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2010/07/19

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回

Kokoro15_2   先生の遺書

    (八十七)

 「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔(こんにやくえんま)を拔けて細い坂路を上(あが)つて宅へ歸りました。Kの室は空虚(がらんど)うでしたけれども、火鉢(ひはち)には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳(かざ)さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種(ひたね)さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。

 其時私の足音を聞いて出て來たのは、奥さんでした。奥さんは默つて室の眞中に立つてゐる私を見て、氣の毒さうに外套を脱がせて呉れたり、日本服を着せて呉れたりしました。それから私が寒いといふのを聞いて、すぐ次の間からKの火鉢(ひはち)を持つて來て呉れました。私がKはもう歸つたのかと聞きましたら、奥さんは歸つて又出たと答へました。其日もKは私より後れて歸る時間割だつたのですから、私は何うした譯かと思ひました。奥さんは大方用事でも出來たのだらうと云つてゐました。

 私はしばらく其處に坐つたまゝ書見をしました。宅の中がしんと靜まつて、誰の話し聲も聞こえないうちに、初冬の寒さと佗びしさとが、私の身體に食ひ込むやうな感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私は不圖賑やかな所へ行きたくなつたのです。雨はやつと歇(あが)つたやうですが、空はまだ冷たい鉛のやうに重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に擔いで、砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。其時分はまだ道路の改正が出來ない頃なので、坂の勾配(こうはい)が今よりもずつと急でした。道幅も狹くて、あゝ眞直ではなかつたのです。其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐるのと、放水(みづはき)がよくないのとで、往來はどろどろでした。ことに細い石橋を渡つて柳町(やなぎちやう)の通りへ出る間が非道(ひど)かつたのです。足駄(あした)でも長靴でも無暗に歩く譯には行きません。誰でも路の眞中に自然と細長く泥が掻き分けられた所を、後生大事に辿つて行かなければなりません。其幅は僅か一二尺しかないのですから、手もなく往來に敷いてある帶の上を踏んで向へ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になつてそろ/\通り拔けます。私は此細帶の上で、はたりとKに出合ひました。足の方にばかり氣を取られてゐた私は、彼と向き合ふ迄、彼の存在に丸で氣が付かずにゐたのです。私は不意に自分の前が塞がつたので偶然眼を上げた時、始めて其處に立つてゐるKを認めたのです。私はKに何處へ行つたのかと聞きました。Kは一寸其處迄と云つたぎりでした。彼の答へは何時もの通りふんといふ調子でした。Kと私は細い帶の上で身體を替せました。するとKのすぐ後に一人の若い女が立つてゐるのが見えました。近眼の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣り越した後で、其女の顏を見ると、それが宅の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました。御孃さんは心持薄赤い顏をして、私に挨拶をしました。其時分の束髪は今と違つて廂が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐる/\卷きつけてあつたものです。私はぼんやり御孃さんの頭を見てゐましたが、次の瞬間に、何方(どつち)か路を讓らなければならないのだといふ事に氣が付きました。私は思ひ切つてどろ/\の中へ片足踏(ふ)ん込(ご)みました。さうして比較的通り易い所を空けて、御孃さんを渡して遣りました。

 私は柳町の通りへ出ました。然し何處へ行つて好(い)いか自分にも分らなくなりました。何處へ行つても面白くないやうな心持がしました。私は飛泥(はね)の上がるのも構はずに、糠(ぬか)る海(み)の中を自暴(やけ)にどし/\歩きました。それから直ぐ宅へ歸つて來ました。

Line_2

やぶちゃんの摑み:

「蒟蒻閻魔を拔けて細い坂路を上つて宅へ歸りました」「蒟蒻閻魔」は現在の東京都文京区小石川2丁目にある浄土宗の寺院常光山源覚寺の別称。ウィキの「源覚寺」によれば、『寛永元年(1624) に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建された。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848年)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。再建は明治時代になったが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた』とある。この閻魔像は『鎌倉時代の作といわれ、寛文12年(1672年)に修復された記録がある1メートルほどの木造の閻魔大王の坐像である。文京区指定有形文化財にもなっており、文京区内にある仏像でも古いものに属する。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴でこれは、宝暦年間(1751-1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に備え続けたといわれている言い伝えによるものである。以来この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、当閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。また毎年1月と7月には閻魔例大祭が行われる』とある。この先生の叙述は先生の下宿が「蒟蒻閻魔を拔けて細い坂路を上つ」た先、坂の上の方にあること、登って富坂のある砲兵工廠方向(南)に下ったりしてはいないということ、下宿が高台の地にあることを示唆している。私が推測した旧中富坂町の北方部である可能性はこれによって立証されたものと思われる。 

――そして私は遂にネット上で誰もが自由に拡大縮小して見られる明治時代のここの地図を発見した!

「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」内の明治161883)年参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」(現所蔵番号:YG/1/GC67/To 002275675)である。

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-15.html

(注:「国際日本文化研究センター」は原則HP以外へのリンクを禁じているので以上のアドレス表示に留める。これをコピーしてアドレスに入れれば表示される)

これを拡大して見ると、

蒟蒻閻魔源覚寺の東は斜面に茶畑が広がる広大な個人の邸宅

であることが分かる。私が想定している本作中時間は明治311898)年頃であるが、明治421909)年の東京1万分の1地形図でも依然としてこの邸宅は残っている(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」付録地図等参照)。更に拡大してこの明治16年地図を仔細に見ると、

「寺覚源」の「寺」の字の右、墓の西に標高7.8 m

のマークがあり、そこから南へ大邸宅の茶畑の下の小路を南へ移動すると、

邸宅の垣根の東南の角に出、ここは標高9.2m、ここがこの道の最高地点

であることが分かる。先生はここを通った。だから「細い坂路を上つて」と言っているのである。この地点から南の方には先生の下宿はない。何故か? さっき言った通り、ここが最高地点で、ここから南のルートは坂を下る(砲兵工廠方向へ)からである。先生は

「細い坂路を上つて宅へ歸りました」

と言っているのであってみれば、更に

邸宅の垣根の東南の角標高9.2 m地点から西の坂を登ったすぐの南辺りに下宿はあった

(北は大邸宅の石垣又は壁であるからあり得ない)と考えるべきではあるまいか。この地図上の等高線を見ても、ここはかなりの高台となっており、源覚寺の南の善雄寺から西に伸びる坂の頂点、この大邸宅の西南の角の部分(既に小石川上富坂町内になる)は標高が21.2mもある。

先生の下宿――それは例えば、この地図の

標高17.0mマーク近辺、大邸宅の石垣の向かい辺り、「小石川中富坂町」と書かれた地名の「中」の字の辺りにあった

と想定してみても決して強引ではないのではあるまいか。

「坂の勾配が今よりもずつと急でした」上記の地図上で中富坂町から南に下った地点

「坂富西」の「坂」の字の右上の地点で標高15.77m

(因みに、そこからもう少し登った標高20.05mの北にある荒地は第(六十四)回で故郷を捨てた先生が住むための家を探して立ったあの場所である。「其頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐたものです。私は其草の中に立つて、何心なく向の崖を眺めました。今でも惡い景色ではありませんが、其頃は又ずつと趣が違つてゐました。見渡す限り緑が一面に深く茂つてゐる丈でも、神經が休まります。私は不圖こゝいらに適當な宅はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を横切つて、細い通りを北の方へ進んで行きました。」に現れる場所である)で、

旧富坂の次の下った標高地点は9.7m

であるから、実に

標高差6.07m

である。道路標識にある斜度を示す『%』は高低差(垂直長)÷地図上の距離(水平長)でされるが、

この両地点間を仮に約50mとして12(この斜度はもっとある可能性がある)

となる。非舗装道路で、しかも雨上がりのこの斜度の坂を高下駄で歩くとなると、かなりしんどい。

「ことに細い石橋を渡つて柳町の通りへ出る間が非道かつた」上記「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」を拡大してみると、旧富坂(地図では西富坂と地名表示あるところ)を下ったところにある

標高6.63m記号表示の東に小さな流れに架かる橋

がまずある。しかし更にこの道を東に辿ったところ、

憲兵隊屯所の南方、荒地の只中にも同様な橋

が認められる。

先の標高6.63m記号表示のある橋からこの橋までの間は120m

で、南側には

砲兵工廠の鰻の寝床のような建物

が認められ、これが先生の言う

「其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐる」

であることは間違いない。ということはこの後に続く

「ことに細い石橋を渡つて柳町の通りへ出る間」とは、この憲兵隊屯所の南方に位置する橋と柳町交差点の間を指している

と同定してよい。この

橋から柳町の間は約60m

であるが、実はここで気がついた!

よくこの地図を拡大して見て頂きたい!

橋のすぐ東に標高5.6mのマーク

があるが、

柳町交差点中央地点は6.2m

なのである! ここは

高低差60㎝で、この道が東の柳町交差点に向かって既に東方の小石川の台地の裾野にかかっていて逆にやや登り勾配であったことが分かるのだ!

私は若き日にここを読んだ際、坂を『下っている』先生が幾ら近視だったとは言え、Kや御嬢さんを目の前に来るまで視認出来なかったことを永く不審に思っていた。

しかし、これで眼から鱗だ!

即ち、先生はやや登り勾配であったから、足に気をとられていたからだけではなく、先生の視野には、向うから『下ってくる』形になる二人が入らなかったのである!

ここでは先生は道を下っていたのではなく『上っていた』のである!

――かくして我々は遂にこのシーンのロケ地を正しく発見した!

「蛇の目」蛇の目傘。笠の中心部分及び周辺を黒・紺・赤に塗って中央を白く抜き、蛇の目の形を表した傘。黒蛇の目・渋蛇の目・奴やつこ蛇の目などがある。元禄期に生れた高級傘である。以前、これを後掲する御嬢さんの髪の「蛇」の伏線として鬼の首を取ったように、ここにも既に「蛇」が出現している! と記した評論を読んだことがあるが、私の祖母などは普通に一般に傘を蛇の目と呼んでいたから、正直、その大真面目の文章を読みながら、失礼乍ら、私は失笑してしまった。今も私は「蛇の目」の『蛇』を次の御嬢さんの髪の『蛇』=闘争のシンボライズの伏線として漱石が確信犯で使用したとは、私には思われない。但し、私が「心」の監督なら、確かにこの傘の『蛇の目』をシンボリックに使って撮って見たいとは思う。またそれは『円』として連関する『目玉』としても映像化としても是非とも効果的に撮って見たい魅力的素材でもあるのであるが。

「足駄」足板の転かと言われる。古くは歯や鼻緒のある板製履物を総称する言葉であったが、近世以降は特に雨天時に使用する、通常の下駄よりも遙かに高い二枚歯のついた下駄。高下駄。

「私は不意に自分の前が塞がつたので偶然眼を上げた時、始めて其處に立つてゐるKを認めた」忘れてはいけない。Kは見上げるほど背が高い。且つ、彼も足駄風のものを履いて勾配のある道の上の方にいるのだ。見上げる巨人である。

「Kと私は細い帶の上で身體を替せました。するとKのすぐ後に一人の若い女が立つてゐるのが見えました。近眼の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣り越した後で、其女の顏を見ると、それが宅の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました」すぐ後には1m以上離れている印象ではない。だとすれば、先生の近視はかなり程度の重いものだと言える。かつ、眼鏡も合っていないようである。何故、合っていないのか? 合わないほど重いのではあるまい。これは恐らく、分厚いレンズをするのがお洒落じゃないからではないか? 先生はお洒落である。格好の悪い牛乳壜の底のような眼鏡をするのはいやなのではなかったろうか?

「其時分の束髪は今と違つて廂が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐる/\卷きつけてあつたものです」これは当時女学生の間などで流行していた束髪の一種である西洋上げ巻きのことか。例えば、こちら(理容「髪いじり」HP内)に「左の手にて髪の根を揃え、右の手にてその髪を3~4度右の方へねじり、適宜、髷(まげ)を頭の上に作り毛の先も根元に押し込み、ところどころをヘア・ピンで乱れぬようにして止める」という束髪法と画像がある。この髪型を「蛇のやうにぐる/\」とやらかした漱石は明らかに確信犯である。それは多様なシンボルとして機能しているように思われる。とりあえずはウィキの「ヘビ」の「文化の中のヘビ」からまず引用しておこう。『足を持たない長い体や毒をもつこと、脱皮をすることから「死と再生」を連想させること、長い間餌を食べなくても生きている生命力などにより、古来より「神の使い」などとして各地でヘビを崇める風習が発生した。最近でもヘビの抜け殻(脱皮したあとの殻)が「お金が貯まる」として財布に入れるなどの風習がある。また、漢方医学や民間療法の薬としてもよく使われる。日本でも白ヘビは幸運の象徴とされ特に岩国のシロヘビは有名である。 また、赤城山の赤城大明神も大蛇神であり有名であるといえる』。『日本の古語ではヘビのことを、カガチ、ハハ、あるいはカ(ハ)等と呼んだ。民俗学者の吉野裕子によれば、これらを語源とする語は多く、鏡(ヘビの目)、鏡餅(ヘビの身=とぐろを巻いた姿の餅)、ウワバミ(ヘビの身、大蛇を指す)、かかし(カガシ)、カガチ(ホオズキの別名、蔓草、実の三角形に近い形状からヘビの体や頭部を連想)等があり、神(カミ=カ「蛇」ミ「身」)もヘビを元にするという』。『 ただし、カガチはホオズキの古語、鏡の語源は「かが(影)+み(見)」、カカシはカガシが古形であり、獣の肉や毛髪を焼いて田畑に掛け、鳥や獣に匂いをカガシて脅しとしたのが始まりであって、それぞれ蛇とは直接の関係はないというのが日本語学界での通説である』。『ヘビは古来、世界的に信仰の対象であった。各地の原始信仰では、ヘビは大地母神の象徴として多く結びつけられた。山野に棲み、ネズミなどの害獣を獲物とし、また脱皮を行うヘビは、豊穣と多産と永遠の生命力の象徴でもあった。また古代から中世にかけては、尾をくわえたヘビ(ウロボロス)の意匠を西洋など各地の出土品に見ることができ、「終わりがない」ことの概念を象徴的に表す図象としても用いられていた。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教では聖書の創世記から、ヘビは悪魔の化身あるいは悪魔そのものとされてきた』。『ギリシャ神話においてもヘビは生命力の象徴である。杖に1匹のヘビの巻きついたモチーフは「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、欧米では医療・医学を象徴し、世界保健機関のマークにもなっている。また、このモチーフは世界各国で救急車の車体に描かれていたり、軍隊等で軍医や衛生兵などの兵科記章に用いられていることもある。また、杯に1匹のヘビの巻きついたモチーフは「ヒュギエイアの杯」と呼ばれ薬学の象徴とされる。ヘルメス(ローマ神話ではメルクリウス)が持つ2匹のヘビが巻きついた杖「ケリュケイオン」(ラテン語ではカドゥケウス)は商業や交通などの象徴とされる。「アスクレピオスの杖」と「ヘルメスの杖(ケリュケイオン)」は別のものであるが、この二つが混同されている例もみられる』。『また、インド神話においてはシェーシャ、アナンタ、ヴァースキなどナーガと呼ばれる蛇身神が重要な役割を果たしている。宇宙の創世においては、ナーガの一つである千頭の蛇アナンタを寝台として微睡むヴィシュヌ神の夢として宇宙が創造され、宇宙の構成としては大地を支える巨亀を自らの尾をくわえたシェーシャ神が取り囲み、世界を再生させるためには、乳海に浮かぶ世界山に巻き付いたヴァースキ神の頭と尾を神と魔が引き合い、乳海を撹拌することにより再生のための活力がもたらされる。これらの蛇神の形象は中国での竜のモデルの一つとなったとも考えられている』。『日本においてもヘビは太古から信仰を集めていた。豊穣神として、雨や雷を呼ぶ天候神として、また光を照り返す鱗身や閉じることのない目が鏡を連想させることから太陽信仰における原始的な信仰対象ともなった。もっとも著名な蛇神は、頭が八つあるという八岐大蛇(ヤマタノオロチ)や、三輪山を神体として大神神社に祀られる大物主(オオモノヌシ)であろう。弁才天でも蛇は神の象徴とされる場合がある。大神神社や弁才天では、神使として蛇が置かれていることもある。蛇の姿は、男根、剣、金属(鉄)とも結びつけられることから男性神とされる一方、豊穣神・地母神の性格としては女性と見られることも多く、異類婚姻譚の典型である「蛇女房」などにその影響を見ることができる』。さて、とりあえずここでは一番に多くの評者が指摘する、ネガティヴな邪性としての先生のKに対する戦闘・闘争の始動のシンボルとして漱石は用いていると見てよいと思われる。若き日に読んだ際の私もダイレクトにそのような比喩としてここを読んだ。しかし、同時にそれは、髪の持主である靜をも含めた登場人物総ての邪性やエゴイズム――はたまたグレート・マザー(太母)としての女性性――以前に私も示したウロボロスの「輪」――終わりがない先生の「ぐるぐる」――死と再生のスピリッチャリズムの「永劫回帰」――ゾルレンとして断ち切られるべき「循環」――いや、もしかすると全く逆にザインとしての「円環」の表象が、そこには暗示されているのかも知れない。――「円」――私にとって永遠にして最大の「こゝろ」の謎である。]

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