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2010/08/31

耳嚢 巻之三 明德の祈禱其依る所ある事

「耳嚢 巻之三」に「明德の祈禱其依る所ある事」を収載した。

 明德の祈禱其依る所ある事

 祐天大僧正は其德いちじるき名僧なりし由。或日富家の娘身まかりしに、彼娘折ふし一間なる座鋪(ざしき)の角(すみ)彷彿とたゝずみ居る事度々也。兩親或ひは家内の者の眼にもさへぎりけるにぞ、父母も大きに驚、狐狸のなす業や又は成佛得脱の身とならざるやと歎き悲み、誦經讀經なし或は祈念祈禱なしぬれど其印なければ、祐天まだ飯沼の弘經寺(ぐきやうじ)にありし此(ころ)、彼驗僧を聞て請じけるに、祐天申けるは、いづかたへ出候や、日日所をかへ候哉と尋しに、日日同じ所に出る由を語りければ、我等早速退散させ可申とて、右一間へ階子(はしご)をとり寄せ、火鉢に火を起して彼一室に入て誦經などなせしうへ、右亡靈の日日彳(たたず)みけるといへる處へ階子をかけ、祐天自身(おのづ)と天井を放し見しに、艷書夥しくありしを、一つかねに取りて直(ぢき)に火鉢の内へ入れ、あふぎ立て煙となし、此後必來る事有まじといひしに、果して其後かゝる怪しみなかりけると也。娘のかたらふ男ありて、艷書ども右天井に隱し置しに心掛り殘りけると、早くも心付し明智の程、かゝる智者にあらば祈禱も驗奇有べき道理也。

□やぶちゃん注

○前項連関:神霊玄妙直連関。但し、根岸は仏教には厳しい。従ってその謂いも「いちじるき名僧なりし由」であり、その「明德の祈禱」も論理的には何の不思議もない「其依る所ある事」であり、人がちょっと気づきにくい事実を「早くも心付し明智」はあると言える、「かゝる智者にあらば祈禱も驗奇有」ように見えるのは「道理也」と、智は称えるものの――根岸は殊更に「智者」と言っている。これは「論語」に言うところの、仁者に及ばざる「智者」の謂いであろう――先のような神道神霊の玄妙なる超自然力を認めている話柄ではないことに注意したい。そう雰囲気を全面に出した現代語訳にしてある。類話は「新選百物語」等にもあり、小泉八雲も「怪談」の“A Dead Secret”「葬られた秘密」でこの類話を英訳翻案している著名な話柄である(但し、そこでは娘は丹波国の商人稻村屋源助の娘お園、僧はその商家の檀家寺の住職である禅僧大玄和尚という設定になっている)。因みに、私はこの祐天上人絡みの怪談群が大の好みであり、従って祐天大僧正大ファンであるからして、この根岸の言い口には、普通以上に『異様に』引っ掛かるものがあるのである。そのようなバイアスのかかった私の現代語訳としてお読みになられたい。なお、「卷之二」で明らかにしたように、根岸の宗旨は実家(安生家)が禪宗の曹洞宗、養子先の根岸家は正しく「祐天大僧正」の浄土宗である。いや、だからこそ、表立っては批判していないのだとも言えそうである。

・「祐天大僧正」祐天(寛永141637)年~享保3(1718)年)江戸のゴースト・バスターとして知られる浄土宗の名僧。浄土宗大本山増上寺36世。以下、ウィキの「祐天」より引用する(一部記号を変更した)。『字は愚心。号は明蓮社顕誉。密教僧でなかったにも関わらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという』。『祐天は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、正徳元年(1711年)増上寺36世となり、大僧正に任じられた。晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した』。『祐天の奇端で名高いのは、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の亡魂を解脱させた話で、曲亭馬琴はそれをもとに「新累解脱物語」を著している。のちに三遊亭円朝の怪談「真景累ヶ淵」で有名となった』。

・「さへぎりける」先の話柄でも気になったがここまで来ると、根岸は「さへぎる」という語を誤って使っているということが確かになる。「さへぎる」(本来は「さいぎる」が正しいとする説が有力)は「間に隔てになるものを置いて、向こうを見えなくする」及び「進行・行動を邪魔してやめさせる」「妨げる」という意であるが、ここではどう見てもそう訳せない。彼は「眼を過(よ)ぎる」という意で用いているのである。ないもの(亡霊)があることで、見通せるものが遮られるの意でとるというのも、如何にも牽強付会である。

・「飯沼の弘經寺」現在の茨城県常総市豊岡町に所在する寿亀山天樹院弘経寺のこと。茨城県には「弘経寺(ぐぎょうじ)」と名のつく寺院が3つあるが、その中でも『飯沼の弘経寺』というのは、かつての「関東十八檀林」(江戸時代の浄土宗僧侶の養成機関)の一つとして多くの学僧を世に送り出し、関東の中心寺院として栄えた本寺を指す。開山は応永211414)年良肇(りょうちょう)が横曽根城主の帰依を得て建立した。良肇は弘経寺を浄土宗の学堂として優れた布教僧を輩出させた。天正3(1575)年に戦禍により諸堂宇を焼失して荒廃したが、17世紀初頭に了学なる僧を招いて復興、再び学問所として発展した。了学は徳川家康・秀忠・家光に厚遇された高僧で、秀忠の長女千姫(天樹院)もこの了学より五重相伝(浄土宗の教義の真髄や奥義を檀信徒に対して五つの順序に従って伝授する法会で、当時はめったに行われなかった秘中の儀式)を授けられ、弘経寺の再興に力を尽くしたという。現存する本堂は千姫の寄進による寛永101633)年建立のもので、堂内には伝千姫筆の寺号扁額が掲げられている。本堂左手には千姫廟所もある。落飾後の千姫の姿を描いた「千姫姿絵」を始めとした千姫関連の寺宝が多い。現在、弘経寺は東京芝大本山増上寺別院となっている(以上は、浄土宗HPの寺院紹介の「弘経寺 (浄土宗)茨城県常総市」等を参照しつつ、内容を整理したものである)。

■やぶちゃん現代語訳

 明徳と称せられる人物の祈禱力にはものによっては論理的にちゃんと説明可能な理由があるという事

 祐天大僧正は、その徳のあらたかなことでは、よく知られた名僧なのだそうである。

 ある時、富貴なる町家の娘が病のために身罷って後、かの死にし娘子が、折りにつけ、ある一間の座敷の隅に佇んでおる姿がぼんやりと見えること、これ、たびたび御座った。

 両親だけではなく、家内の者の眼にさえもその姿が実際に過(よ)ぎるということで、父母も大いに驚き――最早、親族の気の病いとは言い難きによって、

「……狐狸のなす業(わざ)にてもあろうか……または……もしや何らかの思いの残り、成仏解脱の身に、これ、成ること出来ず、浮ばれずにおるのであろうか……」

と嘆き悲しみ、相応の僧を招いて誦経読経なんど致いたり、あるいは種々の祈念やら祈禱やらも施してみたものの、一向に効験(しるし)なく、娘の亡霊は出現は跡を絶たなんだ。

 そこで――その頃は未だ飯沼の弘経寺(ぐきょうじ)にあったが、しかしもう既に霊験あらたかな法力の持ち主として名を馳せていたところの験僧――祐天を請じることと相成った。

 来る早々、祐天は、

「さても、その亡霊、何方(いづかた)へ出ますかの? 日によって出ずるところを変えるといったことは御座らぬかの?」

と父親に訊ねる。父は、

「……はあ、必ず何時も同じ所に、これ、出でまする……」

と語ったところ、祐天、即座に合点、

「なるほど!――では我ら、早速、怨霊退散させ申そうぞ!」

と、かの亡霊の出づるところの座敷内に梯子を持って来させて隅に寝かせ、火鉢に火を起こさせると、その一間に入り、総ての襖を閉じて、厳かに読経致し、それをし終えるや、すっくと立って、かの亡霊が日々佇んでおると聞いた場所へ自ずと梯子を掛け、天井を開け放った。

 ――そこには夥しい数の恋文の山が御座った。

 祐天は一通残らず一摑みにそれを取り上げ、一気に火鉢に投げ込むと、扇をもって煽ぎ立てて、忽ちのうちに煙と成し果たした。

 祐天、さわやかなる笑顔にて座敷を出づると、

「向後、決して娘子の幻、これ、現るること、御座るまい。」

と受けがって言った。――

 果たして、その後あのような怪異は、これ、全くなくなったのだということであった。――

 種を明かせば、亡き娘には密かに語り合(お)うた好いた男がおって、その男から貰(もろ)うた沢山の恋文や己れの文反古(ふみほうご)やらを、天井に隠していたのが、如何にも恥かしゅうて心にひっ掛かかり、心残りとなって御座ったのだ――という事実に、すぐさま気付いた祐天の明智の程は、大したもんである。こうした理を尽くして透徹した智者にてあってみれば、その祈禱の結果に、現実離れしたような玄妙奇瑞にさえ見える効験、これ――『あって見えて』――当然、というべき道理ではある。

2010/08/30

耳嚢 巻之三 三峯山にて犬をかりる事

「耳嚢 巻之三」に「三峯山にて犬をかりる事」を収載した。

 三峯山にて犬をかりる事

 武州秩父郡三峯權現は、火難盜難を除脱し給ふ御所にて、諸人の信仰いちじるき。右別當福有(ふくいう)にて僧俗の家從隨身(ずいじん)夥しく、無賴不當の者にても今日たつきなく欺きて寄宿すれば差置ける由。多くの内には盜賊など有て、金錢など盜取て立去らんとするに、或は亂心し或は腰膝不立、片輪などに成て出る事不叶。住僧は勿論隨身の僧俗も、右在山の内金子を貯(たくはへ)出んとするに、必祟有て表も持出る事叶はず。酒食に遣ひ捨る事は強て咎めもなき由、彼山最寄の者語りぬ。且又右三峯權現を信じ盜難火難除(よけ)の守護の札を付與する時、犬をかりるといふ事有。右犬をかりる時は盜難火難に逢ふ事なしとて、都鄙(とひ)申習はす事也。或人、犬を貸候といへど札を附(ふす)計(ばかり)也、誠の犬をかし給ふ事もなるべきや、神明の冥感(みやうかん)目にさへぎる事を賴ければ、別當得其意(そのいをえ)祈念して札を附與なしけるに、彼者下山の時ひとつの狼跡へ成り先へ成り附來(きたる)ゆへ、始て神慮の僞なきを感じ、狼ともなひ歸らんの怖さに、立歸りてしかじかの譯をかたり、疑心を悔て札計受たき願ひをなしける故、別當又其趣を祈て付屬なしければ、其後は狼も眼にさへぎらず有りしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:神事神霊玄妙直連関。

・「武州秩父郡三峯權現」現在の埼玉県秩父市三峰にある三峯神社のこと。ウィキの「三峯神社」より一部を引用する。『社伝によれば、景行天皇の時代、日本武尊の東征の際、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登り、伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。景行天皇の東国巡行の際に、天皇は社地を囲む白岩山・妙法山・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える』。『伊豆国に流罪になった役小角が三峰山で修業をし、空海が観音像を安置したと縁起には伝えられる』。『三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を雲取山と呼んでいる』。『中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。しかし、正平7年(1352年)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われ、衰退した』。『文亀年間(1501 - 1504年)に修験者の月観道満により堂舍が再興され、以降、聖護院派天台修験の関東総本山とされ、隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、三峯大権現と呼ばれた』。『江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし、「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された』。以下、本話柄と関わる「山犬信仰(三峯講)」の項。『三峰信仰の中心をなしているものに、御眷属(山犬)信仰がある。この信仰については、「社記」に享保12913日の夜、日光法印が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼が群がり来て境内に充ちた。法印は、これを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬の神札を貸し出したところ霊験があったとされる』。『また、幸田露伴は、三峰の神使は、大神すなわち狼であり、月々19日に、小豆飯と清酒を本社から八丁ほど離れた所に備え置く、と登山の折の記録に記している』。『眷属(山犬)は1疋で50戸まで守護すると言われている。文化141214日に各地に貸し出された眷属が4000疋となり、山犬信仰の広まりを祝う式があり、また文政8122日には、5000疋となり同様の祝儀が行われている。明治後期の文献と思われる「御眷属拝借心得書」には、御眷属を受け、家へ帰られたならば、早速仮宮へ祀られ注連縄を張り、御神酒・洗米を土器に盛り献饌し、不潔の者の立ち入らぬようにされたいとある。(仮宮へ祀るのは講で受けた場合で、個人で受けた場合神棚でよいとされる)』。

・「隨身」用心棒の類い。前話で示した僧兵同等の神人(じにん)で訳した。

・「神明の冥感目にさへぎる事」岩波版長谷川氏注に『神様の御加護を実際に目で見てみたい』とある。私は「さへぎる」である以上、「神の冥加の顕現があると言うが、実際にはこの眼には遮られて見えぬ」、即ち「神命の御加護が本当にあるというのなら、それをこの凡夫の眼にも見せてもらおうではないか」という不遜なる願いの意であろうと私は当初、思った。ただ長谷川氏の訳は本質的に私の解を含んだ簡約形とも感じられるので、「何としても神明あらたかなるところのご加護の御様(おんさま)、目の当たりに拝まさせて戴きとう、御座る」と幾分、援用させて頂いて訳してみた。ただ、訳した後、次の「明德の祈禱其依る所ある事」に出現する「さへぎる」を根岸は「眼を過(よ)ぎる」の意で誤って使っている可能性が濃厚であることがその訳作業の中で分かってきた。しかし、私のオリジナル訳の過程を現に残すものとして、このままとしたい。

・「付屬なし」依頼して。

■やぶちゃん現代語訳

 三峯山にて犬を借りるという事

 武州秩父郡の三峯権現は火難盗難を取り除く神にて、諸人の信仰、これ、著しい御社(おやしろ)である。ここの別当は到って裕福にて、僧俗の下男や怪しげなる神人(じにん)体(てい)の者どもも夥しくおり、無頼不逞の輩にても――その日の暮らしも立たず、嘆き縋りつく思いにて訪ねて寄宿を望まば――如何なる者にても拒まずに差し置くとの由。

 なればこそ、その内には盗賊なんどもおって、御社の金銭なんどを窃かに盗んでは立ち去らんとする者も稀におれど――そういう不届き者はたちどころに乱心し、或いは足腰立たず、片輪となって、山を出ずること、これ、能わぬことと相成る。住僧は勿論のこと、神人体(てい)の僧俗にても、山に在った内に貯えておった金子を持って山を下ろうとしても、やはり必ず祟りがあって、一銭だに持ち出だすことは、これ、叶わぬ。――ところが、これを山中にあって、酒食に使い捨つる分には、これと言った神罰のお咎めはない、との由。かの三峯山の近隣に住んでおる者が語ったことである。

 また、この三峯権現を信仰し、盗難火難除けの守護の御札を授ける際、『犬を借りる』と言い慣わしておる。この犬を借りる時は、決して盗難火難に遭うこと、これなし、と世間に広く言い習わしておるのである。

 ところが、ある人が、別当に、

「……犬をお貸し下さると言いながら、お授け下さるは、ただ札ばかりで御座る。……一つ、誠の犬なるもの、お貸し下さることは出来ませぬか?……ここは一つ、何としても神明あらたかなるところのご加護の御様(おんさま)、目の当たりに拝まさせて戴きとう、御座る。」

なんどと不遜なることを頼んだところ、別当、その願いの意を受け、特に祈念致いた御札を、以ってこの者に授けた。

 すると……かの者が下山の砌……一匹の狼……かの者の後になり、また、先になり……付き来(きた)ったればこそ……男、初めて神慮の偽りなきこと、これ、感じ入るとともに、神狼を伴(ともの)うて帰らんことの怖ろしさに、心底震え上がって……とって返すと、しかじかの訳を語るや、神意を疑(うたご)うたこと、心より悔い、御札ばかりを授かりたき旨、懇請致いた故に、別当、再びその趣きを祈念致いて授けたところが、その帰途には狼の姿も眼に過(よ)ぎること、これなく、無事下山致いた、との由で御座る。

2010/08/29

アリスの舞踏会の手帖

雪ちゃん 太郎 ジョン 小太郎 モモちゃん 花ちゃんetc.――一時間散歩をしてもアリスは一杯の友だちに出逢う――僕の知らない人が「アリス!」と名を呼ぶ……飼い主の僕とは……大違いだな……

親友S君が母の見舞いに訪れた

10年以上逢っていなかった親友のS君が、今、僕の家に母の見舞いに訪れて呉れた。僕のブログを読んで取り急ぎ自転車で駆けつけて呉れたのだった――ほんの数日前、母が病院に向かうタクシーの中で「S君はどうしてるの? (S君の)お母様はお元気かしら?」と言ったのを思い出した――ほんの一時、話しただけだったが、昔、そうしたのと同じように手を挙げて坂道を見送った。――別れてから、あれも話せばよかった、これも訊きたかったと思ったが――何か、そうだね、内心、忸怩たるものが、今の僕にも、昔と同じようにあるのだね――母が帰ってきたら、必ずまた訪れて呉れ給え――その時は、僕も禁酒を返上して、また昔のように痛飲しようよ――本当に、ありがとう!

芥川龍之介が永遠に最愛の「越し人」片山廣子に逢った――その最後の日を同定する試み

僕は2004年月曜社刊の片山廣子「燈火節」を求め、その巻末にある略年譜に目を通した際、おやっと思った。それは昭和2(1927)年、芥川龍之介が自死した年の記載である。

六月末、堀辰雄の案内で芥川龍之介が廣子の自宅を訪ねる。

とあったからだ。その次の行には、

七月二十四日、芥川龍之介、自宅で服毒自殺。

とある。

僕が不思議に思ったのは、芥川龍之介の年譜的事実の中に、この芥川龍之介の廣子訪問という記載は全く記憶になかったからである。直ぐに、芥川龍之介詳細年譜の濫觴にして僕の御用達本である鷺只雄氏の年譜(1992年河出書房新社刊「年表作家読本 芥川龍之介」)及び新全集の宮坂覺氏の最新詳細年譜を確認したが、やはり僕の失念ではなかった。――全く記載がない。

更に、本年春に僕が公開した昭和2(1927)年8月7日付片山廣子書簡(山川柳子宛)の中にも、次の一節を見出すことが出来る。

六月末にふいとわたくしの家を訪ねて下さいました堀辰雄さんを案内にして何かたいへんにするどいものを感じましたが、それが死を見つめていらつしやるするどさとは知りませんでした わたくしはいろいろと伺ひたい事もあつたのでしたが何も伺はずただ「たいへんにお黑くおなりになりましたね、鵠沼のせゐでせうか」などとつまらない事を云つておわかれしました それから一月經つてあの新聞を見た時の心持をおさつし下さいまし

勿論、「それから一月經つてあの新聞を見た時」という言葉は、7月24日の芥川龍之介自殺の報知を指していることは言うまでもない。

これらから、

自死の凡そ一ヶ月前の昭和2(1927)年6月末に芥川龍之介は弟子堀辰雄の案内で当時大田区の新井新宿三丁目(現在の山王三丁目)にあったと思われる片山廣子の自宅を訪問した

事実ははっきりしている。

そうして、これが芥川龍之介とその永遠の恋人越し人片山廣子の最後の邂逅の日であったと考えてよい。

今日になって僕は、この日を同定したい欲求に駆られてきた。

鷺・宮坂両氏のこの月の記載には大差がないが、宮坂版がやはりより詳細ではあるのでそれをベースとする。廣子の記載は、その書簡全体を読んで戴ければ分かる通り、亡き芥川龍之介への極めて悲痛なる思いを素直に親友へ語った私信であり、それに付随するこの記載は十分に信頼におくものである。なれば、言葉通り6月下旬月末に絞ってよい。そもそもこの6月の上旬は、芥川の盟友宇野浩二の発狂騒ぎで、芥川自身が中心になって入院手続などに奔走しており、そんな暇はなかった。中旬以降から見よう(根拠注記は省略した)。

15日

佐佐木茂索を鎌倉に訪ね(当時、佐佐木夫妻は鎌倉在住)、

偶然遊びに来た菅忠雄、川端康成と会う。この日は鵠沼一泊。

[やぶちゃん注:鷺は「夕食をご馳走になり、タクシーを呼んで鵠沼に泊まる」とある。]

16日

鵠沼から田端の自宅に戻る。

20日

「或阿呆の一生」を脱稿。久米正雄に原稿を託す文章を書く。

生前最後の創作集『湖南の扇』(初刊本)刊行。

[やぶちゃん注:『湖南の扇』刊行元は文藝春秋出版部。]

21日

「東北・北海道・新潟」を脱稿。

25日(土)

小穴隆一とともに谷中墓地に出かけ、新原家の墓参をする。

浅草の「春日」に行き、馴染みに芸者小亀と会う。この日は、小穴が泊まっていく。

この月、人を介して中野重治に面談を申し入れたが、中野の方から来訪し、夕食を共にする。

以下は既に7月の項となっている。

以上の記載から、廣子がはっきりと「六月末」、自死の7月24日の「一ヶ月」前と言っている点から、まず21日以降であることは間違いないと判断される。16日の田端帰還後は、芥川龍之介畢生の遺作たる「或阿呆の一生」の最終執筆と確認作業に、彼は細心の注意を払って入ったと思われ、また、久米への文章はその最後に、言わば久米への準遺書という認識の中で書かれたものと考えてよい。これらの脱稿までには物理的にも精神的にも芥川龍之介に廣子を訪ねる余裕はなかったはずであるからである。また、『湖南の扇』の刊行、その献呈本が手元に届くのを待つ必要があったと僕は考えているからである(芥川は訪問の際、間違いなくこの『湖南の扇』を手土産として携えて行ったに違いないと思われるからである。残念ながら廣子の蔵書の中にそれを現在確認することは出来ない。しかし廣子の「乾あんず」を読み給え。彼女の書棚には確かに、恐らく芥川から献本されたのであろう「羅生門」「支那游記」等の多くの著作が並んでいるではないか)。更に、「東北・北海道・新潟」の執筆があった。勿論、これはかねてより概ね完成していた原稿かも知れない。しかし、「或阿呆の一生」の超弩級の重量に比すれば、如何にも軽いアフォリズム集であり、私は同21日のうちに速成に書き上げて(当然、旅行中のメモを元にしているのであろうから芥川には一日で仕上げるのはそれ程困難なことではなかったはずである)脱稿したものと判断するからである。いや――実に、この二作こそ、芥川龍之介の傷ましき心が、廣子とダイレクトにジョイントする作品でもある――ということに気づいて欲しいのである。

「或阿呆の一生」には芥川龍之介の明白な廣子讃歌とその廣子への恋情を断ち切る傷心の悲歌「三十七 越し人」が載ることは人口に膾炙している。

      三十七 越 し 人

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

この「或阿呆の一生」脱稿の直後に芥川龍之介が、その心の中心に捉えていたのは廣子の面影以外の何者でもなかった、と僕ははっきりと言おう。

そして後者「東北・北海道・新潟」である。これを読んでいる方は、恐らく、そう多くはあるまい。

これは前述した通り、ルナール張りアフォリズムの『如何にも軽いもの』ではある――であるが、芥川にある記憶を呼び覚ます強力な効果があるものと僕は思っているのである。それについて、僕は僕の「東北・北海道・新潟」テクスト冒頭注で詳細な推理を展開してあるので、詳しくはそれをお読み戴きたいのであるが、要は則ち、あの講演旅行の新潟からの帰り

――芥川龍之介は軽井沢で廣子に逢った――

というのが僕の説なのである。これは殆ど確信に近い(宮坂年譜の日録では僕の推論は成立する可能性が著しく減衰しはするが、それでも完全に無理とは言えない。――また、鷺年譜では僕の推理の入り込む余地が十分にある。補足すると、宮坂年譜がこの旅からの5月25日帰郷を同定している、その根拠(下島勳の随筆。未見)を僕自身検証しておらず、是非を言い難いのである)。

その忍び逢いのシークエンスを、廣子は後に「五月と六月」というエッセイに記したのではなかったか?

と僕の思いは、かつてみるみる増殖した。その増殖のやや強引な実地検証が、昨年末にアップした僕の評論

片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲」

であった。

とりあえず、僕のこの夢想に付き合ってもらおう。

そうすると、俄然、この『21日 「東北・北海道・新潟」を脱稿。』という年譜的事実が、ある重大な心理的効果を以って見えてくるのである。

則ち、ほぼ丁度

一ヶ月前の25日か26日が、その廣子との軽井沢での密会

であった(そこには、この邂逅と同じく正に堀辰雄と思しい人物の影も動いている!)とすれば、「或阿呆の一生」「東北・北海道・新潟」の脱稿の直後、芥川には胸掻き毟る如き廣子への思いがフラッシュ・バックを繰り返して昂まってきていたと考えてよい。

すると、年譜の6月22日から24日迄の空白が、俄然、大きくクロース・アップされて僕には見えてくる。

――21日の「東北・北海道・新潟」の脱稿の後、芥川龍之介は即座に堀辰雄に連絡をとった。片山廣子と逢うための手筈をつけてもらうために。廣子が『堀辰雄さんを案内にして』という言い方をしたのは、廣子宅への芥川訪問に際して、都合やその他の伺いなどを、堀を通してかなり細心丁重に仕回したことを暗示させる。それには一日や二日は必要であろう(性急に伺いの翌日なんどに訪問するというのはダンディな芥川にとっては女性に対しては礼を失する行為として許されなかったはずである)。

言おう。

芥川龍之介が片山廣子をその自宅に訪問したのは――

 

芥川龍之介が永遠に愛した「越し人」片山廣子に逢った、その最後の日は――

 

昭和2(1927)年6月23日若しくは24日

 

ではなかったか。

 

もっと恣意的に牽強付会するなら、芥川龍之介自死の命日7月24日と同日、

 

昭和2(1927)年6月24日

 

のことではなかったか

廣子の後ろ髪引かれる如き、芥川の死の決意を汲み取れなかったことへの強い悔悟の念は、その訪問の日が自死と同日であったことによって、より高められたのではなかろうか?

勿論、「月末」である以上、例えば年譜の空白である26日から30日であってもおかしくはない。しかし、25日の谷中の実家新原家墓参は、亡き母及び父、己の宿命的血脈(けちみゃく)たる先祖への愛憎半ばした別れのためと読むことが出来る。その日、馴染み芸者を揚げたのも、この小亀なる贔屓の芸妓へ別れを告げるためであったととってよい(鷺年譜ではまさにそう書いてある)。

――則ち、この時点で芥川龍之介は総てを『滅びとしての或阿呆の一生』という現実の自分という作品を――

既にして『脱稿してしまっていた』のではなかったか?

先祖の墓参、そこから精進落としのように芸妓を揚げての別れ――これは『総ての完了』を意味しているように、僕にはとれるのである。

――だから、僕はそれ以前に、最後に愛した永遠の聖女との別れを配しておきたいのである。

これはそれぞれの生理的な趣味の問題の相違かも知れない。

そうした後に聖女には逢いたいとされる方もおられよう。

そういう貴方には――私が『総てが終わる前に逢う』という訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有って生れた性格の相違と云った方が確かも知れません――と先生のように言うしか、今の僕にはない、とのみ言っておこう。

最後に。

少なくとも、次回の芥川龍之介全集の年譜にあっては、この昭和2(1927)年6月末の部分に、

月末、堀辰雄を介して片山廣子の自宅を訪問、これが廣子との最後の邂逅となった

という記載を、是非載せて貰いたいというのが、僕のささやかな望みである。それは僕のためにではない――龍之介と廣子の美しくも哀しき純愛のために――である――

ぼく、失ぼうしちゃったな…………

人るいを何度も皆ごろしにしちゃうだけの、リトルボーイやファットマンやオネストジョンやマーヴなんていうすごい兵器をたくさん持ってるのに、アメリカはチリのこう山にとじこめられた人たちのためには、宇ちゅうで生きてゆく方ほうを教えてあげるだけなんだね。アメリカってケチだね。昔、アメリカはあそこのチリで、すき勝手なこと、いっぱいして、たくさんの人がしょ刑されるのを手伝ってたんだから、せめてさ、へなちょこ兵器しかないんだったら、オバマさんは国さいきゅう助隊にでん話して、うちではできませんからどうかジェット・モグラ(ほんとはモールっていうんだよ。ぼくだって3台持ってるんだ。プラモデルだけど)をだしてきゅう出してくださいってたのめばいいんだよ。ぼくたちの国だってさ、ほら、くろさわ明のおじさんの「用心ぼう」にでてた、しゅくば町のヤクザのオヤブンみたいなとっても人そうの悪いおじさんと、市民うんどうとかいうのでがんばってたころにはやさしいおにいちゃんだったおじさんとがさ、ぼくたちのことなんか無ししてけん力とう争とかいうよくわかんないことやってないでさ、科とく隊のペルシダーやウルトラけいび隊のマグマライザーの出動命れいを出せばいいんだよ(ぼくは形からいうとペルシダーの方がゼッタイいいな。マグマライザーはあんなしょぼいドリルでなんであんな大きなもんが地面の中に入っていけるのかよくわかんないんだもん)。そしたら、びゅうーんって地下700メートルなんかあっという間さ。そうしたらかんのおじさんのこと、だんぜん、そん敬しちゃうのになあ。そうしてくれたら、人そう悪いおじさんだって、お金のきたないことしたのも、さい判にかけないで、ゆるしてあげたくなるんだけどなあ(ぎゃくにいうとそう理大じんになったって悪いやつは悪いんだからさい判するのは、あたりまえなんじゃないのかなあ。ぼくはバカなのかな。テレビじゃみんなさい判からにげるために出ばしてるんだっていってるんだけどさ。こういうのを大人の言葉でいうと「本末転とう」っていうのかな?)。ぼく、何もかにも失ぼうしちゃったな…………(やぶ野直史)

耳嚢 巻之三 神明淳直を基とし給ふ事

「耳嚢 巻之三」に「神明淳直を基とし給ふ事」を収載した。

 神明淳直を基とし給ふ事

 日光御祭禮は、予度々登山(とうさん)なしける故、難有も時々拜見なしけるに、近郷近村五里十里の外より老若男女競ひ集(つどひ)て、木の枝柵の影に迄群集して見物する事也。神輿(しんよ)渡御の時は賽錢雨露のふるごとく、暫しが間は大地も色を變ずる程に錢を敷く事也。神人(じにん)あるひは御神領より出る百姓の御輿舁(みこしかつぎ)或ひは見物の小兒など拾ひけるにぞ、大樂院に、右賽錢も夥しき事ならん、定て御別當へ納(おさま)るべしと聞けるに、大樂院答けるは、渡御の節献じける賽錢、壹錢にても御別當所へ納る事にあらず、みな拾ひ候者其日の食酒等の飮食になす事にて、夫に付咄しあり、右散物を拾ひ守護となし或は酒食となすは、神明淳直を元とし給ふ故也、其たゝりなし、若(もし)多分に拾ひし者其身の貯(たくはへ)となす心得あれば、忽(たちまち)罰を蒙りしを幾度か見たりと語りぬ。左も有べき事と爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:日光神事神霊玄妙直連関。根岸は本当に神道には無邪気なほど無防備手放しで感心している。

・「日光御祭禮」日光東照宮春期例大祭及び神輿渡御祭のこと。古くは徳川家康忌日に当たる陰暦4月17日に行われた(現在は5月1718日)。家康は現在の静岡県久能山に葬られたが、二代将軍秀忠が家康の遺言によって、日光に社殿を創建、元和3(1617)年4月に、日光山に神霊を遷座した。その際の模様を再現したものがこの例大祭である。現行では本社から三基の神輿が東照宮から西隣りにある新宮権現二荒山神社(ふたらさん)拝殿に渡御した上、宵成祭と言ってここで一夜を過ごす(これは家康の御霊が西方浄土に移ったことをシンボライズするもので、翌日向かう御旅所は静岡久能山に見立てられたものという)。同日には石鳥居前表参道の馬場で流鏑馬が奉納される。翌日、神輿は二荒山神社を発し、御旅所に渡御されるが、その際、神輿を守る行列を俗に百物揃千人行列(ひゃくものぞろえせんにんぎょうれつ)、正式には神輿渡御祭(しんよとぎょさい)と言い、本話柄は往時のその行列の様を活写し、その縁起を述べるものである。この行列は元来は駿河の久能山から日光に神霊を移す際に仕立てた行列を模したもので、旧神領の産子(うぶこ:通常の神社の氏子のこと。)が表参道から御旅所まで神輿に付き従う仕来たりとなっている。行列が到着すると、御旅所本殿に神輿を据えて、拝殿で三品立七十五膳の神饌(しんせん)が供えられ、「八乙女の舞(やおとめのまい)」及び「東遊の舞(あづまあそびのまい)」の奉納舞いが演じれた後、再び行列は東照宮に還御して、祭礼を終了する(以上は、個人のHP「閑話抄」の中の歳時記に所収する「日光祭」の記載を大々的に参照させて頂いた)。

・「予度々登山なしける」根岸が「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(「卷之二」「神道不思議の事」より)したのは安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。

・「神人」これは「じにん」「じんにん」と読み、正規の神主よりもずっと下級の社家に仕えた下級神職、寄人(よりうど)を指す。ウィキの「神人」より引用する。『神人には、神社に直属する本社神人と、諸国に存在する神領などの散在神人とがある』。『神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった』。『京の五条堀川に集っていた祇園社(現八坂神社)の堀川神人は中世には材木商を営み、丹波の山間から木津川を筏流しで運んだ材木を五条堀川に貯木した。祇園社には、身分の低い「犬神人」と呼ばれる神人が隷属し、社内の清掃や山鉾巡行の警護のほか、京市内全域の清掃・葬送を行う特権を有していた』。『日吉大社の日吉神人は、延暦寺の権勢を背景として、年貢米の運搬や、京の公家や諸国の受領に貸し付けを行うなど、京の高利貸しの主力にまで成長した』。『石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権、水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)』。『上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた』とある。言わば、寺院に於ける僧兵のような役割を荷った者たちと思われる。

・「御神領より出る百姓の御輿舁」前の「日光御祭禮」注で示した旧神領の産子(うぶこ)の中から選ばれる。

・「大樂院」は前話にも登場した日光山輪王寺の中に置かれた管理運営機構の一つ。学頭修学院・東照宮別当大楽院・大猷院別当竜光院・釈迦堂別当妙道院・慈眼堂別当無量院・新宮別当安養院の以上五別当の他、新宮・滝尾・本宮・寂光・中禅寺の五上人、衆徒中・一坊中・社家といった階層組織を成していた。

■やぶちゃん現代語訳

 神の全智はあくまで篤く直きものにてあられる事

 日光の御祭礼は、私も仕事柄、何度も登山致いておれば、有り難くもたびたび拝見致いて御座る。

 近郷近村、五里十里もの遠方より、老若男女、競うように集い来たって、木の枝に取り付き、また柵の蔭に首ねじ入れ、数多(あまた)鈴成り、呆れんばかりに群聚(ぐんじゅ)致いて見物するので御座る。

 御輿渡御となれば、賽銭驟雨白露(びゃくろ)の降る如くにして、暫しの間は沿道の大地、色を変ずる程に銭で敷き詰めらるるので御座る。

 それをまた、神人(じにん)や御神領から出ておる産子(うぶこ)である百姓の神輿担ぎの者若しくは見物の童(わらわべ)なんどが、これまた、先を争って拾うて御座る。されば私が、傍に御座った東照宮別当大楽院の者に、

「この賽銭だけでも、かなりの額に登って御座ろうほどに、定めし、別当殿におかせられては、潤沢なる喜捨ともなるもので御座ろうのう。」

と訊いたところが、大楽院の者が答えて申すによれば、

「いえ、渡御の際に献ぜられたこの賽銭は、一銭たりとも東照宮様御別当には納めらるること、これ、御座いませぬ。――みな、拾って参った者が、その日のうちに酒食に使(つこ)うてしまうので御座います。――それにつきて、ここに面白き噺が御座います。――この賽銭を拾うて、お守りと成し、或いはその日の祭礼の酒食の代(しろ)と致します分には――それは御神命のあくまで篤く直きものにてあられることを心得た行いにてありますれば――それに何の祟りも、これ、あろうはずも御座いませぬ。――なれど、もし、それ以外に余計に拾うて、こっそりとその身の貯えにせんとする心得あらば――忽ち罰を蒙ること、これ、必定。――拙僧も、そのような様を、何度か見たことが御座いまする。」

と語って御座った。

 いや、あくまで篤く直き御神命には如何にもありそうな尤もなることなれば、ここに記しおくものである。

2010/08/28

耳嚢 巻之三 前表なしとも難極事

「耳嚢 巻之三」に「前表なしとも難極事」を収載した。

 前表なしとも難極事

 明和九辰年の江戸大火は都鄙(とひ)の知れる事也。其此日光神橋(しんきやう)の掛替御普請ありて、御作事奉行にて新庄能登守、御目付にて桑原善兵衞登山(とうさん)なしけるが、或日日光新宮に十神事(じふしんのこと)といへる神事神樂ありて、兩士も右拜殿にて見物なしけるに、一ツの烏虚空より礫(つぶて)のごとく新宮の白洲へ落て斃(たふれ)けり。兩士始め見物の者も立寄て見しに、鷲鷹に蹴(けら)れし氣色もなし、友烏等もありたりに見へず、不思議也といひけるに、修學院權(ごん)僧正も見物の席にありしが眉をひそめ、嗚呼(ああ)江府(かうふ)に何ぞ替りし事にてもなければよろしきといひしが、翌日に至りて江戸より飛脚到來、江戸大火の告あり、新庄桑原兩氏の江戸屋敷も右燒亡に洩れず有しと、桑原善兵衞後に豫州といへる時語りぬ。予日光登山の頃右十神事ありて見物に出し時も修學院出席なして、右の咄を修學院も語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。実録日光山東照宮霊異譚シリーズ。

・「明和九辰年」西暦1772年壬辰(みずのえたつ)。明和9年は1116日に安永元年に改元された。この改元、落語のような話である。火事風水害が続発した「明和九年」(めいわくねん)は「迷惑年」であると縁起を担いだ結果であった。

・「明和九辰年の江戸大火」江戸三大大火の一。明和の大火のこと。明和9(1772)年2月29日午後1時頃、目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火(放火による)、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅』、『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、死者数14700人、行方不明者数4060人(引用はウィキの「明和の大火」からであるが、最後の死者及び行方不明者数はウィキの「江戸の火事」の数値を採用した)。

・「日光神橋」日光山内の入り口にある大谷川(だいやがわ)に架かる朱塗のアーチ橋。現在の形状は寛永111634)年日光東照宮大造替(だいぞうたい)の際から変わらぬもので、記録にはこの時に将軍・勅使・行者以外の一般人の往来を禁止じたとされる。なお、この橋は山管蛇橋(やますげのじゃばし)という別名がある。これは天平神護2766)年、勝道上人が二荒山(ふたらさん=男体山)にて修行をせんと訪れた際、大谷川の急流に道を阻まれたが、神仏の加護を祈ったところ、深沙大王(じんじゃだいおう)が顕現し、赤青二匹の蛇で両岸を繋ぎ、その背に山管を生やした上、上人を対岸に渡したという伝説に基づく(「修学旅行のための日光ガイド」の「神橋」を参照した)。

・「御作事奉行」幕府関連建築物の造営修繕管理、特に木工仕事を担当、大工・細工師・畳職人・植木職人・瓦職人・庭師などを差配統括したが、この後、寛政4(1792)年に廃止されている。

・「新庄能登守」新庄直宥(しんじょうなおすみ 享保7(1722)年~安永8(1779)年)明和6(1769)年作事奉行、従五位下能登守。同8(1771)年より日光神橋造営の監督に当たる。安永3(1774)年には一橋家家老、同5(1776)年には大目付と累進した(底本鈴木氏注を参照した)。

・「御目付」旗本・御家人の監察役。若年寄支配。定員10名。

・「桑原善兵衞」桑原伊予守盛員(くわはらもりかず 生没年探索不首尾)。西ノ丸御書院番・目付・長崎奉行(安永2(1773)年~安永4(1775)年)・勘定奉行(安永5(1776)年~天明8(1788)年・大目付(天明8(1788)年~寛政101798)年)・西ノ丸御留守居役(寛政101798)年補任)等を歴任している。「卷之一」の「戲書鄙言の事」の鈴木氏注によれば、『桑原の一族桑原盛利の女は根岸鎮衛の妻』で根岸の親戚であった。事蹟から見ると根岸の大先輩・上司でもある。「巻之二」「吉比津宮釜鳴の事」にも登場。

・「日光新宮」新宮権現。日光山二荒山(ふたらさん)神社の旧称。「日光修験道:日光の神仏」の記載より引用する。『日光三社(所)権現中男体山の神霊である。新宮の名は、開山勝道上人が、四本龍寺に堂を造り、その傍らに社を造り、山神を祀ったが、後に現新宮(二荒山神社)の地に移し、本堂(三仏堂)と社を造り、旧地を本宮と称し、新しい社地を宮と称したことによる。新宮権現は、本地千手観音、垂跡神は大巳貴命、応用の天部は大黒天』。『勝道上人は、日光開山に当たり、中禅寺に柱の立木をもって千手観自在の尊像を刻み、中禅寺大権現と崇め、男体の神霊を鎮め祀った。別名男体大権現とも日光大権現とも称するこの権現は、男体の山頂にて上人に影向し御対面になった。そのところに影向石が現在もある。今に至るまで山頂に登拝することを日光では禅頂と称する。この男体の山は、下に中禅寺湖を擁し、その周囲をとりまく山々に諸神を祀り、日光十八王子という。中世では、一々の山々を拝する夏峰の行があったが、あまりにも苛酷のため廃絶になってしまった』とある。

・「十神事」現在、この名前では残っていないものと思われる。もし、これが二荒山神社例大祭であるとするならば、現在、4月13日から17日まで行われている弥生祭であろうか。昔は旧暦3月に行われたことからこう呼称され、1200年の歴史を持つとされる。明和の大火は2月29日午後1時頃の出火で、一旦鎮火後同日午後6時頃に本郷から再出火し、駒込、根岸を焼亡、30日昼頃には再び鎮火したかに見えたものの、3月1日の午前10時頃になって馬喰町付近から再々出火、東に燃え広がって日本橋地区を全焼して完全鎮火している。これらの日付から、そう類推した。日光行事にお詳しい方の御教授を願うものである。

・「修學院權僧正」「修學院」は日光山輪王寺の中に置かれた管理運営機構の一つ。学頭修学院・東照宮別当大楽院・大猷院別当竜光院・釈迦堂別当妙道院・慈眼堂別当無量院・新宮別当安養院の以上五別当の他、新宮・滝尾・本宮・寂光・中禅寺の五上人、衆徒中・一坊中・社家といった階層組織を成していた。「權僧正」とあるから僧正に継ぐ次席。日光山輪王寺は天台宗。当時は神仏習合で日光東照宮・日光二荒山(ふたあらやま)神社と合わせて「日光山」を構成していた。ウィキの「輪王寺」によれば『創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた』。『「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもあり、堂塔は、広範囲に散在して』いるとある。

・「予日光登山の頃」根岸が「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(「卷之二」「神道不思議の事」より)したのは安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。本件より5年後のことであった。

■やぶちゃん現代語訳

 未来に起こる出来事を予兆する不可思議なる前兆がないとも極め難い事

 明和九辰年の江戸大火は世間にてもよく知られている事実である。

 丁度、その頃、私は日光神橋の掛替御普請御用が御座って、作事奉行であられた新庄能登守殿、御目付であられた桑原善兵衞殿と共に日光山へ登山(とうさん)して御座ったが、ある日、日光新宮に『十神の事』と言う御神事及び御神楽が御座って、両人もかの拝殿にて神事を見物なさっておられたところ、一羽の鴉が虚空より礫(つぶて)の如く、新宮の御白洲の上へ落ちて死んだ。両人始め見物の者も傍に寄って見てみたが、鷲や鷹に蹴られた様子もない。空を見上げてみても、群れ飛ぶことも多い鴉ながら、外の仲間の鴉も見えぬ。両人ともに、

「……不思議なことも、あるものじゃ……」

なんどと言い合って御座ったところ、修学院の権僧正様も同じ見物の席におられたが、如何にも眉を顰められて、

「……ああっ……江戸表に何ぞ変わったことでも……なければよろしいがのう……」

と仰せられた。

 翌日になって江戸表より早飛脚が来たって、江戸にては大火なる由、報告がなされ、正に新庄・桑原両氏の江戸屋敷もこの焼亡から遁るること能わず、全焼致いた由にて御座ったと。

 桑原善兵衞殿が後に伊予守となられた時、私に語られた話で御座る。

 この一件は後、私が日光登山の頃、この十神事ありて見物に出し時も、修學院樣が御出座になられており、右の通りの御話を修学院様御本人もお話遊ばされた故、確かなことにて御座る。

2010/08/27

耳嚢 巻之三 精心にて家業盛なる事

「耳嚢 巻之三」に「精心にて家業盛なる事」を収載した。

 精心にて家業盛なる事

 江戸四ツ谷に松屋某といへる大小の拵する者あり。其成立を尋るに、至て發明成者にて、昔は武家奉公抔なしけるが、如何成仔細有りてや町人と成て、四ツ谷の往還に古包丁古小刀其外古物の顆を莚(むしろ)の上に並べ商ひける者也しが、元來器用なる者にて刀脇差の柄を卷き、又研(とぎ)など仕習ひて、四五年の内に九尺店(だな)の拵屋(こしらへや)の鄽(みせ)を出しけるが、風與(ふと)思ひ付て外々拵にて五匁(もんめ)の柄卷(つかまき)賃をば三匁に引下げ、拾匁の研賃を七匁に引下げける故、自然と賴みても多くありし故、右直段付(ねだんづけ)いたし近邊の武家其外へ引札(ひきふだ)をなしけるに、四ツ谷糀町(かうぢまち)の拵屋共大きに憤りて、商賣躰(てい)の障りと成由にて奉行所へ訴出し故、呼出有之吟味候所、彼者申けるは、商賣方直段の儀我等仕候は定てあしく可有之候得共、あしきと思ひ給はゞ武家方より誂へ可有之樣なし、我等拵へ仕(つまかつら)ば、右の直段にて隨分利分もありて、相應に取續いたし候也、いわれなく高直(かうぢき)にいたし候ては旦那場(だんなば)の難儀、譬へば只今奉行所より申付有之候共、我等拵へ立(たて)候には隨分右の直段にて出來いたし候旨申ける故、奉行所にても尤に聞濟(ききすみ)て、障りも解ぬれば彌々(いよいよ)家業相励(はげみ)けるに、翌春の年始に一度弐度用事申付有之旦那場へも、聊の年玉を持て歩行(ありき)けるに、都合四百軒に及びし由。其後尾州家中の拵などせしに、大守の御聽(おきき)に入て、大守の御用をも被仰付けるにぞ、今は尾州御用といへる札を出し、弟子の十四五人も抱へ置て富饒(ふにやう)の拵やにて有よし、右最寄の人語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「四ツ谷」現在の新宿区南東部(凡そ市ヶ谷・四谷・信濃町等のJRの駅に囲まれた一帯)に位置する地名。時代によっては江戸城外堀以西の郊外をも含む内藤新宿・大久保・柏木・中野辺りまで拡充した地名でもあった。

・「松屋某」尾州様御用達となったのなら少しは記録が残っていそうなものであるが、未詳。

・「研(とぎ)」は底本のルビ。

・「九尺店」長屋にしても商店にしても最も小さなものを言う。間口9尺=1.5間≒2.7m。奥行きは通常、2間(3.6m)で3坪程の広さであった。

・「五匁の柄卷賃をば三匁に引下げ、拾匁の研賃を七匁に引下げける」銀貨の単位。データはやや下るが、あまり大きな差のないと思われる文化文政期(江戸時代、比較的物価の安定した時期でもある)で

金1両≒銀6065匁≒銭65007000

銀1匁≒銭108

のレートであった。一部の物価を参考に供す(やや異なるとしても、これよりも安い値段になろうかと思われる)。

3匁=米2升5合前後

3~5匁=大工手間賃(日当)

7匁=高級蛇の目傘

1015匁=医師初診料

参考までに歌舞伎桟敷席は何と銀35匁もした。

・「引札」商品の宣伝や開店の披露などを書いて配った広告。チラシ。

・「糀町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の長谷川氏の注を加味して作成した)。

・「旦那場」商人や職人などが御得意先を敬っていう語。得意場。

・「大守」尾張藩藩主尾張徳川家。本巻の下限を鈴木氏の推定に従って天明6(1786)年前後とし、本話柄が近過去の内容であるとすれば、尾張藩中興の祖と称された第9代藩主徳川宗睦(むねちか/むねよし享保181733)年~寛政111800)年)である。藩主としての在任期間は宝暦111761)年~寛政111799)年である。

■やぶちゃん現代語訳

 誠心を尽くさばこそ家業盛んとなる事

 江戸の四ッ谷に松屋某という大小刀剣の拵えをする職人がおる。その起立を尋ねたところ、主人は到って発明なる者にて、その昔は武家奉公なんどをしておったが――どんな仔細があったものかは存ぜぬものの――町人となって、四ッ谷の通りに古包丁・古小刀その他古物刃物の類いを莚(むしろ)の上に並べて商いをしておったが初まりにて、生来、細工なんども器用にこなす者であったれば、太刀や脇差の柄を巻き、またその刃をも研ぐ技術なんどもそうした研ぎ職人からおいおい習い覚えて、四、五年する内に間口九尺の刀剣の拵屋(こしらへや)のお店(たな)を出店致いたとのこと。

 ある時、ふと思いついて、その外の拵え屋にては五匁(もんめ)が当たり前の柄巻き賃を三匁に、十匁が普通の刀剣類研ぎ賃を七匁と値下げした故、自ずと仕事の依頼も増えたため、この通り、

――四ッ谷 松屋

 御刀脇差拵所

  柄卷三匁 研七匁――

と値段を書き入れた引き札を作り、近辺の武家屋敷その他へ配ったところが、四ッ谷麹町辺りに営業する拵屋どもがひどく憤って、我等が商売の障りとなる由、奉行所へ訴え出た。

 そこで松屋に呼び出しがあり、吟味致いたところ、かの松屋の言い分は、

「我らの商売向きに於ける値段の付け方に就きてのことと存じます。さても我ら、この手間賃にて仕上げ候もの――安かろう悪かろうの定石に照らしますれば――定めて悪しき仕上がりならんと思しめし遊ばされましょうが、万一、お頼みになられた方々、その仕上がり悪(あ)しとお思いになられたのであれば、以後、お武家衆よりの誂え方ご依頼の件、かくまで沢山にては、これ、あろうはずが御座いませぬ。私どもにては、巻きにても研ぎにても、この値段にて随分、利潤も御座り、御覧の通り、相応に商売取引順調に相続いて御座いまする。逆に、理由もなく必要以上の高値を頂戴致しましては、却ってご贔屓のお武家衆のご難儀。――例えば、只今、お奉行所より――総てのお役人衆の御刀の柄巻きと研ぎ――申し付け、これ、御座ったと致しましても、私ども、この値段にて――十分にご満足の戴けるよう――仕上げ申すこと、これ、出来まする。」

との言上にて、奉行所にても、至極尤もなる話、と認めて訴えを退けた。

 御公儀のお墨付きも戴き、同業者の嫌がらせもなくなって何らの差し支えもなくなった故、松屋はいよいよ家業に励んだところ、翌春の年始には、それまでは一度か二度しか注文がなかった取引先をさえ御贔屓先となして、僅かばかりの粗品ながらも御祝儀を持参の上、年始の御挨拶に廻れる程に繁盛なした。その折りの年始廻りの先は、何と四百軒にも及んだということである。

 その後(のち)、尾張藩御家中の方々の御拵物御用なんど申し受けて御座ったところ、その評判を尾張藩御藩主様もお聴き遊ばされて、遂には御藩主様御拵物御用をも仰せつけられ、今に『尾州様御用達』という公認の名札(めいさつ)を出だし、弟子十四、五人も置き抱える豪商の拵え屋となったとの由、これは、その最寄に住んでおる者が語ったことである。

2010/08/26

探しあぐねている曲

演奏者も曲名も分からないのだ――

アコーディオンかオルガンなのだ――

ジャンルは? と訊かれても分からないのだ――

ノスタルジックでカントリーな夢のある少年のようなファンタジックでかわいい曲なのだ――

リズミカルで子供が歩いているような感じの拍子なのだ――

ドキュメンタリーの軽い番組のBGMでよく聴くのだ――

先日は羽田のレストランでも聴いたのだ――

妻は「バンドネオンね」と言ったのだ――

東京スカパラの「君と僕」に似ているがもっと軽くポジティヴな曲なのだ――

探しあぐねているのだ――

もう万事休すなのだ――

誰か、そっと僕の耳に

「その曲はね、これ」

と口ずさんでくれないか?……

耳嚢 巻之三 靈氣殘れるといふ事

「耳嚢 巻之三」に「靈氣殘れるといふ事」を収載した。久しぶりの霊異譚である。実は全1000話の「耳嚢」は総体から比して本格怪異霊現象譚の割合は少ない。しかし、かえってそれがスパイス――半端ではない島唐辛子並みの――を効かす様に、選りすぐりのものが、各所に配されているのである。だから百物語系のように、だらだら似たような怪談ばかりが続いて、1/3も読まないうちに鼻が曲がるほどステロタイプな表現が表われてきたり、類話で鼻が腐って落ちるような退屈さがない。こういう構造がまた、「耳嚢」を稀有の奇譚集として成功させていると僕は思う。

 靈氣殘れるといふ事

 佐州外海府(そとかいふ)といへるは別(べつし)て海あれ強き所也。鳥井某其(その)湊(みなと)に番所役勤し時、同所濱邊に住居せし者、ある夜船を引上げ候聲のしける故、海端へ至り見るに聊かかゝる事なし。兩三夜も同じ聲なしける故、其濱邊に至りしに、彼聲のしけるあたりと思ふ處に覆へる船流寄りたり。驚きて大勢人夫をかけ引起し見しに、鍋釜の類は沈しと見へて見へされ共、箱桶の類は船の中に有しが、其箱に海府村の村名等有けるにぞ、扨は此程行衞知れざりしといひける船ならんとて、其村方へ知らし、人來て改めけるに相違なかりしと也。右船は相川の町へ薪を積廻し戻りの節、鷲崎の沖にて難風に逢ひ行衞知れずなりしが、自然と乘組の靈氣殘りてかく聲をなしけるものならん。海邊には時々有事の由語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:佐渡奇譚連関。久しぶりの霊異譚である。短くシンプルであるが、映像的にも音響的にも印象的で、「耳嚢」中でも私の好きな怪談の一つである。

・「佐州外海府」佐渡ケ島の外海府海岸の地名。佐渡でも私の好きな景勝地である。以下、ウィキの「外海府海岸」から引用する。『新潟県の佐渡島西岸に位置する海岸。両津地区の弾崎から相川地区の尖閣湾まで伸び、約50キロメートルにも及ぶ大規模なものである。海岸段丘が発達しており、一帯には奇岩、奇勝が連続する県下随一の景勝地として名高く、佐渡弥彦米山国定公園の代表的な景勝地の一つで、佐渡海府海岸として国の名勝にも指定されている』。『外海府海岸は非常に規模が大きく』、尖閣湾・大野亀・二ツ亀・平根崎(ひらねざき)・入崎(にゅうざき)等、『見所が非常に多い』。

・「鳥井某」不詳。

・「番所役」現在で言う港湾警察署長及び港湾管理事務所所長相当かと思われる。

・「夷港」現在の両津港のこと。古くは夷港と呼ばれたが、明治341901)年に夷町と湊町が合併して両津町が誕生、大正6(1917)年に港も両津港と改称された(lllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」両津港』による)。

・「鷲崎」大佐渡(島の張り出した北側部分)の北端に位置する。地元では「わっさき」と呼称する。

■やぶちゃん現代語訳

 霊気が残るという事

 佐渡の外海府という海岸域は特に海が荒れ易く波も荒い。

 鳥井某なる人物が夷港(えびすみなと)の番所役を勤めておった頃の話である。

 当地浜辺に住もうておった者、ある深夜のこと、

「――えい! や!――せえ! の!――」

と陸に船を引き上げる掛け声が聞こえた。こんな夜中にと不審に思うて、海っ端(ぱた)へ出て見たところが、全く以ってそのような影も形もない。……

次の晩方も……

「――えい! や!――せえ! の!――」

その次の晩方も……

「――えい! や!――せえ! の!――」

……かく同じことが三晩も続いたため、同じ村人は三日目に再びその浜辺へ出てみた。

……と……

……かの声がしたかと思われる辺りに……一艘の転覆した船が流れ着いておった。

 驚いて近隣の村の衆を呼び集め、皆して引き起こして見たところ、鍋釜の類いは既に水底に沈んでしもうたと見えて見当たらなかったものの、箱や桶の類いは船中に残っておった。その箱には海府村の村名などが書かれておった。

「……さてはこれ、先日来、行方知れずになったという船に違いない……」

と取り急ぎ、その村方へ知らせ、関わりの者が来て、船その他を確かめさせたところが、果たして、相違なきものにて御座ったという。

 ――――

「……この船は相川の町へ薪を積んで向かい、荷を降ろして戻る途中、鷲崎の沖にて強風に逢(お)うて行方知れずになったもので御座ったが……。自ずと……乗り組んで御座った船乗りの、その霊気が残り……かく声をなして、この世の者へと知らせたのでも、御座ったろう……海辺にては、時折り、このような不思議なことが御座る……」

と、鳥井某が私に語った。

2010/08/25

今度は俺の身の上だ

神経圧迫をしている椎弓の切除2箇所、術式4時間。母の手術はとりあえず無事終了した。因みに同日、手術の始まった同じ時間に、リンパの腫脹を起こして、紹介状で全く偶然、母と同じ病院で検査を受けた妻も、精密血液検査に異常はなかった。かくして僕の夏休みの最後の一日は終わった……さて「今度は俺の身の上だ」……と僕は多襄丸のように呟いたのだった……

やぶちゃん版新版 冨田木歩句集 又は 母の手術の朝に

「やぶちゃん版新版 冨田木歩句集」をやぶちゃんの電子テクスト:俳句篇に公開した。これもリニューアルではなく、新たな公開である。

今回、鈴木しづ子と杉田久女を漸く正規に校訂した後、もう一つ、内心忸怩たる頁が残っていることに気づいた。

それが「冨田木歩句集」であった。

2005年の7月、HP開設最初期、新潮社版「現代詩人全集」及びそれにない筑摩書房「現代日本文学全集 巻91 現代俳句集」1967年刊の「富田木歩集」所収のものを打ち込んだのが本頁のプロトタイプであった。

何れもコピーを元に作製、おまけにそのコピーを既に紛失してしまっていたため、長い間、放置してきた。

その後、昭和32(1957)年発行の限定版「決定版富田木歩全集 全壹巻」を入手したが、この本、写真集や木歩の文集、多量の木歩評や随想を満載した1151頁に及ぶ、新井聲風氏の最後の木歩顕彰としては(発行時には惜しくも鬼籍に入られていた)頗る大著、稀有の資料集と言える優れたものであるのであるが、僕にとって(恐らく僕だけではない)意外だったのは、「全集」の謂いながら、全句集が所収されていないという驚天動地の事実であった。聲風氏の凡例によれば、木歩の全句は凡そ2000句、この「全集」では、その内の630句の選句集なのである(付随する資料や随想の中に、そこに含まれない句が散見されるから、実際「全集」に載っている句の数はもっと多いのではあるが)。これが、一つは本頁をまずは再校訂しよう意欲を殺がれた一因ではあった。――しかし、それは言い訳に過ぎぬ――
今回、HP内不完全頁の完全除去を意図して鈴木しづ子と杉田久女を何とか自身で許せる程度には改訂し得た以上、この最後の汚点を拭わねば、僕の憂鬱は完成しないと感じた。

昨日未明より始め、母の入院付き添いの合間を縫って、完成に漕ぎ着けた。表記の厳密校訂を行い、編年体序列を明確化、数句を追加して、更に注を大幅に増やした。

最後にしっかりと『将来は底本句集の掲載句は総て掲げたいと考えている』という自己拘束を附してある。また、注では、底本の他の資料の他には、本文途中にも長々と引用させて貰ったウィキペディアの「富田木歩」の記載にも負うところが多かった。ここでも名を掲げて謝意を表しておきたい。

久女やしづ子を、そしてまた、放哉や亀之助を、槐多を、はたまた子規や村上昭夫や森川義信を「境涯の詩人」と呼ぶのに僕は疑義を感じるものではない――しかし「境涯」とは「数奇」とは――一体どういうことかという厳密な語義に拘わって僕の中でイメージした時――そこに屹立しているのはたった一人――冨田木歩独りだけなのである。――

木歩は歩くことが出来なかった。
その木歩に僕の母を守ってもらう。

――脊椎間狭窄のために歩行困難となった母のその手術の日の朝にこれを記す――

耳嚢 巻之三 天作其理を極し事

「耳嚢 巻之三」に「天作其理を極し事」を収載した。

 天作其理を極し事

 佐渡の國は牛馬猫犬鼠の類の外獸物なし。田作を荒すべき猪鹿もなく、人を犯し害をなせる狐狼の類(たぐひ)もなければ、庶民も其愁ひをまぬがれぬ。しかるに金銀山の稼(かせぎ)有故鞴(ふいご)は夥しく遣ふ事なるに、鞴には狸の皮なくては成がたし。しかるに外獸物はなけれ共佐州に狸計(ばかり)はある也。古へおふやけより命ありて放し給ふとも言へども、左あるべき事にもあらず、自然と狸はありて其國用を辨じけるも又天の命令の然る所ならんか。

□やぶちゃん注

○前項連関:佐渡狸(佐渡ではムジナと呼称することが多い)奇譚連関。前項でも引用した佐渡在住のlllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』は必読。氏の記載に依れば、根岸が否定しているのに対して、佐渡には元来、タヌキもキツネも棲息しなかったが、慶長6(1601)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりであるとある。

・「鞴(ふいご)」は底本のルビ。吹子。「吹革」(ふきがわ)が「ふいごう」となり、それが転訛した語。金属の精錬や加工に用いる火をおこすための送風器。古くは獣皮を縫い合わせた革袋が用いられた。足で踏む大型のものは特に踏鞴(たたら)と呼ぶ。

■やぶちゃん現代語訳

 天工はその理を窮めてあらせられるという事

 佐渡国には牛・馬・猫・犬・鼠の外には獣の類いはおらぬ。田畑を荒らすところの猪や鹿もおらず、人を欺き害をなす狐や狼もおらぬから、そういう点では庶民もいらぬ心配をせずに済んでおる。

 ところが金山銀山の精錬をこととする故、鞴(ふいご)は夥しく用いねばならぬこととなっておるが、鞴は狸の皮でなくしては作ること、これ、難しい。しかるに今述べた通り、佐渡にはこれといった特殊な動物はおらぬのにも拘わらず、狸だけは、おるのである。これについては、昔、御公儀より鞴御用の向きにつき御命令があって、狸をお放ちになられた由、言われては御座るが、まさかそんなことがあったとも思えぬ。

 むしろ、古(いにしえ)より自ずから狸はここ佐渡におって、その国がゆくゆく必要とすることになるものを賄(まかの)うようになって御座ったは、既に已に天が元より、天が玄妙なる配剤をなさっておられたという証しでは御座らぬか。

2010/08/24

耳嚢 巻之三 佐州團三郎狸の事

「耳嚢 巻之三」に「佐州團三郎狸の事」を収載した。
 


 

 佐州團三郎狸の事

 佐州相川の山にニツ岩といへる所あり。彼所に往古より住める團三郎狸といへるある由、彼地の都鄙(とひ)老少となく申唱へけるに、古老に其證を尋しに、誰見しといふ事はなけれ共古來より申傳へぬる由なり。享保元文の頃、役人の内寺崎彌三郎といへるありし。相川にて狸を見懸て拔打に迯る所を足をなぐりし由。

  此寺崎は後に不束(ふつつか)之事ありて家名斷絶せしよし。

しかるに芝町に何の元忠とかいへる外科の有しを、夜に入て急の病人ありとて駕を以て迎ひける故、何心なく元忠も駕に乘りて行しが、ニツ岩とも覺ゆる所に、門長屋其外家居等美々(びび)しき所に至り、主出てその子怪我せし由にて元忠に見せ、藥抔もらひ厚く禮を施し歸しける由。然るに其後藥を取に來る事もなく、厚く謝絶等をもなしける故又尋んと思ひけるが、曾て其所を知らず。程過て聞合せぬるに、元忠が療治なしつるは團三郎が子狸にてありしや、實(げに)も人倫の樣殊にあらずと語りし由、國中に語り傳へしとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:佐渡奇譚連関。

・「佐州」佐渡国。

・「團三郎狸」このよく知られた二ッ岩の団三郎狸を始めとする佐渡のタヌキ憑き及び妖獣としてのタヌキについては、例えば佐渡在住のlllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』が素晴らしい。読み易いくだけた表現を楽しみ写真なども見つつ、リンクをクリックしていると、あっと言う間に時間が経つ。それでいて生硬な学術的解説なんどより生き生きとした生(なま)の佐渡ヶ島が浮かび上がってくる。必見である。氏の記載に依れば、佐渡には元来、タヌキもキツネも棲息しなかったが、慶長6(1601)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりとある(次の「天作其理を極し事」に登場)。因みに、私は実は熱烈な佐渡ヶ島ファンである。なお、佐渡では狸をムジナと呼称することが多いという。なお、底本の鈴木氏注によれば、『配下に、おもやの源助、東光寺の禅達、湖鏡庵の才喜坊などというのがいた』ともある。

・「相川」現在、佐渡市相川。旧新潟県佐渡郡相川町(あいかわまち)。佐渡島の北西の日本海に面した海岸にそって細長く位置していた。内陸は大佐渡山地で海岸線近くまで山が迫っている。南端部分が比較的なだらかな地形となっており、当時は佐渡金山(相川金山)と佐渡奉行所が置かれた佐渡国の中心であった。

・「ニツ岩」現在の新潟県佐渡市相川にある。二ツ岩団三郎狸と共に、二ツ岩明神が祭られた聖石遺跡の一つとしても知られる。以下、須田郡司氏の「日本石巡礼~聖なる石に出会う旅・36」に二ツ岩明神の写真や解説がある。要必読。

・「享保元文」西暦1716年から1741年。根岸が佐渡奉行であったのは天明4(1784)年3月から天明7(1787)年7月迄である。

・「寺崎彌三郎」不詳。少なくとも享保元文年間の歴代の佐渡奉行を確認したが寺崎姓はいない。

・「芝町」現在の相川町芝町。相川町の北部の海岸地区である。

■やぶちゃん現代語訳

 佐渡の団三郎狸の事

 佐渡国相川の山に二ツ岩という場所があり、ここに古くから棲んでいる団三郎と称する狸がおると言い伝えられて御座る由。

 佐渡ヶ島の島中の者――老人だろうが若人であろうが、町屋の者であろうが田舎の者であろうが――これまた皆、このことをしょっちゅう口にするので、私が、

「団三郎なる狸、まことに居るのか?」

と古老に訊ねてみたところ、

「……へえ、誰が見たということはないので御座いまするが……何分、古(いにしえ)から言い伝えられておりますればこそ……」

との由。

 何でも享保元文の頃、本土より使わされた役人の一人に寺崎弥三郎なる者が御座った。この男、ある時、相川の部落で狸を見かけ、逃げるところを、一刀抜き打ちで、足を斬りつけた――確かに手ごたえがあったとのこと――ことがあった由。

[根岸注:この寺崎弥三郎なる人物、後日、不祥事に因って家名断絶となった由。]

 ところが……柴町に何とか元忠(げんちゅう)――姓は失念致いた――という外科医が御座ったが、そこに夜に入ってから急病人が出たとのことで駕籠を以って迎えが来て御座った。遅き時間なれど駕籠もあり、急患なればとて、その駕籠に乗って行くうちに、夜景ながら、どうも二ッ岩の極近くとおぼしい所で、門や長屋その他主人家居なんども如何にも絢爛豪華なる御屋敷に辿り着いた。

 早速に主(あるじ)じきじきに元忠を出迎えると、

「……私めの子倅(こせがれ)めがとんだ怪我を致しましてのぅ……」

と慇懃に告げて、元忠に診させた。――何やらん刃物の傷の様にて、深くはあったれど命には別状なしという見立てにて――療治致いて薬なんどを渡したところ、主は元忠に厚く謝礼をなした上、再び駕籠で帰した由。

 しかるにその後(ご)、薬を取りに来る事もなく、一度(ひとたび)の療治にては不相応謝礼を貰(もろ)うたこともあれば、怪我の直り具合なんど一目見んと思い、また訪ねてみようと思うたところが――かの二ッ岩の極近くとおぼしい所を――隈なく探してみたものの、一向に、あのような御殿の如、御屋敷は御座らなんだ由。

 後に元忠、他の者との話の中で、かくかくの事があった由言うたところ、座の者、

「そりゃ、お前さんが療治致いたは、寺崎殿に斬られた団三郎の子狸だったんじゃねえか?」

と言うた。それを聞いた元忠も、

「……そういえば、何とのう、ただの人……『人間』のようには感じられなんだところが、あったような……」

と語って武者震いしたとの由。

 この話は今も佐渡の国中に、語り伝えられておるとの由で御座る。

2010/08/23

「杉田久女集」及び「杉田久女句集 全句集より やぶちゃん選」再校訂及び正字リニューアル

やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇「杉田久女集」及び「杉田久女句集 全句集より やぶちゃん選」を再校訂及び正字リニューアルした。

特に前者はHP最初期の入力で、久しく底本のコピーが何処かに消えていたのだが、今日、埃を被った書類の山の中から、ぽろりと出てきた。

それとなくフォントが悪いな……行間も変更していないや……と……久しぶりのページと見合わせて見て――あちゃ! 驚天動地!――とんでもない誤植が致命的に多い! 死に蝉にたかる蟻の如くぞろぞろ出るわ出るわ――今宵、慌てて校訂致いた次第――勿論、遅過ぎる――遅過ぎるが、これも僕のHP史の初期の仕儀の恥部の悪性癌の一つなればこそ、急遽、校訂した。ついては仕切り直しの新たな公開扱いとしたい。是非、ちゃんとした久女を御鑑賞あられたい。

鈴木しづ子の句に惹かれるあなたには――久女をまずは知って貰いたい……

愛する久女の句を……あんなにひどいページとして、何年間もほったらかしにしていたなんて……慄っとするほど美人の久女に、きっと怒られる――いや、怒られてみたい……

耳嚢 巻之三 人の貧富人作に及ざる事

「耳嚢 巻之三」に「人の貧富人作に及ざる事」を収載した。


 

 人の貧富人作に及ざる事

 

 佐州澤根湊は廻船等を以家業とする者多し。濱田屋某とて至て吝嗇(りんしよく)にて追々家富みける。外々草きりの問屋共の内にも身上相應の者あれども追々衰し者もありしが、彼濱田屋が吝嗇を土地の者も恨みて、濱田屋が船は難船にもあへかしと思ふに、外々の者の船は難船などにて大きに損失あれど、濱田屋が船はその愁もなし。土地の者共濱田屋が諸(しよ)差引(さしひき)金銀貸方等のいらひどきを恨みて、或時夜に入て若き惡者共申合、濱田屋に損分を懸候樣にと、懸置し船の帆柱を二ツ三ツに切りて心よしとて忍び歸りけるに、翌日聞しに濱田屋の帆柱と思ひ切りしに、濱田屋の持舶(もちぶね)には無之、近年衰へし外廻船持(もち)の帆檣にてありしと也と、土地の者語りける由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:人には人の乳酸菌、じゃあない、固有の徳(仏教なら業とか果報とか言おうが、根岸は仏教嫌いだから言わない)で連関。お馴染み佐渡奇譚シリーズの一つ。

・「人作」人為・作為。

・「佐州澤根湊」現在の新潟県佐渡市沢根。旧新潟県佐渡郡佐和田町(さわたまち)沢根。佐渡ヶ島の南の真野湾の北西岸に位置し、旧来は北風を避けるための海路の要衝であったが、現在は島内道路交通の要、商業地域としても発展している。

・「濱田屋某」本名笹井(旧主姓は川上)。ブログ「佐渡広場」の本間氏の「歴史スポット50:佐渡・廻船業と千石船」という記載にこの浜田屋についての極めて詳しい記載があるので、以下、引用させて頂く。

   《引用開始》

1.沢根の廻船問屋・浜田屋 笹井家

①佐渡・相川へ渡来

 1500年後期石見(島根県)浜田より川上権左衛門(浜田屋本家初代)、川上伊左衛門、久保新右衛門ら3人が佐渡・相川庄右衛門町へ渡来。1596年に笹井家の先祖 佐々井九之助が越前(福井県)より渡来。(いずれも、金銀稼ぎが目的に決まっている)

②沢根に居を移し商売

 1)1663年佐々井九之助の子が浜田屋の娘婿となり沢根へ出て浜田屋権左衛門という商人になり、小船1隻を持った。相川や沢根・鶴子の金銀稼ぎは景気変動が大きく、相川にも近くて優れた港をもち、背後には米どころ国仲平野のある沢根でお客のニーズを聞きながら商売した方が、資金を投下しても一攫(いっかく)千金の夢はあるが回収に確実性がない事業に投資するより安全で、発展が期待できる好立地と見たのであろう。

 2)1677年、佐渡の廻船業として既に名高い船渡源兵衛と鮭・筋子・粗鉄・千割鉄などの取引が始まり、その後も米・大豆・鉄などの取引を続けている。

 a.本家は鉄の産地石見の出身、分家・新屋は日本海物流の中心地で鉄などが集まる敦賀がある越前の出身。浜田屋が鉄屋といわれていたのは、そういった関係からである。

 b.沢根には鶴子銀山、隣は相川金銀山があって鉄製品の需要は高く、背後は米どころ国仲平野で農工具作りや修理など鉄の需要が高い。自然、近くに鍛冶町が形成された。現に沢根に鍛冶町があり、鍛冶とは仕事上不可分な関係にある炭屋町の町名がある。

 3)1696年、新潟で船渡源兵衛より75両借りるとある。

 当時佐渡は、人口増で米不足のため米が高騰、他国への佐渡産物資の販売は物不足・物価上昇を抑えるため禁止で米・大豆などは新潟から移入。

 浜田屋は当時、まだ小資本のため江戸初期に先行して稼いだ船渡源兵衛に金融を頼み、船は持っても島外へ乗り出す程のものでないため源兵衛船に依存した。

 4)元禄年中(16881703)に、沢根・上町から沢根・下町に移転、やがて沢根町名主となる。川上から佐々井(笹井)に名前が変わる(浜田屋新屋)。1717年三代浜田屋権左衛門没。(三代の時に、浜田屋が町を代表するまでの繁昌を次第に築き上げていった)

③本格的に廻船業に乗り出す。(中古船→新造船→大型船→複数船持ち)

 1)1750年浜田屋四代目が100石積の中古船を購入し、雇い船頭で運航。1753年羽茂・赤岩の五郎兵衛船・長久丸150石の中古船を20余両で購入。1764年赤泊・腰細の弥右衛門船(150石積・5人乗り・15反帆)を購入、大黒丸と称す。船頭は宿根木の武兵衛。

 2)1768年宿根木で2代目大黒丸(200石積)を179両で新造(前年沢根の火事で、大黒丸が類焼したため)。弁財船。船大工は小木町の徳兵衛、船頭は宿根木の権兵衛。船底材にケヤキ、重木(おもき)などはヒョウガ松といった脂ののった上物を使い修理などして1807年までの41年間使ったという。3代目大黒丸の新造には、縁起をかついで2代目の船材を使用。

④大型船の購入・廻船で商圏を瀬戸内・上方に拡大

 1)1791年、相川の覚左衛門より500石船の明神丸を購入。「佐渡路を放つより否や、風よろしければ直ぐに沖梶にて下関へ4日目あるいは5日目に着して、大坂・堺・瀬戸内を掛け回った」。

 2))1792年宿根木の200石船5人乗りの有田久四郎船を購入して改造し、大乗丸(表石131石、5人乗り)と改名。1798年他に譲り、宿根木の石塚権兵衛船を購入し200石から250石に改造し幸徳丸と改称。2年後相川の葛野六郎右衛門へ譲り、宿根木の佐藤穴口家より320石積船を買い入れ、改装して幸徳丸300石船とした。1803年、赤泊の葛野伝右衛門に譲り、翌年相川の葛野家所有の400石船を買い大徳丸と名付けた。

 3)寛政~化政(17891829)にかけ家業の隆盛期は、大乗丸・幸徳丸・大徳丸が活躍。大乗丸は1794年宿根木の弁財船を改造した200石積、1799年売却、翌年宿根木の穴口家の高砂丸320石積を購入し幸徳丸と改称。1804年本家の大徳丸を手船とした。1813年時点の浜田屋の本家・分家の船は、大黒丸(1762年中古船・諸道具付きで購入、1822年再び沢根・七場で造作し510石積・9人乗り・21反帆にした)・大徳丸(308石積・9人乗り)・明神丸の3隻。

⑤廻船の航海実績と損益勘定例

 1)1805年(文化2)幸徳丸

 2月18日新潟県寺泊より村松米・金納米・地廻米を購入、3月19日広島県竹原で村松米・金納米を販売、三田尻塩を購入、4月10日島根県安来で三田尻塩一部販売、鉄を購入、4月26日寺泊で村上米・長岡米を購入、6月27日広島で村上米・長岡米を販売、同地で7月6日三田尻塩を購入、7月24日新潟で三田尻塩を販売、10月広島で米子繰綿を購入し、新潟で販売。

  粗利74両、諸払い差引純益32貫。

 2)1808年(文化5年)大徳丸 

  2月佐渡より佐渡米・冬干しイカ・干し鰯(イワシ)を購入、3月兵庫(神戸)へ佐渡米・冬干イカ・干し鰯販売、3月25日石川県小松より小松塩を購入し、4月酒田で塩を販売、その後安来で鉄を購入、4月28日酒田で米沢米・最上米を購入し、6月12日兵庫で米を販売、?[やぶちゃん注:ママ。但し、同ブログの別記事からこれは「三田尻」であることが分かった。]で三田尻塩を購入し、6月15日酒田で多くを販売、閏(うるう)6月1日酒田で庄内上御蔵米を購入、また沢根で土用干しイカを購入し、8月兵庫で米・イカを販売、閏8月16日三田尻塩、その後香川県丸亀で備中繰綿、島根県出雲で米子繰綿を購入し、10月沢根で塩を 11月備中繰綿の約半分を販売、翌年2月寺泊で残った繰綿全てを販売。

  粗利150両、諸払い86両、差引純益63両。

 3)『海陸道順達日記』編者の佐藤利夫氏は、船の年間損益の分岐点は諸勘定記録から50両と見る。粗利74両で純益32貫、粗利49両で損失45貫の実績例などあり。享和元年幸徳丸の諸経費の実例内訳は、次のとおり。

  船主小払い:銭76904文、金171分、道具代:銭646文、水主(水夫)給銭:銭19504文、船頭給銭:金2両、船糧米代:銭32860

  合計:金48860文、錢930文。

 4)新造船の建造費は、200石積船180両として年間平均粗利100両・純益30両とした場合、6年で投下資本の完全回収ができる。投下資本利益率16.6%。なお、利足(利息)は年5厘(5%)が相場(史実の断片からみられる)であるから、金を貸した場合の3倍の利益となる。また、幕府の御用船による米運搬は、7年を超える船は出来ないことになっていた。おそらく、改造船はその時点から起算するものであろう。

⑥余裕資金は、田畑購入にあてた。

 1)1756年にはじめて畑野・大久保と河内の田を購入し、廻船による利益を土地取得向けていき、幕末までに2万刈(20ヘクタール)を所有する地主となった。

 2)大黒丸と明神丸と大徳丸が記載されているのは、1875年(明治8)能登・福浦の佐渡屋客船帳が最後で、1890年(明治23)庄屋を襲った相川暴動で船問屋をやめている。

   《引用終了》

根岸が佐渡奉行であったのは天明4(1784)年3月から天明7(1787)年7月迄であるから、まさにこの浜田屋が大型船を購入し、廻船で商圏を瀬戸内や上方まで拡大したところの、寛政~化政(17891829)の家業隆盛の直前期に当っていたわけで、これはもう、眼から鱗である。

・「草きり」草分け。物事や商売の創設者。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人の貧富というものには人為は及ばぬものであるという事

 

 佐渡ヶ島の佐和田(さわた)沢根の港は廻船業等を以って家業とする者が多い。

 濱田屋某といって、到って倹約家の廻船問屋は、その吝嗇(りんしょく)の御蔭を以って家も富み栄えて御座った。

 外にも廻船の草分け的な問屋で、以前には成功して相応な身代を築いておった者もあったが、そうした連中も次第次第に衰えて消えていったりしたので、かの濱田屋ばかりがいや栄(さか)にて栄えてあるを、土地の者どもは内心――『ど吝嗇(けち)!』『守銭奴!』と陰口を叩きながら――恨んで御座ったという。

 同じ廻船問屋の中には、

『……浜田屋の船は難破するがよいじゃ……』

なんどと不埒にも思うたりする者もあったが……そのように思う者がある時に限って……何と浜田屋の以外の者の船が難破なんど致いて、大いに損失があったりしても……当の浜田屋の船は、一向にそんな愁いもなかったという。

 ある時、土地の者共どもの中で、浜田屋から借り受けたりした諸々の貸与の金品等につき、浜田屋が貸借の日限を厳しく言い立てて取りに来たのに恨み骨髄に達し……ある深夜、闇に乗じて、不良少年どもと謀り、浜田屋に大損を仕掛けてやろうということと決し……碇泊していた浜田屋所有の船の帆柱を、こっそりと鋸(のこ)で……ごりごりごりと……二つ三つに無惨に切り、

「……ざまあ! 見ろ!……」

と、ほくそ笑んで帰ったという。……

……ところが……

……翌日聞いたところが……浜田屋の帆柱と思って切った帆柱は……これ、浜田屋の持ち船にて、これ、御座なく……最近、すっかり落ち目になってしまった別の廻船問屋の持ち船の帆柱に御座った――虫の息であったその問屋はこれにて息絶え、またまたその分、浜田屋に利が転がり込んで御座ったとのこと――と、土地の者が私に語ったことにて、御座る。

2010/08/22

耳嚢 巻之三 無賴の者も自然と其首領に伏する事

「耳嚢 巻之三」に「無賴の者も自然と其首領に伏する事」を収載した。

 無賴の者も自然と其首領に伏する事

 願人とて無法の坊主有。色々當世抔の思ひ付をし、或ひは大山石尊へ奉納もの也とて異樣の物を拵(こしらへ)、町々を持あるきて錢を乞ふなどして世を渡り、寒天に水をあび又は辻々にて代參の由いふて、錫杖をふりて一錢二錢を乞ふ、乞丐(かたゐ)同樣の者也。無賴の惡少年、父親族の勘氣を受て此類と成也。然るに淺草柳原に右の者共住ひする長屋ありて、頭は鞍馬流の□□といへり。土井故大炊頭(おほいのかみ)寺社奉行の節、右願人壹人駈込て、仲間の事且町方の者に打擲(ちやうちやく)に逢ひし由訴ふ。然るに奉行所にては其頭たるものゝ添翰(てんかん)なければ不取上事故、其譯寺社の役人品々利害を述て申渡けれど、元來頑愚の凡僧一向理非の辨(わきなへ)なく、公(おほやけ)の大法をも不辨、頻に其身の申事のみ言(いひ)て承知せざりける故、彼(かの)觸頭(ふれがしら)を呼て其譯申けるに、觸頭來りて二三言申談じ叱りければ、閉口して立歸りぬるを、予留役の節まのあたり見侍りき。又火消役の役場中間といへるあり。是も寒暑看板ひとつにて博奕(ばくえき)大酒を事とし、金錢に窮する時は日々はき候草鞋或は下帶を質に入る樣成(やうなる)無賴の者共也。

  此草鞋を質に入ける間は、たとへ役場へ駈付候ても素足にて出る事

  の由。無賴なる者にも仲間の掟又嚴重もおかし。

 予が屋敷向ふに火消役の御役屋敷ありし。或日予近隣に若山某とて秋元家の家士有りしが、彼僕と右の役場中間口論のうへ打擲に逢しなど跡方なき事申懸て、右中間兩三人理不盡に若山が玄關へ上り、打擲に逢し間最早役場難勤、殺し貰(もらひ)度(たし)とて騷ぎあばれける故、若山も大きに難儀して、則火消役の家來迄其事申通じければ、右役場中間の頭の由、ちいさき親仁來りて一通り叱り、早々歸候樣申けれども、何分酒に醉候や承知いたさゞるを、彼親仁引捕へ玄關前へ投出して、外々(ほかほか)まいり候者共に引立させ屋敷へ連歸りぬ。其樣よわ/\としたる親仁なりしが、彼者の取始末(とりしまつ)せしさま、大の男を小兒のごとく取扱ひける。其首領の威は自然とあるもの也とおかしかりき。

□やぶちゃん注

○前項連関:あまり連関を感じさせないが、当世流行の狂歌話から、当世流行りの願人坊主の話ではある。既出の評定所留役時代の実見録シリーズ。本件には当時の差別的意識が微妙に反映している。そうしたものへの批判的視点及び被差別の事実を示す歴史的資料としての側面を忘れずにお読みになられるよう、お願いしたい。因みに――何故か自分でもよく分からないのだが――この古き良き侠客の話が好きだ。特に後半の小柄な老人――何だか私は、この老人に逢ったことがあるような気がするほど――それほど目の前にこの老人の姿が見えるのだ――ひどく懐かしい思いが過ぎるのである。

・「願人」願人坊主のこと。江戸時代、門付けや大道芸を演じたりしながら御札を売ったり、人に代わって参詣・祈願の修行や水垢離(みずごり)などの代行を請け合い金品をせびった乞食僧。Noriaki Ishida氏の「願人坊主って何だ?」によれば「鞍馬寺史」に「願人を以て勧進の意なりと解せば、少なくとも鎌倉時代にまで遡り得べきなり。江戸時代の願人はこの勧進の後身にして……」とあり、『このため、願人は勧進から来たとされている。すなわち、願人は毎年正月に鞍馬寺より祈祷札を請い受け諸国に持ち回り、加持祈祷を行って生活費を得るとともに鞍馬寺への参詣を勧誘した。いわば鞍馬寺の営業担当のようなものだったらしい』。『本来、鞍馬寺大蔵院に所属する人々だけを「願人」と呼んでいた。願人は、頭(かしら)を中心に組織化されており、その組織は江戸、大坂、駿府、甲府などに存在した。大蔵院は、判物を与え身分を保証するとともに祈祷札を与えその地位を証明した。すなわち、江戸時代の身分制度の中で、彼等が無宿人ではなく鞍馬寺の意を受けた存在である事を保証したのである』。『しかし、願人は祈祷などだけでは生活できなくなり、次第に乞食と変わらなくなった。なかでも、才ある者は“異形滑稽の品を持ち歩き見せ”たり、“歌浄瑠璃”を歌ったりして日銭を稼いだ。「江戸職人歌合」には、願人坊主を右図のように描いている』(リンク先に絵)。『また、こんな表現もある、“願人坊主 裸にして鉢巻し、しめ縄のようにわらを腰にさげ、手に扇を開き、錫杖を持てり”。どうやら坊主とは名ばかりであったようだ。願人坊主は、「すたすた坊主」、「チョボクレ坊主」などとも呼ばれていた。これらの言葉からも彼等の姿が見える気がする。しかし、次第にその行状が目に余るものとなり、1842年(天保1311月には、江戸の寺社奉行阿部正弘は「願人取締」を命じている。ところで、日銭を得るための彼等の口承文芸は、近代の浪曲などに直接つながっている』とされ、最後に『願人坊主の実体は、ほぼ非人と同様であったようだ』と結ばれている。この根岸の書きぶりや、頭の意識的欠字にもそうした差別意識が見て取れる。岩波版長谷川氏注に願人坊主は『神田橋本町が集住地として知られていた。』とある(後の「淺草柳原」注を参照)。――勧進(Kangin)が願人(Gannin)という語に転訛したというのは、目から鱗。

・「大山石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)のこと。私の大好きな落語の「大山詣り」でも知られるように、江戸時代は庶民の根強い信仰を集めた。以下、ウィキの「大山阿夫利神社」より引用すると、祭神は『本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)』を祀るが、江戸時代までの『神仏習合時代には、本社の祭神は、山頂で霊石が祀られていたことから「石尊大権現」と称された。摂社の祭神は、俗に大天狗・小天狗と呼ばれ、全国八天狗に数えられた相模大山伯耆坊である』。社伝によれば崇神天皇の御代の創建され、『延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している』。『天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた』。『中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した』。『明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称された』とある。

・「淺草柳原」筋違橋(現在の万世橋)から神田川が隅田川に注ぐ柳橋辺りまでの神田川南岸を言う。江戸切絵図でも柳が書き込まれており数多く植えられていたようすが分かる。ここは現在の千代田区神田須田町1及び2丁目・岩本町3丁目・東神田2丁目・日本橋馬喰町2丁目・東日本橋2丁目北端に当る。岩波版長谷川氏注によれば、先に掲げた願人坊主の集住地であった橋本町は、この浅草柳原一帯に『に接しており、橋本町居住者を指すのであろう』と記されている。この橋本町とは江戸切絵図で見ると現在の東神田1丁目付近に相当する。なお、この記載は、あくまで同和的歴史的な過去の事実としてのみ理解されたい。

・「鞍馬流」現在の京都府京都市左京区鞍馬本町にある鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)の流れを汲むという意。鞍馬寺は当時は天台宗の寺院で(1949年に独立して現在は鞍馬弘教という仏教宗派の総本山という位置付けである)、開基は伝承上は鑑真の高弟鑑禎(がんてい)とされている。往時の鞍馬寺は十院九坊より成りその中の大蔵院と円光院の二つの願人坊主の流れがあったらしく、鞍馬寺を本とすることから、ここに示されるように寺社奉行が彼等を管轄していた。

・「□□といへり」底本では「□□」の右に『(原本約二字分空白)』の注を附す。当時の被差別者集団の頭領であることから、意識的に欠字としたものか。

・「土井故大炊頭」土井利里(どいとしさと 享保7(1722)年~安永6(1777)年)のこと。肥前国唐津藩第3代藩主・下総国古河藩初代藩主・京都所司代・土井家宗家8代。ウィキの「土井利里」より引用する。『父利清は土井家の分家5000石の旗本で、本家の唐津藩主・土井利実に子がなかったため、兄の土井利延が家督を相続していたが、利延が間もなく死去したため、利延の弟の利里が家督を相続した』。『幕府では奏者番となった後、古河へ国替されて土井家は家祖利勝時代の領地古河へ復帰。さらに利里は寺社奉行を経て京都所司代にのぼり、老中の一歩前まで来たところで死去する』。『利里も子に恵まれず、はじめ旗本・久世広武の子を迎え利剛と名乗らせ養嗣子としていたが早世』、『その後、川越藩主・越前松平朝矩の子を迎え利建と名乗らせていたが安永4年(1767年)廃嫡、ついで西尾藩主・大給松平乗祐の子を利見と名乗らせ家督を相続させた』とある。同記事の「官職位階履歴」によれば利里は延享元(1744)年に従五位下大炊頭(おおいのかみ)に叙せられている。彼が寺社奉行であったのは宝暦131763)年から明和6(1769)年の間である(この間、根岸は評定所留役から御勘定組頭(明和5(1768)年)となっている)。従って本文の記載から、本話柄は宝暦131763)年から明和5(1768)年の間の出来事となる(但し、もっと限定できる可能性がある。以下の「秋元家」注を参照されたい)。単なる官職位階であるから意味はないが、「大炊頭」について一応説明しておくと、宮内省配下の大炊寮の長官である。宮中の神事・仏会その他諸宴席等に於ける食材管理から調理全般及び諸国から献納される米穀の収納と分配を司った役職である。なお、「故」が入っているのは孫(土井利見の養子)に当る根岸の同時代人土井利厚(としあつ 宝暦9(1759)年~文政5(1822)年)が安永6(1777)年1220日利見の養嗣子となって古河藩襲封した際、同じく大炊頭に叙せられており、同じ役職を勤めていたためである。因みに、本巻が執筆された下限である天明6(1786)年頃は、この土井利厚の方は寺社奉行で、享和元(1801)年には京都所司代、享和2(1802)年には老中に就任しており、根岸より22歳年下ながら、出世街道をひた走った感がある人物である。

・「添翰」訴訟手続きをする際の、委細を支配頭が認(したた)めた添え状。

・「觸頭」社寺及びそれに準ずる集団の中から選ばれた、寺社奉行が発した命令の伝達及び寺社から出る訴訟の取り次ぎに従事したその代表社寺及びその担当者を指す。

・「留役」評定所留役。現在の最高裁判所予審判事相当。

・「役場中間」ここでの「役場」は特殊な用法で、火事場の意である。火消し役が役する火事場の謂いであろう。専ら消防作業に従事した中間のこと。

・「看板」武家の中間や小者(こもの)などがお仕着せにした短い衣類。背に主家の紋所などを染め出したものを言う。

・「予が屋敷」根岸鎭衞の屋敷は駿河台にあった。現在の神田駿河台1町目の日本大学のあった位置で、その道を隔てた台形をした現在の神田小川町3丁目は、江戸切絵図では全区画が「御用屋敷」(次注参照)と表示されている。

・「火消役の御役屋敷」旗本が任ぜられた定火消(じょうびけし)の役屋敷(消防担当役となった者が待機する指定された屋敷)。定火消は明暦3(1657)年1月に起こった明暦の大火の後、四代将軍家綱が命じて作られた消防団組織である。若年寄支配で江戸市中の消防に当った。万治元(1658)年に4組が設置され、後に10組に増やされた。十人火消し、寄合火消しとも言う。

・「若山某」未詳。

・「秋元家」山形藩。譜代大名6万石。時代的に見て、この時の秋元家当主は老中、武蔵国川越藩主、後に出羽国山形藩主となる秋元凉朝(あきもとすけとも 享保2(1717)年~安永4(1775)年)であったと思われる。以下、ウィキの「秋元凉朝」から引用する。『4000石を領した大身旗本・秋元貞朝の三男。子は娘(阿部正陳正室)。官位は従四位下、摂津守、但馬守。名はすみともとも読む。隠居後は休弦と号する』。『寛保2年(1742年)、先代川越藩主・秋元喬求が29歳で早世したため、藩主の座を継ぐ。幕府では寺社奉行、若年寄、老中を歴任した。老中在職は延享4年(1747年)- 明和元年(1764年)』であったが、彼は『田沼意次の権勢が強まるのを不快に思っていた節があり、当時側衆の一人に過ぎなかった意次と殿中ですれ違ったとき、挨拶を欠いたのは老中に対する礼を失していると、その非礼をとがめたエピソードは有名である』。『明和元年(1764年)に老中を辞任するが、田沼の権勢に対する抗議の辞任とみられ、のちに川越から山形に転封させられたのは意次による報復と見る説もある』。『明和5年(1768年)隠居。養子だった先代・喬求の次男・秋元逵朝が早世していたため、家督は甥で嫡子の座を継いだ秋元永朝に譲る。安永4年(1775年)死去した。「秋元家の家士有り」として根岸が敢えて彼を老中としなかった点を考えると(するのが当然である)、少なくともこの話柄の後半の出来事は、秋元凉朝が出羽山形に転封を命ぜられた明和4(1767)年から翌明和5(1768)年の一年間に限定出来るのかも知れない。

■やぶちゃん現代語訳

 無頼の者も自ずとその首領には服するという事

 当世には願人坊主と呼ばれる無法者の乞食僧がおる。

 昨今、思いつきで手を変え品を変えしては――例えば、ある時は、『大山石尊へ奉納致す物じゃ』と言うて、凡そ神社への奉納に適う物とは思えぬ異様なむくつけき物を拵えては町々を練り歩いて銭を乞い、ある時は荒行と称して寒空(さむぞら)の下(もと)無闇に冷水を浴びては喜捨を請い、ある時は代参の御用を仕ると言うては乱暴に錫杖を振り回しつつ通りを闊歩して一銭、二銭の駄賃を乞う――といった乞食と変わらぬ者どもである。だいたいが無頼の少年――父や親族の勘気に触れて勘当された不良少年が、一体にこうした輩に堕す。

 浅草柳原に、こうした連中が住んでいる長屋があって、その頭(かしら)は鞍馬流の□□という者である。土井故大炊頭(おおいのかみ)利里殿が寺社奉行を勤めておられた頃、この願人坊主の一人が奉行所に駆け込んで来、仲間及び町方の者どもから理不尽な打擲(ちょうちゃく)を受けたと訴え出た。

 しかるに奉行所では、このような事件の場合には、必ず、その支配の頭(かしら)である者の一件に関わる添え状なしには取り上げない決まりとなって御座る故、寺社奉行配下の役人が、あれやこれや、分かり易く、そうした事情を説明した上、更に、その程度のことで、訴訟なんどを起こしたらば、いろいろと面倒なること、これ生ずるによってと、利害をも述べて申し渡したのだが、元来がとんでもない頑愚ならんか、この凡僧、一向、納得せず、御公儀の定めた大法をも弁えず、ただただその身の不満を言い募って承知する気配これなく、果てはぎゃあぎゃあ騒いで手がつけられない状態になった。

 埒が明かぬと見た下役の者が、仕方なく、かの触頭である鞍馬流の□□を呼び出し、かくかくしかじかと訳を述べると、触頭は奉行所へ赴き、かの願人坊主に二言三言何やらん、恫喝叱責した――それだけで、さっきまで気違いのように手をつけられなかった願人坊主が――叱られた子供のように急にしょぼんとして――一言もなくこそこそと立ち去って御座った。これは私が評定所留役をして御座った折りに、目の当たりに見た事実にて御座る。

 また、火消役の者に役場中間という者らがおるが、これがまた、寒かろうが暑かろうが、のべつまくなし半被看板一枚で通し、博打、大酒を常として、金銭に窮した折りには、何と普段はいている草鞋や褌までも質に入れてかぶくといった、とんでもない無頼の輩である。

[根岸注:彼らは草履を質に入れている間は、万一、火事があって火事場へ駆けつけるに際しても、素足のままにて出るという。無頼の者とはいえど、その仲間内の掟は、厳重に守られているのである。誠(まっこと)面白い。]

 私の屋敷の向いには、実は、この火消役の御役屋敷がある。ある日のこと、私の家の近隣に若山某という、秋元家御家中の者が住もうて御座ったが、彼の下僕とこの役場中間が口論の末に一悶着あったらしい。ところがこの中間の者ども、

「理不尽なる打擲に遇(お)うた!」

なんどという如何にもな言い掛かりを申し立てながら――そうさな、中間三人ばかりであったか――それこそ理不尽に若山の宅(うち)の玄関へと上がり込み、

「……おうおうおうおう! 儂(あっし)ら、天下の往来で、打擲に遇(お)うて赤っ恥、掻いた! 最早、火事場のお勤めも、こんな恥掻かされては、勤めちゃ、居らんねえ! さあ、いっそのこと、殺せ! ああん? さ、殺せや!……」

と狂うた馬の如く大騒ぎして暴れ回る故、若山も大層難儀なれば、自ら御役屋敷のへ出向き、そこの御家来衆にかくかくと告げ、対処方宜しくと申し入れたところが、彼ら役場中間の頭と称する、如何にも小柄な親爺がやって来て、一通り、かの男どもを叱りつけて、

「早々に帰りませ!」

と言い放った。ところが、この連中、何分にも既にしっかり酒が入って気が大きくなっておったからか、全く以って馬の耳に念仏の体たらく、全く言うことをきかずに玄関内でぐだぐだしている。―― 

――と――

この小さな親爺、玄関内に入り込むと、それぞれの者の襟首を軽々と引っ捕らえ――

すたん!――すとん!――すたあん!――

――と三人纏めて玄関前の地べたに放り投げた。――

――そうして、親爺が連れて来た役場中間の子分どもに引っ立たせ、御役屋敷へと連れ帰って御座ったのであった。――

 一見、その様如何にも弱々しげな親爺で御座ったれど、かの連中を捌いた、その鮮やかな手は、正に大の男を子供のように扱(あつこ)うて御座った……

……とは若山の話にて御座る。

 何ごとにあっても、あるものの頭(かしら)となる者には、やはり、自ずと不可思議なる威厳や威力があるものなのであると、興味深く聞いたことである。

2010/08/21

耳嚢 巻之三 狂歌流行の事

「耳嚢 巻之三」に「狂歌流行の事」を収載した。

 狂歌流行の事

 天明の初めより東都に專ら狂歌流行しけるが、色々面白き俗諺(ぞくげん)を以(もつて)哥名(かめい)として、四茂野阿加良(よものあから)、阿氣羅觀江(あけらかんかう)、智惠の内侍(ちゑのないし)など名乘りて、集會などもありし由。四茂野阿賀良などは共通の宗匠といひし由。右狂歌は萬歳集などいへる板木にあれば洩(もら)しぬ。阿賀良が親友の七十の賀の歌などは面白き故爰にしるしぬ。

 七ツやを十ウあつめたる齡ひにてぶち殺しても死なぬ也けり

阿氣羅觀江よし原に遊びて居續(ゐつづけ)などして歸らざりければ、其妻詠るよし、

 飛鳥川内は野となれ山櫻ちらずば寢には歸らざらまし

吉原町に春は中の町に櫻を植て遊人を集(あつむ)る事なれ。右櫻を詠(よみ)いれて根にかへらじの心、面白き故爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「天明の初め」天明年間は西暦1781年から1789年までであるが、後掲する「万歳狂歌集」の刊行が天明3(1783)年のこと。

・「狂歌」社会風刺・皮肉・滑稽を盛り込んだ五・七・五・七・七の短歌形式の諧謔歌。以下、ウィキの「狂歌」より引用する。『狂歌の起こりは古代・中世にさかのぼり、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる』。鯛屋貞柳は「たいやていりゅう」と読み、本名永田良因(後に言因と改名)。鯛屋という屋号の菓子商人出身であった。上方の狂歌歌壇の第一人者で、「八百屋お七」で知られる浄瑠璃作者にして俳人・狂歌師であった紀海音の兄でもある。狂歌の解説に戻る。『特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人・四方赤良(よものあから))が著した狂詩集「寝惚先生文集」で、そこには平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769年)には唐衣橘洲の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連)を作って創作に励んだ。朱楽菅江、宿屋飯盛(石川雅望)らの名もよく知られている。狂歌には、「古今集」などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる』とある。天明調狂歌の特徴は歯切れの良さや洒落奔放(しゃらくほんぽう)にある。

・「俗諺」俚諺。世間で使われている諺(ことわざ)。

・「四茂野阿加良」一般には「四方赤良」と表記。にして狂歌師大田南畝(おおたなんぽ 寛延2(1749)年~文政5(1823)年)の筆名。本名大田覃(おおたふかし)。通称は直次郎・七左衛門。筆名多く、四方赤良の他、寝惚先生・杏花園・蜀山人・玉川漁翁・石楠齋など。明和4(1767)年に当時19歳で狂詩集『寝惚先生文集』を表わし、これが狂歌ブームの起爆剤となった(序文は平賀源内)。なお、四方赤良という雅号は、彼の好いた銘酒「滝水」で有名な江戸日本橋新和泉町の酒屋四方久兵衛の店で売る赤味噌や酒の略称を捩(もじ)って使ったものとされる。以下、幾つかの狂歌をウィキクォートの「大田南畝に引用されているものを示す(但し、正字に変換し、本歌の説明部分に手を加えた)。まずは四方赤良名義の狂歌。

 世の中は色と酒とが敵(かたき)なりどふぞ敵にめぐりあいたい

 わが禁酒破れ衣となりにけりさしてもらおうついでもらおう

 をやまんとすれども雨の足しげく又もふみこむ戀のぬかるみ

 ものゝふも臆病風やたちぬらん大つごもりのかけとりの聲

 世の中はいつも月夜に米のめしさてまた申し金のほしさよ

 長生をすれば苦しき責を受くめでた過ぎたる御代の靜けさ

 難や見物遊山は御法度で錢金持たず死ぬる日を待つ

 今さらに何か惜しまむ神武より二千年來暮れてゆく年

 ほととぎす鳴きつるあとにあきれたる後德大寺の有明の顏

これは後徳大寺左大臣の

『郭公のなきつるかたをながむればただ有明の月ぞのこれる』

の本歌取りである。

 山吹のはながみばかり金いれにみのひとつだになきぞかなしき

これは兼明親王の

『七重八重花は咲けども山吹の實のひとつだになきぞかなしき』

の本歌取りである。
次に蜀山人名義のもの。

 鎌倉の海よりいでしはつ鰹みなむさし野のはらにこそいれ

 雜巾も當て字で書けば藏と金あちらふくふくこちらふくふく

 ひとつとりふたつとりてはやいてくふ鶉(うづら)なくなる深草のさと

これは藤原俊成の

『夕されば野邊の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里』

の本歌取りである。

 駒とめて袖うちはらふ世話もなし坊主合羽の雪の夕ぐれ

これは藤原定家の

『駒とめて袖うちはらふかげもなしさののわたりの雪の夕暮』

の本歌取りである。

 世の中にたえて女のなかりせばをとこの心はのどけからまし

これは在原業平の

『世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし』

の本歌取りである。

ただ、何と言っても私が直ぐに思い出すのは、決まって大学時代に吹野安先生の漢文学演習で屈原の「漁父之辞」を習った際、先生が紹介してくれた、この大田蜀山人の、

死なずともよかる汨羅(べきら)に身を投げて偏屈原の名を殘しけり

である(第五句は「と人は言ふなり」とするものが多いが、私は吹野先生の仰ったものを確かに書き取ったものの方で示す。私は先生の講義録だけは今も大事に持っているのである)。
・「阿氣羅觀江」一般には「朱楽菅江」と表記する。戯作者にして狂歌師朱楽菅江(あけらかんこう 元文5(1740)年~寛政121801)年?)。ウィキの「朱楽菅江」等によれば、大田南畝や唐衣橘洲(からごろもきっしゅう 寛保3(1744)年~享和2(1802)年):田安徳川家家臣。本名小島恭従。)らと共に天明狂歌ブームを築き上げ、狂歌三大家と囃された。別号は朱楽漢江・朱楽館・准南堂・芬陀利華庵。牛込の二十騎町に住む幕臣(御先手与力)で、本名は山崎景貫。通称は郷助。字は道甫。俳号は貫立。筆名は勿論、「あっけらかん」の捩りである。ここにも登場する妻(本名まつ)も「節松嫁々」という号の女流狂歌師として著名であった。この号は「ふしまつかか」と読み、「臥し待つおっ母(かあ)」で、吉原へ居続けの夫を一人寝の床で臥して待つの意を掛けた号であり、正にこの歌の謂いそのものの雅号である。
・「智惠の内侍」一般には「智恵内子」と表記する。狂歌師元木網(もとのもくあみ)の妻で自らも女流狂歌師として活躍した元木すめ(延享2(1745)年~文化4(1807)年)。「朝日日本歴史人物事典」等によれば、明和6(1769)年初期の江戸狂歌壇に木網が参加した頃より夫とともに狂歌を詠み始め、天明1(1781)年には芝西久保土器町に隠居して落栗庵を構え、夫婦で狂歌の指導をした。門人多く、平秩東作(へづつとうさく 享保111726)年~寛政元(1789)年):戯作者にして狂歌師。)天明3(1783)年刊の「狂歌師細見」によれば『江戸中半分は西の久保の門人』といわれるほどであったという。同じ女流の節松嫁々と共に女性狂歌師を代表する作者で「狂歌若葉集」「万載狂歌集」をはじめ多くの狂歌集に入集する。勿論、宮中の内侍司(ないしのつかさ)の女官の総称である「内侍」に「知恵の無い子」を掛けたもの。

 ふる小袖人のみるめも恥かしやむかししのふのうらの破れを

 六十あまり見はてぬ夢の覺むるかとおもふもうつつあかつきの空(辞世)

・「集會」狂歌派閥の集団狂歌連による狂歌会のこと。例えば橘洲は武士を中心メンバーとした狂歌連「四谷連」を名乗って狂歌会を開いた。明和6(1769)年に橘洲の屋敷で開かれたものが狂歌会の濫觴と言われる。それに対抗した大田南畝の率いた狂歌連を「山の手連」と呼んだ。他にも町人を中心とした狂歌連も多く、歌舞伎役者五代目市川團十郎とその取り巻き連中が作った「堺町連」、蔦屋重三郎ら吉原通人グループが組織した「吉原連」などがあった。
・「萬歳集」正式書名は「萬載狂歌集」。天明3(1783)年、唐衣橘洲の編んだ狂歌集「若葉集」に対抗して大田南畝と朱楽菅江が編んだ狂歌集。
・「洩しぬ」は「抜く。省く。」の意味で、文意からすると、彼等の代表作は「萬載狂歌集」に所収するから特に記さない、という意味と思ったが、どうも以下の作品自体が「萬載狂歌集」に所収するものと思われる(私は不学にして「萬載狂歌集」を所持しないので確かには言えないが)ので、抜粋と訳しておいた。「萬載狂歌集」にお詳しい方、どうか御教授を願う。
・「七ツやを十ウあつめたる齡ひにてぶち殺しても死なぬ也けり」「七ツ屋」は質屋のことで、「ぶち殺す」というのは「質に入れる」意のスラング。

○やぶちゃんの解釈

七つ屋を十(とう)集めた齡(よわい)とは――七十軒の質屋の謂いじゃ!――こりゃ、どんだけ「ぶち殺しても」――ありとある、己(おの)が命を質入れしたとて――質屋多くて質草足らずじゃ!――いっかな、どっこい、死にもせぬわい!

・「飛鳥川内は野となれ山櫻ちらずば寢には歸らざらまし」「飛鳥川」は奈良県高市及び磯城(しき)郡を流れる川で、古来、淵や瀨の定まらぬ暴れ川であったことから、無常や変わりやすい心の譬え。「飛鳥」に「明日」、「内」には「明日うち」及び「宅」(家)をも掛かるか。「内は野となれ山櫻」は俚諺の「跡は野となれ山となれ」を引っ掛け、「内」は更に「内儀」の意を掛ける。「寢」は桜の木の「根」の掛詞。

○やぶちゃんの解釈

明日うちには宅(うち)へ帰ってくるか帰らぬかと……如何にも頼りにならにならぬ飛鳥川のような望みをかけてきましたが……所詮、桜の花というもの、散らずば根にも帰ること、これ御座らねばこそ――桜の花や何やらが、匂い立つよに乱れ咲く、かの吉原の野に行かんとなれば、『家内のことなんどはどうでもなれ、母(かか)あなんぞはいっそ野となれ山となれ』などとお思いのあなたは――その桜が散らぬ限りは、寝には帰らぬ、とおっしゃるのでしょうね……。

・「中の町に櫻を植て遊人を集る」吉原の年中行事の一つ。春三月一日から月末まで、吉原唯一の大門から中央を貫くメイン・ストリート仲の町の中央筋に、大きな桜の木を植え並べて垣根を廻らした。仲の町の桜として有名であった。通りに面した遊廓には軒と言う軒に提灯が吊られ、夜桜見物も兼ねて客が大勢集まり、勿論、花魁道中もあって、文字通りの豪華絢爛絵巻が髣髴とされる。一部の記載に寛政2(1790)年から始まったとあるが、本歌が「萬載狂歌集」所収のものであるとすれば、天明3(1783)年には既にあったか、少なくとも「卷之二」の下限である天明6(1786)年までには、既にこの風俗が創始されていたものと考えられる。

■やぶちゃん現代語訳

 狂歌流行の事

 天明の初めより、江戸では専ら狂歌が流行したが、狂歌師は、実に多様な面白い俗諺俗語を狂歌師の雅号として名乗っており、例えば四茂野阿加良(よものあから)であるとか、阿気羅観江(あけらかんこう)、智恵の内侍(ちえのないし)なんどと奇天烈な名を名乗り、徒党を組んで集会なんども開いて御座る由。特に四茂野阿加良なんどは、その道の宗匠とさえ呼ばれているそうである。
 こういった狂歌師の狂歌は「万歳狂歌集」なんどという滑稽なる板本となって出版されたので、ここにその一部を抜き書きしておこう。
 まず最初は、阿加良が親友の七十の賀に添えた歌、

   七ツやを十あつめたる齢にてぶち殺しても死なぬなりけり

 次は、夫の阿氣羅觀江が吉原に居続けなんどをして一向に帰ってこないのに業を煮やした妻節松嫁々(ふしまつかか)の詠んだという歌、

   飛鳥川内は野となれ山桜ちらずば寝には帰らざらまし

 この歌、少し解説しておくと、吉原の町内にては春になると中の町の沿道に桜を植えて遊び人を集めるのを常としているとのことで、その桜を歌に詠み込んで――「根に帰へらじ」――「寝に帰らじ」とした心ばえ、誠に面白い故に、ここに記しおく。

2010/08/20

僕が芥川龍之介の岩波版旧全集に拘る理由

 僕が芥川龍之介のテクストについて、岩波版旧全集に拘ること、ひいては戦前作家に正字正仮名(どうも旧字歴史的仮名遣という語は差別的で厭な感じがする)を原則とすること、芥川に限らず多くの総ルビ作品をパラルビにしている理由について少し述べておきたい。

 正字正仮名の方は到って簡単明瞭な正統的理由である。それが芥川龍之介を始めとする戦前作家自身の書いた原稿により近いからであり、当時の読者が初めて眼にしたものに他ならないからである。また、正字の画数の多い複雑でより絵画的な文字列の印象が、意味や表現の伝達の違いとなって致命的に現れるという考え方を僕がとっているからでもある。また、それが作者の創造の過程のイメージのプロトタイプであるという考え方を僕はするからでもある。戦後直後の作品を含む「やぶちゃん版鈴木しづ子句集」で、聊か牽強付会と思われるのを覚悟しながらも恣意的な正字変更を行ったのも、そうした理由からである(以下の僕のブログを参照されたい)。僕の授業を受けた諸君は、僕が「うつ病」と「鬱病」とを板書し、その病症印象の決定的違いを言い、更にこんな話をしたのを思い出される方もあろう。――かの江戸川乱歩の素敵な猟奇作「蟲」について、高木彬光氏が中学生の時に読んで、『背筋に悪寒が来て本をとじ、その後はもう読めなくなったことをおぼえている。正直なところ、その結末は人に読んでもらって話を聞いただけだった』というエピソードだ。高木氏は更に書く。『あのときの記憶によれば、この「虫」はこういう略字ではなく「蟲」という本字が使われていたはずである。二十四字もこの文字が続いた日には、その効果は決して三倍ではとどまらない。活字による視覚に訴える恐怖の効果がこれほどすさまじくあらわれた例は、私は長じてからもほかに類例を知らないのだ。』と述懐されている(昭和501975)年刊の角川文庫版江戸川乱歩作品集「魔術師」解説より引用)。という体験を僕らはしたことがあるだろうか? 実際に見てみよう――

「蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲」

 彼の白い腦髓の襞を、無數の群蟲がウヂヤウヂヤと這ひ廻つた。あらゆるものを啖ひつくす、それらの微生物の、ムチムチといふ咀嚼の音が、耳鳴りのやうに鳴り渡つた。

の文字列と、

「虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫」

 彼の白い脳髄の襞を、無数の群虫がウジャウジャと這い廻った。あらゆるものを啖いつくす、それらの微生物の、ムチムチという咀嚼の音が、耳鳴りのように鳴り渡った。

の如何にもな文字列の、陳腐にして『無氣味さの無さ』は歴然としているではないか(但し、前者は後者の当該角川文庫の原文を僕が恣意的に正字正仮名に代えたものであって、原本に当たったのではないことはお断りしておく。因みに、芥川龍之介は「蟲」の使用例がそれほど高くない。略字(後の新字)の「虫」の使用例が圧倒的に目に付く。実は高い確率で生理的に犬同様、芥川龍之介は「蟲」の字嫌いであったものと僕は睨んでいるのだ)。【追記:2017年3月21日に江戸川亂歩「蟲」の正字正仮名版附やぶちゃん亂歩風マニアック注を公開した。どうぞ、ご覧あれかし!

 一方、総ルビをパラルビにしている理由は、一つには極めて現実的な理由がまずはある。僕のHPビルダーでは、ルビ振りが煩雑であり、実際に極めて面倒臭い(程度にしか僕がそのソフトを使いこなしていないということでもあるが)。さらに上手く振れてもブラウザの文字サイズの変更によってはルビ位置が大きくずれたり、青空文庫版テクストでも見られるように、ルビがある行とない行の行幅が見るからに異なり、これがまた如何にも、僕にとってはとっても気持ちが悪いのである。かと言って後部の括弧による読みの表示は、ブラウザ上は甚だ五月蠅く感じられ、原則、僕のHPにあって総ルビ(厳密には総読み括弧書きによる振り)というのは、初期に作製した國木田獨歩の「忘れえぬ人々や、芥川龍之介の「奉教人の死」の原典Michael Steichen(斯定筌)著「聖人傳」の「聖マリナ」といった資料的厳密性を第一とするもの以外では行っていない(但し、多くの縦書リーダー等では後付け丸括弧表示の読みをルビに自動変換してくれるものも多いので、リーダー・ソフトで読むことに慣れている方には僕はそれほど読みにくいものではないとは思っている)。従って朗読を小説の命と考えている僕としては、読みの振れるもの、迷うものに限って振るという仕儀をポリシーとしているという訳である。

 さらにもっと重大な点は、泉鏡花のように確信犯として作者が原稿にルビを振る場合を除いて(僕が泉鏡花のテクストに手をつけるのを躊躇しているのは「鏡花花鏡」という美事なサイトがあることに加えて、彼の場合は総ルビを再現することが逆に至上命令だからである)、芥川龍之介などの作家の多くのルビは、『作者の作品の一部とは言えない』と考えるからである。

 実はこれについては、僕自身溜飲の下がる思いがした文章に出逢ったことがある。

 堀辰雄の芥川龍之介全集編集時のエピソードを以前、皮肉にもあの忌まわしき新字体採用の岩波版新全集――尚且つ、この全集のルビは編者によって勝手に追加されている――の月報の中に発見した時のことである。

 2007年9月の第九巻月報6に所収する十重田裕一(とえだひろかず)氏の「堀辰雄、芥川全集を編纂する」がそれである。

 その記載によれば、芥川龍之介を師と仰いだ堀辰堆は、芥川龍之介全集の元版と呼ばれる死後すぐに企画された第一回目の岩波版全集(19271929)と普及版と呼称される同社刊行の二度目の全集(19341935)の編纂に関わったが、普及版全集については、その書簡等で『たびたび言及しており、彼の編纂に関する考えを垣間見ることができる』とされ、それは例えば『ともに編纂に携わった葛巻義敏に宛てた、一九三四年八月十八日の二通の書簡からうかがえる。この二通の書簡で主な話題となっているのは、全集収録本文のルビについてである。一通目の葛巻義敏宛書簡では「ルビ無し」の全集を刊行することを主張しながらも、追伸では、普及版『漱石全集』(岩波書店、一九二八-二九年)に準じて、「小説ルビ附、その他ルビ無」という妥協案へと考えが傾いている。同一書簡のなかで、堀の考えが揺らいでいることがうかがえる』のであるが、『同日の夕方に投函された二通日の葛巻宛書簡では、たとえ読者を限定することになっても、ルビを付けないことが望ましいと、堀は強く主張するようになる。発行部数に具体的に触れつつ、堀は次のように記しているのである』として、以下、堀辰雄の書簡を引用されている。なお、この孫引き引用については、「僕のポリシー」に則り、恣意的に一部を正字に変換させて頂くこととする。

 いろいろ岩波の方の意向もお訊きして、「ルビ無し」説を貫徹するやう返電して置いた。岩波の讀者層、芥川さんの讀者層、兩者を並せて考へるに、賣行がルビの有無によつて、さほど影響するものとは考へられない。ルビがなくとも、五千乃至七、八千位は確實に賣れん。(一万、二万と賣らうといふのでない以上は。)かへつて最初からルビなしでくつついてくる讀者の方が確實ならんかと思ふ。大体、總ルビ附は、芥川さん自身がつけたものならいざ知らず、多くは後人の附したるもの。甚だ不自然なるが多い。(ことに漢詩、外國語につけたりするのは無理。)そんな間違つたものを、後世に殘して置くより、自然の儘に原文を保存しておいた方が數等優ると信ず。[やぶちゃん注:「並」には引用元では右に『(ママ)』表記が附く。「并」である。]

更に続けて十重田氏は『この書簡の末尾に、「断然ルビ無しの方がよいと考へるに到つた」ともあり、一日のあいだに、堀の考えが明確になっていく様子がうかがえる。また、「ルビ無し」の本文にこだわった理由や、全集本文に対する堀の考え方が表れている。堀が理想としていたのは、芥川の遺した自筆稿に基づく本文であり、したがって、編集段階でルビの付された総ルビの本文については懐疑的であった。たとえ読者が限定されることになっても、芥川の自筆稿に基づき、つとめて正確に本文を校訂して後世に残すことを堀は重視していたのである』と記されている(但し、実際には普及版全集においては、結局、この「ルビ無し」は採用されなかった)。

 このルビの問題は、今回、僕が漱石の「心」の『朝日新聞』初出版をテクスト化(「こゝろ」「上 先生と私」パート初出「中 兩親と私」パート初出「下 先生と遺書」パート初出)した過程に於いても、その余りのいい加減さに、怒りを通り越して苦笑する他ないまでの惨状を見てきたから痛い程よく分かるのである(しかし、それが日本人が初めて「心」=「こゝろ」を体験した最初であるという点を主眼としているため、当該テクストはミス部分を殊更に表示したように見える、一見奇妙なテクストとなっているのであるが)。

 僕は堀辰雄の考え方に強く共感するものである。

 僕はいつか、芥川の作品がひらがなだらけになって、芥川だって漢字、知らないんじゃん、とか軽く言われながら若者に読まれるようになるのが、少しばかり――いや、大いに淋しい。それは芥川に限らず、日本文学そのものが、真に理解されることどころか、真に読まれることもなくなり、そもそも読むことさえ出来なくなるという、文学的末法の世でもあるような気がするのである。

 十重田氏はこの小論の最後を、こう締め括られている。

『文芸ジャーナリズムの商業主義を十分に視野におさめながら、その状況下で、堀は自分の理想とする編集物をつくろうとしていたのだが、普及版全集の編纂においても、その理念が表れていたと考えられる。堀は、文学の読者層が広がり、本が大量生産・大量消費されてゆく時代の趨勢を意識しながらも、これに迎合することなく、師の文業を後世に正確に伝えうる定本全集を編纂して世に問おうとしたのである。』

 この文章は勿論、自筆原稿を底本とした、この月報が挟まれる岩波版新全集への賛辞としてあるのであろうが、僕には逆に、新字体を採用してしまったこの全集の編集方針への、如何にもな皮肉にさえ聞こえるのである。

 僕はこのIT時代にこそ、この堀のポリシーは復活するべきであると思うのである。パブリック・ドメインとなった芥川龍之介の作品を、芥川が疑義を抱いた資本主義社会の生産消費システムや商業主義から、真に解き放ち、あるべき姿の原型を復権させることが、僕ら、誰にでも可能なのだ。僕は非力にして不肖ながら、そのような芥川の遠き弟子の一人として、僕自身のオリジナルな芥川龍之介の電子テクストを公開し続けたいと不遜にも密かに思っている一人なのである。――

【2010年10月23日追記】

何より、芥川龍之介自身が僕の気持ちを正当と評して呉れる自信が、僕にはある。例えば、今日公開したこの、芥川龍之介の「文部省の假名遣改定案について(初出形)」をお読み頂きたい。これは仮名遣の問題であるが、それがはっきりと僕の上記の思いに通底していることは火を見るよりも明らかであるからだ。

耳嚢 巻之三 強盜德にかたざる事

「耳嚢 巻之三」に「強盜德にかたざる事」を収載した。

 強盜德にかたざる事

 予留役勤ける時、牧野隅州(ぐうしふ)御勘定奉行の節、懸りにて眞島友之丞といへる盜賊の吟味ありしが、上州武州を徘徊せる大盜にて、所々民家へ押入強盜にてありし。其罪極りて侵せる事を聊(いささか)不隱(かくさざり)し。或日懸りの留役尋けるは、汝も所々盜なして歩行(ありく)に怖しき事にも逢しやといひければ、都(すべ)て盜賊の儀、何ほど同類を催しても其門其戸をはづし這入候迄は怖しき物なり、一旦内へ入ては聊か恐るゝ事なく、物を取得て立歸らんとする頃又怖しく覺る也、數ケ所押込強盜なしけるに、上州の在と覺へし、ある寺院へ立入りしに、住僧の居間の襖を明けんとせしが、しきりに怖しく覺へけれども忍びて襖を明たるに、住僧起直り、盜賊也やとて長押(なげし)にありし長刀へ手を掛給ふと思ひしが、誠に二つに切られし心にて、足をはかりに逃出しに、跡より迫るゝ心にて其身計(ばかり)か同類共も、命限り拾町餘(あまり)も山の内へ迯込(にげこみ)しが、よく/\思ふに跡より追ひ候氣色もなかりけり。德ある出家にや、かく恐しき事に逢し事なしといひぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:強盗撃退譚で直連関。

・「留役」評定所留役のこと。現在の最高裁判所予審判事に相当。根岸が評定所留役であったのは23歳の宝暦131763)年から明和5(1768)年迄。

・「牧野隅州」牧野大隅守成賢(まきのおおすみのかみしげかた 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)のこと。旗本。以下、ウィキの「牧野成賢から引用する。『勘定奉行・江戸南町奉行・大目付。御旗奉行牧野成照の次男。一族牧野茂晴の娘を娶って末期養子となり、2200石を継承した。通称、大九郎、靱負、織部』。『西ノ丸小姓組から使番、目付、小普請奉行と進み、宝暦11年(1761年)勘定奉行に就任、6年半勤務し、明和5年(1768年)南町奉行へ転進する。南町奉行の職掌には5年近くあり、天明4年(1784年)3月、大目付に昇格した。しかし翌月田沼意知が佐野政言に殿中で殺害される刃傷沙汰が勃発し、この時成賢は指呼の間にいながら何ら適切な行動をとらなかったことを咎められ、処罰を受けた。寛政3年(1791年)に致仕し、翌年没した』。『牧野の業績として知られているのが無宿養育所の設立である。安永9年(1780年)に深川茂森町に設立された養育所は、生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保の頃より住居も確保できない無宿の者達が増加の一途を辿っており、彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直す為の援助をすることが、養育所設置の目的、趣旨であった。定着することなく途中で逃亡する無宿者が多かったため、約6年ほどで閉鎖となってしまったが、牧野の計画は後の長谷川宣以による人足寄場設立の先駆けとなった』とある。以上の記載から、この一件の吟味は宝暦131763)年から明和5(1768)年の5年間の間の出来事であることが分かる。牧野は根岸より23歳年上で、経歴から見ても大先輩に当る。

・「上州武州」上野国(こうずけのくに)と武蔵国。上野国は、ほぼ現在の群馬県とほぼ同じであるが、桐生市のうち桐生川以東は含まれない。武蔵国は現在の埼玉県・東京都の大部分及び神奈川県川崎市と横浜市の大部分を含む地域。21郡を有する大国であった。

・「御勘定奉行」勘定奉行のこと。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。

・「眞島友之丞」未詳。その申し状から、是非ともお仕置きの中味が知りたいものである。恐らくは斬罪であったろうが、どうにもこの眞島友之丞、気になってしようがないのだ。そういた雰囲気から現代語訳では随所に私の意訳による補足を加えた。お楽しみあれ。

・「足をはかりに」この「はかり」は「限り・際限」の意で、足の続く限り、突っ走ったことを言う。

・「拾町餘」一町は60間(けん)で約109mであるから、凡そ1㎞程。

■やぶちゃん現代語訳

 強盗も徳には勝てぬという事

 私が留役を勤めていた頃、当時、御勘定奉行であられた牧野大隅守成賢殿が真島友之丞という盗賊の吟味に当られた。

 こ奴は上州や武州を中心に荒らし回った大盗賊にて、各地の民家へ押し入っては強盗を働く常習犯であった。その罪極まれりと観念したものと思われ、吟味の間も己れの所行を洗い浚い白状致いて、聊かなりとも隠そうとせず、吟味の者たちも内心、盗人(ぬすっと)乍ら殊勝なる振舞いと親しみさえ覚えて御座った。

 そんな吟味のある日のこと、一段落ついた係の留役が、

「……お前も、あちこちで盗みを働いたことなれば……中には恐ろしいと思う目に遇(お)うたこと、これ、あったか?」

と友之丞に訊ねた。友之丞は、

「……へえ、総て盗賊という申す者どもは、たとえ何人もで徒党を組んで御座ろうとも、その門、その戸を外して、中に忍び入ります迄は……誠(まっこと)恐ろしいものにて御座る。……しかし一旦、内へ侵入致さば、もう、何の恐ろしいことも、これ、御座ない……されどまた、得物(えもの)を取り得て、さても帰らんとする頃になると……これまた、恐ろしくなるものにて、御座る……。

……今まで数限りのう押し込み働(ばたら)き致いて御座ったれど……確か上州の田舎でのことと覚えて御座る……とある寺院に忍び込み、寝込んでおった住僧の、その居間の襖を開けんとせしに……何故か分かりませぬ……が……ともかくも何やらん頻りに恐ろしゅう思われて、なりませなんだ……なりませなんだが、何とか堪(こら)えて……襖を、静かに開けたところが……臥して御座った住僧、すっくと起き直って、

『盗賊であるかッ!』

と言うが早いか、長押(なげし)にあった長刀(なぎなた)へ――

――手を、お掛けになった――

――と、その瞬間――

――儂(あっし)は、誠(まっこと)ばっさり真っ二つに斬られた心地が――

――本に、致しやした……

……後は一目散……ただただ足の続く限りに逃げ出しやした……かの僧が後から追いかけて来て、今にも背後から

――ばっさり斬(や)られる――

という心持ちにて……いえ、儂(あっし)ばかりにては御座らぬ……一緒に押し入った仲間ともども……同じ思いにて……命を限りと十町余りも山の中へと駆け込んでおりました……が、今思い起こさば……実際にはそれはいらぬ気遣いで御座ったに。

……あのお方は……よほど徳のある御出家ででも御座ったか……

――いえ、ともかくも儂(あっし)の――

――もう、じきに、首が飛ぶ儂(あっし)の、この生涯で――

――その首が飛ぶであろう時よりも――

……かほどに恐ろしき目に……遇(お)うたことは……これ、御座らぬ……」

と語った。

2010/08/19

耳嚢 巻之三 老僕盜賊を殺す事

「耳嚢 巻之三」に「老僕盜賊を殺す事」を収載した。

 老僕盜賊を殺す事

 下谷どぶ店(だな)といへる處に華藏院と言へる寺ありしが、彼寺へ盜賊入りしを、寺に久敷仕へける老僕見附て、盜賊と呼(よば)はりしを、右盜賊むずと組で、もとより老人なれば何の事もなく取て押へ手拭を口へ押込けるが、其儘に盜賊悶絶して死し居たり。何か物音に驚きて外々の人も燈火などして見ければ、いかにも大兵(たいひやう)の男、彼老夫を押へ踏跨(ふみまたがり)て死し故、早々老夫を引起し見しに、取組で押へられし節、兩手を以盜賊の陰嚢を強く〆て始終放(はなさ)ざりし故、盜賊ついに命を失ひしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、正に「秘策中の秘策」という点では通ずるとも言えるか。

・「下谷どぶ店といへる處に華藏院と言へる寺あり」嘉永年間(18481853)に作成された尾張屋金鱗堂板江戸切絵図を見ると、下谷七軒町の「酒井大學頭」の屋敷の西隣に「華藏院」とある。南側に門前町と記してあり、小さいが相応の寺格であったことが窺われる。この寺はやや移転して台東区元浅草1丁目に現存する。天台宗東京教区の記載よれば、正式には天台宗寳光山影現寺華蔵院と呼称する(現在通称は善光寺東京別院)。創建は慶長16 (1611)年である。『華蔵院は下町浅草の永住町という所にあります。 現在は町名変更により元浅草と改称されましたがその前は七軒町にありました。七軒町は華蔵院門前七軒町と呼ばれ、 寺の前に町家七軒があったので、 この名ができたといわれています。 関東大震災後の昭和2年の区画整理で移転され、 現在は、 白鴎高校正門前に位置しています』。『寺の歴史は古く、慶長16年、 権大僧都傳長法印の中興開基と伝えられています。 江戸時代の民間信仰の霊場として広く知られていました。後に東叡山寛永寺の塔頭 (末寺) に編入され、 寛永寺住職の隠居寺となったようです』とある。元の位置は現在の元浅草1丁目の春日通りと新清洲橋通りの交差点の東北の角、ヒサヤ大黒堂が所在する辺りと思しく、底本の鈴木氏注によると、現在の台東区元浅草3丁目内に位置した「下谷どぶ店」とはずれることが指摘されている。なお、鈴木氏注ではこの「どぶ店」の解説が詳しく、『意味は泥溝。山崎美成の『海録』に巻三に「今浅草に土婦店といふ所あり、此所古くは新地といへり。その比は今の和泉橋通大寒屋鋪ちいへる所を、土婦店といひし也。又南畝翁云、文政四、「旧記に、土婦店を酴醿店とかけり、此字おもしろし」といはれたりき。」酴醿は、重ねて醸した酒、また滓を取らぬ麦酒と辞書にある。溝や水溜りからブツブツとメタンガスなど出ていようという水はけの悪い低湿地の形容として似合わしいという意見であろう。』と、面白い注を施されている。「酴醿」は「とび」と読む。これぞ、あるべき注の真骨頂!

・「陰嚢を強く〆て始終放ざりし故、盜賊ついに命を失ひし」とある。実際に睾丸を握り潰して人を殺すことが可能かどうか、不学にして確信出来なかったが、まさかと思いきやウィキに「金玉潰し」という項が存在した。無関係な部分にかなり性的な内容を含む記載なので、特例としてリンクを避けることを御赦し頂きたい。その「機能喪失」の項に以下のようにある『睾丸の機能を潰すことを目的で行われる行為は、大部分が拷問や私刑の一環として古くから行われてきた、相手に対する暴力行為である。強靭な握力で握り潰す場合もあるが、大抵は万力などを始めとする道具を用いて物理的に睾丸を潰してしまうことが多く、そのための専用の道具も存在する。平均的な睾丸は、5060キログラムの圧力がかかると破裂してしまう。これは、成人男性の握力をもってすれば、睾丸を破裂させることはそう難しくないことを示唆する。限界を超える加圧が起こると、睾丸の表面を形作っている強靭な膜、白膜(はくまく)が裂け、睾丸内部に詰まっている精細管などの実質が、その裂け目から陰嚢(金玉袋)の中に飛び散る。白膜が裂けてしまった場合、早急な医療処置をとらなければ、最悪の場合、睾丸を摘出する必要も出てくる』。『睾丸には多くの血管が通っており、睾丸を潰した後には適切な止血措置を行わないと死亡に至ることが多い』。ナットク。

■やぶちゃん現代語訳

 老僕盜賊を殺す事

 浅草六軒町にある、通称下谷どぶ店(だな)という所に華蔵院という寺があったが、この寺へ盗賊が入った。寺に永年仕えておった老僕が見つけて、

「盗っとじゃ!」 

と叫んだのじゃが、盗賊はこの老僕とむんずと組み合い、もとより老人なれば、難なく引き倒してとり押さえ、馬乗りになると、老人の口にぐいと手拭いを押し込んだ。

……ところが……

……盗賊はそのまま……老僕に跨ったままに悶絶して死んでおった……

……何やらん妙な物音に眼を醒ましたその他の者ども、おいおい灯明なんどを点して窺ってみたところが……

……如何にも大兵肥満の大男が……かの老人を押し倒して、その上に馬乗りになったままに……死んでおった……

……そこで早速、老人を引き起して見たところ、取り組んで押えられた際、彼は両手を以って盜賊の陰嚢を思いっきり、ぎゅ~うっと摑んで始終放さなかったために……盜賊、遂には金玉が潰れ、惨めなる死にを致いたので御座ったよ。……

2010/08/18

芥川龍之介 シング紹介 附未定稿二種 オリジナル語注附加

幾つかの語句に私自身やや不明な点があった芥川龍之介「シング紹介 附未定稿二種」に、私のオリジナルな語注を附した。かなり読み易くなったものと思う。

なお、冒頭注記最後にも記したが、本文中に現れる詩篇については、現在、知人のアイルランド人に邦訳を依頼中である。暫し、待たれよ。

耳嚢 巻之三 目あかしといへる者の事

「耳嚢 巻之三」に「目あかしといへる者の事」を収載した。

 目あかしといへる者の事

 古へは公(おほやけ)にも目あかしを遣ひ給ふ事あり。一名おかつ引と唱。一旦盜賊の中間に入て盜を業としける者を、其罪を免し惡黨を捕(と)る一助となす事也。然るに元來惡黨の事故、己が罪をまぬがれんため、かゝる盜賊の有所を知りたり、かく/\の惡黨を捕へ申させんなどいひて、却て罪なきの人を捕へ己が罪を免るゝ事多し。依之有德院樣御代より、おか引目あかし等の事堅く禁じ給ひぬ。然れども私儀には其後も此役をなせる者あり。尾州家に仕へし者語りけるは、いつの事にや、元來盜などなせる者其志を改しを、同心支配に申付て盜賊の防ぎをなし給ひしに、或日名護屋の町に同心與力の類ひ右の者を召連れ茶屋によりて休息せしに、年頃五十餘りの禪僧、モウスといへる頭巾やうの物をかぶりて、伴僧兩輩召連荷を持(じ)し家僕など一同六七人にて通りしを、彼目あかし見て、あれは盜賊ならん召捕へ給へと言(いひ)しが、出家の事殊に僧俗の召仕も見ゆれば麁忽(そこつ)の事ならんと申けるに、右主人の出家も外々の者上下の階級なし、伴僧兩人衣躰のぶり出家にあらずと達て進めし故、與力同心立寄りて咎(とがめ)押へけるに、案の如く伴僧僕など迯出(にげだ)せしを不殘召捕、主僧のモウスを引放し見けるにばち髮の大奴也。段々吟味なしけるに、道中所々徘徊なせる大盜賊にて有りしと也。或時彼目あかし、家中の若き人々を連立て物詣ふでなしける時、其方はいにしへは盜をなしける者、何ぞ取て見せよと若き人申ければ、今はかくの如く召仕(めしつかは)れ妻子を安樂に養ひ候事、偏(ひとへ)に天道の助け給ふ事、いさゝかにても古への業いたすべき心なし。然し慰(なぐさみ)の事に候間其眞似をいたし申さん、代錢を拂ひ候共、其品を返し候共、跡にて能々取計ひ給へとて、所々一所に歩行(ありき)けるが、暫くありて御慰の品盜取たりといひて見せけるに、大き成(なる)一番(いちばん)すり鉢を盜て見せける故、各々大きに驚き、かゝる大きなる品を如何いたし盜(ぬすみし)哉(や)と尋ければ、右瀨戸物やの鄽(みせ)へ各(おのおの)立寄給ひし時、手に持しあみ笠を摺鉢の上にかぶせ置、各(おの/\)歸り給ふ時摺鉢ともに編笠を持出たりと語(かたる)。かの代錢を僕に持せ瀨戸物屋へ遣し拂ひけるに、瀨戸物産にては右摺鉢の紛失をいまだ知らでありしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。私はこの話が好きだ。出来ることなら、この目あかしを心あらん友と得てしがな、と思うほどである。

・「目あかし」「おかつ引」以下、ウィキの「岡っ引」から引用する。『岡っ引、御用聞き(ごようきき)は江戸での名称。関八州では目明かし、関西では手先、または口問いと各地方で呼びかたは異なる』。『起源は軽犯罪者の罪を許し手先として使った放免である。江戸時代、法的にはたびたび禁じられたが、武士は市中の犯罪者について不分明なため、捜査の必要上、比較的軽い犯罪者が情報収集のために使われた。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた犯罪者の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ犯罪捜査自体が困難だったのである。親分と呼ばれる町、村内の顔役に委任されることも多い。配下に手下を持つことも多く、これを下っ引と称した。必然的に博徒、テキヤの親分が目明しになることも多く、これを「二足のわらじ」と称した』。以下、「江戸の場合」という項。『時代劇においては十手を常に所持していたかのように描かれているが、実際のところ公式には十手が持てず、必要な時のみ貸与されていた。同心、火付盗賊改方の配下とはなるが、町奉行所から俸給も任命もなかった。上記に記されたように、岡っ引は町奉行所の正規の構成員ではなかった。故に、岡っ引が現在の巡査階級の警察官に相当するように表現されていることがあるが、それは妥当ではない。現在の巡査階級の警察官に当たるのは三廻などの同心と考えるのが妥当である。ただし同心は管轄の町屋からの付け届けなどでかなりの実収入があり、そこから手札(小遣い)を得ていた。また、女房に小間物屋や汁粉屋等の店をやらせている者も多かった。同心の屋敷には、使っている岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。江戸町奉行所全体で岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという』。『半七捕物帳を嚆矢とする捕物帳の探偵役としても有名であるが、実態とはかなり異なる。推理小説研究家によっては私立探偵と同種と見る人もいる(藤原宰太郎など)』。以下、「地方の場合」の項。『江戸では非公認な存在であったが、それ以外の地域では地方領主により公認されたケースも存在している。例えば奥州守山藩では、目明しに対し十手の代わりに帯刀することを公式に許可し、かつ、必要経費代わりの現物支給として食い捨て(無銭飲食)の特権を付与している。また、関東取締出役配下の目明し(道案内)は地元町村からの推薦により任命されたため、公的な性格も有していた』とあり、本話の読解に極めて有益な記載満載である。この「江戸の場合」の記載を受けて、現代語訳には「江戸表での例は無数にあるものの、御役目上、非公認のものであればこそ示さぬが」という挿入を施して、根岸が江戸の岡っ引について語らないことの不自然さを補っておいた。後に佐渡奉行から勘定奉行(天明7(1787)年)そして江戸市中の司法のトップとも言うべき南町奉行(寛政101798)年)となった彼としては、勿論、そうした記載はやはり憚られたものと思う。もしかするとここには当初、江戸で親しく実見した岡っ引の例も示されていたものかもしれない。ところが後に町奉行になって、問題を認め、削除した可能性も考えられるように思われる。尾州御家中の岡っ引の話も冒頭「いつの事にや」と曖昧にしてあるのもそうした配慮によるものではあるまいか。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「尾州」尾張国。

・「モウス」帽子(もうす)。護襟(ごきん)という頭から被ったり、襟巻きとして耐寒のために着用する襟巻き型帽子(もうす)と帽子型の帽子(もうす)とがあるが、ここでは後者。禪僧が正式な法式の際、威儀を正すために着用する帽子のこと。中国宋代の禅宗に端を発し、鎌倉時代になって臨済宗・曹洞宗の伝来と共に日本に入ったとされる。現在のものは円筒形でかなり高さがあり、金色の飾り縁や筋が入っている。天頂は平たいが、古くは全体に丸みをおびたものであったらしい。

・「麁忽の事ならん」「麁忽」は「粗忽」で、「そそっかしい、早合点の物謂いじゃて。」と言った意味であろうが、直ぐ近くでかくはっきりと発言しているところから、やや、叱責するように「滅多なことを申すでない」の感じで意訳した。

・「ばち髮の大奴」岩波版長谷川氏注に『鬢の毛を三味線のばちの先のような形にそりこんだたいへんな奴頭。』とある。「奴頭」とは月代(さかやき)を広く深くそり込んで両方の鬢と後ろの頂に残した髪とで髷(まげ)を短く結んだものを言う。

・「家中」尾張藩尾張徳川家御家中。直前で岡っ引を禁制とした徳川吉宗を出しているあたり、これを、そのライバルとして尾張藩きっての有名藩主でもあった第七代藩主徳川宗春(元禄9(1696)年~明和元(1764)年)の御代のことであったと考えると、アップ・トゥ・デイトな臨場感があって面白いように思われる。

・「一番すり鉢」瀬戸物屋などで扱う擂り鉢の最も大きなもの。

・「瀨戸物産」底本ではこの「産」が右を上にして転倒している。注釈やママ表記もないところを見ると、これは底本自体の誤植であろうと思われる。岩波版では「瀨戸物屋」とあるので、それを採る。

■やぶちゃん現代語訳

 目あかしという者の事

 古えに於いては公的に『目あかし』に相当する者が使われていた時代があった。

 今の世にては一名、『岡っ引き』と呼ぶ。

 元来は盗賊の仲間の一党として盗みを稼業と致いておった者を、一旦、捕らえた上で、後、その罪を赦す代りに、悪党を捕縛する際の助けとして利用することを言うのである。

 しかし、元々が悪党なのであるからして己(おのれ)の罪を免れんがために、「何々盗賊団の居所(いどころ)を知っている」であるとか、「かくかくの大悪党を捕える手立てをお教えしよう」なんどという、根も葉もない嘘を申し立てて、却って罪のない無辜(むこ)の民を捕えさせておいて、己の罪は免れるという不届きなることがあまりに多かった。

 さればこそ、有徳院吉宗様の御代より、この岡っ引きや目あかしといった探索方の類いを、公的に表立って使うことは固く禁じられたので御座る。

 しかし乍ら、江戸の同心や火付盗賊改方の方々の個人的な用人及び私領などでの同様の者の探索方間者としては、その後(のち)も、こうした役をなす者が存在している。

……江戸表での例は無数にあるものの、御役目上、非公認のものであればこそ示さぬが……

……例えば尾州家に仕えておるところのある御仁が、それに纏わる話を語って呉れたことがある。以下はその話である。――

 何時頃のことで御座ったか、元来は盗みなんどを稼業と致せし者乍ら、その志を改めて真人間になった者を藩の同心支配と致いて、火付盗賊なんどの防備警戒の役目に当らせて御座った。

 ある日のこと、名古屋の同心与力の面々が、そうした者を召し連れて、とある茶屋にて一息ついて御座ったところ、丁度、モウスという頭巾様(よう)のものを被った、年の頃五十余りの禅僧が、伴僧を二人召し連れ、他に荷を持った家僕なんど、総勢六、七人で通りかかった。

 それを見た目あかしが、

「――あれは盗賊で御座ろうほどに、召し捕らえられるがよろしかろう。」

と言う。しかし見る限り、立派なる出家にて、殊にやはりそうとしか見えぬ伴僧と思しい召使いも付き従っているのも見受けられるので、

「……シィっ! これ! 滅多なことを!……」

と言下に叱したところ、

「――あの主(あるじ)体(てい)の出家も、その他の者どもも、禪家(ぜんけ)の上下の階級に従(したご)うた振舞いにては、これ、御座らぬ――。伴僧両人の衣服の着こなしも、これ、出家のそれとは、大いに違(ちご)うて御座る――なればこそ!……」

と、如何にも確信を持った、たっての薦めとなれば、そこらの与力同心ら、二手に分かれて、一方が一斉にずいっと立って連中の傍らへと寄り、

「おい! ウヌら! 待ていぃ!!」

と、強面(こわもて)にて咎めだて致いたところが――案の定、みんな、脱兎の如く逃げだそうとする――一そこのところを、一方から回った与力同心らが、これまた道を塞いで、難なく残らず召し捕らえた。――主僧の帽子を引き剥がしてみたところが――これがまたばち髪の大奴にて――しょっ引いて取り調べてみたところが、こ奴ら、東海道を徘徊しつつ、各所で押込み強盗を働いておった大盗賊であったとのことである。――

 もう一件、この同じ目明しの話。

 ある時、この目あかし、尾張家御家中の若者たちと連れ立って、物詣でに参った。その道すがら、

「その方は昔、盗みを働いておった者と聞くが……どうじゃ? 我らに、何ぞ偸(ぬす)み取って見せよ。」

と、若者の中(うち)の一人が言い掛けた。目あかしは、

「――今は、かく召し使われまして、妻子をも安楽に養うて御座いまする――これ、ひとえにお天道さまのお助け下すったことにて、いささかにても古えの悪しき業(わざ)を再び成さんなんどとは、思うたことも、これ、御座らぬ――御座らぬが――なれど、方々のお慰みのために、となれば――その真似事、これ、致しましょうぞ。……但し、皆様の内の何方(どなた)かには、盗み取りました物の代金、これ、お支払い頂くか、さもなくば、その品をお返し頂くか……盗み取った後のことは、よくよくお取り計らい下されよ――。」

と申した。

 さて、こうして一同、一緒にあちこちとぶらぶらして御座ったが、暫くあって、突如、

「――さても、皆さま、お慰みの品――盗み取って御座る――」

と言いながら、平然と見せた――

――それは何と、見るも巨大な――

――所謂『一番すり鉢』――で御座った故、一同の者、何よりも余りのその大きさに驚いて、

「……こ、こんな……大きな物……一体、ど、どうやって盗んだ、んダ?……」

と訊ねたところが――

「――先程、あの瀬戸物屋の店先へ、皆さま、お立ち寄りなさった折り、拙者、持って御座ったこの編み笠を、擂り鉢の上に被せ置き、各々お帰りになられる折り、拙者、編み笠と一緒にひょいと持ち出だしたものにて御座る――」

とこともなげに語った――。

 ……この大擂り鉢の代金、彼らに従っていた下僕の一人に持たせ、当の瀬戸物屋へと走らせた上、支払わせたので御座ったが……瀬戸物屋にては……そもそもその擂り鉢が、紛失していたことさえ……未だに誰一人、知らずに御座ったとのことであった。……

2010/08/17

耳嚢 巻之三 その國風謂れある事

「耳嚢 巻之三」に「その國風謂れある事」を収載した。

 その國風謂れある事

 佐州は慶長元和の御當家御治世に至りて金銀涌出(ゆうしゆつ)彌(いや)増(まし)、往古より金銀を掘出し候國柄、數千年の今も絶ず涌出るの地也。金銀の稼に拘(かかは)り候者は、味噌を燒けば金氣を減らし候とて、國制にあらずといへ共燒味噌を不用、又四時の鐘を撞(うつ)にも捨鐘を撞(うた)ず。是(これ)音義(をんぎ)金を拾(すつ)るといへる事を忌(いみ)ての事ならん。然れば其國々によりて或は禁じ或は愛する事其謂れある事ならん。

□やぶちゃん注

○前項連関:金絡みで少しは連関するか。佐渡奉行として赴任した際の実録シリーズの一。

・「佐州」佐渡国。

・「慶長元和」西暦1596年から1624年。

・「御當家御治世」「慶長元和」は家康・秀忠・家光徳川家初代から三代に亙る幕藩体制の成立期である。

・「味噌を燒けば金氣を減らし候」岩波版長谷川氏注に、俗信として『「焼味噌をやくと金がにげるといへば」(孔子縞于時藍染・中)』と引用する。引用元は「こうしじまときにあいぞめ」と読み、山東京伝の黄表紙。これは推測であるが、味噌を焼くと更に塩分濃度が高まり、これが鍋釜庖丁などの金物に附着すると錆を生じやすいことからか。底本の鈴木氏注では、本記載が成されたのと同時期の天明6(1786)年『に成った『譬喩尽』に「焼味噌を好く者は金得延ばさぬ」とあり、これは箔屋のいうことで、箔打ちには焼味噌の匂を忌む。箔が延びないので嫌うと説明がある。京都のことわざだから箔屋に限るようにいうので、もとは金掘りの間に行われた俗信だったのであろう』とされる。「譬喩尽」は「たとえづくし」と読み、8巻からなる松葉軒東井編の俚諺集(別記載では1787年成立とも)。ことわざ以外にも和歌・俳句・流行語・方言等も所収する。

・「捨鐘」鐘によって時報をする場合、始まりを逸すると時刻が分からなくなるため、予め注意を促す目的で時報とは関係のない鐘を3度早く打ち、暫くしてからその時刻の数の鐘を突いた。この最初の三つを捨て鐘と言った。

■やぶちゃん現代語訳

 それぞれの国の風習には相応の謂われがある事

 佐渡ヶ島に於いては慶長・元和の頃、将軍家御治世に至ってからというもの、金銀の涌出、これ、いよいよ増加致いておるが、大昔より金銀を掘り出だして参った国柄にて、数千年経った今に至っても絶えず涌き出るという地である。

 金銀の稼業に関わっておる者どもの間にては、味噌を焼くと金(きん)の気(き)を減らしてしまうと言うて、別段佐渡の国法として定めた禁制ではないものの、調味に焼味噌を用いぬ。

 また、日々時刻を知らせる鐘を打つに際しても、所謂、我ら馴染みの捨鐘を打たない。これは「捨鐘」という言葉の音とその意味が所謂、『金を捨てる』に通ずることを忌みてのことであろう。

 かくの如く、その国々によって或いは禁じたり、或いは殊更に好むこと、それぞれに謂われがあることなのであろう。

エンバーミング夢 又は ベルナデットの夢

僕の目の前に一人の裸身の少女の遺体がある。

体つきから少女は十二、三歳位だろうか? 顔面と前頭部が切り取られたように滑らかに損壊しており、顔は分からない。眼球や頭骸骨もその切片に従って消失していて、その断面は人体解剖図のように『美しく』全く不気味さがない。

――因みに、僕はその横たわった少女の遺体の傍らに立っているのだが、その周囲は青く澄んだ空である。即ち僕たちは空中に浮いているのである――

僕が少女の顔に覆いかぶさっている。僕は少女にエンバーミングを施している(それを僕自身が俯瞰ショットで見ている)。

僕が起き直る――すると少女の顔が修復されている――その少女の顔は神々しいばかりの――正真正銘の――蠟細工ではない――あの少女ベルナデットの顔である――

……と……そこで眼が醒めた。丁度、今朝の4時であった――

□今日の夢へのやぶちゃんの注:

・エンバーミング:“embalming”。死体修復術。

・ベルナデット:Bernadette Soubirous(1844~1879)はフランスのLourdesルルドの泉で知られる聖母マリアを幻視した聖女。ベルナデッタとも。何故、僕がベルナデットを夢に見たか? その理由の一つは、もしかすると母と関係があるのかも知れない。私の母は、父が求婚するまでは、鹿児島のドイツ人神父の下でカトリックの教義を学び、修道院に入った後、四国岡山の長島にある国立ハンセン病療養所長島愛生園で奉仕をして生涯を終えよう考えていたのである。

――奇怪にして美しい夢であった――

――夢を書き始めたのが4時15分――その時は真っ暗で耳鳴りと扇風機の音だけだった――今は4時40分――満山、蜩の声である――

2010/08/16

耳嚢 巻之三 高利を借すもの殘忍なる事

「耳嚢 巻之三」に「高利を借すもの殘忍なる事」を収載した。

 高利を借すもの殘忍なる事

 世の中に高利の金銀を借し或ひは日なし拜借し渡世する者程殘忍なるはなし。日なしの錢抔貸す者は、釜に入し米をも釜共に奪ひ歸りて借錢につぐなふ事成由。予白山に居たりし時、其最寄に無賴の少年有りて、放蕩の者故後は我許へも來りざりしが、彼者ある高利借の老姥(らうぼ)に便り催促役抔いたしけるが、或時裏屋の借錢乞に參り候樣、老姥の差圖に任せ至りけるに、夫は留守にて女房計(ばかり)居たりしが、一子疱瘡(はうさう)を愁ひて二枚折の小屏風に風を凌ぎ寒天に薄き※(よぎ)など打かけて介抱なし、借錢の事を申出しければ、かくの通一子疱瘡にて返すべきあてもなし。暫く春迄待給はるやう涙ながら申けるにぞ、尤の事に思ひて立歸りて老婆に其事申ければ、老婆大きに憤り、かゝる不埒の使やある、師走の催促其通りにて可相成哉(あひなるべきや)、病人へ着せし※にても引剥(ひはぎ)來るべき事也と罵りけるぞ、又々彼病家へ至りて老姥が申條しかじかの事也と語りて、工面なし給へ、我等不來(きたらず)ば彼老姥來りていか成事かなすべしといひければ、彼女房涙ながら立出で、其身の着せし布子(ぬのこ)やうの物を賣りて金子壹分持て彼者に渡しけるが、極寒にひとへを着し寒さを凌ぎても、我子の※をとるに忍ざる恩愛の哀れ思ひやられ、無賴の少年ながら請取し壹分の金は拳に踊る心地して老婆に渡しければ、能(よく)こそ取來りたりとて笑ひ請取りけるが、餘りの恐しさに夫よりは彼少年も老姥と交をたちて寄宿せざりしと也。

[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]

□やぶちゃん注

○前項連関:根岸が一時住んでいた白山町での出来事として連関。人でなしという点では、先行した死に至らしめても平然としていた「鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事」の祈禱僧の輩への根岸の怒りとしても連関するようにも思われる。これをもっと意地悪く考えるなら、もっと先行する「窮借手段之事」の借金取り回避の同工異曲のやり口のイカサマではないと否定は出来ないが、そこまで深読みするには余りに根岸の口調は真摯であるから、採らない。

・「借す」当時は「貸」「借」どちらでも同義で相互に用いた。

・「日なし」これは「日濟(済)し」と書いて「ひなし」と読む。日済し金のことで、毎日少しずつ返す約束で貸す金を言う。

・「白山」前章注「白山御殿」参照のこと。

・「疱瘡」天然痘。以下、ウィキの「天痘」より引用する。天然痘は『天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ、治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症』。『その恐るべき感染力、死亡率(諸説あるが40%前後とみられる)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となった事すらある。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた』。『天然痘ウイルス(Variola virus)は、ポックスウイルス科オルソポックスウイルス属に属するDNAウイルスである。直径200ナノメートルほどで、数あるウイルス中でも最も大型の部類に入る。ヒトのみに感染・発病させるが、膿疱内容をウサギの角膜に移植するとパッシェン小体と呼ばれる封入体が形成される。これは天然痘ウイルス本体と考えられる。天然痘は独特の症状と経過をたどり、古い時代の文献からもある程度その存在を確認し得る。大まかな症状と経過は次のとおりである』。以下、「臨床像」(前段の一部を省略するが、それ以降は改行が多いので、そのまま引用する)。

   《引用終了》

飛沫感染や接触感染により感染し、7~16日の潜伏期間を経て発症する。

40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。

発熱後3~4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。

7~9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。

2~3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。

治癒後は免疫抗体ができるため、二度と罹ることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。

天然痘ウイルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたでも1年以上も感染させる力を持続する。天然痘の予防は種痘が唯一の方法であるが、種痘の有効期間は5年から10年程度である。何度も種痘を受けた者が天然痘に罹患した場合、仮痘(仮性天然痘)と言って、症状がごく軽く瘢痕も残らないものになるが、その場合でも他者に感染させる恐れがある。

   《引用開始》

以下、歴史が示される。『天然痘の発源地はインドであるとも、アフリカとも言われるが、はっきりしない。最も古い天然痘の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争の頃であり、また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世である。彼のミイラには天然痘の痘痕が認められた』(ヨーロッパ及びアメリカでの天然痘疾病史がここに入るが省略する)。『中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た』。『日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年には敏達天皇が崩御するが、天然痘によるものではないかという見方もある』。『735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死亡した。こうして政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行である』。『ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。天皇さえも例外ではなく、東山天皇は天然痘によって崩御している他、孝明天皇の死因も天然痘といわれる。明治天皇も、幼少時に天然痘にかかっている』。『北海道には江戸時代、本州から渡来した船乗りや商人たちによって、肺結核、梅毒などとともに伝播した。伝染病に対する抵抗力の無かったアイヌ民族は次々にこれらの病に感染したが、そのなかでも特に恐れられたのが天然痘だった。アイヌは、水玉模様の着物を着た疱瘡神「パコロカムイ」が村々を廻ることにより天然痘が振りまかれると信じ、患者の発生が伝えられるや、村の入り口に臭いの強いギョウジャニンニクや棘のあるタラノキの枝をかかげて病魔の退散を願った。そして自身は顔に煤を塗って変装し、数里も離れた神聖とされる山に逃げ込み、感染の終息を待ちつづける。しかしこのような行為に医学的な効果があるわけでもなく、江戸期を通じて流行は繰り返され、和人商人のアイヌ酷使も相まってアイヌ人口は大いに減少した。幕末にアイヌ対象の大規模な種痘が行われ、流行にようやく歯止めがかかった』。以下、「制圧の記録」として「種痘」の解説が掲げられている。『天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に知られていた。いつ始まったのかはわからないが、西アジア・インド・中国などでは、天然痘患者の膿を健康人に接種し、軽度の発症を起こさせて免疫を得る方法が行なわれていた。この人痘法は18世紀前半にイギリス、次いでアメリカにももたらされ、天然痘の予防に大いに役だった。しかし、軽度とはいえ実際に天然痘に感染させるため、時には治らずに命を落とす例もあった。統計では、予防接種を受けた者の内、2パーセントほどが死亡しており、安全性に問題があった』。『18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘にかかった者は天然痘に罹患しない事がわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) 1798年、天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった。なお、ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする美談もあるが、実際にはジェンナーの使用人の子に接種した』。『日本の医学会では有名な話として日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔が、ジェンナーの牛痘法成功にさかのぼること6年前に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施し成功させている。福岡県の甘木朝倉医師会病院にはその功績を讃え、緒方春朔と天野甚左衛門、そして子供たちが描かれた種痘シーンの石碑が置かれている』。以後は近代の経緯。『1958年に世界保健機関(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。中でも最も天然痘の害がひどいインドでは、天然痘に罹った人々に幸福がもたらされるという宗教上の観念が浸透していたため、根絶が困難とされた。WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1ヶ月前から患者に接触した人々を対象として種痘を行い、ウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させる事で天然痘の感染拡大を防ぐ方針をとった。これが功を奏し、根絶が困難と思われていたインドで天然痘患者が激減していった』。『この方針は他地域でも用いられ、1970年には西アフリカ全域から根絶され、翌1971年に中央アフリカと南米から根絶された。1975年、バングラデシュの3歳女児の患者がアジアで最後の記録となり、アフリカのエチオピアとソマリアが流行地域として残った』。『1977年、ソマリアの青年の患者を最後に天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日にWHOは根絶宣言を行った。天然痘は現在自然界においてウイルス自体存在しないものとされ人類が根絶した(人間に感染する)感染症として唯一のものである』。『天然痘ウイルスは現在、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)とロシア国立ウイルス学・バイオテクノロジー研究センター(VECTOR)のレベル4施設で厳重に管理されており非公開になっている。公式に保有が認められているのは上述2機関のみであるが、ソ連崩壊の混乱で一部が国外に流出しテロリスト組織などが保有しているとの説や各国の軍が防疫・研究の目的で密かに保有しているとの説もある。このため、CDCVECTORも保有株を完全に廃棄するには至っていない』。本邦では、1970年代に国外から持ち込まれた数例がある以外、『独自の発生は1955年の患者を最後に根絶された』。『WHOによる根絶運動により、1976年以降予防接種』は廃止されている。『1978年、イギリスのバーミンガム大学医学部に勤務する女性が、実験用の天然痘ウイルスに感染して死亡した事例が有る。これは1人の研究者が実験用の天然痘を漏洩させてしまい、女性が感染したものである(漏洩させてしまった研究者は罪の意識で自殺)。これがいわゆるバーミンガム事件である』。『現在では天然痘ウイルスのDNA塩基配列も解読されており解析はほぼ終了している』。以下、「予防・治療」の項、『「種痘」というワクチン接種による予防が極めて有効。感染後でも4日以内であればワクチン接種は有効であるとされている。また化学療法を中心とする対症治療が確立されている』とある。『根絶されたために根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に510年といわれているため、現在では免疫を持っている人はほとんどない。そのため、生物兵器としてテロに流用された場合に大きな被害を出す危険が指摘されて』おり、更に一部に『天然痘そのものは根絶宣言が出されたが、類似したウイルスの危険性を指摘する研究者がいる。研究によれば、複数の身近な生物が類似ウイルスの宿主になりうることが示されており、それらが変異すると人類にとって脅威になるかもしれないと警告している』。『天然痘はかつての伝染病予防法では法定伝染病に指定されていた』が、現在も1999年施行された新しい感染症法によって一類感染症7疾患(擬似症患者及び無症状病原体保有者についても患者として強制措置対象となる感染症)エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、南米出血熱、ペスト、マールブルグ熱、ラッサ熱と共に掲げられている。

・「※(よぎ)」[「※」=「衤」+「廣」。]夜着。寝るときに上に掛ける夜具で、着物の形をした大形の掛け布団。かいまき。

・「布子」木綿で出来た綿入れ。

・「壹分」岩波版では「一歩」(いちぶ)。これは、借りていた金の「一部分」という意味で用いているものと思われる。江戸の「一分」は相当な高額(1両の1/4。凡そ15,000円相当)で、布子一枚で手に入る金額ではない。

■やぶちゃん現代語訳

 高利貸しの残忍なる事

 世の中で高利の金銀を貸し若しくは日済(ひな)しなど貸して渡世する者ほど残忍な輩は御座らぬ。日済しの銭なんどを貸す者には、釜に入った僅かな米さえ釜ごと奪って借銭の代わりとするともいう。

 私が白山に住んでいた頃のこと、近所に一人の無頼の少年がおった。放蕩の者であったから、後には私のもとへも姿を見せぬようになったが、この少年がかつて私に語ったことにて御座る。

 この少年、ある高利貸しの老婆を頼って、その借金の取り立て役なんどを致しておった由。

 ある時、裏屋に借金取りに行くよう老女に命ぜられ、言われるがままにその裏屋を訪ねてみたところが、夫は留守にて女房ばかりが居り、未だ幼少の一人子はといえば、疱瘡を病んで臥せって、二つ折りの形ばかりの小屏風にて隙間風を凌ぎ、寒い季節にも関わらず如何にも薄い夜着を掛けただけで、介抱している。

 少年が借金の返済を告げたところ、女房は、

「……見ての通り、子が疱瘡を病んでおりますれば……御借財を返すあてが御座いませぬ……どうか、どうか暫くの間……年明けの春までお待ち頂きますよう……」

と涙ながらに訴える。少年は、尤もなことと思い、立ち帰って老婆にその委細事情を伝えたところが、老女は大いに怒り、

「こんなとんでもない借金取りがあろうかい! ええつ?! 師走の貸した金の催促が、そんなもんで罷り通ると思ったら大間違いじゃて! その病人に被せた夜着でも何でも剥ぎ取って来るんだよう! 分かったかい?! この青二才が!」

と激しく罵られた。

 少年は仕方なく再び先の裏家を訪れ、婆さんが何のかんのと申しておる旨、語った上、

「……何とか工面したがいいゼ……俺(おい)らが金を持って帰らなけりゃ……あの婆あ本人が駆け込んで来て……一体、何をするから、分からん剣幕じゃったからな……。」

と告げたところ、かの女房、少年に留守居を頼んで、涙を拭きながら家を出た。

 暫くして帰って来た女房――さっきまで来ていた布子を売って、少しばかりの金を借金の返済の一部として拵えてきた女房――そのなけなしの銭を、かの少年に手渡した。極寒の中、薄い単衣(ひとえ)一枚を着て寒さを凌いでいる女房――自身がその寒さに震えながらも、流石に我が子の夜着まで質に入れるには忍びないというその女房の、母としての恩愛の情が哀れに思いやられ、無頼ながらも少年の心を激しく打った――。

 ――帰り道、握りしめた掌の内で、何やらん、受け取ったその金が、妙に落ち着かず、にちゃにちゃと気味悪く汗ばんでくるのが分かった。――

 さて立ち帰って老婆にその金を渡したところが、

「よい!よい! でかしたのう! よう、取ってきた!」

と如何にも不気味に笑(わろ)うて受け取ったが――流石の恐ろしさに、以後、かの少年もかの鬼女とは縁を切って、二度と寄宿することはあらなんだ、ということであった。

240000アクセス記念テクスト やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注

とんだ記念だが、こんなことになるだろうと、どこかで予想していたので、総ては実は既にとっくにアップして、この文章も用意しておいた。

現在、2006年5月18日18:07、ニフティのブログ・アクセス解析開始以来、約4年3箇月の本日只今、ブログ

累計アクセス数 240017

1日当たりの平均アクセス数 154.65

240000アクセス記念テクストとして、満を持して準備した完全オリジナル編集によるオリジナル注を附した「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を公開する。

本作は恐らく史上初の本格的な編年体芥川龍之介歌集として、自信を以ってネット上に公開するものである。

一日病院にて過ごす

ついさっき病院から帰宅。

僕のじゃない。

3箇所の脊椎間狭窄のために歩けなくなった母の付き添いである。

脳神経外科待ち時間3時間。

診断の結果は脊椎をピンで固定するオペを緊急に来週施術する予定。

各種術前検査と支払いまででまたしても3時間。

仕事も結局行けずに同僚に迷惑をかけた。

MRIは予約一杯の為に明日の夜の7時に撮影。――

母も僕も朝から何にも食ってない……まあ、羅臼の丸々一日かけて透析に行くあのお婆ちゃんのこと考えりゃ……まだまだましだ……ってこと……手術しても無駄と見放されるよりは……確かに遙かにましではある――

シリエトク日記 番外篇 知床の滝 或いは 亡き友人の母へのレクイエム

フレベの滝――又の名を――乙女の涙

Furebe

乙女の涙の写真向かって左側の鼻の反対側(知床岬側)にある「男の涙」――断崖の上からはこの滝は見えない――見せないから「男の涙」という

Otokononamida

前に掲げたのとは別アングルのカムイワッカの滝――二景

Kamuiwakka2

Kamuiwakka3

知床岬最先端域にあって海に滝が直接落ちるという稀有のそして美しき滝――カシュニの滝

Kasyuni1_2

Kasyuni2_2

――僕の友と昨年亡くなられたその友の母の思い出に――   

忘れ得ぬ人々22 ウトロの純

羅臼に行くと最終話「北の国から 2002 遺言」の立派なロケ地マップ・パンフレットがあった。例の人気のない繁華街には「北の国から入国管理局」の看板を出す喫茶店があり(羅臼を去る日にはここの奥の料理屋でハモ丼を食った。但し、これはハモではなく地元で黒アナゴと称する大型のアナゴの蒲焼で、しかし美味であった)、また結が勤めていたコンビニ、純が仕事帰りの結を待つ橋なども見た。あの作品を見ている僕には相応の懐かしさはあったが、しかし、既に8年、ドラマを知らない人々も多くなった。最早、古いドラマである「北の国から」で町起こしというには、無理がある。透析のお婆ちゃんの話も耳底に残っている中、僕のロケ地探訪は、少し、淋しい気がするものになった――。

しかし――純はいた!

それも初日、ホテル「地の涯」へ行くためのバス待ちをしていたウトロのバスターミナルに――

飛行機に乗るのでライターは家に置いてきていた(今は緩和されてライターは一個まで所持品として許可されていることは帰りの飛行機まで知らなかった)。朝一本吸ったきりで、少し口淋しかったが、生憎、火がない。バスターミナルで休憩している中年の運転手も煙草を吸う気配がない。ふと見ると、操車場で作業用の長靴を洗っている青年がいる。まだ二十歳(はたち)そこそこのスマートな若者である。作業が終わって私が手持ち無沙汰に座っていた喫煙所にやって来ると徐ろに煙草を出して吸い始めた。これぞ、天の助け! よく焼けた顔の、如何にも誠実な少年らしい顔つきだ――。

「……すみません。火を貸してもらえませんか? 飛行機で来たので、持ち込めなかったももので……」

と、こういう時の、いつもの僕の通り、中年になってしまった『純』が、少年時代に見せたようなまんまの卑屈な感じで、恐る恐る声をかけた。すると彼は、こっくりと頷くと、自分の100円ライターを僕に手渡し、

「……よかったら、どうぞ。使って下さい。……知床じゃ、冬場は煙草買うのも大変で、いつもカートンで買うんです。そん時、いつもライター、サービスで貰うんです。……だから一杯あるんです。……どうぞ。……」

とはにかみながら言った。

僕が「いや、そんな……」と言いつつ、勿論、ありがたくちゃっかり頂戴してしまい、中年『純』を演じる僕が平身低頭して謝したのは言うまでもない。

そうして――彼は営業所の部屋の方へと去っていった。

――彼の頭上を一羽のモンシロチョウが天使のように舞っていた――

――その後姿を眺めながら、僕ははっと感じたのだ――

『ああっ! 純が――あの純が、ここに確かに、いる!』

と……。

2010/08/15

不幸な整髪料と不幸なオーデコロン

僕は髪を洗っても整髪料をつけるのが嫌な人間である。あのべたべたした感じが嫌なのである。「サラサラでナチュラルな」なんどとうたっているタイプのものでも結局、微妙にべとべとした感じがするのである。だから普段、正装でもしない限りは、整髪料を用いない。だから一本の整髪料が5年経っても6年経っても残っている。何れにせよ、不幸な整髪料である。

僕は実はオーデコロンの香りが好きである。私の妻は整髪料も無香料でなくては許さぬ。だから上記の整髪料の記載も実は正確ではない。独身時代はバルカンやブラバスの香りの強い整髪料を頻繁に用いていた。それが結婚してから妻が嫌うので整髪料を使わなくなったのだとも言えるのである。何せ、現在私が唯一アフターシェーブローション代わり用いているシーブリーズでさえ「臭い!」と言うのであるか始末に終えない。その代わり、職場には、5~6種類のオーデコロンを置いている。「雨垂れの香り」とか名付けた和風のものや「アクティヴ」と「リラックス」の二種使い分けタイプとか消臭との兼用タイプ(これは実はそんじょそこらでは売っていない特殊なもので結構高価)とか――蓋を取って時々嗅ぐ。極稀であるが気が向くと、耳の後ろにつける――が――つけてすぐ後悔してしまう――臭い――だから僕のその5~6本のオーデコロンはすべてが10年もののビンテージである。いや、10年のエイジングで濃くなって臭くなっているのかもしれない。何れにせよ、不幸なオーデコロンである。

シリエトク日記16 最終回 メモそして帰鎌

《メモ》
お薦めの店はウトロで2回も入ったバスターミナル前の料理屋「一休屋」。
生まれて初めて食った(僕はこの手の丼は手荒でお洒落じゃない印象を持っており実は食ったことがなかった)ウニとイクラの二色丼が高いが美味い。
来店した有名人の色紙がごっそり飾られている中に1989年の黒澤明と寺尾聡の二枚が眼に入った。
――「夢」のゴッホのロケの時か!――
2回目は男山の冷酒で大ツブの刺身にフンメを頂く。これは安くて且つ美味。
何故、二度も行ったか?
味もさることながら飾られている妻の好きなフクロウの木彫が、これまた痛く気に入ったからであった。
店の人に訊いて、ホテル知床に店舗を持つ夢民(むーみん)さんという彫刻師の作品とのこと(一休屋のものには台の裏側に「石作」とクレジットされていた。何でもこれは店の主人の庭の木を切り倒した、それを素材にして彫ったこの店へのプレゼントだそうである。必見!)。
結局、ご本人には逢えなかったものの(プリンスからホテル知床は600m程離れており、妻の足ではシンドイと判断した。その程度には今の妻の足は悪い)、4日の日にウトロの「道の駅」の売店で夢民さん作の数体のフクロウを発見、目出度く購入の運びとなり、今は家のテレビの前に鎮座している。

8月5日(木)

網走で「北海道立北方民族博物館」を見学。
ちょっと駅から遠いけど、お薦め。
その縄文風土器は、縄を押し当てた本土の縄文土器と同じもの以外に、お洒落にも繩状に縒った土を立体的に飾りにつけて焼いているのだ!
(頼んだら若い女性ガイドが館内を一緒に案内して説明してくれた。勿論、私たち二人だけのためにである。無料である。北方民族が使用する実物のテントや服
の生地や土器の本物も触らせてくれた)
このオホーツク文化を荷ったハイ・センスなオホーツク人は、何故、忽然と姿を消したのか? それさえ未だに謎なのだ! ドキドキワクワクしてきた!

網走駅前にある網走監獄に入所。囚人番号201085――画像をクリックして拡大して見て――囚人の顔の背後に、ほら「網走」駅!

Syuujinnbanngou2010805_2

夕刻、帰鎌。

帰ったら以前からの脊髄の神経狭窄のために、僕の母は殆んど歩けなくなっていた。
これからは毎朝のアリスの散歩と週に一度の山用リュックでの買物が僕の仕事となった。

父も最近、少し足が不自由になって来た。妻は御承知の通り、杖なしには歩行出来ないし、階段の上りは一段でもキツい。

――されば僕はある決断をしたのだが――それは今、ここでは書かないことにする――

シリエトク日記15 知床ニテ北方領土問題ヲ考ヘシ語十五

8月4日(水)

知床プリンス・ホテル連泊最終夜――
知床に着いてから日々カニ攻めで、「カニだけはやめて下さい」と部屋係に頼んだら、「ご所望は?」と訊かれ、若芽を食害して害獣化している「エゾシカの肉が食べたい」と言ったら、しっかり分厚いエゾシカの赤味に霜降りの知床牛の陶板焼きが出て嬉しくなった。
TV――何というアップ・トゥ・デイト! NHKの「クローズアップ現代」は北方領土特集!

国後を見て、これぞ日本領土! と息巻いて、手元には羅臼の宿でゲットした外務省発行の分厚いパンフもあった。ところが――

ソヴィエト時代からロシア連邦共和国初期にかけては経済不況のために、北方4島は過酷な状況が強いられていた。そのため、歯舞・積丹の分割返還が提示されたのであった。しかし日本側は全島返還に拘り、この話はぽしゃった。ところが――

今、ロシアは景気が上向いてきている。今回、ロシア政府は北方4島に日本円にして54億円という強力な経済援助を行い、かつて日本であった頃の中心地でもあった積丹は同じような活況を呈しており、映像の中には若者や子供の姿も多く見られ、最新の医療設備や機関が稼動していた。

「……これじゃ、当分、絶対ロシアは返さねえな……」

と思いながら、僕は一昨日の羅臼でのお婆さんたちの会話を思い出していた――

島を隔てた日本本土では――羅臼にはロクな医療設備も医者もいない――透析にはホントに一日仕事で釧路まで行かねばならぬ――

万一、北方4島が返還されたとして――老人に病院を出て勝手に生きろという無慈悲な医療行政を行っている、この日本が――羅臼の透析患者には一日仕事で釧路に通うか、それが嫌なら釧路に引っ越せという行政を行っている自治体が――どれだけそれらの島に梃入れしてくれるんだろう――菅総理に訊いて見ようではないか!

……「仮に北方4島が返還されたら、ロシアの54億円ぐらいは投入してもらえますかねえ?」……「そんな金ありませんよねえ?……でも、それでも『します』とおっしゃるんだったら、羅臼でも透析が出来るように、こっちの方も……手厚くやってもらえますよねえ?」……

旧4島の住民が切に返還を望むのは心情的に分かる。つい昨日まで、僕もそういう思いに傾いていた――が――この現実を見聞きしてみて、僕は簡単にそう主張出来ない自分に出会った。
今、これこそが僕がシリエトクで得た最大の知的衝撃であったような気がしている。

みなさんもシリエトクへ!
そしてそれぞれの思いを抱かれんことを!
僕は知床も与那国も好きだ!
辺境には日本の原風景と真の『日本人の血』が『在る』――
そして真の「人」としての思いが、沸き起こって来るところでもあるのだ――

シリエトク日記14 知床連山

8月4日(水)

Siretokorenzan

右から羅臼岳・三ツ峰・サシルイ岳・オッカバケ岳・知円別岳・硫黄岳(双耳峰のようにピークが二つあるのがそれ。この二つの左右の稜線を延ばした高さが本来の硫黄岳の山頂であった。即ちこの間は爆裂火口で、原硫黄岳は現在の知床連山の最高峰である羅臼岳よりも高かったのである)。

シリエトク日記13 ヒグマ・ムーチョ・サービス!

8月4日(水)

写真撮れるほどには接近していないので、ものはないが、船長がびっくりする程、今回のクルージングではヒグマと遭遇出来た。総勢6頭。内、3頭は母熊と小熊2頭で、これが砂浜を駆け回って、可愛きこと限りなし! 内、発信機を着けているのは成人の一頭だけだだったから、公式調査(その際に捕獲し得た個体には首の周りに発信機が装着される)による発表の成育数300頭の倍、600頭ぐらいはいてもおかしくないような気がする。

耳嚢 巻之三 名によつて威嚴ありし事

「耳嚢 巻之三」に「名によつて威嚴ありし事」を収載した。

 名によつて威嚴ありし事

 小石川白山御殿に千ノ都(いち)と言(いへ)る座頭(ざとう)有しが、予が許などへも來りし事あり。此者白山下を通りしに、折節何檢校とかいへるに行逢しに、手引もなければ知らざりしを、彼檢校の手引に聲を掛けるに、會釋等閑(なほざり)なりければ、檢校大に怒りて千ノ都を引居(ひきすゑ)させ、座法の無禮捨置きがたき由にて罵り怒りける故、千ノ都も恐入て品々詫言などしけれど何分承知せざりしに、白山御殿最寄にて神職なしける鈴木美濃といへる有りて通りかゝり、兼てしれる千ノ都故、氣の毒に思ひ立寄て詫いたしけるに、檢校申けるは、御立入の儀御尤には候得共、座法の儀は他の人の御構ひ有べきにあらず、御名前は何と申ける人やと尋ければ、鈴木美濃守と答へけるにぞ、扨は歴々の事也と思ひて、御身の御挨拶に候はゞ免し遣わぬとて許容なしける故、千ノ都を召連美濃は立別れぬ。跡にて手引に向ひ、美濃守樣の御同勢は脇にひらき居候やと尋し故、大名旗本の類ひとおもひけるならんと、傍に聞居たりし人の語りて大に笑ひぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。いや、神道好きの根岸には、人でなしの祈禱僧の冥加より、神主の御加護の方が信じられるという連関か。

・「座頭」以下、ィキの「座頭」より引用する。『江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられた』。『元々は平曲を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」に由来する』。『古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『平家物語』を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの座(組合)として機能した。その中で定められていた集団規則によれば、彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた』。『江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。また座頭相撲など見せ物に就く者たちもいたり、元禄頃から官位昇格費用の取得を容易にするために高利の金貸しが公認されたので、悪辣な金融業者となる者もいた』。『当道に対する保護は、明治元年(1868年)に廃止されたという』(以下の「検校」注も参照のこと)。

・「小石川白山御殿」底本鈴木氏の先行注に『いまの文京区白山御殿町から、同区原町にまたがる地域にあった。五代将軍綱吉が館林宰相時代の住居。綱吉没後は麻布から薬園を移し、一部は旗本屋敷となった』とある。本来は白山神社の跡地であった。注にある「館林宰相」について、ウィキの「徳川綱吉」より引用しておく。綱吉は三代将軍家光の四男として生まれ、『慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。同月には将軍・徳川家光が死去し、8月に兄の徳川家綱が将軍宣下を受け綱吉は将軍弟となる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任』、『明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失したために9月に神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となる(館林徳川家)が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される』ようになった。その後、『延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に継嗣がなかったことからその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け内大臣とな』ったのであった。なお、根岸もこの白山に居住していた時期があった(次章参照)。

・「撿挍」検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには73の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて719両が必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある(文中の「勾当」(こうとう)とはやはり盲官の一つで検校・別当の下位、座頭の上位を言う)。この話柄の検校は相応に実力者であるやに見受けられるが、供の者を引き連れ、なお一人歩きの座頭千ノ都に難癖をつけるところをみると、ただ羽振りのよい金貸しの検校のようにも見えぬことはない。

・「會釋等閑」岩波版長谷川氏注によれば、寛政101798)年作山東京伝「四時交加」(しじのゆきかい)に『検校の前で路上で座頭が下駄をぬいで土下座の様を描く。こうするのが法なのであろう。』と記されている。

・「引居(ひきすゑ)させ」は底本のルビ。

・「美濃守樣の御同勢は脇にひらき居候や」という検校の台詞は恐らく、自分ではそのような感じ(周囲に大勢の供の者がいるような)がしなかったことを、やや不審としての発言ででもあったかも知れない。

■やぶちゃん現代語訳

 名によって威厳の効果のある事

 小石川の白山御殿に住む千ノ都(せんのいち)という座頭が御座って、私の家などにもかつて施療に出入りして御座った。

 ある時のこと、この者が白山を歩いていたところが、折りから某(なにがし)検校とすれ違(ちご)うた。その折り、千ノ都には手引きしている者がいなかったため、彼は相手が検校だと気付かなかった。ところが、検校の手引きに対して声をかけた千ノ都が、先様が検校であることが分かってその後からの、検校への挨拶が等閑(なおざり)であったということで、検校が大いに怒った。

 手引きの者に命ずるや、千ノ都を地べたに引き据えさせると、

「座法の無礼、捨て置き難し!」

と大いに罵り、怒り心頭に発している。

 野次馬も増えてきた。

 千ノ都も恐れ入って、いろいろと詫び言なんども致いたのだが、何分、検校自身が承知しない。

 と、そこへ白山御殿近くで神主をして御座った鈴木美濃という者がおり、偶々そこを通りかかった。かねてより知り合いで御座った千ノ都のこと故、気の毒に思って、立ち寄って一緒になって詫びを入れたところが、検校曰く、

「仲介の義は尤もなことなれども、当道座座法の儀は、他(ほか)のお人の、お立ち入りあるべからざることにて。……時に、貴殿、お名前を何と申されるお人か?」

と訊くので、

「……鈴木美濃守。」

と神主が名乗ったところ、検校、『さてはこれ、幕臣御歴々のお方にてあったか』と思い、

「……あー、御身の御挨拶にて候なれば……免じて遣わすことと、致しましょうぞ……」

と許された故、神主の美濃は千ノ都を召し連れてその場を去った。

 その後(のち)、検校、手引きの者に向かって、

「……美濃守様なれば、御家来衆はさぞ、左右に大勢控えて御座ったろうのう?……」

などと訊ねた、とのことである。

 ――――――

「……およそ、この検校、鈴木美濃のことを、大名か旗本と勘違致いて御座ったのでしょう。……」

と、野次馬として傍らで見物していたという人が、大笑いしながら私に語った。

2010/08/14

僕の肉体

――昨日、先月の下旬に受けた健康診断の結果が届いた。異常が認められた部分は以下の通り。

×体脂肪率 26.3% (♂上限値23.0)

×尿蛋白 +

×視力 右 0.2 左 0.2

×左眼 軽度動脈硬化

×肝機能 脂肪肝 → 要精密検査

 ×GOT 126 (上限値40)

 ×GPT  87 (上限値45)

 ×γ-GTP 102 (基準値♂79以下)

×糖尿病 → 順調に悪化

 ×HbA1c 6.4 (上限値5.8)

 ×空腹時血糖値 128 (上限値 109)

×脂質検査

 ×HDL(善玉コレステロール) 32 (下限値40)

 ×中性脂肪 215 (上限値149)

×腎機能 右腎臓 腎嚢胞

 ×尿酸値 7.3 (上限値7.0)

×胃 胃炎

更に、現在

×内耳性頭位性眩暈

×左耳耳鳴り

×右橈骨遠位端骨折後遺症による関節痛

――これが現在の私のぼろぼろの肉体である。

――という訳で――諸君、やはり向後、酒宴のお誘いは、一切お断りせねばならぬことと相成った――悪しからず――

今日、妻の知人のアイルランド人が来訪する。これが僕の最後の飲酒となる――

シリエトク日記12 ゴジラ ウトロ第二次上陸シーン スチール写真撮影

8月4日(水)

「ゴジラの復活」(知床映画社 2010)

監督 僕

撮影 妻

僕「……カメラさん、この高架線と形の素敵な電柱、それからね、ゴジラが踏み潰す車を数台、煽りのショットで、……腕をグッ! と強い感じでね……それからゴジラの海棲爬虫類の感じがよく観客に分かるようにゴジラの全形が入るように頼むよ……」

――これは特撮ではない。ゴジラのウトロ第二次上陸シーンの本番だ! 1954「ゴジラ」の煽りに似せた高架線を描いたグラス・ワークを知らない妻よ! よくあのシーンに似せて撮った! ブラボー・ショット!

Goddira2

シリエトク日記11 カムイワッカの滝 又は 純度99.9 そして 戦争の遺跡

8月4日(水)

カムイワッカの滝――

昭和10年から11年にかけての硫黄山の活動では実に20万トンの純度99.9%の硫黄を流出した――

見給え――滝が落ちる下を――人工的な建物の柱の残骸が見えるね――戦争中、軍部がここで火薬の硫黄をやっきになって採取した、その跡なのだ――

Kamuiwakka

……「カムイワッカとはアイヌ語で人が飲めない『神の水』という意味です」……僕は案内のイケメンの青年の説明を聞きながら……

「ワッカ! これはアカだ! サンスクリットの「閼伽」(あか)だ! 英語のアクアの語源だ! 凄い凄い! アイヌ語は凄い!」

と勝手な思い付きを子供のように独り叫び出した僕をあきれたという感じで眺めながら……妻は仕方なく悪戯っ子を宥める如く「……はいはい、そうね……」と気のなさそうに一言応えたのだった……

シリエトク日記10 知床岬奇岩シリーズ 永遠に墜ちない岩

8月4日(水)

永遠に墜ちる女がサイパンにいる一方で――

何千年もこのままで永遠に墜ちない岩が――確かにここにある――

この楔こそ摑みだ――ぐにゃぐにゃした対象を支えるデカルト的杖じゃないか!

――そしてこれは勿論、シリエトク版「内乱の予感」だぜ!――

Otinai

シリエトク日記9 知床岬奇岩シリーズ 勝手に千手観音

8月4日(水)

妻曰く「千手観音岩!」――

僕「そうだね」――と呟きつつ、内心は『ダリの「ポルトリガトの聖母岩」と日記に書いておこう』と独りごちていた――

Kattenisennjyu

シリエトク日記8 知床岬奇岩シリーズ 蛸岩

8月4日(水)

ダリの奴、そういてば蛸に墨塗ってキャンバスを這わせて絵を描いてたなあポルトリガトの海岸で――その絵が岩になっとったぞ!――

さりながら妻は頑強に「これはライオン!」と譲らぬなり――

Takoiwa

シリエトク日記7 知床岬奇岩シリーズ シリエトクをダリが訪れたとせよ

8月4日(水)

Darisiretoko

耳嚢 巻之三 鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事

「耳嚢 巻之三」に「鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事」を収載した。

 鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事

 眞言宗日蓮宗の僧侶、專ら祈禱をなして人の病勞を治せん事を受合ひ、甚しきに至りては藥を呑ては佛神の加護なし、祈禱の内は藥を禁じ、護符神水抔用ひ可申と教示する族あり。愚民鬼女子の信仰渇仰する者に至りては、其教を守り既に死んとするの病父母子弟にも藥を與へざるあり。かゝる愚成事や有べき。旦(かつ)僧山伏の類ひも、己が法力の靈驗いちじるきを知らせんが爲か、又は物は一途になくては成就なさゞるとの心哉、又は其身釋門に入て書籍をも覗きながら愚昧なるゆへや、人の命をかく輙(たやす)く心得取あつかひける存念こそ不審なれ。かゝる輩いかで天誅をまぬがれんや。實におかしき事のありしは、予が知れる富家に山本某といへる者、中年過て大病也しが、四ツ谷邊の祈禱僧の功驗いちじるきと聞て相招きければ、其病躰を見て隨分快氣疑ひなし、我等一七日(ひとなぬか)祈なば結願の日には枕もあがらんといと安々と請合し故、家族の喜び大かたならず、大造(たいそう)の祈禱料に日々の初尾(はつを)散物(さんもつ)其外音信(いんしん)數を盡しぬるに、日毎に快驗疑ひなしと申けるに、七日に當りける日、俄に急症出て彼病人はかなく成ければ、妻子の歎き大かたならず、かゝる所へ彼僧來りて、いかゞ快哉と尋ければ、家内の者も腹の立餘り、御祈禱のしるしもなく身まかりし抔等閑(なほざり)に答へければ、彼僧更に不審成躰にて、さあるべき事にあらずとて、病床に至り得(とく)と樣子を見て、曾てかゝる事有べきにあらずと、猶讀經などして妻子に向ひ申けるは、猶暫く差置給へ、決(けつし)て蘇生あるべきなり、もし定業遁がれがたく病死にもあらば、未來往生極樂善處に至らん事は疑なしと言しとかや。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。ゴリ押しで示すなら、「冥加の恐しさ」(こちらは神仏に冥加はないのであるが)で関連か。神道好き仏道嫌い(特に日蓮宗は不倶戴天)の根岸流宗教批判譚シリーズの一。

・「四ツ谷」現在の新宿区南東部(凡そ市ヶ谷・四谷・信濃町等のJRの駅に囲まれた一帯)に位置する地名。時代によっては江戸城外堀以西の郊外をも含む内藤新宿・大久保・柏木・中野辺りまで拡充した地名でもあった。

・「輙(たやす)く」は底本のルビ。

・「大造(たいそう)」は底本のルビ。

・「初尾」初穂(はつほ)。通常は、その年最初に収穫して神仏や朝廷に差し出す穀物等の農作物及びその代わりとする金銭を言う。ここでは所謂、日々の診断料相当の費用を言うのであろう。室町期以降は「はつお」とも発音し、「初尾」の字も当てた。

・「散物」賽銭や供物。散銭。

・「音信」音信物。進物のこと。

・「得(とく)と」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 鬼神を信じ薬剤を捨てるなんどという迷妄の事

 真言宗や日蓮宗の僧侶は、専ら祈禱をなして人の病苦を癒さんことを公然と請け合い、甚だしきに至っては、

――薬なんどを飲んでおっては神仏の冥加は到底得られぬ。祈禱を受けて療治するからには、薬を禁じ、護符・神水などを用いねばならぬ――

なんどと教示する輩までおる。愚かな民草や婦女子のうちでも、特に信心篤く渇仰(かつごう)して御座る者に至っては、そうした理不尽なる教えを頑なに守り、今にも死にそうな病んだ父母子弟にさえ薬を与えない者がおる。このような愚かなることがあって良いものか?! 全く以って誤りである!

 尚且つ、僧侶や山伏の類いも――はたまた、己の法力の霊験が著しくあること知らしめんがためか――はたまた、願(がん)というものは一途な心なしには成就致さぬという真理を悟らせんがためか――はたまた、その身は仏門に入り、書籍をも相応に覗き見乍らも、結局、智として身に附かずして愚昧のままなるためか、人の命を、かく軽んじて取り扱うという存念は、これ、甚だしく不審である! かかる輩が、どうして天誅を免れんということがあろうか!

 ここにとんでもない――話としては不敬乍ら――面白い話が御座る。

 私の知る人がりの富豪に山本某という者、中年過ぎてから大病を患い、四谷辺の祈禱僧で、功験著しいという噂の、怪しげなる輩を招いてその病状を見て貰ったところ、

「いや! かかる程のものなれば、快気間違いなし! 我ら、一週日、七日間祈らば、結願の日には、床上げ、これ間違いなし!」

と如何にもた易きことの如、安請け合い致いた故、家族の喜び方も並大抵のものではなく、さすればこそ大層な額の祈禱料に加えて、日々の初穂や賽銭その他進物にも手を尽くした。

――ところが――

「日に日に快気致すこと疑いなし」との祈禱僧の言葉とは裏腹に、祈禱を始めて丁度七日目に当たる日、俄かに病状が急変、山本某はこの世を去って仕舞(しも)うた。

 妻子の嘆きも、これ、並大抵のものではない。

 そこへまた、かの僧がやって来た。

「如何で御座る? 快気致いたか?」

と訊いてきたので、家内の者ども、腸が煮えくり返る思いのあまり、

「……御祈禱の効験、これなく……たった今身罷ったばかり……」

と恨みを含んで、吐き捨てるように答えた。

 すると僧は、あろうことか未だに解せぬという表情をして、

「さても? そのようなこと、あろうはずがない。」

と、既に逝去した山本の遺骸の枕頭に赴き、一目瞭然の死骸を見つつ、なおも、

「かつてかくなるためしもなく、かかるためしがあるべきものにても、これ、御座らぬ!」

などと平然と言い放ち、読経なんどをした上、嘆き悲しんで御座った妻子の方へ向き直ると、次のように告げた。

「今暫くこのままにして置かれるよい! いや、必ずや蘇生致す! しかしもし、万が一にも定業(じょうごう)遁れがたく、このまま蘇生叶わず病死致いた、ということになったとしてもじゃ、未来往生極楽善処に至らんことは、これ、間違いなし、じゃて!」

と。

2010/08/13

やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺 輕井澤にて 川柳二句追加

「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」に意識的に排除していた「輕井澤にて」の川柳二句を追加した。発句に付句で見るからに短歌に見えてしょうがなかったために、ずっと排除してきたが、今回、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」を編集中に――遂に240000アクセス記念テクストを暴露する。本日完全稿を完成させた。実にA4で55ページの大作に仕上がった――その愚挙に気づいたので、急遽、ページ末尾に追加した。

耳嚢 巻之三 下賤の者は心ありて可召仕事

「耳嚢 巻之三」に「下賤の者は心ありて可召仕事」を収載した。

 下賤の者は心ありて可召仕事

 或人年久敷召使ひける中間有。あくまで實躰にて心も又直(ちよく)成(なる)者也しが、或年主人御藏前取(まへとり)にて御切米玉落(たまおち)ける故、金子請取に右札差の許へ可行處しつらひありて不行、彼者に手紙相添て金受取に遣しけるが、其日も暮夜に入ても歸らず翌朝にも歸らざれば、偖(さて)は金子受取出奔なしけるか、數年召仕ひて彼が志を知りたるに出奔抔すべき者にあらず、しかしとて人を遣し見けれ共見えざれば、出奔いたす成べし、扨々人はしれざるものと大に後悔なしけるに、晝過にも成りて彼者歸りて懷中より金子并札差の寄附ども取揃へ主人へ渡しける故、如何いたし遲かりしやと尋ければ彼下人申けるは、私には暇を給べしといゝける故、彌々驚き、いか成事也とて委く尋れば、此後も有べき事也、いかほど律儀にて年久敷召仕ひ給ふ共、中間抔に金子百兩程持すべきものにあらず。我等事數年御懇意に召仕ひ給ひて、我等も奉公せん内は此屋敷不出と存るが、昨日札差にて金子百兩程我等受取て歸る道すがらつくづく存けるは、我等賤しく生れて是迄か程の金子懷中なしたる事なし。此末か程の金子手に入事あるべきやも難計。今盜取て立退ば生涯は暮し方可成とて、江戸表を立退候心にて千住(せんじゆ)筋迄至り大橋を越て段々行しが、熟々考れば主人も我身實躰者と見極給へばこそ大金の使にも申付給へ、然るを是迄の實躰に背き盜せんは天命主命恐るべし愼むべしとて、又箕輪迄立歸りしが又惡心出て、兎角は世をわたる事百金あれば其身の分限には相應なりとて亦々立戻り、或ひは思ひ直してたゝずみなどして、昨夜は今朝迄も心決せず迷しが、幾重にも冥加の恐しさに善心に決定して今立歸りぬ。かゝる惡心の一旦出し者召使ひ給はんもよしなければ暇を給るべしといひしに、主人も誠感心して厚く止め召仕ひけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:金銭への人の執着の根深さで連関。

・「御藏前取」幕府の旗本・御家人の場合、凡そ一割の者が知行地を与えられ、そこから取れる米の四割を税として徴収して生活をしていた。これらを『知行地取り』と言った。それに対して、残りの大多数の旗本・御家人は『蔵前取り』『切米取り』で、幕府の天領から収穫した米を浅草蔵前から春夏冬の年三回(2月・5月・10月)に分けて支給された。多くの場合、『蔵前取り』した米は札差という商人に手数料を支払って現金化していた。

・「御切米玉落ける」前注で示したように『蔵前取り』『切米取り』を受ける旗本・御家人は支給期日が来ると『御切米請取手形』という札(ふだ)が支給され、その札を受け取り代行業者であった札差に届け出る。札差は預かった札を書替役所に持参の上、そこで改めて交換札を受け取り、書替奉行の裏印を貰う。その後、札差が札旦那(切米取り)の札を八百俵単位に纏め、半紙四つ切に高・渡高(わたしだか)・石代金・札旦那名・札差屋号を記して丸めて玉にし、御蔵役所の通称『玉場』に持参した。この玉場には蓋のついた玉柄杓という曲げ物があって、役人は札差が持ち寄った玉を纏めて曲げ物の中に入れる。この曲げ物の蓋には玉が一つずつ出る穴があって、役人が柄杓を振ると、玉が落ちて出てくる仕組みになっていた。玉が落ちると、札差は玉(半紙)に書かれている名前の札旦那に代わって米や金を受け取る。そうして同時に札旦那に使いの者を走らせ、玉が落ちた旨を報知、知らせを受けた札旦那は、札差に出かけて現金化した金や現物の米を受け取るというシステムであった。岩波版長谷川氏の注によると、この支給米は『二月・五月は四分の一ずつ、これを借米(かりまい)といい、十月に二分の一、これを切米とい』ったとあるから、この話柄のシチュエーションは秋10月のことと思われる。

・「しつらひ」これは「差しつかへ」の誤記と思われる。

・「千住筋迄至り大橋を越て段々行し」「千住」は日光(奥州)街道の宿場として発展した。江戸から最初の宿場町に当たり、東海道の品川宿・甲州街道の内藤新宿・中山道の板橋宿と並ぶ江戸四宿の一つ。「大橋」は隅田川に架かる橋で日光街道(現在の国道4号)を通す千住大橋のこと。南千住と北千住を繋ぐ。以下、ウィキの「千住大橋」より一部引用する。『最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と思われる』。

・「箕輪」三ノ輪とも書く。江戸から見て千住の手前、現在の台東区中央部分の北の端に位置する地名。当時の江戸湾に突き出た武蔵野台地の先端部に相当することから水の鼻(みのはな)と言われ、これが転訛して「みのわ」になったといわれる。三ノ輪村原宿として宿場町として形成されたが、延亨2(1745)年には隅田川の宿場として原宿町が独立している。

・「冥加」には一つ、『人知にては感知できない、気がつかないうちに授かっている神仏の加護や恩恵。また、思いがけない幸せ。冥助。冥利。』という意味があり、更に『神仏の加護・恩恵に対するお礼。』の意味があるが、ここでのように「冥加の恐しさに」といったネガティヴな意味での使用法はない。この「恐しさ」というのをとりあえず「畏れ多き神仏の冥加に」と読み替えて現代語訳してみた。

■やぶちゃん現代語訳

 下賤の者は心して召し使わねばならぬという事

 ある人が久しく召し使って御座った一人の中間があった。

 如何にも実直にして心映えも真っ直ぐなる者であったが、ある時、御切米が玉落ちしたとのことで、本来は主(あるじ)自らがその金子を受け取りに札差を訪れるはずであったが、よんどころない所用があったがため行けず、かの中間に手紙を添えて金子受け取りに遣わした。

 ところが、この中間、その日も暮れて夜になっても帰って来ず、翌朝になっても戻らなかった。主は、

「……さては金子を受け取ってそのまま出奔致いたか?……それにしても長年召使い、あの男の正直なる志も、よう分かっておる……とてもそのように横領出奔致すような男には見えなんだが……」

と人を遣って捜させてみたけれども、やはり行方知れずであった。

「……やはり出奔致いたので御座ろう。……さてさて、人品は分からぬものじゃ……」

とひどく後悔致いておったところ、その日の昼過ぎ頃にもなって、かの中間、戻って参り、懐(ふところ)から定額の金子并びに札差書付なんどをしっかり取り揃えて、黙ったまま、主人に渡した故、

「……如何なることにて、かく遅うなったか?……」

と糾したところ、中間は、

「……我にはお暇を下されよ……」

と一言だけ言う。

 主はいよいよ驚き、

「……それはまた、一体、どういうことじゃ?」

と詳しく訊ねたところが、

「……この後(のち)も、このような同じことを仕出かすに違い御座らぬ……どれ程、律儀に年久しく召し使(つこ)うて御座ったとて……私のような中間風情に、金子を百両も持たすものにては御座らぬ……我らこと、これまで御懇意に召し使(つこ)うて頂き、我らも中間奉公致す内は、もう、この屋敷からは出でまいという所存にて御座いましたが……昨日……札差にて金子百両を受け取って帰る道すがら、つくづく考えましたことには……

『……我ら、賤しい身分に生まれてこの方……かほどの大枚の金子……懐中になしたること、これ、ない……この先、かほどの金子を手に入れること、これもあろうとも思われぬ……今、これを盗み取りてどこぞへ立ち退いたならば……これだけでも生涯の暮し、これ、成り立つであろう……』

と……それより、江戸表から出奔致す所存にて千住辺りまで至り……大橋を越えて……ひた走りに走りましたが……その間(かん)、つくづく考えてもみたので御座います……

『……ご主人さまに於かせられては……この我身を、真面目な男と見込んでおらるればこそ、この大金の使いにも申し付け下すったに……然るに、これまでの真率に背きてこの金子を盗んだとなれば……天命、主命如何なる咎が下るやも知れぬ……恐るべし! 慎むべし!』

という思いが募り、足をまた、箕輪まで返しましたが……再び悪心の出できて……

『……百両……百両じゃ……とかく百両あらば……渡世の路、この身にとっては十分過ぎる程に十分じゃて……』

と、またしても足を返し……いや、何度も何度もまた、思い直して呆然と立ち尽くしなんど致いて……昨夜来、今朝に至るまで、卑しき心なればこそ決することもならず、街道を行ったり来たり……迷って御座いました。……されど、重ね重ね、今までの畏れ多い神仏の冥加を思うた末……ようやっと善心と決定致いて……恥ずかし乍ら帰って参りました。……かかる悪心を一度(ひとたび)心に生じた者を、向後も召し使うは、由なきことなれば、どうか、お暇(いとま)頂きとう御座る……」

と申した。

 主人が、誠(まっこと)心より感心致いて、中間の申し出を慰留の上、後、永く彼を召し使ったことは、言うまでもない。

2010/08/12

耳嚢 巻之三 奇物を得て富みし事

「耳嚢 巻之三」に「奇物を得て富みし事」を収載した。

 

 奇物を得て富し事

 予が知れる與力に角田(すみた)何某といへる人あり。加賀屋敷邊に有て身上(しんしやう)もよろしく暮しけるが、右角田と親しき山中某語りけるは、右の角田の家には不思議の事あり。彼親は至て放蕩にて金錢を遣ひ捨て不如意也しが、或日小日向櫻木町といへる古道具屋にて小さき長持を調しが、其作りも丈夫にて格好よりは遙に重き長持也しを、纔に金子百疋にて調へ、家來を差越(さしこし)て我家へ引とりぬ。然るに内の紙はりなども破れ損じ候處もありし故、引放し取繕んとせしが、餘りに底の厚き故鐵鎚などにてたゝき抔せしに、二重底の樣にも見へし故こじ放して板をとりけるに、底を二重にして右板の間に古金(こきん)をひしと並べ置たり。驚き悦て改めけるに數百兩を得し故、彼者も夫より節を改め日増に富貴に成しとかや。今に彼長持は角田の家寶として有りし由也。

□やぶちゃん注

○前項連関:後家に取り付いて大出世、古物の長持から百両の瓢箪から駒連関。放蕩不羈でも連関する。岩波版の長谷川氏注には『宝永(一七〇四―)以後の小説・講談などに類話多し。』とある。

・「與力」諸奉行等に属し、治安維持と司法に関わった、現在の警察署長に相当する職名。

・「角田何某」「山中某」ともに不詳。前者は「つのだ」か「すみだ」かも分からぬ。

・「加賀屋敷」加賀金沢藩前田家上屋敷は現在の本郷七丁目の東京大学本郷キャンパスの殆んどの部分を占めていた(北の現在の農学部のある場所は水戸藩中屋敷)。

・「小日向櫻木町」江戸切絵図で確認すると、護国寺門前から南東に延びる音羽通りが江戸橋にぶつかる手前の左右の音羽町九町目の外側の地域をそれぞれ同名の「櫻木町」と呼んでいる。一種の飛び地か、若しくは江戸橋の手前の細い敷地で繋がっていたものか。

■やぶちゃん現代語訳

 奇物を得て富貴になった事

 私が知っている与力に角田某という御人がおる。加賀屋敷辺に屋敷を持ち、相応に裕福に暮らして御座るが、この角田と親しい山中某が、この角田家に纏わる話を聞かせて呉れた。

「……この角田の家には不思議なことが御座いましてな。……彼の親は、失礼乍ら至って放蕩不羈にして、金銭を湯水のように遣い果たして……遂には痛く困窮するように成り果てたと言います。……

 ……さてもある日のこと――彼――彼の父親が、金もないのに道楽で小日向桜木町辺りにあったという古道具屋にて小さな長持を買(こ)うたので御座いましたが、これまた、造作も頗る頑丈、見た目よりも、これがまた遙かに重い。……それを、まあ、何と僅か金子十疋にて買い入れ、家来に命じて我が家へと引き取ったので御座います。……

 ところが、いざ、品を改めてみますると、内張りの紙なんども無惨に破れて御座ったれば、もう、みな引き剥がして張り直し繕わんと致しましたところが、……ふと見ると、これ、余りにも底が厚い。……不審に思うて、鉄槌なんどでがんがん叩いてみましたところが、……これが……どうも二重底のように見える……更に、がんがんやらかして、遂に内側の底の部分をこじ開けてみましたところが、……底板を取る……と、案の定、二重底にて……そこに……何と古びた金貨が、これまたびっしり! と並んで御座ったので御座います……驚きもし、悦びもし……改めてみましたところが、金数百両!……これを得てより――彼――彼の父は節を改め、日増しに富貴に成った、とかいうことにて……今に至るまで、この長持は角田家の御家宝として御座る、とのことで御座いまする……。」

2010/08/11

シリエトク日記6 ホエール・ウオッチングであわや拿捕

8月3日(火)

羅臼の宿が企画しているホエール・ウオッチングに出かける。宿泊客であったのと、妻が杖をついているために操舵室の直近の座席を確保してくれる。

国後が見える。昨日、知床峠から始めてみた瞬間……「これが、ロシア?」……という違和感がまず働いていた――小型クルーザーでずんずん進む――ますますその感がいや増してくるぞ。――

――案内の漁師が、マッコウクジラを発見して叫ぶ!

「12時! 1.8キロ!」

盛んに潮を吹いているのが肉眼でも視認出来る――エンジン全開! もうシルエットじゃない緑の国後の景色が双眼鏡の中に見えた。――ずんずん進む!――

「もう、800メートルも進んだら……越えちまう!」

と操舵手が舌打ちした。――場所が場所だから操舵室のGPSの大きな緑の画面が見えた。国後と知床の間――そのど真ん中に我々の船がいることが点滅するその画面から分かった――クジラか拿捕か!――エンジン・ストップ――その瞬間――

――僕の双眼鏡は、そのど真ん中にはっきりと最後の潜水のために尾鰭を水面高く跳ね上げたマッコウクジラの尾を捉えた――

先年、アイスランドまで行って見れなかったマッコウに出逢えた――

おまけに北方領土の政治的スリリングさも添えてだ――

与那国でけぶるかすかな台湾を見た時きゃ、こりゃ、外国だと思った……しかし、国後、こりゃあね、確かに日本だぜ……

Kunasiri

シリエトク日記5 羅臼の蕎麦屋にて僻地過疎化を痛感せる事

8月2日(月)

羅臼に着く。バスターミナルのそばの蕎麦屋「しずか」で、普段は絶対に食べない海老天そばを頂く(海老は好きだが、天ぷらなるものが蕎麦とはゼッタイ合わないというのが僕の信条なのである)。半端じゃない。海老5尾だ。素敵に美味い。妻(さい)は何を血迷ったか、あつあつのカレー南蛮(!)蕎麦なんぞをすすっておる。地の涯まで来ると地磁気の影響か、好みまで狂うのであろうか?――

――背後の席に地元のおばあちゃんが二人、世間話をしているのが聞えてきた。――

「いえね……釧路に透析に行くのが、大変でねえ……秋には羅臼を出るんよ……」

「あんたもか……しょうがないねえ……みんな羅臼を去って行ってしまう……淋しいねえ……」……

翌日の昼、ウトロに戻るためのバスターミナルで、時間潰しに僕は調べてみたのだった。――

釧路の「市立病院行」は早朝の6:40にここを出る――

釧路市立病院にそのバスが着くのは実に4時間弱後の午前10:30である――

人工透析は最低でも3時間はかかる――

帰りの最終「羅臼行」バスは市立病院前15:45発である――

これに乗り遅れると、もうその日羅臼行きのバスは、ない――

その最終バスが羅臼に着くのは――夜の7:50である――

これが本当に「一日仕事で病院に行かねばならない」というのだ――

透析が必要な人はそれを最低でも週に2~3回は繰り返さねばならないのだ――

因みに羅臼~釧路市立病院前間のバス料金は――

往復割引でも、何と行って帰って来るだけで一日8400円!(透析が必要な方は障害者割引もあるとは思うけれど)――

――やっぱり淋しそうにウミネコが鳴く中、僕は暗澹たる気持ちになってバスターミナルの前に立ち竦んでしまったのだった……

……蕎麦を食い終えて――「繁華街」――としっかり表示された道を海に向かって歩く。――仕舞た屋が多い。――ショウウィンドウに裸のマネキンが埃を被って寝巻きを片脱ぎにしてつっ立っている。店内に人影はない――。院長の名前が一人書いてあるだけで、診療科目のプレートが虚しく抜き取られてやけにそこが白々としている。――診療所の窓が開いている。窓際に点滴の黄色い壜が風に揺れていた。――欠伸をした看護婦さんと目が合った。――聴こえてくるのは、ただウミネコの淋しい、鳴き声だけ……足の悪い妻が一緒だから「繁華街」を抜けるのに15分はたっぷりかかった。その間、「繁華街」を歩いていたのは――僕ら二人きりだった。――

シリエトク日記4 シリエトクの山から下りてきたのはヒグマではなく金髪の美女だった

8月2日(月)

ホテル「地の涯」の朝。ホテルの前の渓谷に天然の無料温泉があるので散歩した。僕の前で地元の小学生の姉妹がすっぽんぽんになって入って行く。――如何にもよい。――健康的で、潔くって、見ている私にさえ一抹のいやらしい気持ちも生まれない。――

そこを過ぎて渓谷の奥に向かう。――「ヒグマ注意! 立ち入り禁止!」の立札を過ぎる。――滝がある。――その手前にもまた「ヒグマ注意! 立ち入り禁止!」の札がある。ここから先は知床の原生林だ。――滝壺に向かう道も先細りになっている。――

Tinohatetaki

引き返した。――と――背後から足音がした――ドッキっとして振り返る――とその先細りの滝から妙齢の女性が現れた!――思わず「高野聖」を思い出した――しかし、鏡花好みでないだろう――何故なら、彼女は二十代の金髪の異国人の女性だったからである。――

立ち止まっている僕のところへ来ると、彼女は

「ラウスダケ?」

と聞いてきた。――私は先導してホテルの裏側の羅臼岳への登山口を教えてやった。――

「アリガト。」

と言いながら、彼女は仏さまを拝むように両手を合わせて、僕にお辞儀をしたのだった。……いや、やっぱ「高野聖」だわ……

彼女には翌日の昼、羅臼からウトロへ戻るバスに、知床峠から乗ってくるのにまた出逢った。……この娘、一体、どこをどう歩いてここにいるのか?……やっぱほんと「高野聖」だわ……

彼女の方は残念ながら僕には気づかなかったのだが、彼女が運転手に「ダンケシェーン」と口にするのが耳に入った。――

……そうか、僕はドイツ語訳の“Kouyahijiri”の世界に迷い込んでいたんだな……と……思わず、僕は自分の腕をさすってみた……毛が生えてヒグマされていはしまいかと、ね……

蝉‐耳鳴ノイズ・キャンセリング効果

夏になって昼間はまるで耳鳴りが気にならなくなった。耳鳴りがしなくなったのではない。蝉の声が美事にノイズ・キャンセリングしてくれているのである。そこで一句――

  ノイズ・キャンセリング

蝉時雨耳鳴りの音(ね)も森の内

耳嚢 巻之三 不計の幸にて身を立し事

「耳嚢 巻之三」に「不計の幸にて身を立し事」を収載した。

「祭りは終わった」のだ――再び飴のように延びた蒼ざめた時間の中に戻ってゆくのだな……その手始めに「耳嚢」だ……

 

 不計の幸にて身を立し事

 或江州の産にて上方堂上(たうしやう)などに奉公して有しが、身持も宜しからず度々浪人などしけるが、京都にては迚も身を立候事も成がたしと、聊の貯(たくはへ)にて東都へ下りけるが、路用も遣ひきりてすべきやうなく、湯元などに暫く逗留し鍼(はり)按摩(あんま)抔施して稼ぎ暮しけるが、大坂町人の後家(ごけ)彼(かの)温泉に來りて入湯し、不快の折からは按摩等を施しけるに、追々心安くなりて右後家淫婦也しや、彼者と密に通じ雲雨の交りをなして、或時彼後家申けるは、御身は年若き人いづくの人なるやと尋ける故、しかじかの事かたりければ、さあらば我等江戸表親類の方へ此度出(いで)候間(あひだ)伴はんとて、日數(ひかず)程過(すぎ)て同道して江戸へ出ぬ。人目有(あれ)ばとて彼後家を養母分にして、其身養子の心どりにて夜は夫婦の交りをなしぬ。彼後家は富豪の後家たるによりて、金銀を以御徒(おかち)の明(あ)きを讓り得て彼者を御徒に出しけるに、京家の縁などにたよりて奧の手弦(てづる)等を拵へ、頭(かしら)なる者へ願ひける故無程組頭に成、後は又御譜代の席へ轉じけるが、今は右の老婦も果し由。爰におかしき事の有るは、右老女の有りし内は、歳(とし)中年に及ぶ某なれども妻を呼候事は成がたく、遊女其外のたはれをも、彼養母殊の外制して禁じけるとや。左も有ぬべき事也。

□やぶちゃん注

○前項連関:かつて奇策で放蕩不羈を尽くした男の物語から、色仕掛けの手練手管で世をうまく渡った放蕩不羈の男の物語で直連関。

・「堂上」堂上家。昇殿を許された四位以上の、公卿に列することの出来る家柄を言う。

・「人目有ばとて彼後家を養母分にして、其身養子の心どりにて夜は夫婦の交りをなしぬ」とあるからには、この若者(二十代か)と後家(三十以上四十前後迄か)は十歳以上は離れていた感じである。

・「金銀を以御徒の明きを讓り得て」「御徒」とは「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。公的には違法ながら、当時、御徒の株は密かに売買されていた。一般に「与力千両、御徒五百両、同心二百両」と言われた。この後家、そんじょそこらの金持ちではない。

・「御譜代の席へ轉じ」通常、御徒はその代一代限りの御勤めであったが、ここではこの男が例外的な譜代(世襲)の御徒の身分を与えられたことを指す。

■やぶちゃん現代語訳

 思いも寄らぬ幸いにより身を立てた事

 近江国生まれのある男、上方の複数の堂上家(とうしょうけ)なんどにも奉公した経歴があったが、何分、身持ちが宜しくなかったがため、たびたび浪人なんどに落ちておった。

 ある時、流石に京(みやこ)ではとても立身なんども成り難しと思い、僅かな蓄えを持って東都へ下ることにしたのだが、途中で路銀を遣い切ってしまい、如何とも仕難く、箱根湯本に暫くの間(あいだ)逗留致し、その間(ま)に昔、少し覚えのあった鍼やら按摩やらを湯治客に施してその日稼ぎの暮らしておった。

 ある日のこと、大坂町人の後家が一人、かの温泉に来たって入湯致いたが、体調不快にて、かの按摩が施療を施した。何度か施術を頼む内に、二人は親密な仲となり――この後家、希代の淫婦であったものか――この男と密かに通じて男女の交わりをもなすに至った。

 ある時、寝物語に、この後家が男に訊ねた。

「……見ればあんた……まだ若こう程に……何処の生まれやねん?」

そこで、若者はこれまでのこっ恥かしい軽薄な半生を語ったところ、

「……ほなら……私(わて)はこれから江戸表の親類の宅(うち)を訪ねるところやよって……一つ、一緒に行きまひょ。」

ということになり、暫く湯本に逗留した後(のち)、若者はこの後家に同道して江戸へ出たのであった。

 年齢差が激しために人目を忍んで、かの後家は養母、かの若者はその養子との触れ込みで、夜は夜で密かにしっぽりと夫婦の交わりをなしておった。

 この後家の実家は、大阪でも有数な豪商であったために、後家は金銀に物を言わせて御徒の空きを譲り受け、若者をまんまと御徒役に就かせることに成功、更にその後(のち)も京家の縁なんどを頼って、奥の手蔓を巧妙に駆使して、若者の上司に働きかけたりなどした故、ほどなく組頭と相成り、やがて後にはまた、何と御譜代の席へまで出世致いたのであった。

 さても今は、その後家――その老婦もすでに亡くなったとの由である。

 ――最後に。ちょいと、この話で面白いのは――その後家――その老婦が存命中は、若者――いや、最早――中年になりかかって御座ったその男では御座ったが――妻を娶(めと)ることは許されず――また、遊廓へ参っての遊女なんどと戯れるといったことさえも――かの『養母』から殊の外、厳しゅう禁じられて御座ったとか。……いやいや、それは当然のことにては御座るのう。

芥川龍之介 彼 附やぶちゃん注

芥川龍之介「彼」附やぶちゃん注を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。ちょいと自信があるのは、本作がツルゲーネフの「猟人日記」の一篇「死」の一部を素材としているのではあるまいかという着想である。露文の方で、芥川龍之介ファンの方、一つ、比較文学のレポートにされては、如何?

この注を読まれてしまうと、近々おとずれるブログ240000アクセス記念テクストが何かばれてしまうのだが――まあ、いいか――現在只今、239038アクセスである――

それにしても今日はアリスの散歩に25キロ程の買出しで汗かき乍ら、朝飯も昼飯も食わずに、テクスト公開……ようがんばった。自分で自分を褒めてやりたい気が、ちょっとしている……

やぶちゃん版鈴木しづ子句集(旧「鈴木しづ子句集」改訂増補版) 抄出217句

「心」で弾けた序でに、かねてから気になっていた『やぶちゃん版鈴木しづ子句集(旧「鈴木しづ子句集」改訂増補版) 抄出217句』を『公開』した。

言っておくが、これはリニューアルではなく、厳密に校訂した新版である旧の杜撰なバージョンを保存されている方は、必ず破棄し、こちらをダウンロードされるようお願いする。詳細は旧ブログの記載をお読み頂きたいが、ずっと気になっていた。――僕のHPの中で唯一、HP作製初期の杜撰なテクスト・ページのまま、他人の引用の孫引きコピー・ペースト・ハイブリッドアウトローなままに5年もの間、放置してあったのがこれであった。……アウトローであることが……しづ子さんらしくていいか……なんどと勝手に自分で自分を誤魔化して来たが、もう、いけない。――俄然、この数日間、燃えに燃えて、僕自身の完全なしづ子の俳句縦覧と再検討・再構成を試みた結果である。旧バージョン掲載句は一つ残らず載っているが、それに僕の好みの句を更に追加し、総てについて校訂した(その上で、恣意的に正字表記にした。その辺の経緯は冒頭の注を参照されたい)。

但し、アウトローは、残る――何故なら、ご存知の通り、しづさんは、今以って行方不明であり、著作権上の問題があるからである――以下にそれについての僕の覚悟を示しておく。

【やぶちゃん版「鈴木しづ子句集」の著作権上の問題について】

もし鈴木しづ子の縁者の方に彼女の著作権が委譲されており、その方から引用過剰の正式な差し止め要請がなされた場合は、勿論、本ページは閉じる。但し万一、河出書房新社が私の本ページを引用過剰とし、著作権裁定制度に基づいて問題にするというのであれば、まず私が最初に旧「鈴木しづ子句集」を作るためにネット上で蒐集した(原素材の95%はそれに拠る)鈴木しづ子の句を引用しているHP及びブログ総てに対しても差し止めを請求されることを望む(複数あり、誤植の訂正さえなされていない)。そうしないと私のようなスメルジャコフの末裔は確信犯でいつでも私と同じ犯罪を犯すであろうから――犯すことが極めて容易なことだから――である(実際に旧「鈴木しづ子句集」はかつて数時間にしてでっち上げたものであった)。その上で、私の本ページの公開の差し止めを要請され、更に加えて――既に私に無断で旧「鈴木しづ子句集」をコピー・ペーストしているHPやブログ(実際にある。誤植も一致したままであるから間違いない。但し、私は勿論、私の旧ページ自身が、全く以って「私」のものではなかったのだから不平はお門違いであり、また、誤植は困るものの、それらによって、しづさんの句が多くの人に知られるという点に於いて、喜ばしく思いこそすれ、何らの不快も感じてはいないことを表明しておく)も総て洗い出した上、同時に差し止めるよう、訴えを起こして頂きたい。

――いや、最初の2005年7月17日のブログで述べた通り、私の本懐は――鈴木しづ子さん本人から訴えられることを、心から待ち望んでいるものである――

……しづさん……いい響きですね……僕は今日その「しづさん」の登場する「心」を終えたばかりなんです……

……しづさん……僕は今、あなたに、無性に逢いたいのです……

朝日新聞連載 夏目漱石『心 先生の遺書(五十五)~ (百十)――(単行本「こゝろ」「上 先生と私」相当パート) 附♡やぶちゃんの摑み

満を持して朝日新聞連載 夏目漱石『心 先生の遺書(五十五)~ (百十)――(単行本「こゝろ」「上 先生と私」相当パート) 附♡やぶちゃんの摑み』を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

この「やぶちゃんの摑み」は僕のライフ・ワークであり、今後も再考・再々考を重ねながら増殖させてゆこうと思っているが、現在只今、ネット上に存在する夏目漱石「こゝろ」の注釈としては、最上の部類に属するものを提供出来たと秘かに自負するものではある。

「心」連載完遂記念画「Handcuffs」

――先程、若い知人女性から「心」の連載完遂を寿ぐ手製の絵葉書が届いた――その絵に僕は正に心から打たれた――秘密にしておきたいけれど勿体ない――皆さんにも御披露しよう――

――題名は「Handcuffs」――手錠……

 

Handcuffs

「心」連載完遂記念日

本日を以って遂に一度として滞りなく、ブログ・カテゴリ「こゝろ」に『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月20日(月曜日)から同年8月11日(火曜日)までの2010年同日掲載の夏目漱石作「心」「先生の遺書」(附「やぶちゃんの摑み」)全篇公開を終了出来た。本当に――

――然し私は今其要求を果しました。もう何にもする事はありません。――

いや、折角の「心」完遂記念日だ――

僕は今日、一日休むことにした――もう歩けなくなってしまった母の代わりに買い物に行った後は――本日只今より、「心」連載完遂を記念して、これより幾つかの記念テクストとHP改造を行う。乞う、ご期待!

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月11日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百十回

Kokoro16_2   先生の遺書

    (百十)

 「私は殉死といふ言葉を殆ど忘れてゐました。平生(へいせい)使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談(ぜうたん)を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答へました。私の答も無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持がしたのです。

 それから約一ケ月程經ちました。御大葬の夜(よる)私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木(のき)大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思はず妻に殉死だ/\と云ひました。

 私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪られて以來、申し譯のために死なう/\と思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月(としつき)を勘定して見ました。西南戰爭は明治十年(れん)ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間死なう/\と思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刃(やいば)を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方(どつち)が苦しいだらうと考へました。

 それから二三日して、私はとう/\自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己れを盡した積です。

 私は妻を殘して行きます。私がゐなくなつても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に殘酷な驚愕を與へる事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬ積です。妻の知らない間に、こつそり此世から居なくなるやうにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思はれたいのです。氣が狂つたと思はれても滿足なのです。

 私が死なうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自叙傳の一節を書き殘すために使用されたものと思つて下さい。始めは貴方に會つて話をする氣でゐたのですが、書いて見ると、却(かへつ)て其方が自分を判然(はつきり)描(えが)き出す事が出來たやうな心持がして嬉しいのです。私は醉興(すゐきよう)に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞(いつわ)りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。渡邊華山は邯鄲(かんたん)といふ畫(ゑ)を描(か)くために、死期を一週間繰り延べたといふ話をつい先達(せんだつ)て聞きました。他(ひと)から見たら餘計な事のやうにも解釋できませうが、當人にはまた當人相應の要求が心の中(うち)にあるのだから己(やむ)むを得ないとも云はれるでせう。私の努力も單に貴方に對する約束を果すためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。

 然し私は今其要求を果しました。もう何にもする事はありません。此手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世にはゐないでせう。とくに死んでゐるでせう。妻は十日ばかり前から市ケ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病氣で手が足りないといふから私が勸めて遣つたのです。私は妻の留守の間(あひだ)に、この長いものゝ大部分を書きました。時々妻が歸つて來ると、私はすぐそれを隱しました。

 私は私の過去を善惡ともに他(ひと)の參考に供する積です。然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何(なん)にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の祕密として、凡てを腹の中(なか)に仕舞つて置いて下さい。」(終り)

Line_2

やぶちゃんの摑み:連載最終回であり、通常より200字以上、分量が多い。

♡「御大葬の夜私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました」司法省(現・法務省旧館赤レンガ棟)前広場に於いて、東京青山の帝國陸軍練兵場(現・神宮外苑)に於いて執行する大喪之礼のために御大葬葬列が皇居を出発した大正元年913日午後8時より101発の弔砲が打たれている。「後で考へると、それが乃木大將の永久に去つた報知にもなつてゐた」とあるが、乃木と靜の自刃はこの最初の号砲直後のことと推定されている。

♡「明治の精神に殉死する」という命題を創案した先生は、「私の答も無論笑談に過ぎなかつた」が、そこに「古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持」を抱いたことも事実だと「私」に述べる。私はこの命題を真として認識した地平に、先生の安心があり、少年のような笑顔が見える。高校の授業では、教師であろうが生徒であろうが、誰もが適当に誤魔化して避けて通ろうとするこの意味深で怪しげなと猜疑する「明治の精神」にこそ、先生の至ったクリアーな境地は、ある。それは誤魔化しやすり替えや、況や事大主義的大義名分や自己合理化のための口実なんどではあり得ない。

「明治の精神」

先生の存在証明(レゾン・デトール)

鮮やかで清々しい諦観の中の自律的自己決定権

自己の人生の確かな「心」というものの真理としての把握

『確かに私は、その時代を「かく」生き、「かく」悩み、「かく」生暖かい「血と肉」の中で生きと生きたのである!』

という透明な爽やかな実感の中にこそ、先生はある――

それは永遠の先生の――

そしてKの――

そして、この遺書を読む「私」の――

その将来にあって欲しい、否、必ずや「在る」と先生が信じて已まぬ――

 予定調和としての至るべき魂の安穏 

――そのものなのであったのである。

♡「私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪られて以來、申し譯のために死なう/\と思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月(としつき)を勘定して見ました」現在、乃木希典(のぎまれすけ 嘉永2年(1849)年~大正元(1912)年913日:元長府藩士。軍人。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。)の遺書は東京乃木坂にある乃木神社に社宝としてある。以下、今回私は、複数の画像を元に、なるべく原遺書に忠実になるよう、総てを私の完全オリジナルで翻刻を試みた。「□原型」は配字を意識しての翻刻、脱字と思われるものは〔 〕で補った。署名後の花押は【花押】で示した。「□整序」は詠み易く各項の改行を排除し、一部に空欄を設けたものである。〔 〕で補ったものは、〔 〕を外した。「医學校」の「医」はママ。現在ネット上にある乃木大将の「遺言條々」の電子テクスト翻刻の中では、上の部類に属するものと秘かに自負するものである。

□原型

  遺言條々

第一自分此度御跡ヲ

  追ヒ奉リ自殺候處

  恐入候儀其罪ハ

  不輕存候然ル處

  明治十年之役ニ於テ

  軍旗ヲ失ヒ其後

死處得度心掛候モ

  其機ヲ得ス

皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄

  過分ノ御優遇ヲ蒙

  追々老衰最早御役

  ニ立候時モ無餘日候折柄

  此度ノ御大變何共

  恐入候次第茲ニ覺

  悟相定候事ニ候

第二両典戰死ノ後者

  先輩諸氏親友

       諸彦

  ヨリモ毎々懇諭

  有之候得共養子

  弊害ハ古來ノ議論

  有之目前乃木大兄

  ノ如キ例他ニモ不尠

  特ニ華族ノ御優遇

  相蒙リ居實子ナラハ

  致方モ無之候得共却テ

  汚名ヲ殘ス樣ノ憂ヘ

  無之爲メ天理ニ背キ

  タル事ハ致ス間敷

       事ニ候

  祖先ノ墳墓ノ守護

  ハ血縁ノ有之限リハ

  其者共ノ氣ヲ付可申

  事ニ候乃チ新坂邸ハ

  其爲メ区又ハ市ニ

       寄

  附シ可然方法願度候

第三資財分與ノ儀ハ別紙

  之通リ相認メ置候

  其他ハ靜子ヨリ相談

  可仕候

第四遺物分配ノ儀ハ自分

  軍職上ノ副官タリシ

  諸氏ヘハ時計メートル

  眼鏡馬具刀劍等

  軍人用品ノ内ニテ見

  計ヒノ儀塚田大佐ニ

  御依賴申置候大佐ハ

  前後兩度ノ戰役ニモ

  盡力不少靜子承知ノ

  次第御相談可被致候

  其他ハ皆々ノ相談ニ任セ

  申候

第五御下賜品(各殿下ヨリノ分モ)

  御紋付ノ諸品ハ悉

  皆取纏メ學習院ヘ

  寄附可致此儀ハ松井

  猪谷兩氏ヘモ御賴仕置

          キ候

第六書籍類ハ學習院ヘ

  採用相成候分ハ可成

  寄附其餘ハ長府

  圖書館江同所不用

  ノ分ハ兎モ角モニ候

第七父君祖父曾祖父君

  ノ遺書類ハ乃木家

          ノ

  歴史トモ云フヘキモノ

  ナル故巖ニ取纏メ

  眞ニ不用ノ分ヲ除キ

  佐々木侯爵家又ハ

  佐々木神社ヘ永久無限

  ニ御預ケ申度候

第八遊就館ヘ〔ノ〕出品者

  其儘寄附致シ

       可

  申乃木ノ家ノ紀念

  ニハ保存無此上良法ニ候

第九靜子儀追々老境ニ入

  石林ハ不便ノ地病氣等

  節心細クトノ儀尤モ

  存候家ハ集作ニ讓リ

  中埜ノ家ニ住居可然

  同意候中野ノ地所

  家屋ハ靜子其時ノ

  考ニ任セ候

第十此方屍骸ノ儀者

  石黑男爵へ相願置

  候間可然医學校ヘ

  寄附可致墓下ニハ

  毛髪爪齒(義齒共)ヲ

  入レテ充分ニ候(靜子

       承知)

 ○恩賜ヲ頒ツト書キタル

  金時計ハ玉〔木〕正之ニ遣ハシ候

  筈ナリ軍服以外ノ服装ニテ

  持ツヲ禁シ度候

右ノ外細事ハ靜子ヘ

申付置候間御相談

被下度候伯爵乃木家

        ハ

靜子生存中ハ名義

可有之候得共呉々モ

斷絶ノ目的ヲ遂ケ

候儀大切ナリ右遺言

如此候也

大正元年九月十二日夜

       希典

       【花押】

 湯地定基殿

 大舘集作殿

 玉木正之殿

   静子殿

□整序

  遺言條々

第一 自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ自殺候處恐入候儀其罪ハ不輕存候然ル處明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後死處得度心掛候モ其機ヲ得ス皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候時モ無餘日候折柄此度ノ御大變何共恐入候次第茲ニ覺悟相定候事ニ候

第二 両典戰死ノ後者先輩諸氏親友諸彦ヨリモ毎々懇諭有之候得共養子弊害ハ古來ノ議論有之目前乃木大兄ノ如キ例他ニモ不尠特ニ華族ノ御優遇相蒙リ居實子ナラハ致方モ無之候得共却テ汚名ヲ殘ス樣ノ憂ヘ無之爲メ天理ニ背キタル事ハ致ス間敷事ニ候祖先ノ墳墓ノ守護ハ血縁ノ有之限リハ其者共ノ氣ヲ付可申事ニ候乃チ新坂邸ハ其爲メ区又ハ市ニ寄附シ可然方法願度候

第三 資財分與ノ儀ハ別紙之通リ相認メ置候其他ハ靜子ヨリ相談可仕候

第四 遺物分配ノ儀ハ自分軍職上ノ副官タリシ諸氏ヘハ時計メートル眼鏡馬具刀劍等軍人用品ノ内ニテ見計ヒノ儀塚田大佐ニ御依賴申置候大佐ハ前後兩度ノ戰役ニモ盡力不少靜子承知ノ次第御相談可被致候其他ハ皆々ノ相談ニ任セ申候

第五 御下賜品(各殿下ヨリノ分モ)御紋付ノ諸品ハ悉皆取纏メ學習院ヘ寄附可致此儀ハ松井猪谷兩氏ヘモ御賴仕置キ候

第六 書籍類ハ學習院ヘ採用相成候分ハ可成寄附其餘ハ長府圖書館江同所不用ノ分ハ兎モ角モニ候

第七 父君祖父曾祖父君ノ遺書類ハ乃木家ノ歴史トモ云フヘキモノナル故巖ニ取纏メ眞ニ不用ノ分ヲ除キ佐々木侯爵家又ハ佐々木神社ヘ永久無限ニ御預ケ申度候第八遊就館ヘノ出品者其儘寄附致シ可申乃木ノ家ノ紀念ニハ保存無此上良法ニ候

第九 靜子儀追々老境ニ入石林ハ不便ノ地病氣等節心細クトノ儀尤モ存候家ハ集作ニ讓リ中埜ノ家ニ住居可然同意候中野ノ地所家屋ハ靜子其時ノ考ニ任セ候

第十 此方屍骸ノ儀者石黑男爵へ相願置候間可然医學校ヘ寄附可致墓下ニハ毛髪爪齒(義齒共)ヲ入レテ充分ニ候(靜子承知)

○恩賜ヲ頒ツト書キタル金時計ハ玉木正之ニ遣ハシ候筈ナリ軍服以外ノ服装ニテ持ツヲ禁シ度候右ノ外細事ハ靜子ヘ申付置候間御相談被下度候伯爵乃木家ハ靜子生存中ハ名義可有之候得共呉々モ斷絶ノ目的ヲ遂ケ候儀大切ナリ右遺言如此候也

大正元年九月十二日夜

       希典

       【花押】

 湯地定基殿

 大舘集作殿

 玉木正之殿

   靜子殿

因みに「乃木さんは此三十五年の間死なう/\と思つて……」の部分の「乃木さん」の「乃」ルビは、底本では、右を頭にして転倒している。

 さて、ここで乃木の軍旗奪取事件を示しておく必要がある。以下、ウィキの「乃木希典」の該当部から引用しておく。乃木は慶応元(1865)年に長府藩報国隊に入隊、奇兵隊に合流して幕府軍と戦い、明治41871)年-に正式に陸軍少佐に任官(23歳)、明治101877)年、歩兵第十四連隊長心得として小倉に赴任した。『時を置かず勃発した秋月の乱を鎮圧、つづいて西南戦争に従軍した。西南戦争では、初戦時、退却の際に軍旗を持たせた兵が討たれ、軍旗が薩摩軍に奪われた。乃木は激しく自分を責め、まるで戦死を望むかのような蛮戦をくりかえす。負傷して野戦病院に入院しても脱走して戦地に赴こうとした。退院後は熊本鎮台の参謀となり第一線指揮から離れた。乃木の行動に自殺願望をみた山縣有朋や児玉源太郎など周囲が謀った事と言われる』。『乃木は官軍の実質的な総指揮官であった山縣に待罪書を送り、厳しい処分を求めた。しかし、軍旗紛失後の奮戦も含め、自ら処罰を求めた乃木の行動はかえって潔いと好意的に受け止められ、罪は不問とされた。しかし乃木は納得せず、ある日切腹を図ったがすんでの所で児玉に取り押さえられるという事件があったと言われる。「軍旗は天皇陛下から給わったもの。詫びなければならない」と言って譲らない乃木に対し、児玉は厳しく諫めたという』。『後に乃木が殉死した際、遺書とともにこのときの待罪書が見つかった。大将にまで上り詰めた乃木が、若き日の軍旗喪失の責任を忘れていなかったことと、その時果たせなかった切腹による引責を殉死によって遂げたことが明らかになり、その壮烈な責任感は、日本のみならず世界に大きな衝撃を与えた』。『一連の士族争乱は、乃木にとって実に辛い戦争であった。軍旗を失うという恥辱もさることながら、萩の乱では実弟・玉木正誼が敵対する士族軍について戦死している(正誼は兄・希典に士族軍に付くよう何度も説得していた)。さらには、師であり、正誼の養父でもあった玉木文之進が、萩の乱に正誼と弟子らが参加した責任を感じて切腹した。この後、乃木の放蕩が尋常でなくなり、たびたび暴力まで振るうようになったことから西南戦争が乃木の精神に与えた傷がいかに深かったかが知れる。乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留学まで続いた』とある。このドイツ留学前に軍旗問題で自棄的となり、鯨飲不摂生の乃木を案じた周囲が結婚を薦め、明治111878)年薩摩藩士湯地定之四女靜子と結婚した。希典30歳、静子20歳であった。その後、明治121879)年、長男勝典、同141881)年に次男保典を得ている。それぞれの不幸な戦死については第(九)回で記してあるので、そちらを参照されたい)。なお、遺書の宛名に現れる人物は湯地定基が靜子の兄、大館集作が乃木の末弟、玉木正之が乃木の次弟であった萩の乱で敵方として戦死した正誼の子、乃木の甥である。

♡「それから二三日して、私はとう/\自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己れを盡した積です」

「それから二三日して、私はとう/\自殺する決心をしたのです」先生にとっての乃木の殉死の意味は何であったか?――これは当然、解剖されねばならぬ。意味はある。第(四十一)回で「私」が自分の父と自分と対比したように、ここに我々は「先生」のそれを対峙させねばならない。それは勿論、父とも「私」とも自ずと異なる感懐となるのである。「それから二三日して」とあるように、

『乃木大将の殉死』という現象の枠組・額縁(間違ってもその核心や思想ではない

が、

先生の自死の決意=死へのスプリング・ボード

となっている

ことは疑いない。ところがここで驚くべきことに、先生は『「私に」は「乃木さんの死んだ理由が能く解らない」』と言明である。即ち、実行行為としての明治天皇への殉死と言う命題は先生には真でも偽でもない。全く意味をなさない内容のない命題であると言っているのである。従って

Ⅰ 先生の死は乃木の死とはその意味において精神的には無関係であり、先生は乃木の死を自己の論理の中では全く評価していない。

と言うのである。これがまず先生が示した『最期の第1命題』『最期の第1公案』である。

そして次に先生はこう畳み掛ける。いや、これが命題=公案への師の禪気を促す、警策である。

――「私に乃木さんの死んだ理由が能く解らない」のと同様に、もしかすると「貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れ」ない――

――いや、本来は私が「乃木さんの死んだ理由が能く解らない」ことと、「貴方に」「私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れ」ないことは全くレベルの違う、否、真偽の問題なのであって、そんなことは起こり得ない――

――私が選んだ『あなた』である以上、それは、あり得ないことなのであるが――

――万一、残念なことに「貴方に」「私の自殺する譯が明らかに呑み込めない」という悲しい結果が生じたとすれば――

――「もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方が」ない――――「或は」悲しいことにみそこなったあたたという「個人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れ」ない――

――しかし、そうであったら……私のこの遺書は無駄である。即座に焼き捨てるがよい――

――いや、勿論、そんな心配は私はしていないのだ――

――「私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で」完全に「己れを盡した積で」ある――

こう考える時、私がかつて授業で「学生に先生の自殺の意味が分からないかも知れない理由」などと板書し、まことしやかに

「時勢の推移から來る人間の相違」

「箇人の有つて生れた性格の相違」

等と書いて意味深長にそれを考えることを促し、その癖、

↓(だったら仕方がない)

しかし分かってもらえるように「己を尽くした」

ず「私」には分かるのである!!![やぶちゃん注:板書でもサイド・ラインを引いた。]

などどまどろっこしいことをしていたのが恥ずかしくなってくるのである。

♡「私を生んだ私の過去は、人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。」これは、「私は私の過去を善惡ともに他(ひと)の參考に供する積です」と共に、

Ⅱ この遺書は「人間を知る上に於いて」意味あるもの、「他の參考に供」し得るものであり、この「私の過去を善惡ともに他の參考に供する」価値がある

これが先生の『最期の第2命題』『最期の第2公案』である。この遺書は、

先生の『かく私は生きた』という強い『正当にして正統なる自己存在』の自負の表明

であり、それはまた、先生が

将来のこの遺書公開を許諾するもの

と取ってよいのである。

♡「渡邊華山」「渡邊華山」について、ウィキの「渡辺崋山」より引用しておく。「華」は「崋」が正しい。渡辺崋山(寛政51793)年~天保121841)年)は『江戸時代後期の画家であり、三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった』。『江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町(現在の東京都千代田区の三宅坂付近)の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩の中でも上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通は養子であったために15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、加えて折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。さらに父定通が病気がちであったために医薬に多くの費用がかかったこともあり、幼少期は極端な貧窮の中に送った。日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。このありさまは、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しい。この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになった。のちに谷文晁(たにぶんちょう)に入門し、絵の才能は大きく花開くこととなり、20代半ばには画家として著名となり、生活にも苦労せずにすむようになった。一方で学問にも励み、田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学んだ。また、佐藤信淵からは農学を学んだ』。『藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。こういった生い立ちが崋山の藩主一家への親近感や一層の忠誠心につながっていった。16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕するが、納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目であった。文政6年(1823年)、田原藩の和田氏の娘・たかと結婚し、同8年(1825年)には父の病死のため32歳で家督を相続し、80石の家禄を引き継いだ(父の藩内の出世に合わせて、禄は復帰していた)。同9年には取次役となった』。『ところが、翌10年に藩主康明は28歳の若さで病死。藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から持参金つき養子を迎えようとした。崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。結局藩上層部の意思がとおって養子・康直が藩主となり、崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で藩首脳部と姫路藩と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保)を次の藩主とすることを承諾させている。また藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、こののちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望する際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山の死後の明治14年(1881年)に『崋山先生略伝補』として崋山の伝記を書き残している』。『天保3年(1832年)5月、崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任する。20代半ばから絵画ですでに名を挙げていた崋山は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわなかった』。『こうして崋山は、藩政改革に尽力する。優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。さらに農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行おうとした。永常はまず田原で稲作の技術改良を行い、特に鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながったといわれている。さらに当時諸藩の有力な財源となりつつあった商品作物の栽培を行い、特に温暖な渥美半島に着目してサトウキビ栽培を同地に定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。このほか、ハゼ・コウゾの栽培や蠟絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている』。『天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている』。『また、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合った。この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当している。その後この学問サークルはモリソン号事件とともにさらに広がりを見せ、蘭学者の長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などで深く議論するようになった。特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などの助言を受けている。こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある藤田東湖は、「蘭学にて大施主」と呼んでいる。崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちのリーダー的存在であるとみなしての呼び名である』。『しかし幕府の保守派、特に幕府目付鳥居耀蔵らはこれらの動きを嫌っていた。鳥居は元々幕府の儒学(朱子学)を担う林家の出であり、蘭学者が幕府の政治に介入することを好まなかったし、加えてそもそも崋山や江川も林家(昌平坂学問所)で儒学を学んだこともあり、鳥居からすれば彼らを裏切り者と感じていたともいわれる。天保10年(1839年)5月、鳥居はついにでっちあげの罪を設けて江川や崋山を罪に落とそうとした。江川は老中水野忠邦にかばわれて無事だったが、崋山は家宅捜索の際に幕府の保守的海防方針を批判し、そのために発表を控えていた『慎機論』が発見されてしまい、幕政批判で有罪となり、国元田原で蟄居することとなった。翌々年、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち(一説には藩内の反崋山派による策動とされている)、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。崋山に対する反崋山派の圧力はその死後も強く、また幕府の手前もあり、息子の渡辺小崋が家老に就任して家名再興を果たした後も墓を建立することが許されなかったという(江戸幕府が崋山の名誉回復と墓の建立を許可したのは、江戸幕府滅亡直前の明治元年315日(186847日)のことであった)。なお、小崋をはじめとする崋山の子女はいずれも子供に恵まれなかったために、明治期にその家系は断絶することになった』。『華山は年少の頃より生計を支える為に画業を志した。最初、大叔父の平山文鏡に画の手ほどきを受け、続いて白川芝山に師事したが付届けができないことを理由に破門された。これを憐れんだ父は、藩主の姻戚の家来というつてを頼って金子金陵に崋山の弟子入りを頼み、受け入れられた(崋山16歳)。金陵は崋山に眼をかけ、崋山の画力は向上した。このころ、初午灯篭の絵を描く内職を手がけた。崋山によれば百枚書いて、銭一貫だったというが、このときに絵を速く描く技術を身につけたことは、後年の紀行文中のスケッチなどに大きく役立ったであろうことがうかがえる』。『さらに、金陵の師である谷文晁にも教えを受けた。文晁は華山の才能を見抜き、画技のみならず文人画家としての手本となった。師の文晁に倣って南画のみならず様々な系統の画派を広く吸収した。文人画は清の惲南田に強く影響されている。また肖像画は陰影を巧みに用いて高い写実表現に成功している。西洋画の影響があったことは間違いないがかつて例のない独自の画法を確立させた。当時から華山の肖像画は人気があり多くの作品を画いた。代表作としては、「鷹見泉石像」・「佐藤一斎像」・「市河米庵像」などが知られる。弟子に椿椿山・福田半香などが育った』。但し、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の注によれば、ここで示される渡辺崋山の「邯鄲」の絵は笹川臨風が昭和151940)年高陽書院刊の「渡辺崋山」で遺作としては疑義を呈しており、『その出来映えについても原画に基づいた単なる「戯余の模写」とまで言っている』とある。

♡「邯鄲」唐代の800年頃に成立した伝奇小説「枕中記(ちんちゅうき)」に基づく南画。沈既濟(しんきせい)作。開元7(719)年のこと、栄達を望んで旅の途中の若者盧生(ろせい)が趙の旧都邯鄲の旅宿で道士の呂翁(りよおう)という老人と出逢い、彼の所持する不思議な青磁の枕を借りて午睡した。すると盧生はみるみる小さくなって枕の中へ――その後、成功した盧生は京兆尹(都の長官)となるが、政争の中で波乱万丈の人生を送り、失脚や雌伏の時代もあったものの、最後は返り咲いて宰相の地位を恣にし栄耀栄華の限りを尽くした一生を送って五十余年の長寿を全うして死んだ――と思ってふと気がついてみると、それは総てが一時の夢であって、旅宿の主人に頼んだ黍(きび・黄粱)の粥も未だ炊き上がってはいないのであった。盧生は現世の名利の儚さを悟って呂翁を礼拝して郷里へと帰る。人の世の栄枯盛衰のはかないことの譬えとして「邯鄲の夢」「盧生の夢」「黄粱一炊の夢」等の故事成句がここから生まれた。本作の最後を飾るに相応しい画題内容と言え、漱石は明らかにそうした意図で選んでいるように思われる。中国語繁体字原文は例えばこちら(小さな資料室室長氏の「小さな資料室」内の『沈既濟「枕中記」』)にある。中学時代から私の大好きな話であっただけに、高校時代にここを読んだ時は、人より「こゝろ」が分かったような気がして、何だか無性に嬉しくなったのを覚えている。

「然し私は今其要求を果しました。もう何にもする事はありません」私が冒頭で献辞した――「こゝろ」を総て暗記していて、私が求めれば即座にどんな場所でも朗々と暗誦してくれる、私にとっての学生の「私」たる私の教え子にして畏友たる――S君が、先日指摘してくれたことがある。彼のメール本文をまずはお示ししよう。

「もう何にもすることはありません」この言葉は先生が遺書を書き終えた時だけでなく、学生が論文を仕上げた時にも使われますね。どちらも解放感をもって口にされるのに、その次に待ち受けることの違いにいつも複雑な思いを抱きます。

――第(二十六)回で「私」が卒業論文を仕上げ、久しぶりに先生の宅を訪ねる。その時、

先生は嬉しさうな私の顏を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といつた。私は「御蔭で漸く濟みました。もう何にもする事はありません」と云つた。

とある。ここで先生は遺書を書き上げた直後に、このように

「もう何にもする事はありません」

と全く同じ言葉を記すのである。

私は迂闊であった。

このことに今日の今日まで気づかなかった。

――そうして以前からの或る疑問が氷解した気がした。――

「私の選擇した問題は先生の專門と縁故の近いものであつた。私がかつてその選擇に就いて先生の意見を尋ねた時、先生は好いでせうと云つた。狼狽した氣味の私は、早速先生の所へ出掛けて、私の讀まなければならない參考書を聞いた。先生は自分の知つてゐる限りの知識を、快よく私に與へて呉れた上に、必要の書物を二三冊貸さうと云つた」と助言を与えている。勿論、「然し先生は此點について毫も私を指導する任に當らうとしなかつた」ともあるが、少なくとも、ここでの先生は遺書の中で(第(百九)回)で述懐したように、先生自身が幾分か「外界の刺戟で躍り上が」った気分を味わえた数少ない一瞬でもあったはずである。「私」は、そうした信頼する先生からの僅かながらとはいえエールを得て、「馬車馬のやうに正面許り見て、論文に鞭たれた。私はつひに四月の下旬が來て、やつと豫定通りのものを書き上げる迄、先生の敷居を跨なかつた」程に相応の覚悟と自信を持って提出した卒論であったはずである。――

――しかしそれは、第(三十二)回冒頭で「私の論文は自分が評價してゐた程に、教授の眼にはよく見えなかつたらしい。それでも私は豫定通り及第した」と淋しく語られるものであった。――

――何故、漱石はあの部分で殊更にこの卒論のエピソードを挟んだのだろう?――

――実はこれが私の昔からのどうも妙に気になっている疑問であったのだ。

それが今、解けた。――

先生の遺書とは「私」への――論文とはかく書くものである――という模範解答であった

のである。

先生は「私」に先生自身の人生の卒業論文を提示しながら、これが本当の論文の書法であると「私」に開示した

のである。

漱石の作品群それ自体が、一種の小説についての小説技法論的性質を持ち、一個の創作文芸論でもあるという評価は以前からあったが、正に「心」=「こゝろ」とは――先生の遺書とは、そのようなものとして確信犯的にあるのではあるまいか?

そうした観点から見ると、

後に単行本「こゝろ」で区分けされる「上・中・下」構造の三段構成

先生の遺書自体の「叔父の裏切り・先生の裏切り・自決の決意」の序論・本論・結論の三段構成

上・中パートのホリゾントである「出逢いの鎌倉と東京・私の田舎・東京・田舎」の起・承・転・結構造

「先生の故郷の物語・先生と御嬢さんの物語・先生と御嬢さんとKの物語・先生の自決の物語」の起・承・転・結構造

更に細部を見れば、

房州行での内房の静謐から誕生寺の急展開、外房から両国への省筆の緩・急・緩

富坂下を0座標とする4象限構造

そこを中心に描かれるレムニスケート風の登場人物の描く曲線

先生の神経の「ぐるぐる」

鎌倉材木座海岸の円弧

ステッキの円

数珠の永劫周回――

等々……そして何よりも、

反発し或いは抱き合う先生とKの内実が「明治の精神」という高みで止揚(アウフヘーベン)される『摑み』としての極めてオリジナリティに富んだ結論の提示

――どこをとってみても、小説、いや、入試の難関大学合格小論文の作法としての典型を示しており、勘所を押さえた

「人の心」を出題課題とする小論文問題への『優れた』模範解答例

と言い得るのではあるまいか?……名作なんだから当たり前……だ?……昨今、「こゝろ」が名作であることに疑義を示す輩が雲霞のように、象牙の塔の腐った髄や、サイバーのチェレンコフの業火の溝泥の中から湧き出しておる。……では、「こゝろ」ぐらい面白い、そうして文学史上生き延び得る『名作小説』を、お前ら自身が書くに若くはあるまい……と私は言いたい気分で、最近は一杯なのである。

♡「然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の祕密として、凡てを腹の中に仕舞つて置いて下さい」この『最期の第3命題』『最期の第3公案』こそが我々にジレンマを与える。

Ⅲ 妻には一切知らせてはならない

その理由は

妻の記憶の中の私を純白にしておくためである

これは既に第(百六)回(=「こゝろ」下五十二)で示された「私はたゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋」せよ、に基づく

妻が生きている限り学生のみの知る秘密とせよ

という「私」に命ぜられた

絶対の禁則

なのである。

私はこれらの三つの命題を読む時、ある法律を思い出す。

1 A robot may not injure a human being or, through inaction, allow a human being to come to harm.

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

2 A robot must obey any orders given to it by human beings, except where such orders would conflict with the First Law.

第二条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。但し、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

3 A robot must protect its own existence as long as such protection does not conflict with the First or Second Law.

第三条 ロボットは、前掲第一条及び第二条に反する虞れのない限りに於いて、自己を守らなければならない。

御存知、アメリカのSF作家にして生化学者Isaac Asimovアイザック・アシモフ(1920年~1992年)が1940代に作中で示した“Three Laws of Robotics”ロボット工学三原則である。爾後の殆んどのSF作品や実際のロボット工学において、これは一種のセントラル・ドグマとして確立された。しかしそれはそれ内在する論理矛盾によって、幾多のロボットを苦しめ、更に鮮やかにこの法則を裏切る形で科学技術は進歩し、人工知能としてのロボットを不幸にしていった。私がしばしば授業で脱線して語るところの「鉄腕アトム」や「2001年宇宙の旅」の論理矛盾からノイローゼに罹って搭乗員を殺したHAL9000を思い出して欲しい。アンドロイドは電気羊の夢を見ることは、フランケンシュタインの怪物であったKが御嬢さんを愛したことからも分かるだろう……。

ここで示された先生の3命題のジレンマは、ある意味、このロボット三原則ジレンマに極めて近いと私は、今、思うのである。

以下、無駄な解説は、もう、やめよう。いつも君たちを悩ませた、あの謎めいた板書で、この「心」の永かった「やぶちゃんの摑み」も終わらせたいと思う。

   *

妻が生きている限り学生のみの知る秘密とせよ

この約束は守られているのである!

これは明白である。第(十二)回(「こゝろ」上十二)で「私」は確かに

「先生は美くしい戀愛の裏に、恐ろしい悲劇を持つてゐた。さうして其悲劇の何んなに先生に取つて見慘なものであるかは相手の奧さんに丸で知れてゐなかつた。奧さんは今でもそれを知らずにゐる。先生はそれを奧さんに隱して死んだ。先生は奧さんの幸福を破壞する前に、先づ自分の生命を破壞して仕舞つた。」[やぶちゃん注:下線部はやぶちゃん。]

それを「續こゝろ」として、変更させるのは勝手であるが、それは漱石の「こゝろ」ではなく、恣意的に歪曲した君の「續こゝろ」である。別作品である。それはたかが「續こゝろ」であるだろうし、されど「續こゝろ」でもあろう。しかし「續こゝろ」は決して「心」~「こゝろ」ではない――とのみ言うに留めおく。

   *

◎先生は如何なる方法で自殺したと考えられるか?

「妻に殘酷な恐怖を与へ」ず、「血の色を見せ」ず、「知らない間に、こつそり」と死ぬ方法である。妻に「頓死した」もしくは狂死したと思われて構わない方法である。私はそんな都合のいい、理想的な自殺法があるなら、今すぐにでも教えてもらいたい。かつて私は授業で「そうだなあ、一切の人物認識を示すものを捨てて、富士の樹海に入るかな?」

などという軽率な発言を繰り返してきた。しかし当時、富士の樹海は、そのような自殺の場所としては恐らく知られていなかった。他にもあの「私」との思い出の鎌倉の海に入水する(水死体の惨状を私が指摘して耳を塞いだ女生徒を思い出す)――三原山の火口に飛び込む(マグマ溜まりに飛び込むことはスーパーマンじゃなきゃ無理だ。大抵は有毒ガスで苦しんで苦しんで、干乾びたミイラみたようになって発見されるのは、こりゃ慄っとしないな)――なんどという答えを生徒から聞いた覚えもある。遺体の確認を靜にさせないという絶対条件をクリア出来る自殺方法など、ない。漱石はもともと先生の自死方法を想定していなかったと考えてよい。従って、これを考えるのはそれこそ、面白さをただ狙った下劣な授業の脱線に過ぎぬ。やめよう。

   *

◎学生は先生の秘密を一人で守り続けることが出来るか?

守り続けることは苦痛である。且つ、「私」はこの後も未亡人となった靜を労わり、その生活をことあるごとに見守り続けるであろう。縁を断たずに、この禁則を守ることは大いなる苦痛ではある。しかし、彼は守る。確かに守った。それ以外の選択肢は、私には、ないとここに明言する。靜と「私」の結婚などというおぞましい「續こゝろ」は誰かの勝手な妄想であって、私の世界にはそんな選択肢はあり得ない。禁則を守って靜との夫婦生活=性生活を送ることは、私には不可能であり、更に先生の過去を洗い浚い喋った上で靜を抱くことも私には出来ないそれが平然と出来る男だけが――そういう男も、そしてそれで平然と抱かれて幸せだと思う靜も――私にとって「私」ではなく、「靜」ではないということである。この件については幾らでも反論出来、議論も可能だが、私の魂が生理的に嫌悪する。だからここまでで留め置くこととしたい。

   *

◎奥さんは真相を知らないでいることの方が幸福であるか?

分からない。しかし先生なき後、私は靜が真相を知ったとしたら、靜がどのような人間(女とは敢えて言わぬ)であったとしても、私は先生の生前に感じていたものとは違う。黒い影を靜は抱えてゆくことになると思う。何故なら、真相の暴露は靜自身の内実において靜自身をも断罪することに発展する可能性が極めて高いと私は思うからである。

   *

◎「明治の知識人」としての先生及びKとは如何なる存在であったか? その使命感そしてその苦悩は如何なるものであったか?

これは無数の論文が日本中、世界中(主にキリスト教的人道主義の観点から)に目白押しに溢れかえっている。森鷗外と並べて「明治の知識人」=西欧近代的個人を語るのなら、その腐臭を放つほどに堆積しているアカデミズムの論文を読むに若くはない。ただ、それが君に真に豊かな『智』を保証してくれるかどうかは別問題である。無駄とは言わない。しかしきっとそうする君を、先生は黙ってにやにや見ているだけだろう。しかし、大学で論文にするなら、それに触れなければ、担当教官はKのように哀れみを含んだ軽蔑の眼(まなこ)で君を見るであろう。こんなことは既に先生自身が十全に語ってきたことだ――。

   *

◎新しき世代としての「私」(学生=読者である私達)は先生の人間としての在り方、苦悩を理解したか?

遂に理解出来なかったのだとする評論家が結構いることは事実だ。――しかし、だったら「心」という小説は、最早、読まれる必要はない。そんな解釈は本作そのものを完全に無化してしまう。もしそれが真実なら本作は既に已に、生物であるか無生物であるかも判別できない化石だということになる。

   *   *   *

板書――

「心」は秘密の共有という入子構造としての小説である

  先生  

↓●秘密「先生の遺書」

 私=学生 

↓●秘密の小説としての「心」

 先生のそして学生の二人だけの秘密を唯一知っている読者である「あなた」 

そして

 先生は死ぬことによって「私」の中に生きる――大いなる永遠の謎と共に―― 

 私=学生の中に 

↓そして

 読み手である「あなた」の中に 

 

……「こゝろ」は、秘密の共有という入子構造としての小説である。一人称「私」で語りかける先生の秘密としての「遺書」を読む「私」(学生)は、その『秘密としての』小説「こゝろ」を読む、先生の、そして学生の『秘密を唯一知っている』あなた独り(単体としての読者である「私」=あなた独りだ!)へと重ね合わされてゆく。そしてそれを担うことの痛みをも、同時に読者『一人独り』(「一人ひとり」では断じてない)に強いるのである。

 私(先生)は死ぬことによって生きる。私(学生)の中に。――読み手である、それを唯一知っている私(あなた)だけの中に。――大いなる「己れ」の永遠の円環的謎と共に――。(やぶちゃんの『「こゝろ」マニアックス』の『秘密を共有することの痛み-「こゝろ」考 書き捨て』末尾)]

心 先生の遺書(五十五)~(百十) 附やぶちゃんの摑み 完

大正3(1914)年『東京朝日新聞』連載 夏目漱石「心」 完

2010/08/10

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月10日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百九回

Kokoro16   先生の遺書

    (百九)

 「死んだ積で生きて行かうと決心した私の心は、時々外界の刺戟(しげき)で躍り上がりました。然し私が何(ど)の方面かへ切つて出やうと思ひ立つや否や、恐ろしい力が何處からか出て來て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないやうにするのです。さうして其力が私に御前は何をする資格もない男だと抑へ付けるやうに云つて聞かせます。すると私は其一言(げん)で直(すぐ)ぐたりと萎(しを)れて仕舞ひます。しばらくして又立ち上がらうとすると、又締め付けられます。私は齒を食ひしばつて、何で他(ひと)の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷かな聲で笑ひます。自分で能く知つてゐる癖にと云ひます。私は又ぐたりとなります。

 波瀾も曲折もない單調な生活を續けて來た私の内面には、常に斯(かう)した苦しい戰爭があつたものと思(おもつ)て下さい。妻(さい)が見て齒痒がる前に、私自身が何層倍齒痒い思ひを重ねて來たか知れない位(くらゐ)です。私がこの牢屋の中に凝としてゐる事が何うしても出來なくなつた時、又その牢屋を何うしても突き破る事が出來なくなつた時、必竟私にとつて一番樂な努力で遂行出來るものは自殺より外にないと私は感ずるやうになつたのです。貴方は何故と云つて眼を睜(みは)るかも知れませんが、何時も私の心を握り締めに來るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道丈を自由に私のために開けて置くのです。動かずにゐれば兎も角も、少しでも動く以上は、其道を歩いて進まなければ私には進みやうがなくなつたのです。

 私は今日(こんにち)に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も樂な方向へ進まうとした事があります。然し私は何時でも妻に心を惹(ひ)かされました。さうして其妻を一所に連れて行く勇氣は無論ないのです。妻に凡てを打ち明ける事の出來ない位な私ですから、自分の運命の犠牲として、妻の天壽を奪ふなどゝいふ手荒な所作は、考へてさへ恐ろしかつたのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻(まは)り合せがあります。二人を一束(ひとたば)にして火に燻(く)べるのは、無理といふ點から見ても、痛ましい極端としか私には思へませんでした。

 同時に私だけが居なくなつた後(のち)の妻を想像して見ると如何にも不憫でした。母の死んだ時、是から世の中で賴りにするものは私より外になくなつたと云つた彼女の述懷を、私は膓(はらわた)に沁み込むやうに記憶させられてゐたのです。私はいつも躊躇しました。妻の顏を見て、止して可かつたと思ふ事もありました。さうして又凝(ぢつ)と竦(すく)んで仕舞ひます。さうして妻から時々物足りなさうな眼で眺めらるのです。

 記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散歩した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後(うしろ)には何時でも黑い影が括(く)ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を歩いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、嘘を吐(つ)いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度(きつと)會ふ積でゐたのです。

 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな氣がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可(よ)からうと調戲(からか)ひました。

Line

やぶちゃんの摑み:……先生……此處には私の想像を絶する先生の内的葛藤が語られてゐます……先生はおつしやいます……二三度自殺を考へたこともあつたと……そして何故死ななかつたのかと言へば、それは至つて單簡な理由であつたと……「妻のために」常に思ひ留まつたのだと……「Kのために」と言ひ、「妻のために」と言ふ先生……私はこの言葉が嘘だとは思ひません……先生の内實にとつて、それは確かな眞理であつたと思ひます……思ひますが……先生、私は何處かで、この『誰々のために』と云ふあなたの言ひ回しに、53歳にもなつてしまつた今、或る種の胡散臭さを私は感じずにはゐられないのです……それは仕方がないことなのかも知れない……長い年月を生きてしまつて、嘗ての汚れたあなたよりも、更に猜疑心に富み、疑り深く、汚れてしまつた、この私の考へることなのですから……然し……然しですよ、先生……汚れてゐる筈の、この私が何故、先生、あなたのこの『誰々のために』と云ふ言葉に、或る種、何とも言へない生臭い生理的な嫌惡感を抱かねばならないのでせうか……それを考へてみて欲しいのです……いや、先生、あなたにです……濟みません、先生……つい最後に、私の自然が叫ぶ微かな不滿が口を突いて出て仕舞ひました……それでも、先生……私は、先生を愛してゐます……

♡「私は今日に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も樂な方向へ進まうとした事があります。然し私は何時でも妻に心を惹かされました。さうして其妻を一所に連れて行く勇氣は無論ないのです。妻に凡てを打ち明ける事の出來ない位な私ですから、自分の運命の犠牲として、妻の天壽を奪ふなどゝいふ手荒な所作は、考へてさへ恐ろしかつたのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻り合せがあります。二人を一束にして火に燻べるのは、無理といふ點から見ても、痛ましい極端としか私には思へませんでした」この叙述は乃木大将の自決に妻靜子が従ったことを念頭に置いている。但し、乃木の場合は次章の遺書をお読みになれば分かる通り、靜を「一所に連れて行く」気は全くなかった。靜子は恐らく乃木の自決の日直前に彼女自身から殉死の供を懇請したものと思われる。彼女の遺体には胸部に4箇所の刺創があり、先に乃木の介錯で逝ったとも、乃木の遺体に比して体温があったことから乃木自害後の自死とも伝えられているが、事実は前者であったものらしい。

♡「記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです」先生の再開示である。これは遺書の初め、第(六十三)回の冒頭「一口でいふと、伯父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出てゐる三年の間に容易く行なはれたのです。凡てを伯父任せにして平氣でゐた私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません。然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう。」と照応して、この遺書全体の額縁を成している。そしてそれは先生の「命令」なのである。この額縁の中をまず記憶せよ!――即ち、額縁の外にある叔父の裏切りやこの後の先生の自死に至る急転の事態、そこでの決断と意味よりも――まず、私のこの御嬢さん(靜)とKに纏わる半生を記憶せよ!――と命じているのである。

♡「九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、嘘を吐いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度會ふ積でゐたのです」この台詞は私は朗読する都度にじーんと来る。先生の「私」への無限の優しさが伝わってくる。朗読の摑みの部分である。ここで聞き手を涙させない朗読者は、朗読を辞めたがいい。君には朗読の才能がない。全くない。

♡「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな氣がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」先生にとっての明治天皇の死というもの――それが形而上的に意味するところのものが、靜を巡るKとの個別的次元をベースとして、そのメタなレベルで突如として示される。Kと先生とは正に『明治の精神』の只中に生きた――その終焉がやって来た――「最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」――この台詞に着目せよ!――この「私ども」とはどの複数者であるか?――不特定多数の先生の同世代の明治人か?――もっと限定された同時代の高等教育を受けたインテリゲンチア(知識人)か?――明治日本の近代化を荷った西欧的近代的個人の洗礼を受けた(成りきったわけではなかった)明治の一握りの選ばれし日本人か?

違う!

――「最も強く明治の影響を受けた私ども」とは、誰でもない、Kと先生の二人である――

Kは死んでしまっているって? いや、しっかりと先生の中に――靜の影に――Kは、いるのだ。Kは先生と共に生きているのだ! だから「私ども」とは先生とK以外の何者でもないのである!

以下は私の板書。

☆「明治の影響」とは如何なるものであったか?

☆「明治の精神」とは如何なるものであったか?

☆何故に先生は「必竟時勢遅れ」であると言うのか?

……甘ったれるんじゃねえぜ! これは「やぶちゃんの好き勝手思い付き遣り放題遣りっ放し我儘牽強付会憤懣不快千万何でもありの摑み」なんだ! 何でも答えてくれると思うな! しかし、いいか! お前の、その乏しい知識で、考えちゃいけない! ブルース・リーだ! 考えるな! 感じるんだ!

♡「私は明白さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可からうと調戲ひました」ここに靜の台詞が突如として現れ、それをジョイントとして、次章の自死の決意が示されるという展開は、今まで殆んど議論されて来なかった(一部の論文で問題にしているものを読んだことはある。しかし、私は全く個人的に以下に示すような理由からオリジナルにそう考えてきた)ある一つの解釈を可能としている。それは靜の「殉死でもしたら可からう」という冗談の示唆が、先生にとっても勿論冗談ながらも、一つの先生の自死の具体的指針、自決の実行行為の初動動機として働いたという可能性である。私は現在、この考え方を支持している。靜は、勿論100%冗談で言った。しかし、それは、「靜のために」自死を堪(こら)えて来た先生に、

靜が始めて

「私独りを置いて先にお死になさってもいいですわ」

「自決なさってもいいのよ」

という仮想的許諾をしたのだ

という無意識の認知を心的に形成させた可能性がある

ということである。いや、私には、これは突飛でも何でもないのである。寧ろ、そう考えてこそ、最後の章で何故、先生が突如として自死を決意するかが、私には逆に、すんなりと落ちてくる、とさえ言えるのである。なお、実は「殉死」と言う言葉は本作品で、ここで始めて使われるということも押えておかなくてはならない。漱石は『ずっとこの最後まで「殉死」という語を敢えて暖め続けて来た』ということは、間違いない確信犯的事実なのである。]

2010/08/09

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月9日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百八回

Kokoro16_9   先生の遺書

    (百八)

 「其内妻の母が病氣になりました。醫者に見せると到底癒らないといふ診斷(しんたん)でした。私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。是は病人自身の爲でもありますし、又愛する妻の爲でもありましたが、もつと大きな意味からいふと、ついに人間の爲でした。私はそれ迄にも何かしたくつて堪らなかつたのだけれども、何もする事が出來ないので己(やむ)を得ず懷手(ふところで)をしてゐたに違ありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善(い)い事をしたといふ自覺を得たのは此時でした。私は罪滅ぼしとでも名づけなければならない、一種の氣分に支配されてゐたのです。

 母は死にました。私と妻はたつた二人ぎりになりました。妻は私に向つて、是から世の中で賴りにするものは一人しかなくなつたと云ひました。自分自身さへ賴りにする事の出來ない私は、妻の顏を見て思はず涙ぐみました。さうして妻を不幸な女だと思ひました。又不幸な女だと口へ出しても云ひました。妻は何故だと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを説明してやる事が出來ないのです。妻は泣きました。私が不斷からひねくれた考で彼女を觀察してゐるために、そんな事を云ふやうになるのだと恨みました。

 母の亡くなつた後(あと)、私は出來る丈妻を親切に取り扱かつて遣りました。たゞ當人を愛してゐたから許りではありません。私の親切には箇人(こじん)を離れてもつと廣い背景があつたやうです。丁度妻の母の看護をしたと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。妻は滿足らしく見えました。けれども其滿足のうちには、私を理解し得ないために起るぼんやりした稀薄な點が何處かに含まれてゐるやうでした。然し妻が私を理解し得たにした所で、此物足りなさは増すとも減る氣遣はなかつたのです。女には大きな人道の立塲から來る愛情よりも、多少義理をはづれても自分丈に集注される親切を嬉しがる性質(せいしつ)が、男よりも強いやうに思はれますから。

 妻はある時、男の心と女の心とは何うしてもぴたりと一つになれないものだらうかと云ひました。私はたゞ若い時ならなれるだらうと曖昧な返事をして置きました。妻は自分の過去を振り返つて眺めてゐるやうでしたが、やがて微かな溜息を洩らしました。

 私の胸には其時分から時々恐ろしい影が閃めきました。初めはそれが偶然外から襲つて來るのです。私は驚ろきました。私はぞつとしました。然ししばらくしてゐる中に、私の心が其物凄い閃めきに應ずるやうになりました。しまひには外から來ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでゐるものゝ如くに思はれ出して來たのです。私はさうした心持になるたびに、自分の頭が何うかしたのではなからうかと疑つて見ました。けれども私は醫者にも誰にも診て貰ふ氣にはなりませんでした。

 私はたゞ人間の罪といふものを深く感じたのです。其感じが私をKの墓へ毎月行かせます。其感じが私に妻の母の看護をさせます。さうして其感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私は其感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいと迄思つた事もあります。斯うした階段を段々經過して行くうちに、人に鞭(むちう)たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだといふ氣になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだといふ考へが起ります。私は仕方がないから、死んだ氣で生きて行かうと決心しました。

 私がさう決心してから今日(こんにち)迄何年になるでせう。私と妻とは元の通り仲好く暮して來ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。然し私の有つてゐる一點、私に取つては容易ならん此一點が、妻には常に暗黑に見えたらしいのです。それを思ふと、私は妻に對して非常に氣の毒な氣がします。

Line_8

 

やぶちゃんの摑み:奥さん(靜の母)が死ぬ。この奥さんの病気はやはり腎臓病であった(二十一)。奥さんが死んだ、その通夜の二人きりの場面が、また哀しい。

靜 「(両の目の涙を押さえながら)……これから世の中で頼りにするものは、一人しか、なくなりました……」

 靜、先生を見る。先生、靜を見る。先生の両の目から一筋の涙。間。

先生「……お前は……不幸な女だ……」

靜 「……何故です……」

 先生、眼を伏せ、膝を見る。靜、泣く。泣きながら、

靜 「……あなたは……あなたは、普段から、そうした、ひねくれたお考え方ばかり……そんなお考えで私を見ているから……だから……だから、そんなことをおっしゃるんだわ……」

♡「女には大きな人道の立塲から來る愛情よりも、多少義理をはづれても自分丈に集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いやうに思はれます」先生の女性観は直に漱石の女性観と言ってよい。これは漱石の他作品にも顕著な傾向である。この漱石自身の女性観の限界性を批判的に鑿岩することが、新しい「心」論の地平を開くと私は思って止まない。即ち、「先生」論や学生の「私」論なんどは、多かれ少なかれ有象無象のへっぽこ文学者や私のような「こゝろ」フリークに、掘らんでも好いところまでテッテ的に掘られて、メッキが剥げ、地肌のトタンまで穴だらけにされてしまっているということである。これからの「こゝろ」を愛する若者たちには――特に女学生には――是非、

「靜」論

「奥さん」論

を展開して貰いたいというのが、やぶちゃんの、大いなる希望と期待なのである。かつての私の教え子であった女生徒は美事な「靜論」を展開してくれた。私のHPの『高校生による「こゝろ」講義後小論文(全三篇)』の二篇目、最後に(一九九九年十二月執筆 女子 copyright 1999-2006 Yabtyan-osiego)のクレジットを附したものである。是非とも読んで頂きたい。

若者よ! これから高校2年生の感想文を書かんとする者たちよ! 靜を! 奥さんを大いに語るべし!

♡「私の胸には其時分から時々恐ろしい影が閃めきました。初めはそれが偶然外から襲つて來るのです。私は驚ろきました。私はぞつとしました。然ししばらくしてゐる中に、私の心が其物凄い閃めきに應ずるやうになりました。しまひには外から來ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでゐるものゝ如くに思はれ出して來たのです。私はさうした心持になるたびに、自分の頭が何うかしたのではなからうかと疑つて見ました。けれども私は醫者にも誰にも診て貰ふ氣にはなりませんでした」かなり精神医学の教科書のような強迫神経症的な描写と読めるが、本人に病識があり、受診せずに放置していた割りには、その後はある程度、軽快したもののように思われる。少なくとも「私」との交際時には、このような症状が増悪している様子は全く感じられないからである。

♡「私はたゞ人間の罪といふものを深く感じたのです。其感じが私をKの墓へ毎月行かせます。其感じが私に妻の母の看護をさせます。さうして其感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私は其感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいと迄思つた事もあります。斯うした階段を段々經過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだといふ氣になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだといふ考へが起ります」これが先生が学生の「私」に出逢うまでの先生の人間観・人生観の総括であり、先生の内なる罪障感・孤独感の表明と開示であった。ここで先生が、

「私はたゞ人間の罪といふものを深く感じた」

『人間』と言っている点に着目しておかなくてはならない。先生は自己の個人的個別的事実を哲学的普遍的真理として我々に突き付けてきたのである。

♡「私は仕方がないから、死んだ氣で生きて行かうと決心しました」大事な摑みである。「心

は後、2章しかないのだ! 先生は、遺書のこの期に至っても、未だ自殺の決意をしていない――それどころか「死んだ氣で生きて行かうと決心し」ているのだ!!! 一体、これは遺書なのか? 遺書であるのならば、何故、先生は自死が決意出来るのか?! 即ち、ここまで読まされてきた中には、先生の自死の決定的理由は、実に示されていないのだということに気づかねばならない!

♡「私がさう決心してから今日迄何年になるでせう。私と妻とは元の通り仲好く暮して來ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした」ここまでの簡単な推定年譜を示す(詳細は私の『「こゝろ」マニアックス』末尾の三種の年譜を参照されたい)。年齢は先生の数え年である。

□明治34(1901)年  24歳

    2月 中旬頃、K自殺。

    5月 奥さんと靜と共に現在の家に転居。

    7月 大学を卒業。

   12月 靜(19歳)と結婚。

□明治36(1903)年  26歳

      奥さん、腎臓病のため死去。

      【この間、推定5年経過】

□明治41(1908)年  31歳 *靜27歳。

   8月 鎌倉海岸にて語り手「私」(20歳)と出会う。

     【この間、推定4年経過】

□明治45(1912)年  35歳

    7月30日(火) 明治天皇崩御。

従って、先生が「死んだ氣で生きて行かうと決心し」てから遺書を執筆している「今日迄」となると、これは最低で5~6年、最長でも奥さんの病死後で9年弱、10年を超えることは決して、ないのである。]

2010/08/08

シリエトク日記3 ホテル「地の涯」

8月1日(日)

シリエトク=知床というのは、アイヌ語で「地の涯(は)て」という意味なんだ――

さて今日の泊りは知床岩尾別温泉――知床は羅臼岳の麓にある一軒宿だ――

秘境知床の根元に唯一食い込んだ一軒宿――

その名は……!……

Tinohate

シリエトク日記2「私は見た! 確かにジュラ紀の生物だ!」

Goddira

8月1日(日)

「私は見た! 確かにジュラ紀の生物だ!」

――山根博士! 私は確かにウトロの海岸に屹立するゴジラの化石を発見しました!

――これはね、本当に「ゴジラ岩」っていうんだよ!

シリエトク日記1 護憲橋

8月1日(日)

ウトロ行バスが斜里のバスターミナルから出て、2~3分、左側の車窓から漫然と眺めてると、数メートルの小さな橋があって、普通の架橋名の掲示板があった。

――「護憲橋」――

目を疑った――が、確かに何処にでもある普通の公けの表示板にちゃんと――「護憲橋」とある!

何がさて――僕は座席の上で飛び跳ねたほどに嬉しくなったのだ――

嘘や見間違いではないよ。5日の帰り道でもしっかりチェックしたんだ。

確かに「護憲橋」だった!

帰ってからネットでチェックした。

ありました、ありました!

こちらの「てんこく9条(篆刻憲法九条)」さんのブログ写真を、御覧あれ!

ほらね! 「護憲橋」! 

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月8日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百七回

Kokoro16_8   先生の遺書

    (百七)

 「書物の中に自分を生理(いきうめ)にする事の出來なかつた私は、酒に魂を浸して、己れを忘れやうと試みた時期もあります。私は酒が好きだとは云ひません。けれども飮めば飮める質(たち)でしたから、ただ量を賴みに心を盛り潰さうと力(つと)めたのです。此淺薄な方便(はうべん)はしばらくするうちに私を猶厭世的にしました。私は爛醉(らんすゐ

の眞最中に不圖自分の位置に氣が付くのです。自分はわざと斯んな眞似をして己れを僞つてゐる愚物(ぐぶつ)だといふ事に氣が付くのです。すると身振ひと共に眼も心も醒めてしまひます。時にはいくら飮んでも斯うした假裝状態にさへ入り込めないで無暗に沈んで行く塲合も出て來ます。其上技巧で愉快を買つた後(あと)には、屹度(きつと)沈鬱な反動があるのです。私は自分の最も愛してゐる妻と其母親に、何時でも其處を見せなければならなかつたのです。しかも彼等は彼等に自然な立塲から私を解釋して掛ります。

 妻の母は時々氣拙(きまづ)い事を妻に云ふやうでした。それを妻は私に隱してゐました。然し自分は自分で、單獨に私を責めなければ氣が濟まなかつたらしいのです。責めると云つても、決して強い言葉ではありません。妻から何か云はれた爲に、私が激した例(ためし)は殆どなかつた位(くらゐ)ですから。妻は度々何處が氣に入らないのか遠慮なく云つて呉れと賴みました。それから私の未來のために酒を止めろと忠告しました。ある時は泣いて「貴方は此頃人間が違つた」と云ひました。それ丈なら未可(まだい)いのですけれども、「Kさんが生きてゐたら、貴方もそんなにはならなかつたでせう」と云ふのです。私は左右かも知れないと答へた事がありましたが、私の答へた意味と、妻の了解した意味とは全く違つてゐたのですから、私は心のうちで悲しかつたのです。それでも私は妻に何事(なにこと)も説明する氣にはなれませんでした。

 私は時々妻に詫(あや)まりました。それは多く酒に醉つて遲く歸つた翌日(あくるひ)の朝でした。妻は笑ひました。或は默つてゐました。たまにぽろ/\と涙を落す事もありました。私は何方にしても自分が不愉快で堪まらなかつたのです。だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのと詰(つ)まり同じ事になるのです。私はしまひに酒を止めました。妻の忠告で止めたといふより、自分で厭になつたから止めたと云つた方が適當でせう。

 酒は止めたけれども、何もする氣にはなりません。仕方がないから書物を讀みます。然し讀めば讀んだなりで、打ちやつて置きます。私は妻から何の爲に勉強するのかといふ質問を度々受けました。私はたゞ苦笑してゐました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益(ます/\)悲しかつたのです。私は寂寞(せきばく)でした。何處からも切り離されて世の中にたつた一人住んでゐるやうな氣のした事も能くありました。

 同時に私はKの死因を繰返し/\考へたのです。其當座は頭がたゞ戀の一字で支配されてゐた所爲(せゐ)でもありませうが、私の觀察は寧ろ簡單でしかも直線的でした。Kは正しく失戀のために死んだものとすぐ極めてしまつたのです。しかし段々落ち付いた氣分で、同じ現象に向つて見ると、さう容易(たやす)くは解決が着かないやうに思はれて來ました。現實と理想の衝突、―それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のやうにたつた一人で淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決(しよけつ)したのではなからうかと疑ひ出しました。さうして又慄(ぞつ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じやうに辿(たど)つてゐるのだといふ豫覺が、折々風のやうに私の胸を横過(よこぎ)り始めたからです。

Line_7 

やぶちゃんの摑み:

♡「酒に魂を浸して、己れを忘れやうと試みた時期もあります」Kを忘れる事が出来ないという強迫観念を駆逐する手段の第2番目である。先生は忘憂物たる酒に溺れようとする。しかし酩酊の最中の覚醒が自責を生み出し、それに加えて飲酒による(短期のものであって病的ではない)抑鬱状態が顕著に現れるようになった。飲めば飲める性質であった以上、早期に節酒(「私」とビールを飲むこともあったから、完全な断酒ではない)を行ったのは幸いしたと言えるであろう。このまま飲酒を続けていたらば、恐らくアルコール性精神病に発展し、それこそ自身の意識とは無関係に衝動的な自傷や他虐行動を発症し、精神病院送致や先生が望まない惨めな「頓死」となった可能性もないとは言えないからである。

♡「然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益悲しかつたのです。私は寂寞でした。何處からも切り離されて世の中にたつた一人住んでゐるやうな氣のした事も能くありました」これは酷(むご)い。靜に酷い。何故なら、この先生のジレンマは、先生が真実を告白しない限り、根こそぎされない問題であって、奥さんには全く以って無理な要求であるからである。――勿論、それに先生は気づいてはいる――だからこそ「理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益悲しかつたのです」と付け加えるのであるが。先生の絶対の孤独感は最早救いようがないように見える。先生にもそう見えた――のであった。しかし、そこに――その絶対の孤独者であると思っていた先生のもとに――一人の救世主が現れたのであった――

♡「と云つた方が適當でせう。」底本ではこの最後の句点「。」は、実際には勾玉のような形をした白抜き記号であるが、示し得ないので句点とした。

♡「同時に私はKの死因を繰返し/\考へた」Kの死に対する私の解釈の変容過程が示される。以下、私の板書。

△「失戀のため」

☆先生は『私の裏切りのため』とは言っていない点に注意!

↓(あの自死はそんな単純な理由では理

↓ 解出来るような行為ではない~「失

↓ 戀」を理由として排除したわけでは

↓ ない点に注意!)

○「現實と理想の衝突」

↓(この説明では不十分~「現實と理想

↓ の衝突」を理由として排除したわけ

↓ ではない点に注意!)

◎「Kが私のやうにたつた一人で淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決(しよけつ)したのではなからうか」という結論に至る[やぶちゃん注:下線はやぶちゃん。]

↓そうしてKの自死の場で感じたのと同じように「又慄とした」何故なら

「私もKの歩いた路を、Kと同じやうに辿つてゐるのだといふ豫覺」を持ってしまったから

『「Kが」「たつた一人で淋しくつて仕方がなくなつた結果」自死したように「今の私」も「たつた一人で淋しくつて仕方がな」い、そしてその「結果、」私も自死するしかないのではないか』という先生の観念こそ、「心」の核心である。ここを摑まずんばあらず!

2010/08/07

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月7日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百六回

Kokoro16_7   先生の遺書

    (百六)

 「私の亡友に對する斯うした感じは何時迄も續きました。實は私も初からそれを恐れてゐたのです。年來の希望であつた結婚すら、不安のうちに式を擧げたと云へば云へない事もないでせう。然し自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによると或は是が私の心持を一轉して新らしい生涯に入る端緒(いとくち)になるかも知れないとも思つたのです。所が愈(いよ/\)夫として朝夕妻と顏を合せて見ると、私の果敢ない希望は手嚴しい現實のために脆くも破壞されてしまひました。私は妻と顏を合せてゐるうちに、卒然Kに脅(おびや)かされるのです。つまり妻が中間に立つて、Kと私を何處迄も結び付けて離さないやうにするのです。妻の何處にも不足を感じない私は、たゞ此一點に於て彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐ夫が映ります。映るけれども、理由(りゆ)は解らないのです。私は時々妻から何故そんなに考へてゐるのだとか、何か氣に入らない事があるのだらうとかいふ詰問を受けました。笑つて濟ませる時はそれで差支ないのですが、時によると、妻の癇(かん)も高じて來ます。しまひには「あなたは私を嫌つてゐらつしやるんでせう」とか、「何でも私に隱してゐらつしやる事があるに違ない」とかいふ怨言(ゑんげん)も聞かなくてはなりません。私は其度(そのたび)に苦しみました。

 私は一層(いつそ)思ひ切つて、有の儘を妻に打ち明けやうとした事もあります。然しいざといふ間際(まきは)になると自分以外のある力が不意に來て私を抑へ付けるのです。私を理解してくれる貴方の事だから、説明する必要もあるまいと思ひますが、話すべき筋だから話して置きます。其時分の私は妻に對して己(おのれ)を飾る氣は丸でなかつたのです。もし私が亡友(ぼういう)に對すると同じやうな善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違ないのです。それを敢てしない私に利害の打算がある筈はありません。私はたゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫(ひとしづく)の印氣(いんき)でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい。

 一年經つてもKを忘れる事の出來なかつた私の心は常に不安でした。私は此不安を驅逐するために書物に溺れやうと力(つと)めました。私は猛烈な勢ひをもつて勉強し始めたのです。さうして其結果を世の中に公(おほやけ)にする日の來るのを待ちました。けれども無理に目的を拵えて、無理に其目的の達せられる日を待つのは嘘ですから不愉快です。私は何うしても書物のなかに心を埋(うづ)めてゐられなくなりました。私は又腕組(うでぐみ)をして世の中を眺めだしたのです。

 妻はそれを今日に困らないから心に弛(ゆる)みが出るのだと觀察してゐたやうでした。妻の家にも親子二人位(くらゐ)は坐つてゐて何うか斯うか暮(くれ)して行ける財産がある上に、私も職業を求めないで差支のない境遇にゐたのですから、さう思はれるのも尤もです。私も幾分かスポイルされた氣味がありませう。然し私の動かなくなつた原因の主(おも)なものは、全く其處にはなかつたのです。叔父に欺むかれた當時の私は、他(ひと)の賴みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を惡く取る丈あつて、自分はまだ確な氣がしてゐました。世間は何うあらうとも此已(おれ)は立派な人間だといふ信念が何處かにあつたのです。それがKのために美事に破壞されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらぶらしました。他に愛想(あいそ)を盡かした私は、自分にも愛想を盡かして動けなくなつたのです。

Line_6

やぶちゃんの摑み:先生はKに対する内なる秘めた自責の念がいつまでも続くことを初めから恐れていた。この罪障感が永続することを危惧するという意識そのものが、先生の中に『Kに纏わる総てのことを決して何時までも――死んでも――忘れることは出来ないのだ』という刷り込み意識として機能し、逆に癌のように固着増殖したのであると解釈出来よう。

♡「私は妻と顏を合せてゐるうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり妻が中間に立つて、Kと私を何處迄も結び付けて離さないやうにするのです」見えざる、されど感じられるKの霊存在が示される部分である。勿論、これは比喩としての謂いであるが、しかし、先生にそれは「霊」ですね? と問うのと――それは先生の強迫観念から生じた関係妄想としての幻影感覚ですね? と訊ねるのと――先生はどっちを選ぶであろう。

「藪野君、それは確かに靈と表現する方が至當でせう」

と先生は答えて呉れるはずである。以下、ここの板書。

★見え過ぎてしまう悲痛(Ⅱ)

 先生 

 ⇓

 妻 

 K 

♡「妻の何處にも不足を感じない私は、たゞ此一點に於て彼女を遠ざけたがりました」この叙述から、先生と靜は婚姻直後から全くのセックスレスの夫婦であったと私は現在思っている。以前は、結婚当初にはある程度の性生活があったと私は考えていたが、今回、全篇を読み直し、摑みを書くうちに、確信に至った。以下の靜の先生への愁訴から見ても、先生と靜は完全真正の(それは皮肉にも先生の言うところの『神聖な愛』に通底することとなる)セックスレスの夫婦であると断定する。私は平然とこの見解を高校2年生の授業で発言してきた。それを嫌った生徒もいたであろう。しかし、それを言わずして、「心」の世界は開かない。巧みに隠された「心」の『性』の問題を隠蔽して「心」の『生』の核心に至ることは不可能であると知れ! そもそも靜の背後にKの影を見るような心理状態で靜を抱ける君は、「心」を読む資格がない! こんな心理状態の先生が靜とコイツスが出来ると考える方が笑止千万板金塗装物騒形相妖怪変化である! セックス出来るという奴は、性生活のデリカシーをまるで解さない、野獣か馬鹿者の謂いであると、ここで切り捨てておく。

♡「理由(りゆ)」原稿も同じ。単行本「こゝろ」で「理由(りいう)」となる。歴史的仮名遣としては単行本が正しい。

♡「私を理解してくれる貴方の事だから、説明する必要もあるまいと思ひますが、話すべき筋だから話して置きます。其時分の私は妻に對して己を飾る氣は丸でなかつたのです。もし私が亡友に對すると同じやうな善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違ないのです。それを敢てしない私に利害の打算がある筈はありません。私はたゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい」ここで遂に先生が真実を奥さんに打ち明けない理由が明らかに示される。しかしそれは「たゞ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかつたから」という一言なのである。これは先に挙げたKの自死直後の「けれども女に此恐ろしい有樣を見せては惡いといふ心持がすぐ私を遮ります。奥さんは兎に角、御孃さんを驚ろかす事は、とても出來ないといふ強い意志が私を抑えつけます。私はまたぐる/\廻り始めるのです」(百三=「こゝろ」下四十九)という言明と、『「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用ひる位なら、一層始から色の着いたものを使ふが好い。白ければ純白でなくつちや」/斯う云はれて見ると、成程先生は潔癖であつた。書齋なども實に整然(きちり)と片付いてゐた。無頓着な私には、先生のさういふ特色が折々著るしく眼に留まつた。/「先生は癇性ですね」とかつて奧さんに告げた時、奧さんは「でも着物などは、それ程氣にしないやうですよ」と答へた事があつた。それを傍に聞いてゐた先生は、「本當をいふと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考へると實に馬鹿々々しい性分だ」と云つて笑つた。精神的に癇性といふ意味は、俗に神經質といふ意味か、又は倫理的に潔癖だといふ意味か、私には解らなかつた。奧さんにも能く通じないらしかつた』(三十二=「こゝろ」上三十二)のシーンと先生の言明に直ちに対応するものである。更に言えば、この叙述は奇異である。私を理解してくれる貴方の事だから、説明する必要もあるまいと思ひますが、話すべき筋だから話して置きます」というのは、「私」が既にその理由を理解しているという前提に立って語っているのである。私(やぶちゃん)が「私」であったとしたら、私にはここに書かれたような先生が奥さん(靜)に真実を語らなかったのは「たゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから」であり、それは先生の「純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振り掛けるのは」「大變な苦痛」であるという人生観に基づくということを事前に認識は出来ないここまで遺書を読んで来ても、そのようなことは自明にはならないのである。――但し、そう「解釋して」くれと言われれるのであるならば――それを私は拒否しない、のである。そうしてやはり私(やぶちゃん)は先生を愛する――。なお、同様な不可能さを若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏も指摘しておられる。そして藤井氏は例のアウグスティヌスの「告白」から、またしても印象的な引用をなさっておられるのでどうしても示しておきたい。

   《引用開始》

先生の私への手放しの信頼が見て取れる箇所だが、他方ではアウグスティヌスの『告白』が聞き手への全幅の信頼を吐露した次のような一節を想起させる。「お互い愛によって結ばれてい一つになっている人々」すなわち「愛をもって私の言葉に耳をひらいてくれるほどの人ならば、いうことを信じてくれるでしょう」(山田晶訳)。

   《引用終了》

……これは私(やぶちゃん)の考える「心」に対して何よりも頼もしい援護射撃となっている、と勝手に思っているのである……

 さて、この

★「暗黒な一点」とは具体的にどのようなものであるか?

それを、私はかつてある時から、授業で、

◎先生にとって仮に奥さん自身が意識せずとも、先生の理解者にして援護者であるような弁護士であると同時に、

×先生を糾弾し裁断する裁判官のような立場を奥さんが担うことではあるまいか?

と板書してきた。但し、これは正直に告白すれば、第二次世界大戦下、非人間的に無辜の中国人を殺戮してしまった男が、婚約者との幸せな結婚を控えながら、先生と同様な苦悩に襲われて、女の前から去ってゆく男を描いた印象的な作品、武田泰淳の「審判」を読んだ二十代の後半からの私の解釈である。これが正しいかどうか、未だに私には分からない――分からないが、一つの生徒への理解可能な解釈としては有効である、と私は今も思っているのである。

♡「私は此不安を驅逐するために書物に溺れやうと力めました。私は猛烈な勢ひをもつて勉強し始めたのです。さうして其結果を世の中に公にする日の來るのを待ちました。けれども無理に目的を拵えて、無理に其目的の達せられる日を待つのは嘘ですから不愉快です。私は何うしても書物のなかに心を埋めてゐられなくなりました。私は又腕組をして世の中を眺めだしたのです」Kを忘れる事が出来ないという強迫観念を駆逐する手段の第1番目であるが、このような『ためにする』行為はその欺瞞性故に当然の如く、挫折せざるを得ないのである。

♡「スポイル」“spoil”は小学館の「プログレッシブ英和中辞典 第4版」によれば、

1(物・事を)だめにする、こわす、台なしにする、使えなくする、腐らせる。(興味・食欲などを)そぐ。

2(人を甘やかして)だめにする、増長させる、甘やかす。(人を)だいじにする。(ホテルなどが客に)非常にサービスする。

3〈俗語〉(人を)殺す、始末する、片づける。

4〈古語〉~を奪う。(人から~を)奪う。略奪する。

〈自動詞〉台なしになる。悪くなる。だめになる。(食物が)腐る。

〈略式用法〉(特にけんか・議論を)したくてうずうずしている。

〔形式名詞〕

1強奪(略奪・戦利)品。

2(通常複数形で)官職の役得・利権。

3(通常複数形で)賞品。(努力の)成果。掘り出し物.

4(発掘の際の)廃物。廃棄された土石。

5(略奪の)えじき、目的物。

6強奪、略奪。

の意とし、語源的にはラテン語の“spolire”(“spolium”=動物からはいだ皮+“-re”=〈不定詞語尾〉=皮を奪う→略奪する)を元にした中世フランス語であるする。

若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の藤井氏は、第一義の「傷める、だめにする」の意のみを掲げて、そのようにお採りのようだが、私は寧ろ、第二義の人を甘やかしてだめにするとか、増長させる、甘やかすという意味で漱石は用いているものと思う。

♡「私は急にふらぶらしました」底本では「ぶら」の部分は踊り字「/\」の濁点付きのもの。原稿は正しく「ふら/\」で、単行本でも「ふら/\」となっている。

♡「それがKのために美事に破壞されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらぶらしました。他に愛想を盡かした私は、自分にも愛想を盡かして動けなくなつたのです」ここは巧妙な先生の合理化が感じられる、やや厭な部分である。先生は

自分の才能への強い自信を持っていた

↓しかしそれを先生は

Kのために美事に破壞されてしまつ」た[やぶちゃん注:下線はやぶちゃん。]

↓そうして

Kのために」「自分もあの叔父と同じ」悪辣なる人間であると意識するようになってしまった

↓その結果として(以下「Kのために」を除いて総て第(十四)=「こゝろ」上十四より引用)

「私は私自身さへ信用し」なくなった、「つまり自分で自分が信用出來ないから、人も信用できないやうになつ」た、そのように「Kのために」「自分を呪ふより外に仕方がな」くなってしまった

と弁明するのである。私(やぶちゃん)にはこの確信的に用いているわけではないにしても「Kのために」という一語が、辛く哀しいのである――]

2010/08/06

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月6日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百五回

Kokoro16_6   先生の遺書

    (百五)

 「Kの葬式の歸り路に、私はその友人の一人から、Kが何うして自殺したのだらうといふ質問を受けました。事件があつて以來私はもう何度となく此質問で苦しめられてゐたのです。奥さんも御孃さんも、國から出て來たKの父兄も、通知を出した知り合ひも、彼とは何の縁故もない新聞記者迄も、必ず同樣の質問を私に掛けない事はなかつたのです。私の良心は其度にちく/\刺されるやうに痛みました。さうして私は此質問の裏(うら)に、早く御前が殺したと白状してしまへといふ聲を聞いたのです。

 私の答は誰に對しても同じでした。私は唯彼の私宛で書き殘した手紙を繰り返す丈で、外に一口も附加へる事はしませんでした。葬式の歸りに同じ問を掛けて、同じ答を得たKの友人は、懷から一枚の新聞を出して私に見せました。私は歩きながら其友人によつて指し示された箇所を讀みました。それにはKが父兄から勘當された結果厭世的な考を起して自殺したと書いてあるのです。私は何にも云はずに、其新聞を疊んで友人の手に歸しました。友人の此外にもKが氣が狂つて自殺したと書いた新聞があると云つて教へて呉れました。忙しいので、殆ど新聞を讀む暇がなかつた私は、丸でさうした方面の知識を缺いてゐましたが、腹の中では始終氣にかゝつてゐた所でした。私は何よりも宅のものゝ迷惑になるやうな記事の出るのを恐れたのです。ことに名前丈にせよ御孃さんが引合に出たら堪らないと思つてゐたのです。私は其友人に外に何とか書いたのはないかと聞きました。友人は自分の眼に着いたのは、たゞ其二種ぎりだと答へました。

 私が今居(を)る家へ引越したのはそれから間もなくでした。奥さんも御孃さんも前の所にゐるのを厭がりますし、私も其夜の記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だつたので、相談の上移る事に極めたのです。

 移つて二ケ月程してから私は無事に大學を卒業しました。卒業して半年も經たないうちに、私はとう/\御孃さんと結婚しました。外側から見れば、萬事が豫期通りに運んだのですから、目出度と云はなければなりません。奥さんも御孃さんも如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だつたのです。けれども私の幸福には暗い影が隨(つ)いてゐました。私は此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなからうかと思ひました。

 結婚した時御孃(おじやう)さんが、―もう御孃(おちやう)さんではありませんから、妻(さい)と云ひます。―妻が、何を思ひ出したのか、二人でKの墓參をしやうと云ひ出しました。私は意味もなく唯ぎよつとしました。何うしてそんな事を急に思ひ立つたのかと聞きました。妻は二人揃つて御參りをしたら、Kが嘸(さぞ)喜こぶだらうと云ふのです。私は何事も知らない妻の顏をしけじけ眺めてゐましたが、妻から何故そんな顏をするのかと問はれて始めて氣が付きました。

 私は妻の望み通り二人連れ立つて雜司ケ谷へ行きました。私は新らしいKの墓へ水をかけて洗つて遣りました。妻は其前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。妻は定めて私と一所になつた顛末(てんまつ)を述べてKに喜こんで貰ふ積でしたらう。私は腹の中で、たゞ自分が惡かつたと繰り返す丈でした。

 其時妻はKの墓を撫でゝ見て立派だと評してゐました。其墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行つて見立たりした因縁があるので、妻はとくに左右云ひたかつたのでせう。私は其新らしい墓と、新らしい私の妻と、それから地面の下に埋(うづ)められたKの新らしい白骨(はくこつ)とを思ひ比べて、運命の冷罵(れいば)を感ぜずにはゐられなかつたのです。私は其れ以後決して妻と一所にKの墓參りをしない事にしました。

Line_5

やぶちゃんの摑み:Kが自殺した明治341901)年2月23日から凡そ2~3箇月後の明治341901)年5月、先生は現在住んでいる家(学生の「私」が訪れたあの先生の家)に引っ越している。それから2箇月の明治341901)年7月に無事、先生は東京帝国大学を24歳で卒業、それから半年弱後の明治341901)年年末に靜(19歳)と結婚式を挙げた。Kの死後約10箇月のことであった。

♡「それにはKが父兄から勘當された結果厭世的な考を起して自殺したと書いてあるのです」当時は現在と違って個人情報の保護なんどは勿論、念頭になく、帝大生の自殺とくればセンセーショナルで格好の記事となった。実際に当時の新聞を読むと氏名も明らかにされて、遺書が記事に引き写されていたり、自殺者の生活史を興味本位に細述しているものも多く見受けられる。こうしたジャーナリズムの自殺への特ダネ意識は、かなり後まで続いた。――いや、実際には、現在もそう変わらないものと私は思っている。

♡「奥さんも御孃さんも如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だつたのです。けれども私の幸福には暗い影が隨いてゐました。私は此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなからうかと思ひました」最早、先生の中の贖罪意識と強迫観念は完全に起動してしまった。ここが摑みだ! 『僕らのようには先生は後戻りもリセットも出来ない』のだ! それが、先生という存在であり、先生とKに代表される「明治の精神」を生きた日本人の宿命なのだ! このアンビバレンツが、まずは先生を生き地獄へとまっしぐらに突き落としてゆくことになる。

♡「妻が、何を思ひ出したのか、二人でKの墓參をしやうと云ひ出しました」二人の結婚が前年の12月若しくは翌明治351902)年の年初であったとして、その結婚直後で、靜がKの墓参りを提案するとなれば、これは極めて高い確率で、Kの一周忌の祥月命日であった、明治351902)年2月23日であったと推定される。この日は日曜日である。

――さすれば、何故、奥さんは同行しなかったのであろう?

――共に住んだ下宿人の祥月命日である。

――同行するのが自然で、当たり前である。

――されば、奥さんは先生を憚ったのに違いない。

――奥さんはすかさず「意味もなく唯ぎよつとし」た先生を見たのだ。

――震える声で暗く「何うしてそんな事を急に思ひ立つたのか」と反問する先生の声を鋭く聞き取ったのだ。

――靜の「二人そろってお参りをしたら、あの人、きっと喜こんでくれるわ!」と言う無邪気な声も聞いた。

――そうして奥さんは垣間見たのだ。

――暗く「妻の顏をしけじけ眺めてゐ」る苦しそうな先生の顔を。

――畳みかける靜の「どうしてそんな顏をなさるの?」という問いも。

――先生の内実を総て知っている奥さんは『まずい』と内心、思ったに違いない。

――しかし、靜を引き止める正当な理由は全くない。

――仕方がなく、奥さんは適当な用事を拵えて、表面では明るい表情をしながら、二人を送り出したのではなかったか?

――二人の影が沿道に見えなくなった頃……奥さんの表情から笑顔が消えた……

……この奥さんの不吉な感じは……

……正しかった……

♡「しけじけ」「しげしげ」と同じ。漢字で書けば「繁繁」で、古くは「しけしけ」「しけじけ」とも言った。じっと、の意。

♡「私が自分で石屋へ行つて見立たりした」私(やぶちゃん)が大学終了の年の三月、就職までの数週間、東京中の物故作家の墓巡りをしたことがある。青山墓地を皮切りに三鷹の禅林寺、染井霊園から慈眼寺、そうして雑司ヶ谷霊園にも行った。東北の霊園外の直ぐの路地を歩いていると、石屋があった。私は先生がKの墓を頼んだのもここかしら、などと無邪気なことを思ったのを覚えている。――以下は、脱線である――その時、丁度、作家の墓石を彫っている真っ最中であったから、不思議に鮮烈に覚えているのだ。その仕上げが終わるのを私は熱心に午後の春日の中で見ていたのだった。墓石は確かに美術家で劇作家であった村山知義(明治341901)年~昭和521977)年322日)のものであった。表面に「演劇 運動 万歳」「最後の言葉」と彫られていたのを覚えている。多分、あの完成した墓石を最初に見たのは、親族でも知人でもなかった――この私だったのだ。

♡「私は其新らしい墓と、新らしい私の妻と、それから地面の下に埋められたKの新らしい白骨とを思ひ比べて、運命の冷罵を感ぜずにはゐられなかつたのです」新しいKの墓と新しい先生の妻である靜と新しいKの白骨がレントゲン線のように先生の眼に総てオーバー・ラップして映像化される。哀しくも美事な映像である。否。この映像は撮れない。実際映像として撮ったら噴飯ものだ。それほど形而上的に美学的に素晴らしい映像にならないイメージなのである。私の板書。

★見え過ぎてしまう悲痛(Ⅰ)

 新しい  の墓 

 ⇓

 新しい  の妻 

 ⇓

 新しいKの白骨 

墓参りによって先生の中で起動してしまった「運命の冷罵」の透視術]

2010/08/05

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月5日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百四回

Kokoro16_5   先生の遺書

    (百四)

 「私は奥さんに氣の毒でしたけれども、また立つて今閉めたばかりの唐紙を開けました。其時Kの洋燈(ランプ)に油が盡きたと見えて、室の中(なか)は殆ど眞暗でした。私は引き返して自分の洋燈を手に持つた儘、入口に立つて奥さんを顧みました。奥さんは私の後(うしろ)から隱れるやうにして、四疊の中を覗き込みました。然し這入(はい)らうとはしません。其處は其儘にして置いて、雨戸を開けて呉れと私に云ひました。

 それから後の奥さんの態度は、さすがに軍人の未亡人だけあつて要領を得てゐました。私は醫者の所へも行きました。又警察へも行きました。然しみんな奥さんに命令されて行つたのです。奥さんはさうした手續の濟む迄、誰もKの部屋へは入(い)れませんでした。

 Kは小さなナイフで頸動脈を切つて一息に死んで仕舞つたのです。外に創(きず)らしいものは何にもありませんでした。私が夢のやうな薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸ばしつたものと知れました。私は日中の光で明らかに其迹を再び眺めました。さうして人間の血の勢といふものゝ劇しいのに驚ろきました。

 奥さんと私は出來る丈の手際と工夫を用ひて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸ひ彼の蒲團に吸收されてしまつたので、疊はそれ程汚れないで濟みましたから、後始末はまだ樂でした。二人は彼の死骸を私の室に入れて、不斷の通り寢てゐる體(てい)に横にしました。私はそれから彼の實家へ電報を打ちに出たのです。

 私が歸つた時は、Kの枕元にもう線香が立てられてゐました。室へ這入るとすぐ佛臭(ほとけくさ)い烟(けむり)で鼻を撲(う)たれた私は、其烟の中に坐つてゐる女二人を認めました。私が御孃さんの顏を見たのは、昨夜來此時が始めてゞした。御孃さんは泣いてゐました。奥さんも眼を赤くしてゐました。事件が起つてからそれ迄泣く事を忘れてゐた私は、其時漸やく悲しい氣分に誘はれる事が出來たのです。私の胸はその悲しさのために、何の位(くらゐ)寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤(うるほひ)を與へてくれたものは、其時の悲しさでした。

 私は默つて二人の傍(そば)に坐つてゐました。奥さんは私にも線香を上げてやれと云ひます。私は線香を上げて又默つて坐つてゐました。御孃さんは私には何とも云ひません。たまに奥さんと一口二口(ふくち)言葉を換(かは)す事がありましたが、それは當座の用事に即(つ)いてのみでした。御孃さにはKの生前に就いて語る程の餘裕がまだ出て來なかつたのです。私はそれでも昨夜の物凄い有樣を見せずに濟んでまだ可かつたと心のうちで思ひました。若い美くしい人に恐ろしいものを見せると、折角の美くしさが、其爲に破壞されて仕舞ひさうで私は怖かつたのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端迄來た時ですら、私はその考を度外に置いて行動する事は出來ませんでした。私には綺麗な花を罪もないのに妄(みだ)りに鞭(むち)うつと同じやうな不快がそのうちに籠つてゐたのです。

 國元からKの父と兄が出て來た時、私はKの遺骨を何處へ埋(うめ)るかに就いて自分の意見を述べました。私は彼の生前に雜司ケ谷近邊(きんへん)をよく一所に散歩した事があります。Kには其處が大變氣に入つてゐたのです。それで私は笑談(ぜうだん)半分に、そんなに好(すき)なら死んだら此處へ埋て遣らうと約束した覺えがあるのです。私も今其約束通りKを雜司ケ谷へ葬つたところで、何の位の功德(くどく)になるものかとは思ひました。けれども私は私の生きてゐる限り、Kの墓の前に跪(ひざ)まづいて月々私の懺悔を新たにしたかつたのです。今迄構ひ付けなかつたKを、私が萬事世話をして來たといふ義理もあつたのでせう、Kの父も兄も私の云ふ事を聞いて呉れました。

Lineburogusironuki

やぶちゃんの摑み:先にも述べた通り、先生はKの自殺、その首を取り落として以降、一切、Kの死に顔を描写していない。見ていないことはあり得ない。その不自然さ、何故に描写しないかは、「心」を考察するに、重要な問題点であると私は永く思っている。なお上の通り、ここのみ白抜きの飾罫となっている。

♡「小さなナイフ」肥後守タイプのナイフか。以下、ウィキ「肥後守」から引用する。『肥後守(ひごのかみ)とは、日本で戦前から使われていた簡易折りたたみ式刃物(ナイフ)のこと。登録商標であり特定の製品の名称であるが、同形状のナイフの総称として呼称されることが多い(後述)』。『金属板をプレス加工した露骨なグリップに鋼材の両刃の刃部(ブレード)のものが一般的である。折りたたみのロック機構はなく「チキリ」と呼ばれる部分を親指で押さえ続けることでブレードを固定して使用する。ブレードは利器材をプレス加工で打ち抜いたあと「チキリ」のみを改めて加工したものが大半である』(中略)。『この形状のナイフの製造が始まったのは1890年代[やぶちゃん注:下線やぶちゃん。]と考えられている。この上なく単純な構造のため極めて安価に製造出来ることや、殆ど壊れる所が無いため長く使用出来る。1950年代後半頃からは文房具の一つとして子どもにも行き渡ったが、やがて鉛筆削り器やカッターナイフの普及のほか、日本全国に拡がった「刃物を持たない運動」』『などに押されて徐々に姿を消した』(中略)。『全盛期の昭和30年代、兵庫県三木市には肥後守を製造する鍛冶屋が多数存在した。また、他の地域でも同様の意匠をもつフォールディングナイフが製造され、類似の商品名で流通していたが、肥後守の商品名があまりにも有名であったため、このタイプのナイフの一般名詞として使用されている実態がある』。『2005年現在、肥後守(ひごのかみ)は兵庫県三木市にある永尾駒製作所製造の登録商標であ』る(以下略)。私はKの自殺した日を明治341901)年2月23日に同定している。既に、私にも懐かしい肥後守タイプのナイフは存在したのである。

♡「二口(ふくち)」「ふたくち」のルビ脱字。

♡「御孃さにはKの生前に就いて……」「御孃さん」の脱字。

♡「若い美くしい人に恐ろしいものを見せると、折角の美くしさが、其爲に破壞されて仕舞ひさうで私は怖かつたのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端迄來た時ですら、私はその考を度外に置いて行動する事は出來ませんでした。私には綺麗な花を罪もないのに妄りに鞭うつと同じやうな不快がそのうちに籠つてゐたのです」この考え方――言明――こそが、先生が結婚後も、その自分の忌まわしい真実を靜に打ち明けない唯一の理由へとダイレクトに繋っているのである。即ち第(百六)回の「私はたゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだ」という言明である。この事実によって、この言明自体が一種の先生の極めて利己的な自己合理化であることが、残念ながら明白となると言えないであろうか?

♡「けれども私は私の生きてゐる限り、Kの墓の前に跪まづいて月々私の懺悔を新たにしたかつたのです」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は、この「月々私の懺悔」に非常に深い注釈を附しておられる。是非、当該書のそれをお読み戴きたいが、特にここで挙げておきたい部分をのみ、簡単に示したい。まず藤井氏は本作が書かれた時代が、『異常なまでの懺悔文学ブームの影響下にあった』ことをお示しになられ、『ルソー、トルストイ、そしてアウグスティヌス(当時はオーガスティンとも)の著作が、どれも広く読まれていた』とされ、当時の作家たち(青野季吉・谷崎潤一郎・安倍能成・森鷗外)がその作品にそうした懺悔録を登場させ、また『実際にもコンフェションをめぐるそういうやりとりは、たとえば森田草平と漱石のあいだでも交わされていた(森田草平『漱石先生と』私)』と記される(“confession”は英語で「白状・自白・告白」「罪の許しを得るための司祭への告解・懺悔」「信仰告白」の意)。そして、以下、「心」を解釈する上で極めて重要な見解を披見されておられる。

   《引用開始》

だとしたら『心』という作品も、まさにそうした風潮に棹さすものと受け取られたと考えられる。とりわけ、アウグスティヌス『告白』と類似性は顕著だ。一つは愛がもとで「嫉妬、猜疑、恐怖、怒り」(宮原晃一郎訳)の囚われとなるという点、二つ目は、私が邪教へと誘い込んで死に追いやってしまった親友をめぐる事件、そして三つ目が、私の告白は神ばかりでなく、ふつうの聞き手をも想定していたという懺悔うの受け手をめぐる問題、の三点において重なりを指摘できる。そして、何によりも「私は今自分の過去の汚穢と、私の魂の肉的腐敗とを想ひ起しませう」(宮原訳)といった過剰なまでの自責・懺悔のトーンにおける共通性。「愛するに私は正直な路を歩く積で、ついに足を滑らした馬鹿ものでした」〈下四十七[やぶちゃん注:「心」(百一)。]〉という一文などは『告白』からそのまま抜き出してきたといってもいいくらいだ。いずでにしてもこの時代の風潮に棹さした懺悔という枠組のほうがまず先にあって、それに合わせての「懺悔」するにふさわしい「卑怯」な行為の苦し紛れな羅列、ととることで『心』という作品の「不自然」「唐突」「極端」な展開にともなうわかりにくさがずいぶん解消されることも確かなのである。

   《引用終了》

この見解は非常に説得力を持つ。ただ遺憾ながら、私はアウグスティヌスの『告白』を読んでいない。私の成すべきことはまず、そこから始めねば成らぬ。

♡「今迄構ひ付けなかつたKを、私が萬事世話をして來たといふ義理もあつたのでせう、Kの父も兄も私の云ふ事を聞いて呉れました」勘当同然であったKが次章で示される通り、「厭世的な考を起して自殺した」「氣が狂つて自殺した」と新聞報道されている以上、実は実父にも実兄にとっても――二人とも新潟の名家で由緒ある真宗寺の僧職である――先生のこの申し出は渡りに舟の提案であったに違いない。Kは体よく故郷からも永遠に抹殺されてしまったのである。Kはそうした意味に於いても、死しても『故郷喪失者』であったのである。]

2010/08/04

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月4日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百三回

Kokoro16_3   先生の遺書

    (百三)

 「私は突然Kの頭を抱へるやうに兩手で少し持ち上げました。私はKの死顏が一目見たかつたのです。然し俯伏(うつぶし)になつてゐる彼の顏を、斯うして下から覗き込んだ時、私はすぐ其手を放してしまひました。慄(ぞつ)とした許(ばかり)ではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今觸つた冷たい耳と、平生に變らない五分刈の濃い髪の毛を少時(しばらく)眺めてゐました。私は少しも泣く氣にはなれませんでした。私はたゞ恐ろしかつたのです。さうして其恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺戟して起る單調な恐ろしさ許りではありません。私は忽然と冷たくなつた此友達によつて暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。

 私は何の分別もなくまた私の室に歸りました。さうして八疊の中をぐるぐる廻り始めました。私の頭は無意味でも當分さうして動いてゐろと私に命令するのです。私は何うかしなければならないと思ひました。同時にもう何うする事も出來ないのだと思ひました。座敷の中をぐる/\廻らなければゐられなくなつたのです。檻の中へ入れられた熊の樣の態度で。私は時々奧へ行つて奥さんを起さうといふ氣になります。けれども女に此恐ろしい有樣を見せては惡いといふ心持がすぐ私を遮ります。奥さんは兎に角、御孃さんを驚ろかす事は、とても出來ないといふ強い意志が私を抑えつけます。私はまたぐる/\廻り始めるのです。

 私は其間に自分の室の洋燈(ランプ)を點けました。それから時計を折々見ました。其時の時計程埒(らち)の明かない遲いものはありませんでした。私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明に間もなかつた事丈は明らかです。ぐる/\廻りながら、其夜明を待ち焦れた私は、永久に暗い夜が續くのではなからうかといふ思ひに惱まされました。

 我々は七時前に起きる習慣でした。學校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合ないのです。下女は其關係で六時頃に起きる譯(わけ)になつてゐました。然し其日(に)私が下女を起しに行つたのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だと云つて注意して呉れました。奥さんは私の足音で眼を覺したのです。私は奥さんに眼が覺めてゐるなら、一寸私の室迄來て呉れと賴みました。奥さんは寢卷の上へ不斷着の羽織を引掛て、私の後(あと)に跟(つ)いて來ました。私は室へ這入(はい)るや否や、今迄開いてゐた仕切の襖をすぐ立て切りました。さうして奥さんに飛んだ事が出來たと小聲で告げました。奥さんは何だと聞きました。私は顋(あご)で隣の室を指すやうにして、「驚ろいちや不可(いけ)ません」と云ひました。奥さんは蒼い顏をしました。「奥さん、Kは自殺(しさつ)しました」と私がまた云ひました。奥さんは其所に居竦(ゐすく)まつたやうに、私の顏を見て默つてゐました。其時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。「濟みません。私が惡かつたのです。あなたにも御孃さんにも濟まない事になりました」と詫(あや)まりました。私は奥さんと向ひ合ふ迄、そんな言葉を口にする氣は丸でなかつたのです。然し奥さんの顏を見た時不意に我とも知らず左右云つて仕舞つたのです。Kに詫まる事の出來ない私は、斯うして奥さんと御孃さんに詫(わ)びなければゐられなくなつたのだと思つて下さい。つまり私の自然が平生の私を出し拔いてふら/\と懺悔の口を開かしたのです。奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釋しなかつたのは私にとつて幸ひでした。蒼い顏をしながら、「不慮の出來事なら仕方がないぢやありませんか」と慰さめるやうに云つて呉れました。然し其顏には驚きと怖れとが、彫(ほ)り付けられたやうに、硬く筋肉を攫(つか)んでゐました。

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やぶちゃんの摑み:

★『☆Kの視線を見逃す先生(5)』

Kの眼を見逃す

=Kの真意を見逃す

=Kの心を見落とす先生

何度でも言おう。

見落とすべきでなかったKの眼を何度も見逃す先生

=Kの眼を見ていれば分かったはずの当然の真実を、Kの眼を見なかったばかりに段階的にも論理的にも理解出来なかった先生

=Kの心を決定的に見落とし、致命的な誤読を重ねてしまう先生

=遂にKの死後もをKの真意を見逃す先生

=致命的な誤読を重ねてしまう哀しい先生が――ここにいる。

そもそも

★先生は何故「Kの死に顏が一目見たかつた」のか?

を考える必要がある。それは勿論、Kがどんな表情で死んでいるかを見、その末期の思いを、その死に顔から推測しようしたからに他ならない。そこで先生は、さぞかしKが

絶望と苦痛若そして憤怒の表情

に歪んでいるであろうことを予測したであろう。

 しかし、先生は遂にKの表情を見ないのだ。何故なら先生は「然し俯伏になつてゐる彼の顏を、斯うして下から覗き込んだ時、私はすぐ其手を放してしま」うからである。因みに、この「斯うして」という言葉選び方は美事と言わざるを得ない。我々はその場で先生の手の動きを見せられる――否――我々が先生となってKの首を「覗き込」もうとした瞬間、我々はその重みに首を取り落とすのである。――しかし、どうであろう? 私は

○Kの死に顔は総ての自己決着を得て気持ちよく穏やかであった

のではないかと確信している。何れにせよ、先生はこれ以降、

○葬儀の中で必ずKの死に顏を何度も見ていながら全くそれを描写しない

のである。しかし描写しないからこそ――もしその表情が苦痛や憎悪・怨念に歪んだものであったなら、必ずやそれが先生に依って示されるはずだから――、

○その死に顔は極めて穏やかなものであった

と、私は思うのである。そうして次に考えねばならないのは、

★何故先生はKの首を持った「其手を放してしま」ったのか?

という点であろう。先生はそれを、

何かに襲われるように「慄とした」ことに加えて、「彼の頭が非常に重たく感ぜられた」から

と述べている。しかし、これはやや捩れた表現というべきであって(但し、このような凄惨な場面の描写としては仕方がないとも言えよう)、先生がKの首――それは私にはヨカナンの首に見える――を トン! と取り落とした真の理由は、

○「彼の頭が非常に重たく感ぜられ」て「慄とした」からであり、その「慄とした」思いの内実とは単純な「眼の前の光景が官能を刺戟して起る」「恐ろしさ」「許りでは」なく、「忽然と冷たくなつた此友達によつて暗示された」、宿命的致命的に決定(けつじょう)されてしまった己の向後の「運命の恐ろしさを深く感じた」から

に他ならない。そして、

その重量の質感が、次に先生の視線で「私は上から今觸つた冷たい耳と、平生に變らない五分刈の濃い髪の毛を少時眺めてゐ」たと説明される

という構造なのである。この重量は、

○先生の罪の重さでもあり、同時に

○その罪によって既に定められしまった(と先生が感じているところの)先生の宿命的致命的運命の重さ

でもあったのである――。

「座敷の中をぐる/\廻らなければゐられなくなつたのです。檻の中へ入れられた熊の樣の態度で」 ……先生、思い出して下さい……あの頃を……かつては一緒に抱き合っていたKは、もういないのです……「東京へ着いて」「同じ下宿」で「Kと私も二人で同じ間にゐ」た頃のことを……「山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨めるやう」に……「二人は東京と東京の人を畏れ」……「それでゐて六疊の間の中では、天下を睥睨するやうな事を云」い合っていた(以上、すべて第(七十三)回より引用)……あの頃を……

「日(に)」「ひ」のルビ誤植。

「自殺(しさつ)」「じさつ」のルビ誤植。

『其時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。「濟みません。私が惡かつたのです。あなたにも御孃さんにも濟まない事になりました」と詫まりました。私は奥さんと向ひ合ふ迄、そんな言葉を口にする氣は丸でなかつたのです。然し奥さんの顏を見た時不意に我とも知らず左右云つて仕舞つたのです。Kに詫まる事の出來ない私は、斯うして奥さんと御孃さんに詫びなければゐられなくなつたのだと思つて下さい。つまり私の自然が平生の私を出し拔いてふら/\と懺悔の口を開かしたのです。奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釋しなかつたのは私にとつて幸ひでした。蒼い顏をしながら、「不慮の出來事なら仕方がないぢやありませんか」と慰さめるやうに云つて呉れました』ここで実は先生は、たった一度だけの、真相を洗い浚い述べて奥さんと御嬢さんの前に謝罪しようとする機会が与えられていた。いや、先生自身も実は無意識ながら「Kに詫まる事の出來ない私は、斯うして奥さんと御孃さんに詫びなければゐられなくなつたのだと思つて下さい。つまり私の自然が平生の私を出し拔いてふら/\と懺悔の口を開かした」とさえ言っている。ところが「幸い」(?)にも奥さんは深い意味に解釈しなかったために、懺悔は懺悔とならず、先生の真実の口は、この遺書に開示されるまで、閉じられてしまったのであった。――しかし……これは本当に「幸い」であったのか? それは逆に不幸なことではなかったのか?……

更に言えば……

★本当に奥さんは何も分からなかったのだろうか?

――否、である――

奥さんは何かも電光のように諒解していた――この瞬間に、理窟ではなく『全てを直感して』その全状況を即座に理解した

のだと私は確信している。

……しかし……

奥さんは敢えて「そんな深い意味に、私の言葉を解釋し」ようとすることを拒絶し

のである。

○そして「そんな深い意味に、私の言葉を解釋しなかつた」ように振る舞い、「私にとつて幸ひでした」というように先生に思わせることが、自分の娘と自分の将来とを考えた際、最良の選択であることを閃光のように理解した

のである。だからこそ、奥さんは

『「不慮の出來事なら仕方がないぢやありませんか」と慰さめるやうに云』うことで、それ以上の先生の発声を封じた――禁じた

のではなかったか?!

――何れにせよ、正に、この以上の『奥さんの対応』によって――

Kに謝罪出来なかった先生は、ダメ押しとして永遠に公的に謝罪と懺悔と許しを乞うべき公的機会を完全に失った

のであった。]

2010/08/03

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回

Kokoro16   先生の遺書

    (百二)

 「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日餘りになります。其間Kは私に對して少しも以前と異なつた樣子を見せなかつたので、私は全くそれに氣が付かずにゐたのです。彼の超然とした態度はたとひ外觀だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考へました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遙かに立派に見えました。「おれは策略で勝つても人間(にんけん)としては負けたのだ」といふ感じが私の胸に渦卷いて起りました。私は其時さぞKが輕蔑してゐる事だらうと思つて、一人で顏を赧(あか)らめました。然し今更Kの前に出て、恥を掻かせられるのは、私の自尊心にとつて大いな苦痛でした。

 私が進まうか止さうかと考へて、兎も角も翌日(あゆるひ)迄待たうと決心したのは土曜の晩でした。所が其晩に、Kは自殺して死んで仕舞つたのです。私は今でも其光景を思ひ出すと慄然(ぞつ)とします。何時(いじ)も東枕で寢る私が、其晩に限つて、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風で不圖眼を覺したのです。見ると、何時も立て切つてあるKと私の室との仕切の襖が、此間の晩と同じ位開いてゐます。けれども此間のやうに、Kの黑い姿は其處には立つてゐません。私は暗示を受けた人のやうに、床の上に肱(ひぢ)を突いて起き上りながら、屹(きつ)とKの室を覗きました。洋燈(ランプ)が暗く點つてゐるのです。それで床も敷いてあるのです。然し掛蒲團は跳返(はねかへ)されたやうに裾の方に重なり合つてゐるのです。さうしてK自身は向ふむきに突つ伏してゐるのです。

 私はおいと云つて聲を掛けました。然し何の答もありません。おい何うかしたのかと私は又Kを呼びました。それでもKの身體は些(ちつ)とも動きません。私はすぐ起き上つて、敷居際(しきいきは)迄行きました。其所から彼の室の樣子を、暗い洋燈の光で見廻して見ました。

 其時私の受けた第一の感じは、Kから突然戀の自白を聞かされた時のそれと略(ほゞ)同じでした。私の眼は彼の室の中(なか)を一目見るや否や、恰も硝子(がらす)で作つた義眼のやうに、動く能力を失ひました。私は棒立に立竦(たちすく)みました。それが疾風(しつぷう)の如く私を通過したあとで、私は又あゝ失策(しま)つたと思ひました。もう取り返しが付かないといふ黑い光が、私の未來を貫ぬいて、一瞬間に私の前に横はる全生涯を物凄く照らしました。さうして私はがた/\顫(ふる)へ出したのです。

 それでも私はついに私を忘れる事が出來ませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは豫期通り私の名宛になつてゐました。私は夢中で封を切りました。然し中には私の豫期したやうな事は何にも書いてありませんでした。私は私に取つて何んなに辛い文句が其中に書き列ねてあるだらうと豫期したのです。さうして、もし夫が奥さんや御孃さんの眼に觸れたら、何んなに輕蔑されるかも知れないといふ恐怖があつたのです。私は一寸眼を通した丈で、まづ助かつたと思ひました。(固(もと)より世間體(せんけんてい)の上丈で助かつたのですが、其世間體が此塲合、私にとつては非常な重大事件に見えたのです。)

 手紙の内容は簡單でした。さうして寧ろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するといふ丈なのです。それから今迄私に世話になつた禮が、極あつさりした文句で其後に付け加へてありました。世話序に死後の片付方も賴みたいといふ言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて濟まんから宜しく詫(わび)をして呉れといふ句もありました。國元へは私から知らせて貰ひたいといふ依賴もありました。必要な事はみんな一口(ひとくち)づゝ書いてある中(なか)に御孃さんの名前丈は何處にも見えませんでした、私は仕舞迄讀んで、すぐKがわざと回避したのだといふ事に氣が付きました。然し私の尤も痛切に感じたのは、最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。

 私は顫へる手で、手紙を卷き收めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆(みん)なの眼に着くやうに、元の通り机の上に置きました。さうして振り返つて、襖に迸ばしつてゐる血潮を始めて見たのです。

Line

やぶちゃんの摑み:私は今回、Kの自殺した日を明治34(1901)年2月23日に同定する。なお、何故、この一週間前の16日(土)でなく23日(土)であるかは、第(六)回の「小春の盡きるに間のない或る晩の事」の摑みで、20日過ぎにKの命日があった可能性が高いと私が考えるからである。牽強付会の謗りも甘んじて受けるが、この日を旧暦に換算すると1901年1月5日――旧暦の年始明けの直後ということになる。1901年――正に新しい新時代――20世紀の最初の年なのである。

「人間(にんけん)」「にんげん」のルビ誤植。

「翌日(あゆるひ)」「あくるひ」のルビ誤植。

「何時(いじ)」「いつ」のルビ誤植。

「彼の超然とした態度はたとひ外觀だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考へました」先生は誤っている。Kが「超然とし」ているのは、とっくに、この現実との訣別を決意しているからに他ならない。それ以外の解釈は無効である。そしてそれは、純粋にK自身の内発的要請によるものであって、先生とは無縁である。従って、決意は潔く決定し、一種の穏やかな諦観の中にあればこそ先生に対して外観を装う必要もなければ、彼に「敬服に値すべきだ」などと思ってもらう筋合いのものではない。自己否定の極北に立つKは「遙かに立派」であるどころか、「薄志弱行で到底行先の望みがないから」死ぬのである。先生の「おれは策略で勝つても人間としては負けたのだ」などという台詞は見当違いも甚だしい。勝つも負けるもない、Kは一度として先生と戦った覚えはない。先生が一人相撲で「策略で勝つても人間としては負けた」などと言うのは勝手だが、それはKの内実や決断とは何の関係もない。況や、先生が「其時さぞKが輕蔑してゐる事だらうと思つて、一人で顏を赧らめ」たなんどというのも――今やあの世のKが聞いたら笑止千万、「お前は、何を考えている? お前は何んにも、分かっていないな。」と言うであろう。そうして最後に、以前のように、少し淋しそうに笑いながら先生を見つめ、「精神的に向上心のない者は馬鹿だ、ぞ。」と、先生の両肩に優しく、その大きく暖かい手をかけながら、語りかけるに違いない――。

♡「所が其晩に、Kは自殺して」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏はここに注されて、『ここは結果のほうを先に紹介するという、推理小説でいうところの「倒叙型」の書かれ方』が成されている点に着目されている。「こゝろ」の「上 先生と私」「中 両親と私」のパート(特に前者)が極めて推理小説的に展開し、叙法自体が推理小説を模しているということは私自身授業で再三言ってきたことであるが、まさに漱石のその確信犯的叙述法がここで示されてくると言ってよい。藤井氏は以下、金園社昭和501975)年刊の九鬼紫郎「探偵小説百科」を参照に、こうした犯人の犯行を最初に読者に示して、徐々に探偵が犯人を追い詰めてゆくという『倒叙探偵小説の嚆矢が、一九一二年発表のオースティン・フリーマンの短編小説であるとしている』と示されて、『直接の影響関係はないにしても』と留保をされながらも、本『心』の連載が大正3(1914)年『であったことを考えると、興味深い問題がそこから引き出されてくるかもしれない。』と結ばれる。激しく同感である。

「見ると、何時も立て切つてあるKと私の室との仕切の襖が、此間の晩と同じ位開いてゐます。けれども此間のやうに、Kの黑い姿は其處には立つてゐません」先生はKの死の前後にあってもKの視線を見逃す。この設定が漱石の確信犯的行為であることは、最早、明白である。

★『Kの眼を見逃す先生(4)』

よく読み返して頂きたい。先生のプロポーズの夕食での描写以降、ここまで一箇所たりとも先生からの直接的なKの描写はないのである。これは、実は小説としてもかなり不自然な印象を与えており、小説作法としては技巧的には拙いと言われても仕方がないという気がするが、これは小説ではない、「先生の遺書」なのだ、と言われれば、これは確かに『有り』なのだと言い得る。

……因みに、ただ一度だけ、例外的にKの姿に画面のピントが合うシークエンスがある。……

……あの奥さんの語りの部分である。……

……そう、あれを最後――最期として……我々はもう二度と、Kの表情を見ることは、ない、のである……鬼才、夏目漱石監督の面目躍如!

……先を続けよう……

……そうした焦点が合わない先生目線のKの視線や表情の不明がカタストロフへと繋がるのだ。

――ここでは『Kの眼を見逃す先生(3)』と同じ構図の場面が選ばれる。しかし、そこには「Kの黑い姿」ない。

Kの眼を見逃す

=Kの真意を見逃す

=Kの心を見落とす先生

何度でも言おう。

見落とすべきでなかったKの眼を何度も見逃す先生

=Kの眼を見ていれば分かったはずの当然の真実を、Kの眼を見なかったばかりに段階的にも論理的にも理解出来なかった先生

=Kの心を決定的に見落とし、致命的な誤読を重ねてしまう先生

遂にKの死後もをKの真意を見逃す先生、致命的な誤読を重ねてしまう哀しい先生が、ここにいる、のではあるまいか?

最後に付け加えておくと、何故Kは襖を開けたままで死んだのか? 答えは簡単である。第一発見者を先生にするためである。勿論、それは遺恨でも当て付けでもない――そんな恨みがましいKを考えている君は、一体、今まで「心」をどう読んで来たんだ?! 「一昨日(おととい)来やがれ!」てぇんだ!――死後の処理を迅速に先生に執行してもらうための純粋に事務的で合目的的行動であって、それ以外の何の意味もない。

♡「私は暗示を受けた人のやうに、床の上に肱を突いて起き上りながら、屹とKの室を覗きました。洋燈が暗く點つてゐるのです。それで床も敷いてあるのです。然し掛蒲團は跳返されたやうに裾の方に重なり合つてゐるのです。さうしてK自身は向ふむきに突つ伏してゐるのです」Kは四畳にどのように寝、自死していたのであろうか。私は過去、Kの布団は先生と同じく西枕にして玄関方向を向いて敷かれていたと考えてきた。しかしそれは正しいだろうか? そうするとKは畳一畳分に平行に布団を敷いて寝ていたことになる。これは如何にも狭過ぎる。そもそもKは先生が見上げるほど背が高い。これはあり得ない。Kは普段は四畳に南北に布団を敷いて寝ていたと考えるのが自然である。すると日常的には彼は庭(御嬢さんの部屋)方向の南枕で寝ていたと考えてよい(Kの机は当然、庭方向の障子の端にあったと考えられ、Kの遺書もその上に載っていた)。但し、私は今回、Kは自死した際に、死に合わせて北向きに枕を置いたのではないかと思ったのである。一つは「然し掛蒲團は跳返されたやうに裾の方に重なり合つてゐるのです。さうしてK自身は向ふむきに突つ伏してゐるのです」という「向ふむきに突つ伏してゐる」という遺体の状況である。もし、南向きでKが死んでいるとすると、先生はその遺体の頭の前でKの遺書を読んでいることになり、これは映像としても慄然(ぞっ)とするどころの騒ぎではない。先生自身、恐ろしくてそんな真似は出来ないに違いない(その場合は遺書をさっと取り上げて自室に戻って読むであろう)。これは遺体が四畳の反対側にあればこそ出来ることだと思うのである。さすれば遺書読み終わって元通りにした先生が「さうして振り返つて、襖に迸ばしつてゐる血潮を始めて見たのです」という表現がしっくりくるのである。但し、もう一つ、問題がある。この「血潮」が「迸ばしつてゐる」「襖」はどの襖かという問題である。北側には布団を入れる押入れがあり、その襖ともとれるが、それでは劇的ではないし、事実にそぐわない。客観的にも北向きに端座し右頸動脈を切ったとすれば――その襖は――実に先生とKの部屋の北側の二枚の襖である。

Kの血は正に、正しく、先生に向けて吹き飛んだのである!

――正にKは先生にその血を浴びせかけたのである――

――私が比喩しているのはKの怨念や怨恨の表現ではない――

――「先生の遺書」のあの冒頭の表現との一致である――

――私は今自分で自分の心臟を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足です。――

「もう取り返しが付かないといふ黑い光が、私の未來を貫ぬいて、一瞬間に私の前に横はる全生涯を物凄く照らしました」「黑い光」だ――私には、時々この一文全体が禪の公案への誰か――何時までたっても悟達出来ない愚鈍な雲水の――答えであるかのように思えてならない。――第一、あなたはこんな感じを抱いたことがあるか? 私は、今のところは、ない――近いうちに、肉体的にはこう考える瞬間が近づいている気がしているのだが――もし、あったとしたら――これは――救いようがない――であろう。先生は、この瞬間に――自分の人生を、かく、決定(けつじょう)してしまった――のである。こう『陳腐に』感じてしまったことによって、である。私は授業でここに「永遠に失われた謝罪の機会」という板書をして来たが、――これは、お門違いだった。――「もう取り返しが付かない」とは――当然のことながら、Kの死をダイレクトに意味している語である――先生は『愛したK』を最早、もう二度とは――Kの生身の肉体としてのKの体を抱きしめることは出来ないという謂いである――これは、間違っても同性愛的な意味で言っているのではない――我々が愛する人を失った時に感じるところの、現世的な意味での永遠の喪失感の謂いに於いて、私は言っているのである。――謝罪、なんかじゃあ、ないんだ……。

「それでも私はついに私を忘れる事が出來ませんでした」この二つ目の「私」は、本作品中に現われる無数の「私」の中でも、最も痛烈にして鋭く悲痛な「私」ではないか!

■「Kの遺書」を考えるに当たって――藤村操の影

 我々はまず、「Kの遺書」を考えるに当たって漱石が、少なくともKの自殺や遺書を創作するに際して、必ずや念頭に浮かべた実在の自殺者を考察しておく必要がある。すると当然の如く、明治361903)年に華厳の滝に入水自殺し、自殺当時の青年や知識人に激しいシンパシーや波紋を投げかけた北海道出身の旧制第一高等学校学生藤村操の存在を挙げねばなるまい。以下、ウィキの「藤村操」から詳細を引用しておく。藤村操(ふじむらみさお 明治191886)年~明治361903)年5月22日)『祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する』。『操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道で過ごした。この間の1899年(明治32年)に胖が死去している』。『その後、東京へ移り、京北中学を経て第一高等学校に入学した』。『父の藤村胖は、屯田銀行頭取』、『弟の藤村朗は、建築家で三菱地所社長とな』り、『妹の夫安倍能成は、漱石門下の哲学者。学習院院長や文部大臣を歴任した』。『叔父の那珂通世(胖の弟)は、歴史学者である』。『1903年(明治36年)522日、日光の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して自殺。厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名にのぼった(内既遂が40名)。華厳の滝がいまだに自殺の名所として知られるのは、操の死ゆえである』。『墓所は東京都港区の青山霊園』にある。『藤村が遺書を記したミズナラの木は、警察により伐採されたという。しかし、それを撮影した写真が現存し、現在でも華厳の滝でお土産として販売されている』。以下、遺書であるが、ここのみ、現在残された写真画像を私自身で複数確認し翻刻した。遺書標題「巌頭之感」は実際には冒頭三行の真上に大きな文字で掘り込まれている。標題及び遺書中の「巌」の字体はママ。「我この恨」の「この」は左からの吹き入れのように見える)。

巌頭之感 悠々たる哉 天壤、 遼々たる哉 古今、 五尺の小躯を以て

此大をはからむとす、 ホレーショの哲學竟に何等の

オーソリチィーを價するものぞ、 萬有の

眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。

我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。

既に巌頭に立つに及んで、 胸中何等の

不安あるなし。 始めて知る、 大いなる悲觀は

大いなる樂觀に一致するを。

以下、ウィキの引用に戻る。『ホレーショとはシェイクスピア『ハムレット』の登場人物を指すといわれている』。『「終に死を決するに至る」の箇所を「終に死を決す」としている資料が多いが、誤りである』。以下、「自殺の波紋」という項は極めて興味深い。『彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石の精神にも大きな打撃を与えた。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、うつ病となった一因とも言われる』(下線部やぶちゃん。但し、この項には「要出典」の要請が求められており、鵜呑みにするのは注意を要する)。『また、黒岩涙香、井上哲次郎、坪内逍遥ら当時の知識人の間でも、藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされた。当時のメディアでも、『萬朝報』が叔父那珂道世の痛哭文を載せ、『近時画報』が「巌頭の感」の写真版を載せたのを始め、雑誌も多くこの事件を取り挙げた』。以下、「言及の例」の項。に夏目漱石「吾輩は猫である」の十から引用があるが、岩波版旧全集に当たって表記を正字とした。

打ちやつて置くと巖頭(がんとう)の吟(ぎん)でも書いて華巖滝(けごんのたき)から飛び込むかも知れない。

以下、明治401907)年に書かれた藤村操が実は生き延びて書いたとする偽「煩悶記」書について記されているが、荒唐無稽で不快な記載であるから省略する。次に「自殺の原因」の項。『自殺直後は、遺書「巌頭之感」の影響もあって、藤村は哲学的な悩みによって自殺をしたものと推測された。今日でもこのように考える者は多い。しかし、自殺の前に藤村が失恋していたことが明らかになり[9]、これを自殺の原因と考える者もいる。恋慕の相手は、菊池大麓の長女多美子である。なお、藤村の自殺の年に多美子は美濃部達吉と結婚した』。なお、以下続く注の中に「ホレーショ」について、以下の3及び4の注があるので抜粋しておく。まず注3。

   《引用開始》

劇中、ハムレットがホレーショに以下のように語るシーンがある。

"There are more things in heaven and earth, Horatio. Than are dreamt of in your philosophy.(世界には君の哲学では思いも寄らないことがある)"

遺書の5行目と類似したセリフであり、遺書の不可知論的内容と関連づけて説明されることが多い。

   《引用終了》

次に注4。

   《引用開始》

西洋古典学者の逸身喜一郎は、「ホレーショ」はローマ詩人ホラティウスではないかと指摘している。この場合藤村は、「未来に思い悩まされることなく、一日一日を楽しめ」というホラティウスの快楽主義を批判していることになる。(逸身喜一郎『ラテン語のはなし』2000年 大修館書店 ISBN 978-4-469-21262-4

   《引用終了》

また最後には「関連項目」として、藤村操と関係のあった人物として、単行本「こゝろ」の出版を強く漱石に懇請した岩波茂雄の名が見え、『一高では藤村操の一学年先輩で、藤村の自殺に強い影響を受けたと言われる』とあり、更に尾崎放哉は一高時代の同級生であった旨、記載がある。自由律俳人「層雲」同人尾崎放哉――ご存知の通り、私(やぶちゃん)の卒業論文は「尾崎放哉論」である。

■「Kの遺書」の初期化

 まず大事なことを確認しておきたい。先生は原文をそのまま引き写しているのではないということを確認せよ!

 特に「最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。」に欺かれてはならないのだ! 即ち、我々は

原「Kの遺書」

を、是が非でも想定復元しなくてはならないのである!

まず、第一に我々の発想の転換を求めねばならないのは、

①遺書は擬古文で書かれていた

可能性が高いという点である。明治時代及びその後の多くの遺書にあっても擬古文が主流であったこと及び、先生が遺書を

「簡單で」

「寧ろ抽象的」

であったとし、更に遺書の内容を

「といふ丈」

「極あつさりした文句」

「といふ言葉」

「といふ句」

「といふ依賴」

「といふ意味の文句」

という形で示していることからも明らかである。

但し、これらの先生による現代語訳は擬古文に復元する場合、多様な表現の可能性が考えられ、復元それ自体が相当に困難であること――否、完全復元は実際には不可能であること――をまず言っておかねばならぬ。

更にこの遺書が擬古文であったとすれば、復元の最大のネックがここに明らかになる。即ち、

★遺書の「最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える」と先生が言う「もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句」とは、そのままの文字列では有り得ない

という点である。それは、

◎『もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味』を持ったように見える『ある』擬古文で書かれた「文句」

であって、

×「もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらう」

と書いてあったのではない! という事実を明確に押さえておく必要がある、ということなのである!

■「Kの遺書」の概要(くどいが『本文』では、ない!

・宛名を含め毛筆。外装は通常書簡用封筒を使用したものと思われる。本文紙質は不明であるが、Kが高級和紙類を用いたり、持っている可能性はないに等しいので、書道用書簡用の巻紙のようなものを切截したものと考えてよいであろう。

○先生宛【先生の予想通り】

○内容【先生が予想していたような先生に対する「辛い文句」は全く記されておらず、「必要な事はみんな一口づゝ書いてあ」ったものの、御嬢さんに関わる叙述は全くない、簡単な抽象的な遺書であった】

○自殺の理由

「自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺する」【「といふ丈」の記載であった】

○今まで世話になった私への簡潔な礼【前記の自殺の理由の後に附されていた】

○「世話序に死後の片付方も賴みたい」【「といふ」死後の処理を依頼する「言葉」もあった】

○「奥さんに迷惑を掛けて濟まんから宜しく詫をして呉れ」【「といふ句」もあった】

○「國元へは私から知らせて貰ひたい」【「といふ依賴」もあった】

○末尾書き添え

◎『もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味』を持ったように見える『ある』擬古文で書かれた「文句」【それは「最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える」ものであるから、最期に――末期の眼の中で――どうしてもKが表現したかったことであると考えてよい

■「Kの遺書」の素型的復元案

 最初に述べた通り、実際には擬古文での復元は不可能である。しかし、それでは我々は「Kの遺書」を、ひいては「心」という作品を謎のまま放棄するに等しい。

 以下、私が考える、復元案のやや擬古文調の現代語訳の素型を提示して、諸氏の考察のよすがにして貰えれば、恩幸之に過ぎたるはない。

〔遺書(封筒)宛名書案〕

○○○○君

[やぶちゃん注:通常書簡用封筒を使用したものと思われる。「○○○○」は先生のフル・ネーム。]

〔遺書本文案〕

[やぶちゃん注:外装は改行も私が書いた場合を想定して、私ならここで改行するという位置で行った。カタカナは全体に漢字よりもポイント落ちとしたい。「貴君」「奥サン」「呉レ」という語や表記が果たして当時、一般的であった否かは不明であるが、これは時代考証ではなく、案であるのでそこまで追求してはいない。]

自分ハ薄志弱行而シテ到底行先ノ望無之

故ニ死ヲ決ス

貴君ニハ種々世話ニナツタ心ヨリ禮ヲ云フ

世話序乍恐縮ナレド小生ノ死後ノ片付方モ

宜敷賴ム

奥サンニハ迷惑ヲ掛ケテ濟マンカラ

宜敷詫ビテ呉レ

國元ヘノ知ラセハ惡ヒガ君カラ賴ム

宜敷申上候以上

 □□□□ □□□□

[やぶちゃん注:「□□□□ □□□□」は『もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味』を持ったように見える『ある』擬古文で書かれた「文句」。]

■『もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味』を持ったように見える『ある』擬古文で書かれた「文句」

これは何であったのか? 単純に漢文を考えるなら、例えば

須死迅速而何爲長生也

(須らく迅速(すみや)かに死すべきに無爲(なんす)れぞ長生せしや)

なんどが浮かぶが、これは漢文をちょいと齧った高校生が「漢文の句法」なんどを片手に悪戯書きしたみたような如何にもなもので、退けたい。――しかしそれは先に述べた通り、

「最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える」ものであるから、最期に――末期の眼の中で――どうしてもKが表現したかったことである

ことは確かなことである。

以上から私はこれを、

★禪の公案かその答案を引き写したもの

であった可能性を第一に考えている。

若しくは、

★禪の公案かその答案を真似てKが創案したもの

であった可能性を考えている。

――考えながら、未だ嘗てそれに相当する公案文や答案文に出逢ったことはない――ないが――

★必ずそれに相当するものはある

と確信している。

但し、それは

★『もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句』ではない

可能性が高い。

――即ち私は、

★先生はその遺書の末尾の『文句』を完全に誤読・誤訳している

と考えている。

――否――

確信しているものである。

――識者の方で想起される句があられる方は、どうか御教授の程、よろしくお願い申し上げる。

――それは私のためではなく――

――Kのために――

である――。

★Kは今――この21世紀に!――新たなKとして――復権されなければならない!

♡「必要な事はみんな一口づゝ書いてある中に御孃さんの名前丈は何處にも見えませんでした、私は仕舞迄讀んで、すぐKがわざと回避したのだといふ事に氣が付きました。然し私の尤も痛切に感じたのは、最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした」この冒頭の部分は単行本「こゝろ」で「必要な事はみんな一口づゝ書いてある中に御孃さんの名前丈は何處にも見えません。」に変更される(この読点は原稿では正しく句点で、誤植である)。冒頭注で述べた通り、Kに「御嬢さん」を自死と関連付けて遺書に書く必要も内的要請も全くない。従って、先生の「回避」はお門違いも甚だしい誤解であり、先生の側の愚劣が表出した完全誤答の憶測である。更に既に述べた通り、その遺書末尾の謎の語の解釈も完膚なきまでの誤読であるわけだが、少なくともその誤読の結果、先生が「尤も痛切に感じた」以上、その「尤も痛切に感じた」先生側の考える心内での解釈を明らかにしておかなくてはならない。

 私は過去、それを以下に類した形で板書してきた。

①これはKが、

(α)先生の裏切りを知り、同時に

(β)K自身の御嬢さんへの失恋を認識した。それによって、

(γ)自分自身が遂にこの世でたった独りになってしまった、絶対の孤独者となってしまった、ことを痛感した

ところの表現ではないか?

②これはKが、

(α)自分の平生の信条を裏切りしていながら、おめおめとずるずると生き続けてしまったこと、更に

(β)唯一の親友たる先生の予てよりの御嬢さんへの恋心にさえ気づくことなく、ずうずうしくも何とその先生に御嬢さんへの恋情を告白して恥じなかった自分自身のエゴイズム、お目出度い利己心を痛烈に感じたこと、加えて

(γ)自身を裏切った自分がさっさと死ななかったために、先生を『友を裏切る行為にまで』追い詰めてしまったということへの悔い

の表現ではなかったか?

但し、これらはあくまで先生の側の心の解釈に過ぎないのだということを再度、確認しておく。また、これが真に正しい先生の側の心の解釈であるかどうかも留保する。

♡「私は顫へる手で、手紙を卷き收めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆なの眼に着くやうに、元の通り机の上に置きました。さうして振り返つて、襖に迸ばしつてゐる血潮を始めて見たのです」最も忌まわしい先生の映像がここにある。そして、本「心」というモノクロ映画には、初めてここでフィルムの迸った血の部分に真紅の着色が成される。元の通り、まだ読んでもいないかのように、そうして――そうして「みんなの目に着くように」Kの遺書を置く先生――己の虚像を公的に認知させるための、おぞましい偽善的行為をする先生――私はこんな先生の姿を見たくなかった……こんな愛する先生の姿を思い浮かべねばならないことが、この遺書を読む私(やぶちゃん)には……哀しく辛いのである……]

2010/08/02

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月2日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百一回

Kokoro16_2   先生の遺書

    (百一)

 「私は其儘二三日過ごしました。其二三日の間Kに對する絶えざる不安が私の胸を重くしてゐたのは云ふ迄もありません。私はたゞでさへ何とかしなければ、彼に濟まないと思つたのです。其上奥さんの調子や、御孃さんの態度が、始終私を突ツつくやうに刺戟するのですから、私は猶辛かつたのです。何處か男らしい氣性を具へた奥さんは、何時私の事を食卓でKに素ぱ拔かないとも限りません。それ以來ことに目立つやうに思へた私に對する御孃さんの擧止動作も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは斷言出來ません。私は何とかして、私と此家族との間に成り立つた新らしい關係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。然し倫理的に弱點をもつてゐると、自分で自分を認めてゐる私には、それがまた至難の事のやうに感ぜられたのです。

 私は仕方がないから、奥さんに賴んでKに改ためてさう云つて貰はうかと考へました。無論私のゐない時にです。然しありの儘を告げられては、直接と間接の區別がある丈で、面目(めんばく)のないのに變りはありません。と云つて、拵え事を話して貰はうとすれば、奥さんから其理由を詰問されるに極つてゐます。もし奥さんに總ての事情を打ち明けて賴むとすれば、私は好んで自分の弱點を自分の愛人と其母親の前に曝け出さなければなりません。眞面目な私には、それが私の未來の信用に關するとしか思はれなかつたのです。結婚する前から戀人(こひひと)の信用を失ふのは、たとひ一分一厘でも、私には堪へ切れない不幸のやうに見えました。

 要するに私は正直な路を歩く積で、つい