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« 84年回忌河童忌記念 芥川龍之介 白 □旧全集版及び■作品集『三つの寶』版 | トップページ | 耳嚢 巻之三 丹波國高卒都婆村の事 »

2010/07/24

耳嚢 巻之三 神尾若狹守經濟手法の事 / 水野和泉守經濟奇談の事

今日は、昨日までの三日間、僕の「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」を補習で受けてくれた二年生の生徒諸君に敬意を表して(特に最終話を如何にも面白そうに微笑みながら聞いて呉れたあなたに感謝して)、「耳嚢 巻之三」に類話「神尾若狹守經濟手法の事」「水野和泉守經濟奇談の事」の二篇を収載した。

 

 

 神尾若狹守經濟手法の事

 若狹守いまだ五郎三郎たりし時、御納戸頭を勤けるが、其頃は御納戸向も御取入り等唯今の樣には無之御納戸にありし御有高(ありだか)等もつゞまやかならず、金銀其外毛類端物(たんもの)の類も、御番衆(ごばんしゆう)は勿論御用達(ごようたし)町人抔の宅々へ下げ置、御有高等も猥(みだり)成趣聞及びければ、五郎三郎御納戸頭被仰付御引渡し相濟て、支配の面々へ一統申談(まうしだんじ)けるは、御納戸御有物(ありもの)の諸帳面へ御有高引合改置可申(ひきあはせあらためまうすべき)間、來(きた)る幾日に其通心得可取計(とりはからふべき)旨申渡ぬ。かゝりしかば御番衆其外諸御用達も大きに騷ぎて、俄に取調べ紛失の品は夫々に償ひ、幾日といへる日限に至りければ、逸々(いち/\)帳面に引合改可被申(あらためまうさるべし)、自身改候にも及ばずとて、御有物の分へは封印をなして、其以來引續改けるゆへみだりなる事もなかりしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:ちょいとした一言が引き起こす大きな変化で連関。但し、こちらはぐうたら官僚への「喝!」を入れる確信犯である。

・「神尾若狹守」神尾春央(かんおはるひで 貞享4(1687)年~宝暦3(1753)年)のこと。ウィキの「神尾春央」から引用する。『勘定奉行。苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』。『下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子となる。元禄14年(1701年)仕官。賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み、元文元年(1736年)勘定吟味役に就任。さらに翌年には勘定奉行となる』。『時に8代将軍徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に延享元年(1744年)には自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約260年を通じて収税石高が最高となった』。『しかし、翌年松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなり、担当していた金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行などの諸任務が、春央の専管から勝手方の共同管理となったため、影響力は大きく低下した』。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして、また江戸時代の百姓の生活苦の形容として人口に膾炙している(ただし、逆に貧農史観のイメージを定着させてしまったともいえる)』とある(本文中の「松平乗邑」の名は「のりさと」と読む)。御納戸頭となったのが享保181733)年、47歳の時。

・「御納戸頭」将軍の手許の金銀や衣類調度の出納、献上品及び下賜品全般を扱う納戸方の長。定員2名。

・「御番衆」これは特定役職を限定して指す固有名詞ではなく、御小性(小姓)衆や御小納戸衆を始めとした将軍側近として近侍する諸役のこと。

■やぶちゃん現代語訳

 神尾若狭守春央殿御納戸頭就任時経済改革のために行った奇策についての事

 後に勘定奉行となられた神尾若狭守春央(はるひで)殿が、未だ神尾五郎三郎殿と名乗っておられた頃のことにて御座る。

 さても目出度く御納戸頭に就任されたが、その頃は、御納戸方の種々の物品納入等も、現在のようにはしっかりとしておらず、御納戸に実際に保管してある種々物品の在庫数は、とても適切な分量と言うには程遠く――そもそも出納自体がいい加減なものであったわけで――更には、金銀その他毛皮類及び反物の類いでさえ、御番衆が当然の如くに銘々で分けて勝手に保管したり、あまつさえ、御用達(ごようたし)町人どもの私邸に下げ降ろして保管して御座るという体(てい)たらく――いや、実際には御番衆や御用達町らが私物化し、中には流用してしまったために、物が手元にない者さえ御座るという噂――いや、これ、今だから申し上げるが、事実で御座った――。

 さても、そうした高価な金品の在庫数などまでも杜撰の極みである旨聞き及ぶや、神尾五郎三郎殿、御納戸頭着任早々、前任者からの諸業務引継ぎを万事終えるや、御自身支配の納戸方関係者全員を招集の上、以下の如く、申し渡しをした。

「――御納戸内所有物品に係る諸台帳に記載されている御納戸内物品在庫数に付き、台帳と実際の在庫数について一々引き合せて改め、確認するによって、来たる○月○日にそれを実施せんとする心積りにて用意致いておくように――。」

 かかればこそ、御番衆その他(ほか)諸御用達町人に至るまでも大いにうち騒いで、一人残らず俄かに己れが分の台帳やら、不当所有に係わる物品やらを取り調べ、紛失せる品は急遽、各々慌てて買い償う――瞬く間に御納戸内は鼠一匹入り込む隙がないほど在庫でギュウ詰めになって御座った。

 さても○日と言い渡したかの日限に至った――と、神尾五郎三郎殿、

「――あ――拙者が信頼しておる――諸君がそれぞれ担当の台帳にある一つ一つの物品と引き合わせて改めてくれたのであれば、それでよい――何も拙者自身が改むるにも及ばぬことじゃ――。」

と告げるや、御納戸内在庫分へはシッかと封印をなされ、それ以降は、神尾五郎三郎殿御自身が定期的に封印確認・台帳管理をされて厳重にお改めになったため、かつてのような杜撰なことは、もう二度と起こらなくなった、とのことで御座った。

 水野和泉守經濟奇談の事

 享保の初、御老職たりし水野和泉守、小身より出し人にて才力も勝れ、下々の事も能く辯(わきま)へたる人也し由。寶永元禄の文筆盛にして聊(いささか)驕奢の世の中たりし故、淺草御藏(おくら)等の御圍ひ米も思はしからず、其奉行共役人も勤かたゆるく、奸吏小身の輕き者抔の取計に任せ、納米(なふまい)なども町人へ預けて御藏に無之樣成事也しに、或日和泉守御勘定奉行を伴て、近日淺草の御藏へ罷越、御藏々不殘改め可申間、其心得有べしと申渡ける故、御勘定奉行より御藏奉行へ申渡けるにぞ、御藏奉行は勿論、御藏に拘はりし者共大きに肝を潰し、俄に藏前の米屋共へ申渡、有合(ありあひ)の米を御藏々へ積置て、猶不足の分は堀江町伊勢町其外の町々米屋共より米を借り受て俄に晝夜御藏へ積入ける。右騷動の樣子人を附て聞屆、此筋靜(しづま)りしと聞て、和泉守自身御勘定奉行抔同道にて御藏々を改め、戸前(とまへ)を開かせ逸々(いちいち)見屆て、扨々世上にては跡かたなき評判をいたすもの哉、御藏には御用米少く候由聞及びしに、今日見屆候へば其沙汰に事變りたる事にて恐悦是に過ず。然らば後來の爲なれば御用米の分は由自分封申べきとて懷中より印形(いんぎやう)せし封印紙を渡しける故、無處(よんどころなく)封印をなしけるが、米を貸しける米屋共よりは其返濟を願ひ、有體(ありてい)に沙汰なしては其役々の者身の上にかゝりぬれば、彼是取賄ひて事なく濟けるが、和泉守一時の計策にて御藏の御用米は調ひけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:ぐうたら官僚への「喝!」を入れる確信犯で連関、というより全く以ってほぼ相同の類話である。

・「水野和泉守」「卷之一」の「水野家士岩崎彦右衞門が事」で既出。水野忠之(ただゆき寛文9(1669)年~享保161731)年)江戸幕府老中。三河国岡崎藩第4代藩主であった譜代大名。元禄101697)年に御使番に列し、元禄111698)年4月に日光目付、同年9月には日光普請奉行、元禄121699)年、実兄岡崎藩主水野忠盈(ただみつ)養子となって家督を相続した(忠之は四男)。同年10月、従五位下、大監物に叙任している。以下、主に元禄赤穂事件絡みの部分は、参照したウィキの「水野忠之」からそのまま引用する。『元禄141701)年3月14日に赤穂藩主浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。』『また翌年1215日、赤穂義士47士が吉良の首をあげて幕府に出頭した後には、そのうち間十次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・間瀬孫九郎・茅野和助・横川勘平・三村次郎左衛門・神崎与五郎9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。』『大石良雄をあずかった細川綱利(熊本藩主54万石)に倣って水野も義士達をよくもてなした。しかし細川は義士達が細川邸に入った後、すぐさま自ら出てきて大石達と会見したのに対して、水野は幕府をはばかってか、21日になってようやく義士達と会見している。決して水野家の義士達へのもてなしが細川家に劣ったわけではないが、水野は細川と比べるとやや熱狂ぶりが少なく、比較的冷静な人物だったのかもしれない。もちろん会見では水野も義士達に賞賛の言葉を送っている。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って』9人の義士を切腹させている。その後は、奏者番・若年寄・京都所司代を歴任、京都所司代就任とともに従四位下侍従和泉守に昇進、享保2(1717)年『に財政をあずかる勝手掛老中となり、将軍徳川吉宗の享保の改革を支え』、享保151730)年に老中を辞している。

・「老職」老中。将軍直属で幕政を統轄し、大目付・町奉行・遠国奉行・駿府城代などの指揮監督、朝廷・公家・大名・寺社に関する事柄全般を直轄した。常時4~5名が月番で交替で勤務し、通常、3万石以上の譜代大名から補任されていた。

・「小身より出し人にて」ウィキの「水野忠之」によれば、彼は『三河国岡崎藩主水野忠春(5万石)の四男として水野家江戸屋敷で』生まれたが、延宝2(1674)年5歳の時に『親族の旗本水野忠近(2300石)の養子となって家督を継いだ』とあり、この事実に基づく誤解と思われる(「卷之一」の「水野家士岩崎彦右衞門が事」でも同じミスを根岸は冒している。たかだか50年後の都市伝説の中でありながら、出自がこれほど誤伝されるという事実が興味深い)。前注に示した通り、その後、30歳で実兄岡崎藩主水野忠盈養子となり、元の家督に戻って相続している。

・「享保の初」前の注で示した通り、水野忠之の老中在任は享保2(1717)年から享保151730)年であり、奇略の内容から考えて、就任直後のことと思われる。

・「淺草御藏」浅草にあった幕府最大の米蔵。大坂及び京都二条の米蔵と合わせて三御蔵と言った。元和6(1620)年に隅田川西岸の湾入部分を埋め立てて創設され、最大時は米蔵67棟、年間30万から40万石の米穀を出納した。

・「御勘定奉行」勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。

・「御藏奉行」蔵奉行。ウィキの「蔵奉行」によれば、『江戸浅草(浅草御蔵)をはじめとする主要都市にあった幕府の御米蔵の管理を司った奉行。勘定奉行の支配下にあり、役料200俵、焼火の間席。属僚として組頭、手代、門番同心、小揚者などがあった』。『蔵奉行という言葉の初出は慶長15年(1610年)とされ、江戸の浅草御蔵の成立は元和6年(1620年)成立と言われている。ただし、蔵奉行の組織の成立は経済的先進地であった上方の方が先んじており、大坂では元和7年(1621年)、京都では寛永2年(1625年、ただし寛政2年(1790年)までは京都町奉行支配下)、江戸では寛永13年(1636年)の事であった。また一時期は駿河国清水・近江国大津・摂津国高槻にも設置されたが、幕末まで存続したのは江戸・京都・大坂の3ヶ所のみである』。『何百石取りというように知行地のある地方知行の旗本とは別に、三十俵二人扶持というように御蔵米から3季に分けて切米を俸禄として貰う御家人(一部の旗本も含む)たちを蔵米知行・蔵米取りというが、彼らに渡す米穀を取り扱った。蔵米取りの御家人は自家消費分以外の切米(米穀)を、御米蔵の前に店を構える札差を通じて現金化した。浅草・蔵前の地名はこれが由来である』。また、底本の鈴木棠三氏の注によれば、『定員ははじめ三名であったが、後に増員された。部下に組頭、手代、同心、小揚之者頭、小揚之者などがいる。』とある。「小揚之者」は荷を実際に運搬する者の呼称。

・「御圍ひ米」幕府の兵糧米・災害対策用備蓄米のこと。上記の通り、そこから俸禄米も供出した。囲籾(かこいもみ)・囲穀(いこく)・置き米などとも呼んだ。

■やぶちゃん現代語訳

 水野和泉守忠之殿老中職在任時経済改革のために行った奇略についての事

 享保の初めのことである。

 当時、御老職を勤めた水野和泉守忠之殿は小身から出て出世なされた方で、才力も優れ、下々の民草のことまでも、よく弁えておられた方であった。

 この頃は未だ前代元禄・宝永の頃の瀰漫した文化の、悪しき余禄が盛んであって、聊か驕奢なる風潮が残る世の中であったため、実は天下の浅草御蔵などの御囲い米の備蓄管理でさえも、全く以って心許ない状態で御座った。御蔵奉行やその支配の役人らもお勤めに熱心でなく、御蔵の現状は、不届きなる下級の汚職官吏や、そうした奸吏と手を組んだ一部の身分の賤しい悪しき町人らの取り計らいに任せっ切りとなっており、何と定期に御蔵に納めねばならないはずの納米(のうまい)が一介の町人に預けられたままになって――それをまた町人が不当に転用して――御蔵にはない、というとんでもないことになっていたので御座った。

 ある日のこと、突然、老中和泉守忠之殿は勘定奉行を呼び出し、

「――近日――そなたと同道の上――浅草の御蔵へ参り、残らず御蔵、御改め致すによって、そのように心得よ――。」

と申し渡した。

 勘定奉行がそれを御蔵奉行へ申し渡したから、さあ、大変!

 御蔵奉行は勿論のこと、御蔵に関わる者ありとある者どもが、悉く肝を潰した。

 俄に蔵前に居並ぶ米屋どもへ命じて、ありとある米を一粒残らず御蔵に積み置かせて、それでも猶、不足する分は――事実それでは足りなんだ訳じゃ。それほど横領やら流用やらが進んで御座った訳じゃな――堀江町・伊勢町その他の米町の米倉から借り受け、昼夜兼行で御蔵にうず高く積み入れた――。

 ――さて、既に放って御座った密偵からてんやわんやの一部始終を聞き届け、更にその騒擾が一先ず落ち着いたという知らせを受けた和泉守殿は、やおら、勘定奉行などと同道の上、御蔵を改め、一つ一つ扉を開けさせて、内部をシッかと改めて御座った。そして如何にも満足げに言うよう、

「――さてもさても、世間にては、つまらぬ輩の、不届き千万なる噂を致すものじゃ、のう! その噂によれば――御蔵には御用米が殆んどない――なんどと聞き及んで御座ったれど――今日、こうして見届けに参れば――いや! もう、矢張り、その噂の根も葉もない流言蜚語でしかなかったこと、これ必定! さればこそ拙者は誠(まつこと)、恐悦至極! 然らばこそ拙者の向後のため――あのような流言蜚語に拙者が踊らされぬようにするために、一つ、これら総ての御用米の分の蔵には、拙者自らが封印を致す若くは、ない、のう――」

と言うや、和泉守殿、予め、用意して御座った印形(いんぎょう)鮮やかに押せし封印紙を蔵の数分、懐中よりざっと取り出だして係り役人に渡した。役人どもは致し方なく総ての蔵に封印を施した――。

 ――が――

……後日、当然のこととして、米を貸した米屋どもからは御蔵奉行に矢のような返済の催促――。

……そのままにして無視し続けていたのでは目安箱にでも訴えらるれば……

……この事実が露見するは必定さすれば……

……不逞町人不良下吏不肖役人背任奉行……

……御蔵管理に係わる者ども不行届に付き、一味同塵一蓮托生一網打尽と相成ればこそ、と……

――御蔵奉行以下諸々の者どもは身銭を切って何とか賄い、やっとの思いで事を済ませた訳じゃったが――かくして和泉守殿は、一時の奇計奇策によって、

『目出度く御蔵の御用米を調えました!

という訳じゃて!

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