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2010/09/30

アリス6歳の誕生日

三女のアリスの誕生日。

おめでたう、アリス。

何處までも一緒に歩いて行かうねえ――

耳嚢 巻之三 阿部川餠の事

「耳嚢 巻之三」に「阿部川餠の事」を収載した。

 阿部川餠の事

 駿州府中阿部川の端に阿部川餠とて名物の餠あり。都鄙(とひ)のしれる事ながら替りたる餠にもあらず。有德院樣には度々御往來も遊し御上りにも成て委細御存ゆへ、阿部川餠のやうの餠は通途になしとの上意也しに、共頃御賄頭(おまかなひがしら)を勤し古部孫太夫は、其先文右衞門とて駿河の産にて御代官を勤けるが、右阿部川の餠は、富士川の流を養水にいたし、富士の雪水を用ひて仕立し米性(こめしよう)なれば、外とは別段也、文右衞門代より駿府に持地(もちぢ)ありて右餠米を作り候間、取寄仕立可申とて、則駿州より餠米拾俵とやらを取寄、獻上して餠となして獻じけるに、殊の外御賞美ありし故、今に其子孫より右富士の餠米拾俵づゝ年々獻上ある事也。右孫太夫は其後段々昇進して新田十分一を高(たか)直(なほ)し下され、西丸御留守居迄勤、九十計にて物故有、予も知る人にてありし。

□やぶちゃん注

○前項連関:続けて大身の食味連関。たかが安倍川餅、されど安倍川餅――といった話柄である。

・「駿州府中阿部川」サイト「友釣 酔狂夢譚」に所収されているコンパクトながらツボを押えていらっしゃる味な「cover府中 安倍川」の記事より引用させて戴く。『府中は「国府」、「駿府」ともよばれた十九番目の宿で、日本橋より四十四里半(約178キロ)・徒歩四十四時間にある』。『府中は徳川家康が築いた城下町。今川義元の人質だった家康が育った地でもあり、駿府城の城下町として発展し、駿河・遠江、第一の賑わいを誇った』。『徳川家康が晩年を過ごしたのも駿府城で、江戸初期には実質的な政治の中心は府中にあった。有名な「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」はここで起草され江戸に通達されるという形で発布された』。『現在の静岡はお茶が名産として知られているが、当時の府中は籠細工や桑細工のほうが有名だった』(以下、安倍川餅を中心にした記載は次の注に引用)。安倍川についてもウィキの「安倍川」から一応、引用しておく。『安倍川(あべかわ)は、静岡県静岡市葵区および駿河区を流れる河川。一級水系安倍川の本流である。清流としても有名で』(本件とは無縁であるが、この安倍川第一の支流である藁科川の環境問題を訴え続けておられる「清流ネット静岡(代表者:恩田侑布子)をここにリンクしておきたい。何故か? 2007年2月6日未明に私へ別れの挨拶のメールを送って静岡県庁前にて静岡空港建設反対の抗議の焼身自殺をした畏兄井上英作氏はこの「清流ネット静岡」の事務局長であったからである。彼が死に際して私に託した井上英作氏の小説「フィリピーナ・ラプソディ」もお読み頂ければ幸いである)。『その伏流水は静岡市の水道水にも使われている。一級河川としては本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川である(長良川がダムの無い川として有名だが、長良川の支流には高さ100mを超える巨大な堰堤を持つ川浦ダムがある)』。『よく見聞きする表記として「安部川」や「あべがわ」があるが、これらは誤りである』。『静岡県と山梨県の境にある、大谷嶺・八紘嶺・安倍峠に源を発する。源流の大谷嶺(標高約2,000m)の斜面は「大谷崩れ」とよばれ、長野県の稗田山崩れ、富山県の鳶山崩れとともに日本三大崩とされている。流域のすべてが静岡市内であり、下流部では市街地の西側を流れ駿河湾に注ぐ』。『糸魚川静岡構造線の南端でもあり、安倍川を境に、東西の地質構造が大きく異なる』。『1335年:南北朝時代、足利尊氏と新田義貞が争った手越河原の戦いが起き』た。『江戸時代初頭』には『徳川家康によって天下普請として大規模な治水工事が行なわれ、現在の流れとなる。それ以前は、藁科川と別の流れで複数の川筋となって駿河湾に注いでいたが、大規模な治水工事によって、藁科川と合流するようになった。現在の合流地点より下流は藁科川の川筋だったと言われている。特に薩摩藩によって安倍川左岸に築かれた堤防は薩摩土手とよばれ、現在でも一部残存している(新しい堤防がより内側に築かれたことにより、現在は、旧薩摩土手のほとんどは道路になり「さつま通り」と呼ばれている)』。2008年には『環境省から「平成の名水百選」に選定され』ている。……再度、最後に言う、その一番の清流の支流藁科川にダイオキシン焼却灰が山積みにされている事実を知って頂きたいのである。また『地元の名物「安倍川もち」のことを「安倍川」と省略して呼ぶことがある』ともある。

・「阿部川餠」まずは引き続き「友釣 酔狂夢譚」の同ページから。『府中宿の西のはずれに安倍川があり、その河畔の黄な粉餅が名物だった』。『一説によると、慶長(1596~)の頃、徳川家康が笹山金山を巡検の折り、一人の男が餅を献上した。家康が餅の名を尋ねると、安倍川と金山の金粉にちなんで「安倍川の金な粉餅」と答え、家康はその機知をほめて安倍川餅と名付けたことが始まりとされる』。『以来、安倍川河畔には店が並び「東海道中膝栗毛」などにもその様子が描かれている。当時珍重された駿河の白砂糖を使用してからは、一段と評判になった』。以下、引用元ページに示されている大きな安藤広重の「東海道五十三次 府中」の図を御覧になられたい。『広重も府中の市街地は描かずに、宿の西を流れる安倍川で川越人足の手を借りて旅人が川越する様子を描いている。この絵は、めずらしく西から東へ向かって、川中から府中方向を見たものである。背景中央に見える山はかって今川氏や武田氏の賎機城があった賎機山(しずはたやま)で、後に家康がその近くに駿府城を築いた。川越の際の料金の違いによる蓮台渡しや人足の背に乗って渡るなどを描いているが、右下の男の着物に「丸に竹」の紋をつけ、この画集の出版元である竹内保永堂の宣伝も抜かりなく行っている』。私の父もドブ釣ながら、鮎釣りにハマった男であるからして、次の最後の一文も忘れずに引用したい。『安倍川はその支流藁科川とともに、昔から鮎釣りの川として静岡市の人々に親しまれており、狩野川とともに友釣の名手が多かったところである』。最後に、御用達のウィキの「安倍川もち」も一部引用しておく。『安倍川もち(あべかわもち)は、和菓子の一種。静岡市の名物。本来はつきたての餅にきな粉をまぶしたものに、白砂糖をかけた物である。現在では小豆餡をまぶしたもの、最近では抹茶をまぶしたものも出てきている』(ここに先に示した家康絡みの伝承が記載)。『実際は、江戸時代には、大変貴重で珍しかった白砂糖を使っていることから有名になり東海道の名物となった。東海道中膝栗毛には「五文どり」(五文採とは安倍川餅の別名)として登場する』とあるので、こちらの記載では飽くまで珍しい調味料としての白砂糖使用がヒットしたまでで、家康元祖伝承は後付けされたものという感じの記述である。以下、現在の話。『昔ながらの安倍川餅は、旧東海道の安倍川橋の東側で製造・販売していて、茶店風の店が3軒ある。小豆餡、きな粉の安倍川餅のほか、わさび醤油の辛み餅もある』。『一方でお盆に安倍川餅を仏前に供え、食べる風習のある山梨と周辺の一部地域では味付けはきな粉と黒蜜である。スーパーや和菓子屋などでもこの時期に販売されるものはきな粉と黒蜜で味付けするセットのものであり、きな粉と白砂糖で味付けするものは見かけることはできない。また、餅の形も基本的に角餅である』。以下、作り方。『つきたての餅や湯通しして柔らかくした餅の上に、きな粉と白砂糖や小豆あんをまぶす』。言わずもがなであったか。しかし、根岸がわざわざ「耳嚢」にこれを書いたということは、少なくとも「卷之二」の下限天明6(1786)年頃までは、江戸にては安倍川餅は決してメジャーなものではなかったということを意味していると言えるのである。

・「有德院」は八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「御賄頭」定員2~4名。将軍家台所(厨)の支出を管理する。

・「古部孫太夫」これは「部」ではなく「郡」の原文の誤記若しくは判読ミスか(現代語訳では古郡に正した)。古郡(ふるごおり)駿河守年庸(としつね 天和4・貞享元(1684)年~安永4(1775)年)。底本の鈴木氏注に(ここで氏は姓の誤りを指摘されていない)、『寛保元年御勘定頭より御賄頭に転じ、延享二年西城御納戸頭』とある(寛保元年は元文6年から改元した西暦1741年、延享2年は1745年)。岩波版長谷川氏注(こちらの本文は正しく「古郡」)では更に西丸御留守居(後注参照)となった旨、記されている。享年92歳。

・「文右衞門」古郡年庸の父古郡年明(慶安401651)年~享保151730)年)。底本の鈴木氏注によれば、『駿河で代官を勤めたのは曽祖父重政で、寛永年間のこと。重政は孫太夫と称したが、寛政譜には文衛門とは記して』いないとされ(寛永年間は16241643年)、以下の「新田十分一を高直し」という記載に相当する事実が、この古郡重政(慶長4(1599)年~寛文4(1664)年)の代にあったことを示されており(後注参照)、鈴木氏はこの人物を重政に同定されているようである。岩波版長谷川氏注では根岸の記憶の錯誤も都市伝説の内であるから、この辺りの誤りはそのままとした。古郡年明を掲げ、鈴木氏注を参照との一言はあるが、特に重政の名は挙げていない。

・「代官」幕府及び諸藩の直轄地の行政・治安を司った地方官。勘定奉行配下。但し、武士としての格式は低く、幕府代官の身分は旗本としては最下層に属した。

・「富士川の流」これは安倍川の遙か北方を流れる実際の富士川を言うものではなかろう。富士山をその水源とするという意味で採った。

・「駿府」府中に同じ。駿河国国府が置かれた地。現在の静岡市。

・「新田十分一を高直し」底本の鈴木氏注によれば、先に示した古郡重政が寛永171640)年『駿河国富士郡加島において六千五百石余の田を新墾せるにより、のちその十が一現米三百二十石を賜うとある』とされ、更に『この三百二十石は年庸のとき明和四年禄に加えられ、都合千七十俵となった』とある。痒いところに手が届くのが、鈴木棠三先生の注である。実は大学時分に鎌倉史跡探訪サークルを結成していたが、そのサークル仲間が知り合いで、鎌倉郷土史研究の碩学でもあられた先生が、「何時でも鎌倉を案内して上げるよ」とおっしゃっておられたと伝え聞いた。結局、それは実現せず、遂に直接お逢い出来る機会を失してしまったことが今も悔やまれる。

・「御留守居」は江戸幕府の職名。老中支配に属し、大奥警備・通行手形管理・将軍不在時の江戸城の保守に当たった。旗本の最高の職であったが、将軍の江戸城外への外遊の減少と幕府機構内整備による権限委譲によって有名無実となり、元禄年間以後には長勤を尽くした旗本に対する名誉職となっていた(以上はフレッシュ・アイペディアの「留守居」を参照した)。

・「予も知る人にてありし」根岸鎭衞は元文2(1737)年生まれで(没したのは文化121815)年)、古郡年庸(天和4・貞享元(1684)年~安永4(1775)年)とは53歳も違うが、根岸は宝暦8(1758)年に養子として根岸家を継ぎ、御勘定としてスタート、宝暦131763)年評定所留役、明和5(1768)年御勘定組頭、年庸が逝去する前年の安永5(1776)年には御勘定吟味役に抜擢されている。年庸の年齢と根岸の職分から考えると、根岸が彼と対面することがあったのは、根岸26歳であった評定所留役着任時から御勘定組頭となった31歳の間辺りであったろうか。

■やぶちゃん現代語訳

 阿部川餅の事

 駿河国府中の阿部川っ端(ぱた)に阿部川餅と言うて名物の餅が御座る。

 駿河国にては、駿府にても田舎にても、よう、名の知られて御座るものなれど、特にこれといって変わった餅にては御座らぬ。

 有徳院吉宗様にては、たびたび彼地を経られて御往来遊ばされた折々、御好物にてあらせられて、常にこの安倍川餅をお召し上がりになられた故、この餅に就いてはもう、委細御存知であられ、常々、

「阿部川餅のような旨い餅は、これ、他には、ない。」

と仰せになっておられた。

 その頃、御賄頭を勤めて御座った古郡(ふるごおり)孫大夫の先祖は文右衛門と名乗り、駿河生まれにて、かの地の御代官を勤めて御座った。

 されば、この古郡孫大夫、上様の安倍川餅お褒めの御言葉を伝え聞き、誠、痛み入りつつ、

「――さても、かの阿部川の餅は、富士山の清き流れを集めてその地を養う水と致し、また清冽なる富士の雪解け水を以って養い育った米の性(しょう)にて御座ったれば、他の土地で穫るる米とは、これ自ずと別格の米なれば、拙者、先祖文右衛門の代より駿府に領地を持って御座って、そこにても餅米を作らせて御座れば、早速にお取り寄せ致し、餅に仕立申し上げんと存ずる。」

とて、即座に駿州より餅米十俵とやらん取り寄せ、まずは型通りに米をご献上の上、それを更に、指図は元より、孫大夫手ずから餅となしてご献上申し上げたところ、上様には殊の外、御賞美これありし故、それ以来、今に至るまで、その古郡家子孫より、かの富士の餅米十俵宛年々御献上申し上げておるとのことである。

 この孫大夫、その後(のち)みるみる昇進致いて、先祖開墾に係る当時の新田の、その十分の一の禄をも改めて下賜され、遂には西丸御留守居まで勤め上げ、何と九十余歳で逝去なされた。私も実際にお逢いしたことが御座る方である。

2010/09/29

耳嚢 巻之三 其分限に應じ其言葉も尤なる事

「耳嚢 巻之三」に「其分限に應じ其言葉も尤なる事」を収載した。

 其分限に應じ其言葉も尤なる事

 有德院樣御代いづれか、國家の家法の菓子を御聞及にて【此御家の儀、細川ともいへ共、又阿波土佐兩家の内ともいふ。聞きけれ共忘れ侍りぬ。】御所望ありければ、則自身附居(つきゐ)制作有て獻じけるに、殊の外御稱美にて召上られしと聞、其諸侯殊の外悦び、老中迄御禮として罷出で、二心なきものと思召御膳に相成難有と申されけると也。國持ならでは難申言葉にてありき。

□やぶちゃん注

○前項連関:大身の食味連関。

・「有德院樣御代」「有德院」は八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。吉宗の将軍在位期間は享保元(1716)年~延享21745)年。

・「國家」とある『国』持ちの大名『家』の御『家』中の意。

・「細川」近世に於ける細川家は肥後細川家で豊前小倉藩、肥後熊本藩主家を指す。吉宗将軍在位中とすると、第4代藩主細川宣紀(のぶのり 延宝4(1676)年~享保171732)年)か、第5代細川宗孝(むねたか 正徳6(1716)年~延享4(1747)年)の何れかである。

・「阿波土佐兩家」「阿波」は徳島藩蜂須賀(はちすか)家。前注同様に調べてみると、第5代藩主蜂須賀綱矩(つなのり 寛文元(1661)年~享保151730)年)か、第6代蜂須賀宗員(むねかず 宝永61709)年~享保201735)年)の何れかである。「土佐」は土佐藩山内(やまうち:主家は「やまうち」、分家は「やまのうち」と読む。ルーツはかの有名な山之内一豊。)家。この場合は、第6代藩主山内豊隆(延宝元(1673)年~享保5(1720)年)、第7代山内豊常(正徳元(1711)年~享保101725)年)、第8代山内豊敷(とよのぶ 正徳2(1712)年~明和4(1768)年)の三人の内の何れかとなる。

・「國持」国持ち大名。江戸時代に主に大領国を持ち、御三家に次ぐ家格を有した大名を言う。国主と同義。以下、ウィキの「国主」より引用する。『江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、国持大名とも言う。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)のうちの一つ。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領や御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代の国持衆が語源』。

『陸奥国・出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)・盛岡藩(南部氏)・秋田藩(佐竹氏)・米沢藩(上杉氏)を国主扱いにしている。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩や天草諸島(唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行の松浦肥前守(平戸藩)、志摩一国一円知行の稲垣和泉守(鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩(酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝は徳川家光により一代限りの国持となったとされる)』。『また、大身であっても徳川御三家、松平肥後守(会津藩)、松平讃岐守(高松藩)、井伊掃部頭(彦根藩)も国主・国持という家格には加えない』。『また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある』。以下、「国主・国持大名の基準」として3点が掲げられている。『1.家督時に四品(従四位下)侍従以上に叙任。部屋住の初官は従四位下以上で、五位叙任のない家。』『2.参勤交代で参府・出府時、将軍に拝謁以前に上使として老中が大名邸に伝達にくる栄誉をもつ家。』『3.石高での下限は確定できない。』但し、例外もある、とあり、更に本話絡みでは『国主・国持大名のうち、山内家を除く松平姓の家と室町幕府の重臣であった細川家・上杉家は世嗣の殿上元服・賜諱(偏諱の授与)がある』という付帯説明がある。

・「二心なきものと思召」ここに示された三家は皆、譜代ではなく、外様大名である。そこから、かく言ったものである。

■やぶちゃん現代語訳

 その身分に応じてその謂いに用いられる言葉も尤もなる使われ方を致すという事

 有徳院吉宗様の御代の――

……何時の頃のことで御座ったか……定かにては覚えて御座らねど……

とある国持ち大名の、その御家中にて、その製法が伝授されて御座った名物の菓子につき、その評判を、上様がお聞遊ばされ――

……さても……この大名家についても、拙者……細川家と言うたか……はたまた阿波蜂須賀家とも土佐山内(やかうち)家の御家中とも言うたか……実は、しかと聞いて御座ったれど……はっきり申して忘れ申した。……悪しからず……

是非食してみたきとの御所望にてあられたので、即座に、当主自ら菓子調製に付き添い、製造の上、早速に上様へ御献上申したところ、殊の外の御賞美の上に、大層御満足気にてお召し上がりになられた、とのことで御座った。

 それを伝え聞いた、その大名諸侯も、殊の外に悦び、老中まで御賞美なされしことへの御礼として罷り出でて、

「――上様におかせられましては、我らに二心なきものと思し召しになられ、御膳に、かの不調法なる菓子をさえ登らせ給えること、これ誠(まっこと)有り難きこと。――」

と申し上げなさったとのことで御座る。

 『二心なき』とは、流石は外様なれど国持の大名ならではの、申し難き御言葉にて御座られたことじゃ。

2010/09/28

耳嚢 巻之三 大人の食味不尋常の事

「耳嚢 巻之三」に「大人の食味不尋常の事」を収載した。

 大人の食味不尋常の事

 松平康福(やすよし)公へ菓子を進じけるに、或る人語りて、慶福公は菓子他制(たせい)を用ひ給はず、臺所にて仕立ざるは奇(ふしぎ)に知り給ふ由かたりぬ。夫より家來に賴みて菓子抔進じけるに、藤堂和泉守蚫(あはび)を好みて給(たべ)られけるに、或日諸侯共咄を聞て招請の折から、和泉守へ蚫を饗應ありしが、少し計(ばかり)給べて強て代(かはり)の沙汰もなかりき。依之饗應濟て、其料理人より和泉守勝手方へ、大守は蚫御好の由にて、主人心を用ひ申付られし饗應を多くも召上られざるは、いか成いわれなるやと尋ければ、彼勝手方答て、主人の料理は仕立かた大きに(こと)異也といひし故、其譯主人に語りければ、又泉州を招きて、此度は泉州の料理人を賴み料理なせしに、彼料理人來りて蚫數十はいを受て、其内にて三四はいを撰(えら)みて、右蚫の眞中を二つ切(きれ)程切りて跡を捨たり。然るに和泉守これを食味して、格別の風味御馳走の由、あくまで賞美ありしと也。大家の口中自然(おのづ)とかくも有ものやと、何れも驚歎せしとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。こういうグルメ話は「耳嚢」には意外に少ない。――質素倹約を旨とした古武士根岸鎭衞にして、当然のことであった。

・「大人」は「うし」又は「たいじん」と読む。領主や主人、広く貴人の尊称である。身分や位が高く禄の多い人を言う「大身」(たいしん)と結果的に同義語であるから、訳ではこちらを用いた。また、この話柄、明らかに「夫より家來に賴みて菓子抔進じけるに」の部分で切れている。そのように現代語訳ではした。

・「松平康福」お洒落な狂歌をひねる卷之一「松平康福公狂歌の事に既出の、本話柄を読んでもちょいと変わった面白い殿様であったことが窺われる人物である。松平康福(享保4(1719)年~寛政元(1789)年)は石見浜田藩藩主から下総古河藩藩主・三河岡崎藩藩主を経、再度、石見浜田藩藩主となっている。幕府老中及び老中首座。官位は周防守、侍従。幕府では奏者番・寺社奉行・大坂城代を歴任、老中に抜擢された。天明元年の老中首座松平輝高が在任のまま死去、その後を受けて老中首座となっている。参照したウィキの「松平康福」によれば、『天明6年(1786年)の田沼意次失脚後も松平定信の老中就任や寛政の改革に最後まで抵抗したが、天明8年(1788年)4月3日に免職され』たとある。

・「藤堂和泉守」藤堂高豊(たかとよ)、後に改名して藤堂高朗(たかほら 享保2(1717)年~天明5(1785)年)は伊勢国津藩支藩久居(ひさい)藩第5代藩主、後、津藩第7代藩主。藤堂家宗家7代。官位は従四位下和泉守。以下、ウィキの「藤堂高朗」は『父藤堂高武の死後、その家督と7000石を継いでいたが、享保11年(1726年)に、当時久居藩主であった藤堂高治の養嗣子となる。享保13年(1728年)、高治が本家の津藩を継承することとなったため、その後を受けて久居藩主となった。ところが享保20年(1735年)、今度は本家の津藩主となっていた高治が病に倒れたため、再び高治の養嗣子となって津藩の家督を継ぎ、津藩主となった。久居藩主は弟の藤堂高雅が継いだ』。『藩政においては幕府の歓心を得るために、自ら指揮して日光東照宮の修補造営に努めたが、この出費により24万両もの借金を作ってしまった。さらに文学を奨励したため、儒学は発展したが、高朗自身が奢侈に走ったため、士風などが緩んだ。明和6年(1769年)2月9日、病を理由に四男の高悠に家督を譲って隠居し、天明5年4月7日(1785年5月15日)に69歳で死去した』とある。勿論、本話柄は津藩主となってからの話。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから隠居直前の頃か。歓心に借金に豪奢……こんなアワビの食い方してちゃ……さもあらん。

・「蚫」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotisアワビ(鮑)。アワビ自体がミミガイ科 Haliotidae のアワビ属 Haliotis の総称であるので、国産9種でも食用種のクロアワビ Haliotis discus discus ・メガイアワビ Haliotis gigantea ・マダカアワビ Haliotis madaka ・エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)・トコブシHaliotis diversicolor aquatilis ・ミミガイ Haliotis asinina が挙げられる。但し、グルメの藤堂和泉守が食するとなれば、これはもう最高級種であるクロアワビであろう。棲息域は茨城県以南から九州沿岸で、藤堂和泉守の支配した伊勢国津藩は現在の三重県津市に相当し、ここはリアス式海岸が発達して岩礁域が広がる好漁場で、海女漁の伝統が根付く鳥羽・志摩にも近い。現代でも三重県はアワビ漁獲量・生産額共に全国第10位内に入る。また、藤堂和泉守が命じていると思われる薄く削ぐ調理法は、アワビの肉を外側から薄く長く剥ぎ取って乾燥して伸す、所謂「熨斗(のし)アワビ」を連想させるが、現在でも全国で唯一、神宮奉納用神饌熨斗鮑を作るところの神宮司庁所管の御料鰒調整所が三重県鳥羽市国崎にあることなどと合わせて考えると興味深い。その他、私の語りたい博物学的な知見は是非、私の電子テクスト「和漢三才圖會 介貝部 四十七 寺島良安」の冒頭を飾る「鰒(あはひ)」の注などを参照されたい。但し、このように腹足の中央部分だけを切り取って刺身にするというのは(そここそ美味というのは)私は初耳である(いや、美味には勿論違いないが)。……しかし、貝フリークの私に、鮑は外套膜辺縁部ばりばりごりごりつぶつぶの部分を好んで切り取って食う私に言わせれば、グレツなるグルメとしか言いようがない。

・「大守」古くは武家政権以降の幕府高官や領主を指すが、既に「諸侯」とし、江戸時代には通常の国持ち大名全般をこう俗称したので、これは大名とイコールで、主人と読み替えてよい。

■やぶちゃん現代語訳

 大身の味覚は常人のそれとは異にするという事

 ある折り、松平康福(やすよし)公へ、入手致いた面白き菓子を差し上げようしたところ、ある人が忠告して呉れたこと。

「康福公は自家でお造りになられた菓子ならざればお召しにはなられませんぞ。いや、それどころか、御家中にて差し上げたものにても、自家の厨(くりや)にて拵えしものにてあらざれば、不思議とそれとお見破りになられて、御口になさること、これ、御座らぬ。」

と。

 ――以後、私は当松平家御家中の家来に依頼し、松平家御家中製の御菓子を康福公には献ずることと致いて御座る。――

 ここに似たような話を今一つ。

 さても、藤堂和泉守高朗(たかほら)殿は、無類の鮑好きにてあられたによって、ある日のこと、さる大名諸侯らがこの話を聞き、和泉守殿を仲間内の、さる大名の御屋敷にお招きした折から、かの好物となされる鮑料理を、これまたたっぷりと用意致いて饗応して御座った。

 ところが和泉守殿は、出された鮑の刺身に少しばかり箸をお付けになられたかと思うと、最早、ここぞと並べられた鮑料理の皿には一切御手をお付けになられず、また更にも鮑料理御所望の御沙汰、これ、一言も御座らなんだ。

 饗応が済んで後のこと、かの屋敷の大名諸侯御抱えの料理人、相応の己が腕に縒りをかけて造った品々にてあってみれば、ほぼ丸のままに厨に料理が戻ってきたこと、これ、いっかな、不審晴れず、こっそりと和泉守殿屋敷勝手方の者へ相通じ、率直に訊ねてみて御座った由。

「……御太守にては鮑お好みの由なればこそ、我らが主人も気を遣うて、手落ちなきよう御饗応のこと、我らに申し付けられ、相応の素材、品々変われる鮑料理を御用意致いたつもりで御座ったれど……多くをお召し上がりになられず……これ、如何なる訳にて御座るか?」

すると、和泉守御家中の料理人は、

「――御主人様の料理、これ、鮑の調理の仕立て方、大きく異なって御座れば。――」

と、きっぱりと一言言うて黙った。

 一介の料理人なれば、それ以上のことは話さなんだ。

 それを聞いた男は主人大名にそのことを伝えたれば、かの大名も大いに『大きく異なれる仕立て方』なるものに興味を抱き、また、その大名の料理人も御意にてあればこそ、後日再応、和泉守殿をお招き致いて、この度は、特に例の和泉守殿御家中の料理人に事前に頼み込んで、かの招きし大名方の厨に入って貰ろうて調理致すことと相成って御座った。

 すると、厨へ参ったかの料理人、まず――笊に用意された、朝活け獲って早々に運ばせた、如何にも新鮮な粒揃いの数十杯の鮑を受け取る――と――その中でも殊に殼高高々とした、肉色黒く厚きもの――三、四杯を選び取り――かの鮑の身の、丁度眞ん中のところだけを、如何にも細く浅く、二切ほどのみ切り――残りは総て――捨ててしまった。

 呆然としている当家大名諸候方の料理人どもを尻目に、和泉守殿の料理人は、その白魚の如き、十(と)切れと満たぬ僅かな鮑の刺身を皿に盛る――と――饗応の席へと運ばせて御座った。

 和泉守殿、出て参ったこれを食味なされるや、

「――格別の風味にて! これは、これは! 誠有り難き御馳走にて御座る!――」

との仰せの由にて、大層御機嫌にてあられた、とのことで御座る。

「……いやはや……大身の御方の味覚なるもの、凡人とは違(ちご)うて……かくも自ずからあるものにて御座るのかのう……」

と当大名諸候御主人はもとより、御家中に驚歎致さざる者、これ誰(たれ)一人として御座らなんだ、という話。

2010/09/27

耳嚢 巻之三 狐附奇異をかたりし事

「耳嚢 巻之三」に「狐附奇異をかたりし事」を収載した。

  狐附奇異をかたりし事

 元本所に住居せし人の語りけるは、本所割下水に住居せし比(ころ)、隣なる女子に狐付て色々成る事ありし。日々行て見しに、彼狐附、隣の垣風もふかざるに倒れしを見て、あの家には小兒病死せん抔言ひ、或は木の葉の枯れしを見、何の事有、竿の倒るゝを見て、あの主人かゝる事有といひしに、果して違はざりしかば、いか成事やと尋ねしに、彼女答へて、都(すべ)て家々に守(もる)神有、信ずる處の佛神ありて吉凶共に物に托ししらせ給ふ事なれど、俗眼には是を知らざる事有と言し。

□やぶちゃん注

○前項連関:観世音霊験譚から狐憑きの霊言譚で連関。但し、ここでは根岸は、やや猜疑を持って記述しているものと思われ、私はそっけない表現に批判的なニュアンスを感じる。この程度の『予言』は事情通(噂好き)の者であれば、容易に為し得ることである。卷之二「池尻村の女召仕ふ間敷事」や、それに関わって私がテクスト化した南方熊楠の「池袋の石打ち」等、思春期に現われがちな似非『超能力』、宮城音弥にならって言えば、根岸の嫌悪する意識的若しくは無意識的詐欺の騙り霊媒師シリーズの一つでもある。

・「狐附奇異をかたりし事」底本ではこの標題の下に編者鈴木氏による『(底本ニハコノ一條目次ニアツテ本文ヲ欠ク。尊經閣本ニヨリ補フ。)』との割注がある。

・「本所割下水」「割下水」は一般名詞としては、木枠などを施さず、ただ地面を掘り割っただけの下水の意。ただ「割下水」だけでも、本話柄に現れる江戸から大正(関東大震災頃)まで現在の墨田区本所にあった南北二つの掘割(南の方は御竹蔵まで延びて北よりも有意に長い。何れも東の半ばで横川と交差し、横川町では更にその東端が横十間川に合流している)を呼ぶ固有地名としても通用した。

■やぶちゃん現代語訳

 狐憑きの者奇異なることを語った事

 以前に本所に住んでおった者が語った話。

……我ら、本所割下水に住んで御座った頃のこと、ある時、隣家の娘に狐が憑き申し、いろいろ奇妙なことが御座った。我らも暇に任せ、毎日のように様子を見に参りましたが、この狐憑き、例えば、

――隣の垣根が風も吹かぬにぱたりと倒るるを見ては……

「……アノ家ニテハ近々小児病死致サンゾ……」

なんどと言い、或いは、

――庭の木の葉がいきなり枯れたるを見ては……

「……今ニモコレコレノ事コレ起コル……」

と称え、

――庭の隅に立て掛けて御座った竿が、ある近隣の宅地の方(かた)を向きて、ふと倒るるを見ては――

「……カノ家ノ主人(あるじ)ニ於キテハカクカクノ一件コレ生ゼン……」

なんどと口走る……。

 しかし、それがまた、果して総て……言うに相違のう、起こって御座れば、我らも少なからず吃驚り致いて、

「これは、如何なることじゃ?」

と試みに娘――基、娘に憑いた狐――に訊いてみたので御座る。すると、

「……総テ何処(いずれ)ノ家ニテモ……夫々ナル守リ神コレ有リ……信ズル処ノ仏神コレ有リ……ソレ等ノ仏神ハ吉凶何レナルトモ……必ズコノ世ノ事物ニ託シ……我等ニ知ラセントナサレシ事ナレド……俗物ガ眼ニテハコレ……分カラザル事コレ有リ……」

とほざきまして御座る……。

2010/09/26

芥川龍之介 越びと 旋頭歌二十五首 一首 注増補追加

「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」の、「越し人」の注に片山廣子堀辰雄宛書簡の一部を引用し、解説を追加した。

重大な追加であるので、以下に該当部を抽出して示しておく。

ひたぶるに昔くやしも、わがまかずして、
垂乳根(たらちね)の母となりけむ、昔くやしも。

[やぶちゃん注:「わがまかずして」は、私と寝ることもなく、まぐわうことなく、の意――片山廣子は第一次芥川龍之介全集の編者で極めて親しかった堀辰雄に、「越しびと」を全集に載せる際、芥川龍之介のためにも、ある一首だけは削除して欲しいと懇請している。2005年講談社刊の川村湊「物語の娘 宗瑛を探して」に所収する昭和3(1929)年1月19日附片山廣子堀辰雄宛書簡を以下に引用する(但し、私のポリシーに則り、漢字を恣意的に正字に変えた)。
 それから「越しびと」の件はいろいろ御心配をかけてすみません むろんわたくしの名をおつしやつて下さるともあるひは「越しびと」と自分で信じてゐる人からたのまれたとおつしやつてもそれは御隨意です よろしくおとりはからひ下さい、あのうたを一つぬきたいといふわたくしの心持はけつして自分一人のためではないつもりです あのうた全部をよりよいものにしたいと思ふ心持もあるのです 作者は死ぬことを考へてゐたときにわたくしの事や「越しびと」のうたのことを考へる餘裕は持つてゐなかつたでせう、ですからわたくしが自分で考へるのです、あなたが心配して下すつてそれがうまく行かなかつたらそれはそのときの事です、玉は玉で石は石でごみはごみです、わたくしの眼にはなくなつた方のものがすベてがおんなじには見えません 
川村氏も同書で推定されているように、その一首とは――私も恐らくは、この一首であったものと思っている。勿論、この願いは聞き入れられなかった。当然である。既に世に公表されている歌群から、歌柄に読まれた当事者からとはいえ、それがその当事者の名誉毀損になるのが顕在的であるならまだしも(二人の関係が周辺者によって暗黙の内にある程度知られていたにしても――実際には芥川の廣子への恋情や二人の関係を十全に理解し、よく知っていた当時の人物は、堀辰雄や室生犀星などの数人を除いて、殆んどいなかったと私は思っている――本歌群の対象が直ちに片山廣子であることが大多数の当時の大衆に知れてしまうというようなことは当然なかった)、自身への露骨な性的願望が示されているから(この場合、芥川龍之介が片山廣子を熱愛していた事実はっきりしており、また廣子が芥川を愛していた事実も明白である以上、セクシャルハラスメントとしての立件も難しい。それでも廣子が芥川龍之介死後の自身の恥辱に堪えられないから、全集からの合法的な削除を要請するというのであれば――その前に、これが載った雑誌『明星』の出版差し止めや回収請求が起こされねばならぬことになる)、素晴らしい歌群の「ごみ」=瑕疵であるから削除して欲しいというのはいっかな通らぬ謂いである。同じく川村氏が述べておられるように、これは逆に廣子の芥川への思いの中にも、プラトニックなものばかりではなく、秘めておきたい性的な願望(それは勿論、無意識的なものであって、これも川村氏と同じく、私は芥川龍之介と片山廣子との間に、そのような実際的な肉体関係があったとは全く思っていない)があったことを示しているものと言えるのである。]

耳嚢 巻之三 信心に寄りて危難を免し由の事

「耳嚢 巻之三」に「信心に寄りて危難を免し由の事」を収載した。

 信心に寄りて危難を免し由の事

 予が許へ來る與住(よずみ)某がかたりけるは、餘りに信心にて佛神に寄歸(きき)せんは愚かに思るゝ事也。しかし一途に寄皈(きき)する所には奇特もあるもの也。與住の知れる者、常に法華を讀誦し或は書寫なしけるに、辰年の大火に淺草に住ひて燒ぬる故、淸水寺(せいすいじ)の觀音迄迯(にげ)しに、前後を火につゝまれすべき樣なく、新堀といへる川の端に立しが、煙強く遁れがたく苦しみけるが、壹人の僧來て、少しの内此内に入りてまぬがれべしとて、佛像をとりのけて厨子計(ばかり)あるを教へ、懷中より握飯など出しあたへける故、忝(かたじけな)しとて彼厨子の内へ入りて煙りを凌ぎ、右飯にて飢をも助りしが、火も燒通りし故右厨子の内を出て、知れる人の許へ立退し由語りける。一心に信仰なす所には奇特もあるもの也と語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。神道好き根岸にしては珍しい観世音霊験譚である(少なくとも、として話者である与住は語っているというべきか)。

・「與住」底本の卷之一「人の精力しるしある事」に初出する人物。そこの鈴木氏注に『与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師。』とある。他にも「巻之五」の「奇藥ある事」や「巻之九」の「浮腫妙藥の事」等にも多数回登場する医師に知人の多い中でも根岸一番のニュース・ソースの一人。

・「寄歸」「寄皈」何れも帰依に同じ。

・「法華経」の中でもよく知られるのが「観世音菩薩普門品第二十五」(「観音経」)で、そこでは衆生はあらゆる苦難に際して、観世音菩薩の広大無辺な慈悲心を信じ、その名前を唱えるならば、必ず観音がその世の衆生の声(音)を聞き観じて救済して下さると讃えている。

・「辰年の大火」江戸三大大火の一つである明和の大火のこと。明和9(1772)年壬辰(みずのえたつ)の2月29日午後1時頃、目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火(放火による)、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅』、『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、死者数14700人、行方不明者数4060人(引用はウィキの「明和の大火」からであるが、最後の死者及び行方不明者数はウィキの「江戸の火事」の方の数値を採用した)。因みに明和9(1772)年は、この大火もあり、「迷惑年」の語呂が悪いことから、1116日に安永元年に改元している。

・「清水寺」江北山宝聚院清水寺。東京都台東区松が谷二丁目(かっぱ橋道具街入り口四つ角の西南の角で東本願寺裏手の西北約200m上流の新堀川沿い)に現存。天台宗。本尊千手千眼観世音菩薩。清水寺オフィッシャル・サイトによれば創建は淳和天皇の天長6(829)年とする。同年、『天下に疫病が大流行すると、わがことのように悲しまれた天皇は、天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主であられた慈覚大師』円仁『に疫病退散の祈願をご下命』、『慈覚大師は、京都東山の清水寺の観音さまにならって、みずから一刀三礼して千手観音一体を刻まれ、武蔵国江戸平河、今の千代田区平河の地に当寺を開いておまつりしたので、さしもの疫病の猛威もたちどころにおさまった』。その後の『慶長年中、慶円法印が比叡山正覚院の探題豪感僧正の協力を得て中興され、徳川家康の入府で江戸城の修築のため馬喰町に移り、さらに明暦3年(1657)の振袖火事の後、現在地に再興された』とある。江戸三十三箇所(元禄年間に配された江戸の観音霊場巡礼寺院群)の一つ。

・「新堀といへる川」新堀川。現在の台東区にある東本願寺の西脇を南北に流れていた川。新堀通りに沿って南下して鳥越川と合流しているが、現在は両河川共に暗渠となっている。

■やぶちゃん現代語訳

 誠心の信心を寄せたによって危難を免れた稀有の一件に就いての事

 私のもとへしばしば訪れる医師与住玄卓が語った話で御座る。

「……余りにも信心が昂じ、仏神に無闇に帰依せんとすることは、愚かなことと拙者は思うて御座る。……ところが、一途に帰依する折りには、時には不可思議なることも、これ御座る。……

 拙者の知れる者に、常に法華経を読誦し、写経なんど致いて御座った者がおりまするが、かの壬辰(みずのえたつ)の明和の大火の際、浅草の住まいにて被災致し、清水寺(せいすいじ)の観音まで逃げのびたものの、行路の前後を炎に包まれてしまい、為すこともなく、呆然とかの地の新堀という川っ端(ぱた)に立ち尽くして御座った。

 やがてじりじりと火も近づき、黒々とした煙が朦々と立ち込めて参って、

『……最早、遁れ難し、万事窮すか……』

と、煙りのため、激しく咳き込み、苦しんで御座った。

……と……

そこへ、一人の僧が現れて御座った。

「――少しの間、この内に入(い)って、火を免るるがよい――」

と、傍らにあった厨子を指さして導く。

……それは清水寺本尊千手観音菩薩のものでも御座ったか――本尊観世音尊像は火難からお救い申し上げるために既に取り除けた後と思しい――空の厨子ばかりになって御座ったものとか申しまする……

 そうして、そればかりか、この僧、懐より握り飯などまで出だいて、恵んで下さったれば、男は、

「忝(かたじけな)い!」

と一声叫ぶが早いか、ただもう切羽詰ってからに、今は己れの身の上とばかり、無我夢中で厨子に飛び入り、扉を閉じて籠もって御座った。

 その内にて――火煙りを凌ぎつつ、貰(もろ)うた握り飯にて飢えをも凌いで御座った。

 さても――やがて辺りの火も下火となり、扉を開いて覗いて見れば、辺り一面、焼け野原になって、火も既に焼け通って御座ったれば、厨子の内を出で、知れる者のもとへと逃げのびること、これ、出来て御座ったと申す。

 ……さても、かくの如く、一心に信仰なす誠心、これあらば――凡夫なる我らなれども――摩訶不思議なることも、これあると存ずる……。」

2010/09/25

耳嚢 巻之三 任俠人心取別段の事

「耳嚢 巻之三」に「任俠人心取別段の事」を収載した。

この話も、好き。

この爺さん役、やってみたい。

格好(かっこ)ええなあ!

 任俠人心取別段の事

 椛町(かうぢまち)に何某といへる、處の親分と唱ふる者あり。年も五十餘にて小さき男成が、椛町十三町は勿論、芝邊迄の男立る若者共は、其健男(をとこだて)をしたひ尊(たつと)びける。然るに神田下町の者どもは、山の手組とて椛町の邊をばいやしみ別格の仲間也し。或時山王祭禮の時、祭禮の屋台藝者の乘りしを所望なしても、下町の組の分は取合ず、等閑(いたづら)也とて若き者共腹立て、當年は是非所望なして藝をせずば仕方ありといひけるを、彼老夫聞て、さありては口論喧嘩をなすより外の事なし。我等に任せよ仕方ありとて、祭禮の當日町の木戸口に出で下町の祭り渡り懸りし時、藝を所の衆所望也學び見せ給へと所望なしければ、例の通等閑の挨拶也ければ、我等今日は申出ぬれば是非所望也。左なくば此道通しがたしといひければ、下町の者共も、老人のいらざる事也、天下の往還御身壹人留め給ふとて通らぬ譯やあるなど申ければ、然るうへは仕方なし、此上を通りて我を車にかけて引殺し通るべしと、木戸の眞中に仰向に臥したり。色々引除(ひきのぞき)なんとしけれ共曾て承知せず。依之(これにより)下町組よりもおとなしき者出て、老仁の好み藝をなし候へとて、逸々(いちいち)に其藝を施し通りけると也。死を先にするものには仕方なからん、かゝる老健(おいだて)もある者と語り笑ひぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:老練の智者の才覚で連関。「木戸の眞中に仰向に臥した」る姿の鯨の如き鯨風ならぬ芸風にてもイメージ直連関!

・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、根岸の場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取り、それに最も最適の行動をいち早くとれることに用いることが多い。ここはそこまで大仰に言わずとも、企略ぐらいな意味でよいと思われる。

・「椛町」「椛町十三町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の他の話柄の長谷川氏注を加味して作成した)。

・「芝」現在の東京都港区東部の地名。JR田町駅及び地下鉄三田駅を中心とした一帯。麹町からは南方に有に2~3㎞以上隔たっている。

・「山の手組」江戸時代の御府内にあって江戸城近辺の高台の、主に武家が居住した地域を「山の手」と呼び、低地に広がった商工業を中心とする典型的な町人が居住した町を「下町」と呼んだ。代表的な山の手は番町・麹町・平河町・市谷・牛込・四谷・赤坂・麻布・本郷・小石川などで、逆に下町の方は日本橋・京橋・芝・神田・下谷・浅草・深川・本所など。

・「山王祭禮」山王祭。東京都千代田区にある正式名称日枝神社大祭の通称。以下、ウィキの「山王祭」から引用する。『毎年6月15日に行われており、天下祭の一つ、神田祭、深川祭と並んで江戸三大祭の一つとされている』。『日枝神社は既に南北朝時代から存在したとも言われているが、太田道灌によって江戸城内に移築され、更に江戸幕府成立後に再び城外に移されたといわれている。とはいえ、同社が江戸城及び徳川将軍家の産土神と考えられるようになり、その祭礼にも保護が加えられるようになった』。『元和元年(1615年、寛永12年(1635年)とする異説もある)には、祭の山車や神輿が江戸城内に入る事が許され、将軍の上覧を許されるようになった。天和元年(1681年)以後には、神田明神の神田祭と交互に隔年で行われる事になった』。『江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚く、祭礼の祭には将軍の名代が派遣されたり、祭祀に必要な調度品の費用や人員が幕府から出される(助成金の交付・大名旗本の動員)一方で、行列の集合から経路、解散までの順序が厳しく定められていた。それでも最盛期には神輿3基、山車60台という大行列となった。また、後に祇園会と混同されて、江戸を代表する夏祭りとして扱われるようになった』。『そんな、山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後衰微し、文久2年(1862年)の祭を最後に将軍(家茂・慶喜)が上方に滞在し続けたまま江戸幕府は滅亡を迎えたために天下祭としての意義を失った。続いて明治22年(1889年)を最後に市街電車の架線によって山車の運行が不可能となった。更に太平洋戦争の空襲によって神社が焼失し、昭和27年(1952年)まで中断されるなど、苦難の道を歩む事になりながらも今日まで継続されている』。現在の『大祭は神田祭と交互で毎年西暦偶数年に行われる。内容は神田祭と類似する』とある。冒頭の『6月15日に行われており』という記載と一見矛盾しているように見えるが、これは神田祭のある年には神幸(しんこう:神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移したものを地域の氏子内への行幸や元宮への渡御などを行うことを言う。)を出さない陰祭(かげまつり)が行われているからである。この件で参照した「日本大百科全書」(小学館)には更に現在は『3基の本社神輿が茅場町の御旅所へ神幸する形式だが、もとこれに供奉して江戸末期には60基を超えた山車・練物も、たび重なる震災・戦災でほぼ消失し、現在では多数の町神輿主体の祭礼に変化している』とあり、この記載で往時の盛況が分かる。根岸の時代には既に隔年開催になっていたから、本話柄の前の年かこの年かのどちらかは大祭ではなかった。

・「藝者」これは芸妓の意味ではなく、広く音曲歌舞に優れた芸人の意。山車(だし)に載る音曲をこととする男のことを指して言っているものと思われる。

・「木戸」江戸のそれぞれの町々には出入り口があり、そこに木戸が設けられて、治安のため、夜は木戸の傍の番小屋にいる木戸番(「番太郎」又は「番太」と呼ばれ、通常は2名、老人が多かった)によって夜の四ツ時(午後10時頃)には閉じられた。原則、通行禁止であったが、時間外で通過するための潜り戸が附属しており、医師や取り上げ婆などはそのまま、他の者も木戸番に一声かければ通行出来た。実際には木戸番自体の勤務がルーズで熱心でなく、セキュリティとしての機能は必ずしも高いものではなかった。なお、それぞれの町の中の各長屋にも、通常は私的な木戸が設置されていた。

・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 男っぷり良き任俠はその企略も格別なる事

 麹町に、町内(まちうち)の町人どもから『親分』と呼ばれておった、何某という者が御座った。

 年はそう、五十余りにて、見た目はただの小男ながら、『親分』の呼び声は麹町全十三町は勿論のこと、遠く芝の辺りにまで名を轟かせ、それらの町々の男ぷりを気取る若造どもから大いに慕われ、絶大なる尊敬を集めて御座った。

 さて片や、神田下町の町人どもは、この麹町辺の者どもを称すに、『山の手組』と言うて、殊の外に賤しみ、己れらを正真正銘の江戸っ子、『山の手組』の町人どもは山の手なれど江戸っ子の風上にも置けない弱尻りの別格よ、と見下して御座った。

 ある年の山王祭りでのこと、山車(だし)が麹町まで回って来た際、その山車に乗って音曲を披露するところの芸人――これは当然、氏子であった下町の者らから出て御座ったが――に、麹町の見物の町人が芸を所望致いた。

 ところが、山車の内の下町の者どもは皆、これを無視して取り合わず、そのまま行過ぎてしまった。

「あんまりじゃねえか!!」

麹町の若者ども、以ての外に腹を立てた。

 その翌年、例祭が近づくにつれ、

「今年は是が非でも所望の上、音曲をやらせるぜ!」

「おう! それでもやらねえとなりゃよ、こっちとら、黙っちゃいねえさ!!」

と口々に憤懣をぶち上げる。

 と、これを聞いた、かの老親分、

「――て前(めえ)ら、そんな勢いじゃ、口論喧嘩になるほか、あるめえ。――どうでえ、一つ、俺に任せろや。――俺に考(かんげ)えがある……。」

と言う。流石に親分の言葉なれば、若い衆も従(したご)うた。

 さても祭礼の当日、老爺は麹町の木戸口に出でて、神田下町の山車が渡りかかるのを待って、やおら声をかけた。

「――所の衆、芸を所望致いておる。――一つ、ご披露頂きとう御座る。――」

と丁重に所望致いたが、例の通り、下町の奴(きゃつ)ら、

「厭なこった。」

と応対も如何にもぞんざい、けんもほろろ。

……と……

「……俺が――見たいと申して――おる。……さもなくば、この道――通せねえ、な。」

と妙に静かに言うたが、売り言葉に買い言葉で、下町の者どもも、

「爺(じじい)は、すっ込んでろい! 天下の大道、お前(めえ)さん一人がとうせんぼなさったからって、よ、通れねんなんてことが、あろうはず――えへへ! これ、ありんせんヨ!」

などとちゃかして応ずる。

……すると……

「……そうかい……そうまで言うかい――じゃ、仕方がねえ。――この上通って行ってくんな!――おう! この俺を車に轢(ひっか)け、轢き殺して通るがいい!――」

と言うや、老爺、往来の、その木戸の、まさにそのど真ん中に両手足をぴんと伸ばして仰向けになって寝転がって御座った。

 これを見た下町の者ども、何人もが寄ってたかって、無理矢理起こそうとしたり、引き除けようとしたり、色々試みて御座ったれど、これがまあ、いっかな、動かぬ!――嚇したり賺(すか)したり致いて御座ったが、これ、承知せず、何としても動かぬ!――

 山車もだんまり――爺もだんまり――これじゃあ、目出度い祭りも形(かた)なし……ということで、神田下町衆からも、かの老爺と年相応の者が山車の前に出でて、

「……かの親爺殿のお好みじゃ……芸を御披露申し上げい!」

と命じる。

 かくして、麹町十三町を通り抜くるに、神田下町の山車から、いちいちの町々にて芸を披露しつつ、通り抜けて御座ったとのことである。

 棺桶に片脚突っ込んだよな爺(じじい)――これは、失言!――命を捨つる剛毅の者をば、我ら、相手には、これ、出来申さざるものなれば、かくも老いてますます剛健の男伊達もある者じゃ、と世間にても談笑の語り草ともなって御座ったよ。

2010/09/23

ぼくという旅人 村上昭夫

海がなつかしいのは

海の向こうに見知らぬ国があるからだ

山がなつかしいのは

山の向こうに見知らぬ町があるからだ

 

空がいとおしくて仕様がないのは

空の向こうに

見知らぬ次元があるからだろうか

 

見知らぬ国があるかぎり

見知らぬ町があるかぎり

見知らぬ空がある限り

ぼくは何処までも何処までも歩いてゆくのだ

僕は

とりあえず一年の限定で現在の僕の社会的生活を続けることに妻との談判により決した。但し、これを僕は最上の判断とは実は思っていない。それが如何なる将来を現前させるかについて、今、僕は全くの自信を持てないでいる。――僕は自身の肉体や能力に最早、ある限界を感じている。このままハッタリをかますことは僕の本意ではない――社会的生活とは常にハッタリでしかないである――しかし仕方がない――また僕は愚劣さを引きずりながら生きてゆくことになった――以上、ここで報告しておく。

――なお、近過去のブログの、これに拘わる意味深なる発言は総て無効となったことも言い添えておく。心配して下さった君、とりあえずは飴のようにのびた蒼ざめた時間は『幸いなことに』――また――続くのだ――

あなたに申し上げよう。酔って墓の上に眠っても、何も面白くない。眠るのなら墓の中に寝るべきだ。

アランよ――僕はまた、素面で墓の上に寝るのだ――

耳嚢 巻之三 熊野浦鯨突の事――母の退院を祝して

本日、母がこれより退院するので、それを祝してもう一本、「耳嚢 巻之三」に「熊野浦鯨突の事」を収載した。

鯨(いさな)取りの猟師の精悍で生き生きとした表情、その力強い魅力的な掛け声が髣髴としてくる佳品。

僕の好きな一篇。

だから母の退院祝いとする。

 熊野浦鯨突の事

 紀州熊野浦は鯨の名産にて鯨よる事有所也。有德院樣いまだ紀州に入らせられ候折から、鯨突(くじらつき)のやう御覽ありたきとて御成の折から、其事被仰出けるに、或日御成の時、今日鯨寄り候とて鯨突御覺有べき由浦方より申上ければ、御機嫌にて則浦方へ被爲入候處、數百艘の舟に幟(のぼり)を立て追々に沖へ漕出で、一のもり二のもりともりを數十本投てザイをあげけるにぞ、鯨を突留たりと御近習の者も興じけるに、程無船々にて音頭をとり、唄をうたひて大繩を以て鯨を引寄けるに、何れも立寄見ければ鯨にはあらで古元船(ふるもとぶね)にて有し。其村浦の老(おとな)罷出申けるは、鯨の寄り候を見請(みうけ)御成を申上ては御働合ひ一時を爭ふものにて、とても其樣を御覺の樣には難成、これによりて御慰に鯨の突方を學び御覧に入し也。誠の鯨にても少しも違ひ候事は無之候由申上ければ、甚御機嫌宜しく御褒美被下けると也。右浦長(うらをさ)は才覺の者也と、紀州出生の老人かたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。暴れん坊将軍吉宗逸話シリーズ。ここでは本邦の捕鯨が語られている。最初に断わっておくが、私は熱烈な捕鯨再開支持論の持ち主である。私は民俗文化の観点からも、また科学的論理的事実からも、管理された捕鯨の再開を支持する者として一家言ある。私が、反捕鯨の非論理性やその政治的な戦略性・背後の圧力団体・シンパ組織について熱く語り、クジラがアフリカの飢えた子供の命を救い得るという話をしたのを思い出す生徒諸君も多いであろう。しかし、余りにも甚だしい脱線となり、ここはそれを表明する場でもないから涙を呑んで諦める。その代わりとして、せめて日本の捕鯨文化についての比較的客観的な史料的事実だけはここに示しておきたい。例によってウィキの「日本の捕鯨」から大々的に引用(江戸期の歴史的記述まで)する。これは本邦の捕鯨文化を理解して戴きたい故である。ウィキの執筆者の方、お許しあれ。『日本では、8000年以上前から捕鯨が行われてきており、西洋の捕鯨とは別の独自の捕鯨技術を発展させてきた。江戸時代には、鯨組と呼ばれる大規模な捕鯨集団による組織的捕鯨が行われていた。明治時代には西洋式の捕鯨技術を導入し、遠くは南極海などの外洋にも進出して捕鯨を操業、ノルウェーやイギリスと並ぶ主要な近代捕鯨国の一つとなった。捕鯨の規制が強まった現在も、調査捕鯨を中心とした捕鯨を継続している』。『日本の捕鯨は、勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)と呼ばれ、古くから行われてきた。その歴史は、先史時代の捕鯨から、初期捕鯨時代(突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨)、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代へと分けることができる。かつては弓矢を利用した捕鯨が行われていたとする見解があったが、現在では否定されている』。『江戸時代の鯨組による網取式捕鯨を頂点に、日本独自の形態での捕鯨が発展してきた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨は日本各地で近年まで行われていた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨はイルカ追い込み漁など比較的小型の鯨類において現在も継続している地域もある。また、受動的捕鯨(座礁したクジラやイルカの利用)についても、一部地域では慣習(伝統文化)として食用利用する地域も残っている』。『日本における捕鯨の歴史は、縄文時代までさかのぼる。約8000年前の縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市の稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、簎(やす、矠とも表記)先の石器が出土していることや、約5000年前の縄文前期末から中期初頭には、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨の圧迫跡が存在する例が多数あり、これは脊椎骨を回転台として利用していたと見られている』。『弥生時代の捕鯨については、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡から出土した弥生時代中期の甕棺に捕鯨図らしき線刻のあるものが発見されており、韓国盤亀台の岩刻画にみられる先史時代捕鯨図との類似性もあることから、日本でも弥生時代に捕鯨が行われていた可能性が高いと考えられるようになった。原の辻遺跡では、弥生時代後期の出土品として、鯨の骨を用いた紡錘車や矢尻なども出土しており、さらに銛を打ち込まれた鯨と見られる線画が描かれた壷が発見された。もっとも、大型のクジラについては、入り江に迷い込んだ個体を舟で浜辺へと追い込むか、海岸に流れ着いた鯨』『を解体していたと見られている』。『北海道においても、イルカなどの小型のハクジラ類の骨が大量に出土している。6世紀から10世紀にかけて北海道東部からオホーツク海を中心に栄えたオホーツク文化圏でも捕鯨が行われていた。根室市で発見された鳥骨製の針入れには、舟から綱付きの離頭銛を鯨に打ち込む捕鯨の様子が描かれている。オホーツク文化における捕鯨は毎年鯨の回遊時期に組織的に行われていたと見られ、その影響を色濃く受けたアイヌの捕鯨は明治期に至るまで断続的に行われていたとされる。アイヌからの聞き取りによると、トリカブトから採取した毒を塗った銛を用いて南から北へと回遊する鯨を狙うという』。『鯨を捕らえることは数年に一度もないほどの稀な出来事であり、共同体全体で祭事が行われていたという』。『奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている』。『鎌倉時代の鎌倉由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことやクジラやイルカなどの海産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている』。『海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも12世紀には湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた』。以下、本話に現われる「突き取り式捕鯨時代」の記載(以下、記号の一部を変更し、一部表現が私の感覚では違和感があったので『 』外に出して手を加えた)。『突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある』。『「鯨記」(1764年・明和元年著)によれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたの1570年頃の三河国であり6~8艘の船団で行われていたとされる。16世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては、1561年に三好義長が邸宅において足利義輝に鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には1591年に土佐国の長宗我部元親が豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする』ところの習慣『的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心が1614年(慶長15年)に著したとされる「慶長見聞集」において「関東海にて鯨つく事」という一文があり文禄期(15921596年)に尾張地方から鯨の突き取り漁が伝わり、三浦地方で行われていたことが記述されている』。『戦国時代末期にはいると、捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする各地の水軍・海賊出身者たちであった。紀州熊野の太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、1606年(慶長11年)に、泉州堺(大阪府)の伊右衛門、尾州(愛知県)知多・師崎の伝次と共同で捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し突組と呼称された。この後、1618年(元和4年)忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照が尾州知多・小野浦の羽指(鯨突きの専門職)の与宗次を雇い入れてからは本格化し、これらの捕鯨技術は熊野地方の外、三陸海岸、安房沖、遠州灘、土佐湾、相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている』。『1677年に網取り式捕鯨が開発された後も突き取り式捕鯨を継続した地域(現在の千葉県勝浦など)もあり、また明治以降にも捕鯨を生業にしない漁業地において大型のクジラなどを突き取り式で捕獲した記録も残っている『1677年には、同じく太地浦の和田金右衛門頼照の次男、和田角右衛門頼治(後の太地角右衛門頼治)が、それまで捕獲困難だった座頭鯨を対象として苧麻(カラムシ)製の鯨網を考案、銛と併用する網掛け突き取り捕鯨法を開発した』。『さらに同時期には捕獲した鯨の両端に舟を挟む持双と称される鯨の輸送法も編み出され、これにより捕鯨の効率と安全性は飛躍的に向上した。「抵抗が激しく危険な親子鯨は捕らず、組織捕鯨は地域住民を含め莫大な経費のかかる産業であったため不漁のときは切迫し捕獲することもあった。「漁師達は非常に後悔した」という記述も残っており、道徳的な意味でも親子鯨の捕獲は避けられていた。もっとも、子鯨を死なない程度に傷つけることで親鯨を足止めし、まとめて捕獲する方法を「定法」として積極的に行っていたとの記録もある。」という解説もあるが、1791年五代目太地角右衛門頼徳の記録では「何鯨ニよらず子持鯨及見候得者、……もりを突また者網ニも懸ケ申候而取得申候」とあり、また太地鯨唄にも「掛けたや角右衛門様組よ、親も取り添え子も添えて」とあり、鯨の母性本能を利用した捕鯨を行っていた。当初は遊泳速度の遅いセミクジラやコククジラなどを』獲『っていたが、後にはマッコウクジラやザトウクジラなども対象となった。これらの技術的な発展により、紀州では「角右衛門組」鯨方の太地浦、紀州藩営鯨方の古座浦、新宮領主水野氏鯨方の三輪崎浦を中心として、捕鯨事業が繁栄することになった。土佐の安芸郡津呂浦においては多田五郎右衛門義平によって1624年には突き取り式捕鯨が開始されていたが、その嫡子、多田吉左衛門清平が紀州太地浦へと赴き、1683年に和田角右衛門頼治から網取り式捕鯨を習得している。この時、吉左衛門も鯨を仮死状態にする土佐の捕鯨技術を供与したことにより、より完成度の高い技術となり、太地浦では同年暮れより翌春までの数ヶ月間で96頭の鯨を捕獲した。西海地方においても同様に17世紀に紀州へと人を向かわせ、新技術を習得させている。この網取り式の広まりにより、捕獲容易なコククジラなどの資源が減少した後も、対象種を拡大することで捕鯨業を存続することができたとも言われる』。以下、「江戸時代の捕鯨産業」について。まず、「鯨の多様な用途」の項。『江戸時代の鯨は鯨油を灯火用の燃料に、その肉を食用とする他に、骨やヒゲは手工芸品の材料として用いられていた。1670年(寛文10年)に筑前で鯨油を使った害虫駆除法が発見されると』、『鯨油は除虫材としても用いられるようになった。天保三年に刊行された『鯨肉調味方』からは、ありとあらゆる部位が食用として用いられていたことが分かる。鯨肉と軟骨は食用に、ヒゲと歯は笄(こうがい)や櫛などの手工芸品に、毛は綱に、皮は膠に、血は薬に、脂肪は鯨油に、採油後の骨は砕いて肥料に、マッコウクジラの腸内でできる凝固物は竜涎香として香料に用いられた』。次に「組織捕鯨と産業」の項。本話の注として頗る有効。『江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれの藩による直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象はセミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を要したため、組織の維持・更新に困難が伴ったことも衰退に影響していると言われる』。次に「捕鯨を生業としない地域の紛争」の項。これも江戸時代の国内の事柄で、本話注として有効。『鯨組などによって組織捕鯨が産業化されたため流通、用途、消費形態などが確立されたことから以前より一層、鯨の価値が高まった。島しょ部性(面積あたりの海岸線延長の比率)の高い日本において捕鯨を行っていない海浜地区でも湾や浦に迷い込んだ鯨を追い込み漁による捕獲や、寄り鯨や流れ鯨による受動的捕鯨が多く発生するため、鯨がもたらす多大な恩恵から地域間の所有や役割分担による報酬をめぐって度々紛争になった。これを危惧した江戸幕府は「鯨定」という取り決めを作り、必ず奉行所などで役人の検分を受けた後、分配や払い下げを鯨定の取り決めにより行った』。最後に「捕鯨と文化」の項から引用して終える。『捕鯨活動に関連して、捕鯨従事者など特有の文化が生まれた例がある。日本では、捕鯨従事者を中心にその地域住民に捕鯨行為に対しての安全大漁祈願や、鯨に対する感謝や追悼の文化が各地に生まれた。「鯨一頭(匹)七浦賑わう(潤う)」という言葉に象徴され、普段、鯨漁を生業としない海浜地域において鯨を捕獲してその地域が大漁に沸いた事や鯨に対しての感謝や追悼を記念し後世に伝承していた例もある。ほか、鯨唄・鯨踊り・鯨絵巻など、鯨または捕鯨に関する歴史的な文化は多数存在する』。「信仰の対象として(鯨神社ほか)」の見出し部分。『日本の宗教観念では森羅万象を神とする考え方もあり、また人々の生活を維持してくれる作物や獲物に対して、感謝をする習慣があり、鯨墓、鯨塚などが日本各地に建立されている』。『日本各地に鯨に纏わる神社(俗称として鯨神社)がある。多くは鯨の遺骸の一部(骨など)が御神体になっていたり、捕鯨行為自体を神事としている神社などがある。なかには鯨のあご骨でできた鳥居を持つ神社もある』。『日本各地に鯨を供養した寺があり、俗称として鯨寺と呼ばれているものもある。多くは鯨の墓や戒名を付けたりなどしているが、鯨の過去帳を詳細に記述している寺などがある。なかには鯨観音とよばれる観音をもつ寺もある』。そもそもクジラを殺すことを野蛮とし乍ら牛を屠殺し食い続けてきた文化と、獣肉食を永く忌避し乍ら海を血に染めて鯨肉を喰らってきた文化に本質的な倫理的優劣などない。今あるのは前者が後者を絶対的に差別し蔑視し、非人道と言う如何にも怪しげなスローガンでそれを駆逐しようとする前者の側からの相対的な見かけの勾配があるだけである。

・「熊野浦」:紀伊半島南東岸沖合一帯の海域を熊野灘と呼称するが、その沿岸部を熊野浦と呼ぶ。以下、ウィキの「熊野灘」(「熊野浦」ではない点に注意してお読み頂きたい)から一部を引用しておく。『熊野灘は、フィリピン海(北西太平洋)のうち、日本の紀伊半島南端の和歌山県の潮岬から三重県大王崎にかけての海域の名称』。『沿岸はリアス式海岸が目立ち岩礁・暗礁が多い一方で天然の良港も多く、帆船の時代には風待港がない遠州灘と比べれば航海は楽であったという。遠州灘・相模灘とあわせて江戸と上方を結ぶ海の東海道となり、河村瑞賢が西廻り航路を開いてからはさらに多くの廻船で賑わった』。『沿岸の郷土料理には、めはりずし、秋刀魚寿司、なれずしなどがあり、熊野市・志摩市などに複数のダイダラボッチ伝承が伝わる。古式捕鯨の行われていた地域の一つで、太地町には捕鯨基地がある。また、潮岬以東の熊野灘沖では度々黒潮蛇行が発生する』。『尾鷲以北はリアス式海岸、熊野市から新宮までは礫からなる直線的な海岸(七里御浜海岸・三輪崎海岸)を持つ。更に、那智勝浦以南には奇岩が見られる。串本の橋杭岩や、那智勝浦の紀の松島などがそれにあたる。熊野市にも一部奇岩が見られる(例:鬼ヶ城、獅子岩など)』。『沖合いは水深2000m程度で、平坦になっている』。『熊野灘は黒潮が流れ、漁場のひとつとなっている。明治時代までは黒潮を回遊するカツオの大群が沿岸近くまでやって来ており、八丁櫓船などの手漕ぎ船でのカツオ漁が盛んであったが、沿岸近くのカツオの減少、漁船の動力化などにより遠洋化が進んだ』。『太地町は捕鯨の町として知られる。捕鯨問題によって大規模な捕鯨が禁じられている現在も調査捕鯨の船舶が寄航する。また町内にはくじらの博物館があるほか、鯨料理を出す飲食店が多い』。『那智勝浦は西日本を代表するマグロ水揚げ基地であり、本マグロをはじめ様々なマグロが水揚げ・取引されている。また、「まぐろ祭り」も開催されている』。『サンマ漁も行われている。しかし三陸沖から泳いできたサンマは脂がほとんど乗っていないため、おもに寿司や刺身用となる』。『熊野灘は1944年の東南海地震など、約150年の周期で繰り返し発生しているプレート境界地震の震源域にあたる。過去の災害ではとくに津波の被害が甚大である。また、台風銀座でもあり、伊勢湾台風を初めとして何度も台風の被害に見舞われている』とある。これで沿岸の「熊野浦」は凡そイメージ出来るものと思われるが、蛇足で付け加えるなら、私は熊野浦と言えば那智勝浦、那智勝浦と言えば補陀洛山寺――捨身行補陀洛渡海(ふだらくとかい:生身の観音を拝まんがために舟に乗り、南方にあるとする補陀洛浄土を目指して小舟で旅立つ行。)を思い出さずにはいられない。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「御覺」貴人の信望・寵愛の意から、熱望・所望されていたこと、の意。

・「ザイ」采配(「采幣」とも書く)。紙の幣(しで)の一種。戦場で大将が手に持って士卒を指揮するのに振った武具。厚紙を細長く切って作った総(ふさ)を木や竹製の持ち柄に飾り付けたもの。色は白・朱・金・銀など様々。

・「學び」真似をするの意。元来、「学ぶ」の語源は「真似ぶ」である。

・「浦長」所謂、網元。現在で言う漁労長に相当。

■やぶちゃん現代語訳

 熊野浦の鯨突きの事

 紀州熊野浦は鯨が名産で、また、よく鯨が沿岸に寄り来ることで知られる。

 有徳院吉宗公が未だ紀州に御在国であらせられた頃のこと、鯨突きの様を是非とも見たいと、かねてよりの御意にて、熊野浦方へ御成りの折り毎、度々その旨、仰せらて御座った。

 ある日のこと、やはり熊野浦御成りの際、

「今日、鯨が寄って御座りまするとのこと。御所望の儀、どうぞ、ごゆるりと御覧下さりませ。」

と浦方の役人が申し上げたので、吉宗公は、もう少年のように上機嫌におなりになられ、やおらとある浦辺へとお入りになられた――

――と同時に――

――数百艘の舟が色鮮やかな幟を立て……

――どんど! どんど!

――沖へ! 沖へ!

――と、次々に漕ぎ出で……

――びゅっ! びゅっ!

――一の銛(もり)! 二の銛!

――と、数十本の銛が投げられ……

――遂に!

――ざっ!

と、漁場の組頭の持った采配が挙がった!

「おおっ! 鯨を仕留めよった!」

と吉宗公の御近習の者どもも、思わず、どよめいて声を挙げる。

 程なくおのおの舟が音頭をとり、唄を歌って大縄を以って鯨を岸辺に引き寄せる。

――吉宗公はもとよりお付きの者どもも一人残らず、思わず駆け寄って見る……

……と……

――陸揚げされたは……

――鯨――ではのうて……

――上を鯨に似せて覆った古き廃船にて御座った。……

 そこへその浦方の村の老浦長(うらおさ)がさっと罷り出で参り、

「……お畏れながら……鯨突きの儀、その漁の勝負は、組一丸となっての大働きにて、ほんの一時をも争うものに御座いまする。……鯨が寄って参りますのを見つけましてから、お殿さまへ御成りの儀申し上げましたのでは、これ、とても、ご覧頂くこと、叶いませぬ。……そこで、古舟を鯨に見立てまして、せめてものお殿さまのお慰みにと、鯨の突き方を真似てご覧に入れたという……次第にて御座いまする。……但し、真実(まこと)の鯨にても、これと寸分違い御座らぬことは、これ、請け合いまして御座いまする。……」

と吉宗公に申し上げたという。

 これを聞いて上様、殊の外お喜びになられ、また、浦人一人ひとりに、御(おん)褒美を下賜されたとのことで御座った。

「……いや! この浦長、真実(まっこと)、才覚の者にて御座った!――」

とは、紀州出の知れる老人が、己が誉れでも自慢するかのように、楽しげに語った話で御座る。

耳嚢 巻之三 行脚の者異人の許に泊し事

「耳嚢 巻之三」に「行脚の者異人の許に泊し事」を収載した。

 行脚の者異人の許に泊し事

 前々しるしぬる虚舟、上方筋行脚なしけるに、信濃美濃のあたりにてとある絶景の地に休らひ、懷中より矢立取出して短册に一句を印し居たりし後ろへ、年頃四十許(ばかり)にて大嶋の布子を着し、山刀さして頭巾を冠りける者立留りて虚舟に申けるは、御身は俳諧なし給ふと見へたり。今晩は行脚の御宿我等いたし可申間立寄給へとていざなひしかば、嬉しき事に思ひてかの者に連て行しに、道程三四里も山の奧へ伴ひ行て一ツの家あり。彼家へ伴ひしに妻子ありて家居も見苦しからず。然れ共あたりに人家なく誠に山中の一家なり。俳諧の事抔夜もすがら咄して麁飯(そはん)抔振廻ひける故、夜も更ぬれば一ト間成所に入て臥ぬ。いか成者や、狩人といへど鐵砲弓などの物も見えず。夜中は度々表の戸の出入多く、燒火(たきび)などしてあたり語るさま年老(としより)の者共見へず、不思議なる者と思ひぬる故夜もよく寢られざるが、程なく夜明ぬれば食事などして暇を乞、御身は何家業(わざ)なし給ふや又こそ尋(たづね)め、何村の内也と尋しに、しかじかの答もなさゞりしを考れば強盜にてもありしや。發句などを見せ物など讀み書などせしさま、むげに拙(つたな)き人とも見へず。翌日は返りして山の口元まで案内し立別れぬるが、今に不審はれずと語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:前項とは無縁乍ら、本文にもある通り、四項前の「其業其法にあらざれば事不調事」の話者虚舟の体験談で隔世連関。

・「虚舟」「其業其法にあらざれば事不調事」の同注参照のこと。

・「信濃美濃のあたりにてとある絶景の地」信濃国(現在の岐阜県南部)と美濃国(現在の長野県)の国境に近い景勝地となると、中山道沿いならば寝覚の床、やや離れるが木曽川の絶景としては国境に最も近い恵那峡が挙げられる。

・「大島」大島紬(つむぎ)のこと。絣(かすり)織りの紬。主に奄美大島で産したことからかく言う。手で紡いだ絹糸を泥染めし、それを手織り平織りにした絹布で縫製した和服を言う。

・「布子」現在は木綿の綿入れを言うが、古くは麻布の袷(あわせ)や綿入れを言った。ここでは後者であろう。

・「山刀」猟師や樵が山仕事に使用する鉈の一種。

・「燒火(たきび)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 旅致す者山中異人の家に泊まれる事

 四話前に記した虚舟が、上方の方へ旅致いた折りのことという。

……さても、信濃や美濃の辺りにて、とある絶景絶佳の渓谷景勝の地に休ろうて、徐ろに懐中より矢立を取り出だいて、短冊に発句なんど認(したた)めて御座ったところ……我らが背に、突然、年頃四十ばかりの、大島の布子を着て山刀(やまがたな)を腰に差し、頭巾を被った男が立ち現われ、声をかけて参ったので御座る。……

「……御身は俳諧をお嗜みになられると拝見致す。……さても、今宵の旅宿を我ら御世話致さんと存ずれば……どうか切に、お立ち寄りあられんことを……」

と誘われて御座ったれば、拙者も願ってもないことと喜んで、かの者に従って御座った。……

……ところが、その後、そうさ、かれこれ三、四里ばかりも山中深く分け入って御座ったろうか……へとへとになった頃、やっとこさ、草深きうちに一軒家が御座った。

 家内に誘われてみれば、妻子の出迎えあり、家居造作もこのような深山幽谷の内ながらも見苦しいものにてはこれなく、相応な構え。なれど、辺りには一軒の人家として、これなく、文字通り、山中の一つ家で御座った。……

……俳諧のことなんど、夜もすがら談笑の上、ささやかなれど食事も振舞って下され、夜も更けて御座ったれば、一と間なるところに導かれ、眠りに就いて御座った。……

……我ら、布団内にて思うたことは……

――この主人、一体、何者じゃろ?……自らは狩人と称したれど……鉄砲や弓なんどの一物も家内には、これ、見当たらなんだが――

と不審の種。……更に……

……すっかり夜更けてからも……度々表の戸から出入りする物音が致いて……ぱちぱちと木っ端の爆ぜる音……どうも、戸外にては大きなる焚き火を焚いて御座る様子……その焚き火にあたりながら、かの主人の誰やらと話す声が聞こえて御座った……が、その語り口は、さっきまで我らと語って御座ったのとはうって変わって、年老いた者とも思えぬきりりとした鋭い口調で御座った。……

――如何にも不思議な人物じゃ――

と思い始めて仕舞(しも)うた故……もう、目が冴えて仕舞いましての……その夜はよう寝られませなんだ。……

……程のう夜も明け、朝飯なんども戴き、改まって暇乞いの挨拶を致いた折り、思い切って、

「……御身は何を生業(なりわい)となさって御座らるるのか、の?……また、ここは、その、何という村内にて御座るのか、の?」

と尋ねてみましたが……

……どうも、口を濁して……はっきりとした答えは、これ、御座らなんだ……そのことを考え合わせると……さても、あの男、盗賊の――その元締め――首領首魁にても……御座ったものでしょうか?……

……なれど、前夜、談笑の折りには、自作の発句なんども見せ……俳諧談義の内には、相応の書を語り、またものなど書きすさぶ様は……それ程にては賤しく忌まわしき人とも、これ、見えず御座ったが……

「……翌日、見送りに山の麓まで案内(あない)して下され、そこで立ち別れて御座ったれど……何やらん、今に至るまで……不審、これ、晴れませぬのじゃ…………」

と語って御座った。

2010/09/22

耳嚢 巻之三 鳥類其物合ひを考る事

「耳嚢 巻之三」に「鳥類其物合ひを考る事」を収載した。


 鳥類其物合ひを考る事

 有德院樣御代、熊鷹を獸にあわせ給ふ事有りしが、熊鷹その物合ひを考へし事感ずべしと古人の語りぬ。廣尾原にてありしや、飛鳥山にてありしや。狐一疋追出しけるに、熊鷹を合すべしとの上意也ければ、熊鷹は手に居へる事も成がたく、架(ほこ)に乘せてかの狐を合せけるに、狐を見たる計(ばかり)にて甚だ勢ひなく、狐の形チ見へざる程遠に迯延(にげのび)しにたたんともせざりしゆへ、公も本意(ほい)なく思召、御鷹匠(たかじやう)の類も殘念に見しに、最早狐見へざると思ふに、熊鷹翼を振つて虚空に空へ上りし。暫くありて一さんにおとし、貳拾町も隔候處にて右の狐を押へ取りけるとなり。勢ひの餘る處物合ひの近きをしりてかくありし。鳥類の智惠も怖しきもの也と咄しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関: 鳥類の習性(特にその特異な知的行動)で直連関。

・「鳥類其物合ひを考る事」「鳥類其物合(ものあ)ひを考(かんがう)る事」と読む。「其物合ひを考る」とは、獲物としての対象との距離を測る、慮(おもんぱか)るの意。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「熊鷹」タカ目タカ科クマタカ Spizaetus nipalensis。「角鷹」「鵰」などとも書く。以下、ウィキの「クマタカ」より引用する。『全長オス約75㎝、メス約80㎝。翼開長は約160㎝から170㎝。日本に分布するタカ科の構成種では大型であることが和名の由来(熊=大きく強い)。胸部から腹部にかけての羽毛は白く咽頭部から胸部にかけて縦縞や斑点、腹部には横斑がある。尾羽は長く幅があり、黒い横縞が入る。翼は幅広く、日本に生息するタカ科の大型種に比べると相対的に短い。これは障害物の多い森林内での飛翔に適している。翼の上部は灰褐色で、下部は白く黒い横縞が目立つ』。『頭部の羽毛は黒い。後頭部には白い羽毛が混じる冠羽をもつ。この冠羽が角のように見えることも和名の由来とされる。幼鳥の虹彩は褐色だが、成長に伴い黄色くなる』。『森林に生息する。飛翔の際にあまり羽ばたかず、大きく幅広い翼を生かして風を捕らえ旋回する(ソアリング)こともある。基本的には樹上で獲物が通りかかるのを待ち襲いかかる。獲物を捕らえる際には翼を畳み、目標をめがけて加速を付けて飛び込む。日本がクマタカの最北の分布域であり北海道から九州に留鳥として生息し、森林生態系の頂点に位置している。そのため「森の王者」とも呼ばれる。高木に木の枝を組み合わせた皿状の巣を作る』。『食性は動物食で森林内に生息する多種類の中・小動物を獲物とし、あまり特定の餌動物に依存していない。また森林に適応した短めの翼の機動力を生かした飛翔で、森林内でも狩りを行う』。『繁殖は1年あるいは隔年に1回で、通常1回につき1卵を産むが極稀に2卵産む。抱卵は主にメスが行い、オスは狩りを行う』。『従来、つがいはどちらかが死亡しない限り、一夫一妻が維持され続けると考えられてきたが、2009年に津軽ダムの工事に伴い設置された猛禽類検討委員会の観察により、それぞれ前年と別な個体と繁殖したつがいが確認され、離婚が生じることが知られるようになった』。『クマタカは森林性の猛禽類で調査が容易でないため、生態の詳細な報告は少ない。近年繁殖に成功するつがいの割合が急激に低下しており、絶滅の危機に瀕している』。『大型で攻撃性が強いため、かつて東北地方では飼いならして鷹狩りに用いられていた』。『クマタカは、「角鷹」と「熊鷹」と2通りの漢字表記事例がある。学術的には、学名(ラテン名)のみが種の名称の特定に用いられる。よって、学術的にどちらが「正しい」表記とはいえない。また歴史的・文学上では双方が使われてきており、どちらが「正しい」表記ともいえない。近年では、「熊鷹」と表記される辞書が多い。これは「角鷹」をそのままクマタカと読める人が少なくなったからであろう。ただし、鳥名辞典等学術目的で編集された文献では「角鷹」の表記のみである』。

・「廣尾原」現在の渋谷区麻布広尾町一帯の古称。但し、現在の港区に位置する広尾神社一帯もその地域に含まれる)。参照したKasumi Miyamura氏の「麻布細見」の「麻布広尾町」に、『この一帯は広尾原と呼ばれ、江戸初期までは荒野だった。延宝年間(16731681)頃になると、現在の有栖川宮記念公園の入り口あたりに百姓長屋ができており、それ以外は武家地と畑地になった。正徳31713)年に町方支配になった際に麻布広尾町と正式に称した。祥念寺前、鉄砲屋敷などの里俗称もあったという』とある。

・「飛鳥山」現・北区飛鳥山公園一帯の古称。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。山とは言うものの、丘といった風情で『「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(25.7メートル)よりも低い山ではないかとして、2006年に測量を行い、実際に愛宕山よりも低いことを確認したとしている』。因みに『北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが採択されなかった』とある。

・「架」台架(だいぼこ)。鷹匠波多野鷹(よう)氏の「放鷹道楽」の「鷹狩り用語集」によれば、鷹狩の際、野外で用いるための止り木のことを言う。狭義には丁字形のものは含まず、四角い枠状のものを指すという。高さ五尺二寸、冠木(かぶらぎ:架の上にある枠状の横木。)四尺三寸。野架(のぼこ)。ここでは出先で用いるとある陣架(じんぼこ)の類かも知れない。

・「御鷹匠」享保元(1716)年の吉宗の頃を例に取ると、鷹匠は若年寄支配、鷹部屋の中に鷹匠頭・鷹匠組頭2名・鷹匠16名・同見習6名・鷹匠同心50名の総員約150名弱(組が二つで鷹匠以下が2倍)で組織されていた(以上は小川治良氏のHP内「鷹狩行列の編成内容と、中原地区の取り組み方」を参照させて頂いた)。

・「拾町」約2㎞180m

■やぶちゃん現代語訳

 鳥類は獲物との間合いを慮るという事

 有徳院吉宗公の御代、上様が角鷹(くまたか)を獣狩りに用いられたことが御座ったが、角鷹は、その習性、獲物を襲うに間合いを慮りしこと、誠(まっこと)感嘆致いたことで御座ったと古老の語った話で御座る。

 広尾原にてことで御座ったか、それともかの飛鳥山にてのことで御座ったか、失念致いたが、駆り立てる者どもが、叢より狐を一匹追い出したところ、即座に、

「角鷹を合わせてみよ。」

との御上意、これ、御座った。

 元来が大きな角鷹なれば、手に居(す)えることもなり難く、台架(だいほこ)に乗せて、かの狐の方(かた)に向き合わたところ、狐を見ているばかりで、その体(てい)、これ如何にも勢いなく、あれよあれよと言う間に、狐は、その姿が見えなくなってしまう程に遠くに逃げのびてしもうたにも拘わらず、一向に台架より飛び立つ気配もなき故、吉宗公も如何にも拍子抜けのことと思し召しになられ、周りに控えて御座った御鷹匠の者どもも恐縮しつつ、畜生のことなれば、ただただ残念なることと、諦め顔にて見て御座ったところ――もう狐が見えなくなってしまうと思うた頃、突如、この角鷹、翼を振って虚空高々と登って御座った――と――暫くして、一さんに舞い降りて来る――吉宗公の、

「馬引け!」

の声高らかに、者どもも徒歩にて続いて走り寄れば――何と二十町も隔てて御座った所にて、熊鷹がかの狐を踏み押え獲って御座ったということで御座る。

 その体躯巨大にして、力も並外れし角鷹なればこそ――その勢いが余る故に、獲物との間合いが余りにも近いことを自ずから視認致いて、かくの如き、仕儀と相成ったので御座った。

 ――――――

「……たかが鳥類、されど鳥類……その知恵なるものも、これ、怖しきものにて御座る……」

とは、その古老のしみじみとした言葉で御座った。

2010/09/21

耳嚢 巻之三 鴻巣をおろし危く害に逢し事

「耳嚢 巻之三」に「鴻巣をおろし危く害に逢し事」を収載した。

 鴻巣をおろし危く害に逢し事

 下谷の武家とやらん又寺と哉覧(やらん)、召仕ふ中間鴻の巣をおろしける事ありし由。然るに右中間或日米を舂(つ)き居(をり)たりしに、空より何か物音して我上へ落ち懸る音しける故、大に怖れて家の内へ逃入りしに、鴻一羽下し來りて觜(くちばし)を縁の柱へ三寸餘突込し。鴻も讎(あだ)を報(むくひ)んとて彼男を突損じ、勢ひの餘りて柱へ觜をたて、引拔んとすれど叶はざりし故、大勢立寄りて打殺しけると。彼男今少し逃やう遲くばかの觜にかゝりなばと、舌を振ひ恐れしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:珍奇動物から動物の人間への意外な復讐行動で連関。

・「鴻」コウノトリ目コウノトリ科コウノトリCiconia boyciana。「鸛」「鵠の鳥」などとも書き、別名ニホンコウノトリとも言う。以下、ウィキの「コウノトリ」より引用する。『ヨーロッパではstorkといえばこれでなく、日本でいうシュバシコウ(英名:White stork)のほうを指す』とある。このシュバシコウ(朱嘴鸛)はコウノトリ属の一種Ciconia ciconiaで、和名は「赤い嘴のコウノトリ」の意味である。『全長約110115㎝、翼開長160200㎝、体重4~6㎏にもなる非常に大型の水鳥である。羽色は白と金属光沢のある黒、クチバシは黒味がかった濃い褐色。脚は赤く、目の周囲にも赤いアイリングがある』。『水辺に生息し、水棲動物を食べる大型の首の長い鳥という特徴は共通する。しかしコウノトリの大きさは、サギの最大種のアオサギと比べても明らかに大きい』。『分布域は東アジアに限られる。また、総数も推定2,0003,000羽と少なく、絶滅の危機にある。中国東北部(満州)地域やアムール・ウスリー地方で繁殖し、中国南部で越冬する。渡りの途中に少数が日本を通過することもある』。『成鳥になると鳴かなくなる。代わりに「クラッタリング」と呼ばれる行為が見受けられる。くちばしを叩き合わせるように激しく開閉して音を出す行動で、ディスプレイや仲間との合図に用いられる』。『主にザリガニなどの甲殻類やカエル、魚類を捕食する。ネズミなどの小型哺乳類を捕食することもある』。『主に樹上に雌雄で造巣する。1腹3―5個の卵を産み、抱卵期間は3034日である。抱卵、育雛は雌雄共同で行う。雛は、約5864日で巣立ちする』。『広義のコウノトリは、コウノトリ亜科に属する鳥類の総称である。ヨーロッパとアフリカ北部には、狭義のコウノトリの近縁種であるシュバシコウ Ciconia ciconiaが棲息している。羽色は似ているが、クチバシは赤。こちらは数十万羽と多く、安泰である。「コウノトリが赤ん坊を運んでくる」などの伝承は、シュバシコウについて語られたものである』。『しかし、シュバシコウとコウノトリとの間では2代雑種までできているので、両者を同一種とする意見も有力である。この場合は学名が、シュバシコウはCiconia ciconia ciconia、コウノトリはCiconia ciconia boycianaになる』。『日本列島にはかつて留鳥としてコウノトリが普通に棲息していたが、明治期以後の乱獲や巣を架ける木の伐採などにより棲息環境が悪化し、1956年には20羽にまで減少してしまった。そのため、コウノトリは同年に国の特別天然記念物に指定された。ちなみにこのコウノトリの減少の原因には化学農薬の使用や減反政策がよく取り上げられるが、日本で農薬の使用が一般的に行われるようになったのは1950年代以降、減反政策は1970年代以降の出来事であるため時間的にはどちらも主因と断定しにくく、複合的な原因により生活環境が失われたと考えられる』。『その後、1962年に「特別天然記念物コウノトリ管理団体」の指定を受けた兵庫県は1965年5月14日に豊岡市で一つがいを捕獲し、「コウノトリ飼育場」(現在の「兵庫県立コウノトリの郷公園附属飼育施設コウノトリ保護増殖センター」)で人工飼育を開始。また、同年には同県の県鳥に指定された。しかし、個体数は減り続け、1971年5月25日には豊岡市に残った国内最後の一羽である野生個体を保護するが、その後死亡。このため人工飼育以外のコウノトリは国内には皆無となり、さらには1986年2月28日に飼育していた最後の個体が死亡し、国内繁殖野生個体群は絶滅した。しかし、これ以降も不定期に渡来する複数のコウノトリが観察され続けており、なかには2002年に飛来して2007年に死亡するまで、豊岡市にとどまり続けた「ハチゴロウ」のような例もある』(以下、現在の人工繁殖及び再野生化の取り組みについて記載されているが割愛する)。

・「かゝりなば」の「ば」の右には、底本では『(んカ)』とある。この「かゝりなん」を採る。

■やぶちゃん現代語訳

 鴻の巣を降ろしたがために危うく害に逢わんとせし事

 下谷に住む武家とも、また寺内のことにてとも聞く。まあ、話の出所は定かでは御座らぬ。

 召仕うて御座った中間、鴻(こうのとり)が御屋敷の庭樹の上に架けた巣を、邪魔ならんと降ろしたことが御座った。

 それから日の経たぬうち、この中間が庭で米を舂いて居ったところ、

――バッサバッサバサ!

と空より何か物音がし、それがまた、自分の真上へ落ち懸ってくる音がした故、吃驚仰天、泡を食って家の内へ飛び込んだところ、

――ビュウゥゥゥ~ン!

と鴻が一羽、急に舞い降りて参り、

――ズン!

とその嘴(くちばし)を、縁の柱へ三寸ばかり突っ込んで止まると、羽交いを波打たせて暴れ悶えて御座った。

 ――これ、察するに、鴻も畜生乍ら、巣を奪われ、子を失(うしの)うた仇(あだ)を報いんとしたものである。――

 ところが、かの男を突き殺そうとして、し損じた上に、その勢い余って柱へ嘴を突き立ててしまい、引き抜こうとしたが遂に叶わず――大勢集まって参った中間やら下男やらが散々に打ち殺したとか。――

――時に、かの男、真っ青になって、

「……い、い、今少し……に、に、逃ようの……遅かっ、かっ、かったら……こ、こ、この……す、す、鋭き、は、嘴(はし)……の、の、脳天……ぶ、ぶ、ぶ、ぶっすり…………」

と、舌を振わせて震え上がっておった、とのことで御座る。

2010/09/20

耳嚢 巻之三 雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事 《ブログ先行公開》

昨日に引き続き、今日、訳注作業を完了した一篇、これもまた偶然(昨日の「孝童自然に禍を免れし事」の次の話で、雷繋がりの話柄である)、僕の大好きな話なのである(詳細語注は公開時と差別化するために省略する)。

何でか、好きなんだ、この話。

「卷之三」の未着手部分は25話を残すばかりとなった。

 雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事

 巣鴨に大久保某といへる人有りしが、享保の頃、騎射の稽古より同門の許へ咄に立寄、暮前に暇を乞しが、未迎ひも揃はず、殊に雨も催しぬれば主人も留めけるが、雷氣もあれば母の嫌ひ、かれこれ早く歸りたしとて馬に打乘、騎射笠(きしやがさ)に合羽など着て歸りけるが、筋違(すじかひ)の邊よりは日もくれて、夕雨しきりに強く雷聲も移しければ、一さんに乘切て歸りけるに、駒込の邊町家も何れも戸を立居けるに、一聲嚴敷(きびしき)雷のしけるに乘馬驚きて、とある町家の戸を蹴破りて、床(ゆか)の上へ前足を上(あげ)て馬の立とゞまりけるにぞ、尚又引出して乘切り我家に歸りぬ。中間共は銘々つゞかず、夜更て歸りける由。然るに求たる事にはあらねど町家の戸を破り損ぜし事も氣の毒なれば、行て樣子見來(みきた)るべしと家來に示し遣しけるに、彼家來歸りて大に笑ひ申けるは、昨夜の雷駒込片町(かたまち)の邊へ落(おち)しといへる沙汰あり。則(すなはち)何軒目の何商賣せし者の方へ落し由申ける故、何時頃いか樣成事と尋ねけるに、五ツ時前にも有べし、則雷の落し處は戸も蹴破りてある也、世に雷は連鼓(れんこ)を負ひ鬼の姿と申習はし、繪にも書、木像にも刻(きざみ)ぬれど、大き成僞也、まのあたり昨夜の雷公を見しに、馬に乘りて陣笠やうの物を冠り給ふ也、落給ひて暫く過て馬を引返し、雲中に沓音(くつおと)せしが、上天に隨ひ段々遠く聞(きこえ)しと語りし由申ければ、さあらば雷の業(わざ)と思ふべき間、却て人していわんは無興(ぶきやう)なりとて濟しけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:バリバリバリバリ!!! ズゥゥゥゥン! ドォオォォン!!!――神鳴り直撃雷神来臨直連関! 映像的二連射、人々の生き生きとした表情、心根の暖かさが、伝わって来る。本作も私の頗る付きに好きな一篇である。しかし……前の「孝童自然に禍を免れし事」といい、この暖かい世間話といい――この、完膚なきまでに神経に落雷を受けてしまった今の世の人の心には、もう、なかなか生まれてこないような気もして、逆に淋しくなってくるのである。

■やぶちゃん現代語訳

 雷公は馬にお乗りになっておらるるという話の事

 享保の頃のこと、巣鴨に大久保某という御武家が御座った。

 武蔵野近郷での騎射稽古からの帰り、一緒に汗を流した同門の者の屋敷へ立ち寄って雑談致し、日暮れ前に暇(いとま)を乞うた。

 未だ迎えの者も揃うておらなんだ上に、生憎、雨も降り始めて御座ったれば、屋の主人も引き止めんとしたのじゃが、

「……雷気(らいき)も御座れば――我が母上、殊の外の雷嫌いにて。かかればこそ、早(はよ)う帰らねば――」

と馬にうち乗って、騎射笠に、今連れて御座る供に命じて出させた合羽などを着て、帰って御座った。

 筋違御門(すじかいごもん)の辺りまで辿り着いた頃には、とっぷり日も暮れてしまい――沛然たる夕立――夥しき雷鳴――なればこそ、一息の休む余裕もなく、一散に馬を奔らせる――

 駒込の辺りの町家――これ、いずれも硬く雨戸を立て御座った――

――と!――

――突如!

――バリバリバリバリ!!! ズゥゥゥゥン! ドォオォォン!!!――

――一際、凄まじい雷鳴が轟く!

――大久保の乗馬、それに驚き!

――バリバリ!!! ズドォン!!!――

と! 大久保を乗せたまま、とある町家の戸を蹴破り、家内へと闖入致いた。

 馬は――上がり框(かまち)から床(ゆか)の上へと――ばっか! ばっか!――と前足を乗せたところで――大久保、綱をぐいと締め、辛くも立ち止まる。――

 それから馬上、手綱にて導き、家内より馬を引き出だすと――そのまま、再び一散に己(おの)が屋敷へと立ち帰って御座った。――

 因みに、息咳切って従って御座った中間どもは、とっくの昔、筋違御門に大久保が至らぬ前に、伴走し切れずなって、夜も更けてから屋敷に帰ったとのことで御座った。

 ――――――

……さても翌日のこと、敢えてしたことにてもあらねど、町家の表戸を破り損じたことは、これ、当の主人にとって如何にも気の毒なことなれば、大久保、詫びと見舞を念頭に、

「……ともかくも、ちょっと行って様子を見て参るがよい。……」

と家来に申しつけ、駒込へと走らせた。

 ところが、この家来、屋敷に立ち帰って参るや否や、大笑い致しつつ、申し上げることに、

「……はっはっは! いやとよ! これは御無礼を……されど、これを笑わずには……主様とても……おられぬと存ずる……

――『昨夜の雷(かみなり)駒込片町の辺りへ落ちた』――

と専らの評判にて、即ち、

――『駒込片町○件目○○商い致しおる者の家へ落ちた』――

というので御座る。

 そこで、その家を訪ねてみました。

 そうして、その屋の主人に――それは何時頃のことで、落雷の様子は如何なるものであったか――と訊ねてみましたところが、

『……昨夜は五つ時前のことで御座ったろう――即ち!――雷の落ちた所は戸が木っ端微塵に蹴り破られて御座っての!……』

『……さてもさても!……世に「雷神は連鼓(れんつづみ)を背負い鬼の姿を致いておる」なんどと申し習わし、絵にも描き、木像にも刻まれて御座ろうが?――なんのなんの!――これ! 大いなる偽りで御座るぞ!……』

『……我らこと! 目の当たりに! 昨夜来臨なされた雷公さま、これ! 拝見致いたじゃ!……』

『……それはの!――馬にお乗りになられの!――陣笠の如き冠(かんむ)りをお被りになられて御座ったじゃ!……』

『……お落ちになられてから――まあ! ほんのちょっとのうちに!――かの雷馬を美事!乗りこなし――引き返しなさったんじゃ!……』

『……雲中貴き御蹄(ひずめ)の音をお響かせになられたかと思うと……昇天なさるるに従ごうて……その音(ね)も……段々と……虚空高(たこ)う遠くなって有難く……なって御座った…………』

という次第にて、御座いました。……」

 これを聴いた大久保も、破顔一笑、

「――ふむ! さあらば――畏れ多き雷神の業(わざ)と思うておるのであればこそ――却って人をして我らがこと告ぐるは――これ、興醒めというものじゃ、の!――」

と、そのままに済まして御座った、とのことで御座る。

ゲシュタルト崩壊夢

今朝の夢――

学校で2年5組に「源氏物語」を教えている。

[やぶちゃん注:今現在の事実である。明るいクラスである。]

不思議な教室で、扇のような階段状になった日本庭園を教室に仕立てたもので、大きな石が机や椅子代わりとなっており、底には大きな池がある。

[やぶちゃん注:池は現在の僕の職場の中庭の池である。そこを見下ろす丁度、中央3階に2年5組はある。]

黒板は何故か、階段の最上部に配されており、それはあの、宮沢賢治の「下ノ畑ニ居リマス」の小さな黒板なのである。

[やぶちゃん注:今さっき気がついて――吃驚した――明日は賢治の祥月命日である――。]

そこに僕は板書をしているのだが、「熾烈」という字を書こうとして、はたと指が止まってしまう。

――「熾烈」の「熾」の字の「日」の部分がどのような字であったかが分からなくなったのである――そうして――この「熾」という字が夢の中の僕の意識の中で急速に――各個パートが分解し始め――遂には何故この組み合わせが「熾」という字になるのか分からなくなってゆくのである――

[やぶちゃん注:これは所謂、心理学で言うところの“Gestaltzerfall”ゲシュタルト崩壊の典型例である(リンク先は御用達のウィキの記載)。漱石が全く同様に、漢字に対してしばしばこうした現象を感じることを弟子に告白していたという誰かの記載を以前に読んだことがある。]

僕は傍にいる生徒達に

「ここんところ、どんなだったっけ?」

と訊ねると、何人もが口々に説明してくれるのだが――それがまた聴いてもよく分からない説明なのである――それは実際に分かりにくい説明で(僕の頭がおかしくて認識できないのではなく)、あたかも彼らが「日」という字を知らず、書き方や図形のような迂遠な説明の仕方をするからであった――

そこで、

「悪いけど、紙に書いてくれる?」

と頼むと、やはり何人もの生徒がノートや教科書の余白に書いて見せてくれるのだが――ところが――「熾烈」の「熾」の字の――肝心の「日」の部分だけが――誰の字も乱暴な書き方か達筆な行書になっているために――読み取れないのだ――

そうこうするうちに終業の鐘が鳴ってしまった。

[やぶちゃん注:これは確かに現在の僕の職場であった。何故なら、僕の今の職場の鐘はオリジナルな特異な音楽であるから。正にそれであったから。]

男子生徒も女子生徒も――みんな――何だか寂しそうに――そうして彼らが悪いわけではないのに――申し訳なさそうな顔をして立ち竦んでいる――僕は殊更に明るい気持ちを奮い起こそうとしながら、

「じゃあね!」

と片手を挙げて――笑顔で――教室を去るのであった……

[やぶちゃん注:実は、この夢の前に――猟銃を持った不審者が侵入したという設定で防犯訓練が行われるのだが、それが生徒に知らされずに行われた抜き打ちのものであったがために、てんやわんやの大騒動が巻き起こる――慌て捲くる僕や、数十人で銀玉鉄砲を構える女生徒たちや、刺股を振り回す男子生徒たち――という抱腹絶倒の喜劇的大活劇があった(これを読んで呉れている君、君も出ていたよ)。馴染みの同僚たちもオールスター・キャストで登場する第一部が相当に長く存在するのである。それも記憶しているのだが……公務上知りえた秘密が含まれるため……涙を呑んで割愛する。――ただ言えることは、このゲシュタルト崩壊の夢も含めて――僕にとっては、ある判然とした理解可能な意味が隠されていることがよく分かるのである。――それについて、今は何も語らない。――しかし、またしても文字の夢であった。面白い。]

耳嚢 巻之三 海上にいくじといふものゝ事

「耳嚢 巻之三」に「海上にいくじといふものゝ事」を収載した。

 海上にいくじといふものゝ事

 西海南海にいくじとて時によりて船のへさき抔へかゝる事有由。色はうなぎやうのものにて長き事難計(はかりがたく)、船のへ先へかゝるに二日或は三日などかゝりてとこしなへに動きけるよし。然れば何十丈何百丈といふ限を知らずと也。いくじなきといへる俗諺(ぞくげん)は是より出し事ならん。或人の語りしは、豆州(づしう)八丈の海邊などには右いくじの小さきものならんといふあり、是は輪に成て鰻の樣成ものにて、眼口もなく動くもの也。然れば船のへ先へかゝる類(たぐひ)も、長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの也といひし。何れ實なるや。勿論外の害をなすものにあらずとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関: 特に連関を感じさせない。UMAシリーズの一(因みに、UMAは“Unidentified Mysterious Animal”「未確認の謎の生物」を意味する英語の頭文字であるが、これはUFOに引っ掛けた、和製略英語であって国際的には通用しない)。

・「いくじ」海の妖異生物で、後、「あやかし」などとも呼ばれて急速に明確に妖怪化している。「いくち」とも呼ぶ。以下、ウィキの「イクチ」から引用する(記号の一部を変更した)。津村淙庵の『「譚海」によれば常陸国(現・茨城県)の沖にいた怪魚とされ、船を見つけると接近し、船をまたいで通過してゆくが、体長が数キロメートルにも及ぶため、通過するのに12刻(3時間弱)もかかる。体表からは粘着質の油が染み出しており、船をまたぐ際にこの油を大量に船上にこぼして行くので、船乗りはこれを汲み取らないと船が沈没してしまうとある』(以下「耳嚢」の記載を載せるが省略する)。『鳥山石燕は「今昔百鬼拾遺」で「あやかし」の名で巨大な海蛇を描いているが、これはこのイクチをアヤカシ(海の怪異)として描いたものである』。『平成以降では、怪魚ではなく巨大なウミヘビとの解釈』(人文社編集部「日本の謎と不思議大全 東日本編」人文社〈ものしりミニシリーズ〉2006年)や、『海で溺死した人間たちが仲間を求める姿がイクチだとの説』(人文社編集部「諸国怪談奇談集成 江戸諸国百物語 東日本編」人文社〈ものしりシリーズ〉2005年)、『石燕による妖怪画が未確認生物(UMA)のシーサーペントと酷似していることから、イクチをシーサーペントと同一のものとする指摘もある』(山口敏太郎「本当にいる日本の現代妖怪図鑑」笠倉出版社2007年)と記す。但し、「あやかし」について附言すると、平秩東作(へづつ とうさく 享保111726)年~寛政元(1789)年)の「怪談老の杖」によれば、大唐が鼻での出来事として、舟人が遭遇した人間の女の姿をした女妖として描かれている。大唐が鼻は現在の千葉県長尾郡太東岬(たいとうみさき)である。

・「何十丈何百丈」1丈=3.03mであるから、「何」を3倍から9倍の幅で考えるならば、最低でも90m強、長大なものは凡そ2㎞700mという途方もない長さになる。いくらなんでも2㎞はあり得ない――しかし――それが――あるのである。

・「是は輪に成て鰻の樣成ものにて、眼口もなく動くもの也。然れば船のへ先へかゝる類(たぐひ)も、長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの也といひし。何れ實なるや。勿論外の害をなすものにあらずとなり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「外」は「舟」とする。さてもこれは何だろう。鰻のようであるという部分からは所謂、鰻・鱧・海蛇などの長大個体を想定し得るが、ここまで長い誇張はしっくりこない。私は本文の後半、目も口もなく「動くもの」「長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの也」という表現に着目する。この表現は、その個体の体軀が前半の記載と異なり、半透明であることを意味していないだろうか? 所謂、鰻や海蛇の類で、如何にぬるぬるしていても太くがっちりした円柱状であるソリッドな生体を「長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの」とは言わないように思うのである。もしかすると「動く」「廻る」ように見えるのは、その内臓・体内が透けて見え、その中の鮮やかな臓器の一部が、動くから「廻る」のが分かるのではあるまいか? 蛇体形のものであれば、身体を伸縮する運動を必ずするから「延び動く」ように絶対見えるはずである。以上から私は、この「いくじ」を、全く独自に、ホヤの仲間である脊索動物門尾索動物亜門タリア綱 Thaliaceaのサルパ目(Salpida / Desmomyria)のサルパ類の、長大な連鎖群体に同定してみたい欲求に駆られるのである。サルパは体長2~5㎝程度の、筒状を成した寒天質の被嚢で覆われた透明な一見、クラゲに見える(が脊椎動物の直下に配される極めて高等な)海産生物である。体幹前端に入水孔、後端部若しくは後背面部に出水孔を持ち、7~20本の筋体が体壁を取り巻いている(これが腹側で切れているのが大きな特徴である)。ところがこのサルパは他個体と縦列や横列はたまた円環状(本文後半の記述に一致)で非常に長い連鎖群体を作って海面下を浮遊することで知られ、その長さは数10mから数100m(サルパであることの確認を取ったわけではないが、極めてその可能性が高いと私が判断しているネット上の国外の事例では約2㎞のものもあるようだ)にまで及ぶのである。以下に幾つかの属を示しておく。

サルパ科Salpidae

       Salpaサルパ

       Cyclosalpaワサルパ

       Thaliaヒメサルパ

       Thetysオオサルパ

       Pegeaモモイロサルパ

但し、サルパは海上表面に飛び出て、舳先に絡みつくようなことは勿論ないが、喫水線が低く舳先も低い和船にあってはピッチングの際に、この連鎖個体を舳先にぶら下げることもあろう(但し、ぶら下がって切れない程強靭であるかどうかは、残念ながら実際に試したことがないので分からぬ。寒天質では厳しいとは思う)――ただ、外洋でこの浮遊する連鎖個体を見たならば、吃驚りしないものは、恐らく皆無であろうという自信はある。私はかなり大真面目に「長大な」という「いくじ」の最大特徴を最もカバー出来る同定候補として、このサルパを、結構、自信を持って掲げるものである。ただ、最初は実は正真正銘のクラゲ、刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目ボウズニラ科ボウズニラRhizophysa eysenhardtii辺りをイメージした。以下、ウィキの「ボウズニラ」から引用しておく。ボウズニラは『群体性の浮遊性ヒドロ虫。カツオノエボシなどに代表される管クラゲ類の1種。暖海性で春に見られる』。『一般にはクラゲとされるがその体は複数のポリプから構成され、クラゲの傘にあたる位置の気泡体から幹群をもった細長い幹が出、触手、対になった栄養体とその間から生えた生殖体叢からなる』。『体色は淡紅。気胞体は高さ10-17㎜、幅5-9㎜、富む幹は3-mまで伸縮する』。『種名の「ボウズ」は坊主頭に似た気泡体に、「ニラ」は魚や植物の棘を意味する「イラ」の訛に由来する』。『近縁種にコボウズニラがあり、毒性はとても強く、漁師などが網を引き揚げるとき、本種などの被害を受けている』。しかし、その形態は「いくじ」やサルパほどにはシンプルとは言えないし、そもそもこれはその刺胞が強烈で漁師の立派な「害」になる(岩波版にこじつければ「舟」の害にはならないが)ので、最終的には除外した。

・「豆州」伊豆国。現在の静岡県の伊豆半島全域及び東京都の伊豆諸島に相当。

■やぶちゃん現代語訳

 海上に棲息する「いくじ」なる生物の事

 西や南の海にては、時によっては、「いくじ」という生き物が舟の舳先なんどに引っ掛かることがあるという。

 色は鰻のようであり、長さは計り知れぬ程、長大である。

 この「いくじ」、舟の舳先なんぞに引っ掛かろうものなら、二日でも三日でも引っ掛かったまんまで、これまた、いつまでも――ずるずるずるずるずるずるずるずる――と動いておる。

 何十丈、いやさ、何百丈あるのか見当もつかぬ程に――並外れて――長い――という。

 「いくじなし」という俗語は、この「いくじ」のように無用の終わり「なき」よな――ずるずるずるずるずるずるずるずる――いつまでも決心のつかない、気力も覚悟もつかない、という連鎖連想に由来する語なのであろう。

 ――また、ある人の「いくじ」談義では少し違う。

「……伊豆や八丈島の海辺などにては、このいくじの小物であろうと思われるものが棲息しておると言いまする。こちらは輪になった鰻のようなもので、目も口もなく、そのまんまに動く生き物で御座る。されば、かく「いくじ」が舟の舳先に掛かる、と言い伝えて御座るものも、実は海中より伸び上がって舳先にだらんとうち掛かっておる、というのではのうて、丸く輪になって廻る――則ち、舳先にその輪っかのような生き物がぶら下がっておる状態を言うておるので御座ろう。」

 ――さても、何れが真実(まこと)か。勿論、他にこれといって害をなすような生き物にてはない、ということで御座る。

2010/09/19

耳嚢 卷之三 孝童自然に禍を免れし事 《ブログ先行公開》

「耳嚢」の卷之三の好きな話柄を今日訳注した。映像的で頗る好きだから――正式公開に先立って本文と訳だけ、閃光、基、先行公開しよう。注は――お読みになる方に分からぬ言葉はこれといってない――何をつけたか? それは、また、その時のお楽しみということで――。そろそろ「卷之三」もゴール・ラインが見えてきた。

 孝童自然に禍を免れし事

 相州の事なる由。雷を嫌ふ民有しが夏耕作に出て留守には妻と六七歳の男子なりしに、夕立頻りに降り來て雷聲夥しかりける故、彼小兒、兼て親の雷を恐れ給ふ事なれば、獨(ひとり)畑に出てさこそおそろしく思ひ給わん、辨當も持行べきとて支度して出けるを、母も留めけれど聞ずして出行ぬ。彼百姓は木陰に雨を凌(しのぎ)て居たりしに、悴の來りければ大きに驚、扨食事など請取、雨も晴て日は暮なんとせし故、とく歸り候樣申ければ、小兒ははやく仕廻給へとて先へ歸りけるが、一ツの狼出て彼小兒の跡に付て野邊を送りける故、親は大きに驚、果して狼の爲に害せられんと、身をもみ心も心ならざりしに、又候嫌ひの雷一撃響くや否や、我子の立行しと思ふ邊へ落懸りし故、農具をも捨てかしこに至りければ、我子は行方なく狼はみぢんに打殺されてありし。定(さだめ)て我子も死しけるぞと、急ぎ宿に歸り見けるに、彼小兒は安泰にてありしと也。

■やぶちゃん現代語訳

 親孝行な児童が自然と禍いを免れた事

 相模国での出来事なる由。
 雷嫌いの農民が御座った。
 ある夏の日、耕作に出でて、留守には妻と、六、七歳になる男の子がおったが、沛然として夕立降り来たって、雷鳴も夥しく轟き渡った。
 すると、かの童(わらべ)、以前より父親(てておや)の雷を嫌うておるを知れば、
「お父(とっ)つあんは神鳴りを恐がりなさるご性分なれば、ひとり畑に出でて、さぞ怖(こお)うてたまらずにおらるるに違いない。おいらが夜食の弁当持て行きたれば、少しは心強くもあられん。」
と言い、雨中の支度を致いて出でんとする。
 母はあまりの豪雨雷鳴の凄まじさに留めんとしたれど、子はその制止を振り切って家を出でて御座った。
 父なる百姓は、丁度、畑脇の木陰に雨を凌いでおったのじゃが、倅が参ったのを見、大いに驚きもしたが、また、言わずとも分かる倅の孝心に、心打たれもして御座った。
 遅い弁当を受け取って、漸く雨も晴れ、今にも日が暮れなずむ頃と相成って御座った故、
「……さあて、暗うなる前に、早(はよ)う、帰り。」
と坊の頭(かしら)を撫でて、家の方へと押し送る。
「……お父つあんも……お早うお帰り!」
とて、先に独り家路へとつく。
 少ししてから、鍬を振るって御座った父親(てておや)が、子の帰って行く方を見てみた――。
……夕暮れ……小さな子の小さくなりゆく後姿……と――
――そのすぐ後ろの林の暗がりより――一匹の狼が現れ出で、我が子の跡追うて野辺を走ってゆくのが目に飛び込んできた。……
 父親(てておや)、真っ青になって、
「……!……このままにては……!……狼に、喰わるるッ!……」
と身悶えし、心ここになきが如く、直ぐ、我が子のもとへと走らんと致いた、その時――!
――ピカッビカッッ!
突如! 閃光一閃! 辺りが真っ白になったかと思うと! 間髪居れず!
――バリバリバリバリ!!! ズゥゥゥゥン! ドォオォォン!!!――
――と、見たことも聴いたことも御座らぬような怖ろしき雷電と神鳴り! うち轟くや否や……
……勿論、父親(てておや)は神鳴り嫌いのことなれば、惨めにも、その場に団子虫の如く丸まって御座ったが……
――が!――
――その蹲る刹那の景色!――
――はっと気づくは!――
――その神鳴り!――
――今!――
――正に!――
――我が子が歩いておった思う方へ!
――落ちたじゃ!!!……
……父親(てておや)は泡食って鋤鍬を投げ捨て、子がもとへと駆けつけた……。
 ………………
……しかし……そこには最早……我が子の姿……これ、なく……ただ……神鳴りがために無二無三に焼け焦げ……完膚無きまでに八つ裂きされた……黒焦げばらばらの……狼の死骸が御座ったばかりであった…………。
 ………………
……父親(てておや)、
『……定めし……倅もともに……神鳴りに打たれ……打ち殺されて……微塵にされた……』
と絶望のあまり、狂うた如、狼の吠え叫ぶが如、泣き喚(おめ)いて家へと走り戻ったのじゃった……
 ……………
……と……
家の戸口で、
「……お父つあん! お早う! お帰り!」
と、倅が満面の笑顔にて、父を待って御座った、ということで御座ったよ。

耳嚢 巻之三 其業其法にあらざれば事不調事

「耳嚢 巻之三」に「其業其法にあらざれば事不調事」を収載した。

 其業其法にあらざれば事不調事

 予が知れる者に虚舟といへる隱逸人ありて御徒(おかち)を勤しが、中年にて隱居なして俳諧など好みて樂みとし、素より才力もありて文章もつたなからず。或時義太夫の淨瑠理を作り見んと筆をとりて、八幡太郎東海硯といへるを編集し伎場の者に見せけるに、彼者大きに奇として、かゝる作意近來見不申、哀れ芝居に目論見(もくろみ)なんと持歸りしが、程なく肥前といへる人形操(あやつり)の座にて右淨瑠璃理芝居を興行せし故、見物に行て右狂言を見しに、大意は相違なけれど所々違ひし處も夥しく、虚舟かなめと思ひし所をも引替たる所有ければ、彼最初附屬せしものを以、座本淨瑠理太夫などに聞けるに、さればの事にて候へ、右作いかにも面白く能(よく)出來たる物なれ、しかし素人の作り給へる故舞臺道具立人形のふりの附かたことごとく違ひて、右作にては狂言のならざる所あり、此故に直しけると語りし由。いづれ其家業にあらざれば理外の差支等はしれざる事とかたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「虚舟」後掲する「八幡太郎東海硯」の作者東武之商家一二三は彼のペン・ネームか。底本の鈴木氏注では三田村鳶魚の注を引いて『「虚舟、蓼太門、小島氏とあり、この人には」とある。』とし、更に『光文二年十一月、京の蛭子座で上演された八幡太郎伝授鼓(三番続)の作者小島立介・伊藤柳枝らとある立介がそれであろう。外題も上演に際して改めたものであろう。内容は甲陽軍記の世界の人物をとって、お家物に仕立てた顔見世狂言。(ただし寛政譜の中からは、享保ごろまでに致仕した小島姓の人物を検出することはできない。)』と丁寧な注が附されている。ただ岩波版長谷川氏注では未詳の一言なので、この鈴木氏注はハズレと長谷川氏は判断されているということか。

・「御徒」とは「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。

・「義太夫」義太夫節のこと。浄瑠璃(三味線伴奏の語り物音曲)の流派の一つで、貞享年間(16841688)に大坂の竹本義太夫が人形浄瑠璃として創始した。豪放な播磨節、繊細な嘉太夫節その他先行する各種音曲の長所を取り入れてある。浄瑠璃作家近松門左衛門、三味線竹沢権右衛門、人形遣辰松八郎兵衛らの多角的な協力が加わって、元禄期(16881704)に大流行、浄瑠璃界の代表的存在となった。単に「ぎだ」とも言う。また広義に、特に関西で浄瑠璃の異名ともなった。

・「八幡太郎東海硯」東武之商家一二三作。廣田隼夫(たかお)氏の『素人控え「操り浄瑠璃史」』の記載によれば、江戸の操り浄瑠璃界に新風を巻き起こした初めての江戸前作家による記念的作品であったことが窺える。当時、『豊竹・竹本両座の退転で混乱状態に陥った大坂に対して、この明和期から安永~天明期という約20年間、江戸では対照的な珍しい現象を引き起こしていた。突如として現われた江戸浄瑠璃の新作が江戸っ子の人気をえて、予想もしない活況に沸き返った』。『そのきっかけとなったのが、最初の江戸作者の出現であった。明和から10年ほど前の寛延4年(1751)に肥前座で「八幡太郎東海硯」なる作品が上演された』。『作者は「東武之商家一二三」で、単独作。「東武之商家一二三」の読み方は正確に分からないが、「東武」とは武蔵の国―つまり江戸のこと、「商家」とは商い―作者のこと、「一二三」は最初の数字の意味にとれば、自らが「江戸の最初の作者」ということをふざけて表現したことになる。名前からしてアマチュアであることに間違いない』と記されておられる。大きな改変が座付作家によってなされていることが本文から分かるが、このような奇妙なペンネームからは、虚舟なる人物のペン・ネームと考えて問題ないように思われる(もしそうでないとすれば虚舟は改変云々の前に、まずそこに文句を言うであろうから)。内容は私は不学にして未詳。先に示した「八幡太郎伝授鼓」(はちまんたろうでんじゅのつづみ)は現在でも上演されているので、識者の御教授を乞うものである。

・「附屬」「付嘱」(ふしょく)に同じ。言いつけて頼むこと。依頼。

 

■やぶちゃん現代語訳

 如何なる仕儀もその本来の技法に従わざれば事成らざるものなりという事

 私の知人に虚舟という隠逸人がおり、永く御徒(おかち)を勤めて御座ったが、中年となって隠居した後(のち)、俳諧なんどを好みて道楽と致いて御座った。もとより才能もあり、その文筆の冴えも一通りではなかった。

 ある折りのこと、素人乍ら、義太夫節の浄瑠璃を書かんと一念発起、筆を執って「八幡太郎東海硯」という作物を書き上げ、とある芝居小屋の者に見せたところが、かの者、大いに奇なる面白き作物と賞美の上、

「――かく斬新なる作物、近年稀に見るものにて御座りまする! これはもう、一つ、芝居にしてみんに若くはない!」

とて、台本拝借、知れる者どもの内にて持ち回って御座った。

 程なく肥前座という人形操りの芝居小屋にて、かの浄瑠璃芝居「八幡太郎東海硯」興行せんとすとの知らせ、虚舟、喜び勇んで見物に参ったところが――大筋は、確かに虚舟の描いたものと相違なきものの、所々、否、ここあそこと、自作の場面と異なって御座ること、これ、夥しく、何より虚舟がここぞ摑みと心得て御座った山場の場面すら、大きに書き換えられて御座った。

 その日のうちに、虚舟は複雑な面持ちで、引き渡した清書の外に手元に残して御座った元原稿を持ち参り、肥前座楽屋に御座った座本の浄瑠璃太夫なんどのところに顔を出して、話を聞いた。

「――されば、それは仕方のなきことにて候。この作物、誠(まっこと)、よう出来て候。――なれど、やはりこれ、素人がお創りになったものにて候間――舞台の道具立て、人形の振り付け方――ありとあらゆるところ、音曲人形、演ずるに悉く無理、これあり候。――この作物、このままにては――狂言になり申さぬところ、これあり候。――なればこそ、御不快尤ものこと乍ら、直し申し候。――」

と語ったということである。……

「……いやこそ、流石なれ! いずれ、その家業に随(したご)うておる者にて御座らねば、分からぬこと、これ、御座るものにじゃ!」

と、その虚舟本人が、如何にも得心して語って御座ったよ。

2010/09/18

耳嚢 巻之三 秋葉の魔火の事

「耳嚢 巻之三」に「秋葉の魔火の事」を収載した。

 秋葉の魔火の事

 駿遠州へ至りし者の語りけるは、天狗の遊び火とて遠州の山上には夜に入候得ば時々火燃て遊行なす事あり。雨など降りける時は川へ下りて水上を通行なす。是を土地の者、天狗の川狩(かわがり)に出たるとて、殊の外愼みて戸抔を建ける事なる由。いか成もの成哉(や)。御用にて彼地へ至りし者、其外予が召使ひし遠州の産抔、語りしも同じ事也。

□やぶちゃん注

○前項連関:前話では隠れているが、秋葉山連関である。

・「秋葉」秋葉山。現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する標高866mの秋葉山。この山頂付近に三尺坊大天狗を祀った秋葉寺があった。これは現在、秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)となっている。以下、ウィキの「秋葉山本宮秋葉神社」より引用する。本神社は『日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約800社)、秋葉大権現および秋葉寺の殆どについて、その事実上の起源となった神社である』。『現在の祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。江戸時代以前は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀(まつ)る秋葉社(あきはしゃ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんふつこんこう)で、人々はこれらを事実上ひとつの神として秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼んだ。古くは霊雲院(りょううんいん)や岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)などの呼び名があったという』。『上社参道創建時期には諸説があり、701年(大宝元年)に行基が寺として開いたとも言われるが、社伝では最初に堂が建ったのが709年(和銅2年)とされている。「秋葉」の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から寺に賜った和歌の中に「秋葉の山に色つくて見え」とあったことから秋葉寺と呼ばれるようになった、と社伝に謳われる一方「行基が秋に開山したことによる」「焼畑に由来する」などの異説もある』。『その後平安時代初期、信濃国戸隠(現在の長野県長野市、旧戸隠村)の出身で、越後国栃尾(現在の新潟県長岡市)の蔵王権現(飯綱山信仰に由来する)などで修行した三尺坊(さんしゃくぼう)という修験者が秋葉山に至り、これを本山としたと伝えられる。しかし、

1.三尺坊が活躍した時期(実際には鎌倉時代とも室町時代とも言われる)にも、出身地や足跡にも多くの異説がある 

2.修験道は修験者が熊野、白山、戸隠、飯綱など各地の修験道場を行き来しながら発展しており、本山という概念は必ずしも無かった 

3.江戸時代には秋葉寺以外にも、上述の蔵王権現や駿河国清水(現在の静岡県静岡市清水区、旧清水市)の秋葉山本坊峰本院などが「本山」を主張し、本末を争ったこれらの寺が寺社奉行の裁きを受けたとの記録も残されている 

戦国時代より以前に成立した、三尺坊や秋葉大権現に関する史料が殆ど発見されていない 

よって現状では、祭神または本尊であった三尺坊大権現の由来も「定かではない」と言う他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれている』。『戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康の隠密であった茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととなった』。『徳川綱吉の治世の頃から、三尺坊大権現は神道、仏教および修験道が混淆(こんこう)した「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、十七坊から三十六坊の修験や禰宜(ねぎ)家が配下にあったと伝えられる。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた』(以下、近代史の部分は割愛した)。

・「駿遠州」駿河国と遠江国。駿河は現在の静岡県の大井川左岸中部と北東部に相当し、遠江は凡そ現在の静岡県大井川の西部地区に当たる。

■やぶちゃん現代語訳

 秋葉の魔火の事

 駿州遠州へと参った者が語ったことには、「天狗の遊び火」といって、遠州の山上にては夜になって御座ると、折々妖しい火がふらふらと飛び交うことがある。雨が降った折りなんどは、その火が山を下り川を下って、水面の上を通って行く。これを土地の者は『天狗が川狩りに出た』と言うて、殊の外恐々として謹み、戸を立てて外に出でるを忌む由。一体、これは如何なるものなのであろうか。御用にてかの地へ参った者以外にも、私が召し使っておった遠州生まれの者などが語った話も全く同様で御座った。

2010/09/17

診断夢 又は 母の退院の夢

母の病院である。

[やぶちゃん注:今回、母が入院しているのは例の僕にとっていわくつきの病院――マラリアの友人が死に、僕の右腕の手術を失敗し二度やったあの病院だ。]

僕は体中に包帯を巻いている。所々に血が滲んでいる。その怪我の理由は分からない。

[やぶちゃん注:これは恐らく幼少期、結核性カリエスでコルセットを作る時の記憶のフラッシュバックである。実際、体中に包帯を巻き、首筋のところから熱い石膏を流し込まれた。以前にブログで書いた。]

窓際に若い精神科の女医がいて、僕は彼女から渡された英文の診断シートをチェックしている。

――すると――

今の左の耳鳴りや眩暈、総ての症状項目が合致する病気が、そこで判明する――

その書かれた病名は

――Internet hypnosis――

であった。眼から鱗だった。そうだと思っていた。覚悟していた。

[やぶちゃん注:“Internet hypnosis”――インターネット・ヒプノーシス――訳すなら「インターネット睡眠現象」である。よく知られたハイウェイ・ヒプノーシスから夢の中の僕が造語したらしい(リンク先はウィキの「高速道路催眠現象」)。文字が、それも英文が判然と夢に現れたのは僕の経験の中では極めて珍しい現象である。]

その時、地面が鳴動した。

女医の向うに禿山の成層火山があった(病院はこちら側の台形に成形したやはり裸の台地の上に建っている)が、その頂上付近が崩れ始めた。それは次第に巨大な岩雪崩となって、山麓に見える三軒の家屋を完全に破壊して飲み込んでしまった。僕と女医は成すすべもなく、それを見ていた。

[やぶちゃん注:夢の中の僕は、この成層火山を、漠然とであるが今夏行った知床の硫黄山である、と認識していたようである。しかし頂上は一つだったから、この硫黄山は遠い昔、知床で最高峰であった頃の、昔の硫黄山である。]

被災民でごった返す病院。――ふと見ると、病院の外壁の一部に罅が入っている。――僕は――『この病院もやっぱり危ない』――と思い、秘かに母を連れて病院を抜け出した。

[やぶちゃん注:『この病院もやっぱり危ない』――僕の中では説明不要。あの病院だからね。なお、母は来週退院する予定である。]

母と山を下る。

秋の気配。

母は元気に歩いている。

逆に僕はミイラのように包帯だらけで、ふらふらと歩いている。

途中で母が萩の花を摘んでいる……僕は黙って母を待っている……

                  (終劇)

[やぶちゃん注:母は恐らく歩いては退院出来ない。母は山野草が好きでよく摘んでは花瓶によく活けている。]

耳嚢 巻之三 矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事

「耳嚢 巻之三」に「矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事」を収載した。

 矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事

 寶暦の初めにや、三州矢作(やはぎ)の橋御普請にて、江戸表より大勢役人職人等彼地へ至りしに、或日人足頭の者川縁に立しが、板の上に人形やうの物を乘せて流れ來れり。子供の戲れや、其人形のやう小兒の翫(もてあそ)びとも思はれざれば、面白物也と取りて歸り旅宿に差置けるに、夢ともなく今日かゝりし事ありしが明日かく/\の事有べし、誰は明日煩はん、誰は明日何方へ行べしなど夜中申けるにぞ、面白き物也、これはかの巫女などの用る外法(げはふ)とやらにもあるやと懷中なしけるに、翌日もいろ/\の事をいひけるにぞ、始の程は面白かりしが、大きにうるさくいと物思ひしかども捨ん事も又怖しさに、所の者に語りければ彼者大きに驚き、よしなき物を拾ひ給ひける也、遠州山入に左樣の事なす者ありと聞しが、其品拾給ひては禍を受る事也といひし故、詮方なく十方に暮れていかゞ致可然哉(しかるべくいたすべきや)と愁ひ歎きければ、老人の申けるは、其品を拾ひし時の通、板の上に乘せて川上に至り、子供の船遊びする如く彼人形を慰める心にて、其身うしろ向にていつ放すとなく右船を流し放して、跡を見ず立歸りぬれば其祟りなしと言傳ふ由語りけるにぞ、大きに悦び其通りなして放し捨しと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に具体な連関を感じさせないが、山の民の隠れ住む場所、その河上から流れ来る妖しき『もの』という空間的連関性は感じられる。

・「寶暦」宝暦年間は西暦1751年から1764年。

・「三州」三河国。凡そ現在の愛知県東部地区。

・「矢作川」現在の長野県・岐阜県・愛知県を流域として三河湾に注ぐ。ウィキの「矢作川」のよれば、『長野県下伊那郡平谷村の大川入山に源を発して南西に流れる。岐阜県恵那市と愛知県豊田市の奥矢作湖周辺では、矢作川が県境を決めている。流域に豊田市、岡崎市などがある。下流域の矢作古川は元の本流であり、氾濫を抑えるため江戸時代初期に新たに開いた水路が現在の本流となっている』とあり、この舞台はその新水路でのことか。『矢作の名は、矢作橋の周辺にあった矢を作る部民のいた集落に由来している。矢に羽根を付けることを「矧(は)ぐ」と言ったことから「矢矧(やはぎ)」となり、後に矢作へ書き換えられた』とある。

・「遠州」遠江国。凡そ現在の静岡県大井川の西部地区。

・「外法」正道の仏法から外れた呪術・妖術の類い。諸注、人間の髑髏を用いた呪法を挙げるが(この語にはその意もあるが)、私は採らない。

・「山入」山岳信仰の山伏などのことを言うか。中でも天竜川を遡った、静岡県浜松市天竜区春野町領家にある秋葉山(あきはさん)は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀り、信濃諏訪―熊伏山―定光寺山―竜頭山―秋葉山を結ぶルートが修験者の回峰道となっていた。次項「秋葉の魔火の事」を参照。

■やぶちゃん現代語訳

 矢作川にて妖物を拾い難儀した事

 宝暦の初めのことと言う。

 三河国矢作川に掛かる公共架橋整備事業のため、江戸表より大勢の役人や職人などがかの地へ参った、その中の一人の人足頭の体験した話。

 ある日のこと、この者、作業の合間に川っぷちに立って御座ったところ、板の上に人形のような物を乗せたものが上流から流れて参った。

 子供が戯れにしたことかとも思ったが、その人形の作りはとても児戯に類するものとは思われぬ、相応に巧みな造作にて御座ったれば――面白いものじゃ――と拾い取ると、宿所へ持ち帰って、荷の中に仕舞い置いた。――

 ――その夜のこと、荷の傍らで寝入っていたその男、夢うつつのうちに、かの人形が、

「……今日ハドコソコデカクカクノ事ガアッタガ、明日ハソノコトニ関ワッテ、シカジカノ事ガ、コレ、起コルデアロウ。……誰ソレハ明日病イニ罹ル。……誰彼ハ明日ドコソコへ行クダロウ。……」

といったようなことを話すのを聴いた――ような気がした……。

 翌朝になって、

「こりゃ面白れえもんだ! これぞ世に、かの巫女なんどが用いるという、外法(げほう)とか言ったもんかのう?」

と、またぞろ面白がって人形を懐に入れて持ち歩いて御座った。

 すると、翌日の夜(よ)も、再びいろいろなことを一人ごちた――ように聴こえた……。

 かく初めのうちは、男もその予言の面白い程の的中を興がって御座ったが、……次第に、この夢うつつの人形のお喋りを甚だ五月蠅いものに感じ始め、果てはその独り言に不眠症ともなってひどく悩むに至った。捨てんにも、後(のち)に如何なる祟りのあらんかとの恐ろしさ故、思い余って、親しくなった土地の老爺に相談致いたところ、話を聞くや、その者、大いに驚き、

「そりゃ、とんでもないものを、お拾いになったもんじゃ! 遠州辺りの山に入る修験者の中には、かような妖しい外法を為(な)す者がおると聞いたことが御座るが……それを拾うた者……これ、きっと禍いを受くると……言われとるじゃ……」

と語る。

 これを聴いては、詮方なく、男は途方に暮れるばかり。

「……い、一体……ど、どうしたら……え、ええんじゃろう?……」

と驚懼の余り、泣きついたところ、老爺曰く、

「――拾うたときと同じごと、板の上に乗せて川上に参り、子供が舟遊びするが如く、その人形を労わり慰むる心を持ちて、背中にそれを持ち、顔は川と反対を向いて、川岸に静かにしゃがみ込み、いつ放すとのう、手を放し、あたかも弾みで手が離れたように振舞って、川に押し流し、後は後ろを見ずに帰れば、これ、その祟りはない――と言い伝えて御座る……。」

と語った由。

 男は驚喜して、その通りになして、無事、放ち捨てたということで御座る。

2010/09/16

耳嚢 巻之三 米良山奥人民の事

「耳嚢 巻之三」に「米良山奥人民の事」を収載した。

 米良山奧人民の事

 日向國椎葉山の山奧其外米良抔いへる處は、中古其村處(そんきよ)を尋得て人民ある事をしりしよし。御普請役元〆(もとじめ)をなしつる中村丈右衞門といへる老翁ありしが、彼丈右衞門語りけるは、椎葉山の材木伐出し其外御用ありて彼地へ行しに、日雇の者を案内に賴み段々わけ入しに、山中に一村有、家數も餘程あれどまばらに住なせし所也。外に宿すべき所もなければ彼人家に止りぬ。然るに床はなくねこだを敷て、家居の樣子其外外國へも行し程に覺へぬ。米はなき由なれば兼て里より持參せし米をあたへ、食事に焚きくれ候樣申けるに、飯の焚やうをしらず。常には何を食事になすやと尋るに、木の實鳥獸等を食となすよしゆへ大に驚き、召連し小者に申付て飯を焚せけるに、食事濟で殘りし飯を家内へ與へければ、彼家の老翁家族を不殘集、幼き孫彦(まごひまご)等に申けるは、汝等は天福ありて幼稚にて米の食をいたゞき見るに、我等は五十の時始て飯を見たりといひし由。實(げ)にも麁食(そしよく)長生ありといふ古語誠成る哉。右翁は百歳の餘にも成由。孫彦都(すべ)て家内大勢打揃し氣色にて、何れの家もしかなる由語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。後の注でも分かるが、この椎葉米良は隠田集落村で、落人伝説の地、粗食長寿の桃源郷である。

・「日向國椎葉山」現在の宮崎県の北西部の東臼杵郡椎葉村にある山。宮崎県最内陸部の九州山地に位置しており、椎葉村全体が山地であり、村内には多くの山があって、冬期は雪が積もることもある。米良山この椎葉山一帯は天領で人吉藩の預かり地であった。主に参照したウィキの「椎葉村」には更に細かく『戦国時代には椎葉三人衆(向山城、小崎城、大川内城の那須氏)と呼ばれる豪族が支配していた。元和年間、那須氏の間で対立が激化。1619年(元和5年)、幕府は阿部正之、大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。徳川実紀によると住民1000人が捕らえられ140名が殺害されたという(椎葉山騒動)。1656年(明暦2年)以降、天領となり、隣接する人吉藩の預かり地となった』。『伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)』。『日本民俗学の先駆けである柳田国男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに「後狩詞記(のちのかりのことばのき)」(明治42年、1909年)を記した』と書かれている(引用の一部記号を変更した)。

・「米良」現在の宮崎県児湯郡西米良村にある。厳密には市房山・石堂山・天包山の3つから成り、これらを合わせて「米良三山」と呼ぶ。参照したウィキの「西米良村」によると、『15世紀初頭、菊池氏の末裔とされる米良氏が米良に移住。米良山』(当時は14ヶ村を数えた)『の領主として当地を支配し、江戸時代中期以降(現在の)西米良村小川にあった小川城を居城とした。米良氏は明治維新後に菊池氏に改姓した』。『米良山は元和年間(1615-1624年)に人吉藩の属地とされ、廃藩置県(1871年)の際には人吉県(後に八代県、球磨郡の一部の扱い)となり、1872年に美々津県(宮崎県の前身)児湯郡に移管された。こうした歴史的経緯から米良地方は宮崎県(日向国)の他地域よりも熊本県(肥後国)球磨地方との結びつきが強い。これは現在も飲酒嗜好にも表れており、西米良村では球磨焼酎(25度の米焼酎、宮崎県内は20度の芋焼酎が主流)、特に高橋酒造の「白岳」が愛飲されている』とある。椎葉の前注も参照。

・「御普請役元〆」底本の鈴木氏注に幕府の『支配勘定(組頭の下を勘定といい、その下を支配勘定という)の下。この下が普請役。その下が普請役下役となる。』とある。鈴木氏の役職解説は何よりシンプルで分かり易い。前注で分かる通り、ここは江戸から遠く隔たっているが天領であるから、この人物が直接出向いているのである。

・「中村丈右衞門」諸注注せず不詳。

・「ねこだ」方言か。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「寝茣蓙(ねござ)」とある。この意で採る。

・「孫彦」岩波版長谷川氏注に「彦」は曾孫とする。そのような用法は漢和辞典にないが、そう読むしかない。「ひこまご」で「ひまご」か。とりあえず本文は「まごひまご」と読んでおいた。

・「都(すべ)て」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 米良山の奥に住む人々の事

 日向国椎葉山の山奥、そこに隣り合う米良という所は、中古、そこを偶々分け入った人が、村の在るを見出し、初めて人が住んでおることが知れたといういわくつきの山村である。

 御普請役元締を勤めておった中村丈右衛門という老人が御座ったが、その彼が語って呉れた話である。

 ――――――

……天領で御座る椎葉山の材木の伐り出しや、その他の御用が御座って彼地へ赴きましたが、……日雇いの者を案内(あない)に頼み、だんだんに山に分け入ると、……暮れ方にやっと山中の一村に辿り着きました。家数も相応に御座っての、ただ、広い山地に固まらず、疎(まば)らに住みなして御座った。勿論、外に泊まるところもないので、そのうちの一軒に泊りました。

ところが、家内入ってみると、床は御座らず、地べたに大きな寝茣蓙が敷かれておるだけ、家の内外(うちそと)様子なんどは、もう、まるで外国に来たようで御座った。米はないということなれば、かねて里から持ち運ばせた米を与えて、

「食事に炊いて呉れ。」

と申し付けたところが、これ、なんと、飯の炊き方を知らぬと申しました。

「普段は何を食っておるのか?」

と訊ねますと、

「木の実、鳥、獣などを捕って食い物としております。」

と答えるので、拙者も大いに驚き、召し連れておった小者に申し付けて飯を炊かせましたが……食事が済んで、残った飯をその家(や)の者どもへ与えたところ、その家の老翁が家族一同残らず集めた上、幼い孫や曾孫に言うことには、

「……汝らは天のご加護があって、かく年幼(わこ)うして、こうして米の飯を拝み見ることができた……我らなんぞはの、五十の時、初めてこの『飯』というものを見たんじゃぞ……」

と申しました。

 げにも「粗食なれば長生あり」という古き諺は誠(まっこと)真実で御座いますなあ。……何とこの折りの老人、百歳を有に超えているということで御座った。どの家(や)にてもこのように孫や曾孫総ての家族がともに暮らしておるらしゅう御座っての、また、どの家の者も、かく長生きであるという話で御座いました。……

2010/09/15

耳嚢 巻之三 音物に心得あるべき事

「耳嚢 巻之三」に「音物に心得あるべき事」を収載した。

 音物に心得あるべき事

 或日諸侯方より權門(けんもん)へ月見の贈り物ありしに、右權家(けんか)にて忌み禁ずるの品にて甚無興なる事ありしと也。いづれ平氏の諸侯へ平家都落の屏風等送らんは禮にも違ひ、恥しめるの壹つならん。夫に付おかしき咄あり。寶暦の頃、權家へ兼て申込にて屏風一双名筆の認しを送る諸侯有しに、彼權家より移徙(わたまし)の祝儀と時めける權門大岡公へ送り物の評議最中なれば、幸ひの事也、右の屏風を通すべし、しかし移徙は時日も極りあればいかゞあらんと評議せしに、留守居成(なる)者取計(とりはららひ)、彼諸侯へ、とてもの御贈り物に候はゞ幾日迄に贈り給はるべきやと談じけるに、安き事とて彼諸侯家にても大に悦びける故、權家にても其日に成(なる)と今や來ると待ぬるに、日も晩景に及べど沙汰なければ、如何間違しやと主人も氣遣ひ、懸合の家來は誠に絶躰絶命の心地しけるに、無程使者を以右屏風を贈り、厚く禮謝なして使者の歸るを待兼て、直に使者を仕立右屏風を大岡家へ贈りけると也。然るに主人其屏風の模樣仕立等を家來に尋けるに、餘りに取急てあわてけるにぞ、中の繪樣仕立等も不覺、主人の尋にて始て心付當惑なしけるにぞ、繪がら其外大岡家の禁忌も難計(はかりがたく)、移徙の忌み品にはなきやと、上下一同又當惑の胸を痛めける。餘りの氣遣ひさに大岡家へも人を以(もつて)存寄(ぞんじより)に叶ひしやを内々にて承り合、細工人抔を糺して其樣を聞て、始て安堵をなしけるとや。深切の音物(いんもつ)ならず、麁忽(そこつ)の取計(とりはからひ)にはかゝる事のあるものなれば、心得に爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。大名諸侯絡みではあるが、前項はポジ、こっちは皮肉なるネガ。

・「權門」官位が高く権力・勢力のある家柄、また、その人。ここではその意味ながら、この語には、まさにこの話柄で問題となる「権力者への賄賂」の意味もある。 

・「音物」「いんもつ」又は「いんぶつ」と読む。贈り物。進物。

・「寶暦」宝暦年間は西暦1751年から1764年。

・「移徙(わたまし)」は底本のルビ。「徙」は「移」と同義。「渡座」とも書く。貴人の転居・神輿(しんよ)の渡御を敬っていう語。

・「大岡公」大岡忠光(宝永6(1709)年~宝暦101760)年)九代将軍徳川家重の若年寄や側用人として活躍した。上総勝浦藩主及び武蔵岩槻藩初代藩主。三百石の旗本大岡忠利の長男(以上はウィキの「大岡忠光」を参照した)。卷之一「大岡越前守金言の事に登場。

・「留守居」留守居役。ここでは諸大名がその江戸屋敷に置いた職名。幕府との公務の連絡や他藩(の留守居役)と連絡事務を担当。聞番役。

・「とてもの御贈り物に候はゞ」これはその権家が、具体的にその屏風を大岡公移徙御祝儀に致す、ついてはその旧蔵はこれこれの御大名のものなりという出所も明らかに致すによって、別して御大名家の名聞も立つと申すものにて、といったような会話がなされたものを省略した表現と私は採った。識者の御意見を乞う。

・「餘りの氣遣ひさに大岡家へも人を以存寄に叶ひしやを内々にて承り合、細工人抔を糺して其樣を聞て、始て安堵をなしけるとや」の部分で権家が、絵柄や仕立てもよく分かっている旧蔵者の大名諸侯に、その屏風の仔細を聞かなかったのは、何となく分かる気がする。これはもう、万一の時は権家だけではなく、災いが旧蔵者であるその大名にも及ぶ危険性があるからで、とても口には出せなかったのであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 進物には細心の注意が必要である事

 とある諸侯が権門(けんもん)に秋の月見の進物を致いたところが、それが当の権家(けんか)にては古えより忌み禁ずる品であったがため、甚だ不興を買ってしまったということがあったという。いずれにしても、平姓の諸侯方に平家都落ちを描きし屏風なんどを贈るは、これ、礼を失するばかりか、相手を侮辱することになる一例で御座る。

 さても、これに就きて、面白い話が御座る。

 宝暦の頃、とある大名が、さる権家へ、その大名家の所蔵に係る名筆の手になった一双の屏風を贈答致すという約束をかねてより交わして御座った。

 一方、その権家にては、丁度その頃、世を時めいて御座った権門大岡忠光公御転居の御祝儀の進物に、何がよろしきかと評議を致いている真っ最中であったが、

「もっけの幸いじゃ! その屏風を贈ろうではないか。」

「しかし、御転居の儀、これ、時日が迫って御座れば、如何なものか?」

という話となり、留守居役の者が取り計らい、早速に当の大名方へ走り、

「先の御約束の屏風で御座るが……有体に申しますれば、かの大岡忠光公御転居の御祝儀として本家より進ぜんと考えておりますればこそ……その……厚かましきこと乍ら、○月○日迄に、かの屏風、お贈り戴けるようお取り計らいの儀、御願い出来ませぬか?」

と正直に申したところ、大名も大岡忠光公の名を聞いて、

「それはそれは! 易きことじゃ!」

と大喜びして請け合って御座った。

 さても大名から権家への送り渡しの当日と相成った。

 権家方にては、贈答の好機が迫りに迫って御座ればこそ、今来るか、今来るかと首を長くして待って御座った。

 ところが、日が暮れ方になっても、屏風が届かぬ――

「……何ぞ手違いでもあったではなかろうか!?……」

と権門家主人も、これ、気が気ではない。

 交渉に当たった家来ども、特にかの留守居役なんぞに至っては、最早、絶体絶命――腹を切らずば済まされまい――との心持ちで御座ったところ――暗くなって程なく、大名家の使者が件(くだん)の屏風を持って権家の玄関に現れた。

 権門家では厚く謝礼をなし、その使者が帰るのを待ちかね、直ちに使者を仕立てて、この屏風を右から左と、大岡家へ贈り届けたということで御座る。

 ――ところが――

 さて、その夜のこと、権門家の主人が、家来に屏風の絵柄や、大名が新たに表装し直したという仕立てなんどにつき、訊ねたところが……

――いえ……何にせよ、あまりに取り急ぎのことにてあれば……

――その……家来の者どもは……誰(たれ)一人として……

――何?……誰も屏風を……見ておらぬと?……

――こ、この儂に尋ねらるるまで……だ、だれ一人か!?……

――今の今まで……そ、そ、そのことにさえ気づいて、お、ら、な、ん、だ、と……申すカッ!?……

ということに今更皆々気がついて、一同、愕然と致いた。

 絵柄その他、そもそも贈答せんがことに汲々と致して御座ったれば、大岡家の禁忌のことも迂闊にも全く調べて御座らねば、それどころか、もしや転居祝そのものの忌み物にはあらんかと、権家一同、上から下までずずいずいと、当惑疑惑七転八倒、胸痛腹痛片頭痛、餓鬼畜生地獄煉獄阿鼻叫喚の責め苦を味わうはめと相成って御座ったのである。

 あまりの懊悩故、まず大岡家へもそれとなく人を遣わし、お気に召されたかどうか、極内々にて聴き合わせ、……またかの大名から、かの屏風の仕立て直しを請け負った細工職人なんどから、これまた、それとのう聞き出しては、彼らより、その絵柄や模様なんども分かって御座ったれば……その上で、初めて……ほっと一息、安堵をなしたとかいうことで御座る。……

 さてもこれ、心を尽くした進物にてもなく、また、かくまで杜撰な仕儀に於いては、こうしたこともある、ということで御座る。方々の注意を喚起せんがため、ここに記しておくものである。

2010/09/14

耳嚢 巻之三 擬物志を失ひし事

「耳嚢 巻之三」に「擬物志を失ひし事」を収載した。

 擬物志を失ひし事

 近年菓子或は油揚の類ひに魚物(ぎよぶつ)をまのあたり似せて實に其品と思ふ程の工(たく)みあり。さる寺院にて旦那成(なる)諸侯の法會有りて參詣の折柄、右の菓子差出しけるに、魚物に似寄たる故や手を付られざりしを、あるじの法師夫は魚味にては無之、近年拵へ出し候菓子也とありければ、彼諸侯申けるは、出家はしらず、俗人は強て先祖の忌日也とて魚味を禁ずべきにあらず、さあれ共國俗すべて精進に魚物等を忌みぬるは愼みならん。我等も先祖の法會なれば退夜(たいや)より精進潔齋して、諸事心の穢れをも禁(いま)しめ參詣なせし也。然るに魚物を食する事ならずとて、其形をなせし物を用んは、心の穢れ魚物を用んよりは増るべし、難心得饗應なりとて座を破り立歸り給ひしと也。彼僧は赤面なしてありしが、其後ひたすらの歸依もなかりし由。右は松平右近將監(しやうげん)とも堀田相模守執事の時共いひし。しかとわからざりしが心得あるべき事と爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「退夜」「逮夜」のこと。仏教で葬儀の前夜や忌日の前夜を言う語。

・「禁(いま)しめ」は底本のルビ。

・「松平右近將監」松平武元(たけちか 正徳3(1714)年~安永8(1779)年)。上野国館林藩第3代藩主・陸奥国棚倉藩藩主・上野国館林藩初代藩主(再封による)。奏者番・寺社奉行・老中。宝暦111761)に先の老中首座堀田正亮の在職死去を受けて老中首座となった。参照したウィキの「松平武元」によれば、『明和元年(1764年)老中首座。徳川吉宗、徳川家重、徳川家治の三代に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた』とある。卷之一「松平康福公狂歌の事」に登場。

・「堀田相模守」堀田正亮(ほったまさすけ 正徳2(1712)年~宝暦11年(1761)年)は出羽国山形藩3代藩藩主・下総国佐倉藩初代藩主。寺社奉行・大坂城代を経て老中。先に記した酒井忠恭の罷免を受けて寛延2(1749)年に老中首座となった。在職中に死去した(以上はウィキの「堀田亮」を参照した)。同じく卷之一「松平康福公狂歌の事」に登場。

・「執事」江戸幕府に於いては若年寄の異称であるが、堀田正亮は若年寄の経歴はないので、老中の謂いであろう。元来が執事は貴族・富豪などの大家にあって、家事を監督する職を言うので問題はない。岩波版長谷川氏でもそうとっておられる。

■やぶちゃん現代語訳

 擬物に志しを失うという事

 近年、菓子或いは油揚げの類いに、魚の姿を見るからに似せて作りことが流行って、中には誠(まっこと)本物の魚と見紛うほど、そっくりに造り上げる職人も御座る。

 さる寺院にて、檀家である諸侯が己(おの)が先祖の法会のために参詣致いた折りのこと、この茶菓子が振舞われた。

 魚の姿に見紛う故か、そのお大名が手をお付けになられないのを、住職の法師がこれを見て微笑みながら、

「それは勿論、魚肉にてはこれなく、近頃、流行で拵えさせた菓子にて御座いまする。」

と説明した。すると、そのお大名、相好一つ崩さず、住職を正面に見据えると、

「――出家はともかくとして、俗人は、先祖の忌日とて、強いて魚を食することを禁ずること、これ、あるべきべきことにては、御座ない――なれど、本邦に於いて古えより世俗にても精進の料理に魚肉などを避くるは、これ誠心の慎み故でもあろう。――かく不遜なる我らにても、今日、先祖の法会と思えばこそ、逮夜より精進潔斎致いて、あらゆることに気を配り、心の穢れんことを切に戒め、ここに参詣致いて御座る。――然るに――魚を食することが出来ぬからと言うて、代わりにその形を成せし食い物を食したとあっては――これ、心の穢れ――魚を食せんとせしことより、いや勝ることじゃ! 理解し難き饗応である!」

と言い放つや、憤然と席を立ち、そのまますぐにお帰りになられたとのことである。

 住僧はただただ赤面するばかりで御座ったが……その後は最早、この諸侯の帰依、これ、とんとなく、なられた由。

 この話は松平右近将監(しょうげん)武元(たけちか)殿御老中の折の話とも、堀田相模守正亮(まさすけ)殿御老中の折のものとも言う。はっきりとは分からぬものの、誠(まっこと)心得あるべきことと感心致せば、ここに記しおく。

2010/09/13

耳嚢 巻之三 道灌歌の事

「耳嚢 巻之三」に「道灌歌の事」を収載した。

 道灌歌の事

 太田道灌は文武の將たる由。最愛の美童貳人ありて其寵甲乙なかりしに、或日兩童側に有りしに、風來て落葉の美童の袖に止りしを、道灌扇をもつて是を拂ひけるに、壹人の童、聊か寵を妬(ねた)める色の有しかば、道灌一首を詠じける。

  ひとりには塵をもおかじひとりにはあらき風にもあてじとぞおもふ

かく詠じけると也。面白き歌ゆへ爰に留ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:具体は繋がらぬが、卓抜な奇略と洒落という点では私にはすんなり連関して感じられる。

・「太田道灌」(永享4(1432)年~文明181486)年)。『室町中期の武将。名は資長。道灌は法名。資清の長男。太田氏は、丹波国桑田郡太田郷の出身といい、資清のときに扇谷上杉氏の家宰を務めた。道灌は家宰職を継ぎ、1457年(長禄1)に江戸城を築いて居城とした。76年(文明8)関東管領山内上杉顕定の家宰長尾景信の子景春が、古河公方足利成氏と結んで顕定にそむくと,主君上杉定正とともに、顕定を助けて景春と戦った。77年武蔵江古田・沼袋原に景春の与党豊島泰経らを破り、78年に武蔵小机・鉢形両城を攻略、80年景春の乱を鎮定した。この間、関東の在地武士を糾合して戦った道灌の名声は高まったが、かえって顕定・定正の警戒するところとなり、86年定正により暗殺された。道灌は兵学に通じるとともに学芸に秀で、万里集九(ばんりしゆうく)ほか五山の学僧や文人との親交が深かった。道灌が鷹狩りに出て雨に遭い、蓑を借りようとしたとき、若い女にヤマブキをさし出され、それが「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」という古歌「後拾遺集」雑)の意だと知り、無学を恥じたという逸話は「常山紀談」(湯浅常山著、元文~明和ころ成立)や「雨中問答」(西村遠里著、1778)等に記されて著名。この話をもじって1833年(天保4)刊「落噺笑富林(おとしばなしわらうはやし)」(初世林屋正蔵著)中に現在伝えられる落語「道灌」の原形ができあがった。歌舞伎では18873月東京・新富座初演「歌徳恵山吹(うたのとくめぐみのやまぶき)」(河竹黙阿弥作)がこの口碑を劇化、賤女おむらは道灌に滅ぼされた豊島家の息女撫子で、父の仇と道灌に切りかかる趣向になっている。現在の新宿区山吹町より西方の早大球場、甘泉園のあたりを『山吹の里』と通称し、戸塚町面影橋西畔に『山吹の里』の碑が立てられ、その旧跡とされている。』(以上は平凡社「世界大百科事典」の下村信博氏及び小池章太郎氏記載記事。但し、記号の一部を本ページに合わせるために変更し、改行も省略した。(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

・「ひとりには塵をもおかじひとりにはあらき風にもあてじとぞおもふ」訳の必要を感じさせない平易な歌であるが、もしかするとある種の単語には性愛的な意味が隠されている可能性があるかも知れない。識者の御教授を乞う。底本の鈴木氏注に、「続詞花和歌集」の「雑上」に所収するものとし、作者は祭主輔親(大中臣)とする。それは

  ひとりには塵をもすゑじひとりをば風にもあてじと思ふなるべし

とあると記され、更に天保六年刊の儒学者日尾荊山(寛政元(1789)年~安政6(1859)年)の「燕居雜話」の「六」には太田道灌の作として、

  ひとりをば塵をもおかじひとりをば荒き風にもあてじとぞ思ふ

と挙げる、とある。後者はほぼ本歌に等しい。鈴木氏は最後に『道灌が古歌を利用して作りかえたと見ることもできるが、後人による附会であろう。』とされる。道灌、基、同感。

■やぶちゃん現代語訳

 太田道灌の和歌の事

 太田道灌は文武両道に長けた武将として知られている。

 彼には最愛の美童が二人あって、その寵愛の深さには何らの差がなかった。

 ある秋の日のこと、両童が側に控えて御座ったところ、風が吹き来て、落葉が一人の美童の袖に散った。

 道灌、それを見て、手にした扇をもってこれを払った。

 すると、これを見て御座ったもう一人の美童、聊か妬(ねた)ましげなる表情を浮かべた。

 道灌、それを見てとって一首を詠じた。その歌は、

   ひとりには塵をもおかじひとりには荒き風にもあてじとぞ思ふ

かくも詠じたということにて御座る。

 面白き歌なればここに記しおく。

2010/09/12

ウルトラQ夢

少年の僕(しかし心は確かに53歳の僕であることを認識している)は円谷プロを訪れている。昭和30年代のウルトラQ当時のプレハブの建物である。

[やぶちゃん注:僕は実際には円谷プロに行ったことがない。この奇妙なリアルさは総て往時の写真集の円谷特技研究所や映像資料から僕の脳内に構成された擬似的なものである。]

柔和な顔の円谷英二さんやごっついけど優しい一(はじめ)さん(円谷一)、そして金ちゃん(金城哲夫)は少年のような笑顔で、如何にも嬉しそうに、企画室から怪獣倉庫、特撮スタジオ等を饒舌に案内してくれる。

[やぶちゃん注:ここで金ちゃんが出てきた意味は分かる。僕は先週、所属している2年生の修学旅行に一緒に行かないことに決まった。単に県には全員を行かせる金がないからなのであるが(尚且つ僕は学年団最年長であり、行けば旅費は最高額になるのであろう)、ガマや佐喜間美術館や亀甲羅墓で生徒らと語り合い、美ら海やサンゴの苗の植え付けを一緒に体験するのをとても楽しみにしていた僕としては、如何にも寂しい決定であった(加えて言えば僕は修学旅行の係でもある)。そこで勢い、先週末の授業でも沖繩の話に脱線した。そうしてそこで必ず、僕が何度も言ってしまうのが、ウルトラマンは沖繩出身という金ちゃんの話であった。それがここで作用した。]

金ちゃんがこっそり見せてくれたのは、僕の知らない使われなかったQの準備稿の数々だった――特にびっくりしたのは台詞を殆んど暗誦出来る僕の大好きな虎見邦男脚本の「バルンガ」だった――しかし、それはぱらぱらっとめくってみると――僕のよく知っている決定稿とは全く異なった内容の「バルンガ」の初期稿だったのだ!――金ちゃんは――「ホントはいけないんだけど、それ、君にあげるよ。」――と言いながら、悪戯っぽくウィンクした。

[やぶちゃん注:これも表面的には説明出来る。先日、三年前現役で一橋に進学した僕の教え子が訪ねてきた。彼は今、往年のウルトラ・シリーズのファンとなっており、一頻りウルトラ談義に花が咲いた。そこで後日、僕の持っているウルトラQの「鳥を見た・・」(山田正弘脚本)の撮影用台本準備稿、彼が好きだという「宇宙指令M774」(上正さん(上原正三)の脚本は上質のサスペンスに仕上がっており、エンディングの味な終わりも忘れ難い。いや、忘れ難いのは、実はやっぱり一条貴世美実はルパーツ星人ゼミを演じた水木恵子さんの美しさであろう。僕の同年代にも彼女が印象的だったという中年親爺教員は実に多いのだよ)「宇宙指令M774」の準備稿及び決定稿、「バルンガ」の決定稿の4篇をコピーして贈った。その記憶が作用した場面である。ここでは僕と金ちゃんが教え子と僕と相互変換しているのである。なお、この夢の中で読んだ未使用シナリオのストーリーは、現存し僕の知っているレアな「UNBALANCE」用準備稿の何れでもなかったことは確か。ちぇ! 惜しいな! ちゃんと覚えときゃ、よかった!]

金ちゃんが薄っぺらい企画室の板戸の所に待っているように言って、外へ出て行った――外は――陽光のハレーションを起こしたそこは――沖繩のサトウキビ畑が広がっていた――金ちゃんが消えた、そのサトウキビ畑の中から――今度は人が三人出て来た――舞い上がる思いだった――だってそれは、あの星川航空のパイロット・キャップを被った万城目淳(佐原健二)と一平君(西條康彦) ――それに由利ちゃん(桜井浩子)だったから。

[やぶちゃん注:私はアンヌ隊員(菱見百合子)よりフジ隊員(桜井浩子)であり、スピンオフながら、妙な言い方だが、フジ隊員より江戸川由利子ファンなのである。残念ながらこれらの俳優さんにも僕は実際に一度も逢ったことはない。なお、上記のシーンは僕が以前に創作を考えた金城哲夫の自伝的映画のシナリオのエンディングに想定していたシークエンスである。そこでは風そよぐサトウキビ畑の真ん中に横たわった末期の金ちゃんを、サトウキビの間からウルトラ怪獣やブースカが出て来て涅槃図のパッチワークになるというものであった――。]

僕は緊張の余り、言いたいことも言えず、ただ呆然としていたが――三人とも満面の配役の笑顔で(彼らは昭和30年代のあの若さのままである)、少年の僕としっかり握手して呉れた。順に万城目さんと―― 一平君と――そして、ドキドキしながら大好きな、あの、お姉さんの由利ちゃんと――

――ところが――そのとき僕は如何にも深々とお辞儀したのだが――そのお辞儀をした瞬間に――僕は今の大人の僕に「変身」してしまい――ここが大事なところだが――「変身」して遙かに身長が伸びたために――お辞儀をした僕の頭部が由利ちゃんの右の肩に頬ずりをするような格好になってしまったのだ――

[やぶちゃん注:撮影開始時は桜井さんは未だ18歳であった。今の僕が女子高校生の肩に頬ずりしては――問題である。]

――と――桜井さんは(ここで彼女は由利ちゃんではなく女優としての桜井浩子になっているのが夢を見ている僕の意識に鮮やかに直感されたのが生々しい)思わず後ずさりをした――ここも大事なところであるが、この瞬間には僕は小学生に戻っているのであるが(因みにQの放映時、僕は小学校4年生であった)――そうして

「――こんなに優しい挨拶をされたのは、始めてよ――」

……それは皮肉な謂いではないのだが……しかし、優しい謂いでもないのである……彼女の表情は依然として口元は笑っていながら、あの彼女独特の眉の間の強い皺は何か妙な緊張を示していた……そうして彼女だけが、そこから去っていった――

如何にも気の毒そうな表情の一平君と困った感じの万城目さん――いや、この時、彼らも俳優西條康彦と佐原健二の顏に戻っていた――

……桜井浩子さんに嫌われたのでは、と悲痛な表情の僕に、西條さんは「う~ん、ロコ(桜井さんの愛称)は難しいからね……」と呟き、佐原さんは「じゃあ、僕らもスケジュールが詰っててね。」と一言言うと、あのQのオープン・カーに乗って砂埃を巻き上げながら、珊瑚礁の方へと走り去って行った――

《そのまま呆然と見送る僕の左半身バスト・ショットのアップがストップ・モーションとなってホワイト・アウト》

                  終

[やぶちゃん注:ここの最後に宮内國郎氏の、あの御馴染みの「ウルトラQ」のテーマか、「鳥を見た」のエンディング・タイトル・ロールのオリジナル曲がかかれば最高であったが(希望としてはゼッタイに後者)、残念ながら僕の夢には音楽がかかったことは、過去数えるほどしかないのである。]

ノイズ・キャンセリング 秋篇

虫すだく耳の内なる蝸牛管(かたつむり)

――秋となっても蝉に代わって我が左の耳鳴りの音は虫の声に救われている――

耳嚢 巻之三 本庄宿鳥居谷三右衞門が事

「耳嚢 巻之三」に「本庄宿鳥居谷三右衞門が事」を収載した。

 本庄宿鳥居谷三右衞門が事

 本庄宿(ほんじやうしゆく)に仲屋三右衞門といへる商人ありしが、凶年の節宿内近村の困窮を救ひ、往還の助とて往來の道并(ならびに)橋を自分入用を以取計ひ、御代官蓑笠之助(みのかさのすけ)申出し故、予御勘定組頭を勤て道中方を兼帶なせし頃、安藤彈正少弼(せうひつ)道中奉行の節取扱有之、伺の上名字帶刀御免にて御褒美被下(くだされ)し者なり。右三右衞門は、元來通り油町仲屋といへる呉服店に丁稚より勤て重手代(おもてだい)に成りしに、右仲屋亭主幼年に成て、身上(しんしやう)大きに衰へたち行きがたき時節ありしに、彼三右衞門其主人に申けるは、當年は自身上京の上、引け物計(ばかり)を仕入持下り候樣致さるべしと申教へ、主人其通りなしけるに、下直(げじき)の引物を關東にて賣捌(うりさばき)しに利なきにしもあらざる上、三右衞門自身上京して彼問屋に申けるは、若輩の主人直々に仕入に登りしが、いかなれば引物計を賣渡し給ふやと六ケ敷(むつかしく)申けるに、問屋にても主人の好みに任せ候由答へければ、いやとよ主人は若輩幼年と申べき者也、右幼年の者縱令(たとひ)申候へばとて引物計り附屬し給ふ事、年久敷(ひさしく)馴染の問屋にはあらずと申ける故、其理に伏し年久敷取遣(とりやり)なせし問屋なれは、不殘損をなして別段に代物を下しける。これによりて大きに利德を得(え)仲屋を取直し、其身も相應のもとでを貰ゐて本庄宿へ引込、呉服其外諸品の商ひなして、今本庄宿其外近邊に鳥居三右衞門といひては知らざる者なし。右の者暖簾の印

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如此(かくのごとく)付しも彼三右衞門工夫の由。如何成譯やと人の尋しに、中屋は家名也、かくの如く書(かき)ぬれば虱(しらみ)といへる文字也、虱はよく殖へて盡ざる物也といひしと其邊のもの語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:吝嗇から殖産で連関。「暖簾の印」『¬中ム』は底本の画像で示したため、原文が途中で分断された。御容赦願いたい。

・「本庄宿」中山道六十九次のうち江戸から十番目の宿駅。以下、ウィキの「本庄宿」より引用する。『武蔵国児玉郡の北部国境付近』『に位置し、武蔵国最後の宿場。現在の埼玉県本庄市に当たる。江戸より22里(約88km)の距離に位置し、中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場であった。それは、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。江戸室町にも店を出していた戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家は全国的に富豪として知られていた』と、正に本話柄の人物が引かれている。これはとんでもない大富豪にして篤志家なのであった。

・「鳥居谷三右衞門」これはやや屋号が異なるが、前注の引用に現れる富豪『戸谷半兵衛(中屋半兵衛)』、初代戸谷半兵衛光盛(元禄161703)年~天明7(1787)年 通称戸谷三右衛門)のことである。以下、非常に優れた記載であるウィキの「戸谷半兵衛」から引用する(記号の一部を変更した)。『18世紀から19世紀の本庄宿の新田町(現在の本庄市宮本町と泉町の辺り)に店をかまえ、代々戸谷半兵衛を襲名していた豪商であり、宿役人。店の名の「中屋」にちなんで中屋半兵衛とも呼ばれた(こちらの名の方が認知度は高い)。中半の略称でも親しまれている。中山道で最大の宿場である本庄宿の豪商として全国的に名の知れた商人であった。本店は本庄宿の「中屋」であるが、江戸室町に支店である「島屋」を持ち、代々京都の方の商人とも付き合っていた為、その人脈はかなり広く、才能にも、度胸(行動)にも優れていた(京都にも支店はあった)。中屋は、太物、小間物、荒物などを商った。戸谷家は、経済面の救済だけでなく、文化面でも影響力が強い一族であり、関東一の豪商ともされる。大名への貸し金も多額であった。しかし、その返済は滞り、未回収金は数万両に及び、この為、安政5年(1858年)頃より、幕府への御用金納入に支障をきたし、名字帯刀を取り上げられ、さらに家財闕所等の処分を受けるが、明治期には回復した』。以下、歴代の当主。まず本話の主人公初代戸谷半兵衛光盛について(本話についての叙述がある)。『通称を戸谷三右衛門(1703 - 1787年)と言い、元禄16年に五代目戸谷伝右衛門の次男として生まれる(光盛は諱)。彼については18世紀末~19世紀の随筆「耳袋」にも記されており、その豪傑ぶりと知名度の高さがうかがえる。但し、「耳袋」は噂をもとに記述されている為か、戸谷を鳥居と記述しているなど、明らかな誤表記が目立つ。「耳袋」の記述によれば、三右衛門は元々通り油町の仲屋と言う呉服店に丁稚(でっち)から勤め、重手代にまで登りつめた人物とされ、その後、成功して、呉服やその他諸品を商ったとされる。多くの活動が認められ、公での名字帯刀を許されていた。中屋の暖簾印である¬中ム(縦に並べて書く)は三右衛門が考えたもので、『中』は家名の中屋を意味し、こう書く事によって、『虱(シラミ)』と言う字になる。印の意味を訊ねられた三右衛門は、「シラミはよく増えて絶えないから」と答えたと言う。「商家高名録」の中で中屋の暖簾印を確認する事ができる(ムと言うより中の字の下に△)』。『明和8年(1771年)に久保橋、安永2年(1773年)には馬喰橋を自費で石橋に掛け替え、天明元年(1781年)には神流川に土橋を掛け、馬船を置き無賃渡しとした。天明3年(1783年)の飢饉時には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物価高騰の際には貧窮者救済金を拠出する等の奇特行為により、名字を子孫まで許される(帯刀については一代限り)。天明7年(1787年)に85歳にして没する』。『「耳袋」や「新編武蔵風土記稿」では、光盛(みつもり)ではなく、三右衛門の通称で記述されているが、隠居後も活躍し続けた事で、三右衛門の名の方が世間では有名となった為である。「耳袋」では中屋三右衛門の名で記載されている』。次に二代目戸谷半兵衛修徳。『延享3年(1746年)に三右衛門の三男として生まれたが、兄弟が若くして没していった事で、二代目を継ぐ事となる。継いでからわずか3年目(安永4年に30歳)にして没し、父である光盛が健在であった事からも業績はよく知られていない。妻の常は内田伊左衛門の娘で俳諧を嗜んだとされる』。次に三代目戸谷半兵衛光寿。『通称を戸谷双烏(1774 - 1849年)と言い、幼名を半次郎。2歳の頃に父が没した為、祖父と義父(横山三右衛門)の後見により家業振興に没頭し、若いながらも中屋の隆盛期を築く(その祖父も13歳の頃に亡くなる)。義父の助力によって商才を研かれたとされる。10代半ばより俳諧の才能を発揮し、高桑蘭更(京都東山に芭蕉堂を営む)や常世田長翠に師事した。俳号を紅蓼庵双烏と称した。師の一人であった常世田長翠は、その縁からのちに双烏が建てた小簔庵(こみのあん)に招かれ、8年間にわたり、本庄宿に滞在する事となり、中央俳壇が本庄宿を根拠地にして活動した。その為、本庄宿では商人にして俳人と言った人物が増えた。彼も祖父と同様に公での名字帯刀を許された。また、信心深く、京都の智積院の境内に石畳を、江戸の真福寺には常夜灯を寄進している』。『彼の代で、江戸に出店2軒、家屋敷は江戸に22か所、京都に3か所を所有。「関八州持丸長者富貴鑑」「諸国大福帳」などに名を連ねる豪商となる。その財は、立花右近将監、松平出雲守、鍋島紀伊守などへの大名貸しだけでも15万数千両(現在の価値にして60億円以上)に及ぶ』。『寛政4年(1792年)に、陸奥、常陸、下総の村々へ小児養育費として50両、文化3年(1806年)には公儀へ融通金千両、文化13年(1816年)に足尾銅山が不況におちいった際には、森田豊香らと共に千両を上納し、困窮者の救済にあたり、足尾銅山吹所世話役に任命された。この他、文政4年(1821年)には岩鼻代官所支配村々の旱魃救援金百両を拠出、また、基金を献金して伝馬運営の資金に充て、神流川無賃渡しも継続。数々の慈善事業をし、名字帯刀を許された』(以下、三代目以降の更に詳しい事蹟が記されるが割愛する。但し、三代目は強い文人気質の持主であったことは特筆に値するので、リンク先及び以下の叙述を参照されたい)。『戸谷半兵衛家は代々豪商にして慈善家でもあり、三右衛門(初代半兵衛)は天明の大飢饉の時に土蔵の建設を行い、手間賃と米を給した。現在、その土蔵は本庄の千代田1丁目4番地に残され、この土蔵を「天明の飢饉蔵」と言う。また、双烏(三代目半兵衛)は旅人の安全の為、神流川の渡しに高さ3mもする豪華な常夜燈を寄進した。この常夜燈は、渓斎英泉作の『支蘓路(きそろ)ノ駅本庄宿神流川渡場』(中山道六十九次の浮世絵)にも描かれている(浮世絵を見る限り、石製の常夜灯である)』(ウィキの「本庄宿」にある同浮世絵の精密画像)。この三代目半兵衛光寿(双烏)は『まだ少年であった本因坊丈和(当時は己之助と呼ばれていたものと見られる)を丁稚として住まわせていたが、その碁の才能を見抜き、支店である島屋(江戸)の方へ赴任させ、才能を開花させるはからいもしている』。光寿『は、己之助が本因坊となった後も手紙での交流を続けており、「本因坊先生」と書いているものの、「本因坊様」とは書かず、そこからもかなり親密な仲であった事がうかがえる』。『光寿の姿は依田竹谷(谷文晁の門弟)によって描かれて』おり、また『光寿の俳壇の門下生は、関東地方だけで3~5千人とされ、文化的影響力はもちろん、経済支援を求める文化人も少なくなかった』とある。『支店島屋は現在の日本橋室町1丁目に開店していた。江戸の方では島屋半兵衛の名義で確認でき、中屋ではなく島屋と名乗っていたものと見られる。また室町2丁目の飛脚屋である京屋を利用して、島屋から中屋に向けて、江戸での出来事や情報を送らせていたものと考えられている』。初代伝来の情報戦略である。なお、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この記事の記載は正に初代戸谷半兵衛光盛死の直後に相当する時期である。

・「御代官」幕府及び諸藩の直轄地の行政・治安を司った地方官。勘定奉行配下。但し、武士としての格式は低く、幕府代官の身分は旗本としては最下層に属した。

・「蓑笠之助」蓑正高(みのまさたか 貞享4(1687)年~明和8(1771)年)幕府代官。農政家。以下、「朝日日本歴史人物事典」の記載(記号の一部を変更した)。『松平光長の家臣小沢庄兵衛の長男。江戸生まれ。享保1(1716)年猿楽師で宝生座配下の蓑(巳野)兼正の養子となり、同3年に家督を相続。農政・治水に通じ、田中丘隅の娘を妻とする。同14年幕府に召し出され、大岡忠相の支配下に入り、相模国足柄上・下郡の内73カ村を支配、酒匂川の普請なども行う。元文4(1739)年代官となり扶持米160俵。支配地はのちさらに加増され、計7万石となった。延享2(1745)年勘定奉行の支配下に移るが、寛延2(1749)年手代の不正のため罷免され、小普請入り。宝暦6(1756)年隠居。剃髪して相山と号した』。著作に「農家貫行」がある、と記す。

・「予御勘定組頭を勤て道中方を兼帶なせし頃」根岸が御勘定組頭を勤めたのは明和5(1768)年から同吟味役に昇進する安永5(1776)年までの8年間。道中奉行(後注参照)配下に勘定組頭の兼職である道中方が置かれていた。

・「安藤彈正少弼」安藤郷右衛門惟要(ごうえもんこれとし 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「彈正少弼」は弾正台(少弼は次官の意)のことで、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。既にお馴染み「耳嚢」の重要な情報源の一人。

・「道中奉行」ウィキの「道中奉行」より、改行を省略して引用する。『江戸幕府における職名のひとつ。五街道とその付属街道における宿場駅の取締りや公事訴訟、助郷の監督、道路・橋梁など道中関係全てを担当した。初見は『吏徴別録』の寛永4年(1632年)12月にある水野守信ら4名の任命の記事であるが、一般的には万治2年7月19日(1659年9月5日)に大目付高木守久が兼任で就任したのにはじまるとされる。大目付兼帯1名として始まったが、元禄11年(1698年)に勘定奉行松平重良が道中奉行加役となって以後、大目付と勘定奉行から1名ずつ兼帯する2人制となった。弘化2年(1845年)より大目付のみの兼帯。正徳2年(1712年)から享保9年(1724年)までは与力2騎、同心10人が配属され、配下に勘定組頭の兼職である道中方が置かれていた。その役料は享保8年(1723年)から年に3000石、文化2年(1805年)以後は年間金250両』。

・「通り油町」通油町(とおりあぶらちょう)という町名。現在の日本橋大伝馬町1314番地付近。大伝馬町・旅籠町・馬喰町に囲まれた古い町で、江戸初期の慶長年間(15961615)には町が出来、元和年間(16151624)に牛込某が油店を開いたことから、町名となった。元禄年間(16881704)には、江戸文学の興隆に大きく貢献した浄瑠璃本等を売る本屋鱗形屋(うろこがたや)があったことで知られ、天明年間(178189)には紅絵(べにえ:浮世絵の様式の一つ。墨摺版画に丹の代わりに紅で筆彩したもの。)問屋の町として知られた。後の流行作家十返舎一九(明和2(1765)年~天保2(1831)年)は、この町の紅屋問屋蔦屋に寄食し、作家として名を売った後の半生もこの町で過している。因みに「呉服店」とあるが、通油町の西端と接する通旅籠町には寛保3(1743)年に大店大丸呉服店江戸店が開業している。

・「重手代」商家で事務管理を総括する古参の手代のこと。

・「引け物」「下直の引物」は流行遅れの古くなった在庫や傷物などの値引き品。今で言うB反。

■やぶちゃん現代語訳

 本庄宿鳥居谷三右衛門の事

 中山道本庄宿に仲屋三右衛門という商人が御座った。

 凶作の年には、宿場内は元より近村の困窮を救い、旅客往還の助けとして往来の道並びに橋を私財を投じて整備管理致し、当地支配の代官蓑笠之助(みのかさのすけ)の申し出を受け――私はその頃、勘定組頭を勤めており、道中方も兼任していた頃のことで、直接関わった故によく存じておる――当時の道中奉行は安藤弾正少弼霜台殿が勤めておられたが、この奉仕の一件につき、お上へお伺いを立てた上、彼への名字帯刀がお許しになられ、御褒美も下賜されたという人物で御座る。

 聞くところによれば、三右衛門は、元来は日本橋通油町の仲屋という呉服店に、丁稚より勤めて、重手代(おもてだい)にまで成ったのであるが、その仲屋の主人が急死致し、跡継ぎの子も未だ幼年なれば、店が大いに衰え、立ち行き難くなった折りがあった。それでも主人が青年になろうまでの暫くは、何とか持ちこたえて御座った。

 ある日のこと、三右衛門が若主人に申すことに、

「今年は、ご主人さま御自身が上京なさり、京の問屋から――よろしゅう御座るか――引け物だけを、たんと仕入れてお持ち帰り下さいますよう、よろしくお願い申します。」

と嚙んで含むように命じた。

 若主人は、言われた通り、引け物ばかりを安値でたっぷり仕入れて江戸へ戻った。

 安値の引け物ばかり――されど名にし負う京呉服には変わりがなければ――これを関東一円にて売り捌く――当然のこととして、少なからぬ利益は出た。

 ところがそれから程遠からぬ後日(ごにち)のこと、今度は三右衛門自身が上京、先の問屋を訪ねて申すことには、

「――若輩なれど、成せる精一杯の仕事をなさろうと――年若のご主人さま直々に仕入れに上京なさったというに――お手前は、如何なれば、かく、引け物ばかりを売り渡しなすったのか――」

と如何にも難しい表情にて遺憾の意を述べた。

 勿論、問屋の方も、

「……そやかて……お宅のご主人はんのお好みや言うて、お任せしましたんやで……」

と答えた。ところが、

「ご冗談を! 主人は若輩、未だ幼年と申してもよき者にて御座る。――その呉服の、どころか、世間のいろはも知らぬ子供――その子供がたとえ、自ずから所望致いたからと言うて――かく夥しき売り物にもならぬ引け物ばかり――これ、売り渡いたこと――いやとよ! 我らが店の左前なるを早くも見限られ、体(てい)よく金まで搾り取り、商売にならぬ、不要品を渡りに舟と処分なされたこと――これ、年久しゅう取引を交わして参った馴染みの問屋で御座る、お手前どもの、為さり様とも――思えませぬ――」

と言って押し黙った。

 その悲壮なる謂いに、問屋も返す言葉もなく年久しく取引致いてきた問屋にてもあれば――また、世間にいらぬ悪評の立つも恐るればこそ、損を承知で、先に支払ったものとほぼ同等の別途新品を三右衛門へそっくり無償で引き渡した。

 お分かりで御座ろう、これによって仲屋は相応に大きな利益を得ることが出来、往時の仲屋の隆盛を取り戻いたので御座った。

 後、三右衛門は相応の元手を貰って本庄宿へと引っ込み、呉服その他諸品の商いを成して、今では本庄宿とその近辺に於いては鳥居三右衛門と聞いて知らぬ者は、これ、御座ない。

 因みに、かの仲屋の屋号を染め抜いた暖簾の印を

Nakayasirami_3 かくの如くつけたのも彼三右衛門の考案になるものの由。

「これは一体どういう意味か?」

とある人が尋ねたところ、三右衛門はこう答えたという。

「――この『中』は勿論、屋号の「仲」で御座るが、ほれ、こういう風に書いてみると――『虱』という字に見えて御座ろう?――虱はよう殖えて、決して絶えること、これ御座らねばのう。――」

 本庄宿は三右衛門近隣に住む者の話で御座った。

2010/09/11

エルモライの最後の日記 ミクーシ社会主義連邦共和国コルフォーズ崩壊

遂に儂はアルパカを飼えるようになった。

ところが気がついてみればミクーシ社会主義連邦共和国のコルフォーズ牧場は崩壊しておった――

2日前にオ・モコローゾフ伯爵夫人が儂の牧場を訪ねて来て下さったのが、最後じゃった――

ミクーシ社会主義連邦共和国は現在、41の国から成っておるように地図では表示されておるが、どの牧場も、もうかれこれ半年ほど前から、水飲み場も干上がって、野ウサギばかりが飛び跳ねているばかりじゃった――

それでも儂は、おもだった恩顧あるお方の牧場に種を播いたり、水を汲み入れたりして御座ったが――

もうそれも、飽いた――

じゃが儂はこの牧場を捨てぬ――たった独りの牧場は気楽じゃ――訪問者に気使いする必要もない――アルパカはペルー高地の産、ミクーシのコルフォーズで飼える最高級の動物じゃ――じゃから、もう、新しい動物を飼うためにしゃかりきになって育てる必要も、これ御座らぬ――金は……実に2200万ルーブリもあるからに、死ぬまで使い切れんわい――鴨撃ちにふらりとお出でになったまんま、ずっと100年もお帰りになんねえ御主人、ピョートル・ペトローヰッチ様を――ここでこうして、アルパカと一緒にお待ちしておろう……お帰りの時は、ペトローヰッチ様、アルパカの毛で儂がこさえた、あったけえ、帽子を差し上げますだ……

注・ピョートル・ペトローヰッチは「猟人日記」の主人公の名。例えば僕の最も好きな一篇「生神様」(邦題は「生きた御遺骸」「生きているミイラ」等とも訳される)等で分かる。この冒頭には彼お抱えの猟師兼下僕であるエルモライも登場する。お読みでない方は、是非。

耳嚢 巻之三 守財の人手段別趣の事

「耳嚢 巻之三」に「守財の人手段別趣の事」を収載した。

 守財の人手段別趣の事

 唐に守錢翁と賤しみ我朝にて持(もち)乞食と恥しめぬる、いづれ金銀を貯、黄金持(こがねもち)といわるゝ者の心取は別段也。我知れる富翁の常に言ひしは、世に貧しき人はさら也、其外通途の者も實に金を愛(あいせ)ざる故金を持(もた)ぬ也。金を愛しなば持ぬといふ事あるべからず。其譯は各は金銀あれば何ぞ衣食住其外器物(の品)を(買んと思ふ。是金銀よりは衣類器物を)愛する也。我器物其外其身の用にあらざる品は金銀に代ん事を思ふ。是器物より金銀を愛する所甚しき也といひし。又或人の諺に咄しけるは、金錢を貯へ度思ふや、何程ほしきと尋ければ、多くも望なし、千兩ほしきといひける者ありければ、いと安き事也とて千兩箱をとり寄、右の内はからものなれど、蓋を丁寧になして封印などして是を藏の内に置給へといひける故、心得しとて藏に入置ぬ。さて金は如何して出來るやと問ひければ、御身則千兩を封じて藏の内へ入置ぬれば則千兩の金持也といひけるにぞ、かの男大に憤り、右重箱を千兩封じて置たればとて、右から箱を以物を調ふる事もならず、誠に物の用に立ざる戲れをなして人を嘲弄なしぬるかと申ければ、さればとよ、金銀遣はんとおもふては金は持たれぬ物也といひし故、金を持て遣ふ事ならざれば金持も羨しからずと彼人悟りを得しと也。本所六間堀に金を借して渡世する者ありし由。其身賤敷(いやしき)者なれ共金銀の爲に諸侯歴々よりも重き家來等を遣して調達を賴けるに、或家士纔か百金計(ばかり)借用申込、承知に付日限を約束し、其日に至り罷越金子借受の事を談じければ、承知の由にて其身麻上下を着し藏の内へ入けるが、暫く有て立出で、折角御出あれ共今日は歸り給はるべし、明日御出を待由申けるにぞ、彼家士申けるは、成程明日にも參るべし、足を厭ひ候にはなけれど、金銀の遣ひ合せは片時を爭ひ候事も有れば、何卒今日借用いたし度と賴けれ共、何分得心なさゞりしかば、いか成故哉と尋しに、金の機嫌不宜、今日はいやと被仰せ出候故難成旨申ける故、右武士も大きに驚き歸りけるに、傍成者、金のいやと可申謂(いはれ)なし、いか成故哉(や)と有ければ、金銀は口なしといへども、我等が心にいかにも今日出來る否(いや)におもふは、則金のいやに思召也と語りし由。是等は誠に守錢翁といふべき者ならん。

□やぶちゃん注

○前項連関:金欲から吝嗇(りんしょく)で連関。本話は三つの全く異なったタイプのソースから構成されたもので、「耳嚢」の中では異色なオムニバスを感じさせる一篇であると私は思う。

・「いわるゝ」はママ。

・「(の品)」底本では右に『(尊本)』とあり、尊経閣本によって補ったという意味の注記がある。これを採る。

・「(買んと思ふ。是金銀よりは衣類器物を)」底本では右に同じく『(尊本)』とあり、尊経閣本によって補ったという意味の注記がある。これを採る。

・「本所六間堀」底本の鈴木氏注に『六間堀は本所竪川と小名木川とを結ぶ川』『で、これに沿って六間堀町、北六間堀町、南六間堀町ができた。いま江東区森下町一丁目、同区新大橋三丁目の地。』とある。但し、鈴木氏は六間堀に補注され、昭和241949)年に埋め立てられて現存しない旨の記載がある。東京大空襲の瓦礫が多量に流れ込んだためとも言われる。

・「今日出來る」底本では『尊本「出す事」』とある。こちらを採る。

■やぶちゃん現代語訳

 蓄財せる人には素人の思いも寄らざる別趣手段のある事

 唐土(もろこし)では「守銭翁」と賤しみ、本邦にては「持ち乞食」なんどと恥ずかしめらるるところの、金銀を貯え、黄金持ちと言わるる者の考えることは、これ到底、常人の重いの及ぶものにては、これ、御座ない。私の知れる裕福なる老人が常日頃申すことには、

「……世にある貧しき者は言うに及ばず、その外、尋常に暮らして御座る者にても――誠、金を愛さざる故――金を持てぬので御座る。――金を心底愛さば、金を持たぬなんどということは――これ決して、あろうはずが御座らぬ。――その訳はと申せば――ああした常人の者ども――金銀があれば衣食住その他調度什器を買わんと思う――そこで御座る。――これは、金銀よりも衣服器物を愛して御座るのよ。――ところがで御座る――我は器物その外、生くるがためにはこれといって用に立たざる品々は、悉く金銀に替えんことを思う。――これ、我が――器物より金銀を愛し、二心なきことの証しにて、御座る……」

と。

 さてもまた次は、ある人が俚諺(りげん)の由にて話して呉れたもの。

 ――――――

甲「お前さん、たんと金が欲しいか? 幾ら、欲しい?」

と訊いたので、

乙「……そうさな……多くは望まねえが……千両欲しい。」

とほざいた者がおる。すると、

甲「そりゃ、お易い御用じゃ。」

と言うなり、千両箱を取り寄せた。その中身は空っぽのものなれど、蓋を丁寧になし、封印なんどもしっかり致いた上、

甲「さ、これを蔵の内に置きなされ。」

と言うので、

乙「心得た。」

と蔵の中へ置く。――

乙「……さても、あの千両箱に入れる金は、いつ出来るんでえ?」

と問う。すると、

甲「お前さんは今、則ち、千両を封じて蔵に入れ置いたから、則ち、千両の金持ちじゃ。」

と答えた。

 かの男、大いに憤って曰く、

乙「あ、ありゃ、空箱ぞ?!……い、いや、千両封じて置いたからとて……そもそもが! 蔵に置いておいたんじゃ、千両箱であろうと、何の物も買うこと、これ、出来ん! 人を馬鹿にするのも、い、いい加減にせい!」

と怒鳴りつけた――と――

甲「そこじゃて。――よいかの。金銀を使わんと思うてはのう、金は持てぬものなのじゃ。」

と答えた。それを聴いた男は、ぽんと膝を打ち、

乙「そうか! 金を持っておったとしても、それを使(つこ)うてはならぬと言うなれば、金持ちなんどというものも、これ、羨ましゅうは、ない!」

と俄然、悟りを得た、ということである。

 ――――――

 最後にもう一つ。

 本所六間堀に金を貸して渡世致いておる者が御座った。

 元来は賤しい身分の出の男なれど、その持てる金銀を頼みに、お歴々の諸侯までもが、わざわざ家内でも位の高い家来を遣わして、その調達を依頼するという繁盛振りで御座った。

 さて、ある時、ある家士、僅か百金ばかりの借用をこの男に申し込んだところ、承知の趣きにつき、日限を約し、その取り決めた日になって、家士はこの男の屋敷を訪ねた。

 金子借り受けに参りしことを告ぐると、男は、

「承知致いた。」

と応じた。

 男はその身に麻上下を着すと、何やらん如何にも厳かに蔵の内へと入って御座った。

が、暫くして、手ぶらで出て参った。

「……せっかくのお出でなれども……今日はお引き取り下されい。明日のお越しをお待ち申し上ぐればこそ……。」

と言うので、家士は、

「……なるほど……では明日、また、参ろうかの。……しかし、その……再度、足を運ぶを厭うておる訳では御座らぬが……その、金銀の要り用に就きては……その、一時を争うて御座るものにても御座れば……その、何卒、今日借り受け致いたいのじゃがのぅ……」

と下手に出てまで頼み込んだが、いっかな、男はだめの一点張り。たかが百金のことなれば――と言うて、その百金も手元にない訳で御座るが――流石に家士は、

「如何なる故に不承知で御座る?」

と訊ねた。

 すると男は、

「――金の機嫌が宜しく御座らぬ。――『今日は嫌』――と仰せられて御座れば、蔵を出でんこと、これ、成り難きことにて御座る。――」

と返答した。

 かの家士も呆れかえって、そのまま何も言わずに帰って行った。

 偶々その場に居合わせて御座った男の知人が、好奇心から彼に訊ねた。

「……金が『嫌』なんどというはずは御座るまい。……本当(ほんと)の理由は何です?」

と、男曰く、

「――金銀は口なしと雖も――その金の持ち主たるところの、この我らが心が――どうしても『今日金を貸し出すのは嫌じゃ』と思うておるのじゃ!――その理由は我らも分からぬ――分からぬ――さればこそじゃ! これ、則ち、金が『嫌じゃ』だと思し召しになっておられる、ということなのじゃ!――」

と語ったとのことで御座った。

 こういう連中をこそ、誠(まっこと)、守銭翁と呼ぶべき者と言うてよかろう。

2010/09/10

感懐

今朝犬を散歩させ乍ら不圖考へた。左右云へば「こゝろ」に『世の中の何方を向いても面白さうでない先生』と云ふ台詞があつた事を。氣が附けば犬はすつかり元氣に私のずづと前を歩いてゐた。涼しい風が吹いてゐた。蟲の聲が聞こえた。遠くで寺の鐘が鳴つた。青年が一人神社で手を合はせてゐた。其時、私にはずつと昔の在りし日の先生の心持が何だか分かつたやうな氣がした。

耳嚢 巻之三 利を量りて損をなせし事

「耳嚢 巻之三」に「利を量りて損をなせし事」を収載した

 利を量りて損をなせし事

 予が大父の召仕れしもの、後御先手組の同心を勤め牛込榎町に有りしが、彼邊の同心などは植木など拵へ好める人には價ひを取て遣しける類多し。彼者或日庭前を見廻りしに、柾木(まさき)のいさ葉一本あり。珍しからざる柾木ながら、其此いさ葉の流行はじめなれば、早速石臺へ移し植て養ひ置しに、鬼子母神參詣の道ゆへ、十月の頃門前人多く通りし内、彼いさ葉の柾木を見て調度(ととのへたき)由にて價ひを談じけれ共、今少し高く賣んと取合ざりしに、流行(はやり)出しの事故や、代り/\日々立入て直段(ねだん)をつけけるに、初は百錢、夫より段々上りて金百疋程に付る者有。元來酒を好みけるゆへ、哀れ酒錢の助けと大に悦び、何分貳分にもあらずば賣るまじきと思ひしに、或日地震(なゐ)して雨戸打かへり、彼柾木を損じ鉢も打割し故、大に驚き植直しなどせるが、聊の事にも果福のなきは是非もなく、右柾木枯て失ぬと彼者來りて語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:盆栽絡みで、欲を出して玉を失う話でも直連関。これは当人からの直談であるから主人公の落胆振りが失礼ながら、面白く伝わってくる。現代語訳では最後にその雰囲気を出してみた。

・「大父」祖父。諸注は注せず。22歳で末期養子に行った形式上の養父根岸衛規の父であった根岸杢左衞門衞忠のことか、それとも旗本であった実父安生太左衛門定洪の養父(彼も安生家への養子)であった安生彦左衞門定之かは不明。

・「後御先手組」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

・「牛込榎町」現在の新宿区の北東部、神楽坂の西に位置し、榎町として名が残る。「新宿東ライオンズクラブ」の記事によると、『古くは牛込ヶ村のうち中里村の一部ではなかったかと言われる。正保3年(1646)済松寺領となったが約百年後の延享2年町方支配となり、そのころこの地に十抱えもある大榎があったので、明治2年付近の寺地開墾地を合せて牛込榎町と名づけられた。この榎の大樹はどの辺にあったか定かでないが神楽坂から戸塚に向う往古の鎌倉街道すじにあたり、旅人の目印になったことであろう』とある(一部の誤字を修正した)。

・「柾木」双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキEuonymus japonicus。生垣や庭木としてよく植えられる。

・「いさ葉」斑入りの葉。マサキには斑入りのものもある。江戸時代は妙なものが爆発的に飼育栽培の流行を作った。

・「石臺」長方形の浅い木箱の四隅に取っ手を附けたもので、盆景に使用したり、盆栽を植えたりする植木鉢の一種。

・「鬼子母神」東京都豊島区雑司ヶ谷にある威光山法明寺(ほうみょうじ)。飛地となった境内の鬼子母神堂で有名。ウィキの「法明寺」によれば、『1561年(永禄4年)に山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。1578年(天正6年)に現在の社殿を建立したという』とあり、鬼子母神公式サイトによると、本文に記された十月には、現在は16日から18日にかけて、御会式(おえしき)大祭という本寺の最も大事な行事が行われる。御会式とは『もともと日蓮聖人の忌日の法会で、法明寺では1013日に宗祖御会式を行ってい』る『が、これとは別に毎年1016日~18日に鬼子母神御会式を営み、江戸時代から伝わる年中行事としていまも地域全体の人々が待ちわびる大祭となってい』るとあり、『たくさんの人々が一緒になって供養のお練りをするその3日間は、静かな雑司ヶ谷の街一帯に、太鼓が響き渡り、参道は露店で大にぎわいとな』って、『18日は西武百貨店前を出発し、明治通りから目白通りを経て鬼子母神堂へ向い、最後に日蓮聖人を祀った法明寺の祖師堂(安国堂)へとお参り』するとある。『「威光山」の墨書も鮮やかな高張り堤灯を先頭に、500の桜花を25本の枝に結んだ枝垂れ桜様の万灯が何台も練り歩くその様は、幻想的な秋の風物詩として親しまれてい』るともあり、本作の描写されない背景にそうした風物を配してみると、味わいもまた増す。

・「調度(ととのへたき)」は底本のルビ。

・「百錢」一銭=一文を1020円に換算すると、10002000円。

・「百疋」は一貫文(謂いは1000文であるが実際には960文)で、凡そ現在の1万5千円から2万円程か。

・「貳分」4分で一両であるから、3~4万円。

■やぶちゃん現代語訳

 利を量り過ぎ却って損をすることとなった事

 私の祖父に召し使われて御座った者、後に御先手組の同心を勤め、牛込町に住んでおった。あの辺りに住む同心連中は、己が家の庭に植木なんどを養い、好事家に売り渡しては、小遣い稼ぎをする類いなんぞが多い。

 ある日、その男、己が庭先を見回って御座ると、柾木(まさき)のいさ葉になって御座る一本が眼に入った。枝振りもこれといって珍しくもない柾木ではあったが、丁度その頃、いさ葉が市中流行り始めの折りでもあったれば、早速、石台(せきだい)に移し替えて、手入れをして御座った。

 この男の家はこれまた、雑司ヶ谷の鬼子母神参詣の道筋に当たって御座ったがため、十月の御会式(おえしき)の頃には、門前の人通り繁く、そのうちにこの柾木を垣間見、買いたき由、値を言い掛けてくる者も現れた。が、

『――今少し待てば、益々上がりおろう――今少し、今少し高(たこ)う売りたい――』

と思うて、一向に取り合わずに過ぎた。

 これがまた流行り出した頃のことでもあり、いや、もう毎日毎日、入れ替わり立ち替わり客が来ては、値段を付ける――初めは百銭――それよりだんだんに上がって金百疋程に付ける者とて現れた。

 この男、これがまた、元来が酒好きで、

「――こりゃ! 願ってもない酒代の助けじゃ!――」

と大いに喜び、

『――こうなったら――何分、二分程にてもあらざれば、売らんぞ!――』

とほくそ笑んで御座った。――

――ところが――

 ある日、地震(ない)が起きた――

 その揺れでばりばりと雨戸が外れた――

 外れたかと思うたら、それがあの大事大事の柾木の枝に――打ちかかってぼきりと折れた――鉢もまた、ぱっくり割れた――

「……びっくらこいて……植え直しなど致しましたが……いや、もう……たかが柾木……されど柾木……聊かの木の……ちょいと雨戸が倒れただけの、こと……それにても……禍福は糾(あざな)える繩の如きものにて御座いますなぁ……是非も、ない……柾木は……枯れてしまいました……」

と、訪れたその男が私に語った。

2010/09/09

耳嚢 巻之三 樹木物によつて光曜ある事

「耳嚢 巻之三」に「樹木物によつて光曜ある事」を収載した。

 樹木物によつて光曜ある事

 本所御船藏(おふなぐら)の後に植木屋多くありし。或日老人壹人一兩僕召連て右樹木店を見歩行せしが、ひとつの古石臺(せきだい)に松の植有しを見て暫し立止り價ひなど聞しに、頻に懇望なる事を見請しゆへ殊の外高料(かうりれう)に答へぬれば、左ありては望なしといひて立去りぬ。又翌日彼老人來りて猶價ひを増して申請たきと好みしが、何分最初の直段(ねだん)にあらずしてはと彌々不賣(うらざる)氣色なしければ、猶亦暫く詠(なが)めて立歸りぬ。かゝる事一兩度ありければ、亭主能々右松を見しに、枝ぶりも面白からず、兼て高科(かうれう)にも賣べきとも思はざる品ゆへ手入も等閑(なほざり)也ければ、哀(あはれ)かの老人の日毎に來りて直増(ねまし)等なすは見る所こそあらめ、景樣(けいやう)をも直さんと石臺をも新らしく美麗に仕直しかの松を植替けるに、右松の根より一ツの蟇(ひき)出ける故、追失ひて跡の松を立派に植置、明日禪門來りなば我(わが)申(まうす)價ひよりも直増して調へ給はんと自讚なしけるに、翌日老人果して來りて、此程の松を見たきとて立入し故、案内して右松を見せけるに、老人大に驚き、いかなればかく植替しや、右松の根より出し物もあるべし、今日の有樣にては一錢にても此松好なしと言て歸りしと、其最寄の老人原某咄しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:生き物絡みの奇石奇木賞玩で直連関。

・「本所御船藏」浜町公園の向かい、隅田川東岸、現在の江東区新大橋1丁目附近にあった幕府の軍事船艇の保管庫のこと。この附近を別名安宅(あたけ)とも呼称したが、これはその船蔵に、昔、係留されていた大型木造艦の一種「安宅船」(あたけぶね)という軍船の船種名に由来する。明石太郎:珈琲氏のブログ「珈琲ブレイク」の「御船蔵跡 歴史散策 墨東 森下・清澄 (1)」によると、この種の軍艦は戦国時代から江戸時代前期にかけて建造されたものの一つで、『寛永9年(1632)以来、そうした当時の戦艦を係留する場所のひとつがこの地であった。安宅船は、当時としては最大限の工夫をこらして建造した大型戦艦ではあったが、龍骨がなく、構造的に弱さがあり、大きすぎて機動性に欠けて、実は役に立たない船であった。そういうこともあり、半世紀のちの天和2年(1682)ここに係留していた安宅船は解体されることになり、この地は御船蔵跡となった』とある。旧北条氏の所有に係り、伊豆にあったものを、幕府が接収して三崎を経由してここへ運ばれたものであるらしい。この安宅船は船長38間(約65m弱)の巨大戦艦であったが、上記引用にあるように、実に50年もの永きに亙ってここに無為につながれてお払い箱になったわけである。明石氏は最後に『江戸の主要な幹線水路である隅田川が、江戸時代の平和が続くことで、軍事拠点から経済拠点に変遷していった歴史の一部と理解することもできるのである』と印象的な言葉で締め括っておられる。

・「石臺」長方形の浅い木箱の四隅に取っ手を附けたもので、盆景に使用したり、盆栽を植えたりする植木鉢の一種。

・「直増(ねまし)」は底本のルビ。

・「禪門」先の老人。隠居し、法体(ほったい)して僧侶のような身なりをし、禿げていたか、実際に剃髪していたから、かく言うのであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 樹木が妖しき『モノ』によって却って不可思議なる光輝を持つことありという事

 本所御船蔵の裏手に植木屋が多くあった。

 ある日のこと、一人の老人が一人の従僕を召し連れてこの連なった植木屋を覗き歩きしておった。

 すると、ある古ぼけた石台(せきだい)に松の植えてあるのを見、暫し立ち止まった後、店主にその値いを訊ねた。

 店主は、その老人が、喉から手が出る程欲しがっておることがはっきりと見てとれたので、とんでもない高値をふっ掛けて答えた。すると老人は、

「……いや、それ程の値にては……とても、手が出ぬわ……」

と言って、如何にも残念な様子で立ち去ったのであった。

 ――ところが翌日のこと、またしても、かの老人が訪ねて参り、

「……そなたの言い値にては、とてものこと乍ら……一つ、昨日よりは払い申そうず値いも、いや増しては御座れば……一つ、売っては下さらぬか……の……」

と切に願って参った。ところが主人は、

「いや! 駄目、駄目! 最初に言うた値段でなけりゃ!」

と、けんもほろろ、いよいよ言い値ちょっきりでなくては売らぬ体(てい)で突っぱねる。

 すると――かの老人はやっぱり、かの松を暫く凝っと眺めて後、帰って行った。

 こうしたことが何度か続いた。

 そこでこの主人、しけじけこの松を眺め乍ら、考えた。

「……枝振りも面白うない……端(はな)っから高値で売れるシロモンとも思っちゃおらんかったから……手入れも等閑(なおざり)にしておったれば……まあ、何とみすぼらしいこと……じゃが!……ほんに!……あの爺(じじい)、日ごと来ては……次から次へと、金を積んで乞うて来る……ちゅうことはじゃ!――どこぞにこれは見所がある――ちゅうことじゃが!……いっちょ、景色を直いてみるかい!」

と思い立つったら、江戸っ子――即座に新しい美麗なる石台を用意し、懇ろに植え替えた。

――と、古い石台から松を抜いたところが、その根方の底より――きびの悪い、一匹の年経た蟇蛙が――のっそり――這い出てきた。――

早々に川っ縁(ぷち)へと追い払い、首尾よく立派に松を凛々しく植え替えて御座った――そうして、

「……明日(あした)、あの坊主が来たら……へっへ! 儂が最初に言うた値段よりも……自ずと値を重ねて……お買い上げ戴ける、っちゅうもんよ!……てへっへっへ!!」

と、新たな盆景を前に自画自賛しておった。

 翌日、果たしてあの老人がやって来ると、再び、

「……また、あの松を見とう御座って、の……」

と、いつもの聊か狂気染みた、あの垂涎の眼(まなこ)にて店に入って来た。

 主人は意気揚々と案内して、松を見せた――

 ――と――

「――!!!――」

老人は訳の分からぬ叫び声を挙げて驚いた。

 ――暫く呆然とした後、主人に亡霊の恨み言のように、

「……いかなれば……かくも……植え替えた……この松の……根より出できたる『モノ』が御座ったであろ……いいや、何を言うても……最早……終わりじゃ……今日の……この……こんなモンに……ビタ一銭たりとも……払、え、る、カ、イ!!!……」

と吐き捨てて帰った。――

 ――――――

……と、その近辺に住んで御座った老人の原某が、私に語ったことで御座る。

2010/09/08

耳嚢 巻之三 玉石の事

「耳嚢 巻之三」に「玉石の事」を収載した。

昨日は、母の病院に行くエネルギも失われ、疲労困憊(これは決して「こんぱい」という生易しいものではなく「こんばい」である)してアップ出来なかった。

 玉石の事

 いつの頃にやありし。長崎の町屋の石ずへになしたる石より不斷水氣潤ひ出しを唐人見て、右石を貰ひ度由申ければ、仔細有石ならんと其主人是を惜み、右石ずへをとりかへて取入て見しに、とこしなへにうるほひ水の出けるにぞ、是は果して石中に玉こそありなんと色々評議して、うちより連々に研(みがき)とりけるに、誤つて打わりぬ。其石中より水流れ出て小魚出けるが、忽(たちまち)死しければ取捨て濟しぬ。其事、跡にて彼唐人聞て泪を流して是を惜みける故くわしく尋ければ、右は玉中に蟄せしものありて、右玉の損ぜざる樣に靜に磨上げぬれば千金の器物也。悼むべし/\といひしと也。世に蟄龍などいへるたぐひもかゝる物なるべしと、彼地へ至りし者語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:前項の後半の聡明なる少年は、その玉なるを持ち乍ら、盗み癖がために勘当の憂き目に逢い、その玉を磨き得ずに終えてしまった苦味があった。ここでは玉石を磨こうとしてうっかり取り落としてその玉なるものを永遠に取り逃がした――どことは言わぬものの、思い通りにならぬ点でも、妙に連関する印象があるから、不思議。この話は本草学者で奇石収集家であった木内石亭(享保91725)年~文化51808)年)が発刊した奇石書「雲根志」(安永2(1773)年前編・安永8(1779)年後編・享和1(1801)年三編を刊行)の中の「後編卷之二」にある「生魚石 九」に所収する話と類話である(こちらは首尾よくオランダ人がその石を入手しているが)。以下に引用する。底本は昭和541929)年現代思潮社復刻になる「日本古典全集」の「雲根志」による。挿絵も同エピソードを採っているので、採録しておいた。

     生魚石(せいぎよいし) 九

近江大津の町家(まちや)のとり葺(ぶき)屋根に置たる石へ時々鴉(からす)の來りて啄(ついば)む一石ありよつて心をとゝめて是を見るに外(ほか)の石はつゝかず只一石のみ數日(すじつ)同しあまりふしきに思ひ其家の主人にことわりて是をおろし見るに常の石に異なる事なしもとよりの何の臭(か)もなきゆへ捨置ければ鴉又來て其石を啄むいよ/\ふしぎにおもひうち破(わり)見れば石中空虚にして水五合許を貯(たくはふ)其中より三寸許の年魚(あゆ)飛出て死たり又洛の津島(つしま)先生物語に寛永の比東國に或山寺を建るに大石あり造作の妨(さまたげ)なりとて石工數人してこれを谷へ切落せり其石中空虚にして水出る事二三斛(こく)石工等大におとろき怪しむ内より三尺許なる魚躍出て谷川へ飛入失(うせ)ぬと今其石半(なかば)は堂の後半(うしろ)は下なる谷川に有石中の空虚に三人を入ると又肥前國長崎(ながさき)或富家(ふか)の石垣に積込し石を阿蘭陀人(をらんだじん)高價(かうか)に求めん事を乞ふ主人後の造作をうれへあたへす望む事しきりにやまずよつて是非なくこれをあたふ其用をきくに蠻人(ばんじん)云是生魚石(せいぎよせき)なり此右の廻(まは)りを磨(すり)おろし外より魚の透(すき)見ゆるやうにして高貴の翫(くはん)に備ふ最も至寶(しはう)なりと又伊勢國一志(いつし)郡井堰(ゐせき)村に石工(いしく)多し或石工石中に水を貯へ石龜(せきがう)を得たり大さ六寸許尋常(よのつね)の石龜にかはらず側(かたはら)の淸水に養ひたりしに數日を經て死す享保

の末年遠江國濱松(はままつ)の農家に一石あり常に藁を打盤(ばん)に用ゆ自然にすれて石面光彩を生ず内に泥鰌(どぢやう)のごとき物運動(うんどう)するを見て主人しらず猶藁を打とて遂に其石を破(わり)たり所(ところ)のもの怪異の事におもひて其家に祠(やしろ)を立てかの破石を祭ると是同國本多(ほんだ)某語らる又或候家(こうか)の祕藏に鶏卵のかたちに似て稍大きなる玉の内に水を貯へ魚すめり其魚の首尾右の玉に礙(さはり)て動く事あたはず是琉球國(りうきうこく)より献ずるよし加賀國普賢(ふげん)院の物語也すべて此類の事只言(いひ)傳ふるのみにていまだ其實を見ず雲林石譜(うんりんせきふ)にも生魚石の事出たりおもふに同日の談なるへし

Seigyoisi

「とり葺屋根」とは取り葺き屋根のことで、薄く削いだ板を並べて丸太や石を押さえとした粗末な屋根を言う。「同し」「ふしき」「おとろき」「あたへす」「翫(くはん)」「談なるへし」等の清音表記はママである。「雲林石譜」は「雲根志」が習った南宋紹興三年(1133年)の序が附く宋代の杜綰(とわん)の筆になる奇石譜。

――この話、そう言えば、つげ義春の石を売る「無能の人」の話の中にも出て来ていた。

・「研(みがき)」は底本のルビ。

・「蟄龍」地に潜んでいる龍の意で、龍の種ではない(龍の種については私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を参照)。一般には、活躍する機会を得ずに、世に隠れている英雄を喩える語として知られる。

■やぶちゃん現代語訳

 玉石の事

 いつの頃の話であったか、長崎の町家の礎石にしていたある一つの石から、絶えず水が沁み出していた。

 それを見た唐人が、この石を貰い受けたい由申したので、その家の主は、何やらん、きっといわく付きの石ででもあるのであろうとて、これを惜しんで、売らずにおいた。

 そうして、敷石からその石を取り外すと、家内の置いてよく観察してみると、これが不思議なことにたいして大きくもないその石から――石そのものから、とめどなく水が湧き、沁み出てくるではないか。――

「……これは果たして、石の中に、高価にして霊的な玉が嵌まっておるのであろう――」

なんどと、知れる者どものと勝手に評議致いておるうちに――皆、その玉に目が眩み、ともかくもと、寄ってたかってその石を磨いて御座ったところが――誤って石を打ち割ってしもうた。――

 ――その石の中から――ちょろちょろっと水が流れ出かと思うと――小さな魚が出て来た――が――忽ち死んでしまったので、つまんで捨ててしまった。……

 その後(のち)、このことを聞いた、かの唐人は涙を流して惜しんだという。

 ある者がその訳を訊ねたところが、

「……あれハ……あの玉の中にハ……凝っと潜んでイタ『もの』が在ったノダ!……あの玉を壊さぬようニ……静かニ静かニ磨き上げたナラ……あれハ千金の値にもナロウという宝器であったノダ!……惜シイ! 全く以ッテ、惜シイ!……」

と嘆いたという。

「……世に『蟄龍』などと申すものも、このような類いのものなので御座いましょう。……」

と、かの長崎へ旅した者が、私に語った話である。

2010/09/06

耳嚢 巻之三 生れ得て惡業なす者の事

「耳嚢 巻之三」に「生れ得て惡業なす者の事」を収載した。

 生れ得て惡業なす者の事

 神田邊に裏借屋の者有しが、彼悴十歳計(ばかり)の此(ころ)遊びに出て歸りけるが、流しの下の地を掘り何か埋る躰(てい)也。母是を見ていか成品やとひそかに見しに錢也。其後亦々埋る躰故見たりしに、錢百文計を埋置ぬ。これに依て捕候て嚴敷(きびしく)折檻なしけるより、小兒の事なれば其手意(しゆい)もわからず、重(かさね)てかゝる事あらば其通りならずと、或は怒り或は悲しみて是を制しぬれば、暫くは止(やみた)る樣なれど亦々右やうの事あり。十四五歳に成ては彌々つのりて詮方なく追出しぬれば、晝盜(すり)の仲間入して果は御仕置に成しと也。孟子の性善の論、誠に名教と思ひ居しに、予がしれる人の子に、聰明にして手蹟は關思恭(せきしきやう)が門に入て同門に異童の名をあげ、書を讀むに一を聞て二を悟る程にありしが、盜みの癖有りて壯年に及び兩親も捨置がたく、一子を勘當なしけるをまのあたり覺へたり。其の氣質のうけたる所多くの人間の内には又ある事にや。

□やぶちゃん注

○前項連関:犯罪者絡みで連関。先行する身を持ち崩す若者のケース・スタディの一つでもある。特に後半の一件は根岸の直接体験過去として苦く記されている点、印象的である。

・「手意」底本では右に『(趣意)』と注する。

・「關思恭」関思恭(せきしきょう 元禄101697)年~明和2(1766)年)は書家。以下、ウィキの「関思恭」より引用する。『字を子肅、鳳岡と号し他に墨指生と称した。通称は源内。本姓は伊藤氏。水戸の人』。『先祖は武田信玄の家臣とされ、曽祖父の伊藤友玄の代になって水戸藩に仕え祖父の友近もやはり水戸藩に仕官。しかし父の伊藤祐宗(号は道祐)は生涯仕官していない。思恭はこの父と母(戸張氏)の第四子として水戸に生まれ故あって関氏を名乗る。幼少から筆や硯を遊具の代わりとするほど書を好んだ。16歳のとき江戸に出て、細井広沢にその才能を見いだされ入門。その筆法は極めて優れ、たちまち広沢門下の第一となった。広沢が思恭に代書させるに及んでその評判は高まった。因みに浅草待乳山の歓喜天の堂に掲げられる『金龍山』の扁額は広沢の落款印があるものの思恭が代筆したものである』。『経学を太宰春台に就いて学び、詩文は天門から受けた。また射術に優れた。27歳で文学を以て土浦藩に仕え禄を得た。広沢没後、三井親和と並称されその評判はますます高まり門弟およそ5千人を擁したという。40歳で妻帯し3女をもうける。60歳頃より神経痛を患い歩行が困難となり家族に介護されるもその運筆は衰えなかった。享年69。江戸小石川称名寺に葬られる。門人に関口忠貞がいる。娘婿の其寧が跡を継ぎ、孫の克明、曾孫の思亮、いずれも書家として名声を得た』。『宋の婁機『漢隷字源』を開版している』。

■やぶちゃん現代語訳

 生まれ乍ら悪行を為すことを定められし者の事

 神田辺の裏通りの貸家に住んでおる者があった。

 彼の倅(せがれ)が、未だ十歳ばかりの頃、遊びに出て帰って来たところ、厨の流しの下の地面を掘って、何やらん、埋めている様子。母親がこれを見、一体、何を埋めているのだろうとそっと覗いてみると――銭である。

 その後も度々埋めている様子であったので、ある時、掘り返してみたところが――銭百文ほども埋めてある。

 このことから父母、倅を捕まえ、厳しく折檻致いたのじゃが、何せ子供のことなれば、叱られている理由(わけ)が、そもそも、よく分からぬ。

「……ともかくも、じゃ! またこんなことがあったら、の! こんなこっちゃ、済まんから、の!……」

と或いは怒り、或いは情けなさに泣きながら、向後かくなること厳しく禁ずる旨、言い含めおくと、暫くの間は止んでいる……が……また暫くすると、また同じことを繰り返し、父母も同じように折檻する……という繰り返し……

 ……結局、十四、五歳のいっぱしの大きさになって仕舞えば、いよいよ言うことも聞かず手に負えなくなって、詮方なく家から追い出したところが……瞬く内に掏摸の仲間入り、罪を重ね重ねて……果ては捕縛され、処刑されたとのことである。……

 ――私はかねてより、孟子の性善説について、これは誠に優れた教えである、と思って御座ったのじゃが――

 ……私の知人の子に、誠(まっこと)、聡明にして、その手跡なんどはかの名筆関思恭(せきしりょう)の五千人の門人の中にあっても、なお一人『異童』の名を恣(ほしいまま)にし、書を読めば、一を聞いて二を悟るほどの神童で御座った……が……この者……盗みの癖があって……その悪癖、いっかな、壮年に成りても、これ、治らぬ……流石に両親もその悪習、視て見ぬ振りをしている訳にも参らず……遂には……その一子、勘当せざるを得なくなった。私は、その、実際に縁を切る、その場に目の当たりに居合わせて御座ったのだ……。

 ――さても――そうした、生来、盗みの気質を持ったる者も――多くの人間の中(うち)には、また、これ、あるものなのであろうか……。

2010/09/05

シリエトク日記写真版

サイド・バーに「シリエトク日記」写真版を公開した(概ねブログの「シリエトク日記」中で公開したもの。撮影は「ウトロのゴジラ」一枚を除き、総て妻の手になる。僕はデジタルになってから写欲を全く失ってしまった)。夏の思い出に。

鏡花夢

9月1日早朝の夢――

僕は佐渡の深い湾に面した料亭にいる――

僕はこれから泉鏡花先生を前にして芥川龍之介の「奉教人の死」を朗読することになっている――

うまくやれるかなあと思う――

どきどきしている――

先生はなかなか来ない――

……入り江は青黒く重たく横たわって……どうも台風が、来るようだ……

最近の僕は、実は、芥川龍之介の「奉教人の死」の朗読がしたくてしたくて堪らないのだ。文楽の太夫のようにやるのだ。昨年、数人の三年生に初めて試みたのだが、僕としては相応に満足の行く出来であったと思っている。佐渡は「耳嚢」に頻繁に現れる佐渡逸話の影響だな。鏡花は恐らく、その日の昼に、職場に置いてある「太陽」の鏡花特集の表紙写真の記憶であろう。それにしても、鏡花は芥川の「奉教人の死」をどう思っていたのかなあ。きっと、鏡花は好きだったんだんじゃないかなー、って漠然と思うのだ。

耳嚢 巻之三 御門主明德の事

「耳嚢 巻之三」に「御門主明德の事」を収載した。

 御門主明德の事

 いづれの御門主の御時にてや有けん。去る諸侯の家士不屆の事ありて死刑に極り、近き内に下屋敷にて其刑に行れんとありし時、彼罪人の親しかりしもの壹人の出家を賴み乘物供廻り等を拵へ、彼諸侯の許へ上野御使僧の由を以相越、助命御賴の由申入けるにぞ、早速大守(たいしゆ)へ申けるに、家法を侵す事其罪免しがたけれど、御門主御賴も無據とて助命して追拂ひに成りける。扨彼諸侯より使者を以、上野御本坊へ答禮ありしかば、元より御使僧出ざる事故、重(おもき)役人へ告たれども曾て知りし者なし。全く東叡山の使僧と僞り御門主の命を假しものならんと、其訳申上ければ、御門主被仰けるは、たとひ此方より使者を出さず共、上野の命といへば助(たすか)る事としりて、僞りかたり人の命を助しは則(すなはち)上野より助(たすけ)遣はせし也。御賴の趣承知にて悦入(よろこびいる)との挨拶なすべしとの仰せにて、其通り答へ濟しと也。法中の御身にはかくも有べき事と、親王の明德を各々感じけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:寛永寺御門主絡みであるが、内容は前項の裏返しで、しかも結末は同じく大団円という裏技のエピソード。組み噺しとして面白い。

・「御門主」上野東叡山寛永寺貫主。江戸の知識階級の間では東叡大王(とうえいだいおう:東叡山寛永寺におられる法親王殿下)と通称した。

・「壹人の出家」底本の鈴木氏注には前項に続いて三村鳶魚の注を引き、この人物を『世に伝ふる河内山宗俊の事なり』とする見解を提示する。河内山宗俊(生年不詳~文政61823)年)は江戸時代後期の茶坊主。以下、ウィキの「河内山宗春」から引用しておく。河内山宗春はこの実在の人物『およびそれをモデルとした講談・歌舞伎などの創作上の人物。歌舞伎・映画・テレビドラマなどの創作物では「河内山宗俊」と表記する。また「河内山宗心」とも』言う。『宗春は江戸出身で、家斉治世下の江戸城西の丸に出仕した表坊主であった。表坊主とは若年寄支配下に属した同朋衆の一つ。将軍・大名などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる。文化5年(1808年)から6年ごろ小普請入りとなり、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、その親分格と目されるようになったという。やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請り取るようになった。巷説では水戸藩が財政難から江戸で行っていた富くじの経営に関する不正をつかみ、同藩を強請ったことが発覚し、捕らえられたというが、正式な記録はない。文政6年(1823年)捕縛された後、牢内で獄死』した。この死後、一種のピカレスク・ロマンとしての脚色が始まった(以下、記号の一部を変更し、脱字を補った)。『河内山は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)も残っておらず、具体的にどのような不正を犯して捕らえられたのかは分からない。しかしそのことがかえって爛熟した化政文化を謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという義賊的な側面が、本人の死後に増幅していくこととなった。実録としては「河内山実伝」があり、明治初年には二代目松林伯圓が講談「天保六花撰」(てんぽうろっかせん)としてこれをまとめた。ここでは宗俊は表坊主ではなく、御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う軽輩)となっており、松江藩(松平家)への乗り込みと騙りが目玉になっている。さらに明治7年(1874年)には二代目河竹新七(黙阿弥)がこれをさらに脚色した歌舞伎の「雲上野三衣策前」(くものうえのさんえの さくまえ)が初演。さらに明治14年(1881年)3月にはやはり黙阿弥によってこれが「天衣紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)に改作されて、東京新富座で初演。ここで九代目市川團十郎がつとめた型が現在に伝わっている』とある。岩波版長谷川氏注では、この河内山の絡んだ水戸藩富籤不正事件から、『本章のような話が宗春に結び付けられたのであろう』と記されるが、その昔の勝新太郎のTVドラマで河内山宗俊が千両役者ばりの詐欺師の一面を持っていたことぐらいは、知っているが、私が馬鹿なのか、この説明、不十分に感じられ、どうしてそう言えるのかがよく分からない。なお、長谷川氏は更に『鈴木氏に薊小僧清吉にこのような犯行のあったことの指摘あり。同人処刑は文化二年(一八〇五)。』と記されている。薊小僧清吉とは鼠小僧次郎吉と並ぶ江戸で人気の儀賊。「すり抜けの清吉」の異名をとった神出鬼没の盗賊であったが、小塚原刑場で打ち首獄門となった。後の歌舞伎の白浪物や落語の鬼薊清吉のモデルである。

・「大守」古くは武家政権以降の幕府高官や領主を指すが、既に「諸候」とし、江戸時代には通常の国持ち大名全般をこう俗称したので、これは大名と読み替えてよい。

・「上野御本坊」寛永寺。

■やぶちゃん現代語訳

 御門主御明徳の事

 どの御門主の御代のことで御座ったか、さる大名諸侯の家士、不行き届きの儀、これ有り、吟味の上、死刑と相極まって、近い内にかの大名の江戸下屋敷にてその刑が執行されんとせし時、かの罪人と親しい者が、一人の出家に頼み込んで、乗物・供回りなんどを相応に拵え上げた上、かの諸侯のもとへ、

「――上野寛永寺御使僧(ごしそう)なり――」

と名乗って乗り付けると、厳かにかの家士の助命御依頼の向き申し入れたので、家人ども、慌てふためいて主人へ申し上ぐる。されば、御大名も、

「……家法を侵したるその罪、これ、許し難し……なれど……御門主の御頼みとなれば……致し方、御座らぬ……」

とのお達しにて、かの家士の命をお助けになられ、一等減じて、追放と相成った。

 ……ところが……

 さても後日、かの諸侯より上野寛永寺へ御使者を立てて、

「――御依頼の向き、有難くお受け致し、かの某なる者、死一等減じて追放と致せし――」旨、答礼致いたところ……

これを聞き及んだ役僧、もとより御使僧なんど出した覚えも、これ、御座ない――

この役僧、直ちに上役の僧侶に報告致いたところが……

さて、彼らも、かつて近頃、御使僧を遣わしたることなんどを知る者、これ、一人として御座ない――

「……全く以って東叡山の使僧と偽り、不届き千万不遜不敬にも御門主様御名を借り、たばかりし者に相違なし!……」

と、この由々しき一件につき、早速に御門主様に申し上げた。

 ところが、御門主様曰く、

「――仮令(たとい)こちらより御使者を出ださずとも――『上野の御命令』と言えば助かること知って、偽り騙(かた)り、人の命を救ったは――それでも、これ、則ち――『上野より助け遣わした』――ということで、おじゃる――『御依頼の趣御承知下されしこと、恐悦至極に存ずる』と挨拶しておじゃれ――」

との仰せにて、役僧は厳かに、その通りに答えて済ましたという。

 流石は法身の御門主なればこそ、かく御美事なる御言葉なれ、と親王の明徳に誰も深(ふこ)う感じ入ったということで、おじゃる――。

2010/09/04

……小学校4年生の夏休みの自由研究……今から出そう……



Bokunokai

ぼくは今年(今年というのは一九六六年で昭和の41年でした)の春の日よう日に、いつもいそがしいお父さんがお休みを取ったので、じょうが島に行きました。お母さんは一しょじゃなかったから少しさびしかったけど、雨がちょっと降りましたが、カッパを着て釣りした。大きいカニが岩のところにいて、水めんまではエサを食べて上がってきましたが、あげようとするとぽしゃんと水に落ちてしまいました。何どもやりましたが、とれませんでした。でも、たのしかったです。かえりにお店でお父さんがお母さんにサザエのくし焼きをおみやげに買いました。ぼくはお父さんが大すきな貝のひょう本を買ってくれました。そのときにぼくは夏休みの自由けんきゅうは、これにしようと思いつきました。だけど、けっ局、紙で作った箱の水ぞくかんをてい出しました。今は二千十年の夏休みが終わったときですが、あれからもう四十四年もたってしまったので、ぼくは今日、ぼくのかまくら市立玉なわ小学校の4年生の夏休みの自由けんきゅうを、その時にできなかったことをしようと今気づきいたのです。貝のひょう本は四四年もたったのでボロボロになってしまい、ぼくのへやの、みな方熊ぐすという先生と、やなぎ田(「た」と読むんだと大学生のときにおしえてもらった)くに男という先生の、いっぱいの本の間に立てかけてあすのです。ずっとここにかざつてあった。それには丁ねいに名前がついているのです。だからそれを調べて見ることにしました。その時のひょう本の写しんは上にかざったけど名前が見えないのもあるけど、左の上から右、次ぎにその下の左はじっこから右に、順ばんに並べて下に書いておきました。その中みは、ひょう本の名前のあとには日本の昔の人がつけた名前を昔の字で書いて見ました。不思ぎな感じがする名前がいっぱいありました。次ぎに生物の分るいというのを書きました。そうしたら貝じゃないのがいました。カメの手というのだそうです。ぼくはずうとせんから本とうにカメの手だと思っていたから気もちがわるいからさわらないようにしていたのでぼくは大へんびっくりした。そうしてぼくはさい後に学名をちゃんと発見した人の名前も入れて書いた。これは思ったより大へんだった。だってシノニムというらしいんだけど、ちがった名前があったり、発見した人のアルファベットのつづりがちがってたり、発見した年が書いてなかったたり……ちょっと時間がかかったけどかん成した。これがぼくのことしの夏休みの自由けんきゅうでした。そしてこの日記を書いているのです。終わり。(やぶ野直史)

ベンケイガイ(辨慶貝) 二枚貝綱翼形亜綱フネガイ目オオシラスナガイ超科タマキガイ科タマキガイ属 

Glycymeris albolineata (Lischke, 1872)

 

ベッコウガサ(ベッコウザラ/鼈甲笠・鼈甲皿) 腹足綱前鰓亜綱カサガイ目ヨメガカサガイ超科ヨメガカサガイ科ヨメガカサ属 

Cellana grata (Gould, 1859)

 

マツムシ(松蟲) 腹足綱前鰓亜綱新腹足目アクキガイ超科フトコロガイ科 Pyrene  

Pyrene testudinaria tylerae (Griffith et Pigeon, 1834)

 

ヤマトシジミ(大和蜆) 二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ目シジミ科シジミ属

Corbicula japonica (Prime, 1864)

 

カメノテ(龜ノ手) 甲殻上綱顎脚フジツボ亜綱完胸目ミョウガガイ科カメノテ属

Pollicipes mitella (Linnaeus, 1767)

 

マツバガイ(松葉貝) 腹足綱始祖腹足亜綱笠形腹足上目カサガイ目ヨメガカサ上科ヨメガカサ科ヨメガカサ属

Cellana nigrolineata (Reeve, 1854)

 

クロズケガイ(黑漬貝) 腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科ニシキウズガイ科ニシキウズ亜科イシダタミ属

Monodonta neritoides (Philippi, 1849)

 

チリボタン(散牡丹) 二枚貝綱翼形亜綱ウグイスガイ目イタヤガイ超科ウミギクガイ科チリボタン属 

Spondylus cruentus (Lischke, 1868)

 

イソニナ(磯蜷) 腹足綱前鰓亜綱新腹足目アクキガイ超科エゾバイ科ベッコウバイ亜科 Japeuthria 

Japeuthria ferrea (Reeve, 1847)

 

ナミマガシワ(波間柏) 二枚貝綱翼形亜綱カキ目ナミマガシワ科ナミマガシワ属

Anomia chinensis (Philippi, 1849)

 

イシダタミ(イシダタミガイ)(石疊・石疊貝) 腹足綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科 Monodonta 属オキナワイシダタミ Monodonta labio 変種

Monodonta labio form confusa (Tapparone-Canefri, 1874)

 

ウミニナ(海蜷) 腹足綱吸腔目カニモリガイ上科ウミニナ科ウミニナ属

Batillaria multiformis (Lischke, 1869)

 

ハナエガイ(花江貝) 二枚貝綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ超科フネガイ科エガイ属

Barbatia stearnsii (Pilsbry, 1895)

 

ハナマルユキ(花丸雪) 腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目(旧盤足目)タカラガイ科コモンダカラ属

Erosaria caputserpentis caputserpentis (Linnaeus, 1758)

 

スズメガイ(雀貝) 腹足綱前鰓亜綱盤足目シロネズミガイ超科スズメガイ科スズメガイ属

Pilosabia trigona (Gmelin, 1791)

 

アマオブネ(蜑小舟)  腹足綱直腹足亜綱アマオブネガイ上目アマオブネガイ目アマオブネガイ科 Nerita  Theliostyla 亜属

Nerita(Theliostyla) albicilla (Linnaeus, 1758)

 

メダカラガイ(目寶貝) 腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目(旧盤足目)タカラガイ科

Purpuradusta gracilis japonica (Schilder, 1931)

 

バカガイ(馬鹿貝) 二枚貝綱異歯亜綱バカガイ上科バカガイ科バカガイ属

Mactra chinensis (Philippi, 1846)

 

アサリ(淺蜊・鯏) 二枚貝綱マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属

Ruditapes philippinarum (A.Adams & Reeve, 1850)

 

クジャクガイ(孔雀貝) 二枚貝綱翼形亜綱イガイ目イガイ超科イガイ科 Septifer Septifer 亜属

Septifer bilocularis (Linnaeus, 1758)

 

ダンベイキサゴ(團平喜佐古) 腹足綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科サラサキサゴ属

Umbonium giganteum (Lesson, 1831)

 

サヤガタイモ(鞘形芋) 腹足綱新腹足目イモガイ科イモガイ亜科イモガイ属

Conus (Virroconus) fulgetrum (Sowerby I in Sowerby II, 1834)

 

アオガイ(靑貝) 腹足綱前鰓亜綱カサガイ目ツタノハガイ超科ユキノカサガイ科

Nipponacmea schrenckii (Lischke, 1868)

 

カリガネハエガイ(雁江貝) 二枚貝綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ超科フネガイ科エガイ属 

Barbatia virescens (Reeve, 1844)

 

アワブネ(クルスガイ)(泡舟・傴僂貝) 腹足綱前鰓亜綱盤足目カリバガサガイ超科カリバガサガイ科 Bostrycapulus  

Bostrycapulus grasvispinosus (Kuroda & Habe, 1950)

 

クマノコ(クマノコガイ)(熊ノ子・熊ノ子貝) 腹足綱 古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科クボガイ亜科クボガイ属

Chlorostoma xanthostigma (A. Adams, 1853)

 

ナデシコガイ(撫子貝) 二枚貝綱翼形亜綱ウグイスガイ目イタヤガイ超科イタヤガイ科 Chlamys  Chlamys 亜属

Chlamys irregularis (Sowerby, 1842)

 

イボニシ(疣螺・疣辛螺) 腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属

Thais clavigera (Küster, 1858)

 

ヒバリガイ(雲雀貝) 二枚貝綱翼形亜綱イガイ目イガイ超科イガイ科ヒバリガイ属

Modiolus nipponicus (Oyama, 1950)

 

キサゴ(喜佐古) 腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科ニシキウズガイ科サラサキサゴ亜科キサゴ属

Umbonium costatum (Kiener, 1838)

 

ヨメガカサ(嫁ヶ笠) 腹足綱始祖腹足亜綱笠形腹足上目カサガイ目ヨメガカサ上科ヨメガカサ(ツタノハガイ)科ヨメガカサ属

Cellana toreuma (Reeve, 1854)

 

ワスレガイ(忘貝) 二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科ワスレガイ亜科ワスレガイ属

Sunetta menstrualis(Menke, 1843)

 

アマガイ(蜑貝) 腹足綱直腹足亜綱アマオブネガイ上目アマオブネガイ目アマオブネガイ科 Nerita Heminerita 亜属

Nerita(Heminerita) japonica (Dunker, 1860)

 

ヒナガイ(雛貝) 二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科ヒナガイ属 

Dosinia bilunulata (Gray, 1838)

 

ウノアシ(鵜ノ脚) 腹足綱前鰓亜綱カサガイ目ツタノハガイ超科ユキノカサガイ科ウノアシ属ウノアシ亜属

Patelloida saccharina lanx (Reeve, 1855)

 

タマキガイ(環貝・玉置貝・手纏貝) 二枚貝綱翼形亜綱フネガイ目タマキガイ科タマキガイ属

 

Glycymeris vestita (Dunker, 1877)

これは僕のお宝だ――

父はその頃、友人と始めたデザイン会社(「フォルム社」という名前だけはカッコいいちっちゃな広告代理店みたようなもの)の仕事で忙しかった。大手代理店に押されて経営はうまく行かず、家には金もなかった。そんなある日曜日の、久しぶりの父との外出だった。

城ヶ島は文字通り雨だった。――今でもあの時の蟹が餌を放す瞬間の感触が、指に伝わってくる――海面に落ちる音も、その大きな甲羅の模様も、今以って鮮やかに見える――

昭和41(1966)年の城ヶ島の土産物屋の貝標本は……今見ても手作りの、ほのぼのとした暖かさがじんわりと伝わってくる……カメノテはご愛嬌だね……

それを少しだけ……みなさんにもお伝えしたかったのである……

僕の夏の終わりに――
 
 

耳嚢 巻之三 上野淸水の觀音額の事

「耳嚢 巻之三」に「上野淸水の觀音額の事」を収載した。

 上野淸水の觀音額の事

 上野清水(きよみづ)の觀音に、主馬(しゆめ)の判官(はうぐわん)盛久と見へて、大刀取(たちとり)の刀段々壞(だんだんゑ)と成りし繪馬あり。盛久の繪馬ならんと人々のいゝしに、堂守成僧かたりけるは、右繪馬を盛久と見給ふはさる事ながら、盛久にはあらず、あの繪馬に付物語りあり。去る大名の勝手方を勤ぬる武士、其役儀に付私欲の事にてもありしや、吟味に成て死刑に極る事也しに、彼妻深く歎き、日々清水の觀音へ詣ふで堂の廻りを百遍宛(づつ)廻りて一心不亂に祈りしに、髮形(かた)チ取亂し面(おも)テも垢によごれ其姿もやつれ果て、雨雪もいとわず日々歎きて祈けるを、或日御門主右の清水堂に詣ふで給ひて彼女の樣を見給ひ、いか成願ひなるやと人を以尋給ひしに、しか/\の由申けるにぞ、哀れに不便とおもひ給ひしや、御使僧(ごしそう)を以(もつて)彼(かの)諸侯のもとへ被仰遣(おほせやられ)けるは、何某事罪のやうは御存にあらず、極惡の事にもあらずば命を助け給へと御賴也けるにぞ、諸侯にても御門主の御賴無據、命を助け追拂ひに成しと也。其後かの妻ひとへに觀音の利益也と、其樣を繪馬として納たる也と語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:観音現世利益で直連関。しかし、根岸は必ずしも観音菩薩の利益を信じているという訳ではない気がする。

・「上野清水の觀音」現在も不忍池を見下ろす東の位置に建つ清水観音堂。法華堂や常行堂に遅れること4年、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山慈眼大師天海大僧正によって創建された。天海は平安京に於いて比叡山が御所の鬼門を鎮護したのに倣って、東叡山寛永寺を江戸城の鬼門の守りとして置いた上で、京都の著名な寺院に擬えた堂舎を次々と建立した中の一つが、この清水寺を模した清水観音堂であった。

・「主馬の判官盛久」以下、ここに登場する絵馬が、参詣した人々から、しばしば謡曲「盛久」等で知られる話を絵馬にしたものであろうと思われがちなのであるが、実はそうではない、という語りであるが、とりあえず謡曲「盛久」で知られる原話を注しておく。「盛久」とは平主馬(しゅめ)判官盛久(生没年未詳)のこと。平安末・鎌倉初期の武将で、平盛国の子、通称は主馬八郎。元暦2(1185)年壇ノ浦の戦いで平家が敗れた後、京都で捕らえられて鎌倉へ護送、由比ヶ浜にて斬罪に処せられんとしたところ、日頃より信心していた清水観音の加護で救われたと伝えられる。謡曲「盛久」については私は未見にて語り得ないので、高橋春雄氏の「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」の「盛久1 もりひさ」の「ストーリー」より引用する。『源平の乱後、主馬判官盛久は生け捕りにされ、土屋何某の手で鎌倉へ護送されることになります。途中、盛久は年来信仰した清水観音に暇詣でをすると、都を後に悲哀に満ちた海道下りの旅を続け、鎌倉に着きます』。『盛久は獄中で世の無常を思い、生き恥を晒すことよりも死を望みます。盛久に同情する土屋がこの暁か明夜に処刑だと知らせると盛久は観音経をこれが最後と讀誦います。やがて一睡の中に、老僧が盛久の身代わりになるとの夢の告げを被ります。明け方、盛久は金泥の経巻と数珠を持ち由比ヶ浜の刑場に引き出されます。太刀取が背後に回り刀を振りかざした途端、開いた経文の光が眼を射て、思わず落とした刀が二つに折れてしまいます』。『盛久はこの霊夢による奇跡のために頼朝から罪を許され、杯を賜り、所望された舞を晴れ晴れと舞い上げて退出して行きます。(「宝生の能」平11.2月号より)』とある。岩波版長谷川氏注によると、この伝説の原拠は長門本「平家物語」に基づくものという。近松門左衛門の浄瑠璃にも「主馬判官盛久」があり、この話、当時の人々にはよく知られた話であった。また、リンク先のストーリー解説の下には、写真入りで正にこの上野清水観音堂が掲げられ、ここ『の千手観音像は盛久の護持仏であったという』という記載がある。但し、ここで言う盛久の清水観音とは、本来は京都清水寺にあったものを指していると考えないと盛久の種々の伝承とは辻褄が合わない。底本の鈴木氏注には、この清水堂の、この絵馬について三村清三郎鳶魚翁の注を引き、『新撰東京名所図会に、守一筆にて、主馬判官盛久、由比が浜にて斬刑にあふ図は、寛政十二庚申七月とありと見ゆ、此の絵馬なるべし』とあると記す。

・「刀段々壞」勿論、先の注に附した霊験のシーンにも現れる台詞であるが、実はこの表現は実際の観音菩薩の霊験を讃える法華経の中にその通りに現れる言葉なのである。「法華経」普門品(ふもんぼん)にある「念彼観音力刀尋段段壊」(ねんぴかんのんりきとうじんだんだんえ)という偈(げ)である。これは、観音菩薩の深遠な御慈悲の力を祈念したならば、仏敵が切りかかけて来る刀でさえも紙を折るようにあっという間に幾つにも折れ落ちて、観音を信ずる者の身体万全であるという意味。

・「勝手方」幕府や大名の財務や民政を司った役を広く言う語。

・「御門主」上野東叡山寛永寺貫主。江戸の知識階級の間では東叡大王(とうえいだいおう:東叡山寛永寺におられる法親王殿下)と通称した。

・「罪のやうは御存にあらず」勿論、私はその武家の罪の具体的な内容に就いては全く以って御存知にては御座らねども、の意。「御」は自敬表現。訳では外した。

・「追拂ひ」追放・所払いのことであろう。この場合、諸候とあるから、現居住地であると思われる江戸だけではなく、その諸侯の領国への立ち入りも禁じられる内容であろうと思われる。但しこれが、幕府の追放刑の中でも最も重い「重追放」に準ずるものであったとすると、もっと自由移動が制限される。重追放は一般には関所破りや強訴(ごうそ)未・既遂者などに科された、死罪の次に重いもので、田畑や家屋は敷没収の上、庶民の場合は犯罪地+住国+江戸十里四方(日本橋から半径五里以内)の立ち入りや居住が禁じられた。武士の場合は犯罪地+住国に加えて関八州(武蔵国・相模国・上総国・下総国・安房国・上野国・下野国・常陸国。現在の関東地方にほぼ相当)・京都付近・東海道街道筋等も禁足地に加えられていた。にしても――人間至るところ青山あり――死にどころを選ぶことも出来、死ぬよりは――全く以ってマシである。

■やぶちゃん現代語訳

 上野清水堂の観音の額絵馬の事

 上野清水(きよみず)の観音堂に、主馬(しゅめ)判官(ほうがん)盛久の逸話を描いたと見えて、盛久と思しい、手を合わせた侍の後ろに立ったる斬首の太刀取りの刀が、美事、ばらばらになって折れておる絵馬が懸かって御座る。

 これはもう、盛久八郎刀尋段段壊の絵馬であろう、とかつての私も含め、世間の人々は申して御座るが――これ――違う。

 観音堂の堂守である僧が、以下のように語って御座った。――

……いや、かの絵馬を盛久八郎とご覧になるは、これ、ご尤もなることなれど、……実は盛久にてはあらず、……さても、あの絵馬には……さる謂われが御座るのじゃ。……

……さる大名の勝手方を勤めて御座ったさるお武家、その役儀につき、任された公金の横領なんどの罪にても御座ったものか……吟味の上、死罪と極まって御座った。……

……かの妻は……これ、深(ふこ)う嘆きましてな、……日々、この清水の観音へ詣で、堂の周りを毎日百遍ずつ廻っては一心不乱に祈って御座いました。……髪もすっかり崩れ、総髪振り乱して、面もすっかり垢に汚れ、窶(やつ)れ果てた姿となっても……これ、雨も雪も厭わず、……日々、泣き嘆き乍らも……観音に一心に祈りを捧げて御座った。……

……ある日のこと、ご門主さまが、この清水堂に詣でなされた折り、偶々かの女の様をご覧になられました。……

「あれは……一体、何を祈っておじゃるか……」

と、人を遣わせてお尋ね遊ばされました。……

……さても女はかくかくの謂い……それをお聴き遊ばされた御門主は……如何にも哀れに不憫なことと、お思いになられたので御座いましょう……お使いの僧侶をお立てになられ……かの武士の主(あるじ)たる大名諸侯のもとへ、仰せ遣わせになられました――

「――貴方勝手方何某のこと――如何なる罪かは存ぜぬものなれども――極悪の罪にてもないので御座れば、これ、命ばかりは、お救いあられんことを――」

との、御依頼にて御座ったとのこと。……

……さても、諸侯におかせられても、御門主のよんどころなき御依頼となれば、これ、致し方なく……かの男の命を救うてやり、罪一等減じて追放に処した、とのこと。……

……さても後日(ごにち)のこと、かの妻が参りましてな、

「――誠(まっこと)偏えに観音さまのご利益にて御座いました――」

と礼を述べて……この一件をこのように絵馬に仕立てて、かく奉納致いたので御座る……。

2010/09/03

君が何かに飽きたように

僕も飽きる

そうして

僕は僕なりの『やり方』で

僕にケリをつける

――それだけのことだ――

勝負は常に孤独な自分との闘い以外のなにものでもない。

――君も僕も――

たかが――君や僕であり――されど――君や僕であるのだ……

耳嚢 巻之三 深切の祈誓其しるしある事

「耳嚢 巻之三」に「深切の祈誓其しるしある事」を収載した。

 深切の祈誓其しるしある事

 近き頃の事也しか、淺草並木邊とやらんの事成由。木藥商ひする者ありしが、藥種屋には砒霜(ひさう)斑猫(はんみやう)などいへる毒藥も、腫物其外其病症によりて施(ほどこす)事あれば、貯へ置事も有し由。然れど賣買も容易(たやす)くいたさゞる事也。其外ウズやうの小毒の藥も、人の害をなす故猥(みだり)に賣買はせざる事成が、或日其身近所へ出し留守に女壹人來りて、砒霜斑猫の類ひにはあるまじ、輕きうずやうの毒藥を望(のぞみ)しに、鄽(みせ)に居し小悴(こせがれ)何心なく商ひて、主人歸りて其事を語りけるに大きに驚き、いか成樣の者に賣りしや名所(などころ)も聞しやと尋しに、名所聞し事もなく勿論知れる人にもあらず、年頃三十計(ばかり)の女の、小丁稚(こでつち)壹人連れて調へ行しといひし故甚歎きて、兼て信ずる淺草觀音へ詣ふで、一心不亂に右藥(くすり)人の害をなさず人の爲に成やう肝膽(かんたん)をくだき祈りけるに、年頃四十計り成男、是も信者と見へて讀經などして一心に祈り、歸りの節ふと道連(みちづれ)に成しに、彼男申けるは、御身も信心渇仰(かつがう)の人也、當寺觀音の靈驗いちじるく我等數年日參の事など語りて心願の筋抔語りて尋ける故、彼木藥屋答へけるは、我等事はさしかゝる大難ありて一心に祈念なすと言しに、夫はいか成事哉、ともに力を添んとありし故、あたりに人もなければかく/\の事故と語りければ、彼男聞て其女の年頃着服格好の樣子等を聞て、御身事人の難儀をいとひかく信心なし給ふ、いかで感應なからん、我宿はいづく也、尋候へ迚(とて)立わかれぬ。さても彼男は藥種屋にわかれ、己(おの)が住居する花川戸へ歸りけるに、鄽に湯かたを干して置たり。其湯衣(ゆかた)を見たりしに、淺草におゐて藥種屋が噺せし模樣に少しも違ひなく、夫より心づきて見れば、我妻の年恰好も似寄ければ、心に不審を生じけるに、其妻茶抔運び餠菓子やうの物をやきて茶菓子とて差出しぬ。彌々(いよいよ)心に不審を生じ、よき茶菓子なれど後にこそ給(たべ)なん。某(それがし)は入湯なし來るとて浴衣手拭を持せて風呂屋へ行、彼丁稚を人なき所へ招き、今朝妻の供していづちへ行しや、道にて妻の調へものなしける事有りやと尋ければ、丁稚も隱すべき事としらねば、有の儘に淺草へ詣ふで藥種屋にて物を調へし事抔語りける故、彌々無相違と淺草を遙拜し、湯などへ常のごとく入りて立歸りければ、又々妻は茶菓子ども持ち出しけるを、彼男右菓子を女房に先づ給候樣申けるに、其身好(このま)ざる由を云ひければ、今日は存(ぞんず)る旨あれば親里へ參り可申迚、彼菓子を重に入れて人を附、離別の状を認(したた)め、右離別の譯は此重箱の菓子なりとて送り返しけるとや。夫より右之者藥種屋と兄弟のむつみなして、彌觀音薩埵(さつた)の利益(りやく)を感じ、信心他念なかりしとや。

□やぶちゃん注

○前項連関:凄まじい博徒の妻から未遂なれど夫殺し鬼妻で直連関。

・「淺草並木」浅草並木町は現在の雷門2丁目。雷門の雷門通りを挟んだ正面の通りが浅草並木町であった。底本の鈴木氏の注に『もと浅草境内からこの辺まで道の両側に松・桜・榎の並木があった』ことからの町名、とお書きになっておられる。

・「木藥商ひ」生薬屋。植物・動物・鉱物等を素材としてそのまま若しくは簡単な処理をして医薬品あるいは医薬原料に加工する商売。一般人が容易に買えるところから薬種問屋ではなく、現在の一般薬局と等しい薬種屋である。

・「砒霜」砒石(ひせき)。猛毒の砒素を含有する鉱物。砒素について、以下、ウィキの「ヒ素」から一部を引用する。『ヒ素(砒素、ひそ、英名:arsenic)は、原子番号 33 の元素。元素記号は As。第15族(窒素族)の一つ』。『最も安定で金属光沢のあるため金属ヒ素とも呼ばれる「灰色ヒ素」、ニンニク臭があり透明なロウ状の柔らかい「黄色ヒ素」、黒リンと同じ構造を持つ「黒色ヒ素」の3つの同素体が存在する。灰色ヒ素は1気圧下において 615℃で昇華する』。『物に対する毒性が強いことを利用して、農薬、木材防腐に使用される』。『III-V族半導体であるガリウムヒ素 (GaAs) は、発光ダイオードや通信用の高速トランジスタなどに用いられている』。ヒ素化合物サルバルサン (C12H12As2N2O2) 『は、抗生物質のペニシリンが発見される以前は梅毒の治療薬であった』。『中国医学では、硫化ヒ素である雄黄や雌黄はしばしば解毒剤、抗炎症剤として製剤に配合される』。『ヒ素を必須元素とする生物が存在する。微生物のなかに一般的な酸素ではなくヒ素の酸化還元反応を利用して光合成を行っているものも存在する』。『ヒ素およびヒ素化合物は WHO の下部機関 IRAC より発癌性がある〔Type1〕と勧告されている。また、単体ヒ素およびほとんどのヒ素化合物は、人体に非常に有害である。飲み込んだ際の急性症状は、消化管の刺激によって、吐き気、嘔吐、下痢、激しい腹痛などがみられ、場合によってショック状態から死に至る。慢性症状は、剥離性の皮膚炎や過度の色素沈着、骨髄障害、末梢性神経炎、黄疸、腎不全など。慢性ヒ素中毒による皮膚病変としては、ボーエン病が有名である。単体ヒ素及びヒ素化合物は、毒物及び劇物取締法により医薬用外毒物に指定されている。日中戦争中、旧日本軍では嘔吐性のくしゃみ剤ジフェニルシアノアルシンが多く用いられたが、これは砒素を含む毒ガスである』。『一方でヒ素化合物は人体内にごく微量が存在しており、生存に必要な微量必須元素であると考えられている』。『ただしこれは、一部の無毒の有機ヒ素化合物の形でのことである。低毒性の、あるいは生体内で無毒化される有機ヒ素化合物にはメチルアルソン酸やジメチルアルシン酸などがあり、カキ、クルマエビなどの魚介類やヒジキなどの海草類に多く含まれる。さらにエビには高度に代謝されたアルセノベタインとして高濃度存在している。人体に必要な量はごく少なく自然に摂取されると考えられ、また少量の摂取でも毒性が発現するため、サプリメントとして積極的に摂る必要はない』。『亜ヒ酸を含む砒石は日本では古くから「銀の毒」、「石見銀山ねずみ捕り」などと呼ばれ殺鼠剤や暗殺などに用いられていた』。『宮崎県の高千穂町の山あい土呂久では、亜ヒ酸製造が行われていた。この地区の住民に現れた慢性砒素中毒症は、公害病に認定された。症状としては、暴露後数十年して、皮膚の雨だれ様の色素沈着や白斑、手掌、足底の角化、ボーエン病、およびそれに続発する皮膚癌、呼吸器系の肺癌、泌尿器系の癌がある。発生当時は、砒素を焼く煙がV字型の谷に低く垂れ込め、河川や空気を汚染したものと考えられた。上に記した症状は、特に広範な皮膚症状は、環境による慢性砒素中毒を考えるべき重要な症状である。この症状が重要であり、長年月経過すれば、病変、皮膚、毛髪、爪などには、砒素を検出しない』。『上流に天然の砒素化合物鉱床がある河川はヒ素で汚染されているため、高濃度の場合、流域の水を飲むことは服毒するに等しい自殺行為である。低濃度であっても蓄積するので、長期飲用は中毒を発症する。地熱発電の水も砒素を含むので、川に流されず、また、地下に戻される』。『慢性砒素中毒は、例えば井戸の汚染などに続発して、単発的に発生することもある。このような河川は中東など世界に若干存在する。砒素中毒で最も有名なのは台湾の例であり、足の黒化、皮膚癌が見られた。汚染が深刻な国バングラデシュでは、皮膚症状、呼吸器症状、内臓疾患をもつ患者が増えている。ガンで亡くなるケースも報告されている。中国奥地にもみられ、日本の皮膚科医が調査している』。『1955年の森永ヒ素ミルク中毒事件では粉ミルクにヒ素が混入したことが原因で、多数の死者を出した。この場合は急性砒素中毒である。年月が経過し、慢性砒素中毒の報告もある。日本において、急性ヒ素中毒で有名なのは和歌山毒物カレー事件であり、この稿には詳細な急性中毒の報告が記載されている』。『2004年には英国食品規格庁がヒジキに無機ヒ素が多く含まれるため食用にしないよう英国民に勧告した。これに対し、日本の厚生労働省はヒジキに含まれるヒ素は極めて微量であるため、一般的な範囲では食用にしても問題はないという見解を出している』。ヒ素の化合物である『三酸化二ヒ素 (As2O3) – 急性前骨髄球性白血病(APL)の治療薬。商品名トリセノックス。海外では骨髄異形成症候群(MDS)、多発性骨髄腫(MM)に対しても使われている。その他血液癌、固形癌に対する研究も進められている』。『13世紀にアルベルトゥス・マグヌスにより発見されたとされ』、『無味無臭かつ、無色な毒であるため、しばしば暗殺の道具として用いられた。ルネサンス時代にはローマ教皇アレクサンデル6世(1431 - 1503年)と息子チェーザレ・ボルジア(1475 - 1507年)はヒ素入りのワインによって、次々と政敵を暗殺したとされる』。『入手が容易である一方、体内に残留し容易に検出できることから狡猾な毒殺には用いられない。そのためヨーロッパでは「愚者の毒」という異名があった』。『中国でも天然の三酸化二ヒ素が「砒霜」の名でしばしば暗殺の場に登場する。例えば、『水滸伝』で潘金蓮が武大郎を殺害するのに使用したのも「砒霜」である』とある。

・「斑猫」土斑猫。昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidaeに属するツチハンミョウ。この生物群はツチハンミョウ科に属し、通常の昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科 Cicindelidae のハンミョウ族とはかなり遠縁であるので注意を有する。以下、ウィキの「ツチハンミョウ」から引用する(学名のフォントを変更した)。『有毒昆虫として、またハナバチ類の巣に寄生する特異な習性をもつ昆虫として知られている』。『成虫の出現時期は種類にもよるが、春に山野に出現するマルクビツチハンミョウ Meloe corvinus などが知られる。全身は紺色の金属光沢があり、腹部は大きくてやわらかく前翅からはみ出す。動きが鈍く、地面を歩き回る』。『触ると死んだ振り(偽死)をして、この時に脚の関節から黄色い液体を分泌する。この液には毒成分カンタリジンが含まれ、弱い皮膚につけば水膨れを生じる。昆虫体にもその成分が含まれる。同じ科のマメハンミョウもカンタリジンを持ち、その毒は忍者も利用した。中国では暗殺用に用いられたともいわれる』。『「ハンミョウ」と名がついているが、ハンミョウとは別の科(Family)に属する。しかし、ハンミョウの方が派手で目立つことと、その名のために混同され、ハンミョウを有毒と思われる場合がある』。『マルクビツチハンミョウなどは、単独生活するハナバチ類の巣に寄生して成長する』。『雌は地中に数千個の卵を産むが、これは昆虫にしては非常に多い産卵数である。孵化した一齢幼虫は細長い体によく発達した脚を持ち、草によじ登って花の中に潜り込む。花に何らかの昆虫が訪れるとその体に乗り移るが、それがハナバチの雌であれば、ハチが巣作りをし、蜜と花粉を集め、産卵する時に巣への侵入を果たすことができる』。『また、花から乗り移った昆虫が雄のハナバチだった場合は雌と交尾するときに乗り移れるが、ハナバチに乗り移れなかったものやハナバチ以外の昆虫に乗り移ったものは死ぬしかない。成虫がたくさんの卵を産むのも、ハナバチの巣に辿りつく幼虫を増やすためである』。『ハナバチの巣に辿りついた1齢幼虫は、脱皮するとイモムシのような形態となる。ハナバチの卵や蜜、花粉を食べて成長するが、成長の途中で一時的に蛹のように変化し、動かない時期がある。この時期は擬蛹(ぎよう)と呼ばれる。擬蛹は一旦イモムシ型の幼虫に戻ったあと、本当に蛹になる』。『甲虫類の幼虫は成長の過程で外見が大きく変わらないが、ツチハンミョウでは同じ幼虫でも成長につれて外見が変化する。通常の完全変態よりも多くの段階を経るという意味で「過変態」と呼ばれる。このような特異な生活史はファーブルの「昆虫記」にも紹介されている』。漢方薬としては「芫青」(げんせい)名でも知られ、カンタリジン(cantharidin)を抽出出来るツチハンミョウの種としては、ヨーロッパ産のカンタリスである Litta vesicatoriaアオハンミョウ(青斑猫)や日本産の Epicauta gorhami マメハンミョウ(豆斑猫)及び中国産の Mylabris phalerata Pallas 又は Mylabris cichorii が挙げられる。薬性としては刺激性臭気、僅かに辛く、粉末は皮膚の柔らかい部分や粘膜に附着すると掻痒感を引き起こし、発疱を生ずる。古くから皮膚刺激薬・発疱剤(肋膜炎・リウマチ・神経痛に適用)・発毛促進剤・利尿剤(稀な内服例)として用いられた。急性慢性毒性としては経口摂取による咽喉の灼熱感・腹痛・悪心・嘔吐・下痢・吐血・無尿・血尿・低血圧・昏睡・痙攣・排尿時劇痛等の諸症状が見られ、呼吸器不全や腎障害(尿毒症等)を惹起して死に至ることもあるとする。実は本剤はスパニッシュ・フライという名で媚薬としても知られており、一定量を内服すると尿道が刺激されて男性性器の勃起を促進する効果があるという。但し、有毒成分が排出される際に高い確率で腎臓炎や膀胱炎を誘発し、少量でも反復使用すると慢性の中毒症状を引き起こす危険性があるという(以上、後半のカンタリジンの薬理に関しては「医薬品情報21(代表古泉秀夫氏)の「芫青の毒性」の項を参考させて頂いた)。

・「ウズ」漢方薬で被子植物門双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の総称であるトリカブトの根茎を言う。以下、ウィキの「トリカブト」から引用する。トリカブト(鳥兜・学名Aconitum)は、『キンポウゲ科トリカブト属の総称。日本には約30種自生している。花の色は紫色の他、白、黄色、ピンク色など。多くは多年草である。沢筋などの比較的湿気の多い場所を好む』。『塊根を乾したものは漢方薬や毒として用いられ、附子(生薬名は「ぶし」、毒に使うときは「ぶす」)または烏頭(うず)と呼ばれる)。ドクゼリ、ドクウツギと並んで日本三大有毒植物の一つとされる』。『トリカブトの名の由来は、花が古来の衣装である鳥兜・烏帽子に似ているからとも、鶏の鶏冠(とさか)に似ているからとも言われる。英名は「僧侶のフード(かぶりもの)」の意』。以下、「主な種」が掲げられている(一部の注釈記号を省略し、学名のフォントを変更した)。

ハナトリカブトAconitum chinense

カワチブシAconitum grossedentatum

ハクサントリカブトAconitum hakusanense

センウズモドキAconitum jaluense

ヤマトリカブトAconitum japonicum Thunb.

ツクバトリカブトAconitum japonicum Thunb. subsp. maritimum

キタダケトリカブトAconitum kitadakense

レイジンソウAconitum loczyanum

ヨウシュトリカブトAconitum napellus 模式種

タンナトリカブトAconitum napiforme

エゾトリカブトAconitum sachalinense - アイヌが矢毒に用いた。

ホソバトリカブトAconitum senanense

ダイセツトリカブトAconitum yamazakii

『化学成分からみて妥当な分類としてトリカブト属が30種、変種が22種、計52種という多くの種類が存在』するとある。以下、「毒性」の項。トリカブトの毒の一つアコニチンは『比較的有名な有毒植物。主な毒成分はジテルペン系アルカロイドのアコニチンで、他にメサコニチン、アコニン、ヒバコニチン、低毒性成分のアチシンの他ソンゴリンなどを』『全草(特に根)に含む。採集時期および地域によって毒の強さが異なる』『が、毒性の強弱に関わらず野草を食用することは非常に危険である』。『食べると嘔吐・呼吸困難、臓器不全などから死に至ることもある。経皮吸収・経粘膜吸収され、経口から摂取後数十分で死亡する即効性がある。トリカブトによる死因は、心室細動ないし心停止である。下痢は普通見られない。特異的療法も解毒剤もないが、各地の医療機関で中毒の治療研究が行われている』。

『芽吹きの頃にはセリ、ニリンソウ、ゲンノショウコ、ヨモギ等と似ている為、誤食による中毒事故(死亡例もある)が起こる。株によって、葉の切れ込み具合が異なる』。『蜜、花粉にも中毒例がある。このため、養蜂家はトリカブトが自生している所では蜂蜜を採集しないか開花期を避ける。以下、「漢方薬」の項。『漢方ではトリカブト属の塊根を附子(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を附子と言い、「親」の部分は烏頭(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を天雄(てんゆう)と言って、それぞれ運用法が違う。強心作用、鎮痛作用がある。また、牛車腎気丸及び桂枝加朮附湯では皮膚温上昇作用、末梢血管拡張作用により血液循環の改善に有効である』。『しかし、毒性が強い為、附子をそのまま生薬として用いる事はほとんど無く、修治と呼ばれる弱毒処理が行われる』。『炮附子は苦汁につけ込んだ後、加熱処理したもの。加工附子や修治附子は、オートクレーブ法を使って加圧加熱処理をしたもの。修治には、オートクレーブの温度、時間が大切である。温度や時間を調節する事で、メサコニチンなどの残存量を調節する。この処理は、アコニチンや、メサコニチンのC-8位のアセチル基を加水分解する目的で行われる。これにより、アコニチンは、ベンゾイルアコニンに』、『メサコニチンは、ベンゾイルメサコニンになり、毒性は千分の一程度に減毒される。これには専門的な薬学的知識が必要であり、非常に毒性が強いため素人は処方すべきでない』。以下、「附子が配合されている漢方方剤の例」として葛根加朮附湯・桂枝加朮附湯・桂枝加苓朮附湯・桂芍知母湯・芍薬甘草附子・麻黄附子細辛湯・真武湯・八味地黄丸・牛車腎気丸・四逆湯が挙げられている。また、トリカブトの花は実際にはかなり美しく、『観賞用のトリカブトハナトリカブトはその名の通り花が大きく、まとまっているので、観賞用として栽培され、切花の状態で販売されている。しかし、ハナトリカブトの全草にも毒性の強いメサコニチンが含まれているので危険である』。『ヨーロッパでは、魔術の女神ヘカテを司る花とされ、庭に埋めてはならないとされる。ギリシャ神話では、地獄の番犬ケルベロスの涎から生まれたともされている。狼男伝説とも関連づけられている』。『富士山の名の由来には複数の説があり、山麓に多く自生しているトリカブト(附子)からとする説もある。また俗に不美人のことを「ブス」と言うが、これはトリカブトの中毒で神経に障害が起き、顔の表情がおかしくなったのを指すという説もある』とある。

・「小悴」岩波版長谷川氏注には「小僧」とするが、私はそのまま主人の倅で訳してみた。その方が面白いと判断したからである。辞書には若い男子を罵って言う語としての「小悴」の意味はあるが、所謂、商店の丁稚や小僧を言うという記載は見出せなかったからでもある。

・「花川戸」現在は東京都台東区に花川戸一丁目と花川戸二丁目で残る。ウィキの「花川戸」によれば、『台東区の東部に位置し、墨田区(吾妻橋・向島)との区境にあたる。地域南部は雷門通りに接し、これを境に台東区雷門に接する。地域西部は馬道通りに接し、台東区浅草一丁目・浅草二丁目に接する。地域北部は、言問通りに接しこれを境に台東区浅草六・七丁目にそれぞれ接する。当地域中央を花川戸一丁目と花川戸二丁目を分ける形で東西に二天門通りが通っている。また地域内を南北に江戸通りが通っている。またかつて花川戸一帯は履物問屋街としても知られていた。現在でも履物・靴関連の商店が地域内に散見できる』とあり、この話柄の後半に登場する男の商売(職種は示されていない)も履物問屋であった可能性が高いか。問屋であれば、店先に洗い張りの浴衣が干してあっても不自然ではない気がする。

・「給(たべ)なん」は底本のルビ。

・「觀音薩埵」観音菩薩。「薩埵」は梵語“sattva”の漢訳で、原義は「生命あるもの・有情・衆生」であるが、後に「菩提薩埵」(ぼだいさつた)の略、如来にならんとして修行する者を意味する「菩薩」の意となった。

■やぶちゃん現代語訳

 心からの祈誓には必ず効験がある事

 最近の話の由にて、浅草並木辺りにての出来事らしい。

 生薬を商(あきの)うておる者があった。

――注しておくと、薬種屋には砒霜(ひそう)や斑猫(はんみょう)なんどと申すいわゆる猛毒にても、質(たち)の悪い腫れ物やその他の悪しき病いの病状によっては、これらを処方することもあるので、薬剤の一種として品揃え致いて御座る由。然れども、容易に販売するようなこと致さぬは勿論である。また、その他にも烏頭(うず)といったような、砒霜や斑猫に比べれば比較的軽度の毒物にても、当然、その量によっては十分に人の命を奪うような害ともなるため、妄りに売買することは、これ、御座らぬは常識である。――

 ところが、ある日のこと、その生薬屋の主人が、僅かの間近所に出ていた留守に、一人の女が店を訪れ――流石に砒霜や斑猫の類ではなかったようであるが、所謂、烏頭程度の危険毒は持った――さる毒性薬物を売って欲しいと望んだ。偶々店を預かって御座った小倅、未だ薬種屋商いのいろはも学んで御座らぬに、軽率にもその毒物を売ってしまった。

 親なる主人が帰ったので、倅は何心なくこのことを告げたところ、主人、大いに驚き、

「如何なる年格好の者に売った!? 名や住所は訊いたのか!?」

と糺すと、

「……名や住所なんぞは聞かなんだよ……普段、お父(とっつ)あん、そんなことするとこ、見たこともないもんで……全然知らん人じゃったなあ……年の頃は三十ばかりの女で……若い丁稚を一人連れて買い上げて行ったよ……」

と、自分の成したことが如何に大変なことであるか、全く以って分かっておらぬ故、如何にも長閑に答えて平然として御座った。

 聞いた主人は一人、最悪の事態を想像して、深く歎き苦しみ、ともかくも兼ねてより深く信心致いて御座る浅草観音へ詣でると一心不乱に、

「……かの薬、人の害となりませぬように!……どうか! 人の為になりますように!……」

と心胆を砕く思いで祈って御座った。

 さても、その折り、年の頃四十(しじゅう)ばかりの男で、これも観音の信者と見えて、読経など懇ろに致いて一心に祈って御座ったが、帰る際に、ふと道連れになった。

男が、

「御身も、如何にも観音へ、信心深く尊崇するお方とお見受け致いた。当浅草寺観音の霊験は、これ著しきものにて御座れば、我らも、ここ数年の間日参致いて御座る。」

などと主人に語りかけ、

「……最前のご祈念、何やらん、切羽詰ったものとお見受けしたが……失礼ながら、もしよろしければその心願の筋……お聴きしてはまずかろうものか……」

と訊ねる故、生薬屋主人は、

「……我らことは……差し迫ったる大難あればこそ……一心に祈念致いて御座った……」

と応えたので、

「……それはまた……如何なることにて御座る?……立ち入ったことを申すようなれど……僅かなりとも、観音の心を共に致す我ら、共に力になれること、これ、ないとは限らぬ。……一つ、お話し下さらぬか?……」

との謂いに――辺りに人もなし――生薬屋にても――藁にも縋る思いにて――かくかくのことにて、と語ったところ、連れとなった男は、事細かに女の年頃・着衣・格好など様子を細かに聴いた上、

「……御身は見ず知らずの他人が受けるかも受けぬかも知れぬ難儀を……そのように深く悔いて心に懸け……かく観音菩薩を信心なさり、祈念なさっておる……このこと、どうして感応せざること、これありましょうぞ! 必ずや、その至誠、観音菩薩に通ずること、これ間違い御座らぬ! 我らが住まいは花川戸にて○○という店を開いて御座る。お近くへお出での折りは、どうか一つ、是非お訪ね下されよ。」

と言うて二人は別れる。――

 さて、この生薬屋と連れになった男、別れて後、己が(おの)が住居せる花川戸へ帰って御座ったところ、ふと見ると――自分のお店(たな)の入り口の脇に、浴衣が洗い張りして干して御座った。――その浴衣を見たとたん、男はあることに気づいた。

――その浴衣の柄――それは、かの浅草にて、かの生薬屋から聞いた、かの女の着て御座ったという柄模様と――

――これ、少しも違いなきものなので御座った――

『……いや……そういわれて見ると……妻の年格好も……これ、似寄るわ……』

と心に不審の種を播いて御座った。――

 男が家に入るや、妻がかいがいしく男を迎えたかと思うと、何時もに似ず、茶なんどを運び、

「……さっき、餅菓子染みたもの、ちょいと焼いて拵えましたから、……さ、茶菓子に、どうぞ……」

と添えて、差し出す。

 いよいよ不審が芽を吹いた。

「……うむ。美味そうな菓子じゃ。じゃが、後で頂こうかの。……そうさ、我ら、先ず一(ひとっ)風呂浴びて参る。」

男は丁稚に命じて浴衣手拭いを持たすと湯屋(ゆうや)へ向かった。

 途中、その丁稚を人気のないところに呼び寄せると、

「……つかぬことを訊くが……お前、今朝、妻の供して何処へ参った? 途中、妻が何処ぞで買い物なんど致いたりはせなんだか?」

と訊ねたので――勿論、丁稚もそれが隠すようなことだとも思わねば、

「へえ、浅草へ詣でて、帰りに、生薬屋へ寄って何やらお買いになっておられました。」

ことなど、ありの儘に話した。――

「……いよいよ、これ、相違ない!……」

と男は一人ごちると、思わず浅草の方に向こうて手を合わせて御座った。

 その後(のち)、常の如く湯屋(ゆうや)に入(い)って宅(うち)にたち帰る

――と――

またしても妻は例の茶菓子どもを持ち出して、

「さ、お召しになられよ。」

と切に勧める。そこで男、その菓子を妻の眼前に突き出し、

「……先ずは一つ、お前がお食べ……。」

と申したところ、

「……!……い、いえ、……あ、あたしは、あ、あんまり、好きなもんじゃあ、御座んせんから……」

と、何やらん、しどろもどろに答えたので、男は、

「――相分かった。今日は我ら存ずる旨(むね)あればこそ、そなたは親里方へ帰るがよい――」

と静かに言うや、かの菓子をお重に納めさせ、即座に三行半を認(したた)めて、一番に信頼して御座った下男にそれらを持たせて妻に付き添わせ、

「――離縁の訳は――この重箱の菓子じゃ――」

とやはり静かに言い放って妻を里へ送り返したとかいうことで御座る。

 さてもそれより、この男、かの生薬屋に訳を話した上、兄弟の如く交わりをなし、また、いよいよ観音菩薩の御利益に感じ入って、異心なく信心深くして御座ったということである。

2010/09/02

耳嚢 巻之三 博徒の妻其氣性の事

「耳嚢 巻之三」に「博徒の妻其氣性の事」を収載した。

 博徒の妻其氣性の事

 

 下谷に住(すみ)し竈〆(かまじめ)をなせる法印、予が知れる者の方へ來り咄しけるは、湯島大根畠(だいこんばた)の賣女屋とやらん、所の親分共いへる者の方へ、去暮(こぞくれ)竈〆祓ひに罷りし處、彼妻申けるは、此間は甚仕合(しあはせ)あしく甚難儀也。何卒念を入て仕合直り候樣にはらひの祈禱なし給へと賴ける故、心得しと答へ荒神店(だな)に向ひ祈禱なしけるに、彼女房、宿には右の法印計(ばかり)を置て、いづちへやら出けるが、それ迄は布子に布子羽織抔着して小兒を肌に負ひけるに、暫く過て盆の上に白米弐三升をのせ、其上に鳥目五百文のせて、法印の前に施物(せもつ)初尾(はつを)のせ差置けるを見るに、彼女房始と違ひ羽織も布子もなく、寒氣難絶(たへがたき)時節袷(あはせ)計(ばかり)を着し、小兒をばやはり肌に追來りぬ。法印も驚きて、全く其身の着服を質入して施物に調達なしぬると思ひぬれば、彼女房に向ひ、我等も今日始ての知人にもなし、數年の馴染也、祈禱の事は念頃に祈候得共、此謝禮には及ばず、追て仕合(しあはせ)能(よき)時施し給へ。小兒もあるなれば、ひらに身も薄からず着給へといゝけるに、女房更に合點せず是非々々と強ひけるにぞ、無據其意に任せ、それより番町小川町牛込邊所々旦那場(だんなば)を歩行(ありき)て、歸り候節も大根畠を通りしに、彼者の内ことの外賑はしく、燈火いくつとなく燈し、鯛ひらめを料理、何かさわがしき故、いかなる事にと門口を覗き、只今我等も歸候、御亭主も歸り給ひしやといひて尋ければ、女房早くも見付て、能(よく)こそ寄給ひたり、ひらに上り給へといひし故、最早暮に及びたれば宿へも急ぐと斷(ことわり)しに、御祈禱の印も有、ひらにより給へと無理に引入れしに、女房も晝の姿とは引(ひき)かへ、其外晝見し氣色は引かへて富貴のあり樣にて、酒食を振廻(ふるまは)れ歸りしが、博徒のすぎわひはおかしき物也、鬼の女房の鬼神と俗諺(ぞくげん)の通り、其妻の氣性も又凄じきものと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:掏摸から博徒の悪道直連関。シーンの後半は、夫の博徒の親分が博打で大枚が転がり込んだ様を描写しているのであろう。現代語訳は竈〆の法印の直接話法に意訳し、臨場感を出した。しかし、私は昔からボーイッシュな女性が好きだからか、「其妻の氣性も又凄じきもの」と言うより、何だか、この姐(あね)さんにマジ惹かれるのである。

・「下谷」現在の台東区の北部。以下、ウィキの「下谷によると、『上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である』とする。天正181590)年に『領地替えで江戸に移った徳川家康により姫ヶ池、千束池が埋め立てられ』、『寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄え』、『江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展』した。『江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担』い、明暦3(1657)年の明暦の大火の後、火除地として下谷広小路(現在の上野広小路)が整備されるに至り、正徳3(1713)年には『下谷町として江戸に編入され』たとある。

・「竈〆」竈神(かまどがみ)である荒神(こうじん)を祀ること。「釜占」「竈注連」等とも書き、荒神祓(こうじんはらい)とも言った。昔は釜の火は神聖なものとして絶やさぬよう大切にしたが、火は同時に災厄とも繋がっており、文字通り、荒らぶる神として畏敬される存在であった。後には年末や正月の行事となったが、当時は、毎月晦日、巫女や修験者が民家を廻っては竈神である荒神さまを祀って、家内安全商売繁昌をも祈願した。このシーンは歳末ながら、女房が「此間は甚仕合あしく甚難儀也」と言っており、貧窮の転変いちじるきさまからはこれが一年前のこととは思われず、十一月の月末の竈〆めが上手くなかった、その結果としてこの一月の実入り悪かったことを愚痴っているのである。

・「法印」ここでは山伏や祈禱師の異称。岩波版長谷川氏注では、「竈〆」を行なうのを巫女と限定し、『竈〆をする巫女は山伏の妻であることが多い』と記す。長谷川氏は竈〆の祭祀者は巫女と拘っておられるのだが、この本文で竈〆をしているのは間違いなく法印である。私には、何故そこに拘られるのかが解せない。底本の鈴木氏注でも「竈〆」の注の最後で『神楽鈴と扇子を持って舞う。山伏の妻などが行ない、中には淫をひさぐ者もあった。』と記すが、何で? と、やっぱり私には解せないのである。

・「湯島大根畠」現在の文京区湯島にある霊雲寺(真言宗)の南の辺り一帯の通称。私娼窟が多くあった。底本の鈴木氏注に『ここに上野宮の隠居屋敷があったが、正徳年間に取払となり、その跡に大根などを植えたので俗称となった。御花畠とも呼んだ』とあり、私娼の取り締まりで『天明七年に手入れがあったこともある』と記されている。この「上野宮」というのは上野東叡山寛永寺貫主の江戸庶民の呼び名。「東叡山寛永寺におられる親王殿下」の意で東叡大王とも呼ばれた。寛永寺貫主は日光日光山輪王寺門跡をも兼務しており、更には比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあった上に、全てが宮家出身者又は皇子が就任したため、三山管領宮とも称された(ウィキの「東叡大王」による)。正徳年は西暦1711年から1716年、天明7年は1787年。鈴木氏は「卷之二」の下限を天明6(1786)年までとし、「卷之三」は前二巻の補巻とされているから、本話柄は正にその直前ということになる。

・「賣女屋」私娼窟。

・「仕合」巡り合せ。運。

・「荒神店」底本では「店」の右に『(棚)』の注記がある。竈神である荒神を祀るための神棚。

・「布子」木綿の綿入れ。

・「布子羽織」木綿で出来た綿入りの羽織。羽織は着物の上に着る襟を折った短い衣服。

・「鳥目五百文」「鳥目」とは、穴開きの銅銭が鳥の目に似ていたことからの銭(ぜに)の異称。この頃の500文ならば米4升は買えたはずである。この女房は、ここでこの謝金以外に米を2~3升添えている。都合全部で6~7升分、単純に銅銭に換算すると軽く800文を超える額になる。やや時代が下った文化文政期で銀1匁≒銭108文のレートで、3~5匁が当時の大工手間賃の日当であったことを考えると、これは当時の大工手間賃の日当より遥かに高額にして法外な「施物初尾」料に相当するということに気づく必要がある。法印が吃驚しているのは、叙述では女房が着衣の質草にしてまで施物初尾を施したことだけに集中しているように書かれているが、実際にはこの「施物初尾」が甚だ多いためでもあると私は思うのである。

・「初尾」初穂(はつほ)。通常は、その年最初に収穫して神仏や朝廷に差し出す穀物等の農作物及びその代わりとする金銭を言う。室町期以降は「はつお」とも発音し、「初尾」の字も当てた。

・「袷」裏地のついた上着一般を指すが、近世以降は初夏に用いる薄手のものを指し、夏の季語ともなっている。

・「肌に追來りぬ」底本では「追」の右に『(負ひ)』の注記がある。

・「旦那場」御得意先。

・「鬼の女房の鬼神」諺(ことわざ)。一般には「鬼の女房に鬼神(きしん/きじん)」と言い、『鬼のような冷酷無惨な男には、情け容赦もない鬼のような女が妻になるものである』の意。しかし、本話柄の女房は必ずしもそうは読めないと私は思う。情け容赦もない鬼のような女なら、もっとこの法印に対しても、冷たいであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 博徒の妻のその気性の事

 

 下谷に住んでおった竈〆めを生業(なりわい)とする僧が、私の知人方に参った折りに語った話である。

 

……湯島大根畠にあった――実は怪しげな売春宿でもあったらしゅう御座るが――その辺りの博徒の親分とも噂される者の方へ、去年暮れ、何時もの通り、竈〆めお祓いに訪れた折りのことで御座る。

 かの親分の女房が申しますことには、

「文句は言いたかないんだけどさ……どうもさ、こないだのあんたの御祓いが気が入ってなかったんか、それとも儂(わし)らのツキがようなかったんだか知らん……この一月、どうにもうまくなくってさ、ひどく難儀なんよ! だからさ、今日は一つ、念には念を入れてさ、按配よくツキが廻ってように、お祓いの祈禱、びしっと! よろしく頼んだよ!」

と、如何にもむっとした表情ながら懇請して参りました故、

「そりゃ、悪いことを致いた。手を抜いたりはせなんだつもりじゃが……いや、なればこそ心得た!」

と応じて、我ら、荒神棚に向かって祈禱を始めて御座った。

 すると、かの女房、宅(うち)に我ら独りを残して、何処ぞへ出かけた気配がしたかと思ううち、直(じき)に戻って参ったので御座ったが――かの女房、さっきまでは木綿の綿入れにやはり綿入りの羽織なんどを重ね着し、その中に赤子をぬくとく背負うて御座ったに――今やすっかり様変わりして、この寒気堪え難き時節にも拘わらず、最前の羽織も布子も何処へやら――如何にもぺらぺら、肌に吸い付かんばかりの袷(あわせ)一枚きりにて――その鳥肌立ったる素肌に、これまたぶるぶる震えておる頑是無い赤子を同じように背負うて御座った――その女房が、盆に施物の白米二、三升、その上に更に初穂料の鳥目五百文を載せたを、ぶっきらぼうに、ずんと、我らが前に差し出いだいたので御座った。

 流石の我らも驚き申した。

 全く以って己(おの)が着れる着衣までも質に入れ、わざわざこの施物初穂を調達してきたものと思えばこそ、女房に向かい、

「我ら、今日初めて逢(お)うた仲にても、これ、御座ない。もうかれこれ数年の馴染みじゃ。望みの通り、竈〆御祈禱のこと、如何にも懇ろに祈り申したれども……かくなる謝礼には、これ、及ばぬ。追って我らが祈請の通じて、仕廻し方、これ、良うなった折にでも施し下されよ。赤子もあることなれば……さ、薄きものにてはなく、しっかりとお召しになられよ、身をぬくとくなさるるが何より大事……」

と言うたのじゃが、この女房、頑として譲らず、

「さ! さ! 是非に! 是非! 持っていきな! あたいの志を無にすんのかい!!」

と盆を押し付けて強いるばかりで御座ったれば、よんどころなく、そのまま施物初穂を受けとって、その場を後にして御座った。

 それから番町・小川町・牛込辺りの所々(ところどころ)のお得意先を経巡り、さて帰らんと、再びかの大根畠を通ったところ――かの女房の家内――何やらん殊の外賑やかで、軒に灯火(ともしび)が幾つともなく点され、厨(くりや)では鯛や鮃の舞い踊り――ならぬ鯛の活き造りやら、鮃の薄造りに余念がない様子――余りの騒がしきに、何があったのかと、厨の戸口から覗いて、

「……我らも今、帰らんとするところなれど……ご亭主も無事お帰りか?……」

と声をかけたところ、早速にかの女房、我らを見つけ、

「あんれ、まあ! よくぞ寄って下すった!! さあ、さ! ずいっと上がっておくんない!!」

と申すので、拙僧、

「……いや、最早、日も暮れに及ぶれば……我が宿へも急いでおるに……」

と断わったれども、

「何、言ってのよ! お前さんのご祈禱のお験(しるし)が、さ! 早速、現われたんだから、さ! ずいっと上がっておくんないって言ってるんさ!!」

と、我が袖を強引に引いて無理矢理引き入れられ申した。

 と見れば――その女房の姿は――これ、昼間とはうって変わって、豪華絢爛たる衣装に身を包んで――その気色もまた――昼間とはうって変わって、富貴爛漫にして喜色満面の有様――我ら、贅沢な酒食を振る舞わるるがままに、帰って御座った。

 ……さても、極悪道の博徒の生業(なりわい)とは、全く以って奇妙なものにて御座る。……また、俚諺にも『鬼の女房の鬼神(きしん)』なんどと申しまするが……誠(まっこと)そうした者の妻の気性というものも、これまた、いや、凄まじいものにては御座るよ……。

2010/09/01

耳嚢 巻之三 一旦盜賊の仲間に入りし者咄の事

「耳嚢 巻之三」に「一旦盜賊の仲間に入りし者咄の事」を収載した。

 一旦盜賊の仲間に入りし者咄の事

 予が方に仕へし太田某、元勤たる屋鋪(やしき)に中間奉公して、實躰(じつてい)に勝手抔立働し者ありしが、彼者一旦身持不埒にて晝盗(すり)の仲間入なせしに、其業淺間(あさましき)敷を見限りて右仲間を立去りしに、なか/\急には遁れがたきものゝ由。右の者咄けるは、神田邊の町家の悴(せがれ)母と兩人暮(ぐらし)し也しが、終に晝盜の仲間へ入て、母は勿論親類も勘當なしけるが、其母深く歎(なげき)、何卒彼が心を改め人間に立歸る樣、日毎に淺草觀音へ參詣なしけるぞ哀れ也き。身寄なる者淺觀音へ參詣の折から彼晝盜に途中にて逢し故、母もかく/\の事にて歎き悲み給ふ、何卒心を取直し人間に立歸候樣申ければ、彼(かの)すりも涙を流し、いかにも我等も立歸るべしといひけるにぞ、さあらば我と同道して今日心を改て母の許(もと)へ立歸るべしと申けるにぞ、觀世音に向ひて誓ひをなし連(つれ)て戻(もどり)、母へ勘當の詫(わび)をなしけるに母も大きに悦び、豆腐商ひをなしける故右の商賣方精を出し、右商ひの外は他へ一向出し不申、其身も他へ出ずして一兩年ありしが、或時觀音へ參詣しけるに、元の晝盗仲間に行合ひ、久しく不逢如何致(いたし)たるやと尋る故、母の歎もだしがたくしかじかの由語りぬれば、夫は尤成事也とて暫くありし昔を語り、久々の對面也酒一つ汲(くま)んとて、酒鄽(さかみせ)に寄て互に汲かわし、今日は珍らしく逢し也、是より吉原町へ行て今宵は遊んと誘ひけれど、母の氣遣ひ待(まち)なんと辭しけれど、邂逅(たまさか)の事也苦しかるまじとてすゝめて吉原町へ行ぬ。彼等志(こころざし)身上(しんしやう)に過て金銀を遣ひ捨るものなれば、かたの如くに酒食を奢(おご)りて、朝かへらんとせし時金錢不足なりける故、少々はたらきして補はんと例の惡心を生じて、人の紙入等を奪ひて不足を償ひしが、夫より又古(いにしへ)の惡業に染(しみ)、亦々晝盜の仲間に入、終に公(おほやけ)の刑罰を請(うけ)し也。かゝる事を見聞せし故、彼中間(ちうげん)は一旦在所相州へ引込、八年過て江戸表へ出しに、最早知れる仲ケ間の者も或ひは死し或は刑罰を蒙りてりて知れる顏なく、誠の人間の數入(かずいり)せしといひしを、右吉田語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、浅草寺観音の霊験もなく悪道へと立ち戻って破滅する若者という設定は、仏道への根岸の猜疑不信感というところで通底しているといえば言えなくもない気がする。

・「予が方に仕へし太田某」本話柄最後は「右吉田語りぬ」で終っている。この人物、本巻で先行する「貒(まみ)といへる妖獸の事」に登場する根岸家の中間と同一人物と思しく(勿論、確定は出来ない)、ここは「吉田」の誤りと思われる。現代語訳では「吉田某」とした。

・「一兩年」一年又は二年の意。私は丸々二年の意で採った。

・「相州」相模国。現在の神奈川県の北東部(川崎市と横浜市の一部)を除く大部分に相当。

■やぶちゃん現代語訳

 一旦盗賊の仲間に入って後に足抜け致いた者が私に語った話についての事

 私のもとに仕えておった吉田某という者――ずっと以前に勤めておった屋敷にても、中間奉公致いて、実直なればこそ勝手勘定方なんどをも勤めておったよし――ところが、この吉田某、その後一旦、身を持ち崩してしまい、掏摸(すり)なんぞの仲間に入って仕舞(しも)うたものの、その悪行の浅ましさに嫌気が差し、その賊から足を洗(あろ)うたとのこと――とは申せ、一度、道を踏み外した者は、なかなか、直ぐにはその道から足抜け致すこと、これ、難しいものであるという。

 以下、その吉田某自身が話したことである――。

……儂(あっし)の、その頃の掏摸仲間の内に、神田辺の町家の小倅(こせがれ)にて、父はとうに亡くなって、母と二人暮ししておる者がおりました。……

 ……その若造も遂には掏摸の仲間へ入ったため、母は勿論、親類一同もそ奴を勘当したんで御座んすが、その母者(ははじゃ)はこれ、深(ふこ)う嘆いて、

――何卒、倅が心改め、真人間に立ち返りまするように――

と、毎日、浅草観音に参詣しておる様は、これ、誠(まっこと)哀れなことで。……

 ……そんな折り、身寄りの者がやはり浅草観音に参詣致いた折り、偶然、仲見世の途中で掏摸となって獲物を物色しておる、その若者に出逢(でお)うた故、

「お前のおっ母さん、どうしとるか知っとるんか! お前の仲間が毎日のように餌食にしとる、罪のねえ、この浅草寺の、この参詣の人々、その一人として、毎日毎日、ただただ、――何卒、倅が心改め、真人間に立ち返りまするように――と歎き悲しんでおらるるんじゃ!……お前! どうじゃ?! 何とかして、誠心取り直し、真人間に戻らんとは、思わんか?!」

と諭しましたところ、彼も涙を流しながら、ふと、

「……い、如何にも……我ら……足を洗(あろ)うて……たち帰りとう御座います……」

とこぼしたそうで御座る――掏摸仲間の冷酷無惨なる一面に、儂(あっし)同様、何処かで嫌気が差してでもおったものでも御座いましょうか――身寄りの者は早速、

「その気なら! さあ! 我らと同道の上、今日只今、心を改めておっ母さんの元へ一緒に立ち戻ると致そう!」

と、彼を浅草寺御本尊の観世音菩薩さまに向かわせると、二言(にごん)なきこと、誓い致させ、実家に連れ戻し、母へ勘当悔悟の詫びを入れさせましたところが、母も大いに悦び――この者の実家の家業は豆腐屋にて御座った故――それからというもの、誠心に豆腐商いに精を出して御座いました。

 母は商いのための拠所ない用事の折り以外には、倅の外出を一切許そうとは致さず、彼自身もまた、殊更に家に籠もって外出をせずにおりました。

 ――さても、彼が足を洗(あろ)うて、丁度、丸二年が経った頃のこと。――

 ある日のこと、彼一人、かく真人間に戻して下すった御礼と、浅草観音まで久し振りに参詣致いたところが、ばったり、昔の掏摸仲間に行き逢(お)うて仕舞(しも)うたので御座る。

「おぅ! 久し振りじゃあねえか! どうしてるぃ?」

と訊かれ、

「……いや、その……母の嘆くのを……黙って見ぬ振りして御座る訳にはいかなんだによって……今は、母と二人、実家の豆腐屋を継いで……まあ、ほそぼそと、やって御座る……」

と語ったところ、

「おぅ! そりゃあ! 尤もなことじゃ!」

と相手も如何にも得心したように頷くと、受け合(お)うたようなことを言って御座ったれば、彼も気を許して仕舞(しも)うて、暫くの間は昔の掏摸仲間であった頃の話なんどに花を咲かせて御座ったが、

「おぅ! 久々のご対面じゃ! どうよ? その辺で、一杯(いっぺえ)やろうぜ!」

と誘われ、優柔不断な男なれば、断わろうにも断わり切れず、つい飲み屋に立ち寄って酌み交わして語り合(お)うておる、そのうちに、

「おぅ! どうよ? 今日(きょうび)、珍しくも逢(お)うたんじゃ! これから一つ、吉原へ繰り出して、今宵は存分に、お遊びといこうじゃねえか?!」

と更に誘わるることと相成って御座った。

「……いや……その……母が心配して……待っておれば……」

と否まんとはせしものの、

「おぅ! おぅ! こうして久し振りに、偶々逢えたんだぜい?! ちっとばかりの息抜きぐれえしたって、どうってことはねえだろ? 観音さまの罰(ばち)でも当るちゅうんかい?!」

と切に勧めた。彼も、

――久し振りの廓(くるわ)じゃ……一晩ぐらいなら、おっ母さんも許して呉れようほどに――

なんどと気を許して仕舞(しも)うて、結局、吉原へと連れ立って行って仕舞(しも)うたので御座る。

 ところが彼等、例によって身の程過ぎての遊興三昧、有り金総てを使い果たし、言わんこっちゃない豪奢の限りを尽くし……さても翌朝、帰らんとせし砌……支払おうにも持ち合わせが足りぬことに、今更ながら気付いて御座った。

「おぅ! ここは一緒に、よ! 昔取った杵柄で、よ! お互い、いっちょ、ちょこっと、よ? 働いて、よ? ケリをつけるちゅうのは、よ? 簡単なことじゃねえか? クイッと、一発! 一度こっきりのこと、だって!」

と連れに誘わるるがままに……またぞろ、件(くだん)の悪心、心に生じ……つい、吉原中の町の沿道に出でて……二人して人の財布を掏摸(す)り……勘定の不足を補(おぎの)うて仕舞(しもう)たので御座った。……

 ……かくて元の木阿弥、かつての悪行に再び染まり帰ってもうて、またしても掏摸仲間に逆戻り……そうして遂には……ご公儀からのお仕置きを請けることと、相成って仕舞(しも)うたので御座いました……。

 ……儂(あっし)は、こういったことを見聞きして御座ったれば……掏摸から足を洗(あろ)うて直ぐ、在所の相模の奥へ引っ込み、八年の月日が過ぎてから、やおら江戸表に出て参ったので御座いまする……。

 ……出てみると、流石に八年も経てばこそ、最早、知れるところの掏摸仲間も――或いは死に、或いはお仕置きを蒙り、斬罪やら江戸払いとなって――一人として知れる顔なんどものうて、かく、ようやっと真人間の仲間入りを致すこと、これ、出来申したので御座いまする……。

と、かの吉田某、しみじみと語って御座ったよ。

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