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2010/11/29

さそりの火 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より

 川の向う岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔ったようになってその火は燃えているのでした。
「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云いました。
「蝎の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして答えました。
「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火って何だい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が云ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ。」
 ジョバンニはまったくその大きな火の向うに三つの三角標がちょうどさそりの腕のようにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。

(宮澤賢治「銀河鉄道の夜」「九、ジョバンニの切符」より。テクストは僕の御用達「森羅情報サービス」版を用いた)

2010/11/28

「予告篇 芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈冒頭河童一覧」リロード!

『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』を遂に完成した。後は260000アクセスを待つばかり。

現在只今257068アクセス――今暫くですね……近日公開! 乞うご期待!

先に示した「予告篇 芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈冒頭河童一覧」は昨日来、大幅に訂正・増補を繰り返したために、アップした時のものとはすっかり変わってしまったから、これを期に、完全リロードした。御覧あれ。

2010/11/27

エリス・ヤポニクス 村上昭夫

エリス・ヤポニクス

シャガの学名とある

だがあの言葉は

まるで別の花のような気がしてならない

 

シャガならたしかに仙台の日陰の地に咲いていた

ぼくはそれをカラースライドにしてまでとったのだ

カラースライドの下枠に

シャガの花と書いたのだ

 

だがエリス・ヤポニクスと

そう言って見ると

まるで天上からふわふわ降ってくる

五月のくれる綿菓子みたいな気がしてならない

 

エリス・ヤポニクス

きっとそうなのだ

あれは苦しいぼくの五月の病いのような時に

何時でも咲いてくれる永遠の心臓花

枯れない五月の名前なのだ

Iris_japonica1_flower

被子植物門単子葉植物綱ユリ目アヤメ科アヤメ属シャガIris japonica

学名の種小名はjaponica(「日本の」という意味)であるが、中国原産でかなり古くに日本に入ってきたものと考えられている。したがって、人為的影響の少ない自然林内にはあまり出現しない。スギ植林の林下に見られる場所などは、かつては人間が住んでいた場所である可能性が高い。そういう場所には、チャノキなども見られることが多い。根茎は短く横に這い、群落を形成する。草丈は高さは50~60cmくらいまでになり、葉はつやのある緑色、左右から扁平になっている。いわゆる単面葉であるが、この種の場合、株の根本から左右どちらかに傾いて伸びて、葉の片面だけを上に向け、その面が表面のような様子になり、二次的に裏表が生じている。人家近くの森林周辺の木陰などの、やや湿ったところに群生する。開花期は4-5月くらいで、白っぽい紫のアヤメに似た花をつける。花弁に濃い紫と黄色の模様がある。シャガは三倍体のため種子が発生しない。このことから日本に存在する全てのシャガは同一の遺伝子を持ち、またその分布の広がりは人為的に行われたと考えることができる。中国には二倍体があり花色、花径などに多様な変異があるという。また、シャガを漢字で「射干」と書くことがある。しかし、ヒオウギ(檜扇)のことを漢名で「射干」(やかん)というのが本来である。別名で「胡蝶花」とも呼ばれる。(以上記載及び写真はウィキの「シャガ」より引用)

村上昭夫は昭和43(1968)年10月11日、肺結核と肺性心のため亡くなった。41歳であった。

肺性心(はいせいしん、英: cor pulmonale, CP)は、肺の疾患の存在による肺循環の障害によって肺動脈圧の亢進をきたし、右心室の肥大拡張が生じる状態。肺高血圧あるいは右心系のうっ血性循環障害が認められる。進行するとチアノーゼ、頚静脈の怒張、静脈拍動、浮腫をきたす。(以上はウィキの「肺性心」より引用)

「舞姫」なる哀れ狂女となりぬエリスの耳元に……僕は、この詩を優しく囁いてやりたくなった……

2010/11/25

縄文芸術論をぶち上げて若き芸術家をたぶらかした岡本太郎が更に犯していた万死に値する許し難き原罪

昔から嫌いだった――かつて裏切られたと鮮やかに記されたヨシダヨシエ氏の著作を読んでますます嫌いになった――それが今日、決定的に既に死んでいる彼の墓にIBSの僕の粘液便を思う存分、ヒリたくなった!――縄文を賛美しながら縄文に繋がる美しき久高島を汚した岡本太郎という存在に、万死を!!!――

雨崎良未氏の『久高島の祭「イザイホウ」と、島の風葬が殺された顛末』

語るも汚らわしい!!!

――実はこういう言い方をするとあの下劣な岡本太郎という男は却って喜ぶから始末におけないのだが――怒りの方が先行する僕にはこれ以外に言う言葉がない――

岡本糞郎よ! 噴飯噴糞高度経済成長権現大明神太陽の塔のニグクサイ股の下で――あれには性交するための股もない! あるのは資本主義のズンドウのケツの穴だけだ!――自分の糞でも舐めて涎を流すがいい!

岡本クソ太郎! お前の芸術は――ただの爆発したオレの大腸の憩室のクソの堆積に過ぎない!――

2010/11/23

森鷗外 舞姫 / 森鷗外「舞姫」やぶちゃん現代語擬訳全篇

正字正仮名版森鷗外「舞姫」及び『森鷗外「舞姫」やぶちゃん現代語擬訳全篇』を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。今回の3年生の「舞姫」の授業で、僕は生まれて初めて「舞姫」の全文の現代語訳に挑戦、生徒にも全篇を配った(昨年、後半部の訳を行い、当時の生徒に配ったことはある)。但し、多数の仕掛けを施したものであるから単なる現代語訳と呼ばずに現代語擬訳と名打った。今までも、何人かの作家や文学研究者が試みてはいるが、僕のはオリジナルに、相応の自信がある。それは朗読に耐え得る訳を試みたからである。是非、声に出して、豊太郎になりきって読んで頂きたい。仕掛けとは、例えば、冒頭である。何故に鷗外は「石炭をばは早や積み果てつ」と大仰に振りかぶって起筆したのか? これはこれから語る総てが――致命的に「果て」た――状態にあることを、言わんとしたものではなかったか? だからここにはどうしても「もう――すっかり終ってしまった」という失意と諦観の印象が必要なのである。また、クロステル街の形などである。それは凹字型なのだ――子宮の如く――

なお、今年の3年生の諸君、今回公開した擬訳は、先般お配りしたものとは細部を改訳してある。本頁のものを決定稿として、お読み頂ければ幸いである。試験が近いね。「舞姫」論を書く小論文も出題している。健闘を祈る。

耳嚢 巻之三 吉兆前證の事 根岸鎭衞「耳嚢 卷之三」全注釈現代語訳 完了

「耳嚢 巻之三」に最終話「吉兆前證の事」を収載、以上を以って根岸鎭衞「耳嚢 卷之三」の全注釈現代語訳を完了した。


 吉兆前證の事

 當時昇身して諸大夫(しよだいぶ)席勤たる人、其以前布衣(ほい)也し日比(ひごろ)、上野へ至りて歸る比、下谷廣小路にて葬禮に行合しに、大風にて棺上に懸し白無垢、風に飜飛(はんぴ)して彼人の乘輿の上へ落けるに、葬禮の輩は大きに恐れ一言の言葉にも及ず、足を早めて逝去りぬ。駕脇の家來大に驚き、憎き者哉(かな)と憤り追欠(おひかけ)んとせしに、其主人是を制して、右白無垢を途中に捨歸らんやうもなければ、我宿に持歸ければ、家内の者忌はしきやう申罵りけるを、是は左にあらず、當年は果して諸大夫の御役にも進みなんとて、殊の外悦び祝しけるが、果して其年白無垢を着て諸大夫の御役にすゝみけると也。物は吉瑞も有るものかや。水谷信濃守といへる人、水の縁にもよるや、御役替或は吉事の時はかならず雨降ける。信濃守御留守居に成し時も、大雨車軸をながし、當但馬守御留守居に成し頃も又同時なりしに、前日大雨車軸をながしけるに、門前の小溝にて門番すばしりといへる魚をとり得て奧へ差出しけるに、目出度事也とて池へ放しいわゐ悦びけるが、奉書到來して其翌日御留守居被仰付けると也

○前項連関:特に連関を感じさせない。文末の句点なしはママ。

・「吉兆前證」よい前兆の証し。

・「諸大夫」五位。元来は律令制下の官位で四位・五位の地下人(じげにん)又は四位までしか昇進出来ない低い家柄の官人を指した。所謂、平安期の受領(ずりょう)階級(名前だけで現地に赴かない高位の遙任国守に対する実務国守階級)や実務官人としての武士もこれに属していた(その下に家来としての一般武士階級も勿論あった)。これが近世以降、五位という官位から、公家にあっては親王家や摂関家などの家司(けいし)が、また武家にあってはこの官位を受けた大名や旗本が、この職名で呼ばれた(以上はウィキの「諸大夫」を参照した)。

・「布衣」六位。布衣は近世、無紋の狩衣を指したが、同時に六位以下及び御目見以上の者が着用したことから、その身分の者を言うようになった。

・「上野」寛永寺。

・「下谷廣小路」現在の台頭区にある上野中央通り。寛永寺門前で火災の火除け地として広げられていた小路で、古くはここが真の下谷の地であった。 

・「水谷信濃守」水谷勝比(かつとも 元禄2(1689)年~明和8(1771)年)。底本の鈴木氏注に、『享保五年家をつぐ。千四百石。十四年堺奉行、従五位下信濃守。御普請奉行。御旗奉行を経て、宝暦九年御留守居にすすみ、明和八年致仕』とあるから、この話柄は宝暦9(1759)年のことであることが分かる。

・「御留守居」は江戸幕府の職名。老中支配に属し、大奥警備・通行手形管理・将軍不在時の江戸城の保守に当たった。旗本の最高の職であったが、将軍の江戸城外への外遊の減少と幕府機構内整備による権限委譲によって有名無実となり、元禄年間以後には長勤を尽くした旗本に対する名誉職となっていた(以上はフレッシュ・アイペディアの「留守居」を参照した)。

・「但馬守」水谷勝比の子である水谷勝富(かつとみ 正徳5(1715)年~寛政3(1791)年)。底本の鈴木氏注に、『明和五年従五位下但馬守。安永七年一橋家家老、天明五年御留守居、八年御旗奉行』とあるから、この話柄は天明9(1789)年のことであることが分かる。但し、天明9年は125日に寛政に改元されているので、根岸が厳密な元号表記をしているとすれば、この出来事は天明9年1月1日から24日までの間に限定出来ることになるが、流石にそこまでは考えて書いてはいないであろう(ただ、補任が正月に行われることはあってもおかしくはない気がする。識者の御教授を乞うものである)。

・「すばしり」鰡(ぼら)の幼魚。ボラ目ボラ科ボラ Mugil cephalus。ボラは出世魚で、例えば関東方言では、オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トドなどと変化する。底本の鈴木氏注では三年ものとするが、漁業関係者の記載では10㎝ほどの幼魚ともある。この順序は地方によって逆になったりするので、このまま鵜呑みにされては困る。

・「いわゐ」はママ。

■やぶちゃん現代語訳

 吉兆前証の事

 只今、出世なされて諸大夫席を勤めて御座るお方が、未だ布衣であられた時のことで御座る。

 ある日のこと、かのお方、上野寛永寺にお参りなされ、お帰りになられる途次、下谷広小路にて町人の葬列に行き遇(お)うた。と、その棺桶に掛けられて御座った白無垢が、突風に煽られて舞い上がり、こともあろうに、かのお方の乗れる輿の上に落ちた。

 葬列の者ども、吃驚仰天、魂(たま)も消え入らんばかりにうろたえ叫び、詫び事一つも致すも出来まいことか、皆々棺桶をがんらがらがら鳴らしながら、一目散に走り去ってしもうた。

 駕籠脇に控えて御座った家来、余りのことに驚き呆れ、

「おのれ! 憎(にっく)き不埒者めがッ!」

と憤り叫ぶや、かの者どもを追い駆けよう致いたところが、主人たるかの御仁、駕籠内よりこれを制して――かの白無垢、途中で捨てて行くという訳にも参らざれば――如何にも、いやそうな顔をして御座った家来の者に持たせ、我が家へと持ち帰って御座った。

 勿論、家内の者どもも口を揃えて、

「――忌まわしきことにて――」

と口々に申し、御主人がそれを持ち帰りになられたことを、あまりの不浄にてあればとて、御主人様のなさりようを、お恐れ乍らと、あからさまに咎めだてする者さえ、これ、御座った。

 ところが――かの御仁はといえば――これがまあ、至って平気の平左のこんこんちき、

「――いいや! そんな不吉なことにては、これ、御座らぬ!――当年は、果して我ら、諸大夫の御役に上らんこと、間違いなしじゃ!」

と喜色満面上機嫌にて御座られたという。

 そうして――果たしてその年の内に――白無垢を着て諸大夫の御役に上られたとのことで御座る。

 如何なる物――一見不浄と見ゆるものにても――吉なる瑞兆、これあるので御座ろうか。……

 同様のお話をもう一つ。

 水谷信濃守勝比殿というお方の話である。

 「水谷」なればこそ「水」の御縁が御座ったものか――御自身の御役替或いは吉事ある時には、これ、必ずや雨が降るという。

 信濃守殿が御留守居に目出度く就任された――未だ就任の御沙汰御座らぬ――その日の早朝にも、大雨が車軸を流すが如く降りしきった。

 加えて嗣子水谷但馬守勝富殿がやはり御留守居になられた頃にも――これは信濃守殿御留守居役御就任とほぼ同じ頃のことで御座ったと記憶して御座るが――やはり、未だ補任のこと、これ全く知らざる前日に、大雨、車軸を流して御座った。この時は、それに加え、その日の朝、どしゃぶりの雨のせいで、水野家門前の小溝が溢れ返って御座ったが、浸水を気にして見回っておった御屋敷門番が、「すばしり」といへる、何と、海の魚――これは何でも成長するに従(したご)うて名が変わる『出世魚』という魚の由――を捕まえて、奥へと差し上げた。

 ぴちぴち元気に跳ね回るすばしりを見た信濃守殿は、「――水谷家の大雨に出世魚とな?! これは! 何とまあ、目出度いことじゃ!――」

と、すぐに御屋敷の池へとお放ちになられ、大層なお悦びようで御座ったそうな。

 すると、その翌日、奉書到来致いて、目出度く御留守居役仰せつけられて御座ったとのことで御座る。

2010/11/22

耳嚢 巻之三 古へは武邊別段の事

「耳嚢 巻之三」に「古へは武邊別段の事」を収載した。

 古へは武邊別段の事

 水野左近將監(しやうげん)の家曾祖父とやらん、至て武邊の人なりしが、茶事(ちやじ)を好みけるを、同志の人打寄て水野をこまらせなんとて、茶に相招きいづれも先へ集りてけるが、左近將監跡より來りて、例の通帶刀をとりにじり上りより數寄屋(すきや)へ入りしに、先座(せんざ)の客はいづれも帶劍にて左近將監がやうを見居たりければ、左近將監懷中より種が嶋の小筒を出して、火繩に火を付て座の側に置ける由。昔はかゝる出會にて有りしと也。

○前項連関:特に連関という感じではないが、味で粋な計らい(しかししっかり将来の利潤を計算している企略なのであるが)から、人の上を行くニクい仕草で、何だか連関している。この話、すっごい好き! 格好ええ~なあ!

・「水野左近將監の家曾祖父」「水野左近將監」は水野忠鼎(ただかね 延享元(1744)年~文政元(1818)年)肥前唐津藩の第2代藩主。忠元系水野家9代。従五位下左近将監。以下、参照したウィキの「水野忠鼎」から引用する。『延享元年(1744年)、安芸広島藩主・浅野宗恒の次男として生まれる。安永4年(1775年)9月23日、先代藩主・忠任が隠居したため、その養子として後を継いだ。幕府では奏者番を勤め、藩政においては二本松義廉を登用して財政改革を行なったが、天明の大飢饉に見舞われて失敗に終わった。享和元年(1801年)に藩校・経誼館を設置している』。彼の曽祖父は水野忠輝(ただてる 元禄4(1691)年~元文2(1737)年)。三河国岡崎藩の第5代藩主。忠元系水野家6代。以下、参照したウィキの「水野忠輝」から引用する。『水野忠之の次男』で、『宝永元年(1704年)、将軍・徳川綱吉に初目見えし、従五位下右衛門大夫に任官。正徳2年(1712年)に右衛門佐に改める。享保14年(1729年)には大監物に改め、翌享保15年(1730年)に父・忠之の隠居に伴って藩主に就任した。享保18年(1733年)には領内治世を賞せされた。元文2年(1737年)岡崎にて死去。後を長男・忠辰が継いだ』とある。底本の鈴木氏注に『領内の政事よろしき旨をもって賞せられた』とある、但し、鈴木氏は続けて、『この話の主人公としては、忠輝の父忠之』『の方がふさわしい感じがする。』と記されている。水野忠之(ただゆき 寛文9(1669)年~享保161731)年)は「水野和泉守」「卷之一」の「水野家士岩崎彦右衞門が事」や本巻の冒頭部の「水野和泉守經濟奇談の事」で既出。江戸幕府老中。三河国岡崎藩第4代藩主であった譜代大名。元禄101697)年に御使番に列し、元禄111698)年4月に日光目付、同年9月には日光普請奉行、元禄121699)年、実兄岡崎藩主水野忠盈(ただみつ)養子となって家督を相続した(忠之は四男)。同年10月、従五位下、大監物に叙任している。以下、主に元禄赤穂事件絡みの部分は、参照したウィキの「水野忠之」からそのまま引用する。『元禄141701)年3月14日に赤穂藩主浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。』『また翌年1215日、赤穂義士47士が吉良の首をあげて幕府に出頭した後には、そのうち間十次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・間瀬孫九郎・茅野和助・横川勘平・三村次郎左衛門・神崎与五郎9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。』『大石良雄をあずかった細川綱利(熊本藩主54万石)に倣って水野も義士達をよくもてなした。しかし細川は義士達が細川邸に入った後、すぐさま自ら出てきて大石達と会見したのに対して、水野は幕府をはばかってか、21日になってようやく義士達と会見している。決して水野家の義士達へのもてなしが細川家に劣ったわけではないが、水野は細川と比べるとやや熱狂ぶりが少なく、比較的冷静な人物だったのかもしれない。もちろん会見では水野も義士達に賞賛の言葉を送っている。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って』9人の義士を切腹させている。その後は、奏者番・若年寄・京都所司代を歴任、京都所司代就任とともに従四位下侍従和泉守に昇進、享保2(1717)年『に財政をあずかる勝手掛老中となり、将軍徳川吉宗の享保の改革を支え』、享保151730)年に老中を辞している。

・「左近將監跡より來りて」ここは「左近將監」ではおかしい。曽祖父の水野忠輝や鈴木氏の言う水野忠之であるなら「大監物」でなくてはならない。現代語訳は水野忠鼎とはっきり区別するためにそう直してみた。

・「種が嶋の小筒」「小筒」は弾丸の重量が三匁半(約13g)程度の火縄銃を指す。ただ懐から出しているので、これは猟銃タイプの小筒ではなく拳銃様の短筒である。拳銃も本邦では火縄銃伝来直後から国産が作られていた。

■やぶちゃん現代語訳

 古えの武辺これまた格段にぶっ飛んでいる事

 水野左近将監(しょうげん)忠鼎(ただかね)殿の曾祖父の逸話であるらしい。

 この御仁、至って武辺勇猛なるお方で御座ったが、同時にまた、茶事(ちゃじ)をもお好みになった風流人でも御座った由。

 ある時、彼の朋輩らがうち集うて、

「一つ、水野を困らせてみようではないか。」

と相談一決、水野大監物殿を茶席に招いておいて、彼らは皆、わざと早々に茶室に入って御座った。

 そこへ大監物殿、後から――とはいうものの時刻通りに――ゆるりと現れ、茶事作法に従(したご)うて帯刀をば外し、にじり口より茶室へ入った。

 ……と……

 先座せる一同は――これが皆、腰に刀剣二領挿しのまま、彼をじろりとねめつけて御座った……

 ……ところが……

 大監物殿は――これがまた、表情一つ変えることものう、徐ろに――懐から種子島の短筒を引き出だいて――「フッ!」――とやおら火繩に火を付け――己が着座致いたその傍らに、トン!――と置いた……

 ……昔は、如何なる折りにも、かかる心構えをなして御座った、という何やらん、うきうきしてくる話では御座ろう?

2010/11/21

耳嚢 巻之三 町家の者其利を求る工夫の事

「耳嚢 巻之三」に「町家の者其利を求る工夫の事」を収載した。奇人書家烏石の逸話であるので、本日、二篇めであるが、アップする。これで「卷之三」も余すところ、二篇のみとなった。本年中に、気持ちよく終了出来る。

 町家の者其利を求る工夫の事

 右烏石上京せんと思ひし時、日本橋須原屋(すはらや)にて金百兩借りてけるが、元來放蕩不覊(ふき)の者なれば右金子返すべきあてもなかりし故、流石に面目なかりけるか、須原屋へ絶て來らざりしを、須原屋さるものにて、烏石が住家を尋て呼取りしに、右の金子の事いひていなみけるを、聊の金子に古友をかへり見べきやとて、無理に請じて暫く養ひ遺しに、其内同人の書記を以て開板(かいはん)なし、藏板として利德を得ると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:奇人書家松下烏石エピソードで直連関。奇人変人の上をゆく、商魂である。

・「烏石」松下烏石。前項注参照。

・「上京せん」烏石が晩年、京都に移って西本願寺門跡賓客となった、明和年間(17641772)のことか。前項注参照。但し、親鸞大師号事件以降に烏石が帰府した事蹟は見出せないので、現代語訳では玉虫色に誤魔化した。

・「須原屋」須原屋市兵衛(すはらやいちべえ ?~文化8(1811)年)本屋。家号は申椒堂(しんしょうどう)。須原屋茂兵衛分家として日本橋通二丁目に開業。平賀源内・大田南畝らの著作、杉田玄白らの「解体新書」等の蘭学書や武鑑を刊行して全国的に知られた出版元であった。寛政4(1792)年の幕府の対外政策を難じた林子平筆「三国通覧図説」刊行時は、発禁と共に重過料の処分を受けている(以上は主に講談社刊「日本人名大辞典」の記載等を参考にした)。松下烏石は京都に移り住んでからも「消間印譜」その他多数の法帖を刊行しているが、それらの版元が須原屋であったか。

・「金百兩」1両を10万円と換算しても1000万円。当時の日常的価値からすると、もっと高い。

・「書記」出版元の意。

・「開板」開版とも。新しく版木を彫って本を印刷すること。上梓。

・「藏板」蔵版とも。出版物の版木や紙型を所蔵すること。現在で言う独占出版のこと。

・「かへり見べきや」「かへり見捨つるべきや」の意の反語。一種の対偶法か。

■やぶちゃん現代語訳

 町家の者利を求めんがための奇略の事

 前の話に出た、かの烏石が、いよいよ腹蔵ありて上京せんと思い立ったが折り、彼、手元不如意であったがため、前々より法帖出版なんどにて何度も世話になって御座った日本橋の出版元須原屋市兵衛から金百両を借りた。

 しかし、元来が放蕩不羈天然自在勝手気儘なる輩で御座ったれば、かの金子も返す当ても、これ、全くなく――流石の木石の如き鉄面皮(おたんちん)烏石も合わせる顔がなかったのであろう――その後、須原屋へは絶えて足を向くること、これ、御座らなんだ。

 しかし、その須原屋は――もっと大物で御座った。

 わざわざ京に上ると、烏石の家を探し出し、

「――困窮の極みとお見受け申す――一つ、一緒に江戸へ戻り、我が家に身を落ち着けなさるがよい。」

と言うた。

 余りの意外さに、流石の厚顔無恥木石無情の烏石とても、素直にかの大枚の借金返済の不首尾不届きを詫びると、

「……不誠実なる我らに、これ、過ぎたる恩幸なればこそ……」

と、須原屋の申し出を固辞致いた。ところが、

「――烏石殿……かくも微々たる金子に――古き友を、これ、見捨てる須原屋市兵衛と――お思いか?!」

と言うや、須原屋、飽くまで烏石に己(おの)が提案を無理矢理受け入れさせると、そのまま暫くの間、彼の生活が安定するまでの面倒を見て御座った。

 その後、須原屋、元来が文人に引く手数多の流行書家で御座った烏石を、自身版元の専属作家となし、夥しい数の著作を出版の上、尚且つ烏石の版権を悉く独占、それこそ――百両がはした金に見える――想像を絶した利潤を得た、とのことで御座る。

耳嚢 巻之三 鈴森八幡烏石の事

「耳嚢 巻之三」に「鈴森八幡烏石の事」を収載した。

 鈴森八幡烏石の事

 鈴森八幡の境内に烏石(からすいし)といふ石ありて碑銘あり。書家烏石(うせき)といへる者の建し石也。右烏石(うせき)といへるは、元來親はスサキリとて下職(げしよく)の商家也しが、幼より手跡を出精し、三ケ年の間廣澤(くわうたく)、文山(ぶんざん)の筆意を追ひ、古法帖(こはふでふ)に心をよせて終に能書の譽れありしが、果は京都に遊びて親鸞上人大師號の事に携りて、敕勘の罪人になりし。末年許免ありし。右烏石生れ得て事を好むの人也しが、鷹石(たかいし)とて麻布古川町に久しく有りし石を調ひて、己(をのれ)が名を弘(ひろ)め尊せん爲、鈴が森へ同志の事を好む人と示し合て立碑なしける也。からす石といふ事を知て鷹石の事をしらず。右鷹石は山崎與次といへる町人の數寄屋(すきや)庭にありし石のよし也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸は明らかに松下烏石の仕儀を売名行為として捉えており、この奇石について、せめてその本来の由来を正しく記しておこうという立場をここで示しているように私には感じられるので、そのようなバイアスを掛けた現代語訳にしてある。

・「鈴森八幡」現在の大田区大森北に鎮座する磐井神社。ウィキの「磐井神社」には、『この神社の創建年代等については不詳であるが、敏達天皇の代に創建されたと伝えられ、延喜式にも記載された神社で、武蔵国における総社八幡宮であったとされる。江戸時代には、将軍家の帰依を得、「鈴ヶ森八幡(宮)」とも称された。なお、鈴ヶ森という地名はこの神社に伝わる「鈴石」(鈴のような音色のする石)によるものとされる』とある。「江戸名所図会」によると、鈴石は延暦年間(782806)に当時の武蔵国国司石川氏が奉納した神功皇后三韓征伐所縁の石とあり、更に一説に本物の鈴石は盗賊に盗まれたともある。

・「烏石(からすいし)」「江戸名所図会」に(筑摩文庫版を元としつつ正字に直し、篆書碑文部分は写真版と底本鈴木氏注にあるものを参考にして字間を設けた)

 烏石 社地の左の方にあり。四、五尺ばかりの石にして、面に黑漆(こくしつ)をもつて画(ゑが)くがごとく、天然に烏の形を顯(あらは)せり。石の左の肩に、南郭先生の銘あり。「烏石葛辰(うかつかつしん)これを鐫(せん)す」と記せり。葛辰みづから烏石と號するも、この石を愛せしより發(おこ)るといふ。「江戸砂子」にいふ、『この石、舊へ麻布の古川町より三田の方へ行くところの三辻にありしを、後、このところへ遷(うつ)す』とあり。書は古篆なり。

 匪日匪星 烏石天墜 不黄維烏 書傑所致 取而祠之

 穀城是視 服元喬銘爲     烏石山人

 額「烏石」、阿野公繩(あのきんつな)卿筆、鳥居の額「烏石祠」、吉田二位兼隆卿筆。

「烏石葛辰」は松下烏石の、「服元喬」は服部南郭の漢文風雅号。

MINATO氏のHP内にある「名所・旧跡」中の「磐井神社」のページの「烏石」(からすいし)の項には『山の形をした自然石の上部に、墨で書いたような烏の形をした模様があるところからこの名が付けられた。もとは鷹石と呼ばれて麻布にあったが、松下烏石という人が移した。松下烏石の宣伝もあって有名になり、特に江戸文人に好まれて鑑賞のために訪れる者が後を絶たなかったという。この石も大田区の文化財で、現在は鈴石ともに社務所に保管されている』とある(リンク先で現在の「烏石」の画像を見られる。鈴石共に現存するが非公開の由)。また鈴木靖三氏のHP内の「東海七福神と大森海岸付近」の「磐井神社」には、江戸中期に成立した「武蔵志料」の記載から引用し、『「麻布古河ノ鷹石モ、葛山鳥石取之、鈴森八幡宮ニ納メ、名ヲ改メ烏石卜号ル』とあるとし、『この石は、もと鷹石とよばれて麻布の古川辺にあったものを、松下烏石(葛辰)が当社に移し、名を改めて自分の号をとり、烏石と称した』という情報を提示、『さらに服部南郭に依頼して、この石の側面に銘文を刻みこみ、小祠を建ててこれを祀り宣伝したことに対し、松下烏石の売名行為とする批判もあ』ったとする。『しかし松下烏石の文人としての力倆もさることながら、この石は次第に有名になり、文人たちに好まれ、鑑賞のため当社を訪ずれる者が、あとを絶たなかった』との由、記載がある。更に、個人のHP(ハンドル・ネーム不詳)「東京の地名由来 東京23区辞典」の「港区の地名の由来」に、

 《引用開始》

■鷹石 磐井神社に奉納

 3丁目8番の辺り、善福寺門前東町西南角に、江戸時代、植木屋の四郎左衛門という者が居て、伊豆から取り寄せた石面が鷹の形に見える石を店先に置いたところ、松下君岳という者がきて石を所望し、元文六年(1741)2月に鈴ヶ森八幡へ奉納した。君岳は烏石山人と称した書家で、この石に銘を彫った。石が鷹の形をしていたので、この辺りを里俗に鷹石といったと『文政町方書上』にある。

 鈴ヶ森八幡とは大田区の磐井神社だ。この神社は貞観元年(859)の創建で、江戸期には将軍も参詣し、鷹石が寄進されたことにより江戸の文人墨客にもてはやされた。この神社には他に鈴ヶ森の由来になる鈴石、狸筆塚などもあり、境内には万葉集にもよまれた笠島弁天もある。

 《引用終了》

ともある。

・「烏石(うせき)」松下烏石(元禄121699)年~安永8年(1779)年)。書家。本姓は葛山氏、烏石は号。荻生徂徠の流れを受ける服部南郭門下の儒学者であったが、本話及び次話を見るように無頼放蕩を繰り返した、放埒にして問題のある性格の持ち主ではあった。

・「スサキリ」「スサ」は苆(当該漢字は国字)・寸莎などと書き、「壁苆」(かべすさ)とか「つた」(江戸方言)などとも言った。壁土の原料に混ぜて、塗装後の乾燥による罅割れ等を防ぐためのツナギとするもの。よく知られるように荒壁には藁を用いた(上塗り用にはもっと目が細かく薄い麻または紙などを用いた)が、そうした壁用の藁スサを切る下賤の生業(なりわい)の謂いか。但し、底本の鈴木氏注には、『烏石の親は松下庄助という軽い御家人で、烏石はその次男であると、細井九皐の「墨直私言」にある由。』と附言されている。この細井九皐(きゅうこう 宝永8(1711)年~天明2(1782)年)は書家。姓からお分かりのように、本話に登場する細井広沢(次注参照)の長男である。それにしても何故、このように卑賤の誤伝が創られたのか。それもまた、烏石の一筋繩では行かぬ屈折した生涯が垣間見える気がする。

・「廣澤」細井広沢(こうたく 万治元(1658)年~享保201736)年)。儒学者にして書家・篆刻家。ウィキの「細井広沢」によれば、『赤穂四十七士の1人堀部武庸と昵懇で吉良邸討ち入りを支援した人物として知られる』。『博学をもって元禄前期に柳沢吉保に200石で召抱えられた。また剣術を堀内正春に学び、この堀内道場で師範代の堀部武庸と親しくなった。元禄赤穂事件でも堀部武庸を通じて赤穂一党に協力し、討ち入り口述書の添削』も行い、『吉良邸討ち入り計画にかなり深い協力をしており、武庸からの信頼の厚さが伺える』とある。この赤穂『事件の間の元禄15年(1702年)に柳沢家を放逐された。広沢が幕府側用人松平輝貞(高崎藩主)と揉め事を抱えていた友人の弁護のために代わりに抗議した結果、輝貞の不興を買い、広沢を放逐せよとしつこく柳沢家に圧力をかけるようになり、吉保がこの圧力に屈したというのが放逐の原因である。しかし、吉保は広沢の学識を惜しんで、浪人後も広沢に毎年50両を送ってその後も関係も持ち続けたといわれる』。以下、「書・篆刻」の項(記号の一部を変更した)。『広沢は書道に多大な貢献をしている。書に関する著述には「観鵞百譚」「紫微字様』」「撥蹬真詮」など多数。筆譜に「思胎斎管城二譜」がある』。『また日本篆刻の先駆とされる初期江戸派のひとりである。蘭谷元定や松浦静軒などに学び、明の唐寅や一元に師法し、羅公権の「秋間戯銕」などから独学した。また榊原篁洲や池永一峰・今井順斎らとの交流で互いに研鑽した。とりわけ池永一峰とともに正しい篆文の形を世に知らしめようと「篆体異同歌」を著した。また法帖の拓打について新しく正面刷りの方法を考案して「太極帖」を刻している。広沢と子の細井九皋[やぶちゃん注:「皐」の別字。こちらが正しいようである。]の印を集めた印譜「奇勝堂印譜」があり日本における文人篆刻の嚆矢とされ』、門弟には本「耳嚢 卷之三」の、先行する「生れ得て惡業なす者の事」に登場する関思恭や、本邦文人画の先駆者にして博物学的才人であった柳沢淇園(きえん)などがいた、とある。

・「文山」佐々木文山(ぶんざん 万治2(1659)年~享保201735)年)。讃岐高松藩お抱えの書家。唐様や朝鮮系の書体を得意とし、江戸に住んで俳人榎本其角らと交流、風流人としても知られた(以上は講談社刊「日本人名大辞典」の記載を参照した)。底本の鈴木氏には、『酒を好み、酔って筆を揮うときは一段とよかった』ともある。

・「古法帖」「法帖」は書道に於いて手本や鑑賞用に先人の筆跡を、紙に写して石に刻んだものを石摺(いしずり)にした折本のこと。後に碑文拓本を折本にしたものをも言うようになるが、ここではそうして作られた通常の中国の古書蹟の謂いであろう。

・「親鸞上人大師號の事に携りて、敕勘の罪人になりし」この事件の首謀者格が松下烏石であった。烏石は晩年に京都に移ってから西本願寺門跡賓客となったが、丁度その時期の宝暦111761)年が親鸞五百回忌に当たっていた。それを受けて、親鸞に対し朝廷から大師号を授けて戴けるよう、東西両本願寺が朝廷に願い出ていた(この陳情自体は宝暦4(1754)年より始まっていた。結局、この申請は却下され、親鸞に「見真大師」(けんしんだいし)の諡(おくりな)が追贈されたのは明治9(1876)年であった)が、烏石は中山栄親(なるちか)・土御門泰邦・園基衡(もとひら)・高辻家長らの公家と謀り、西本願寺及びその関係者に対して、金を出せば大師号宣下が可能になるという話を持ち込み、多額の出資をさせた。ところがそれが虚偽であり、烏石が当該出資金を着服していたことが暴露告発されるに及び、上記公家連中が蟄居させられた。これが本文に言う「敕勘」事件である。烏石の処分は不明とされているが、ここで根岸が「末年許免ありし」(後年になって赦免された)とあるのは貴重な発言である。なお、この一件に関わって、「卷之一」の「烏丸光榮入道卜山の事」の私の考察注も是非お読み頂きたい。

・「勅勘」底本の鈴木氏も注で述べておられるが、貴族どころか「下職」出自の一介の奇人書家である烏石に、勅勘とはおかしな謂いではある。

・「麻布古川町」現在の南麻布一丁目の一部の一区画にだけ存在した小さな町。参照した Kasumi Miyamura 氏の「麻布再見」の「麻布古川町」に『古くは麻布本村の一部であったが、元禄111698)年に白銀御殿用地として幕府に召し上げられたため、三田村のなかの古川沿いに代地を受けたのが始まり。古川は元禄121699)年の改修工事後は新堀と呼ばれるようになったが、町名は古くからの川の名を採り麻布古川町とした。隣には三田古川町があった』とあり、現『港区立東町小学校の向かいの一角あたりか』と同定地を示されている。江戸切絵図と現在の地図を比較して見ても、この同定は正しい。

・「山崎與次」不詳。――これ、まさか、近松門左衛門の世話物「山崎与次兵衛寿の門松」(やまざきよじべえねびきのかどまつ)で江戸で一旗挙げた山崎与次兵衛じゃあ、あるめえな?

■やぶちゃん現代語訳

 鈴ヶ森八幡烏石の事

 鈴ヶ森八幡宮の境内に烏石(からすいし)という石があり、碑銘も彫られて御座る。

 これは書家の烏石(うせき)という者が建てた石である。

 この烏石という男、元来、親はスサキリを生業(なりわい)とする、下賤の商家の出であったが、幼き頃より、その手跡の巧みなるに、盛んなる精進を致いて、三年ほど、名書家で御座った細井広沢や佐々木文山の門を叩いてその筆法筆想を盗み取り、古き中国の法帖(ほうじょう)に執心致いて、遂には能書家の誉れを勝ち取った男である。

 が、その果ては、京都に遊んだ折りに、親鸞上人大師号に関わるかの贈収賄の一件に関わることとなり、遂には勅勘の罪人となった――後年になって、その罪は免ぜられてはおるが――。

 さて、かくの如く、この烏石、生来、何かと『ことを好む』――天然自然傍若無人生涯無頼の――所謂、とことん斜に構えた風流人であった。

 麻布古川町に長らく転がって御座った奇石を安く買い叩いて手に入れると、己れの名を世間に広めんがためにのみ、同好の好事家どもを言い包めては示し合わせ、やおら、この石を鈴ヶ森に持ち込んで――図々しくも己(おの)が名そのままに『烏石(うせき)』と名付けて――立碑したのである。

 世間では「烏石」と申す、このけばけばしき立て看板の如き名ばかりが知られて御座るが、これが実は本来、「鷹石」と呼ばれて御座った古き由緒ある奇石で御座ったことを知るものは、これ、御座らぬ。

 何でも、この鷹石は、その昔の山崎与次というた、誠の通人として知られし町人の、茶室の庭に配されて御座った名石であった由、私は聞いて御座る。

2010/11/20

僕の母の洗礼名 小さきテレジア

僕はこの年(53歳)になるまで、母の洗礼名を知らなかった。

母の洗礼名は

「小さきテレジア」

だった――「小さきテレジア」=「リジューのテレジア」だ――

母がリハビリで入院した病院の名は

聖テレジア病院だったのだ

リュージュのテレジアよ――僕の母を守り給へ――

ナガランドのミャンサリよ――遠い恋文

――「辛いけど 幸せ」――

誰がこんな言葉を言い得るであろう

二年も前に出逢ったナガランドのミャンサリよ

――「僕は君を愛している 心から 誰よりも」――

だが もう僕は老いていて君のところまで行けそうもないよ

行けても あの斜面の畑仕事はとても無理そうだ――

――だから――

来世で 僕は必ず ミャンサリ 君を僕の妻としよう

「三世の契」を 僕は誓おう

それまで 待っていて おくれ――

僕は 嘘を つかない――

ミャンサリよ

僕はこの言葉を

今日 夢で 君に 確かに 送る――

予告篇 芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈冒頭河童一覧

遂に、取り敢えず芥川龍之介「河童」の僕の注釈が最後までいった。これより細部補正に移る。ブログの260000アクセス記念としてテクスト本文(勿論、正字正仮名)とともに公開する予定ではあるが、現在只今のアクセス数は255790であるから、公開は12月上旬になりそうだ。この一ヶ月、どこかで最悪、大腸癌の罹患を予測しながらの注釈作業となったから(幸い癌ではなかったのであるが)、結構、『鬼』の部分がある――だから――何となく、ちらっと見せておきたい気になった。注の冒頭に置いた「登場河童一覧」である。

   登場河童一覧〈例外として獺一匹を含む。登場人物も附した〉

 

*原則、登場順(「グルツク」を除く)。固有名を持つ者だけでなく、読んだ際に映像としてほぼ単独でアップになる河童は漏れなく、また名前だけが登場する河童も含む。見出しに掲げたカタカナの河童の固有名だけは本文表記通りで示した。更に、私が同定候補とするモデル人物を付記した(同定者詳細及び同定理由は以下の各注を参照されたい)。なお、他の「登場人物」(●)としては「序」と「十七」に登場する以下の3名の人間がいる。

●主人公「僕」:「二」以下の話者。河童国特別保護住民。訪問したと称する河童国の叙述等、高度な論理的体系を持った妄想性を主症状とする統合失調症でS精神病院患者番号第23号。内的には極めて秩序立った河童国訪問談の妄想の最後には(恐らく相手が話を信じていないということを察知すると)拳固を振るい、罵詈雑言を吐くことを常とするようであるが、実際の他虐傾向はあまり認められないように感じられる。三十歳を有に越えている(35歳前後か)が若く見える。穂高や槍ヶ岳への登頂経験を持ち、穂高単独登頂への自信が有意に認められる相応のアルピニスト。社会主義者で物質主義者(宗教を真面目に考えないという文脈からは唯物主義者という意味でとってよい)。草稿や話っぷりからも大学を出ており、通常の会社勤めの経験がある(草稿で確認出来る)。その後、サラリーマンを止めて起業家となったが、事業に失敗、推測するにその際に受けた精神的なストレスが遺伝的素因が疑われる統合失調症の発症へと繋がったものと思われる。なお、発症の直接の動機となった事業の失敗は、当初はPTSD(心的外傷後ストレス障害)としてのみ現れたものとも思われ、S博士が制止することから激しいフラッシュ・バックが、精神病が増悪した現在もあることを窺わせる。但し、流暢な会話やその妄想体系の完璧さ(これは「ターミネーター」の連作に登場する精神科医シルバーマン先生も興味惹かれるに違いない高度の秩序性を保持している)から見ても、これは性格異常としてのパラノイア(偏執病)が強く疑われ、効果的な抗精神薬もなかった昭和初期の精神医学の医療レベルでは予後は悪いと判断せざるを得ない。勿論、芥川龍之介の二重身(ドッペルゲンガー)である。

●「僕」:精神病院を見学に来た人物で、「二」以下の本記録の執筆者。モデルは芥川龍之介自身に仮託した内田百閒であろう。

●「S博士」:主人公「僕」が収容されている精神病院の院長。巣鴨精神病院院長呉秀三か青山脳病院院長にして歌人であった斎藤茂吉がモデルである。

 

○「バツグ」:漁師。最初に出逢い、親しく付き合うこととなる庶民の相応には年をとった河童。既婚。作中、子が出来るが、子は出生を拒否する。他に子があるかどうかは不明であるが、出生を拒否されたシーンでのバックやその妻の反応(妻の感懐は全く描かれない)から、私は既に子がいると判断する(但し、バックの反応を見ると、もしかすると長男や長女も出産を拒否して子は実際にはいない可能性もある)。相応に重い精神病の遺伝的因子を持っている。但し、本人が発症しているかどうかは不明。単なるキャリアである可能性もある。但し、原稿の書き換えから、実はこれは遺伝性精神疾患ではなく梅毒による進行麻痺(麻痺性痴呆)発症リスクを暗に指していることが分かる。狂言回しの重要な役ではあるが、モデルは同定し難い。

○「チヤツク」:若い医師。物質主義者(河童国での限定された謂いであって、ここでは「僕」と違って唯物主義者という意ではないようである)。河童国の特別保護住民に認定された「僕」は河童国滞在中、彼の隣家に居住する。田端文士村に居住した隣人で芥川龍之介及び芥川家の主治医にして、自死の看取りの場にもいた下島勲がモデルと思われるが、家族が描かれておらず、未婚河童の模様で、その点では、「河童」執筆時は既に中年であった下島とは大きく異なる。

○「ゲエル」:資本家。ガラス会社社長。高血圧気味で、毎日チャックに血圧を調べて貰っている。既婚で子持ち。河童国の実質的支配者を自称。田端文士村に居住した芥川のパトロン鹿島組(現在の鹿島建設)副社長鹿島龍蔵をモデルとするか。

○「バツク」の細君:漁師バックの妻。臨月。

○「バツク」の子(胎児):漁師バックの子(胎児)。バックの遺伝由来の精神病(実は梅毒による精神病への恐怖)及び河童という存在を悪と信ずるが故に、出生を拒否する。言葉つきからは男の子と思われる。

○産婆:バックの子の出産シーンで登場する助産婦河童。河童国では助産婦による薬物及び特殊器具を用いた堕胎手術が合法化されていることが分かる。

○「ラツプ」:学生。「僕」がバックと並んで親しくした一河童。詩人トックを紹介した。独身。芥川の最年少の弟子堀辰雄がモデルと考えられる。作中、雌河童に抱き疲れて嘴が腐って落ち、醜い面相となる。生活教教徒であるが、その聖書さえ読んでいない、実際には不信心河童である。妹や弟、叔母を含め、6人家族(但し、これは堀家がモデルというわけではない)。

○「トツク」:詩人。「超人倶楽部」会員。懐疑主義者・無神論者(自身が心霊――但し、霊媒は元女優であり、この心霊が本物であるかどうかは甚だ心もとない。但し、芥川はそうした留保を示しながらも、核心に於いてはこの心霊を実際のトックの心霊として登場させていると考えてよい――として出現しても霊魂の存在に懐疑する程度には頑なな懐疑主義者にして無神論者である)。自由恋愛家(従って未婚)にして厭世主義者。そして超河童(便宜上、「僕」は一箇所を除いて「超人」と称している)。噂では無政府主義者(但し、後に自身で否定する)。作中、自殺する(その直前には精神異常の兆候――幻覚――が見られる)。まずは萩原朔太郎辺りがモデルとも思われるが、本作が「詩人⇔小説家」の互換モデルを頻りに用いているところからは、「小説の鬼」宇野浩二が目されるようにも思われる。また「十」のクラバックの告白の中では、途中からは明らかに芥川龍之介と萩原朔太郎の相互互換的モデルへと変容しており、これ以降、作品の後半では結局、自殺する芥川龍之介の分身の要素が甚だ大きくなる。

○「トツク」の愛人の一人である雌河童:「僕」が初めて訪ねた時、トックの部屋の隅で編み物か何かをしており、後にトックとはクラバックの出る音楽会にも同伴している。河童の雄から見ると大変に美しいこの雌河童はしかし、トックと交際するようになる凡そ十年前、クラバックに懸想し、未だにクラバックを目の敵にしているらしい。この「僕」には美しく見えない、クラバックやトックに纏わりついている雌河童のモデルは、芥川の愛人で後に激しく忌避するようになる「狂人の娘」(「或阿呆の一生」)ストーカー秀しげ子か。なお、後掲する『「トツク」の内縁の妻』も参照。

○彫刻家:超人倶楽部会員。同性愛者である。

○雌の小説家:超人倶楽部会員。超人倶楽部でアプサント酒を飲み過ぎ、急性アルコール中毒で頓死する(「往生」という語を昏倒の比喩の意味に解するなら死んではいないかも知れない。しかし職工屠殺法などを見れば判る通り、河童国では死に対する観念はヒトのそれとは必ずしも一致はしないので実際に死んだものと私は捉える)。酒好きで酒癖が悪い当時の女流作家に、ぴったりなモデルがいそうな気がし、同定の誘惑には駆られる。

○「ラツプ」をストーカーする雌河童:背が低い。ダブル・キャストでストーカー秀しげ子をモデルとするか。

○「マツグ」:哲学者。河童は勿論、「僕」から見ても非常に醜くい形相をしている醜河童(ぶかっぱ)。独身。室生犀星がモデルと思われる。詩人トックの隣りに住んでいる。

○「クラバツク」:著名な作曲家にして詩人。芸術至上主義者。原モデルは山田耕筰か。実際にはダブル・キャストで萩原朔太郎を感じさせ、後にはトックと同じく芥川龍之介と萩原朔太郎の相互互換的モデルとしても機能しているように感じられる。未婚か既婚かは不明。

○警官:音楽会でクラバックの演奏中、「演奏禁止」を宣告する。異様に身長が高い。マッグの謂いから推すと、既婚者の可能性が高い。

○「ゲエル夫人」:ゲエルの妻。ライチの実に似ており、河童国ではそれが美人のポイントであるらしい。

○「ゲエル」の子:河童の好物とされる胡瓜に似ている。

○「ペツプ」:裁判官。未婚か既婚かは不明。愛煙家である。作品のラスト・シーンで、失職の果てに発狂、精神病院に収容されていることが明かされる。これは芥川龍之介の義兄で執筆直前に鉄道自殺した西川豊をモデルとしているように思われる。

○書籍工場会社技師:「僕」の同工場の書籍製造過程見学を案内する。

○「ロツぺ」:内閣総理大臣、クォラックス党総裁。モデルは当時の内閣総理大臣若槻禮次郎と思われる。「僕」とゲエルとの会話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「クイクイ」:左翼系の『プウ・フウ新聞』社社長。しかし実際には資本家ゲエルから後援(資金援助)を受けて操られている。ゲエルの話の中で語られる河童で実際には登場しない。芥川龍之介が社員であった毎日新聞社がモデルだとすると、時代的なズレがあるものの、原敬辺りがモデルであろうか。

○獺国のビップ獺:河童国に在留していた獺国籍の異国生物であるが、叙勲された獺国のビップであった。誤って殺害されて、そのことがカッパ・カワウソ戦争(やぶちゃん仮称)の発端となった。ゲエルの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○獺の知人である河童夫婦:夫は道楽者で、妻は秘かに生命保険をかけた夫の殺害を企んでいたが、毒殺するための青酸カリ入りのココアを、誤って来訪していた先のビップ獺に飲ませてしまい、殺害、これがカッパ・カワウソ戦争の発端となった。その詳細な叙述から見ると少なくとも、この夫の河童には特定モデルがあるものと思われる。ゲエルの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「ラツプ」の母:ラップと同居している。ラップより妹を可愛がっている。ラップの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「ラツプ」の叔母:ラップと同居している。ラップの母と仲が悪い。ラップの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「ラツプ」の父:ラップと同居している。アル中で、相手構わず直ぐに暴力を揮う。ラップの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「ラツプ」の弟:ラップと同居している。不良少年。ラップの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「ロツク」:クラバックが内心、自分を越えていると感じている孤高の音楽家。芥川龍之介をクラバックとする位相からは志賀直哉がモデルと思しい。但し、クラバックの言説(ディスクール)の中では、明らかに芥川龍之介と萩原朔太郎の相互互換的モデルになっている。この河童は重要な人物であるのだが、会話の中に名前のみ現れるばかりで、実際には登場しない。

○「グルツク」に職務尋問する警官:「僕」の通報告発を受けて、窃盗罪のグルックに職務尋問するが、河童国刑法1285条に則り、グルツクを解放する。

○「グルツク」:「僕」の万年筆(原稿では当初は銀時計である)を子供の玩具にするために盗んだ河童。ガリガリに痩せている。既婚で子持ち(作中時間内で死亡)の貧民。モデルは芥川の不倫相手であった秀しげ子と同時に関係を持っていた龍門の四天王の一人南部修太郎か。

○「トツク」の内縁の妻:トックの自殺現場に居合わせる。これは前掲の「トックの愛人の一人である雌河童」と同一河童とも読めないことはないのだが、もし同一河童であったなら、クラバックは彼女が嫌悪しながらも今も何処かで惹かれいる相手であるはずであるが、駆けつけたクラバックとの間に何らの描写もないところから、私は別な雌河童ととる。

○「トツク」の私生児:2~3歳。トックの自殺現場に母と共に居る。前掲の内縁の妻とトックとの間の子。トックは自由恋愛家であるから、当然、認知していないものと思われる。男児か女児かは不明であるが男児であろう(そうしたい根拠は注を参照されたい)。芥川也寸志がモデルであろう。

○長老:近代教(生活教)の大寺院に居住しているところを見ると、ただの信徒ではなく、高位の近代教の伝道師である。しかし、作中、実際には生活教を信じていないことを「僕」とラツプに告解する。既婚で、妻の尻に敷かれている恐妻河童。

○長老の妻:巨体にして強力(ごうりき)の雌河童。

○「ペツク」:心霊学協会会長。写真家のスタジオとなったトックの元家で、降霊実験を行う。モデルは「千里眼事件」で知られる東京帝国大学助教授福来友吉か。「心霊学会報告」の文中に登場するのみ。

○「ホツプ夫人」:霊媒師。心霊学協会員。元女優。自らにトックの霊を降霊させる。モデルは「千里眼事件」の超能力者御船千鶴子又は長尾郁子か。「心霊学会報告」の文中に登場するのみ。

○街はずれ住む老河童:数え年12~13歳にしか見えないが、実際は115~116歳。「僕」に人間世界に戻る唯一つの路(繩梯子)を教える隠者の風格を持った河童。独身と思われる。「杜子春」の鐵冠子の生まれ変わりのような印象を持つ。

○「ラツク」:本屋。かつてのトックの内縁妻が現在結婚している相手。片目が義眼であるらしい。当初の設定は弁護士である。名前のみで実際には登場しない。

以下、各章ごとに注釈してある。乞う、ご期待!

【2010年12月11日AM9:24 追記:その後、加筆を施したので、「登場河童一覧」を全面的に差し替えた。

耳嚢 巻之三 先祖傳來の封筐の事

「耳嚢 巻之三」に「先祖傳來の封筐の事」を収載した。


 先祖傳來の封筐の事

 予親友なる萬年(まんねん)某の語りけるは、同人家に先祖より傳りし一ツの封筐(ふうきやう)あり。上は包を解き見しに、子孫窮迫の時披之(これひらく)べしとあり。其頃萬年至て危窮なりしかば、かゝる時先祖の惠みを殘し給ふ難有さよ、いざ開封なして其妙計に隨んと、右箱の封尚又(なほまた)切解(きりとき)て其内を見しに、何もなくて一通の書面あり。是を披き見れば、三代程以前の租の自筆にて認置し、先祖子孫を惠みて、危急の時開きて用を辨じ候やうの書添にて、黄金一枚此箱の中にありしを、我等危急の入用ありて遣ひ候て先租の高恩に浴しぬ、何卒其基を償ひ置んと、生涯心掛しが其時節なし、子孫是を忘れず先祖を思ひて償ひ置べしと認し故、大きに笑ひて又金一枚の借用の増せし心せしと笑ひけるとかたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:根岸のごく親しい朋輩の滑稽なる体験談で連関。もろに落語である。

・「萬年某」底本の鈴木氏注に、『万年氏は六家あり、そのいずれか明らかではないが』とされながら、萬年頼行(享保161731)年~天明7(1787)年)なる人物を同定候補とされている。『宝暦八年御勘定、十三年評定所留役、明和七年代官、天明七年任地備中国倉敷で没』すとあり、根岸より6歳上であるが、この経歴は根岸と大きくダブっているからである。根岸は全く同じ宝暦8(1758)年に同じ御勘定となり、やはり全く同年の宝暦131763)年に同職である評定所留役に就任、明和5(1768)年御勘定組頭となっている。萬年頼行が代官となるまで実に12年近くに渡って同僚として勤務している。特に評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)は定員8名であるから、極めて親しく接し得る人物と考えてよい。

■やぶちゃん現代語訳

 先祖伝来の封ぜられた筐の事

 私の親友で御座る萬年某が語った話。

 同人萬年家には、先祖より代々伝わって御座る一つの封印された筐(こばこ)が御座った。

 上(うわ)包みを解いて見ると、その筐の上には墨痕黒々と、

『――子孫窮迫ノ時之開クベシ――』

と、認めて御座った。

 さて、その頃の我が友萬年某、至って危機的な貧窮に陥って御座ったればこそ、

「……このような時こそ御先祖様の御恵みを残し置き下されしことの有り難さよ! さあ! 封印を解いて、御先祖様の絶妙なる取り計らい方に従わんとす!」

と、上包みを取り、更に厳重に施された筐の封印をも切り解き、

――カタリ――

と、徐ろに蓋をとって中を見る……と……

……空……である……

……いや……唯、一通の書面が入っておる……

……つま披らいて見た……

……と……

……これ、萬年某三代程前の御先祖様が自筆にて認(したた)めたもので御座った……

……それには、かく書かれて御座った……

 ――――――

 御先祖樣儀將來ガ子孫ヘノ惠ミトテ

 危急ノ時開キテ要ニ用フルベシトノ

 書キ添ヘト共ニ金貨大判一枚此ノ箱

 ノ中ニアリシヲ我等事危急ノ入用ア

 ラバコソ使ヒ候フテ

 御先祖樣高恩ニ浴シヌ何卒何時カハ

 カノ元通リノ金一枚ヲ償ヒテ筐中ニ

 復セント生涯心掛ケシガ其ノ時節ハ

 遂ニ訪ルルコトコレ無シ 子孫ハ是

 ノ

 御先祖樣御高恩ノ儀忘ルルコト無ク

 御先祖樣御遺志ノ儀受ケ繼ギテ急度

 償ヒテ置クベシ

 ――――――

萬年某、

「……いやはや、大きに笑(わろ)うたわ……さてもまた、却って金一枚分、借金が増したよな気も致いたもんじゃい!……」

と笑いながら語って御座った。

2010/11/17

大腸ポリープのプロタゴラス 又は 又しても辛くも生き延びた僕

盟友M.S.君よ、20代の頃、君はしばしば死を口にする僕に「瀕死のソフィスト」という美事な渾名をつけてくれたが、もう一つ、「大腸ポリープのプロタゴラス」という、言い得て妙の破裂音で韻を踏む味な僕のニックネームも与えてくれたのを覚えているかい?

僕らは、その時、別に大腸ポリープの話をしていた訳じゃあなかった。ところが、突然、君が口にしたこの名を、僕は有り難く拝名したものだったね。その時は、ただの面白いゴロだとばかり思っていたのだが――。

歩こう、預言者――。

1ヶ月前から下腹部に膨満感があり、断続的に激しく腹が鳴る上に、軟便と下痢が繰り返し起こった。僕はIBS(過敏性大腸症候群)の症状に似ていると思ったが、先々週受診した医師には最後に、父母の親族には癌とポリープを罹患していない者の方が少ないこと、僕の父母がいとこ同士であるからリスクは高いことを告げると、医師は内視鏡による検査を勧めた。

今日、初めて肛門からの内視鏡による精密検査を受けた。上からの胃カメラは嚥下反応が激しい僕には苦手だったが、これはずっと楽だ(前日から検査日の朝のプレ処置は地獄だったがね)。――お尻の穴からゼリーで突っ込まれるのは――こりゃ、とびきり意外に嫌じやないもんだ。

例によって主治医に頼んでライブ画像をすべて見せて貰いながら、自分の大腸の粗方を実見した。

上行結腸にはかなり多くの憩室(ポケット状の粘膜のへこみ)が見られた。そこにうんちが溜まって残っているのがくすんだピンクの粘膜と多数の襞の中に点々と楕円形にあるのは、「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号から木星の表面を見ているボーマンのようなオツな気分になったもんだ。――この憩室について医師は――「結構、ありますね」「しかし多い人はもっとあります」「憩室炎を起こしていなければ問題ありません」――

あった。あった。医師より先に気がついた(と思う。大腸ポリープのプロタゴラス」としてはね、自信はあるよ)。上行結腸のやや下方に小さな茸が――ほら、また、あった――今度は横行結腸への転回部のところ――勿論、医師は鉗子を挿入して検体を挟み取っていく(これは父の胃潰瘍の時に実見済み)――しかし、どれもそれほど大きくないな――

横行結腸に入ると憩室が全く見られず、これはユムシを裏返したように、綺麗なもんだった――しかし、下行結腸の回転部にまた茸があった――

下行結腸には上行結腸ほどではないが、やはり憩室が幾つか見える――最後のS字結腸部分は体位を変えたので画面が見れなくなったのは残念だった。ケツの穴から抜け出る瞬間まで――自分の尻の穴ぐらい、一生に一度は見ておきたかったんだがなあ――

結局、S字結腸の入り口近くにもう一つ茸が生えていたらしい。全部でポリープは4つ。大きさは直径4㎜が3つ、3㎜が1つ。

医師曰く、ポリープは腺腫で癌ではない。但し、5㎜以上のものは、成長して癌化する可能性があるので切除する方がよい。どれもぎりぎりであるが、(勿論、本人の判断で気持ちが悪いから取るという方もいる)手術の必要性は必ずしもない――憩室は憩室炎を起こしているものはないので問題はない――そもそもこのポリープと憩室からは、絶対に慢性的膨満や下痢の症状は起こり得ない――あなたの言った通り、IBSと思われます――とのことであった。

男性にしか効かない(女性のはかばかしい治験結果が得られないそうだ)という腸の運動亢進を掌るセロトニン(5‐HT3)受容体拮抗薬を処方された。

――というわけで――僕はまた、命拾いしたよ、M.S.君――

追伸:内視鏡の前日のレトルトの食事セット(こんなに少ないのなら何にも食うなと言われ方がマジ楽だった)、名前が「ボンコロン」だ。これはきっと、うんこが「ボン! コロン!」と出る食事だからだな。――だってさ、当日朝の腸内洗浄液(これ2リットルを2時間かけてすきっ腹に飲む――出す――飲む――出す――の繰り返しが大変だった)の名前は、何と「ムーベン」なんだぜ! これって「無便」! そのまんまじゃねえか! いやはや、ラテン語か何かで、もっとお洒落にネーミング出来ないもんかなあ、M.S.君、君の爪の垢でも飲ませたいね。これじゃ、「是で治る」で「ゼノール」の方が、ずうっとマシだぜ!

2010/11/16

耳嚢 巻之三 飢渇に望みて一飯を乞ひし事

「耳嚢 巻之三」に「飢渇に望みて一飯を乞ひし事」を収載した。

 飢渇に望みて一飯を乞ひし事

 予がしれる廣瀨某は元來大坂の者也し由。至て貧乏にて大坂より下りし時も纔(わづか)の路用を持て下りしが、神奈川の驛迄懷中の貯(たくはへ)一錢もなく遣ひ切りしに、江戸に至ればしるべもあれど、以の外空腹也けるが、風與(ふと)思ひ付て六郷の奈良茶屋の前にて轉倒して倒れければ、右茶屋の者ども大きに驚て、水など顏にそゝぎ藥など施して、活出(いきいで)し趣にて厚く禮を述(のべ)て、右鄽(みせ)に腰をかけて奈良茶など食し、初て快(こころよき)由を語り、扨々厚き世話に成し事也、代物拂ひ可申處、連(つれ)の者の先へ至れば追てこそ可遣といひしに、奈良茶屋も鄽先の倒死を遁れし事を悦びて、いかで左あるべき、快(こころよき)こそ嬉しけれとて立別れぬ。其後此廣瀨靑雲の仕合(しあはせ)ありて武家の養子と成、後は御目見以上に昇進し、御用にて通行の折から彼奈良茶屋を休みになし、古への事申出て厚く謝禮なしけるに、程過たる事、殊に日々の往來も多き事なれば見覺べきやうもあらざれば、かゝる事もありしやと大きに驚きけるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「廣瀨某」底本の鈴木氏注には、不詳としながらも詳細な推定が記されている。以下に引用しておく。『寛政譜に広瀬姓は一家のみで、同家は光貫が延宝八年御徒に召し加えられ、のち御徒目付に進んだ。その次は養子半右衛門光栄(ミツヨシ)で、父に先立って没し、遺跡は光貫の孫貫吉が享保十二年に継いだ。話中の人物は右の光栄か。』とされ、岩波版の長谷川氏注もこれを踏襲している。

・「神奈川の驛」現在の横浜市神奈川区神奈川本町付近にあった宿駅。現在のJR横浜駅の西口の東北にある高台。直下はすぐに海であった。

・「六郷」江戸から川崎宿に入る手前、六郷川の左岸。この渡しを渡ると川崎宿であった。

・「奈良茶屋」奈良茶茶屋。奈良茶飯を出した茶屋のこと。奈良茶飯は、一種の炊き込みご飯で奈良の郷土料理であったが、江戸時代には川崎宿の名物料理として知られていた。ウィキの「奈良茶飯」によると、『少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだものである。しじみの味噌汁が付くこともある。栄養バランスにも優れ、江戸時代に川崎宿にあった茶屋「万年屋」の名物となった』とあり、この店は「江戸名所図会」や十返舎一九「東海道中膝栗毛」にも登場する有名な奈良茶茶屋で、現在の新六郷橋車道下を潜った第一京浜国道右側の旧街道沿いに万年屋跡の案内板が立っている。本話柄の店もこの万年屋であった可能性が高いものと思われ、ウィキの記載にも『万年屋は江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したと言う』とある。奈良茶飯は『元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった。それが江戸や川崎に伝えられ、万年屋などで出されるようになったとされている』とある。本場大和高田市葛城広域行政事務組合の「かつらぎ夢めぐり」の「かつらぎの味 四季巡り」のページで画像とレシピが見られる。私は食べたことはないと思っていたが、この画像を見たら、28歳の昔、奈良で食した記憶が蘇ってきた。

・「御目見以上」将軍直参の武士で将軍に謁見する資格を持つ者の意。大名も含まれるが、現実的にはこう言った場合、旗本を指す。

■やぶちゃん現代語訳

 あまりの飢えに臨み一芝居打って一飯を乞うた事

 私の旧知の朋輩広瀬某は、元は大阪の者の由。

 若い頃、一念発起致いて――とは言っても『一っちょ、やったろかい!』程度の甚だ心もとない漠然とした思い付きからでは御座ったが――江府へ向かわんとせしが、当時の彼は至って貧乏の極みに御座って、実際に大阪から下って来た折りも、雀の涙ほどの路銀を持っているばかりで御座った。

 途中、神奈川の宿に辿りついた時には、遂に懐中の貯え、一銭残らず使い切って、すっからかんになって御座った。

 江戸に至らばこそ知る人がりもあれ、ここにては……しかも、折り悪しく異様に腹も減ってきて御座った。

 万事休す……と……ふと思いついたは――

 廣瀨、川崎宿は六郷川の川岸に御座った奈良茶屋の真ん前まで、如何にも……ふらふらよれよれ、躓きずるずるひょろりふらり……と、力なく歩んで参ったかと思うと、

――すってん、ぱったーん!

と、風に吹かれる紙屑の如、すっ転んで倒れて気絶した――振りを致いた。

 それを見た奈良茶屋の店の主人一同、臍で茶が沸いたが如く吃驚仰天、顔に水を浴びせかけるやら、気つけの薬を含ませるやら……と……

廣瀨、目蓋を震わせながら薄っすら眼を開くる……

「……か、か、くゎたじけ、なぃ……」

と辛うじて言葉になるかならぬかというような、蚊の鳴き声(ね)にて礼を述ぶ。

 店の者は、

「……お前さん、何やらえらい痩せて、げっそりやな……まずは何より、この奈良茶飯でもお食べになるか?」

と言うてくれたが――待ってましたと知れるも恥かしければ、黙ってうち震える顎の先で以って微かに頷く――さても横たわって御座ったかの店先の縁台に、起き直ってはようやっと腰を掛け……運ばれて御座った奈良茶飯をがつがつと喰らい、ようよう背と腹の僅かな隙間に茶飯納まり、

「……いや、いや、いや、いや……これにて、人心地ついて、御座った……」

と、廣瀨、やおら語り出す。

「……さてもさても……大層世話になり申した……御礼奈良茶飯代銭外(ほか)お払い致さんと思いますれど……実は、金子持つ連れの者……これ、先へ参って御座れば……追っ付け追いて金子受け取り……それから取って返して……必ずやお返し申すによって……」

と、まあ、如何にもなことを、これ、申した。

 すると、奈良茶屋主人、悦んで――彼にしてみれば、店先にて行き倒れが出でんこと、これもまた、迷惑なればこそ、

「何をおっしゃるやら。まんず、ご快気、よう御座んした。」

と、そのまま廣瀨を送り出した。

 ――――――

 その後(のち)、廣瀨某、切歯扼腕刻苦勉励、美事、青雲の志を遂げて、良き廻り合わせを得て武家の養子と相成り、遂には御目見得以上直参旗本にまで昇進致いて御座った。

 ――――――

 そんな出世致いた、ある折りのこと、御用で東海道は川崎宿を通行致いた折り、かの奈良茶屋に立ち寄りて休み、昔と変わらぬ思い出の、かの縁台に腰を下ろすと、

「――拙者、いつぞや――かくかくのことあって、痛く世話になった……。」

と昔の恥、これ、隠さず述べ、厚く礼を致いた上、用意して御座った茶飯一飯の代金外、謝礼の品々をも引き渡いた。

 ところが――かの折りと同じ、奈良茶茶屋主人で御座ったが――、

「……さてもさても……遠い昔のこと……殊に日々往来も多く御座いますればこそ……失礼ながら……かくも御立派なる御殿様御姿……これ、御見覚えも致いて御座らねど……はてさて……そのようなこと、御座いましたかのぅ……」

と、茶屋主人、大いに驚いて御座った由。

2010/11/15

母の入院を見送る0.5歳の僕

今日リハビリのために入院する母を正装して見送る無垢の僕

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2010/11/14

僕は何を見ていたんだろう

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耳嚢 巻之三 酒に命を捨し事

「耳嚢 巻之三」に「酒に命を捨し事」を収載した。

 酒に命を捨し事

 佐州に有し時老人の語りけるは、右老人の一僕ありしに、飽迄酒を嗜みけるが、何卒生涯の思ひ出に飽程酒呑て死度由いひける故、安き事也、餘程給(たべ)候へ迚、或る日祝儀の日に酒三四升遣し、心の好む程呑候へといひしに、彼者大きに悦びて獨(とく)と右酒をのみ樂しみけるが、三升程も呑ぬらんと思ひしに、うつゝなく寢て血水抔吐ける故、よしなき事なせしもの哉と思ひけるにやがて死しける。右老人の妻なる者其外傍輩抔寄合て、あの者好める事にて死せし事なれど不便の事也とて、笹ばたきといへる巫女に口よせしけるに、右靈出て、扨々忝(かたじけな)き事哉、多年好める酒を飽程のみし嬉しさ忘れん方なしといひける故、其嬉しさはさる事なれど共以後は如何なせしと尋ければ、其後の事は我身もしらずといひし由にて大に笑ひぬ。口よせなどする巫女のたぐひ、信ずべきにもあらざれど、好む所の酒におかされては、活(いき)て居ても前後を忘(ばう)じうつゝなる人多し。況や死(しし)て後の事はさも有べき事といひし、可笑しき事也。

□やぶちゃん注

○前項連関:酒に命を落した男パート2。しかし、教訓譚変じて、こちらは落語みたようなオチとなっている。佐渡実録シリーズの一つでもある。恐らく食道静脈瘤破裂による大吐血であるが、「飽迄酒を嗜みける」というところからは肝硬変の既発症も疑われ、この意識混濁も肝性昏睡の可能性があるかも知れない。

・「佐州に有し時」根岸は佐渡奉行として天明4(1784)年から天明7(1787)年まで現地で在任した。

・「獨と」底本では右に『(ママ)』表記がある。「篤と」(じっくりと)+「獨と」(たった一人っきりで)の二重の意味を含ませて訳した。

・「笹ばたき」笹叩き。民間の霊媒たる巫女(みこ)が霊を降ろして口寄せ(次注参照)をする際、両手に持った笹の葉で自身の頭を叩いたり、その笹の葉を熱湯に浸して身体に振りかけたりしてトランス状態に入る。そうした降霊の様態や祈禱、またはその巫女自身を指す語である。

・「口よせ」口寄せ。神霊などを自分に降霊(憑依)させて、その意志などを代言することの出来る術。近代の佐渡佐和田町のフィールド・ワークでの採取例では「ホトケオロシ」と呼んでいたことが知られている。

■やぶちゃん現代語訳

 酒に命を捨てた事

 佐渡国に御座った折り、ある老人から聞いた話で御座る。

 その老人には一人の下僕が御座った。三度の飯より酒が好きというしょうもない奴で御座ったが、

「……御主人様……儂(あっし)は、生涯の思い出に、もうこれ以上呑みとうないと思えるまで……文字通り飽きるほどに酒を呑みとう御座います……」

と言うので、

「易きことじゃ。では一つ、飽きるまで呑むがよかろうぞ。」

とて、とある祝儀の御座った日に、かの老人、酒三、四升ほどをその下僕にやり、

「ほりゃ、思うがままに呑みたいだけ呑むがよいぞ。」

と言うたところ、かの下僕、大いに喜び、下男部屋にてたった独り、じっくりまったりと酒を楽しんで御座った。……

……さても……三升ほども呑んだかと思う頃……何やらん意識がぼんやりと薄れて参ったれば……ちょいと横になろうとした、その途端……

――ぐうえェ! げげぅェ! ぐゎばァッ!――

と、酒混じりの大量の血反吐を吐く――

「……あっは……や、やっぱり……せ、せん方が、ええこと……し、したわなぁ……ホッ!……」

と呟きながら、そのまま……誰にも看取られることのう、死んでもうた。――

 ――――――

 かの下僕の葬儀も済んだ後日(ごにち)のこと、永年忠実に従って御座った下僕であったが故、かの老主人の妻が声掛け致し、彼の朋輩らも寄り合(お)うて供養せんとせし折り、

「……かの者、まずは、好きな酒にて死んだのであってみれば……本望でも御座ったろうが……やはり残った我らからみれば、不憫なことじゃ……」

とて、ある者が笹叩きと称する巫女(みこ)を呼び入れて口寄せ致いたところ、果して下僕の霊が現れた。

『…………さてもさても…………かたじけなくも、お呼び戴きましたること…………永年好める酒を飽きるほど呑んだ嬉しさ…………これ決して忘るること、御座らぬ…………』

と呟く。

「……酒呑めて嬉しいは分かったじゃ。……分かったが、お前さん、その……死んでから後は……如何が致いておる?」

と訊いてみた。すると、

「…………その後のことは――――儂も――――何(なあ)も、分からん――――」

と答えた。

 一同大笑い致いたとのことであった。

 ――――――

「……口寄せなんどをするという巫女の類い、これ、信ずるに値い致しませねど、好きな酒に溺れ、それに冒された者、これ、生きておっても、前後の記憶を失(うしの)う者は多きものにて御座る。……さればこそ泥酔にて死しての後は、なおのこと、何(なあ)も覚えて御座らぬとは、これ、当然のことでは御座るの……」

とその老人が語って御座ったが、誠(まっこと)面白い話ではないか。

2010/11/13

耳嚢 巻之三 酒宴の興も程有べき事

「耳嚢 巻之三」に「酒宴の興も程有べき事」を収載した。

 酒宴の興も程有べき事

 酒宴の座專ら分量を過て呑むを興となし、強て酒を勸むる事又興となす事なれど、心得有べき事也。佐藤古又八郎白山に住居し時、祝ふ事有りて近隣打集り酒肴有しに、各々數盃を傾けし上、表御右筆勤たりし古橋忠藏といへる者ありしが、七合入の盃出しに何れも恐れて少しづゝ受て廻しけるを、酒量も有けるゆへや、忠藏右七合入をなみ/\と受て見事に干しけるを、座中稱歎なしけるに、右の趣にてあらば今一盃もなるべしと言へる者ありしを、伊達とや思ひけん、忠藏尚一盃を受て呑けるが、半ば呑と見へしに精心を失ひし樣に見へけるが、兎角して呑て其座に倒れしを彼是介抱なして駕(かご)にて宿へ返りぬ。夫より五七日煩ひけるが、一旦快成(なりて)出勤はなしけれど、終に右の節より病付(やみつき)候て失せにける也。興も心得有べき事と爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。しかし本件の古橋の死因は、緩快期を中に挟んでいるから、本飲酒を直接の原因とする急性アルコール中毒によるものではない。長期の飲酒による致命的な肝機能障害を考えるより寧ろ、脳卒中や脳梗塞、心筋梗塞の可能性の方を考慮すべきであろう。

・「佐藤古又八郎」佐藤豊矩(とよのり 宝永6(1709)年~安永9(1780)年)。岩波版長谷川氏注に表祐筆組頭であった由記載がある。「古」は「故」で故人のこと。「卷之二」の下限は天明6(1786)年で、執筆時、彼は既に亡くなっていた。

・「白山」現在の文京区の中央域にある地名。江戸時代までは武蔵国豊島郡小石川村及び駒込村のそれぞれの一部であった。ィキの「白山」によれば、地名の由来は、『徳川綱吉の信仰を受けた』『白山神社から。縁起によれば、948年(天暦2年)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀しこの地に祭った』とある。

・「表祐筆」表右筆とも書く。幕府方にあって将軍の機密文書を扱った奥右筆より格下で、一般的な行政文書の作成や諸大名の分限帳、旗本・御家人などの名簿管理をした。

・「古橋忠藏」古橋忠信(享保161731)年~明和4(1767)年)。岩波版長谷川氏注に西丸表右筆で、37歳で逝去の由記載がある。確かに若死にしている。恐らく、佐藤豊矩が右筆でなかったとしたら、また、そうであっても根岸に語らずにおいたとしたら、古橋忠信の不名誉なる死の真相を多くの現代人は知らずに済んだであろう。古橋忠信の霊にとっては、鈴木棠三氏、長谷川強氏、そしてこの不肖私という注釈者は、やらんでもいいことをしてくれる厄介者ではある。

■やぶちゃん現代語訳

 酒宴で興に乗るにしても『程』というものを弁えなくてはならぬという事

 酒宴の座にて、専ら並みの分量を遙かに過ぎて鯨飲をなすを殊更に酒の興と致いて、同席の者に強いて酒を勧むることを、また酒興と致すこと、屢々見らるるが、これには相応に『程』というもののあること、重々心得ておくべきことにて御座る。例えば――

 佐藤故又八郎殿が白山に住んでおった頃のこと、とある祝い事が御座って近隣の者どもが集まり、酒宴を催して御座った。

 又八郎殿も加わって、各々相当に盃を傾けて御座ったところ、その家の主人が、やおら七合入りの大盃を持ち出してきて、その回し飲みが始まった。

 しかし流石に誰もが恐れをなし、形ばかりに少しずつ酒を受けては、じきに隣りの者に廻して御座った。

 ところがここに、表御右筆を勤めて御座った古橋忠蔵殿という御仁がおられ――元来が酒に強き性質(たち)で御座ったものか――忠蔵殿は、この大盃になみなみと酒を受けて、それをまた一気、美事に呑み干して御座った。

 一同から感嘆の声が上がったが、誰やらん、

「……かほどのことなれば、今一杯も、手もなく呑み干せようのぅ……」

と言うた者がおった。

 それを聞き、ちょいと男伊達を気取らんとしたものか、忠蔵殿、なお一杯を受けて呑み始めた。

……が……この度は、半分干したところで……正気を失(うしの)うたような顔つきとなったかと思うと――

――そのまま残りをぐっと呑んだ――

――呑んだよいが――

――そのままばったり倒れたかと思うと――

――失神致いて仕舞(しも)うた……

 皆、慌ててあれこれ介抱なんど致いて、忠蔵殿を駕籠でもって宿へ送り帰して御座った。――

 それから五、六日程も煩い――一旦は幾分、快方に向かったかのように見え、出仕も致いたものの――またまた病み臥せることと相成り――遂には命を落とした。――

 興に乗るのも大概にせよと心得よ、とのことならんとて、ここに記しおくものである。

2010/11/10

耳嚢 巻之三 先格を守り給ふ御愼の事

「耳嚢 巻之三」に「先格を守り給ふ御愼の事」を収載した。

 先格を守り給ふ御愼の事

 將軍家は宇宙を指揮なし給ひよろづ御心の儘なるべき。年々南部仙臺の御買上馬の節は、御覧留の事は御目留りと唱へ、除して御買上に成事也。近頃御馬を好ませ給ふの間、御目留り三疋有けるが、暫(しばらく)して御近邊へ、御先代御目留り幾ツありしと上意ありける故、御先代御目留り一疋づゝ也、時により二疋の事も候ひしが、多分は一疋の由御答有ければ、三疋の内二疋御戻し相成、一疋御留めに成りしと也。かゝる御事にも古きを顧み給ふ御惇通(じゆんつう)の御事、難有儀也と諏訪部文九郎物語なりき。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「將軍家」当代となると第十代徳川家治(元文2(1737)年~天明6(1786)年)で、将軍職在任期間は宝暦101760)年から天明6(1786)年。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるからぎりぎり問題ない。その前代は言語不明瞭の家重で、「暫して御近邊へ、御先代御目留り幾ツありしと上意ありける」という部分が気になる。私はこの可能性はないと思う(同時に家治がこの将軍だと彼がここで言う「御先代」になるというのもやや気にはなるのである)。更に遡るなら根岸が頻繁にエピソードとして引用する暴れん坊将軍第八代将軍吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の可能性も考えられなくはない。吉宗の将軍在任期間は享保元(1716)年から延享2(1745)年までで、諏訪部文九郎が二十代の1732年から1742年頃となると、既に49歳から59歳という中年期(当時としては高齢期)に達しているが、暴れん坊将軍なればこそ、この年になって馬に特に興味が生じたとしても、決して不自然な気が私にはしないのである。しかし、今まで話柄中に吉宗が登場する場合は、ほぼ決まって「有德院樣」と明記されており(そうでない場合でも年号によって吉宗と特定出来た)、「近頃」という表現や「諏訪部文九郎物語なりき」で本文中でも直接体験過去の助動詞「き」が使用されていることからも、ここはやはり家治ということになろうか。取り敢えず、現代語訳は特定を避けることにしたが、如何にもそれでは尻が落ち着かぬ。識者の御教授を乞うものである。

・「南部仙臺の御買上馬」「延喜式」の昔より、強健な南部馬は軍馬として高く評価されていたが、古くから育馬に精魂を傾けてきた南部氏を藩主とした盛岡藩(後に七戸藩=盛岡新田藩・八戸南部藩に分かれた)では、徹底した生産管理を行って、江戸期最高峰の日本馬を創り出した。戦国時代には既に人為交配によって丈十寸(とき:「寸」(き)は馬の背丈の特異的単位で、地表から跨る背までの高さを示す。4尺を標準として、それより一寸高ければ「一寸」(ひとき)と数えた。が約150㎝)を越える当時としては非常に大きい名馬を産出していたが、江戸に至って大平の世となると、荷駄用の使役馬の需要が主流となった結果、逆に荷の積み卸しが容易なように小型に改良され直し、4尺(標準値:約120㎝)程度の馬が再増産されたという。本話よりやや後になるが寛政9(1797)年の盛岡新田藩の馬の頭数は約8万7000頭、八戸南部藩は約2万頭、幕末期でも南部藩(どちらか一方か両藩かは不明)が所有する馬は約7万、その内の小荷駄馬は約3万頭を数えたとある。しかし戦争の近代化により軍馬の需要が減り、昭和の初期には純粋な南部馬は絶滅してしまった(以上はネット上の複数の資料をかなり自由に参考させてもらって総合的に作成したので特に引用元を明記しない)。

・「御先代」家治なら家重、あり得ないと私は思うが家重なら吉宗、吉宗なら綱吉、ということになる。

・「惇通」一般的な熟語としては見慣れない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「惇直」とあり、書写時の誤りの可能性が疑われる。こちらを採る。万葉的な一途な「直き」心の持ち主である。

・「諏訪部文九郎」諏訪部堅雄(かたお 正徳3(1713)年~寛政3(1791)年)。岩波版の長谷川氏注によれば、『西丸の御馬預から本丸御馬預を兼ねる』とある。諏訪部家は代々幕府御馬役を世襲した由緒ある馬術名家の家柄であった(南部藩との密接な関係があったことや同名の先祖諏訪部文九郎と柳生宗矩との馬上試合の話などをネット上に見ることが出来る)。この語りが本巻下限の天明6(1786)年頃であったとすれば、堅雄は既に74歳である。

■やぶちゃん現代語訳

 先例を守られるお慎みの事

 将軍家は、この総ての精気の集合体である宇宙を総指揮し給い、あらゆることはその御心のまま――全知全能にして、御心のままになさることが出来る――というに……

 ……毎年南部仙台から馬をお買い上げされる際には、南部藩より選りすぐられた名馬が馬場に引き出され、御覧に供されたものの内、将軍家の御目にお留まりになった優れもの――これを『御目留り』と称し――を別に囲っておき、最終的にはそれをお買い上げになられるのがその場の仕来りで御座った。

 ある年のこと――その頃、上様におかせられては殊に御馬に御興味があられたが故――かの『御目留り』が三頭御座った。

 ところが、暫くして上様が御側近の者へ、

「……御先代の『御目留り』はこれ、何匹であられたか?」

とのお訊ね、これあり、

「御先代の『御目留り』は、これ、一匹ずつであられました。時によっては二匹お選びになられることも御座いましたが、殆んどは一匹にてあられました。――」

とお答え申し上げたところ、上様は三匹の内、二匹を御戻しになられ、囲いには――お買い上げは一匹のみになされたということで御座った。

「……このような小事に対しても御先代御先祖故事故実を顧み給う御惇直、これ、誠(まっこと)有り難きことにて御座った……。」

と、幕府御馬方で御座った諏訪部文九郎堅雄殿が、思い出語りに話して呉れたことにて御座る。

2010/11/08

耳嚢 巻之三 僞も實と思ひ實も僞と思わる事

「耳嚢 巻之三」に「僞も實と思ひ實も僞と思わる事」を収載した

 僞も實と思ひ實も僞と思わる事

 江都の繁榮はいふも及ざる事也。予が舊識石黑來りて、折節上方より來りける人と膝を並べて物語の序(ついで)、雜談に及びけるが、江戸兩國橋は名に追ふ長橋にて、大風の折からは笠紐をゆるく結ぶ事也、ゆるければ大風來りても笠をとらるゝ計(ばかり)也、もし強く〆なば首ともに拔て行(ゆく)事ありと石黑かたりければ、京都なる者も例の石黑氏の虚談と笑ひぬ。石黑が曰く、さおもひ給ひそ、二三錢或六七錢の商を積て、間口拾間拾五間に藏作りにして商ひなす者有といひければ、是又例の虚談と彼京都人申ける故、これは僞ならず、傳馬町(てんまちやう)に三升屋(みますや)平右衞門とて蓬艾(よもぎ)を賣、鱗形屋(うろこがたや)孫兵衞とて草雙紙一枚繪を賣て拾間拾五間の藏造りして居る者有といひければ、然れば大風に首の拔間敷(まじき)にもあらずと笑て止ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:「證となしがた」き狐の人を化かす話から、虚実皮膜の大江戸嘘のようなホントの話で連関。

・「石黑」「卷之二」の「人の命を救ひし物語の事」に登場する、根岸の評定所留役時代の同僚であった石黒平次太であろう。底本鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注ともに石黒敬之(よしゆき 正徳六・享保元(1716)年~寛政3(1791)年)とする。御勘定を経て、『明和三年(一七六六)より天明元年(一七八一)まで評定所留役』(長谷川氏)であった。石黒と根岸は明和3(1766)年から明和5(1768)年の2年間、同役として勤務していた。

・「兩國橋」ウィキの「両国橋」によると、『両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい』。『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った』。江戸時代の長大さを比較するために近代以降の部分も引く。『両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する』。『結果、1904年(明治37年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた』とある。現両国橋は長さ 164.5m、幅員 24.0m で、昭和7(1932)年に竣工している。

・「六七錢」当時の大人一人の銭湯入湯料相当である。

・「間口拾間拾五間」10間は18m強、15間は27m強で、商家の正面幅10間でも豪商であるのに、これが蔵の間口と言うことになると、とんでもない富豪であること、言を俟たない。

・「傳馬町」現在の中央区北部にある小伝馬町及び大伝馬町(おおでんま)。町名は伝馬役(てんまやく)が住んだことによる。小伝馬町は牢屋敷があったことで知られる。伝馬役は宿駅の運送業に従事する役や賦役を言うが、ここの場合は江戸府内から五街道に関わる人足・伝馬の継立て(宿駅での荷の受け渡し業務)を負担した大伝馬町・南伝馬町、江戸府内限りの公用の交通・通信に従った小伝馬町の三伝馬町があった。

・「三升屋平右衞門」現在の大伝馬町三丁目に相当する通旅籠町(とおりはたごちょう)にあった売薬屋(底本鈴木注では大伝馬町二丁目とするが、次の注で引いたリンク先の詳細な記事の記載を正しいものと判断して採用した)。灸や煎じ薬として艾(もぐさ)を商いして安永年間に大いに繁盛した。

・「蓬艾」キク亜綱キク目キク科ヨモギ属 Artemisia indica 変種ヨモギArtemisia indica var. maximowiczi。灸に用いる艾(もぐさ)は、この葉を乾燥させて、その葉の裏側にある綿毛を採取したもの。ヨモギの葉は艾葉(がいよう)という名で生薬として用いられ、止血作用があり、他に若芽や成育初期の若株を干して寝かしたものを煎じて飲むと、健胃・腹痛・下痢・貧血・冷え性などに効果があるという。三升屋平右衞門のそれは商品名を「団十郎もぐさ」と言った。株式会社クリナップのHPにある「江戸散策 第23回 やっぱり、いつの時代も病気は怖い。」には安政61859)年版恋川春町描く三升屋の店先と共に、この命名について、『店主の平右衛門は、人気の芝居役者「市川団十郎」から「団十郎もぐさ」とし、団十郎の紋「(みます)」を商標として使うばかりか、自らも「三升屋」と名乗っている。もちろん、「団十郎」と「もぐさ」は何のかかわりもない。こういう「あやかり商売」は江戸では一般的で、実際いろいろな人が団十郎○○という代物を売っていた。いいかげんのような気もするが、それが江戸の社会だった』由、記載がある。

・「鱗形屋孫兵衞」明暦年間(165558)の創業から文化初年(1804)頃まで営々と続いた江戸有数の版元。参照した「朝日日本歴史人物事典」の安永美恵氏の解説によれば、姓は『山野氏。鶴鱗堂と号す。初代は三左衛門、2代以降は孫兵衛を称する。鱗形屋は浄瑠璃本、仮名草子、菱川師宣の絵本から、赤本、黒本、青本などを板行し、特に、安永4(1775)年黄表紙第一作とされる恋川春町の「金々先生栄花夢」刊行後は、全盛期の黄表紙出版をリードした。八文字屋本をはじめ上方浮世草子の江戸売りさばきを積極的に行うなど、近世中期の江戸文学の興隆に大きく寄与したが、『吉原細見』の版権を手放した天明年間(178189)以降、第一線から退いてい』ったとある(引用に際して記号の一部を変更した)。底本の鈴木氏注には、『初夢を見るために枕の下に敷く宝船の図を』売り出して、ヒット商品となっていたため、『一般市民にも親し』い店であった、ともある。

・「草雙紙一枚繪」平凡社「世界大百科事典」の「草双紙」から引用しておく(記号の一部を変更した)。『江戸中・後期に江戸で刊行された庶民的絵入小説の一体。毎ページ挿絵が主体となり、その周囲を埋めるほとんどひらがな書きの本文と画文が有機的な関連を保って筋を運ぶのが特色。美濃紙半截二つ折り、5丁1冊単位で、2、3冊で1編を成す様式が通例。しだいに冊数を増し、短編から中編様式へ、そして後には年々継続の長編へと発展する。表紙色と内容の変化とがほぼ呼応し、赤本、黒本あるいは青本(黒本・青本)、表紙と進展し、装丁変革を経て合巻(ごうかん)に定着、明治中期まで行われる。草双紙の称は上述5様式の総称だが狭くは合巻を呼ぶ。本格的ではないという意の称呼で、赤本は童幼教化的、黒・青本で調子を高め、黄表紙は写実的な諧謔み、合巻は伝奇色が濃厚になる。』とある(引用元著作権表示 鈴木重三 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

■やぶちゃん現代語訳

 嘘も本当と思い本当も嘘と思われるようなこの大江戸の事

 大江戸の繁栄振りはいまさら言うまでもないことで御座る。

 私の旧知の友である石黒平次太敬之殿が拙宅を訪ねて御座ったが、丁度その折り、やはり上方より来訪致いて御座った御仁と出会わせ、親しく話を致す機会が御座った。

 その中で、

「……江戸の両国橋というは、国と国を結ぶという名にし負う長き橋で御座っての……大風吹く折りには、渡る者はこれ、笠紐を緩く結ぶことになって御座る。……何故(なにゆえ)と申さば……緩ければ大風吹き来たっても、笠が飛ぶだけで済んで御座る。……ところが、万一、強く締めて御座ると――首共に抜け飛んでしまうことが御座るからじゃ。」

と石黒殿がかましたので――石黒殿は、昔からこんな茶目っ気のある御仁で御座った――京都から参ったその客人も、これに、

「……また、ご冗談を。……」

と、笑って御座った。

 すると石黒殿は、

「……これ、空言とお思いになってはなりませぬぞ。……ここにこんな話も御座る……二、三銭或いは六、七銭の商いを積み重ね、積み重ね――間口十間、十五間の蔵を造って商い致いておる者、これ、御座るのじゃ。」

と申したところが、かの京のお人は、

「……ほれ、また、ご冗談を……」

と申した故、石黒殿、

「……ところがどっこい、こいつは嘘では御座らぬ。伝馬町に、三升屋平右衛門と言うは、たかが蓬(よもぎ)を売り――また同じ町の、鱗形屋孫兵衛と言うは、たかが草双紙の一枚絵を売って、誠、十間、十五間の蔵をおっ建てて住んで御座るもの、これありますぞ! 嘘と思わるるならば、とくとご覧になられるがよい。」

と申すによって、私も肯んじたところ、

「……へえーッ?!……そないなことならば……大風で首は抜けぬとも、言えまへんな!……」

と、一同大笑い致いて御座った。

2010/11/07

芥川龍之介 河童 やぶちゃん恣意的副題――どうかPrototype“Kappa”と讀んで下さい―― 附やぶちゃん注 (やぶちゃんによる芥川龍之介真原稿恣意的推定版)

芥川龍之介「河童」(やぶちゃんによる芥川龍之介真原稿恣意的推定版)(又は やぶちゃん恣意的副題――どうかPrototype“Kappa”と讀んで下さい――)を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

このテクストは相応に力(リキ)が入った。久しぶりに、作業しながら、自分の中で落ちて行く眼からの鱗が、書斎の机の下に数センチも積もるのが見えた……相応にしんどい現実から暫し離れて……

……これは知られた晩年の名作「河童」とは同名異作の未完作であるからご注意あれ!

……しかし、僕はこれがあの名作「河童」とは違う、そのプロトタイプ「河童」であると信じて疑わないのである!

……更に、これは僕の考えた、現在、この地球上、何処にも存在しない、オリジナルな芥川龍之介の原稿推定版「河童」でもある点に、ご注意あれ!

本文自体は短いから、是非、今からすぐ、お読みあれ!

そうして――もう、分かって頂けたかも知れない――僕は勿論、あの後年の小説「河童」の――「やぶちゃん注」に取り掛かっているよ……

2010/11/06

危険がアブナイよ

御嬢さん――人生は――危険がアブナイよ

耳嚢 巻之三 狐獵師を欺し事

「耳嚢 巻之三」に「狐獵師を欺し事」を収載した。

 狐獵師を欺し事

 遠州の邊にて狐を釣てすぎわひをなせし者有しが、明和の頃、御中陰の事ありて鳴物停止(なりものちやうじ)也しに、商賣の事なれば彼者狐を釣りゐけるに、一人の役人來りて以の外に憤り、公儀御禁じの折からかゝる業なせる事の不屆也とて嚴重に叱り、右わな抔をも取上げけるゆへ、彼者大に驚き恐れ品々詫言せしが、何分合點せざる故、酒代とて錢貳百文差出し歎き詫けるゆへ、彼者得心して歸りしが、獵師つくづく思ひけるは、此邊へ可來役人とも思はれず、酒代などとりて歸りし始末あやしく思ひて、彼者が行衞不見頃に至りて亦々罠をしかけ、其身は遙に脇なる所に忍びて伺しに、夜明に至りて果して狐を一つ釣り獲しに、繩にて帶をして宵に與へし錢を右帶に挾み居しを、遠州にて專ら咄す由、地改にて通しける御普請役の歸りて咄しける。鷺、大藏が家の釣狐に似寄し物語、證となしがたけれど聞し儘を爰に記置きぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:地改の御普請役が登場人物である話から、話者が地改の御普請役で連関、二項前の中陰絡みで隔世連関。

・「狐」イヌ目イヌ科キツネ属アカギツネVulpes vulpes 種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica

・「遠州」遠江国。凡そ現在の静岡県大井川の西部地区に当たる。

・「狐を釣て」何故、狐については捕獲することを「釣る」というのかという疑問がある。熊釣り・鹿釣り・山犬釣り・猫釣りなどというのは聞いたことがない。これはもしかすると、狐が人を騙す(釣られる)ことから、逆に餌で誘って「狐を釣る」という語が出来たものか。しかし狸釣りとは言わない。油揚げを釣竿の先にぶら下げで釣るというのは――私には如何にも非現実的であるように思われる。識者の御教授を乞う。

・「明和」西暦1764年から1772年。

・「御中陰」人の死して後、49日の間を言う。死者が生と死、陰と陽の狭間にあると考えられたため、一般に特に精進潔斎して、殺生を戒めた。中有(ちゅうう)。

・「鳴物停止」忌中歌舞音曲禁止であるから、殺生は言うまでもない。

・「錢貳百文」明和の頃ならば米二升・酒一升・旅籠宿賃一泊分というところ。

・「地改」論所(所有権・権益などを巡る土地や水域の紛争対象地)について、幕府の評定所に提訴があり、その論所が複雑なケースの場合、係の下役が直接現地に出向き、論所地改という実地検分がなされた(前項「武士道平日の事にも御吟味の事」参照)。

・「御普請役」これは幕府御普請方役所で実務土木事業に従事した下級役人。

・「鷺、大藏が家」「鷺」家は、鷲仁右衞門を宗家とする狂言三大流派(大蔵流・和泉流・鷲流)の一派。江戸時代、狂言は能と共に「式楽」(幕府の公式行事で演じられる芸能)であった。大蔵流と鷲流は幕府お抱えとして、また和泉流は京都・尾張・加賀を中心に勢力を保持した。但し、現在、大蔵流と和泉流は家元制度の中で維持されているが、鷲流狂言の正統は明治中期には廃絶、僅かに山口県と新潟県佐渡ヶ島、佐賀県神埼市千代田町高志(たかし)地区で素人の狂言師集団によって伝承されているのみである。「大藏」家については、ウィキの「大蔵流」より一部引用しておく。『猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派』。『代々金春座で狂言を勤めた大蔵弥右衛門家が室町後期に創流した。江戸時代には鷺流とともに幕府御用を勤めたが、狂言方としての序列は2位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大蔵弥右衛門家。分家に大蔵八右衛門家(分家筆頭。幕府序列3位)、大蔵弥太夫家、大蔵弥惣右衛門家があった。大蔵長太夫家や京都の茂山千五郎家、茂山忠三郎家をはじめとして弟子家も多く、観世座以外の諸座の狂言のほとんどは大蔵流が勤めていた』とある。

・「釣狐」狂言。鷺流の曲名は「こんくわい」。面や縫い包みを用い、基本的教習曲であると同時に難曲の一つでもある。小学館の「日本大百科全書」の油谷光雄氏執筆の「釣狐」より引用する(ルビの一部を省略した)。『雑狂言。仲間を釣り絶やされた古狐が、猟師に殺生を断念させようと、猟師の伯父の伯蔵主(はくぞうす)(前シテ、伯蔵主の面を使用)に化けて現れ説教をする。まんまと猟師をだまし、これからは狐を釣らぬと約束させた帰り道、古狐は猟師が捨てた罠をみつけるが、その餌の誘惑に耐えかね、身にまとった化け衣装を脱ぎ捨てて身軽になって出直そうと幕に入る。それと気づいた猟師が罠を仕掛けて待つところに、本体を現した古狐(後シテ、縫いぐるみに狐の面を使用)が登場、餌に手を出し罠にかかるが、最後にはそれを外して逃げてしまう』(底本の鈴木氏注によれば、堺の少林寺耕雲庵の僧白蔵主と狐の実話に基づく説話が原話とする)。『人(役者)が狐に扮し、その狐がさらに人(伯蔵主)に化けるという、二重の「化け」を演技するため、役者は極度の肉体的緊張を強いられ、しかもその「化け」がいつ見破られるかという精神的緊張が舞台にみなぎる。演技の原点である「変身」を支える肉体と精神がそのまま主題となった本曲は、それゆえに、「猿(『靭猿(うつぼざる)』の子猿)に始まり狐に終わる」といわれる狂言師修業必須の教程曲であり、ひとまずの卒業論文である。なお、江戸時代から再々歌舞伎舞踊化され、釣狐物というジャンルを生んだ』。因みに、狂言「猿(靭猿)」は大名狂言。シテの大名が太郎冠者に命じて、猿引き(猿回し)の連れる猿の皮を靭(うつぼ:弓矢を入れる筒。)の皮にせんと所望する。猿引きが断ったが、弓に矢を番えて強迫に及ぶ。猿引きはせめて矢傷にて殺傷せんより己が杖を振り上げて打ち殺さんととするが、猿はその杖を採って、常の舟の櫓を押す芸をしたので、猿引きは「共に殺さるるも猿は打てぬ」と泣き、大名も不憫に感じてもらい泣き、猿は命拾いする。猿引きは御礼に猿歌を謡い、猿を舞わす。すると大名も肌脱ぎになった上、衣から何から何まで褒美に与え、一緒に猿真似の舞いとなって大団円。狂言師の修業(特に和泉流)では三歳から五歳の頃に本狂言の小猿役から始められることが多いと、同じ「日本大百科全書」の「靭猿」の記載にある。

■やぶちゃん現代語訳

 狐が猟師を欺いた事

 遠州の辺りにて狐を釣って、それを生業(なりわい)と致いておる者が御座った。

 明和の頃のことであったが、やんごとなき御方の御逝去に伴い、その御中陰のこととて、鳴物停止(ちょうじ)の御法度が触れ回されて御座ったが、それじゃ商売上がったり、お飯(まんま)の食い上げじゃとて、かの者、何時もの通り、狐を釣っておった。ところが、かの者が狐釣りに隠れて御座ったところ、傍らの笹藪の内より突如、一人の役人が現れ、殊の外に憤って、

「御公儀御禁の折柄、かかる業(わざ)成せるとは! 不届き者めがッ!!」

と厳しく叱りつけ、男の罠なんどまでも荒らしく取り上げた故、男も吃驚仰天、大いに畏まって詫び言なんども致いて御座ったが、これが、なかなか怒りが解けぬ。さればとて、御酒代にと銭二百文を差し出だいたところが、漸く役人の勘気も収まり、納得して帰って御座った。

 しかし――その帰って行く後ろ姿を眺めながら――かの猟師は考えた。

「……こんな田舎下(くんだ)りにやって来るような役人の風体とも思えぬ。……そのくせ、酒代なんどの賄賂を、平然と取り上げて帰るというも……如何にもな、怪しきこと……」

と思い、かの役人の姿が見えなくなった頃、またぞろ狐釣りの罠を仕掛け、そこから風下遠く離れた叢に隠れて、様子を伺っておったところ、夜明へ方に至って、果して一匹の狐が罠にかかって御座った。

 見れば――その狐、胴に繩の帯を締めており、前夜の宵に与えた銭をこの帯に挟んで御座った――

「……という話が、今、遠州にて専らの評判になって御座った。……」

と、普請方お役目として地改(じあらため)に遣わされた下役の者、帰って来ての話で御座った。

 思うに、鷺家及び大蔵家に伝える狂言の「釣狐」によう似た物語では御座る。されば、事実あったこととは如何にも言い難きことなれど、まあ、聞いたまま、ここに記しおくものである。

忘れ得ぬ人々23 僕のじいちゃん

土器を拾う僕のじいちゃんと僕の母――じいちゃんは大隅半島の山の中で歯科医として終生を終えた――そのド田舎の歯科医院の待合室には「リーダーズ・ダイジェストの最新号が並んでいるだけの――そうさ! カッコいい――じちゃんだったんだ!

File0041

暫く

一週間ちょっとの間、僕は僕の今の個人的感懐の記載を行わない(電子テクストは全く別で、今、やっとちょいと面白いものが完成したよ!) 従って僕へのメールに対しても、恐らくお答えはしない(これは普段と同じだ)。全くの個人的な物理的身体的理由からである。これについての一切の質問にも、お答え出来ない。悪しからず。では、暫く、御機嫌よう。

2010/11/05

耳嚢 巻之三 武士道平日の事にも御吟味の事

「耳嚢 巻之三」に「武士道平日の事にも御吟味の事」を収載した。


 武士道平日の事にも御吟味の事

 享保の頃、武州二郷半(にがうはん)領邊へ論所(ろんしよ)吟味として御普請役手代の類罷越しけるに、百姓共背く事ありて大勢にて右見分の者へ手向ひ、石を打或は打擲(ちやうちやく)して兩人共はふばふの躰(てい)にて立歸りぬ。依之右村方の者ども江戸表へ呼出し、吟味の上夫々重き御仕置被仰付、右御普請役をも取計ひ不行屆にて押込に伺けるに、右兩人は其砌刀を拔候やとの御尋故、刀を拔不申趣申上ければ、大勢立集り候はゞ打擲には逢可申(あひまうすべき)事也、輕き者なればとて侍の身分にて、帶刀に手も懸ざる段不屆の至り也とて、改易被仰付けると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:暴れん坊将軍吉宗の、御容赦でさえない、『武士たる者の当然の仕儀としての』お構いなしの裁断に対し、こちらは同じ吉宗の、容赦のない、『武士たる者の当然の仕儀をせざるが故の』極めて厳しく見える処断で直対連関。そんな雰囲気を対称的に出せるような現代語訳にしてみた。前項の訳と対比して、お楽しみ戴けると嬉しい。

・「享保」西暦1716年から1736年。

・「武州二郷半領」武蔵国二合半領。現在の埼玉県三郷市の大部分と同県吉川町を含む地域一帯の名称。勿論、農村地帯で、しばしば土地境界の紛争があったようである。底本の鈴木氏注に、『江戸川と古利根川にはさまれた南北に細長い地域』で、『低湿で大部分は近世新墾されたもの。伊奈忠次がこの辺を賜わり一生支配すべしと命ぜられたので、一升を四配するで二合半と称したという俗説がある』とする。この伊奈忠次(いなただつぐ 天文191550)年~慶長151610)年)は代官。後、武蔵国小室藩初代藩主となった。ウィキの「伊奈忠次」によれば、『武蔵国足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣において一万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している』とある。

・「論所吟味」「論所」は論地(ろんち)とも言い、所有権・権益などを巡る土地や水域の紛争対象地を指す。幕府の評定所は、こうした田畑・山林・河川等に関わる提訴があった場合、訴訟方と相手方の双方に対して係争地の絵図(これを立会絵図と言った)の作成と提出を命じて、これを検地帳と照らし合わせながら双方の主張を聞き取りつつ、審理した。論所が複雑なケースでは論所検地・論所地改(じあらため)という実地検分がなされたが、本件は正にそうした実地検分での騒動である(以上は小学館刊「日本大百科全書」の「論所」の記載を参照した)。

・「御普請役」御普請奉行のことか。主に土木工事実務全般を掌った御普請方役所の長。御普請奉行は寛永101633)年に設置されており、定員2名で役高300石。支配下に役割役・見分役・調方がいた。御普請方役所は道路改修・河川補修の工事や道路管理の他、した屋敷奉行も兼務し、諸藩藩士の屋敷管理や城門番人支配、幕府関連の土木作業に関わる大工・左官・屋根葺職人・鍛冶師・桶師・畳師といった職人も、この御普請方支配下にあった。ここではその対象者処罰が将軍家吉宗によって特になされていることから、一応、普請奉行でとっておいたが、次の「狐獵師を欺し事」でも、「地改にて通しける御普請役」という言い方が現われてくるので、これは下級役人も含めた広く普請事業に従事する者の、漠然とした謂いともとれる。

・「手代」一般には郡代・代官・奉行等の支配下にあって雑務を扱った下級役人のことを言ったが、ここでは前注の見分役のことと思われる。後に「改易」の処分が下されており、これは後注で見るように、旗本格に処せられた刑罰であるから、一般的な手代としての下級役人という表現にはややそぐわない気がする。

・「はふばふの躰」所謂、「ほうほうの体」で、これは元は「這ふ這ふの体」で、慌てふためくさまを言う。

・「右御普請役」これでは上司である普請奉行の意となるが、それでは後の文脈が通じない。「右御普請役代行として遣わされた手代二人」の意でとった。

・「押込」一室に閉じ込め、外部との接見・音信を禁じた監禁刑で、俗に「座敷牢」と呼ばれた。20日・30日・50日・100日と日数で軽重があった。自宅謹慎相当の蟄居よりも重い。

・「改易」武士の身分を剥奪し、所領・城・屋敷・家禄・財産等を没収すること。除封。士分に課せられた処罰としては蟄居やその強制版である押込の上で、切腹に次ぐ重い処罰であった。

■やぶちゃん現代語訳

 吉宗公武士道遵守これ平常時にても御吟味あった事

 享保の頃、武州二郷半領の辺りで、訴訟となった紛争地の実地検分のため、御普請奉行検分役担当の者が二名赴いたところ、相手方の土地の百姓どもが本検分を不服として、大勢で手向かい、石を投げ、或いは殴る蹴るといった乱暴狼藉を働いた。

 結局かの両名、ほうほうの体にて江戸表に逃げ帰って御座った。

 この一件に依って、刃向かったかの村方の者どもは、勿論、悉く江戸表へ呼び出され、吟味の上、それぞれに重い御仕置きが仰せ付けられて御座った。

 また、かの右御普請役代行として遣わされた検分役手代二名に対しても、そうした事態を招いたことに対する、その事前の対応の拙さと情けなき帰府顛末には不行き届きこれありとの判断にて、両名とも押込に処することと致す旨、上様にお伺いを立てた。すると、

「――右両人は、その砌、刀を抜いておるのか?」

とのお訊ね故、係の者、如何にも哀れなる二名の心証を良きものと致さんと思うて、真正直に、

「いいえ――所詮、相手は百姓なればこそ両人とも太刀なんどは、決して抜いたり致いては御座いませなんだ――」

と答えた。

 すると上様は、

「――興奮致いた大勢が烏合の衆となれば、これ、打擲に逢(お)うこと、当然の理――その折り、相手が百姓という身分軽き者どもであったとは申せ――勿論、好んで斬れ、とは申さぬ――申さぬが――侍の身分にあって、その武士たるものの身分が立たざる、かく理不尽なる所業を受け乍ら、その帯びたる太刀に手もかけざるの段! これ、不届きの極み!」

と激昂されるや、一言、

「改易!」

と、如何にも厳しき御裁断の御意が御座った、と承って御座る。

2010/11/04

耳嚢 巻之三 御中陰中人を殺害なせし者の事

「耳嚢 巻之三」に「御中陰中人を殺害なせし者の事」を収載した。

 御中陰中人を殺害なせし者の事

 御徒を勤し針谷平十郎といへる者、予が幼稚の時隨分逢し男也。有德院樣御代御中陰の事ありし日、右平八郎湯嶋切通しを通りしに、酒興の者向ふより來て理不盡に平八郎へ突懸りけるを、色々はづしけれども理不盡に及びけるにぞ、捨置がたく切殺しぬ。其譯組中へも聞へ頭へも申立けるが、折あしく御中陰の事なれば、取計も有べきに短慮といへる者も有て、上の御咎を恐れしに、慮外者を討留し事なれば事なく相濟ける。其比(そのころ)右御中陰中の事を申上けるに、有德院樣上意に、武士たる者其身分不立(たたざる)事か或ひは慮外いたしける者あらんに、其身の命をも不顧(かへりみざる)は常なり、況や中陰の内におゐてをやと御意ありしと承りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:家光・家綱から吉宗へ将軍家に直接纏わるエピソード連関。

・「御中陰」人の死して後、49日の間を言う。死者が生と死、陰と陽の狭間にあると考えられたため、一般に特に精進潔斎して、殺生を戒めた。中有(ちゅうう)。ほら! 芥川龍之介の「藪の中」さ! なお、これは上意が下されるような「御中陰」であるから、針谷平十郎自身の親族の中陰ではなく、吉宗絡みでとなれば、一番に浮かぶのは宝永6(1709)年1月10日に亡くなった先の将軍綱吉の中陰ではある。綱吉の薨去は宝永6年1月10日で同月は小の月であるから29日までなので、残り19日、2月は大で30日であるから、宝永6年2月末日までのぴったり49日間が綱吉の中陰である。但し、これが絶対に綱吉のものであったかどうかは分からぬ。実は後注の針谷平十郎の同定の絡みの上でも、『そうではない』と考えないと都合が悪い。将軍家所縁の者や高貴な公家衆の中陰に関わるものであったとして、現代語訳では誤魔化した。

・「御徒」とは「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。

・「針谷平十郎」岩波版の長谷川氏注では、未詳とし乍らも、可能性として菅谷平八郎政輔(まさすけ 元禄151702)年~宝暦3(1753)年)なる人物の名を挙げている。そこには『菅谷は小性組頭・御先鉄砲頭』であったとある。しかしこの人物では宝永6(1709)年には8歳(!)で合わない。根岸は元文2(1737)年生まれであるから、根岸の幼少時(4~10歳。根岸家の養子になったのは宝暦8(1758)年の22歳の時)は菅谷平八郎は4046歳であるから、自然ではある。更に、調べると根岸の実父安生定洪(さだひろ)は元御徒組頭であった(後に代官)ことからも、この人物の可能性は高い(ということはやはり綱吉中陰説は引き下げざるを得ないか)。現代語訳でもそこを敷衍して訳した。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡り名。

・「湯嶋切通し」湯島切通し坂。現在の文京区湯島にあった切通し。湯島天神の東北を「へ」の字形に、湯島の高台から広小路御徒町方向へと下る間道として開かれた。本話の頃は急な石ころ坂であったものと思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 御中陰中に止むを得ず人を殺めた武士の事

 御徒を勤めて御座った針屋平八郎という者は、私が幼い頃、実父の父の仕事の関係上、よく家を訪ねて参り、子供ながらに逢った記憶のある男で御座る。

 有徳院吉宗様の御代のこと、さるやんごとなき御方――失礼乍ら、どのような御方で御座ったか失念して御座るが――ともかくも、その御方の御中陰の折りのことにて御座った。

 その日、かの平八郎が湯島の切通し坂を通りかかったところ、酒に酔った男が向こうからやって来て、すれ違いざま、訳の分からぬ言掛かりをつけ、五月蠅く絡んで参った。平八郎はいろいろ手管を変えては、かわして避けんと致いたのだが、遂には以っての外の理不尽に及んだがため、最早堪忍ならず、とばっさりと斬り殺した。

 この次第、徒士組(かちぐみ)の同僚にも知られ、隠すつもりも御座らねば、直ぐに平八郎自身より組頭へ申し出て御座った。ところが折悪しくも、かのよんどころなき御方の御中陰の期間で御座ったがために、

「――他の取り計らい方、これあるべきところなるに、甚だ短慮――」

と理に拘わる者も御座ったがため、事件として特に取り上げられ、吟味にならんとするかと、お上からの厳しいお咎めを畏まって待って御座ったところが、程なく、理不尽なる慮外者を討ちとったる正当なる仕儀との判断、これ、御座って、どうという御処分もなく相済んで御座った由。

 実は、この一件、しっかりと上様の御耳には達して御座った。

 係の者、御陰中に抵触せんとする不行届の事例を幾つも挙げんとした一つとして、この平八郎一件の具体を上様に申し上げたところ、

「――その武士たるものの身分が立たざるとか、或いは法外に理不尽なる所行に及ばんとする者、これあるに――例え、その後に咎めがあろうがなかろうが――その身命(しんみょう)をも顧みざるは、これ、武士の常! 況や! 中陰の中に於いてをや!――」

と、問題にすること自体、これ憚られんばかりの、鮮やかなる御裁断の御意が御座った、と承って御座る。

2010/11/03

55年目の父と母の結婚記念日――おめでとう

仲間たちの手作りの結婚式だ――

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耳嚢 巻之三 梶左兵衞が事

「耳嚢 巻之三」に「梶左兵衞が事」を収載した。



 梶左兵衞が事

 日光慈眼堂(じげんだう)の奧に、梶左兵衞といへる人の墳墓あり。贈位四品(しほん)にてそのいわれを尋るに、大猷院(だいいふゐん)樣御小姓を勤て生涯御近邊に扈從(こじゆう)なしける由。飽迄篤實の人にて、御取立の儀御沙汰有けれども辭讓して、一生妻子を持ず。子孫を顧て眞忠の御奉公成がたしといひし由。大猷院薨御(こうぎよ)以後は、日光山へ御供なして日光にて終りけるが、朝暮の御膳獻備(けんぴ)にも御別所に相詰て、聊にても供僧など不束(ふつつか)あれば免(ゆる)さず憤りて、御在世の如く仕へて日光にて物故なしければ、嚴有院樣御代四品の御贈位有りし由。右の覺悟ゆへ其名跡(みやうせき)と言(いへ)る者もなし。左兵衞召使の幸助といへるを日光御殿番に被召出、今に其子孫小野善助とて御殿番を相勤、左兵衞が年季追福は御靈屋の御別所龍光院にて修行なせども、墳墓の掃除等は善助家にて執行ふ由也。異人眞忠なる人も有もの也。

□やぶちゃん注
○前項連関:日光山実見録シリーズで直連関。

・「梶左兵衞」梶定良(さだよし 慶長171612)年~元禄111698)年)幕臣梶氏の養子で。寛永9(1632)年より三代将軍徳川家光に仕え、御腰物持・御小納戸役を勤めた。慶安4(1651)年10月に四代将軍家綱の命により日光山に赴き、翌承応元(1652)年7月より日光山守護職(日光御宮守・日光御宮番・日光御廟所定番などとも呼称する)となったが、それから後40数年間、87歳で死去するまでの永きに亙って大猷院家光の廟を守った。その忠誠を讃えて大猷院廟の後背、大黒山に葬られた。本話にも示されている忠臣の内容が、底本の鈴木氏の注に「寛政譜」からの引用として掲載されている。いい文章なのでお示ししたい。なお、私のポリシーに則り、恣意的に旧字に代え、難読語には私の正しいと考える読みを歴史的仮名遣で附した。

 定良嘗て日光山に在のとき、毎旦御廟で殿前に侍座し、烈風膚(はだへ)を犯し、積雪身に砭(へん)するの時も自若としていますにつかふるがごとし。かくすること四十七年、一日の怠りあらず、年八十五に及びてはじめて往還乘輿(じようよ)すといへども、廟門にいなればかならず杖をすつ。祿二千俵に及びても一身の俸を意とせず。水患火殃(くわあう)あればよく散じて賑救(しんきう)す。日光山下の民これが爲に生を全うするもの亦すくなからず。のち水戸中納言光圀(みつくに)卿其訃音(ふいん)を聞て愛惜せられ、孝子親の墓に廬(ろ)する者はこれをきく、忠臣君の墓に廬するはいまだきかざる處なり、今定良にをいてこれを見るよし、文をつくりて祭らる。

「をいて」はママ。「砭する」の「砭」は、原義が針治療に用いる石の針で、突き刺さる、の意。「いなれば」は「往成れば」であろう。行き着くと、の意。「祿二千俵に及びて」とあるが、、底本の鈴木氏の注に「梶左兵衞」注に、日光山に赴いてからも『再三の加増により天和三年には廩米二千俵の禄とな』った由の記載がある(「廩米」は「りんまい」と読み、知行取りの年貢米以外に幕府から俸禄として給付されたものを言う)。天和3年は西暦1683年で、定良70歳の時である。「水患火殃」は水害と火災。「殃」は「禍」と同義。「賑救」貧者に金品を与えて救うこと。賑給。賑恤(ほら! 中島敦の「山月記」だよ!)。「水戸中納言光圀卿」は言わずと知れた水戸の黄門様、徳川光圀(寛永5(1628)年~元禄131701)年)、常陸国水戸藩第2代藩主。彼は寛永111634年)7歳の時に江戸城にて将軍家光に拝謁、寛永13年(1636年)に元服して家光から、その偏諱(へんき)を与えられて光国と改名した(延宝7(1679)年52歳の時に光圀と字を改めている)。「廬する」の「廬」は庵(いおり)であるから、庵を結んで追善に勤しむこと。

・「日光慈眼堂」家康のブレーンとしてしられた長寿の怪僧である大僧正南光坊天海(天文5(1536年)?~寛永201643)年)の廟堂。諡号は慈眼大師。歴代の日光山座主門跡である輪王寺宮親王塔の墓もある。個人のHP(と思われる)「ようこそ日光へ Welcome to Nikko「慈眼堂」に『(引用 日光市史 日光東照宮の謎―高藤晴俊氏著)』の引用注記を伴って以下の記載がある(孫引きであるから、本来はそのままであるべきだが、読みにくい部分があり、一部空欄を排除し句読点の補正を行った)。『天正18年7月(1590)北条氏の小田原城が落ちると 豊臣秀吉は8月に家康を関東に移封、9月には小田原方に組した日光山領(戦国期日光山領は66郷寄進地を含めると71郷あった)を没収、寺屋敷、門前、足尾村のみを安堵とした。慶長3年8月(1598)豊臣秀吉が没し、慶長5年(1600)の関が原の戦、慶長8年(1603)、徳川家康は江戸に幕府を開く。慶長10年には秀忠に将軍職を譲り慶長12年には大御所として駿府へ移っている』。『家康と天海の出会いには慶長13年、15年、18年説などあるがたぶん慶長13年から15年にかけて家康の絶大な信頼を得たものと思われる。そして慶長18年(1613)日光山の貫主として任じられる。慶長19年大阪冬の陣、元和元年(1615)の大阪夏の陣が過ぎ元和2年4月家康が没する』。『家康は遺言でもって、一周忌を過ぎてから日光山に小堂を建て勧請することを指示した。日光山は関東屈指の山岳信仰の霊山、霊場であり、家康が尊敬する源頼朝の信仰の厚かった所である。また江戸のほぼ北にあたり、宇宙を司る神.不動の北極星と江戸城の間にあり、神として再生した家康が国家の守護神となるにはこの日光に遷座することが重要だったのであろう。(この頃の時代背景としては長い動乱の世に辟易した人々の切実に太平の世を望む気持ちが、天下を統一した秀吉を大明神とし家康を大権現として神格化したことは容易に受け入れられたものと思う)この神廟経営には権現の神号の勅許に功績のあり、かつ日光山の貫主である天海があたる事になる。元和3年4月に霊遷が行われる。寛永9年(1632)1月大御所として権勢をふるっていた秀忠が死去、(元和9年(1623)7月より3代将軍家光)家光の時代となる。家光は大恩あり尊敬する家康のため寛永11年(1634)東照宮の大造替を着工、寛永13年4月に完成する。今の東照宮の姿である。天海の影響はいうまでも無い』。『家康、秀忠、家光と三代に仕え絶大なる信頼を勝ち得た天海も108歳で寛永2010月に入寂する。葬儀は盛大を極めたという』。『天海の葬られた大黒山の慈眼堂の建立は正保2年(1645)天海蔵には天海の霊前への奉納書、天海の蔵書、寄進本などが収められている(国宝 大般涅槃教集解 重文 大日経疏 他)』。『慶安元年(1648)天海に慈眼大師の大師号が宣下され』、『慶安4年(1651)三代将軍家光が没すると遺命により日光山の大黒山慈眼堂の近くに埋葬し、承応元年(1652)家光を祀る大猷院廟を着工し翌年10月完成し入仏の儀を行っている』とある。

・「贈位四品」幕府は大名・武家統制のために、事実上の授位権を将軍が握っていたが、大名に与え得る位階は、公家における武官の家柄であった羽林家の伝統にに従って、通常は従五位下までとされた。但し、特例として一部の大名家や旗本に対しては四位(四品)以上に昇叙することが許された(多くの場合は従四位下の叙任)。梶定良は天和3(1683)年に従四位下に昇っている。

・「大猷院」第三代将軍徳川家光(慶長9(1604)年~慶安4(1651)年)の諡(おく)り名。

・「御小姓」現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の一つの通称であるが、梶定良の事蹟には小姓組入りの記載はなく、広義の、将軍側近として梶が勤めた御腰物持や御小納戸役を含んだ謂いである。

・「薨御」親王・女院・摂政・関白・大臣の死去を言う語。徳川将軍家は歴代、右大臣・左大臣・内大臣・太政大臣の何れかの地位を朝廷から得ているから、かく呼称出来るのである。

・「御膳献備」神前に供物を捧げること。

・「御別所」寺社にあって祭殿や本堂からやや離れた一定の同一区域内に置かれた、神職僧侶の修行道場・別院のことを言うが、どうもこれは「別当所」の略意で、後注で述べる大猷院廟別当職が住まう大猷院霊廟別当所龍光院のことを言っているらしい。現代語訳はそれで訳した。もし誤読であるならば、識者の御教授を乞いたい。

・「嚴有院」第四代将軍徳川家綱(寛永181641)年~延宝8(1680)年)の諡(おく)り名。家光の長男。

・「日光御殿番」慶安元(1648)年7月設置。定員4名。内3名は東照宮内の奥院(天狗堂附近)・御宮内番所(別称赤番所)・仁王門下にあった3個所の警備詰所を巡回警備を担当し、1名は大猷院廟堂入口番所警護を担当した。支配下に同心36名(以上は「栃木県立図書館レファレンス事例」の「Q 日光奉行所支配同心に関する資料はないでしょうか。」の「日光史」(1977年日光史特別頒布会刊星野理一郎著)の事例データを参照した)。

・「小野善助」小野良直(よしなお 生没年未詳)。底本の鈴木氏注に、本文に示されたように梶定良は結婚せず、嗣子がいなかったため、彼の拝領した領地は没収されてしまった。しかし、この良直が御家人として幕臣に取立てられ、『日光の御殿番となる。その孫安蔵まで御殿番をつとめ、その子にいたり、御殿番から日光奉行吟味役となり、寛政十年御勘定格に昇進した』とある。定良の没年は、既に第五代将軍綱吉の御代の末期であった。この梶及び小野への取り計らいは一応、将軍家綱吉のものと考えられるが(御家人・幕臣・日光御殿番という順調な流れは当然のことながら将軍裁許がなくては許されない。現代語訳ではそこを補足しておいた)、これはあくまで私の想像に過ぎないが、先に引用した「寛政譜」に光圀の言葉が特に引かれていることからも、綱吉とは犬猿(勿論、犬は綱吉!)の仲であったが、隠然たる発言力を持っていた彼が推挙したという可能性も考えられないことはない。また、寛政十年は西暦1798年で、「卷之二」の下限天明6(1786)年時点では、この栄誉までは記せなかったというわけであるが、やっぱり、お墓の掃除をしている善助子孫のラスト・シーンであってこそ「異人眞忠なる人も有もの也」なりとは合点!

・「龍光院」日光山でも僧方の総支配の重職であった大猷院廟別当職が住まう大猷院霊廟別当所龍光院。重要文化財として現存。

■やぶちゃん現代語訳

 梶左兵衞定良殿の事

 日光山慈眼堂の奥に、梶左兵衛定良殿という方の墳墓がある。

 格別に四位を賜った方で御座ったれば、その謂われを調べたところ、大猷院家光様御小姓を勤め、生涯御近辺に扈従致いた御人の由。

 その性、あくまで篤実のお方にて、上様より出世栄進を仄めかされた御沙汰が御座っても、事前に一切固辞致いて、また、生涯、妻子を持たなかった。この未婚なるに就きては、

「子孫を顧みんとする思い、これ、少々にてもあらば――真実(まこと)に忠誠なる御奉公は、これ、成り難し。」

と若き日より、常々口に致いておられた由。

 大猷院様薨御以後は、御霊(みたま)とともに日光山に御供致し、そのまま四十数年の生涯をそこにて終えられた。

 朝晩の廟堂御霊への御膳献備の際にも、欠かさず大猷院霊廟別当所龍光院にお詰めに相成られて、少しでも供僧に不束なることこれあらば、厳しく叱りつけて御座った由。

 このように、正に今も家光様御在世で御座られるが如くお仕えし、そのまま日光にて物故なされた由。

 かくも忠臣にて御座ったればこそ、厳有院家綱様の御代、特別な計らいにて、存命にして四位の御贈位、これ、御座った由。

 さて、以上示した通りの御覚悟にて御座ったがため、その家名名跡(みょうせき)を継げる者が御座らなんだ。

 ここに左兵衛が召し仕って御座った、これまた忠実なる家来に、善助という者が御座った。

 当時の上様――綱吉様の有り難きお取り計らいにより、その者、日光御殿番に召し出され、今に至るまで、その代々の子孫――同名を名乗る小野善助が、やはり御殿番役を相勤めて御座る。左兵衛の毎年の追善供養は、畏(かしこ)くも御霊屋のある日光山別当たる大猷院霊廟別当所たる龍光院が主宰にて祭祀なされて御座るものの、当左兵衛殿墳墓の払清(ふっせい)などは、今も、かの小野善助家にて執り行(おこの)うておる由。

 いや、何と並み外れて、真実(まこと)の忠心を抱き続けた美事なる御仁、これ、御座ったものである。

2010/11/02

耳嚢 巻之三 太平の代に處して勤を苦む誤りの事

「耳嚢 巻之三」に「太平の代に處して勤を苦む誤りの事」を収載した。


 太平の代に處して勤を苦む誤りの事

 日光山御修復に付、予三ケ年打續きて登山(とうさん)せしに、御虫干の節御寶藏の品を拜見なしけるに、東照宮御陣場(ごじんば)を召れたる御駕(おかご)あり。結構成品にはなく、前後は竹を打曲て御簾(みす)はあんだやうの物也。恐多くも御軍慮の御手すさみや、前の御簾竹にこよりをかけて、くわんぜよりの御よりかけ二三寸あり。又右あんだにに鐵炮の玉跡二三ケ所あり。神君の大德(だいとこ)宇宙を灑掃(さいさう)なし給ふに、千辛萬苦なし給ひてかく危難に處し給ふを見れば、かく太平の代に住みて、飽迄食ひ暖(あたたか)に着て猶遊樂を願ふの心、愼むべき事と爰に記し置きぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:西本願寺門主と安藤惟要の深慮と礼節から、神君家康公の神慮で直連関。

・「日光山御修復に付、予三ケ年打續きて登山せし」根岸は安永6(1777)年より安永8(1779)年までの3年間「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(「卷之二」「神道不思議の事」より)していた。

・「東照宮」徳川家康。元和2(1616)年4月17日に駿府城(現在の静岡県静岡市)で75歳で没し、直ちに久能山に葬られたが、遺言によって翌元和31617)年4月15日に久能山より日光山に移されて神格として遷宮され、東照社となった。その後、正保2(1645)年に正式に宮号を賜って、東照宮と呼称されるようになった。

・「御陣場」戦争に於いて陣取っている場所を言う。陣所。ここでは広義の戦場の意。

・「召れたる」この「召す」は「乗る」の尊敬語。

・「あんだ」「箯輿」で「あんだ」と読む。「おうだ」とも。元来は「あみいた」の転訛したもので、本来は板の床に竹を編んだ粗い笊状の縁を廻らせるらせたような屋根のない駕籠のことで、戦場で死傷者を運搬したり、罪人の護送に用いたりした極めて粗末なものを言う。但し、ここでは駕籠の御簾部分がそのような「箯輿」染みた粗末な造りであったと言っているので、駕籠全体が「箯輿」様であったという訳ではない。

・「手すさみ」手遊(すさ)び。手慰み。

・「くわんぜより」「観世縒り」のこと。「かんぜこより」「かんじんより」「かんぜんより」等とも言う。で、和紙を細く切って指先で縒(よ)り糸のようにし縒って、その2本を縒り合わせた紐状の紙。又はそれ一本単独の紙縒(こよ)りを言う。能の観世大夫を語源とするという説がしばしば行われているが、実際には未詳である(小学館「大辞泉」の記載を参照した)。現代語訳では、単に戦闘の合間、暇潰しに紙縒りを作ったという雰囲気で訳したが、もしかするとこの紙縒り、何か軍議軍略上、何か特別な使用法でもあったものか。識者の御教授を乞うものである。

・「灑掃」洒掃とも。「洒」「灑」は、ともに水を注ぐ意で、水をかけたり、塵を払ったりして綺麗にすること。掃除。

■やぶちゃん現代語訳

 太平の代に処するに勤めを苦しく思うこと大いなる誤りなる事

 日光東照宮御修復につき、私は三年に亙って日光山に登山(とうさん)して御座ったが、丁度、虫干しの季節なれば、東照宮御宝蔵の品々を拝見致す機会が御座った。

 その中に、神君家康公が御戦場にてお乗りになられた御駕籠が御座った。

 それは決して豪華なる品にては、これなく、前後の駕籠掻きの棒は、何と、素竹をただうち曲げたものにて、御簾(みす)に至っては箯輿(あんだ)の如き目の粗き如何にも粗末な作りで御座った。

 よく拝見してみると――恐れ多くも戦場にての采配指揮の合間に手遊(すさ)びになされたことででもあられたものか――御駕籠前方にある御簾竹には紙縒りが掛けられて御座って――それはまた、丁寧にしっかりと二本を捩じ絡めた観世縒りのこよりで御座った――それが二、三寸程ぶら下がって残っていたものが、夏の涼やかな風に揺れて御座ったのが今も忘れられぬ。

 また、更に仔細に観察致いたところ――この御簾には鉄砲の玉跡の穴が二、三箇所御座った。――神君家康公が、その大いなる人徳を以ってこの世この宇宙全体を清浄安泰なるものに成さんとなさった、その大御所様の――千辛万苦遊ばされ乍ら、かくも凄まじき危難を経験なされ、美事に天下統一を御成就なされたこと――この御駕籠一つにさえ感じ入って御座ったので御座る。――さればこそ――かくも今、太平の世に住みて、飽きるまで喰らい、暖かなるものをぬくぬくと着、それでもなお、遊楽を願わんとする心あるは――これ、不埒千万、重々厳に慎むべきことで御座る、と痛感致いた故、ここに記しおくものである。

2010/11/01

「ワトソン君、見給え、最前列で長靴を履いている少年、これが真犯人さ!」

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僕と母の大好きな一枚

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耳嚢 巻之三 門跡衣躰の事

「耳嚢 巻之三」に「門跡衣躰の事」を収載した。

 門跡衣躰の事

 安藤霜臺は一向宗にて有りしが、信仰などせる人にてもなかりしが、御勘定奉行の節は何かもし用向の爲とて親敷(したしく)聞合せを賴みけるに、西本願寺出府の節何か世話にも相成多年の宗家の由にて、一ツの箱を謝禮とし送りける故、何か京都の土産ならんと是を開き見しに、衣躰(いたい)にて有之故、法中にてはさこそ難有も思ひなん、俗家にて衣を仕廻置て若麁末(そまつ)にも成ては如何成(いかがなり)、これは僧家へ遣し可然と思ひて本願寺塔頭(たつちゆう)なる僧に其事談じければ、夫は大き成(なる)了簡違なるべし、抑々門跡より衣たいなど附與(ふよ)は出家にても容易ならず、況や俗躰をや、數年の御馴染(おんなれそめ)を被存(ぞんぜられ)、何卒深切に厚き賜物(たまもの)有らんと思われても、金銀を以謝禮せんは重役へ對し失禮なれば、品々心を籠て深切の送り物也、今右の衣鉢を同宗信者成者に附與し給んに、百金より内には申請(うく)る者なし、我々に預け給へ、百金が百五十金にも附與なして見せ申さん、ひらに左なし給へと進めけるにぞ、我等事、公儀より厚く召使ひ給へば金銀望なし、左ほどに厚く思ひ給ひての音物(いんもつ)とはしらざりしが、かく深切の事ならば永くたくわへなんと受納せし由かたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:浄土真宗本願寺問跡関連で、高い確率で同じ17世法如関連。いつの世にも、両話柄に現れる、こうした盲信の愚民、これあらんこと、然り。衣――下着――汚物――こいつら、スカトロジストよろしく(というより宗教的エクスタシーはスカトロジスムなどの異常性愛と同根であると私は考えている)宗祖教祖の糞さえ聖物と見做して、有り難がって舐めそうだ。仏教嫌い神道大好きの根岸の両話柄での視線も、そこまでは言わずとも、至って言外に冷笑的である。因みに、以前に明らかにしたが、再度述べておくと、根岸の宗旨は実家(安生家)が禪宗の曹洞宗、養子先の根岸家は浄土宗である。「言外に」冷笑的であるのは、恐らく同根の浄土宗が養家の宗旨であるから、憚ったものであろう。それにしても、この話、エンディングの言外の映像もいい。金の亡者の腐った脳味噌の僧体の寺僧が――ぽかんと口を開けたまま――衣帯をぱらりと肩に引っかけて(じゃ、日活のヤクザ映画か)帰ってゆく安藤の後姿を見ているのである。

・「衣躰」衣帯。衣と帯。衣服を着、帯を結ぶことから、服装や装束。「衣体」とは一般に僧の地位によって異なる正装のことを指す。ここでは恐らく一般的な本願寺修行僧のためのオリジナルな衣服のことと推測される。

・「門跡」「門跡」は狭義には皇族や貴族が住職を務める寺格で、そうした特定寺院及びその住職を指す。但し、原義は開祖の正統後継者を言う「門葉門流」の謂いであり、鎌倉時代以降、単に位階の高い寺院格を広く指すようになった。後注で見るように安藤惟要が勘定奉行であったのは宝暦111761)年~天明2(1782)年の間であるが、その間の西本願寺(浄土真宗本願寺派)の「門主」(東本願寺=大谷派では「門首」)を調べると、寛保3(1743)年~寛政元(1789)年まで在任した西本願寺17世法如(ほうにょ 寛永4(1707)年~寛政元(1789)年)であることが判明する。ウィキの「法如」の人物の項によれば、『播磨国亀山(現姫路市)の亀山本徳寺大谷昭尊(良如[やぶちゃん注:第13代宗主。]10男)の2男として生まれる。得度の後、河内顕証寺に入り、釋寂峰として、顕証寺第11代を継職するが、その直後に本願寺16世湛如が急逝したため、寛保3年37歳の時、同寺住職を辞して釋法如として第17世宗主を継ぐ。この際、慣例により内大臣九条植基の猶子とな』り、『83歳で命終するまで、47年の長期にわたり宗主の任にあたった。この間、明和の法論をはじめ、数多くの安心問題に対処し辣腕を振るったが、その背景にある宗門内の派閥争いを解消することは出来なかった。大きな業績としては、阿弥陀堂の再建や「真宗法要」などの書物開版などがある。男女30人の子をもうけて、有力寺院や貴族との姻戚関係を結ぶことに努めた』とある(書名の括弧を変更した)。

・「安藤霜臺」安藤郷右衛門惟要(ごうえもんこれとし 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼(弾正台の次官の意)を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。既にお馴染み「耳嚢」の重要な情報源の一人。

・「御勘定奉行の節」勘定奉行は勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。安藤惟要が勘定奉行であったのは、宝暦111761)年~天明2(1782)年の19年間で、因みにこの15代後には根岸鎭衞自身が就任している(在任期間は根岸鎮衛(天明7(1787)年から寛政101798)年の11年)。

・「思われても」はママ。

・「西本願寺」京都市下京区堀川通花屋町下ルにある龍谷山本願寺の通称。永く私は何故西と東があるのか、分からなかった。目から鱗のウィキの「本願寺の歴史」からその部分を引用しておく。そもそもは戦国時代の内部対立に始まる。『元亀元年(1570年)912日、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初』、大坂本願寺(石山本願寺)門跡であった『顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦』したが、『合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因とな』ったとする。この二派の対立がその後も本願寺内部で燻り続け、それに豊臣秀吉の思惑が絡んで、文禄2(1593)年には教如の弟である『准如が本願寺法主を継承し、第十二世となる事が決定する。教如は退隠させられ』てしまう(この辺り、ウィキの「本願寺の歴史」中の記載が今一つ不分明。同じウィキの「准如」には『西本願寺の主張によると、もともと顕如の長男である教如は天正8年の石山本願寺退去の折、織田氏への抗戦継続を断念した父に背いて石山本願寺に篭るなど父と不仲で、また、織田氏を継承した秀吉にも警戒されており、自然と准如が立てられるようになったという』という記載があり、また別な史料では生母如春尼が門主を弟にと秀吉に依願したともあり、これで取り敢えず私なりには分明となった)。ところが、『慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで豊臣家から実権を奪取した徳川家康は、同戦いで協力』『した教如を法主に再任させようと考える。しかし三河一向一揆で窮地に陥れられた経緯があり、重臣の本多正信(三河一向一揆では一揆側におり、本願寺の元信徒という過去があった)による「本願寺の対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」との提案を採用し、本願寺の分立を企図』、『慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を移すとともに、本願寺を分立させる。「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世法主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂したので慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、本願寺(東本願寺)が分立する。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようにな』ったとある。因みに『現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒が、中国地方に特に多い(いわゆる「安芸門徒」など)のに対し、大谷派(東本願寺)では、北陸地方・東海地方に特に多い(いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)。また、別院・教区の設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯による』ものであるとする。こうした経緯から、幕末でも東本願寺は佐幕派、西本願寺は倒幕派寄りであったとされる(但し、ある種の記載では双方江戸後期にはかなりの歩み寄りを見せており、天皇への親鸞の大師諡号(しごう)請願等では共同で働きかけている。但し、親鸞に「見真大師」(けんしんだいし)の諡(おくりな)が追贈されたのは明治91876)年であった)。慶応元(1865)年3月に新選組が壬生から西本願寺境内に屯所を移しているが、一つにはそうした倒幕派への牽制の意があったものとも言われる。慶応3(1867)年6月には近くの不動堂村へと移ったが、その移転費用は西本願寺支払った由、個人のHP「Aワード」の「新選組の足跡を訪ねて2」にあり、『お金を払ってでも出ていってほしかったのだろう』と感想を述べておられる。現在、西本願寺は浄土真宗本願寺派、東本願寺は真宗大谷派(少数乍ら大谷派から分離した東本願寺派がある)で別宗派であるが、ネット上の情報を見る限りは、東西両派を含む十派からなる真宗教団連合や交流事業も頻繁に行われており、関係は良好と思われる。

・「本願寺」浄土真宗本願寺派本願寺築地別院。一般に築地本願寺と呼ばれる。元和3(1617)年に西本願寺の別院として第12代門主准如上人によって浅草に近い横山町に建立されたため、「江戸浅草御坊」と通称されていたが、明暦3(1657)年の振袖火事(明和の大火)の折りに全焼し、更にその後の幕府による防火整備計画による区画整理が実施され、旧地への再建が許可が得られず、こともあろうに、その代替地として何と現在の八丁堀の先の浅瀬の海の上が指定された。そこで佃島の門徒衆が中心となって海浜を埋め立てて、延宝7(1679)年に本堂を再建。「築地御坊」と呼称されるようになった。再建時の本堂は正面 が西南向きで、現在の築地市場附近が門前町となっていた。後、この本堂は関東大震災で崩壊したが、東京帝国大学工学部教授伊東忠太博士設計になる、印象的な古代インド様式の現本堂が昭和9(1934)年に落成した(以上は築地本願寺公式HPの「築地本願寺紹介」を参照した)。

・「塔頭」江戸時代の築地本願寺の塔頭は真龍寺・宝林寺・敬覚寺等、58を数える膨大なものであった。霜台の檀家寺であろう。

・「百金」「百五十金」金百両・百五十両の意であるから、現在の価値に換算すると100両でも最低400万円最高3,500万円相当、150両となると600万から5,000万を超えるとんでもない金額である。安藤霜台! 男だねえ! 大好きッ!!!

■やぶちゃん現代語訳

 門跡衣体の事

 安藤霜台郷右衛門惟要(これとし)殿の宗旨は一向宗である。

 ことさらに信仰厚き人にては御座らねど、勘定奉行を勤めておられた折り、何かと西本願寺からの用向きが御座った故、労を厭わず、親切に対応致いて御座った。

 ある時、西本願寺御門主法如様江戸出府の砌、

――永年常々何かと世話に相成り候檀家なればこそ――

とて、使いの者より、一つの化粧箱に入れし謝礼が贈られて御座った故、霜台殿、

「何か、京土産ででも御座ろうか。」

とこの箱を開いて見たところが、美事なる僧衣では御座った。

 霜台殿、つくづく眺め、

「……寺中にあっては、これ、さぞ格式高き衣体にて……有り難きものにも存ずるのではあろうが……これ、普段に着れるものにてもあらず……また、我らが俗なる者の家(や)に、かくも貴き御門主恩賜の衣体をしまいおきて、万一、鼠にでも食われるような沮喪があっては如何なものか。……これは、何より、檀家寺へ遣わすに若くはなかろう。」

と思い、衣体を携えて安藤家檀家寺で御座った築地本願寺のある塔頭に赴き、かくかくの由、住持に相談致いたところ、

「いやとよ! それは大きなる了見違いで御座いますぞ! そもそも御門主から衣体を頂戴致しますこと! これ、相応の出家にても容易にあろうことにては、これ、御座らぬぞ! 況や、貴殿の如き俗体に於いてをや! 御門主におかせられてましては、数年御馴染みのことを心におかけになられ、何とか貴殿のその親切なる御配慮に対し、厚き礼として賜物せんとお思い遊ばされたることなれども……金銀をもってこれに謝礼すること、これは貴殿の如き、勘定奉行という御重職に在られる御方に対して、如何にも礼を失するものとの御深慮にて……かくも有り難くも深き御心! これ、お込めになられた御贈品にて御座いまするぞ!……例えば、で御座る!……この衣体を西本願寺信徒に与えんと致さば! これ、百両以下にて購わんと申し出る者なんどは、決して御座らぬ!……そこで、御相談で御座る!……我らに、この衣体、一つお預けなされよ! 必ずや、百両が百五十両にても、美事、買わせて見申そうぞ! いやとよ! ひらに! そうなさるるに若くは御座らぬ!……」

と頻りに薦める。

 霜台殿、これを聴き、

「――成程――なれど、我らこと、御公儀より厚く召し使われて御座ったる者にて御座れば――金銀百両の望み、これ、御座らぬ。――いやとよ、さほどに厚き御心映(ば)えの進物とは存ぜずにおって御座ったが――かくも親切なるものなればこそ、一つ、永く家宝と致いておこうと存ずる。――」

と、そのまま、持ち帰ったとのことの由――お語りになって御座った。

母を確かに背負って行こう

今日 僕は 母を背負って 確かに歩いた

今後 僕は 確かに愛している母を背負う

そう 覚悟したのだ

母を背負う それが 何より 母を愛していることの 素直な真実(まこと)であることを 僕は確かに 今日 実感した

母は軽く そうして 確かに 重い

その重さが

僕の如何にも軽薄な人生を

幽かに確かな「人生」に

してくれたのである

メドベージェフ国後訪問に思う

そんなこと……僕はとっくに書いたのだ!

言ってやろうじゃないか! そもそも現在、ロシア領である(というより旧ソヴィエト領と書くのが皮肉に正しい)国後に大統領が行くことを抗議したり、「おかしい」とする論理が論理的に(それに「如何にも心情に於いて遺恨に満ちたこと乍ら」と添えてやれば右翼は満足か?)まず、「おかしい」ではないか?――我々が闘うべきは――そこではないからだ――それなら、何故「竹島」に「釣魚島」に自衛隊なり海上保安庁なり、いや、そもそも総理大臣が行かないのだね? 何故、かの英霊の激戦地である「聖地」硫黄島に我々は行けないのだね?

国後の旧島民の方の遺恨は痛いほど分かる――僕が旧島民ならその死の最後まで「返せ!」と叫ぶことは間違いない――何故なら、それが故郷喪失者の真正のアイデンティティの表現の権利と義務に他ならないからである――

――が――

――では返還されたら――そこで日本は、今、ロシア政府が行っているような(「経済成長を遂げて掌を返したように」というニュースの形容を附してもよい)手厚い福祉行政が行えるのだろうか?

――いやいや――訂正しよう。「手厚い」なんて程遠いゼ! 報道で見せてもらったがな、あんな、その辺の怪しげなクリニックの人間ドックみたような、ちゃちな眼底検査装置――あんなものしか報道に撮らせないようじゃ、ろくな医療システムじゃねえ! あそこにいるロシア人も――悪いけんど、長生きは出来ねえぜ!――緊急救命になったら、またぞろ、いつかの全身火傷の少年搬送の美談のように、日本に輸送されるに決まってるんだな、これが。――

――だが、な――

日本も――それを――せせら笑えぬのではないか?

羅臼の現実を見よ! と僕は言いたいのだ!

「この」! 僕のジレンマと怒りは既に書いたのだ!!

http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2010/08/post-a181.html
http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2010/08/post-9783.html
http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2010/08/post-e9ac.html

(お読みでない方は、是非、お読み頂きたい。)

これが僕のジレンマだ!

それがおかしいというなら――それを必ず総て解消出来るというなら――君はユーラシア民主主義共和主義旧社会主義連邦政府の真正の嘘つきの血塗られた糞のような独裁者に他ならない――

――そうだ! これが「国家」(笑)! という「国民を考えない化け物」の現実である――

……そして、僕らは虫けらのように……真綿で首を絞められながら……「地球に優しい」「無垢の」(無垢な存在とはこの世にはないと僕は思うのだが)地球人の一人として……惨めに「犬死」(この括弧は「犬死」でさえないことの皮肉の括弧である)にしてゆくのである……

愚かな僕は、今夜もそんな「くだらないこと」を考えながら鬱鬱として眠れないのである……

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