、「動物的」存在の人物ででもあるかも知れない。――

――いや、そんなことは私にはどうでもよいのである。――ここではもっと根源的に――正に学問上の専門の大きな相違も、性格それ自体の根本的相違によるものであり、時空間上の概念を遙かに隔たるような異次元の存在として兄は永遠に遠い存在であったことを強調しているのである。そうしてこの「性格の相違」に着目せねばならぬと私は思うのだ。これはとりもなおさず、先生の遺書の最後に現れる、あの台詞への伏線以外には考えられないのである。

それから二三日して、私はとう/\自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の敍述で己れを盡した積です。

――私が何を言いたいのか? 簡単なことだ。この「私」の兄のような性格の人間には先生が死ぬ理由も「先生の遺書」の言わんとする確信も全く分からないのである。それが分かるのは兄に対立するところの「私」のような性格の持ち主なのである。本作の読者で、この兄が好きだ、この兄の気持ちに目一杯賛同するという御仁は、そう多くあるまい。そんなシンパシーを持つ人は、そもそも本作を必要としないはずだから、本作を面白いと思わぬはずだ。いや、ここから先を読む必要はないとまで言ってもよい。だって先生が言う通り、遂に先生の遺書の言わんとする意味は貴方には分からないからだからだ。――話を戻す。兄に対立するところの「私」のような性格の持ち主は必ず先生の「自殺する譯が明らかに呑み込め」ねばならない、否、必ず「明らかに呑み込め」る、のである!――そして『「私」のような性格の持ち主』とは――それが誰であるか、貴方はもうとっくに分かっているはずです! そう、読んでいる貴方自身ではありませんか!]

2010/06/10

「御孃さんと私」やぶちやん 又は 「心」第(六十七)回 ♡やぶちゃんの摑み メーキング映像

昨日に引き続き、フライング公開――言っておくが、これは創作ではなく、僕の実際の体験をそのまま小説化したものである――

御孃さんと私 やぶちやん(copyright 2010 Yabtyan

……私(わたくし)は大學時分、中目黑の素人屋に下宿してゐました。私の部屋の隣には年老いた大屋夫婦の三十に近い未婚のOLの御孃さんの部屋がありました。この御孃さんとは凡そ三年程の間一緒の屋根の下に暮らしたのですが、御孃さんと言葉を交はしたのは數へる程しかありませんでした。

 最終學年の十一月の上旬の事、唯一度だけ彼女の部屋の戸を叩いた事が有りました。

 私の大學の卒業論文は和装で是が非でも題箋は筆で記さねばなりませんでした。私の卒論は「咳をしても一人」で知られる『層雲』の俳人を扱つた「尾崎放哉論」でしたが、彼の名前は之何れの字をとつても如何にも配置の難しい字に思はれました。御孃さんが書道を趣味にしてをられることは何時も休日になると漂つて來る墨の匂故に入つた先(せん)から知れてゐましたから、其題箋を思ひ切つて彼女に賴んでみることにしました。まともに御孃さんの顏を拜したのも其時が初めてでした。

 突然の下宿人の懇請ではありましたが、御孃さんは當初二つ返事で快く請けがつて呉れました。

 ところが一週日が過ぎた頃、突然彼女が私の部屋の硝子戸の扉を矢張り初めて叩いたのでした(私の部屋は彼女と彼女の姉との昔の子供部屋だつたのです。戸は全面が半透明の硝子障子の引戸で、私は何時もその向かうに夜遅く仕事から歸つて來た彼女のシルエツト許りを目にして過して來たのでした)。

 狹い廊下のことですから殆ど彼女の化粧の香が鼻を擽る程數糎(センチ)の距離を置いて顏を見合はせることとなりました。彼女は、

「お書きするのは容易(たやす)いのですけれど、書道を少し齧つて來た私には矢張り貴方の卒業論文の表紙ですもの、御自身でお書きになる方が絶對好(い)いと思ふんです。」

と言ふのです。卒論は既に書き上げて餘裕で芥川龍之介全集の全卷通讀なんどに現をぬかしてゐた當時の私には晴天の霹靂でした。

「私、實は筆が大の苦手なもんですから。」

と聊かはにかんで答へたのですが、

「失禮ですけれど下手でも御自身でお書きになるのが好いと思ふんです。私が書いたら、將來屹度失望なさると思ふんです。」

 御孃さんは「將來屹度失望なさる」といふところに妙に力を込めて言ふのでした。私はそれでもなほ、

「決して失望しませんから。」

と決まりの惡い笑みを浮かべ乍らも實際本氣でさう思ひつつ食ひ下がつては見たのです。しかし、

「いゝえ。屹度、失望なさいます。」

と何故か少し焦点を外した目をし乍ら、遂に請けがつて呉れませんでした。

 私は甚だ殘念に思ひつつも、禮を言ふと自室の戸を閉めやうとしました。

 すると其時、彼女が私の部屋のベツドを指さして、

「その、二段ベツド、狹いでせう。小學生の頃、姉が下私は上に寢てゐたのよ。」

と笑ひ乍ら訊きました(この子供部屋の姉妹の爲の二段ベツドは据付だつたのです)。

「えゝ、頭が突つかへるので此の三年の間ずつと斜めになつて寢てました。」

と私は剽輕に答へた。お孃さんは大袈裟に體を震はせて如何にも可笑しくてならないといふ感じで笑ひました。それは私には少女のやうな可愛らしい笑ひに見えました。

 實は私は其時初めて彼女が斯くも綺麗な方だつたのだと今更乍ら氣づいたのでした。さうして内心何うして結婚されないのだらうと訝しんだのさへ覺えてゐます。

 數カ月の後(のち)、私は首尾良く卒業し、神奈川縣の公立高校に赴任することとなつて其下宿を引き拂つたのでしたが、その間際、何時ものやうに夜遅くに歸つて來た御孃さんに廊下でばつたり出食はして別れの挨拶をせねばならぬ羽目に陷りました。

「御卒業お目出たう。」

と彼女が言ひました。何か二言三言儀禮上の言葉を交はしたとは思ひますがす私はつかり忘れてしまひました。只最後に、私はもう此の御孃さんとも二度と會ふこともなからうと思ふと少し許り大膽な氣持になつてゐましたから、

「あの‥‥何故御結婚なさらないんですか。‥‥お美しいのに‥‥」

と如何にも失禮な問を御孃さんにかけて仕舞つたのです。その頃の私は傍(はた)から見れば富山の田舍から出て來た如何にも垢拔けない書生位(くらゐ)にしか思はれてゐなかつたものと思ひます。御孃さんも例外ではありませんでしたらう(私の生まれは實は鎌倉で小學校を卒業するまでは其處に居たのですが、其のやうな話を大屋夫婦に話したのは卒業も間近になつてからのことでしたから)。だから逆に御孃さんも質朴なる愚か者の問と受け流して氣障な嫌味とは取らずにゐて呉れたものか(勿論私の述懷は全く眞正直なものでしたけれども)、惡戯つぽく微笑んだ後(のち)、

「‥‥お世辭でも嬉しいわ。私はね、一寸體が丈夫ではないの。老いた父や母の面倒も私が見なくてはならないし。‥‥私ね、諦めてゐるの。‥‥でもね、結婚ばかりが人生ではないわよ。」

と判然(はつきり)言ふと「お休みなさい」と笑顏の儘、御孃さんは颯爽と自分の部屋の方に消えて行つたのでした。

 ――もう三十年以上前のことになりますが、私は今も時々あの御嬢さんの最後の笑顏を思ひ浮かべるのです。すると何か少し後ろめたいやうな不思議に哀しい氣持が私の心を過(よ)ぎるのを常としてゐるのです。 (二〇一〇・六・六)

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月10日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十九回

Kokoro13_8   先生の遺書

    (四十九)

 私の書いた手紙は可なり長いものであつた。母も私も今度こそ先生から何とか云つて來るだらうと考へてゐた。すると手紙(てかみ)を出して二日目にまた電報が私宛で屆いた。それには來ないでもよろしいといふ文句だけしかなかつた。私はそれを母に見せた。

 「大方手紙(てがみ)で何とか云つてきて下さる積だらうよ」

 母は何處迄も先生が私のために衣食の口を周旋して呉れるものと許解釋してゐるらしかつた。私も或は左右かとも考へたが、先生の平生から推して見ると、何うも變に思はれた。「先生が口を探してくれる」。これは有り得べからざる事のやうに私には見えた。

 「兎に角私の手紙はまだ向ふへ着いてゐない筈だから、此電報は其前に出したものに違ひないですね」

 私は母に向つて斯んな分り切つた事を云つた。母は又尤もらしく思案しながら「左右だね」と答へた。私の手紙を讀まない前に、先生が此電報を打つたといふ事が、先生を解する上に於て、何の役にも立たないのは知れてゐるのに。

 其日は丁度主治醫が町から院長を連れて來る筈になつてゐたので、母と私はそれぎり此事件に就いて話をする機會がなかつた。二人の醫者は立ち合の上、病人に浣腸などをして歸つて行つた。

 父は醫者から安臥を命ぜられて以來、兩便とも寢たまゝ他(ひと)の手で始末して貰つてゐた。潔癖(けつへき)な父は、最初の間こそ甚しくそれを忌み嫌つたが、身體(からだ)が利かないので、己(やむ)を得ずいや/\床の上で用を足した。それが病氣の加減で頭がだん/\鈍くなるのか何だか、日を經るに從つて、無精な排泄を意としないやうになつた。たまには蒲團や敷布を汚(よご)して、傍(はた)のものが眉を寄せるのに、當人は却て平氣でゐたりした。尤も尿の量は病氣の性質として、極めて少なくなつた。醫者はそれを苦にした。食欲も次第に衰へた。たまに何か欲しがつても、舌が欲しがる丈で、咽喉(のど)から下へは極(ごく)僅しか通らなかつた。好な新聞も手に取る氣力がなくなつた。枕の傍(そば)にある老眼鏡は、何時迄も黑い鞘に納められた儘であつた。子供の時分から仲の好かつた作(さく)さんといふ今では一里ばかり隔たつた所に住んでゐる人が見舞に來た時、父は「あゝ作さんか」と云つて、どんよりした眼を作さんの方に向けた。

 「作さんよく來て呉れた。作さんは丈夫で羨ましいね。己(おれ)はもう駄目だ」

 「そんな事はないよ。御前なんか子供は二人とも大學を卒業するし、少し位(くらゐ)病氣になつたつて、申し分はないんだ。おれを御覽よ。かゝあには死なれるしさ、子供はなしさ。たゞ斯うして生きてゐる丈の事だよ。達者だつて何の樂しみもないぢやないか」

 浣腸をしたのは作さんが來てから二三日あとの事であつた。父は醫者の御蔭で大變樂になつたといつて喜んだ。少し自分の壽命に對する度胸が出來たといふ風に機嫌が直つた。傍(そば)にゐる母は、それに釣り込まれたのか、病人に氣力を付けるためか、先生から電報のきた事を、恰も私の位置が父の希望する通り東京にあつたやうに話した。傍にゐる私はむづがゆい心持がしたが、母の言葉を遮る譯にも行かないので、默つて聞いてゐた。病人は嬉しさうな顏をした。

 「そりや結構です」と妹の夫も云つた。

 「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。

 私は今更それを否定する勇氣を失つた。自分にも何とも譯の分らない曖昧な返事をして、わざと席を立つた。

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やぶちゃんの摑み:この回、理由不明であるが、『大阪朝日新聞』は一日ずれて、6月11日(木曜日)掲載となっており、以降、6月13日までその一日のずれが続く(底本には、この遅延現象についての説明はない。失礼ながら、底本は「近代文学初出復刻」と名打っているが、この遅延の理由を注しないのは一級資料としては杜撰であると言わざるを得ない)。

「來ないでもよろしい」前章注参照。「私の手紙を讀まない前に、先生が此電報を打つたといふ事が、先生を解する上に於て、何の役にも立たないのは知れてゐる」という語に我々は騙されるのである。明治天皇そして乃木の殉死という極めて象徴的な「事件」の直後に「私」に「來ラレルカ」と打電をした先生は、直接、「私」に過去を語ることを決意したのだということは鈍感な読者にも容易に知れることである。ところが、多くの読者は先生が「私」の時間の中のどの瞬間に自死を決したかを問題にしない。これは片手落ちである(私は「片手落ち」という語を差別用語として認識しない。嫌な方は近松も漱石も皆、焚書にするがよい)。今、読んでいる、この時、先生は確かに自死を決意している!

「先生の平生から推して見ると、何うも變に思はれた」漱石のこの二度の「變」の暗示は確信犯である。分かり過ぎるほどの伏線である。しかし、多くの読者はそれに鈍感であった。少なくとも私は、「私」の時間とシンクロさせて先生の自死の問題を扱った論文を見たことがないからである。高校生諸君、まだまだ、面白いぞ! 「こゝろ」は!

♡「兎に角私の手紙はまだ向へ着いてゐない筈だから、此電報は其前に出したものに違ひないですね」「私」が何故「母に向つて斯んな分り切つた事を云つた」のか? これこそ「變」ではないのか? 少なくとも私はそう思う。そして、先生の自死の決意の瞬間が、正にこの間にこそ――先生からの二つの「チヨツトコラレルカ」と「コナイデモヨロシイ」の電報の間にこそ――あったことを示すための確信犯である、と私は確信するのである。それは9月14日(土)か15日(日)――即ち、このどちらかこそが『先生自死記念日』(但し、明確な自死決定は少し後の9月16日(月)か17日(火))であると私は思うのである ……ところが!……ところが、残念なことに、この私の見解は、先生の遺書の最初で、あっけなく否定されてしまうのである!……何故なら、これは――「私」の早とちり(!?)であった――という事実があっけらかんと示されるから……なのである。以下、その部分をフライングして確認してみよう。
   ――
その部分は、こう始まる。……
『其後私はあなたに電報を打ちました。有體に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。』
それに対して、「私」は、
『返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ました』
が、それを先生は、
『失望して永らくあの電報を眺めてゐました。』
と言う。そうして付け加えて、
『あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙を寄こして呉れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。』
と続く。その後に、先生は懺悔風に、
『あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。』
と述懐する。そして『私は斯ういふ矛盾な人間なのです』と述べて「私」に深謝するのである。ところがその次に、「私」が父の病状等を仔細に書いた「長い手紙」(=私が先生に送った「最後の手紙」)を『讀んだ時』、
『私は惡い事をした』
と思ったと懺悔し、更に、そういう謝罪を含んだ、
『返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに已めました。』
と書く。その次には、あの印象的な一句、
『何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。』
が綴られる。そうして、
『私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。』
という一文を以って先生の遺書の最初のパート(「こゝろ」の「先生と遺書」の一)は終わる。……
   ――
……かつて……
……先生じゃないが……「私は失望して永らく」この文章「を眺めてゐました」よ!……
……だって!……これじゃ、あの「私」の「兎に角私の手紙はまだ向へ着いてゐない筈だから、此電報は其前に出したものに違ひないですね」は……トンダ、早トチリのコンコンチキ、それに載せられた私は、トンダ、馬鹿みたチキチキバンバンじゃあねえか!……
……こんなところに意味のない「早トチリ」のお笑いがあっていいんですか?! 漱石先生?! お答あれ!……
……最後に言いたい。
私は、漱石は辻褄合わせが面倒臭くなったのだと思う。
遺書を書き始めてみて、先生の自死の決意の瞬間を、予定していたものから変更してしまったのだと思う。
先程の私の妙な言い方を用いるならば、『先生自死記念日』と明確な自死決定の日付の微妙なズレを漱石は初期設定としていたのであるが、いざ、遺書にとりかかってみたところそのような微妙なズレを分かり易く書くことが不可能だということに気付いた。そこで、辻褄の合うような事実として、遺書のようなシチュエーション――「私」の手紙を読んでから「コナイデモヨロシイ」電報を打った、その後に自死の決意と遺書執筆に取り掛かったという、如何にも分かり易い素直な順列設定――にしてしまったのだと確信するのである。
漱石はこうした見るからに分かるような論理矛盾を問題視しない(単行本化するに際し手を加えない)という妙なところ――自己の生み出した作品の最初の生(ナマ)のものへの執着――があるように思われる。そもそも「私」が「手紙を出して二日目にまた電報が私宛で屆いた」際に、「變」だと感じたのは、それが余りに早い、即ち、二日前に出した手紙は、物理的に考えて絶対にまだ先生の手元についていないと判断出来る短さであったからこそ、「私」は「兎に角私の手紙はまだ向へ着いてゐない筈だから、此電報は其前に出したものに違ひないですね」と言わずもがなの当たり前の「分り切つた事」を母に言っているのである!……
――この矛盾、それがあまりにはっきりし過ぎていて、なおかつ、あっけらかんと書かれているために……実はみんな、それに気付かないんじゃないかな? と、私は密かに思っているぐらいなのである……

「主治醫が町から院長を連れて來る筈になつてゐた」この描写から、必ずしもこの「私」の住む村が小規模な山間部にあるものではないということが分かる。即ち、「私」の村には町の大きな病院の出張診療所があり、そこの医師を主治医としているということを示すからである。この出張診療所は巡回式の非常住タイプかも知れないが、父の急変にかなり小まめに往診しているところを見ると、少なくともこの「私」の村の診療所をベースにその他の診療所を巡回している医師と考えられる。

「子供の時分から仲の好かつた作さん」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏はここに目から鱗の注を附しておられる。「こゝろ」フリークを自任する私でさえ、ここに気付くことはなかった。著作権の問題から、今まで他者の注を完全に引き写すことはして来ていないのであるが、ここだけは是非とも例外ながら引用させて頂く。

   《引用開始》

二人のやりとりの調子からも、子供の時からの仲好しということからも、父と作さんとが階層的にへだたった関係であったとは考えにくい。つまり、作さんの家もそこそこの地主階級であったと考えられる。興味深いのは、作さんが「今では一里ばかり隔たつた所に住んで居る」=転居していったという点だ。ヒントとなるのは、「かゝあには死なれるし、子供はなしさ」という情報であり、養子もむかえなかったことがこれでわかるが、現在、一人住まいであるとは考えられず、だとしたら分家筋とかの親類の家にでも身を寄せているのだろうか。家族にも恵まれなかったことは確かだが、もう一つ考えられるのは、かつては私の家と肩を並べるくらいの地主であった作さんの家が没落してもいったのではないか、ということだ。そのために、養子を迎えることもできなかったのかもしれないのである。柳田国男の『故郷七十年』には、そのような「村の有志家のうち、ちょっとした蹉跌で失脚するものが少なくなかった」例が多数報告されている。「辻川の村でもどうしても滅びなければならない家というのが、もう早く決まっていた。私の生家の松岡なんかもその一つだったが、この外にも、村の水平より高い考えをもって、気位だけは高いが実力が伴わなかった家が大分あった。やっぱり新しい時代であったから、その波にまき込まれて滅びている。私どもが覚えてからでも、そういう家が三、四軒や、五、六軒はあった。その代りに一方では『ああ、あれが出世しあたか』というような思いがけない人もあった」。もちろん、没落した家も何らかのかたちでは存続していたのである。「そのころはどの家でも資産よりやや豊かな生活、自由な生活をし、本など読むので口ばかり達者になり、人中へ出て酒を飲む機会がふえて、家の財産を失ってしまったという話が多かった。しかし家がまるきり絶えたわけでなく、どこかに移って生活を続けることになる」といったように。

   《引用終了》

柳田国男(明治8(1875)年~昭和371962)年)は現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川に松岡操・たけの六男として生まれた。以下、ウィキの「柳田国男」から引用する、『父操は姫路藩儒者角田心蔵の娘婿田島家の弟として一時籍を入れ、“田島賢次”という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や好古堂という学校で修行し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任した。明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には、じつに予期せざる家の変動でもあり、父操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという』。『幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を乱読。13歳のときに長男の鼎に引き取られ茨城県の利根川べりに住む。この際に隣家の小川家の蔵書を乱読、また利根川の風物に強い印象を受ける。16歳のときに東京に住んでいた兄、井上通秦と同居、19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎える』という事蹟を持つ。因みに藤井氏はある種の確信犯で柳田を引用している感じがする。藤井氏は「私」の故郷を京阪兵庫辺りに絞っておられるからである。それにしてもこうした前近代的社会の崩落をここに立ち止って見出して下さったのには深く感謝するものである。これは確かに深い設定であり、藤井氏の引用する柳田の言説もこのシーンの地底を的確にディグしている。]

2010/06/09

「心」第(七十二)回 ♡やぶちゃんの摑み メーキング映像

今日やったちょっと面白かった第(七十二)回の「♡やぶちゃんの摑み」――今、こんなことをやってるというメーキング先走り公開――

 夏目漱石原作やぶちゃん脚色「心」撮影用台本 (copyright 2010 Yabtyan

◎シーン72(モノクロ・1シークエンス27ショット)
(F.I.)
●茶の間
夕食後、茶の時間。各自の前に平らげた箱膳。中央に火屋の大き目な洋灯(ランプ)。
○ショット1(ランプの火屋を右になめて箱膳を含めた先生のフル・ショット。)
先生「……実は今日、大学で友人の一人から何時妻を迎えたのかと冷やかされましてね。お前の細君は非常に美人だなどと言って賞められました。(靜の方をちらりと見る。)どうも一昨日(おとつい)、三人連れで日本橋へ出掛けたところを、その男に何処かで見られたようです。」
○ショット2(箱膳を含めた奥さんの左からのフラットなフル・ショット。向うに伏目がちにはにかんでいる靜にも焦点を合わせて入れる。)
奥さん「まあ……(笑いながら)でも定めし、ご迷惑でしたろう?」
と笑ったまま、やや探るような下目遣いで見る。
○ショット3(先生の頭部のフル・ショット。)
その目に気づきながら、気づかぬ振りをして先生は平静を装う。少し間。先生、何か口を開いて言いかけようとする。がまた、口を噤んで、また暫く間を置いてから、
先生「……あの……時に、お嬢さんには……その、縁談のお話などは、当然もう、おありになるんでしょうね?」
○ショット4(奥さんの頭部のフル・ショット。向うにぼんやりした靜の面影。)
奥さん「(笑いながら)……ええ、二、三そういう話がないでも御座いませんが……でもねえ、未だ女学校へ通っているぐらいで、年も若う御座いますしね……こちらでは、さほど急いでは御座いませんの……」
○ショット5(靜の横顔のフル・ショット。)
靜「ま……こっちではなんて……あんまりだわ!」
とぷっと膨れる。しかし、直ぐに笑顔。
○ショット6(ショット2と同じ位置から。奥さん、靜の方を向く。向うに笑みを浮かべた伏目がちの靜。)
そのまま奥さん、ゆっくりと顔を左手(先生の方)へ直る。満足げな笑み。
奥さん「まあ……決めようと思うなら……宅(うち)では二人ぎりです御座いますから、いつでも直ぐに決められますけれど……そりゃあ、どうしても、この子一人ぎりで御座いましょう?……ちょいと、思案致しますこともないわけでは、ありませんの……」
○ショット7(天井から三人を俯瞰。)
暫し、沈黙。先生、茶を啜る。
○ショット8(アップ。)
先生の右の眼鏡の前面に映る奥さんと靜を含む茶の間の、やや歪んだ映像。
○ショット9(ショット1と同じ仰角のフル・ショット。)
先生、再び口を開き、また閉じる。そうして徐ろに上体を起こして、
先生「……さて……では、そろそろお暇致します……」
と立ち上がる。(そのままカメラは少し引いて先生の立ったフル・ショットへ)
先生、頭(こうべ)を右に廻して振り返り、茶の間の奥を凝っと見下ろす。
○ショット10(フラットに。)
いつの間にか、茶の間奥の戸棚の前に、こちらに背を向けて座っている靜。
○ショット11(アップ。)
先生の顔。眼鏡に奥さんと靜の映像が写っている。
○ショット12(アップ。)
靜の右後ろから横顔。
(カメラ、ゆっくり靜の膝の上へとティルト・ダウン。)
膝の向う、30㎝程引き開けられた戸棚。戸棚から伸びる艶やかな靜の反物。
それをゆっくりと撫でる靜の手。
(カメラ、その動きに沿って戸棚の方へパン。)
戸棚の中の隅。
靜の反物に重ね置かれている先生のすっきりとした紺の反物。
○ショット13(アップ)
反物に眼を落としている靜の右横顔。
○ショット14(先生の右眼鏡をフレームにして魚眼レンズ。)
茶の間の奥の靜、見上げる奥さん。
○ショット15
先生、何も言わずに左の廊下の障子の方へ歩みかける。
○ショット17(煽りのバスト・ショット。)
奥さん「(急に改たまった調子で)どう思われます?」
○ショット18(バスト・ショット。)
振り返る先生。
先生「……は? 何をですか?……」
○ショット19(15よりさらに寄った煽りのバスト・ショット。)
奥さん「この子を……早く片付けた方がよろしいでしょうかねえ?……」
○ショット20(茶の間奥、戸棚の下位置から、座った伏目の靜の右半身をなめて。)
見上げる奥さんと先生。
先生「……そうですね……なるべくゆっくら方が、好(い)いでしょう。……」
○ショット21(19よりさらにさらに寄った煽りのバスト・ショット。)
奥さん「……(笑って)私もそう存じます。……」
○ショット22(先生の頭部煽り。)
先生「では、お休みなさい。」
○ショット23(廊下上から俯瞰。)
障子を開けて出る先生。頭越し、向うに奥さんと背を向けた靜の面影。
○ショット24(ショット20と同じ茶の間奥の戸棚下位置から、座った更に伏目がちになった靜の右半身をなめて。)
茶の間を出てゆく先生。障子、閉まる。
○ショット25(奥さんのバストショット右側から。)
奥さんの顔から笑顔が消え、少し失望した風でゆっくりと靜の方を見る。
○ショット26(バスト・ショット。)
戸棚の前の靜の背中。分かるか分からないか程、靜、頭を落す。(遠ざかる先生の足音が被る。)
○ショット27(アップ。)
ランプの火屋。炎。
(F.O.)

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月9日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十八回

Kokoro13_7   先生の遺書

    (四十八)

 兄が歸つて來た時、父は寢ながら新聞を讀んでゐた。父は平生から何を措いても新聞丈には眼を通す習慣であつたが、床についてからは、退屈のため猶更それを讀みたがつた。母も私も強ひては反對せずに、成るべく病人の思ひ通りにさせて置いた。

 「さういふ元氣なら結構なものだ。餘程惡いかと思つて來たら、大變好(い)いやうぢやありませんか」

 兄は斯んな事を云ひながら父と話をした。其賑やか過ぎる調子が私には却つて不調和に聞こえた。それでも父の前を外して私と差し向ひになつた時は、寧ろ沈んでゐた。

 「新聞なんか讀ましちや不可(いけ)なかないか」

 「私もさう思ふんだけれども、讀まないと承知しないんだから、仕樣がない」

 兄は私の辯解を默つて聞いてゐた。やがて、「能く解るのかな」と云つた。兄は父の理解力が病氣のために、平生(へいせい)よりは餘程鈍つてゐるやうに觀察したらしい。

 「そりや慥(たしか)です。私はさつき二十分(ふん)許り枕元に坐つて色々話して見たが、調子の狂つた所は少しもないです。あの樣子ぢやことによると未だ中々持つかも知れませんよ」

 兄と前後して着いた妹の夫の意見は、我々よりもよほど樂觀的であつた。父は彼に向つて妹の事をあれこれと尋ねてゐた。「身體が身體だから無暗に汽車になんぞ乘つて搖れない方が好い。無理をして見舞に來られたりすると、却つて此方が心配だから」と云つてゐた。「なに今に治つたら赤ん坊の顏でも見に、久し振に此方から出掛るから差支ない」とも云つてゐた。

 乃木(のき)大將の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知つた。

 「大變だ大變だ」と云つた。

 何事も知らない私達は此突然な言葉に驚ろかされた。

 「あの時は愈(いよ/\)頭が變になつたのかと思つて、ひやりとした」と後で兄が私に云つた。「私も實は驚ろきました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであつた。

 其頃の新聞は實際田舍ものには日毎に待ち受けられるやうな記事ばかりあつた。私は父の枕元に坐つて鄭寧(ていねい)にそれを讀んだ。讀む時間のない時は、そつと自分の室へ持つて來て、殘らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木(のき)大將と、それから官女見たやうな服裝をした其夫人の姿を忘れる事が出來なかつた。

 悲痛な風が田舍の隅迄吹いて來て、眠たさうな樹や草を震はせてゐる最中に、突然私は一通の電報を先生から受取つた。洋服を着た人を見ると犬が吠えるやうな所では、一通の電報すら大事件であつた。それを受取つた母は、果して驚ろいたやうな樣子をして、わざ/\私を人のゐない所へ呼び出した。

 「何だい」と云つて、私の封を開くのを傍に立つて待つてゐた。

 電報には一寸(ちよつと)會ひたいが來られるかといふ意味が簡單に書いてあつた。私は首を傾けた。

 「屹度(きつと)御賴もうして置いた口の事だよ」と母が推斷して呉れた。

 私も或は左右かも知れないと思つた。然しそれにしては少し變だとも考へた。兎に角兄や妹の夫迄呼び寄せた私が、父の病氣を打遣(うちや)つて、東京へ行く譯には行かなかつた。私は母と相談(さうたん)して、行かれないといふ返電を打つ事にした。出來る丈簡略な言葉で父の病氣の危篤に陷りつゝある旨も付け加へたが、夫(それ)でも氣が濟まなかつたから、委細手紙(てかみ)として、細かい事情を其日のうちに認(したゝ)めて郵便で出した。賴んだ位地の事とばかり信じ切つた母は、「本當に間の惡い時は仕方のないものだね」と云つて殘念さうな顏をした。

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やぶちゃんの摑み:

「乃木大將の死んだ時」乃木希典(嘉永2(1849)年~大正元(1912)年)は9月13日金曜日の明治天皇大葬の夕刻、まず妻靜が乃木の介添えで胸を突き、続いて乃木が割腹、再度、衣服を整えた上、自ら頸動脈(及び気管)を切断して自刃した。以下、ウィキの「乃木希典」より引用する。『遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記されていた。このときに乃木は

うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり 

という辞世を詠んでいる』。『日露戦争時において乃木は子息を無くし、多くの犠牲者を出したことから、責任を取るために切腹を申し出ていたが、明治天皇から制止され、子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと学習院の院長を命ぜられた。その際「自分が死ぬまで死ぬことはまかりならん」と言われた通り、明治天皇崩御に合わせ殉死した』。

「私の眼は長い間、軍服を着た乃木大將と、それから官女見たやうな服裝をした其夫人の姿を忘れる事が出來なかつた」しばしば言われることであるが、この新聞掲載の乃木夫妻の遺影(これらは確信犯の遺影である)を「私」が見ているのは御大葬翌日9月14日(日)以降、二三日中といった感じの設定であるけれども、実際にはこれはあり得ないであろうシチュエーションである。例えば『東京朝日新聞』では洋風客間で新聞を読む乃木と部屋の隅に佇む靜の有名な遺影写真は9月30日(月)附紙面(写真見出し「殉死の朝」)の掲載、同日同誌東京市内版に軍服と女官正装の玄関前での一人一人の個人遺影掲載された。これによっても乃木の写真を「私」がこうして落ち着いて見ることは作中設定上はあり得ないことになる。何故なら、私の計算では9月28日(土)から遅くとも30日(月)には、先生から遺書が届き、即日「私」は東京へと昼頃には立たねばならないからである。

「一寸會ひたいが來られるか」この時(御大葬翌日9月14日頃)、先生は「私」に直に秘密の過去を告白するつもりでいたことが分かる。遺書の末尾にも先生はこう書いている。

私が死なうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自敍傳の一節を書き殘すために使用されたものと思つて下さい。始めは貴方に會つて話をする氣でゐたのですが、書いて見ると、却つて其方が自分を判然描き出す事が出來たやうな心持がして嬉しいのです。

私はこの間の先生の年表を次のように作製している(「こゝろ」マニアックス)。

●9月13日(金)   乃木大将殉死の報に触れる。同日、私へ電報を打つ。
            「チヨツトアヒタイガコラレルカ」
●9月14日(土)か  私からの電報を受け取る。同日、再び私へ電報を打つ。

 15日(日)     「コナイデモヨロシイ」
●9月16日(月)か  自殺を決意、遺書の執筆を始める。

 17日(火)

「然しそれにしては少し變だとも考へた」諸君! この(四十八)章から(四十九)章の時間こそが、先生が自死を決意した時間であることに気づけ!]

2010/06/08

人生の選択

眩暈の原因を追究して、一つの虞れを確認した――血算で基準値を超えていたもの(何故か尿検では尿糖他は出なかった)――

尿酸値7.5 (基準値3.7~7.0)

中性脂肪206 (基準値35~149)

空腹時血糖値111(基準値70~109)

HbA1c6.2(基準値4.3~5.8)

糖尿病は致命的に悪化はしていない――但し、順調に悪化はしている――眩暈は糖尿病由来の可能性は低い(耳鼻科医の言う内耳性由来ということであろう)――しかし、内科医師は言った――

「薬を飲むか、管理をして体重を下げ、HbA1cを下げるかですね。」

3分で医師との面談は終わった――

糖尿病の薬は飲み始めれば永遠に飲まねばならぬ――

とりあえず僕は処方箋を書いてもらわなかった――

これも一つの人生の選択である――

鎮魂に

Hands Leonardo da Vinci

そんな世界が 村上昭夫

蛇が蛇だという理由で

嫌われなくなる時が来たらいいと思う

 

誰もが木の実や草を食べて

獅子や熊までが

人間と一緒になってうたえたらいいと思う

 

人間も美しい心のままに裸心になり

生殖と死を恥ずかしくなくおこなえる時が来たならいいと思う

この詩を

私の友と

その友の

昨年山で

亡くなった

母御前(ははごぜ)に捧げる――

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月8日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十七回

Kokoro13_5   先生の遺書

    (四十七)

 斯うした落付のない間にも、私はまだ靜かに坐る餘裕を右(も)つてゐた。偶には書物を開けて十頁(ページ)もつゞけざまに讀む時間さへ出て來た。一旦堅く括られた私の行李は、何時の間にか解かれて仕舞つた。私は要るに任せて、其中から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちで極めた、此夏中の日課を顧みた。私の遣つた事は此日課の三ケ一にも足らなかつた。私は今迄も斯ういふ不愉快を何度となく重ねて來た。然し此夏程思つた通り仕事の運ばない例(ためし)も少なかつた。是が人の世の常だらうと思ひながらも私は厭な氣持に抑え付けられた。

 私は此不快の裏(うち)に坐りながら、一方に父の病氣を考へた。父の死んだ後の事を想像した。さうして夫(それ)と同時に、先生の事を一方に思ひ浮べた。私は此不快な心持の兩端に地位。教育、性格の全然異なつた二人の面影を眺めた。

 私が父の枕元を離れて、獨り取り亂した書物の中に腕組をしてゐる所へ母が顏を出した。

 「少し午眠(ひるね)でもおしよ。御前も嘸(さぞ)草臥(くたび)れるだらう」

 母は私の氣分を了解してゐなかつた。私も母からそれを豫期する程の子供でもなかつた。私は單簡に禮を述べた。母はまだ室の入口に立つてゐた。

 「お父さんは?」と私が聞いた。

 「今よく寢て御出だよ」と母が答へた。

 母は突然這入て來て私の傍に坐(すわつ)た。

 「先生からまだ何とも云つて來ないかい」と聞いた。

 母は其時の私の言葉を信じてゐた。其時の私は先生から屹度返事があると母に保證した。然し父や母の希望するやうな返事が來るとは、其時の私も丸で期待しなかつた。私は心得があつて母を欺いたと同じ結果に陷つた。

 「もう一遍手紙を出して御覽な」と母が云つた。

 役に立たない手紙を何通書かうと、それが母の慰安になるなら、手數(てすう)を厭ふやうな私ではなかつた。けれども斯ういふ用件で先生にせまるのは私の苦痛であつた。私は父に叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下(みさげ)られるのを遙かに恐れてゐた。あの依賴に對して今迄返事の貰へないのも、或はさうした譯からぢやないかしらといふ邪推もあつた。

 「手紙を書くのは譯はないですが、斯ういふ事は郵便ぢやとても埒(らち)は明きませんよ。何うしても自分で東京へ出て、ぢかに賴んで廻らなくつちや」

 「だつて御父さんがあの樣子ぢや、御前、何時東京へ出られるか分らないぢやないか」

 「だから出やしません。癒るとも癒らないとも片付ないうちは、ちやんと斯うしてゐる積です」

 「そりや解り切つに話だね。今にも六づかしいといふ大病人を放(ほう)ちらかして置いて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」

 私は始め心のなかで、何も知らない母を憐れんだ。然し母が何故斯んな問題を此ざわ/\した際に持ち出したのか理解出來なかつた。私が父の病氣を餘所に、靜かに坐つたり書見したりする餘裕のある如くに、母も眼の前の病人を忘れて、外の事を考へる丈、胸に空地(すきま)があるのか知(し)らと疑つた。其時「實はね」と母が云ひ出した。

 「實は御父さんの生きて御出のうちに、御前の口が極つたら嘸安心なさるだらうと思ふんだがね。此樣子ぢや、とても間に合はないかも知れないけれども、夫にしても、まだあゝ遣つて口も慥(たしか)なら氣も慥なんだから、あゝして御出のうちに喜こばして上げるやうに親孝行をおしな」

 憐れな私は親孝行の出來ない境遇にゐた。私は遂に一行の手紙(てかみ)も先生に出さなかつた。

Line_5

やぶちゃんの摑み:

「右つてゐた」「有」の誤植。

♡「地位。」「、」(読点)の誤植。

♡「私は此不快の裏に坐りながら、一方に父の病氣を考へた。父の死んだ後の事を想像した。さうして夫と同時に、先生の事を一方に思ひ浮べた。私は此不快な心持の兩端に地位。教育、性格の全然異なつた二人の面影を眺めた」たびたび繰り返される父―先生の二項対立であるが、たとえばここで実父の存在を想起するのに、わざわざ前段の「不快」に引き付けている点に着目したい。それは「私」の無意識に、生物学的遺伝的に自己と言う固体に直結する実父の存在に対する、根源的な生理的嫌悪感が存在することの表象であり(それをエディプス・コンプレクス的なるものとして捉えるかどうかは別として)、そうした「私」の異常な感覚を小出しにすることで、事前に何度も読者の感覚にカンフルを打っておき、そして違和感なく(麻痺状態で)、『父を捨てて先生に走る』「私」を受容させることを目的としている、と私は睨んでいる。

「私も母からそれを豫期する程の子供でもなかつた」日本語としておかしい気がする。ここは「私も母にそれを期待する程の子供でもなかつた」の意であろう。

「そりや解り切つに話だ」「そりや解り切つた話だ」の誤植。]

2010/06/07

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月7日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十六回

Kokoro13_4   先生の遺書

    (四十六)

 父の病氣は同じやうな状態で一週間以上つゞいた。私はその間に長い手紙を九州にゐる兄宛で出した。妹へは母から出させた。私は腹の中で、恐らく是が父の健康に關して二人へ遣る最後の音信だらうと思つた。それで兩方へ愈(いよ/\)といふ場合には電報を打つから出(で)で來いといふ意味を書き込めた。

 兄は忙がしい職にゐた。妹は妊娠中であつた。だから父の危險が眼の前に逼らないうちに呼び寄せる自由は利かなかつた。と云つて、折角都合して來たには來たが、間に合はなかつたと云はれるのも辛かつた。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。

 「さう判然(はつき)りした事になると私にも分りません。然し危險は何時來るか分らないといふ事丈は承知してゐて下さい」

 停車場(ステーシヨン)のある町から迎へた醫者は私に斯う云つた。私は母と相談して、其醫者の周旋で、町の病院から看護婦を一人賴む事にした。父は枕元へ來て挨拶する白い服を着た女を見て變な顏をした。

 父は死病に罹つてゐる事をとうから自覺してゐた。それでゐて、眼前にせまりつゝある死そのものには氣が付かなかつた。

 「今に癒つたらもう一返東京へ遊びに行つて見やう。人間は何時死ぬか分らないからな。何でも遣りたい事は、生きてるうちに遣つて置くに限る」

 母は仕方なしに「其時は私も一所に伴れて行つて頂きませう」などゝ調子を合せてゐた。

 時とすると又非常に淋しがつた。

 「おれが死んだら、どうか御母さんを大事にして遣つてくれ」

 私は此「おれが死んだら」といふ言葉に一種の記憶を有つてゐた。東京を立つ時、先生が奧さんに向つて何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であつた。私は笑を帶びた先生の顏と、縁喜(えんぎ)でもないと耳を塞いだ奧さんの樣子とを憶ひ出した。あの時の「おれが死んだら」は單純な假定であつた。今私が聞くのは何時起(おこ)るか分らない事實であつた。私は先生に對する奧さんの態度を學ぶ事が出來なかつた。然し口の先では何とか父を紛らさなければならなかつた。

「そんな弱い事を仰しやつちや不可せんよ。今に癒つたら東京へ遊びに入らつしやる筈ぢやありませんか。御母さんと一所に。今度入らつしやると屹度(きつと)吃驚(びつくり)しますよ、變つてゐるんで。電車の新らしい線路丈でも大變増えてゐますからね。電車が通るやうになれば自然町並も變るし、その上に市區改正もあるし、東京が凝としてゐる時は、まあ二六時中一分もないと云つて可(い)い位です」

 私は仕方がないから云はないで可い事迄喋舌(しやべ)つた。父はまた、滿足らしくそれを聞いてゐた。

 病人があるので自然家の出入も多くなつた。近所(きんしよ)にゐる親類などは、二日に一人位(くらい)の割で代(かは)る代(がは)る見舞に來た。中には比較的遠くに居て平生(へいせい)疎遠なものもあつた。「何うかと思つたら、この樣子ぢや大丈夫だ。話も自由だし、だいち顏がちつとも瘠せてゐないぢやないか」などと云つて歸るものがあつた。私の歸つた當時はひつそりし過ぎる程靜であつた家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。

 その中に動かずにゐる父の病氣は、たゞ面白くない方へ移つて行くばかりであつた。私は母や伯父と相談して、とう/\兄と妹に電報を打つた。兄からはすぐ行くといふ返事が來た。妹の夫からも立つといふ報知があつた。妹は此前懷妊した時に流産(りうさん)したので、今度こそは癖にならないやうに大事を取らせる積だと、かねて云ひ越した其夫は、妹の代りに自分で出て來るかも知れなかつた。

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やぶちゃんの摑み:以下、注に記すところの、「私」に「云はないで可い事迄喋舌」らせた漱石の意図を考えねばならぬ。それは「云はないで可い事」なのではなく、「云はないで」はおかれない大事なこと、作品の核心に迫るための必要条件であることが分かってくる。

「電車の新らしい線路丈でも大變増えてゐます」「三四郎」の「二」には、野々宮が三四郎に『「僕は車掌に教(をそ)はらないと、一人で乘換が自由に出來ない。此二三年來無暗に殖えたのでね。便利になつて却つて困る。僕の學問と同じことだ」』と言うシーンがあるが、作中時間の前年明治441911)年には東京鉄道会社市営化に際しても一番に未完成路線の竣工を急務とされ、内務省の市営化許諾条件には5年後の完成が含まれていた。5年後――奇しくも本連載の年、大正3(1914)年に当たる。

「市區改正」明治から大正にかけて東京市が行った都市改造事業。ウィキの「市区改正」より引用する。『江戸時代の都市骨格を引き継いだ維新後の東京市街は道路幅員が狭く、上下水道などインフラ整備が遅れていた。また密集した市街地では大火がしばしば起こり、都市の不燃化が課題であった。こうした状況から識者の間に都市改造の必要性が認識されていった。『「市区改正」とは、この改造事業が、「東京市区の営業、衛生、防火及び通運等永久の利便を図る」ことを目的とするところから名付けられたもので、今日の「都市計画」にあたる』。明治171884)年に内務省に東京市区改正審査会なるものが設置され計画案が作られたが、これは実施に至らず、事業の開始は明治211888)年の『内務省によって東京市区改正条例(勅令第62号)が公布され、東京市区改正委員会(元東京府知事の芳川顕正が委員長)が設置』されるのを待たねばならなかった。『翌1889年に委員会による計画案(旧設計)が公示され、事業が始まった。財政難のため事業は遅々として進まなかったが、都市化の進展から事業の早期化が必要になり、1903年(明治36年)に計画を大幅に縮小(新設計)した。日露戦争後の1906年(明治39年)には外債を募集し、日本橋の大通りなどの整備を急速に進め、1914年(大正3年)にほぼ新設計どおり完成した。主に路面電車を開通させるための道路拡幅(費用は電車会社にも負担させた)、及び上水道の整備が行われた。現在の日本橋もこの事業で架け替えられた』(下線部やぶちゃん。本連載時である)。

『市区改正は都市全体を構想したもので、日本の都市計画史上の画期となる事業であったが、建築物の規制などは』行われず、『神田・日本橋・京橋付近では、従来の土蔵造の商家に交じって、木造漆喰塗の洋風建築が思い思いに建てられ、「洋風に似て非なる建築」と評された』。『その後も、日本の社会構造の変化や都市への人口集中を背景に、都市や建築の統制が必要という機運が高まり、1919年(大正8年)、市街地建築物法(建築基準法の前身)と合わせて都市計画法(旧法)が制定され、翌年施行された。これに伴い市区改正条例は廃止された。』『なお、市区改正条例は東京のほか、1918年(大正7年)に横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市(5大都市)にも準用された』。「三四郎」の「二」の冒頭、『三四郎が東京で驚いたものは澤山ある。第一電車のち/\鳴るので驚いた。それからそのちん/\鳴る間に、非常に多くの人間が乘つたり降りたりするので驚いた。次に丸の内で驚いた。尤も驚いたのは、どこまで行つても東京がなくならないと云ふ事であった。しかも何處をどう歩いても、材木が放り出してある、石が積んである、新しい家が徃来から二三間引つ込んで居る、古い藏が半分取崩されて心細く前の方に殘つてゐる。凡ての物が破壞されつゝある樣に見える。さうして凡ての物が又同時に建設されつゝある樣に見える。大變な動き方である。』と描写し、そうして次のような、興味深い印象的感懐を引き出す。『三四郎は全く驚いた。要するに普通の田舍者がはじめて都の眞中に立つて驚くと同じ程度に、また同じ性質に於て大に驚いて仕舞つた。今迄の學問は此驚きを予防する上に於て、賣薬程の効能もなかつた。三四郎の自信は此驚きと共に四割方減却した。不愉快でたまらない。』(改行)『この劇烈な活動そのものが取りも直さず現實世界だとすると、自分が今日迄の生活は現實世界に毫も接觸していないことになる。洞(ほら)が峠(とうげ)で晝寐をしたと同然である。それでは今日限り晝寐をやめて、活動の割り前が拂へるかと云ふと、それは困難である。自分は今活動の中心に立つてゐる。けれども自分はたゞ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置き易へられたと云ふ迄で、學生としての生活は以前と變る譯はない。世界はかやうに動搖する。自分は此動搖を見てゐる。けれどもそれに加はることは出來ない。自分の世界と現實の世界は、一つ平面に並んで居りながら、どこも接觸してゐない。さうして現實の世界は、かやうに動搖して、自分を置き去りにして行つて仕舞ふ。甚だ不安である。』(改行)『三四郎は東京の眞中に立つて電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黑い着物を着た人との活動を見て、かう感じた。けれども學生生活の裏面に横たわる思想界の活動には毫も氣がつかなかつた。――明治の思想は西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰り返してゐる。』この三四郎を通した漱石の語りは、「心」を理解する上で、極めて重要な示唆を含むものだと私は思うのである。――「心」に戻ろう。このように見てきた通り、正に「私」が言うように「東京が凝としてゐる時は、まあ二六時中一分もない」のである。――そしてそれは、天皇が死のうが、何が起ころうが「東京が凝としてゐる時は」「二六時中一分もない」のである。……「新聞を讀みながら、遠い東京の有樣を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、何んなに暗いなかで何んなに動いてゐるだらうかの畫面に集められた。私はその黑いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火の如くに先生の家を見た。私は其時此燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其灯も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控えてゐるのだとは固より氣が付かなかつた。」(四十一)……という叙述部分を想起するがよい。『それ』は凡て「動く」――そして「凝つと」していることなく――瞬く間に転変し、消え去ってしまうものなのである。]

昨日第(六十八)回分迄総て「♡やぶちやんの摑み」を添えて自動更新システムに保存した。とり敢へず今月一杯の本ブログでの連載は心配されずとも好い。因みにKの存在への言及(「男」と表記)は7月4日の第(七十二)回、「K」に関わる本格的言説(ディスクール)の開始はその翌日、7月5日の第(七十三)回からである

今少し、お待ちあれ。

2010/06/06

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月6日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十五回

Kokoro13_3   先生の遺書

    (四十五)

 私が愈(いよ/\)立たうといふ間際になつて、(たしか二日前の夕方の事であつたと思ふが、)父は又突然引つ繰返つた。私は其時書物や衣類を詰めた行李(かうり)をからげてゐた。父は風呂へ入(はい)つた所であつた。父の脊中を流しに行つた母が大きな聲を出して私を呼んだ。私は裸體(はだか)の儘母に後から抱かれてゐる父を見た。それでも座敷へ伴れて戻つた時、父はもう大丈夫だと云つた。念の爲に枕元に坐つて、濡手拭で父の頭を冷してゐた私は、九時頃になつて漸く形ばかりの夜食を濟ました。

 翌日になると父は思つたより元氣が好かつた。留めるのも聞かずに歩いて便所へ行つたりした。

 「もう大丈夫」

 父は去年の暮倒れた時に私に向つて云つたと同じ言葉を又繰り返した。其時は果して口で云つた通りまあ大丈夫であつた。私は今度も或は左右なるかも知れないと思つた。然し醫者はたゞ用心が肝要だと注意する丈で、念を押しても判然した事を話して呉れなかつた。私は不安のために、出立の日が來てもついに東京へ立つ氣が起らなかつた。

 「もう少し樣子を見てからにしませうか」と私は母に相談した。

 「さうして御呉れ」と母が賴んだ。

 母は父が庭へ出たり脊戸(せど)ヘ下りたりする元氣を見てゐる間丈は平氣でゐる癖に、斯んな事が起るとまた必要以上に心配したり氣を揉んだりした。

 「御前は今日東京へ行く筈ぢやなかつたか」と父が聞いた。

 「えゝ、少し延ばしました」と私が答へた。

 「おれの爲にかい」と父が聞き返した。

 私は一寸躊躇した。さうだと云へば、父の病氣の重いのを裏書するやうなものであつた。私は父の神經を過敏にしたくなかつた。然し父は私の心をよく見拔いてゐるらしかつた。

 「氣の毒だね」と云つて、庭の方を向いた。

 私は自分の部屋に這入つて、其處に放り出された行李を眺めた。行李は何時持ち出しても差支ないやうに、堅く括(くゝ)られた儘であつた。私はぼんやり其前に立つて、又繩を解かうかと考へた。

 私は坐つた儘腰を浮かした時の落付かない氣分で、又三四日を過ごした。すると父が又卒倒した。醫者は絶對に安臥(あんぐわ)を命じた。

 「何うしたものだらうね」と母が父に聞えないやうな小さな聲に私に云つた。母の顏は如何にも心細さうであつた。私は兄と妹に電報を打つ用意をした。けれども寢てゐる父には、殆ど何の苦悶もなかつた。話をする所などを見ると、風邪でも引いた時と全く同じ事であつた。其上食慾は不斷よりも進んだ。傍(はた)のものが、注意しても容易に云ふ事を聞かなかつた。

 「何うせ死ぬんだから、旨いものでも食つて死ななくつちや」

 私には旨いものといふ父の言葉が滑稽にもにも聞こえた。父は旨いものを口に入れられる都(みやこ)には住んでゐなかつたのである。夜に入つてかき餅などを燒いて貰つてぼり/\嚙んだ。

 「何うして斯う渇くのかね。矢張心に丈夫の所があるのかも知れないよ」

 母は失望していゝ所に却つて賴みを置いた。其癖病氣の時にしか使はない渇くといふ昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用ひてゐた。

 伯父が見舞に來たとき、父は何時迄も引き留めて歸さなかつた。淋しいからもつと居て呉れといふのが重(おも)な理由であつたが、母や私が、食べたい丈物を食べさせないといふ不平を訴たへるのも、其目的の一つであつたらしい。

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[♡やぶちゃんの摑み:

♡「脊戸」裏門。裏口。

♡『「御前は今日東京へ行く筈ぢやなかつたか」と父が聞いた。/……然し父は私の心をよく見拔いてゐるらしかつた。/「氣の毒だね」と云つて、庭の方を向いた。』私はここで漱石は確信犯で先行する(十四)の先生と「私」の対話のシークエンスと鮮やかに対比させて描いているのだと思う。長くなるが(十四)冒頭からあの極めつけの台詞までを引用しておきたい(附したルビは総て排除した)。

 年の若い私は稍ともすると一圖になり易かつた。少なくとも先生の眼にはさう映つてゐたらしい。私には學校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであつた。教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであつた。とゞの詰りをいへば、教壇に立つて私を指導して呉れる偉い人々よりも只獨りを守つて多くを語らない先生の方が偉く見えたのであつた。

 「あんまり逆上ちや不可ません」と先生がいつた。

 「覺めた結果として左右思ふんです」と答へた時の私には充分の自信があつた。其自信を先生は肯がつて呉れなかつた。

 「あなたは熱に浮かされてゐるのです。熱がさめると厭になります。私は今のあなたから夫程に思はれるのを、苦しく感じてゐます。然し是から先の貴方に起るべき變化を豫想して見ると、猶苦しくなります」

 「私はそれ程輕薄に思はれてゐるんですか。それ程不信用なんですか」

 「私は御氣の毒に思ふのです」

 「氣の毒だが信用されないと仰しやるんですか」

 先生は迷惑さうに庭の方を向いた。其庭に、此間迄重さうな赤い強い色をぽた/\點じてゐた椿の花はもう一つも見えなかつた。先生は座敷から此椿の花をよく眺める癖があつた。

「信用しないつて、特にあなたを信用しないんぢやない。人間全體を信用しないんです」

 其時生垣の向ふで金魚賣らしい聲がした。其外には何の聞こえるものもなかつた。大通りから二丁も深く折れ込んだ小路は存外靜かであつた。家の中は何時もの通りひつそりしてゐた。私は次の間に奧さんのゐる事を知つてゐた。默つて針仕事か何かしてゐる奧さんの耳に私の話し聲が聞こえるといふ事も知つてゐた。然し私は全くそれを忘れて仕舞つた。

 「ぢや奧さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。

 先生は少し不安な顏をした。さうして直接の答を避けた。

 「私は私自身さへ信用してゐないのです。つまり自分で自分が信用出來ないから、人も信用できないやうになつてゐるのです。自分を呪ふより外に仕方がないのです」

 「さう六づかしく考へれば、誰だつて確かなものはないでせう」

 「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」(以下略)

♡「悲酸」『大阪朝日新聞』版と単行本「こゝろ」では「悲慘」となっており、そちらが流布形であるが、実は岩波新全集の自筆原稿版を確認すると、ここと同じく「悲酸」となっている。

♡「渇く」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は落合直文編になる明治311898)年刊の国語辞典「ことばの泉」を引用して『頻に欲しがる』の意で、『「(特に)病後、食欲、しきりに進む」場合に言う。』と快復期の用語のように示してある。しかし、私にはこの「渇く」という言葉は、私自身も糖尿病(御存知の通り、この病気は古くは飲水病とも言った)の症状として体験したことのある激しい喉の渇きを連想させ、腎臓病を罹患しているこの父にとっては、母が誤って用いた極めて不吉な言葉――母光(みつ)の不吉なる巫女の如き言上げ――として意識してしまう語である。岩波新全集注解で重松泰雄氏は私の見解と同じくここでの「渇く」を、病的な『かわきの病』の意で注されており、肯んずることが出来る。]

2010/06/05

「藪の中」最後のやぶちゃんの摑み

「藪の中」の授業を終えるに当たって、今回オリジナル授業に更に付け加えた。これは〈やぶちゃんのオリジナル授業ノート=『「藪の中」殺人事件公判記録』〉には記載していない新たな内容である。

――どうしても聞きたかったと言いつつ僕のこの話を聞くことなく、試験を受ける前に一家転住でオーストラリアに旅立ってしまった女生徒Oさんに、このブログを捧げる――

●多襄丸ハ斬首ニナラザル語(こと)第一
【歴史的真実】本件殺人事件の真犯人でなかったとしても昨年の秋の鳥部寺二女性強殺事件(幼女強姦殺人が含まれている可能性があり、現在の裁判でも死刑が宣告される可能性は十分ある)によって検非違使は多襄丸に斬罪の判決を下すかも知れないが、その場合でも彼は流罪となる。
○死刑停止 弘仁9(818)年 嵯峨天皇による死刑を停止(ちょうじ)する宣旨「弘仁格」が公布
これによって、死刑相当の罪に対して死罪の判決が下されても、死刑執行権限を持つ天皇の名において流罪への減刑が適用された。その主意は、
・処罰とはいえ人を殺すという仏教上の殺生戒に抵触する恐怖
・平安貴族が極度に忌避したところの「穢れ」に接触する恐怖
・被告人の精神的肉体的に強力な御霊(ごりょう)に対する恐怖
によるものであった(但し、これは平安人の主たる世界であるところの京都御府内での日常適用であって、地方に於ける反乱等の首謀者等は斬首梟首とされた)。
○死刑復活 保元元(1156)年 保元の乱鎮定後に藤原信西の進言によって御白河天皇が崇徳院側についた源為義らを斬罪に処す

☆実に本邦では平安時代、約340年間に亙って公的な意味での死刑は執行されなかった。これは世界の法制史上、稀有の事実なのである。

●芥川ハ当初武弘ノ死霊(しれい)ノ物語ヲ真相トセントセン積ナランカト思ハルル語第二
【芥川龍之介の不倫相手秀しげ子の影としての「真砂」】
○秀しげ子に対して芥川はその不倫当初から既にその動物的性癖(具体は不明であるが、芥川は彼女の中にある種の性的嗜好の異常性や後のストーカー行為に繋がるような偏執性を見抜いていたものと思われる)に生理的違和感を感じていた。後に「或阿呆の一生」等で「狂人の娘」と表現するように激しい嫌悪の対象となるに至る。不倫関係を解消後(芥川の中国行は彼女からの逃避をも目的としていたことは周知の事実である)も、終生そのストーカー行為に悩まされていた事実。
○現存する親友の画家小穴隆一宛遺書にも彼女は登場し、芥川龍之介の自死の要因の一つに確実に彼女の存在を挙げる事が出来る事実。
○本作執筆の前年大正10(1921)年、既に縁が切れていた(と芥川は言っている)秀しげ子と龍門の四天王と呼ばれた芥川龍之介の弟子格の作家南部修太郎が待合(現在のラブホテル)から出て来るのに出食わしてしまい、芥川が激しい衝撃を受けた事実があり、小穴が、小穴に生前に渡していたとされるプレの遺書(先の遺書ではなく、現存しない)には、一人の不倫相手を友人と共有していたことに恥じて死ぬという言葉があったと自書で証言している点(但し、彼の芥川関連の著作での発言については多くの疑義が持たれてはいる)。
○高宮檀「芥川龍之介の愛した女性」(彩流社2006年刊)の探求によれば、芥川龍之介と秀しげ子との不倫の最初、大正8(1919)年9月15日、彼らが使った深川の待合の名は――「真砂」――であった。……

●然レドモタカガ藪ノ中ハサレド藪ノ中ニシテ小刀ヲ抜キ取リシ者ハ多襄丸ニテモ真砂ニテモ木樵ニテモアラザルト言フ藪野ガ説ノ語第三
【武弘の証言で最後に小刀を抜き取った人物は古畑任三郎ならぬ芥川龍之介】(今回、ここで教壇で古畑任三郎を演じ、やや受けた)
芥川はしばしば作品中に登場したり(「羅生門」)、作品主題をレクチャアしてしまったりする(「鼻」)事実。
芥川の本家新原家は過去を遡ると「藪田」姓を名乗っていた時期がある事実。
○デウス・エクス・マキナ“Deus ex machina”(機械仕掛けの神)としての芥川龍之介の最後の登場
 ギリシャ劇のように楽屋落ちで(作者=神)が超法規的に登場し、(武弘=芥川龍之介自身)の死を(和らげる=救う)若しくは登場人物(真砂=秀しげ子・多襄丸=南部修太郎)総ての魂を救い上げた上、更に作品に謎を残して、多様な真相への解釈の余地を残すために……登場したのでは……あるまいか?……

追伸:更に今回の授業では、オリジナルに作品構造全体のシチュエーション設定を問題としたり(真砂と武弘の死霊(しれい)の物語は検非違使庁の御白洲での「証言」ではないという認識)、大正11(1922)年当時の読者に武弘の死霊の証言が多襄丸や真砂と等価に信じられた傍証として大正心霊ブームの解説もした。これらはまたの機会にお話致そうと存ずる――。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月5日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十四回

Kokoro13_2   先生の遺書

    (四十四)

 九月始めになつて、私は愈(いよ/\)又東京へ出やうとした。私は父に向つて當分今迄通り學資を送つて呉れるやうにと賴んだ。

 「此處に斯うしてゐたつて、あなたの仰しやる通りの地位が得られるものぢやないですから」

 私は父の希望する地位を得るために東京へ行くやうな事を云つた。

 「無論口の見付かる迄で好(い)いですから」とも云つた。

 私は心のうちで、其口は到底私の頭の上に落ちて來ないと思つてゐた。けれども事情にうとい父はまた飽く迄も其反對を信じてゐた。

 「そりや僅の間の事だらうから、何うにか都合してやらう。其代り永くは不可いよ。相當の地位を得次第獨立しなくつちや。元來學校を出た以上、出たあくる日から他の世話になんぞなるものぢやないんだから。今の若いものは、金を使ふ道だけ心得てゐて、金を取る方は全く考へてゐないやうだね」

 父は此外にもまだ色々の小言を云つた。その中には、「昔の親は子に食はせて貰つたのに、今の親は子に食はれる丈だ」などゝいふ言葉があつた。それ等を私はたゞ默つて聞いてゐた。

 小言が一通濟んだと思つた時、私は靜かに席を立たうとした。父は何時行くかと私に尋ねた。私には早い丈が好かつた。

 「御母さんに日を見て貰ひなさい」

 「さう爲ませう」

 其時の私は父の前に存外大人しかつた。私はなるべく父の機嫌(きけん)に逆らはずに、田舍を出やうとした。父は又私を引き留めた。

 「御前が東京へ行くと宅(うち)は又淋しくなる。何しろ己(おれ)と御母さん丈なんだからね。そのおれも身體さへ達者なら好(い)いが、この樣子ぢや何時急に何んな事がないとも云へないよ」

 私は出來るだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ歸つた。私は取散(とりち)した書物の間に坐つて、心細さうな父の態度と言葉とを、幾度(いくたび)か繰り返し眺めた。私は其時又蝉の聲を聞いた。其聲は此間中聞いたのと違つて、つく/\法師の聲であつた。私は夏郷里に歸つて、 煮え付くやうな蝉の聲の中に凝と坐つてゐると、變に悲しい心持になる事がしば/\あつた。私の哀愁はいつも此虫の烈しい音と共に、心の底に沁み込むやうに感ぜられた。私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めてゐた。

 私の哀愁は此夏氣省した以後次第に情調を變へて來た。油蝉の聲がつく/\法師の聲に變る如くに、私を取り卷く人の運命が、大きな輪廻のうちに、そろ/\動いてゐるやうに思はれた。私は淋しさうな父の態度と言葉を繰返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶ひ浮べた。先生と父とは、丸で反對の印象を私に與へる點に於て、比較の上にも、連想の上にも、一所に私の頭に上り易かつた。

 私は殆ど父の凡ても知り盡してゐた。もし父を離れるとすれば、情合の上に親子の心殘りがある丈であつた。先生の多くはまだ私に解つてゐなかつた。話すと約束された其人の過去もまだ聞く機會を得ずにゐた。要するに先生は私にとつて薄暗かつた。私は是非とも其處を通り越して、明るい所迄行かなければ氣が濟まなかつた。先生と關係の絶えるのは私にとつて大いな苦痛であつた。私は母に日を見て貰つて、東京へ立つ日取を極めた。

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[♡やぶちゃんの摑み:

♡「御母さんに日を見て貰ひなさい」という父の言葉に「私はなるべく父の機嫌に逆は」ぬように「母に日を見て貰つて、東京へ立つ日取を極めた」訳だが、ここでは表向きは占いなど気にしないが、父母と無駄に擦れ合わぬように占ってもらった風な謂いながら、その実、「私」の中にはそうした吉凶を気にする部分があるのではなかろうか、ということを我々は容易に感ずるところである。私はそれを「私」の内なる前近代性なんどと言う積もりはない。ただ、面白いとは思う。そして、かくなる私も如何なる占いやジンクスも信じぬと自身では思いながら、そんなものを目にすると、つい気になるという性癖があることを掲げるに留めておこう。あなたにもあろう、などと野暮なことは言い掛けないことにする。ここで言う占いとは今もある陰陽暦術系統の六曜占い辺りであろうと思われる。

♡「つく/\法師」節足動物門昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ Meimuna opaliferaウィキの「ツクツクボウシ」に『成虫は7月から発生するが、この頃はまだ数が少なく、鳴き声も他のセミにかき消されて目立たない。しかし他のセミが少なくなる8月下旬から9月上旬頃には鳴き声が際立つようになる』とある。秋の季語。

♡「油蝉」セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata。夏の季語。

♡「私を取り卷く人の運命が、大きな輪廻のうちに、そろ/\動いてゐるやうに思はれた」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は作中の話者である『私が使いそうな言葉には見えない。むしろ作者が顔を出した個所と』当時の読者には『とられたかもしれない』と記しているが、如何? 私は十代の頃、本作を、ご他聞に漏れず激しくこの「私」に感情移入しながら読んだものだが、この「輪廻」と言う語に、なんらの違和感も感じなかった。逆にひどくこの言葉が「私」と読んでいる私の共時的成長と二重写しになったのを覚えている。そうして――そうして、お分かりの通り、またしても――円環――円運動――なのである。

♡「父の凡ても」『大阪朝日新聞』版と単行本「こゝろ」では「父の凡てを」となっており、そちらが流布形であるが、実は岩波新全集の自筆原稿版を確認すると、ここと同じく「父の凡ても」となっているのである。]

2010/06/04

耳嚢 巻之二目次 追加

失念していた「耳嚢 巻之二」に冒頭の「目次」部分を追加した。

なお、今日気づいたが、この「耳嚢 巻之二」は、私のHP中、Yabtyan's Jazz Record List(4.64MB)に次いで2番目に重い(3.48MB)ページとなっていた。但し、前者は純粋なテクスト・データだけでこの重さなので、半端ねえな。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月4日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十三回

Kokoro13   先生の遺書

    (四十三)

 父は明らかに自分の病氣を恐れてゐた。然し醫者の來るたびに蒼蠅い質問を掛(かけ)て相手を困らす質(たち)でもなかつた。醫者の方でも亦遠慮して何とも云はなかつた。

 父は死後の事を考へてゐるらしかつた。少なくとも自分が居なくなつた後(あと)のわが家を想像して見るらしかつた。

 「小供に學問をさせるのも、好し惡しだね。折角修業をさせると、其小供は決して宅へ歸つて來ない。是ぢや手もなく親子を隔離するために學問させるやうなものだ」

 學問をした結果兄は今遠國にゐた。教育を受けた因果で、私は又東京に住む覺悟を固くした。斯ういふ子を育てた父の愚癡はもとより不合理ではなかつた。永年住み古した田舍家の中(なか)に、たつた一人取り殘されさうな母を描き出す父の想像はもとより淋しいに違ひなかつた。

 わが家(いへ)は動かす事の出來ないものと父は信じ切つてゐた。其中に住む母も亦命のある間は、動かす事の出來ないものと信じてゐた。自分が死んだ後、この孤獨な母を、たつた一人伽藍堂(がらんだう)のわが家に取り殘すのも亦甚だしい不安であつた。それだのに、東京で好(い)い地位を求めろと云つて、私を強ひたがる父の頭には矛盾があつた。私は其矛盾を可笑しく思つたと同時に、其御蔭で又東京へ出られるのを喜こんだ。

 私は父や母の手前、此地位を出來る丈の努力で求めつゝある如くに裝ほはなくてはならなかつた。私は先生に手紙(てかみ)を書いて、家の事情を精しく述べた。もし自分の力で出來る事があつたら何でもするから周旋して呉れと賴んだ。私は先生が私の依賴に取り合ふまいと思ひながら此手紙(てかみ)を書いた。又取り合ふ積でも、世間の狹い先生としては何うする事も出來まいと思ひながら此手紙(てかみ)を書いた。然し私は先生から此手紙(てかみ)に對する返事が屹度來るだらうと思つて書いた。

 私はそれを封じて出す前に母に向かつて云つた。

 「先生に手紙(てかみ)を書きましたよ。あなたの仰しやつた通り。一寸讀んで御覽なさい」

 母は私の想像したごとくそれを讀まなかつた。

 「さうかい、夫ぢや早く御出し。そんな事は他が氣を付けないでも、自分で早く遣るものだよ」

 母は私をまだ子供のやうに思つてゐた。私も實際子供のやうな感じがした。

 「然し手紙ぢや用は足りませんよ。何うせ、九月にでもなつて、私が東京へ出てからでなくつちや」

 「そりや左右かも知れないけれども、又ひよつとして、何んな好(い)い口がないとも限らないんだから、早く賴んで置くに越した事はないよ」

 「えゝ。兎に角返事は來るに極つてますから、さうしたら又御話ししませう」

 私は斯んな事に掛けて几帳面な先生を信じてゐた。私は先生の返事の來るのを心待に待つた。けれども私の豫期はついに外れた。先生からは一週間經つても何の音信もなかつた。

 「大方どこかへ避暑にでも行つてゐるんでせう」

 私は母に向つて云譯らしい言葉を使はなければならなかつた。さうして其言葉は母に對する言譯許りでなく、自分の心に對する言譯でもあつた。私は強ひても何かの事情を假定して先生の態度を辯護しなければ不安になつた。

 私は時々父の病氣を忘れた。いつそ早く東京へ出てしまはうかと思つたりした。其父自身もおのれの病氣を忘れる事があつた。未來を心配(しんはい)しながら、未來に對する處置は一向取らなかつた。私はついに先生の忠告通り財産分配(ぶんはい)の事を父に云ひ出す機會を得ずに過(すぎ)た。

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[♡やぶちゃんの摑み:

♡「先生からは一週間經つても何の音信もなかつた」「私」は淋しい。そして甘い。彼は既に一度、(四十)で先生に「原稿紙へ細字で三枚ばかり國へ歸つてから以後の自分といふやうなものを題目にして書き綴つたのを送」っているが返事は来なかった。次に崩御の直後に「今度の事件に就いて先生に手紙を書かうかと思つて、筆を執りかけた。私はそれを十行ばかり書いて已めた。書いた所は寸々に引き裂いて屑籠へ投げ込んだ。(先生に宛てゝさう云ふ事を書いても仕方がないとも思つたし、前例に徴して見ると、とても返事を呉れさうになかつたから)。私は淋しかつた。それで手紙を書のであつた。さうして返事が來れば好いと思ふのであつた」が、ここでは結局、音信を認(したた)めていない訳である。天皇の死に感慨など持たぬはずと、何処かで先生の心性を思っている「私」ならば、正にここに言うように「又取り合ふ積でも、世間の狹い先生としては何うする事も出來まいと思ひながら此手紙を書いた」訳で、なおのこと、返事は来そうもないと考えるべきである。「然し私は先生から此手紙に對する返事が屹度來るだらうと思つて書いた」のは「私」が淋しいからである。たとえ中身のない、挨拶の一言であっても『恋人』からの手紙が欲しいのである。

 我々は――最早、知らず知らずのうちに、この学生である「私」に成りきった(成りきらされた)我々は、「私」と同じように、『先生は今日只今、一体何を考えているのか?』そもそも『先生はどうしているのか?』と、不在の先生への激しい恋慕を掻き立てられるのである。そうだ。我々は「私」を通して、先生へ焼け付くような恋情を感じているのである。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は、ここに注して『図式的に言えば、〈上〉が縦軸をつかった過去の真相に向かけてのサスペンス劇であったのに対して、〈中〉は横軸をつかった、いま別の場所への興味をかきたてられていくサスペンス劇であったとみなすこと』が出来よう、という印象的な解説をなさっておられる。激しく同感するものである。

 フライングしよう。先生はこの時、返事をしなかった(出来なかった)心境を遺書冒頭パート(遺書の冒頭ではない。(五十五)=所謂「こゝろ」の「先生と遺書」一の冒頭でである)で次のように語り出すからである。

「‥‥私は此の夏あなたから二三度手紙(てかみ)を受け取りました。東京で相當の地位を得たいから宜しく賴むと書いてあつたのは、たしか二度目に手に入つたものと記憶してゐます。私はそれを讀んだ時何とかしたいと思つたのです。少なくとも返事を上げなければ濟まんとは考へたのです。然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです。御承知の通り、交際區域の狹いといふよりも、世の中にたつた一人で暮してゐるといつた方が適切な位(くらゐ)の私には、さういふ努力を敢てする餘地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。實をいふと、私はこの自分を何うすれば好(い)いのかと思ひ煩つてゐた所なのです。此儘人間の中に取り殘されたミイラの樣に存在して行かうか、それとも…其時分の私は「それとも」といふ言葉を心のうちで繰返すたびにぞつとしました。馳足(かけあし)で絶壁の端迄來て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のやうに。私は卑怯でした。さうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶したのです。遺憾ながら、其時の私には、あなたといふものが殆ど存在してゐなかつたと云つても誇張ではありません。一歩進めていふと、あなたの地位、あなたの糊口の資、そんなものは私にとつて丸で無意味なのでした。何うでも構はなかつたのです。私はそれ所の騒ぎでなかつたのです。私は状差へ貴方の手紙を差したなり、依然として腕組(うでぐみ)をして考へ込んでゐました。宅(うち)に相應の財産があるものが何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といつて藻掻き廻るのか。私は寧ろ苦々しい氣分で、遠くにゐる貴方に斯んな一瞥を與へた丈でした。私は返事を上げなければ濟まない貴方に對して、言譯のために斯んな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾な言葉を弄するのではありません。私の本意は後を御覧になれば能く解る事と信じます。兎に角私は何とか挨拶すべきところを默つてゐたのですから、私は此怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思ひます。

そうだ、先生は「何とかしたいと思つた」「少なくとも返事を上げなければ濟まんとは考へた」のだった――しかし先生は「それ所の騒ぎでなかつた」、先生の心の中にはその時、「私」(=学生)のという存在が殆んど掻き消えていたのである。その激しい懊悩は何によるものか?――勿論、明治天皇の死というものが象徴するところの何ものか、以外にはあり得ないのである――。]

先生の遺書パートに入ると、あれもこれも有象無象皆「摑み」に見えてきて関係妄想のように僕の心に襲いかかって来る。さればこそ遅々として進まぬ。それでもやっと先生の郷里出奔、下宿探しのシーン(六十四)の「摑み」まで辿り着いたよ。

2010/06/03

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月3日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十二回

Kokoro13_3   先生の遺書

    (四十二)

 八月の半ごろになつて、私はある朋友から手紙を受け取つた。その中に地方の中學教員の口があるが行(ゆ)かないかと書(かい)てあつた。此朋友は經濟の必要上、自分でそんな位地を探し廻る男であつた。此口も始めは自分の所へかゝつて來たのだが、もつと好(い)い地方へ相談(さうたん)が出來たので、餘つた方を私に讓る氣で、わざ/\知らせて來て呉れたのであつた。私はすぐ返事を出して斷つた。知り合ひの中には、隨分骨を折つて、教師の職にありつきたがつてゐるものがあるから、其方へ廻して遣つたら好からうと書いた。

 私は返事を出した後で、父と母に其話をした。二人とも私の斷つた事に異存はないやうであつた。

 「そんな所へ行かないでも、まだ好(い)い口があるだらう」

 斯ういつて呉れる裏に、私は二人が私に對して有つてゐる過分な希望を讀んだ。迂濶な父や母は、不相當な地位と収入とを卒業したての私から期待して居るらしかつたのである。

 「相當の口つて、近頃ぢやそんな旨い口は中々あるものぢやありません。ことに兄さんと私とは專問も違ふし、時代も違ふんだから、二人を同じやうに考へられちや少し困ります」

 「然し卒業した以上は、少くとも獨立して遣つて行つて呉れなくつちや此方も困る。人からあなたの所の御二男は、大學(たいがく)を卒業なすつて何をして御出ですかと聞かれた時に返事が出來ない樣ぢや、おれも肩身が狹いから」

 父は澁面(おふめん)をつくつた。父の考へは古く住み慣れた郷里(きやうり)から外へ出る事を知らなかつた。其郷里の誰彼(たれかれ)から、大學を卒業すればいくら位(ぐらゐ)月給が取れるものだらうと聞かれたり、まあ百圓位なものだらうかと云はれたりした父は、斯ういふ人々に對して、外聞の惡くないやうに、卒業したての私を片付けたかつたのである。廣い都を根據地として考へてゐる私は、父や母から見ると、丸で足を空に向けて歩く奇體な人間に異ならなかつた。私の方でも、實際さういふ人間のやうな氣持を折々起した。私はあからさまに自分の考へを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔の甚だしい父と母の前に默然(もくねん)としてゐた。

 「御前のよく先生々々といふ方にでも御願したら好(い)いぢやないか。斯んな時こそ」

 母は斯うより外に先生を解釋する事が出來なかつた。其先生は私に國へ歸つたら父の生きてゐるうちに早く財産を分けて貰へと勸める人であつた。卒業したから、地位の周旋をして遣らうといふ人ではなかつた。

 「其先生は何をしてゐるのかい」と父が聞いた。

 「何もして居ないんです」と私が答へた。

 私はとくの昔から先生の何もしてゐないといふ事を父にも母にも告げた積でゐた。さうして父はたしかに夫(それ)を記憶してゐる筈であつた。

 「何もしてゐないと云ふのは、また何ういふ譯かね。御前がそれ程尊敬する位(くらゐ)な人なら何か遣つてゐさうなものだがね」

 父は斯ういつて、私を諷(ふう)した。父の考へでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相當の地位を得て働いてゐる。必竟やくざだから遊んでゐるのだと結論してゐるらしかつた。

 「おれの樣な人間だつて、月給こそ貰つちやゐないが、是でも遊んでばかりゐるんぢやない」

 父はかうも云つた。私は夫でもまだ默つてゐた。

 「御前のいふ樣な偉い方なら、屹度何か口を探して下さるよ。賴んで御覽なのかい」

 と母が聞いた。

 「いゝえ」と私は答へた。

 「ぢや仕方がないぢやないか。何故賴まないんだい。手紙でも好(い)いから御出しな」

 「えゝ」

 私は生返事をして席を立つた。

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[♡やぶちゃんの摑み:

♡「兄さんと私とは專問も違ふ」「問」は「門」の誤植。「私」の専門が不明なため、この謂いも同定に苦しむところであるが、「私」を文科と考えてよいことから、「專問も違ふ」を広義にとれば、一つは兄は理科、それも医学・薬学系や生物・化学系ではない(父の病気について知識が全くなく、症状の観察もいい加減で、所謂、その方面の客観的認識眼はまるでない)、理学・工学・土木・建築系が考え得る。そう考えても、後述される「學校へ這入てからの專門の相違も、全く性格の相違から出てゐた。大學にゐる時分の私は、殊に先生に接觸した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思つてゐた」(五十)という兄の人間像はそれほどおかしいとは思われない。気をつけるべきは「動物的」という語で、これは「殊に先生に接觸した私」との対比構造の中で、極めて「私」の個人的な特殊な謂いとして用いられているという点である。この「動物的」とは「情愛」や「デリカシー」を欠いた傾向の強い、極めて冷徹に現実的実利的――弱肉強食的と附して故に「動物的」としてもよい――人生を生きるさまを言っているものと思われる。そうした観点で、理系を選択肢から外すのであれば、文化でも法科出身の、現在、九州地方の役所に勤務する役人である可能性が浮上してくる。若草書房2000年刊「漱石文学全注釈 12 心」では藤井淑禎氏もそのような可能性を示唆しておられる(同書p177「中」十四の注)。しかし、(五十)では 「一體家の財産は何うなつてるんだらう」という「私」の言葉に、「おれは知らない。御父さんはまだ何とも云はないから。然し財産つて云つた所で金としては高の知れたものだらう」とそっけなく答えている辺りは、いくら民法上で長男優遇措置がとられていたからとしても、法科出身者の物謂いにしては、かなりいい加減な感じがする。しかし、それは法科卒業は役人へのステップ程度にドライに考えていた、故に法制度への興味関心は実は余りないという、正に出世志向の「動物的」人物ででもある故、ととるならば不自然ではあるまい。
♡「澁面(おふめん)」のルビは「じふめん」の誤植。
♡「まあ百圓位なものだらうか」底本注では、まず「値段の明治大正昭和風俗史」から以下の初任給(諸手当を含まない基本給)が示されている。
○明治44(1911)年時の公務員(高等文官試験に合格した高等官)
55円
○大正元(1912)年時の巡査
15円
○大正7(1918)年時の小学校教員
12~20円
続いて、以下の個人の初任給が編者によって示されている。
○夏目漱石 明治28(1895)年愛媛県尋常中学校英語教諭赴任時の初任給
80円
○森田草平 明治40(1907)年中学校教諭就任時の初任給
20円
○芥川龍之介 大正5(1916)年海軍機関学校英語教官就任時の初任給
60円
岩波版新全集の重松氏の注には、
○多々良三平 「我輩は猫である」に登場する法学士で「六つ井物産」社員の初任給
30円
○「坊つちやん」の主人公の初任給
40円
とある。漱石の80円は破格の特異点であり、通常の教師の初任給は20~55円程度であった。「百圓」とは如何にも田舎者の非現実的な謂いであることが分かる。
♡「諷した」仄めかした。遠回しに言う。当てこすった。
♡「やくざ」三枚歌留多(1から10までの札40枚からなり、順にめくって手札との3枚の合計の末尾の数字が9に最も近い者を勝ちとする賭博用歌留多)という賭博の手で八(や)と九(く)三(さ)の3枚の組み合わせが最悪の手であったことを語源とし、役に立たないこと、価値のないことの意となり、語源との絡みもあって博打打ちや暴力団員といった、正業に就かず、法に背いて暮らすような連中の総称となった。ここでは両義的で「正業に就かず役に立たないこと」の意で用いている。
♡『「御前のいふ樣な偉い方なら、屹度何か口を探して下さるよ。賴んで御覽なのかい」/ と母が聞いた。』この改行は特異である。後に引用の格助詞「と」を伴う会話文では本作では漱石は会話文に続けたままとして、改行をしないのが通例。実際単行本「こゝろ」ではここはそのように『「御前のいふ樣な偉い方なら、屹度何か口を探して下さるよ。賴んで御覽なのかい」と母が聞いた。』と繋がっている。
♡「おれの樣な人間だつて、月給こそ貰つちやゐないが、是でも遊んでばかりゐるんぢやない」実家の雰囲気から見て小作人に農地を貸しており、その山林・農地管理や小作料徴収、更にその小作人への貸付による利子徴収等を指して言っているものと思われる。]

2010/06/02

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月2日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十一回

Kokoro13_2   先生の遺書

    (四十一)

 父の元氣は次第に衰ろへて行つた。私を驚かせたハンケチ付の古い麥藁帽子が自然と閑却(かんきやく)されるやうになつた。私は黑い煤けた棚の上に載つてゐる其帽子を眺めるたびに、父に對して氣の毒な思ひをした。父が以前のやうに、輕々と動く間は、もう少し愼んで呉れたらと心配(しんはい)した。父が凝と坐り込むやうになる、矢張り元の方が達者だつたのだといふ氣が起つた。私は父の健康に就いてよく母と話し合つた。

 「全たく氣の所爲(せゐ)だよ」と母が云つた。母の頭は陛下の病と父の病とを結び付けて考へてゐた。私にはさう許りとも思へなかつた。

 「氣ぢやない、本當に身體が惡かないんでせうか。何うも氣分より健康の方が惡くなつて行くらしい」

 私は斯う云つて、心のうちで又遠くから相當の醫者でも呼んで、一つ見せやうかしらと思案した。

 「今年の夏は御前も詰らなからう。折角卒業したのに、御祝もして上げる事が出來ず、御父さんの身體もあの通りだし。それに天子樣の御病氣で。―いつその事、歸るすぐに御客でも呼ぶ方が好かつたんだよ」

 私が歸つたのは七月の五六日で、父や母が私の卒業を祝ふために客を呼ばうと云ひだしたのは、それから一週間後であつた。さうして愈(いよ/\)と極めた日はそれから又一週間の餘(よ)も先になつてゐた。時間に束縛を許さない悠長な田舍に歸つた私は、御蔭で好もしくない社交上の苦痛から救はれたも同じ事であつたが、私を理解しない母は少しも其處に氣が付いてゐないらしかつた。

 崩御の報知が傳へられた時、父は其新聞を手にして、「あゝ、あゝ」と云つた。

 「あゝ、あゝ、天子樣もとう/\御かくれになる。己(おれ)も‥‥」

 父は其後を云はなかつた。

 私は黑いうすものを買ふために町へ出た。それで旗竿の球を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひら/\を付けて、門の扉の横から斜めに往來へさし出した。旗も黑いひら/\も、風のない空氣のなかにだらりと下つた。私の宅の古い門の屋根は藁で葺いてあつた。雨や風に打たれたり又吹かれたりした其藁の色はとくに變色して、薄く灰色を帶びた上に、所々の凸凹さへ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黑いひら/\と、白いめりんすの地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅の構へは何んな體裁ですか。私の郷里の方とは大分趣が違つてゐますかね」と聞かれた事を思ひ出した。私は自分の生れた此古い家を、先生に見せたくもあつた。又先生に見せるのが恥づかしくもあつた。

 私は又一人家のなかへ這入(はいつ)た。自分の机の置いてある所へ來て、新聞を讀みながら、遠い東京の有樣を想像した。私の想像は日本(につぽん)一の大きな都が、何んなに暗いなかで何(か)んなに動いてゐるだらうかの畫面に集められた。私はその黑いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火(とうくわ)の如くに先生の家を見た。私は其時此燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其灯も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控えてゐるのだとは固より氣が付かなかつた。

 私は今度の事件に就いて先生に手紙(てかみ)を書かうかと思つて、筆を執りかけた。私はそれを十行ばかり書いて已めた。書いた所は寸々に引き裂いて屑籠へ投げ込んだ。(先生に宛てゝさう云ふ事を書いても仕方がないとも思つたし、前例に徴して見ると、とても返事を呉れさうになかつたから)。私は淋しかつた。それで手紙(てかみ)を書のであつた。さうして返事が來れば好(い)いと思ふのであつた。

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[♡やぶちゃんの摑み:田舎に帰った私の最初の重要な摑みの部分である。「中 兩親と私」は「上 先生と私」以上に不当に省略されて授業されることが多いが、例えば、この章の検証の中で得られる作品解釈に関わる強力な最終武器を手しないままに、先生の遺書と格闘することは、戦車に竹槍で向かうのと同じいとさえ、私は思っているのである。まず第一に天皇の死の捉え方である。そこでは父と私の落差が著しい。父は心情的には『直ぐ御後から……』なんどと言いそうな極ウェットな雰囲気(一介の百姓としてそれは憚られる謂いとでも思ったのであろう)であるのに対して、「私」は文字通り、それを一つの「事件」として客観的に捉えており、感情的な変化は殆んど認められない。先日の卒業式で実見した人物であるが、そこには何らの個人的思い入れは全くと言ってよい程認められないドライさを示している。では先生はどうであったのか? 勿論、読者である我々には、今は分からぬ。分からぬが、「私」の推測を通して、我々も『先生にとっても大した関心事ではあるまい』と、無意識の内に推測している、知らぬ内にそう思い込まされている、という事実に気づかねばならぬのだ。

♡「父が凝と坐り込むやうになる、」は「父が凝と坐り込むやうになると、」の脱落である。

♡「私が歸つたのは七月の五六日」以前にも述べた通り、これは事実にはそぐわない。この明治451912)年の東京帝国大学の卒業式は7月10日(水)であった。漱石は作中設定としては7月1日(月)から3日(水)頃に卒業式を設定しているものと思われる。

♡「崩御の報知が傳へられた時」明治天皇は7月30日未明午前0時43分に崩御した。底本には資料として以下の官報号外が掲げられている。

 ○告示

天皇陛下今三十日午前零時四十三分崩御アラセラル

 明治四十五年七月三十日

   宮   臣 伯爵 渡邊 千秋

   内閣總理大臣 侯爵西園寺公望

 ○宮内録事

○天皇陛下御體 昨二十九日午後八時頃ヨリ御病状漸次増惡シ同十時頃ニ至リ、御脈次第ニ微弱ニ陷ラセラレ御呼吸ハ益々浅薄トナリ、御昏睡ノ御状態ハ依然御持續アラセラレ終ニ今三十日午前零時四十三分心臓麻痺ニ依リ崩御遊アラセラル洵ニ恐懼ノ至リニ堪ヘズ。(岡侍醫頭、青山東京帝國大學醫科大學教授、三浦東京帝國大學教授、西郷侍醫、相磯侍醫、森永侍醫、侍醫田澤敬輿、侍醫樫田龜一郎、侍醫高田參拜診)

更に天皇崩御を伝える『東京朝日新聞』の記事も孫引きする。典礼書式の改行もそのまま用いている。

 哀 辭

掛卷くも畏き

天皇不豫、日を經て大漸億兆の虔禱、遂にに其効なく、明治四十五年七月三十日龍駁登遐、奄ち人天を隔てたまひぬ遠近臣民考妣を喪するが如く、地を搶き天を呼びて號働已まず、嗚呼哀しきかな、恭しく惟みるに

大行天皇は、乃ち神乃ち聖、至仁至勇にまし/\て、夙に大統を承け、否を轉じて泰と爲し、中興前を光し、皇基以て固く、立憲後を啓き、國勢用て張り、教育の詔は祖訓を紹述し、典章の制は精華を集成し、益文明に進み、既に強富に躋れり、是を以て宇を拓き疆を開き、遠を柔け、邇を能くし、恩威を並施したまふと、啻に覆載のみならず聖德神功、遠く百王に軼ぎ、鴻猷駿烈、比倫す可き旡し、蓋し乾綱獨運して、道は君師を兼ね、一日萬機、曾て暇逸せず、躬行精勤、臣庶を率勵したまひしかば、庶績咸熈りて既に至治に臻り、兆民永く賴りて、共に太平を享しに一朝遽に膽依を失ひて、四海同く遏密を悲む、四十五年の深恩未だ報いまつらず、六旬萬壽の佳節も亦空しくなりぬ、宮禁慟哭、率土悲號するも

靈駕廻し難く、追攀及ぶ美莫し、鳴呼哀しきかな小民等言を以て職と爲すも、猝に大喪に遘ひ、痛を五中に結びて、言ふ所を知らず、悲を銜んで筆を執り、涙を灑ぎて詞を陳ね、虔んで哀衷を展べて

昭鑒を冀ひ奉る。

こりゃ……凄いね……聞いたことのない熟語が一杯じゃ……。注する気も起こらんぜ。どうか御自分で、どうぞ……悪しからず(メンドクサイ訳では、ない。やるのが厭、なのである。この注を附している私の思想的立場を推し量って頂き御寛恕願いたいと思う)。なお、崩御の号外について、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注に『大坂毎日新聞』が告示のあった午前1時15分の『直後に刷り出した号外を朝刊と一緒に配達したために遅れをとったのに対し』、『大阪朝日新聞』は午前2時10分『に号外だけを発行、配達し、評価を高めた。なおその際、『大阪朝日』は「謹慎」の意を表して鈴を廃し、深夜に一軒ごとにたたき起こして配達をしたという(『朝日新聞販売百年史(大坂編)』)』とある。……

♡「私は黑いうすものを買ふために町へ出た。……」以下、この段落全体が摑みである。まず先に片付けておく必要があるのは、「私」の実家の地理的位置である。『私はかつて先生から「あなたの宅の構は何んな體裁ですか。私の郷里の方とは大分趣が違つてゐますかね」と聞かれた事』があったと言う。この先生の謂いは『私の実家である雪深い新潟や曲家(まがりや)に代表されるような東北地方の造りとは大分趣が違っているのでしょうね』という含意がある。従って、「私」の実家は東北や北日本は排除されるということである。それ以上の詮索については、既に(二十一)試みているのでそちらを参照されたいが、私は中央線沿線しかないと踏み、諏訪・松本辺りの山間部を想定しているのである。さて問題はこの頗る映像的な「私」の家の描写と、それをランドスケープとする私の心情にある。そしてそこに配された日の丸が弔旗であることにも着目せねばならぬ。「私」の家の変色した凸凹の藁葺き屋根の古い伝統的農家の門(これは武家風の豪華な長屋門ではあるまい。しかし、藁葺きの門を持つことで相応な富農と考えてよい)が中景である――描写はないが、そこを通してやはり藁葺きの相応な実家の母屋が見えている――前景には風がないために見苦しくだらりと日の丸が縊死者のようにぶら下がっている――それが藁の変色した藁の色の中で奇態に際立っている――それを暫く眺める私は、先の先生の言葉を思い出し、先生に見せたくもあり、見せるのが恥ずかしくもあると感じるのである。それは明らかに自身の魂や肉体の中に遺伝しているところの、内なる日本的なるものの総体である――それは封建的残滓のみでは毛頭ない――それは「私」にとってどこか懐かしく、先生のような故郷喪失者には決して味わえないであろうと考えられる(この時点では先生が故郷喪失者であることは「私」には明確には理解されていないが、少なくとも鈍感な「私」に比べれば我々読者はその悲哀を何処かで先生から感受してしまっている)――自らを優しく受け入れてくれる原初の里山や日本の原風景としての故郷の印象である。――しかし、先生に幾分か洗脳され、近代的都会人としての心性をも持ち合わせている――もう一人の「私」が「私」の中にはいる――彼はそこにある種の、田舎者の持つ精神の肥溜めの臭いと前近代的閉鎖的人心の腐臭をも嗅ぎ出してもいるのである。このアンビバレンツな感情こそ本作の核心への用意された入り口であることは間違いない。後は、昼なお暗いその扉の奥の後架にはまり込まぬよう、注意して探ることが大切だ。答えを教えろって? 済まんな。私も未だ「私」の家の土間から上がってもいないのだよ。――

♡「私はその黑いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火の如くに先生の家を見た。私は其時此燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其灯も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控えてゐるのだとは固より氣が付かなかつた」(三十五)の私の冒頭注を参照されたい。私は頗る付きでこの章が「心」の中でも最も忘れ難い一章であることを告白する。ここを映画に撮りたい欲求に駆られるのである。それ程に鮮烈でビジュアルなのである。]

2010/06/01

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月1日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十回

Kokoro13   先生の遺書

    (四十)

 小勢(こぜい)な人數(にんず)には廣過ぎる古い家がひつそりしてゐる中(なか)に、私は行李(かうり)を解いて書物を繙(ひもと)き始めた。何故か私は氣が落ち付かなかつた。あの目眩(めまぐ)るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁(ページ)を一枚々々にまくつて行(い)く方が、氣に張があつて心持よく勉強が出來た。

 私は稍ともすると机にもたれて假寐(うたゝね)をした。時にはわざ/\枕さへ出して本式に晝寐を貪ぼる事もあつた。眼が覺めると、蝉の聲を聞いた。うつゝから續いてゐるやうな其聲は、急に八釜(やかま)しく耳の底を掻き亂した。私は凝とそれを聞きながら、時に悲しい思ひを胸に抱いた。

 私は筆を執つて友達のだれかれに短かい端書(はかき)又は長い手紙を書いた。其友達のあるものは東京に殘つてゐた。あるものは遠い故郷(こきやう)に歸つてゐた。返事の來るのも、音信(たより)の屆かないのもあつた。私は固より先生を忘れなかつた。原稿紙へ細字(さいじ)で三枚ばかり國へ歸つてから以後の自分といふやうなものを題目にして書き綴つたのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生は果してまだ東京にゐるだらうかと疑(うたぐ)つた。先生が奧さんと一所に宅を空ける場合には、五十恰好(がつかう)の切下(きりさげ)の女の人が何處からか來て、留守番をするのが例になつてゐた。私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私は其人を先生の親類と思ひ違へてゐた。先生は「私には親類はありませんよ」と答へた。先生の郷里にゐる續きあひの人々と、先生は一向音信の取り遣りをしてゐなかつた。私の疑問にした其留守番の女の人は、先生とは縁のない奧さんの方の親戚であつた。私は先生に郵便(いふひん)を出す時、不圖(ふと)幅の細い帶を樂に後で結んでゐる其人の姿を思ひ出した。もし先生夫婦が何處かへ避暑にでも行つたあとへ此郵便(いふひん)が屆いたら、あの切下の御婆さんは、それをすぐ轉地先へ送つて呉れる丈の氣轉と親切があるだらうかなどと考へた。其癖その手紙(てかみ)のうちには是といふ程の必要の事も書いてないのを、私は能く承知してゐた。たゞ私は淋しかつた。さうして先生から返事の來るのを豫期してかゝつた。然しその返事は遂に來なかつた。

 父は此前の冬に歸つて來た時程將棋を差したがらなくなつた。將棋盤はほこりの溜つた儘、床の間の隅に片寄せられてあつた。ことに陛下の御病氣以後父は凝と考へ込んでゐるやうに見えた。毎日新聞の來るのを待ち受けて、自分が一番先へ讀んだ。それから其讀がらをわざ/\私の居る所へ持つて來て呉れた。

 「おい御覽、今日も天子樣の事が詳しく出てゐる」

 父は陛下のことを、つねに天子さまと云つてゐた。

 「勿體ない話だが、天子さまの御病氣も、お父さんのとまあ似たものだらうな」

 斯ういふ父の顏には深い掛念(けねん)の曇(くもり)がかかつてゐた。斯う云はれる私の胸には又父が何時(いつ)斃(たふ)れるか分らないといふ心配がひらめいた。

 「然し大丈夫(だいぢやうふ)だらう。おれの樣な下らないものでも、まだ斯うしてゐられる位(くらゐ)だから」

 父は自分の達者な保證を自分で與へながら、今にも己れに落ちかゝつて來さうな危險を豫感してゐるらしかつた。

 「御父さんは本當に病氣を怖がつてるんですよ。御母さんの仰しやるやうに、十年も二十年も生きる氣ぢやなささうですぜ」

 母は私の言葉を聞いて當惑さうな顏をした。

 「ちつと又將棋でも差すやうに勸めて御覽な」

 私は床の間から將棋盤を取り卸して、ほこりを拭いた。

Line

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「五十恰好の切下の女の人」というのは、遺書のKの告白の直前の正月のシーンで、奥さんと御嬢さんが家を空けた理由をKに説明する対話の中に現れる。Kが「奥さんと御孃さんは市ヶ谷の何處へ行つたのだらうと云ふのです。私は大方叔母さんの所だらうと答へました。Kは其叔母さんは何だと又聞きます。私は矢張り軍人の細君だと教へて遣りました」。更に先生の遺書の最後では、この遺書を書くための方途の説明の中に「妻は十日ばかり前から市ヶ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病氣で手が足りないといふから私が勸めて遣つたのです。私は妻の留守の間に、この長いものゝ大部分を書きました。時々妻が歸つて來ると、私はすぐそれを隱しました。」と記す叔母である。「切下」とは「切り下げ髪」のこと。「切髪」(きりかみ・きりがみ)とも言い、本来は中国の習慣で夫の死後に貞節を守っていることの証しとして行った習慣に由来すると言われ、近世から明治期にかけて、多くは未亡人が結った髪形である。頸部で短く切り揃えた髪を髷(まげ)を結わずに束ねて後ろに垂らし、髻(もとどり)に紫の打ちひもを掛けたものである。――先生の家の未亡人の髪型をした後姿の女の映像――不吉である。

♡「讀がら」一度読んだもの、の意。

♡「おい御覽、今日も天子樣の事が詳しく出てゐる」底本注には『東京朝日新聞』の連日の見出しを読むことが出来る。それら及び若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の同注を参考に以下に日を追って列挙してみる(恣意的に正字に直したが、「萬」等は別字の可能性が有る。「▽」「▲」は縦書でこの向きである。)。

7月21日 聖上陛下御重態▽十四日より御臥床あり▽御睡眠の状態持續す

      ▽電車の音を立るな

      ●川開の無期延期

7月22日 御病状依然▽各國使臣元老大臣其他▽踵を接して參内御見舞

      ▲電車徐行の御伺

      ▲午砲の位置變更

      ▲興行界の憂慮

      ▲花柳界の沈靜

7月23日 御病勢稍衰ふ▽昨日御前公表の御容態▽此傾向にして継續せば▽兩三日後愁雲披けむ

      ●腎臟病と腎盂炎

      ●侍醫改革の急

      ●宮中氷の御用二倍す

      ●市内の御平癒祈願

7月24日 御病状安靜▽御經過稍良好なれども▽玆一週間は警戒を要す

      ●久振りの玉音

      ●雨中に立ち盡す市民の赤誠

7月25日 御病状安靜▽最も大切の御經過時期▽萬民神靈の加護を祈る

      ●汽車乘客の喜色▽車掌御容體書を讀む

7月26日 御病勢不良▽御容體書の發表大に遅延す▽最も憂ふ可き御脈拍の不整

      皇室と國民

7月27日 御病勢險惡▽憂ふ可き御呼吸の状態▽前日に比し御疲勞増加

7月28日 幾分御緩和▽昨朝は御安眠御安靜▽不規則の御呼吸減少

      ●乃木大將の日參

      ●二重橋に行け

7月29日 御疲勞加はる▽不規則の御呼吸状態著明▽最も憂ふ可き御疲勞増加

      火急の御參内

7月30日 ●殆んど絶望▽御四肢の末端暗紫色著明▽益危險の御状態に在す

      ●囚人も又謹愼

      ●避暑客皆無

とあるが、実際には明治天皇はこの7月30日の未明午前0時43分に既に崩御していた(その号外については次章注を参照)。]

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