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2010/08/16

耳嚢 巻之三 高利を借すもの殘忍なる事

「耳嚢 巻之三」に「高利を借すもの殘忍なる事」を収載した。

 高利を借すもの殘忍なる事

 世の中に高利の金銀を借し或ひは日なし拜借し渡世する者程殘忍なるはなし。日なしの錢抔貸す者は、釜に入し米をも釜共に奪ひ歸りて借錢につぐなふ事成由。予白山に居たりし時、其最寄に無賴の少年有りて、放蕩の者故後は我許へも來りざりしが、彼者ある高利借の老姥(らうぼ)に便り催促役抔いたしけるが、或時裏屋の借錢乞に參り候樣、老姥の差圖に任せ至りけるに、夫は留守にて女房計(ばかり)居たりしが、一子疱瘡(はうさう)を愁ひて二枚折の小屏風に風を凌ぎ寒天に薄き※(よぎ)など打かけて介抱なし、借錢の事を申出しければ、かくの通一子疱瘡にて返すべきあてもなし。暫く春迄待給はるやう涙ながら申けるにぞ、尤の事に思ひて立歸りて老婆に其事申ければ、老婆大きに憤り、かゝる不埒の使やある、師走の催促其通りにて可相成哉(あひなるべきや)、病人へ着せし※にても引剥(ひはぎ)來るべき事也と罵りけるぞ、又々彼病家へ至りて老姥が申條しかじかの事也と語りて、工面なし給へ、我等不來(きたらず)ば彼老姥來りていか成事かなすべしといひければ、彼女房涙ながら立出で、其身の着せし布子(ぬのこ)やうの物を賣りて金子壹分持て彼者に渡しけるが、極寒にひとへを着し寒さを凌ぎても、我子の※をとるに忍ざる恩愛の哀れ思ひやられ、無賴の少年ながら請取し壹分の金は拳に踊る心地して老婆に渡しければ、能(よく)こそ取來りたりとて笑ひ請取りけるが、餘りの恐しさに夫よりは彼少年も老姥と交をたちて寄宿せざりしと也。

[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]

□やぶちゃん注

○前項連関:根岸が一時住んでいた白山町での出来事として連関。人でなしという点では、先行した死に至らしめても平然としていた「鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事」の祈禱僧の輩への根岸の怒りとしても連関するようにも思われる。これをもっと意地悪く考えるなら、もっと先行する「窮借手段之事」の借金取り回避の同工異曲のやり口のイカサマではないと否定は出来ないが、そこまで深読みするには余りに根岸の口調は真摯であるから、採らない。

・「借す」当時は「貸」「借」どちらでも同義で相互に用いた。

・「日なし」これは「日濟(済)し」と書いて「ひなし」と読む。日済し金のことで、毎日少しずつ返す約束で貸す金を言う。

・「白山」前章注「白山御殿」参照のこと。

・「疱瘡」天然痘。以下、ウィキの「天痘」より引用する。天然痘は『天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ、治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症』。『その恐るべき感染力、死亡率(諸説あるが40%前後とみられる)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となった事すらある。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた』。『天然痘ウイルス(Variola virus)は、ポックスウイルス科オルソポックスウイルス属に属するDNAウイルスである。直径200ナノメートルほどで、数あるウイルス中でも最も大型の部類に入る。ヒトのみに感染・発病させるが、膿疱内容をウサギの角膜に移植するとパッシェン小体と呼ばれる封入体が形成される。これは天然痘ウイルス本体と考えられる。天然痘は独特の症状と経過をたどり、古い時代の文献からもある程度その存在を確認し得る。大まかな症状と経過は次のとおりである』。以下、「臨床像」(前段の一部を省略するが、それ以降は改行が多いので、そのまま引用する)。

   《引用終了》

飛沫感染や接触感染により感染し、7~16日の潜伏期間を経て発症する。

40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。

発熱後3~4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。

7~9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。

2~3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。

治癒後は免疫抗体ができるため、二度と罹ることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。

天然痘ウイルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたでも1年以上も感染させる力を持続する。天然痘の予防は種痘が唯一の方法であるが、種痘の有効期間は5年から10年程度である。何度も種痘を受けた者が天然痘に罹患した場合、仮痘(仮性天然痘)と言って、症状がごく軽く瘢痕も残らないものになるが、その場合でも他者に感染させる恐れがある。

   《引用開始》

以下、歴史が示される。『天然痘の発源地はインドであるとも、アフリカとも言われるが、はっきりしない。最も古い天然痘の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争の頃であり、また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世である。彼のミイラには天然痘の痘痕が認められた』(ヨーロッパ及びアメリカでの天然痘疾病史がここに入るが省略する)。『中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た』。『日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年には敏達天皇が崩御するが、天然痘によるものではないかという見方もある』。『735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死亡した。こうして政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行である』。『ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。天皇さえも例外ではなく、東山天皇は天然痘によって崩御している他、孝明天皇の死因も天然痘といわれる。明治天皇も、幼少時に天然痘にかかっている』。『北海道には江戸時代、本州から渡来した船乗りや商人たちによって、肺結核、梅毒などとともに伝播した。伝染病に対する抵抗力の無かったアイヌ民族は次々にこれらの病に感染したが、そのなかでも特に恐れられたのが天然痘だった。アイヌは、水玉模様の着物を着た疱瘡神「パコロカムイ」が村々を廻ることにより天然痘が振りまかれると信じ、患者の発生が伝えられるや、村の入り口に臭いの強いギョウジャニンニクや棘のあるタラノキの枝をかかげて病魔の退散を願った。そして自身は顔に煤を塗って変装し、数里も離れた神聖とされる山に逃げ込み、感染の終息を待ちつづける。しかしこのような行為に医学的な効果があるわけでもなく、江戸期を通じて流行は繰り返され、和人商人のアイヌ酷使も相まってアイヌ人口は大いに減少した。幕末にアイヌ対象の大規模な種痘が行われ、流行にようやく歯止めがかかった』。以下、「制圧の記録」として「種痘」の解説が掲げられている。『天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に知られていた。いつ始まったのかはわからないが、西アジア・インド・中国などでは、天然痘患者の膿を健康人に接種し、軽度の発症を起こさせて免疫を得る方法が行なわれていた。この人痘法は18世紀前半にイギリス、次いでアメリカにももたらされ、天然痘の予防に大いに役だった。しかし、軽度とはいえ実際に天然痘に感染させるため、時には治らずに命を落とす例もあった。統計では、予防接種を受けた者の内、2パーセントほどが死亡しており、安全性に問題があった』。『18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘にかかった者は天然痘に罹患しない事がわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) 1798年、天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった。なお、ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする美談もあるが、実際にはジェンナーの使用人の子に接種した』。『日本の医学会では有名な話として日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔が、ジェンナーの牛痘法成功にさかのぼること6年前に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施し成功させている。福岡県の甘木朝倉医師会病院にはその功績を讃え、緒方春朔と天野甚左衛門、そして子供たちが描かれた種痘シーンの石碑が置かれている』。以後は近代の経緯。『1958年に世界保健機関(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。中でも最も天然痘の害がひどいインドでは、天然痘に罹った人々に幸福がもたらされるという宗教上の観念が浸透していたため、根絶が困難とされた。WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1ヶ月前から患者に接触した人々を対象として種痘を行い、ウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させる事で天然痘の感染拡大を防ぐ方針をとった。これが功を奏し、根絶が困難と思われていたインドで天然痘患者が激減していった』。『この方針は他地域でも用いられ、1970年には西アフリカ全域から根絶され、翌1971年に中央アフリカと南米から根絶された。1975年、バングラデシュの3歳女児の患者がアジアで最後の記録となり、アフリカのエチオピアとソマリアが流行地域として残った』。『1977年、ソマリアの青年の患者を最後に天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日にWHOは根絶宣言を行った。天然痘は現在自然界においてウイルス自体存在しないものとされ人類が根絶した(人間に感染する)感染症として唯一のものである』。『天然痘ウイルスは現在、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)とロシア国立ウイルス学・バイオテクノロジー研究センター(VECTOR)のレベル4施設で厳重に管理されており非公開になっている。公式に保有が認められているのは上述2機関のみであるが、ソ連崩壊の混乱で一部が国外に流出しテロリスト組織などが保有しているとの説や各国の軍が防疫・研究の目的で密かに保有しているとの説もある。このため、CDCVECTORも保有株を完全に廃棄するには至っていない』。本邦では、1970年代に国外から持ち込まれた数例がある以外、『独自の発生は1955年の患者を最後に根絶された』。『WHOによる根絶運動により、1976年以降予防接種』は廃止されている。『1978年、イギリスのバーミンガム大学医学部に勤務する女性が、実験用の天然痘ウイルスに感染して死亡した事例が有る。これは1人の研究者が実験用の天然痘を漏洩させてしまい、女性が感染したものである(漏洩させてしまった研究者は罪の意識で自殺)。これがいわゆるバーミンガム事件である』。『現在では天然痘ウイルスのDNA塩基配列も解読されており解析はほぼ終了している』。以下、「予防・治療」の項、『「種痘」というワクチン接種による予防が極めて有効。感染後でも4日以内であればワクチン接種は有効であるとされている。また化学療法を中心とする対症治療が確立されている』とある。『根絶されたために根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に510年といわれているため、現在では免疫を持っている人はほとんどない。そのため、生物兵器としてテロに流用された場合に大きな被害を出す危険が指摘されて』おり、更に一部に『天然痘そのものは根絶宣言が出されたが、類似したウイルスの危険性を指摘する研究者がいる。研究によれば、複数の身近な生物が類似ウイルスの宿主になりうることが示されており、それらが変異すると人類にとって脅威になるかもしれないと警告している』。『天然痘はかつての伝染病予防法では法定伝染病に指定されていた』が、現在も1999年施行された新しい感染症法によって一類感染症7疾患(擬似症患者及び無症状病原体保有者についても患者として強制措置対象となる感染症)エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、南米出血熱、ペスト、マールブルグ熱、ラッサ熱と共に掲げられている。

・「※(よぎ)」[「※」=「衤」+「廣」。]夜着。寝るときに上に掛ける夜具で、着物の形をした大形の掛け布団。かいまき。

・「布子」木綿で出来た綿入れ。

・「壹分」岩波版では「一歩」(いちぶ)。これは、借りていた金の「一部分」という意味で用いているものと思われる。江戸の「一分」は相当な高額(1両の1/4。凡そ15,000円相当)で、布子一枚で手に入る金額ではない。

■やぶちゃん現代語訳

 高利貸しの残忍なる事

 世の中で高利の金銀を貸し若しくは日済(ひな)しなど貸して渡世する者ほど残忍な輩は御座らぬ。日済しの銭なんどを貸す者には、釜に入った僅かな米さえ釜ごと奪って借銭の代わりとするともいう。

 私が白山に住んでいた頃のこと、近所に一人の無頼の少年がおった。放蕩の者であったから、後には私のもとへも姿を見せぬようになったが、この少年がかつて私に語ったことにて御座る。

 この少年、ある高利貸しの老婆を頼って、その借金の取り立て役なんどを致しておった由。

 ある時、裏屋に借金取りに行くよう老女に命ぜられ、言われるがままにその裏屋を訪ねてみたところが、夫は留守にて女房ばかりが居り、未だ幼少の一人子はといえば、疱瘡を病んで臥せって、二つ折りの形ばかりの小屏風にて隙間風を凌ぎ、寒い季節にも関わらず如何にも薄い夜着を掛けただけで、介抱している。

 少年が借金の返済を告げたところ、女房は、

「……見ての通り、子が疱瘡を病んでおりますれば……御借財を返すあてが御座いませぬ……どうか、どうか暫くの間……年明けの春までお待ち頂きますよう……」

と涙ながらに訴える。少年は、尤もなことと思い、立ち帰って老婆にその委細事情を伝えたところが、老女は大いに怒り、

「こんなとんでもない借金取りがあろうかい! ええつ?! 師走の貸した金の催促が、そんなもんで罷り通ると思ったら大間違いじゃて! その病人に被せた夜着でも何でも剥ぎ取って来るんだよう! 分かったかい?! この青二才が!」

と激しく罵られた。

 少年は仕方なく再び先の裏家を訪れ、婆さんが何のかんのと申しておる旨、語った上、

「……何とか工面したがいいゼ……俺(おい)らが金を持って帰らなけりゃ……あの婆あ本人が駆け込んで来て……一体、何をするから、分からん剣幕じゃったからな……。」

と告げたところ、かの女房、少年に留守居を頼んで、涙を拭きながら家を出た。

 暫くして帰って来た女房――さっきまで来ていた布子を売って、少しばかりの金を借金の返済の一部として拵えてきた女房――そのなけなしの銭を、かの少年に手渡した。極寒の中、薄い単衣(ひとえ)一枚を着て寒さを凌いでいる女房――自身がその寒さに震えながらも、流石に我が子の夜着まで質に入れるには忍びないというその女房の、母としての恩愛の情が哀れに思いやられ、無頼ながらも少年の心を激しく打った――。

 ――帰り道、握りしめた掌の内で、何やらん、受け取ったその金が、妙に落ち着かず、にちゃにちゃと気味悪く汗ばんでくるのが分かった。――

 さて立ち帰って老婆にその金を渡したところが、

「よい!よい! でかしたのう! よう、取ってきた!」

と如何にも不気味に笑(わろ)うて受け取ったが――流石の恐ろしさに、以後、かの少年もかの鬼女とは縁を切って、二度と寄宿することはあらなんだ、ということであった。

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