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2010/08/01

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月1日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百回

Kokoro16   先生の遺書

    (百)

 「私は猿樂町から神保(じんばう)町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。私が此界隈を歩くのは、何時も古本屋をひやかすのが目的でしたが、其日は手摺(てずれ)のした書物などを眺める氣が、何うしても起らないのです。私は歩きながら絶えず宅の事を考へてゐました。私には先刻(さつき)の奥さんの記憶がありました。夫から御孃さんが宅へ歸つてからの想像がありました。私はつまり此二つのもので歩かせられてゐた樣なものです。其上私は時々往來の眞中で我知らず不圖立ち留まりました。さうして今頃は奥さんが御孃さんにもうあの話をしてゐる時分だらうなどと考へました。また或時は、もうあの話が濟んだ頃だとも思ひました。

 私はとう/\萬世橋を渡つて、明神(みやうしん)の坂を上つて、本郷臺へ來て、夫から又菊坂を下りて、仕舞に小石川の谷へ下りたのです。私の歩いた距離は此三區に跨がつて、いびつな圓を描いたとも云はれるでせうが、私は此長い散歩の間殆どKの事を考へなかつたのです。今其時の私を回顧して、何故だと自分に聞いて見ても一向分りません。たゞ不思議に思ふ丈です。私の心がKを忘れ得る位(くらゐ)、一方(はう)に緊張してゐたと見ればそれ迄ですが、私の良心が又それを許すべき筈はなかつたのですから。

 Kに對する私の良心が復活したのは、私が宅の格子を開けて、玄關から坐敷へ通る時、即ち例のごとく彼の室を拔けやうとした瞬間でした。彼は何時もの通り机に向つて書見をしてゐました。彼は何時もの通り書物から眼を放して、私を見ました。然し彼は何時もの通り今歸つたのかとは云ひませんでした。彼は「病氣はもう癒(い)いのか、醫者へでも行つたのか」と聞きました。私は其刹那に、彼の前に手を突いて、詑(あや)まりたくなつたのです。しかも私の受けた其時の衝動は決して弱いものではなかつたのです。もしKと私がたつた二人曠野(くわうや)の眞中(まんなか)にでも立つてゐたならば、私は屹度(きつと)良心の命令に從つて、其塲で彼に謝罪したらうと思ひます。然し奧には人がゐます。私の自然はすぐ其處で食ひ留められてしまつたのです。さうして悲しい事に永久に復活しなかつたのです。

 夕飯の時Kと私はまた顏を合せました。何にも知らないKはたゞ沈んでゐた丈で、少しも疑ひ深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんは何時もより嬉しさうでした。私だけが凡てを知つてゐたのです。私は鉛のやうな飯を食ひました。其時お孃さんは何時ものやうにみんなと同じ食卓に並びませんでした。奥さんが催促すると、次の室で只今と答へる丈でした。それをKは不思議さうに聞いてゐました。仕舞に何うしたのかと奥さんに尋ねました。奥さんは大方極りが惡いのだらうと云つて、一寸私の顏を見ました。Kは猶不思議さうに、なんで極が惡いのかと追窮しに掛りました。奥さんは微笑しながら又私の顏を見るのです。

 私は食卓に着いた初から、奥さんの顏付で、事の成行を略(ほゞ)察してゐました。然しKに説明を與へるために、私のゐる前で、それを悉く話されては堪らないと考へました。奥さんはまた其位の事を平氣でする女なのですから、私はひや/\したのです。幸ひにKは又元の沈默に歸りました。平生(へいせい)より多少機嫌のよかつた奥さんも、とう/\私の恐れを抱いてゐる點までは話を進めずに仕舞ひました。私はほつと一息して室へ歸りました。然し私が是から先Kに對して取るべき態度は、何うしたものだらうか、私はそれを考へずにはゐられませんでした。私は色々の辯護を自分の胸に拵らえて見ました。けれども何の辯護もKに對して面と向ふには足りませんでした。卑怯な私は終に自分で自分(じふん)をKに説明するのが厭になつたのです。

Line

やぶちゃんの摑み:先生が人生の中で最も幸せであった――そしてそれは同時に人生最後の幸せでもあった――その瞬間が訪れる。

「私の歩いた距離は此三區に跨がつて、いびつな圓を描いたとも云はれるでせう」第(九十四)回でも述べた通り、ここでの「いびつな圓」のルートは昔から私にとって気になるものである。そして、そこで説明した3つのルートがここで総て出揃うのである。整理しておく。

○私の考える「心」の地図上の座標軸(小石川本郷周辺)

・富坂下に0座標を置く。

・南北方向をy軸と置く。

・東西方向をχ軸と置く。

 ◎第1象限曲線 

第(九十四)回=Kを致命的に攻撃する勝利曲線= エゴイズム曲線 

中冨坂町(~冨坂下)~大学~龍岡町~池之端~三橋~上野公園~小石川~中富坂町

★ここはその全体が通常の御嬢さんの日常的行動圏の完璧な外部である。旧地図を管見するにこの周辺は宅地に隣接する郊外緑地帯で、通常の奥さんや御嬢さんの生活圏の外部と判断してよい。近代から前近代の面影へと逆行し、また立ち戻る曲線と言っても良いかもしれない。第(九十四)回での私の考察を以下に引用しておく。

『二人は赤門の傍にある図書館から大学構内を東に横切り龍岡門から出て、龍岡町の北の通りを東に不忍池に下って、池の南岸である池之端を抜けて三橋の現在の下町風俗資料館のあるところから上野公園へと向かった。このルート部分は私が考える「心」の地図(小石川本郷周辺)の0座標を富坂下に置き、南北方向をy軸、東西方向をχ軸とすると、その第1象限部分に現われるカーブである。このカーブは実は第(百)回、先生がプロポーズをした直後に下宿を出て歩くコースのカーブ、先の座標軸で言うと第4象限に現われるカーブとχ軸を挟んでほぼ対称となる。更にここに第(八十一)回の「傳通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻つて又富坂の下へ出ました」を配するとこれがこの座標の第2象限部分にy軸を挟んでやはりほぼ対称に綺麗な対となって現われるのである。これを私は今、漱石の考えたある数理的な魔法陣ではなかったかと感じつつあるのである。』

 ◎第2象限曲線 

第(八十一)回=Kの持つ靜の印象を索敵する曲線= シユエデンボルグ曲線 

中冨坂町~善光寺坂通~伝通院裏~小石川植物園脇~網干坂~湯立坂~旧春日通~冨坂~冨坂下~中冨坂町

★ここはその全体が通常の御嬢さんや奥さんの日常的行動圏の完璧な外部であると思われる。私はここを既に第(八十一)回で考察した。それをまず引用しておく。

『私は先生の下宿を中冨坂町(現在の北部分、現在の文京区小石川二丁目の源覚寺(蒟蒻閻魔)から南西付近に同定しているが、そこから北の善光寺坂通りに出て横断、現在の小石川三丁目を北西に横切って行くと伝通院裏手になる。そこから北東に向かうと小石川植物園のすぐ脇を南東から北西に抜ける通りに出られる。植物園の西の角で北東から南西に走る網干坂にぶつかって現在の営団丸ノ内線茗荷谷駅方向へ湯立坂を南へ登り、現在の春日通り(但し当時は旧道で現在より南側に位置していた)へ出、南東に下れば冨坂から冨坂下へ至り、そこから北へ下宿に戻るルートと思われる。これは地図上で大雑把に実測しても実動距離で5㎞は確実にある。当時の散歩の5㎞は大した距離ではないが、夕食後の腹ごなし散歩としては45分から1時間は短かくはない。私がこのルートに拘るのは、一つは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏が「このコースはせいぜい二、三キロメートルの距離』で『当時としてはむしろ短い距離とも言える』から、『あるいは、先生にとっての話題も重要性と、要領を得ないKの返答ぶりとが、実際以上に長く感じさせたということか。』と注されているのが納得出来ないからである。漱石がこんな心理的時間を「散歩としては短かい方ではありませんでしたが、其間に」という文脈で用いるとは思われない。尚且つ、ここ伝通院は漱石が実際に下宿した先でもあるのである。藤井氏のルートは恐らく私の考えているルートとは違い、もっと南西寄り(植物園から離れた通り)に出て、尚且つ、植物園も西の角まで至らずにすぐのところで春日通りに抜ける吹上坂か播磨坂を通るコースを考えておられるのではないかと思われるが、私はこの推測に異議を唱えるのである。

 ――何故か――

 それは私がもう一つ、このコースに拘る理由があるからである。それは――このコースが、実はあるコースの美事な対称形を――数学でいう極座標の方程式 r2 = 2a2cos2θ で示されるlemniscate レムニスケート(ウィキ「レムニスケート」)若しくは無限記号を――成すからである。もうお分かり頂けているであろう。そうだ。あの御嬢さんを呉れろというプロポーズをしてから先生がそわそわしつつ、歩いたあの「いびつな圓」の、美事な対称形である(第(百)回=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十六)。後に地図で示したいと思ってはいるが、あの距離も凡そ5㎞で、更に稽古帰りの御嬢さんとプロポーズ直後の先生が出逢うのが「富坂の下」=0座標である。ここからほぼ北西に今回のルートが、南東に後の「いびつな圓」ルートが極めて綺麗な対称が描かれてゆくのである。私はこれを漱石の確信犯であると思うのである。新しい私の謎である。』(以下略)

 ◎第4象限曲線 

第(百)回=プロポーズ後の「いびつな圓」状の歓喜絶頂曲線=  デスティニィ(運命)曲線 

中冨坂町~冨坂下~水道橋~猿楽町~神保町~小川町~万世橋~明神坂~本郷台~菊坂~小石川~中冨坂町

★その全体が通常の御嬢さんの日常的行動圏の完璧な内部である。ここは既に第(七十)回で詳細な考察を行った。まずそれ引用しておく。

『私は若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の巻末に収載されている「三区にまたがるいびつな円」(森鷗外立案『東京方眼図』より、明治42)」を凝っと見つめてみた。これは藤井氏が該当地図に先生の歩いたルートを太字で記したものである。このいびつな円の中心になりそうなランドマークは何か? 江戸切絵図まで持ち出して考えてみたりしたが、矢張りこの森鷗外の地図に立ち帰った。そこで俄然心附いたのである。いびつな円の中心は駿河台であるが、その東北には東京女子高等師範学校がある。そしてそこには嘗て同附属高等女学校があった。即ち、

『いびつな円=楕円の一方の焦点は靜が通っている女学校ではなかったか』

と考えるのである(もっと一方の焦点に近い位置には猿楽町があり、ここには高等女子仏英和学校があるが、第(三十五)回で、先生が自分が死んだらという仮定を語る場面、先生が「おれの持つてるものは皆な御前に遣るよ」と言うのに対して、靜が「何うも有難う。けれども横文字の本なんか貰つても仕樣がないわね」と答えるところが、どうも「仏英和学校」とは合わないという気を起こさせるのである)。勿論、靜は既に学校帰りのの稽古(琴か花か。琴は出張教授であったことからここは花か? 何れにせよ私は、この稽古の師匠の家さえも東京女子高等師範学校附属高等女学校の近くであった、このいびつな円の内にあったと仮定したい)も終えて、先生と冨坂下で出逢ってはいる。従って家に帰ってはいる。しかしこの「いびつな円」を「楕円」と解すれば、御嬢さんの日常的生活の半ばを支配する女学校を一方の焦点とすれば、その反対の焦点を残りの生活圏である実家と捉えることが可能である。そしてその時Kがいる東京帝国大学はこの円の北方にあり、その圏内から完全に疎外遮断されているのである。即ち、先生は無意識に『御嬢さんという存在』を自身のこの楕円の圏内に捕(つら)らまえていると言えないだろうか?――これはあくまで現在の私の思いつきに過ぎず、また私自身で変更を加えるかも知れないが、今、私の意識を捉えて放さない強迫観念ではあるのである。』

再度、整理する。以上のように、この図形を西北方向に引き伸ばして綺麗な「いびつな圓」に加工すれば、第2象限内に生ずる楕円の一方の焦点に下宿、第4象限に生ずるもう一方の焦点に、私が御嬢さんの女学校として同定している東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)等がある(実際にはその附近には他にも女学校があり、ここに特に拘る必要はない)。ともかく、先生はこの円運動で御嬢さんの日常という生活の総てを囲い込んでいると私は考えるものである。

 以上、これらの3つの対照的カーブは第3象限を除いた各象限に、富坂下の0座標を中心として、χ軸及びy軸を挟んでほぼ対称に綺麗な対となって現われるのである。これを私は今、漱石の考えたある数理的な魔法陣ではなかったかと感じつつあるのである。

   *

残念ながら、第3象限に何も見出せないのが私の発想の貧しさだ!――

――いや!――もしかすると(ただの思いつきに過ぎないが)この地図上の第3象限の部分にこそ――

『現在の先生の家』があるのではあるまいか?!

因みに、この第3象限に相当するのは0座標近くから南西に向かって現在の千代田区神田三崎町・飯田橋・藤見町及び靖国神社を含む旧九段下、更に東には新宿区神楽坂があり、その西北部に市ヶ谷が続く。御嬢さんの叔母が居住し、先生宅の留守の時にはその叔母と思われる人物が留守居にやってくるという描写(四十)、先生が遺書を書くための時間を確保するために靜をこの市ヶ谷の叔母の元へ送り出す(百十)のを考えれば、極めて首肯出来る市ヶ谷への徒歩圏内の近接位置である。更に、ここからなら先生が徒歩で「私」の大学近くの下宿を訪ねてくる(九)のにも余裕の可動範囲内にある。

「私は此長い散歩の間殆どKの事を考へなかつた」のは何故か? それは先生自身、「今其時の私を回顧して、何故だと自分に聞いて見ても一向分りません。たゞ不思議に思ふ丈です。私の心がKを忘れ得る位、一方に緊張してゐたと見ればそれ迄ですが、私の良心が又それを許すべき筈はなかつたの」に、何故か? 私は授業では『目的遂行の安堵という自意識のみにとらわれている私』なんどという分かったような、分からないような板書をして来た――しかし、ここにこそ、この先生の大事な一瞬の心理にこそ――実は「心」の謎は隠れているのではないか? 先生が分からないこと――こそが漱石が我々に提起している――「心」の謎――なのではなかったか?!

「病氣はもう癒いのか、醫者へでも行つたのか」授業で、この先生の体を気遣う、Kのこの言葉を朗読する時、私は先生の心の痛みが「分かる」のである――痛烈に「分かる」のである!

「私の自然」私という人間が人間であるための「自然」なる良心という意味である。

「奧には人がゐます」これが、人間として当然謝罪するべき、出来るはずであった人間としての先生が、非人間的に、遂にKに謝罪出来なかった理由である。それは次章で具体的に明らかに哀しく説明される。

「何にも知らないKはたゞ沈んでゐた丈で、少しも疑ひ深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんは何時もより嬉しさうでした。私だけが凡てを知つてゐたのです」ここで先生の言う、

『「たゞ沈んでゐた丈」の「少しも疑ひ深い眼を私に向け」ないKは「何にも知らない」』

という命題は真である。また、この時点にあっては、という限定付きで、

『先生「だけが凡てを知つてゐた」』

という命題も真である。しかし、

『「何時もより嬉しさうで」あった「奥さんは」「何にも知らない」』

という命題は偽である。そして何よりもKの自死後は、

『先生よりも誰よりも「凡てを知つてゐた」のは奥さんである』

という命題が絶対の真理命題となる、と私は考えているのである。

「奥さんは微笑しながら又私の顏を見るのです」という状況に対して、先生が「然しKに説明を與へるために、私のゐる前で、それを悉く話されては堪らないと考へ」たり、「奥さんはまた其位の事を平氣でする女なのですから、私はひや/\した」と感じたり、「幸ひにKは又元の沈默に歸り」、「平生より多少機嫌のよかつた奥さんも、とう/\私の恐れを抱いてゐる點までは話を進め」なかった御蔭で、先生は「ほつと一息して室へ歸」ったという陳述は、先生の側の極めて都合のいい逃げであることに注意しなくてはならない。奥さんが微笑しながら先生の顔を見たのは、正にこの場で先生の口から御嬢さんとの婚約の公的表明を、この場でしてくれるものという『当然』の期待の視線である。それが出来ないのは先生の側の裏切りの後ろめたさであることを、このシーンは画面をKや奥さんや御嬢さんの外的描写を畳み掛けることで微妙にずらして誤魔化そうとしている。巧妙にして忌まわしい先生の底意が見える部分である。]

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