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2010/09/23

耳嚢 巻之三 熊野浦鯨突の事――母の退院を祝して

本日、母がこれより退院するので、それを祝してもう一本、「耳嚢 巻之三」に「熊野浦鯨突の事」を収載した。

鯨(いさな)取りの猟師の精悍で生き生きとした表情、その力強い魅力的な掛け声が髣髴としてくる佳品。

僕の好きな一篇。

だから母の退院祝いとする。

 熊野浦鯨突の事

 紀州熊野浦は鯨の名産にて鯨よる事有所也。有德院樣いまだ紀州に入らせられ候折から、鯨突(くじらつき)のやう御覽ありたきとて御成の折から、其事被仰出けるに、或日御成の時、今日鯨寄り候とて鯨突御覺有べき由浦方より申上ければ、御機嫌にて則浦方へ被爲入候處、數百艘の舟に幟(のぼり)を立て追々に沖へ漕出で、一のもり二のもりともりを數十本投てザイをあげけるにぞ、鯨を突留たりと御近習の者も興じけるに、程無船々にて音頭をとり、唄をうたひて大繩を以て鯨を引寄けるに、何れも立寄見ければ鯨にはあらで古元船(ふるもとぶね)にて有し。其村浦の老(おとな)罷出申けるは、鯨の寄り候を見請(みうけ)御成を申上ては御働合ひ一時を爭ふものにて、とても其樣を御覺の樣には難成、これによりて御慰に鯨の突方を學び御覧に入し也。誠の鯨にても少しも違ひ候事は無之候由申上ければ、甚御機嫌宜しく御褒美被下けると也。右浦長(うらをさ)は才覺の者也と、紀州出生の老人かたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。暴れん坊将軍吉宗逸話シリーズ。ここでは本邦の捕鯨が語られている。最初に断わっておくが、私は熱烈な捕鯨再開支持論の持ち主である。私は民俗文化の観点からも、また科学的論理的事実からも、管理された捕鯨の再開を支持する者として一家言ある。私が、反捕鯨の非論理性やその政治的な戦略性・背後の圧力団体・シンパ組織について熱く語り、クジラがアフリカの飢えた子供の命を救い得るという話をしたのを思い出す生徒諸君も多いであろう。しかし、余りにも甚だしい脱線となり、ここはそれを表明する場でもないから涙を呑んで諦める。その代わりとして、せめて日本の捕鯨文化についての比較的客観的な史料的事実だけはここに示しておきたい。例によってウィキの「日本の捕鯨」から大々的に引用(江戸期の歴史的記述まで)する。これは本邦の捕鯨文化を理解して戴きたい故である。ウィキの執筆者の方、お許しあれ。『日本では、8000年以上前から捕鯨が行われてきており、西洋の捕鯨とは別の独自の捕鯨技術を発展させてきた。江戸時代には、鯨組と呼ばれる大規模な捕鯨集団による組織的捕鯨が行われていた。明治時代には西洋式の捕鯨技術を導入し、遠くは南極海などの外洋にも進出して捕鯨を操業、ノルウェーやイギリスと並ぶ主要な近代捕鯨国の一つとなった。捕鯨の規制が強まった現在も、調査捕鯨を中心とした捕鯨を継続している』。『日本の捕鯨は、勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)と呼ばれ、古くから行われてきた。その歴史は、先史時代の捕鯨から、初期捕鯨時代(突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨)、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代へと分けることができる。かつては弓矢を利用した捕鯨が行われていたとする見解があったが、現在では否定されている』。『江戸時代の鯨組による網取式捕鯨を頂点に、日本独自の形態での捕鯨が発展してきた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨は日本各地で近年まで行われていた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨はイルカ追い込み漁など比較的小型の鯨類において現在も継続している地域もある。また、受動的捕鯨(座礁したクジラやイルカの利用)についても、一部地域では慣習(伝統文化)として食用利用する地域も残っている』。『日本における捕鯨の歴史は、縄文時代までさかのぼる。約8000年前の縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市の稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、簎(やす、矠とも表記)先の石器が出土していることや、約5000年前の縄文前期末から中期初頭には、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨の圧迫跡が存在する例が多数あり、これは脊椎骨を回転台として利用していたと見られている』。『弥生時代の捕鯨については、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡から出土した弥生時代中期の甕棺に捕鯨図らしき線刻のあるものが発見されており、韓国盤亀台の岩刻画にみられる先史時代捕鯨図との類似性もあることから、日本でも弥生時代に捕鯨が行われていた可能性が高いと考えられるようになった。原の辻遺跡では、弥生時代後期の出土品として、鯨の骨を用いた紡錘車や矢尻なども出土しており、さらに銛を打ち込まれた鯨と見られる線画が描かれた壷が発見された。もっとも、大型のクジラについては、入り江に迷い込んだ個体を舟で浜辺へと追い込むか、海岸に流れ着いた鯨』『を解体していたと見られている』。『北海道においても、イルカなどの小型のハクジラ類の骨が大量に出土している。6世紀から10世紀にかけて北海道東部からオホーツク海を中心に栄えたオホーツク文化圏でも捕鯨が行われていた。根室市で発見された鳥骨製の針入れには、舟から綱付きの離頭銛を鯨に打ち込む捕鯨の様子が描かれている。オホーツク文化における捕鯨は毎年鯨の回遊時期に組織的に行われていたと見られ、その影響を色濃く受けたアイヌの捕鯨は明治期に至るまで断続的に行われていたとされる。アイヌからの聞き取りによると、トリカブトから採取した毒を塗った銛を用いて南から北へと回遊する鯨を狙うという』。『鯨を捕らえることは数年に一度もないほどの稀な出来事であり、共同体全体で祭事が行われていたという』。『奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている』。『鎌倉時代の鎌倉由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことやクジラやイルカなどの海産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている』。『海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも12世紀には湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた』。以下、本話に現われる「突き取り式捕鯨時代」の記載(以下、記号の一部を変更し、一部表現が私の感覚では違和感があったので『 』外に出して手を加えた)。『突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある』。『「鯨記」(1764年・明和元年著)によれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたの1570年頃の三河国であり6~8艘の船団で行われていたとされる。16世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては、1561年に三好義長が邸宅において足利義輝に鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には1591年に土佐国の長宗我部元親が豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする』ところの習慣『的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心が1614年(慶長15年)に著したとされる「慶長見聞集」において「関東海にて鯨つく事」という一文があり文禄期(15921596年)に尾張地方から鯨の突き取り漁が伝わり、三浦地方で行われていたことが記述されている』。『戦国時代末期にはいると、捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする各地の水軍・海賊出身者たちであった。紀州熊野の太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、1606年(慶長11年)に、泉州堺(大阪府)の伊右衛門、尾州(愛知県)知多・師崎の伝次と共同で捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し突組と呼称された。この後、1618年(元和4年)忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照が尾州知多・小野浦の羽指(鯨突きの専門職)の与宗次を雇い入れてからは本格化し、これらの捕鯨技術は熊野地方の外、三陸海岸、安房沖、遠州灘、土佐湾、相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている』。『1677年に網取り式捕鯨が開発された後も突き取り式捕鯨を継続した地域(現在の千葉県勝浦など)もあり、また明治以降にも捕鯨を生業にしない漁業地において大型のクジラなどを突き取り式で捕獲した記録も残っている『1677年には、同じく太地浦の和田金右衛門頼照の次男、和田角右衛門頼治(後の太地角右衛門頼治)が、それまで捕獲困難だった座頭鯨を対象として苧麻(カラムシ)製の鯨網を考案、銛と併用する網掛け突き取り捕鯨法を開発した』。『さらに同時期には捕獲した鯨の両端に舟を挟む持双と称される鯨の輸送法も編み出され、これにより捕鯨の効率と安全性は飛躍的に向上した。「抵抗が激しく危険な親子鯨は捕らず、組織捕鯨は地域住民を含め莫大な経費のかかる産業であったため不漁のときは切迫し捕獲することもあった。「漁師達は非常に後悔した」という記述も残っており、道徳的な意味でも親子鯨の捕獲は避けられていた。もっとも、子鯨を死なない程度に傷つけることで親鯨を足止めし、まとめて捕獲する方法を「定法」として積極的に行っていたとの記録もある。」という解説もあるが、1791年五代目太地角右衛門頼徳の記録では「何鯨ニよらず子持鯨及見候得者、……もりを突また者網ニも懸ケ申候而取得申候」とあり、また太地鯨唄にも「掛けたや角右衛門様組よ、親も取り添え子も添えて」とあり、鯨の母性本能を利用した捕鯨を行っていた。当初は遊泳速度の遅いセミクジラやコククジラなどを』獲『っていたが、後にはマッコウクジラやザトウクジラなども対象となった。これらの技術的な発展により、紀州では「角右衛門組」鯨方の太地浦、紀州藩営鯨方の古座浦、新宮領主水野氏鯨方の三輪崎浦を中心として、捕鯨事業が繁栄することになった。土佐の安芸郡津呂浦においては多田五郎右衛門義平によって1624年には突き取り式捕鯨が開始されていたが、その嫡子、多田吉左衛門清平が紀州太地浦へと赴き、1683年に和田角右衛門頼治から網取り式捕鯨を習得している。この時、吉左衛門も鯨を仮死状態にする土佐の捕鯨技術を供与したことにより、より完成度の高い技術となり、太地浦では同年暮れより翌春までの数ヶ月間で96頭の鯨を捕獲した。西海地方においても同様に17世紀に紀州へと人を向かわせ、新技術を習得させている。この網取り式の広まりにより、捕獲容易なコククジラなどの資源が減少した後も、対象種を拡大することで捕鯨業を存続することができたとも言われる』。以下、「江戸時代の捕鯨産業」について。まず、「鯨の多様な用途」の項。『江戸時代の鯨は鯨油を灯火用の燃料に、その肉を食用とする他に、骨やヒゲは手工芸品の材料として用いられていた。1670年(寛文10年)に筑前で鯨油を使った害虫駆除法が発見されると』、『鯨油は除虫材としても用いられるようになった。天保三年に刊行された『鯨肉調味方』からは、ありとあらゆる部位が食用として用いられていたことが分かる。鯨肉と軟骨は食用に、ヒゲと歯は笄(こうがい)や櫛などの手工芸品に、毛は綱に、皮は膠に、血は薬に、脂肪は鯨油に、採油後の骨は砕いて肥料に、マッコウクジラの腸内でできる凝固物は竜涎香として香料に用いられた』。次に「組織捕鯨と産業」の項。本話の注として頗る有効。『江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれの藩による直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象はセミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を要したため、組織の維持・更新に困難が伴ったことも衰退に影響していると言われる』。次に「捕鯨を生業としない地域の紛争」の項。これも江戸時代の国内の事柄で、本話注として有効。『鯨組などによって組織捕鯨が産業化されたため流通、用途、消費形態などが確立されたことから以前より一層、鯨の価値が高まった。島しょ部性(面積あたりの海岸線延長の比率)の高い日本において捕鯨を行っていない海浜地区でも湾や浦に迷い込んだ鯨を追い込み漁による捕獲や、寄り鯨や流れ鯨による受動的捕鯨が多く発生するため、鯨がもたらす多大な恩恵から地域間の所有や役割分担による報酬をめぐって度々紛争になった。これを危惧した江戸幕府は「鯨定」という取り決めを作り、必ず奉行所などで役人の検分を受けた後、分配や払い下げを鯨定の取り決めにより行った』。最後に「捕鯨と文化」の項から引用して終える。『捕鯨活動に関連して、捕鯨従事者など特有の文化が生まれた例がある。日本では、捕鯨従事者を中心にその地域住民に捕鯨行為に対しての安全大漁祈願や、鯨に対する感謝や追悼の文化が各地に生まれた。「鯨一頭(匹)七浦賑わう(潤う)」という言葉に象徴され、普段、鯨漁を生業としない海浜地域において鯨を捕獲してその地域が大漁に沸いた事や鯨に対しての感謝や追悼を記念し後世に伝承していた例もある。ほか、鯨唄・鯨踊り・鯨絵巻など、鯨または捕鯨に関する歴史的な文化は多数存在する』。「信仰の対象として(鯨神社ほか)」の見出し部分。『日本の宗教観念では森羅万象を神とする考え方もあり、また人々の生活を維持してくれる作物や獲物に対して、感謝をする習慣があり、鯨墓、鯨塚などが日本各地に建立されている』。『日本各地に鯨に纏わる神社(俗称として鯨神社)がある。多くは鯨の遺骸の一部(骨など)が御神体になっていたり、捕鯨行為自体を神事としている神社などがある。なかには鯨のあご骨でできた鳥居を持つ神社もある』。『日本各地に鯨を供養した寺があり、俗称として鯨寺と呼ばれているものもある。多くは鯨の墓や戒名を付けたりなどしているが、鯨の過去帳を詳細に記述している寺などがある。なかには鯨観音とよばれる観音をもつ寺もある』。そもそもクジラを殺すことを野蛮とし乍ら牛を屠殺し食い続けてきた文化と、獣肉食を永く忌避し乍ら海を血に染めて鯨肉を喰らってきた文化に本質的な倫理的優劣などない。今あるのは前者が後者を絶対的に差別し蔑視し、非人道と言う如何にも怪しげなスローガンでそれを駆逐しようとする前者の側からの相対的な見かけの勾配があるだけである。

・「熊野浦」:紀伊半島南東岸沖合一帯の海域を熊野灘と呼称するが、その沿岸部を熊野浦と呼ぶ。以下、ウィキの「熊野灘」(「熊野浦」ではない点に注意してお読み頂きたい)から一部を引用しておく。『熊野灘は、フィリピン海(北西太平洋)のうち、日本の紀伊半島南端の和歌山県の潮岬から三重県大王崎にかけての海域の名称』。『沿岸はリアス式海岸が目立ち岩礁・暗礁が多い一方で天然の良港も多く、帆船の時代には風待港がない遠州灘と比べれば航海は楽であったという。遠州灘・相模灘とあわせて江戸と上方を結ぶ海の東海道となり、河村瑞賢が西廻り航路を開いてからはさらに多くの廻船で賑わった』。『沿岸の郷土料理には、めはりずし、秋刀魚寿司、なれずしなどがあり、熊野市・志摩市などに複数のダイダラボッチ伝承が伝わる。古式捕鯨の行われていた地域の一つで、太地町には捕鯨基地がある。また、潮岬以東の熊野灘沖では度々黒潮蛇行が発生する』。『尾鷲以北はリアス式海岸、熊野市から新宮までは礫からなる直線的な海岸(七里御浜海岸・三輪崎海岸)を持つ。更に、那智勝浦以南には奇岩が見られる。串本の橋杭岩や、那智勝浦の紀の松島などがそれにあたる。熊野市にも一部奇岩が見られる(例:鬼ヶ城、獅子岩など)』。『沖合いは水深2000m程度で、平坦になっている』。『熊野灘は黒潮が流れ、漁場のひとつとなっている。明治時代までは黒潮を回遊するカツオの大群が沿岸近くまでやって来ており、八丁櫓船などの手漕ぎ船でのカツオ漁が盛んであったが、沿岸近くのカツオの減少、漁船の動力化などにより遠洋化が進んだ』。『太地町は捕鯨の町として知られる。捕鯨問題によって大規模な捕鯨が禁じられている現在も調査捕鯨の船舶が寄航する。また町内にはくじらの博物館があるほか、鯨料理を出す飲食店が多い』。『那智勝浦は西日本を代表するマグロ水揚げ基地であり、本マグロをはじめ様々なマグロが水揚げ・取引されている。また、「まぐろ祭り」も開催されている』。『サンマ漁も行われている。しかし三陸沖から泳いできたサンマは脂がほとんど乗っていないため、おもに寿司や刺身用となる』。『熊野灘は1944年の東南海地震など、約150年の周期で繰り返し発生しているプレート境界地震の震源域にあたる。過去の災害ではとくに津波の被害が甚大である。また、台風銀座でもあり、伊勢湾台風を初めとして何度も台風の被害に見舞われている』とある。これで沿岸の「熊野浦」は凡そイメージ出来るものと思われるが、蛇足で付け加えるなら、私は熊野浦と言えば那智勝浦、那智勝浦と言えば補陀洛山寺――捨身行補陀洛渡海(ふだらくとかい:生身の観音を拝まんがために舟に乗り、南方にあるとする補陀洛浄土を目指して小舟で旅立つ行。)を思い出さずにはいられない。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「御覺」貴人の信望・寵愛の意から、熱望・所望されていたこと、の意。

・「ザイ」采配(「采幣」とも書く)。紙の幣(しで)の一種。戦場で大将が手に持って士卒を指揮するのに振った武具。厚紙を細長く切って作った総(ふさ)を木や竹製の持ち柄に飾り付けたもの。色は白・朱・金・銀など様々。

・「學び」真似をするの意。元来、「学ぶ」の語源は「真似ぶ」である。

・「浦長」所謂、網元。現在で言う漁労長に相当。

■やぶちゃん現代語訳

 熊野浦の鯨突きの事

 紀州熊野浦は鯨が名産で、また、よく鯨が沿岸に寄り来ることで知られる。

 有徳院吉宗公が未だ紀州に御在国であらせられた頃のこと、鯨突きの様を是非とも見たいと、かねてよりの御意にて、熊野浦方へ御成りの折り毎、度々その旨、仰せらて御座った。

 ある日のこと、やはり熊野浦御成りの際、

「今日、鯨が寄って御座りまするとのこと。御所望の儀、どうぞ、ごゆるりと御覧下さりませ。」

と浦方の役人が申し上げたので、吉宗公は、もう少年のように上機嫌におなりになられ、やおらとある浦辺へとお入りになられた――

――と同時に――

――数百艘の舟が色鮮やかな幟を立て……

――どんど! どんど!

――沖へ! 沖へ!

――と、次々に漕ぎ出で……

――びゅっ! びゅっ!

――一の銛(もり)! 二の銛!

――と、数十本の銛が投げられ……

――遂に!

――ざっ!

と、漁場の組頭の持った采配が挙がった!

「おおっ! 鯨を仕留めよった!」

と吉宗公の御近習の者どもも、思わず、どよめいて声を挙げる。

 程なくおのおの舟が音頭をとり、唄を歌って大縄を以って鯨を岸辺に引き寄せる。

――吉宗公はもとよりお付きの者どもも一人残らず、思わず駆け寄って見る……

……と……

――陸揚げされたは……

――鯨――ではのうて……

――上を鯨に似せて覆った古き廃船にて御座った。……

 そこへその浦方の村の老浦長(うらおさ)がさっと罷り出で参り、

「……お畏れながら……鯨突きの儀、その漁の勝負は、組一丸となっての大働きにて、ほんの一時をも争うものに御座いまする。……鯨が寄って参りますのを見つけましてから、お殿さまへ御成りの儀申し上げましたのでは、これ、とても、ご覧頂くこと、叶いませぬ。……そこで、古舟を鯨に見立てまして、せめてものお殿さまのお慰みにと、鯨の突き方を真似てご覧に入れたという……次第にて御座いまする。……但し、真実(まこと)の鯨にても、これと寸分違い御座らぬことは、これ、請け合いまして御座いまする。……」

と吉宗公に申し上げたという。

 これを聞いて上様、殊の外お喜びになられ、また、浦人一人ひとりに、御(おん)褒美を下賜されたとのことで御座った。

「……いや! この浦長、真実(まっこと)、才覚の者にて御座った!――」

とは、紀州出の知れる老人が、己が誉れでも自慢するかのように、楽しげに語った話で御座る。

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