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« 感懐Ⅱ | トップページ | 「心」大正3年 6月22日同日休載報知 »

2010/06/21

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月21日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十回

Kokoro14   先生の遺書

   (六十)

 「私は緣談の事をそれなり忘れてしまひました。私の周圍(ぐるり)を取り捲いてゐる靑年の顏を見ると、世帶染みたものは一人もゐません。みんな自由です、さうして悉く單獨らしく思はれたのです。斯ういふ氣樂な人の中(うち)にも、裏面(りめん)に這入り込んだら、或は家庭の事情に餘儀なくされて、既に妻を迎へてゐたものがあつたかも知れませんが、子供らしい私は其處に氣が付きませんでした。それから左右いふ特別の境遇に置かれた人の方でも、四邊(あたり)に氣兼をして、なるべくは書生に緣の遠いそんな内輪の話は爲(し)ないやうに愼しんでゐたのでせう。後から考へると、私自身が既に其組だつたのですが、私はそれさへ分らずに、たゞ子供らしく愉快に修學の道を步いて行きました。

 學年の終りに、私は又行李を絡(から)げて、親の墓のある田舍へ歸つて來ました。さうして去年と同じやうに、父母のゐたわが家(いへ)の中で、又伯父夫婦と其子供の變らない顏を見ました。私は再び其所で故鄕の匂を嗅ぎました。其匂は私に取つて依然として懷かしいものでありました。一學年の單調を破る變化としても有難(ありかた)いものに違なかつたのです。

 然し此自分を育て上(あげ)たと同じ樣な匂の中で、私は又突然結婚問題を伯父から鼻の先へ突き付けられました。伯父の云ふ所は、去年の勸誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同(どう)じでした。たゞ此前勸められた時には、何等の目的物がなかつたのに、今度はちやんと肝心(かんしん)の當人を捕まへてゐたので、私は猶困らせられたのです。其當人といふのは伯父の娘卽ち私の從妹(いとこ)に當る女でした。その女を貰つて吳れゝば、御互のために便宜である、父も存生中そんな事を話してゐた、と伯父が云ふのです。私もさうすれば便宜だとは思ひました。父が伯父にさういふ風な話をしたといふのも有り得べき事と考へました。然しそれは私が伯父に云はれて、始めて氣が付いたので、云はれない前から、覺つてゐた事柄ではないのです。だから私は驚ろきました。驚いたけれども、伯父の希望に無理のない所も、それがために能く解りました。私は迂闊(うくわつ)なのでせうか。或はさうなのかも知れませんが、恐らく其從妹に無頓着であつたのが、重な源因になつてゐるのでせう。私は小供のうちから市(し)にゐる伯父の家へ始終遊びに行きました。たゞ行く許りでなく、能く其處に泊りました。さうして此從妹とは其時分から親しかつたのです。あなたも御承知でせう、兄妹の間に戀の成立した例(ためし)のないのを。私は此公認された事實を勝手に布衍(ふえん)してゐるのかも知れないが、始終接觸して親しくなり過ぎた男女(なんによ)の間には、戀に必要な刺戟の、起る淸新な感じが失はれてしまふやうに考へてゐます。香(かう)をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限る如く、酒を味はうのは酒を飮み始めた刹那にある如く、戀の衝動にも斯ういふ際どい一點が、時間の上に存在(ぞんざい)してゐるとしか思はれないのです。一度平氣で其處を通り拔けたら、馴れゝば馴れる程、親しみが增す丈で、戀の神經はだん/\麻痺して來る丈です。私は何う考へ直しても、此從妹を妻にする氣にはなれませんでした。

 伯父はもし私が主張するなら、私の卒業迄結婚を延ばしても可(い)いと云ひました。けれども善は急げといふ諺もあるから、出來るなら今のうちに祝言の盃(さかづき)丈(だけ)は濟ませて置きたいとも云ひました。當人に望(のぞみ)のない私には何方(どつち)にしたつて同じ事です。私は又斷りました。伯父は厭な顏をしました。從妹は泣きました。私に添はれないから悲しいのではありません、結婚の申し込を拒絕されたのが、女として辛かつたからです。私が從妹を愛してゐない如く、從妹も私を愛してゐない事は、私によく知れてゐました。私はまた東京へ出ました。


やぶちゃんの摑み:私は本件の出来事を明治301897)年の夏、先生20歳の時と推定している。上の通り、本章末には飾罫がない。なお、理由不明であるが、本第(六十)回掲載の大正3(1914)年6月21日日曜日(『大阪朝日新聞』の掲載は23日火曜日)の翌日6月22日月曜日は何故か『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』両紙共に掲載がない。漱石の原稿が遅れた訳ではあるまい(であれば二日遅れている『大阪朝日新聞』が第五十九回を掲載しているはずだからである)。これは専ら朝日新聞社側の問題であるようだ。本章には末尾の飾罫がない。

 

「同(どう)じでした」「同(おな)じ」のルビ誤植。

 

「結婚問題を伯父から鼻の先へ突き付けられ」「今度はちやんと肝心の當人を捕まへてゐ」「其當人といふのは伯父の娘即ち私の從妹に當る女で」「その女を貰つて吳れゝば、御互のために便宜である、父も存生中そんな事を話してゐた、と伯父が云ふのです。私もさうすれば便宜だとは思ひました。父が伯父にさういふ風な話をしたといふのも有り得べき事と考へました」従兄妹同士の結婚は古くは当たり前に行われており、明治30年代にあっては、至ってありがちな結婚であった。勿論、現在の婚姻法でも許されている。但し、この頃から同時に、遺伝学的な問題性が取り沙汰されるようになってはいた。例えば、私(やぶちゃん)が卒論とした明治181885)年生れの尾崎放哉は、明治381905)年、東京帝国大学法学部1年21歳の折りに、16歳で知り合い、相思相愛の仲であった従妹沢芳衛(よしえ:彼女の父が放哉の母の弟。)に結婚を申し込んだが、医科大学生であった芳衛の兄静夫の強い反対にあって断念している。この挫折感が放哉の人生を大きく狂わせることとなったが、ある意味、この挫折なしにはまた、かの絶唱群を我々は読めなかったとも言われるかも知れぬ。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」には、作家阿部次郎のケースを掲げている。これは先生の時代にもっと近く、条件もぴったりである。

 

●阿部次郎

は、明治341891)年 第一高等学校入学 18

で、次郎の母の弟である叔父の娘(本話と全く同じ従妹で、その頃未だ13歳であった)との結婚を高校入学直前に仄めかされたが、その内容は、

・彼の学費の半分を叔父が援助する。

代りに、

・従妹と婚約すること。

・阿部次郎の母の実家の跡継ぎとなること(この叔父は養子として家を出ていた)。

という交換条件が含まれたものでもあった。この婚約は翌351892)年に一旦纏まったが、381895)年に破棄されたが、この従妹は結局、阿部次郎の弟と結婚しているそうである。

 

更に、藤井氏は高校在学中の結婚(入籍)の例として寺田寅彦のケースを示している(従兄妹との結婚ではない。以下の資料は藤井氏のデータに私の調べたものを附加してある)。

 

●寺田寅彦

は、明治291896)年 熊本の第五高等学校入学 19

で、そこで正に本作の作者となる英語教師であった夏目漱石、物理学教師田丸卓郎と出会い、両者から大きな影響を受けたのであるが、彼は、 

明治301897)年 松山第十旅団長阪井重季少将娘坂井夏子と学生結婚 20

している。これは入籍であって、未だ15歳であった新妻夏子は寺田の郷里高知で別居、実際の同居は明治321899)年に東京帝国大学理科大学に入学後のことであった(しかし哀しいかな、明治351902)年に妻夏子は20歳で結核のため夭折した)。

 

最後に、私のオリジナル資料として、

 

●芥川龍之介

の場合を紹介しておこう。その初恋は従妹ではないが、先生と違って(日常的に見馴れると恋は起こらぬと言っている点)同年の幼馴染み(実家新原家の近所)であった吉田弥生である(父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた)。芥川龍之介は、

大正3(1914)年 7月20日頃~8月23日 23歳(満22歳)

で、この時、友人らと共に千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して二度目のラブレターを書いて、その後、正式に結婚も申し込んでいる(傍線部に注意! 更に言えば、先生の遺書中の先生とKの夏季休業の房州行の場面は実に同年7月14日~7月17日の連載である!)。

そしてこの時、芥川は未だ

東京帝国大学英吉利文学科1年

であった。しかし乍ら、この話は養家芥川家の猛反対にあい、翌年2月頃に破局を迎えることとなる。吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系)、弥生が同年齢であったこと等が主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があった)。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜にによれば、大正4(1915)年4月20日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来た。丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いた。4月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をしたともある。鷺只雄氏は河出書房新社1992年刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。正にこの弥生への強烈な恋情の炎の只中に書かれたのが避暑から帰った直後、

大正3(1914)年9月1日『新思潮』に発表したのが

「青年と死と

であり、破局後の大正4(1915)年4月1日に『帝国文学』発表したのが、かの作家級軍艦芥川船出の一篇、

「ひよつとこ」

で、その後、その傷心を慰めるための親友井川恭(後に恒藤姓)の誘いによって同年8月3日から23日まで井川の故郷松江を訪れ、

後に「松江印象記」となる「日記より」

が書かれている。

 

以上――やや年齢は高いものの、芥川龍之介でさえ大学一年で自律的に結婚しようと動いた事実が知れる。……そしてお気づきになられただろうか……傍線部……丁度、この滞在の前半は、正に……この「心」の連載最後に当たるのである……一宮の砂浜……「心」を読む恋に目覚めた龍之介……遠い夏、ハレーションの映像……そして「青年と死と」という意味深長な題名……その作品の末尾のクレジットは『(一五・八・一四)』……これは西暦

1914年8月15日

 

夏目漱石の「心」の『東京朝日新聞』の連載終了

は、正にこの4日前、

1914年8月11日

 

のことであった。

――芥川龍之介は当然、「心」を読んでいたと考えてよい。読まぬはずがない。――

――とすれば――

――この「青年と死と」という作品は、一つの――

――芥川の、漱石の「心」への答え――

 

として読むことが可能だ、ということである。……是非、私の電子テクスト「青年と死と」「ひよつとこ」「日記より」をお読みあれかし。

 

……さてさて、本線に戻す……もういいだろう。これらの具体的データを見ても、叔父の言は驚くべき言でも、異様な謂いでも何でない当たり前の提案なのである。そもそもこの章の頭をよく読めば、先生自身が当時の高校生で結婚という『普通の実体』を既に描写しているのではないか。「私の周圍を取り捲いてゐる青年の顏を見ると、世帶染みたものは一人もゐ」ず、一見「みんな自由で」「悉く單獨らしく思はれた」ものの、「斯ういふ氣樂」に見える「人の中にも、裏面に這入り込んだら、或は家庭の事情に餘儀なくされて、既に妻を迎へてゐたものがあつたかも知れ」ない。しかしとっちゃん坊やだった「私は其處に氣が付」かなかったに過ぎない。また「左右いふ特別の境遇に置かれた人の方でも、四邊に氣兼をして、なるべくは書生に縁の遠い」結婚や家督相続といった学問から遠く離れた軽蔑すべき「内輪の話は爲ないやうに愼しんでゐたので」ある。「後から考へると、私自身が既に其組だつた」にも拘わらず、私はそのことを全く解していない世間知らずのトンチキとして、好きな勉強さえしてりゃいいぐらいな気持ちで過していたのである、と述べているのである。そして当時の読者の多くも、逆にこの先生の過剰な反応にこそ異様な印象を受けていたと考えても強ち間違いではないと思われるのである。 

 

……そうそう、最後に……私(やぶちゃん)の両親はしっかり従兄妹同士である。――母方の祖父以外の親族は、やはり遺伝的弊害を慮って反対したが、歯科医であった祖父は「お前達がそれを覚悟して結婚をするのであればよい」と言ってくれたそうである。因みに生後一年過ぎに私は左肩関節の骨髄性結核性カリエスに罹患した。宣告した医師は「これは勿論、遺伝による病気ではないが、この先、このお子さんがどうなるか分からない上に、次に生む子が遺伝病になる可能性は普通の夫婦より高い。お子さんは御産みにならぬがよろしいでしょう。」と御丁寧に母に御忠告を垂れたという。だから私は一人っ子である。……

 

……最後の最後に、もう一つ言おうか?……私の場合、最初に『この女性と結婚しよう』とはっきりと思ったのは、何歳の時であったか?

 

……これは私自身のことですから判然言へるのです。それは大學一年數えで廿歳(はたち)の冬の、あの鎌倉の海岸でのことでした。確かに私はあの時、あの人を妻にしたい、確かに妻にしたいと思つたのです――いや、是では又しても脫線の脫線でした。話が本筋をはづれると、分り惡くなりますからまたあとへ引き返しませう……

 

「伯父の希望に無理のない所も、それがために能く解りました」「伯父の希望」を確認しよう。それは、

 

実家の跡継ぎとなるべき先生が、その後見(若しくは代理)管理権者である叔父の娘と、現在、高等学校在学中の20歳で結婚すること

 

である。そして後述するように如何にも尤もな現実的提案としての叔父それは、

「卒業迄結婚を延ば」して、実際の二人の同居は大学に入ってからでもよく、その場合、可能ならば形の上での「祝言の盃丈は」「今のうちに」「濟ませて置」くのが希望

 

なのだが、これは当時の田舎の跡継ぎの青年にとって真っ当至当梅干弁当ほどにオーソドックスな提案なのである。そしてよろしいか? それを先生は「伯父の希望に無理のない所も」種々の事情を勘案すれば真っ当至当梅干弁当的に「能く解りました」と述べているのである! 叔父は何にも見た目、「變」じゃないのだ! それを先生も認めているのである! では「變」なのは誰か? それは取りも直さず先生なのだ! 先生の「變」は一つに分かり易い解に向かうばかりなのである。即ち、従妹は嫌いじゃないが、恋愛の対象者として見たことは一度としてなく、妻にしたいとは毛頭思わぬ見馴れ過ぎた大いして美しいとも思わぬ女だ、という冷たい拒絶感だけなのである。先生の意識が明らかに「變」な方向へと向き始めるプレの部分であるから、十分に注意したい。先生が叔父の行動に疑問を抱き始めるように、先生の思考と疑心暗鬼――(五十七)で先生が注意を喚起した内容をもう一度蘇らせる必要があるのだ。整理してみよう。母の最期の床の叔父への疑義的言及記載を受けた部分である。それは次のような謂いに変換出来る。

 

――私は幼い頃からこのように「物を」殊更意味深長に「解きほどいて見たり、又」必要以上にしつこく「ぐる/\廻して眺めたりする」「變な」「癖」を身につけていました。――今、これを読んでいる貴方からは、例えば「當面の問題に大した關係のない」ように見える脱線のような私の「記述が、却て」この私の遺書全体を読み解く上には重要な意味を孕んでいて、思いの外、「役に立」つかもしれない「と考へます。貴方の方でもまあその積で讀んで下さい。此性分が倫理的に」私自身や他者の「個人の行爲や動作の上に」悉く「及んで」しまった結果、「私は後來益他の德義心を疑ふやうになつたのだらうと思ふのです」が、そのバイアスを、あなたはしっかり計算した上で、私のこの遺書の内容や私の言葉を冷静に勘案することが何より大切です。そこから生じた疑心暗鬼「が私の煩悶や苦惱に向つて、積極的に大きな力を添へて」、時には真実を歪めさせたり、時には対象を誤って認識させたりして「ゐる」ということあるのです。私の感懐や論理に批判的な視線で向かうことも必要であろうこと「は慥」なこと「ですから覺えてゐて下さい」。――

 

今、私は以上の書き換えを恣意的だとは思わない。何故なら、――これだけ一般論としての叔父の側の論理の尋常性を、先生自身に畳み掛けて述懐させている漱石を見ると――以前の注では、私は微妙にその確信犯性に留保を加えたけれども――先生の尋常ならざる病的な疑心暗鬼に気付くことが大切です、と精神病の病歴のある漱石先生が語りかけているのだ、という確信的な思いが、今回のこの同日公開プロジェクトで、章を追うごとに日増しに強くなってきているからである。

 

「布衍」は勿論、「敷衍」が正しい。

 

「戀に必要な刺戟の、起る清新な感じが失なはれてしまふやうに考へてゐます」この読点は不自然。原稿にはなく誤植。単行本では消失している。]

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