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2010/11/08

耳嚢 巻之三 僞も實と思ひ實も僞と思わる事

「耳嚢 巻之三」に「僞も實と思ひ實も僞と思わる事」を収載した

 僞も實と思ひ實も僞と思わる事

 江都の繁榮はいふも及ざる事也。予が舊識石黑來りて、折節上方より來りける人と膝を並べて物語の序(ついで)、雜談に及びけるが、江戸兩國橋は名に追ふ長橋にて、大風の折からは笠紐をゆるく結ぶ事也、ゆるければ大風來りても笠をとらるゝ計(ばかり)也、もし強く〆なば首ともに拔て行(ゆく)事ありと石黑かたりければ、京都なる者も例の石黑氏の虚談と笑ひぬ。石黑が曰く、さおもひ給ひそ、二三錢或六七錢の商を積て、間口拾間拾五間に藏作りにして商ひなす者有といひければ、是又例の虚談と彼京都人申ける故、これは僞ならず、傳馬町(てんまちやう)に三升屋(みますや)平右衞門とて蓬艾(よもぎ)を賣、鱗形屋(うろこがたや)孫兵衞とて草雙紙一枚繪を賣て拾間拾五間の藏造りして居る者有といひければ、然れば大風に首の拔間敷(まじき)にもあらずと笑て止ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:「證となしがた」き狐の人を化かす話から、虚実皮膜の大江戸嘘のようなホントの話で連関。

・「石黑」「卷之二」の「人の命を救ひし物語の事」に登場する、根岸の評定所留役時代の同僚であった石黒平次太であろう。底本鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注ともに石黒敬之(よしゆき 正徳六・享保元(1716)年~寛政3(1791)年)とする。御勘定を経て、『明和三年(一七六六)より天明元年(一七八一)まで評定所留役』(長谷川氏)であった。石黒と根岸は明和3(1766)年から明和5(1768)年の2年間、同役として勤務していた。

・「兩國橋」ウィキの「両国橋」によると、『両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい』。『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った』。江戸時代の長大さを比較するために近代以降の部分も引く。『両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する』。『結果、1904年(明治37年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた』とある。現両国橋は長さ 164.5m、幅員 24.0m で、昭和7(1932)年に竣工している。

・「六七錢」当時の大人一人の銭湯入湯料相当である。

・「間口拾間拾五間」10間は18m強、15間は27m強で、商家の正面幅10間でも豪商であるのに、これが蔵の間口と言うことになると、とんでもない富豪であること、言を俟たない。

・「傳馬町」現在の中央区北部にある小伝馬町及び大伝馬町(おおでんま)。町名は伝馬役(てんまやく)が住んだことによる。小伝馬町は牢屋敷があったことで知られる。伝馬役は宿駅の運送業に従事する役や賦役を言うが、ここの場合は江戸府内から五街道に関わる人足・伝馬の継立て(宿駅での荷の受け渡し業務)を負担した大伝馬町・南伝馬町、江戸府内限りの公用の交通・通信に従った小伝馬町の三伝馬町があった。

・「三升屋平右衞門」現在の大伝馬町三丁目に相当する通旅籠町(とおりはたごちょう)にあった売薬屋(底本鈴木注では大伝馬町二丁目とするが、次の注で引いたリンク先の詳細な記事の記載を正しいものと判断して採用した)。灸や煎じ薬として艾(もぐさ)を商いして安永年間に大いに繁盛した。

・「蓬艾」キク亜綱キク目キク科ヨモギ属 Artemisia indica 変種ヨモギArtemisia indica var. maximowiczi。灸に用いる艾(もぐさ)は、この葉を乾燥させて、その葉の裏側にある綿毛を採取したもの。ヨモギの葉は艾葉(がいよう)という名で生薬として用いられ、止血作用があり、他に若芽や成育初期の若株を干して寝かしたものを煎じて飲むと、健胃・腹痛・下痢・貧血・冷え性などに効果があるという。三升屋平右衞門のそれは商品名を「団十郎もぐさ」と言った。株式会社クリナップのHPにある「江戸散策 第23回 やっぱり、いつの時代も病気は怖い。」には安政61859)年版恋川春町描く三升屋の店先と共に、この命名について、『店主の平右衛門は、人気の芝居役者「市川団十郎」から「団十郎もぐさ」とし、団十郎の紋「(みます)」を商標として使うばかりか、自らも「三升屋」と名乗っている。もちろん、「団十郎」と「もぐさ」は何のかかわりもない。こういう「あやかり商売」は江戸では一般的で、実際いろいろな人が団十郎○○という代物を売っていた。いいかげんのような気もするが、それが江戸の社会だった』由、記載がある。

・「鱗形屋孫兵衞」明暦年間(165558)の創業から文化初年(1804)頃まで営々と続いた江戸有数の版元。参照した「朝日日本歴史人物事典」の安永美恵氏の解説によれば、姓は『山野氏。鶴鱗堂と号す。初代は三左衛門、2代以降は孫兵衛を称する。鱗形屋は浄瑠璃本、仮名草子、菱川師宣の絵本から、赤本、黒本、青本などを板行し、特に、安永4(1775)年黄表紙第一作とされる恋川春町の「金々先生栄花夢」刊行後は、全盛期の黄表紙出版をリードした。八文字屋本をはじめ上方浮世草子の江戸売りさばきを積極的に行うなど、近世中期の江戸文学の興隆に大きく寄与したが、『吉原細見』の版権を手放した天明年間(178189)以降、第一線から退いてい』ったとある(引用に際して記号の一部を変更した)。底本の鈴木氏注には、『初夢を見るために枕の下に敷く宝船の図を』売り出して、ヒット商品となっていたため、『一般市民にも親し』い店であった、ともある。

・「草雙紙一枚繪」平凡社「世界大百科事典」の「草双紙」から引用しておく(記号の一部を変更した)。『江戸中・後期に江戸で刊行された庶民的絵入小説の一体。毎ページ挿絵が主体となり、その周囲を埋めるほとんどひらがな書きの本文と画文が有機的な関連を保って筋を運ぶのが特色。美濃紙半截二つ折り、5丁1冊単位で、2、3冊で1編を成す様式が通例。しだいに冊数を増し、短編から中編様式へ、そして後には年々継続の長編へと発展する。表紙色と内容の変化とがほぼ呼応し、赤本、黒本あるいは青本(黒本・青本)、表紙と進展し、装丁変革を経て合巻(ごうかん)に定着、明治中期まで行われる。草双紙の称は上述5様式の総称だが狭くは合巻を呼ぶ。本格的ではないという意の称呼で、赤本は童幼教化的、黒・青本で調子を高め、黄表紙は写実的な諧謔み、合巻は伝奇色が濃厚になる。』とある(引用元著作権表示 鈴木重三 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

■やぶちゃん現代語訳

 嘘も本当と思い本当も嘘と思われるようなこの大江戸の事

 大江戸の繁栄振りはいまさら言うまでもないことで御座る。

 私の旧知の友である石黒平次太敬之殿が拙宅を訪ねて御座ったが、丁度その折り、やはり上方より来訪致いて御座った御仁と出会わせ、親しく話を致す機会が御座った。

 その中で、

「……江戸の両国橋というは、国と国を結ぶという名にし負う長き橋で御座っての……大風吹く折りには、渡る者はこれ、笠紐を緩く結ぶことになって御座る。……何故(なにゆえ)と申さば……緩ければ大風吹き来たっても、笠が飛ぶだけで済んで御座る。……ところが、万一、強く締めて御座ると――首共に抜け飛んでしまうことが御座るからじゃ。」

と石黒殿がかましたので――石黒殿は、昔からこんな茶目っ気のある御仁で御座った――京都から参ったその客人も、これに、

「……また、ご冗談を。……」

と、笑って御座った。

 すると石黒殿は、

「……これ、空言とお思いになってはなりませぬぞ。……ここにこんな話も御座る……二、三銭或いは六、七銭の商いを積み重ね、積み重ね――間口十間、十五間の蔵を造って商い致いておる者、これ、御座るのじゃ。」

と申したところが、かの京のお人は、

「……ほれ、また、ご冗談を……」

と申した故、石黒殿、

「……ところがどっこい、こいつは嘘では御座らぬ。伝馬町に、三升屋平右衛門と言うは、たかが蓬(よもぎ)を売り――また同じ町の、鱗形屋孫兵衛と言うは、たかが草双紙の一枚絵を売って、誠、十間、十五間の蔵をおっ建てて住んで御座るもの、これありますぞ! 嘘と思わるるならば、とくとご覧になられるがよい。」

と申すによって、私も肯んじたところ、

「……へえーッ?!……そないなことならば……大風で首は抜けぬとも、言えまへんな!……」

と、一同大笑い致いて御座った。

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