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2010/10/24

耳嚢 巻之三 精心にて出世をなせし事

「耳嚢 巻之三」に「精心にて出世をなせし事」を収載した。

 精心にて出世をなせし事

 久留米侯の家中祐筆に何某とて手跡の達人有しが、右の者咄しける由。同家中に徒士を勤ける者、男ぶりも小さく醜き生れ故、供歩士(ともかち)などには召遣はれず、使のみに歩行(あり)て欝々と暮しけるが、かくして世を渡らんも無念也とて、或日女房に向ひて、某かく/\の事にては世に出ん時なし、是よりして晝夜手跡稽古して、何卒一度世に出んと思ふ也、夫に付妻子有りて我勤めも出來がたし、三年の間里へ歸りていか樣にもいたし、三年の後一ツにあつまる事を思ひ、凌ぎ呉候樣申けるに、女房も其量(りやう)有けるや、尤の由にて立別れ里へ歸りけるに、彼(かの)徒士(かち)夫より毎夜明け七時(ななつどき)迄手習をなし、夜々一時(いつとき)宛臥て、晝も役用の外は手習のみにかゝりて、彼右筆の手跡を習ひけるに、三年過て師匠たる者の手跡よりは遙に増り、則右筆に出て段々出世しける。精心氣丈成者は如斯(かくのごとし)となん。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。解釈に異論もあろうが、臨場感を出すために、ほとんどの現代語訳を話者自身の体験による一人称として訳した。

・「久留米侯」久留米藩有馬氏。筑後国御井(みい)郡(現在の御井郡は大刀洗町一町を除きその広大な郡域の殆んど久留米市に吸収されてしまっている)周辺を領した。以下、ウィキの「久留米藩」の江戸時代パートを引用しておく(記号の一部を変更・削除した)。『江戸開幕当初は筑後一国(筑後藩)325000石を領する田中吉政の所領の一部であり、久留米城には城代が置かれた。元和6年(1620年)、二代藩主田中忠政が病没すると、無嗣子により田中氏は改易となった』。『同年、筑後藩は分割され、柳河城に入った立花宗茂が筑後南部の109000石を領有、久留米城に入った有馬豊氏が筑後中部・北部の21万石を領有した』。『また、宗茂の甥・立花種次が1万石にて三池藩を立藩した』。『久留米の地には丹波国福知山藩より有馬豊氏が13万石加増の21万石にて入封。ここに久留米藩の成立をみた。こうして筑後地方の中心は柳河からその支城であった久留米に移った。有馬豊氏は入封後、久留米城の改修を手がけ、城下町を整備した。なお、有馬氏末裔の有馬頼底は「大した働きもしていないのに13万石加増になったのは不可思議である」旨の発言をしている』。『寛文4年(1664年)から延宝4年(1676年)にかけて筑後川の治水・水利事業が営まれ、筑後平野の灌漑が整えられた。米の増産を目的としたこれらの事業は逆に藩財政を圧迫する結果となった。第4代藩主頼元は延宝3年(1675年)より藩士の知行借り上げを行った。早くも天和3年(1681年)には藩札の発行を行っている。また、頼元はすすんで冗費の節約を行い、経費節約の範となった。以後、6代則維に至るまで財政再建のための藩政改革を続け、これが功を奏し何とか好転した』。『第7代藩主頼徸は54年間にも及び藩主の座にあった。彼は数学者大名として有名で、関流和算の大家であり数学書「拾璣算法(しゅうきさんぽう)」全5巻を著述した。しかし藩政においては享保17年(1732年)、享保の大飢饉が起こり、ウンカによる大被害のため飢饉となり多数の餓死者を出した。更に御殿造営、幕府の命による東海道の諸河川改修手伝いによる出費を賄うため増税を行った。これに対し、領民は6万人規模にも及ぶ一揆を起こすなど、彼の治世は平坦なものではなかった』。『第8代藩主頼貴は天明3年(1783年)に学問所(藩校)を開き、文教の興隆をはかった。天明7年(1787年)には学問所は「修道館」と名付けられたが、寛政6年(1794年)に焼失した。寛政8年(1796年)、藩校を再建し新たに「明善堂」と名付けられた。以後、今日の福岡県立明善高等学校に至っている。幕末の勤王家・真木和泉は当藩校の出身である』とあり、「卷之二」の下限は天明6(1786)年まであるから、この話柄の時間は、この第8代藩主頼貴の文教化政策活性期と一致している可能性があり、そうするとこの主人公の達筆は相当なもので、只者ではなかったと読める。

・「祐筆」以前にも出ている語であるが、ここでウィキの「右筆」を引用して概観しておきたい。『中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた』。『初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう特殊な例外もあった)』。『なお、事務が煩雑化すると、右筆が正式な手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された』。『源頼朝が鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的な業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた』。鎌倉幕府及び室町幕府では『その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、奉行衆(右筆方)と呼ばれる集団を構成するようになった』。『なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった』。『戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆などがいる』。『なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている』。以下、江戸時代の記載。『戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている』。『徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆は待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した』。以上の江戸期の記載は主に幕府方のものであるが、これから類推しても、大名家の祐筆の達人と呼称されるからには、ただの書記レベルと侮ってはならないという気がしてくる。

・「徒士」徒侍(かちざむらい)。御徒衆(おかちしゅう)とも。主君の外出時に徒歩で身辺警護を務めた下級武士。その彼が一度として供侍には用いられなかったというのは、よほどのことで、彼自身、極めて屈辱的なことであったものと思われる。失礼乍ら、ちんちくりんで、とてつもない醜男であったということか。

・「量」思量。思料。思いはかること。慮ること。周囲の状況などをよくよく考え、判断すること。

・「明け七時」正確には「暁七つ」のこと。江戸時代に盛んに用いられた不定時法では、一日を昼と夜で二分、昼を夜明け約30分前に始まる「明け六つ」から「朝五つ」「朝九つ」「昼九つ」「昼八つ」「夕七つ」まで、夜を日没の約30後に始まる「暮れ六つ」「夜五つ」「夜四つ」「暁九つ」「暁八つ」「暁七つ」まで各6等分した六刻計十二刻が用いられた(数字は定時法の子の刻(午後11時~午前1時)に「九」を配し、以下、2時間毎に「八」「七」「六」「五」「四」と下がったところで、再び「九」(昼九つ)から「四」へと下がると覚えておくと分かり易い。またこの夜パートを5等分したものが「更」という時間単位で「初更」「二更」「三更」「四更」「五更」と呼んだ)。但し、これらは季節の一日の日照時間の変動によって現在の時間で言うと最大2時間半から3時間近いズレが生じてくる。昼の長い夏の季節には昼間の一時が長くなり、夜間の一時は短くなる。昼の短い冬場はその逆となる。例えば、この「明け七時」(暁七つ)を例にとると、夏至の際には午前3時少し前位であるが、春分・秋分点で3時半前後、冬至の頃には御前4時過ぎまでずれ込む。不便に思われるが、寺院の鐘がこれを打って呉れ、また、当時の庶民のスロー・ライフにとっては、丼の勘定のそれで十分であった。現在のような秒刻みのコマネズミ生活は存在しなかったのである。

・「一時」ここでの言いは定時法の一時を援用しているもと思われ、二時間に相当する。しかし彼の精進は厳しいものであったと思われるから、あくまで不定時法で厳密に言ったとするならば、夜の「一時」に当たる「一つ」が短くなる夏場ならば、実に一時間強しか寝なかったということになる。武士の場合、城勤めの場合は明け六つ(午前六時)には登城というデータがある。彼は上屋敷勤務の徒士であるから、多少は屋敷内の長屋でぎりぎりまで寝ていられたのかも知れない。

■やぶちゃん現代語訳

 心底覚悟し努力致いて出世を遂げた事

 久留米候御家中祐筆に何某という手跡の達人がおる。以下は、彼自身が語った話であるとのこと。

……私は同御家中にあって御徒士(おかち)を勤めて御座ったが、体も小兵であった上に、顔も、かく、生まれつき醜かったがため、御主君の供徒士などとしては全く召し遣われること、これ御座らず、専ら下働きの、地味な御使いの御用ばかりに歩かされ、……かくなる容貌なれど、拙者も男、内心鬱々たる思いのうちに暮らして御座った。……

……そんな、ある時、

「……このままにて世を渡り……ただただ、使い歩きとして老いさらばえるは……如何にも無念!」

と一念発起致いて、女房に向かい、

「……我らかくなる有様にては最早出世なんど、夢のまた夢……されば! これより昼夜手跡稽古致いて、その技芸にて何とか一度、花を咲かせて見せんとぞ思う。――ついては妻子、これ、あっては、その覚悟の稽古も思うようには出来難し! 相済まぬ! 三年の間、子を連れ里へ戻り、如何にも身勝手なること乍ら、一つ何とか、し暮らして呉れぬか?! 三年の後には、我らこの業(わざ)を以って必ずや身を立て、再び皆して一緒に暮らそうぞ! それを信じて、一つ、辛抱して呉れぬかッ?!」

と告げて御座った。

 拙者の女房――拙者の如き面相の者の妻になる程のものなれば、凡そ器量もご想像にお任せ致すが――器量は知らず、度量は広き女にて御座ったれば、

「……分かりました。――御子(おこ)のことは御心配に及ばず、どうか御精進に精出だされ、目出度く御出世の上はきっと我ら迎え下さいますること、ひたすらお待ち申し上げておりまする。」

と委細承知の上、その日のうちに子を連れて里方へと引き上げて御座った。

……それからというもの――拙者、日々の勤務終業の後は、毎夜明け方七つ時まで手習いを続け、夜は一時の間のみ横になるだけで御座った。昼間も――相も変わらぬ使いっ走(ぱし)りの仕事はしっかりとこなして御座った――なれど、誤用なき暇な折りには、休んだり、朋輩と談笑したりすることものう――ひたすら手跡の稽古、稽古、稽古――当時の御家中にあった名うての御祐筆の方の手跡を借り受けては、それを御手本として、手習い修行に励んで御座った。

……さても三年過ぎて、拙者が手跡――己れで申すも何では御座るが――師匠で御座った御当家御家中御祐筆筆頭のそれを、遙かに凌駕する達筆名筆と相成って御座った。――程なく、久留米侯御耳朶にも達し、御当家祐筆として取り立てられて後、かく出世致すこと、これ、出来申した。……」

 心底覚悟致いて努力する者は、これ、必ずや、かくの如くなるという、よき鑑(かがみ)にて御座る。

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