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« 『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月10日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百九回 | トップページ | 「心」連載完遂記念日 »

2010/08/11

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月11日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百十回

Kokoro16_2   先生の遺書

    (百十)

 「私は殉死といふ言葉を殆ど忘れてゐました。平生(へいせい)使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談(ぜうたん)を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答へました。私の答も無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持がしたのです。

 それから約一ケ月程經ちました。御大葬の夜(よる)私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木(のき)大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思はず妻に殉死だ/\と云ひました。

 私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪られて以來、申し譯のために死なう/\と思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月(としつき)を勘定して見ました。西南戰爭は明治十年(れん)ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間死なう/\と思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刃(やいば)を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方(どつち)が苦しいだらうと考へました。

 それから二三日して、私はとう/\自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己れを盡した積です。

 私は妻を殘して行きます。私がゐなくなつても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に殘酷な驚愕を與へる事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬ積です。妻の知らない間に、こつそり此世から居なくなるやうにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思はれたいのです。氣が狂つたと思はれても滿足なのです。

 私が死なうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自叙傳の一節を書き殘すために使用されたものと思つて下さい。始めは貴方に會つて話をする氣でゐたのですが、書いて見ると、却(かへつ)て其方が自分を判然(はつきり)描(えが)き出す事が出來たやうな心持がして嬉しいのです。私は醉興(すゐきよう)に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞(いつわ)りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。渡邊華山は邯鄲(かんたん)といふ畫(ゑ)を描(か)くために、死期を一週間繰り延べたといふ話をつい先達(せんだつ)て聞きました。他(ひと)から見たら餘計な事のやうにも解釋できませうが、當人にはまた當人相應の要求が心の中(うち)にあるのだから己(やむ)むを得ないとも云はれるでせう。私の努力も單に貴方に對する約束を果すためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。

 然し私は今其要求を果しました。もう何にもする事はありません。此手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世にはゐないでせう。とくに死んでゐるでせう。妻は十日ばかり前から市ケ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病氣で手が足りないといふから私が勸めて遣つたのです。私は妻の留守の間(あひだ)に、この長いものゝ大部分を書きました。時々妻が歸つて來ると、私はすぐそれを隱しました。

 私は私の過去を善惡ともに他(ひと)の參考に供する積です。然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何(なん)にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の祕密として、凡てを腹の中(なか)に仕舞つて置いて下さい。」(終り)

Line_2

やぶちゃんの摑み:連載最終回であり、通常より200字以上、分量が多い。

♡「御大葬の夜私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました」司法省(現・法務省旧館赤レンガ棟)前広場に於いて、東京青山の帝國陸軍練兵場(現・神宮外苑)に於いて執行する大喪之礼のために御大葬葬列が皇居を出発した大正元年913日午後8時より101発の弔砲が打たれている。「後で考へると、それが乃木大將の永久に去つた報知にもなつてゐた」とあるが、乃木と靜の自刃はこの最初の号砲直後のことと推定されている。

♡「明治の精神に殉死する」という命題を創案した先生は、「私の答も無論笑談に過ぎなかつた」が、そこに「古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持」を抱いたことも事実だと「私」に述べる。私はこの命題を真として認識した地平に、先生の安心があり、少年のような笑顔が見える。高校の授業では、教師であろうが生徒であろうが、誰もが適当に誤魔化して避けて通ろうとするこの意味深で怪しげなと猜疑する「明治の精神」にこそ、先生の至ったクリアーな境地は、ある。それは誤魔化しやすり替えや、況や事大主義的大義名分や自己合理化のための口実なんどではあり得ない。

「明治の精神」

先生の存在証明(レゾン・デトール)

鮮やかで清々しい諦観の中の自律的自己決定権

自己の人生の確かな「心」というものの真理としての把握

『確かに私は、その時代を「かく」生き、「かく」悩み、「かく」生暖かい「血と肉」の中で生きと生きたのである!』

という透明な爽やかな実感の中にこそ、先生はある――

それは永遠の先生の――

そしてKの――

そして、この遺書を読む「私」の――

その将来にあって欲しい、否、必ずや「在る」と先生が信じて已まぬ――

 予定調和としての至るべき魂の安穏 

――そのものなのであったのである。

♡「私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪られて以來、申し譯のために死なう/\と思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月(としつき)を勘定して見ました」現在、乃木希典(のぎまれすけ 嘉永2年(1849)年~大正元(1912)年913日:元長府藩士。軍人。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。)の遺書は東京乃木坂にある乃木神社に社宝としてある。以下、今回私は、複数の画像を元に、なるべく原遺書に忠実になるよう、総てを私の完全オリジナルで翻刻を試みた。「□原型」は配字を意識しての翻刻、脱字と思われるものは〔 〕で補った。署名後の花押は【花押】で示した。「□整序」は詠み易く各項の改行を排除し、一部に空欄を設けたものである。〔 〕で補ったものは、〔 〕を外した。「医學校」の「医」はママ。現在ネット上にある乃木大将の「遺言條々」の電子テクスト翻刻の中では、上の部類に属するものと秘かに自負するものである。

□原型

  遺言條々

第一自分此度御跡ヲ

  追ヒ奉リ自殺候處

  恐入候儀其罪ハ

  不輕存候然ル處

  明治十年之役ニ於テ

  軍旗ヲ失ヒ其後

死處得度心掛候モ

  其機ヲ得ス

皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄

  過分ノ御優遇ヲ蒙

  追々老衰最早御役

  ニ立候時モ無餘日候折柄

  此度ノ御大變何共

  恐入候次第茲ニ覺

  悟相定候事ニ候

第二両典戰死ノ後者

  先輩諸氏親友

       諸彦

  ヨリモ毎々懇諭

  有之候得共養子

  弊害ハ古來ノ議論

  有之目前乃木大兄

  ノ如キ例他ニモ不尠

  特ニ華族ノ御優遇

  相蒙リ居實子ナラハ

  致方モ無之候得共却テ

  汚名ヲ殘ス樣ノ憂ヘ

  無之爲メ天理ニ背キ

  タル事ハ致ス間敷

       事ニ候

  祖先ノ墳墓ノ守護

  ハ血縁ノ有之限リハ

  其者共ノ氣ヲ付可申

  事ニ候乃チ新坂邸ハ

  其爲メ区又ハ市ニ

       寄

  附シ可然方法願度候

第三資財分與ノ儀ハ別紙

  之通リ相認メ置候

  其他ハ靜子ヨリ相談

  可仕候

第四遺物分配ノ儀ハ自分

  軍職上ノ副官タリシ

  諸氏ヘハ時計メートル

  眼鏡馬具刀劍等

  軍人用品ノ内ニテ見

  計ヒノ儀塚田大佐ニ

  御依賴申置候大佐ハ

  前後兩度ノ戰役ニモ

  盡力不少靜子承知ノ

  次第御相談可被致候

  其他ハ皆々ノ相談ニ任セ

  申候

第五御下賜品(各殿下ヨリノ分モ)

  御紋付ノ諸品ハ悉

  皆取纏メ學習院ヘ

  寄附可致此儀ハ松井

  猪谷兩氏ヘモ御賴仕置

          キ候

第六書籍類ハ學習院ヘ

  採用相成候分ハ可成

  寄附其餘ハ長府

  圖書館江同所不用

  ノ分ハ兎モ角モニ候

第七父君祖父曾祖父君

  ノ遺書類ハ乃木家

          ノ

  歴史トモ云フヘキモノ

  ナル故巖ニ取纏メ

  眞ニ不用ノ分ヲ除キ

  佐々木侯爵家又ハ

  佐々木神社ヘ永久無限

  ニ御預ケ申度候

第八遊就館ヘ〔ノ〕出品者

  其儘寄附致シ

       可

  申乃木ノ家ノ紀念

  ニハ保存無此上良法ニ候

第九靜子儀追々老境ニ入

  石林ハ不便ノ地病氣等

  節心細クトノ儀尤モ

  存候家ハ集作ニ讓リ

  中埜ノ家ニ住居可然

  同意候中野ノ地所

  家屋ハ靜子其時ノ

  考ニ任セ候

第十此方屍骸ノ儀者

  石黑男爵へ相願置

  候間可然医學校ヘ

  寄附可致墓下ニハ

  毛髪爪齒(義齒共)ヲ

  入レテ充分ニ候(靜子

       承知)

 ○恩賜ヲ頒ツト書キタル

  金時計ハ玉〔木〕正之ニ遣ハシ候

  筈ナリ軍服以外ノ服装ニテ

  持ツヲ禁シ度候

右ノ外細事ハ靜子ヘ

申付置候間御相談

被下度候伯爵乃木家

        ハ

靜子生存中ハ名義

可有之候得共呉々モ

斷絶ノ目的ヲ遂ケ

候儀大切ナリ右遺言

如此候也

大正元年九月十二日夜

       希典

       【花押】

 湯地定基殿

 大舘集作殿

 玉木正之殿

   静子殿

□整序

  遺言條々

第一 自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ自殺候處恐入候儀其罪ハ不輕存候然ル處明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後死處得度心掛候モ其機ヲ得ス皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候時モ無餘日候折柄此度ノ御大變何共恐入候次第茲ニ覺悟相定候事ニ候

第二 両典戰死ノ後者先輩諸氏親友諸彦ヨリモ毎々懇諭有之候得共養子弊害ハ古來ノ議論有之目前乃木大兄ノ如キ例他ニモ不尠特ニ華族ノ御優遇相蒙リ居實子ナラハ致方モ無之候得共却テ汚名ヲ殘ス樣ノ憂ヘ無之爲メ天理ニ背キタル事ハ致ス間敷事ニ候祖先ノ墳墓ノ守護ハ血縁ノ有之限リハ其者共ノ氣ヲ付可申事ニ候乃チ新坂邸ハ其爲メ区又ハ市ニ寄附シ可然方法願度候

第三 資財分與ノ儀ハ別紙之通リ相認メ置候其他ハ靜子ヨリ相談可仕候

第四 遺物分配ノ儀ハ自分軍職上ノ副官タリシ諸氏ヘハ時計メートル眼鏡馬具刀劍等軍人用品ノ内ニテ見計ヒノ儀塚田大佐ニ御依賴申置候大佐ハ前後兩度ノ戰役ニモ盡力不少靜子承知ノ次第御相談可被致候其他ハ皆々ノ相談ニ任セ申候

第五 御下賜品(各殿下ヨリノ分モ)御紋付ノ諸品ハ悉皆取纏メ學習院ヘ寄附可致此儀ハ松井猪谷兩氏ヘモ御賴仕置キ候

第六 書籍類ハ學習院ヘ採用相成候分ハ可成寄附其餘ハ長府圖書館江同所不用ノ分ハ兎モ角モニ候

第七 父君祖父曾祖父君ノ遺書類ハ乃木家ノ歴史トモ云フヘキモノナル故巖ニ取纏メ眞ニ不用ノ分ヲ除キ佐々木侯爵家又ハ佐々木神社ヘ永久無限ニ御預ケ申度候第八遊就館ヘノ出品者其儘寄附致シ可申乃木ノ家ノ紀念ニハ保存無此上良法ニ候

第九 靜子儀追々老境ニ入石林ハ不便ノ地病氣等節心細クトノ儀尤モ存候家ハ集作ニ讓リ中埜ノ家ニ住居可然同意候中野ノ地所家屋ハ靜子其時ノ考ニ任セ候

第十 此方屍骸ノ儀者石黑男爵へ相願置候間可然医學校ヘ寄附可致墓下ニハ毛髪爪齒(義齒共)ヲ入レテ充分ニ候(靜子承知)

○恩賜ヲ頒ツト書キタル金時計ハ玉木正之ニ遣ハシ候筈ナリ軍服以外ノ服装ニテ持ツヲ禁シ度候右ノ外細事ハ靜子ヘ申付置候間御相談被下度候伯爵乃木家ハ靜子生存中ハ名義可有之候得共呉々モ斷絶ノ目的ヲ遂ケ候儀大切ナリ右遺言如此候也

大正元年九月十二日夜

       希典

       【花押】

 湯地定基殿

 大舘集作殿

 玉木正之殿

   靜子殿

因みに「乃木さんは此三十五年の間死なう/\と思つて……」の部分の「乃木さん」の「乃」ルビは、底本では、右を頭にして転倒している。

 さて、ここで乃木の軍旗奪取事件を示しておく必要がある。以下、ウィキの「乃木希典」の該当部から引用しておく。乃木は慶応元(1865)年に長府藩報国隊に入隊、奇兵隊に合流して幕府軍と戦い、明治41871)年-に正式に陸軍少佐に任官(23歳)、明治101877)年、歩兵第十四連隊長心得として小倉に赴任した。『時を置かず勃発した秋月の乱を鎮圧、つづいて西南戦争に従軍した。西南戦争では、初戦時、退却の際に軍旗を持たせた兵が討たれ、軍旗が薩摩軍に奪われた。乃木は激しく自分を責め、まるで戦死を望むかのような蛮戦をくりかえす。負傷して野戦病院に入院しても脱走して戦地に赴こうとした。退院後は熊本鎮台の参謀となり第一線指揮から離れた。乃木の行動に自殺願望をみた山縣有朋や児玉源太郎など周囲が謀った事と言われる』。『乃木は官軍の実質的な総指揮官であった山縣に待罪書を送り、厳しい処分を求めた。しかし、軍旗紛失後の奮戦も含め、自ら処罰を求めた乃木の行動はかえって潔いと好意的に受け止められ、罪は不問とされた。しかし乃木は納得せず、ある日切腹を図ったがすんでの所で児玉に取り押さえられるという事件があったと言われる。「軍旗は天皇陛下から給わったもの。詫びなければならない」と言って譲らない乃木に対し、児玉は厳しく諫めたという』。『後に乃木が殉死した際、遺書とともにこのときの待罪書が見つかった。大将にまで上り詰めた乃木が、若き日の軍旗喪失の責任を忘れていなかったことと、その時果たせなかった切腹による引責を殉死によって遂げたことが明らかになり、その壮烈な責任感は、日本のみならず世界に大きな衝撃を与えた』。『一連の士族争乱は、乃木にとって実に辛い戦争であった。軍旗を失うという恥辱もさることながら、萩の乱では実弟・玉木正誼が敵対する士族軍について戦死している(正誼は兄・希典に士族軍に付くよう何度も説得していた)。さらには、師であり、正誼の養父でもあった玉木文之進が、萩の乱に正誼と弟子らが参加した責任を感じて切腹した。この後、乃木の放蕩が尋常でなくなり、たびたび暴力まで振るうようになったことから西南戦争が乃木の精神に与えた傷がいかに深かったかが知れる。乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留学まで続いた』とある。このドイツ留学前に軍旗問題で自棄的となり、鯨飲不摂生の乃木を案じた周囲が結婚を薦め、明治111878)年薩摩藩士湯地定之四女靜子と結婚した。希典30歳、静子20歳であった。その後、明治121879)年、長男勝典、同141881)年に次男保典を得ている。それぞれの不幸な戦死については第(九)回で記してあるので、そちらを参照されたい)。なお、遺書の宛名に現れる人物は湯地定基が靜子の兄、大館集作が乃木の末弟、玉木正之が乃木の次弟であった萩の乱で敵方として戦死した正誼の子、乃木の甥である。

♡「それから二三日して、私はとう/\自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己れを盡した積です」

「それから二三日して、私はとう/\自殺する決心をしたのです」先生にとっての乃木の殉死の意味は何であったか?――これは当然、解剖されねばならぬ。意味はある。第(四十一)回で「私」が自分の父と自分と対比したように、ここに我々は「先生」のそれを対峙させねばならない。それは勿論、父とも「私」とも自ずと異なる感懐となるのである。「それから二三日して」とあるように、

『乃木大将の殉死』という現象の枠組・額縁(間違ってもその核心や思想ではない

が、

先生の自死の決意=死へのスプリング・ボード

となっている

ことは疑いない。ところがここで驚くべきことに、先生は『「私に」は「乃木さんの死んだ理由が能く解らない」』と言明である。即ち、実行行為としての明治天皇への殉死と言う命題は先生には真でも偽でもない。全く意味をなさない内容のない命題であると言っているのである。従って

Ⅰ 先生の死は乃木の死とはその意味において精神的には無関係であり、先生は乃木の死を自己の論理の中では全く評価していない。

と言うのである。これがまず先生が示した『最期の第1命題』『最期の第1公案』である。

そして次に先生はこう畳み掛ける。いや、これが命題=公案への師の禪気を促す、警策である。

――「私に乃木さんの死んだ理由が能く解らない」のと同様に、もしかすると「貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れ」ない――

――いや、本来は私が「乃木さんの死んだ理由が能く解らない」ことと、「貴方に」「私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れ」ないことは全くレベルの違う、否、真偽の問題なのであって、そんなことは起こり得ない――

――私が選んだ『あなた』である以上、それは、あり得ないことなのであるが――

――万一、残念なことに「貴方に」「私の自殺する譯が明らかに呑み込めない」という悲しい結果が生じたとすれば――

――「もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方が」ない――――「或は」悲しいことにみそこなったあたたという「個人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れ」ない――

――しかし、そうであったら……私のこの遺書は無駄である。即座に焼き捨てるがよい――

――いや、勿論、そんな心配は私はしていないのだ――

――「私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で」完全に「己れを盡した積で」ある――

こう考える時、私がかつて授業で「学生に先生の自殺の意味が分からないかも知れない理由」などと板書し、まことしやかに

「時勢の推移から來る人間の相違」

「箇人の有つて生れた性格の相違」

等と書いて意味深長にそれを考えることを促し、その癖、

↓(だったら仕方がない)

しかし分かってもらえるように「己を尽くした」

ず「私」には分かるのである!!![やぶちゃん注:板書でもサイド・ラインを引いた。]

などどまどろっこしいことをしていたのが恥ずかしくなってくるのである。

♡「私を生んだ私の過去は、人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。」これは、「私は私の過去を善惡ともに他(ひと)の參考に供する積です」と共に、

Ⅱ この遺書は「人間を知る上に於いて」意味あるもの、「他の參考に供」し得るものであり、この「私の過去を善惡ともに他の參考に供する」価値がある

これが先生の『最期の第2命題』『最期の第2公案』である。この遺書は、

先生の『かく私は生きた』という強い『正当にして正統なる自己存在』の自負の表明

であり、それはまた、先生が

将来のこの遺書公開を許諾するもの

と取ってよいのである。

♡「渡邊華山」「渡邊華山」について、ウィキの「渡辺崋山」より引用しておく。「華」は「崋」が正しい。渡辺崋山(寛政51793)年~天保121841)年)は『江戸時代後期の画家であり、三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった』。『江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町(現在の東京都千代田区の三宅坂付近)の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩の中でも上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通は養子であったために15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、加えて折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。さらに父定通が病気がちであったために医薬に多くの費用がかかったこともあり、幼少期は極端な貧窮の中に送った。日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。このありさまは、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しい。この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになった。のちに谷文晁(たにぶんちょう)に入門し、絵の才能は大きく花開くこととなり、20代半ばには画家として著名となり、生活にも苦労せずにすむようになった。一方で学問にも励み、田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学んだ。また、佐藤信淵からは農学を学んだ』。『藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。こういった生い立ちが崋山の藩主一家への親近感や一層の忠誠心につながっていった。16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕するが、納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目であった。文政6年(1823年)、田原藩の和田氏の娘・たかと結婚し、同8年(1825年)には父の病死のため32歳で家督を相続し、80石の家禄を引き継いだ(父の藩内の出世に合わせて、禄は復帰していた)。同9年には取次役となった』。『ところが、翌10年に藩主康明は28歳の若さで病死。藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から持参金つき養子を迎えようとした。崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。結局藩上層部の意思がとおって養子・康直が藩主となり、崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で藩首脳部と姫路藩と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保)を次の藩主とすることを承諾させている。また藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、こののちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望する際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山の死後の明治14年(1881年)に『崋山先生略伝補』として崋山の伝記を書き残している』。『天保3年(1832年)5月、崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任する。20代半ばから絵画ですでに名を挙げていた崋山は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわなかった』。『こうして崋山は、藩政改革に尽力する。優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。さらに農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行おうとした。永常はまず田原で稲作の技術改良を行い、特に鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながったといわれている。さらに当時諸藩の有力な財源となりつつあった商品作物の栽培を行い、特に温暖な渥美半島に着目してサトウキビ栽培を同地に定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。このほか、ハゼ・コウゾの栽培や蠟絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている』。『天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている』。『また、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合った。この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当している。その後この学問サークルはモリソン号事件とともにさらに広がりを見せ、蘭学者の長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などで深く議論するようになった。特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などの助言を受けている。こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある藤田東湖は、「蘭学にて大施主」と呼んでいる。崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちのリーダー的存在であるとみなしての呼び名である』。『しかし幕府の保守派、特に幕府目付鳥居耀蔵らはこれらの動きを嫌っていた。鳥居は元々幕府の儒学(朱子学)を担う林家の出であり、蘭学者が幕府の政治に介入することを好まなかったし、加えてそもそも崋山や江川も林家(昌平坂学問所)で儒学を学んだこともあり、鳥居からすれば彼らを裏切り者と感じていたともいわれる。天保10年(1839年)5月、鳥居はついにでっちあげの罪を設けて江川や崋山を罪に落とそうとした。江川は老中水野忠邦にかばわれて無事だったが、崋山は家宅捜索の際に幕府の保守的海防方針を批判し、そのために発表を控えていた『慎機論』が発見されてしまい、幕政批判で有罪となり、国元田原で蟄居することとなった。翌々年、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち(一説には藩内の反崋山派による策動とされている)、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。崋山に対する反崋山派の圧力はその死後も強く、また幕府の手前もあり、息子の渡辺小崋が家老に就任して家名再興を果たした後も墓を建立することが許されなかったという(江戸幕府が崋山の名誉回復と墓の建立を許可したのは、江戸幕府滅亡直前の明治元年315日(186847日)のことであった)。なお、小崋をはじめとする崋山の子女はいずれも子供に恵まれなかったために、明治期にその家系は断絶することになった』。『華山は年少の頃より生計を支える為に画業を志した。最初、大叔父の平山文鏡に画の手ほどきを受け、続いて白川芝山に師事したが付届けができないことを理由に破門された。これを憐れんだ父は、藩主の姻戚の家来というつてを頼って金子金陵に崋山の弟子入りを頼み、受け入れられた(崋山16歳)。金陵は崋山に眼をかけ、崋山の画力は向上した。このころ、初午灯篭の絵を描く内職を手がけた。崋山によれば百枚書いて、銭一貫だったというが、このときに絵を速く描く技術を身につけたことは、後年の紀行文中のスケッチなどに大きく役立ったであろうことがうかがえる』。『さらに、金陵の師である谷文晁にも教えを受けた。文晁は華山の才能を見抜き、画技のみならず文人画家としての手本となった。師の文晁に倣って南画のみならず様々な系統の画派を広く吸収した。文人画は清の惲南田に強く影響されている。また肖像画は陰影を巧みに用いて高い写実表現に成功している。西洋画の影響があったことは間違いないがかつて例のない独自の画法を確立させた。当時から華山の肖像画は人気があり多くの作品を画いた。代表作としては、「鷹見泉石像」・「佐藤一斎像」・「市河米庵像」などが知られる。弟子に椿椿山・福田半香などが育った』。但し、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の注によれば、ここで示される渡辺崋山の「邯鄲」の絵は笹川臨風が昭和151940)年高陽書院刊の「渡辺崋山」で遺作としては疑義を呈しており、『その出来映えについても原画に基づいた単なる「戯余の模写」とまで言っている』とある。

♡「邯鄲」唐代の800年頃に成立した伝奇小説「枕中記(ちんちゅうき)」に基づく南画。沈既濟(しんきせい)作。開元7(719)年のこと、栄達を望んで旅の途中の若者盧生(ろせい)が趙の旧都邯鄲の旅宿で道士の呂翁(りよおう)という老人と出逢い、彼の所持する不思議な青磁の枕を借りて午睡した。すると盧生はみるみる小さくなって枕の中へ――その後、成功した盧生は京兆尹(都の長官)となるが、政争の中で波乱万丈の人生を送り、失脚や雌伏の時代もあったものの、最後は返り咲いて宰相の地位を恣にし栄耀栄華の限りを尽くした一生を送って五十余年の長寿を全うして死んだ――と思ってふと気がついてみると、それは総てが一時の夢であって、旅宿の主人に頼んだ黍(きび・黄粱)の粥も未だ炊き上がってはいないのであった。盧生は現世の名利の儚さを悟って呂翁を礼拝して郷里へと帰る。人の世の栄枯盛衰のはかないことの譬えとして「邯鄲の夢」「盧生の夢」「黄粱一炊の夢」等の故事成句がここから生まれた。本作の最後を飾るに相応しい画題内容と言え、漱石は明らかにそうした意図で選んでいるように思われる。中国語繁体字原文は例えばこちら(小さな資料室室長氏の「小さな資料室」内の『沈既濟「枕中記」』)にある。中学時代から私の大好きな話であっただけに、高校時代にここを読んだ時は、人より「こゝろ」が分かったような気がして、何だか無性に嬉しくなったのを覚えている。

「然し私は今其要求を果しました。もう何にもする事はありません」私が冒頭で献辞した――「こゝろ」を総て暗記していて、私が求めれば即座にどんな場所でも朗々と暗誦してくれる、私にとっての学生の「私」たる私の教え子にして畏友たる――S君が、先日指摘してくれたことがある。彼のメール本文をまずはお示ししよう。

「もう何にもすることはありません」この言葉は先生が遺書を書き終えた時だけでなく、学生が論文を仕上げた時にも使われますね。どちらも解放感をもって口にされるのに、その次に待ち受けることの違いにいつも複雑な思いを抱きます。

――第(二十六)回で「私」が卒業論文を仕上げ、久しぶりに先生の宅を訪ねる。その時、

先生は嬉しさうな私の顏を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といつた。私は「御蔭で漸く濟みました。もう何にもする事はありません」と云つた。

とある。ここで先生は遺書を書き上げた直後に、このように

「もう何にもする事はありません」

と全く同じ言葉を記すのである。

私は迂闊であった。

このことに今日の今日まで気づかなかった。

――そうして以前からの或る疑問が氷解した気がした。――

「私の選擇した問題は先生の專門と縁故の近いものであつた。私がかつてその選擇に就いて先生の意見を尋ねた時、先生は好いでせうと云つた。狼狽した氣味の私は、早速先生の所へ出掛けて、私の讀まなければならない參考書を聞いた。先生は自分の知つてゐる限りの知識を、快よく私に與へて呉れた上に、必要の書物を二三冊貸さうと云つた」と助言を与えている。勿論、「然し先生は此點について毫も私を指導する任に當らうとしなかつた」ともあるが、少なくとも、ここでの先生は遺書の中で(第(百九)回)で述懐したように、先生自身が幾分か「外界の刺戟で躍り上が」った気分を味わえた数少ない一瞬でもあったはずである。「私」は、そうした信頼する先生からの僅かながらとはいえエールを得て、「馬車馬のやうに正面許り見て、論文に鞭たれた。私はつひに四月の下旬が來て、やつと豫定通りのものを書き上げる迄、先生の敷居を跨なかつた」程に相応の覚悟と自信を持って提出した卒論であったはずである。――

――しかしそれは、第(三十二)回冒頭で「私の論文は自分が評價してゐた程に、教授の眼にはよく見えなかつたらしい。それでも私は豫定通り及第した」と淋しく語られるものであった。――

――何故、漱石はあの部分で殊更にこの卒論のエピソードを挟んだのだろう?――

――実はこれが私の昔からのどうも妙に気になっている疑問であったのだ。

それが今、解けた。――

先生の遺書とは「私」への――論文とはかく書くものである――という模範解答であった

のである。

先生は「私」に先生自身の人生の卒業論文を提示しながら、これが本当の論文の書法であると「私」に開示した

のである。

漱石の作品群それ自体が、一種の小説についての小説技法論的性質を持ち、一個の創作文芸論でもあるという評価は以前からあったが、正に「心」=「こゝろ」とは――先生の遺書とは、そのようなものとして確信犯的にあるのではあるまいか?

そうした観点から見ると、

後に単行本「こゝろ」で区分けされる「上・中・下」構造の三段構成

先生の遺書自体の「叔父の裏切り・先生の裏切り・自決の決意」の序論・本論・結論の三段構成

上・中パートのホリゾントである「出逢いの鎌倉と東京・私の田舎・東京・田舎」の起・承・転・結構造

「先生の故郷の物語・先生と御嬢さんの物語・先生と御嬢さんとKの物語・先生の自決の物語」の起・承・転・結構造

更に細部を見れば、

房州行での内房の静謐から誕生寺の急展開、外房から両国への省筆の緩・急・緩

富坂下を0座標とする4象限構造

そこを中心に描かれるレムニスケート風の登場人物の描く曲線

先生の神経の「ぐるぐる」

鎌倉材木座海岸の円弧

ステッキの円

数珠の永劫周回――

等々……そして何よりも、

反発し或いは抱き合う先生とKの内実が「明治の精神」という高みで止揚(アウフヘーベン)される『摑み』としての極めてオリジナリティに富んだ結論の提示

――どこをとってみても、小説、いや、入試の難関大学合格小論文の作法としての典型を示しており、勘所を押さえた

「人の心」を出題課題とする小論文問題への『優れた』模範解答例

と言い得るのではあるまいか?……名作なんだから当たり前……だ?……昨今、「こゝろ」が名作であることに疑義を示す輩が雲霞のように、象牙の塔の腐った髄や、サイバーのチェレンコフの業火の溝泥の中から湧き出しておる。……では、「こゝろ」ぐらい面白い、そうして文学史上生き延び得る『名作小説』を、お前ら自身が書くに若くはあるまい……と私は言いたい気分で、最近は一杯なのである。

♡「然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の祕密として、凡てを腹の中に仕舞つて置いて下さい」この『最期の第3命題』『最期の第3公案』こそが我々にジレンマを与える。

Ⅲ 妻には一切知らせてはならない

その理由は

妻の記憶の中の私を純白にしておくためである

これは既に第(百六)回(=「こゝろ」下五十二)で示された「私はたゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋」せよ、に基づく

妻が生きている限り学生のみの知る秘密とせよ

という「私」に命ぜられた

絶対の禁則

なのである。

私はこれらの三つの命題を読む時、ある法律を思い出す。

1 A robot may not injure a human being or, through inaction, allow a human being to come to harm.

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

2 A robot must obey any orders given to it by human beings, except where such orders would conflict with the First Law.

第二条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。但し、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

3 A robot must protect its own existence as long as such protection does not conflict with the First or Second Law.

第三条 ロボットは、前掲第一条及び第二条に反する虞れのない限りに於いて、自己を守らなければならない。

御存知、アメリカのSF作家にして生化学者Isaac Asimovアイザック・アシモフ(1920年~1992年)が1940代に作中で示した“Three Laws of Robotics”ロボット工学三原則である。爾後の殆んどのSF作品や実際のロボット工学において、これは一種のセントラル・ドグマとして確立された。しかしそれはそれ内在する論理矛盾によって、幾多のロボットを苦しめ、更に鮮やかにこの法則を裏切る形で科学技術は進歩し、人工知能としてのロボットを不幸にしていった。私がしばしば授業で脱線して語るところの「鉄腕アトム」や「2001年宇宙の旅」の論理矛盾からノイローゼに罹って搭乗員を殺したHAL9000を思い出して欲しい。アンドロイドは電気羊の夢を見ることは、フランケンシュタインの怪物であったKが御嬢さんを愛したことからも分かるだろう……。

ここで示された先生の3命題のジレンマは、ある意味、このロボット三原則ジレンマに極めて近いと私は、今、思うのである。

以下、無駄な解説は、もう、やめよう。いつも君たちを悩ませた、あの謎めいた板書で、この「心」の永かった「やぶちゃんの摑み」も終わらせたいと思う。

   *

妻が生きている限り学生のみの知る秘密とせよ

この約束は守られているのである!

これは明白である。第(十二)回(「こゝろ」上十二)で「私」は確かに

「先生は美くしい戀愛の裏に、恐ろしい悲劇を持つてゐた。さうして其悲劇の何んなに先生に取つて見慘なものであるかは相手の奧さんに丸で知れてゐなかつた。奧さんは今でもそれを知らずにゐる。先生はそれを奧さんに隱して死んだ。先生は奧さんの幸福を破壞する前に、先づ自分の生命を破壞して仕舞つた。」[やぶちゃん注:下線部はやぶちゃん。]

それを「續こゝろ」として、変更させるのは勝手であるが、それは漱石の「こゝろ」ではなく、恣意的に歪曲した君の「續こゝろ」である。別作品である。それはたかが「續こゝろ」であるだろうし、されど「續こゝろ」でもあろう。しかし「續こゝろ」は決して「心」~「こゝろ」ではない――とのみ言うに留めおく。

   *

◎先生は如何なる方法で自殺したと考えられるか?

「妻に殘酷な恐怖を与へ」ず、「血の色を見せ」ず、「知らない間に、こつそり」と死ぬ方法である。妻に「頓死した」もしくは狂死したと思われて構わない方法である。私はそんな都合のいい、理想的な自殺法があるなら、今すぐにでも教えてもらいたい。かつて私は授業で「そうだなあ、一切の人物認識を示すものを捨てて、富士の樹海に入るかな?」

などという軽率な発言を繰り返してきた。しかし当時、富士の樹海は、そのような自殺の場所としては恐らく知られていなかった。他にもあの「私」との思い出の鎌倉の海に入水する(水死体の惨状を私が指摘して耳を塞いだ女生徒を思い出す)――三原山の火口に飛び込む(マグマ溜まりに飛び込むことはスーパーマンじゃなきゃ無理だ。大抵は有毒ガスで苦しんで苦しんで、干乾びたミイラみたようになって発見されるのは、こりゃ慄っとしないな)――なんどという答えを生徒から聞いた覚えもある。遺体の確認を靜にさせないという絶対条件をクリア出来る自殺方法など、ない。漱石はもともと先生の自死方法を想定していなかったと考えてよい。従って、これを考えるのはそれこそ、面白さをただ狙った下劣な授業の脱線に過ぎぬ。やめよう。

   *

◎学生は先生の秘密を一人で守り続けることが出来るか?

守り続けることは苦痛である。且つ、「私」はこの後も未亡人となった靜を労わり、その生活をことあるごとに見守り続けるであろう。縁を断たずに、この禁則を守ることは大いなる苦痛ではある。しかし、彼は守る。確かに守った。それ以外の選択肢は、私には、ないとここに明言する。靜と「私」の結婚などというおぞましい「續こゝろ」は誰かの勝手な妄想であって、私の世界にはそんな選択肢はあり得ない。禁則を守って靜との夫婦生活=性生活を送ることは、私には不可能であり、更に先生の過去を洗い浚い喋った上で靜を抱くことも私には出来ないそれが平然と出来る男だけが――そういう男も、そしてそれで平然と抱かれて幸せだと思う靜も――私にとって「私」ではなく、「靜」ではないということである。この件については幾らでも反論出来、議論も可能だが、私の魂が生理的に嫌悪する。だからここまでで留め置くこととしたい。

   *

◎奥さんは真相を知らないでいることの方が幸福であるか?

分からない。しかし先生なき後、私は靜が真相を知ったとしたら、靜がどのような人間(女とは敢えて言わぬ)であったとしても、私は先生の生前に感じていたものとは違う。黒い影を靜は抱えてゆくことになると思う。何故なら、真相の暴露は靜自身の内実において靜自身をも断罪することに発展する可能性が極めて高いと私は思うからである。

   *

◎「明治の知識人」としての先生及びKとは如何なる存在であったか? その使命感そしてその苦悩は如何なるものであったか?

これは無数の論文が日本中、世界中(主にキリスト教的人道主義の観点から)に目白押しに溢れかえっている。森鷗外と並べて「明治の知識人」=西欧近代的個人を語るのなら、その腐臭を放つほどに堆積しているアカデミズムの論文を読むに若くはない。ただ、それが君に真に豊かな『智』を保証してくれるかどうかは別問題である。無駄とは言わない。しかしきっとそうする君を、先生は黙ってにやにや見ているだけだろう。しかし、大学で論文にするなら、それに触れなければ、担当教官はKのように哀れみを含んだ軽蔑の眼(まなこ)で君を見るであろう。こんなことは既に先生自身が十全に語ってきたことだ――。

   *

◎新しき世代としての「私」(学生=読者である私達)は先生の人間としての在り方、苦悩を理解したか?

遂に理解出来なかったのだとする評論家が結構いることは事実だ。――しかし、だったら「心」という小説は、最早、読まれる必要はない。そんな解釈は本作そのものを完全に無化してしまう。もしそれが真実なら本作は既に已に、生物であるか無生物であるかも判別できない化石だということになる。

   *   *   *

板書――

「心」は秘密の共有という入子構造としての小説である

  先生  

↓●秘密「先生の遺書」

 私=学生 

↓●秘密の小説としての「心」

 先生のそして学生の二人だけの秘密を唯一知っている読者である「あなた」 

そして

 先生は死ぬことによって「私」の中に生きる――大いなる永遠の謎と共に―― 

 私=学生の中に 

↓そして

 読み手である「あなた」の中に 

 

……「こゝろ」は、秘密の共有という入子構造としての小説である。一人称「私」で語りかける先生の秘密としての「遺書」を読む「私」(学生)は、その『秘密としての』小説「こゝろ」を読む、先生の、そして学生の『秘密を唯一知っている』あなた独り(単体としての読者である「私」=あなた独りだ!)へと重ね合わされてゆく。そしてそれを担うことの痛みをも、同時に読者『一人独り』(「一人ひとり」では断じてない)に強いるのである。

 私(先生)は死ぬことによって生きる。私(学生)の中に。――読み手である、それを唯一知っている私(あなた)だけの中に。――大いなる「己れ」の永遠の円環的謎と共に――。(やぶちゃんの『「こゝろ」マニアックス』の『秘密を共有することの痛み-「こゝろ」考 書き捨て』末尾)]

心 先生の遺書(五十五)~(百十) 附やぶちゃんの摑み 完

大正3(1914)年『東京朝日新聞』連載 夏目漱石「心」 完

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