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2010/10/30

耳嚢 巻之三 長崎諏訪明神の事

「耳嚢 巻之三」に「長崎諏訪明神の事」を収載した。


 長崎諏訪明神の事

 右は長崎始の比(ころ)、耶蘇宗門制禁の事に付建立ありし由。慶長元和の比なりしや、長崎はとかくに耶蘇の宗門に寄皈(きき)なして、品々制禁有けれど用ひざりしかば、或修驗(しゆげん)とやら又は神職とか、存寄を申出、諏訪明神を勸請なして國俗を淸道に尊んと顧ひし故、其願に任せ御入用を以御建立ありけれど、何分耶蘇信仰の輩故、諏訪の社頭へ參る者なかりしに、時の奉行市中へ大き成穴を掘て炭薪を積、火を放ちて長崎中耶蘇信仰の者は不殘燒殺すべしとて吟味ありけるにぞ、始て死を恐れ改宗して諏訪明神の氏子と成し由。依之右諏訪明神は三度祭禮の時も、奉行今以出席なし祭禮濟の趣江戸表へも注進にて、誠に嚴重の事なる由、人のかたりける也。

□やぶちゃん注

○前項連関:迷信から宗教絡みの話であるが、さして連関を感じさせないというのが本音。

・「耶蘇宗門」切支丹(キリスト教)宗門に対する江戸幕府の正式な最初の禁教令は、慶長171612)年321日年に布告された慶長の禁教令で、江戸・京都・駿府を始めとした直轄地への教会破壊命令及び布教禁止を命じたもので、直轄地以外の各地諸大名もその禁令に準じて家臣団の信者の洗い出しと処罰等を行った。その後は、参照したウィキの「禁教令」によれば、翌慶長181613)年219日、『幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は以心崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法とな』ったとし、『この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され』、翌慶長191614)年9月『には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいた』とある。但し、『幕府は禁教令の発布によってキリスト教の公的な禁止策こそ取ったが、信徒の処刑といった徹底的は対策は行わなかったし、依然、キリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンやクリストファン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約50名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が済む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは宣教師は南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためである』(最後の引用は脱字を補った)。例えば『京都所司代であった板倉勝重はキリシタンには好意的で、そのため京都には半ば黙認される形でキリシタンが多くいた(先述の「デウス町」の住人)。しかし、秀忠は元和2年に「二港制限令」、続けて元和5年に改めて禁教令を出し、勝重はこれ以上黙認できずキリシタンを牢屋へ入れた。勝重は秀忠のお目こぼしを得ようとしたが、逆に秀忠はキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じた。そして10月6日、市中引き回しの上で京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)。この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。これは明白な見せしめであったが、当のキリシタンは殉教として喜んだため、幕府は苛立ちを高めた』。以下、一部後述の長谷川権六の事蹟とダブるが、本話柄までの禁教令概観のために引用しておく。『そのような情勢の元和6年(1620年)、日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかる(平山常陳事件)。この一件によって幕府はキリシタンへの不信感を高め大弾圧へと踏み切る。キリスト教徒の大量捕縛を行うようになり、元和8年(1622年)、かねてより捕らえていた宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たち計55名を長崎西坂において処刑する(元和の大殉教)。これは日本二十六聖人以来の宣教師に対する大量処刑であった。続けて1623年に江戸で55名、1624年に東北で108名、平戸で38名の公開処刑(大殉教)を行っている』とある。これが後の鎖国令と島原の乱へと続くが、その辺りは引用元をご覧になられたい。

・「長崎諏訪明神」長崎市上西町にある諏訪神社のこと。公式サイト「鎮西大社 諏訪神社」の「神社由緒」に『長崎は、戦国時代にイエズス会の教会領となり、かつて長崎市内にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社は、焼かれたり壊されて無くなっていたのを、寛永2年(1625)に初代宮司青木賢清によって、西山郷円山(現在の松森神社の地)に再興、長崎の産土神としたのが始まり』であるとし、『さらに、慶安元年(1648)には徳川幕府より朱印地を得て、現在地に鎮西無比の荘厳な社殿が造営され』たが、『安政4年(1857)不慮の火災に遭い、社殿のほとんどを焼失し』たものの、明治天皇の父である『孝明天皇の思召しにより、明治2年(1869)に約十年の歳月をかけて以前に勝る社殿が再建され』た。『当神社の大祭(長崎くんち 10月7・8・9日)は、絢爛豪華で異国情緒のある祭として日本三大祭の一つに数えられ、国の重要無形民俗文化財に指定されてい』るとある。御自身が訪れた全国の神社についての克明な記録をなさっている個人のHP「玄松子の記憶「諏訪神社(長崎)」のページには『金比羅山(366m)の麓に鎮座している大社で、元和9年(1623)、佐賀の修験者青木賢清が、諏訪大明神・住吉大明神・森崎大権現の3神を祀』った旨の前史の記載があり、更に創建当時は『キリスト教の影響が強く、神社・寺院などは破壊される状況だった。青木賢清もキリスト信者から悪魔と呼ばれていたという』『が、寛永年間頃からキリスト教徒も減少しはじめていたよう』であると記されている。

・「慶長元和」西暦1596年から1624年。前注で示した通り、諏訪明神勧請は元和9(1623)年のこと。

・「寄皈」帰依に同じ。

・「或修驗とやら又は神職とか」前注で示した通り、佐賀の修験者青木賢清。

・「諏訪明神」建御名方神(たけみなかたのかみ)を指す。ウィキの「建御名方神」によれば(一部の記号を変更した)、『出自について記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。妻は八坂刀売神とされている』。『建御名方神は神(みわ)氏の祖先とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある』とあり、この記載からは諏訪という別名が有力氏子の氏姓や地名由来の神名であることが分かる。以下、「諏訪大社の伝承に見る建御名方神」の項に、長野県諏訪大社の『「諏訪大明神絵詞」などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある』とある(「洩矢神」は「もりやしん」と読む)。「各地の祭神としての建御名方神」の項。『諏訪大社(長野県諏訪市)ほか全国の諏訪神社に祀られている。「梁塵秘抄」に『関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮』とあるように軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる』とある。もしや、南方熊楠先生の姓のルーツって?……

・「時の奉行」元和9(1623)年当時の長崎奉行は長谷川権六(藤正)(?~寛永7(1630)年)。在任期間は実に慶長191614)年から寛永3(1626)年までの約12年間に及んだ。ウィキの「長谷川権六」によれば、『宗門人別帳の作成でキリシタンの捜索を行ない、光永寺・晧台寺・大音寺などの建設がなされ、末次平蔵[やぶちゃん注:生没年(天文151546)年?~寛永71630)年)。元切支丹であったが棄教し、積極的な弾圧者に変身した人物。貿易商人から長崎代官となった。]とともに諏訪神社を再興する。また、日本に残留した神父をかくまったり、信徒が会合を開いたり、破却された天主堂の跡に行って祈ったり、聖画を所有したりすることを禁じた。元和6年(1620年)にはミゼリコルディア(慈悲の兄弟会)の天主堂や、長崎の教会所属の7つの病院を破却。キリシタンの墓地を暴き、信徒の遺骨を市外に投棄させた』。『江戸で将軍徳川秀忠からキリシタンへの弾圧を督励された権六は、元和8年(1622年)7月にキリシタンの平山常陳と彼の船で密入国を図った聖アウグスチノ修道会のペドロ・デ・スニガ(Pedro de Zuñiga)とドミニコ会のルイス・フロイス(Luis Flores)の2人の神父、それに船員達を長崎の西坂の地で火刑と斬罪に処した(「平山常陳事件」)。同年8月、神父9人・修道士13人、指導的信徒33人の計55人を処刑した(「元和の大殉教」)。この大殉教で処刑されたカルロ・スピノラ神父たちが収容されていた鈴田の公儀牢は、権六の命令により大村氏によって元和5年(1619年)8月に新築されたものである』。『寛永2年(1625年)には、ポルトガル船船長に乗船者名簿の提出を命じ、未登録者の乗下船とマカオからの宣教師宛物品の積み下ろしを禁じ、来航ポルトガル人の宿泊先も非キリシタンの家に制限した。翌寛永3年(1626年)、来航商船に対し全積み荷の検査とその目録作成を命じ、教会関係の物品がないか調べた。マカオ市当局は、日本貿易維持のため長谷川の勧告に従わざるを得ず、各修道会に在日宣教師への書翰や物品の送付を禁じ、宣教師渡航の自粛を求めた』とあり、本話柄の脅しが、ただの脅しでなかったことが分かる。根岸はソフトに「吟味ありけるにぞ」とぼかしているが、この男、任務遂行に忠実なだけでなく、真正のサディストででもあったものか、誠(まっこと)完膚なきまでの恐ろしき粛清者の相貌が伝わってくるではないか。従って敢えて姓名を現代語訳でも出し、決して忘れてはならぬホロコーストの首謀者の記録とすることとした。

・「始て死を恐れ」とあるが、前掲注の引用の京都の例にもある通り、一部信者は逆にそれを殉教の秘蹟として受けとめていたことも――逆効果を齎してもいたという事実と、その信仰心の強さをも――忘れてはなるまい。

・「諏訪明神は三度祭禮の時」私はこれは年間三度の例祭という意味ではなく、三日に亙って行われた例大祭のことをかく言っているのではないかと判断して現代語訳した。現在、先に掲げた「鎮西大社 諏訪神社」公式サイトの「年間行事」を縦覧してみると、例祭はいろいろあるもののの、その多くは現代の通常の神社で節気ごとに行われるものと殆んど同じである。それに対し、現在10月7日から9日までの三日間で行われる長崎くんちの名で知られる本神社の例大祭は、そもそもが三回の祭礼から構成されている(本話柄の頃のこの祭礼が全く同じ構成であったという確証はないが、神輿による神霊の渡御から湯立神事等を含む祈請報恩、そして還御という神道に特有のオーソドックスな構成は決して新しいものとは思われない)。具体的には、7日に諏訪・住吉・森崎三社神輿の大波止御旅所(仮宮)への渡御とその渡御御着祭が成された後、翌8日に諏訪神社の『年間最重儀の祭典』と記される例大祭が行われる。因みに、現在の「例大祭」では『皇室の弥栄と国家の繁栄、氏子の平安を祈念』し、後に「特別崇敬者清祓」として湯立神事を斎行、その後に敬神婦人会員(女性の氏子のことか?)によって『神前に御花と御茶をお供えし、神恩に感謝する』「献花献茶奉納行事」が挙行されている。三日目の9日には「お上り」と称する本社へ神輿の出発、本社御着遷御祭で幕を閉じるという三祭礼による構成である。

■やぶちゃん現代語訳

 長崎諏訪明神の事

 この明神は、現在のような長崎の町が生まれた初期の頃のこと、耶蘇宗門御制禁のお達しに伴って建立されたものである由。

 慶長・元和の頃とか申す――その頃の長崎は、とかく耶蘇の宗門に帰依する者夥しく御座って、幕府や奉行所より様々な御制禁の処置が施されたものの、これ、一向に効果が上がらずじまいで御座った。

 その折り、とある――修験者であったか、神職であったか――が、奉行所へかく申し出て参った。

「――諏訪明神を勧請申し上げて、邪教のために忌まわしいまでに穢れたこの国俗を、清浄なる神道の正しき道へと導かんと存ずる――」

とのこと故、その願いに任せ、公費を割いてまで建立致いたもので御座った。

 ところが何分、根強き邪神耶蘇信心の輩ども故、なかなかに諏訪明神社頭へ参詣する者、これ、御座らなんだ。

 ――ところが――

 ある日のこと、時の長崎奉行で御座った長谷川藤正権六殿、市中の広場に巨大なる穴を掘らせ、そこへ多量の炭や薪を積み上げて、火を放ち、

「――長崎中(じゅう)耶蘇信仰せる者は――これ――残らず焼き殺さずば措かず!――」

と高札を掲げ、声高に布告なし、事実、厳しく吟味の上、厳罰に処したという。――

 さればこそ、これによって邪教の輩も、初めて死を恐れ、改宗して諏訪明神社の氏子となったとのこと。――

 この時より、この諏訪明神社三日に亙って執り行われる例大祭の折りにも、今に至るまで、必ず長崎御奉行が臨席の上、祭礼滞りなく済みたらば、そのこと、江戸表へも必ず報告致すなど、例大祭とは言え、たかが一社(やしろ)の祭に過ぎぬにも拘わらず、誠に厳格にして厳重なる仕儀これある由、私の知れる者の語ったことにて御座る。

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