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2010/09/16

耳嚢 巻之三 米良山奥人民の事

「耳嚢 巻之三」に「米良山奥人民の事」を収載した。

 米良山奧人民の事

 日向國椎葉山の山奧其外米良抔いへる處は、中古其村處(そんきよ)を尋得て人民ある事をしりしよし。御普請役元〆(もとじめ)をなしつる中村丈右衞門といへる老翁ありしが、彼丈右衞門語りけるは、椎葉山の材木伐出し其外御用ありて彼地へ行しに、日雇の者を案内に賴み段々わけ入しに、山中に一村有、家數も餘程あれどまばらに住なせし所也。外に宿すべき所もなければ彼人家に止りぬ。然るに床はなくねこだを敷て、家居の樣子其外外國へも行し程に覺へぬ。米はなき由なれば兼て里より持參せし米をあたへ、食事に焚きくれ候樣申けるに、飯の焚やうをしらず。常には何を食事になすやと尋るに、木の實鳥獸等を食となすよしゆへ大に驚き、召連し小者に申付て飯を焚せけるに、食事濟で殘りし飯を家内へ與へければ、彼家の老翁家族を不殘集、幼き孫彦(まごひまご)等に申けるは、汝等は天福ありて幼稚にて米の食をいたゞき見るに、我等は五十の時始て飯を見たりといひし由。實(げ)にも麁食(そしよく)長生ありといふ古語誠成る哉。右翁は百歳の餘にも成由。孫彦都(すべ)て家内大勢打揃し氣色にて、何れの家もしかなる由語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。後の注でも分かるが、この椎葉米良は隠田集落村で、落人伝説の地、粗食長寿の桃源郷である。

・「日向國椎葉山」現在の宮崎県の北西部の東臼杵郡椎葉村にある山。宮崎県最内陸部の九州山地に位置しており、椎葉村全体が山地であり、村内には多くの山があって、冬期は雪が積もることもある。米良山この椎葉山一帯は天領で人吉藩の預かり地であった。主に参照したウィキの「椎葉村」には更に細かく『戦国時代には椎葉三人衆(向山城、小崎城、大川内城の那須氏)と呼ばれる豪族が支配していた。元和年間、那須氏の間で対立が激化。1619年(元和5年)、幕府は阿部正之、大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。徳川実紀によると住民1000人が捕らえられ140名が殺害されたという(椎葉山騒動)。1656年(明暦2年)以降、天領となり、隣接する人吉藩の預かり地となった』。『伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)』。『日本民俗学の先駆けである柳田国男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに「後狩詞記(のちのかりのことばのき)」(明治42年、1909年)を記した』と書かれている(引用の一部記号を変更した)。

・「米良」現在の宮崎県児湯郡西米良村にある。厳密には市房山・石堂山・天包山の3つから成り、これらを合わせて「米良三山」と呼ぶ。参照したウィキの「西米良村」によると、『15世紀初頭、菊池氏の末裔とされる米良氏が米良に移住。米良山』(当時は14ヶ村を数えた)『の領主として当地を支配し、江戸時代中期以降(現在の)西米良村小川にあった小川城を居城とした。米良氏は明治維新後に菊池氏に改姓した』。『米良山は元和年間(1615-1624年)に人吉藩の属地とされ、廃藩置県(1871年)の際には人吉県(後に八代県、球磨郡の一部の扱い)となり、1872年に美々津県(宮崎県の前身)児湯郡に移管された。こうした歴史的経緯から米良地方は宮崎県(日向国)の他地域よりも熊本県(肥後国)球磨地方との結びつきが強い。これは現在も飲酒嗜好にも表れており、西米良村では球磨焼酎(25度の米焼酎、宮崎県内は20度の芋焼酎が主流)、特に高橋酒造の「白岳」が愛飲されている』とある。椎葉の前注も参照。

・「御普請役元〆」底本の鈴木氏注に幕府の『支配勘定(組頭の下を勘定といい、その下を支配勘定という)の下。この下が普請役。その下が普請役下役となる。』とある。鈴木氏の役職解説は何よりシンプルで分かり易い。前注で分かる通り、ここは江戸から遠く隔たっているが天領であるから、この人物が直接出向いているのである。

・「中村丈右衞門」諸注注せず不詳。

・「ねこだ」方言か。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「寝茣蓙(ねござ)」とある。この意で採る。

・「孫彦」岩波版長谷川氏注に「彦」は曾孫とする。そのような用法は漢和辞典にないが、そう読むしかない。「ひこまご」で「ひまご」か。とりあえず本文は「まごひまご」と読んでおいた。

・「都(すべ)て」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 米良山の奥に住む人々の事

 日向国椎葉山の山奥、そこに隣り合う米良という所は、中古、そこを偶々分け入った人が、村の在るを見出し、初めて人が住んでおることが知れたといういわくつきの山村である。

 御普請役元締を勤めておった中村丈右衛門という老人が御座ったが、その彼が語って呉れた話である。

 ――――――

……天領で御座る椎葉山の材木の伐り出しや、その他の御用が御座って彼地へ赴きましたが、……日雇いの者を案内(あない)に頼み、だんだんに山に分け入ると、……暮れ方にやっと山中の一村に辿り着きました。家数も相応に御座っての、ただ、広い山地に固まらず、疎(まば)らに住みなして御座った。勿論、外に泊まるところもないので、そのうちの一軒に泊りました。

ところが、家内入ってみると、床は御座らず、地べたに大きな寝茣蓙が敷かれておるだけ、家の内外(うちそと)様子なんどは、もう、まるで外国に来たようで御座った。米はないということなれば、かねて里から持ち運ばせた米を与えて、

「食事に炊いて呉れ。」

と申し付けたところが、これ、なんと、飯の炊き方を知らぬと申しました。

「普段は何を食っておるのか?」

と訊ねますと、

「木の実、鳥、獣などを捕って食い物としております。」

と答えるので、拙者も大いに驚き、召し連れておった小者に申し付けて飯を炊かせましたが……食事が済んで、残った飯をその家(や)の者どもへ与えたところ、その家の老翁が家族一同残らず集めた上、幼い孫や曾孫に言うことには、

「……汝らは天のご加護があって、かく年幼(わこ)うして、こうして米の飯を拝み見ることができた……我らなんぞはの、五十の時、初めてこの『飯』というものを見たんじゃぞ……」

と申しました。

 げにも「粗食なれば長生あり」という古き諺は誠(まっこと)真実で御座いますなあ。……何とこの折りの老人、百歳を有に超えているということで御座った。どの家(や)にてもこのように孫や曾孫総ての家族がともに暮らしておるらしゅう御座っての、また、どの家の者も、かく長生きであるという話で御座いました。……

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