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2010/07/31

人間は

十全に生きようとすることそのものが不遜であり罪悪である。

では一つ

見捨てられたミンノー県の農園の豚も今、殺傷処分した。農園の百合の花は好きなように代理収穫されるがいい(エルモライの伝言)――では随分、ごきげんよう!――「地の涯」へ参らんとす――

「心」シークエンス98~99

○茶の間。(基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

 長火鉢の前。箱膳の向うの先生。食事後。黙って敷島を吹かしている。やや落ち着かない。

 奥さん、口元に軽い笑みを浮かべながら長火鉢の向うでやや首を上げて先生の様子を黙って見ている。

 下女を呼ぶ奥さん。[やぶちゃん注:「□□」には下女の名が入る。]

奥さん「□□や。膳をお下げして。」

 奥さん、鉄瓶に水を注し、また火鉢の縁を拭いたりしている。

 先生、そそくさと二本目の敷島を懐から出し、銜える。

 火種を差し出す奥さん。

 火を貰う先生の手のアップ(向うにソフト・フォーカスの奥さん)。震える煙草(アップ)。

 妙にせっかちに何度もスパスパと吹かす先生。

先生 「……あの、奥さん……あ、今日は何か、これから特別な用でも、ありますか?」

奥さん「(穏やかな笑顔のままで。ゆっくりと)いゝえ。」

 かたまったような先生。灰を火箸で調える奥さん。間。

奥さん「(同じく)何故です?」

先生 「……実は……少しお話したいことが、あるのですが……」

奥さん「(同じく)何ですか?」

 奥さん、笑顔のまま先生の顔を見る。

 先生、軽い咳払いをし、暫く、間。

先生 「……少し陽射しが出てきましたかね……」

奥さん「ええ、そうですね。」

先生 「……今年の冬は、そう寒くはないですね……」

奥さん「……ええ、まあ、そうですね。」

先生 「……あの、最近のKは、どう思われますか……」

奥さん「……は? 特にこれといって気にはなりませんが……」

先生 「……その、○○の奴が近頃、奥さんに何か、言いはしませんでしたか?」

[やぶちゃん注:「○○」にはKの姓が入る。]

 奥さん、思いも寄らないという表情で。

奥さん「何を?……(間)……貴方には、何か仰やったんですか?」

先生 「あっ……いいえ……(間)……その、ここ数日、互いに忙しくて、ろくに話も出来なかったから、また例の調子で黙りこくっているのかと、ちょいと聞いてみただけのことです。別段、彼から何か頼まれたわけじゃありません……これからお話したいことは彼に関わる用件ではないのです。」

奥さん「(笑顔に戻って)左右ですか。」

 後を待っている。間。

先生 「(突然、性急な口調で)奥さん、御孃さんを私に下さい!」

 それほど驚ろいた様子ではないが、少し微苦笑して、暫く黙って唇を少し開いては閉じ、黙って先生の顔を見ている。やや間。

先生 「下さい! 是非下さい!……(間)……私の妻として是非下さい!」

奥さん「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか?」

先生 「急にもらいくたくなったのです!」

 奥さん、笑ひ出す。笑いながら、奥さん「よく考えたのですか?」

先生 「もらいたいと言い出したのは突然ですけれど……いいえ! もらいたいと望んでいたのはずっと先(せん)からのことで……決して昨日今日の突然などでは――ありません!」

 茶の間の対話の映像はままで。

先生のナレーション「……それから未だ、二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れて仕舞いました。男のように判然した所のある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話の出来る人でした。……」

 奥さんのバスト・ショット。

奥さん「よござんす、差し上げましょう。……差し上げるなんて威張った口のきける境遇ではありません。どうぞもらってやって下さい。御存じの通り、父親のない憐れな子です。」

先生のナレーション「……話は簡単で、且つ明瞭に片付いてしまいました。最初から仕舞いまでに、恐らく十五分とは掛らなかつたでしょう。……奥さんは何の条件も持ち出さなかつたのです。親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だと言いました。本人の意向さへ確かめるに及ばないと明言しました。……そんな点になると、学問をした私の方が、却って形式に拘泥するぐらいに思われたものです。……」

先生 「……親類の方は兎に角、ご当人には、あらかじめ話をして承諾を得るのが……筋では、ありませんか?」

奥さん「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやる筈がありませんから。」

 見上げる満面の自信と笑みの奥さん(俯瞰のバスト・ショット)。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月31日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十九回

Kokoro16_3   先生の遺書

   (九十九)

 「Kから聞かされた打ち明け話(はなし)を、奥さんに傳へる氣のなかつた私は、「いゝえ」といつてしまつた後で、すぐ自分の噓を快からず感じました。仕方がないから、別段何も賴まれた覺はないのだから、Kに關する用件ではないのだと云ひ直しました。奥さんは「左右ですか」と云つて、後を待つてゐます。私は何うしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、御孃さんを私に下さい」と云ひました。奥さんは私の豫期してかゝつた程驚ろいた樣子も見せませんでしたが、それでも少時(しばらく)返事が出來なかつたものと見えて、默つて私の顏を眺めてゐました。一度云ひ出した私は、いくら顏を見られても、それに頓着などはしてゐられません。「下さい、是非下さい」と云ひました。「私の妻(つま)として是非下さい」と云ひました。奥さんは年を取つてゐる丈に、私よりもずつと落付いてゐました。「上げてもいゝが、あんまり急ぢやありませんか」と聞くのです。私が「急に貰ひたいのだ」とすぐ答へたら笑ひ出しました。さうして「よく考へたのですか」と念を押すのです。私は云ひ出したのは突然でも、考へたのは突然でないといふ譯を强い言葉で說明しました。

 それから未(ま)だ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れて仕舞ひました。男のやうに判然(はき/\)した所のある奥さんは、普通の女と違つて斯んな塲合には大變心持よく話の出來る人でした。「宜(よ)ござんす、差し上げませう」と云ひました。「差し上げるなんて威張つた口の利ける境遇ではありません。どうぞ貰つて下さい。御存じの通り父親のない憐れな子です」と後では向ふから賴みました。

 話は簡單でかつ明瞭に片付いてしまひました。最初から仕舞迄に恐らく十五分とは掛らなかつたでせう。奥さんは何の條件も持ち出さなかつたのです。親類に相談する必要もない、後から斷ればそれで澤山だと云ひました。本人の意嚮(いかう)さへたしかめるに及ばないと明言しました。そんな點になると、學問をした私の方が、却つて形式に拘泥する位に思はれたのです。親類は兎に角、當人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子を遣る筈がありませんから」と云ひました。

 自分の室へ歸つた私は、事のあまりに譯もなく進行したのを考へて、却つて變な氣持になりました。果して大丈夫なのだらうかといふ疑念さへ、どこからか頭の底に這ひ込んで來た位です。けれども大體の上に於て、私の未來の運命は、是で定められたのだといふ觀念が私の凡てを新たにしました。

 私は午頃又茶の間へ出掛けて行つて、奥さんに、今朝(けさ)の話を御孃さんに何時通じてくれる積かと尋ねました。奥さんは、自分さへ承知してゐれば、いつ話しても構はなからうといふやうな事を云ふのです。斯うなると何んだか私よりも相手の方が男見たやうなので、私はそれぎり引き込まうとしました。すると奥さんが私を引き留(と)めて、もし早い方が希望ならば、今日でも可(い)い、稽古から歸つて來たら、すぐ話さうと云ふのです。さうして貰ふ方が都合が好いと答へて又自分の室に歸りました。然し默つて自分の机の前に坐つて、二人のこそ/\話を遠くから聞いてゐる私を想像して見ると、何だか落ち付いてゐられないやうな氣もするのです。私はとう/\帽子を被つて表へ出ました。さうして又坂の下で御孃さんに行(い)き合ひました。何にも知らない御孃さんは私を見て驚ろいたらしかつたのです。私が帽子を脫(と)つて「今御歸り」と尋ねると、向ふではもう病氣は癒つたのかと不思議さうに聞くのです。私は「えゝ癒りました、癒りました」と答へて、ずん/\水道橋(すゐだうはし)の方へ曲つてしまひました。

 

やぶちゃんの摑み:抜け駆けのプロポーズが決行され、先生の心のぐるぐるオートマトンが起動する。手に入る。なお、上記の通り、この回には最後の飾罫がない。

 

○茶の間。(続き。基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

先生 「あっ……いいえ……(間)……その、ここ数日、互いに忙しくて、ろくに話も出来なかったから、また例の調子で黙りこくっているのかと、ちょいと聞いてみただけのことです。別段、彼から何か頼まれたわけじゃありません……これからお話したいことは彼に関わる用件ではないのです。」

奥さん「(笑顔に戻って)左右ですか。」

 後を待っている。間。

先生 「(突然、性急な口調で)奥さん、御孃さんを私に下さい!」

 それほど驚ろいた様子ではないが、少し微苦笑して、暫く黙って唇を少し開いては閉じ、黙って先生の顔を見ている。やや間。

先生 「下さい! 是非下さい!……(間)……私の妻として是非下さい!」

奥さん「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか?」

先生 「急にもらいくたくなったのです!」

 奥さん、笑ひ出す。笑いながら、奥さん「よく考えたのですか?」

先生 「もらいたいと言い出したのは突然ですけれど……いいえ! もらいたいと望んでいたのはずっと先(せん)からのことで……決して昨日今日の突然などでは――ありません!」

 茶の間の対話の映像はままで。

 

今の先生のナレーション「……それから未だ、二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れて仕舞いました。男のように判然した所のある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話の出来る人でした。……」

 

 奥さんのバスト・ショット。

奥さん「よござんす、差し上げましょう。……差し上げるなんて威張った口のきける境遇ではありません。どうぞもらってやって下さい。御存じの通り、父親のない憐れな子です。」

 

先生のナレーション「……話は簡単で、且つ明瞭に片付いてしまいました。最初から仕舞いまでに、恐らく十五分とは掛らなかつたでしょう。……奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だと言いました。本人の意向さへたしかめるに及ばないと明言しました。……そんな点になると、学問をした私の方が、却って形式に拘泥するぐらいに思われたものです。……」

 

先生 「親類は兎に角、ご当人にはあらかじめ話をして承諾を得るのが筋では、ありませんか?」

奥さん「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやる筈がありませんから。」

 見上げる満面の自信と笑みの奥さん(俯瞰のバスト・ショット)。

 

「宜ござんす、差し上げませう」「差し上げるなんて威張つた口の利ける境遇ではありません。どうぞ貰つて下さい。御存じの通り父親のない憐れな子です」「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子を遣る筈がありませんから」と続く奥さんの受諾の言葉は、自信に満ち、明確できっぱりとしている。そしてそのことは取りも直さず、お嬢さんの意向は既に、とっくの昔に確認されているという印象を我々に与えるのである。私はKが来る前、あの第(七十二)回の時点で既に御嬢さんの了解は得られていたと読むのである。

 

「私の未来の運命は、これで定められたのだといふ観念が私のすべてを新たにしました」先生が人生に於いて初めて自分の欲求から選び取った幸福で自律的な未来の『幻影』への陶酔である。これは後に第(百二)回(=「下 四十八」)及び第(百五)回(=下 五十一)のネガティヴなそれと、確信犯的に対比されるように描かれている。

 

♡「稽古から歸つて來たら」という叙述と、その後にある「又坂の下で御孃さんに行き合ひました」は御嬢さんの何かの習い事(琴・御針仕事・華道)の稽古場・師匠はこれから次章で示す「いびつな圓」の中の地域にあったものと仮定する。更に、ここでの先生の言辞に注意したい。「又」なのである。この「又」は勿論、あの第(八十七)回の雨上がりの道でKと御嬢さんとKに遭遇した場所と同じ場所であることを意味している。この「又」はしかし、遺書を書いている先生の、作者漱石の付け加えた「又」である点に注意せよ!]

2010/07/30

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十八回

Kokoro16_2   先生の遺書

   (九十八)

 「Kの果斷に富んだ性格は私によく知れてゐました。彼の此事件に就いてのみ優柔な譯も私にはちやんと呑み込めてゐたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の塲合をしつかり攫(つら)まへた積で得意だつたのです。所が「覺悟」といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだん/\色を失なつて、仕舞にはぐら/\搖(うご)き始めるやうになりました。私は此塲合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ出したのです。凡ての疑惑、煩悶、懊惱(あうなう)、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうかと疑ぐり始めたのです。さうした新らしい光で覺悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろきました。其時の私が若し此驚きを以て、もう一返彼の口にした覺悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼(めつかち)でした。私はたゞKが御孃さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋しました。果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが卽ち彼の覺悟だらうと一圖に思ひ込んでしまつたのです。

 私は私にも最後の決斷が必要だといふ聲を心の耳で聞きました。私はすぐ其聲に應じて勇氣を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覺悟を極めました。私は默つて機會を覘(ねら)つてゐました。しかし二日經つても三日經つても、私はそれを捕(つら)まへる事が出來ません。私はKのゐない時、又御孃さんの留守な折を待つて、奥さんに談判を開かうと考へたのです。然し片方がゐなければ、片方が邪魔をするといつた風の日ばかり續いて、何うしても「今だ」と思ふ好都合が出て來て吳れないのです。私はいら/\しました。

 一週間の後(のち)私はとう/\堪へ切れなくなつて、假病を遣ひました。奥さんからも御孃さんからも、K自身からも、起きろといふ催促を受けた私は、生返事をした丈で、十時頃迄蒲團を被つて寐てゐました。私はKも御孃さんもゐなくなつて、家の内がひつそり靜まつた頃を見計つて寢床を出ました。私の顏を見た奥さんは、すぐ何處が惡いかと尋ねました。食物(たべもの)は枕元へ運んでやるから、もつと寐てゐたら可からうと忠告しても吳れました。身體(からだ)に異狀のない私は、とても寐る氣にはなれません。顏を洗つて何時もの通り茶の間で飯を食ひました。其時奥さんは長火鉢の向側から給仕をして吳れたのです。私は朝飯とも午飯とも片付かない茶椀を手に持つた儘、何んな風に問題を切り出したものだらうかと、そればかり屈託してゐたから、外觀からは實際氣分の好くない病人らしく見えただらうと思ひます。

 私は飯を終つて煙草を吹かし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢の傍を離れる譯に行きません。下女を呼んで膳を下げさせた上、鐵瓶に水を注(さ)したり、火鉢の緣を拭いたりして、私に調子を合はせてゐます。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問ひました。奥さんはいゝえと答へましたが、今度は向ふで何故ですと聞き返して來ました。私は實は少し話したい事があるのだと云ひました。奥さんは何ですかと云つて、私の顏を見ました。奥さんの調子は丸で私の氣分に這入り込めないやうな輕いものでしたから、私の次に出すべき文句も少し澁りました。

 私は仕方なしに言葉の上で、好(い)い加減にうろつき廻つた末、Kが近頃何か云ひはしなかつたかと奥さんに聞いて見ました。奥さんは思ひも寄らないといふ風をして、「何を?」とまた反問して來ました。さうして私の答へる前に、「貴方には何か仰やつたんですか」と却て向で聞くのです。Line

 

やぶちゃんの摑み:先生の致命的誤読と言うクライマックスの主旋律――先生の抜け駆け(と思っているのは先生だけなのだが)のプロポーズの決意と実行行為への着手に入る。なお、今日は明治天皇の祥月命日に当たる。

 

○茶の間。(基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

 長火鉢の前。箱膳の向うの先生。食事後。黙って敷島を吹かしている。やや落ち着かない。

 奥さん、口元に軽い笑みを浮かべながら長火鉢の向うでやや首を上げて先生の様子を黙って見ている。

 下女を呼ぶ奥さん。[やぶちゃん注:「□□」には下女の名が入る。]

奥さん「□□や。膳をお下げして。」

 奥さん、鉄瓶に水を注し、また火鉢の縁を拭いたりしている。

 先生、そそくさと二本目の敷島を懐から出し、銜える。

 火種を差し出す奥さん。

 火を貰う先生の手のアップ(向うにソフト・フォーカスの奥さん)。震える煙草(アップ)。

 妙にせっかちに何度もスパスパと吹かす先生。
先生 「……あの、奥さん……あ、今日は何か、これから特別な用でも、ありますか?」

奥さん「(穏やかな笑顔のままで。ゆっくりと)いゝえ。」

 かたまったような先生。灰を火箸で調える奥さん。間。

奥さん「(同じく)何故です?」

先生 「……実は……少しお話したいことが、あるのですが……」

奥さん「(同じく)何ですか?」

 奥さん、笑顔のまま先生の顔を見る。 先生、軽い咳払いをし、暫く、間。

先生 「……少し陽射しが出てきましたかね……」

奥さん「ええ、そうですね。」

先生 「……今年の冬は、そう寒くはないですね……」

奥さん「……ええ、まあ、そうですね。」

先生 「……あの、最近のKは、どう思われますか……」

奥さん「……は? 特にこれといって気にはなりませんが……」

先生 「……その、○○の奴が近頃、奥さんに何か、言いはしませんでしたか?」[やぶちゃん注:「○○」にはKの姓が入る。]

 奥さん、思いも寄らないという表情で。

奥さん「何を?……(間)……貴方には、何か仰やったんですか?」

 

「懊惱(あうなう)」底本ではルビ「あ」は右を上にして転倒している。

 

「一般を心得た上で、例外の場合をしつかり攫まえたつもり」分かりきったことであるが、高校国語教師としては板書で示しておきたい部分である。

 

・「一般」=Kが「果斷に富んだ性格」であり、何事も自律的に鮮やかに事を運ぶことを常としているということ

・「例外」=この御嬢さんへの恋情とその実行行為といったことに関しては、その「果斷に富んだ性格」は発揮され得ない

というこれまでの先生の観察と分析を指す。ところが先生はここでその分析結果に疑義を感じ出す。即ち、

   ↓

『「覺悟」といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうち』~例の先生の『ぐるぐる』の心の円運動

   ↓「私の得意はだん/\」変容を始め

「仕舞にはぐら/\搖き始め」

   ↓遂には誤読し

「此塲合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ」至る

   ↓疑惑

「凡ての」疑惑・煩悶・懊惱といった五月蠅「を一度に」殺戮し尽くす「最後の手段を」「彼は胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうか」

   ↓「さうした新らしい」誤った黒い「光で覺悟の
   ↓ 二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろ」く

「私はたゞKが御孃さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋し」、「果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが即ち彼の覺悟だらうと一圖に思ひ込んでしまつた」

 

「其時の私が若し此驚きを以て、もう一返彼の口にした覺悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼でした」この部分の叙述は遺書を書いている現在の先生が登場し、自身の致命的誤読を明示している点で興味深い。これは一種の鈍感な読者への見え見えの伏線サービスのつもりのようにも見える如何にもな挿入である。即ち、Kの言った「覺悟」という言葉を遂に読み違えてしまう先生を、

 

読み違えて《Kは道を捨ててお嬢さんとの恋に走るという意味だ》と一途に思い込んでしまったのであるという事実誤認の認定を事前に言質として読者に求めてしまっている

 

のである。但し、これは先生の遺書執筆時の現在時制からの『遅れてきた弁明』である。遅れてきている以上、それは完膚なきまでに無化されており、やはり弁解にならない弁解、全く機能しないものと指弾されるべきものである。さとすれば寧ろこれは、この遺書を読む愛する「私」に対して特別に向けられた、血塗られた先生自身の、縋りつかんとするような自己正当化、赦しの懇請のように思われるのである。試みにこのややお為ごかしな挿入を排除したこの部分を読んでみると、その印象に大きな変化が生ずることからも分かる。

 

   《復元開始》

 

 「Kの果斷に富んだ性格は私によく知れてゐました。彼の此事件に就いてのみ優柔な譯も私にはちやんと呑み込めてゐたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の塲合をしつかり攫(つら)まへた積で得意だつたのです。所が「覺悟」といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだんだん色を失なつて、仕舞にはぐらぐら搖(うご)き始めるやうになりました。私は此塲合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ出したのです。凡ての疑惑、煩悶、懊惱(あうなう)、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうかと疑ぐり始めたのです。さうした新らしい光で覺悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろきました。私はたゞ一途にKが御孃さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋しました。果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが卽ち彼の覺悟だと思ひ至つたのです。[やぶちゃん注:せいぜい私なら「と思ひ至つてしまつたのです。」とする程度の伏線は張るかもしれない。しかし、それも私の感覚からは鈍感な読者への厭味であることにかわりはない。]

 そこで私は私にも最後の決斷が必要だといふ聲を心の耳で聞きました。私はすぐ其聲に應じて勇氣を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覺悟を極めました。私は默つて機會を覘つてゐました。しかし二日經つても三日經つても、私はそれを捕まへる事が出來ません。私はKのゐない時、又御孃さんの留守な折を待つて、奥さんに談判を開かうと考へたのです。然し片方がゐなければ、片方が邪魔をするといつた風の日ばかり續いて、何うしても「今だ」と思ふ好都合が出て來て吳れないのです。私はいらいらしました。

 一週間の後私はたうとう堪へ切れなくなつて、假病を遣ひました。……(以下略)

 

   《復元終了》

 

どうであろう。私にはこちらの方が、先生のこの箇所の遺書の読者としての印象としても、そうして小説の構成としても、よりよいと思うのであるが。

 

「下女を呼んで膳を下げさせた」奥さんと御嬢さん、下宿人の先生とKの四人で食事をする際は、例の先生が進呈した特注の折畳式の卓袱台で食べていたが、小人数の場合は従来の箱膳を用いていたことが分かる。]

 

2010/07/29

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月29日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十七回

Kokoro16   先生の遺書

   (九十七)

 「其頃は自覺とか新らしい生活とかいふ文字(もんじ)のまだない時分でした。然しKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新らしい方角へ走り出さなかつたのは、現代人の考へが彼に缺けてゐたからではないのです。彼には投げ出す事の出來ない程尊(たつ)とい過去があつたからです。彼はそのために今日(こんにち)迄生きて來たと云つても可い位(くらゐ)なのです。だからKが一直線に愛の目的物に向つて猛進しないと云つて、決して其愛の生溫い事を證據立てる譯には行きません。いくら熾烈な感情が燃えてゐても、彼は無暗に動けないのです。前後を忘れる程の衝動が起る機會を彼に與へない以上、Kは何うしても一寸(ちよつと)踏み留まつて自分の過去を振り返らなければならなかつたのです。さうすると過去が指し示す路を今迄通り步かなければならなくなるのです。其上彼には現代人の有たない强情と我慢がありました。私は此双方の點に於て能く彼の心を見拔いてゐた積なのです。

 上野から歸つた晩は、私に取つて比較的安靜な夜(よ)でした。私はKが室へ引き上げたあとを追ひ懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。さうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑さうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いてゐたでせう、私の聲にはたしかに得意の響があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢(ひはち)に手を翳した後(あと)、自分の室に歸りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかつた私も、其時丈は恐るゝに足りないといふ自覺を彼に對して有つてゐたのです。

 私は程なく穩やかな眠に落ちました。然し突然私の名を呼ぶ聲で眼を覺ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、其處にKの黑い影が立つてゐます。さうして彼の室には宵の通りまだ燈火(あかり)が點いてゐるのです。急に世界の變つた私は、少しの間(あひだ)口を利く事も出來ずに、ぼうつとして、其光景を眺めてゐました。

 其の時Kはもう寢たのかと聞きました。Kは何時でも遲く迄起きてゐる男でした。私は黑い影法師のやうなKに向つて、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、たゞもう寐たか、まだ起きてゐるかと思つて、便所へ行つた序に聞いて見た丈だと答へました。Kは洋燈(ランプ)の灯(ひ)を脊中に受けてゐるので、彼の顏色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の聲は不斷よりも却て落ち付いてゐた位でした。

 Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇に歸りました。私は其暗闇より靜かな夢を見るべく又眼を閉ぢました。私はそれぎり何も知りません。然し翌朝になつて、昨夕(ゆふべ)の事を考へて見ると、何だか不思議でした。私はことによると、凡てが夢ではないかと思ひました。それで飯を食ふ時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだと云ひます。何故そんな事をしたのかと尋ねると、別に判然(はつきり)した返事もしません。調子の拔けた頃になつて、近頃は熟睡が出來るのかと却て向ふから私に問ふのです。私は何だか變に感じました。

 其日は丁度同じ時間に講義の始まる時間割になつてゐたので、二人はやがて一所に宅を出ました。今朝から昨夕の事が氣に掛つてゐる私は、途中でまたKを追窮しました。けれどもKはやはり私を滿足させるやうな答をしません。私はあの事件に就いて何か話す積ではなかつたのかと念を押して見ました。Kは左右ではないと强い調子で云ひ切りました。昨日上野で「其話はもう止めやう」と云つたではないかと注意する如くにも聞こえました。Kはさういふ點に掛けて鋭どい自尊心を有つた男なのです。不圖其處に氣のついた私は突然彼の用ひた「覺悟」といふ言葉を連想し出しました。すると今迄丸で氣にならなかつた其二字が妙な力で私の頭を抑へ始めたのです。

Line

 

やぶちゃんの摑み:先生は遂に気づかないのだ。Kのような極めて厳格な理想主義者にとって、たった一度でも自己否定をしてしまうことが如何に致命的な重みを持つものであるかを。それは――自己存在そのものを否定すること以外には在り得ないのである。私はこの時点で、Kは既に自殺を決意していると確信しているのである。そして、もう一つ、はっきりと言えることがある。それはこれが先生にとって、人生で最後の「穏やかな眠り」と「靜かな夢」の一夜であったということである……

 

「自覺とか新らしい生活とかいふ文字のまだない時分」単行本「こゝろ」ではこの「自覺」は「覺醒」となる。『自覚』という語よりも『覚醒』という語の方が並列される「新しい生活」により相応しい。『自覚』は単に現在の自己の在り方を弁えること、現在の自己の置かれている状況を媒介としてその現在の自己の位置・能力・価値・義務・使命などを知ること、即ち現在時制の自己存在を知ることのみを意味するが、『覚醒』の方は真の若しくは新しく進化した自己存在に目醒めることであり、将来性という近未来時制へのベクトルを持って目を醒ますことであるからである。更に言えば、ここで、Kに関わって仏教用語としての古くからの『覚醒』という語の『迷いから醒めること』や『迷いを醒ますこと』という先生にとって都合のいい解釈をも、ここでは想起されるからでもあろう。ここでの「まだない時分」とあるのは、島崎藤村の「破戒」(明治391906)年)に代表される自然主義の「自我の覚醒」、新理想主義の『白樺』(明治431910)年創刊)派の「新しい生活」等、これらの語が新時代の語としての属性を帯びて出現するのは、明治30年代の終わりから大正期にかけてであり、本作の推定時である明治341901)年前後より少し後の時期になるからである。例えば最も古いと思われる新時代の語としての「覺醒」を題に持つ岡倉天心の「東洋の覚醒」が書かれたのでさえ明治343519011902)年頃(但し、これはそもそもが未発表原稿)である。そうして、ここで先生は当時の先生やKには「覺醒」や「新しい生活」といった都合のいい考え方、『アジール』はなかったのだとも言いたいのではないか? 即ち、当時は、今なら当たり前の「自覺とか新らしい生活とかいふ」少なくとも先生やKにとっては軟弱で誤魔化しとしか思えない、思えなかったであろう語も思想もなかったというニュアンスをも意味していると言えるのではなかろうか。故にこそ次の「私は此双方の點に於て能く彼の心を見拔いてゐた」という表現が続くのである。

 

「彼には投げ出す事の出來ない程尊とい過去があつたからです」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該部分の注は極めて興味深い内容である。本書の注釈は同時代人の当時の読みの視点を核としている点で、特異的である。詳細は原書に当って頂きたいが、幾つかの重要な部分を引用したい。まず藤井氏は、当時、こうした『Kの生き方や人間像は、同世代や後続の青年たちから圧倒的なまでの支持を集めていた』とされ、辰野隆(明治211888)年~昭和391964)年:仏文学者。大正3(1914)年当時は27歳、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業後、再度、東京帝国大学仏文科学生となっていた。)の「忘れ得ぬ人々」(昭和411966)年弘文堂書房刊)から『嘗て、『こころ』を読んだ当時、僕はKの自殺が不道徳であるとか、神の教へに背くとかいふ考へ方の入り込む余地のない程Kの死は緊張したものであつた』と引用、更に同書からの孫引きとして、同じ同時代人である安倍能成(あべよししげ 明治161883)年~昭和411966)年:哲学者・教育者・政治家。東京帝国大学文科大学哲学科卒業。大正3(1914)年32歳当時は教師。)言葉として、『私は『先生』―『こころ』の主人公―の恋のライヴァルKが非常によく書けて居ると思ふ。一面には周囲に鈍感であつて、強い意志で自分の志す所に精進する道徳的エゴイズム、然もそのエゴイズムの作為なく虚偽なき純真、同時に一切の責を自分に負つて人を累はさない孤独的な強さ、それも努めてやつたのではない自然的な強さは『先生』の遺書の中に、実に簡勁に具体的に描出されてゐる』(「累はさない」は「累(わづら)はさない」と読む)という同時代人の受け止め方を示して、実は『Kこそがある意味ではこの時代の典型的な青年像にほからなかった』ことを証明されている。素晴らしい注である。

 

「此双方の點に於て」これは整理しておかなくてはならぬ。先生は「積」と言っているが、これは誤りではなく、真である点をまず確認しなくてはならぬからである。

 

Ⅰ K(や私=先生)には投げ出すことのできないほど尊い過去がある点

Ⅱ K(や私=先生)には現代人の持たない強情と我慢がある点

 

わざわざ『(や私=先生)』を挟んだのは、先生がそう「能く彼の心を見拔いてゐた積」であったのは、取りも直さず先生自身も少なかれ、それを共有する心情があったからこそ、「能く彼の心を見拔」けたと言えるからである。但し、先生が「積」とわざわざ入れたのは、Kは御嬢さんへの「切ない恋」を断念する、精進の道へと戻るだろうと楽観的に「見抜いていた積」であったからである。即ちⅠ・Ⅱは真であったが、そこから推論した先生の分析と結果が誤ったに過ぎないという点を確認しなくてはならぬ。そこで照射されるのは、語られぬ先生の内なる「投げ出すことのできないほど尊い過去」であり、「現代人の持たない強情と我慢」なのではなかろうか?

 

♡「私はKが室へ引き上げたあとを追ひ懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。さうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑さうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いてゐたでせう、私の聲にはたしかに得意の響があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳した後、自分の室に歸りました」あの第(八十六)回の秘かな「凱歌」が、ここに遂に、いやらしくおぞましい侵略軍の大虐殺――怒濤の「凱歌」の雄叫びとなってKに襲いかかる。

 

♡「恐るゝに足りないといふ自覺」Kに対する強い勝利の忌まわしい優位感は、続く「穩やかな眠り」や「靜かな夢」という表現でも、悲しいダメ押しとして美事に表されてくるのである。

 

♡「間の襖が二尺ばかり開いて」凡そ60㎝も襖を開け、そこの敷居(二人の意識の境界線の比喩である)の上に立っているK(そう読める。KがKの部屋にぼうっと立っている映像は私なら絶対に撮らない。如何にもそれは私(やぶちゃん)にとって生理的に『厭な』映像だからである)。これは明らかに、Kが何か先生に話をする目的であったことが分かる。私はそれが――具体的な自死を伏せたKの『「覺悟」の決意の確かな表明』に関わるものであった――と確信するのである。何故か? Kにとって――『節の人』であり、『己を律しなくてはならぬ人』であるKにとって先の「覺悟、――覺悟ならない事もない」という選択的で曖昧にして不完全な(と受け取られるような)表明は、到底、自身に許し得るものではないから、である。

 

♡「Kは洋燈の灯を脊中に受けてゐるので、彼の顏色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の聲は不斷よりも却て落ち付いてゐた位でした」この日の上野での「Kはぴたりと其處へ立ち留つた儘動きません。彼は地面の上を見詰めてゐます。私は思はずぎよつとしました。私にはKが其刹那に居直り強盗の如く感ぜられたのです。然しそれにしては彼の聲が如何にも力に乏しいといふ事に氣が付きました。私は彼の眼遣ひを參考にしたかつたのですが、彼は最後迄私の顏を見ないのです。さうして、徐々(そろ/\)と又歩き出しました」(九十五)続いて、

 

★『Kの眼を見逃す先生(3)

二人の部屋の間の襖、その敷居に立ち尽くすKの「黑い影法師」

   ↓しかし

シルエット故にKの表情・目は見えない

   ↓それどころか

「凡てが夢ではないか」と思うほど不思議な光景

 

に見え、それが事実であったかどうかさえ不審な先生は――戦勝の「穏やかな」甘く温もりに満ちた「眠り」によって寝惚けていた先生は――直後に直に「靜かな」(「靜」の!)子宮の中にいるような「夢」に墜ちていった先生は――わざわざその事実を翌朝Kに確認するというボケまでかましている。象徴的シチュエーションである。

 

Kの眼を見逃す

=Kの真意を見逃す

=Kの心を見落とす先生

 

何度でも言おう。

 

見落とすべきでなかったKの眼を何度も見逃す先生

=Kの眼を見ていれば分かったはずの当然の真実を、Kの眼を見なかったばかりに段階的にも論理的にも理解出来なかった先生

=Kの心を決定的に見落とし、致命的な誤読を重ねてしまう先生

 

なのである。

 

♡「彼の聲は不斷よりも却て落ち付いてゐた位でした」とあるが、それは――Kの心の平静さ――Kに既にして死の決意がなされているからではなかったか?

 

♡「調子の拔けた頃になつて、近頃は熟睡が出來るのかと却て向ふから私に問ふのです。私は何だか變に感じました」この問い掛けは確かに「變」である。先生が熟睡出来ているかどうかが、Kにとって必要な情報であったのではあるまいか? 即ち――自分の深夜の自殺を支障なく遂行するための――事前の確認だったのでは、あるまいか?

 

♡「不圖其處に氣のついた私は突然彼の用ひた「覺悟」といふ言葉を連想し出しました。すると今迄丸で氣にならなかつた其二字が妙な力で私の頭を抑へ始めたのです」先生の致命的誤読と言う主題の前奏曲である。]

2010/07/28

240000アクセス記念テクストへのヒント

日に煙る枯蘆原に人來るらし

なか空に穗末のそよぎ立ちて消えつも

……この歌の作者だ……ネット検索したって……出てこねえよ……

「心」シークエンス94~96

○上野公園

K 「……どう思う?」

先生「何がだ?」

K 「……今の俺を、どう思う?……お前は、どんな眼で俺を見ている?……」

先生「この際、何んで私の批評が必要なんだ?」

 K、何時にない悄然とした口調で。

K 「……自分の……弱い人間であるのが……実際、恥ずかしい……」

 先生、Kを見ず一緒に歩む。先生、黙っている。

K 「……迷ってる……だから……自分で自分が、分らなくなってしまった……だから……お前に公平な批評を求めるより……外に仕方がない……」

 先生、Kの台詞を食って。

先生「迷う?」

K 「……進んでいいか……退ぞいていいか……それに迷うのだ……」

 先生、ゆっくりと落ち着いて。

先生「……退ぞこうと思へば……退ぞけるのか?」

 K、立ち止まる。黙っている。

 先生、少し行って止まる。しかし、Kの方は振り返らない。暫くして。

K 「……苦しい……」

 先生、振り返る。

 K、のピクピクと動く口元のアップ。

 先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿(そのままの画面で)

先生「精神的に向上心のないものは馬鹿だ。」

 K、微かにびくっとする。間。ゆっくりと先生の方へ歩み始めるK(バスト・ショット。僅かに高速度撮影で、散る枯葉を掠めさせる)。

 カット・バックで先生(バスト・ショット、Kよりも大きめ。僅かにフレーム・アップさせながら)。

先生「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ――。」

 Kの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。

K 「馬鹿だ……(間)……僕は馬鹿だ……」

 K、ぴたりとそこでへ立ち止まる。K、うな垂れて地面を見詰めているのが分かるように背後から俯瞰ショット。

 先生の横顔(アップ)。ぎょっとして顔を上げる。何時の間にか先生の前にKの姿はない。カメラ、ゆっくりと回る。先生がさっきの進行方向を向くと、Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。

 追いついて、Kと並んで歩む先生。夕暮れ。

K 「……○○……」

[やぶちゃん注:「○○」には先生の姓が入る。]

 先生の方を見るK(先生目線の上向きのバスト・ショット)。

 先生とK、立ち止まる(フルショット。背後に枯れた木立を煽って)。

 Kの悲痛な顏(真正面のフルフェイス・ショット)。

 先生の顏(夕日を反射する眼鏡は鏡面のようにハレーションして眼は見えない。見上げる真正面のフルフェイス・ショット)

 K、淋しそうな眼、表情(真正面のフルフェイス・ショット)。

K 「……もう、その話はやめよう。」

 対する二人(ミディアム・ショット)。

K 「……やめてくれ。」

先生「(ゆっくりと極めて冷静に)やめてくれって、僕が、言い出したことじゃない。もともと君の方から持ち出した話じゃないか。……(間)……しかし、君がやめたければ、やめてもいいが、……(間)……ただ、口の先でやめたって仕方あるまい? 君の心でそれを止めるだけの、『覚悟』がなければ。……一体、君は、君の平生の主張をどうするつもりなんだ?」

 項垂れていることが分かるKの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。カメラがややティルト・アップすると、向うに先生(捉えた瞬間、先生を迅速にフレーム・アップ)。

K 「……覚悟?……」

 フレームの中の向うの先生が口を開いて何か言おうとする。しかしそれに合わせて、独白(モノローグ)のように、夢の中の言葉のように(台詞と共にややティルト・ダウンして、画面いっぱいにKの後姿。項垂れたままに)。

K 「覚悟?!……覚悟なら……ないこともない……」

 

○上野公園(遠景)

 人気のない夕暮れの上野公園を下ってくる先生とK。小さく。

 

○上野公園(不忍池への下り坂)

 これ以降、二人の下駄の音のみ(SE)。魚眼レンズでクレーン・アップ、ティルト・ダウンして、手前から二人、イン。下駄の音。

――カッ! カッ! カッ!

 背後から二人の頭部(この映像を下駄の音に合わせて、微かにフレーム・アップ、カット・バック、微かにフレーム・アウト、カット。バックで繰り返す)

 地べたにカメラ、右上からインする先生の下駄の足。先生の足止まる。直ぐ向うを下駄履きのKの足が右から左へ抜ける。先生の両足、踏み変えて、振り返る動作の足(アップ。微かに高速度撮影。先生の背後へにじる下駄音。その音がK一人の下駄音と不協和音のように絡む)。

――カッ! カッ! カッ!(Kの下駄音という風であるが、大きなままで微かにエコーを入れる)

 何気なく振り返る先生(俯瞰ショット。微かに高速度撮影)。夕日が一閃、眼鏡に反射してハレーションを起こす。その先生をなめて、坂を下る項を垂れたままに下ってゆくKの姿。

――カッ! カッ! カッ!

 暮れなずむ薄暗い空(広角)。霜に打たれて蒼味を失った茶褐色の杉の木立が梢を並べて聳えている中空(分かる分からない程度にティルト・ダウンさせるが、地上は映さない)。

 先生の右唇を中心にしたフル・フェイス・ショット(魚眼レンズ)。震える、先生の口元!

 遠景。坂下の下ってゆくKの後姿。

――カッ! カッ! カッ!

――カ! カ! カ! カ!

 先生、Kの方へ走ってゆく(クレーン・アップ。微かに高速度撮影。ここでは二人の下駄の音が不協和音のように絡む)。(F・O・。……だが、その後もSE残る)

――カッ! カッ! カッ!

 

 

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月28日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十六回

Kokoro16_3   先生の遺書

   (九十六)

 「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。或は待ち伏せと云つた方がまだ適當かも知れません。其時の私はたとひKを騙し打ちにしても構はない位(くらゐ)に思つてゐたのです。然し私にも敎育相當の良心はありますから、もし誰か私の傍へ來て、御前は卑怯だと一言私語(さゝや)いて吳れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我に立ち歸つたかも知れません。もしKが其人であつたなら、私は恐らく彼の前に赤面したでせう。たゞKは私を窘(たしな)めるには餘りに正直でした。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其處に敬意を拂ふ事を忘れて、却て其處に付け込んだのです。其處を利用して彼を打ち倒さうとしたのです。

 Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私は其時やつとKの眼を眞向に見る事が出來たのです。Kは私より脊の高い男でしたから、私は勢ひ彼の顏を見上げるやうにしなければなりません。私はさうした態度で、狼の如き心を罪のない羊に向けたのです。

 「もう其話は止めやう」と彼が云ひました。彼の眼にも彼の言葉にも變に悲痛な所がありました。私は一寸挨拶が出來なかつたのです。するとKは、「止めて吳れ」と今度は賴むやうに云ひ直しました。私は其時彼に向つて殘酷な答を與へたのです。狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食ひ付くやうに。

 「止めて吳れつて、僕が云ひ出した事ぢやない、もと/\君の方から持ち出した話ぢやないか。然し君が止めたければ、止めても可いが、たゞ口の先で止めたつて仕方があるまい。君の心でそれを止める丈の覺悟がなければ。一體君は君の平生の主張を何うする積なのか」

 私が斯う云つた時、脊の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話す通り頗る强情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される塲合には、決して平氣でゐられない質だつたのです。私は彼の樣子を見て漸やく安心しました。すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、―覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。

 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失つた杉の木立の茶褐色が、薄黑い空の中に、梢を並べて聳えてゐるのを振り返つて見た時は、寒さが脊中へ嚙り付いたやうな心持がしました。我々は夕暮の本鄕臺を急ぎ足でどしどし通り拔けて、又向ふの岡へ上るべく小石川の谷へ下りたのです。私は其頃になつて、漸やく外套の下に體の温か味を感じ出した位です。

 急いだためでもありませうが、我々は歸り路には殆ど口を聞きませんでした。宅へ歸つて食卓へ向つた時、奥さんは何うして遲くなつたのかと尋ねました。私はKに誘はれて上野へ行つたと答へました。奥さんは此寒いのにと云つて驚ろいた樣子を見せました。御孃さんは上野に何があつたのかと聞きたがります。私は何もないが、たゞ散步したのだといふ返事丈して置きました。平生から無口なKは、いつもより猶默つてゐました。奥さんが話しかけても、御孃さんが笑つても、碌な挨拶はしませんでした。それから飯を呑み込むやうに搔き込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の室へ引き取りました。

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[♡やぶちゃんの摑み:

 

○上野公園。(続き)

 Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。

 追いついて、Kと並んで歩む先生。夕暮れ。

K 「……○○……」

[やぶちゃん注:「○○」には先生の姓が入る。]

 先生の方を見るK(先生目線の上向きのバスト・ショット)。

 先生とK、立ち止まる(フルショット。背後に枯れた木立を煽って)。

 Kの悲痛な顏(真正面のフル・フェイス・ショット)。

 先生の顏(夕日を反射する眼鏡は鏡面のようにハレーションして眼は見えない。見上げる真正面のフル・フェイス・ショット)

 K、淋しそうな眼、表情(真正面のフル・フェイス・ショット)。

K 「……もう、その話はやめよう。」

 対する二人(ミディアム・ショット)。

K 「……やめてくれ。」

先生「(ゆっくりと極めて冷静に)やめてくれつて、僕が、言い出したことじゃない。もともと君の方から持ち出した話じゃないか。……(間)……しかし、君がやめたければ、やめてもいいが、……(間)……ただ、口の先でやめたって仕方あるまい? 君の心でそれを止めるだけの、『覚悟』がなければ。……一体、君は、君の平生の主張をどうするつもりなんだ?」

 項垂れていることが分かるKの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。カメラがややティルト・アップすると、向うに先生(捉えた瞬間、先生を迅速にフレーム・アップ)。

K 「……覚悟?……」

 フレームの中の向うの先生が口を開いて何か言おうとする。しかしそれに合わせて、独白(モノローグ)のように、夢の中の言葉のやうに(台詞と共にややティルト・ダウンして、画面いっぱいにKの後姿。項垂れたままに)。

K 「覚悟?!……覚悟なら……ないこともない……」

 

○上野公園(遠景)
 人気のない夕暮れの上野公園を下ってくる先生とK。小さく。


○上野公園(不忍池への下り坂)
 これ以降、二人の下駄の音のみ(SE)。魚眼レンズでクレーン・アップ、ティルト・ダウンして、手前から二人、イン。下駄の音。
――カッ! カッ! カッ!
 背後から二人の頭部(この映像を下駄の音に合わせて、微かにフレーム・アップ、カット・バック、微かにフレーム・アウト、カット。バックで繰り返す)
 地べたにカメラ、右上からインする先生の下駄の足。先生の足止まる。直ぐ向うを下駄履きのKの足が右から左へ抜ける。先生の両足、踏み変えて、振り返る動作の足(アップ。微かに高速度撮影。先生の背後へにじる下駄音。その音がK一人の下駄音と不協和音のように絡む)。
――カッ! カッ! カッ!(Kの下駄音という風であるが、大きなままで微かにエコーを入れる)
 何気なく振り返る先生(俯瞰ショット。微かに高速度撮影)。夕日が一閃、眼鏡に反射してハレーションを起こす。その先生をなめて、坂を下る項を垂れたままに下ってゆくKの姿。
――カッ! カッ! カッ!
 暮れなずむ薄暗い空(広角)。霜に打たれて蒼味を失った茶褐色の杉の木立が梢を並べて聳えている中空(分かる分からない程度にティルト・ダウンさせるが、地上は映さない)。
 先生の右唇を中心にしたフル・フェイス・ショット(魚眼レンズ)。震える、先生の口元!
 遠景。坂下の下ってゆくKの後姿。
――カッ! カッ! カッ!
――カ! カ! カ! カ!
 先生、Kの方へ走ってゆく(クレーン・アップ。微かに高速度撮影。ここでは二人の下駄の音が不協和音のように絡む)。(F・O・。……だが、その後もSE残る)
――カッ! カッ! カッ!
――カ! カ! カ! カ!

 


♡「然し私にも敎育相當の良心はありますから、もし誰か私の傍へ來て、御前は卑怯だと一言私語いて吳れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我に立ち歸つたかも知れません。もしKが其人であつたなら、私は恐らく彼の前に赤面したでせう。たゞKは私を窘めるには餘りに正直でした。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其處に敬意を拂ふ事を忘れて、却て其處に付け込んだのです」私は高校時代にここを読んで先生のさもしさに舌打ちしたのを思い出した……僕が先生で、「私」に向けて遺書を書くとしても、決してこんな浅ましい弁解にならない弁解を、牛の涎のようにだらだらとは書かないよ。……そもそも自殺をしようという僕だったら……最も嫌うのは、こうしたさもしい弁解を言ってしまうこと、じゃないか? 素直に、こう言えばいいんだ。
「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。或は待ち伏せと云つた方がまだ適當かも知れません。其時の私はたとひKを騙し打ちにしても構はない位に思つてゐたのです。たゞたゞKは私を信じ切つていました。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其處に敬意を拂ふ事を忘れて、却て其處に付け込んだのです。其處を利用して彼を打ち倒さうとしたのです。」
と……それで澤山だと思うんだ。……


 以下、私の授業の板書である。

 

◎「平生の主張」=道のためにはすべてを犠牲するという考え
◎「安心しました」
〈この時点の先生の解釈〉Kが御嬢さんへの恋を捨て、求道的生活に戻るということ
↓しかし
◎K「覚悟?!……覚悟なら……ないこともない……」

○結果した先生のこの後の「覚悟」の解釈=『道を捨てて、お嬢さんへの恋に走る』という意味~それが総てを破局へと導く

 

●「覚悟」の双方の捉え方の齟齬
先生が言った「覚悟」=『道に生きるためには如何なるものも犠牲にする』という覚悟


Kが言った「覚悟」とは?!……誰だって分かるさ……みんな、分かってる……分からないのは先生だけじゃないか!……]

2010/07/27

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月27日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十五回

Kokoro16_2   先生の遺書

   (九十五)

 「私は丁度他流試合でもする人のやうにKを注意して見てゐたのです。私は、私の眼、私の心、私の身體(からだ)、すべて私といふ名の付くものを五分の隙間もないやうに用意して、Kに向つたのです。罪のないKは穴だらけといふより寧ろ明け放しと評するのが適當な位に無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管してゐる要塞の地圖を受取つて、彼の眼の前でゆつくりそれを眺める事が出來たも同じでした。

 Kが理想と現實の間に彷徨してふら/\してゐるのを發見した私は、たゞ一打(ひとうち)で彼を倒す事が出來るだらうといふ點にばかり眼を着けました。さうしてすぐ彼の虛に付け込んだのです。私は彼に向つて急に嚴肅な改たまつた態度を示し出しました。無論策略からですが、其態度に相應する位(くらゐ)な緊張した氣分もあつたのですから、自分に滑稽だの羞耻だのを感ずる餘裕はありませんでした。私は先づ「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と云ひ放ちました。是は二人で房州を旅行してゐる際、Kが私に向つて使つた言葉です。私は彼の使つた通りを、彼と同じやうな口調で、再び彼に投げ返したのです。然し決して復讐ではありません。私は復讐以上に殘酷な意味を有つてゐたといふ事を自白します。私は其一言でKの前に橫たはる戀の行手を塞がうとしたのです。

 Kは眞宗寺に生れた男でした。然し彼の傾向は中學時代から決して生家の宗旨に近いものではなかつたのです。教義上の區別をよく知らない私が、斯んな事をいふ資格に乏しいのは承知してゐますが、私はたゞ男女に關係した點についてのみ、さう認めてゐたのです。Kは昔しから精進といふ言葉が好でした。私は其言葉の中に、禁慾といふ意味も籠つてゐるのだらうと解釋してゐました。然し後で實際を聞いて見ると、それよりもまだ嚴重な意味が含まれてゐるので、私は驚ろきました。道のためには凡てを犧牲にすべきものだと云ふのが彼の第一信條なのですから、攝慾や禁慾は無論、たとひ慾を離れた戀そのものでも道の妨害(さまたげ)になるのです。Kが自活生活をしてゐる時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。其頃から御孃さんを思つてゐた私は、勢ひ何うしても彼に反對しなければならなかつたのです。私が反對すると、彼は何時でも氣の毒さうな顏をしました。其處には同情よりも侮蔑の方が餘計に現はれてゐました。

 斯ういふ過去を二人の間に通り拔けて來てゐるのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だといふ言葉は、Kに取つて痛いに違ひなかつたのです。然し前にも云つた通り、私は此一言で、彼が折角積み上げた過去を蹴散らした積ではありません。却てそれを今迄通り積み重ねて行かせやうとしたのです。それが道に達しやうが、天に屆かうが、私は構ひません。私はたゞKが急に生活の方向を轉換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は單なる利己心の發現でした。

 「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」

 私は二度同じ言葉を繰り返しました。さうして、其言葉がKの上に何う影響するかを見詰めてゐました。

 「馬鹿だ」とやがてKが答へました。「僕は馬鹿だ」

 Kはぴたりと其處へ立ち留つた儘動きません。彼は地面の上を見詰めてゐます。私は思はずぎよつとしました。私にはKが其刹那に居直り强盜の如く感ぜられたのです。然しそれにしては彼の聲が如何にも力に乏しいといふ事に氣が付きました。私は彼の眼遣ひを參考にしたかつたのですが、彼は最後迄私の顏を見ないのです。さうして、徐々(そろ/\)と又步き出しました。

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[♡やぶちゃんの摑み:先生は遂に、理想と現実との狭間で苦悩する正当にして正統な明治の知識人の表象たるKに対して、恐るべき非人道的最終兵器を使用してしまうのである。

 

○上野公園。(続き)

 振り返った先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿(そのままの画面で)。

先生「精神的に向上心のないものは馬鹿だ。」

 K、微かにびくっとする。間。ゆっくりと先生の方へ歩み始めるK(バスト・ショット。僅かに高速度撮影で、散る枯葉を掠めさせる)。

 カット・バックで先生(バスト・ショット、Kよりも大きめ。僅かにフレーム・アップさせながら)。

先生「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ――。」

 Kの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。

K 「馬鹿だ……(間)……僕は馬鹿だ……」

 K、ぴたりとそこで立ち止まる。K、うな垂れて地面を見詰めているのが分かるように背後から俯瞰ショット。

 先生の横顔(アップ)。ぎょっとして顔を上げる。何時の間にか先生の前にKの姿はない。カメラ、ゆっくりと回る。先生がさっきの進行方向を向くと、Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。

 

なおこの章は高校二年生の定期試験の定番である。摑みの各パートは、現役生にサービスして、そうした部分を中心に記載しておく。

 

♡「穴だらけといふよりむしろ開け放し」Kは未だに私がお嬢さんを好きなことに気がついておらず、未だに私を唯一無二の親友と思い、総ての苦悩の内実を彼を敵として滅ぼさんとしている先生に告白してしまっている。

 

♡「私は彼に向つて急に嚴肅な改たまつた態度を示し出しました」という部分は、この「嚴肅な改たまつた態度」にこそ狡猾な効果があることは言うまでもない。それは大きく分けて二つ考えられる。

 

Ⅰ Kの相談に恰も真面目に乗ってやっているかのような印象を与え、Kに勝利するためのKの側からのあらゆる情報を収集可能とする情報戦に於ける有効な効果。

Ⅱ Kの平生の「嚴肅な」「道」や「嚴肅な」「精進」と言った捨てることの出来ない絶対的信条を自覚させる心理戦に於ける有効な効果。

 

♡「私はたゞ男女に關係した點についてのみ、さう認めてゐたのです」の「そう」の指す内容は勿論、テストで問われますよ。

 

♡「然し後で實際を聞いて見ると、それよりもまだ嚴重な意味が含まれてゐるので、私は驚ろきました。道のためには凡てを犠牲にすべきものだと云ふのが彼の第一信條なのですから、攝慾や禁慾は無論、たとひ慾を離れた戀そのものでも道の妨害になるのです」

 

Kの生家~浄土真宗~宗教史上初めて僧侶の肉食妻帯を許す

Kの信条~「たとひ慾を離れた戀そのものでも道の妨害になる」

 

しかしながら、小乗仏教及び平安旧仏教の教義、禪宗(極めて個人主義的であるため必ずしも教義上ではないが)等に於いては男女は基より、親と子や師弟の総ての純粋に精神的なる愛欲でさえ煩悩として鮮やかに退けられることは「驚ろ」くべきことでも、奇異なことでもない。私は逆に先生のこの反応自体にやや奇異なものを感じるとさえ言っておく。

 

♡「私の利害と衝突すること」お嬢さんとの恋愛で恋敵になること。

 

♡「利己心の発現」これは近代文学史上、最も美事な人間のエゴイズムの属性の表明となっている。勿論、「それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません」という、この呪わしくもおぞましい自己表明の一文によって、である。

 

♡「私は思はずぎよつとしました。私にはKが其刹那に居直り强盜の如く感ぜられたのです」Kが平生の自身の信条をかなぐり捨て、御嬢さんとの恋に猪突猛進、走り始める決心をしたのではないかという先生の不安である。……しかし先生、あなたはどれだけKと一緒にいました? あなたはどれだけKを愛してきたのですか? そうです、あなたはKを愛していたではありませんか?! だったら、ここでKがそんな「居直り强盜の如く」なりっこない、ということは、あなたには分かっていたはずです……はずなのに……先生、あなたは、哀しいです……

 

♡「Kはぴたりと其處へ立ち留つた儘動きません。彼は地面の上を見詰めてゐます。私は思はずぎよつとしました。私にはKが其刹那に居直り強盗の如く感ぜられたのです。然しそれにしては彼の聲が如何にも力に乏しいといふ事に氣が付きました。私は彼の眼遣ひを參考にしたかつたのですが、彼は最後迄私の顏を見ないのです。さうして、徐々(そろ/\)と又歩き出しました」「馬鹿だ」「僕は馬鹿だ」と言った直後のKの表情や目を先生は見ていない。ここは「心」を考える際に私にとって極めて大切なワン・シーンである。それはここが、第(八十二)回の房州行での「丁度好い、遣つて吳れ」のシーンに続く漱石の確信犯行為

 

★『Kの眼を見逃す先生(2)

 

という象徴的シチュエーションの2度目のシーンだからである。

 

Kの眼を見逃す

=Kの真意を見逃す

=Kの心を見落とす先生

 

という分かり易い伏線であると考えて止まないからである。これは私が「こゝろ」の全文授業を始めた教員1年目、実に31年前からのオリジナルな解釈なのであるが、第(百三)回(=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十九)の「Kの死に顔が一目見たかつた」先生が「見る前に手を放してしまう」というシーンまで、この『Kの眼を見逃す先生』は実に5回も出現するのである。そして――私のここでの謂いは

 

見落とすべきでなかったKの眼を何度も見逃す先生

=Kの眼を見ていれば分かったはずの当然の真実を、Kの眼を見なかったばかりに段階的にも論理的にも理解出来なかった先生

=Kの心を決定的に見落とし、致命的な誤読を重ねてしまう先生

 

という意味でカタストロフへと直進してゆく原動力となっていることを意味している。

 以下、本章の私の授業の板書を示して摑みの纏めとする。

 

◎Kという存在~自己矛盾~理想と現実の狭間で苦悩する近代的知識人K

道=理想=求道的人生観=理知=Kの超人思想(第(七十七)回参照)

↑葛

↓藤

恋=現実=浪漫的恋愛観=感情=Kの心的内実

 

●先生の心に巣食う「私」というエゴ

最高の善意を装った最大の悪意の行使としての「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」

これはKにとっての絶対の言葉・絶対の信条である=第(八十四)回の房州行の中で、先生の生ぬるい、人間として許すべからざる生き方への痛烈な批判としてKが開示した言葉

↓(それを鏡返しで先生から指弾されるということは)

K自身の内部から、K自身の手で、Kを否定することに他ならないということ

⇓〈座標軸変換〉

◎Kにとって先生から「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」と指弾されたことの致命的な二重の意味

Ⅰ 自己の命に換えても守るべき(肉を卑しむ)理想を自らが裏切ってしまったことへの致命的な自責の念

Ⅱ Ⅰを唯一信頼し愛する他者である先生から指弾されたことによる、愚かな人間として激しい致命的な羞恥心

ところが! これらに先生は全く気づいていない! これこそが総ての悲劇の始まりなのである――

⇓それどころか

口実にならない口実としての私の虚しい論理・言い訳にならない言い訳としての

「却てそれを今迄通り積み重ねて行かせやうとしたのです」

「それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません」

これは自己正当化を図ろうとする先生の虚しい言語操作であるが、それは最後には最早、流石に

「利己心の発現」~エゴイズムの発露以外の何物でもなかったと先生は自白する以外にはなかった

 

2010/07/26

耳嚢 巻之三 窮借手段之事

「耳嚢 巻之三」に「窮借手段之事」を収載した。

今日は怠けているわけではない。

午前中に定期健康診断(恐らく致命的に糖尿病が悪化しているであろう)、午後は部活動日曜出勤の振替でお休み(概ね近日やってくる240000アクセス記念テクスト――ひ、み、つ!――に向けての作業に費やした。未だにバリウムがお腹でゴロゴロいっている)。

……僕は来週の日曜から忌まわしい現実から逃避するために北へ旅立つ。……

……「心」は自動更新がセットしてあるから、ご安心を……僕が帰る頃には……Kはとっくに自殺し、先生は結婚してアル中になっている……

 

 

 窮借手段之事

 當時青雲を得て相勤る今江何某は放蕩不羈にして、冬は夏衣夏の道具を貯へず其時臨で新調をなして、甚貧賤なれど表を餝(かざ)り、世に立交るに金錢を不厭、專ら交易に遣ひ捨ぬれば、七月十二月の二季の凌ぎも誠に手段の上にて有しが、或年術計盡て、大晦日に裏屋住の修驗を鳥目(てうもく)二百錢にて一晝夜の約束して相招き、臺所の脇にて終日終夜錫杖をふり鑰を敲き讀經いたさせ、其身は一間なる所にて屏風を建(たて)※(よぎ)打かむりて臥し、妻なる者土瓶ひちりんのあてがひ、藥又は白湯を洗(せんじ)煎させて、賣掛を乞ひに來り又は借金をはたりに來る者へは女房立出で、夫しかじかの病氣今日も無心元、祈禱をなし醫藥を盡し候抔僞り語りて、大晦日を凌、翌日元日は俄に髮月代などして、年禮に飛び歩行けると也。可笑しき手段も有るもの也。

[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、先行する困窮した幕府経済を立て直した重役の経済改革の奇策と、個人の経済困窮の奇計で連関する。

・「今江何某」不詳。「當時青雲を得て相勤る」とくる以上、相応に知られた人物とは思われるが、内容が内容だけに、偽名にしてある可能性が強いように思われる。

・「放蕩不羈」酒色に耽って品行不良、放埒にして道楽好き、勝手気儘で自由奔放といった三拍子そろった筋金入りの遊び人ということ。

・「七月十二月の二季」当時の借金の支払い方法は、盆(旧暦七月十五日)と暮れ(旧暦十二月三十一日大晦日)の二季払いが通例で、回収出来ずにその季を過ぎると、次の季までが回収期限となると考えるのが不文律の慣習であった。

・「鳥目」穴明き銭。古銭は円形方孔で鳥の目に似ていたことから。

・「二百文」宝暦・明和年間(17511771)で米一升100文程度であった。1文20円として4000円、一昼夜兼行で時給170円弱になる。

・「鑰」この字は音「ヤク」で、①鍵。錠前。出入り口の戸締り。②要(かなめ)。大事な核心部。枢要。③悟り。といった意味で、文意が通らない。岩波版長谷川氏注に日本芸林叢書所収本(通称三村本)には「鈴」とあるとある。「鈴」=「リン」=「鉦」で採った。

・「※(よぎ)」[「※」=「衤」+「廣」。]夜着。寝るときに上に掛ける夜具で、着物の形をした大形の掛け布団。かいまき。

■やぶちゃん現代語訳

 借金窮余の一策の事

 今でこそ高い地位を得て御勤めに励んでおる今江某であるが、彼、元来、放蕩不羈にして、冬に入る前には夏の衣類や夏の家財道具を悉く売り払い、また季が廻りたれば、その季節のものを総て新調致すという――さすれば経済も甚だ貧窮なれど、ともかく着るものには兎角うるさくていつも派手に着飾っており、世の朋輩(ほうばい)との交際にも湯水の如(ごと)金を遣うを厭わず、給金のほぼ総てを社交の費用に遣い捨てる有様なれば、七月及び十二月の二季の掛け取りの時期の借金取りへの凌ぎ方も、実に手練手管千両役者の限りを尽くして御座ったが、ある年の暮れ、遂に術策尽きた――。

 ――すると今江某、大晦日、やおら裏長屋に住んでおった、怪しげなにわか修験者を鳥目二百文一昼夜兼行の約束で招き寄せ、台所の脇にて終日終夜、錫杖を振り鳴らさせ、鉦を叩かせ、読経をさせて、自身はその直ぐ脇の一間に屏風を立て廻し、薄い夜着を頭まで引っ被って横になり、その妻には七輪に土瓶を載せさせて薬を煎じさせるやら、白湯(さゆ)を沸かさせるやら――。

 ――そうしておいて、今日こそはと押し寄せて居並んだ売掛取りやら借金を叩き取りに来た輩へは、やおら今江の妻が立ち出でて、

「……夫はこれこれの病いにて……今日明日にても儚くならんとする程に……心もとなき有様にて……今はただただ最後の祈禱を致し、最後の医薬施療を尽くしておりますれば……」

なんどという嘘八百をしんみりと語る――。

 さても辛くも、かくして大晦日を凌いで御座った――。

 ――うって変わって翌日正月元旦――今江、俄かに飛び起きたかと思うと、月代(さかやき)なんども綺麗に剃り整え、元気溌剌、年始の礼に飛び歩いたという。

 いや、全く以って奇計なる術策を用いたものではある。

遂に明日――先生はKにMIRV(マーヴ)を発射する――

Kが発明した「マーヴ」MIRVが遂に先生によってKへ使用されてしまう時が来た……

Multiple Independently-targetable Reentry Vehicle

=複数個別誘導再突入体/多弾頭独立目標再突入ミサイル

……Kの五臓六腑三焦膏肓精神神経悉くを個別に完膚無きまでに破壊する多弾頭独立目標再突入ミサイルだ……

for the Mental Improvidetly-human; RevolutionaryVergeltungswaffe 2”

=精神的に先見性を欠如している人間への革命的『報復兵器2号』

として、である……

Vergeltungswaffe 2(zwei

「フェアゲルトゥングス・ヴァッフェ 2(ツヴァイ)」と読む。ドイツ語。

第二次世界大戦中にナチス・ドイツが開発した世界最初の軍事用液体燃料ロケットによる弾道ミサイル「V2ロケット」。ドイツ語で“Vergeltungswaffe ”は報復兵器の意である。プロパガンダの天才、小さなドクトル国民啓蒙宣伝相Paul Joseph Goebbelsパウル・ヨーゼフ・ゲッベルスの命名。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月26日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十四回

Kokoro16   先生の遺書

   (九十四)

 「ある日私は久し振に學校の圖書館に入(はひ)りました。私は廣い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外國雜誌を、あちら此方と引繰り返して見てゐました。私は擔任教師から專攻の學科に關して、次の週までにある事項を調べて來いと命ぜられたのです。然し私に必要な事柄が中々見付からないので、私は二度も三度も雜誌を借り替へなければなりませんでした。最後に私はやつと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを讀み出しました。すると突然幅の廣い机の向ふ側から小さな聲で私の名を呼ぶものがあります。私は不圖眼を上げて其所に立つてゐるKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲るやうにして、彼の顏を私に近付けました。御承知の通り圖書館では他の人の邪魔になるやうな大きな聲で話をする譯に行かないのですから、Kの此所作は誰でも遣る普通の事なのですが、私は其時に限つて、一種變な心持がしました。

 Kは低い聲で勉强かと聞きました。私は一寸調べものがあるのだと答へました。それでもKはまだ其顏を私から放しません。同じ低い調子で一所に散步をしないかといふのです。私は少し待つてゐれば爲(し)ても可(い)いと答へました。彼は待つてゐると云つた儘、すぐ私の前の空席に腰を卸しました。すると私は氣が散つて急に雜誌が讀めなくなりました。何だかKの胸に一物があつて、談判でもしに來られたやうに思はれて仕方がないのです。私は己(やむ)を得ず讀みかけた雜誌を伏せて、立ち上がらうとしました。Kは落付き拂つてもう濟んだのかと聞きます。私は何うでも可いのだと答へて、雜誌を返すと共に、Kと圖書館を出ました。

 二人は別に行く所もなかつたので、龍岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入(はひ)りました。其時彼は例の事件について、突然向ふから口を切りました。前後の樣子を綜合して考へると、Kはそのために私をわざ/\散步に引つ張出したらしいのです。けれども彼の態度はまだ實際的の方面へ向つてちつとも進んでゐませんでした。彼は私に向つて、たゞ漠然と、何う思ふと云ふのです。何う思ふといふのは、さうした戀愛の淵に陷(おた)いつた彼を、何んな眼で私が眺めるかといふ質問なのです。一言でいふと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたい樣なのです。其所に私は彼の平生と異なる點を確かに認める事が出來たと思ひました。度々(たひ/\)繰り返すやうですが、彼の天性は他(ひと)の思はくを憚かる程弱く出來上つてはゐなかつたのです。斯うと信じたら一人でどんどん進んで行く丈の度胸もあり勇氣もある男なのです。養家(やうか)事件で其特色を强く胸の裏に彫り付けられた私が、是は樣子が違ふと明らかに意識したのは當然の結果なのです。

 私がKに向つて、此際何んで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼は何時もにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが實際耻づかしいと云ひました。さうして迷つてゐるから自分で自分が分らなくなつてしまつたので、私に公平な批評を求めるより外に仕方がないと云ひました。私は隙(す)かさず迷ふといふ意味を聞き糺(ただ)しました。彼は進んで可(い)いか退ぞいて可いか、それに迷ふのだと說明しました。私はすぐ一步先へ出ました。さうして退ぞかうと思へば退ぞけるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉が其所で不意に行き詰りました。彼はたゞ苦しいと云つた丈でした。實際彼の表情には苦しさうな所があり/\と見えてゐました。もし相手が御孃さんでなかつたならば、私は何んなに彼に都合の好い返事を、その渇き切つた顏の上に慈雨の如く注いで遣つたか分りません。私はその位の美くしい同情を有つて生れて來た人間と自分ながら信じてゐます。然し其時の私は違つてゐました。

Line

 

[♡やぶちゃんの摑み:私は以下のシーンを明治341901)年1月下旬か2月上旬に同定している。二度目のKの告白が彼から自律的に行われる。Kは自分が「弱い人間」であり、「迷つてゐる」、「自分が自分で分からなくなってしまつた」と素っ裸になって先生の前に身を投げ出す。これまで果敢にして強靭、孤高にして不屈なる、かの屈原のような「強い」Kを見てきた我々は、先生と一体化して、この極めて異例な言葉を耳にすることになる。

 

○上野公園。

K 「……どう思う?」

先生「何がだ?」

K 「……今の俺を、どう思う?……お前は、どんな眼で俺を見ている?……」

先生「この際、何んで私の批評が必要なんだ?」

 K、何時にない悄然とした口調で。

K 「……自分の……弱い人間であるのが……実際、恥ずかしい……」

 先生、Kを見ず一緒に歩む。先生、黙っている。

K 「……迷ってる……だから……自分で自分が、分らなくなってしまった……だから……お前に公平な批評を求めるより……外に仕方がない……」

 先生、Kの台詞を食って。

先生「迷う?」

K 「……進んでいいか……退ぞいていいか……それに迷うのだ……」

 先生、ゆっくりと落ち着いて。

先生「……退ぞこうと思へば……退ぞけるのか?」

 K、立ち止まる。黙っている。

 先生、少し行って止まる。しかし、Kの方は振り返らない。暫くして。

K 「……苦しい……」

 先生、振り返る。

 K、のピクピクと動く口元のアップ。

 先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿。

 

 

♡「龍岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました」二人は赤門の傍にある図書館から大学構内を東に横切り龍岡門から出て、龍岡町の北の通りを東に不忍池に下って、池の南岸である池之端を抜けて三橋の現在の下町風俗資料館のあるところから上野公園へと向かった。このルート部分は私が考える「心」の地図(小石川本郷周辺)の0座標を富坂下に置き、南北方向をy軸、東西方向をχ軸とすると、その第1象限部分に現われるカーブである。このカーブは実は第(百)回、先生がプロポーズをした直後に下宿を出て歩くコースのカーブ、先の座標軸で言うと第4象限に現われるカーブとχ軸を挟んでほぼ対称となる。更にここに第(八十一)回の「傳通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻つて又富坂の下へ出ました」を配するとこれがこの座標の第2象限部分にy軸を挟んでやはりほぼ対称に綺麗な対となって現われるのである。これを私は今、漱石の考えたある数理的な魔法陣ではなかったかと感じつつあるのである。

 

♡「さうした戀愛の淵に陷(おた)いつた彼を」またしても大事な場面で致命的な情けない誤植である。

 

♡「もし相手が御孃さんでなかつたならば、私は何んなに彼に都合の好い返事を、その渇き切つた顏の上に慈雨の如く注いで遣つたか分りません。私はその位の美くしい同情を有つて生れて來た人間と自分ながら信じてゐます。然し其時の私は違つてゐました」先生は、私は「美しい同情を有つて生まれて来た人間と自分ながら」自分を100%信じている――が――御嬢さんの占有という自己の利害に関わるから「其時の私は違つてい」た――という。これは最早、弁解にならない弁解である。これ以降、先生のKに対する仕打ちの言い訳は、その総てが説得力を持たない完全無効なものとして私には読める。少なくとも先生が自己のエゴイズムを積極的に正当なものだと叫ばない限りに於いて。――そう、ここにはその方法が確かにある――そして今の我々はそれを選び取って恥じないとも言えるのではあるまいか?]

2010/07/25

耳嚢 巻之三 貒といへる妖獸の事

「耳嚢 巻之三」に「貒といへる妖獸の事」を収載した。

 

 

 貒といへる妖獸の事

 暫く御使番を勤(つとめ)病氣にて退役せし松野八郎兵衞といへるは、屋敷番町にてありしが、天明六午年の春、右屋敷へ妖怪出しと專らの沙汰有しに、八郎兵衞方に勤し吉田某、其後予が許へ來り勤けるに眞僞を尋しに、彼者も松野方を退(しりぞき)し後なるが、古傍輩成し者に聞しが相違なし。或夜屋敷内を廻りし中間へ飛付くものあり。右中間棒にて打拂ひけるに、棒へ喰付などしける故、驚きて給人(きふじん)勤たる中村作兵衞といへる者の長屋へ缺入ぬ。作兵衞も早速駈出て見るに、犬よりは餘程大く、眼は日月のごとくその色鼠の如くにて、杖などにて打候ば蟇の背を敲く樣に有しが、追々人出て追散らしけるが、境成る大藪の内へ入り、闇夜にはあり行衞を失ひし由。其後は絶て出ざりしが、如何成ものなるや、マミと言る者也と或人いひしが、さることもあるやと語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。

・「貒」「まみ」と読む。猯。「魔魅」で妖獣の意。アナグマ。「狸穴」で「まみあな」と読ませることからも分かる通り、通常の哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ科タヌキNyctereutes procyonoides を指すこともあるが、当時の江戸市中や近郊でタヌキが稀であったとは思われないので、食肉(ネコ)目イタチ科アナグマ亜科アナグマ属ニホンアナグマ Meles meles anakuma に同定しておく。日本穴熊。まずは幼獣としての記載をウィキの「(「貒」と同義。「まみ」と読む)から引用(記号の一部を変更した)し、その後に「ニホンアナグマ」について同じくウィキから引用する。『民俗学者・日野巌による「本妖怪変化語彙」によれば、マミはタヌキの一種とある』。『東京都の麻布狸穴町の「狸」を「まみ」と読むことからも、猯が狸と同一視されていたことがわかる』。『一方で江戸時代の百科事典「和漢三才図会」では、「猯」は「狸」とは別種の動物として別々に掲載されている』。『同書では中国の本草学研究書「本草綱目」からの引用として、山中の穴に住んでいる肥えた獣で、褐色の短い毛に体を覆われ、耳が聞こえず、人の姿を見ると逃げようとするが行動は鈍いとある。またその肉は野獣の中でも最も甘美で、これを人が食べると死に瀕した状態から治ることができるともある』。『江戸時代にはこの猯、狸、そしてムジナが非常に混同されていたが、これはアナグマがムジナと呼ばれていたところが、アナグマの外見がタヌキに似ており、さらに「貉(むじな)」の名が日本古来から存在したところへ、中国で山猫が「狸」の名で総称されていることが知れ渡ったことから混乱が生じたものとされる』。『またムササビ、モモンガも「猯」と呼ばれたことがある』。『西日本に伝わる化け狸・豆狸は、この猯のことだともいう』。『また江戸時代の奇談集「絵本百物語」によれば、猯が老いて妖怪化したものが同書にある妖怪・野鉄砲とされる』。『同じく江戸時代の随筆「耳嚢」3巻では、江戸の番町に猯が現れたとあり、大食は鼠色、目は太陽か月のようで、杖でたたくとガマガエルの背のような感触だったという』。これは勿論、本記載のこと。『「まみ」の発音が似ていることから、人をたぶらかす妖魔、魔物の総称を意味する「魔魅」の字があてられることもある』。以上、「貒」。以下、ウィキの「ニホンアナグマ」から引用する。『アナグマ Meles meles の日本産亜種。独立種とする説もある』。分布域は『本州、四国、九州』。『体長40-50cm。尾長6-12cm(地域や個体差により、かなり異なる)。体重4-12kg。指は前肢、後肢ともに5本あり、親指はほかの4本の指から離れていて、爪は鋭い。体型はずんぐりしている。 里山に棲息する。11月下旬から4月中旬まで冬眠するが、地域によっては冬眠しないこともある。食性はタヌキとほとんど同じであるが』、『木の根やミミズなども掘り出して食べる。巣穴は自分で掘る。ため糞』『をする習性があるが、タヌキのような大規模なものではなく、規模は小さい。本種は擬死(狸寝入り)をし、薄目を開けて動かずにいる』。『1日の平均気温が10℃を超える頃になると冬眠から目覚める。春から夏にかけては子育ての時期であり、夏になると子どもを巣穴の外に出すようになる。秋になると子どもは親と同じくらいの大きさまで成長し、冬眠に備えて食欲が増進し、体重が増加する。秋は子別れの時期でもある。冬季は約5ヶ月間冬眠するが、睡眠は浅い』。『秋は子別れの時期であるが、母親はメスの子ども(娘)を1頭だけ残して一緒に生活し、翌年に子どもを出産したときに娘に出産した子どもの世話をさせることがある。娘は母親が出産した子どもの世話をするだけでなく、母親用の食物を用意することもある。これらの行為は娘が出産して母親になったときのための子育ての訓練になっていると考えられる』。『巣穴は地下で複雑につながっており、出入口が複数あり、出入口は掘られた土で盛り上がっている。巣穴の規模が大きいため巣穴全体をセットと呼び、セットの出入口は多いものでは50個を超えると推測される。セットは1頭の個体のみによって作られたのではなく、その家族により何世代にもわたって作られている。春先になると新しい出入口の穴が数個増え、セット全体の出入口が増えていく。巣穴の出入口の形態は、横に広がる楕円形をしていて、出入口は倒木や樹木の根、草むらなどで隠されている。巣穴の掘削方法は、穴の中から前足で土を押し出し、押し出したあとにはアクセストレンチと呼ばれる溝ができる。セットには崖の途中などに突然開いている裏口のような穴が存在することもある』。『巣材として草を根から引き抜いて使用していると推測される。 巣材が大雨などで濡れると、昼に穴の外に出して乾燥させて夜に穴に戻す、という話もある』。記載がないが、成獣はかなり凶暴である。猶、山犬の類も含むようであるが、番町という町中でもあり、描写の生態からはアナグマでよいと思われる。現代なら食肉(ネコ)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン Paguma larvata も挙げられようが、ウィキの「ハクビシン」によれば、ハクビシンの国内棲息の最初の確実な報告は1945年(静岡県)で、『明治時代に毛皮用として中国などから持ち込まれた一部が野生化したとの説が有力であり、それ以前の古文書における生息の記載』『や、化石記録が存在しないことから、外来種と』する考え方を支持し、同定候補には挙げない。

・「御使番」使番。ウィキの「使番」から一部引用する。『古くは使役(つかいやく)とも称した。その由来は戦国時代において、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職である。これがそのまま江戸幕府』『においても継承された』。『若年寄の支配に属し、役料500石・役高は1,000石・布衣格・菊之間南際襖際詰であった』。『元和3年(1617年)に定制化されたが、皮肉にもその後島原の乱以外に大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する事とな』り、『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行った』。

・「松野八郎兵衞」岩波版長谷川強氏注に、『助喜(すけよし)。天明四年(一七八四)御使番。同五年寄合。』とある。

・「天明六午年」西暦1786年。干支は丙午(ひのえうま)。根岸は佐渡奉行として佐渡に赴任中のことであったが、直接体験過去の助動詞「き」が用いられている。これは本文にあるように「八郎兵衞方に勤し吉田某、其後予が許へ來り勤ける」ということから納得出来る。因みに、この吉田某は所謂、渡り中間であったものと思われる。

・「給人」ウィキの「給人」によると、『江戸時代、諸藩における藩士の家格・家柄の一つ』及び『江戸時代、徴税吏の総称として、給人という語を使用することがあった』とある。ここで根岸は松野八郎兵衞屋敷の給人格であった中村作兵衞の前者の謂いで用いているように思われる。一応、以下にウィキの記載を引用しておく。『武士は、土地に対する執着が強く、わずか数十石であっても、自分の領地を持つことを望む傾向があった。戦国時代には、己の知行する土地を持たずに、俸禄を受けている武士は、下級武士と考えられていた。しかし、小領主の場合は、収穫が安定せずに、イナゴ・穀象虫などの害虫・風害・水害・冷害などの天変地異で困窮することが珍しくなかった。また、給人は知行地へ自由に行くことや水干損の立見、知行地の農民を使役する権限を有しており、村方にとって迷惑であると訴願される藩もあった』。『江戸時代になると、諸藩の藩主は、強大な統治権を得るために、家臣の知行を、土地を直接給付して独自に徴税を行わせる地方知行制から、藩が一括して徴税した米を中心とした農産物を家臣に給付して、その一部を商人を通じて換金させる蔵米知行制に転換することを目指した』。『この改革は、また基本的に江戸時代は武士が城下町に居住するようになると、城下から見て知行地が遠隔地になっている場合は藩士にとってもわざわざ知行地に赴くのは手間で、災害の時でも安定して収入を得られるのでこれに従う藩士もいるが、反面に、特に弱体化されることを恐れた上級家臣を中心に反感が強く、実質減封となる場合もあったので、中堅以下の家臣であってもこれを嫌う藩が存在し、この転換を断行・あるいは企図したために、藩政が混乱して、お家騒動の背景の一つとなることもよくあった。代表例としては高田藩の越後騒動や、仙台藩の伊達騒動がある』。『他方で同じ越後国でも転封以降、分散地方知行制度や相給を採っていた越後長岡藩や新発田藩では蔵米知行化が比較的スムーズに進行した』。以下、「藩内の位置づけ」の項。『蔵米知行制に転換した諸藩にあって、本来であれば、知行を与えられる格式を持つ武士に対して、給人という呼称や、給人という格式の家格を、栄誉的に与えたのである。江戸時代に、給人を名乗る格式の藩士は、一般に「上の下」とされる家柄の者である。給人より格上の呼称を持つ藩士は、その格式を家格として称したので、通常は、給人という呼称は用いなかった。幕府が諸藩を指導して給人という呼称を用いさせたり定着させようとした事実はないにも関わらず、多くの諸藩には、給人または給人席という身分・家格が存在した。なお米沢藩では給人のことを「地頭」と呼称していた』。

・「長屋へ缺入ぬ」底本では「缺」の右に『(駈)』と注記する。

■やぶちゃん現代語訳

 マミという妖獣の事

 暫く御使番を勤めたが、病気により退役致いた松野八郎兵衛という御人は、その屋敷が番町に御座ったが、天明六年牛年の春のこと、この屋敷に妖怪が出たと専らの噂であった。

 以前、八郎兵衛のもとに勤めて御座った吉田某なる者、後に私のもとに仕えることとなった折り、その真偽を尋ねたところ、

「……実はその事件が起きた時には、私も既に松野殿を退いて他家へ移っておりましたが、古い傍輩であった者から詳しく聞きましたが、これ、違い御座いません。……

 ……ある夜のことにて御座る。

 ……屋敷内を見回っておった中間に、突如、何やらん、飛び着いてきたので御座る。その中間、吃驚して、持っていた棒で払いのける――と、そ奴、その棒へ食いつきますから――また吃驚、中間は屋敷内の給人であった中村作兵衛という御人の長屋に駆け込みました……。

 ……作兵衛も早速に表へ駆け出して、そ奴を見れば――これがまあ、犬よりは余程大きく――目は日月の如、爛々と輝き――その全体の色は鼠のようでありました……。

 作兵衛が杖などでもって打ち据えてみますると――ぼんぼんと蟇蛙(ひき)の背を叩くような感じで御座いました――そのうちに屋敷内の者どもが集まって来て追い散らしたところが……隣の屋敷との境に御座った大藪の内へと逃げ込みました。……

 ……闇夜なれば……行方も知れず……またその後は二度と現れなかったそうですが……果たして、一体如何なるものであったものか……『それは「マミ」というものだ』とある人が申しておりましたが、そういう物の怪もあるものでしょうか……」

と語って御座った。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月25日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十三回

Kokoro15_9   先生の遺書

   (九十三)

 「Kの生返事は翌日になつても、其翌日になつても、彼の態度によく現はれてゐました。彼は自分から進んで例の問題に觸れようとする氣色を決して見せませんでした。尤も機會もなかつたのです。奥さんと御孃さんが揃つて一日宅を空けでもしなければ、二人はゆつくり落付いて、左右いふ事を話し合ふ譯にも行かないのですから。私はそれを能く心得てゐました。心得てゐながら、變にいら/\し出すのです。其結果始めは向ふから來るのを待つ積で、暗に用意をしてゐた私が、折があつたら此方で口を切らうと決心するやうになつたのです。

 同時に私は默つて家のものゝ樣子を觀察して見ました。然し奥さんの態度にも御孃さんの素振にも、別に平生と變つた點はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼等の擧動に是といふ差違が生じないならば、彼の自白は單に私丈に限られた自白で、肝心の本人にも、又其監督者たる奥さんにも、まだ通じてゐないのは慥(たしか)でした。さう考へた時私は少し安心しました。それで無理に機會を拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の與へて吳れるものを取り逃さないやうにする方が好からうと思つて、例の問題にはしばらく手を着けずにそつとして置く事にしました。

 斯う云つて仕舞へば大變簡單に聞こえますが、さうした心の經過には、潮の滿干(みちひ)と同じやうに、色々の高低(たかひく)があつたのです。私はKの動かない樣子を見て、それにさまざまの意味を付け加へました。奥さんと御孃さんの言語動作を觀察して、二人の心が果して其處に現はれてゐる通なのだらうかと疑つても見ました。さうして人間の胸の中に裝置された複雜な器械が、時計の針のやうに、明瞭に僞りなく、盤上の數字を指し得るものだらうかと考へました。要するに私は同じ事を斯うも取り、彼(あ)あも取りした揚句、漸く此處に落ち付いたものと思つて下さい。更に六づかしく云へば、落ち付くなどゝいふ言葉は此際決して使はれた義理でなかつたのかも知れません。

 其内學校がまた始まりました。私達は時間の同じ日には連れ立つて宅を出ます。都合が可ければ歸る時にも矢張り一所に歸りました。外部から見たKと私は、何にも前と違つた所がないやうに親しくなつたのです。けれども腹の中では、各自(てんでん)に各自の事を勝手に考へてゐたに違ひありません。ある日私は突然往來でKに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、此間の自白が私丈に限られてゐるか、又は奥さんや御孃さんにも通じてゐるかの點にあつたのです。私の是から取るべき態度は、此問に對する彼の答次第で極めなければならないと、私は思つたのです。すると彼は外の人にはまだ誰にも打ち明けてゐないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだつたので、内心嬉しがりました。私はKの私より橫着なのを能く知つてゐました。彼の度胸にも敵(かな)はないといふ自覺があつたのです。けれども一方では又妙に彼を信じてゐました。學資の事で養家(やうか)を三年も欺むいてゐた彼ですけれども、彼の信用は私に對して少しも損はれてゐなかつたのです。私はそれがために却て彼を信じ出した位です。だからいくら疑ひ深い私でも、明白な彼の答を腹の中で否定する氣は起りやうがなかつたのです。

 私は又彼に向つて、彼の戀を何う取り扱かふ積かと尋ねました。それが單なる自白に過ぎないのか、又は其自白についで、實際的の效果をも收める氣なのかと問ふたのです。然るに彼は其處になると、何にも答へません。默つて下を向いて步き出します。私は彼に隱し立をして吳れるな、凡て思つた通りを話して吳れと賴みました。彼は何も私に隱す必要はないと判然(はつきり)斷言しました。然し私の知らうとする點には、一言の返事も與へないのです。私も往來だからわざ/\立ち留まつて底迄突ま留める譯に行きません。ついそれなりに爲(し)てしまひました。

Line_9

 

やぶちゃんの摑み:索敵の結果、先生は不利と思われる短期決着による先制攻撃を中止し、敢えて先方の出方を探る、長中期的心理戦に移行することを決意する。先生はそうした経緯を次のように述べる。

 

……「斯う云つて仕舞へば大變簡單に聞こえ」るかも知れませんが、「さうした心の經過には」極めて微妙な細部の変化や感情的高揚と消沈があったのです、「私はKの動かない樣子を見て、それにさまざまの意味を付け加へ」て分析総合し、同時に一方の同盟可能な連合軍である「奥さんと御孃さんの言語動作を觀察して、二人の心が果して其處に現はれてゐる通」であるかどうかを解析し推論したのです。君も私も心理学を専攻していますが、この心という「人間の胸の中に裝置された複雜な器械が、時計の針のやうに、明瞭に僞りなく、盤上の數字を指し得るもの」とは限らないことは既に御承知のことと思います。私は彼等の表面に現れた表情や挙止動作というあらゆる現象のあらゆる可能性を忖度した上で「漸く此處に落ち付いたものと思つて下さい。」そうですね、「漸く此處に落ち付いた」のであって「更に六づかしく云へば、落ち付くなどゝいふ言葉は此際決して使はれた義理でなかつたのかも知れません」。

 

先生は至極沈着冷静に戦況を判断しようとした、判断出来た(と思った)ことが、実はこの叙述から読み取れるのである。先生は恐ろしいまでに冷酷にして冷徹な判断の中でここに屹立しているのである。但し、最後の言葉(下線部)は意味深長である。これは次のように解釈される。

 

――やっとのことでこの中長期戦略の戦術に「落ち付いた」のであるが、厳密な意味で言えば、冷静な心理状態で論理的な検証の帰結によって「落ち付いた」などという表現を用いることが出来るような状況下にあったとはとても言えない。――

 

という意味である。冷静に判断した先生の一種の自己謙遜(但し、先生自身の心持ちとしては穏やかならざる中にあったことは事実ではあった。しかし先生の理性が「器械」のように働いたのも事実なのである)である。ここで先生は「此際」の戦略上の「冷静なる」分析を、秘かに自慢していると言えるのではなかろうか。

 

♡「其内學校がまた始まりました」条規通りであれば1月7日までが冬季休業であるが、実際に講義が開始されたのはもっと遅く、15日過ぎであることが多かったことが多くの資料から窺える。

 

♡「ある日私は突然往來でKに肉薄しました。……」

 

○(F.I.)大学の帰り道。往来。歩む二人。

先生「この間の話だが……あの話、あれは私だけに限られている話か、それとも……もう奥さんや御孃さんにも、通じているのか?」

K 「いや……勿論、お前以外の誰にも打ち明けては、いない。」

 先生、内心の嬉々たる思いを殊更に抑えるように如何にも冷静に。

先生「……お前は……この恋をどう取り扱うつもりだ?……あの話は単なるお前の思いを述べた……そこに留まるものに過ぎんのか?……それとも……それとも現実に対して……実際的な効果をも収めようという気で、いるのか?」

 前を向いたままのK、立ち止まる。先生も立ち止まる。K、黙ったまま。何かを言いかけて、また口を閉じ、下を向いたまま、またそろそろと歩き出すK。遅れる先生。後ろから、

先生「……俺に隠し立てはないだろ?……すべて思った通りのことを、話してくれるな?」

K 「……俺は……お前に何も隠す必要はない。……何も隠さん。」

 K、ずんずん歩いて行ってしまう。追いかける先生。(F.O.)

 

 

♡「橫着」現在、この語は主に「ずるくなまけること」の意で用いられるが、辞書的には一番に『押しが強く遠慮のないこと。ずうずうしいこと。』(「広辞苑」)の意が挙がる。明治371904)年縮刷版大槻文彦「言海」には『知ラヌ風ヲシテ私ヲ行フコト。ワウダウ。』とだけある。即ち、ここでは自主的・自律的に自分で何でもやる性質(たち)の謂いで漱石は用いているのである。

 

♡「突ま留める」「突き留める」の誤植。]

2010/07/24

耳嚢 巻之三 丹波國高卒都婆村の事

今日は、もう一本、「耳嚢 巻之三」に「丹波國高卒都婆村の事」を収載した。

僕は、遊んでは、いないよ――

 

 

 丹波國高卒都婆村の事

 或人かたりけるは、丹波國高卒都婆(たかそとば)村といへるに大造(たいさう)の大卒都婆のあり。右は西園寺時宗菩提の爲成由。時宗は北條九代執權の其一人にて、入道の後卒都婆の愁苦を搜し理政安民の爲國々を廻られしが、右高卒都婆村の老夫婦の許に宿を乞はれしに承知して一夜を明しけるに、邊鄙の事故旅僧に饗應すべき物なしとて、粟飯など炊き菜園の瓜茄子を取りて、一つは神前に供し一つは外へ除き殘りを調味しけるに、西園寺其譯を尋給ひければ、初穗はいつも神前にさゝげて、時の天子時の執權へ獻ずる也、其上にて御身饗應すると答へければ、西園寺甚感じて、愚僧は鎌倉の者也、自然鎌倉に出給はゞ尋られよ、その時は此割判を持參して尋られば知るべしとて渡しぬ。其後彼夫婦鎌倉にて彼僧を尋て割判を出しけるが知る者なし。秋田城之介出仕の折から右割判を差出し承りけるにぞ、城之助我屋に伴ひて西園寺に申達けるにぞ、彼夫婦に西園寺對面有て、何ぞ望有やと尋給ひしに、素より老の身子供迚もなければ何か願ひ有べき、居村は高少きにて困窮の村なれば、村方の助になるべき事をと願ひし故、諸役免除の定を給ひけるゆへ、今に右高卒都婆村は無役の村方にて、高は纔に百石餘の土地也。依之右老夫婦は一社の神に崇め、時宗の慈政を報ずるため右の大塔婆を建立して今に不絶ありしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:突如、鎌倉時代に逆戻り、連関は感じさせない。こじつけるなら御蔵の米から、米の拠出をせずともよい異例の無役の村で連関か。

・「丹波國高卒都婆村」諸注未詳。似たような地名も捜し得なかった。以下のように登場人物も無茶苦茶なら地名も如何にも不審異様な名である。

・「西園寺時宗」底本には右に『(ママ)』表記がある。鈴木氏ほどの鎌倉通ならずとも『ママ』表記をしたくなる。これは北条時宗(建長3(1251)年6~弘安7(1284)年:第八代執権。北条時頼嫡男。文永111274)年及び弘安(1281)年の二度の元寇をよく防衛した。円覚寺を建立して宋より無学祖元を招聘して開山とした。)であろうが、この話柄自体が能「鉢木」の類話であり、明らかに時宗の父で廻国伝承で知られる最明寺入道時頼の誤伝である(時宗の戒名はこの如何にも「最明寺」のもじりのような「西園寺」ではなく「宝光寺」であるし、そもそも時宗の廻国伝承というのは聞いたことがない)。北条時頼(嘉禄3(1227)年~弘長3(1263)年)鎌倉幕府第五代執権。第八代執権北条時宗の父。以下、ウィキの「北条時頼」より引用する。『幼い頃から聡明で、祖父泰時にもその才能を高く評価されていた。12歳の時、三浦一族と小山一族が乱闘を起こし、兄経時は三浦氏を擁護したが、時頼はどちらに荷担することもなく静観し、経時は祖父泰時から行動の軽率さ、不公平を叱責され、逆に静観した時頼は思慮深さを称賛されて、泰時から褒美を貰ったというエピソードが吾妻鏡に収録されている。しかし、吾妻鏡の成立年代を鑑み、この逸話は時頼を正当化する為に作られた挿話の可能性があることが指摘されている』。『兄経時の病により執権職を譲られて間もなく、経時は病死した。このため、前将軍藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、寛元4年(1246年)5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反北条勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである』。『翌年、宝治元年(1247年)には安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。これにより、幕府内において北条氏を脅かす御家人は完全に排除され、北条氏の独裁政治が強まる事になった。一方で六波羅探題北条重時を空位になっていた連署に迎え、後に重時の娘・葛西殿と結婚、時宗、宗政を儲けている』。『建長4年(1252年)には第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが、親王将軍の始まりである』。『しかし時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、建長元年(1249年)には評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年に短縮したりするなどの融和政策も採用している。さらに、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護している。家柄が低く、血統だけでは自らの権力を保障する正統性を欠く北条氏は、撫民・善政を強調し標榜することでしか、支配の正統性を得ることができなかったのである』。『康元元年(1256年)、時頼は病に倒れたため、執権職を一族(義兄)の北条長時に譲って出家し、最明寺入道と号した。しかし執権職から引退したとはいえ、実際の政治は時頼が取り仕切っていたという。嫡男の時宗は建長3年(1251年)に誕生していたが、この時はまだ6歳という幼児だった為に執権職を継がせる訳にもいかず、長時を代行として執権職に据えて、時宗が成人した暁には長時から時宗へ執権を継がせるつもりであったと言われている。だが、引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった』。この最明寺は現在の北鎌倉明月院の近くにあったもので、墓所は現在の明月院内に現存する。『時頼は質素かつ堅実で、宗教心にも厚い人物であった。さらに執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた事は、今でも名君として高く評価されている。直接の交流こそなかったが、無学祖元、一山一寧などの禅僧も、その人徳、為政を高く評価している。このような経緯から、能の『鉢の木』に登場する人物として有名な「廻国伝説」で、時頼が諸国を旅して民情視察を行なったというエピソードが物語られているのである』。『一方で、本居宣長などは国学者の観点から忌避し、新井白石も著作の『読史余論』の中で、「後世の人々が名君と称賛するのが理解できない」と否定的な評価を下している』。『時頼は南宋の僧侶・蘭渓道隆を鎌倉に招いて、建長寺を建立し、その後兀庵普寧を第二世にし兀庵普寧より嗣法している。宝治2-3年(1248-1249年)にかけて、道元を鎌倉に招いている』。更に、ウィキの「鉢木」からも引用しておく。『能の一曲。鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしている。観阿弥・世阿弥作ともいわれるが不詳。武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれた。また「質素だが精一杯のもてなし」ということでこの名を冠した飲食店などもある』。『佐野(現在の群馬県高崎市上佐野町)に住む貧しい老武士、佐野源左衛門尉常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。常世は僧を相手に、一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらばいち早く鎌倉に駆け付け命懸けで戦う所存であると語る』。『その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けるが、あの僧は実は前執権・北条時頼だったことを知る。時頼は常世に礼を言い、言葉に偽りがなかったのを誉めて恩賞を与える』。そもそもこの最明寺入道時頼の廻国伝説そのものがでっち上げで、享年37歳で、その晩年には諸国漫遊しているような暇はなかった。私自身、鎌倉の郷土史研究の中で親しくこの時期の「吾妻鏡」を閲したことがあるが、執権を辞任後は病のためもあって、殆んど鎌倉御府内を出ていないことが、その記載からも検証出来る。それにしても根岸ともあろう御方が、これほど杜撰な話(私如きにても嘘臭いということが分かる話柄)をそのまま載せるとは、少々、残念ではある。

・「北條九代執權」時頼は五代、時宗は八代で、第九代執権は時宗の嫡男貞時である。無茶苦茶も甚だしい。この数字ぐらいは直さないと話にならないと思い、現代語訳では「時宗殿は北条氏として鎌倉幕府第八代執権を勤められたその人にして」とした。時頼と改めることも考えたが、それもまた随所に破綻を生ずるのでやめた。

・「卒都婆の愁苦を搜し」岩波版に「都鄙の愁苦を搜し」とあるのでこちらを採って現代語訳とした。

・「理政安民」政治が正しく行なわれて、民衆の暮らしが平和で豊かであること。

・「秋田城之介」時宗の代なら霜月騒動で滅ぼされる安達泰盛(寛喜3(1231)年~弘安8(1285)年)、時頼の代ならその父安達義景(承元4(1210)年~建長5(1253)年)である。義景の父であった安達景盛(?~宝治2(1248)年)が初めて官位として右衛門尉出羽守に加えて秋田城介(本来は秋田城を保守する武将という職名)従五位下を受けて以来、代々この官位名を称しているためであるが、景盛で時頼の執権在任中に既に死んでおり、設定が全く合わなくなるので除外した(ただ時頼とは三浦一族が滅ぼされた宝治合戦で密接な関係を持っている)。いずれにしても、このシーンは評定衆(鎌倉幕府の職名で評定所に出仕し、執権・連署とともに裁判・政務などを合議裁決した重役)。としての幕府出仕という場面設定か。

■やぶちゃん現代語訳

 丹波国高卒塔婆村の事

 ある人が語った話である。

 丹波国高卒塔婆村というところに大造りの大卒塔婆がある。

 これは何でも西園寺時宗殿の菩提を弔うとともにその報恩を記念するものの由。

 時宗殿は北条氏として鎌倉幕府第八代執権を勤められたその人にして、入道の後、鎌倉・京はもとより、遠国の地の民草の憂愁や困窮を窺っては、理政安民を図らんがために身分を隠して諸国を行脚なさった。

 そんな行脚の折りのこと、今、高卒塔婆村と呼ばれるこの山村を過(よ)ぎられ、日も暮れぬればとて、ある老夫婦のもとに一夜の宿を乞うた。老夫婦は快く承知致いて、一夜を明かして御座った。老爺は、

「辺鄙のことゆえ、旅のお坊さまを供応するものとて、これ、御座らぬ……」

と詫びつつも、媼に粟飯を炊かせ、家前(やぜん)の菜園に成った瓜と茄子(なすび)を取って参った。

 するとその幾つかずつ捥(も)いだ瓜と茄子の、一つを神前に供え、一つを他に取り置いて、残ったもの調理した。西園寺はその訳を尋ねた。すると老爺は、

「良き初穂は神前に捧げ、またその次に良きものを時の天子さまと時の執権さまへ献じまして、その上で――味はその次のものとなりますれど――御坊さまへ差し上げんと存ずる。」

と答えたので、西園寺殿は甚だ心打たれ、

「……愚僧は鎌倉の者なる……向後、鎌倉に来らるることあらば、必ずや、お訪ねあれ。……その折りは、一つ、この割り判を持ちて参らるるがよい……さすれば、拙僧の居場所も知られようぞ。」

と頭陀袋より取り出だいた割り判を手渡し、翌日、老夫婦のもとを発った。

 後日(ごにち)のこと、縁あってこの老夫婦、鎌倉を訪るること、これあり、かの旅僧を探して、寺々にて、かの渡された割り判を出だいて見たものの、一向に心当たる者がおらぬ。

 されば、畏れ多いこと乍らと、老爺は割判を手に幕府の寺社方を尋ねたところ、ちょうどその日に出仕して御座った秋田城之介殿の眼に止まった。城之介殿は即座にその割り判を受け取り、しかと見るや、慌ててこの夫婦を自邸に伴(ともの)うて留めおくと、とって返して割り判を持って西園寺殿に申し上げる。

 程なく、城之介殿に連れられた老夫婦に西園寺殿が対面(たいめ)致いた。

 ひたすら畏まって平身低頭して御座る老夫婦に、西園寺殿は優しく、

「何ぞ望みはあるか?」

とお尋ねになられたところ、老爺は、

「もとより老いぼれの身にして、子供とても御座らねば、何の願いが、これ、がありましょうぞ。……なれど、畏れ多くも敢えて申し上げますれば……我らが居りまする村、これは、穀物の稔りも、これ少のう御座って至って貧しい村にて御座いますれば……不遜ながら、村の衆の助けになることを、一つ……」

と願い出た故、西園寺殿は当村の賦役を免除するという定めを即座に発せられたのであった。

 ――これより今に至るまで――現在の石高は僅か百石余りの土地乍ら――この高卒塔婆村は賦役を命ぜられたことが一度としてない無役の村なので御座る――

 ……この恩により、かの老夫婦は村の衆によって村社の一柱(はしら)として崇めらるるに至り、また、時宗の慈政を代々の子孫に伝えんがため、かの――村名の由来ともなった――大きなる卒塔婆を建立致いて今に伝えて御座る、ということである。

耳嚢 巻之三 神尾若狹守經濟手法の事 / 水野和泉守經濟奇談の事

今日は、昨日までの三日間、僕の「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」を補習で受けてくれた二年生の生徒諸君に敬意を表して(特に最終話を如何にも面白そうに微笑みながら聞いて呉れたあなたに感謝して)、「耳嚢 巻之三」に類話「神尾若狹守經濟手法の事」「水野和泉守經濟奇談の事」の二篇を収載した。

 

 

 神尾若狹守經濟手法の事

 若狹守いまだ五郎三郎たりし時、御納戸頭を勤けるが、其頃は御納戸向も御取入り等唯今の樣には無之御納戸にありし御有高(ありだか)等もつゞまやかならず、金銀其外毛類端物(たんもの)の類も、御番衆(ごばんしゆう)は勿論御用達(ごようたし)町人抔の宅々へ下げ置、御有高等も猥(みだり)成趣聞及びければ、五郎三郎御納戸頭被仰付御引渡し相濟て、支配の面々へ一統申談(まうしだんじ)けるは、御納戸御有物(ありもの)の諸帳面へ御有高引合改置可申(ひきあはせあらためまうすべき)間、來(きた)る幾日に其通心得可取計(とりはからふべき)旨申渡ぬ。かゝりしかば御番衆其外諸御用達も大きに騷ぎて、俄に取調べ紛失の品は夫々に償ひ、幾日といへる日限に至りければ、逸々(いち/\)帳面に引合改可被申(あらためまうさるべし)、自身改候にも及ばずとて、御有物の分へは封印をなして、其以來引續改けるゆへみだりなる事もなかりしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:ちょいとした一言が引き起こす大きな変化で連関。但し、こちらはぐうたら官僚への「喝!」を入れる確信犯である。

・「神尾若狹守」神尾春央(かんおはるひで 貞享4(1687)年~宝暦3(1753)年)のこと。ウィキの「神尾春央」から引用する。『勘定奉行。苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』。『下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子となる。元禄14年(1701年)仕官。賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み、元文元年(1736年)勘定吟味役に就任。さらに翌年には勘定奉行となる』。『時に8代将軍徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に延享元年(1744年)には自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約260年を通じて収税石高が最高となった』。『しかし、翌年松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなり、担当していた金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行などの諸任務が、春央の専管から勝手方の共同管理となったため、影響力は大きく低下した』。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして、また江戸時代の百姓の生活苦の形容として人口に膾炙している(ただし、逆に貧農史観のイメージを定着させてしまったともいえる)』とある(本文中の「松平乗邑」の名は「のりさと」と読む)。御納戸頭となったのが享保181733)年、47歳の時。

・「御納戸頭」将軍の手許の金銀や衣類調度の出納、献上品及び下賜品全般を扱う納戸方の長。定員2名。

・「御番衆」これは特定役職を限定して指す固有名詞ではなく、御小性(小姓)衆や御小納戸衆を始めとした将軍側近として近侍する諸役のこと。

■やぶちゃん現代語訳

 神尾若狭守春央殿御納戸頭就任時経済改革のために行った奇策についての事

 後に勘定奉行となられた神尾若狭守春央(はるひで)殿が、未だ神尾五郎三郎殿と名乗っておられた頃のことにて御座る。

 さても目出度く御納戸頭に就任されたが、その頃は、御納戸方の種々の物品納入等も、現在のようにはしっかりとしておらず、御納戸に実際に保管してある種々物品の在庫数は、とても適切な分量と言うには程遠く――そもそも出納自体がいい加減なものであったわけで――更には、金銀その他毛皮類及び反物の類いでさえ、御番衆が当然の如くに銘々で分けて勝手に保管したり、あまつさえ、御用達(ごようたし)町人どもの私邸に下げ降ろして保管して御座るという体(てい)たらく――いや、実際には御番衆や御用達町らが私物化し、中には流用してしまったために、物が手元にない者さえ御座るという噂――いや、これ、今だから申し上げるが、事実で御座った――。

 さても、そうした高価な金品の在庫数などまでも杜撰の極みである旨聞き及ぶや、神尾五郎三郎殿、御納戸頭着任早々、前任者からの諸業務引継ぎを万事終えるや、御自身支配の納戸方関係者全員を招集の上、以下の如く、申し渡しをした。

「――御納戸内所有物品に係る諸台帳に記載されている御納戸内物品在庫数に付き、台帳と実際の在庫数について一々引き合せて改め、確認するによって、来たる○月○日にそれを実施せんとする心積りにて用意致いておくように――。」

 かかればこそ、御番衆その他(ほか)諸御用達町人に至るまでも大いにうち騒いで、一人残らず俄かに己れが分の台帳やら、不当所有に係わる物品やらを取り調べ、紛失せる品は急遽、各々慌てて買い償う――瞬く間に御納戸内は鼠一匹入り込む隙がないほど在庫でギュウ詰めになって御座った。

 さても○日と言い渡したかの日限に至った――と、神尾五郎三郎殿、

「――あ――拙者が信頼しておる――諸君がそれぞれ担当の台帳にある一つ一つの物品と引き合わせて改めてくれたのであれば、それでよい――何も拙者自身が改むるにも及ばぬことじゃ――。」

と告げるや、御納戸内在庫分へはシッかと封印をなされ、それ以降は、神尾五郎三郎殿御自身が定期的に封印確認・台帳管理をされて厳重にお改めになったため、かつてのような杜撰なことは、もう二度と起こらなくなった、とのことで御座った。

 水野和泉守經濟奇談の事

 享保の初、御老職たりし水野和泉守、小身より出し人にて才力も勝れ、下々の事も能く辯(わきま)へたる人也し由。寶永元禄の文筆盛にして聊(いささか)驕奢の世の中たりし故、淺草御藏(おくら)等の御圍ひ米も思はしからず、其奉行共役人も勤かたゆるく、奸吏小身の輕き者抔の取計に任せ、納米(なふまい)なども町人へ預けて御藏に無之樣成事也しに、或日和泉守御勘定奉行を伴て、近日淺草の御藏へ罷越、御藏々不殘改め可申間、其心得有べしと申渡ける故、御勘定奉行より御藏奉行へ申渡けるにぞ、御藏奉行は勿論、御藏に拘はりし者共大きに肝を潰し、俄に藏前の米屋共へ申渡、有合(ありあひ)の米を御藏々へ積置て、猶不足の分は堀江町伊勢町其外の町々米屋共より米を借り受て俄に晝夜御藏へ積入ける。右騷動の樣子人を附て聞屆、此筋靜(しづま)りしと聞て、和泉守自身御勘定奉行抔同道にて御藏々を改め、戸前(とまへ)を開かせ逸々(いちいち)見屆て、扨々世上にては跡かたなき評判をいたすもの哉、御藏には御用米少く候由聞及びしに、今日見屆候へば其沙汰に事變りたる事にて恐悦是に過ず。然らば後來の爲なれば御用米の分は由自分封申べきとて懷中より印形(いんぎやう)せし封印紙を渡しける故、無處(よんどころなく)封印をなしけるが、米を貸しける米屋共よりは其返濟を願ひ、有體(ありてい)に沙汰なしては其役々の者身の上にかゝりぬれば、彼是取賄ひて事なく濟けるが、和泉守一時の計策にて御藏の御用米は調ひけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:ぐうたら官僚への「喝!」を入れる確信犯で連関、というより全く以ってほぼ相同の類話である。

・「水野和泉守」「卷之一」の「水野家士岩崎彦右衞門が事」で既出。水野忠之(ただゆき寛文9(1669)年~享保161731)年)江戸幕府老中。三河国岡崎藩第4代藩主であった譜代大名。元禄101697)年に御使番に列し、元禄111698)年4月に日光目付、同年9月には日光普請奉行、元禄121699)年、実兄岡崎藩主水野忠盈(ただみつ)養子となって家督を相続した(忠之は四男)。同年10月、従五位下、大監物に叙任している。以下、主に元禄赤穂事件絡みの部分は、参照したウィキの「水野忠之」からそのまま引用する。『元禄141701)年3月14日に赤穂藩主浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。』『また翌年1215日、赤穂義士47士が吉良の首をあげて幕府に出頭した後には、そのうち間十次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・間瀬孫九郎・茅野和助・横川勘平・三村次郎左衛門・神崎与五郎9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。』『大石良雄をあずかった細川綱利(熊本藩主54万石)に倣って水野も義士達をよくもてなした。しかし細川は義士達が細川邸に入った後、すぐさま自ら出てきて大石達と会見したのに対して、水野は幕府をはばかってか、21日になってようやく義士達と会見している。決して水野家の義士達へのもてなしが細川家に劣ったわけではないが、水野は細川と比べるとやや熱狂ぶりが少なく、比較的冷静な人物だったのかもしれない。もちろん会見では水野も義士達に賞賛の言葉を送っている。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って』9人の義士を切腹させている。その後は、奏者番・若年寄・京都所司代を歴任、京都所司代就任とともに従四位下侍従和泉守に昇進、享保2(1717)年『に財政をあずかる勝手掛老中となり、将軍徳川吉宗の享保の改革を支え』、享保151730)年に老中を辞している。

・「老職」老中。将軍直属で幕政を統轄し、大目付・町奉行・遠国奉行・駿府城代などの指揮監督、朝廷・公家・大名・寺社に関する事柄全般を直轄した。常時4~5名が月番で交替で勤務し、通常、3万石以上の譜代大名から補任されていた。

・「小身より出し人にて」ウィキの「水野忠之」によれば、彼は『三河国岡崎藩主水野忠春(5万石)の四男として水野家江戸屋敷で』生まれたが、延宝2(1674)年5歳の時に『親族の旗本水野忠近(2300石)の養子となって家督を継いだ』とあり、この事実に基づく誤解と思われる(「卷之一」の「水野家士岩崎彦右衞門が事」でも同じミスを根岸は冒している。たかだか50年後の都市伝説の中でありながら、出自がこれほど誤伝されるという事実が興味深い)。前注に示した通り、その後、30歳で実兄岡崎藩主水野忠盈養子となり、元の家督に戻って相続している。

・「享保の初」前の注で示した通り、水野忠之の老中在任は享保2(1717)年から享保151730)年であり、奇略の内容から考えて、就任直後のことと思われる。

・「淺草御藏」浅草にあった幕府最大の米蔵。大坂及び京都二条の米蔵と合わせて三御蔵と言った。元和6(1620)年に隅田川西岸の湾入部分を埋め立てて創設され、最大時は米蔵67棟、年間30万から40万石の米穀を出納した。

・「御勘定奉行」勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。

・「御藏奉行」蔵奉行。ウィキの「蔵奉行」によれば、『江戸浅草(浅草御蔵)をはじめとする主要都市にあった幕府の御米蔵の管理を司った奉行。勘定奉行の支配下にあり、役料200俵、焼火の間席。属僚として組頭、手代、門番同心、小揚者などがあった』。『蔵奉行という言葉の初出は慶長15年(1610年)とされ、江戸の浅草御蔵の成立は元和6年(1620年)成立と言われている。ただし、蔵奉行の組織の成立は経済的先進地であった上方の方が先んじており、大坂では元和7年(1621年)、京都では寛永2年(1625年、ただし寛政2年(1790年)までは京都町奉行支配下)、江戸では寛永13年(1636年)の事であった。また一時期は駿河国清水・近江国大津・摂津国高槻にも設置されたが、幕末まで存続したのは江戸・京都・大坂の3ヶ所のみである』。『何百石取りというように知行地のある地方知行の旗本とは別に、三十俵二人扶持というように御蔵米から3季に分けて切米を俸禄として貰う御家人(一部の旗本も含む)たちを蔵米知行・蔵米取りというが、彼らに渡す米穀を取り扱った。蔵米取りの御家人は自家消費分以外の切米(米穀)を、御米蔵の前に店を構える札差を通じて現金化した。浅草・蔵前の地名はこれが由来である』。また、底本の鈴木棠三氏の注によれば、『定員ははじめ三名であったが、後に増員された。部下に組頭、手代、同心、小揚之者頭、小揚之者などがいる。』とある。「小揚之者」は荷を実際に運搬する者の呼称。

・「御圍ひ米」幕府の兵糧米・災害対策用備蓄米のこと。上記の通り、そこから俸禄米も供出した。囲籾(かこいもみ)・囲穀(いこく)・置き米などとも呼んだ。

■やぶちゃん現代語訳

 水野和泉守忠之殿老中職在任時経済改革のために行った奇略についての事

 享保の初めのことである。

 当時、御老職を勤めた水野和泉守忠之殿は小身から出て出世なされた方で、才力も優れ、下々の民草のことまでも、よく弁えておられた方であった。

 この頃は未だ前代元禄・宝永の頃の瀰漫した文化の、悪しき余禄が盛んであって、聊か驕奢なる風潮が残る世の中であったため、実は天下の浅草御蔵などの御囲い米の備蓄管理でさえも、全く以って心許ない状態で御座った。御蔵奉行やその支配の役人らもお勤めに熱心でなく、御蔵の現状は、不届きなる下級の汚職官吏や、そうした奸吏と手を組んだ一部の身分の賤しい悪しき町人らの取り計らいに任せっ切りとなっており、何と定期に御蔵に納めねばならないはずの納米(のうまい)が一介の町人に預けられたままになって――それをまた町人が不当に転用して――御蔵にはない、というとんでもないことになっていたので御座った。

 ある日のこと、突然、老中和泉守忠之殿は勘定奉行を呼び出し、

「――近日――そなたと同道の上――浅草の御蔵へ参り、残らず御蔵、御改め致すによって、そのように心得よ――。」

と申し渡した。

 勘定奉行がそれを御蔵奉行へ申し渡したから、さあ、大変!

 御蔵奉行は勿論のこと、御蔵に関わる者ありとある者どもが、悉く肝を潰した。

 俄に蔵前に居並ぶ米屋どもへ命じて、ありとある米を一粒残らず御蔵に積み置かせて、それでも猶、不足する分は――事実それでは足りなんだ訳じゃ。それほど横領やら流用やらが進んで御座った訳じゃな――堀江町・伊勢町その他の米町の米倉から借り受け、昼夜兼行で御蔵にうず高く積み入れた――。

 ――さて、既に放って御座った密偵からてんやわんやの一部始終を聞き届け、更にその騒擾が一先ず落ち着いたという知らせを受けた和泉守殿は、やおら、勘定奉行などと同道の上、御蔵を改め、一つ一つ扉を開けさせて、内部をシッかと改めて御座った。そして如何にも満足げに言うよう、

「――さてもさても、世間にては、つまらぬ輩の、不届き千万なる噂を致すものじゃ、のう! その噂によれば――御蔵には御用米が殆んどない――なんどと聞き及んで御座ったれど――今日、こうして見届けに参れば――いや! もう、矢張り、その噂の根も葉もない流言蜚語でしかなかったこと、これ必定! さればこそ拙者は誠(まつこと)、恐悦至極! 然らばこそ拙者の向後のため――あのような流言蜚語に拙者が踊らされぬようにするために、一つ、これら総ての御用米の分の蔵には、拙者自らが封印を致す若くは、ない、のう――」

と言うや、和泉守殿、予め、用意して御座った印形(いんぎょう)鮮やかに押せし封印紙を蔵の数分、懐中よりざっと取り出だして係り役人に渡した。役人どもは致し方なく総ての蔵に封印を施した――。

 ――が――

……後日、当然のこととして、米を貸した米屋どもからは御蔵奉行に矢のような返済の催促――。

……そのままにして無視し続けていたのでは目安箱にでも訴えらるれば……

……この事実が露見するは必定さすれば……

……不逞町人不良下吏不肖役人背任奉行……

……御蔵管理に係わる者ども不行届に付き、一味同塵一蓮托生一網打尽と相成ればこそ、と……

――御蔵奉行以下諸々の者どもは身銭を切って何とか賄い、やっとの思いで事を済ませた訳じゃったが――かくして和泉守殿は、一時の奇計奇策によって、

『目出度く御蔵の御用米を調えました!

という訳じゃて!

84年回忌河童忌記念 芥川龍之介 白 □旧全集版及び■作品集『三つの寶』版

今日、84年回忌河童忌記念として芥川龍之介「白」□旧全集版及び■作品集『三つの寶』版を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

芥川よ、君は、本当に『熱い最中に』命を絶ったのだったね……

……と……勝手に想像していたのだが……さにあらず。

「e-天気.net」で気象予報士記者の金子大輔氏が一昨日、「気象から考える河童忌」という興味深い記事をお書きになっておられた。一部引用させて頂く(下線はやぶちゃん)。

《引用開始》

河童忌と気象学的な背景を結びつけて考える説も多い。「前日(7月23日)のうだるような猛暑から一転、24日には10℃以上も気温が下がり、ドンヨリとした天気になった」ことが、自殺に結びついたのではないかというのだ。急激な気温・気圧の変化は、神経や精神に大きな影響を与えることは、想像に難くない。

「雨が降ると古傷が痛む」というのは多くの人が経験することだろう。また、寒冷前線が近づくと喘息の発作が起きやすい、うつ病が悪化する方が多いと話す人もいる。寒冷前線は、急激な気温低下・天候悪化などをもたらし、体にとって大きなストレスになるのだ。

では、昭和2年(1927年)7月24日、実際にはどんな気象状況であったのだろうか? 気象庁天気相談所に確認してみた。23日の東京では、最高気温が35.6℃の猛暑日であったが、7月24日は最低気温20.7℃、最高気温が26.8℃という涼しさになっていたことがわかった。そして、暗い雲に覆われて雨が降りしきり、14.2ミリの降水を観測していた。

《引用終了》

猛暑の中の暗い谷間だ――

どんよりと曇れる空を見てゐしに我を殺したくなりにけるかな……

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月24日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十二回

Kokoro15_7   先生の遺書

   (九十二)

 「私が家へ這入ると間もなく俥(くるま)の音が聞こえました。今のやうに護謨輪(ごむわ)のない時分でしたから、がら/\いふ厭な響可なりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。

 私が夕飯に呼び出されたのは、それから三十分ばかり經つた後の事でしたが、まだ奥さんと御孃さんの晴着が脫ぎ棄てられた儘、次の室(へや)を亂雜に彩どつてゐました。二人は遲くなると私達に濟まないといふので、飯の支度に間に合ふように、急いで歸つて來たのださうです。然し奥さんの親切はKと私とに取つて殆ど無效も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のやうに、素氣ない挨拶ばかりしてゐました。Kは私よりも猶寡言でした。たまに親子連で外出した女二人の氣分が、また平生(へいせい)よりは勝れて晴やかだつたので、我々の態度は猶の事眼に付きます。奥さんは私に何うかしたのかと聞きました。私は少し心持が惡いと答へました。實際私は心持が惡かつたのです。すると今度は御孃さんがKに同じ問を掛けました。Kは私のやうに心持が惡いとは答へません。たゞ口が利きたくないからだと云ひました。御孃さんは何故口が利きたくないのかと追窮しました。私は其時ふと重たい瞼を上げてKの顏を見ました。私にはKが何と答へるだらうかといふ好奇心があつたのです。Kの唇は例のやうに少し顫へてゐました。それが知らない人から見ると、丸で返事に迷つてゐるとしか思はれないのです。御孃さんは笑ひながら又何か六づかしい事を考へてゐるのだらうと云ひました。Kの顏は心持薄赤くなりました。

 其晩私は何時もより早く床へ入りました。私が食事の時氣分が惡いと云つたのを氣にして、奥さんは十時頃蕎麥湯を持つて來て吳れました。然し私の室はもう眞暗でした。奥さんはおやおやと云つて、仕切りの襖を細目に開けました。洋燈(ランプ)の光がKの机から斜にぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きてゐたものと見えます。奥さんは枕元に坐つて、大方風邪を引いたのだらうから身體を暖ためるが可(い)いと云つて、湯呑を顏の傍へ突き付けるのです。私は已を得ず、どろ/\した蕎麥湯を奥さんの見てゐる前で飮んだのです。

 私は遲くなる迄暗いなかで考へてゐました。無論一つ問題をぐる/\廻轉させる丈で、外に何の效力もなかつたのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしてゐるだらうと思ひ出しました。私は半ば無意識においと聲を掛けました。すると向ふでもおいと返事をしました。Kもまだ起きてゐたのです。私はまだ寢ないのかと襖ごしに聞きました。もう寐るといふ簡單な挨拶がありました。何をしてゐるのだと私は重ねて問ひました。今度はKの答がありません。其代り五六分經つたと思ふ頃に、押入をがらりと開けて、床を延べる音が手に取るやうに聞こえました。私はもう何時かと又尋ねました。Kは一時二十分(ふん)だと答へました。やがて洋燈をふつと吹き消す音がして、家中(うちぢゆう)が眞暗なうちに、しんと靜まりました。

 然し私の眼は其暗いなかで愈冴えて來るばかりです。私はまた半ば無意識な狀態で、おいとKに聲を掛けました。Kも以前と同じやうな調子で、おいと答へました。私は今朝彼から聞いた事に就いて、もつと詳しい話をしたいが、彼の都合は何うだと、とう/\此方(こつち)から切り出しました。私は無論襖越にそんな談話を交換する氣はなかつたのですが、Kの返答だけは卽坐に得られる事と考へたのです。所がKは先刻(さつき)から二度おいと呼ばれて、二度おいと答へたやうな素直な調子で、今度は應じません。左右だなあと低い聲で澁つてゐます。私は又はつと思はせられました。

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やぶちゃんの摑み:

 

「私が家へ這入ると間もなく俥の音が聞こえました。今のやうに護謨輪のない時分でしたから、がら/\いふ厭な響が可なりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の本箇所の注によれば、明治401907~)年代には人力車の車輪は既にゴム製、更にはチューブ式のものが一般的であったと記す。私は本シーンを明治341901)年に同定している。この頃はまだ人力車の車輪部分は枠が木製で鉄製タイヤ相当部分が鉄製であった(藤井氏注による)。底本注には斉藤俊彦「人力車」から引用して、『木製の車輪に鉄輪をはめこんだものが、明治四十年代を境として、次第にゴム輪に交代していくのである。当時、ゴム製造工業がようやく発達して、人力車タイヤが盛んに生産されるようになったという背景がある。明治四十二年ごろから、人力車にソリッドタイヤがつけられるようになり、わずか二年ぐらいの間に全国の人力車が使用するようになったようである。(中略)明治四十五年には(中略)九割までが金輪(かなわ)からゴム輪にかえられたという。そして四十五年ごろからソリッドタイヤからしだいに空気入りタイヤとなり、大正三年にはほとんど空気入りタイヤとなった。』とある。我々は先生の遺書を読む時、明治301897~)年代の、こうした音風景の中にいることを意識する必要がある。

 

「まだ奥さんと御孃さんの晴着が脫ぎ棄てられた儘、次の室を亂雜に彩どつてゐました」この描写は茶の間の次の間である。

 

「蕎麥湯」そば粉を湯で溶いた飲み物。発汗を促して、風邪によいとされた。「坊つちやん」の「二」の淸(きよ)の描写部分に「母が死んでから淸はいよいよおれを可愛がつた。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思つた。つまらない、廢(よ)せばいいのにと思つた。氣の毒だと思つた。それでも淸は可愛がる。折々は自分の小遣いで金鍔(きんつば)や紅梅燒を買つてくれる。寒い夜などはひそかに蕎麥粉を仕入れておいて、いつの間にか寢ている枕元へ蕎麥湯を持つて來てくれる。時には鍋燒饂飩(なべやきうどん)さへ買つてくれた。」とある。

 

「無論一つ問題をぐる/\廻轉させる丈で、外に何の效力もなかつたのです」例の先生の「ぐるぐる」である。

 

「Kは一時二十分だと答へました。やがて洋燈をふつと吹き消す音がして、家中が眞暗なうちに、しんと靜まりました」私には何か不吉な気がするシーンである。何で不吉なのかは美味く説明出来ない。しかし不吉である。そもそもこの細かな午前1時20分という時刻は一対何か?――私は――根拠はないのだが――

 

Kの自殺は1:20に決行された

 

と漠然と感ずるのである。

 

「私は又はつと思はさせられ」たのは何故か? 勿論、このしぶりから、Kが最早、先生の助言を必要とせず、果敢に自ら御嬢さんへの恋の道を自律的に歩もうとしているのではないか? と先生が思ったからである。]

2010/07/23

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月23日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十一回

Kokoro15_6   先生の遺書

   (九十一)

 「二人は各自(めい/\)の室に引き取つたぎり顏を合はせませんでした。Kの靜かな事は朝と同じでした。私も凝と考へ込んでゐました。

 私は當然自分の心をKに打ち明けるべき筈だと思ひました。然しそれにはもう時機が後れてしまつたといふ氣も起りました。何故先刻(さつき)Kの言葉を遮つて、此方(こつち)から逆襲しなかつたのか、其處が非常な手落(てぬか)りのやうに見えて來ました。責(せ)めてKの後に續いて、自分は自分の思ふ通りを其塲で話して仕舞つたら、まだ好かつたらうにとも考へました。Kの自白に一段落が付いた今となつて、此方(こつち)から又同じ事を切り出すのは、何う思案しても變でした。私は此不自然に打ち勝つ方法を知らなかつたのです。私の頭は悔恨に搖られてぐら/\しました。

 私はKが再び仕切の襖を開けて向ふから突進してきて吳れゝば好(い)いと思ひました。私に云はせれば、先刻(さつき)は丸で不意擊(ふいうち)に會つたも同じでした。私にはKに應ずる準備も何もなかつたのです。私は午前に失つたものを、今度は取り戾さうといふ下心を持つてゐました。それで時々眼を上げて、襖を眺めました。然し其襖は何時迄經つても開きません。さうしてKは永久に靜なのです。

 其内私の頭は段々此靜かさに搔き亂されるやうになつて來ました。Kは今襖の向で何を考へてゐるだらうと思ふと、それが氣になつて堪らないのです。不斷も斯んな風に御互が仕切一枚を間に置いて默り合つてゐる塲合は始終あつたのですが、私はKが靜であればある程、彼の存在を忘れるのが普通の狀態だつたのですから、其時の私は餘程調子が狂つてゐたものと見なければなりません。それでゐて私は此方(こつち)から進んで襖を開ける事が出來なかつたのです。一旦云ひそびれた私は、また向ふから働らき掛けられる時機を待つより外に仕方がなかつたのです。

 仕舞に私は凝(ぢつ)として居られなくなりました。無理に凝(じつ)としてゐれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。私は仕方なしに立つて緣側へ出ました。其處から茶の間へ來て、何といふ目的もなく、鐵瓶の湯を湯呑に注いで一杯呑みました。それから玄關へ出ました。私はわざとKの室を回避するやうにして、斯んな風に自分を往來の眞中に見出したのです。私には無論何處へ行くといふ的(あて)もありません。たゞ凝としてゐられない丈でした。それで方角も何も構はずに、正月の町を、無暗に步き廻つたのです。私の頭はいくら步いてもKの事で一杯になつてゐました。私もKを振ひ落す氣で步き廻る譯ではなかつたのです。寧ろ自分から進んで彼の姿を咀嚼(そしやく)しながらうろついて居たのです。

 私には第一に彼が解しがたい男のやうに見えました。何うしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、又何うして打ち明けなければゐられない程に、彼の戀が募つて來たのか、さうして平生(へいせい)の彼は何處に吹き飛ばされてしまつたのか、凡て私には解しにくい問題でした。私は彼の强い事を知つてゐました。又彼の眞面目な事を知つてゐました。私は是から私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くを有つてゐると信じました。同時に是からさき彼を相手にするのが變に氣味が惡かつたのです。私は夢中に町の中を步きながら、自分の室に凝と坐つてゐる彼の容貌を始終眼の前に描き出しました。しかもいくら私が步いても彼を動かす事は到底出來ないのだといふ聲が何處かで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のやうに思へたからでせう。私は永久彼に祟られたのではなからうかといふ氣さへしました。

 私が疲れて宅へ歸つた時、彼の室は依然として人氣のないやうに靜かでした。

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やぶちゃんの摑み:続く1月5日(土)前後の午後のシーン。この第(九十一)回から第(九十三)回までのKの告白後の先生の心の動きを整理する。ここで先生は「私」の側の正当性、即ち「私は午前に失つたものを、今度は取り戾さうといふ下心を持つてゐました」の謂い、

 

『御嬢さんを愛したのは私の方が先だ! 私の御嬢さんなんだ! 私だけの靜なんだ!』

 

という既得のものと先生自身が意識するところの正統にして正当な優先権と占有権の回復を図ろうとしているのである。ところが、現在の情勢を先生は同時に外部から客観的にも観察する。すると、Kは先生よりも逸早く御嬢さんへの恋情を告白したことで、Kは自らの御嬢さんへの愛情に優先権を獲得したとも言える事実に思い至る。如何にずっと先(せん)から御嬢さんを先生が愛していたと言っても、それは誰にも語られたことがない秘密であった以上、それは何者によっても証明され得ないのである。いや、不特定多数の第三者(総ての他者)から見れば、御嬢さんへの恋情を表明したKの方にこそ、先行優先権はあるように思われる。御嬢さんへの愛を先生という他者に告白したということは、その事実によって一種の公的認知の待機状態にあると言ってよい。先生にとってその劣勢は明白であったのである。

 この劣勢下、先生の意識下にあっては、遂にKの『親友』という概念は完全に消去され、Kを明白な『敵』として認識するようになる。それは「變に氣味が惡かつた」「自分の室に凝と坐つてゐる」先生が作り出してしまった――Kが御嬢さんを愛したのは先生がそうさせたことは、これまでの叙述によって最早明白過ぎるほど明白である!――フランケンシュタインの怪物ような「彼の容貌を始終眼の前に描き出し」、あの怪物の心「を動かす事は到底出來ない」と思う。そして「私には彼が一種の魔物のやうに思へた」、「私は永久彼に祟られたのではなからうかといふ氣さへ」するに至るのである。

 この三章の間、一見、先生は依然としてその心情告白を受けたKの『親友』として、フラットな見方から彼の心情を推し量ろうとしているかのように陳述しているが、実際には、現在の先生自身の極めて不利な劣勢状況を、あらゆる可能性をサーチしながら何とか好転させようと、その材料を探しているに過ぎない。狡猾なスパイの索敵の視線以外の何物でもないのである。ここに我々は先生の急激なエゴイズムの肥大を見ることになるのである。

 

「手落(てぬか)り」当て読み。普通は「手抜かり」。

 

「時々眼を上げて、襖を眺めました。然し其襖は何時迄經つても開きません。さうしてKは永久に靜なのです」この頗る映画的な静の映像が素晴らしい。この無音ながら剃刀のような緊張の画面を撮りたい!

 

「凝(ぢつ)として」後の「無理に凝(じつ)としてゐれば」の歴史的仮名遣の方が正しい。

 

「私は仕方なしに立つて緣側へ出ました。其處から茶の間へ來て、何といふ目的もなく、鐵瓶の湯を湯呑に注いで一杯呑みました。それから玄關へ出ました。私はわざとKの室を回避するやうにして、斯んな風に自分を往來の眞中に見出したのです」Kを中心に据えた時計回りの円運動である。

 

「斯んな風に自分を往來の眞中に見出したのです。私には無論何處へ行くといふ的(あて)もありません。たゞ凝としてゐられない丈でした。それで方角も何も構はずに、正月の町を、無暗に步き廻つたのです。私の頭はいくら步いてもKの事で一杯になつてゐました。私もKを振ひ落す氣で步き廻る譯ではなかつたのです。寧ろ自分から進んで彼の姿を咀嚼しながらうろついて居たのです」対位法(コントラプンクト)的映像である。

 

正月の往来の賑やかな人の群れ。群れ。(以下、カット・バックよろしく)

――羽子板をする晴れ着姿の娘たち。嬌声。

――凧揚げに興ずる少年の笑顔。笑い声。笑顔。

――年始帰りの人力車の紋付姿の紳士。

――門松。万歳。蓬莱。

その中を自棄になって歩く先生。

 

♡「私は是から私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くを有つてゐると信じました」この叙述によって、Kの告白は極めて心情的なものに留まっており、プロポーズや結婚といったような奥さんや御嬢さんに対する何らかの実行行為や具体的な恋愛の将来性などについては全く触れられていなかったことが分かる。もしそうした事実が一つでもあれば、先生はその後の戦術上、必ずや記憶していたはずであり、それを遺書にも明記したはずだからである。何故なら、これ以降の遺書は実録の戦記であるからである。]

2010/07/22

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月22日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十回

Kokoro15_5   先生の遺書

   (九十)

 「Kは中々奥さんと御孃さんの話を己(や)めませんでした。仕舞には私も答へられないやうな立ち入つた事迄聞くのです。私は面倒(めんたう)よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思ひ出すと、私は何うしても彼の調子の變つてゐる所に氣が付かずにはゐられないのです。私はとう/\何故今日に限つてそんな事ばかり云ふのかと彼に尋ねました。其時彼は突然默りました。然し私は彼の結んだ口元の肉が顫(ふる)へるやうに動いてゐるのを注視しました。彼は元來無口な男でした。平生(へいせい)から何か云はうとすると、云ふ前に能く口のあたりをもぐ/\させる癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するやうに容易(たやす)く開(あ)かない所に、彼の言葉の重みも籠つてゐたのでせう。一旦聲が口を破つて出るとなると、其聲には普通の人よりも倍の强い力がありました。

 彼の口元を一寸眺めた時、私はまた何か出て來るなとすぐ疳付(かんづ)いたのですが、それが果して何の準備なのか、私の豫覺は丸でなかつたのです。だから驚ろいたのです。彼の重々しい口から、彼の御孃さんに對する切ない戀を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。私は彼の魔法棒(まほふぼう)のために一度に化石されたやうなものです。口をもぐ/\させる働さへ、私にはなくなつて仕舞つたのです。

 其時の私は恐ろしさの塊りと云ひませうか、又は苦しさの塊りと云ひませうか、何しろ一つの塊りでした。石か鐵のやうに頭から足の先までが急に固くなつたのです。呼吸をする彈力性さへ失はれた位(くらゐ)に堅くなつたのです。幸ひな事に其狀態は長く續きませんでした。私は一瞬間の後(のち)に、また人間らしい氣分を取り戻しました。さうして、すぐ失策(しま)つたと思ひました。先(せん)を越されたなと思ひました。

 然し其先を何うしやうといふ分別は丸で起りません。恐らく起る丈の餘裕がなかつたのでせう。私は腋の下から出る氣味のわるい汗が襯衣(しやつ)に滲み透るのを凝と我慢して動かずにゐました。Kは其間何時もの通り重い口を切つては、ぽつり/\と自分の心を打ち明けて行きます。私は苦しくつて堪りませんでした。恐らく其苦しさは、大きな廣告のやうに、私の顏の上に判然りした字で貼り付けられてあつたらうと私は思ふのです。いくらKでも其處に氣の付かない筈はないのですが、彼は又彼で、自分の事に一切を集中してゐるから、私の表情などに注意する暇(ひま)がなかつたのでせう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫ぬいてゐました。重くて鈍い代りに、とても容易な事では動かせないといふ感じを私に與へたのです。私の心は半分其自白を聞いてゐながら、半分何うしやう/\といふ念に絕えず搔き亂されてゐましたから、細かい點になると殆ど耳へ入らないと同樣でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは强く胸に響きました。そのために私は前いつた苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるやうになつたのです。つまり相手は自分より强いのだといふ恐怖の念が萌し始めたのです。

 Kの話が一通り濟んだ時、私は何とも云ふ事が出來ませんでした。此方も彼の前に同じ意味の自白をしたものだらうか、夫とも打ち明けずにゐる方が得策だらうか、私はそんな利害を考へて默つてゐたのではありません。たゞ何事も云へなかつたのです。又云ふ氣にもならなかつたのです。

 午食(ひるめし)の時、Kと私は向ひ合せに席を占めました。下女に給仕をして貰つて、私はいつにない不味い飯を濟ませました。二人は食事中も殆ど口を利きませんでした。奥さんと御孃さんは何時歸るのだか分りませんでした。

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やぶちゃんの摑み:遂にKの靜に対する恋情が先生に告白されるに至る。再度言う。この瞬間、先生はKを「一種の邪魔もの」としてはっきりと「意識し」「明らかに左右と」言える存在になる。そしてまた、ここ以前に先生がKをどういう存在として意識していたかをフィード・バックして再確認しておかなくてはならないことも言うまでもない。『友人』として『畏敬』し、とても私には及ばない巨大な存在としてのKを――。かつては孤独の痛みを分かち合った、獣のように抱き合った、先生が唯一『愛していたK』を、いや、『愛しているはずのK』を、いや『今も愛しているK』を――。……それにしてもこの回の掲載は大正3(1914)年7月22日水曜日である。……うだるような暑さではなかったか(少なくとも2010年の今日はそうである……そんな中で、このKの告白シーンを読んだ読者に……私は聊か気の毒な気さえ、するのである……。

 

〔Kの告白=対K戦第一ラウンド〕

 

◎本章=Kを「強者」とする私の第一次戦闘の強烈な敗北感と劣勢意識に関する報告書

「失策つた」

「先を越されたな」

 

◎先生とKの自己中心性

先生=Kの告白が記されない=忘れた=覚えていない=自己の側の心的状況の羅列に過ぎない

K=先生の顔に貼り付けられた苦しさに全く気付かない=自己の側の苦悩だけを一方的に告白

互いに互いの心理を無視した状況=エゴイズム

友情崩壊の予兆

 

「云ふ前に能く口のあたりをもぐもぐさせる癖がありました」Kにはチック症状があった可能性が疑われる。「彼の唇がわざと彼の意志に反抗するやうに容易く開かない」という叙述は深くそれを窺わせる描写である。「塚田こども医院」のHP内のヘルス・レター503から引用する。『チック症とは、ピクピクっとした素早い動きなどが、本人の意思とは関係なく、繰り返しおきてしまうものをいいます。一番多いのは瞬きで、そのほかにも、肩をぴくっと動かす、頭をふる、顔をしかめる、口を曲げる、鼻をフンフンならす、などいろいろとあります』。『声を出すチックもあります。ため息のように声や、咳払いがめだちます。中には意味のある言葉(それも「バカバカ」などの汚い言葉)を絶えず口にすることもあります』。『いずれも、本人はわざとやっているわけではなく、止めようと思っても止まりません』。『幼児から小学校低学年ぐらいまでの子に多く見られ』、『不安、ストレス、緊張、心の葛藤などがきっかけでおきることが多いと言われていますが、そのようなことがなくてもおきている子もいます。(例えば瞬きのチック症では、実際に結膜炎のために目が痒くて目をパチパチしていたのが「クセ」になっていたり、テレビを見すぎて目が疲れたことをきっかけにして始まっていることもあります。)』。『本人の性格が、感じやすい、傷つきやすいなど、優しい子に多いような印象もあります(もちろんそれがいけないということではありません)』。『精神的なストレスや緊張感から、一時的にこのような症状のでる子は、決して少なくありません。そのほとんどが、短期間に消えていって』しまいますが(中略)、『程度が強いもので、本人も気にして、そのために余計症状が強く出ているような場合は、お薬で抑えることもあります。だいたいは、短期間で症状がとれていきます』。『ときになかなか良くならないこともありますが、どうも周りがきちんとさせようとしていて、「こじれて」いるようです。そんなことがなければ、チック症は大きな問題ではないと、軽く考えて下さい』。『長引いたり、症状が強かったり、本人がすごく気にしているようなら、お薬をつかうこともありますので、受診されてみて下さい』とある。チックを気にしているお子さんを抱えている読者のために問題がないという記載まで引用させて頂いた。

 

「彼の重々しい口から、彼の御孃さんに對する切ない戀を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい」以下、この告白は総てが先生の心内語による、先生の側の心のみの叙述が行われ、且つ、その総てが終った「Kの話が一通り濟んだ時」まで、徹頭徹尾、Kの直接話法どころかKの告白の一語だに示されないのだ。「細かい點になると殆ど耳へ入らな」かったどころか「ぽつり/\と」「打ち明け」るK「の心」の一片だに我々には示されないことに注意せよ! それは完全な隠蔽であり、復元のしようがないのである! すると、次のような疑心暗鬼さえ生じはしないか!?

 

――Kは本当に『御嬢さんに對する切ない戀』を告白したのであろうか?

 

――それは『御嬢さんに對する』ものではなかったのではないか?

 

――先生がそう思い込んだに過ぎないのではないか?

 

――例えばだ! ちょっと考えてみて欲しいのだ! Kは、

 

×「俺は御嬢さんが……靜さんが好きだ……彼女への思いが募ってたまらない……どうしても自分が抑えられないんだ……道のためには女を愛してはいけないのだと自戒しながら……俺はあの、あの靜さんへの気持ちを、どうしても抑えられない……」

 

というような表現をしただろうか? 否! 寧ろ、

 

○「俺はその人が……好きだ……その人への思いが募ってたまらない……どうしても自分が抑えられないんだ……道のためにはその人を愛してはならない、許されないのだと自戒しながら……俺は、その人への気持ちを、どうしても抑えられない……」

 

と言った表現をしたと考える方が自然ではないか?

 

――私がここで何を言いたいか? もうお分かりであろう!――

――それは一つの――

――恐らく今まで多くの人が何となく感じていながら、誰一人はっきりとは言わずにいたのだ!――

 

――全く異なった「心」=「こゝろ」という作品の世界を開示する!――

 

――新たな作品「心」=「こゝろ」解釈の可能性がここに開けてくるはずである!――

 

――それは学生の「私」と靜が結婚するなんどという私にとってトンでもない解釈をするより遙かに正当にして正統な解釈であるとさえ私は思っていると告白する!――

 

――但し勿論、私はこの解釈が『真』だと言っているのではない!――

 

――それは解釈の、一つの選択肢ではあると言っているのである!――

 

――従って私はその選択肢を選び取って限定し、これから「やぶちゃんの摑み」を展開しようなんどとはさらさら思ってもいない……

 

……だから……この解釈に興味を持ったあなたは……私の、この新解釈のとば口を利用なさい。そして熱い自論を展開なさい。私はあなたがそうしてくれるならば満足なのです。……

 

……但し、文脈上は勿論、御嬢さんへの恋情告白であることは、直前でKが奥さんや御嬢さんのことに異常な興味を持って先生を質問攻めにしていることからも自然ではある。

 

――であるから『表向き』は先生は100%、Kのお嬢さんへの恋情告白として記述している。――しかし――

 

――しかし漱石が先生同様に100%であったかどうかは――私は微妙に留保するものなのである……。

 

 

最後に言う。――Kは『正しく』御嬢さんへの思いを先生に告白した――という通常の解釈に戻して、である――

 

――ここでの先生は汚い。

 

Kの靜への恋情だけは遂に封印してあの世に持って行ったのだ! 先生の意識は遂に遺書からもKの靜への切ない御嬢さんへの思いをさえ駆逐してしまったのである!――

 

 

「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたやうなものです」私は初読の折り、梶井の「檸檬」を思い出した。「見る人を石に化したといふゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴオリウムに凝り固まつたといふ風に果物は竝んでゐる」という下りだ。メドゥーサの首を突きつけたみたような凄い比喩だなあと思ったものである。流石にこれは英文学者の日本語だわ、とも思ったものである。序でに言うと、この「魔法棒」は魔法使いの「コメットさん」の「魔法の杖」だわな、と思ったものである(初読の高校当時、小学校時代ファンだったドラマの「コメットさん」の女優九重佑三子のイメージが焼きついていたのである。私は当時、所謂、ボーイッシュな女の子が好みだったのである)。「魔法棒」は明らかに“the magic wand”の直訳語である。]

2010/07/21

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月21日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十九回

Kokoro15_4   先生の遺書

   (八十九)

 「斯んな譯で私はどちらの方面へ向つても進む事が出來ずに立ち竦(すく)んでゐました。身體(からだ)の惡い時に午睡(ひるね)などをすると、眼だけ覺めて周圍のものが判然(はつきり)見えるのに、何うしても手足の動かせない塲合がありませう。私は時としてあゝいふ苦しみを人知れず感じたのです。

 其内年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多(かるた)を遣るから誰か友達を連れて來ないかと云つた事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答へたので、奥さんは驚ろいてしまひました。成程Kに友達といふ程の友達は一人もなかつたのです。往來で會つた時挨拶をする位(くらゐ)のものは多少ありましたが、それ等だつて決して歌留多などを取る柄ではなかつたのです。奥さんはそれぢや私の知つたものでも呼んで來たら何うかと云ひ直しましたが、私も生憎そんな陽氣な遊びをする心持になれないので、好(よ)い加減な生返事をしたなり、打ち遣つて置きました。所が晩になつてKと私はとう/\御孃さんに引つ張り出されてしまひました。客も誰も來ないのに、内々(うちうぢ)の小人數(こにんず)丈で取らうといふ歌留多ですから頗る靜なものでした。其上斯ういふ遊技を遣り付けないKは、丸で懷手をしてゐる人と同樣でした。私はKに一體百人一首の歌を知つてゐるのかと尋ねました。Kは能く知らないと答へました。私の言葉を聞いた御孃さんは、大方Kを輕蔑するとでも取つたのでせう。それから眼に立つやうにKの加勢をし出しました。仕舞には二人が殆ど組になつて私に當るといふ有樣になつて來ました。私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかつたのです。幸ひにKの態度は少しも最初と變りませんでした。彼の何處にも得意らしい樣子を認めなかつた私は、無事に其塲を切り上げる事が出來ました。

 それから二三日經つた後(のち)の事でしたらう、奥さんと御孃さんは朝から市ケ谷にゐる親類の所へ行くと云つて宅を出ました。Kも私もまだ學校の始まらない頃でしたから、留守居同樣あとに殘つてゐました。私は書物を讀むのも散步に出るのも厭だつたので、たゞ漠然と火鉢(ひはち)の緣に肱(ひじ)を載せて凝(じつ)と顋(あご)を支へたなり考へてゐました。隣の室にゐるKも一向音を立てませんでした。双方とも居るのだか居ないのだか分らない位靜でした。尤も斯ういふ事は、二人の間柄として別に珍らしくも何ともなかつたのですから、私は別段それを氣にも留めませんでした。

 十時頃になつて、Kは不意に仕切の襖を開けて私と顏を見合せました。彼は敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞きました。私はもとより何も考へてゐなかつたのです。もし考へてゐたとすれば、何時もの通り御孃さんが問題だつたかも知れません。其御孃さんには無論奥さんも食付(くつつ)いてゐますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のやうに、私の頭の中をぐるぐる回つて、此問題を複雜にしてゐるのです。Kと顏を見合せた私は、今迄朧氣(おぼろげ)に彼を一種の邪魔ものゝ如く意識してゐながら、明らかに左右と答へる譯に行かなかつたのです。私は依然として彼の顏を見て默つてゐました。するとKの方からつか/\と私の座敷へ入つて來て、私のあたつてゐる火鉢(ひはち)の前に坐りました。私はすぐ兩肱(りやうびず)を火鉢(ひはち)の縁から取り除けて、心持それをKの方へ押し遣るやうにしました。

 Kは何時もに似合はない話を始めました。奥さんと御孃さんは市ケ谷の何處へ行つたのだらうと云ふのです。私は大方叔母さんの所だらうと答へました。Kは其叔母さんは何だと又聞きます。私は矢張り軍人の細君だと敎へて遣りました。すると女の年始は大抵十五日過だのに、何故そんなに早く出掛けたのだらうと質問するのです。私は何故だか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。

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やぶちゃんの摑み:私はこの歌留多取りのシーンを明治341901)年1月3日(木)前後とし、後半のKの告白に雪崩れ込むシーンを1月5日(土)前後と推定している。

 

「どちらの方面へ向つても進む事が出來ずに立ち竦んでゐました」「どちらの方面」前章の奥さんに御嬢さんを貰い受ける話をする方法と、御嬢さんに直接プロポーズをする方法を指す。確認になるが、前者は、御嬢さんの意志が確認出来ない状況下にあって、「極めて高尚な愛の理論家」であり「尤も迂遠な愛の実際家」でもある先生には当然実行不能であったからであり、後者は先生の内部に巣食う旧態依然とした男女感覚・男女観を主な理由としながら、それを更に靜に敷衍して、彼女が素直に正直にそれに応答するとは思えなかったからだとしている訳であるが、やはりこれは先生の側の自信のなさの弁解以外には受け取れないように思われる。

 

「身體の惡い時に午睡などをすると、眼だけ覺めて周圍のものが判然(はつきり)見えるのに、何うしても手足の動かせない塲合」金縛りのこと。先生(引いては漱石)はしばしばこのような体験をしたことがあることを意味している。ウィキの「金縛り」より引用しておく。『医学的には睡眠麻痺と呼ばれる睡眠時の全身の脱力と意識の覚醒が同時に起こった状態。不規則な生活、寝不足、過労、時差ぼけやストレスなどから起こるとされる。 脳がしっかり覚醒していないため、人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入っているのを見た、耳元で囁かれた、体を触られているといったような幻覚を伴う場合がある。これは夢の一種であると考えられ幽霊や心霊現象と関連づけられる原因になっている。 ただし金縛りの起きる状態がほとんど就寝中であることから学者の説明は睡眠との関係についてである。覚醒状態においての「金縛り」というものについては科学的にはほぼ未解明であり、精神的なものに起因するとされることも多い。霊的なものを信じていない人の場合は、宇宙人に何かをされたなどという形式の認知になるという説がある』。『金縛りは、いきなり起こるわけではなく、必ず前兆がある。およそ13キロヘルツ(kHz)の"ジーン、ジーン"または"ザワザワー"とした、強い圧迫感を伴う独特の不快な前駆症状の数秒後~数分後に一瞬にして全身の随意運動が不可能となる。症状は数秒で収まるものから、30分以上に及ぶものもある。また、金縛りが解けてもすぐに前駆症状が現れ、再発することも多く、睡眠の妨げになる事も多い』。『前駆症状に気づいた時点で金縛りを回避しようと試みても、殆どの場合そのまま金縛りへと移行する』。『金縛りには、大きく分けて、閉眼型と、開眼型の二種類が存在する。ほとんどは前者のもので、実際には閉眼しているにもかかわらず、金縛りがかかる直前の室内の風景や、普段の室内の記憶が鮮明な夢となって映し出される。しかし、本人が閉眼型だと認知していない場合がほとんどである。閉眼型の特徴として、霊などの幻覚が見えたりし、恐怖感を強く感じる場合が多いことが挙げられる。ちなみに、体外離脱はこれに分類され、思春期の女性に多い。閉眼型の金縛りを自分の意思で解除する事は、ほぼ不可能である。 しかし、まれに開眼した状態での金縛りも存在する。開眼型の金縛りの特徴として、全身の随意運動を奪われるものの、嗅覚、聴覚、視覚(ただし眼球運動は不可能、もしくは不随意)が鮮明であり、金縛り状態のままテレビの視聴や車窓からの風景を鮮明に見ることも可能である』。以下、原因論が示されるが、データが示されずやや信憑性に欠く部分が認められるので注意してお読み頂きたい(但し、大変面白い!)。『睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があるが、金縛りが起こるのはこのレム睡眠の時である。レム睡眠の時に夢を見るのだが、夢を見ている時には脳は活発に活動しているが、体は活動を休止している。レム睡眠は呼吸を休止させてしまうことがあり、強い息苦しさを感じたり、胸部に圧迫感を覚えることがある。他にも、他動的に四肢を動かされる感覚などを感じる場合もある。そのような不条理な状態を説明するために脳が「自分を押さえつけている人」などの幻覚・夢を作り出すと言われる』。『金縛りは、普段余り運動しない者が突然運動を行った場合などに起こりやすくなる。特に有酸素運動は金縛りを誘発しやすい。過酷な有酸素運動をしているスポーツ選手の中には、毎日のように金縛りに掛かる者も多い。また、旅行の移動中や宿泊地での金縛りも多い。これは、移動によって身体が疲弊しているのに対し、環境の変化などにより脳が興奮していることが影響している。その他、ストレスや肉体疲労が金縛りを引き起こすこと、体質的に金縛りに掛かりやすい(特に寝入りの悪い人)、事前に「このホテルは(幽霊が)出るらしいよ」などという噂話を聞くなど様々な理由がある。現在は金縛りの研究も進んでおり、閉眼型の金縛りは睡眠中に何度も起こすようなストレスを与えることで人工的に作り出す事も可能である』。『金縛りを初めて経験する者、経験が少ない者は、経験した事の無い前駆症状や、全身が動かなくなる独特の感覚から、金縛り現象を底知れぬ恐怖に感じる。特に、閉眼型の金縛りに掛かっている時には、僅かに思い浮かんだ事が過剰に増幅されるという特性がある。しかし、この特性を逆に利用し、たとえば、意図した人物との性的な事などを考えると、その人物が実際に現れたように感じたり、覚醒時には味わえないような驚くほどの強い快楽を得る事も可能であり、金縛りを楽しみにしている者も少数ではあるが存在する。ただし、実際に行ってみるとわかるが、金縛りの経験が少ない者は、容易に恐怖が上回ってしまい難しい。金縛り経験が豊富な者向けの高度な遊びといえよう。 対して、開眼型の金縛りでは、幻覚が出る事が無く、基本的に恐怖感は持たないものの、独特の違和感や、随意運動ができないことから不快感を抱く例が多い』。以下、東西の民俗学的な金縛りの記載が続く。『古来から世界各地で睡眠麻痺に関するさまざまな説明が伝わっている。代表的なものを以下にあげる』と、『ラオスでは、睡眠麻痺は「ピー・ウム」として知られていた。これは睡眠中に幽霊のようなものが現れる夢を見て、幽霊が自分を押し付けているか、あるいは幽霊がすぐ近くにいるといったものである。通常、体験者は自分が目覚めているが、動く事はできないと感じている』。『中国の少数民族であるミャオ族の文化では、睡眠麻痺は「圧しつぶす悪魔」と呼ばれていた。睡眠麻痺の体験者はよく子供ぐらいの動物が自分の胸の上に乗っていると主張した』。『ベトナムでは、睡眠麻痺は「マ・デ」と呼ばれ、これは「幽霊に抑えつけられた」ことを意味する。ベトナムの人々は幽霊が身体のなかに入り込み、それが麻痺状態を起こすと考えていた』。『中国では、睡眠麻痺は「"鬼圧身"」あるいは「"鬼圧床" 」として知られる。これは文字通り訳せば「幽霊に抑えつけられた身体」あるいは「幽霊に抑えつけられた寝床」という意味になる』(簡体字を正字「圧」に変更した)。 『日本における「金縛り」という語は、時に英語圏の研究者によって学術論文などで使われる事もある』。『ハンガリーの民俗文化では、睡眠麻痺は「"lidércnyomás" "lidérc"の圧力)と呼ばれ、"lidérc" (生霊), "boszorkány" (魔女), "tündér"(妖精) あるいは "ördögszerető" などの超自然的存在によって引き起こされると考えられていた』。『 "boszorkány" という単語はトルコ語の「圧しつける("bas-")」という意味の語幹からきている』。『アイスランドでは、睡眠麻痺は通常「マラが来た」と呼ばれていた。マラとは古いアイスランド語で雌馬をさすが、これは悪魔のようなもので人間の身体の上に乗り、その人を窒息させようとするものと信じられていた』。『クルド人は睡眠麻痺を「モッタカ」と呼んでいる。彼らは何物かが幽霊か悪い精の姿となって人の上に現れ、窒息させようとするのだと信じていた』。『ニューギニアでは、この現象は「スク・ニンミヨ」として知られる。これは神聖な樹木が、自分の寿命を延ばすため人間のエキスを吸い取ろうとしているためと考えられた。神聖な樹木は通常は人に知られないよう夜にエキスを吸い取るのだが、たまに人間がその最中に目を覚ましてしまい、そのために麻痺が起こるのだと考えていた』。『トルコでは、睡眠麻痺は「カラバサン (暗闇の抑圧者・襲撃者)」と呼ばれていた。これは睡眠中に人々を襲う生き物と考えられていた』。『メキシコでは、睡眠麻痺は死んだ人の魂が人間に乗り移り、動きを妨害することによって起こるのだと信じられていた。これは「セ・メ・スビオ・エル・ムエルト(Se me subió el muerto)(死人が乗り移った)」と呼ばれる』。『アメリカ南部の多くの地域では、この現象は "hag" (魔女) と呼ばれ、通常なにか悪いことが起こる前兆と考えられた』。『「オグン・オル」とはナイジェリア南西部ヨルバ地方で睡眠障害の原因とされている。オグン・オル(夜の争い)は夜間での強烈な妨害をともなっており、この文化ではこれは悪魔が夢を見ている人間の身体と精神に入り込むものとして説明される。オグン・オルは女性の方が起こりやすいとされており、これは地上の配偶者と“霊的な”配偶者の不和によるものと考えられた。この状態はキリスト教の宣教師か、あるいは伝統的な呪術師が悪魔払いをすることで取り除けると信じられていた』。『ジンバブエのショーナ文化においては、「マッジキリラ」という単語が使われる。これは何かが非常に強く圧しつけている状態をさし、ほとんどの場合これはなにかの霊--とくに邪悪な霊--が人間をコントロールしてなにか悪い事をしようとしているとみなされていた。人々が信じるところによれば、魔女にはこういった能力があり、そのため魔女はしばしば人の魂をつかってその人の親戚にとりつくとされた』。『エチオピアの文化では「ドゥカック」という単語が使われる。ドゥカックは人が眠っている間にとりつくなにかの悪い霊と考えられていた。また睡眠麻痺は麻薬の一種である「カット en:Khat)」の使用とも関連しているとされた。「カット」を使用していた者の多くは、長い間使っていたカットをやめた後に睡眠麻痺を経験したという』。『いくつかの研究によると、アフリカン・アメリカンの人々は睡眠麻痺にかかりやすい傾向があるという』。『これらは「魔女が乗っている」とか「haintが乗っている」と呼ばれている。また、ほかの研究によると、頻繁に(月に一度以上)睡眠麻痺にかかるアフリカン・アメリカンの人は「睡眠麻痺障害」があるとされ、このような人々は平均的な人よりもパニック障害にかかりやすい傾向があるという』。『これらの結果はほかの独立した研究者によっても確認されている』とある。

 

「歌留多」明治期に於いてはこうした正月のかるた取りが、数少ない男女の出会いの場として機能していたことは本章を読む上では非常に重要である。OCTOPUS氏のHPにある「競技かるたのページ」の論文から一部を引用する。『十畳の客間と八畳の中の間とを打抜きて、広間の十個処に真鍮の燭台を据ゑ、五十目掛の蝋燭は沖の漁火の如く燃えたるに、間毎の天井に白銀鍍の空気ラムプを点したれば、四辺は真昼より明に、人顔も眩きまでに輝き遍れり。三十人に余んぬる若き男女は二分に輪作りて、今を盛と歌留多遊びを為るなりけり。(*1)』〔『*1 尾崎紅葉「金色夜叉」(昭和4411月新潮文庫)より引用』という注記記載がある〕。『尾崎紅葉(18681903)のベストセラー小説「金色夜叉」(明治3035年連載、未完)の中には明治当時のかるた会の模様が述べられている。娯楽の少なかった当時、かるたというのは格好の男女の出会いの場であったと想像される。実際、 後のクイーン渡辺令恵の祖父母も、昭和5(1930)年頃ではあるが、かるたが縁で出会ったとのことである(*2)』〔『*2 渡辺令恵「競技かるたの魅力」(「百人一首の文化史」平成1012月すずさわ書店)』という注記記載がある〕。『当時のかるたの試合は、今日で言う所のちらし取り、あるいは2組に分かれての源平戦が主流であった。「金色夜叉」に描かれたかるたの試合は、どうやらちらし取りであったように思われる』(以上は同HP内の「3.競技かるたの夜明け」の冒頭「かるた会のあけぼの」より引用)。『黒岩涙香が開催した明治371904)年の第1回かるた大会の案内には「男女御誘合」とあり(*1)、当初かるた会は女性に大きく門戸を開いていた。だが、男尊女卑の傾向が著しかった時代で』あったため、明治414219081909)年頃に至って『かるたが世間に認知されるようになると、男女が交わって競技を行なう点が非難の的となる。「若い男女が入り乱れになつて、手と手を重ねたり、引手繰事(ひったくりっこ)をしたり、口の利き様もお互ひに慣れ慣れしくなり作法も乱れて居る」(*2)と、山脇房子は明治421909)年1月に指摘している。「今の若い男女は平常は隔てられて居て、いざかるたとでもなると、又極端に走りますからいけない」と、山脇は「風俗上衛生上の害を避ける為め」にテーブルの上での競技をも提案している。またその一方で、「相手が女では、バカバカしくて本気になって取れン」(*3)であるとか、「荒くれ男を向ふに廻して戦を挑むような女は嫌ひだ」「婦人は須らく男子に柔順で、繊弱優雅なるを愛する」(*4)などといった男性選手の言い分もあった。その結果、黒岩涙香としては当初の「平等意思」(*5)に反するとしながらも、東京かるた会は明治41(1908)年2月、傘下の各会と同盟規約を結ぶこととなる。その内容は「同盟各会の会員は勿論東京かるた会の出席者は素行不良ならざる男子たること」「同盟各会其他競技席上には婦人及素行不良と認めらるる男子の入場を拒絶すること」(*6)といったもので、これにより明治421909)年2月の5周年大会以降女流選手の大会参加は認められなくなる』。『しかし、完全に女性が閉め出されていたかというと、そうではなく、仙台では女流大会が開催されており、昭和2(1927)年の第1回大会では藤原勝子が優勝している。東京や山梨、筑波などでも同様の大会が開かれている(*7)』とある。因みに『かるた会が再び女流選手に門戸を開いたのは昭和9(1934)年1月5日の第22回全国大会からであった』(以下略。以上の引用部の注記は以下の通り。『*1 「萬朝報」明治37年2月11日』・『*2 山脇房子「風紀上より見たる歌留多遊び」(明治42年1月「婦人画報」)以下引用は同記事』・『*3 「朝日新聞」昭和30年1月5日「女のはな息」』・『*4*8 「かるた界 第8巻第2号」昭和9年12月 東京かるた会』・『*5*6 東京かるた会編「かるたの話(かるた大観)」(大正1412月 東京図案印刷)』・『*7 「かるたチャンピオン 95年のあゆみ」平成11年1月 全日本かるた協会』。以上は同HP内の「5.かるた黄金時代の「女流選手のあゆみ」より引用)。ここで明治四十年代初頭に公的なかるた会が『男女が交わって競技を行なう点が非難の的とな』ったこと自体が、実はそれ以前、男女の手が触れあたりする私的な男女の正月のかるた取りが、密やかにそうした男女の交感の場でもあったことを図らずも物語っていると言えよう。そして最後に一言。

 

――歌留多取とは戦闘である――

 

「Kはすぐ友達なぞは一人もない」Kにとって友達は先生一人きりなのである。

 

「内々(うちうぢ)」このルビは底本では「/\」の濁点つきである。明らかな誤植であるが、誤りをそのまま移すのが本翻刻のポリシーであるので「うちうぢ」としておいた。

 

「私はKに一體百人一首の歌を知つてゐるのかと尋ねました」これによってKが文学部文学科であることは完全に排除されるものと思われる。……が……国語教師でありながら私も教員になるまで、小倉百人一首の歌は実は殆んど知らなかったことを、ここに自白します……

 

「私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかつた」靜が荷担するK――そのKとの歌留多取りにさえ真剣になっている先生――である。この歌留多取は靜という女をKと取り合う一対一の白兵戦若しくは決闘の近きを告げるシーンなのでもあった。

 

「私は書物を讀むのも散步に出るのも厭だつた」先生の鬱屈が頂点に達していることが知られる。

 

「十時頃になつて、Kは不意に仕切の襖を開けて私と顏を見合せました。彼は敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞きました」このシーンは、これ以降の同一構図のシーンの最初に当る重要な場面である。あなたのスクリーンにしっかりとリアルに映像化してもらいたい。また、作中、珍しく時間が指定される場面としても特異的である。勿論、これは告白後の昼食を経て、午後の先生の煩悶、夜の描写へと続けるためであるのだが、私は妙に気になるのである。もう一つの重要な点がここにはある。即ち、Kは「敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞」いたという描写である。古来、日本では敷居を踏むことはタブーであった。「部屋の敷居や畳の縁を踏むのは親の顔を踏むのと同じだ」と私の祖母や母は言ったものだ。それは民俗社会に於ける神聖な境界であり、そこを足下に踏むということは、或る他空間への侵犯を意味する。それは致命的な神話的世界観のカタストロフへのスイッチであった。ここはそういう意味で、先生の内実に軽率にも侵入してしまったKを美事に描く部分でもあるのである。

 

「其御孃さんには無論奥さんも食つ付いてゐますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のやうに、私の頭の中をぐるぐる回つて、此問題を複雜にしてゐるのです。」「ぐるぐる」である。

 

「Kと顏を見合せた私は、今迄朧氣(おぼろげ)に彼を一種の邪魔ものゝ如く意識してゐながら、明らかに左右と答へる譯に行かなかつたのです」という唐突な叙述に注意しなくてはならない。表現上は「今迄」はだったのである――即ち、ここ以降、先生がKを「一種の邪魔もの」としてはっきりと「意識し」「明らかに左右と」言える存在になることを明確に示している、ように見える。しかしまた、ここ以前に先生がKをどういう存在として意識していたかをフィード・バックして再確認しておかなくてはならないことも言うまでもない。繰り返すが、ここまで先生の中には、

 

(嫉妬心から)Kを一種の邪魔者として意識している先生

   ↑葛

   ↓藤

(良心から)それを正当なものとしては認知出来ない先生

 

という構図があったのである。それがここまでの先生の心奥であったことが開示されているのである。我々は実は、この後の展開から、この前者の嫉妬心・邪魔者の方にばかり、意識が集中してしまうのであるが、かねてより私は後者にこそ着目すべきであると思っている。それまで先生にとってKは邪魔者ではなかった。いや、邪魔者どころか数少ない心許せる親友であった

 

――いや、先生にとっては親友というよりも、もっと大切な存在であった

 

と言ってよい。畏敬し、同時に孤独の痛みを分かち合った、獣のように抱き合った仲間

 

――親友よりも大切な存在であったK

 

――先生はKを無意識下に於いて愛していたのではなかったか?

 

――私はそう思うのである

――先生はKを愛していた

――いや、先生は遺書を書く今もKを愛しているのではあるまいか? いや、遺書を書く今、先生は初めて心からKを愛していると言えるのではあるまいか?

 

「兩肱(りやうびず)」「りやうひぢ」の誤植。

 

「市ケ谷」この叔母さんなる人物は夫が奥さんと同じく軍人であると直後に言っている。奥さんと靜はここに引っ越してくる前は市ヶ谷の士官学校の傍に住んでいた(第(六十四)回参照)が、当時の軍人達は軍施設の近くに纏まって居住していることが多かった。

 

「叔母さん」奥さんの義理の妹の可能性もないとは言えないが、父が亡くなってもずっと、靜と先生が結婚後もずっと親戚関係を保っている(第(四十)回及び最終章参照)ところを見ると、奥さんの実の妹であると考えられる。

 

「女の年始は大抵十五日過」女正月(めしょうがつ)のこと。115日の小正月前後を言う。正月は女性は家内の事始と親戚や年賀の挨拶客の接待で忙しくて休みがなく年始廻りの挨拶も出来なかったため、年賀の行事が一段落した小正月の時期に一息ついたことからこう言う。地方によって時期や内容が大きく異なるが、場合によっては男が家事一切を取り仕切って女を休ませる風習があった地方もあった。]

2010/07/20

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月20日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十八回

Kokoro15_3   先生の遺書

   (八十八)

 「私はKに向つて御孃さんと一所に出たのかと聞きました。Kは左右ではないと答へました。眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだと說明しました。私はそれ以上に立ち入つた質問を控へなければなりませんでした。然し食事(しよくし)の時、又御孃さんに向つて、同じ問を掛けたくなりました。すると御孃さんは私の嫌ひな例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中(あ)てゝ見ろと仕舞に云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持でしたから、さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其處に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其處の區別が一寸(ちよつと)判然(はんせん)しない點がありました。若い女として御孃さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌(きらひ)な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです。さうして其嫌な所は、Kが宅へ來てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに對する私の嫉妬に歸して可(い)いものか、又は私に對する御孃さんの技巧と見傚(みな)して然るべきものか、一寸分別に迷ひました。私は今でも決して其時の私の嫉妬心を打ち消す氣はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面(りめん)に此感情の働きを明らかに意識してゐたのですから。しかも傍(はた)のものから見ると、殆ど取るに足りない瑣事(さじ)に、此感情が屹度(きつと)首を持ち上げたがるのでしたから。是は餘事ですが、かういふ嫉妬は愛の半面ぢやないでせうか。私は結婚してから、此感情がだん/\薄らいでいくのを自覺しました。其代り愛情の方も決して元のやうに猛烈ではないのです。

 私はそれ迄躊躇してゐた自分の心を、一思ひに相手の胸へ擲(たゝ)き付けやうかと考へ出しました。私の相手といふのは御孃さんではありません、奥さんの事です。奥さんに御孃さんを吳れろと明白な談判(だんぱん)を開かうかと考へたのです。然しさう決心しながら、一日(にち)/\と私は斷行の日を延ばして行つたのです。さういふと私はいかにも優柔な男のやうに見えます、又見えても構ひませんが、實際私の進みかねたのは、意志の力に不足があつた爲ではありません。Kの來ないうちは、他の手に乘るのが厭だといふ我慢が私を抑へ付けて、一步も動けないやうにしてゐました。Kの來た後(のち)は、もしかすると御孃さんがKの方に意があるのではなからうかといふ疑念が絕えず私を制するやうになつたのです。果して御孃さんが私よりもKに心を傾むけてゐるならば、此戀は口へ云ひ出す價値のないものと私は決心してゐたのです。恥を搔かせられるのが辛いなどゝ云ふのとは少し譯が違ひます。此方(こつち)でいくら思つても、向ふが内心他の人に愛の眼(まなこ)を注いでゐるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否應なしに自分の好(す)いた女を嫁に貰つて嬉しがつてゐる人もありますが、それは私達より餘つ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、當時の私は考へてゐたのです。一度貰つて仕舞へば何うか斯(か)うか落ち付くものだ位(くらゐ)の哲理では、承知する事が出來ない位私は熱してゐました。つまり私は極めて高尙な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠な愛の實際家だつたのです。

 肝心の御孃さんに、直接此私といふものを打ち明ける機會も、長く一所にゐるうちには時々出て來たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、さういふ事は許されてゐないのだといふ自覺が、其頃の私には强くありました。然し決してそれ許りが私を束縛したとは云へません。日本人、ことに日本の若い女は、そんな塲合に、相手に氣兼なく自分の思つた通りを遠慮せずに口にする丈の勇氣に乏しいものと私は見込んでゐたのです。

Line_3

 

やぶちゃんの摑み:本章の最後は、先生の世代の旧態依然とした男女感覚・男女観が厳に示されているのだが、注意すべきは先生やKはそうであったが、同時代人ではあっても、明らかに先生やKと微妙に若い、受け手である靜も全く同様に考えていたと思い込むのは、やや早計である。そう思い込んでいる先生自身、早計である。

 

「眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだ」「眞砂町」は現在の文京区本郷4丁目、前章の柳町交差点の北から下りて来る白山通りと東に伸びる春日通りに挟まれた東北部分一帯の旧地名である。漱石絡みでは、ここに愛媛県の育英事業による寄宿舎常磐会があり、学生時代の友人正岡子規が明治211888)年9月から2412月迄の3年間ここで寄宿生活をしている。前章で路上で逢ったKは先生の「どこへ行ったのか」と言う問いに対して何時ものようにふんという調子で「ちょっとそこまで」と答えている。彼は一体、何処に何しに行ったのだろう? 思い出してもらおう。「其日もKは私より後れて歸る時間割だつたの」だから彼は、この日、本来ならまだ大学で講義を受けていなくてはならなかったはずである。だから、先生も「何うした譯かと思」ったのである。奥さんにその疑問を洩らすと、奥さんは「大方用事でも出來たのだらう」と答えている。これは推測に過ぎないが、Kが一人で出たことは前後の関係から間違いないと見てよいだろう。御嬢さんはもっと前に外出していた。しかし――Kは何をしに真砂町方向へ出向いていたのであろう? 大学の講義をサボってまで(勿論、偶然休講であったのかもしれない)行かねばならない用事とは何であったのか? そしてお嬢さんと「偶然出會つた」わけだ――先生になりきってみれば、疑惑が払拭出来ないのは当然と言えば当然ではなかろうか? そして更に次の御嬢さんとの会話が先生の疑心暗鬼をいやが上にも増幅させることとなる。

 

「然し食事時、又御孃さんに向つて、同じ問を掛けたくなりました」これが「同じ問」であったとすると、

 

先生「……お嬢さん、今日は……彼と一緒に出られたんですか?」

御嬢さん「(笑いを浮かべながら)いいえ。」

先生「……。」

御嬢さん「(笑いを浮かべつつ、悪戯っぽく伏目がちの先生を覗き込むような感じで)ふふっ、私が何処へ行ったか、当ててご覧になって。」

奥さん 「(睨みながら)これ!」

御嬢さん、ペロと僅かに舌を出す。

Kは全く意に関せず、黙々と沢庵をぼりぼりかじって飯を食っている。

 

といったシーンになろうか(当時の御嬢さんが舌を出すような真似はしなかったかも知れない)。ここで先生はその様子を「御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其處の區別が一寸判然しない點がありました」と描写したまま、「私」への解説に入って、このシーンを知らぬ間にフェイド・アウトしてしまう。その結果、我々は第(七十四)回に現われたあの「私の嫌ひな例の笑ひ方」――「何處へ行つたか中てゝ見ろ」という先生によって書き換えられたぞんざいな靜の口調――それは「癇癪持」だった当時の私の神経を逆なでするような謂い――「さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立」ったのに――「其處に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人」だけで――Kはいつも以上に「寧ろ」飄々として私を完全に無視し「平氣で」あったと描写したままに――そこから現在時制を離れてしまい、そうしたお嬢さんの「私の嫌な所はKが宅へ來てから、始めて私の眼に着き出した」――それはもしかすると「Kに對する私の嫉妬」にもとづくものであったかもしれないが、場合によっては「私に對する御孃さんの技巧と見傚」すのが正しいと思われるような場面もあった――と述べて、嫉妬論に入るわけだ。この嫉妬と愛情の関係分析や恋愛論・結婚観は正鵠を射ており、私自身は何らの疑義も感じない。大いに共感すると言ってもよい。そう、この『遺書を書いている先生』のここでの見解は、美事に正しい。嫉妬にもこの直前の場面に対しても、である。――ところが『この回想の中の現在時制での先生』は、――この直前場面の分析を誤っているのである。その証拠に、我々はこの場面での靜の「嫌ひな笑ひ」を浮かべたアップの口元、「何處へ行つたか中てゝ見ろ」というぞんざいな口調ばかりがアップになり、先生の神経を逆なでにする「不眞面目」な「若い女」と、フンとした私を完全に無視して「平氣」な冷たいKの横顔ばかりが印象付けられる結果となるからである。

 

 さて、ここを今回、靜や奥さんの意識からちょっと分析してみたいと思う。先の私のシーンを見て頂きたいのである。奥さんが「これ!」と靜を睨んだ点に注意しよう。ここで奥さんが先生に特に言葉添えて靜の行き先について述べるシーンがないのである。そこから奥さんは靜がその日何処へ行っていたかを当然知っている――靜がKと何処かに密かに行ったなどということは無論あり得ず、また靜とKが二人で何処かへ行ったことを奥さんは承知していて黙っている、なんどということも100%あり得ないのも当然である。だからこの「これ!」で終わりなのである。Kが平然としているのも当然である。Kの言う通り、「偶然出會つたから連れ立つて歸つて來た」に過ぎなかったからである。そのKが普段よりも一層「平氣で」あったのが奇異に先生に見えたのは、先生の疑心暗鬼に加えて、Kが自身の内的変化(御嬢さんへの恋愛感情)を外部への表出するのを抑止しようとする現象の結果である。そういう点では「Kは寧ろ平氣でした」という表面的な微妙な変異の観察は正しいと言える。問題は、では御嬢さんは何処へ何しに行ったのか? という点である。御嬢さんは(私の推測では)、

 

御嬢さん「(依然として例の笑いを浮かべつつ、悪戯っぽく伏目がちの先生を覗き込むような感じで)ふふっ、私が何処へ行ったか、当ててご覧になって。」

 

と焦らすのである。この「私が何処へ行ったか、当ててご覧になって。」は、二つの解釈が可能である。

 

①何処へ行ったか当ててもらいたいわ。

②何処へ行ったか貴方には決して分からないわ。

 

である。更にそこは、

 

Ⅰ 先生の知っている場所であって、しょっちゅう行っている場所。

Ⅱ 先生の知っている場所であるが、行ったことはない場所。

Ⅲ 先生は知らないし行った事もない場所。

 

の場合分けがあり得る。

 

②でⅢというのはこういう悪戯っぽい言い方にはならないから除外出来る。

①ならばⅠかⅡであり、たとえば、他の場面に現われる奥さんの妹と思われる叔母の家や、女学校の授業関連で東京帝国大学研究室や図書館、東京高等女子師範学校(現・御茶ノ水大学)等へ行ったケースが考え得る。真砂町で出会ったというのもそれならば自然に思われる。しかし、であれば、その事実を知るはずの奥さんが助け舟を出して先生にその事実を述べるものと思われるから選択肢からはずす。

但し、叔母の家であって、その用件が縁談であったとしたら? それを断わるために行ったとしたら?……しかしそれならば奥さんも必ず一緒に行かずにはおかないから、あり得ない。そもそも市ヶ谷の叔母の家では真砂町を歩いているというのは方向違いである。

 

そうすると②であってⅢのケースではないか?

 

条件を並べてみる。

 

・奥さんが行き先を知っているが、そこが何処かを遂に言わない。

・稽古事ではない(だったらああいう聞き方はしない)。

・帰り道で逢った際、Kの後にいた「御孃さんは心持薄赤い顏をして、私に挨拶をし」ている。これはKと一緒だったからではなく、その「何処か」からの帰りであったからではないか?

・御嬢さんは何時になく操状態である(その言い方が如何にもハイであるから、先生の言い換えがきついものになった)。

・Kも勿論知らない(帰り道で逢ってもKに言わなかった。言えなかった)。

・真砂町の先にその「何処か」はある。

 

――以下は、あくまで私の牽強付会の一つの解釈である。その結論は陳腐なものである。ドラマにさえならぬ。

 

……靜は婦人科的な体調不良を最近感じていた。そこで奥さんに相談したところ、大事をとって東京大学附属病院の婦人科で診察をしてもらうのがよい、ということになった(その診察自体は数日前としてもよい。その方が靜の心理的には相応しい)。不安の中でその結果を受けに行ったが、何ら問題ないという結果であった。その帰りでKや先生にダブルで逢ってしまい、行き先が行き先であったから「心持薄赤い顏をし」たが、帰ってみれば、健康ということで、靜はすっかり嬉しくなり、食事の際の先生の言葉にも、『こんな元気な私が病院に行ったなんて、とっても当りっこないわ!』といったハイな気分の高揚から、つい悪戯っぽい謂いになってしまった。娘の気持ちも分からないではない奥さんではあったが、流石に「これ!」と、それをたしなめた。……

 

如何にもショボい仮定だと思われたかも知れない。――しかし十分あり得る現実的な可能性を私は考えたつもりである。実生活なんて実際にどうということのないショボいものである――どうということのある危いサスペンス劇場のようなKとの密会の可能性なんどを、先生のぐるぐるのようにずるずるずるずる引きずるよりも――ずっと私には真実らしく感じられる解釈なのである。しかも、その帰りに二人の青年にエスコートされた形となった彼女は、まるでお姫さまのようではないか――

 

「極めて高尙な愛の理論家」結婚と言う実行行為を行う場合には、必ず相思相愛であることを必要条件としなければならない人間であるということ。相思相愛でなくては「愛」ではないという命題を真とする理論家。

 

「尤も迂遠な愛の実際家」真実、相思相愛であることを、必ず確認した上でなければ結婚という実行行為に移ってはならないと考える人間であるということ。相思相愛であるという命題が真であることが立証されねば結婚はあり得ないという厳密実際に則る人間。]

2010/07/19

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回

Kokoro15_2   先生の遺書

   (八十七)

 「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔(こんにやくえんま)を拔けて細い坂路を上(あが)つて宅へ歸りました。Kの室は空虛(がらんど)うでしたけれども、火鉢(ひはち)には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳(かざ)さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種(ひたね)さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。

 其時私の足音を聞いて出て來たのは、奥さんでした。奥さんは默つて室の眞中に立つてゐる私を見て、氣の毒さうに外套を脫がせて吳れたり、日本服を着せて吳れたりしました。それから私が寒いといふのを聞いて、すぐ次の間からKの火鉢(ひはち)を持つて來て吳れました。私がKはもう歸つたのかと聞きましたら、奥さんは歸つて又出たと答へました。其日もKは私より後れて歸る時間割だつたのですから、私は何うした譯かと思ひました。奥さんは大方用事でも出來たのだらうと云つてゐました。

 私はしばらく其處に坐つたまゝ書見をしました。宅の中がしんと靜まつて、誰の話し聲も聞こえないうちに、初冬の寒さと佗びしさとが、私の身體に食ひ込むやうな感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私は不圖賑やかな所へ行きたくなつたのです。雨はやつと歇(あが)つたやうですが、空はまだ冷たい鉛のやうに重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に擔いで、砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。其時分はまだ道路の改正が出來ない頃なので、坂の勾配(こうはい)が今よりもずつと急でした。道幅も狹くて、あゝ眞直ではなかつたのです。其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐるのと、放水(みづはき)がよくないのとで、往來はどろどろでした。ことに細い石橋を渡つて柳町(やなぎちやう)の通りへ出る間が非道(ひど)かつたのです。足駄(あした)でも長靴でも無暗に步く譯には行きません。誰でも路の眞中に自然と細長く泥が搔き分けられた所を、後生大事に辿つて行かなければなりません。其幅は僅か一二尺しかないのですから、手もなく往來に敷いてある帶の上を踏んで向へ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になつてそろ/\通り拔けます。私は此細帶の上で、はたりとKに出合ひました。足の方にばかり氣を取られてゐた私は、彼と向き合ふ迄、彼の存在に丸で氣が付かずにゐたのです。私は不意に自分の前が塞がつたので偶然眼を上げた時、始めて其處に立つてゐるKを認めたのです。私はKに何處へ行つたのかと聞きました。Kは一寸其處迄と云つたぎりでした。彼の答へは何時もの通りふんといふ調子でした。Kと私は細い帶の上で身體を替せました。するとKのすぐ後に一人の若い女が立つてゐるのが見えました。近眼の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣り越した後で、其女の顏を見ると、それが宅の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました。御孃さんは心持薄赤い顏をして、私に挨拶をしました。其時分の束髪は今と違つて廂が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐる/\卷きつけてあつたものです。私はぼんやり御孃さんの頭を見てゐましたが、次の瞬間に、何方(どつち)か路を讓らなければならないのだといふ事に氣が付きました。私は思ひ切つてどろ/\の中へ片足踏(ふ)ん込(ご)みました。さうして比較的通り易い所を空けて、御孃さんを渡して遣りました。

 私は柳町の通りへ出ました。然し何處へ行つて好(い)いか自分にも分らなくなりました。何處へ行つても面白くないやうな心持がしました。私は飛泥(はね)の上がるのも構はずに、糠(ぬか)る海(み)の中を自暴(やけ)にどし/\步きました。それから直ぐ宅へ歸つて來ました。

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やぶちゃんの摑み:「蒟蒻閻魔を拔けて細い坂路を上つて宅へ歸りました」「蒟蒻閻魔」は現在の東京都文京区小石川2丁目にある浄土宗の寺院常光山源覚寺の別称。ウィキの「源覚寺」によれば、『寛永元年(1624) に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建された。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848年)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。再建は明治時代になったが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた』とある。この閻魔像は『鎌倉時代の作といわれ、寛文12年(1672年)に修復された記録がある1メートルほどの木造の閻魔大王の坐像である。文京区指定有形文化財にもなっており、文京区内にある仏像でも古いものに属する。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴でこれは、宝暦年間(1751-1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に備え続けたといわれている言い伝えによるものである。以来この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、当閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。また毎年1月と7月には閻魔例大祭が行われる』とある。この先生の叙述は先生の下宿が「蒟蒻閻魔を拔けて細い坂路を上つ」た先、坂の上の方にあること、登って富坂のある砲兵工廠方向(南)に下ったりしてはいないということ、下宿が高台の地にあることを示唆している。私が推測した旧中富坂町の北方部である可能性はこれによって立証されたものと思われる。

 

――そして私は遂にネット上で誰もが自由に拡大縮小して見られる明治時代のここの地図を発見した!

「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」内の明治161883)年参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」(現所蔵番号:YG/1/GC67/To 002275675である。

 

これを拡大して見ると、

 

蒟蒻閻魔源覚寺の東は斜面に茶畑が広がる広大な個人の邸宅

 

であることが分かる。私が想定している本作中時間は明治311898)年頃であるが、明治421909)年の東京1万分の1地形図でも依然としてこの邸宅は残っている(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」付録地図等参照)。更に拡大してこの明治16年地図を仔細に見ると、

 

「寺覚源」の「寺」の字の右、墓の西に標高7.8 m

 

のマークがあり、そこから南へ大邸宅の茶畑の下の小路を南へ移動すると、

 

邸宅の垣根の東南の角に出、ここは標高9.2m、ここがこの道の最高地点

 

であることが分かる。先生はここを通った。だから「細い坂路を上つて」と言っているのである。この地点から南の方には先生の下宿はない。何故か? さっき言った通り、ここが最高地点で、ここから南のルートは坂を下る(砲兵工廠方向へ)からである。先生は

「細い坂路を上つて宅へ歸りました」

と言っているのであってみれば、更に

 

邸宅の垣根の東南の角標高9.2 m地点から西の坂を登ったすぐの南辺りに下宿はあった

 

(北は大邸宅の石垣又は壁であるからあり得ない)と考えるべきではあるまいか。この地図上の等高線を見ても、ここはかなりの高台となっており、源覚寺の南の善雄寺から西に伸びる坂の頂点、この大邸宅の西南の角の部分(既に小石川上富坂町内になる)は標高が21.2mもある。

先生の下宿――それは例えば、この地図の

 

標高17.0mマーク近辺、大邸宅の石垣の向かい辺り、「小石川中富坂町」と書かれた地名の「中」の字の辺りにあった

 

と想定してみても決して強引ではないのではあるまいか。

 

「坂の勾配が今よりもずつと急でした」上記の地図上で中富坂町から南に下った地点

 

「坂富西」の「坂」の字の右上の地点で標高15.77m

 

(因みに、そこからもう少し登った標高20.05mの北にある荒地は第(六十四)回で故郷を捨てた先生が住むための家を探して立ったあの場所である。「其頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐたものです。私は其草の中に立つて、何心なく向の崖を眺めました。今でも惡い景色ではありませんが、其頃は又ずつと趣が違つてゐました。見渡す限り緑が一面に深く茂つてゐる丈でも、神經が休まります。私は不圖こゝいらに適當な宅はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を横切つて、細い通りを北の方へ進んで行きました。」に現れる場所である)で、

 

旧富坂の次の下った標高地点は9.7m

 

であるから、実に

 

標高差6.07m

 

である。道路標識にある斜度を示す『%』は高低差(垂直長)÷地図上の距離(水平長)でされるが、

 

この両地点間を仮に約50mとして12(この斜度はもっとある可能性がある)

 

となる。非舗装道路で、しかも雨上がりのこの斜度の坂を高下駄で歩くとなると、かなりしんどい。

 

「ことに細い石橋を渡つて柳町の通りへ出る間が非道かつた」上記「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」を拡大してみると、旧富坂(地図では西富坂と地名表示あるところ)を下ったところにある

 

標高6.63m記号表示の東に小さな流れに架かる橋

 

がまずある。しかし更にこの道を東に辿ったところ、

 

憲兵隊屯所の南方、荒地の只中にも同様な橋

 

が認められる。

 

先の標高6.63m記号表示のある橋からこの橋までの間は120m

 

で、南側には

 

砲兵工廠の鰻の寝床のような建物

 

が認められ、これが先生の言う

 

「其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐる」

 

であることは間違いない。ということはこの後に続く

 

「ことに細い石橋を渡つて柳町の通りへ出る間」とは、この憲兵隊屯所の南方に位置する橋と柳町交差点の間を指している

 

と同定してよい。この

 

橋から柳町の間は約60m

 

であるが、実はここで気がついた!

 

よくこの地図を拡大して見て頂きたい!

 

橋のすぐ東に標高5.6mのマーク

 

があるが、

 

柳町交差点中央地点は6.2m

 

なのである! ここは

 

高低差60㎝で、この道が東の柳町交差点に向かって既に東方の小石川の台地の裾野にかかっていて逆にやや登り勾配であったことが分かるのだ!

 

私は若き日にここを読んだ際、坂を『下っている』先生が幾ら近視だったとは言え、Kや御嬢さんを目の前に来るまで視認出来なかったことを永く不審に思っていた。

 

しかし、これで眼から鱗だ!

 

即ち、先生はやや登り勾配であったから、足に気をとられていたからだけではなく、先生の視野には、向うから『下ってくる』形になる二人が入らなかったのである!

 

ここでは先生は道を下っていたのではなく『上っていた』のである!

 

――かくして我々は遂にこのシーンのロケ地を正しく発見した!

 

「蛇の目」蛇の目傘。笠の中心部分及び周辺を黒・紺・赤に塗って中央を白く抜き、蛇の目の形を表した傘。黒蛇の目・渋蛇の目・奴やつこ蛇の目などがある。元禄期に生れた高級傘である。以前、これを後掲する御嬢さんの髪の「蛇」の伏線として鬼の首を取ったように、ここにも既に「蛇」が出現している! と記した評論を読んだことがあるが、私の祖母などは普通に一般に傘を「蛇の目」と呼んでいたから、正直、その大真面目の文章を読みながら、失礼乍ら、私は失笑してしまった。今も私は「蛇の目」の『蛇』を次の御嬢さんの髪の『蛇』=闘争のシンボライズの伏線として漱石が確信犯で使用したとは、全く思わない。但し、私が「心」の監督なら、確かにこの傘の『蛇の目』をシンボリックに使って撮って見たいとは思う。それは『円』として連関する『目玉』としての映像化として、是非とも効果的に撮って見たい魅力的素材であるからである。

 

「足駄」足板の転かと言われる。古くは歯や鼻緒のある板製履物を総称する言葉であったが、近世以降は特に雨天時に使用する、通常の下駄よりも遙かに高い二枚歯のついた下駄。高下駄。

 

「私は不意に自分の前が塞がつたので偶然眼を上げた時、始めて其處に立つてゐるKを認めた」忘れてはいけない。Kは見上げるほど背が高い。且つ、彼も足駄風のものを履いて勾配のある道の上の方にいるのだ。見上げる「怪物」のような巨人である。

 

「Kと私は細い帶の上で身體を替せました。するとKのすぐ後に一人の若い女が立つてゐるのが見えました。近眼の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣り越した後で、其女の顏を見ると、それが宅の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました」すぐ後には1m以上離れている印象ではない。だとすれば、先生の近視はかなり程度の重いものだと言える。かつ、眼鏡も合っていないようである。何故、合っていないのか? 合わないほど重いのではあるまい。これは恐らく、分厚いレンズをするのがお洒落じゃないからではないか? 先生はお洒落である。格好の悪い牛乳壜の底のような眼鏡をするのはいやなのではなかったろうか?

 

「其時分の束髪は今と違つて廂が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐる/\卷きつけてあつたものです」これは当時女学生の間などで流行していた束髪の一種である西洋上げ巻きのことか。例えば、こちら(理容「髪いじり」HP内)に「左の手にて髪の根を揃え、右の手にてその髪を3~4度右の方へねじり、適宜、髷(まげ)を頭の上に作り毛の先も根元に押し込み、ところどころをヘア・ピンで乱れぬようにして止める」という束髪法と画像がある。

 この髪型を「蛇のやうにぐる/\」とやらかした漱石は明らかに確信犯である。

 それは多様なシンボルとして機能しているように思われる。とりあえずはウィキの「ヘビ」の「文化の中のヘビ」からまず引用しておこう。『足を持たない長い体や毒をもつこと、脱皮をすることから「死と再生」を連想させること、長い間餌を食べなくても生きている生命力などにより、古来より「神の使い」などとして各地でヘビを崇める風習が発生した。最近でもヘビの抜け殻(脱皮したあとの殻)が「お金が貯まる」として財布に入れるなどの風習がある。また、漢方医学や民間療法の薬としてもよく使われる。日本でも白ヘビは幸運の象徴とされ特に岩国のシロヘビは有名である。 また、赤城山の赤城大明神も大蛇神であり有名であるといえる』。『日本の古語ではヘビのことを、カガチ、ハハ、あるいはカ(ハ)等と呼んだ。民俗学者の吉野裕子によれば、これらを語源とする語は多く、鏡(ヘビの目)、鏡餅(ヘビの身=とぐろを巻いた姿の餅)、ウワバミ(ヘビの身、大蛇を指す)、かかし(カガシ)、カガチ(ホオズキの別名、蔓草、実の三角形に近い形状からヘビの体や頭部を連想)等があり、神(カミ=カ「蛇」ミ「身」)もヘビを元にするという』。『 ただし、カガチはホオズキの古語、鏡の語源は「かが(影)+み(見)」、カカシはカガシが古形であり、獣の肉や毛髪を焼いて田畑に掛け、鳥や獣に匂いをカガシて脅しとしたのが始まりであって、それぞれ蛇とは直接の関係はないというのが日本語学界での通説である』。『ヘビは古来、世界的に信仰の対象であった。各地の原始信仰では、ヘビは大地母神の象徴として多く結びつけられた。山野に棲み、ネズミなどの害獣を獲物とし、また脱皮を行うヘビは、豊穣と多産と永遠の生命力の象徴でもあった。また古代から中世にかけては、尾をくわえたヘビ(ウロボロス)の意匠を西洋など各地の出土品に見ることができ、「終わりがない」ことの概念を象徴的に表す図象としても用いられていた。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教では聖書の創世記から、ヘビは悪魔の化身あるいは悪魔そのものとされてきた』。『ギリシャ神話においてもヘビは生命力の象徴である。杖に1匹のヘビの巻きついたモチーフは「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、欧米では医療・医学を象徴し、世界保健機関のマークにもなっている。また、このモチーフは世界各国で救急車の車体に描かれていたり、軍隊等で軍医や衛生兵などの兵科記章に用いられていることもある。また、杯に1匹のヘビの巻きついたモチーフは「ヒュギエイアの杯」と呼ばれ薬学の象徴とされる。ヘルメス(ローマ神話ではメルクリウス)が持つ2匹のヘビが巻きついた杖「ケリュケイオン」(ラテン語ではカドゥケウス)は商業や交通などの象徴とされる。「アスクレピオスの杖」と「ヘルメスの杖(ケリュケイオン)」は別のものであるが、この二つが混同されている例もみられる』。『また、インド神話においてはシェーシャ、アナンタ、ヴァースキなどナーガと呼ばれる蛇身神が重要な役割を果たしている。宇宙の創世においては、ナーガの一つである千頭の蛇アナンタを寝台として微睡むヴィシュヌ神の夢として宇宙が創造され、宇宙の構成としては大地を支える巨亀を自らの尾をくわえたシェーシャ神が取り囲み、世界を再生させるためには、乳海に浮かぶ世界山に巻き付いたヴァースキ神の頭と尾を神と魔が引き合い、乳海を撹拌することにより再生のための活力がもたらされる。これらの蛇神の形象は中国での竜のモデルの一つとなったとも考えられている』。『日本においてもヘビは太古から信仰を集めていた。豊穣神として、雨や雷を呼ぶ天候神として、また光を照り返す鱗身や閉じることのない目が鏡を連想させることから太陽信仰における原始的な信仰対象ともなった。もっとも著名な蛇神は、頭が八つあるという八岐大蛇(ヤマタノオロチ)や、三輪山を神体として大神神社に祀られる大物主(オオモノヌシ)であろう。弁才天でも蛇は神の象徴とされる場合がある。大神神社や弁才天では、神使として蛇が置かれていることもある。蛇の姿は、男根、剣、金属(鉄)とも結びつけられることから男性神とされる一方、豊穣神・地母神の性格としては女性と見られることも多く、異類婚姻譚の典型である「蛇女房」などにその影響を見ることができる』。
 さて、とりあえずここでは一番に多くの評者が指摘する、ネガティヴな邪性としての先生の
Kに対する戦闘・闘争の始動のシンボルとして漱石は用いていると見てよいと思われる。若き日に読んだ際の私もダイレクトにそのような比喩としてここを読んだ。しかし、同時にそれは、髪の持主である靜をも含めた登場人物総ての邪性やエゴイズム――はたまたグレート・マザー(太母)としての女性性――以前に私も示したウロボロスの「輪」――終わりがない先生の「ぐるぐる」――死と再生のスピリッチャリズムの「永劫回帰」――ゾルレンとして断ち切られるべき「循環」――いや、もしかすると全く逆にザインとしての「円環」の表象が、そこには暗示されているのかも知れない。――「円」――私にとって永遠にして最大の「こゝろ」の謎である。]

2010/07/18

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月18日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十六回

Kokoro15   先生の遺書

   (八十六)

 「それのみならず私は御孃さんの態度の少し前と變つてゐるのに氣が付きました。久し振で旅から歸つた私達が平生(へいせい)の通り落付く迄には、萬事に就いて女の手が必要だつたのですが、其世話をして吳れる奥さんは兎に角、御孃さんが凡て私の方を先にして、Kを後廻しにするやうに見えたのです。それを露骨に遣られては、私も迷惑したかも知れません。塲合によつては却つて不快の念さへ起しかねたらうと思ふのですが、御孃さんの所作は其點で甚だ要領を得てゐたから、私は嬉しかつたのです。つまり御孃さんは私だけに解るやうに、持前の親切を餘分に私の方へ割り宛てゝ吳れたのです。だからKは別に厭な顏もせずに平氣でゐました。私は心の中でひそかに彼に對する凱歌を奏したのです。

 やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた學校の課業に出席しなければならない事になりました。Kと私とは各自の時間の都合で、出入の刻限にまた遲速が出來てきました。私がKより後れて歸る時は一週に三度ほどありましたが、何時歸つても御孃さんの影をKの室に認める事はないやうになりました。Kは例の眼を私の方に向けて、「今歸つたのか」を規則の如く繰り返しました。私の會釋も殆ど器械の如く簡單で且つ無意味でした。

 たしか十月の中頃と思ひます、私は寢坊をした結果、日本服の儘急いで學校へ出た事があります。穿物(はきもの)も編上などを結んでゐる時間が惜しいので、草履を突つかけたなり飛び出したのです。其日は時間割からいふと、Kよりも私の方が先へ歸る筈になつてゐました。私は戾つて來ると、其積で玄關の格子をがらりと開けたのです。すると居ないと思つてゐたKの聲がひよいと聞こえました。同時に御孃さんの笑ひ聲が私の耳に響きました。私は何時ものやうに手數のかゝる靴を穿いてゐないから、すぐ玄關に上がつて仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐つてゐるKを見ました。然し御孃さんはもう其處にはゐなかつたのです。私は恰もKの室から逃れ出るやうに去る其後姿をちらりと認めた丈でした。私はKに何うして早く歸つたのかと問ひました。Kは心持が惡いから休んだのだと答へました。私が自分の室に這入つて其儘坐つてゐると、間もなく御孃さんが茶を持つて來て吳れました。其時御孃さんは始めて御歸りといつて私に挨拶をしました。私は笑ひながらさつきは何故逃げたんですと聞けるやうな捌けた男ではありません。それでゐて腹の中では何だか其事が氣にかゝるやうな人間だつたのです。御孃さんはすぐ座を立つて緣側傳ひに向ふへ行つてしまひました。然しKの室の前に立ち留まつて、二言三言内と外とで話しをしてゐました。それは先刻の續きらしかつたのですが、前を聞かない私には丸で解りませんでした。

 そのうち御孃さんの態度がだん/\平氣になつて來ました。Kと私が一所に宅にゐる時でも、よくKの室の緣側へ來て彼の名を呼びました。さうして其處へ入つて、ゆつくりしてゐました。無論郵便を持つて來る事もあるし、洗濯物を置いて行く事もあるのですから、其位の交通は同じ宅にゐる二人の關係上、當然と見なければならないのでせうが、是非御孃さんを專有したいといふ强烈な一念に動かされてゐる私には、何うしてもそれが當然以上に見えたのです。ある時は御孃さんがわざ/\私の室へ來るのを回避して、Kの方ばかり行くやうに思はれる事さへあつた位です。それなら何故Kに宅を出て貰はないのかと貴方は聞くでせう。然しさうすれば私がKを無理に引張つて來た主意が立たなくなる丈です。私にはそれが出來ないのです。

Line

 

やぶちゃんの摑み:本章はこの十一月の出来事を中に挟んで折れ曲がり、遂にカタストロフへと雪崩れ込んでゆく。

 

♡「Kは心持が惡いから休んだのだと答へました」もし、これがKの嘘だったとしたどうだろう? 後の誰かの卑劣な嘘とよく似ている言いではないか?

 

「御孃さんの態度の少し前と變つてゐるのに氣が付きました」と思い込んだだけである。それはこの段落の叙述全体を見渡すと容易に察せられる。御孃さんのその所作は「私だけに」しか解からなかったのである。即ち、私の錯覚である。それは「露骨」でなく、「甚だ要領を得てゐ」て、「私だけに解るやうに、持前の親切を餘分に私の方へ割り宛てゝ吳れた」ものであったと先生は言う。Kのみならず誰が見ても気付かぬように、である。そんな絶妙な手練手管を靜が持っているように今まで描かれていたか? これからも描かれているか? 私は靜が好きである――が、結婚後の靜を見てもそのような幽玄微妙な手技を持ち合わせているようには思われない。寧ろあの笑う女としての靜には、ある種の見え透いた雑な戦術が垣間見えるほどだ。御嬢さんは全く「凡て私の方を先にして、Kを後廻しにするやうに」はしなかったのだ。だから「Kは別に厭な顏もせずに平氣で」いたのは当たり前なのだ。「心の中でひそかに彼に對する凱歌を奏した」先生は真正の大馬鹿者であったのだ。このお目出度い上昇する優越感の急勾配が、直後の急速な下降に向かう地滑りの被害妄想を生み出すこととなる。

 

「不快の念さへ起しかねたらうと」これは誤植。原稿は正しく「不快の念さへ起しかねなかつたらうと」である。

 

「凱歌」勝鬨(かちどき)。戦争に勝った時、一斉に挙げる鬨(とき)の声。また、戦いに勝って凱旋する際、勝利を祝う歌。そう、やっぱり戦争なのである。

 

「奏したのです。」単行本では「奏しました。」と変更。

 

「何時歸つても御孃さんの影をKの室に認める事はないやうになりました」この描写はこの後の場面へのダークな猜疑的遠景として確信犯的に漱石が配したもののように思われる。即ち――この時期、実はKと御嬢さんは頻繁に宅(うち)の中で逢っていた。しかし、それは先生の時間割を知っている二人が先生の帰ってくる時刻を避けて密かに逢っていたのであったのだ――勿論、この後の疑心暗鬼のブラック・ホールへ墜ちてゆく先生がぐるぐると考えて辿りつく忌まわしい妄想の中で、である。

 

「私の會釋も殆ど器械の如く簡單で且つ無意味でした」という叙述は、実は先生とKがこの頃、殆んど親密な会話をしていなかったことを意味しているとは考えられまいか? 会釈でさえ「殆ど器械の如く簡單で且つ無意味」であると叙述する人間同士が、それ以外の時には砕けた話や難しい問題を議論しているとは思われない。この時点で既に先生の側からのKへの心的な連絡は完全に冷め切り、遮断されいた――と考えられはしまいか? 最早――敵でさえない――という凱歌を奏した彼は、旧来のようにKを畏敬し、旧来同様に親密になれるはずがない、とは言えまいか? 少なくともこう叙述する先生の眼は――慄っとするほど――冷たい――のである。

 

「たしか十月の中頃と思ひます、……」冒頭で基本的には先生の推測を疑心暗鬼の被害妄想と私はとるわけだが、以下のこのエピソードは、しかし、純然たる先生の被害妄想だけで説明するには、やや微妙な幾つかの問題も孕んでいるようには思われる。例えば「其日は時間割からいふと、Kよりも私の方が先へ歸る筈になつてゐ」たがKはいた。Kに言わせると「心持が惡いから休んだ」のだという。一日中いたのである。もしかすると半日の間、看病と称して靜はKの傍に付き添い、親しく話しをしていたのかもしれない(とも思わせる設定ではないか)。そもそも「心持が惡い」のに「机の前に坐つてゐる」Kは何をしていたのか? 「例の通り」とあるから書見をしていたのか? 書見をせずに机にぼうっと向いているKという構図は奇妙な光景だ。いや勿論、その直前に御嬢さんと話をしていたのだ。「Kの聲がひよいと聞こえ」、「同時に御孃さんの笑ひ聲が私の耳に響」くということは、Kが御嬢さんの笑いを誘うような応答を、話をしたことを意味する。平素女を馬鹿にしていたKが靜を笑わせるような話をするというのは、これは先生ならずとも、読者である我々にとっても驚天動地の出来事ではないか? 最近のKの心の中には何か、確かに新しい変化が起こったとしか思われない(それに気付かぬ先生。Kも先生の靜への恋情に気付かぬように、先生もKのそうした変化に気付いていないのである)。更に「すぐ玄關に上がつて仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐つてゐるKを見ました。然し御孃さんはもう其處にはゐなかつたのです。私は恰もKの室から逃れ出るやうに去る其後姿をちらりと認めた」という部分、この先生目線の靜の襟足は妙にエロティックで危いように私には映像化されるのである。全てを先生の妄想だけに帰することは出来ない気がしてくるのである。少なくとも――『……Kと靜……この二人には何かあるのではあるまいか?……』(実際にはそれは何でもないものかもしれない。しかし、それは遂に分からない)――と先生の内心と同様の思いを読者にも感じさせるように――漱石は確信犯で仕組んでいる。本作中出色の恋愛サスペンス劇がここに幕を切って落すのである。

 

「無論郵便を持つて來る事もある」ここが私には以前からやや気になっている。Kには友人らしい友人はいない上に養家とも実家とも縁が切れている。Kに郵便物が届くということがあるのだろうか? 唯一、血が繋がって気にして呉れている実の姉がいるが、彼女がそんなに頻繁に手紙を寄越すとは思われない。Kに郵便物が来ることは、殆んどないと考えた方が自然である。従って、これは靜がKの元へ行くことを納得するための、先生の心理上の無理な理由付けである可能性があるように思われるのである。

 

「是非御孃さんを專有したいといふ强烈な一念に動かされてゐる」ために先生は疑心暗鬼の二重螺旋を地獄の底まで下ってゆくことになる。先生には「そのうち御孃さんの態度がだん/\平氣になつて來」たように見えてきたのである。それは基本的には疑心暗鬼の延長上にあると一応考えてよいが、微妙な部分はある。何故なら直後に先生は「Kと私が一所に宅にゐる時でも、よくKの室の縁側へ來て彼の名を呼びました。さうして其處へ入つて、ゆつくりしてゐました」と断定している点である。以前には殆んどなかったと思われるそうした靜の挙止動作が明らかに先生の目に付くように増えた可能性は否定出来ない。「無論郵便を持つて來る事もある」で注したように、事実、増えたものと私は思うのである。]

2010/07/17

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月17日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十五回

Kokoro15_4   先生の遺書

   (八十五)

 「其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自說を主張しました。するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。―君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。

 私が斯う云つた時、彼はたゞ自分の修養が足りないから、他(ひと)にはさう見えるかも知れないと答へた丈で、一向私を反駁(はんばく)しやうとしませんでした。私は張合が拔けたといふよりも、却つて氣の毒になりました。私はすぐ議論を其處で切り上げました。彼の調子もだん/\沈んで來ました。もし私が彼の知つてゐる通り昔の人を知るならば、そんな攻擊はしないだらうと云つて悵然(ちやうぜん)としてゐました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。靈のために肉を虐げたり、道のために體を鞭つたりした所謂難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどの位(くらゐ)そのために苦しんでゐるか解らないのが、如何にも殘念だと明言しました。

 Kと私とはそれぎり寐てしまいました。さうして其翌る日から又普通の行商の態度に返つて、うん/\汗を流しながら步き出したのです。然し私は路々其晩の事をひよい/\と思ひ出しました。私には此上もない好(い)い機會が與へられたのに、知らない振をして何故それを遣り過ごしたのだらうといふ悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいといふ抽象的な言葉を用ひる代りに、もつと直截(ちよくせつ)で簡單な話をKに打ち明けてしまへば好かつたと思ひ出したのです。實を云ふと、私がそんな言葉を創造したのも、御孃さんに對する私の感情が土臺になつてゐたのですから、事實を蒸溜(じようりう)して拵えた理論などをKの耳に吹き込(こむ)よりも、原(もと)の形そのまゝを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だつたでせう。私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自(おのづ)から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐた事をこゝに自白します。氣取り過ぎたと云つても、虛榮心が崇つたと云つても同じでせうが、私のいふ氣取るとか虛榮とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです。

 我々は眞黑になつて東京へ歸りました。歸つた時は私の氣分が又變つてゐました。人間らしいとか、人間らしくないとかいふ小理窟は殆ど頭の中に殘つてゐませんでした。Kにも宗敎家らしい樣子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも靈がどうの肉がどうのといふ問題は、其時宿つてゐなかつたでせう。二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました。それから兩國へ來て、暑いのに軍鷄(しやも)を食ひました。Kは其勢(いきほひ)で小石川迄步いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が强いのですから、私はすぐ應じました。

 宅へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚ろきました。二人はたゞ色が黑くなつたばかりでなく、無暗に步いてゐたうちに大變瘦せてしまつたのです。奥さんはそれでも丈夫さうになつたと云つて賞めて吳れるのです。御孃さんは奥さんの矛盾が可笑しいと云つて又笑ひ出しました。旅行前時々腹の立つた私も、其時丈は愉快な心持がしました。塲合が塲合なのと、久し振に聞いた所爲(せゐ)でせう。

Line_3

 

[♡やぶちゃんの摑み:房州行のエンディングである。次章はワン・クッションの後、遂にカタストロフへ向かって急傾斜を雪崩れてゆくこととなる。

 

♡「其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自說を主張しました」ここで言う先生の「人間らしい」の「人間」とは「智」に対する「情」の意である。そして「出立點が既に」Kの智力至上主義への「反抗的」な立場に立脚していたから「反省するやうな餘裕」もなく碌な論理的反証もないのに反論挑んだという。しかし勿論、そこには先生の側の告白欲求に関わるところの、御嬢さんへの恋情という個別的事実から帰納された「異性間の恋情を抱いてこそ人間が人間らしくなる」という自己弁護的要請が影響しているわけであるから、それが勢い情熱的で非論理的、そうして何より自己弁護的なものとならざるを得ず、そうして自己の卑俗な(という衒いの意識が先生にあることは既に先生が第(八十三)回で述べている)恋情肯定への言い訳に過ぎないという後ろめたさから、先生は「成程後から考へれば、Kのいふ通りでした」と後日思い至ることになるのである(これは遺書執筆時の「後から考へれば」では決してない。これはこの房州行から帰った直後の近未来での感懐を指していよう)。

 

♡「するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。―君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。」この部分は字の文が殆んど二人の直接話法化している。後の部分も含めてここだけ脚本に直してみよう。

 

 

○安宿の一室。深更。

 K、気色ばんで先生を睨みながら、

K 「俺のどこが人間らしくないと言うんだ?」

 先生、Kをしっかと見つめながら、

先生「……君は人間らしいんだよ! あるいは人間らし過ぎるのかも知れないんだ! だけど、口先では、人間らしくないようなことばかり、言っているんだ! いや、また、人間らしくないように、振る舞おうとさえ、してるんだ!……」

 暫し、沈黙。K、ゆっくりと頭(こうべ)を垂らして、一変して声を落とし、

K 「俺は……俺はまだ、自分の修養が足りない……だから、人にはそう見えるかも知れん……」

 再び、沈黙。――ジィ――という二人の間に置かれた灯明の音。

 先生、手にした団扇でパンと軽く蚊を叩く。張り合いを失った先生は、懐柔するように直前の日蓮の話に話題を戻そうとする。

先生「……うん……いや……すまん……そう、日蓮、そうだった。日蓮の『立正安国論』、あの『禪天魔、念仏無間、律国賊』ってえのは凄いな……なかなか言えん……それでもって天皇まで日蓮宗化しようという……化け物(もん)みたような凄い話だな……」

 K、答えない。また暫し、沈黙。また――ジュ――という灯明の音。

 K、如何にも意気消沈して、打ちひしがれた声で、しかし恨みがましくはなく、

K 「……もしお前が……俺が知っている通りに、昔の無名の聖人や行者のことを知ったなら……お前はさっきのような的外れの攻撃は……決してしないだろう……」

 沈黙。

K 「……俺がどのくらい……その精進のために苦しんでいるか……それがお前に解ってもらえないのは……如何にも……如何にも残念だ。」

 先生、再び手にした団扇でパン! パン! と自分の胸を左右に叩いて、

先生「さあ、もう遅いぜ。明日は、また歩くぞ!」

 と、さっさと横に敷かれた御座に横たわり、Kに背を向ける。

 膝を見つめていたK、先生の方を見、ゆっくりと灯明に手を伸ばし、フッ! と吹き消す。

 

先生のナレーション『Kと私とはそれぎり寝てしまいました。』

 

 

♡「反駁(はんぱく)」このルビは底本画像では「は」か「ば」か「ぱ」か、印刷が不鮮明なために不詳であるが、底本の『東京朝日新聞』(7月17日(金)掲載)と『大阪朝日新聞』(7月18日(日)掲載)の校異欄に『「反駁(はんばく)」→「反駁(はんはく)」』とあることから本来の正しい読みである「はんばく」であることが分かる。但し、「心」の原稿は「はんぱく」である。

 

♡「悵然」悲しみ嘆くさま。がっかりして打ちひしがれる様子を言う。

 

♡「私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐた事をこゝに自白します。」ここは単行本で以下の通り、書き直されている。

 

私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ事をこゝに自白します。

 

日本語の構文上、この変更はやや正しい。厳密に言えば、完全に正しいものとするためには更に補正する必要がある。

 

×「私にそれが出來なかつたのは、~があつたため、~の勇氣が私に缺けてゐた→事をこゝに自白します。」

 

△「私にそれが出來なかつたのは、~があつたため、~の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ→事をこゝに自白します。」

 

○「私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたからであったといふ事をこゝに自白します。」

 

但し、本文の初期形でも意味は十二分に達する。

 

♡「私のいふ氣取るとか虛榮とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです」これは第(八十三)回に示されたその頃の男子学生の間では「女に關して立ち入つた話などをするものは一人もありませんでした。中には話す種を有たないのも大分(だいぶ)ゐたでせうが、たとひ有つてゐても默つてゐるのが普通の樣でした。比較的自由な空氣を呼吸してゐる今の貴方がたから見たら、定めし變に思はれるでせう。それが道學の餘習なのか、又は一種のはにかみなのか、判斷は貴方の理解に任せて置きます」と言った先生の言葉を直に受ける表現である。先生は、この時、何故御嬢さんへの恋を友人Kに告白出来なかったのかについて、当時の日本的風土・教育の中で培われた儒教道徳や、色恋沙汰を恥ずかしいもの・卑俗軟弱なものとする男尊女卑的傾向若しくは青春期特有のバンカラ気質のようなものが、当時の先生達の一般的心性としてあったからであり、決して私(=先生)個人の性癖としての気障なポーズでも、格好しい、エゴイスティクな格好つけのためでもなかった、ということだけは「私」に理解して欲しい、そうしてもらえるだけで満足である、と言っているのである。

 

♡「二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました」また「ぐる/\」の円運動、しかし、ここではKも一緒である。こうしたちょっとしたことが、この円運動が単なる先生のシンフォニックな心の動きだけを意味しているのでは、ない、と感じさせるところなのでもある。

 

♡「兩國へ來て、暑いのに軍鷄を食ひました。Kは其勢で小石川迄步いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が强いのですから、私はすぐ應じました」この何気ない部分が今回、先生のようにぐるぐる考えるうちに気になりだした。何故、暑いのに軍鶏なのか? まず「軍鷄」から注しておこう。ウィキの「軍鶏」から引用する。『軍鶏(シャモ)はタイ原産の闘鶏用、観賞用、食肉用のニワトリの一種。シャモの名は当時のタイの呼称シャムに由来する』。『日本には江戸時代初期までには伝わっていた。各地で飼育され多様な品種が生み出された。 また、沖縄方言ではタウチーと呼ぶが、台湾でも同じように呼ばれており、昔から台湾(小琉球)と沖縄(大琉球)の間に交流があったことの裏づけとなっている』。『タイでは闘鶏が広く行われ文化として根付いている。2004年にタイでも鳥インフルエンザが流行し、感染地域ではシャモにも処分命令が下りた。農家では長い年月をかけて交配し強いシャモを育て上げてきただけに大きな打撃となった』。『江戸時代の頃から廃用になった軍鶏を軍鶏鍋として食べたことでもわかるように、食用としても優れた特質を持つ。戦いのために発達した軍鶏の腿や胸の筋肉には、ブロイラーにはない肉本来のうまみがあり、愛好者は多い。現在では闘鶏の衰退により軍鶏の数自体が減ってきており、高級食材となっている』。実際、当時、この両国辺には何軒もの軍鶏を食わせる店があったと諸注にはある。『軍鶏の激しい気性から、気の短い人、けんかっ早い人の喩え、徒名につかわれる』。どうも気になるのだ……軍鶏の激しい気性……闘鶏……それを食った直後にKは「其勢で小石川迄歩いて歸らうと」先生に挑戦する……「體力から云へばKよりも私の方が強い」と誇る先生はそれに、おう! とすぐさま応ずるのである……これは最早、「軍」(いくさ)でなくて、何であるか?!……もう一点付け加えておこう――。「體力から云へばKよりも私の方が強い」は「字の拙いK」に続き、またしてもKのデメリット表現である。先生が見上げなければならないほどの大男であるが、先生の方がKより『体力は強い』のである。今、これをお読みのあなた、どこかで文弱のひ弱でハンサムな先生をイメージしていなかったかな? 先生は極めて強靭な肉体の持主なのである。病気一つしない――肉体的には、ね――]

2010/07/16

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月16日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十四回

Kokoro15_3   先生の遺書

   (八十四)

 「斯んな風にして步いてゐると、暑さと疲勞とで自然身體(からだ)の調子が狂つて來るものです。尤も病氣とは違ひます。急に他(ひと)の身體の中へ、自分の靈魂が宿替(やどかへ)をしたやうな氣分になるのです。私は平生(へいせい)の通りKと口を利きながら、何處かで平生の心持と離れるやうになりました。彼に對する親しみも憎しみも、旅中限りといふ特別な性質を帶びる風になつたのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、又步行のため、在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來たのでせう。其時の我々は恰も道づれになつた行商のやうなものでした。いくら話をしても何時もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題には觸れませんでした。

 我々は此調子でとう/\銚子迄行つたのですが、道中たつた一つの例外があつたのを今に忘れる事が出來ないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊といふ所で、鯛の浦を見物しました。もう年數も餘程經つてゐますし、それに私には夫程興味のない事ですから、判然(はんぜん)とは覺えてゐませんが、何でも其處は日蓮(につれん)の生れた村だとか云ふ話でした。日蓮(にちれん)の生れた日に、鯛が二尾(び)、磯に打ち上げられてゐたとかいふ言傳へになつてゐるのです。それ以來村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至つたのだから、浦には鯛が澤山ゐるのです。我々は小舟を傭(やと)つて、其鯛をわざ/\見に出掛けたのです。

 其時私はたゞ一圖に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫がかつた鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。然しKは私程それに興味を有ち得なかつたものと見えます。彼は鯛よりも却つて日蓮の方を頭の中で想像してゐたらしいのです。丁度其處に誕生寺といふ寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでせう、立派な伽藍でした。Kは其寺に行つて住持に會つて見るといひ出しました。實をいふと、我々は隨分變な服裝(なり)をしてゐたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠(すげがさ)を買つて被つてゐました。着物は固より雙方とも垢じみた上に汗で臭くなつてゐました。私は坊さんなどに會ふのは止さうと云ひました。Kは强情だから聞きません。厭なら私丈外に待つてゐろといふのです。私は仕方がないから一所に玄關にかゝりましたが、心のうちでは屹度(きつと)斷られるに違ひないと思つてゐました。所が坊さんといふものは案外丁寧なもので、廣い立派な座敷へ私達を通して、すぐ會つて吳れました。其時分の私はKと大分考へが違つてゐましたから、坊さんとKの談話にそれ程耳を傾ける氣も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いてゐたやうです。日蓮は草(さう)日蓮と云はれる位で、草書が大變上手であつたと坊さんが云つた時、字の拙(まづ)いKは、何だ下らないといふ顏をしたのを私はまだ覺えてゐます。Kはそんな事よりも、もつと深い意味の日蓮が知りたかつたのでせう。坊さんが其點でKを滿足させたか何うかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向つて日蓮の事を云々し出しました。私は暑くて草臥(くたび)れて、それ所ではありませんでしたから、唯口の先で好い加減な挨拶をしてゐました。夫も面倒になつてしまひには全く默つてしまつたのです。

 たしかその翌る晩の事だと思ひますが、二人は宿へ着いて飯を食つて、もう寢やうといふ少し前になつてから、急に六づかしい問題を論じ合ひ出しました。Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事に就いて、私が取り合はなかつたのを、快よく思つてゐなかつたのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だと云つて、何だか私をさも輕薄ものゝやうに遣り込めるのです。ところが私の胸には御孃さんの事が蟠(わだか)まつてゐますから、彼の侮蔑に近い言葉をただ笑つて受け取る譯に行きません。私は私で辯解を始めたのです。

Line_2

 

[♡やぶちゃんの摑み:2010年の今日、7月16日(金)の風光は正に先生とKが見上げたのと同じ夏の空である――「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」の初出にして日蓮に強く惹かれているKが印象的に描写される。それにしても、この冒頭一段落は読者に先生の御嬢さんへの恋のKへの告白を予想させるに十分な内容で、「急に他の身體の中へ、自分の靈魂が宿替をしたやうな氣分」になった「私は平生の通りKと口を利きながら、何處かで平生の心持と離れるやうにな」った、「彼に對する親しみも憎しみも、旅中限りといふ特別な性質を帶びる風になつた」、「つまり二人は」「在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來た」、「何時もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題」ではなく、旅に出る前から蟠っていた御嬢さんへの思いをKに語ってKに対する疑心暗鬼を払拭してしまおうという存分の「心」の丈を吐き出すに相応しい状態にあったと言っているのである。そして――漱石はそれを美事に裏切るのである。

 

□Kの実家=浄土真宗の寺院~親鸞~浄土三部経~作善否定・絶対他力・肉食妻帯(非僧非俗)・悪人正機

■Kの興味=日蓮~法華経~「立正安国論」~他宗を排撃、国教化し正法(しょうぼう)の仏国土を実現する~強烈な排他主義と独立独歩の自律性

 

なお、私はこのKの実家が浄土真宗で、その息子が強烈に日蓮に関心を向けているという関係が、後の宮沢賢治の父親と賢治との実際の関係を髣髴とさせていて極めて興味深いと考えている者である。

 

♡「小湊」旧千葉県安房郡小湊町大字内浦。現在、合併により鴨川市。

 

♡「鯛の浦」千葉県鴨川市旧安房小湊町の内浦湾から入道ヶ崎にかけての沿岸部の海域をこう呼称している。日蓮絡みで妙の浦とも呼ばれ、奇瑞に事欠かぬ日蓮の伝説を元とする。次注で見るようにここ小湊は日蓮誕生の地であるが、日蓮誕生の貞元元(1222)年2月16日には、この浦に近い淵に青蓮華が咲き、浦に大小の鯛が無数に集まったという。また、立宗後の日蓮が祖霊の供養に帰郷した折り、この浦に舟で漕ぎ出し、海に対して南無妙法蓮華経の題目を唱えたところ、波の上にその字が現れたかと思うと、無数の鯛が群れ寄って来、その題目の字を厳かに食べ尽くした。漁民はその奇瑞を畏敬して向後、鯛を日蓮上人の写し身として尊崇、この浦を殺生禁断の聖地としたという。この鯛の浦は水深10mから30mの浅海域であって、通常の深海性回遊魚であるスズキ亜目タイ科マダイ亜科マダイ Pagrus major がこのような海域に固定して生息する例は世界的にも稀であり、永く魚類学会でも謎とされ、文化庁は昭和421967)年にはこの浦の鯛を特別天然記念物に指定している。最近の研究により、この浦のマダイが鯛の浦一帯から外延の小湊湾一円にかけての限定された浅海域で特異的に孵化・成長・産卵のライフ・サイクルを形成していることが分かってきた(以上は主に「鯛の浦遊覧船(南房総・鴨川小湊)」HP内の記載を参考にした)。私は小学校の4、5年生の時に祖母を連れた両親との御宿への旅の途中で訪れている。40年以上の少年の日の記憶であるが――この遊覧船に乗って、船端を叩いただけで(餌を投じる前に)青い海のそこから、紅色に虹の色を交えて輝くマダイが正に舞い踊るように何匹も何匹も湧き上がって来る――私は、その様をその際の驚きと共に昨日の事のように覚えているのである。だから私にはこの「其時私はたゞ一圖に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫がかつた鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました」という先生に恐らく誰よりも同一化出来るという自信があるのである(なお、この先生の描写は勿論、漱石自身の実体験としての驚きであった。『木屑録』に詳しい)。その頃から、海の生物は好きだった。序でに言うと、その遊覧船から戻って鯛の浦の岩場で父と磯の生物観察をしたが、妙に父が私のために張り切って、小さなバケツを片手にエビやら貝やらを探している内に、漁協の人に密漁者と疑われてしまったのであった。僕の前で、漁師にお灸を据えられている父が、僕の人生の記憶の中で、最も同情し、可哀想に思った父の姿であった。

 

♡「誕生寺」小湊山誕生寺。現在の千葉県鴨川市小湊183に所在する日蓮宗大本山。『1276年(建治2年)10月、日蓮の弟子の日家が日蓮の生家跡に、高光山日蓮誕生寺として建立。しかし、その後、1498年(明応7年)、1703年(元禄16年)の2度の大地震、大津波に遭い、現在地に移転された』。『その後、26代日孝が水戸光圀の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称したが、1758年(宝暦8年)に、仁王門を残して焼失し、1842年(天保13年)に49代目闡が現存する祖師堂を再建した』。『江戸時代の不受不施派(悲田宗)禁政のため幕命により天台宗に改宗するところだったが身延山が日蓮誕生地の由緒で貰いうけ一本山に格下げ(悲田宗張本寺の谷中感応寺、碑文谷法華寺は天台宗に改宗された。現谷中天王寺、碑文谷円融寺)。昭和21年大本山に復帰』している。先生が立派な伽藍と言っているが、現在も古形を残す仁王門と祖師堂を指して言っているものと推測される。仁王門は『1706年(宝永3年)建立。平成3年大改修。入母屋造二重門、間口8間(柱間は五間三戸)。宝暦の大火の際焼け残った誕生寺最古の建造物。両側の金剛力士(仁王)像は松崎法橋作。楼上の般若の面は左甚五郎作とされる。千葉県指定有形文化財』で、祖師堂は『1842年(天保13年)建立。入母屋造、総欅造り雨落ち18間4面(柱間は正面7間、側面6間)。高さ95尺。建材は江戸城改築用として、伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難し、譲りうけたもの。日蓮像が安置される。聖人像が安置される御宮殿は明治皇室大奥の寄進による。堂内右側の天井には南部藩の相馬大作筆による天女の絵が描かれ』ている、とある(以上はウィキの「誕生寺」より引用)。最初に建立されたのは日蓮生誕の邸の跡地で、現在より鯛の浦にもっと近い位置であったと考えられている。

 

♡「字の拙いK」「其癖彼は海に入るたんびに何處かに怪我をしない事はなかつた」(八十二)の不器用さのように、先生は時々さりげなくKの短所を小出しするので注意して拾っておきたい。そしてこの叙述により、逆に先生は達筆であることが暗に示されているとも言えよう。

 

♡「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」Kの『絶対』の信条であり、これが後にKに対する致命的な先生の最終兵器としておぞましくも使用されることになる以上、本作最大のキー・ワードの一つとして記憶しなくてはならぬ台詞である。さて、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏はここに注して以下のように述べておられる。

 

   ≪引用開始≫

 

 こうした言葉を吐けるからには、まだこの時のKは、情にゆさぶられることで「確然不動の精神」を目指すみずからの智的・自力的修養にヒビが入ったとは思っていないようだ。また客観的にも、まだこの時点ではヒビを証するなにものもないことも確か。いつもとは少し様子の違うKのこうした攻撃的な態度から、先生だけでなくKも、非日常的な雰囲気の中で気持ちが高ぶっていたらしいことがうかがわれる。

 

   ≪引用開始≫

 

最初に注意しておくと、ここで藤井氏が「確然不動の精神」と鍵括弧で示しておられるのは「こゝろ」(「心」)の本文からの引用ではない。これは氏が第(七十六)回相当の「意志の力を養つて強い人になるのが自分の考だ」の部分に注した際、Kのこの考え方に近いとして引用されている浄土真宗(というのはちと皮肉な気が私はするが)の僧前田慧雲の「修養と研究」(井洌堂明治381905)年刊)の中に現れてくる言葉である。そこだけを引用すると、『前田は、収容・求道によって、どんな時にも心が微動だにすることのない「確然不動の精神」に到達することを最終目標としているが、修養の方法は智的(自力)修養と情的(他力)修養とに分けられるとしており、前者のスタイルがそれに近い。「お互各自に其智識を研いて、宇宙万有の真理を達観し、自己日常の行為を真理の定規から脱しない様に当て嵌めて其無限絶大の真理に合体せんと力める」というのが前田が下した智的修養の定義』であると纏められている、その「確然不動の精神」であるからお間違いなく。

 

話を本筋に向ける。私はこの藤井氏に見解に微妙に異義を唱えたいのである。私は既に前章で述べた通り、この時点で

 

Kの御嬢さんへの恋情は芽生えている

 

その結果として、

 

Kの心中での求道と恋愛の葛藤は既にして始まっている

 

と判断している。勿論、藤井氏の言う通り、先生の叙述を見る限りに於いては『「確然不動の精神」を目指すみずからの智的・自力的修養にヒビが入ったとは思っていないよう』に見え、『また客観的にも、まだこの時点ではヒビを証するなにものもないことも確か』なように見える。しかし、それは見た目の、それも極めて物証として心もとない先生の見た目の、数少ない客観的描写部分のみから(先生の疑心暗鬼に少しでも関わる部分は証拠価値がない)推測されることでしかなく、私は藤井氏のように『確か』と言い切ることは逆立ちしても出来ないと断言出来る。確かに「ヒビ」は入れていないかもしれない――入れていないが、寧ろ、既にそうした恋愛感情が自己の内に実在することがKの信念に――微細な揺さぶりをかけ始めている――が故にこそ、Kは「丁度好い、遣つて吳れ」=「――実は――正しく今の自分は――このままこの断崖をお前に突き落とされて死んでもいいぐらいに、己れの信条を裏切りしつつあるのかも知れぬな――だから――ちょうどいい――やってくれ――」という台詞が吐かれたのではなかったか?!――「足がある以上、歩け!」と自己を叱咤したのではなかったか?!――小蠅のように彼の脳髄に纏わりつくオジョウサンバエを激しく振り払おうとして「孤高の人! 日蓮! 日蓮! 日蓮!」と心に唱え続けたのではなかったか?!――藤井氏の言葉を逆手に使わせて頂くならば、『いつもとは少し様子の違うKのこうした攻撃的な態度』とは『非日常的な雰囲気の中で気持ちが高ぶっていた』からではなくて、既ににしてこの解決不能の二項対立にKが気がつき、その自己の求道を裏切りしている、恋情を抱きつつある認められざる対自己へ向けての処罰性・批判性・攻撃性が、御嬢さんへの恋情を是が非でも払拭するためでもあるKの日蓮の談話に載ってこない先生へと代償的に向けられたものと解する方が、私は自然であると思うのである。何より、Kの御嬢さんへの恋情が、この房州行以降で突如として勃興するという設定自体が、非現実的で、何より非小説的、面白くなく、私には在り得ないこととしか感じられないのである。これは単に私が惚れっぽい性格だからだ、お前みたいなフニャフニャした男は逢う前から御嬢さんが好きになるだろうよ! と言われれば、はい、それまでのことでは、ある……]

2010/07/15

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月15日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十三回

Kokoro15_2   先生の遺書

   (八十三)

 「私は思ひ切つて自分の心をKに打ち明けやうとしました。尤も是は其時に始まつた譯でもなかつたのです。旅に出ない前から、私にはさうした腹が出來てゐたのですけれども、打ち明ける機會をつらまへる事も、其機會を作り出す事も、私の手際(てきは)では旨く行かなかつたのです。今から思ふと、其頃私の周圍にゐた人間はみんな妙でした。女に關して立ち入つた話などをするものは一人もありませんでした。中には話す種を有たないのも大分(だいぶ)ゐたでせうが、たとひ有つてゐても默つてゐるのが普通の樣でした。比較的自由な空氣を呼吸してゐる今の貴方がたから見たら、定めし變に思はれるでせう。それが道學の餘習なのか、又は一種のはにかみなのか、判斷は貴方の理解に任せて置きます。

 Kと私は何でも話し合へる中でした。偶には愛とか戀とかいふ問題も、口に上らないではありませんでしたが、何時でも抽象的な理論に落ちてしまふ丈でした。それも滅多には話題にならなかつたのです。大抵は書物の話と學問の話と、未來の事業と、抱負と、修養の話位(くらゐ)で持ち切つてゐたのです。いくら親しくつても斯う堅くなつた日には、突然調子を崩せるものではありません。二人はたゞ堅いなりに親しくなる丈です。私は御孃さんの事をKに打ち明けやうと思ひ立つてから、何遍齒搔ゆい不快に惱まされたか知れません。私はKの頭の何處か一ケ所を突き破つて、其處から柔らかい空氣を吹き込んでやりたい氣がしました。

 貴方がたから見て笑止千萬な事も其時の私には實際大困難だつたのです。私は旅先でも宅にゐた時と同じやうに卑怯でした。私は始終機會を捕へる氣でKを觀察してゐながら、變に高踏的な彼の態度を何うする事も出來なかつたのです。私に云はせると、彼の心臟の周圍は黑い漆で重く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎ懸けやうとする血潮は、一滴も其心臟の中へは入らないで、悉く彈き返されてしまふのです。

 或時はあまりにKの樣子が强くて高いので、私は却つて安心した事もあります。さうして自分(しぶん)の疑ひを腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間のやうに見えて、急に厭な心持になるのです。然し少時(しばらく)すると、以前(いせん)の疑ひが又逆戾りをして、强く打ち返して來ます。凡てが疑ひから割り出されるのですから、凡てが私には不利益でした。容貌もKの方が女に好かれるやうに見えました。性質も私のやうにこせ/\してゐない所が、異性には氣に入るだらうと思はれました。何處か間が拔けてゐて、それで何處かに確(しつ)かりした男らしい所のある點も、私よりは優勢に見えました。學力(がくりき)になれば專問こそ違ひますが、私は無論Kの敵でないと自覺してゐました。―凡て向ふの好(い)い所丈が斯う一度に眼先へ散らつき出すと、一寸安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。

 私達は三四日して北條を立ちました。Kは落ち付かない私の樣子を見て、厭なら一先(まづ)東京へ歸つても可(い)いと云つたのですが、さう云はれると、私は急に歸りたくなくなりました。實はKを東京へ歸したくなかつたのかも知れません。二人は房州の鼻を廻つて向ふ側へ出ました。我々は暑い日に射られながら、苦しい思ひをして、上總の其處一里に騙されながら、うん/\步きました。私にはさうして步いてゐる意味が丸で解らなかつた位です。私は冗談半分Kにさう云ひました。するとKは足があるから步くのだと答へました。さうして暑くなると、海に入つて行かうと云つて、何處でも構はず潮へ漬りました。その後を又强い日で照り付けられるのですから、身體が倦怠(だる)くてぐた/\になりました。

Line

 

[♡やぶちゃんの摑み:『先生のぐるぐる』である。先生のKへの圧倒的な劣等感が被害妄想となって典型的な自己劣勢自己卑小化へと向かうシーンである。ある時は、

 

○Kの孤高にして崇高な姿に安心すると同時に自分の疑いを後悔すると共に、心中でKに詫びることさえあった

↓(そして)

○詫びながら自分が如何にも非常に下等な人間に見え、自己嫌悪に陥った

↓(ところが暫くすると逆に)

×Kの御嬢さんへの特異感情や二人の関係への猜疑が増殖し始める

↓(すると不安と自己の劣等性が絵巻物のに広がってゆく)

×Kの容貌も自分よりも女に好かれるタイプのように見える

×Kの人格も私のようにこせこせしていない点で異性には好まれるに違いない

×Kの人柄は何処かちょっと間が抜けて見えるのだが、それでいてそれでまた何処かしっかりした男らしい所がある点でも自分より対女性間にあっては優勢に見える

×Kの明晰な頭脳は最早私など敵ですらない

 

という自覚を明確に持ってしまう先生である。私は先生に問いたい。――では「Kの容貌」の何処が女心をくすぐるのか――先生は言えない。――「性質も私のやうにこせ/\してゐない」とあるが先生は自他共に認めるところの「こせ/\してゐない」「鷹揚」な性質であるはずではなかったか?――先生は返答出来ない。――Kは海に入っても必ず怪我をしてくるような不器用で「間が拔け」た男である。その何処が「確(しつ)かりした男らしい所」なのか――先生ははっきりと示すことが出来ない。――「專問」が異なる以上、一概に比較出来ないと先生御自身が言っているのに、しかし「Kの敵でないと自覺」する程、先生、あなたの「學力」は貧しくレベルの低いものだったのですか?――先生は怒って反論するだろう。これは最早、病的である。

 なお、この連載当日の日付の東京朝日新聞社内山本松之助宛書簡が残されている(底本は岩波版旧全集の書簡番号一八四八。文中「單單」「何うが」の右に「原」のママ表記。〔 〕は全集編者による補正)。

 

七月十五日 水 午後三時―四時 牛込區稻田南町七番地より 京橋區瀧山町四番地東京朝日新聞社内山本松之助へ

旅行先より御歸京のよしたまの骨休めも嘸かし御忙がしい事と存じます小說についての御教示は承知致しました。可成「先生の遺書」を長く引張りますが今の考ではさう/\はつゞきさうもありません、まあ百回位なものだらうと思ひます、實は私は小說を書くと丸で先の見えない盲目と同じ事で何の位で済むか見當がつかないのです夫で短篇をいくつも書といつた廣告が長篇になつたやうな次第です、「先生の遺書」の仕舞には其旨を書き添へて讀者に詫びる積で居ります。斯うして考へてゐると至極單單なものが原稿紙へ向ふといやにごた/\長く〔な〕るのですから其邊は御容赦を願ひます。

 つぎの人に就ては別段どんな若手といふ希望をもつた人も差當りあ〔り〕ません、志賀の斷り方は道德上不都合で小生も全く面喰ひましたが藝術上の立場からいふと至極尤もです。今迄愛した女が急に厭になつたのを强ひて愛しふりで交際をしろと傍からいふのは少々殘酷にも思はれます。

 谷崎、田村俊子、岩野泡鳴、數へると名前は出て來ますが一向纏まりません、猶よく考へませうがあなたの方で何うが御擇を願ひます 先は右迄 勿々

 

  七月十五日        夏目金之助

 

   山本松之助様

 

 十三日の朝日にケーベルさんを停車場に送つて行つたやうな事を川田君が書きましたがどうした間違でせう。私は今夜ケーベルさんの所へ晩餐に呼ばれてゐます。先生は来月十二日頃船で歸るのです。

 

♡「道學の餘習」封建的儒教道徳の残滓。

 

♡「以前の疑ひが又逆戾りをして、强く打ち返して來ます」「以前の疑ひ」は直接に前章の「私は自分の傍に斯うぢつとして坐つてゐるものが、Kでなくつて、御孃さんだつたら嘸愉快だらうと思ふ事が能くありました」「が、時にはKの方でも私と同じやうな希望を抱いて岩の上に坐つてゐるのではないかしらと忽然疑ひ出すのです」という部分及び「彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです」という疑心暗鬼へと先生の心が「又逆戻りをして、強く打ち返して來」る、ぐるぐると例の円運動で戻ってゆく、ということを指している。

 

♡「私達は三四日して北條を立ちました。」単行本「こゝろ」では丸ごと削除されている。前章の変更を受けたもの。

 

♡「上總の其處一里」江戸の浮世絵師安藤広重の句に、

 

菜の花やけふも上總のそこ一里

 

という句があるが、この句に関わって鋸南町の公式HP内「町報歴史資料館」のページに以下の記載がある。

 

   《引用開始》

嘉永5年(1852)2月25日から3月7日、広重56歳、再び房総旅行に出ました。まず鹿野山を参詣してから外房に出て、小湊誕生寺、清澄山を訪れた後、江見和田を通って内房に出ました「(三月五日)朝、画少認夫より馬にて那古まで行く、道間違にて田舎道一里程そん木の根坂峠の風景よし、一部の宿昼休、又また馬にて行く勝山風景よし、保田羅漢寺参詣(日本寺)、金谷の宿泊、房州の人六人相宿、不計図画のことあり、大勢色々雑談あり、其夜雨、朝まで降」

 金谷の宿で旅の夜長、相部屋の旅人と絵について熱心に語り合っている広重。この時の旅のスケッチから「房州保田の海岸」をはじめ多くの傑作版画が生まれました。

 翌日、天神山村(竹岡)から木更津までの乗合船は雨で欠航、しかたなく大急ぎで陸路、木更津まで向かいましたが、一足違いで江戸行きの船には間に合いませんでした。「葉桜や木更津船ともろともに乗りおくれてぞ眺めやりけり 菜の花やけふ(今日)も上総のそこ一里」

 これは日記に書かれたこの時の広重の心情を詠んだ句です。急ぐ広重が行き交う村人に木更津までの道のりを尋ねると、行けども行けども「そこ一里だよ」という答えしか返ってきません。「そこ一里」とは上総地方独特のあいまいな距離表現で、あと少しという意味だそうで、それを知らない広重の憤慨した顔が目に浮かぶようです。

   《引用終了》

 

♡「私にはさうして步いてゐる意味が丸で解らなかつた位です。私は冗談半分Kにさう云ひました。するとKは足があるから步くのだと答へました」この先生とKの呼びかけと応答(コール・アンド・レスポンス)は冗談半分の軽口なんどではない。立派な禪問答である。

 

先生「斯くも呻吟し步(あり)く事、此れ、作麼生(そもさん)何の所爲ぞ!?――」

 

K 「何が爲にてもあらず。足有り。故に步く。」

 

少なくともKにとっては確かにそうしたものとして発せられた禪語である。]

2010/07/14

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月14日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十二回

Kokoro15_18   先生の遺書

   (八十二)

 「Kはあまり旅へ出ない男でした。私にも房州は始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田(ほた)とか云ひました。今では何んなに變つてゐるか知りませんが、其頃は非道い漁村でした。第一(だいち)何處も彼處(かしこ)も腥(なまぐ)さいのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦り剝(む)くのです。拳のやうな大きな石が打ち寄せる波に揉まれて、始終ごろ/\してゐるのです。

 私はすぐ厭になりました。然しKは好(い)いとも惡いとも云ひません。少なくとも顏付丈は平氣なものでした。其癖彼は海に入(はひ)るたんびに何處かに怪我をしない事はなかつたのです。私はとうとう彼を說き伏せて、其處から北條(ほうでう)に行きました。北條と館山は重(おも)に學生の集まる所でしたさういふ意味から見て、我々には丁度手頃の海水浴塲だつたのです。Kと私は能く海岸の岩の上に坐つて、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。岩の上から見下す水は、又特別に綺麗なものでした。赤い色だの藍の色だの、普通市塲(しぢやう)に上らないやうな色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでゐるのが鮮やかに指さゝれました。

 私は其處に坐つて、よく書物をひろげました。Kは何もせずに默つてゐる方が多かつたのです。私にはそれが考へに耽つてゐるのか、景色に見惚(みと)れてゐるのか、若しくは好きな想像を描いてゐるのか、全く解らなかつたのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしてゐるのだと聞きました。Kは何もしてゐないと一口答へる丈でした。私は自分の傍(そば)に斯うぢつとして坐つてゐるものが、Kでなくつて、御孃さんだつたら嘸(さぞ)愉快だらうと思ふ事が能くありました。それ丈ならまだ可(い)いのですが、時にはKの方でも私と同じやうな希望を抱いて岩の上に坐つてゐるのではないかしらと忽然疑ひ出すのです。すると落ち付いて其處に書物をひろげてゐるのが急に厭になります。私は不意に立ち上ります。さうして遠慮のない大きな聲を出して怒鳴ります。纏まつた詩だの歌だのを面白さうに吟ずるやうな手緩(てぬる)い事は出來ないのです。只野蠻人の如くにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸を後(うしろ)からぐいと攫(つか)みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向(うしろむき)の儘、丁度好い、遣つて吳れと答へました。私はすぐ首筋を抑へた手を放しました。

 Kの神經衰弱は此時もう大分可(よ)くなつてゐたらしいのです。それと反比例(はんひれい)に、私の方は段々過敏になつて來てゐたのです。私は自分より落付いてゐるKを見て、羨ましがりました。又憎らしがりました。彼は何うしても私に取り合ふ氣色を見せなかつたからです。私にはそれが一種の自信の如く映りました。然しその自信を彼に認めた所で、私は決して滿足出來なかつたのです。私の疑ひはもう一歩前へ出て、その性質を明らめたがりました。彼は學問なり事業なりに就いて、是から自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になつたのだらうか。單にそれ丈ならば、Kと私との利害に何の衝突の起る譯はないのです。私は却て世話のし甲斐があつたのを嬉しく思ふ位(くらゐ)なものです。けれども彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです。不思議にも彼は私の御孃さんを愛してゐる素振(そふり)に全く氣が付いてゐないやうに見えました。無論私もそれがKの眼に付くやうにわざとらしくは振舞ひませんでしたけれども。Kは元來さうふ點にかけると鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫(だいぢやうふ)といふ安心があつたので、彼をわざ/\宅へ連れて來たのです。

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やぶちゃんの摑み:ここから4章分が先生とKの印象的な房州ロケとなる。連載中、作中の季節と読者の時制が最も近似する摑みの時間でもある。――概ねハレーション気味の写真に海の音(おと)蝉や虫の音(ね)のSEが被り――最も鮮烈な「丁度好い、遣つて吳れ」や誕生寺での日蓮絡みのエピソード、旅宿の夜の二人の会話シーン等、何れをとっても写欲をそそる魅力的なシークエンスである。私はこの旅行を明治331900)年の7月下旬か8月と推定している。その行程の概略(推定を含む。その推定根拠となる漱石の実際の房州行は後掲)を見ておこう。

 

霊巌島〔推定〕

↓〈船~三浦半島横須賀・浦賀経由便か〔推定〕〉

保田

富浦

↓〈徒歩(以下同じ)〔推定〕〉

那古(K「丁度好い、遣つてくれ」)

房州の鼻

小湊/鯛の浦/誕生寺(Kの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という台詞)

銚子

↓〈この間、一部川舟を利用した可能性がある〉

両国(軍鶏を食う)

小石川中富坂町

 

この旅行のモデルとなったのは、漱石23歳、第一高等中学校本科第一学年夏季休業中の明治231889)年8月7日(水)から8月30日(金)迄の23日間に及ぶ房州・上総・下総の旅行である(以下、主に集英社昭和491974)年刊の荒正人「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」に拠る)。同行者は複数の学友で豊後出身の川関(イニシャルが「K」である!)や井原市次郎ら。荒氏の推定を含む行程を以下に示す。

 

霊巌島〔推定〕

↓〈船~横浜や三浦半島横須賀・浦賀経由便か。約5時間の行程。〔推定〕〉

保田(数日滞在、海水浴をする。絶句数種を試作、正岡子規から手紙を受け取る)

鋸山(眺望絶佳。中腹にある日蓮宗日本寺に参堂して瞑想、漢詩「君不見鋸山」(『木屑録』(ぼくせつろく)本文文中に所収)の吟あり)

↓〈房州南部の旧道を横断したか若しくは

↓ 半島南部を廻ったか若しくは

↓ 船を利用したか〉

小湊/鯛の浦/誕生寺

東金(漢詩「自東金至銚子途上口號」(『木屑録』所収)の吟あり)

犬若(千葉県海上郡神村犬若。銚子附近の村。ここの旅宿「犬若館」に泊る〔推定〕)

↓(舟で利根川を遡る。漢詩「賃舟溯刀水舟中夢鵑娘鵑娘者女名非女也」

↓ (『木屑録』所収)の吟あり)

野田(この地の東方にある旅宿「三堀旗亭」に泊る。漢詩「天明舟達三堀旗亭卽事」

↓  (『木屑録』所収)の吟あり)

関宿

↓(江戸川を南下したか〔推定〕)

東京(牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)の夏目家自宅へ帰る)

 

漱石はこの頃、既に養家塩原家と縁組を解消し、復籍していた。また、これ以前、明治201986)年9月頃迄は自活の意識高く、私塾教師のアルバイトをしながら下宿をしていたが、その不潔な生活のために急性トラホームに罹患し、この頃は実家に戻っていた。

 

――どうです、如何にもKそのものではありませんか?――

 

なお、荒氏によれば、この実際の旅行自体に不明部分が多い。また荒氏は全行程を約360㎞と算定されている。

 

「保田」現在の千葉県安房郡鋸南町保田。ここの海岸には「房州海水浴発祥地」の碑があり、その由来は何と! 房州の海水浴は明治221988)年に夏目漱石が保田海岸で遊泳したのが最初だからだそうである! こんなところに「心」関連碑があるなんて! リンク先(「昭和の思い出・ちょっといい話、投稿募集中!懐かしネットワーク - まぼろしチャンネル」)も引用している『木屑録』から引いておく(底本は岩波版旧全集を用いた)。「心」の本箇所がこの実体験に基づくものであることが如実に分かる。

 

余自遊于房浴日鹹水少二三次多五至六次浴時故跳躍爲兒戲之狀欲健食機也倦卽橫臥熱砂上溫氣浸腹意甚適也如是者數日毛髮漸赭面膚漸黃旬日之後赭者爲赤黃者爲黑對鏡爽然自失

 

○やぶちゃんの書き下し文

 余、房に遊びてより、日々鹹水(かんすゐ)に浴す。少なきも二三次、多きは五六次に至る。浴する時は故(ことさら)に跳躍し、兒戲の狀を爲す。食機を健やかならしめんと欲すればなり。倦まば卽ち熱砂上に橫臥す。溫氣、腹に浸み、意、甚だ適なり。是くのごとき者(こと)、數日にして毛髮漸く赭(あか)らみ、面膚漸く黃ばむ。旬日の後(のち)、赭(しや)は赤と爲り、黃は黑と爲る。鏡に對し爽然として自失す。

 

「海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦り剝くのです。拳のやうな大きな石が打ち寄せる波に揉まれて、始終ごろ/\してゐるのです」ここに1994年刊の岩波版新全集で重松泰雄氏は注して『このような保田での先生の乱暴な海水浴の状況は、作品の冒頭におけるあの繁華で、文明化された海水浴場の光景といかにも鮮やかなコントラストをなす。ここにも、先生やKの時代と「私」など新しい青年たちの時代との明瞭な対比的構図があるといってよいだろう』(底本には「文明化」に傍点「ヽ」がある)とされる。同様に重松氏は第(五十八)回の先生の学生の頃の知人喧嘩沙汰の部分に注され、このような対比の構図は『先生の遺書ではこの後も反復して現れ』『そこには』学生の「私」が生きる『〈現代〉との対比の中で、〈自らの時代〉の固有性を浮かび上らせ、語り伝えんとする先生の姿勢が明瞭である。』と語っておられる。――『〈現代〉との対比の中で、〈自らの時代〉の固有性を浮かび上らせ、語り伝えんとする先生』――実に示唆に富む言葉ではないか。

 

「海に入るたんびに何處かに怪我をしない事はなかつた」Kは背は高いものの不器用である。運動は特に得意な方ではなさそうな印象である(但し、文弱タイプではない)。逆に先生は本作の冒頭やこの部分を見ても、少なくとも水泳は非常に得意である。逆に一見文弱タイプに見えながら、至って健康な肉体の持ち主であることは「こゝろ」の上パートでも十全に分かる。私のように酒を浴びるように呑むこともない。本作に特徴的な腎臓病からは最も遠く、私のような糖尿病からは最遠位にある。

 

「其處から北條に行きました。北條と館山は重に學生の集まる所でした。さういふ意味から見て、我々には丁度手頃の海水浴場だつたのです。」ここは極めて珍しく単行本では以下のように、大きく書き換えられている。

 

私はとう/\彼を說き伏せて、其處から富浦に行きました。富浦から又那古(なご)に移りました。總て此沿岸は其時分から重に學生の集まる所でしたから、何處でも我々には丁度手頃の海水浴場だつたのです。

 

「北條」は北条町のことで千葉県安房郡にかつて存在した町である。現在の館山市の中部に位置し、現在の内房線館山駅(実は現在の内房線館山駅は旧房総西線時代には安房北条駅であったが、昭和211946)年に改称している)がある地域で、館山町と並ぶ安房地域の拠点の一つであった。ここで先生の言う「館山」の方は館山町で、現在の館山市の中部の館山駅より南側の館山城寄りにあった町のことである。即ち、現在の館山は旧来は北条であり、館山とは別個な町であったのである。現在の館山市は昭和141939)年に新設合併によって誕生した市で、本当の館山町とは全く異なる自治体なのである。その辺りの自治体変更を以下に示す。

 

明治221889)年

町村制の施行により館山町・上真倉村・下真倉村が合併して館山町(初代)が発足した。

 

大正3(1914)年41

豊津村と合併し、改めて館山町(2代目)が新設される。(4月1日で本連載の3ヶ月前になる。即ち本連載時には未だ北条と館山は別個な町であったことが分かる)

 

昭和8(1933)年

北条町と合併、館山北条町が発足。同日館山町(2代目)は消滅した。

 

昭和141939)年

館山北条町が那古町及び船形町と合併し、館山市が新設され、同日北条という町名は消滅した。

 

(以上は主にウィキの「北条町」及び「館山町」の記載を参考にした)。なお、この単行本での書き換えは、この日の新聞連載を読んだ漱石の後輩である第一高等学校英語教師であった畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう 明治4(1871)年~大正121923)年:英語学者・文芸評論家。号は芥州。山形生。仙台二高から東京帝国大学、更に大学院に進み、その在学中に雑誌『帝国文学』に文芸批評を執筆、以降『太陽』『火柱』『明星』といった文芸雑誌に文芸評論を寄稿した。明治31(1898)年から一高の英語教師となり、その間、早稲田・青山学院等でも英語を教えた。明治411908)年以降は「大英和辞典」(昭和6(1931)年完成刊)の編纂に心血を注いだが、完成を見ずにに病没した。以上の事蹟は「朝日日本歴史人物事典」を参考にした。)が、本章の描写に違和感を覚え、漱石に地名の誤りではないかという手紙を出したことによるものと思われる。この連載日当日発信の漱石の以下のような葉書が残されている(底本は昭和421967)年刊の岩波版旧全集「第15卷 續書簡集」を用いた。旧全集書簡番号一八四七である)。

 

七月十四日 火 後一-二 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町十番地畔柳都太郞へ 〔はがき〕

 御注意ありがたう、私の見たのは房州のどこだらう、金谷とか那古とかいふ邊かも知れない。然しあれは想像ではありません、たしかに見たのです。沖の島とか鷹の島とかへ行けばあんなところがありますか一寸敎へて下さい

 

この文面からは、保田上陸の後、北条と館山という完全に隣接する地の殊更な移動への疑問以外に、「赤い色だの藍の色だの、普通市場に上らないやうな色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでゐるのが鮮やかに指さゝれ」るような「海岸の岩」場はあの辺りの海岸線にはない、という注意をも畔柳は指摘しているようにも思われる。この手紙で漱石が言及している「沖の島」及び「鷹の島」は共に現在の千葉県館山市南方の館山湾(鏡浦)にある。現在の海上自衛隊館山航空基地の西に沖ノ島が、同基地北東の角部分が高ノ島(国土地理院表記)である。沖ノ島は周囲約1㎞の小島で館山湾の南端に位置する砂洲によって繋がったトンボロ(陸繋島)である。但し、この陸繋島化は関東大震災によるものなので、本作の頃は陸から500m程離れた純然たる島であった。現在は海水浴場や約8000年前の縄文海中遺跡、更に世界的にも珍しい珊瑚の北限域の無人島として知られている。高ノ島(「鷹の島」)の方は完全に基地の東北部分に突き出た形で陸化しており、地図上では富士見という地名も与えられているが、これは昭和5(1930)年に大規模な埋立造成によってこの海軍館山航空隊が開隊された結果で、本作の頃はやはり館山港見下ろすような形の湾内に浮かぶ孤島であった。現在も平安時代に祀られたと伝えられる鷹之島弁財天があり、漁師や船員の信仰を集めている。海軍・海上自衛隊というのも故なきことでないという訳か。なお、これら館山周辺の仔細な地名を出しているところを見ると、漱石の実際の明治231889)年の房州行は、所謂、半島南部を廻ったか若しくは船を利用した可能性が高いように見受けられる。

 

「赤い色だの藍の色だの、普通市塲に上らないやうな色をした小魚」これは極めて高い確率でスズキ目ベラ亜目ベラ科 Labridae のベラ類のキュウセンやニシキベラ等であろう。以下、ウィキの「ベラ」より引用する。『日本近海には約130種が生息し、磯やサンゴ礁などで普通に見ることができる』。『ベラ科の魚は体長1030cm程度の比較的小さな種類が多い』(但し、コブダイやメガネモチノウオ(ナポレオンフィッシュ)等は大形種や大形個体が見られる)。『多くは鮮やかな色彩をもち、雄と雌で体色が異なる。成長に伴って性転換を行う種も多い。キュウセンなど一部の種は夜、砂に潜って眠ることが知られている。ソメワケベラの仲間は、他の魚の口の中や体表を掃除するという特異な生態をもっており、掃除魚などと呼ばれる』。『4亜科・60属・500種ほどが知られる大きな科である。全世界の熱帯から温帯に広く分布し、浅い海の砂底、岩礁、サンゴ礁に生息する。日本にも数多くの種類が分布している』。『成魚の大きさは全長10cmほどのホンソメワケベラから、2m以上に達するメガネモチノウオまで種類によって異なるが、ふつう海岸で見られるのは全長20cmほどの小型種が多い。体は細長く側編し、海藻やサンゴ、岩のすき間をすり抜けるのに都合がよい体型をしている。また、種類によっては体をくねらせて砂にもぐることもできる』。『体表はスズキ類やイワシなどにくらべて粘液が多く、ぬるぬるしている。体色は種類によってさまざまで、白、黒、青、緑、橙、赤などの組み合わさった美しい体色の種類もいる。また、性別や成長の度合いによって体色がちがう種類もいて、同種でもオスとメス、幼魚と成魚で別種のようにみえる種類もある』。『雌性先熟の性転換をすることが知られている。性転換して雄になった個体は雌を惹きつける派手な色彩に変化し、縄張り内の複数の雌と繁殖を行う。また、種類によっては生まれながらの雄もいる。前者を二次雄、後者を一次雄と呼ぶ。一次雄は集団産卵やスニーキングやストリーキングにより繁殖を行うが、二次雄と同じ派手な色彩に変化し、縄張りを持つこともある。』とある。この「スニーキング」とは二次雄の縄張りに侵入し、二次雄がいない隙を見て雌とペアリングする生殖行動を、「ストリーキング」は二次雄の縄張りに侵入し、二次雄と雌が産卵するのを見計らって割り込み放精をする生殖行動を言う。『ほとんどの種類が肉食性で、丈夫な歯をもち、ゴカイや貝、甲殻類などを捕食する。また、ほぼすべての種類が昼行性で、夜は岩陰にひそんだり、海底の砂にもぐったりして眠る。同じようにして冬眠をおこなう種類もある』。『春から秋にかけてよく漁獲されるが、冬のコブダイなど一部を除くと漁業価値は低い。特に釣りで多く漁獲されるが、関東では「餌盗り」や「外道」として扱われ、釣ったその場で捨てられることもある。一方、関西では高級魚として扱われ専門の遊漁船も出るほど人気がある。なお夜は休眠するので、あまり漁獲されない』。『身は軟らかいが、刺身、煮付け、唐揚げ、南蛮漬けなど、いろいろな料理で食べられる。キュウセンは関東地方などの東日本では評価が低いが、関西以西、特に瀬戸内海沿岸ではギザミと呼ばれ、美味な魚として評価されている。これは太平洋で育ったものは身が締まらず水っぽく大味になるのに対し、瀬戸内海などで育ったものは早い潮流によって身が引き締まるためである。したがって、個々の地域による文化的、味の嗜好で、価値観の差違が発生しているわけではない』以下、「分類」の項(一部にフォント・記号を追加した)。『ベラ科Labridaeには約500種が含まれ、大きく4亜科に分けられる。また分類が困難な種も多い。

 

○タキベラ亜科 Bodianinae

○ブダイベラ亜科 Pseudodacinae

○カンムリベラ亜科 Corinae

○モチノウオ亜科 Cheilininae

 

以下、下位分類と主な種のリストを挙げる。

 

○タキベラ亜科 Bodianinae

・イラ Choerodom azurio - 体長25 cm。背中はピンク色で顔と尾は青っぽく、背びれと尻びれは黄色っぽい。成長したオスの額はでっぱる。胸びれの上に黒っぽい斜めの線がある。

・コブダイ Semicossyphus reticulatus - カンダイとも呼ばれる。全長1m。成長したオスは額が出っ張る。幼魚は体が赤く、背びれ、尻びれ、尾びれが黒、目から尾びれまで白い線が走る。成長すると全身が赤褐色になり見た目は全く別の魚になってしまう。冬が旬で高級魚として扱われる。

 

○ブダイベラ亜科 Pseudodacinae

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・ブダイベラ Pseudodax moluccanus

 

○カンムリベラ亜科 Corinae

・ニシキベラ Thalassoma cupido - 全長20 cm。ホンベラによく似ているが腹部が青い。

・ホンソメワケベラ Labroides dimidiatus - 体長12 cm。体側に黒い縦帯がある。他の魚の口や体表の掃除をすることで有名である。

・ムスメベラ Coris picta - 体長18 cm。体側に黒い縦帯がある。

・ホシササノハベラ Pseudolabrus sieboldii - 体長20 cm。以前はアカササノハベラ P. eoethinus と同種と考えられており、ササノハベラ P. japonicus  という名称が与えられていた。両者とも体色は褐色だが、アカササノハベラは名の通り赤みが強い。外洋に面した防波堤などでよく釣れる、釣り人にはおなじみの魚である。

・キュウセン Halichoeres poecilopterus - 日本の本州以南に広く分布し、岩礁と砂底が入り混じったような環境に多い。メスは体長20 cm ほどで体色は黄褐色で、オスは体長30cm 以上になり、体色は黄緑色をしている。成長するにつれメスからオスへ性転換すると考えられている。オスメスとも赤い点線が縦に数本はいり、目から尾びれまでと背びれの根もとに黒い線が走っている。夜や冬は砂にもぐって休眠するため、釣りは日中に行われる。関東ではあまり食用にしないが、関西では好まれ、高値で取引される。特に刺身が珍味であり喜ばれる。

・ホンベラ Halichoeres tenuispinnis - 体長13cm。体色は緑が主体でニシキべラに似ているが、色が薄くまた、赤い色をしている。ベラのなかではキュウセンやニシキべラと並んで温帯域に適している。

この種群は、私が富山に住んでいる時、キスの外道で結構釣れたものである。色が鮮やか過ぎて逆に食をそそらない嫌いがあるが、実際食ったが、キュウセンやニシキベラはやや身が柔らかいが、結構美味いと私は思う。色からも形からも――私は頗る女性的に感ずる種群である――私がこのシーンを撮るなら、彼らの登場して貰う。

 

○モチノウオ亜科 Cheilininae

・メガネモチノウオ Cheilinus undulatus - インド洋から太平洋のサンゴ礁に分布する巨大魚で、ナポレオンフィッシュともよばれる。成長したオスは全長2mを超え、カンダイのように額がでっぱる。メスは全長1m以下で、額はでっぱらない。

・テンス Xyrichtys dea - 全長30cm。体色は赤っぽく腹びれと尻びれは黄色っぽい。海底の砂地に生息しており、危険を感じると一瞬で砂に潜り込む。

 

なお、ここら辺り、『木屑録』本文に、保田から一里ばかりのところに在る半月型の湾に大きな岩礁があり、そこから海を臨むと海藻が茂り「游魚行其間錦鱗尾忽去來」という描写がある。

 

♡「私は不意に立ち上ります。さうして遠慮のない大きな聲を出して怒鳴ります。纏まつた詩だの歌だのを面白さうに吟ずるやうな手緩い事は出來ないのです。只野蠻人の如くにわめくのです」実際の漱石の旅行では冒頭に一部を示したように『木屑録』に多量の漢詩が詠まれている。この夕日に向かって(にしよう)喚くシーンは正に青春ドラマの一齣、そう言えば千葉県の県知事は正にそのクサいドラマの主役をはっていた大根役者じゃあ、ねえか……これも「心」の因縁かのう……

 

「ある時私は突然彼の襟頸を後からぐいと攫みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向の儘、丁度好い、遣つて吳れと答へました。私はすぐ首筋を抑へた手を放しました」ここは「心」を考える際に私にとって極めて大切なワン・シーンである。それはここが、これから続く漱石の確信犯行為

 

★『Kの眼を見逃す先生(1)』

 

という象徴的シチュエーションの最初のシーンだからである。このシーンを先生の目線で実際の映像として撮ってみれば分かる。

 

○カメラ、急速に背後から岩場の突先に座り込んでいるKに近づき、Kの頭の後ろまで一気に迫って画面の上からインした先生の手首がKの襟首を、グイ! と摑む。

先生(オフで)「こうして海の中へ突き落としたら……どうする――」

摑みながら微かに震える先生の手首――微動だにしないKの伸びきってほつれた後ろ髪、焼けた首筋、垢の浮いた太陽光を透過した薄赤い耳介――それをなめて向うの眩しく輝く海、白く遠い波頭――

K(後ろ向きのそのままに)「ちょうどいい――やってくれ――」

はっとしたようにKの襟首を離れる先生の手。はっきりと震える先生の指――ゆっくり画面右上へ消え――同じくKの微動だにしないKの伸びきってほつれた後ろ髪、焼けた首筋、垢の浮いた太陽光を透過した薄赤い耳介――それをなめて向うの眩しく輝く海、白く遠い波頭――

(ホワイト・アウト)

 

先生は、この時――「丁度好い、遣つて吳れ」と言う、そのKの眼も表情も見落としている。見ることが出来ないのである。これこそ私は漱石が仕組んだ

 

Kの眼を見逃す=Kの真意を見逃す=Kの心を見落とす先生

 

という分かり易い伏線であると考えて止まないからである。これは私が「こゝろ」の全文授業を始めた教員1年目、実に31年前からのオリジナルな解釈なのであるが、第(百三)回(=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十九)の「Kの死に顔が一目見たかつた」先生が「見る前に手を放してしまう」というシーンまで、この『Kの眼を見逃す先生』は実に5回も出現するのである。そして――私のここでの謂いは

 

見落とすべきでなかったKの眼を何度も見逃す先生=Kの眼を見ていれば分かったはずの当然の真実を、Kの眼を見なかったばかりに段階的にも論理的にも理解出来なかった先生=Kの心を決定的に見落とし、致命的な誤読を重ねてしまう先生

 

という意味でカタストロフへと直進してゆく原動力となっていることを意味している。即ち、分かり易く言えば私は、

 

★この時点でKには既に靜への恋愛感情が芽生えており、その感情と自己の求道の信条との矛盾に早くも悩み始めている

 

と解釈するのである。ここでKが座っている岩場が如何程のものかは分からない。しかし、水泳で飛び込むことが可能な数メートルのものでないことは明らかだ。これは突き落とされれば死ぬるかも知れぬような、いや、死ぬであろう断崖絶壁鋭利奇岩の岩礁であればこそ、この先生の「斯うして海の中へ突き落したら何うする」という語は生きてくる。そしてそれに間髪を入れぬKの「丁度好い、遣つて吳れ」という答えが慄然と迫るのだ。

 ここの解釈は二様に考え得るであろう。

 一つはこれが一種の禪問答のパロディとして機能するという解釈である。在り得ぬことではない。ニヒルを気取るのが好きな私(やぶちゃん)がKなら、先生のこうした悪戯(冗談)に対してこんな風に「ちょうどいい――やってくれ――」と答える可能性はないとは言えぬ。いや、高い確率でニヒルな笑みを浮かべて、友人の先生にそう答えると言ってもよいという気さえする。

 しかし、私にはこの前後のKと御嬢さんとの絡みの展開からみて、このKが所謂、精進一途の道にあって、肉を鞭撻すれば精神の光輝がいや高まるとういう意味で肉体を卑しみ、だからここでは、

 

×「――こんな肉体? 俺の求道的人生に、肉体なんて、そんなものに未練などは金輪際ないね――ちょうどいい――やってくれ――」

 

とやや先生の売り言葉に軽くいなした買い言葉、先生の如何にも軽い冗談に余裕の禪気で応酬したに過ぎない――なんどという解釈は私には逆に誠心にして重厚な宗教的に真面目であるKにとって『Kらしくない下らぬ冗談』としか思われないのである。Kはこんな軽い冗談は吐かぬ。少なくとも、どうも近頃、求道的に精進しているとは全く思われない先生なんぞにこんなことを言われたなら、私がKならいつものフンといった調子で無視すると言ってもよい。

 されば、もう一つの解釈しか、ない。即ち、この「丁度好い、遣つて吳れ」とは、

 

○「――実は――正しく今の自分は――このままこの断崖をお前に突き落とされて死んでもいいぐらいに、己れの信条を裏切りしつつあるのさ――だから――ちょうどいい――やってくれ――」

 

という謂い以外にはないのである。これを私は私の大事な「こゝろ」解釈の基底部に据えて動かすつもりはないということを、ここに言明しておく。なお、ここら辺りも『木屑録』本文の、例の保田から一里ばかりのところに在る半月型の湾にある15m程の巨人の掌のような断崖があり、その絶壁の端に平坦な数人がやっと座れる場所があったと書き、そこに「欲墜不墜」という言葉が記されている。これがこのシーンのルーツであろう。

 

「Kの神經衰弱は此時もう大分可くなつてゐたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になつて來てゐたのです」繰り返すまでもないが、再度確認しておくが、Kは神経衰弱ではない。至って健全である。勿論、前注で示した通り、私は自己心内の葛藤のためにややアンビバレントな感情は心内にあると考えているが、それは健全な青年の『理想と現実』の悩みの範囲内――正にこの時点ではKの中ではのっぴきならない肥大した大きな対立項としては生育していないと言っても私には正しいと思われる――である。むしろ、このシーンの前後を見るに、先生の方が例の関係妄想と被害妄想の傾向が先鋭化してきつつあり、正常な状態から逸脱しつつあるように読める。それを先生は確かに「私の方は段々過敏になつて來てゐた」と叙述するのだが、これも、遺書を書いている際の先生が当時を回想して自己分析した結果なのか、当時の先生にそのような『病識』がその頃既にあったのかという点は留保せざるを得ない曖昧な書き方である。私は『病識』はなかった、という立場を採る。それによって本作は近代日本文学史上最初の本格的に多層的心理分析的手法を採った小説となるからである。

 

「私は自分より落付いてゐるKを見て、羨ましがりました。又憎らしがりました。彼は何うしても私に取り合ふ氣色を見せなかつたからです。私にはそれが一種の自信の如く映りました。然しその自信を彼に認めた所で、私は決して滿足出來なかつたのです。私の疑ひはもう一歩前へ出て、その性質を明らめたがりました。彼は學問なり事業なりに就いて、是から自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になつたのだらうか。單にそれ丈ならば、Kと私との利害に何の衝突の起る譯はないのです。私は却て世話のし甲斐があつたのを嬉しく思ふ位なものです。けれども彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです。不思議にも彼は私の御孃さんを愛してゐる素振(そふり)に全く氣が付いてゐないやうに見えました。無論私もそれがKの眼に付くやうにわざとらしくは振舞ひませんでしたけれども。Kは元來さうふ點にかけると鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫(だいぢやうふ)といふ安心があつたので、彼をわざ/\宅へ連れて來たのです」この一連の心理分析中、「けれども彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなる」という箇所が、始めて先生とKと靜の三角関係、お嬢さんをはっきりと掲げた三角関係の明示となっている点で、極めて重大な箇所である。ここでの先生=「私」の分析過程の病的状況を整理しよう。

 

・私は最近のKが精神的に明らかに自分より落付いたように観察された。

   ↓(その結果)

・私は精神的余裕の中で自分よりも豊かな精神生活を送っているものと類推し、Kを羨ましく思うようになった。

   ↓(同時に)

・私には、私のことをKが軽くあしらい、何となく馬鹿にして取り合わないように見え始め〈←先生の被害妄想部分〉、それが却って『そうした精神の安定をお前に与えてやったのは他ならぬ私なのに』という不満から、憎たらしく思うようにさえなった。

   ↓(同時に)

・『私のことをKが軽くあしらい、何となく馬鹿にして取り合わないように見え』る様子が、別な角度から見れば、一種のKの揺ぎない自信のポーズの如く見えもした(その結果としてますます普段からあったKへの劣等感が昂まった)。

   ↓(取り敢えずその人生への「Kの自信」

   ↓ は認めてやってもよいと思ったものの)

・私の疑いはそこで満足して留まらず、その「自信」や「変化」の理由を明らかにしないでは済まなくなった。〈←先生の関係妄想と強迫観念

   ↓(その疑問)

・彼は学問や人生上の生き方などに就いて、これから自己の進んで行くべき求道的精進に満ちた前途の光明を再び取り返した心持になったのか?

   ↓(現在の余裕と安定がそれだけの理由によるもなら)

○「Kと私との利害に何の衝突の起」らないから「私は却て世話のし甲斐があつたのを嬉しく思ふ位」である。

   ↓(しかし)

×K「の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば」「私は決して彼を許す事が出來な」い!〈←関係妄想=それは結果として事実であり、妄想ではなかったことになるのだが、これは病的な妄想の過程で実は偶然、後の結果的事実に至ったに過ぎないのである。それが如何に病的なものであるかは、この「私は決して彼を許す事が出來な」い、という言辞を取り上げるだけで十分である。自分で勝手に妄想を肥大させ、仮想の目に見えない壁を相手に唾を吐きかけ、痛罵する先生の怒号が聴こえてくるではないか?!〉

 

……そして先生はこの最後の病的なネガティヴな答え(先生にとって)を知らず知らずの内に選び取ってしまうことになる。

 

「不思議にも彼は私の御孃さんを愛してゐる素振に全く氣が付いてゐないやうに見えました」これは事実。Kは全く気付いていない。「無論私もそれがKの眼に付くやうにわざとらしくは振舞ひま」わなかったせいもあるが、「Kは元來さうふ點にかけると鈍い人」であることは完璧な事実である。先生が「最初からKなら大丈夫といふ安心があつたので、彼をわざ/\宅へ連れて來た」という告白も、私のイメージするKでも、さもありなんという気がする。ここで確認しておく必要があるのは、この遺書を読む者の中に形成されるK像は殆んど個人差が生じないように先生によって描かれている点である。勿論、その心の動きを先生は大きく致命的に誤解してゆき乍らも、一方では、読者がイメージするK像には大きな印象のブレがないように、ある種絶妙な客観的視点でもに描かれているという驚異的な漱石の筆致を味わう必要がある。これは先生がKをそのように理解させようとする悪意、少なくとも意識的悪意ではない。無論、先生がKを恋敵と意識する、人生の致命的失敗の起点にKが立っていることを告解する際には、無意識的な悪意の発露はあっても、そうした悪意によって読者のK像を意図的に歪めようとする意識は微塵も働いていないという点を押えておくべきであろう。]

2010/07/13

「心」予告 明日より先生とKの房州行

明日より、「心」の中で最もパノラミックな――青々とした海と入道雲、どこまでも続く砂浜、風、光――先生とKの房州行が4回に亙って描かれる。先生の遺書中、一つのクライマックスとして頗る附きに印象的なシークエンスである。尚且つ、読者の季節的な時制と遺書内での時制がほぼ一致する稀有のシーンでもある。僕の摑みも燃えた――例によって伏線引込み線を経て脱線転覆復旧不能を繰り返しながら――乞う、ご期待!

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月13日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十一回

Kokoro15_17   先生の遺書

   (八十一)

 「一週間ばかりして私は又Kと御孃さんが一所に話してゐる室を通り拔けました。其時御孃さんは私の顏を見るや否や笑ひ出しました。私はすぐ何が可笑しいのかと聞けば可かつたのでせう。それをつい默つて自分の居間迄來て仕舞つたのです。だからKも何時ものやうに、今歸つたかと聲を掛ける事が出來なくなりました。御孃さんはすぐ障子を開けて茶の間へ入つたやうでした。

 夕飯(ゆふめし)の時、御孃さんは私を變な人だと云ひました。私は其時も何故變なのか聞かずにしまひました。たゞ奥さんが睨めるやうな眼を御孃さんに向けるのに氣が付いた丈でした。

 私は食後Kを散步に連れ出しました。二人は傳通院(でんづうゐん)の裏手から植物園の通りをぐるりと廻つて又富坂の下へ出ました。散步としては短かい方ではありませんでしたが、其間(あひだ)に話した事は極めて少なかつたのです。性質からいふと、Kは私よりも無口な男でした。私も多辯な方ではなかつたのです。然し私は步きながら、出來る丈話を彼に仕掛て見ました。私の問題は重に二人の下宿してゐる家族に就いてゞした。私は奥さんや御孃さんを彼が何う見てゐるか知りたかつたのです。所が彼は海のものとも山のものとも見分の付かないやうな返事ばかりするのです。しかも其返事は要領を得ない癖に、極めて簡單でした。彼は二人の女に關してよりも、專攻の學科の方に多くの注意を拂つてゐる樣に見えました。尤もそれは二學年目の試驗が目の前に逼つてゐる頃でしたから、普通の人間の立塲から見て、彼の方が學生らしい學生だつたのでせう。其上彼はシユエデンボルグが何うだとか斯うだとか云つて、無學な私を驚ろかせました。

 我々が首尾よく試驗を濟ましました時、二人とももう後一年だと云つて奥さんは喜こんで吳れました。さう云ふ奥さんの唯一の誇りとも見られる御孃さんの卒業も、間もなく來る順になつてゐたのです。Kは私に向つて、女といふものは何にも知らないで學校を出るのだと云ひました。Kは御孃さんが學問以外に稽古してゐる縫針(ぬいはり)だの琴だの活花だのを、丸で眼中に置いてゐないやうでした。私は彼の迂濶を笑つてやりました。さうして女の價値はそんな所にあるものでないといふ昔の議論を又彼の前で繰り返しました。彼は別段反駁もしませんでした。其代り成程といふ樣子も見せませんでした。私には其處が愉快でした。彼のふんと云つた調子が、依然として女を輕蔑してゐるやうに見えたからです。女の代表者として私の知つてゐる御孃さんを、物の數(かぞ)とも思つてゐないらしかつたからです。今から回顧すると、私のKに對する嫉妬は、其時にもう充分萌(きざ)してゐたのです。

 私は夏休みに何處かへ行かうかとKに相談しました。Kは行きたくないやうな口振を見せました。無論彼は自分の自由意志で何處へも行ける身體(からだ)ではありませんが、私が誘ひさへすれば、また何處へ行つても差支へない身體だつたのです。私は何故行きたくないのかと彼に尋ねて見ました。彼は理由も何にもないと云ふのです。宅で書物を讀んだ方が自分の勝手だと云ふのです。私が避暑地へ行つて凉しい所で勉强した方が、身體の爲だと主張すると、それなら私一人行つたら可(よ)からうと云ふのです。然し私はK一人を此處に殘して行く氣にはなれないのです。私はたゞでさへKと宅のものが段々親しくなつて行くのを見てゐるのが、餘り好(い)い心持ではなかつたのです。私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を惡くするのかと云はれゝば夫迄です。私は馬鹿に違ひないのです。果しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲に入りました。二人はとう/\一所に房州へ行く事になりました。

 

やぶちゃんの摑み:遂にKへの嫉妬心が言葉として明示される。上の通り、この回には飾罫がない。この連載日当日の日付の東京朝日新聞社内山本松之助宛書簡が残されているが、十日の葉書で言うだけ言って翌日には誤植による正誤の一札も入ったからか、また、今回は内容的に文壇の大御所としてのこちら側の責任もある依頼というところで、漱石の口吻は思ったより穏やかである(底本は岩波版旧全集の書簡番号一八四五。文中「かけなたなたたから」「御邊」の右に「原」のママ表記。後者は「其邊」の誤記であろう。〔 〕は全集編者による補正)。


 七月十三日 月 午後一時-二時 牛込區早稻田南町七番地より 京橋區瀧山町四番地東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拝啓久々御無音奉謝候此間一寸電話を御宅へかけた處御旅行中で今日頃御歸りといふ御返事でしたから一寸用事丈申上ます、兩三日前志賀直哉君(當時雲州松江に假寓小說の件をかねて上京)見え、實は引きうけた小說の材料が引き受けた時と違つた氣分になつてもとの通りの意氣込でかけなたなたたから甚だ勝手だがゆるして貰ひたいといふのです。段々事情を聞いて見ると先生の人生觀といふやうなものが其後變化したため問題を取り扱ふ態度が何うしてもうまく行かなくなつたのです、違約は勿論不都〔合〕ですが、同君の名聲のため朝日のためにも氣に入らない變なものを書く位なら約束を履行しない方が雙方の便宜とも思ひましたが、多少私の責任もありますし、又殘念といふ好意もあつたので再考を煩はしたのです、所が今朝口約の通り返事がきて好意は感謝するが今の峠を越さなければ筆を執る譯に行かないといふのです。それで私の小說も短篇が意外の長篇になつてあれ丈でもう御免を蒙る間際になつてゐる際ですからあとを至急さがす必要があるのですが御心當りはありますまいか。如何でせう。私は先年鈴木に高濱にも賴まれましたが兩氏とも今となつて都合つくや否は疑問であります、小川氏も間接に相談はありましたがあの人のものは如何かと存じます、德田君は今東京にゐないやうです、夫に途中で行きつまる恐があります。中勘助が銀の匙のつゞきを書いてゐるやうですが、あれなら間に合ふかも知れません、兎に角私の責任問題ですからいざとなれば先生の遺書の外にもう一つ位書いてもいゝですがどつちかといふとあれで一先づ切り上げたいと思つてゐますから御邊御含みの上一應御熟考を煩はしたいと思ひます。先は用事迄 以上
      七月十三日        夏目金之助
    山 本 笑 月 樣

 

因みに、お分かりとは思うが、文中前半の「先生の人生觀」の「先生」は志賀直哉のことを指していて、「心」の先生とは無関係で、後半の部分に現れる人名は鈴木が鈴木三重吉、高濱が高濱虚子、小川は小川未明、德田は德田秋聲である。

 

「傳通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻つて又富坂の下へ出ました」この「植物園」は小石川植物園のこと。恐らく当時は正式には「東京帝國大學理科大學附屬植物園」であったか(現在は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」である)。古くは江戸幕府の小石川御薬園(おやくえん)で、更に八代将軍吉宗が享保7(1722)年に町医師小川笙船の目安箱投書を受け、園内に小石川養生所を設けた。明治201877)年の東京帝国大学開設と共に同大学理科大学(現・理学部)の附属植物園となって一般にも公開されるようになった。本作内時間当時は既に明治301897)年に本郷の大学敷地内にあった植物学教室が小石川植物園内に移転、講義棟が作られて本格的な植物学講義が行われていた(以上はウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」を参照した)。私は先生の下宿を中冨坂町(現在の北部分、現在の文京区小石川二丁目の源覚寺(蒟蒻閻魔)から南西付近に同定しているが、そこから北の善光寺坂通りに出て横断、現在の小石川三丁目を北西に横切って行くと伝通院裏手になる。そこから北東に向かうと小石川植物園のすぐ脇を南東から北西に抜ける通りに出られる。植物園の西の角で北東から南西に走る網干坂にぶつかって現在の営団丸ノ内線茗荷谷駅方向へ湯立坂を南へ登り、現在の春日通り(但し当時は旧道で現在より南側に位置していた)へ出、南東に下れば冨坂から冨坂下へ至り、そこから北へ下宿に戻るルートと思われる。これは地図上で大雑把に実測しても実動距離で5㎞は確実にある。当時の散歩の5㎞は大した距離ではないが、夕食後の腹ごなし散歩としては45分から1時間は短かくはない。私がこのルートに拘るのは、一つは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏が「このコースはせいぜい二、三キロメートルの距離』で『当時としてはむしろ短い距離とも言える』から、『あるいは、先生にとっての話題も重要性と、要領を得ないKの返答ぶりとが、実際以上に長く感じさせたということか。』と注されているのが納得出来ないからである。漱石がこんな心理的時間を「散歩としては短かい方ではありませんでしたが、其間に」という文脈で用いるとは思われない。尚且つ、ここ伝通院は漱石が実際に下宿した先でもあるのである。藤井氏のルートは恐らく私の考えているルートとは違い、もっと南西寄り(植物園から離れた通り)に出て、尚且つ、植物園も西の角まで至らずにすぐのところで春日通りに抜ける吹上坂か播磨坂を通るコースを考えておられるのではないかと思われるが、私はこの推測に異議を唱えるのである。

 

 ――何故か――

 

 それは私がもう一つ、このコースに拘る理由があるからである。それは――このコースが、実はあるコースの美事な対称形を――数学でいう極座標の方程式 r2 = 2a2cos2θ で示される lemniscate レムニスケート(ウィキ「レムニスケート」)若しくは無限記号を――成すからである。もうお分かり頂けているであろう。そうだ。あの御嬢さんを呉れろというプロポーズをしてから先生がそわそわしつつ、歩いたあの「いびつな圓」の、美事な対称形である(第(百)回=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十六)。後に地図で示したいと思ってはいるが、あの距離も凡そ5㎞で、更に稽古帰りの御嬢さんとプロポーズ直後の先生が出逢うのが「富坂の下」=0座標である。ここからほぼ北西に今回のルートが、南東に後の「いびつな圓」ルートが極めて綺麗な対称が描かれてゆくのである。私はこれを漱石の確信犯であると思うのである。新しい私の謎である。――いや!――そこに今一つのルートが加わるであろう――勿論、お分かりだろうが……しかし、それはまた、そこで……。

 

♡「二學年目の試驗が目の前に逼つてゐる頃」当時の東京帝国大学文科大学では6月中旬の一週間程度が学年末試験期間であったから、この描写は6月上旬である(くどいが私が考える本章の作品内時間ならば明治331900)年の6月上旬である)。

 

♡「シユエデンボルグ」Emanuel Swedenborg エマヌエル・スヴェーデンボリ(1688年~1772年)スウェーデンのバルト帝国出身の博物学者・神学者で、現在、本邦ではその心霊学や神智学関連の実録や著述(主要なものは大英博物館が保管)から専ら霊界関係者に取り沙汰される傾向があるが、その守備範囲は広範で魅力的である。ただ漱石がここでKに彼の名を挙げさせたのは、多分にその神秘主義的部分、一種のスピリッチャリズムのニュアンスをKに付与させたかったからであるようにも思われる。以下、ウィキの「エマヌエル・スヴェーデンボリ」より引用する(一部の記号を変更、追加した)。父は『ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した』人物で、エマヌエルは『その次男としてストックホルムで生まれ』た。『11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官になる。31歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなど頻繁にでかける』。『1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、スヴェーデンボリという人材を重視した王室の庇護により、回避された。神秘主義者への転向はあったものの、スウェーデン国民及び王室からの信用は厚く、その後国会議員にまでなった。国民から敬愛されたという事実は彼について書かれた伝記に詳しい。スヴェーデンボリは神学の書籍の発刊をはじめてからほぼイギリスに滞在を続け、母国スウェーデンに戻ることはなかった』。『スヴェーデンボリは当時 ヨーロッパ最大の学者であり、彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などで、結晶学についてはスヴェーデンボリが創始者である。動力さえあれば実際に飛行可能と思えるような飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボリが26歳の時であり、現在アメリカ合衆国のスミソニアン博物館に、この設計図が展示保管されている』。『その神概念は伝統的な三位一体を三神論として退け、サベリウス派に近い、父が子なる神イエス・キリストとなり受難したというものである。ただし聖霊を非人格的に解釈する点でサベリウス派と異なる。聖書の範囲に関しても、正統信仰と大幅に異なる独自の解釈で知られる。またスヴェーデンボリはルーテル教会に対する批判を行い、異端宣告を受けそうになった。国王の庇護によって異端宣告は回避されたが、スヴェーデンボリはイギリスに在住し生涯スウェーデンには戻らなかった。彼の死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 New Church とも)を創設した』。『スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも若干散見され、例えばイマヌエル・カントは「視霊者の夢」中で彼について多数の批判を試みている。だがその批判は全て無効だと本人が後年認めた事は後述する。フリードリヒ・シェリングの「クラーラ」など、スヴェーデンボリの霊的体験を扱った思想書も存在する。三重苦の偉人、ヘレン・ケラーは「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」と発言している』。『彼の神秘思想は日本では、オカルト愛好者がその神学を読む事があるが、内容は黒魔術を扱うようなものではないため自然にその著作物から離れていく。その他、ニューエイジ運動関係者、神道系の信者ら』『の中にある程度の支持者層があり、その経典中で言及されることも多い。新エルサレム教会は日本においては東京の世田谷区にあり、イギリスやアメリカにも存在する』。『内村鑑三もその著作物を読んでいる』が、彼及びその支持者の思想を『異端視する向きが』あることも事実で、『一例として、日本キリスト教団の沖縄における前身である沖縄キリスト教団では、スウェーデンボルグ派牧師(戦時中の日本政府のキリスト教諸教会統合政策の影響からこの時期には少数名いた)が、戦後になって教団統一の信仰告白文を作ろうとしたところ、米国派遣のメソジスト派監督牧師から異端として削除を命じられ、実際削除されるような事件も起きている』と記す。スヴェーデンボリは『神の汎神論性を唱え、その神は唯一の神である主イエスとしたのでその人格性を大幅に前進させており、旧来のキリスト教とは性格的・構造的に相違がある。スヴェーデンボリが生前公開しなかった「霊界日記」において、聖書中の主要な登場人物使徒パウロが地獄に堕ちていると主張したり』、『同様にプロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちたと主張はした。だが、非公開の日記であるので、スヴェーデンボリが自身で刊行した本の内容との相違点も多い。この日記はスヴェーデンボリがこの世にいながら霊界に出入りするようになった最初の時期の日記であるため、この日記には、文章の乱れや、思考の混乱なども見られる。なお、主イエスの母マリアはその日記』『に白衣を着た天国の天使としてあらわれており、「現在、私は彼(イエス)を神として礼拝している。」と発言している』。『なお、スヴェーデンボリが霊能力を発揮した事件は公式に二件程存在し、一つは、ストックホルム大火事件、もう一つはスウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件で』、これは心霊学の遠隔感応として、よく引き合いに出されるエピソードである。『また、教義内の問題として、例えば、霊界では地球人の他に火星人や、金星人、土星人や月人が存在し、月人は月の大気が薄いため、胸部では無く腹腔部に溜めた空気によって言葉を発するなどといった、現代人からすれば奇怪でナンセンスな部分もあり、こうした点からキリスト教徒でなくても彼の著作に不信感も持ってみる人もいる』。『彼の生前の生き方が聖人的ではない、という批判もある。例えば、彼より15歳年下の15歳の少女に対して求婚して、父親の発明家ポルヘムを通して婚姻届まで取り付けておきながら少女に拒絶された。また、生涯独身であったわけだが、若い頃ロンドンで愛人と暮らしていた時期がある、とされている。しかし主イエスから啓示を受けた後、女性と関係したという歴史的な事実は全くない。次にスヴェーデンボリは著作「結婚愛」の中で未婚の男性に対する売春を消極的に認める記述をしている。倫理的にベストとはいえないかもしれないが、基本的にスヴェーデンボリは「姦淫」を一切認めていない。一夫多妻制などは言語道断であり、キリスト教徒の間では絶対に許されないとその著述に書いている』。『スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を1757年に目撃した、と主張した。しかし現実世界の政治・宗教・神学上で、その年を境になんらかの変化が起こったとは言えないため、「安直である」と彼を批判する声もある』。『哲学者イマヌエル・カントは、エマヌエル・スヴェーデンボリについて最終的にこう述べている。『スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と。』(K・ペーリツ編「カントの形而上学講義」から)。哲学者ラルフ・ワルド・エマソンも、エマヌエル・スヴェーデンボリの霊的巨大性に接し、カントと同様、その思想を最大限の畏敬の念を込めて称えている』。以下、、スヴェーデンボリから影響を受けた著名人として、ゲーテ・バルザック・ドストエフスキイ・ユーゴー・ポー・ストリンドベリ・ボルヘスなどの名を挙げてある。『バルザックについては、その母親ともに熱心なスヴェーデンボリ神学の読者であった。日本においては、仏教学者、禅学者の鈴木大拙がスヴェーデンボリから影響を受け、明治42年から大正4年まで数年の間、スヴェーデンボリの主著「天国と地獄」などの主要な著作を日本語に翻訳出版しているが、その後はスヴェーデンボリに対して言及することはほとんどなくなった。しかし彼の岩波書店の全集には、その中核としてスヴェーデンボリの著作(日本語翻訳文)がしっかり入っている』とある(国立国会図書館近代デジタルライブラリーでエマヌエル・スヴェーデンボリ鈴木大拙訳「天界と地獄」が画像で読める)。このシーンは私の推定では明治331900)年の夏であるが、夏目漱石はイギリス留学前の明治321899)年には既に知っていた。同年の「小説『エイルヰン』の批評」(『ホトトギス』)に「『エイルヰン』の父に『シュエデンボルグ』宜しくとい云ふ神秘学者が居る」と述べている。』とあるからである(これは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」のこの部分の注の示唆に拠った)。

 

――しかし大事なことは、ここで何故「シユエデンボルグ」か、ということではないか?! 先生は明らかに「シユエデンボルグ」の霊界観念を意識して叙述している。あの第(六十二)回で先生が示した内容に注意しなくてはならない。先生は神秘主義的霊性を信じているのだ! それはとりもなおさず――Kは死んでも「シユエデンボルグ」のように現世と――先生と繋がっている――ということを伏線として示しているのではなかったか?! 私は大正という時代が近代に於いて、最も大衆が素朴に(この謂いは素直な謂い皮肉を込めた謂いの両方を含む)心霊ブームに沸いていた時代であったと理解している。キュリー夫妻が写真を感光させる目に見えない『神秘の』放射線(先の私の微妙な謂いはこうしたエポックにあるということである)を放つラジウムの発見は、実に明治31(1998)年である。本作の公開は大正3(1914)年で、アカデミズムはこの直前に、かの東京帝国大学の福来友吉博士らによる千里眼事件(リンク先はウィキ)によってこうした現象への疑似科学の烙印が早々に捺されていたが、本作中の現在時制は先に示した通り、明治33(1900)年前後である。

 

♡「御孃さんの卒業も、間もなく來る順になつてゐた」靜が如何なる女学校に通っていたかは不明であるが(当時最も多かった女学校はキリスト教系のものであったが、私は「いびつな圓」の関係から一つの可能性として東京女子高等師範学校附属高等女学校を考えていることは第(七十)回の摑みを参照されたい)、一応、当時の改正中学校令に沿った学校と考えるならば、尋常小学校4年・高等小学校2年・女学校5年終了で、通常数え18歳(満17歳)という年齢になる。靜がこの明治331900)年7月で女学校を卒業したとすれば、御嬢さんの出生は明治141881)年か、その翌年辺りと推定し得る。

 

♡「今から回顧すると、私のKに對する嫉妬は、其時にもう充分萌してゐた」当時は先生はそれを意識していなかった、自覚していなかったことが明示されている。即ち、無意識下の当時の心理を遺書を書いている時点の先生が分析している、という点を押さえておく必要がある。]

2010/07/12

耳嚢 卷之三  人の詞によりて佛像流行出す事

「耳嚢 巻之三」に「人の詞によりて佛像流行出す事」を収載した

 人の詞によりて佛像流行出す事

 寶暦の此(ころ)也し、是も本郷にての事成よし。加賀の大部屋中間とやらん、本郷六丁目の古鐵(ふるがね)店にて釋迦の古鐵佛を調ひ歸りて、部屋の内に餝(かざ)り水など手向(たむけ)て置しを傍輩の者見て、是は忌はしき佛なぶり成とて笑ひ叱りなどせしに、部屋頭なる著聞(ききつけ)て、是迄無之事也、早々辞し仕廻べしと言し故、彼中間詮方なく、捨んもいかゞと元の古鐵店へ持來りて、此佛を歸し候と申ければ、一旦商ひて其日か翌日にて候はゞ請取もしなん、日数過(すぎ)て返し候ては自餘(じよ)の例にも成候間難成由答ければ、彼中間聞て、あたへを戻し候樣にと申ならば其斷も尤也、價ひにも不及歸し候間、請取可申といひし故、何ゆへに左の給ふと尋ければ、彼中間時の拍子にやよりけん、此佛を調へ歸りて禮拜尊敬するに、兎角元の所へ返し候樣夢幻となくの給ふのうるさゝに歸す也と語りければ、左あらば置(おき)ぬべしとて請取しが、扨は作佛にてもあるべし、(俗家に置きて恐れあり)とて近所の菩提所へ納て始終を語りけるにぞ、寺僧も奇異の思ひをなし、一犬吠ゆればの譬(たとへ)に違ふ事なく、近隣是のみの沙汰と成て、暫しは右佛像への參詣群集をなしけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:出鱈目に乗せられる凡夫の哀しい信心と、同じ本郷(本郷の人はこの手の話に乗りやすかった?)連関。私はこの話、読み終えた後――この話が実は前半のような経緯ででっち上げに過ぎないということがバレて、この都市伝説が出来るわけだから、そのバレるのは如何なるシーンであったか――が気になるのである。言わば、それがこの都市伝説の「事実」であり、この話柄全体を更に真実らしく強化するものだからでもある。例えば、最後に登場する寺僧が、でっち上げに更に尾鰭鯱鉾がついたみたような金仏への縁起話をさも有り難そうに語っているのを、例の中間の朋輩が参衆に混じって聴いているが、その金仏をよく見ると例の大部屋にあった奴と気付き、大笑いしながら大衆の面前で金仏を指差して事実を暴露するといったシーンを……いや……と、その朋輩中間を、黙った周囲の皆んながよってたかって嚢叩きにし、神田川に簀巻きにして投げ入れる、という落ちであっても、構わないのであるが……。

・「寶暦の此」宝暦年間は西暦1751年から1764年。

・「加賀の大部屋中間」加賀金沢藩前田家上屋敷は現在の本郷七丁目の東京大学本郷キャンパスの殆んどの部分を占めていた(北の現在の農学部のある場所は水戸藩中屋敷)。「大部屋中間」の「大部屋」は大名屋敷で格の低い中間や小者(こもの)、火消し人足などが集団で寝起きした部屋を言う。足軽と小者の間に位置する中間は多くの場合、渡り中間(屋敷を渡り歩く専門の奉公人)が多く、脇差一本が許され、大名行列の奴のイメージが知られるのだが、年季契約で、百姓の次男坊以下が口入れ屋を通じて臨時雇いされたりし、事実上の下男と変わらない連中も多くいた。ここはそうした最下級の中間である。

・「本郷六丁目」現在の6丁目は加賀金沢藩前田家上屋敷の前の本郷通りを隔てた北西の地域を言うが、江戸切絵図を見るとここ一帯は御先手組及び阿部伊予守屋敷となっている。沿道に小さな出店でもあったものか。

・「古鐵店」金属製の古物や使い古し・破損器物を買い入れる商人。金物の古物商。

・「佛なぶり」この「なぶり」は「嬲(なぶ)る」で、弄ぶ、いじめるの意。恐らく『仏像なんぞ辛気臭せえ!』という意味合いで軽く言っているものと思われるが、自己卑下のように、凡夫にして救い難い下賤の我等大部屋中間の部屋(ここは所謂、博奕の賭場として、何処かの今の世界と同じく違法な賭博の温床ともなっていた)に『御釈迦様ったあ、罰当たりも甚だしい! 勝機が逃げる!』というニュアンスも含んでいよう。

・「自餘」その他。この外。

・「時の拍子にやよりけん」ちょっとした言葉の弾みで、ぐらいの意味であるが、それでは面白くないので、現代語訳では標題にも合わせて「叱責された不快もあったか、口から出任せ」と意訳してみた。

・「一犬吠ゆれば」「一犬虚に吠ゆれば萬犬(ばんけん)實を傳ふ」。たった一人のいい加減な発言であっても、時に世間の多くの人がそれを本当のことと安易に信じて広めてしまうことがある、という譬え。 「一犬形に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」とも。後漢の王符の政治批判論「潜夫論」にある「賢難」の「諺曰、一犬吠形、百犬吠聲。世之疾、此固久矣哉。」(諺に曰く、一犬形に吠ゆれば、百犬聲に吠ゆ、と。世の疾(しつ)、此れ固より久しきかな。)による。 

■やぶちゃん現代語訳

 人の口から出任せでさる仏像の大流行りする事

 宝暦の頃の話で、これも先話を同じ本郷にてのことであった由。

 加賀藩の大部屋中間が、本郷六丁目の古鉄(ふるがね)を扱う古物商から、鉄製の古びた釈迦如来の仏像を買って帰って大部屋の隅に飾り、閼伽(あか)を手向けるなんどして置いておいたところが、朋輩の一人がこれを見つけ、

「我等下賤の大部屋に仏を飾るたあ、笑止千万!」

と苦笑いしながら、

「辛気臭え!」

と怒鳴りつけた。それを聞きつけた部屋頭も、これを見つけて、

「こともあろうに我等が下衆(げす)の大部屋に仏像を置いた例(ためし)は、これ、御座らぬ! 早々に片付け、何処ぞへ処分致すべし!」

と叱責された。かと言うて捨てる訳にも参らぬによって、この中間、詮方なく、買(こ)うた古物商の元へ持ち参り、

「……この仏像、お返し致す。」

と申した。ところが店主(あるじ)曰く、

「一旦商(あきの)うて、気に入らぬと、その日か、その翌日にてもあれば、引き請けもしようが、かく日数(ひかず)も過ぎてお返しになられ、それを請けて返金致いたとなれば、他(ほか)の商売の悪しき例(ためし)ともなります故、なりませぬ!」

と答えたので、中間は、

「……いや……価(あたい)を戻して呉れとは申すならば、尤もなること……。そうではない。金を返すには及ばぬ故、引き請けて呉れと申すのじゃ……。」

と答えたから、店主も不審に思い、

「……さて?……何ゆえに、そのように仰る?」

と訊ねるので、この中間、叱責された不快もあったか、口から出任せ、

「……何、実はの……この仏を買(こ)う帰って、日々礼拝尊崇致いて御座ったのだが……とかく『……元の所へ戻されよ!……』と……この仏が、あ、夢となく、現の幻しとなく……お立ちになられ……うるそうて堪らぬ。……さればこそ、只で、返すのじゃて……」

と語ったところ、店主も、

「……ほう?! されば置いておかれるがよい。」

と請け取った。

 ――――――

 さても中間が帰って後(のち)、店主は、かの金仏(かなぼとけ)を厳かに礼拝致いて、

「……さては……謂われある作仏(さくぶつ)で御座った、か! さればこそ……俗家(ぞっか)に置いておくは、これ、畏れ多いことじゃて……」

と、その古仏を近所にあった店主の家の菩提寺に納めに参り、中間が口から出任せの一部始終を洩らさず寺僧に語る。

 これを聴いた寺僧も全く以って奇異なることと存じ――いや、ほれ、「一犬虚に吠ゆれば萬犬(ばんけん)實を傳う」の譬えに違(たご)うことなく――近隣にては、最早、この話で持ち切りとなって、もちきりとなり、暫しの間は、この仏像(ほとけ)への参詣の者、雲霞の如く群れを成した、ということで御座った。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月12日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十回

Kokoro15_16   先生の遺書

   (八十)

 「Kと私は同じ科に居りながら、專攻の學問が違つてゐましたから、自然出る時や歸る時に遲速がありました。私の方が早ければ、たゞ彼の空室(くうしつ)を通り拔ける丈ですが、遲いと簡單な挨拶をして自分の部屋へ這入るのを例にしてゐました。Kはいつもの眼を書物からはなして、襖を開ける私を一寸(ちよつと)見ます。さうして吃度(きつと)今歸つたのかと云ひます。私は何も答へないで點頭(うなづ)く事もありますし、或はたゞ「うん」と答へて行き過ぎる塲合もありました。

 ある日私は神田に用があつて、歸りが何時もよりずつと後れました。私は急ぎ足に門前迄來て、格子をがらりと開けました。それと同時に、私は御孃さんの聲を聞いたのです。聲は慥(たしか)にKの室から出たと思ひました。玄關から眞直に行けば、茶の間、御孃さんの部屋と二つ續いてゐて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、といふ間取なのですから、何處で誰の聲がした位(くらゐ)は、久しく厄介になつてゐる私には能く分るのです。私はすぐ格子を締めました。すると御孃さんの聲もすぐ己(や)みました。私が靴を脫いでゐるうち、―私は其時分からハイカラで手數のかゝる編上を穿いてゐたのですが、―私がこゞんで其靴紐を解いてゐるうち、Kの部屋では誰の聲もしませんでした。私は變に思ひました。ことによると、私の疳違ひかも知れないと考へたのです。然し私がいつもの通りKの室を拔(ぬけ)やうとして、襖を開けると、其處に二人はちやんと坐つてゐました。Kは例の通り今歸つたかと云ひました。御孃さんも「御歸り」と坐つた儘で挨拶しました。私には氣の所爲(せゐ)か其簡單な挨拶が少し硬いやうに聞こえました。何處かで自然を踏み外してゐるやうな調子として、私の鼓膜に響いたのです。私は御孃さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひつそりしてゐたから聞いて見た丈の事です。

 奥さんは果して留守でした。下女も奥さんと一所に出たのでした。だから家に殘つてゐるのは、Kと御孃さん丈だつたのです。私は一寸首を傾けました。今迄長い間世話になつてゐたけれども、奥さんが御孃さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例(ためし)はまだなかつたのですから。私は何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした。若い女に共通な點だと云へばそれ迄かも知れませんが、御孃さんも下らない事に能く笑ひたがる女でした。然し御孃さんは私の顏色を見て、すぐ不斷の表情に歸りました。急用ではないが、一寸用があつて出たのだと眞面目に答へました。下宿人の私にはそれ以上問ひ詰める權利はありません。私は沈默しました。

 私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も歸つて來ました。やがて晩食の食卓でみんなが顏を合せる時刻が來ました。下宿した當座は萬事客扱ひだつたので、食事のたびに下女が膳を運んで來て吳れたのですが、それが何時の間にか崩れて、飯時には向ふへ呼ばれて行く習慣になつてゐたのです。Kが新らしく引き移つた時も、私が主張して彼を私と同じやうに取扱はせる事に極めました。其代り私は薄い板で造つた足の疊み込める華奢な食卓を奥さんに寄附しました。今では何處の宅でも使つてゐるやうですが、其頃そんな卓の周圍に並んで飯を食ふ家族は殆どなかつたのです。私はわざ/\御茶の水の家具屋へ行つて、私の工夫通りにそれを造り上(あげ)させたのです。

 私は其卓上で奥さんから其日何時もの時刻に肴屋(さかなや)が來なかつたので、私達に食はせるものを買ひに町へ行かなければならなかつたのだといふ說明を聞かされました。成程客を置いてゐる以上、それも尤もな事だと私が考へた時、御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出しました。然し今度は奥さんに叱られてすぐ己(や)めました。

Line_8

 

やぶちゃんの摑み:靜の悪戯っぽい笑いのアップと共に、遂に先生の嫉妬が発動する。

 

「Kと私は同じ科に居りながら、專攻の學問が違つてゐました」第(七十四)回注で示したように、私の推定は明治281895)年(又は前年)に二人が同時に第一高等学校に入学、二人は第一部(法学・政治学・文学)に入ったと考えている。また、第(二十五)回では「私」との関係で先生の専門を推定した。煩瑣を厭わず、その注内容を以下に示すと、即ち(二十五)の「私の選擇した問題は先生の專門と縁故の近いものであつた」という叙述により、先生の専攻した学科と「私」の専攻している学科が同一分野であることが分かるのである。その専門分野は勿論、理科ではなく文科であり、また本文から先生はその分野の新知識の吸収に最早積極的ではない(これで理科が完全に排除される)から、そのような新知識・新学説や今日的判断・新しい判例を必要とする法科ではあり得ないと考えた。そうなると漱石の専門であった英文科等が頭に浮かぶのであるが、そうした文学科や史学科であるにしては、先生と「私」との会話に一切そうした具体的会話が見出せない点、除外するべきであると思われる。そうなると哲学か宗教か心理学辺りが同定候補となるが、哲学や宗教はKの平生の言説から彼の専門分野と同定出来ること、及び「後では專門が違ましたから」という表現が現われるのでこれらも排除される。私は先生と「私」二人の専門は心理学ではなかろうかと踏んでいる。明治の末年と言えば心理学は正に急速に興隆してきた学問であった。新刊書も続々出現し、有島武郎や芥川龍之介等、多くの邦人作家もそうした学術書を参考にして実験的な小説を書いたりした。因みに作品名「心」にも相応しいし、統合失調症に罹患した(と私は考えている。諸説の一つには神経症との見方もある)経験のある漱石には複雑な思いはあったであろうが、興味深い学問ではあったはずだ。なお、当時の東京帝国大学の学科については、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の第(二十五)回の「練り上げた思想」の注に、東京帝国大学文科では『明治三十七年九月から従来の九学科制が廃止され、哲学科、史学科、文学科からなる三学科制がとられていた。ちなみに哲学科のなかの専修学科(明治43より)としては、「哲学及哲学史」、「支那学」、「印度哲学」、「心理学」、「倫理学」、「宗教学」、「美学」、「教育学」、「社会学」があった』とある。先生の卒業を私は明治311898)年に想定しているので、東京大学文学部のサイトで9学科制を確認すると以下の通りである。

 

第一 哲学科

第二 国文学科

第三 漢学科

第四 史学科

第五 博言学科

[やぶちゃん注:「はくげんか」。「言語学科」の旧称。「philology」の訳。]

第六 英文学科

第七 独逸文学科

第八 国史科

第九 仏蘭西文学科

 

以上の条件を総合し、この9学科を眺めると矢張り先生は第一哲学科が相応しい気がする。そうしてKは哲学史か宗教を専攻し、先生は心理学を取ったのではなかったか。そうして学生の「私」の卒業は明治451912)年であるから、上記の専修科について他の学科も再度確認しておくと、明治431910)年9月で3学科19専修学科を確認出来る。

 

第一 哲学科

  哲学・支那哲学・印度哲学・心理学・倫理学・宗教学・美学・教育学・社会学

第二 史学科

  国史学・東洋史学・西洋史学

第三 文学科

  国文学・支那文学・梵文学・英吉利文学・独逸文学・仏蘭西文学・言語学

 

矢張り学生の「私」が学んでいそうな専修学科は第一哲学科の心理学であろう。では先生の時代に遡った第一哲学科の「専門の學問」のデータとなるが、それについては本章の注で藤井氏が、『哲学科で必修を課せられている科目で「専攻の學問」と言えるようなものとして』以下の9科目を掲げておられる。

 

哲学史

論理学

心理学

東洋哲学

社会学

倫理学

審美学

教育学

精神病論

 

これら(藤井氏の叙述では総ての科目ではないようであるが)から、先生の専攻は心理学ととして、Kはどれであろう。Kの印象から真っ先に除去可能と思われるのは後半の5科目であろう。数理的な論理学も外してよいであろう。彼の広範貪欲な宗教や哲学思想への関心からは、哲学史か東洋哲学が考えられる。単なる総覧的なものには到底飽き足らないKである。哲学史はKには浅薄に思われたであろう。従って私は

 

Kの専攻は東洋哲学

 

と推定するのである。

 

「私は其時分からハイカラで手數のかゝる編上を穿いてゐた」先生は実はかなりお洒落である。格好いいのである。それだけでも私は先生になれないのである。

 

「今迄長い間世話になつてゐたけれども、奥さんが御孃さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例はまだなかつた」これは勿論、先生にとって理解し難い不審ではある。先生の言は事実であろう。しかし――そういう事実を常に意識して観察していた先生とは――これまた、やや普通ではないと言えないか。先生はそれまでの一年半程、常に今、この家内に誰がいて誰がいないかを不断に観察し続けていたということになるからである。

 

「私は何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした」及び「御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出しました」二度の「笑ふ女」といしての靜が登場する。ここには作者漱石自身の“Misogyny”(ミソジニー・女性蔑視・女性嫌悪)が投影されている。しかし――私も先生や漱石に同感である。この「笑ふ靜」は五人の貴公子に難題を出して破滅させてゆく「竹取物語」前半のかぐや姫のように珍しく「意地悪な靜」「ちょっと厭な靜」であり、ここに私は無意識的悪意を持った少女の面影を、更には“Femme fatale”「宿命の女」としての靜を見出すのである。但し私の「ファム・ファタール」の謂いは屈折した誤義としての「小悪魔的妖女」「確信犯として男を破滅させる悪女」の謂いではない。あくまで「宿命の女」を孕んだ少女である――私は芥川のように女は男にとって「諸悪の根源である」とは思われない(「侏儒の言葉」のそれはまたある種の芥川龍之介のポーズとしての“Misogyny”であった)。しかし確かに、次のようには言いたい欲求を抑えられないのである――女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち宿命そのものである――と。ここの靜の笑いは、先生のKへの嫉妬心の兆しの萌芽となる。正にそうした意味に於いて、「宿命的な笑い」ででもあるのではなかろうか。

 

「其代り私は薄い板で造つた足の疊み込める華奢な食卓を奥さんに寄附しました」「巨人の星」の世代である我々には至って馴染み深いチャブ台である。それをどこか「日本的」なもの、昔からの「庶民的」なものと認識間違いをしている若者は多いと思われる。ところがここでの先生の叙述を読めば分かる通り、これは極めて新しい習俗なのである。家庭的なチャブ台は出現し普及してから、高々百年ほどしか経っていないのである。以下、ウィキの「卓袱台」から引用する(記号の一部を変更した)。『卓袱台(ちゃぶだい)は、日本で用いられる四本脚の食事用座卓。一般的に方形あるいは円形をしており、折畳みができるものが多い。上座、下座という上下の関係があまり感じられず、昭和初期の家族の団欒を象徴するシンボルとして取り上げられる』。『1887年(明治20年)ごろより使用されるようになり、大正末期から昭和初期にかけて全国的な普及を見た』。『しかし1960年(昭和35年)ごろより椅子式のダイニングテーブルが普及し始め、利用家庭は減少していった』。その名称は『チャブダイと書く漢字としては卓袱台以外にも、茶袱台、茶部台、食机、その他にも古くは森田草平の『煤煙』や徳田秋声の『黴』で書かれている餉台などがあ』り、『地域によっても呼称は異なり、富山県、岐阜県、三重県、兵庫県、佐賀県、長崎県、熊本県などの一部ではシップクダイ、シッポクダイ、ショップクダイと、岩手県、富山県、岐阜県、滋賀県、鳥取県、島根県、愛媛県などの一部では飯台と呼称される場合がある』とする。『語源についても諸説あり、正確には判っていない』が、『有力なものとしては中国語でテーブル掛けを意味する卓袱(南中国音ではチャフ)から来たとするもの』や、『同じくご飯を食べることを意味する吃飯(チャフン、ジャブン)から来たとするもの、中国人移民からアメリカへ広まった料理チャプスイ(英語: Chop Sui、チョップスウイ、チョプスイ)が元になったとするものなどがある』。『1870年(明治3年)に仮名垣魯文が著した「萬国航海西洋道中膝栗毛」に既にチャブダイという言葉が西洋料理店の食卓を指す俗語として登場していることから、名称としてはこの頃には広まっていた可能性がある』。『卓袱台の標準的な形状としては正円形、楕円形、正方形、長方形の4種がある。製作上の無駄が多いことと、日本の住宅事情から長方形の形状をした卓袱台がもっとも多く利用された』。『大きさは直径60cmから240cmまでのものと、豆チャブと呼ばれた直径25cmから30cmくらいのものなどがあった。一般的な卓袱台を4人で囲む場合、一人当たりの使用スペースは膳を用いた場合よりも狭くなるが、皿の共有化がなされることで、結果的にゆとりが生じる』。『高さは15cmから24cmくらいが一般的であったが、これは時代を経る毎に高くなり、現在は30cm前後のものが一般化している』とある。先生が作らせたものは恐らく円形か楕円形で、身長が高いKに合わせて比較的高いタイプのものを先生が特注で作らせたとも考えられる(しかし、そうすると身長が低く低い箱膳に慣れていた御嬢さんや奥さんには少し不便になるから、高いとしてもここに示された24㎝内外のものであろうか)。『脚は丸脚、角脚、挽物脚などがあり、戦後に入ると金属製の脚が登場した。それぞれ固定のもの、折畳みが可能になっているものがある』。『素材は木製ではハリギリ製がもっとも多く、高級なものではケヤキやサクラが用いられた。それ以外にもタモ、マツ、シオジ、スギ、トチノキ、クリ、キハダなど様々な材料が使用され』、『塗装には漆塗りや蝋塗り、ニス塗り』があった。明治後期以前の本邦で食台の歴史が以下に示される(若い人は必読)。『撥脚台盤などといった大きな食卓を使う習慣は、奈良時代には既に中国より入っており、貴族社会においては同じ階級のものが同一食卓を囲む場合があったが、武士が強い支配力を持つようになると上下の人間関係がより重要視されるようになり、ほぼ全ての社会において膳を使用した食事が行われはじめた』。『江戸時代に入ると出島などでオランダ人や中国人などの食事風景を目にする機会が出るようになり、それらを真似た洋風料理店では座敷や腰掛式の空間に西洋テーブルを置き、食事を供する場が登場しはじめる』。『享保年間以降はこうした形式の料理屋が江戸や京にも出現し始め、そこで用いられるテーブルや座卓を「シッポク台」とか「ターフル台」などと呼称するようになった』。以下、卓袱台の普及と衰退について叙述される。『明治時代に入ると西洋館の建築などに伴い洋風テーブルの導入が進められた。町にも西洋料理店をはじめ、ミルクホールやビヤホールが生まれ、洋風テーブルの使用がなされるようになった。この頃には西洋料理屋を「チャブ屋」、西洋料理を「チャブチャブ」、そこで用いられるテーブルを「チャブ台」と呼称する俗語が誕生しており、チャブダイという名称は広く知られるようになった』。『1895年(明治28年)ごろになると折畳み式の座卓に関する特許申請が出るようになり、徐々にではあるが、座卓が家庭へと進出し始めたことが伺える。1903年(明治36年)には『家庭の新風味』において堺利彦が一家団欒という観点から膳を廃し、卓袱台の使用を呼びかけるなど、家庭への浸透が始まった』。私が考える本章の作品内時間はこの普及黎明期であった明治321899)年である。『1911年(明治44年)に農商務省が出した『木材の工芸的利用』によれば、卓袱台は東京のみで製造卸50件、販売問屋100件、職人500人、13000個の生産があったとされている』。『卓袱台はこの後昭和初期までに全国的な普及を見せるが、特に1923年(大正12年)の関東大震災を契機として膳から卓袱台へと移行した家庭が多かった』。『また、膳から卓袱台への移行により個人の食器よりも共用食器が増えたことから食器を洗う習慣が見られるようになり、定着したのもこの頃である』。しかし『卓袱台の生産は1963年(昭和38年)をピークに減少傾向に転じ、生活習慣の変化や洋風化指向の時代の流れに乗って次第にダイニングテーブルへと移り変わっていった』。『ダイニングテーブルを一般家庭の食卓にいち早く取り入れたのは農家であった。1948年(昭和23年)、GHQの指導により農村の生活改善運動が全国的に展開されると農村の台所事情は変化を見せはじめた』。『生活を楽にすることが主とした課題に挙げられ、土間を改善して食事場とし、野良仕事の土足のまま食事ができるようにするテーブルや座敷と土間の境界にテーブルを設けて半々で座る方式などが奨励された』。『農林省農業改良局が1954年(昭和29年)に出した『農家の台所改善 - 設計の仕方と実例』に既にその具体的手法が紹介されている』。『ダイニングテーブルが都市圏へ急激に浸透をはじめるのは1955年(昭和30年)ごろからで、日本住宅公団による集合住宅が販売されるようになってからであった』。『集合住宅にはダイニングキッチンの概念が取り入れられ、目的に即した利用がなされるよう、テーブルを作り付けにして売り出した。住宅公団は、洋風化のブームに乗りダイニングキッチンを大々的に宣伝し、販売実績を挙げるとともにテーブルの普及促進の役割を果たしたと言える』。『高度経済成長期に入るとこの流れはますます加速し、1966年(昭和41年)に13.6%だったダイニングテーブルの普及率は1988年(昭和63年)には67.3%となっ』てチャブ台は殆んどの家庭から姿を消すこととなった。

 以上、最後に本作の中でこの「チャブ台」がやはり重要なアイテムであることに着目して欲しいのである。それは、

○チャブ台なるものが正に「円」である点

 

○着座する者に対してランクを与えない点

 

である。――たかがチャブ台、されどチャブ台――である。]

 

2010/07/11

耳嚢 卷之三 聊の事より奇怪を談じそめる事

思ったよりも早く「心」のテクスト化と「やぶちゃんの摑み」を一先ず終え、自動更新システムで予約も完了したので、「耳嚢 卷之二」全訳注完成を受けて、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、「耳嚢 卷之三」の頁を創設、これより全10巻1000話全翻刻全訳注プロジェクト第3期を開始、とりあえず本日、冒頭第一話「聊の事より奇怪を談じそめる事」を収載した。

耳嚢 卷之三

 聊の事より奇怪を談じそめる事

 安永の初、本郷三念寺門前町に輕き御家人の宅の持佛堂の彌陀、自然と讀經なし給ふとて、信心の老若男女佛壇を拜し尊みけるが、段々其譯を糺(ただし)ぬれば、右持佛の後は糀(かうじ)屋の家境なるに、右境に蜂の巣を喰(くひ)て、子蜂ども爾々(じじ)と朝夕鳴(なり)しを聞て、與風(ふと)佛像の誦經(ずきやう)し給ふと言(いひ)罵りにして有りし由。皆々笑ひて三十日餘の夢を覺(さま)しけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:「卷之二」の最後が自力作善を戒める真宗坊主染みたぶっとびの稲荷神の説法であった。ここでは仏像が読経をするが、それは蜂の羽音であったという江戸の都市伝説(アーバン・レジェンド)で、トンデモ宗教絡みで連関すると言えなくはない。

・「安永の初」安永年間は西暦1772年から1781年。「安永三年」西暦1774年。

・「本郷三念寺」三念寺という寺は文京区本郷二丁目に現存する。真言宗豊山派の寺院で御府内八十八箇所第三十四番札所である。本尊は薬師如来。油坂を登った水道歴史館及び水道局本郷給水所公苑の北の道を隔てた反対側にある(現在はコンクリート2階建)。但し、本文でお分かりの通り、これはこの寺の門前町での話で、直接関係はない。――更に全く関係ないが――遂に漱石の「心」の同日公開を終えたばかり私には――「こゝろ」フリークの私には――ここは驚愕の場所なのだ! ここはあの先生の下宿のすぐ近く、私が0座標と呼ぶ富坂下柳町交差点、その第4象限の、先生がKを出し抜いて御嬢さんを呉れろと奥さんにプロポーズした後の、あの――「いびつな圓」の――ど真中にあるのである!

・「持仏堂」「輕き御家人」とあるからには、これは住居内にあるただの仏間・仏壇の謂いである。

・「糀屋」糀(こうじ:米・麦・豆・糠などを蒸し、これに麹(こうじ)菌を繁殖させたもので酒・醤油・味噌などを製するのに用いる。)を製造する商人の店。それを卸売りしたり、またそれで自家で甘酒屋や味噌等を製造した商店もあった。

・「蜂」私はこれは膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属ニホンミツバチ Apis cerana japonica であろうと踏んでいる。因みに訳で用いた「…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………」という音は、勿論、私の好きな夢野久作の怪作「ドグラ・マグラ」冒頭から採った。自分が何者かも分からぬ主人公「私」は、直後にこの音を「蜜蜂の唸るやうな」と表現している。……今の私の左耳はずっとこの音がしている……。……そうか! 私の左耳には……阿弥陀さまが入洞なさって……御念仏を称えておられるので御座ったか?!

・「與風(ふと)」が底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 ちょいとしたことから奇々怪々の噂話が始まるという事

 安永の初め、本郷三念寺の門前町の軽き身分の御家人の家でのこと、何と――その家(や)の仏壇の阿弥陀仏が、自ずと念仏をお唱えになる――という専らの噂で、近隣の信心深い老若男女、これまた群れを成して、かの家の仏壇を拝みに押し寄せてきたのであった。

 ところが、ある者が、これをよく調べてみたところが、この持仏の置かれた背後の壁の、丁度、裏側が隣り合った糀(こうじ)商いのお店(たな)との境になっていたのだが、その狭い隙間に、糀の甘みを嗅ぎつけてきたものか、蜂が群れて大きな巣を巣食うておったのであった。その巣の子蜂どもが、これまた朝な夕な、

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………

と絶えず羽音を立てて御座ったを聞いて、

――すわ! 仏像が読経なさって御座る!――

と早合点、愚かにも言い騒いでおったのじゃった、との由。

 皆々して大笑い致いての、三十日許りの儚き夢をば、蜂の羽音にぱっと醒ました、ということで御座った。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月11日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十九回

Kokoro15_15   先生の遺書

   (七十九)

 「私は蔭へ廻つて、奥さんと御孃さんに、成るべくKと話しをする樣に賴みました。私は彼の是迄通つて來た無言生活が彼に祟つてゐるのだらうと信じたからです。使はない鐵が腐るやうに、彼の心には錆が出てゐたとしか、私には思はれなかつたのです。

 奥さんは取り付き把(は)のない人だと云つて笑つてゐました。御孃さんは又わざ/\其例を擧げて私に說明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kは無いと答へるさうです。では持つて來ようと云ふと、要らないと斷わるさうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだと云つたぎり應對をしないのださうです。私はたゞ苦笑してゐる譯にも行きません。氣の毒だから、何とか云つて其塲を取り繕ろつて置かなければ濟まなくなります。尤もそれは春の事ですから、强ひて火にあたる必要もなかつたのですが、是では取り付き把がないと云はれるのも無理はないと思ひました。

 それで私は成るべく、自分が中心になつて、女二人とKとの連絡をはかる樣に力めました。Kと私が話してゐる所へ家の人を呼ぶとか、又は家の人と私が一つ室に落ち合つた所へ、Kを引つ張り出すとか、何方(どつち)でも其塲合に應じた方法をとつて、彼等を接近させやうとしたのです。勿論Kはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと起つて室の外へ出ました。又ある時はいくら呼んでも中々出て來ませんでした。Kはあんな無駄話をして何處が面白いと云ふのです。私はたゞ笑つてゐました。然し心の中では、Kがそのために私を輕蔑してゐる事が能く解りました。

 私はある意味から見て實際彼の輕蔑に價(あたひ)してゐたかも知れません。彼の眼の着け所は私より遙かに高いところにあつたとも云はれるでせう。私もそれを否みはしません。然し眼だけ高くつて、外が釣り合はないのは手もなく不具(かたわ)です。私は何を措(お)いても、此際彼を人間らしくするのが專一だと考へたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像(イメジ)で埋(うづ)まつてゐても、彼自身が偉くなつて行かない以上は、何の役にも立たないといふ事を發見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まづ異性の傍(そば)に彼を坐らせる方法を講じたのです。さうして其處から出る空氣に彼を曝した上、錆び付きかゝつた彼の血液を新らしくしやうと試みたのです。

 此試みは次第に成功しました。初のうち融合しにくいやうに見えたものが、段々一つに纏まつて來出しました。彼は自分以外に世界のある事を少しづゝ悟つて行くやうでした。彼はある日私に向つて、女はさう輕蔑すべきものでないと云ふやうな事を云ひました。Kははじめ女からも、私同樣の知識と學問を要求してゐたらしいのです。左右してそれが見付からないと、すぐ輕蔑の念を生じたものと思はれます。今迄の彼は、性によつて立塲を變へる事を知らずに、同じ視線で凡ての男女(なんにょ)を一樣に觀察してゐたのです。私は彼に、もし我等二人丈が男同志で永久に話を交換してゐるならば、二人はたゞ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだらうと云ひました。彼は尤もだと答へました。私は其時御孃さんの事で、多少夢中になつてゐる頃でしたから、自然そんな言葉も使ふやうになつたのでせう。然し裏面の消息は彼には一口も打ち明けませんでした。

 今迄書物で城壁をきづいて其中に立て籠つてゐたやうなKの心が、段々打ち解けて來るのを見てゐるのは、私に取つて何よりも愉快でした。私は最初からさうした目的で事を遣り出したのですから、自分の成功に伴ふ喜悅を感ぜずにはゐられなかつたのです。私は本人に云はない代りに、奥さんと御孃さんに自分の思つた通りを話しました。二人も滿足の樣子でした。

Line_7

 

やぶちゃんの摑み:

 

「私は彼の是迄通つて來た無言生活が彼に祟つてゐるのだらうと信じたからです。使はない鐵が腐るやうに、彼の心には錆が出てゐたとしか、私には思はれなかつたのです」この「のだらうと信じたからです」及び「としか、私には思はれなかつたのです」という陳述に着目せねばならぬ。その先生の推測は根本に於いて誤っていた、ということを今の先生は認めている、ということである。Kは何も肉体的にも精神的にも不健全不健康な方向へ向かってはいなかった、Kへの先生の『思いやりから行った善意の手だて』はその本質に於いて誤りであった、ということを今の先生は認めている、ということである。「不具(かたわ)」歴史的仮名遣いとしては「かたは」が正しい。一日遅れの翌日の『大阪朝日新聞』版では正しく「かたは」とある。

 

「私は何を措いても、此際彼を人間らしくするのが專一だと考へたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像(イメジ)で埋(うづ)まつてゐても、彼自身が偉くなつて行かない以上は、何の役にも立たないといふ事を發見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まづ異性の傍に彼を坐らせる方法を講じたのです。さうして其處から出る空氣に彼を曝した上、錆び付きかゝつた彼の血液を新らしくしやうと試みたのです」今回、ここを読みながら私が連想したのは、あの怪物であった。――Kの身長は高い。先生が見上げるほどに、である。「Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私は其時やつとKの眼を眞向に見る事が出來たのです。Kは私より脊の高い男でしたから、私は勢ひ彼の顏を見上げるやうにしなければなりません。私はさうした態度で、狼の如き心を罪のない羊に向けたのです。」(第(九十六)回=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十二)。――先生はK「の頭が偉い人の影像(イメジ)で埋まつて」いるだけ――魂の入っていない智の機械に過ぎないのだ気付き(=と思い込み)、その「彼自身」を「偉く」=「人間らしくする」「第一の手段として、まづ異性の傍に彼を坐らせる方法を講じた」。「さうして其處から出る空氣に彼を曝した上、錆び付きかゝつた彼の血液を新らしくしやうと試みた」(!)――「罪のない羊」を「心」を持った人間にすること――それは美事に『成功』したが、それは先生にとって「魔物のやうに思へ」(九十一)る怪物となり、先生「は永久彼に祟られたのではなからうかといふ氣さへ」(九十一)するに至った――そうですね? 先生?!――Dr.Victor Frankenstein?!――

 

……嵌ったぞ!……

 

――Kは“KUWAIBUTU”(怪物)のK――ここから僕の脳髄に黒い染みとなった妄想――“Frankenstein: or The Modern Prometheus 「フランケンシュタイン、或いは現代のプロメテウス」はフランケンシュタイン』(Frankenstein)は、イギリス女性小説家Mary Wollstonecraft Godwin Shelleyメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(179718511797年は寛政9年に、1851年は嘉永4年相当)が1818年(本邦では文化15・文政元年に相当)年に匿名で出版したもので、現在我々が知っているストーリーは1831年の改訂版によるものである(但し、実際には原作ではフランケンシュタインは博士ではなく一学生で、正当な科学者でさえない)。以下、ウィキの「フランケンシュタイン」の梗概を引用しようじゃないか(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

『スイスの名家出身の青年、ヴィクター・フランケンシュタインは科学者を志し故郷を離れてドイツで自然科学を学んでいた。だが、ある時を境にフランケンシュタインは、生命の謎を解き明かし自在に操ろうという野心にとりつかれる。そして、狂気すらはらんだ研究の末、『理想の人間』の設計図を完成させ、それが神に背く行為であると自覚しながらも計画を実行に移す。自ら墓を暴き人間の死体を手に入れ、それをつなぎ合わせることで11月のわびしい夜に怪物の創造に成功した

しかし、誕生した怪物は、優れた体力人間の心、そして、知性を持ち合わせていたが筆舌に尽くしがたいほど容貌が醜かった。そのあまりのおぞましさにフランケンシュタインは絶望し、怪物を残したまま故郷のスイスへと逃亡する。しかし、怪物は強靭な肉体を与えられたがために獣のように生き延び、野山を越えて遠く離れたフランケンシュタインの元へ辿り着いた。自分の醜さゆえ人間達からは忌み嫌われ迫害され、孤独のなか自己の存在に悩む怪物は、フランケンシュタインに対して自分の伴侶となり得る異性の怪物を一人造るように要求する。怪物はこの願いを叶えてくれれば二度と人前に現れないと約束するが、更なる怪物の増加を恐れたフランケンシュタインはこれを拒否してしまう(フランケンシュタイン・コンプレックス)。創造主たる人間に絶望した怪物は、復讐のためフランケンシュタインの友人・妻を次々と殺害。憎悪にかられるフランケンシュタインは怪物を追跡するが、北極に向かう船上で息を引き取る。そして、創造主から名も与えられなかった怪物は、怒りや嘆きとともに氷の海に消えた

   《引用終了》

以下、これを強引に「心」に書き換えてみようじゃないか。


――新潟の名家出身の青年であった先生は学者を志し故郷を離れて東京で人間の「心」を解明する心理学を学んでいた。だが、ある時叔父に欺かれ、更には故郷の人間達からは忌み嫌われ迫害されたのを境に先生は、激しい人間の「心」への不信に陥ることとなった。一方、怪物Kは自分の頑なさゆえに養家を欺き、故郷の人間達からは忌み嫌われ迫害されて、遂には実家からも勘当同然となったが、強靭な肉体を与えられたがために獣のように生き延び、やはり故郷新潟の野山を越えて遠く離れた東京の先生の下宿へ辿り着いた。生命の謎を解き明かし自在に操ろうという野心にとりつかれていた先生は、知性ばかりが先行する、どこか人間の心を欠いている(ように見えると先生が判断した)怪物Kを『理想の人間』にすべく、その設計図を完成させ、怪物Kの心を操作する計画を実行に移す。自ら『理想の人間』の心と思い込んだパーツをつなぎ合わせることで先生は遂に怪物の創造に成功したしかし、誕生した怪物は、優れた体力と人間の心、そして、知性を持ち合わせているように先生には思われてきて、あろうことかその怪物Kに対して激しい憎悪にかられるに至る。それは嫉妬であり、先生の愛する靜への怪物Kの感情移入への危惧に基づくものであった。そして遂に怪物Kは正に先生のその危惧の通り、自分の伴侶となり得る異性の怪物、靜を一人欲しいと要求するに至る。だが怪物Kは同時に自身の理想と現実の二項対立の中で激しく煩悶することとなる。孤独のなか自己の存在に悩む怪物Kは、創造主である先生にその助言を求める。しかし創造主でありながら、その被造物に我が身が滅ぼされるかもしれないと畏れる先生の 
Frankenstein Complex(フランケンシュタイン・コンプレックス)が「精神的に向上心のない者は、馬鹿だ」という創造主としての第一命題を突きつけて拒否してしまう。創造主たる人間に絶望した怪物K、創造主から名も与えられなかった怪物は、怒りや嘆きとともに自死する。しかし怪物Kは霊となって復讐のため先生の友人・妻にさえ暗い影を落とし続けるのであった。先生は自身の心に纏い付く怪物Kの影を追跡するが、明治という時代の船が沈み行くに際会して、その怪物Kの生成と消滅、更にはそうした自身の正しいと思った時代精神の中にあった自己の存在に思い至り、その明治と言う船の沈み行く船上で自ら命を絶って息を引き取るという生き方を選び取るのであった。

 

……う~む、我乍ら、こりゃ遣り過ぎじゃわい!――

 

♡「自分の成功に伴ふ喜悅感ぜずにはゐられなかつた」先生はKという存在、その精神を完膚なきまでに読み違え、全く見当違いのあらゆる誤った処方をKに施して自己満足に浸り、悦に入っている。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の藤井氏もここに注して『Kへの根本的な誤解に基づく自己満足に先生がひたっていることがわかる。』とお書きになっている。]

2010/07/10

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月10日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十八回

Kokoro15_14   先生の遺書

   (七十八)

 「私は奥さんからさう云ふ風に取扱かはれた結果、段々快活になつて來たのです。それを自覺してゐた私は、今それをKのために應用しやうと試みたのです。Kと私とが性格の上に於て、大分相違のある事は、長く交際つて來た私に能く解つてゐましたけれども、私の神經が此家庭に入つてから多少角が取れた如く、Kの心も此處に置けば何時か鎭まる事があるだらうと考へたのです。

 Kは私より强い決心を有してゐる男でした。勉強も私の倍位(くらゐ)はしたでせう。其上持つて生れた頭の質が私よりもずつと可かつたのです。後では專門が違ひましたから何とも云へませんが、同じ級にゐる間は、中學でも高等學校でも、Kの方が常に上席を占めてゐました。私には平生(へいせい)から何をしてもKに及ばないといふ自覺があつた位です。けれども私が强ひてKを私の宅へ引張つて來た時には、私の方が能く事理を辨(わきま)へてゐると信じてゐました。私に云はせると、彼は我慢と忍耐の區別を了解してゐないやうに思はれたのです。是はとくに貴方のために付け足して置きたいのですから聞いて下さい。肉體なり精神なり凡て我々の能力は、外部の刺戟で、發達もするし、破壞されもするでせうが、何方にしても刺戟を段々に强くする必要のあるのは無論ですから、能く考へないと、非常に險惡な方向へむいて進んで行きながら、自分は勿論傍(はた)のものも氣が付かずにゐる恐れが生じてきます。醫者の說明を聞くと、人間の胃袋程橫着なものはないさうです。粥ばかり食つてゐると、それ以上の堅いものを消化(こな)す力が何時の間にかなくなつて仕舞ふのださうです。だから何でも食ふ稽古をして置けと醫者はいふのです。けれども是はたゞ慣れるといふ意味ではなからうと思ひます。次第に刺戟を增すに從つて、次第に營養機能の抵抗力が强くなるといふ意味でなくてはなりますまい。もし反對に胃の力の方がぢり/\弱つて行つたなら結果は何うなるだらうと想像して見ればすぐ解る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全く此處に氣が付いてゐなかつたのです。たゞ困難に慣れてしまへば、仕舞に其困難は何でもなくなるものだと極(き)めてゐたらしいのです。艱苦(かんく)を繰り返せば、繰り返すといふだけの功德で、其艱苦が氣にかゝらなくなる時機に邂逅(めぐりあ)へるものと信じ切つてゐたらしいのです。

 私はKを說くときに、是非其處を明らかにして遣りたかつたのです。然し云へば屹度(きつと)反抗されるに極(きま)つてゐました。また昔の人の例などを、引合に持つて來るに違ひないと思ひました。さうなれば私だつて、其人達とKと違つてゐる點を明白に述べなければならなくなります。それを首肯(うけが)つて吳れるやうなKなら可(い)いのですけれども、彼の性質として、議論が其處迄行くと容易に後(あと)へは返りません。猶先へ出ます。さうして、口で先へ出た通りを、行爲で實現しに掛ります。彼は斯うなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壞しつゝ進みます。結果から見れば、彼はたゞ自己の成功を打ち碎く意味に於て、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。彼の氣性をよく知つた私はつひに何とも云ふ事が出來なかつたのです。其上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神經衰弱に罹つてゐたやうに思はれたのです。よし私が彼を說き伏せた所で、彼は必ず激するに違ひないのです。私は彼と喧嘩をする事は恐れてはゐませんでしたけれども、私が孤獨の感に堪へなかつた自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤獨の境遇に置くのは、私に取つて忍びない事でした。一步進んで、より孤獨な境遇に突き落すのは猶厭でした。それで私は彼が宅へ引き移つてからも、當分の間は批評がましい批評を彼の上に加へずにゐました。たゞ穩かに周圍の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。

 

  正誤  前回初「先生の座敷」とある

  は、「の座敷」の誤植

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やぶちゃんの摑み:前回の漱石の怒りを受けて最後の上記のような正誤訂正が入っている。底本では「先生」及び「私」に傍点「・」が附されているが、下線に代えた。

 

 

先生が超えられない存在としてのKが示される章である。

 

◎Kのプロフィル(Ⅲ)

・Kは「私より強い決心を有してゐる」男であった

・Kは私より「倍」勉強する男であった

・Kは私より生まれつきの才能が「ずっと」あった

・Kは私より中学・高校を通じて成績が常に「上席」にあった

私には普段から「何をしてもKに及ばない」という明確な自覚があった

 

致命的な劣等感である。この友人関係そのものが、私には不幸に思われる。

 

「是はとくに貴方のために付け足して置きたいのですから聞いて下さい」以下の部分、実は私は「心」の中で『いらない』と思うところなのである。漱石は真面目に語っているのだが、私には胃を悪くした漱石がタカジアスターゼ錠の壜を握って、自らが正しいと考える胃腸養生法=精神養生法のその要諦を、口角泡を飛ばして弁じている様が見えて来て、思わず噴飯してしまうところなのである。――これは遺書に書くことじゃあ、ないんじゃない? 少なくとも私ならこんなことを書いている暇は、ない!――当時の読者はどう思ったんだろう?――と、こんな減らず口を叩いているから、私には何時までたっても「こゝろ」の核心が見えて来ないのかもしれない――この、私が『いらない』と思い、噴飯物だと言い放つ、ここにこそ「こゝろ」のテーマは隠れているのかも、知れないなぁ……。

 

「多少神經衰弱に罹つてゐたやうに思はれた」のは誤りである。前章注で述べた通り、Kの精神は至って健全である。]

2010/07/09

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月9日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十七回

Kokoro15_13   先生の遺書

   (七十七)

「先生の座敷には控(ひかへ)の間といふやうな四疊が付屬してゐました。玄關を上つて私のゐる所へ通らうとするには、是非此四疊を橫切らなければならないのだから、實用の點から見ると、至極不便な室でした。私は此處へKを入れたのです。尤も最初は同じ八疊に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考へだつたのですが、Kは狹苦しくつても一人で居る方が好(い)いと云つて、自分で其方(そつち)のはうを擇(えら)んだのです。

 前にも話した通り、奥さんは私の此處置に對して始めは不贊成だつたのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商賣でないのだから、成るべくなら止した方が好いといふのです。私が決して世話の燒ける人でないから構ふまいといふと、世話は燒けないでも、氣心の知れない人は厭だと答へるのです。それでは今厄介になつてゐる私だつて同じ事ではないかと詰ると、私の氣心は初めから能く分つてゐると辯解して己(や)まないのです。私は苦笑しました。すると奥さんは又理窟の方向を更へます。そんな人を連れて來るのは、私の爲に惡いから止せと云ひ直します。何故私のために惡いかと聞くと、今度は向ふで苦笑するのです。

 實をいふと私だつて强ひてKと一所にゐる必要はなかつたのです。けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼は屹度それを受取る時に躊躇するだらうと思つたのです。彼はそれ程獨立心の强い男でした。だから私は彼を私の宅へ置いて、二人前の食料を彼の知らない間にそつと奥さんの手に渡さうとしたのです。然し私はKの經濟問題について、一言(ごん)も奥さんに打ち明ける氣はありませんでした。

 私はたゞKの健康に就いて云々しました。一人で置くと益(ます/\)人間が偏窟になるばかりだからと云ひました。それに付け足して、Kが養家と折合の惡かつた事や、實家と離れてしまつた事や、色色話して聞かせました。私は溺れかゝつた人を抱いて、自分の熱を向ふに移してやる覺悟で、Kを引き取るのだと告げました。其積であたゝかい面倒(めんたう)を見て遣つて吳れと、奥さんにも御孃さんにも賴みました。私はここ迄來て漸々(だん/\)奥さんを說き伏せたのです。然し私から何(なん)にも聞かないKは、此顚末を丸で知らずにゐました。私も却てそれを滿足に思つて、のつそり引き移つて來たKを、知らん顏で迎へました。

 奥さんと御孃さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何かをして吳れました。凡てそれを私に對する好意から來たのだと解釋した私は、心のうちで喜びました。―Kが相變らずむつちりした樣子をしてゐるにも拘らず。

 私がKに向つて新らしい住居の心持は何うだと聞いた時に、彼はたゞ一言(げん)惡くないと云つた丈でした。私から云はせれば惡くない所ではないのです。彼の今迄居た所は北向の濕つぽい臭のする汚ない室(へや)でした。食物(くひもの)も室相應に粗末でした。私の家へ引き移つた彼は、幽谷(いうこく)から喬木(けうぼく)に移つた趣があつた位(くらゐ)です。それを左程に思ふ氣色を見せないのは、一つは彼の强情から來てゐるのですが、一つは彼の主張からも出てゐるのです。佛敎の敎義で養はれた彼は、衣食住(いしよくちう)について兎角の贅澤をいふのを恰も不道德のやうに考へてゐました。なまじい昔の高僧だとか聖徒(セーント)だとかの傳を讀んだ彼には、動ともすると精神と肉體とを切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻すれば靈の光輝が增すやうに感ずる塲合さへあつたのかも知れません。

 私は成るべく彼に逆らはない方針を取りました。私は氷を日向へ出して溶かす工夫をしたのです。今に融けて温かい水になれば、自分で自分に氣が付く時機が來るに違ひないと思つたのです。

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やぶちゃんの摑み:この回の連載で漱石の怒りが遂に爆発する。お分かりの通り、この冒頭のとんでもない誤植(×「先生」→○「私」)によってである。こんな誤植が何故起こるのか、私も理解に苦しむガクブルものである。漱石は即日、朝日新聞の自身の担当者である山本に電話をかけるが、旅行中で通じないため、直ぐに朝日新聞編集長佐藤鎮一宛で書簡を認めている(岩波版旧全集書簡を底本とした。「先生の座敷」の「先生」部分及びその後の「私とかいた」の「私」には底本では「○」の傍点が付くが下線に代えた)。

七月九日 木 前九-10 牛込早稻田南町より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内佐藤鎭一へ〔封筒表の宛名に「朝日新聞編輯長殿」とあり〕

 拜啓小生小說「心」の校正につき一寸申上ます。校正者はむやみにてにをはを改め意味を不通にすることがあります。それからわざと字をかへてしまひます。今七月九日の最初の「先生の座敷」などは先生では全くトンチンカンにて分かりかね候。小生は先生と書いたる覺更に無之私とかいたと思へどそれもたゞ今は覺えず。小生は自分に校正の必要ありて訂正致さねばならず。甚だ御迷惑ながら御調を願ひます。夫から向後の校正にもう少し責任を帶びてやるやうにそのかゝりのものに御注意を願ひます。あれ以上出來ないなら已むを得ませんからゲラを小生の方へ一應御𢌞送を願ひます。小生の書いたものは新聞として大事でなくとも小生には大事であります。小生は讀者に對する義務をもつて居ります。小生は今日山本氏に電話をかけた處旅行中で留守であります、何處へ此事件を申していゝか分かりませんそれであなた宛で出します 以上

 

   七月九日      夏目金之助

 

  朝日新聞編輯長殿

 

Kの一件について筆の勢いがついてきた回であるだけに、漱石先生の癇癪は凄かったものと思ってよいであろう(一日遅れの7月10日(金)掲載の『大阪朝日新聞』では正しく「私」となっている)。その大事なKの内実を纏めておく。

 

 

◎Kの人間観

☆「精神」と「肉体」を区別する~霊肉二元論の原理主義者(ファンダメンタリスト)としての相貌

☆賤しい「汚穢」なる「肉」を常に「鞭撻」すれば必ず「霊」の至高の「光輝」へと繋がる

 →「精神」の絶対的価値を信仰、「肉体」を卑しみ、両者を二項として完全対峙させる

 

これは、Kが「霊」の「光輝」のためには「肉体」を容易に投げ打てる人間であることをも意味していることに注意せねばならぬ。

 

「私は溺れかゝつた人を抱いて、自分の熱を向ふに移してやる覺悟」先生が遺書で二度目に用いる「覺悟」の語である(初回は第(七十三)回)。溺れた遭難者Kは先生の舟板に縋りついた。先生は嘗て一緒に「檻の中で抱き合」ったようにKを抱いて温めてやった(七十三)――しかし私は皮肉にもここで「カルネアデスの舟板」を思い出してしまうのだ。――時が経って、先生の縋っていた舟板はKの重みで沈み始めた。このままでは先生自身の生命が危い。先生は、安心しきって疲れきって寝ているKをその隠し持ったナイフを取り出し、覚悟の中で喉笛を引き裂いて――海に沈めた――。

この先生のこの場合の行為は、

 

刑法第三十七条 緊急避難

1.自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

2.前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。

 

によって無罪となる――。

 

「私は氷を日向へ出して溶かす工夫をした」これといい、前の「私は溺れかゝつた人を抱いて、自分の熱を向ふに移してや」ったという言いといい、先生の優越的作善叙述は如何にも鼻につく。鼻を撲(う)つと言い直してもよい。そうした臭さを先生は意識する。だから次章冒頭で「私は奥さんからさう云ふ風に取扱かはれた結果、段々快活になつて來たのです。それを自覺してゐたから、同じものを今度はKの上に應用しやうと試みた」のだと、奥さんに振って自分への批判的視線を避(よ)けるのである。しかし、そうした合理化は我々も日常的に使う手法ではある――そして、普段から彼には「及ばない」というコンプレクスに打ちのめされていた先生が、ここでKに対して激しい優越感と異様な自己肥大を起したとしても、それは強ち、理解出来ないことでは、ない。]

2010/07/08

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月8日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十六回

Kokoro15_12   先生の遺書

   (七十六)

 「Kの事件が一段落ついた後で、私は彼の姊(あね)の夫から長い封書を受取りました。Kの養子に行つた先は、此人の親類に當るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、此人の意見が重きをなしてゐたのだと、Kは私に話して聞かせました。

 手紙には其後Kが何うしてゐるか知らせて吳れと書いてありました。姊が心配してゐるから、成るべく早く返事を貰ひたいといふ依賴も付け加へてありました。Kは寺を嗣いだ兄よりも、他家へ緣づいた此姊を好いてゐました。彼等はみんな一つ腹から生れた姉弟(きやうだい)ですけれども、此姊とKの間には大分年齒の差があつたのです。それでKの小供の時分には、繼母(まゝはゝ)よりも此姊の方が、却つて本當の母らしく見えたのでせう。

 私はKに手紙を見せました。Kは何とも云ひませんでしたけれども、自分の所へ此姊から同じやうな意味の書狀が二三度來たといふ事を打ち明けました。Kは其度に心配するに及ばないと答へて遣つたのださうです。運惡く此姊は生活に餘裕のない家に片付いたゝめに、いくらKに同情があつても、物質的に弟を何うして遣る譯にも行かなかつたのです。

 私はKと同(どう)じやうな返事を彼の義兄宛で出しました。其中に、萬一の塲合には私が何うでもするから、安心するやうにといふ意味を强い言葉で書き現はしました。是は固より私の一存でした。Kの行先を心配する此姊に安心を與へやうといふ好意は無論含まれてゐましたが、私を輕蔑したとより外に取りやうのない彼の實家や養家に對する意地もあつたのです。

 Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃になる迄、約一年半の間、彼は獨力で己れを支へて行つたのです。所が此過度の勞力が次第に彼の健康と精神の上に影響して來たやうに見え出しました。それには無論養家を出る出ないの蒼蠅(うるさ)い問題も手傳つてゐたでせう。彼は段々感傷的(センケメンタル)になつて來たのです。時によると、自分丈が世の中の不幸を一人で脊負つて立つてゐるやうな事を云ひます。さうして夫を打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未來に橫はる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くやうにも思つて、いら/\するのです。學問を遣り始めた時には、誰しも偉大な抱負を有つて、新らしい旅に上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍(のろ)いのに氣が付いて、過半は其處で失望するのが當り前になつてゐますから、Kの塲合も同じなのですが、彼の焦慮り方は又普通に比べると遙に甚しかつたのです。私はついに彼の氣分を落ち付けるのが專一だと考へました。

 私は彼に向つて、餘計な仕事をするのは止せと云ひました。さうして當分身體を樂にして、遊ぶ方が大きな將來のために得策だと忠告しました。剛情なKの事ですから、容易に私のいふ事などは聞くまいと、かねて豫期してゐたのですが、實際云ひ出して見ると、思つたよりも說き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはたゞ學問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養つて强い人になるのが自分の考だと云ふのです。それには成るべく窮屈な境遇にゐなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、丸で醉狂です。其上窮屈な境遇にゐる彼の意志は、ちつとも强くなつてゐないのです。彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる位(くらゐ)なのです。私は仕方がないから、彼に向つて至極同感であるやうな樣子を見せました。自分もさういふ點に向つて、人生を進む積だつたと遂には明言しました。(尤も是は私に取つてまんざら空虛な言葉でもなかつたのです。Kの說を聞いてゐると、段段さういふ所に釣り込まれて來る位、彼には力があつたのですから)。最後に私はKと一所に住んで、一所に向上の路を辿つて行きたいと發議(はつぎ)しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪まづく事を敢てしたのです。さうして漸(やつ)との事で彼を私の家に連れて來ました。

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やぶちゃんの摑み:先生がKを下宿に招いた理由が示される。勿論、そこにはKが養家を欺くことに賛同したことへの責任性を基底としているが、実際にはKの精神的変調を心配してのことであった。取り敢えずは、自己の精神状態にある種の変調を見出すにある時は敏感、ある時は極めて鈍感な先生の精神が、この時は極めて正常に(それは本当に正常と言えるか?)働いた結果、正しく(それは本当に正しいと言えるか?)Kの精神分析に成功したということである(それは本当に成功と言えるか?)

◎Kの決意

×「學問」≠人生の「目的」

○「意志の力を養つて強い人になる」=人生の「目的」=「道」

   ↓そのためには

 「なるべく窮屈な境遇にゐなくてはならない」

   ↓しかし現実には

●先生の分析

Kは決意実現のために「精進」を実践しているとは言えず、かなり重い神経衰弱になっている

   ↓しかし

Kは「剛情」で懐柔に容易に落ちない

   ↓そこで「仕方がな」いから

   ↓「彼に向つて至極同感であるやうな樣子を見せ」

○「彼の前に跪まづく事を敢てした」

 →第(十四)回の先生の言葉と直連関

「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未來の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犧牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」

   ↓具体的には

「自分も君と一緖に意志の力を養つて強い人になりたいのだ」と依願し、最後には「君と一所に住んで、一所に向上の路を辿つて行きたい」

とまでKに言明した(してしまった)行為を指す

 

以上、先生はここで総体に於いて「仕方がな」いから「彼の前に跪まづく事を敢てした」と自己合理化を始めていることに着目されたい。誰がどう言おうとこれは『自己合理化』である。先生がこの後に告白することながら、我々には既に想定可能な事実がある。そもそも先生は常にKを畏敬していた、Kに及ばないという意識を持っていたではないか(七十八)。そのK「の前に跪まづく事」は先生にとって「敢て」と条件付けなければならない技では、実は、なかったはずである。いや、なかったのだ――。

 

「Kは寺を嗣いだ兄よりも、他家へ縁づいた此姊を好いてゐました。彼等はみんな一つ腹から生れた姉弟(きやうだい)ですけれども、此姊とKの間には大分年齒の差があつたのです。それでKの小供の時分には、繼母(まゝはゝ)よりも此姊の方が、却つて本當の母らしく見えたのでせう」母性愛の欠損を補っていたのがこの姉であったが、その姉の姻族が養家であったのは、Kにとって逆に辛かったものと解される。Kはそのつもりはなくてもこの愛する母代わりであった姉に泥を塗ったことになるからである。その心痛は恐らくKにとって最も辛く激しいものであったのではあるまいか? 因みにここの「姉弟」の「姉」だけは表記の字体で他は「姊」である。

 

「此姊は生活に餘裕のない家に片付いたゝめに、いくらKに同情があつても、物質的に弟を何うして遣る譯にも行かなかつた」という点に於いてこの姉や義兄は先生への偏見を持っていなかった可能性が強いように思われる。なればこそ先生に宛ててKについての消息の問い合わせを出し得たのである。即ち、この義兄(姉の夫)は財産家ではなく、先生の一族やKの一族、そして義兄に繋がる養家一族の富裕グループとは一線を画していると読めるのである。なればこそ先生もそのような「Kの行先を心配する此姊に安心を與へやうといふ好意」を幾分かは込めて返事を認(したた)めたものの、全体は「萬一の塲合には私が何うでもするから」御心配なく、といった「强い言葉で書き現はし」たものとなってしまった。それは先の「私を輕蔑したとより外に取りやうのない彼の實家や養家」の先生の手紙の無視「に對する意地」に染め付けられた強烈なものであった。――この時点でも私は先生が自分の不評がKの一件に悪影響を与えていることに考えが及んでいない。いや、先生の生涯を貫くことになるアンビバレントな田舎憎悪が既に出来上がってしまっていたと言えるのである。

 

「感傷的(センケメンタル)」勿論、「チ」の誤植。

 

「それから自分の未來に橫はる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くやうにも思つて、いら/\するのです。學問を遣り始めた時には、誰しも偉大な抱負を有つて、新らしい旅に上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍(のろ)いのに氣が付いて、過半は其處で失望するのが當り前になつてゐますから、Kの塲合も同じじなのですが、彼の焦慮り方は又普通に比べると遙かに甚しかつたのです。私はついに彼の氣分を落ち付けるのが專一だと考へました」この部分、実は大学3年間の学問生活についての一般論を述べた部分であるにも拘わらず、先生やKがまるで卒業学年であるかのような錯覚を起してしまうところであるが(実際には先生の下宿に引き移る以前の描写であるからこのKは大学1年の年末から2年次半ば冬頃までである)、それ程にKが学問探究に真摯にして性急であったことを示すためではある。

 

「彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる」これは明言してよいが、Kは狭義の精神疾患としての当時の神経衰弱では、決してない。説明がまどろっこしいが、まず「神経衰弱」という疾患(病態)自体が現在、精神疾患の名称として用いられていない。以下、ウィキの「神経衰弱」から引用する。『神経衰弱(しんけいすいじゃく、英: Neurasthenia)は、1880年に米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である』。『症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから病名が輸入され日本でも有名になった』。『病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない』のである。ここで着目してよいのは、その当時であっても具体的症状として眩暈・筋緊張性頭痛・睡眠障害・消化不良といった身体症状が挙げられ、それに付随する形で強迫感や焦燥感を伴う不定愁訴がある、即ち、現在の心身症とほぼ同等のものを念頭に置いてよいということである。そのような観点から見てもKの状態は、正常範囲内にある。まず身体的な不具合を訴えておらず、先生はせいぜい怒りっぽくなったという変化を記すばかりであり、これは当時のKが置かれた状況を考えれば当然過ぎる正常な反応と考えられる。況や、自律神経失調症や神経症的病態は、この後の先生の叙述にも現われて来ない。Kは神経症や精神病ではない。しかし即ちそうした理解は、我々にKの自殺をそのようなものに帰して手っ取り早く分かったように処理することが不能である、という困難な事実を提示してもいるということに気付かねばならぬ。

 

「彼の前に跪まづく事を敢てした」冒頭に示した通り、これが第(十四)回の先生の言葉と直連関していることは疑いない。但し、新聞小説の読者がそのように、直連関を感じ、即座にその言葉を思い出したかと言えば、やや疑問が残る。私は過去に新聞の連載小説を数回読んだ記憶がある。一番はっきりと覚えているのは大学時分の井上靖の「四角な舟」(現代のノアの箱舟を目指そうとするけったいな人物の物語であったように思う)であったが、毎回切り抜きはしたものの、読みながら過去の回を読み返し覚えが殆んどない。当時の読者の読み方が如何なるものであったかは想像出来ない。新聞が大切に保存されたものかどうか分からぬが(私が小学校の頃、鹿児島の大隈半島のど真ん中の岩川の母の歯医者であった祖父の実家では毎日着実に便所の落とし紙に加工されていた)、単行本のように容易にフィード・バックはされなかったものとは思われる。

 閑話休題。第(十四)回の叙述を、ここに則して書き換えるならば、

 

「Kの膝の前に跪づいたといふ記憶が後に、今度は其Kの頭の上に足を載させるやうな結果を生んだのです。Kが私から未來の侮辱を受けたやうには――私は、あなたから未來の侮辱を受けたくはないのです。だから今のあなたからの尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私によつて御孃さんを吳れろといふ拔け驅けをされたことであの時Kが感じたであらう一層淋しい感じを――私は我慢するのは厭だ。だから代りに淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犧牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう。」

 

ということになろうか。]

2010/07/07

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月7日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十五回

Kokoro15_11   先生の遺書

   (七十五)

 「Kの手紙を見た養父は大變怒りました。親を騙すやうな不埒なものに學資を送る事は出來ないといふ嚴しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私に見せました。Kは又それと前後して實家から受取つた書翰も見せました。これにも前に劣らない程嚴しい詰責(きつせき)の言葉がありました。養家(ようか)先へ對して濟まないといふ義理が加はつてゐるからでもありませうが、此方(こつち)でも一切構はないと書いてありました。Kが此事件のために復籍してしまふか、それとも他(た)に妥協の道を講じて、依然養家に留まるか、そこは是から起る問題として、差し當り何うかしなければならないのは、月々に必要な學資でした。

 私は其點に就いてKに何か考があるのかと尋ねました。Kは夜學校の教師でもする積だと答へました。其時分は今に比べると、存外世の中が寬ろいでゐましたから、内職の口は貴方が考へる程拂底でもなかつたのです。私はKがそれで十分遣つて行けるだらうと考へました。然し私には私の責任があります。Kが養家の希望に背いて、自分の行きたい道を行かうとした時、贊成したものは私です。私は左右かと云つて手を拱(こまぬ)いでゐる譯に行きません。私は其塲で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳ね付けました。彼の性格から云つて、自活の方が友達の保護の下に立つより遙かに快よく思はれたのでせう。彼は大學へ這入つた以上、自分一人位(くらゐ)何うか出來なければ男でないやうな事を云ひました。私は私の責任を完(まつた)うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思ふ通りにさせて、私は手を引きました。

 Kは自分の望むやうな口を程なく探し出しました。然し時間を惜む彼にとつて、此仕事が何の位辛かつたかは想像する迄もない事です。彼は今迄通り勉强の手をちつとも緩めずに、新らしい荷を脊負つて猛進したのです。私は彼の健康を氣遣(きつか)ひました。然し剛氣な彼は笑ふ丈で、少しも私の注意に取合ひませんでした。

 同時に彼と養家との關係は、段々こん絡(がら)かつて來ました。時間に餘裕のなくなつた彼は、前のやうに私と話す機會を奪はれたので、私はついに其顛末を詳しく聞かずに仕舞ひましたが、解決の益(ます/\)困難になつて行く事丈は承知してゐました。人が仲に入つて調停を試みた事も知つてゐました。其人は手紙でKに歸國を促がしたのですが、Kは到底駄目(ため)だと云つて、應じませんでした。此剛情な所が、―Kは學年中で歸れないのだから仕方がないと云ひましたけれども、向ふから見れば剛情でせう。そこが事態を益(ます/\)險惡にした樣にも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、實家の怒りも買ふやうになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果もありませんでした。私の手紙は一言の返事さへ受けずに葬られてしまつたのです。私も腹が立ちました。今迄も行掛り上、Kに同情してゐた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする氣になりました。

 最後にKはとう/\復籍に決しました。養家から出して貰つた學資は、實家で辨償する事になつたのです。其代り實家の方でも構はないから、是からは勝手にしろといふのです。昔の言葉で云へば、まあ勘當(かんたう)なのでせう。或はそれ程强いものでなかつたかも知れませんが、當人はさう解釋してゐました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに繼母(けいぼ)育てられた結果とも見る事が出來るやうです。もし彼の實の母が生きてゐたら、或は彼と實家との關係に、斯うまで隔りが出來ずに濟んだかも知れないと私は思ふのです。彼の父は云ふまでもなく僧侶でした。けれども義理堅い點に於て、寧ろ武士(さむらひ)に似た所がありはしないかと疑はれます。

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やぶちゃんの摑み:私は、この章部分を大切にしたいと思う。何故なら、この章で先生は一緒に住んでいたKと別れて、奥さんの下宿へと引き移っていると考えるからである。実は本作では、Kとの絡みの中で、どこで別居が始まった(奥さんの下宿に引き移った)かが、不思議なことに分明でないのである。私はとりあえず、本章の第二段落の最後、「それで彼の思ふ通りにさせて、私は手を引きました。」という瞬間にそれを求めている。これは大事なことだ。何故なら、そこが先生とKとの、精神の微妙な分岐点であるからである。先生は何故、Kと別居するシーンを描かなかったのか? これは「心」の大きな謎として、今、私の中に浮上してきた。

 

◎Kのプロフィル(Ⅱ)

・Kは自尊心・自立心が強い

 →極めて自律的な存在としてのKに先生は何処かで自分にはないタイプの精神の「強さ」を見、羨ましさ(嫉妬)を抱いている

・Kが「剛情」であるのは継母(生母とは死別)に育てられた結果であろうという私の推測

 →Kには母性愛の欠損及び抑圧され変形したエディプス・コンプレクスがあると考えてよい(それは漱石の生活史と重なる)

☆先生もKも『故郷喪失者』となった事

 

「手を拱(こまぬ)いでゐる」は誤りではない。これが正しい音で、現在の「こまねく」というのは「こまぬく」が音変化したものである。 本来は「腕組みをする」ことであるが、そこから多く「腕をこまぬく」といったの形で、「何もしないで傍観する」の意となった。但し、「で」は接続助詞「て」の濁音化で、用法としては誤りである。ガ行五段活用動詞のイ音便形に接続する場合(「脱いで」「嗅いで」等)と誤って用いたものと思われる。

 

「私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果もありませんでした。私の手紙は一言の返事さへ受けずに葬られてしまつたのです。私も腹が立ちました。今迄も行掛り上、Kに同情してゐた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする氣になりました」先生の手紙が何故「何の効果も」ないのか? 「一言の返事さへ受けずに葬られてしまつた」のか? 先生が「腹が立」つ程無視されたのは何故か? 先生が「それ以降