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2010/10/18

耳嚢 巻之三 盲人吉兆を感通する事

「耳嚢 巻之三」に「盲人吉兆を感通する事」を収載した

 盲人吉兆を感通する事

 有德院樣未(いまだ)紀州中納言にて被爲入(いらせられ)、御庭の御物見に御座(ござ)ありしに、彼御物見下を平日御療治等さし上(あげ)し座頭某通りけるが、暫く耳をかたむけ御物見に立歸り、やがて御殿へ出けるに、何ぞ恐悦なる事はなきや、扨々御目出度事也と申上けるに、いか成事にてかく申やと尋けるに、今日御物見下を通りけるが、頻に御屋敷内にて餠など舂(つ)き候音なして、いかにも悦(よろこば)しき物音なり、何か恐悦の事あらん、其時は御祝ひを御ねだり申さんなど申けるにぞ、上にも御笑ひありしが、無程御本丸へ被爲入、將軍に被爲成(ならせられ)ける。右盲人は其後板鼻(いたばな)檢校とかいひて、御供なしけるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:物見櫓エピソード連関と、紀州南龍院徳川頼宣から孫である第八代将軍吉宗で連関。

・「有德院」は八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「紀州中納言」正確には権中納言。吉宗は宝永2(1705)年10月6日に紀州徳川家5代藩主に就任、同年12月1日には従三位左近衛権中将に昇叙転任、同時に将軍綱吉の偏諱を賜って「頼方」から「吉宗」と改名、宝永3(1706)年参議、翌宝永4(1707)年1218日に権中納言に転任している。権中納言であったのは、ここから正徳6(1716)年4月30日の将軍後見役就任までの9年間である。話柄からは正徳6(1716)年春か、前年の秋頃のことと思われる(年末年初では餅搗きの音は奇異ではない。これはそうした時期でないことを意味している。但し、は正徳6(1716)年春には最早人事は明白であったとも考えられるから、やはり前年秋ぐらいの方が都市伝説としてはグッドである)。 

・「物見」前項同注参照。但し、ここでは城下の物見台ではなく、庭を見下ろすための高楼のようなものかも知れない。

・「無程御本丸へ被爲入、將軍に被爲成ける」吉宗は享保元(1716)年8月13日に征夷大将軍源氏長者宣下を受け、正二位内大臣兼右近衛大将に昇叙転任して、第八代将軍となった。事蹟の参考にしたウィキの「徳川吉宗」によれば、この将軍就任の際、吉宗は『紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、第5代将軍・徳川綱吉の館林藩、第6代将軍・徳川家宣の甲府徳川家は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩にされ、甲府徳川家の藩士は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君家康から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通・有馬氏倫ら大禄でない者を二十数名選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。こうした措置が、側近政治に怯える譜代大名や旗本から、好感を持って迎えられた』とある。

・「板鼻檢校」板花喜津一(いたばなきついち 慶安5・承応元(1652)年~享保6(1721)年)。岩波版長谷川氏注に『宝永六年家宣に目見、奥医に準ぜられ享保元年二百俵支給』(宝永6(1709)年)とある。この「奥医」というのは、吉宗の準奥医扱いということであろうか(でなくては辻褄が合わない。大名の侍医も奥医と呼ぶ)。しかし、本文では最下級の「座頭」とある。「目見」「奥医に準」ずるのに、これは明らかにおかしい。これではやはり、本話が眉唾の都市伝説であると言われても文句は言えまい。それとも板花喜津一ではないのか? その辺の齟齬について長谷川氏は何も述べておられないので、底本の鈴木氏注を見る(今まで奇異に思われていた方もあるかも知れぬので一言申し添えておくと、私の、この「耳嚢」の注は原則、まずオリジナルな注を目指すために諸注を見ずに原案を作り、次に最も最新の注である岩波版を参考にして捕捉を加え、最後にやはり参考のために底本の鈴木氏注を確認するという順序をとっている。しかし乍ら、古い注ながら底本の鈴木氏の注は注釈の真髄を捉(つら)まえているものと感服することが多い)と、私が思った通り、『吉宗の紀州時代というのは誤であろう。話を面白くするための付け加えであるかも知れない』とされている。「檢校」は盲官の最高位。

■やぶちゃん現代語訳

 

 盲人は聴覚にて超自然の吉兆を感じとる事

 有徳院吉宗様が未だ権中納言にて紀州和歌山藩藩主であらせられた折りのことで御座る。

 ある日のこと、吉宗様、御庭の御物見台へ御登第なされ、そこに座っておられた。

 丁度、その時、日頃吉宗様御療治のため、御城に来診致いて御座った座頭の某が、その御物見台の下の辺りを通りかかって御座った。

 物見窓から覗いてご覧になられると、座頭は、立ち止って何やらん、こちらの方に耳傾けておる様子にて、御物見台の下まで、わざわざ戻って参り、また暫く聞き耳を立てる様子の後、御殿へと上がって御座った。 

 その日、御療治のため、座頭が吉宗様に拝謁致いたところ、座頭、

「……何ぞ近々、恐悦至極なる御慶事にても、これ、御座いまするかのう? さてもさても! 御目出度きことにて御座る!……」

と申し上ぐるので、吉宗様は妙に思われ、

「何故、斯様なことを申す?」

と質された。

 すると座頭、

「……今日、ここに参りまする折り、御物見の下を通りましたところが、しきりに御屋敷内より――ぺったん、ぺったん、ペったん、ぺったん――と、餅なんどを搗く音、これ、聞こえましたれば……これ、如何にも悦ばしき物音なればこそ……近々、恐悦なる御事、必ずやありましょうぞ! その折りには、拙者、一つ、御祝儀なんどを、御ねだり申し上げましょうかのう……」

と申し上げるのをお聞きになられると、吉宗様は飽きれて大笑いになされたとのことで御座る。――

 ――なれど、程のう、江戸城御本丸へ入らせられ、将軍様にならせられまして御座る。――

 ――かの座頭は、その後(のち)、板鼻(いたばな)検校とか申す名と高位を得、吉宗様にお供致いた、とのことで御座る。――

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