フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011/08/31

藪野種雄 日記 大正8(1919)年 社会人時代

    二、社會人時代

九 軌 時 代

□大正八年〔(二十六才)〕

  一月一日
 み佛の力わが力、わが力み佛の力にてこそ敗殘よ來れ艱苦よ襲へ。歡樂よ來れ、成功よ來れ、伴に生きよ。されど吾が心は、み佛の光にぞ輝かむ哉。新玉の年は迎ふるも此の心は變らじ。唯此の心の光いやが上にも勵みて、み佛の力に沿はむ哉。わが心よ怠ること勿れ。

  一月三日
 年賀廻り數ケ所を終り。午後一時年頃路惡しき中原畦に、ビスケツト嚙り乍ら、電車にて若松行、金子氏宅を訪れ、笠井氏に祝詞を述ぶ。父上。母上。光子。茂子樣直一直次氏と晩餐を受けぬ。
 片足を、去年に殘して年賀哉、直翁。
午後十一時、御別して辟りぬ。トランプを直一氏に習ひぬ。
茂子樣の元氣よくなれるを嬉びて。
 あかねさす其笑顏に永へにみ佛の力を加へませ。
 誰にか語らむ吾が胸よ、誰にか慰めてむ此の心。
[やぶちゃん注:「若松」北九州市の北西部に位置する都市。当時は若松市で、現在は若松区。「笠井氏」の「父上」は俳句の作者である私の曽祖父である笠井直(ちょく)。その娘である笠井茂子は私の父方の祖母、則ち後のこの祖父藪野種雄の夫人となる人物である。更にその長男である笠井直一(なおかず)なる人物は私の母方の祖父である。そう、私は、この笠井直一とその妻イヨの娘である笠井聖子と、藪野種雄とその妻茂子の息子、笠井聖子の従兄であるところの藪野豊昭の間に生まれた男である。従って、私にとってはこの笠井直という人物は、父方母方双方の唯一の曽祖父、通常なら二人いるはずの曽祖父が、私の場合は同一人物であるということになる。それは生物学的にこの笠井直なる人物の遺伝子が、私には強力に隔世遺伝しているということになるのである。その人物が登場するに彼の俳句が示される。私の専門は俳句(卒業論文は「尾崎放哉論」)である。唯至という俳号も持っている。奇縁と言う外、ない。なお、この笠井家と祖父藪野種雄の関係の動機は現在の私には不分明である。父の話では笠井直一の弟直次(なおつぐ)と祖父種雄がどこかで同級生で、友人であった由、聞いている。また、本記載の末尾でも、お分かりの通り、この後、日記は明らかにこの笠井茂子への恋情を綴っていくことになるのであるが、祖母茂子は生前、この藪野種雄以前に好意を寄せていた男性がおり、その人物は川で溺れて亡くなったということを私に話して呉れたのを思い出す。そして、その人物の名前を父は「豊」と言ったことを覚えていた(父の名は豊昭であるから特に印象に残ったのであろう)。因みに、先の日記で分かる通り、藪野種雄の弟の名は「豊」である。これ以上のことは今の私には分からない。なお、祖母の話を私が覚えているのは、そこに祖母の不思議な体験があったからである。――祖母はその日、外出して汽車に乗っていたそうである。夏の暑い日であった。その時、汽車に揺られながら、車窓から流れゆく景色を眺めつつ、祖母は『豊さんは泳ぎが好きだから今頃、きっと泳いでいなさるでしょう』とふと思ったという。帰宅して豊さんの溺死を知ったが、その死亡時刻は祖母が車中でそう思った時刻とぴったり一致していたのだそうである。――]

  一月六日
 われに慰めと絶望との二つの戀ありて、二つの精の如く絶えず吾を動かすとは、さりなん吾を慰めてよと思へ共、其人やあらで絶望かの如き歎息のみで出づる。さびしきは今日の心哉。

  一月九日
 思ひ出されてはやる瀨無き胸の千々に碎けて。今日は幾度も言ふ名を口につぶやきて思ひを加ふらむも、更にすべなし

  一月十七日
 忙しき仕事ありて、之を滿足に果しつゝある時は不平も起らず。
 わが力、ゆつたりとして眺むる、吸水路、・鐡筋の姿もゆかし。今日の煙れる。
一足も千金の價あり今日の仕事。
 仕事閑なる時、又は元氣無き時には不平のみに襲はれて。
これ程の 美しさ知らぬか たはけ者、
 燕雀は、何ぞ知るべう 此の雄圖
いらいらし、なうなれそ此の 發電機。
 不平と言ひ不滿と言ふに二つあり、一つは俸給一つは仕事の上の不滿、されど根本を尋ぬればやはり己が手、己の力の又己が人格の足らざるなり。足らぬを外部から得て一寸と安心を得んとせるが世情哉。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが「なうなれそ」は「な唸れそ」で、禁止の句法である。]

  一月二十三日
今日新罐のセパレーターを檢査したら小石が入つて居た。之を見て恐縮した。濱口さんから皆が叱られた。責任は皆自分に在ると思ふと殘念でならぬ。殊に石が入つてゐたのを見て離職すべしと一時は思つたが、早く發見したので、深く自ら戒める。何事とても、責任を切實に感受して作業せねばならぬ自分は切實に仕事が足らぬのだ。申譯が無いが過ぎにしは及ばず。將來を自戒して進むのだ。
[やぶちゃん注:私は全くの門外漢なので当てずっぽうであるが、祖父が最初に就職したのが九軌(九州電気軌道)という電気鉄道会社で、後の「八月二十四日」の日記に「發電所、變電所」を持っていたことが示されており、祖父は後に深く関わるのが火力発電所発電機でもあることから、「新罐のセパレーター」の「新罐」は祖父が制作した新しい火力発電用ボイラーで(ボイラーは現在でもタービンと並んで火力発電所の主要設備である)、「セパレーター」というのはそのボイラーの蒸気の湿度を落として乾き度を高め、異物や給水処理に用いた薬物を除去するための分離濾過浄化装置のことではあるまいか。このセパレーターがどのようなシステムのものであるかは分からないが、遠心分離機のような高速回転や、特殊なフィルターを装備するものであれば、小石の混入によってボイラー自体が致命的な損壊を生ずる可能性があるのではなかろうか。だからこそ「皆しかられた」のであり、祖父も「離職すべしと一時は思つた」のであろう。但し、それがボイラー炊きの直前か起動直後の検査によって、異常が起こる前に「早く發見し」、未然に除去出来たので、問題が起こらなかったのではなかったか。]

  一月二十九日
 朝日歌壇より(佐々木信綱選)
 今日も亦、悲しき想ひ 胸に祕めて
    事無しと書く いつはりの日記    蕉 子
 わかれては、後の心の さびしくも
    君戀ふる身を あはれとおぼせ   萍浪女
 老し梅花、四つ五つ咲ける下に
    ふと忍びけり 天平の女       選 者
 (註)茲數日、鼻、喉、耳の故障で市立病院へ行つてゐられる。體はあまり好調の樣子ではない〔。〕
[やぶちゃん注:最後の佐々木信綱の「天平の女」の「女」は「ひと」と読ませているのであろう。]

  二月三日
 他人に對し、又自分自身に對し、絶えずとも云ふ程に不平や不滿がある。其がとても耐え得られぬことが多い。其して其等に合ふ毎に、自分が惡いので無くて他人の誰かが惡いせいの如くに思ふのだ。其の惡い者を攻め、よくさせたい樣なあさましい心持が起る。しかも淺間しいと言ふ心も起らぬ位に誰人のせいの如くに思ふことが多い。

  六月九日―十一日欠勤(病)

  六月十日
 本日も病床だ。發熱は無いが不安だ。
 横川さんに診て貰つたが、もう宜しからうが健康をとの事である。
 終日床の上にあつて、彼女を憶ひ吾身のはかなさを思つて暗ひ想ひに沈む氣がした。何でこれしきの病氣にと思へど。
やる瀨なき此の思ひ御身知るや知らずや。

  六月十六日
 梅雨は神經的な時ではあるが、しつとりと物思ひに沈むにはよい時である。然ししつとりとした氣持が稍々もすればいらいらとして想ひは千々に碎かれる。
 午前中は愉快に働いたが、午後つい起るのが苦しくて休んだ。濱口さんに對して、近來の自分の態度はあまりにも吾儘である。病後とは云ひ乍ら、も少し本心に歸つて御恩に報ひ奉らねばならぬ。戀に苦しめる友を救ふも大切なれども、吾天職を盡すもより大切である。あゝされど、實は吾おのが戀に苦しき此心、誰か慰めくるゝものぞ。

  六月二十五日
 かく迄に想ひ焦れて打ち沈むのは何故であるか、彼女が許されざるためか。
 然りとせば吾心も亦、あまりに小我的なるに非るか。若し眞實に試錬を受けたる者ならば、彼女……最も愛憐する彼女の爲に、唯一日も早く平癒して、幸福たる彼女の許されたる家庭の人として、正しく強く樂しく一生を送らんことを希ふべきなり。

  六月二十六日
 疲弊甚し。
 明日市立病院にて診察を受けんとす。
 左肺に水音あるが如くに感じたり。夕食後なりし故胃の音かも知れぬ。神經大分過敏なり。
[やぶちゃん注:「水音」はラッセル音。肺結核だけでなく、気管支炎や喘息、急性肺炎・肋膜炎・肺水腫などの様々な呼吸器疾患の際に現れる。]

  六月二十七日
 藤澤博士の診察を受けしに、肋膜炎起らんとして一時壓へ居る状態なるが故に、勤務して差支なけれども、寧ろ一週間休養して全快を待つ方佳ならんとの事たれば、然く決して診斷書と共に濱口さんに御願ひしたり。私の爲に休みての申し譯無けれど、眞に健全となつて思ひ切つたる活動をせずんばあるべからず。心ひそかに松本氏濱口氏に謝す。乞ふ此の不幸者を許し給へ。
[やぶちゃん注:「然く」は「しかく」と読み、このように、の意。祖父は肺結核でなくなるが、この時に既に罹患していたのかどうかは不明である。]

  七月十二日
 初出勤だ。
 草刈氏が後から聲をかけられて、どうですか。皆が此の元氣を喜んで呉れた。嬉しかつた。

  七月十四日
 岡崎の叔父死去せられし故、本日葬式の爲欠勤せんと思つたが、あまりに休みて申譯なく、午後四時迄會社に出た。
 會社で聞けば、友人の間で小生が賞與最高なりしとの事なるが、迷惑千萬。B氏よりも多かつたとは實際何と云つてよいか分らぬ。迷惑である。

  七月十六日
 Y君から書留が來た。
 「何故早く言つて呉れぬか。用達は自分の如き者の當然の事だ。高利など借りて呉れるな。もつと足したいが、今後は何時にても遠慮なく言つて呉れ。其して返済は期限はいらぬ。君の苦痛の無くなつた時にでよい。又かゝる問題の爲に根本的に解決する時が、少くとも本年内に來るであらう。」
 此友の心を聞き言ふべき言葉がない。感激の外はない。

  七月二十七日
 職工給料支拂ひを自ら爲せり、本社が、書記にては不信なる故、もつと他の人をとの事なり。
 技術者が支拂ふとは何事ぞ。腹は立ちたれども其爲に中止しては職工が迷惑ならんと、自ら忍びて東原君と二人で支拂たり。
 明日濱口氏に云はん。以後絶對に御免を蒙りたい。

  八月二十四日
 發電所、變電所、職工一同、三割増歎願の件を盡力して呉れと云ふ。
 此際根本的の問題を解決せん爲には第一資本主の態度が眞に共に働らくの意を表して、魂在十二時間勤務を八時間(工事は十時間正味)とし現在の實收に加ふるに三割増、即ち五割増として之を本給とする事、而して可及的居殘り代勒を防止し、正味勤務を效率高く活用する事、日用品を實費給與の件、疾病、公傷に對する補助の件(古金物賣却金を基本金とす)以上に對し勞働者としての彼等は、誠心誠意に對する責任の輕からざるを自覚覺して會社の爲に力を盡すべきこと等を考ふ。是が實現せざる時は自ら處決すべし。
 (註)是より日記はブランクの場所の方が遙かに多い。
[やぶちゃん注:「是が實現せざる時は自ら處決すべし」は強烈な覚悟である。この祖父の労働者への思いは、倒産して幹部が夜逃げをしたアルミ会社で、社員の一人として残された機材を整理し、社員全員等分に退職金(雀の涙だったそうであるが)を配った私の父の気骨に通じるものがある(このことがアルミ会社の業界紙に載り、私の父は富山の別なアルミ会社から声がかかったのであった)。]

  十月十四日
 午前中草刈氏と吾々代表と會見し
 「バランスは斷じて破る能はざる事をくり返し、しかも是は既に實行しつゝあつて、支配人も認め居らるゝもの故、所長の獨斷にて歩増しを附けたとて差支へはよもあるまじ〔。〕で無くとも正々堂々と支配人に對して我々が要求の如くバランスをとりて、來る十二月あてにもならぬ昇給をせぬがよい」
此の要求に對して草刈氏は大分動いた。午後は最高幹部の話が成立し、草刈氏が平謝りに謝られた。そして自ら支配人を説服すべく決心されたとのこと。

  十月十五日
 午前十時頃、草刈氏は一同を招かれて、今日迄の事を謝され、一般昇給額の率以外にバランスの爲十二月の定時昇給迄歩増しを實行することゝなつたのである。

  十月十六日
 大阪名古屋東京へ出張

  十一月八日
 歸任
[やぶちゃん注:以上の二日は底本の「十月十五日」の後にある『(註)十月十六日大阪名古屋東京へ出張、十一月八日ニ歸任〔と〕日記は一二行位づゝ、十月以後は始どブランク〔。〕』とある註から推定復元した。] 

  十一月二十一日
 勞働者に向つて告げたい。吾々有識階級は、無自覺高慢なる資本家の敵となるに躊躇せぬのだ。
 同時に無自覺高慢なる勞働者の敵となるにも躊躇せぬのであるぞ。
 唯一つ正義にのみ味方するのだ。
   感  想  録
 大正八年は思ひも設けず事件の多い其して事件の可なりに大きい年であつた。苦しい事も隨分あつたが、其の苦しみはやがて此の拙い自分のためには強い試練であつたであらう。然し試練の後の現在の自分は依然として取るに足らざるものであるのは、何としてももどかしい極みである。
 我が倍する主張の爲に猛然と起つて主義の爲上長に面して成功した。にらまれてゐる。感謝を受けた。同時に敵を作つた。或は無闇にほめられ其の裏面には嘲笑されたのであらうと思ふ。友の爲に、友の戀の爲に戰つて其の家族の人、其友人、本人自分からも批難の的となつた。然し幸か不幸か、友の戀が許された。許された彼の眞の幸福の爲、自分が彼に對する務がまだ用意されてゐなければならぬ。其の三つ巴の如き戀のエピソードの中に、自分自身も危く捲き込まれて、人知らず苦しみ惱んだ。今も煩へてゐるが、自分の爲唯一人理解ある安川が、激励し忠告して呉れた。恩師の藤井さんも戒めて呉れた。或日だつた、友の捲きぞえを食つて期待もせぬ返事を同時に受けて自分の話を切られた。其の時の悲痛は何にたとえよう術もなかつた。無念であつた、然し怒るが愚かだ。彼女、彼女に対する寫眞は破棄した。其して斷然其争を、思ひ切つて起つた。安川も喜んで呉れた。一年越の申込状は藤井先生から井上氏に托されて今も尚井上氏の手許に保留されてゐるのである。此時友は、友の爲に破れんとする此の自分の爲、必ず話の成立を誓つて呉れた。彼女の心もたゞして呉れた。彼女が此の自分の如き者をも幾分理解して呉れてゐる事を知つて再び戀の芽は甦つた。どうすることも出来ぬ。
 安川は其れは當然だと言ふ。責任があると言ふ。安住はどうか知らぬが.兎も角三年越しの問題として明年は何とか之を解決しなければならぬ。
今年の後年に於ては職工の給金、時間短縮を解決した。痛快だつた。然し苦しい經驗であつた。此んなことはあまりあつては困りものだ。然し最も止むに止まれぬ爲だ。致し方もない(中略)
[やぶちゃん注:資本家・労働者孰れに向かっても檄を飛ばす祖父は強いインテリゲンチアとしての階級意識を持っていたようである(だからこそ「七月二十七日」の条で給与配分役を命ぜられた際に屈辱的と考えたのである)。当時のコミンテルンなら「ヴ・ナロード!」と批判されるところだが――僕には、如何にもカッコいい、古武士のような種雄じっちゃんの名台詞なのである――。なお、この意味深長な「感想録」には、祖父と祖母の関係に友人の恋愛が関わっていることを深く疑わせる記載になっているが、祖父は巧妙に朧化させて書いており、隔靴掻痒の感が否めない。じっちゃん! もそっと、後の孫にも分かるように書いてほしかったな!]
 大正八年終

藪野種雄 日記 大正5(1916)年 学生時代 終了

□大正五年(二十三才)

 〔一月一日〕
 大正五年となりぬ。人生其半に到り、父は五十七才母上は五十才にして妹は十八才、豊十五才、正雄は十歳なり。
 想へば任や重く務や大なり。悠々自適の時に非ざるなり。國家の爲に一片の義忠を盡し奉るべきは吾人の本務なり。この大任を果すには只自己の人格確立のみ。「寡言窮〔→躬〕行」是吾輩が此新年に於ける誓言となす。
 其の實行と否とは獨り種雄一個の浮沈たるのみならす〔→ず〕、實に是國家大損失の一たらずんばあらざるなり。
[やぶちゃん注:「寡言窮〔→躬〕行」の「窮行」は慣用的にこの誤字が用いられるケースがあるようであるが、やはり「躬行](読みは同じく「きゅうこう」)が正しい。「躬」(み)を以て行う、自ら実行することを意味する。但し、「寡言躬行」という四字熟語は初見。一般な使用例では「率先躬行」「躬行実践」。]

  一月二日
 碧梧桐・努力して月並みへ。
[やぶちゃん注:「・」はママ。初めて俳人の名が示される。河東碧梧桐は明治末から新傾向俳句を提唱推進し、後には荻原井泉水主宰の非定型・無季語の自由律俳句の俳誌『層雲』に参加したり、同じ自由律系の『海紅』を主宰したりしている。しかし、祖父が批判的にこう書いた時期は極めて微妙な時期で前年の大正四(一九一五)年には井泉水と齟齬を生じ、層雲を去り、同年三月に始めた『海紅』も中塚一碧楼に譲ってしまう。祖父は河東碧梧桐の反動形成を敏感に予知している。因みに私は中学二年生で尾崎放哉に感銘し、中三で『層雲』に参加、二十代前半まで同誌友であった。]

  一月三日
 念佛行者訓條(法然上人)

  一月四日
 念佛行者訓條(法然上人)
[やぶちゃん注:以上は「一月三日」の後の村上氏の『(註)是が三日四日と續いて書いてある。』によって再現した。「念佛行者訓條」は法然の法語で、本来、古くは「七箇條の起請文」と呼ばれるものであるが、元久元年に書かれた一般に知られる「七箇條起請」、別名「七箇條制戒」とは全く別物で、起請文というには相応しくないとされ、浄土宗の宗学では「念仏行者訓条」と呼ばれているものである。これは念仏者に対する心得を説いたものであり、自力と他力の明快な区別、「一念は他力、多念は自力」という誤解を正し、三心具足の念仏を相続していくことを説いたものとされる。]

  一月五日
 珠數〔→數珠〕を求めんとて町を歩きたれ共、空しく歸りぬ。然り我未だとてもとても念佛に入る能はざるものなりき。眞の信にも入らず、眞の念佛をも稱へ能はざるものなり。珠數〔→數珠〕體すべき時ならんや。余輩なるもの尚多大の艱苦と努力とを要せざるべからず。
(註)是より新渡邊氏の北米論や、山川先生の射撃論が四五日に渡つてのせてある。
[やぶちゃん注:「新渡邊氏」は新渡戸稲造。彼のアメリカ観について、祖父がどのような点に関心を抱いたかは分からないが、青山学院大学公開講座「世界の中の日本――日本と世界を結んだ人たち ――」の「新渡戸稲造――太平洋の架け橋 ――」の講座紹介で、青山学院大学特別招聘教授・国際交流基金理事長小倉和夫氏は新渡戸のそれに関して以下のように述べておられるので、参考までに引用させて頂く。『新渡戸稲造のアメリカ観を考える際、新渡戸稲造という人間をいくつかの側面に分け、その各々の側面と新渡戸のアメリカ観との関連を考えることが適当であ』り、その『第一の側面は、新渡戸が「キリスト教徒」であったという点であり、この観点から見た新渡戸のアメリカ観を見ることとしたい。第二は、「異邦人」としての新渡戸である。アメリカで長く生活し、アメリカ人と結婚もしたが、アメリカに永住したわけでもアメリカ国籍を取ったわけでもなく、あくまで異国の人であった新渡戸が見たアメリカがどうであったかという観点である。第三の側面としては、当然のことながら、「日本人」としての新渡戸稲造が、アメリカという国及びアメリカ人をどのように見たかといった次元がある。第四には、しかしながら、新渡戸稲造は、当時の日本人としては珍しく国際的な人物であり、国際連盟をはじめ国際社会で活躍した、いわゆる「国際人」であった点に着目し、こうした国際人としての新渡戸が見たアメリカ像を考える必要がある』。
「山川先生の射撃論」は、日付から見て、大正五(一九一六)年一月十日『国民新聞』掲載の山川健次郎の記事「学生と射撃」に関わるものと考えてよい。]

 一月十八日
 痔瘻(普通性危險なきもの)を小倉病院にて診て戴く、三月の休で治療すともよしと聞き嬉しく思ひぬ。伊藤誠君同伴しくれたる。感謝せざるべからず。藤井先生此の病気甚しからざるを喜び下さる。寒稽古は中止とす。體操はやる考なり〔。〕

  一月二十八日
 吾〔、〕素直なる人とならん哉。
 人となるには試に誠に素直なれと云ふ一言に歸するやうだ〔。〕素直な人間、是程心地よく又前途多望なる人間があらう。素直な人間には何等頑な所がない。而も毅然としてゐる。孜々として勉む。然れどひ〔→も〕肩をこらせず。
 身を修めて恭謙に父母兄弟恩人に感謝し、一點の私心なし〔。〕友人と交はりては何等の隙なし。事をなすに頭を熱せざれ共眞面目なり。自然の運行に身を委す故自由なり。
[やぶちゃん注:「孜々」は飽くなき努力を重ねること。]

 一月三十一日
 此の一月には何事もなさなかつた。
 此んな事では到底意養ある生活を完ふすることは出來ぬ。明二月からは元日の決心を握つて心持よき第三學年の第三學期を終へよう。

  二月二十四日
 學校の製圖室から見ると、六連彦島の連峯が卷繪の樣に展開して居る。春も來るのであらう。ボイラーもゼネラルビュウを終つた。一瀉千里でデテイルを早く計算も早く出せとの達しありたり。
 四年級の製圖も本日全部出た樣子、森山君歸岡す。オーバーを着用して校門を出る者多し。卒業式迄本日より暫らく。
 小生は試驗準備開始。
[やぶちゃん注:「六連彦島」は下関市の彦島地区の地域名で、山口県下関市南端の関門海峡 に浮かぶ彦島と、響灘の六連島(むつれじま)及び彦島に近接して現在は橋で繋がる竹ノ子島・武蔵と小次郎の決闘で知られた巌流島(正式には船島という)を総称する。「ゼネラルビュウ」<general view>は機械工学技術(製図)用語で、一般図・全体図・基本設計図と訳される。]

  三月十一日
 小林君來寮の由なるも見ざるは殘念なりき。夜七時松本氏宅を訪ひたるも不在なりし改正村氏を訪ふ。「もう一年じや」「一年遲れた代り立派に行つたらう」森氏、山縣氏を訪ふ皆健在なり。
 其より植木君を訪ひ、歸れば母喜び、妹喜び、弟も嬉びぬ〔。〕やゝあつて正雄と父上、湯より歸り又嬉び呉れたり。實にも家庭程安樂なる所あらじ。午後十一時半就床。
 (註)此の所から四月五日迄は白紙で殘つてゐる。此の中に小倉病院に入つて痔瘻の手術を受けられたのであるが、入院何日間なのかは分明でない。
[やぶちゃん注:村上氏様。本遺稿集を上梓して下さったことを、孫の私は心から感謝致します。――致しますが、ここで二行を費やして痔瘻の入院期間を気になさる位であったなら――他の多くの省略された祖父の文学や哲学や宗教の感懐部分をこそ残して戴きたかったというのが――いや、本音なのであります。]

  四月六日
 午後三時に愈々小倉病院を退院せり。
 妹が迎へに來て呉れた。夕餐に一家團欒は欣ばしくも嬉しかつた。病める妹に幸多かれ。一日も早く其病平癒せんことを。母上の心盡しの御馳走。

  四月七日
 天氣は良し、氣は晴れたり。
 午前五時起床、弟等と共に朝食をとる。
 午前七時半學寮の人となる。今日唯今より余にとりては最後の學生々活として意義多く深かるべき第四學年級の第一日なり。
 尊い哉、戰へ。
 森先生に挨拶。藤井先生の御同情ある御言葉忘るべからず〔。〕今日は又丁度學寮の室換へあり。植木、一瀨、杉原君等の御世話により幸に相濟みたり、多謝す。

  四月九日
 主は知らず、聲のみ聞ゆ、高雲雀。
 のどかの春は遂に來た。萬目皆生氣に滿つ、野を見よ。山を見よ。靑々たる麥畑、共に連なる桑の葉。
 桃の花の紅、目覺むるばかりなり。
 ポカポカと温き日、ウツトリとする日なりき。

  四月二十六日
 政友會総裁原敬及び床次竹二郎以下安川邸に二泊、四時十五分頃より講演。
 白頭澤々しき原敬氏謙遜な態度を以て、歐州旅行中、吾邦の花の王は菊なりと聞き感ずる所あり、菊花は第一位とし、櫻花は將に第二位にあるべきなりとて正義人道を説けり。片腹痛し。
 床次竹二郎氏の演説は何ぞ深刻なる。吾人は如何なる職につくも、必ずなくてならぬ人間となる覺悟必要なり(中畧)校長講演後に曰く是空前の大演説なりと。
[やぶちゃん注:「原敬」は大正五(一九一六)年当時は第三代立憲政友会総裁。この二年後の大正七(一九一八)年、日本初の本格的な政党内閣たる原内閣を首班して采配を振るったが、大正一〇(一九二一)年十一月四日、東京駅駅頭で暗殺された。「床次竹二郎」(とこなみたけじろう 慶応二(一八六七)年~昭和十(一九三五)年)は内務次官や鉄道院総裁などを経て、大正三(一九一四)年に政友会から衆議院議員となって原及び高橋両内閣の内相を務めた人物。面白いのは、祖父が二人の演説の軽薄を指弾している点である。]

  五月十九日
 もう最終、小生にとつては最終の學生時代だ。此の年なり共〔、〕森先生に御滿足を與ふる丈けの努力を致さう。寢ても醒めても此の事忘却すまじき事なり。
 又今後は如何なる會合ありとも決して腹九合を食ふ事を止めよ。今度と言ふ今度はよくよく苦しかりしを、是亦寢ても醒ても忘るべからず。
 (註)六月に入つてからは日記はズゥと書かれてゐない。
[やぶちゃん注:「ズゥ」はママ。村上氏、結構、お茶目。]

  六月三十日
 澤野さんの所にて午後六時半より八時迄、心の愉快なる物語りなり。心地よし。心地よし。お互に何事も忘れて一念に働らく時が信仰の時である。
 歎異鈔をお借りして歸へる。
 少しつゞ〔→づゝ〕讀んで行かうと思ふ。

  八月三日
 福岡に實演中の◯◯君へ。
 その爲に淋しき友、其爲に愁ひつゝある親しの友に寄す。余は君がリーベの爲に淋しき心を打消さんとするを殘念に思ふ。なぜもつと大膽に、なぜもつと眞摯に其爲に戰はなかつたのか。若し君が致せし努力が勝利者の名を與へなかつたのであるならば、其は次の事實を語るものではあるまいか。即ち遊戯的な心から之を得んとした爲に、ラインリーベがラインな光を失つて。〔→、〕唯愁ひの一句を投げかけてゐるのではあるまいか。君は人間の死と共に最もラインなるべきリーべを弄んだのだ。其が爲に今君が之を失つて月並の戀と同樣に、意氣地を失つたのではあるまいか。君が心の奧底から湧き出づる純潔なリーベを求むるならば、必ず私の考ふるラインリーベが愛の手を出すことを信ずる。吾が友よ、ラインリーベは勝利者失敗者の何れの名をも與へざるものである。
[やぶちゃん注:「ラインリーベ」は<Richte liebe>で正しい愛、純粋な愛、清純な愛の謂いか。極めて抽象的な叙述であるために、事態の具体性が摑めない恨みがあるが、祖父は「○○君」のある種の行為を(それが異性愛であるか同性愛であるかも判然としないのだが)、祖父の考える純なる唯一の愛の持つ宗教的倫理的至高性から批判している。初めて日記の中で「愛」が語られる点もここは特異点である。]

  八月六日
 大門になつかしき濱口氏を訪ふ、午後八時半、是より約一時間半ばかり御話を承る。僕は大膽にも身の上話しを濱口氏に打ちあけた。濱口氏は心をきなき士と思ふ。松本氏とは幾分縁故の人なりと。
[やぶちゃん注:「大門」福岡県には飯塚市と糸島市に大門の地名があるが、前者の方が広域地名としては知られる。]

  九月二十三日
 (註)此のあたり日記はまばらに書かれてある。
 今明日は庭球大會のある日、雨模樣。
 小生と原田との彦山行も止むなく中止し、來月十五日頃とし、足立山に登る。ビール一本肉罐詰一つ。權現樣で一寸やり、頂上で大いにビールをやる。十間先きは霧深うして見れども見えず。仙境に入るの心地す。下界は見えず、只俗界の物音のみ傳はれり。野球應援の聲あり。餘は母校よりの聲と言ふに、原田は師範なりと言ふ。否然らずと頑張る。下れば果して原田君の勝。今や小中と豐津中との試合最中なり。
[やぶちゃん注:「彦山」 福岡県糸島市に標高二三一メートルの同名の山があるが、これは恐らく英彦山であろう。英彦山はこれで「ひこさん」と読む。福岡県田川郡添田町及び大分県中津市山国町に跨った山で標高一二〇〇メートル、耶馬日田英彦山(やばひたひこさん)国定公園の一部。中腹に英彦山神宮奉幣殿、山頂に上宮を配し、古来、参拝者や俳句の吟行の地として知られる。またここは羽黒山・熊野大峰山と合わせて日本三大修験山の一つとされ、古くは山伏の修験道場であった。「足立山」は福岡県北九州市小倉北区にある山。標高五九七・八メートル。企救山地の一部及び北九州国定公園の一部。ウィキの「足立山」によれば、漫画「銀河鉄道999」の作者松本零士は『小倉在住であったが「銀河鉄道999が線路を上って宇宙へ旅立つシーンは、蒸気機関車が足立山を登っていく姿を思い浮かべた」ことによる』とある。「權現樣」とあるのは、山麓の妙見町にある妙見宮(妙見神社・御祖神社)のことか。「師範」は福岡県小倉師範学校。現在の北九州市小倉北区下富野三丁目福岡教育大学附属小倉小学校・中学校の所在地にあった。こちらの方が明専よりも足立山の麓に遙かに近い。「小中」は福岡県立小倉中学校で、現在の福岡県北九州市小倉北区愛宕二丁目にある県立小倉高等学校。「豊津中」は福岡県立豊津中学校で、現在の福岡県京都郡みやこ町豊津にある県立育徳館中・高等学校のこと。]

  十月四日
 小林君を訪問の豫定なり。午後九時頃なりしか小林君を訪へどもあらず。隣の榊原君の下宿を訪へば皆あり。白く檜垣〔、〕三木、福澤等々々、所謂危險思想の鼓吹に少々あてられ氣味なり。皆歸寮の途につく頃獨り勇坊と一つ布團にもぐり入りて不平やら、奮鬪談、失敗談や社會觀、實力と地位等打明けて語る。いらぬと云ふに無理に十圓出して學資にせよと。感涙。
[やぶちゃん注:この「勇坊」とは何者であろう? ここは「隣りの榊原君の下宿」であるはずだから、この「勇坊」は榊原の愛称としか思えないが、それにしても十円もぽんと出すこの男、一体、何者?]

 十一月一日
 今度お互で「新緑」と申す新聞樣のものを發行せんが爲に日下計畫進渉〔→捗〕中であります。就ては兄等が胸中に横溢してあの大主張、あの大不平、ソノ理想煩悶、エトセトラエトセトラ、さらりと打ち開けようではありませんか。若し夫れ天我等に幸して、夫等の思想の閃が一つの文字、數行の文句となるならば、乞ふ、投稿せよ。
[やぶちゃん注:「就ては兄等が胸中に横溢してあの大主張」というところは、
就ては兄等が胸中に横溢せる、あの大主張
か、
就ては兄等が胸中に横溢してある、あの大主張
と記したつもりであろう。]

  十一月五日
 武道大會。
 銃創術二度、柔道二度共に敗北なり。但し各々二本宛はとりたり。此日雨シトシトと降る。觀覧席寂莫たり。余は思ふ〔、〕昨日の射撃、或は今日の如き武道大會には尠くとも教授連の出席あつて然るべしと。

  十一月十九日
 ヱマーソン論文集、カーライル佛國革命史と富ふ誠に面白い本が出るので買ひたくなつた。御金三圓送つて下さい、誠に相濟まぬけれ共御願ひ致します。妹の病氣は相變らずよくない。全く絶望だらう。可愛想です。意識は明瞭な故に殊更いぢらしい事を言つて困る。自分でも死を覺悟しながら。死ぬのは一寸とも恐く無いと口には言つて居るけれ共、心の内を、を察してやると血の涙が出る樣だ。嗚呼死と言ふものは何と言ふ痛ましい事であらう。然し斯の如く一難去り、又一難來るも貴い神の示さるゝ所だ。我を修練させるのだと心を引しめてゐる。安心して呉れ。其にしても父が愁歎されるのが何より困つた事だ。一人娘だもの父も苦しかろ。
[やぶちゃん注:「ヱマーソン論文集」は玄黄社から大正元(一九一一)年から二年にかけて刊行された戸川秋骨訳「エマーソン論文集」(上下二巻)、「カーライル佛國革命史」は国民文庫刊行会大正二(一九一七)年刊になる高橋五郎訳「カアライル佛國革命史」(全四巻)と見て間違いない。]

  十二月五日
 妹危篤の報あり。午後一時歸門
 唯一人の妹は余の歸りたるを喜びぬ。又數時間ならざるに兄さん口が寒いよと言ひ、此の世を去つた。兩親に先立ち、兄弟に先立ち、余に取りては唯一人の愛らしき妹は去つたのである。あゝ死よ!何たる莊嚴!
 (註)是を以て學生時代の日記は終つてゐるのであるが、卒業の年〔、〕學窓より社會への第一歩と其の翌年、所謂人間の自由型が鑄物にされ易い時代の日記を缺いてゐるのは誠に殘念でならない。大事の契機を拔れて骨拔にされた感はあるが、大正八九十十一と四年間は 途切れ途切れ乍ら記されてゐるので、其の間の脈絡は諸賢に於てつけて戴きたい。學生時代を通覧ず〔→す〕るに、初めは靑年としての野望があらゆる分野に進展し、動じ易い心理が氏の感傷的な性格を通して鋭く動いてゐる。其の次第に線が太く力強くなり、内に苦しむ事よよ、外と〔→よ〕り助力を輸入する方向に轉じ、次第に宗教的な氣分と信念とに融合する立場に止揚されてゐる樣に見える。

2011/08/29

藪野種雄 日記 大正4(1915)年

□大正四年(二十二才)
 (註)此の年に入ると、氏の日記は著しく明朗性を帶びて來て、大正二三年の暗い影が跡を斷つてゐる。が然し日記は七八月以後は所々に散見す〔る〕程度である。

  一月一日
 何はなくとも親子六人、其貴い聲に引かれて昨夜家庭の兄となつて歸つた。
 今日は一月元旦、何と言ふ想ひ出もなく、例の樣に腹ふくるゝ迄樣々のものを食つた。今は諒闇中である。年始の禮も欠く所多けれど、忘るべからざる人々の内を訪れた。
 さる年も年も失敗の想ひ出たるに過ぎぬ。徹底せる感傷的な生を迭つて來たのである。全力を捧げて自己の務を盡した考であつた。然し事實は失敗の跡を印して居る。所謂誠の眞面目が乏しかつたものとせなければなるまい。人前を作る謙遜すぎる、思ふ存分に事をなさざる、すべて自己には尚多くの虚僞なる自己があつた。佛陀の御前に立ち得ざる自己である。此の新しい年を迎ふるに當つて、何も云ふまい。唯々自己をして眞に偏りなき自己、眞面目な者として此年の終、佛陀の前に勇ましく強く徹したる自己を捧げたい。
[やぶちゃん注:「諒闇」とは「りょうあん」若しくは「ろうあん」と読み、一般には天皇の父母の崩御に当っての天皇が喪に服する期間を言う。大正三(一九一四)年四月九日に亡くなった明治天皇皇后である昭憲皇太后のそれと思われる。但し、礼法では天皇の諒闇は十三日間。この日記の謂いは現在の忌中と同じ意味で用いているのであろう。]

  一月五日
 (註)小野先生の助手として休み中なるに拘らず勞役中。
 先生今日は少々朝寢坊をして急ぎ給ひしにや又もエンテコなる飯をたかれたり。時に午前九時、終に午前十一時といふに、餠にて朝食と御座い、ひいて午後三時晝、午後八時に夕食なりき(夜食)何だか腹が變だわい。
寮への道、グラウンドから東方小松の山上を左に見れば、暗夜の雲間から朝日の樣な大きい黄味がゝつた月が出た。打眺めつゝ小便をとばしけり。
[やぶちゃん注:「エンテコ」不祥。地図上では明専の東方には小松町というのがあり、その近くに戸ノ上山というのがある。ここか。]

  一月七日
   死
 朝日新聞に出た記事がある。曰く某氏珍らしき病氣の爲に死す。大學開始以來最初の病氣。痛さはあまり感ぜす一年半位にして死するものと言ふ。是を讀みたる一刹那は我ながら心をのゝきぬ。其は外でもない、一年程か前に柔道にて打ち出したるらしきコブ、右坐骨上部にあるんだもの。此夜思ひに餘る一夜今からするもゾツとせざるを得ぬ。死!死!我が眼前に一年乃至半年の生のみなりと思ひたる刹那、我父母兄弟其時の心、今後家族の人々の如何になりゆくべきや、などと考へては考へ、生れて甫めて眞摯なる死をば考へしめた。
[やぶちゃん注:「甫めて」は「初めて」に同じい。この記事の學生の病気は、恐らく骨肉種かと思われる(祖父が気にしている自分の傷から見ても)。それにしても、後に四十一歳で結核で亡くなることになる祖父のことを考えると、この二十年前の素直な感懐が不思議に胸を打つ。]

  一月十三日
 五時半………六時に飛び起きて見れば、一帶雪景色なり、オヽ、寒さや寒さ。寢床戀しきこと夥し。寒稽古をやつての歸るさ、足先は尚も石の如し、早速湯にとび込む。點呼は失敬した。

  一月十七日
 今學期行ひたき事の一つとして虚心淡懷を誓ふ。見るがまま、思ふがまゝ、眞は眞のまゝ、發露しよう。
 (註)一月下旬の日記には山川先生滯在中の訓話や、藤村詩集の抜粋がのせてある。
[やぶちゃん注:祖父は殊に詩歌が好きだったようである。遺品の中には石川啄木歌集もある。]

  二月三日
 午後四時體格檢査。
 身長五尺四寸七分。
 體重十五貫百。
 蟲齒二、視力九度。
 肺活量四千五百。
 體格強健!
[やぶちゃん注:現在の単位に換算すると身長一六五・七センチメートル、体重五六・六キログラム。]

  二月二十二日
 晴れた日。
 日本帝國は支那中華民國殿へ、なかなかに蟲の好い申出をやつた。其一に曰く、外債を起こし又は政府に顧問を搜す時は一應同意を得よ。山東鐵道の敷設權を與へよと。米國は案外平靜なるが如し。
 (註)三月、偉人と凡人との別を記し、即興詩人をひき、宗教書をあさられたものゝ樣である。
[やぶちゃん注:祖父が言うのは同年一月十八日、大隈重信内閣が袁世凱に要求した対華二十一カ条要求のこと。日本の権益を大幅に要求して、実質的な帝国主義日本による中国支配の端緒となった。これも最早、原本が失われて読めないとなれば、私には痛恨の極みである。編者の村上氏には誠に贅沢な言い分であるが、かえってこんな註を施して呉れなかった方が良かった。]

  四月二日
 况後録
 伊東に死なず、龍の口に斬られず、不思議に存らへし命も此處佐渡が島を今は最後の地と覺ゆるぞ。あらうれしや、人々此程の喜をば笑へよかし。日蓮程の果報者。また世にあるべしや。
 頸は鋸にて引きも切られよ。胴は稜鋒もて貫かれもせよ。足には絆を打ちて錐捫みにもせよ。此の息の根の通はむ程は南無妙法蓮華經の聲をばよも絶たじ。
 末法付屬の未來記はまさしく日蓮が生涯に記されたり、刀杖瓦石もて身に流されたる日蓮が、血潮はやがて妙法勝利の願文に染められたり。
[やぶちゃん注:「况後録」は明治三十四(一九〇一)年十二月に執筆された高山樗牛の作品。但し、作品末の作者注記によれば複数の日蓮の文書の引用などをとした、樗牛の私見を含む日蓮称揚の文章である。これはその第一章から部分的に複数引用して、それを繋げたものである。題名は「況滅度後」(きょうめつどご)という法華経法師品の文に基づくもので、これは「如来現在猶多怨嫉、況滅度後」(如来現在、猶ほ怨嫉多かるがごとし、況んや滅度の後をや)を更に省略したものである。これは、仏陀在世中にあってさえ、なお怨敵は多くいた程であるから、ましてや仏の滅後、末法の世にあっては法華経を掲げんとする者への法難は激しいに決まっているという意である。原本では「存らへし」は「ながらへし」、「稜鋒」は「ひしほこ」、「錐捫み」は「きりもみ」と訓じている。国立国会図書館のデジタル・ライブラリーで閲覧出来る。]

  四月七日
 昨夜雨なりしも晴れたり、陸續と歸寮者を見る。テニスをやりたれど、風強かりし。
 明日からは無念の一年間が語る第一日となつた。明日からが愈々自己を勇躍一番せむ時である。さあ今からじあ。
 萬身の勇を鼓して奮鬪すべき時が來た。あゝ何と愉快で〔は〕ないか。
 オヽ腕は鳴る。
 オヽ心は大海の如く。
 オヽ強き力動かざる信念。

  四月三十日
 機械學會に於て諸兄へ。
 (註)是は何處か機械科教室の廊下にでも帖〔→貼〕られもの如く、ピンの跡が四隅に白く殘り、紙面全體が變色してゐる。
◎夫れは夫れは永い間………例へば祖曾父〔→曾祖父〕達が子々孫々の爲に高價な汗と高價な血を以て作りあげた澤山な、然し貴重な財寶が.昨日の野良仕事の折に掘り出された樣に、私等の眼前にも、もつと見事な、もつとスケールの大きい寶を見出すことが出來た。其は眞劍に復活することの出來た各學會であります。
◎篤くと皆樣の御存じの如く。所謂教室光學特にツメコマレ工學と言ふものが、何程迄に活用され、運用されるかは、頗る疑問であります。
 心の底から止めども沸き出する趣味の自分で讀み、趣味の自分で考へ、趣味の自分でやるもののすべては、最も效率の良い、最も強固な地盤の上に得る眞の山川流の技術者を作り、工學をなし、國家をなすものであります。
◎諸君、此の意味に於て眞劍に生きた學會の前途は、何れの學會を問はず、最も幸福であり、最も尊敬すべきものではありますまいか。
◎既に自覺があればまさに來るべきものは、實行であります〔。〕
◎御承知の如く責善會誌第五・六號に於て、我が機械學會長森教授は、「見える樣にせよ」「獨立の意義」を絶叫せられました。
 先生の其の心は、即ち吾々機械學會員一同の眞實な先行詞であります。又なければならぬのであります。
◎「堅實でなければならぬ。連續的でなければならぬ。學生自身の學會でなければならぬ。」とは實に最近に於ける先生の訓言でありました。
 學寮の諸兄よ。
 立つべき時が來た。
 林が盡きると、野に出る。
 今、只今が其時である。
 諸君の御一考を乞ふ。

  五  月
 (註)五月に入ると日揮は所々に散見するばかりであつて其も簡單なもの。

  六月二日
 此の四十日に爲したる所、顧みれば一つとしてあらず。
 此の學期も近く終結するが、どうかして素志を貫かねばならぬ。自分には大なる理想のあることを忘れてはならぬ。

  六月二十二日
 近來氣分甚だよし。
 其の理源を察するに、過日三日(三日坊主と言ふべきなれど)朝食を断ち、後ミルクを用ひたるに案外なりき。元氣舊に倍し、充分なる睡眠も出來、今迄よくありし如き神經衰弱の兆候を見ず。午後十一時迄より以後起しことは稀なり。

  六月二十六日
 今日午前九時、機械科の入口に近付いた時小野先生がオイと呼ばれる。何事ぞと思ひ近寄れば、是はしたり金をやるからとの事。一目散………電氣科に逃れぬ。其より二時間後製圖をやつてゐると單刀直入である。今は強ひて辭されもせず。其の御厚意に甘えて、有難くお受けした。金七圓なり。
 これは吾が最初の勞働の賜なり。何か記念すべきものを求めて永遠に傳へん。
 午後夕食後先生に御禮に參りぬ。
[やぶちゃん注:「一月七日」の村上氏の註にあるように、祖父は恐らくしばしばこの小野先生の研究の手伝いをしていたものと思われ、或いはその研究の成果が実際上の先生の利益に繋がったことによる謝金ということででもあろうか。]

  七月十五日
 午前六時發幸袋に向ふ。午前九時半工作所に出ず〔→づ〕。森山二見君等重量見積中なり。余は直ちに工場も見ずに製圖をしぬ。トレースなり(ポンプデテイル)
(註)是から夏季實習が始まる。
[やぶちゃん注:「幸袋」は「こうぶくろ」と読み、福岡県中央部にあった町。嘉穂郡に属していたが、後に合併して飯塚市となり消滅した。日鉄二瀬炭鉱高雄坑に代表される石炭産業が主幹産業であった。これは夏季工業実習で実際の炭鉱に赴き、採炭作業に必要なポンプの細部の製図作業に従事したことを意味するものと思われる。]

  七月二十四日
 海原に出て角力をやつた。森山、中西と三人、曰く運動不足の補充なりと、夜あの橋上に立つて見ると工作所の獨身會員諸君が、二艘の川舟を以て、川上に赤い提灯ゆらゆらと歌ひ乍ら上つた。毎年の例とか。
    × × × ×
 波多野鳥〔→烏〕峰氏の逆境離脱策と言ふを讀む。
[やぶちゃん注:「逆境離脱策」は波多野烏峰著で実業之日本社が明四十二()年に刊行したもの。波多野烏峰は恐らく波多野養作(明治十五(一八八二)年~昭和十(一九三五)年)と同一人物と思われる。外務省嘱託として日露戦争末期に外務省の特命で中国西域を探査した探検家である。以下、フレッシュ・ペディアの「波多野養作」から引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『福岡県若松市二島(現・北九州市若松区二島)に生まれる。福岡県中学修猷館を経て、一九〇五年三月、東亜同文書院を二期生として卒業する。修猷館在学中は柔道部に所属し、柔道部の三年上級であった後の首相広田弘毅とも交流があった』。『東亜同文書院を卒業後、外務省から、東亜同文書院院長根津一を通じて、他の数人の東亜同文書院二期生と共に、中国奥地の新疆省(現・新疆ウイグル自治区)の探査を行う特命を受ける。これは、日英同盟による情報協力に基づいて、イギリス政府から日本政府に、中央アジアにロシア軍の勢力がどこまで及んでいるのかを調査するよう要請があったためであった。一九〇五年七月三日、波多野は北京から単独で探査旅行に出発する。洛陽、西安、蘭州を経て、西域に入り、遠くウルムチ、イリまで探査を行った。その間、これらの地域の情報を詳細に記録し、北京の日本公使館に送っており、それらは現在、当時のシルクロードの状況を知る上で貴重な資料となっている。その一方で、烏蘇近郊で蒙古の杜爾伯特王と、哈密では哈密回王と会見し、青海省ではダライ・ラマに謁見している。一九〇七年六月六日、北京に帰還する。なお、この探査旅行を東亜同文書院の在校生が知ると、彼らも大旅行を行うことを強く懇願したため、東亜同文書院では五期生から、毎年卒業時に、学生自らが計画する三ヶ月から四ヶ月の大旅行を行うことが恒例となり、これは四十三期生まで続いている』。『帰還後、外務省の嘱託として北京の日本公使館で勤務する。その頃、長女の初子が誕生したが、その名前は、当時駐支公使であった山座円次郎が命名したという』。『その後、外務省を辞し、明治鉱業錦州炭鉱に勤務するため奉天(現・瀋陽)に移るが、数年後に体調不良のため郷里若松市に戻り静養する。病状が回復すると、外務省の紹介で中国湖北省にある大冶鉱山の製鉄所(漢冶萍公司)の顧問となるが、再び体調を崩し、一九三二年に辞職する』。『一九三五年七月、大量の睡眠薬を服用し自殺を遂げる。一九三一年に勃発した満州事変により、長年日本と中国の友好のために尽くしてきたことが無になったことに絶望した為といわれる』。偶然かも知れないが明治鉱業で祖父と接点がある。「逆境離脱策」は国立国会図書館デジタル・ライブラリーで閲覧出来る。]

  七月二十五日
 終日見學的實習に疲れて一浴したる後、稻毛祖風の「若き教育者の自覺と告白」を讀みつゞく、得る所大なり。
 (註)此の後へ稻毛氏の煩悶と人生等の略述がしてあつて之が二十七日迄つゞき、最後に「兄さん人生は書き損じを許しませぬ。其自身が淸書です」という句に圏點を打つて結んである。
[やぶちゃん注:「稻毛祖風」は「近代日本哲学思想家辞典」等によれば、本名稲毛金七(きんしち 明治二十(一八八七)年~昭和二十一(一九四六)年)、教育学者。中学教育を受けずに明治三十九()年に早稲田大学哲学科入学、明治四十五()年卒業。中央公論社の雑誌記者を経て「教育実験界」主筆となり、昭和二(一九二七)年教育雑誌「創造」を創刊主宰。創造教育論を唱えて当時の新しい教育運動に多くの影響を与えた人物である。大正十三(一九二四)年のドイツ留学後、昭和二(一九二七)年に早稲田大学講師、後に教授となった。『創造主義、理想主義への転化こそ当時の日本の思想界の情勢であるという時代認識をもち、人間を創造者であるとし、人格の創造を教育の直接目的とし、教育の方法は、創造性を最も有効に発動させることであるとした。すべての子どもの独自性を認め、人格的存在としてとり扱い、国民教育の水準を向上させようとする意図は重い意義をもつものとして迎えられた』(ネット上の図書館レファレンスより引用)。「若き教育者の自覺と告白」は内外教育評論社大正 一(一九一二)年刊で、稲毛の代表的著作。]

  八月十二日
 滿二十九日間の實習を終れり。恥かしと申すべき哉、この實習の爲にとて庶務課より一ケ月の辨當代として六圓を渡すとの事なり余は直ちに辭しぬ。是、後の十日は見學なりたればなり。

  八月十三日
 正雄を伴ひ、植木、山縣の友達も連れて本年初めての水泳なり(門司では)
 午後八時、本町教會にて山室軍平氏の講演を聞きたり。
 (註)以下、講演の筆記がある。
[やぶちゃん注:山室軍平(明治5(1872)年~昭和15(1940)年)は牧師にして日本初の救世軍士官、初代救世軍日本国司令官。以下、ウィキの「山室軍平」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『岡山県阿哲郡哲多町(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる』。『実家が貧しくて、少年時代に養子へ出される。十四歳で上京して、印刷工となり、伊藤為吉の下で修行するが、教会主催の英語学校に入学。そこでキリスト教に触れる。一八八九年(明治二十二年)、同志社大学神学部入学。赤貧の中で勉学に励むが、一八九四年(明治二十七年)に健康を害し、また当時広まりつつあった自由主義神学(リベラル)への反発もあり同志社大学を去る。その後暫くは石井らとともに高梁教会(旧メソヂスト)などで伝道活動を行なっていた』。『翌一八九五年(明治二十八年)より石井の勧めで救世軍に参加。パンフレット『鬨の声』(現在の救世軍日本軍国公報『ときのこえ』の前身)を刊行するなど大いに働き、日本最初の士官(伝道者)となる。後に東洋で最初の中将となり、日本軍国司令官となる。終生に渡り社会福祉事業、公娼廃止運動(廃娼運動)、純潔運動に身を捧げた。一九二四年(大正十三年)に勲六等瑞宝章を受章。一九三七年(昭和十二年)には救世軍より「創立者賞」を受ける』。『「平民の福音」を始め、分かりやすい言葉による著書や説教が親しまれた。妻の山室機恵子』も婦人運動家として知られた。]

  八月十四日
 高等女學校にて文學博士白鳥庫吉氏の日本民族てふ講話を聞きぬ。
 (註)以下筆記がのに〔→つ〕てゐる。
[やぶちゃん注:白鳥庫吉(しらとりくらきち 元治二(一八六五)年~昭和十七(一九四二)年)は東洋史学者。東京帝国大学教授。東洋文庫理事長。以下、ウィキの「白鳥庫吉」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『邪馬台国北九州説の提唱者として有名。師に那珂通世、弟子に津田左右吉など。外交官、政治家の白鳥敏夫は甥』。『日本や朝鮮に始まり、アジア全土の歴史、民俗、神話、伝説、言語、宗教、考古学など広範な分野の研究を行う。一九一〇年に「倭女王卑弥呼考」を著し、「邪馬台国北九州説」を主張。時を同じくして同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた京都帝国大学(現京都大学)の内藤湖南教授が「卑弥呼考」を著し畿内説を主張。後に東大派と京大派に別れ激しい論争(邪馬台国論争)を戦わせ』た。『一九〇七年、東洋協会学術調査部を設立し、『東洋学報』の創刊、『満鮮地理歴史研究報告』の刊行、一九二四年の東洋文庫の設立などに尽力した』。]

  十一月二十日
 淨心會主催、午後七時半より講堂に石川先生成章氏の講演あり。後〔、〕今川先生宅へ。
 念佛三昧に入れば善悪貧富何人たるかを問はず、安穏の生活〔、〕永遠の安住を得るものなりと語らる。念佛三昧に入るには如何なる道をとるべきや、御尋ねす。
[やぶちゃん注:石川成章(せいしょう 明治五年(一八七二)~昭和二十(一九四五)年)は理学博士地質学者。浄心会が主催していることからお分かり頂けるものと思うが、実は石川成章は真宗大谷派の宗教人でもあった。但し、この後半部の語りと祖父の質問は、石川・今川、どちらとの間になされたものかが不分明である。但し、どうも文脈の印象からは、講演後に、恐らく明専の教諭である今川という人の自宅に石川氏を御礼に招き、そこで祖父が石川氏から聞き、尋ねたと読むのが自然か。]

大正四年終
 (註)此年は前年に目立って外部から何者かを得ようとする慾望が増してゐる。内面的に見れば反省し、思索するにつけて、自己の思想内容の貧弱な事が如実に感ぜられてならぬ時代の樣である。かゝる時は或る一階梯を進む度に前途が拓けて、外部へ働きかけたくなる時であり、其が氏に於いてよく見られる樣である。

藪野種雄 日記 大正3(1914)年

□大正三年(二十一才)

  一月一日
 徴兵適齡ニ達シタ自分ハ懷舊ト想到ニ感慨無量ナルモノガアル。

  一月十日
 自分ハ未ダ確然タル大徹底ノ安定ニハ達シテ居ナイ。若手輩ガ生意氣カモ知レヌガ、少クトモ自分自身ニアリテハ之ヲ過怠トハイハヌガ第一ニ得べキモノトセナケレバナラヌ。何物ヲステヽモカマワヌ。名譽利權成功〔、〕夫等ハサルシ當リ僕ヲ安心セシムル大ナル力デナイコトヲ悲シム。
 小理屈ヲ言フナ。小理屈ヲ聞クナ。
 新ト舊トヲ選別スルナ、差別ナキヲ差別スルナ。

  二月六月
 種雄ハ惰氣ノ滿々タルモノガアリハセヌカ〔。〕平靜ガ沈滯トナリハセヌカ。靑年ノ元氣ヲ失ヒツヽアリハセヌカ。
 更ニ更ニ猛烈ナル勇猛心ヲ勃發セヨ。

  二月二十一日
 森本氏ヲ訪問ス。
 「森サン沖サンも言フテ居ラレタガ君ハヨク了解セヌラシイ。多クノ量ハイラヌカラ今日一日ノコトヲ、床ニ入ルトキニ思ヒ浮べラルヽ樣ニナサイ。(中略)」ト懇々卜指導セラレタ。
 彼ハ心二何トモ言へヌユツタリシタ愉快ヲ得タ。大奮發シヨウ。
 死ヲ決シテヤレ。死ストモ duty of  student〔,〕duty of man, youth ダ! ヤル!
 彼ハ此ノ日ヲ記憶スルタメニ、特ニ赤インキヲ用ヒタ。
 (註)此の日記は赤インキで認めてある。

  二月二十二日 日曜
 午前中京町(小倉)バプテスト教會ニテバイブルヲ井拜聽ニ出カケル。森山茂君卜同伴ナリ、スコブルヨロシ。

  二月二十四日 火
 材料強弱ヲヤル。
 Fight to Death!
[やぶちゃん注:恐らく徹夜の工学的な資材強度実験であろう。]

  三月五日 木
 家郷に在はす御兩親は如何。
 弟も妹も愉快に暮らして居るだらうか。
 音信とではせず、心ならぬながらしのばる。
 老ひ給へる父よ。我が不幸を許し給へ。
 風あたゝかに空澄めり。今日あたりは父上も海上にゆつたりとした氣分になつて居られるだらう。
 噫神よ、我父上をして幸多からしめよ。
[やぶちゃん注:私の曽祖父(祖父の父)は昔は漁師であった。私の父の話では、この頃は連絡船の船長をしていたらしい。]

  三月九日 試驗あり
 雨あがりの午後四時半――夕食も一時間を經たらうと思ふ頃に、自分は湯から上つた。かなり長くのびた爪を安川泰一君の鋏でかつた。氣がせいせいしてゐる。西の窓、忘私寮の窓にすがつて、今し太陽も西に傾いて、ほんのりと夕べの氣分をたゞよはせ、近くの小森が初春の夕靄を通して、すがすがしい色をしながら、田圃を遠卷きに取まいてゐる。
 自分は何事も忘れたかのやうに茫然としてゐる。妹や弟をこゝに連れて來て、あれ御覧あんな緑の色、空の色共に田の靑々した色〔、〕活々した松林が何と快い感を與へるではありませんか。ツネさん、豐さん、正雄さん。
 あゝもう日は暮れて行く。
 今遠くからでも夕鐘が響いて來たならば。私はめ入つてしまうかも知れぬ。
 今でさヘホロホロしてゐるんだもの。
 (註)此處に長い少年時代の樂しかりし想ひ出が長々と書かれてゐて「‥‥どんなに土産が待ち遠しかつたか、おもちやの軍艦を買ふて貰つたこと。(またのち書かう)」と結である。
[やぶちゃん注:「忘私寮」は明治専門学校の寮の一つの寮名。現在もこの呼称が残る。この「長い少年時代の樂しかりし想ひ出が長々と書かれて」あるものを読みたかった。]

  三月十日 火
 雨ふらば雨降る哉とて情もろく。
 風吹けばとて心かなしく
 寒くては心もあはれに
 彼の心はまことすさめるものよ。
 君知るや新哲ベルグリン〔→ベルグソン〕を
 流動の萬象と哲學の神と、これを得てう人と。我々は不斷の努力と奮鬪によりて、遂には流動哲學の其奧に眞理の鍵を持して天女待つ。
 君戀しからずや天の國。
 日は日に一日と進みて止まざる其の如く、天地一つとして流動せざるなからん。
 あゝ我進まば自我、我利我利となるべし。
 あゝ我退かば馬となるべし牛となるべし。
[やぶちゃん注:「ベルグリン〔→ベルグソン〕」これは植字の際の誤りであろう。フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、カントの観念論を批判、スペンサーの社会進化論を起点に「試論」で内的な意識の流れとしての持続を唱え、名著「物質と記憶」で「イマージュ」の概念を提示して生命の実在の考察へと突き進み、明治四十(一九〇七)年には「創造的進化」で意識の持続の問題を生命・宇宙全体にまで敷衍して「生の飛躍」を提唱していた。祖父は最もアップ・トゥ・デイトな最新の哲学理論を読んでいた。]

  三月十六日 木
 十三日の牛後母上が僕を訪問されて今度何々講とかを作つて貰つて其により安心したと云ふ事や、自分から進んで辨當運びをして迄もツネノを學校にやる、孝である。今わざわざ問ひに來たと云はれる。噫兩親をしてこの不自由を感ぜしむ、我罪哉、我罪哉。
 母者人は袂からネーブルを一つ二つ三つ五つ出されて其を食べよと言はれる。話に話を追ふて何時もの如く止めもあえぬ。かゝる所にてくどくどと語り合ふは何かと極り惡ければ、心ならずも早々と追ひ立て申す心の苦しさよ。彼はネーブルの一つを食べて同室の人々に別ちよろこんだ。胸の光に淸さと強さとを増した。
 あゝ我此の母を持つ。幸福ぞ、幸福ぞ、己の果報なるを考ふる毎に、其が母の心と父上の心より出づるものであると想到した時、如何に我と我が心を愉快ならしむるものぞ。
 妹をして己の故に先きに止むを得ずとて退校せしめたる心苦しさ、心恥づ。世の義理と云ふものに己〔→已〕でにからめられて妹――同胞とは云ひ乍ら其人を苦しむ。其罪や小ならぬなり〔。〕せめてもの事に全力をあげて己が成功を全うして、社會の爲に盡さずに居られよう。
 自分の爲にはすべての人、すべての場合が其の最も尊き機會を與へ賜ふに、我は何故にかくも不敏なりや。

  三月二十一日
 記憶せよ。三月二十一日午前八時。
 彼は一生に當て經驗せざる此日を記せねばならぬ。かねて期待せしとは言ふものゝ、何だか矢張り不安の感が胸に迫るではないか。彼は落第の宣告を受けたのである。今受けたのである。つとめて己を制し、兼て覺悟せるを以て我乍ら氣強い心地であつた。森山君と古林君とは一體どうしたんだいと言ふ。分けても森山君は彼の爲に今日あるを祝して呉れた。心では苦しいであろうけれども。(中略)
 三人は己〔→已〕に白砂靑松の中を辿つてゐた。皆好園は一面、キリンビールの幕を引まわされてゐた。櫻の蕾も今は心待ち顏。
 ドンが聞えて十五分頃には彼等は學寮に歸つてゐた。(中略)
 彼は急ぎ先生(藤井先生)のもとに行つて迷惑をかけた事を謝した。先生は分かつてゐる。もういゝ、後から又話さう。さつき田邊君と搜したが君が見えない。族行でもしたのではなゅかと話した所だと語られる。
 彼は何と思つたかせき來る涙を感じ、廊下に押し拭ふ涙も感謝の聲。(中略)
 思ふともなく足は池上先生の宅に向つた。先生は盲腸癒えて問もなき事なるが、庭に鍬を執つて居られた。
 彼は招ぜらるゝまゝに座敷で暫し話に入つた。人の世話を受けてると。〔→ゐると、〕先方では何とも思はれないでも、此方にて兎や角ひがみて變な壓迫を感するものですと云へば、先生は實際さうですよ。僕の友人も左樣云つてましたよと云はれる(中略)先生が落膽せず御勉強なさいと言はるゝを後に學寮に歸り食堂に入る。(中略)
 彼は○○氏のサルーンに、默想してゐた。○○氏は失禮しました御得たせしましたと言つて出て來られた。彼は「今日は誠に申し許なき事件を齎してまゐりました」と努力の足らない爲に失敗しました。〔→、〕(更に斷乎たる處置を)と思ひたれど氏は恬然としで動ぜず。
 其しきの事は誰でもやりますよ。大した事ではない。四人ありますか、其ならば心寂しい事もない。悲觀せずに全力を盡してやればいゝ。(中略)君はどう言ふ目的ですかね。
 僕は卒業後今の處では四五年職工となりたい。兎に角技師となるよりも先づ善良なる職工になりたいと答ふ。(中略)
[やぶちゃん注:落第した祖父は恐らく学資援助者である「○○氏」に謝罪に赴いた。そこでの「○○氏」の気風の良さ、そして将来を彼に問われて祖父が「技師となるよりも先づ善良なる職工になりたい」と答えるシーンなど、祖父の実相が髣髴として来る。]

  四月十六日 入學式
 (前略)明治專門各校の一部に淨心會なるものを設けり。佛教に趣味を有せる人の相互に修養せんと云ふが主旨なり。されど其の振はざる、其の徒らなる、言語に絶せり。修養は必ずしも佛教によるべきに非ず。吾人は修養てう大眼目の前に總ての佛教、總ての神教、總てのキリスト教、總ての宗派を問ふべきに非ず。哲學可なり、倫理可なり、吾々は如何なる科學の力によるも解くべからざる宇宙の力の前に立ちて、我々の凡惱中に伏在するあらゆる我、小我偏狂、小心を投げ捨て突進一跳、眞人の奧に突進せざるべからず。
 專門たる工業の外修養の爲に力と時とを要せずてう人は暫らく之を擱くとするも、吾々は極力心身の練磨に力を傾倒すべきに非ずや。
 此の故に淨心會なるもの壁頭第一に掲げられたる根本主旨をして更に普遍〔、〕更に強大ならしむべき要あるを信ず。即ち佛教青年會たる名實を擴大して宗教なる意義に於て、其會の發展と力とを切望してやまず。
 退きて考ふると共に一跳一歩を進めて努力的修養道に進むべきならずや。

  五月九日
 如何に多くの時日と如何に大なる努力を遂ぐるとも、其處に眞面目なる終極信念がなくてはならぬ。
 如何に多くの良書を讀破するとも、如何なる大人格者の聲に耳と心を淸むるとも、興奮的なる行動は憐然とすべきものならずや。
 如何なる多くの犧牲を拂ふとも、其が深刻てうものに非ずば、見るべからざるものと知るべし。
 如何に多くの時間をしかも眞面目に努力したりとも、善良なる正馬力は必ずしも生ぜざるものなり。
 とは言へど神よ、我等が向ふべき最終の目的は果して何ぞや。神よ我をして聞かしめ給へ。

  七月四日 土
 又例の試驗が來た。しかれども例の彼ではないと言ふことは斷言して憚らぬ。彼の上には自然を包み給ふ佛陀の手を受けてゐるのである。大なる力が彼には有せられるのだ。

  九月二日
 〇〇氏訪問。
 「君等の時代〔、〕青年の時代が最も肝要な時です。寸刻を惜んで努力しなければならぬ。ね〔→ぬね。〕文學などに心を向けてはよくない。よく若い人は誤る事であるが、餘慾のないのに、強ひて左樣の弊に陷り易いのは、戒むべき事であらうと思はれる。」
 青年は「はあ」「はあ」と口の内に應え乍ら色々樣々の想に馳せけり。實に專攻すべき學課の篤には全力を傾倒すべきは勿論乍ら、文學に親しむことの何が故に惡しきか。否とよ、否とよ、我果して誤れるなり。我果して誤れるなり。何とて我が文學を愛すると知り賜ふにや、恐らく△△氏より聞かれたるものなるべし。左なるべし。そは何れにするとも、我等が文學に入るとても、己が日々の課業を拔きにしてまでも勉めてなしたることならねど、左言はれたりとて致し方もなかるべし。實にも我其人の恩義にあるからには、其業をゆるがせにすべからざりしものよ。
[やぶちゃん注:三人称が、一人称に変異するこの日記は、祖父の哀しい内心、文学を思い切る断腸の思いが伝わってくるところである。まるで「舞姫」の太田豊太郎の日記を読むようである。]

藪野種雄 日記 学生時代 大正2(1913)年

   〔一、〕學生時代

□大正二年(二十才、一、二年生時代)

 〔一月一日〕
 正月元旦、改元最初ノ新旦デアル。祝スベキ哉、サレド梅ケ香送ラルスベナキ此ノ市街ニハ、諸所ニモルル三味ノ音ナド無風流ノ極ミナリ。

  二月二十四日 月
 又々……ニハ非レド春日和トナリケリダ 此地未ダ春風駘蕩デハナケレドモ、平和靜寂別天地ナリ。
 然ルニダ、然ルニ東都ニ於テハ山本内閣不信任案高シ 彼ハ薩州ノ産ナリ、政友會ハ彼ノ内閣ヲ樹立シ、且ツ自黨ヲ閣員タラシメタリ。云フ迄モナク硬派ナル行雄尾崎、岡崎氏等ハ極力反對セリ。然ルニ軟風、風ヲナシテ進ム能ハズ、
(中略)
於此乎、岡崎、尾崎、福澤桃介等外三十名ハ、脱黨シタリ。
[やぶちゃん注:「山本内閣」第一次山本内閣。内閣総理大臣は第十六代海軍大将山本権兵衛。大正二(一九一三)年二月二十日から大正三(一九一四)年四月十六日までの短命内閣。政府と陸軍の対立によって第二次西園寺公望内閣が倒れ、混乱が陸軍にあったために海軍大将山本権兵衛に組閣が命ぜられ、ウィキの「第1次山本内閣」によると、『それまでの藩閥政治から、政友会の原敬を内務大臣とする政党内閣に近い体制が取られ』、先の『二つの内閣を潰した課題であった軍部大臣現役武官制を、長州閥の陸軍と出身の海軍の両方を抑えて改正』、『軍部が政治に関与することを防いだ』が、『後に贈賄疑惑であるシーメンス事件が起こり、混乱の責任を取り総辞職した』 とある。当時、古巣の政友会に復党していた憲政の神様尾崎行雄は山本権兵衛が組閣後、あからさまに自党利益を優先しようとする政友会に反発して政友会を離党した。「岡崎」は護憲運動と策士家で知られる政治家岡崎邦輔。尾崎とともに政友会を脱党して政友倶楽部を作った(但し、岡崎は年末に復党)。この時、政友会は議会過半数を失っている。「福澤桃介」は大同電力や、奇しくも祖父が後に勤めることになる東邦電力などを設立した日本の電力王で衆議院議員。福沢諭吉の婿養子。大正二年頃は木曽川の水利権を獲得、岐阜県加茂郡に八百津発電所建設したり、日本瓦斯会社を設立している。この時はやはり脱党して尾崎・岡崎と行動をともにして政友倶楽部に入った。]

  三月七日 金
 諸君ヨ!片々タル小才子ハ既ニ既ニ社會ニ彌漫シテ居ル。一片ノ辞今〔→令〕ノタメニ心ヲ動ジ、一摑ノ金塊ノタメニハ我名譽ヲモ顧ミザル所謂利口者流ハ擧〔テ〕世風ヲナシテヰル。
 此中土猛烈ナル爆彈ヲ投ジ、彼等利口者流ヲ塵センハコレ、安川、山川健二郎氏ノ主義デアラネバナラヌ、ト同時ニ卒業生諸君ノ覺悟デアラネバナラヌ。
 卒業生諸君ヨ!諸君ハ今ココニ立タルヽニ當ツテ如何ナル未來ヲ想像スルヤ。
 或ハ再ビ此地ヲ踏ムノトキ、美シキ内室ヲ從ヘ、美髯ヲタクワヘ、而シテ我等ニ誇リトスルカ。
[やぶちゃん注:「山川健次郎」(嘉永七(一八五四)年~昭和六(一九三一)年)は東京帝国大学・京都帝国大学・九州帝国大学の総長を歴任した物理学者にして教育学者。明治四十一(一九〇七)年に先の注で示した安川財閥(安川敬一郎・松本健次郎親子)の資金拠出による私立明治専門学校設立に協力し、同専門学校総裁となった。但し、祖父が在校した当時は既に九州帝国大学の初代総長として転任している。参照したウィキの「山川健次郎」によれば少年期は白虎隊に属し、日露戦争時は東大総長でありながら、陸軍に一兵卒として従軍させろと押し掛けた強烈な熱血漢で、私が興味を持っている福来友吉の「千里眼事件」でも懐疑派として一番に登場する科学的合理主義者でもある。ここで「主義」と言うのは創立者安川と初代総裁山川によって打ち立てられた明専の校訓校是といったものを指しているものと思われる。]

  三月二十三日
 夕ヨリ歸省ス、歸省中二週間、ソノ約前半一週日ハ我家ニテ徒ラニ暮シ、或ハ附近ノ坊主山ヲ飛ビ〔、〕或ハ内ニ居テ日ヲ費ス。
 後ノ一週間、四月一日ヨリ四月七日夜にカケテハ、正ニ留守居シテ得ル所大ナリ、或ハ靜坐默考ス、又讀書ヨク之ヲ通讀シタリ。
[やぶちゃん注:「坊主山」現在の福岡県田川郡福智町金田にある小山か。標高四十九・五メートル。]

  五月五日
 月曜ヨリ木曜ニ到ル間ニ於テ、記スべキ事項ハ比較的大ナルモノガアッタ。(中略)
來ルボートレース後ニ於テ選手慰労ヲヤルト云フ、大イニ可ナリ、然ルニ何ゾ、上級ガナスガ故ニ、又場所見當ラザルガ故ニ小倉某々ノ料理店ニ開カント言フ。
 咄! 何者ノ痴漢ゾ
 川本、伊藤、森山、小林五名ハ立ツタ、而シテ出來得ル最善ヲ盡シタル考ナリ、兎ニ角一般ノ意向ガ傾キ居ルタメカ、校内ニテナスコトヽシテ一段落ツキヌ。(中略)
 養ヒ難キハ實ニ小人ナリケル哉。
 今後於ケル我等ノ覺悟ハ已ニ定マレリ、何ゾ怖レン百萬ノ敵、千億ノ敵アリトモ。
 五月二十七日ヨリ六月十六日ニ到ル間、吾輩日記ヲ記サナカツタ、此ノ怠惰ヲ以テ一般ヲ推スベシト云ハルヽモ一言ナキナリ。然リ我輩、滿足ナル勉強ヲヤラナカツタ。
 咄々、愚情漢ヨ
 汝ハ徒ラニ言ヲ用ヒ之ヲ行ハザルヤ
 未ダ茫莫タル行路ニ漠然ト、シカモ氣ノミアリテユカズ、而カモ而カモ自ラ實アルガ如クニ見セカケ、唯々其ノ虚ヲ蓋ハントス。
 汝ノ心ハ浮片々々タリ、是其心著實ナラザレバナリ。學ニ専ラナラザルガタメナリ、學ニ志セルガ如クニシテ實ハシカラズ。(中略)
 總テノ私念雜念ヲ除去シテ空々淸々タル天然ノ心ニ歸レヨ

  六月二十八日
 圖書館ニテ書物ヲ拜借ス。
 一、戰爭と平和(トルストイ第二巻)
 二、空中飛行
 三、マジツク
 四、漫遊案内記
 五.ハンス、アンダースン物語
 六、我子ノ惡德
[やぶちゃん注:「戰爭と平和」は馬場孤蝶の日本語初訳は大正三年であるから、祖父が読んだのは英訳本と考えられる(後に祖父は前述したアメリカ製発電機の買い入れにも関係しており、英語が堪能であったと思われる)。それにしても英語であの大作に挑むとは、恐るべし! 「空中飛行」は不祥であるが、もしかするとこれは押川春浪の明治三十九年博文館刊の「空中大飛行艇」ではなかろうか? 「海底軍艦」のサイド・ストーリー的空想科学小説である。「マジツク」はお手上げである。洋書の手品の実用書ともとれるし、民俗学的な魔術に関わる学術書とも、はたまた「魔術」の題名の小説という可能性もある。「漫遊案内記」に似た書名では坪谷水哉(善四郎)の明治三十九年博文館刊「増訂日本漫遊案内」というのがある。これならば所謂、現在の旅行ガイドのようなものと思われる。「ハンス、アンダースン物語」とはハンス・クリスティアン・アンダーセン(Hans Christian Andersen)のオランダ語発音表記で、童話の父アンデルセンのこと。誰のものであるかは不祥だが、アンデルセンの伝記である。やはり英文か。「我子ノ惡德」これは同定出来る和書である。明治四十二年同文館刊の大村仁太郎著「教育寓話 我子ノ惡德」である。これはいろいろな悪徳を子供に養生する法を説く形で、反面教師としての道徳養生法を述べた変り種の道話集である。国立国会図書館の近代デジタル・ライブラリーで読むことが出来る。]

  七月一日
 修身ノ時ニハ藤井先生ガ多少卜モ余ノ思ヒ居タルヲ語ラル〔。〕先生ハ其ノ判断力ト勇気卜ニ於テ此ノ二ケ年間ニ經過スル所ガ見タイト、我々タルモノ奮起セズシテ可ナランヤデアル。
 昨日日頃カラ少々氣分ガ惡シカツタ。之運動不足ニヨルモノダ。今日ハ早速柔道ヲヤリタルニ精神爽快言フベカラズ。

八月十五日
 △△氏ヨリハ學資供給ヲ中止シ、他ヨリ世話シヤルベシトノ事デアル。其何處迄モ心配シテ下サルニハ衷心ヨリ感謝ヲ表スモノデアル。何レノ地ニカ一識ノ見モナク、而モ不才ノ我が如キヲ助クル者カアル、別ケテモ自ラノ困窮ヲモ顧ミデ力ヲ與フル〔、〕如何デカ他ニ之ヲ求メ得ベケンヤ、其厚志ニハ萬腔ノ誠意ヲ持シテ感謝セザルべカラズ、サレド男子生レテ他人ノ助ヲ受クル〔、〕之ヨリ大ナル恥辱アランヤ。
 僕ハ極力何等カノ方法ヲ以テシテ、自活ノ路ヲ立テント決心シタ。此心幸ニ藤井先生ノ御同情ニヨリテ多少ノ内職ヲ得ラレンカノ運ビニ到ツタノデアル。
 先生ノ一書ヲ寄セラレテ曰ク〔、〕△△氏ノ俠心感服ノ外ナシト〔。〕男子他人ノ世話ヲ受ケルハ快心事ニ非ズト雖モ之ヲシテ薄志弱行トハ言ハジ。之ヲ受ケザルコト却ツテ然ラント、先ヅ砕身奮勵ヲ志レソト。
 之モ亦一ツノ見解ナルベシ。
 淸濁合セ飲ムノ概ヨリ言へバ或ハ然ルベシ〔、〕恩義ノ絆……之シモ廣義ノ強大ノ意志ヨリスレバ何スルモノゾ。唯ニ之ヲ呑ムベシ。然リ大イニ呑ムべシ。呑マルヽベカラズ。此ノ決心サヘアレバ何ゾ杞憂スルヲ要センヤ。
 サリトテ我心今△△氏二於テ離レンカ、何ゾ更ニ他ノ援助ヲ受クべキ。
 内職ノ費タトヘ少額ナリトスルモ、之ヲシテ何事ノ端ニ加フレバ、自活的努力ヲ得ルトヤ云フべキカ。
[やぶちゃん注:それまでの祖父の学資援助者が都合で援助出来なくなったことに対して、まずは旧援助者への感謝を述べ、その人物が別な援助者を紹介してくれることへの男子としての慙愧の念を述べる。それに対する明専の修身担当の藤井先生の心温まる忠告と、経済的自立の覚悟を述べる。藤井先生の「薄志弱行」という言葉、そして祖父のここまでの気概に満ちた日記を読むと、私はある人物が想起されて来るのである。そう――あの「こゝろ」のK――その人である。我々は、またこの後、Kと全く同様にあらゆる宗教の深奥に深く貫入してゆく私の祖父を見るであろう。]
 (註)是より天地の悠久を諭じ、小事に汲々たる自己を咄ひ、悶々の状見るが如く叙述してあるが割愛する。
[やぶちゃん注:こういった祖父のオリジナルな哲理の部分を正巳氏は恐らく字数の関係上から殆んどカットしている。それが私には非常に惜しまれるのである。]

  八月十八日 月
 月ハ永へニ 淸キモノトハ 知リツヽモ 斯クトハ知ラジ 今日ノ夜ノ月
 皎々ノ月ハダークブルーノ夜ノ窓外ヲ輝シテ、今シ橙樹ノ上ニ淸キ銀光ヲ落シタ。
 南窓北窓ヲ打開ヒテ、主客三人ノ影ハ涼夜ノ階上ニ物語ツツアツタノデアル。
 主人ハ客ヲ見守リテ、語ルヤウ
「吾自ラ餘裕アリ卜言フニアラネド、君ガ資ニト今日ニ及ビヌ、(中略)。之ヲ水泡ニ歸スハ忍ビ得ザル所幸ニ友ヲ通ジテ、××氏ヨリ學資ヲ給シ得ルニ及べリ。……心安カニ學べヨ」ト。(中略)居タル青年ハ唯共感ニ打タレ一言モ發シ得ザリキ。客ハ窓外ノ月ヲ仰ギ見テ強キインプレツシヨンニ打タレタ。僅ガニ口ヲ開イテ言フ樣「自ラノ如キ不才ノ者ヲシテ尚且ツ如斯キ迄ニ心ヲ砕カル、御厚情ニハ恥愧交々我ヲ責メ申スノデアリマス。生ハ此ノ言葉ヲ聞キシトキヨリシテ、何等カーツノ内職ナリト致シテ、學資ノ一助トナシ、今迄ノ御助力ヲ基礎ニ最後ノ目的ニ奮進セント」
 主人其ノ苦學ノ言フニ易クシテ行ヒ難キヲ語リ、若シ事成ルモ或ハ心身ヲイタメテ百年ノ功ヲ一朝ニテ徒費タラシム之才ヨリ甚シ國家ノ損失アラフンヤ。乞フ我意ニ任セヨト。
 客何ゾ涙無キヲ得ンヤ
 客何ゾ涙無キヲ得ンヤ
 話終リテ主客種々ノ物語リヲナシヌ。
 暇多ケレバ度々遊ビニ來レヨト。夫人ハ客ヲ送リクレヌ。三度顧ミテ青年ハ涙ヲノミヌ。
[やぶちゃん注:旧学資援助者との対面の臨場感溢れる描写である。]

  八月二十一日
 藤井學生監訪問。
 學生監ハ懇切ニモ生ガ行途ニ対シテ精細ニ見テ呉レタ。感謝ノ極ミダ。

  八月三十日
 ××氏宅訪問。氏ハ英國型ノ紳士ナリ。靜カニ口ヲ開イテ曰ク。
 「人生意氣ニ感ズト言フ一念ヲ以テ、ココニ君ヲ世話スル」ト。(中略)
[やぶちゃん注:新たな学資援助者との対面である。]

  九月二十四日
 先生ハ懇々ト教訓ヲ與ヘテ下スツタ。古イ小學校時代ノ寫眞ナド出シテ見セテ下スツタ。(中略)君ハ本校ノ學生トシテ完全ナモノト成ラネバナリマセヌ。決シテ小サイコトニクヨクヨシテハナリマセヌ。
 感深シ
 我今日意氣消沈セントスルガ如キアルハ、己レ自身モ亦知ル所ナリ。サレドムシロ此ノ事實ハ我前途ヲ祝福スルモノナルヲ記スベキナリ。何トナレバ汝ハ静寂ニ近ヅキツヽアレバナリ。且ツ靜中動ニ向フヲ得べケレバナリ。
 毎晨毎夕、汝ハ靜座スべキヲ期セヨ、之ヲナシテ更ニ汝ガ心ノ落着キヲ強カラシメヨ。

  十月一日
 急ニ室移動ヲ命ズ〔→ゼ〕ラル
 修養ノ道ハ蓋シ吾人ノ根本義ナリ、學ノ如キハ實ニ末ノ末ノミナリ。
 是正ニ一理アレドモ、學ノ末ナリテフヲ楯ニ不勉強ナルモノ程見苦シキモノハアラズ。彼等ハ己ノ不能ヲ告白シ居レバナリ。
 修學ニ誠意ヲ有スルモノ、又修養道ニ誠意アルべキ也、修道ニ志アルモノ、學ヲ勉メズシテ可ナランヤ。

  十月九日 の午後十時半だ。
 秋の草露にすだく虫の音は、まこと心地すがすがしきものである。名譽を想はんや。利慾を望み願はんや。あゝ靜、あゝ靜哉。
 堂々の自然の運行を想へ、彼は永へに休止することを知らぬ。しかもこの大なる静寂を與へ、思索を與ふるではないか〔。〕偉哉。
 僕は今動搖の心にある。而も之を改めんために極力努力をしつゝあり〔→る〕や否や。
 默々たる天然の聲の如何に強きことよ。暗々たる天地のひゞきの如何に強きことよ。(中略)

  十一月二十三日
 隨感
 私の思想は今迄、今でもありまするが動搖の期にあると言ふことを自覺するのであります。私は嘗ては非常に固苦しい道德教に捕れたのであります。嘗ては自分と言ふものを買ひかぶつた事もありませう。すべてのものは今よりすれば意義なく誠につまちぬものゝ樣にも感ぜられます。だけれど其つまらない事も今日多少此等を考へ得るに到つた徑程又は過程かと思へば誠に感謝せずには居られませぬ。
 私は今〔、〕人の補助によつて學修して居るめであります。僅かに二年を經たに過ませぬが其補助者たる人々に對しては、誠に面目なき次第であります。
私はすべての努力を以て學習に又は精神的に努力したのであります。が然し其は自我としての事で、第三者として見れば眞實に努力したので無いかも知れません。何故ならば私は根本的自己の思想上に缺陷を藏して居たからであります。
 其の缺陷とは工業の學校に在り乍ら、其學科よりも文學方面に趣味を向はしめたことである〔→あります〕。趣味はやがて其の職となす點に於て斷じて缺損するを許しませぬ。而も工業は曲りなりにも自我の志望したものであることを強ひて忘れんとしたのでありました。何故ならば工業其物が果して如何なるものであるかを、十分に知らなかつたからであります。文學的方面の者が工業的に向つたのは一つの無暴でありませう。
されど是は必ずしも左樣でないだらうと云ふことも確かめられるのであります。文學てう一つの不生産的方向に入る者が茲に生産的方面の工業に入ることは、多分の社會的意義があるます。(中略)
 先づ私は、工業、自己の修むる工學が如何なる力と、如何なる社會的意味があるかを、多少想像し得る段階に進んだのであります。
[やぶちゃん注:藪野の一族は祖父と同じく理工学や電気関係に進んだものが多い。他には本書の挿絵を描いている祖父の弟の正雄やその息子たち、私の父などが美術に向かった。純粋に文学というのは実は、一介の高校の国語教師ながら、私だけかも知れない。私は今回、祖父の日記を読みながら、文学は勿論、祖父同様に哲学・宗教への強い興味を持つ私の中に、強力な祖父の遺伝子を実感したことを、ここに告白しておきたい。]

  十二月二十四日
 第二學期モ終了ス。
 過去七日間ハ全力ヲ注イデ出來ルダケノ努力ハシタ。チツトモ愧ズル所ハナイ。
 松本氏ヲ訪問シタ。氏ハナカナノ對話家ヂアル、其ノ一言トシテ徹底セザルハナイ。(中略)
 自己ノ前ニハ光明セル強固ノ希望ヲ存シテ置カネバナラヌ(中略)
 自分ノ理想ハ社會ノ共樂ニアル。
 自分ノ目的ハ工業發明ニアル。
 自分ノ責務ハ我日本ノ振興ニアル。
 自分ノ任務ハ父母ヲ養ヒ弟妹ヲ教フルニアル。
 自分ノ本分ハ學生ノ體面ヲ落サザルニアル。

  十二月二十五、、六、七、八、三十月
 自分は何故に斯く意志が薄弱なのであるか。何故斯く迄決心を徹することが出來ぬか。
 汝には眞の努力が無い。
 ベストの盡し樣が足らない。
 一年は暮れて行く。
 年が徒らに過ぎたのではない。
 汝が徒らに貴重なる年の機會を逸したのである。
 何事も云ふな。
 何事も胸に語らへ。
 そして猛進せい。
 決して黄金の爲に自分の心を屈することはならぬ。せうとしてもならぬ。
 淸い生涯に入る。
 これが大正三年に入る汝への神の寸志である。
 噫々暮れ行く大正二年よさらば。
 (註)日記中に淨心會の事や、禪僧の話を聞かれた事が、散見するが氏の内省的な見方は此時代から大体東洋流、禪らしい流を見せてゐる。余は其を出すに意を用ひたのであるが、十分でないのは是はむしろ余の責任である。
[やぶちゃん注:「二十五、、」の読点の二重打ちはママ。村上氏の註の「体」もママ。「淨心會」は後の「四月十六日」の日記に語られるところの明治専門学校内の仏教研究修養サークルであり、この頃にはその会に所属していたか、時に参加していたものと推測される(でなくては後の四月十六日の日記で同会の現状批判は出来ないであろう)。

カテゴリ 藪野種雄 創始 / 藪野種雄略歴

カテゴリ「藪野種雄」を創始する。彼は僕の父方の祖父である。彼の遺稿集を本ブログで順次公開する。それは僕の中の彼の遺伝子を追認精査するためである。

落葉籠   藪野種雄遺稿

[やぶちゃん注:以下ブログで順次公開するものは、私の父方の祖父藪野種雄の遺稿集の全文である。遺稿集奥付によれば、村上正巳氏(父の無二の友人で、当時の住所は名古屋市東区柳原町三丁目四三番。「大正九年一月十九日」の日記の註から、村上氏は明治専門学校の後輩に当たることが分かる。大正九(一九二〇)年に二年生で、祖父は就職二年目の一月であるが、祖父は一年落第しているから、数えで五つ、学年で四つ下(明専は四年生であるから祖父の卒業と同時に村上氏は入学した)と思われる。それ以外の氏の詳細な履歴は残念なことに不明である。御存知の方は御教授願えれば幸いである)によって昭和十(一九三五)年七月二十五日に名古屋市東区千種町の印刷所三益社で印刷されており、村上氏の自宅を発行所としている。読み易さを考え、日記の日付の変わる箇所には行空けを施し、一部、脱字と思われる箇所には〔 〕で私が適字や句読点を補ったり、推定される正しい字を〔→(正字)〕で示したりした。一部読み難い箇所に字明けも施した。各年の頭に底本にはない「□」を附した。また、一部に私の注(村上氏の原注は「註」である)を附した。注の多くはウィキその他、ネット上の信頼出来ると思われる資料を参照した。複数の資料を勘案して記載したため、総ては断わっていない。またブログ版ではリンク作業が面倒なため、一部のリンクを省略した。将来、HP版ではリンクを施すので、悪しからず。誤りがあった場合は、御教授願えれば幸いである。なお、本作の原本資料はその多くが散逸しており、作中の「(省略)」を補うことは、現在出来ないことを私は心から残念に思う。尚、祖父はしばしば自己を客体化して「彼」と三人称で呼称する癖があることを断わっておく。]

[見開き:藪野種雄写真に「故人小照」のテロップ。その下に以下の略歴が載る。]

畧歴 明治二十七年生
   東筑中學卒
   大正六年明専機械科卒
   仝年九軌ニ就職十一年辭職
   大正十一年明治鑛業赤池發電所建設
   次デ翌年淺野セメント東京本社嘱託
   大正十三年東邦電力名古屋發電所ニ
   就職、昭和七年退職
    九年八月十四日辭世
[やぶちゃん注:「明治二十七年」は西暦一八九四年。「昭和七年」は一九三四年であるから祖父は享年四十一歳であった。「東筑中學」は現在の福岡県立東筑高等学校(「とうちく」と読む。福岡県北九州市八幡西区東筑)で、明治三十一(一八九八)年に福岡県初の県立旧制中学校として設立、北九州地区においては創立百十三年と最も歴史があり、全国有数の進学校でもある。
「明専」は「めいせん」と読み、現在の国立九州工業大学(福岡県北九州市戸畑区仙水町)であるが、祖父が入った時は北九州の炭坑明治鉱業を手がけた安川敬一郎の安川財閥によって鉱山技術者養成専門学校として明治四十二(一九〇九)年に開校された私立明治専門学校であった。採鉱学科・冶金学科・機械(工学)科で構成されており、日本で初めての四年制専門学校でもあった。大正十(一九二一)年に官立に移管され、戦後の昭和二十四(一九四九)年に新制国立大学となった。現在でも通称として「明専」と呼称されることがある。
「九軌」は九州電気軌道(現在の西日本鉄道の前身)。福岡県門司市・小倉市・戸畑市・八幡市(合わせて現在の北九州市)において路面電車路線を建設・運営した鉄道事業者。明治四十一(一九〇八)年設立。祖父が就職した当時は、これらの都市の主要路線が全通した九軌が大躍進した時期である。
「赤池」福岡県北東部の田川郡に属していた筑豊炭田の有力な鉱山町で、祖父の建設した明治鉱業の三本煙突の赤池発電所は、文字通り、赤池繁栄のシンボルであった。近年、財政再建団体となって合併、福智町となって赤池町は消滅した(先のリンクは福智町公式ウェブサイトの「財政再建」のページで赤池発電所の写真がある)。
「淺野セメント」は現在の太平洋セメント(旧日本セメント)の前身。浅野総一郎を総裁とする浅野財閥の中核企業として発展した。以上この辺り、祖父は目まぐるしく会社を変わっているが、日記などから窺われることは、職工や同僚の苦しみを見逃せない現場技師として、しばしば上司や会社幹部と衝突、それが一因としてあるように感じられる。そこには祖父の独特の気骨が感じられるのである。
「東邦電力名古屋發電所」東邦電力は大正から昭和の戦前期に存在した電力会社。五大電力(東邦電力・東京電燈・日本電力・大同電力・宇治川電気)の一つ。大正十(一九二一)年に関西水力電気と名古屋電燈が合併、関西電気が設立、翌年、関西電気と九州電燈鉄道の合併に伴って九州北部・近畿・中部の一府十一県に及ぶ事業を行うようになって東邦電力と改称した。先の注で示した福澤桃介が専務取締役で、実質上の経営は福澤の盟友であった副社長(後に社長)松永安左エ門が当った。当時、水主火従であった電力業界にあって、松永は火力発電を重視、大正十四(一九二五)年には東京へ進出、東京電力を設立(現在の東京電力とは無縁)、昭和初期には日本有数のエネルギー企業へと成長した。後、昭和十七(一九四二)年、国家総動員法により再編解散した。その「東邦電力名古屋發電所」は松永の肝煎りで大正十五(一九二六)年十二月に名古屋市港区大江町に建設した、アメリカから輸入した単位容量三万五千kW発電機二台による出力七万kWの、最新鋭のこれまでの日本にはなかった最大容量火力発電所であった。ここに往時の外観を写真で見ることが出来る(リンク先は名古屋の情報発信ネットワーク「Network2010」の「開府400年」の「昭和初期1」)。惨憺たる経歴でありながら、東邦電力に転職し、それも最重要の新規プロジェクトを任せられたのは、推測ながら、祖父の技師としての手腕が業界で買われていたからこそではなかったろうか。
「九年八月十四日辭世」とあるが、如何なる錯誤があるかは分からないが、現在のところ、祖父の命日は八月十五日となっている。]

       編纂者の言葉

 余が畏友藪野氏の遺稿の出版を想ひ立つたのは昨年の夏、氏が他界の直後に於てゞあつた。未亡人からは直ちに材料の提供を受けたのであつたが、一つは余の公務上の多忙と、-つは遺稿と云つても日記とか書面とかゞ主體となつてゐて、學術論文とか隨想とか云つた形のもので無いので、その取捨選擇に手間取つた爲遂に今日迄延び延びになつたのである。で最初は氏の吊慰金の一部を割いて、有志の名で出版する考であつたが、後で述べる如く本書の内容が全く余の主觀を通した一つの體系となつたので、此の責任を他に轉嫁することの不當なるを慮つて、余一私人の此版物とする事にした。
 内容の選擇に當つては、余は一つの指導原理の許に立ち働らいた。其は氏の晩年に於ける人格が靑壯年期を通じて如何に培はれ來つたか、云はゞ發展的形態に於て摑んだ「藪野氏」と云つたものを作る事である。從つて是は所謂遺稿集でなく「遺稿をして語らしめた自叙傳」であり、しかも一つの履歴を梯子段式に並べた通俗のものでなく、「内面生活史」とも云ふべきものである。かゝるものは藪野氏に於て始めて意義のあるものであつて、内面生活の乏しいものにとつては、却つて沽券の低下ともなるであらう。
此の書は氏が生前の知己に配布する計畫であるから、氏が如何なる人となりであつたかを茲に縷述する必要はあるまい。唯茲に一言贅言しておきたいのは、純情的な、多感な、科學的組織よりか直觀的な、そして常に反省しつゞけ、全生涯を通じて経濟的に壓迫され乍らイデアリズムの牙城を死守した氏の精神的苦鬪を十分に汲んで戴きたいことである。
 余がかく書き續ける間、余の眼前には、あの柔和の中に苦み走つた、低聲でニコニコし乍らもどこかに強さを藏つた生前の面影がチラついてゐる。余の筆は宛も此の笑顏によつて導かれつゝあるかの如く、何のこだわりもなく運ばれてゐる。余は嘗て覺えたたことのない快さを以て此の文を書きつゞる事を、諸賢の前に告白しておきたい。
村上正巳       
       内容について
 表紙及びカットは令弟正雄氏(二科の常連)を煩はした。所々に散見する註とあるのは筆者の加へた註である。日記は大正二年より六年迄及び八九十十一年昭和に入つて四五年とあるが、後年のものはブランクに殘つてゐる場所が多い。用紙は最初の二年は落葉籠としてノート、後は常用日記類である。
 所々伏字があるのは勿論著者の意圖の許になされたものである。
[やぶちゃん注:「吊慰金」は「ちょういきん」と読む。「吊」は「弔」の俗字。「二科の常連」とあるが、二科展は昭和十九(一九四四)年に解散、戦後、旧二科会会員によって二紀会を創立、藪野正雄もそちらに移っている。]

2011/08/28

山本幡男 最期の言葉

[やぶちゃん注:死の前日、昭和29(1954)年8月24日。瀨崎清に筆談で示されたもの。我々が現在知り得る、山本幡男最期の言葉である。「佐藤先輩」は佐藤健雄のこと。]

必ズ遺書ヲ日本ニ屆ケテ欲シイ 詳シクハ佐藤先輩ト相談シテ下サイ

――そうして

――確かに驚くべき誠心によって遺書は届けられた

――昭和三十二(一九五七)年一月

――祖国の新春に

――妻子の元に

――そして

――僕らの耳に……

山本幡男 末期の走り書き

[やぶちゃん注:山本幡男の末期の走り書き。死の十日前、昭和29(1954)年8月15日前後。見舞った新見此助に示したもの。赤鉛筆書き。私は、今年三月十九日に天に召された母が、筋萎縮性側索硬化症を宣告された直後、私に「自殺したくても自殺も出来ない」と呟いたのを思い出す。ここで私たちは山本幡男という一個の生が、かく最悪の状況下にあっても最後まで決して希望を捨てなかったという事実を肚に銘じねばならない。]

死ノウト思ツテモ死ネナイ スベテハ天命デス 遺書ハ萬一ノ場合ノコト 小生勿論生キントシテ鬪爭シテヰル 希ミハ有ルノデスカラ決シテ一〇〇%悲觀セズヤツテユキマセウ

山本幡男 辞世二句

[やぶちゃん注:遺書を書き上げた昭和29(1954)年7月2日から数日後、山本幡男は激しい眩暈と嘔吐に襲われる。急を聞いた新見此助が作業後に駆けつけた。その時、示された薬包紙に赤鉛筆で書かれた二句。これが現在、我々の知ることの出来る、山本幡男辞世の句である。]

日の恩や眞直ぐに玻璃の雪雫

藥瓶に柳絮舞ひ入る二度目かな

[やぶちゃん補注:「柳絮」は白い綿毛のついた柳の種のこと。また、それが春に飛び漂うことを言う。春の季語。それは幡男の心願の国、永遠の緑の――確かに心眼で見た祖国の春の到来であった――]

山本幡男 遺書「子供等へ」

[やぶちゃん注:山本幡男遺書のその四。子供宛。]

子供等へ。山本顯一 厚生 誠之 はるか 君たちに會へずに死ぬることが一番悲しい。成長した姿が、寫眞ではなく、實際に一目見たかった。お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が多く現れた。それも幼かった日の姿で……あゝ何といふ可愛い子供の時代!
 君たちを幸福にするために、一日も早く歸國したいと思ってゐたが、倒頭永久に別れねばならなくなったことは、何といっても殘念だ。第一、君たちに對してまことに濟まないと思ふ。
 さて、君たちは、これから人生の荒波と戰って生きてゆくのだが、君たちはどんな辛い日があらうとも光輝ある日本民族の一人として生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは將來、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化――人道主義を以て世界文化再建に寄與し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。
 また君達はどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に參加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも眞面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。
 最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友達と交際する場合にも、社會的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。
 人の世話にはつとめてならず、人に對する世話は進んでせよ。但し、無意味な虚榮はよせ。人間は結局自分ひとりの他に賴るべきものが無い――という覺悟で、強い能力のある人間になれ。自分を鍛えて行け! 精神も肉體も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。自覺ある立派な人間になれ。
 四人の子供達よ。
 お互いに團結し、協力せよ!
 特に顯一は、一番才能に惠まれているから、長男ではあるし、三人の弟妹をよく指導してくれよ。
 自分の才能にうぬぼれてはいけない。學と眞理の道においては、徹頭徹尾敬虔でなくてはならぬ。立身出世など、どうでもいい。自分で自分を偉くすれば、君らが博士や大臣を求めなくても、博士や大臣の方が君等の方へやってくることは必定だ。要は自己完成! しかし浮世の生活のためには、致方なしで或る程度打算や功利もやむを得ない。度を越してはいかぬぞ。最後に勝つものは道義だぞ。
 君らが立派に成長してゆくであらうことを思ひつつ、私は滿足して死んでゆく。どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。
  最後の自作の戒名
  久遠院智光日慈信士

  一九五四年七月二日           山本幡男

[やぶちゃん補注:これらの遺書を受け取った佐藤健雄は翌日も幡男の病床を見舞ったが、そこで幡男は、
「私ノ戒名ヲ久遠院法光日眼信士ト訂正シテクダサイ」
と書いた紙を彼に渡している。
  久遠院法光日眼信士
戒名としては「法」(カルマ)は最上級の文字で、「日慈」より「日眼」の方が強靭に引きしまったいい戒名であると私は思う。]

山本幡男 遺書「妻よ!」

[やぶちゃん注:山本幡男遺書のその三。妻モジミ宛。]

妻よ! よくやった。實によくやった。夢にだに思はなかったくらゐ、君はこの十年間よく辛抱して鬪ひつづけて來た。これはもう決して過言ではなく、殊勳甲だ。超人的な仕事だ。失禮だが、とてもこんなにまではできまいと思ってゐた私が恥しくなって來た。四人の子供と母とを養って來ただけでなく、大學、高等學校、中學校、小學校とそれぞれ教育していったその辛苦。郷里から松江、松江から大宮へと、孟母の三遷の如く、お前はよくまあ轉々と生活再建のために、子供の教育のために運命を切り拓いてきたものだ!
 その君を幸福にしてやるために生れ代ったやうな立派な夫になるために、歸國の日をどれだけ私は待ち焦れてきたことか! 一目でいい、君に會って胸一ぱいの感謝の言葉をかけたかった! 萬葉の烈女にもまさる君の奮鬪を讚へたかった! ああ、しかし到頭君と死に別れてゆくべき日が來た。
 私は、だが、君の意志と力とに信賴して、死後の家庭のことは、さほどまでに心配してはゐない。今まで通り子供等をよく育てて呉れといふ一語に盡きる。子供等は私の身代りだ。子供等は親よりもどん/\偉くなってゆくだらう。
 君は不幸つづきだったが、之からは幸福な日も來るだらう。子供等を樂しみに、辛抱してはたらいて呉れ。知人、友人等は決して一家のことを見捨てないであらう。君と子供等の將來の幸福を思へば、私は滿足して死ねる。雄々しく生きて、生き拔いて、私の素志を生かしてくれ。
 二十二ヵ年にわたる夫婦生活ではあったが、私は君の愛情と刻苦奮鬪と意志のたくましさ、旺盛なる生活力に感激し、感謝し、信賴し、實によき妻をもったといふ喜びに溢れてゐる。さよなら。

山本幡男 遺書「お母さま!」

[やぶちゃん注:山本幡男遺書のその二。母親宛。]

 お母さま!
 何といふ私は親不孝だったでせう。あれだけ小さい時からお母さんに(やはりお母さんと呼びませう)御苦勞をかけながら、お母さんの期待には何一つ副ふことなく、一家の生活がかつかつやっとといふ所で何時もお母さんに心配をかけ、親不孝を重ねて來たこの私は何といふ罰當りでせう。お母さんどうぞ存分この私を怒って叱り飛ばして下さい。
 この度の私の重病も、私はむしろ親不孝の罰だ、業の報いだとさへ思ってゐる位です。誰も恨むべきすべもありません。皆自分の罪を自分で償ふだけなんです。だから、お母さん、私はここで死ぬることをさほど悲しくは思ひませぬ。唯一つ、晩年のお母さんにせめてわづかでも本當に親孝行したいと思ひ、樂しんでゐた私の希望が空しくなったことを殘念、無念に思ってゐるだけです。
 お母さんがどれだけこの私を待って、待ってゐなさることか。來る手紙毎にそのやさしいお心もちがひしひしと胸に沁みこんで、居ても立ってもをれないほどの悲しみを胸に覺えたものです。唯の一目でもいいから、お母さんに會って死にたかった。お母さんと一言、二言交すだけで、どれだけ私は滿足したことでせう。十年の永い月日を私と會ふ日を唯一の樂しみに生きてこられたお母さんに、先立って逝く私の不孝を、どうかお母さん許して下さい。
 お父さんと弟の勉と、妹のキサ子と四人で、あの世に會ふ日が來れば、お母さんの事を話し合ひ、お母さんが安らかな成佛を遂げられる日を共に待つことに致しませう。あの世では、お母さんにきっと樂に生きていただかうと思ってゐます。
 しかし、お母さん、私が亡くなっても決して悲觀せず、決して涙に溺れることなく、雄々しく生きて下さい。だって貴女は別れて以來十年間あらゆる辛苦と鬪って來たのです。その勇氣を以て、どうか孫たちの成長のためにもう十年間鬪っていただきたいのです。その後は少し樂にもなりませう。私がこの幡男が本當に可愛いと思はれるなら、どうか私の子供等の、即ちお母さんの孫たちの成人のために倍舊の努力を以て生きて戴きたいのです。
 やさしい、不運な、かあいさうなお母さん、さやうなら。どれだけお母さんに逢ひたかったことか! しかし、感傷はもう禁物。強く強く、あくまでも強く、モジミに協力して子供等を(貴女の孫たちを)成長させて下さい。お願いします。

――僕は、これを読む都度、今年3月19日に天に召された母が、宣告された自身の筋萎縮性側索硬化症を「私の業」と呼んだことを思い出す――

山本幡男 遺書本文

[やぶちゃん注:山本幡男遺書のその一。遺書の総体は、先に示した冒頭に続く、「本文」と書かれた一通、「お母さま!」「妻よ!」「子供等へ」への三通から成る。]

 本文

 山本幡男の遺家族のもの達よ!
 到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。鉛筆をとるのも涙。どうしてまともにこの書が綴れよう!
 病床生活永くして一年三ヵ月にわたり、衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、思ったことの何分の一も書き表せないのが何よりも殘念。
 皆さんに對する私のこの限り無い、無量の愛情とあはれみのこころを一體どうして筆で現すことができようか。唯、無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を表し得るに過ぎないであらうが、ここは日本を去る數千粁、どうしてそれが出來ようぞ。
 唯一つ、何よりもあなた方にお願ひしたいのは、私の死によって決して悲觀することなく、落膽することなく意氣ますます旺盛に振起して、
  病氣せざるやう
  怪我をしないやう
 細心の注意を健康に拂って、丈夫に生き永らへて貰ひたい、といふことである。
 健康第一。私は身を以てしみじみとこの事を感じました。決して無理をしてはいけない。少しでもおかしいと思ったら、身體の具合を豫め病氣を防止すること。
歸國して皆さんを幾分でも幸福にさせたいと、そればかりを念願に十年の歳月を辛抱して來たが、それが實現できないのは殘念、無念。この上は唯皆さんの健康と幸福とをお祈りしながら寂光淨土へ行くより他に仕方が無い。私の希みは唯一つ、子供たちが立派に成長して、社會のためにもなり、文化の進展にも役立ち、そして一家の生活を少しつつでも幸福にしてゆくといふこと。どうか皆さん幸福に暮して下さい。これこそが、私の最大の重要な遺言です。

山本幡男 遺書冒頭

[やぶちゃん注:山本幡男遺書冒頭。これらの遺書の執筆動機は山本幡男の自律的な要請によるものではない。幡男は頭部よりも大きく腫れ上がった首の、その潰れた患部からの膿の死の臭いの中にあっても、幡男は固く帰国を信じていたからである。しかし、見舞った団本部初代団長瀨島隆三からの提案を受けて、昭和29(1954)年7月1日、佐藤健雄が「万が一、万が一を考えて、奥さんやお子さんたちへいい残すことがあれば書いておいてほしい」と断腸の思いで懇請した結果であった。この冒頭に七月二日のクレジットがあり、最後の「子供等へ」の遺書の末尾のクレジットも同じ七月二日である。山本幡男は激痛と衰弱と腐臭の中で、この凡そ四千五百字に及ぶ遺書を一日で書き上げたのであった。以下、これから示す遺書の全文を今、我々が読むことが出来るのは、この山本幡男の遺志を文字通り、心の文字として堅固に刻み込んで守った、仲間たちの存在あればこそなのである。彼らの超人的な暗誦力と復誦の努力、また、一部については秘かに暗誦者が書き記したものを着衣等の中に巧妙に細工して隠すといった懸命の努力によって、日本の家族の元へと、確かにもたらされたものなのであった。]

                       山本幡男 謹白

 敬愛する佐藤健雄先輩をはじめ、この收容所において親しき交りを得たる良き人々よ! この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、一字、一句も漏らさざるやう貴下の心肝に銘じ給へ。心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に傳へ給へ。七月二日

2011/08/27

裸木 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和29(1954)年冬。病床にあった山本幡男は、それでも収容所内に「日本文化研究会」というサークルを組織していた。以下、底本では会に参加していた野本貞夫の視点から、幡男がその会のある日の終わりに、話し疲れ、荒い息をしながらも、幡男が微笑を浮かべながら、
「ぼくの病室の窓から一本の裸木が見えましてね、その大木を見ていたら、こんな詩ができたんですよ」
と言って、次の「裸木」(はだかぎ)という詩を朗読した、とある。なお、連内での文字配りを整序するために、僕の判断で一部の平仮名表記を漢字に変え、ルビを排除してある。これが口誦されたものである以上、僕の仕儀は不当とは言われないと思う。「朱く」は「あかく」、「黄昏」は「たそがれ」、「沈默」は「しじま」と読んでいる。これはまるで漢詩を訓読したような重厚にして孤高な詩である。]

 裸木

アムール遠く濁るところ
黑雲 空をとざして險惡
朔風は枯野をかけめぐり
萬鳥 巣にかへつて肅然

雄々しくも孤獨なるかな 裸木
堅忍の大志 瘦軀にあふれ
梢は勇ましくも 千手を伸ばし
いと遙かなる虚空を撫する

夕映 雲を破つて朱く
黄昏 將に曠野を覆はんとする
風も 寂寥に脅えて 吠ゆるを
雄々しきかな 裸木 沈默に聳え立つ

極まるところ 空の茜 緑と化し
日輪はいま連脈の頂きに沒したり
萬象すべて 闇に沈む韃靼の野に
あゝ 裸木ひとり 大空を撫する

明日で僕の夏休みは終わる。明日、山本幡男氏の全遺書・辞世等を公開する予定である。

山本幡男、自著「平民の書」を語る

[やぶちゃん注:昭和29(1954)年冬。病床を見舞った野本貞夫に「ぼくの遺書なんですよ」と言って示したノート表紙には「平民の書」と記されていた。その直後に熱を込めて語ったとする幡男の言葉であり、彼の記した「平民の書」の思想的屹立点を髣髴とさせるものである。貞夫が暗誦し、後に記憶から復元して家族へと送った遺書を含む手紙の中に書かれていたものか。直接話法であり、底本の作者辺見氏の手も加わっているものとは思われるが、僕は飽くまで山本幡男の肉声としてこだわって引用、旧字で示した]。

「ぼくはね、人間が生きるということはどういうことなのか、シベリアにきてようやく分かってきた氣がするんだ。ぼくは、共産主義者でも、もとより右翼主義者でもない。野本さん、時代はね、ぼくたちがこうしているあいだにも、日々、確實に移っているんだよ。いまのぼくの考えを強いて命名すると、第三の思想と呼ぶのがふさわしかもしれない。右でも左でもない第三の思想、全體主義にあらず、個人主義にあらず、東洋でも西洋でもないんだ。おそらくそれは、いずれきたるべきものであり、創造されるべきものなのだと思う。僕はね、これを第三の思想と呼ぶ以外にいまは名付ようがないのですよ」

「終局に於いて必ず正しきものが勝つといふ信念だけはあへて人にゆづるものではない」 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和29(1954)年か。竹田軍四郎に山本幡男が手渡したメモの走り書きにある言葉。以上、辺見氏によれば先に掲げたものと一緒に竹田は『帰還の日まで没収されぬようにとズボンの縫い目にしまい込んだ』とある。]

終局に於いて必ず正しきものが勝つといふ信念だけはあへて人にゆづるものではない

山本幡男の語った九條武子及び夏目漱石への共感 

[やぶちゃん注:昭和29(1954)年か。竹田軍四郎に山本幡男が手渡したノートの切れ端に書かれていた一文。もうこの頃から幡男は徐々に会話が困難になってゆく。]

四十過ぎまで青年の氣持でゐた私も死といふ問題にぶつかつて無性に悲觀的になつた。
  多いなるものにひかれゆくわが足どりのたどくしさよ
と此歌をかかれた當時の九條武子の心境をおもんばかると共に、漱石の如きは四十二歳の時、
『小生はこれまで神佛など信じた事は無き之候。唯自分といふのだけを信じて暮して居り候。所が近頃その自分といふものがつくづく當にならぬことに氣がつき申候。この上は何を信ずべく候』
と述べた。後になつて學者の間では『之こそ東洋哲學の道の自覺者だ』と云々した。

教員免許状更新講習を終えての感慨

昨日、教員免許状更新講習を終了したが、総ての講座を通して僕が感じたことは唯一つ――現在の教育学はジャズの評論みたようなもんだ――という感慨であった。

僕が大学時分に受けた教育学の講座――今回の講習に比べれば遙かにつまらぬものだった印象はあるが――では、殆んど外来語を聞いた記憶がない。

ところが、今回の講座はカタカナの専門用語の嵐だった。アカウンタビリティだ、リテラシーだ、スキルだ、キャリアだ、ピースメソッドだ、レイマン・コントロールだ、PDCAサイクルだ、PDDだ、SNSだ――情報の講座の30代の若い講師の講義、これ本人が書いたら半分近くがひらがなカタカナで埋まるんじゃないかと思って、僕はブルったね。英語の苦手な僕は、その都度、英和辞典を引いて綴りと意味を確認したのだが、周りの連中は如何にも分かった顔してうなづいていた。――凄いね、今の教員は。僕はつくづく教員不適格者だという感を強くしたね――(半分、冗談、半分、本気)。

世が世なら講師は全員、国賊だね――(これはまず、冗談)

彼らは「法的拘束力」バキバキの高等学校学習指導要領の、「国語」の「第1款 目標」は何だか知ってるのか?

国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力を伸ばし心情を豊かにし,言語感覚を磨き,言語文化に対する関心を深め,国語を尊重してその向上を図る態度を育てる。

それを教える教育学の教授連が、カタカナばっかり使ってるようじゃ、高が知れるというもんじゃねえか。退職後は皆さん、ひらがなとカタカナで文章が書けちゃうジャズ評論家に転進出来ること、請け合いだ。――(これはモノホンの本気だ)

アスペルガーをアスペと言うのは言語道断だ(但し、僕がこれに不快を覚えるのは、恐らく、教授らのそれとは違う意味でだ。この短縮形に既に謂れなき差別の意識が潜んでいると僕は思うからだ)。しかし、それを言う前に、日本の「学習指導要領」を伝家の宝刀として振りかざす御用教育学者たちよ、まず、不勉強で不真面目な子供らにも、自己保身に汲々としている哀れな教師らにも、すんなり分かる「日本語」で講義をし給え! 以上!

昭和29(1954)年5月14日附家族宛 最後の自筆葉書 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和29(1954)年5月14日。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所から。家族宛。これが最後の自筆葉書となった。]

其ノ後ソチラノ消息ガワカラナイガ、一同、無事ニ暮シテイルココト思フ。顯一ハウマク東京大學ヘ入學シタカドウカト案ジテイル。何ハトモアレ、家族一同、病氣ヲシナイヤウニ、負傷(ケガ)ヲシナイヤウニ、特ニ、東京附近ハ交通頻繁デ事故ノ多イ土地ダカラ、注意シテ下サイ。ソシテ氣永ニ着實ニ生活スルヤウニ祈ツテマス。一月出シノオ母サンノ手紙デ勉ノ死ヲ知ツテドンナニ悲シク思ツタカ、想像ニマカセマス。モジミノ年頭ノ手紙ハ非常二明ルクテ喜ビマシタガ、勉ハ何トイツテモ可哀相ダツタ。
皆、幸福ニ仲良ク暮ラシテ下サイ。クレグレモ身體ヲ大切ニ。

アムール句会200回記念 二首 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和29(1954)年3月末。200回目のアムール句会が行われる。最早、病床重篤の山本幡男は参加出来なかった。句会の後に報告と見舞いを兼ねて、夜、森田市雄が訪れた際、森田に句会の間に出来たと言って幡男が示した二首。]

韃靼の野には咲かざる言の葉の花咲かせけりアムール句会

空前のシベリア句集を編むべきは春の大和に編むべかりけり

昭和29(1954)年3月8日 一首 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和29(1954)年3月8日のクレジットを持った一首。アムール句会の一人竹田軍四郎が見舞いに行った際、黙って示された薬包紙に鉛筆で書かれた一首。]

 病床有感

無理しても喉を通せと醫師のいふ味なき飯を今日も食ふべき

叙事詩一篇 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和29(1954)年、ソ連製ノートに記された叙事詩。詩中S画伯というのは満鉄調査部時代の上司で同じ収容所にいた佐藤健雄のこと。絵をよくし、ラーゲリで内で画伯と呼ばれていた。この詩は佐藤に宛てて書かれたものと底本にある。底本では途中、「われ唯おし戴いて反誦するのみ」の後に辺見氏の解説が入っているが、辺見氏の「この一文は、次のようにつづいている」という末尾の言葉を信じて(省略のないものと考えて)接合した。底本によれば、幡男は野本貞夫にも次のように語ったとある。
「野本さん、釋迦はね、世界最大のセンチメンタリストなんだよ。キリストは詩人なんだ。ぼくはね、なんのとりえもない凡人だけど、どんなときでもセンチメンタリストでありつづけたい。結局ね、パトスだけがわれわれ人間にとって最初の審判者であり、また最後の審判者なんだ。そう思えてきたよ」
と。]

春なほ寒き二月晝、宵闇の病床に
忽然として枕頭に夢の如く現れし人あり
半白の髯の滿顏にただよふ微笑は、ああ、これ正しく孔子なり
懷かしさのあまり叫ばむとすればその顏貌はいつしか變化して
われ―先輩S畫伯の温容に對す 二言、三言、談を交し
「これ見よ」と一片の紙をわれに渡し、S畫伯、飄然と去り行きぬ
そのやさしき後姿は正しく孔子に異らず
遺されし一片の紙に讀せしは「友情」の詩篇
果してS画伯の作品なりや、はた孔子の筆跡なりや
われ唯おし戴いて反誦するのみ
恐らくは病床にしばしば四聖を夢みるわれを憐れみし孔子の賜りし詩篇に非ざるか
われ屢々瞑目して四聖を思慕するに聖者の面目は何よりも先づその感情の豐富多彩に在り
見よ、出家成道に悉達多(シツタルタ)太子釋迦こそは、世界最大のセンチメンタリストなりしを
また野に咲く一本の白百合にもソロモンの榮華を揶揄するクリストは、いともやさしき詩人ならずや
ソクラテスはまた彼のハートもて論理し、一代の哲學を究めたり
而して我が孔子に至りては、その感情百花の如く繚亂多彩、枯渇せる道話學者到底捕捉しがたき大人格なり
例へば孔子の友情を見よ
君子ノ交リハ水ノ如シと述べたる孔子のセンスのいかに淸明なるか
君子ノ交リハ蘭ノ如シと譬へたる孔子の詩情のいかに豐富なるか
またかの 朋有り遠方ヨリ來ル 亦 樂シカラズヤ
に至りては、滿顏に微笑を湛へて珍客を迎ふる孔子の面貌をまのあたりに見る如く、なつかしくもなつかしく、したはしくもしたはしく
ああこの友あらば百萬人と雖もわれ行かむの感激を沸騰せしむるなり
見よ、孔子去つて二千五百年、孔明が三顧の恩に感動して「出師の表」を捧げしを始めとして歴史上いくたの大事業は多く孔子の所謂「知己の恩」を原動力として成就せられしを
 人生意氣ニ感ズ 功名誰カ論ゼン
孔子が教へたる知己の恩は――病苦に呻吟するわれをも奮起せしめたり
われ亦孔子の後輩 誓つて知己の大恩に報ひむと思ふなり

弟逝去の報を聞きて作れる哀傷歌三首 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和29(1954)年初旬か。母マサトから養子にいっていた弟勉の死を知らされて。哀傷歌三首。]

天地に唯一人なる弟の死ぬにもあはで遠くわが病む

禿げ頭もろ手にかかへ髯の男が今日はめそめそ泣きにけるかな

天さかる筑紫の國をいつ訪はむ我が弟のおくつきどころ

2011/08/25

山本幡男忌 / 海鳴り 山本幡男

山本幡男忌

昭和29(1954)年8月25日午後1時30分
咽頭悪性肉腫と化膿性癌細胞転移によりハバロフスク収容所第二十一分所内病室にて誰にも看取られずに逝去。

享年四十五歳。

遺体は解剖後、収容所から一キロ余り離れたロシア人墓地の隅に埋葬された。

そこには墓標番号「45」と書かれた白樺の墓標が立てられただけであった。

[やぶちゃん注:昭和29(1954)年2月下旬、ソ連当局への収容所仲間の請願が認められて山本幡男はハバロフスク中央病院への入院が許可されたが、収容所を出た翌日には再び戻って来た。咽喉癌性肉腫の末期で既に手遅れと匙を投げられたのであった。見舞いに訪れた野本貞夫に、幡男は書いた口語自由詩「海鳴り」を見せた。「小島大乘」は山本幡男のペン・ネームの一つ。故郷隠岐の島嶼と彼の惹かれていた哲学としての大乗仏教に因んだものでと思われる。私はこの詩が好きだ。「ろんろん」というオノマトペイアも、そのシベリアで見る隠岐の映像も、そして「母の乳房を思ふ存分吸つて見度い 海鳴りの音」という一行も、何もかも好きだ。]

 海鳴り   小島大乘

耳を澄まして聽くと海鳴りの音がする
ろんろんと高鳴る風の響き
亦(また)波の音
赤ん坊のときからその聲で目を覺まし
物心ついてからもその音に脅えた
海鳴りの響きだ!
闇を叫ぶ聲だ!
日本海から千粁(キロ)も離れた
シベリアの曠野の眞只中で
深夜――
私は遠い遠い海鳴りの音を聽く
窓打つ木枯(こがらし)よりも淋しく
亦懷かしいその響き!
海鳴りの夜の圍爐裏(ゐろり)は樂しい
自在鍵(じざいかぎ)の鍋には
烏賊(いか)と大根がふつふつと煮え
硝子瓶(ガラスびん)の二合の酒は火を透いて赤く
一家眷族(けんぞく)より集まつては啜(すす)り泣きまた笑ひ
幼い子供達には燒餠を配り
大人達はゆる/\と酒を飮み煙草を喫ひ
ふと話の途切れたときの淋しさを海鳴りはろんろんと障子(しやうじ)に響いて來る
母の乳房を思ふ存分吸つて見度い 海鳴りの音
友の手を力一ぱい握つて見度い 海鳴りの音
戀人の胸をかつしりと抱いて見度い 海鳴りの音
胸に溢れる慷慨(かうがい)をありつたけ吐いて見度い 海鳴りの音

鳴呼(ああ) 寒夜の病床に獨り目を覺まして
私は ろんろんたる海鳴りの聲を聽いてゐる
遠く追憶を嚙みしめてゐる……

遠きシベリアの地へ向けて――幡男氏の御冥福をお祈りします――

2011/08/24

教え子の今日のメール

教え子の今日のメール――

また、今度飲みに行きましょう。そして、先生、俺たちと同じ時間を生きようよ。

ありがとう!――僕は涙が出そうになった――

昭和28(1953)年初冬~翌年正月 家族宛来信二通 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和28(1953)年初冬から翌年正月にかけての来信二通。家族宛。ウラジオストク発俘虜郵便往復はがき。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所から。消息文中で自身の快復をしきりに記しているのは、勿論、家族に心配させないための方便で、幡男の病態は悪化の一途を辿っていた。モジミは大宮に転居、大宮聾学校に勤務して家計を支えていた。]

其ノ後皆サンノ無事ニ暮シテオリマスカ。私モ先ヅ先ヅ元氣デス。身體モ日一日ト良クナツテユキマス。御安心下サイ。オ母サンニモ喜ンデイタダケル日モ遠クナイデセウ。モジミノ健(ケナ)ゲナ努力モ報イラレル日ガ來ルデセウ。オ互ニ何ヨリモ健康第一ニ暮シマセウ。子供等ハ大事ナ成長期ニ父ガ居ナクテドレダケ淋シカツタコトカ、想像ニ餘リアル苦勞ヲシタコトト察シテヰマス。シカシ力強ク生キ拔イテユコウ。スベテヲ忘レテ、子供等ヨ、勉強シテ呉レ。必ズ幸福ナ日ガ訪レルコトヲ確信シテヰル。

   ◇

大宮市ノ方ヘ轉勤シタ由デスガ、實現シタカ、ドウカ、ソノ後ノ便リガ無イノデ松江アテニ此ノ葉書ヲ出スコトニシマシタ。イヅレ近日中ニソチラカラノ便リヲ受取ルコトト思ヒマス。
私ハ、健康モボツボツ快復シテユキマスカラ、御安心下サイ。イヨイヨ冬ニナツタガ、顯一君ハ一所懸命ニ勉強シテヰルコトヲ想像シマス。何トイツテモ大學ノ入學試驗ハ競爭ガ激シイカラ、特に語學ノ勉強ニ精ヲ入レテ、必勝ノ信念ヲ以テ受驗準備ヲスルヤウニ。
皆サン、大事ナ時機デスカラ一層健康ニ氣ヲツケテ、元氣ニ暮シテ下サイ。皆サンガ幸福ニナル日ヲ期待シテ、私ハ養生ニ務メテヰマス。デハ明ルイ希望ヲ以テ。サヨナラ。

   ◇

新年オ芽出度ウ。家族一同、元氣デ正月ヲ迎ヘタコトト思ヒマス。希望多イ年ノ始メニ、皆サンノ幸福ト健康ヲ祈リマス。病氣ヲシナイヤウニ、怪我ヲシナイヤウニ。特ニ、顯一君ガ東京大學ノ入学試驗ニ合格スルヤウニ。注意シテオキマス。試驗ノ時ニハ、ナルベク文字ヲ分リ易ク、キレイニ書クヤウニ。ソシテ受驗番号ノ記入ヲ忘レナイヤウニ。ヨク落着イテ、実力ヲ百パーセント出シテ下サイ。松江ノ高校デモ大イニ期待シテヰルトイフカラ、是非合格シテ下サイ。キツト大丈夫ダト思ツテヰル。厚生君ハマダ先ガアルカラ、何科ヘ行クカハ後デ決メマセウ。トニカク大宮ヘ轉任デキテ何ヨリデシタ。皆サン、ゴクラウ、ゴクラウ。私モ元氣ニナラフト一所懸命ニガンバツテヰマス。堀場君ニモヨロシク言ツテ下サイ。サヨナラ。

明日――8月25日――山本幡男忌

2011/08/23

エルモライ最後の写真帖13

2011年8月23日 秋桜

Cosmos

昭和28(1953)年5月 山本モジミ宛 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和28(1953)年5月、山本モジミ宛。ウラジオストク発俘虜郵便往復はがき。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所から。当時、松江市内にいたモジミからの小包への返礼。文中、書くことが好きな夫のためにモジミが入れた文房具類を断っているのは、収容所の担当者から受け取る際、目の前で没収されてしまうからである。]

着イタ、着イタ、小包ガ無事ニ着イタ。五月十三日ノ夕刻臺一回ノ小包確カニ受領シタ。萬感胸ニ迫リ、唯々感謝アルノミ。一家ソロツテ撮ツタ冩眞を見テドンナニニ嬉シカツタコトカ! 殊(コト)ニ顯一君ハスツカリ大キクナツテ見違ヘテシマツタヨ。厚生君モ誠之君モソレゾレ成長シタネ。ハルカモ立派ナ小学生ニナツテヰルデハナイカ。オ祖母(バア)チヤン、母(カー)チヤン皆元氣サウデ安心シタ。心盡シノ靴下、手拭、スエーター、スルメ、ヤウカン、何モカモ有難ウ。シカシ今後ハ決シテ心配イラヌカラ小包ナド送ラヌヤウニオ願ヒスル。殊ニ文房具類ヤ紙、書キ物ハ送ラナイヤウニ。送ツテモ無駄ニナルカラ。臥床中ニ受取ツタセイカ小包ガ實ニ嬉シク有難ク毎日三―四回冩眞ヲ出シテハ見テヰル。幸アル日モイヨイヨ近サウダ。ミンナ丈夫デ生キテクレ。  幡男

如月や嶺々を靑しと見る夕べ 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和28(1953)年2月、収容所内で病床にあった同志野本貞夫への、幡男の見舞いの缶詰を包んでいたノートのザラ紙に書かれていた一句。辺見氏によれば、二月のシベリアは厳寒の中にも山々がほんのりと青みを帯びて春の到来を告げる頃で、本句は自分たちの抑留の冬もそう長くない、帰国の日も近いという励ましの思いを込めたものと解釈されている。至当と言うべき解釈である。]

如月や嶺々を靑しと見る夕べ 北溟子

1952年10月10日筆 妻山本モジミ宛葉書 第五来信 山本幡男

[やぶちゃん注:山本モジミ宛五通目。ウラジオストク発俘虜郵便往復はがき。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所から。モジミからの返信が幡男の手元に配達されたのは昭和28(1953)年正月も過ぎてからであった。第一通目の発信から半年後のことであった。本文中の「勉」は養子に行った弟、「新津」は妹ユキノの夫と底本に注されている。これによって底本には総ての幡男来信が所収されているわけではないことが分かる。]

一九五二年十月十日。コレデ第五回目ノ通信デアル。マダ一回モ返事ヲ貰ヘナイノデ、ソチラノ樣子ガ少シモ判ラナイガ、オ母サンヲハジメ、皆元氣ニ暮シテヰルモノ想像スル。僕ハ相變ラズ壯健ニ暮シテヰルカラ先ヅ安心ナサイ。一番氣ニカカルノハ子供タチノ安否、ソノ教育ノコトダ。身體ニ氣ヲツケテ怪我ヤ病氣ヲサセナイヤウニ、才能ニ應ジテ良教育ヲシテヤツテクレ。生活ハ樂デナカラウガ。勉(ツトム)ヤ新津ヤ、別府ノ叔父ノ援助デヨク一人前ノ立派ナ人間ニナルヤウニ教育シテヤツテクレ。僕モ色々ナコトヲ體驗シ、學ビ、人道トイフモノニ目覺メテヰル。再會ノ日モ遠クアルマイ。皆サンニ山々、ヨロシク傳ヘテ呉レ。

寒月は滿つれど風の哭く夜かな 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和27(1952)年初冬、市瀨亮氏に続いて元歩兵三七七部隊大佐菅井アムール句会会員須貝良民氏、逝去。その折り、秘かに開かれたアムール句会で幡男の追悼句。]

寒月は滿つれど風の哭(な)く夜かな

里羊忌は冬曇る日と定まりし 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和27(1952)年初冬、満州鉄道北安管理部長として山本の旧知であったアムール句会会員市瀨亮氏(俳号里羊)、逝去。その折り、秘かに開かれたアムール句会での幡男の追悼句。]

里羊忌は冬曇る日と定まりし

湯上りの匂ひも混じる夜學かな 山本幡男

[やぶちゃん注:昭和27(1952)年秋、ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所風呂場脱衣所にて秘かに開かれたアムール句会で一句。この年の8月の収容所からの日本人脱走事件を契機に、監視体制が強化され、収容所内での如何なる趣味サークルも禁じられていた。]

湯上りの匂ひも混じる夜學かな

消印昭和27(1952)年7月29日妻山本モジミ宛葉書 ウラジオストク発俘虜郵便 第一来信 山本幡男

[やぶちゃん注:妻山本モジミ宛。消印昭和27(1952)年7月29日。ウラジオストク発俘虜郵便往復はがき。差出人住所ソ同盟ハバロフスク市6125-1(ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所の住所である)。配達されたのは11月末。本文中の「顯一」は山本幡男氏の長男。ちなみに現在も76歳で御健在、仏文学が御専門で立教大学名誉教授であられる。山本顕一氏のtwitterによれば、実に昨日、2011年8月22日に、山本幡男氏の死から57年目、初めて父親の墓参にシベリアに向かわれることがツィートされてある。祥月命日8月25日に合わせてのことと拝察する。戦後は顕一氏の中でも決して終わってはいない。]

先ヅ私ガ元氣ニ暮シテ居ルコトヲオ知ラセシマス。御安心下サイ。唯心配デナラナイノハ留守ノ家族ヤ親類ノ人々ノ安否、殊(コト)ニ顯一(ケンイチ)ハジメ子供達ガドウシテ暮ラシテヰルカ、一人前ノ教育ヲ受ケテヰルカ氣ニカカツテナリマセン。母上ヤ貴女ノ御苦勞ハ重々察シマス。明ルイ希望ト確信ヲ以テ生キ拔イテ下サイ。皆樣ニヨロシク。

奇しくも、ソ連首相ヨシフ・スターリンは、66年前の昭和20(1945)年の今日、8月23日、日本軍捕虜50万人のソ連移送と強制労働利用の命令を下したのであった。

2011/08/22

ブログ310000アクセス記念 芥川龍之介 凶 / 同縦書版

2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログ310000アクセス記念として芥川龍之介「凶」縦書版と合わせて公開した。今回のテクストには誰にも負けない僕のマニアックな注が附してある。本文の3倍を有に超える注だ。ご笑覧あれ!

また、今日、僕が右腕を折った際の教え子が美味しいワインとチーズを贈ってくれた――そうだね、君たちのことを忘れていた――僕なりに、今を乗り切らなくてはいけないね――慶之君、ありがとう!

指 山本幡男

昭和26(1951)年、ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所にて。山本幡男が収容所内で秘かに始めていた回覧雑誌『文藝』に載った幡男の五七調文語詩。

 指

わが指は
節くれだちて皺(しわ)よりて
老いにけらしな
若き日は
品よく伸びて美しく
埀乳根(たらちね)の母はも
己(おの)が指に似たりと
愛(め)で給ひしが
生業(なりはひ)の筆持つ指に
筆胼胝(ふでだこ)生えし
ニコチンの沁み入る指は
黄色く染まり
この皺に鏝(こて)かけて延す術(すべ)なし
この手もて
親子 姉妹(はらから) 十人の
生活(たつき)ささへし現世(うつしよ)の
苦を刻みたる皺なれば
うたても またいとほしく
時折は撫でて見つる

底本で辺見氏は『この詩は、ラーゲリの多くの人びとに愛誦された。「指」を口ずさみながら、みんなは故郷の父母や、兄弟姉妹たちへと思いを馳せたりした』と記す。

2011/08/21

小さきをば子供と思ふ軒氷柱 山本幡男

昭和26(1951)年、ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所にて。

小(ち)さきをば子供と思ふ軒氷柱(のきつらら)

山本幡男には4人の子供がおり、応召時、末娘は未だ一歳であった。

エルモライ最後の写真帖12

2011年8月21日 テレジア公爵夫人様、イチゴミルクヲソチラノ地ノ賓客デアラセラレル山本幡男様ト御賞味下サイマセ

Itigo

句について 山本幡男

昭和25(1950)年か。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所にて。収容所内で山本幡男が作っていたサークルであるアムール句会会員に対し、幡男が俳句についての心構えについて、セメント紙に書いて回覧した、その文章。

 句について

 高山樗牛は『文は人なり』と言つた。私はこれに倣つて『俳句は人なり』と言ひ度い。俳句を磨かうと思へば先づ人を磨かねばならぬ。自分の拙(つたな)い俳句を見る度に、私は言ひ知れない淋しさを覺える。樣々な色の繪具を便つてやたら塗りまくつて美しい繪は出來ない。一本の鉛筆で眞に迫つた面白い繪が描けることもある。
 俳句にして同樣である。美辭麗句をもてあまして空しく惱む愚を去つて言葉を縱横に驅使する事を學ばねばならぬ。平凡な何の變哲もない言葉の集りがすばらしい俳句を形づくる事があるではないか。道具美事だが腕は一層大事である。
 良い俳句とは何か。格調のすぐれて整つた面白い俳句、魅力の多い句にある。俳句の面白さは、①内容の深さ、②映像の鮮やかさ、③連想の豐さ、④餘韻の大きさ、⑤思想の高さ等々である。要約、音感的に魅力のあるもの、印象が鮮明で實感に迫るもの、抽象的に言へば美と眞實のこもつたものである。勿論、これは俳句だけに限つた事ではない。
 再び言ふ。良い俳句とは何か。一度口誦み、もう一度口誦みたくなる俳句一讀して忘れがたく記憶に殘る俳句、いつ思ひ起しても樂しめる俳句、後味のすばらしくいい俳句。千句の中のたつた一句でもよいからさういふ俳句を作りたい。
 寫生といふ事を皮相に解釋してなんでもかで見たままの事實を句にして萬事事了れりとする初心者が多い。事實より眞實へ、現象より本質へとゆかねばならぬのである。正しく言へば事實を通じて眞實を、現象を通じて本質であらう。

獅子舞のはやしもつひに笑ひけり 山本幡男

昭和26(1951)年1月1日、ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所にて。収容所内食堂にて開かれた山本幡男が作っていたサークル、アムール句会新年会での一句。北溟子は当時の幡男の俳号。

獅子舞のはやしもつひに笑ひけり 北溟子

底本の辺見氏の叙述によれば、この『句は、トロンコ、トントンというかけ声もリズミカルに獅子舞が食堂にやってきたときの即吟』とあり、獅子の『胴体は白い敷布に青の絵の具で唐草模様が描かれていた。二人組の獅子舞の呼吸はぴったりだったが、いなせな股引(ももひき)と白足袋の草履(ぞうり)の代りに袴下と防寒服(カータンカ)がのぞいているといういかにもラーゲリらしい獅子舞に、みんな大笑いした。それにつられて獅子舞の囃方(はやしかた)まで笑いだいた様子をよんだもの』とある。

コスモスに透く陽は遠き嶺の上   山本幡男

ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第六分所にて。山本が地面に書いた一句。

コスモスに透(す)く陽(ひ)は遠き嶺の上

カテゴリ 山本幡男 創始 / 山本幡男 清水修造追悼歌二首

山本幡男氏のテクストを公開するために、カテゴリ「山本幡男」を創始する。

山本幡男

明治41(1908)年9月10日 島根県隠岐郡西ノ島町生。小学校校長であった父の6人兄弟姉妹の長男。

大正15(1926)年4月 東京外国語学校(現・東京外語大学)露西亜語科入学。

昭和3(1928)年3月15日 共産党員及びシンパ一斉検挙の際、幡男も街頭連絡の途上で逮捕。卒業を目前にした東京外国語学校から退校処分を受く。後、父、病死。石炭商を営んでいた叔父のいる福岡県戸畑に移住していた家族(母と4人の妹)の元に帰り、叔父の商売を手伝う。

昭和8年(1933)年1月 隠岐の小学校教師、是津(ぜつつ)モジミと結婚。

昭和11(1936)年3月 満州鉄道入社。

昭和11(1936)年6月 ロシア語の実力を買われて大連の調査部北方調査室に入る(単身赴任、翌年モジミを呼び寄せる)。後に新京調査局第三調査室に転任。

昭和19(1944)年7月8日 二等兵として招集。虎林にて初年兵訓練を受く。36歳。

昭和20(1945)年1月 一等兵としてハルビンの関東軍特務機関に配属。

昭和20(1945)年6月 妻モジミ、ハルビンにて幡男と面会。これがモジミと幡男の邂逅の最後となった。

昭和20(1945)年8月 敗戦と同時にソ連軍に抑留。その後、各地のラーゲリを転々とする。

昭和29(1954)8月 25日午後1時30分 咽頭悪性肉腫・化膿性の癌細胞転移によりハバロフスク収容所第21分所内病室にて誰にも看取られすに逝去。享年45歳。遺体は解剖後、収容所から一キロ余り離れたロシア人墓地の隅に埋葬された。墓への氏名・死亡年月日の記入は許されず、墓標番号「45」と書かれた白樺の墓標が立てられただけであった(同志瀨崎清は監視兵の目を盗んで氏名と死亡年月日を墓標の根元に鉛筆で書き入れたという)。

――死後――

昭和31(1956)年12月26日 シベリヤからの最後の引上げ船興安丸、舞鶴に入港。そこには山本の収容所内の友人らによって句読点一つ一つまで『暗誦された遺書』も乗っていた。

昭和32(1957)年1月中旬 帰還した幡男の同志山村昌雄によって第一号の記憶された亡き山本幡男氏の遺書が妻子の元へと届けられた。十日後、同志野本貞夫から記憶から書き起こされた遺書が届く。その後、同志後藤隆敏・森田市雄から同じく封書で、五番目の遺書は同志瀨崎清が持参した。それから半年後、同志新見此助から小包で届いている。

昭和62(1987)年 同志日下齢夫から最後の第7番目の遺書がモジミの元に届いた。実に山本幡男の逝去から33年目の夏のことであった。

以下、順次公開する山本幡男氏のテクストは、現在、辺見じゅん著「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」に記載されたものしか手に入らない(僕は今夏、隠岐の西ノ島の資料館で山本氏のことを初めて知ったが、つくづく展示資料を筆写してこなかったことが悔やまれる)ので、今後の本カテゴリのテクストは全てそれを底本とするが、時代背景を考慮し、恣意的に正字に変えたこと、字空け等は底本に従わず、僕の判断で挿入してあることをお断りしておく。

スペルドロフスク収容所にて。酔ったソ連人の運転するトラックから崖に転落して亡くなった同志清水修造氏の追悼式にて、山本幡男が絶唱した七五調追悼歌二首――

古里遠く 異國(とつくに)に 君若くして みまかりぬ
夢に忘れぬ たらちねの 姿を永遠(とは)に 慕ひつつ

寒風(さむかぜ)狂ふ 北の涯 君若くして 世を去りぬ
暗き戰(いくさ)の 犠牲(いけにへ)に 集ひてこゝに弔はん

2011/08/20

検索ワード「免許状失効退職者 27名」で僕のブログを見に来た奴に告ぐ

あんたがどんな興味で来たか知らないが、言っとくぜ! 俺と違ってな、妻は生徒や同僚に惜しまれて教員を辞めたのだ! 変形股関節症で、今はくの字になって歩いてるんだ! 12時間の免許更新単位もとったが、残りが体力が続かねえから、子供たちの授業に専念したんだよ! 俺と違って、かみさんにはな、同僚や管理職からも、なんとか失効しないような形でという優しいアプローチさえあったんだ! 世の中、俺を含めて下らない「教師」がゴマンといる、のにだゼ! お前もよく考えるがいいゼ! そうして興味本位の検索なら、俺のHPやブログに、二度と来るな! 俺はお前みたような奴らが大嫌いなんだ! 勝ち組とか、バスに乗り遅れたとか言いやがるお前らがだ! 俺はお前らの腐りきった腐臭のよまい言葉を、毎日、聞き飽きてるん、だ、よ! 糞ども! 死ねや! セシウムを吸いながら政治家を夢見るような馬鹿ギギハガチどもが!!! 生き返らないようにずたずたに殺してやってもいいんだゼ!

新編鎌倉志巻之三 全テクスト化及び注釈完了

「新編鎌倉志巻之三」の全テクスト化及び注釈を完了した。右腕の悪化の中で、この夏の大きな目標をそれなりの達成感の中で成し遂げることが出来た。励ましの言葉を掛けてくれた何人かの教え子諸君に心より感謝の意を表する。ありがとう。

新編鎌倉志巻之三 常楽寺 木曽塚

「新編鎌倉志巻之三」の常楽寺、木曽塚を以って終了。木曽塚の注では僕にとって鎌倉史中の悲恋中の悲恋として哀しくも忘れ難い、頼朝の娘大姫と木曽義仲嫡男清水冠者義高の悲劇を存分に書いた。お読みあれかし。

エルモライ最後の写真帖11

2011年8月20日6:29  農園ノ朝――或日ノ事デゴザイマス。御釋迦樣ハ極樂ノ蓮池ノフチヲ、獨リデブラブラ御歩キニナツテイラツシヤイマシタ。池ノ中ニ咲イテヰル蓮ノ花ハ、ミンナ玉ノヤウニマツ白デ、ソノマン中ニアル金色ノ蕊カラハ、何トモ云ヘナイ好イ匀ガ、絶間ナクアタリヘ溢レテ居リマス。極樂ハ丁度朝ナノデゴザイマセウ。――テレジア公爵夫人ノ思ヒ出ニ――

Hasu

エルモライ最後の写真帖10

2011年8月20日 腹ヲヘラシテ鼻提灯出シ乍ラ牧草夢見ル狸13匹

Ta1

オ腹イッパイ

Ta2 

2011/08/19

新編鎌倉志巻之三 常楽寺 蘭渓道隆 竺仙梵僊 定規

「新編鎌倉志巻之三」の常楽寺の蘭渓道隆と竺仙梵僊の定規をアップした。二人の花押、これまたお洒落! さても、どっちがどっちだ?

BousennDouryuu

この定規は注にやや苦労した。不詳な箇所もある。識者の御教授を乞うものであるが、その分、自在勝手な想像妄想を逞しくしたから、それなりに面白く仕上がっていると思う。ご笑覧あれ。 

2011/08/18

エルモライ最後の写真帖9

2011年8月18日 子ダヌキ13匹 儂ハ牧場デイットウ好キジャッタンハ実ハタヌキジャッタ――

Tanu

2011/08/17

教員免許状更新講習で得た数少ない貴重なる教訓3つ

1 絶対評価と観点別評価の導入によって、とっくの昔から(呪文のように何遍も誦える法的拘束力という語を杓子定規に捉えるなら僕が教員になった時からずっと、現実的には23年前から)あらゆるテストや評価の平均点を生徒に伝えてはいけない、出してはいけないということ。

2 大災害時の避難所となる時の危機管理のために、部外者の職員室・校長室・事務室等への部外者の入室を禁ずる張り紙を各学校はしなければならないこと。

3 教員免許講習では、如何なる講座に於いても、最初に、最後の認定試験を心配して事細かに質問する極限値馬鹿教師が必ずいっぱいいること。

1で「法的拘束力のある」学習指導要領に則って「正しく」平均点を算出していない教員は全くいないと断言出来る。ということは全国の教員が伝家の宝刀に反しているのだから立派に愚劣な教員不適格者であり、即刻、クビにすべきであるということになる。そうして大学の教育学の先生方が自律探求型の授業を出前して全国の子供たちに理想の授業をすればよろしい。それで日本の教育は磐石だ。2は平常時自己保全危機管理レベルの問題であって、現実的な大規模災害時の危機管理から言えば笑止千万である。目の前に死にかけた人を目にして救いを求めに職員室に飛び込んで来た部外者に、体育館が寒くて凍えて死にそうなんですと訴えに入って来た被災者に、開口一番、「誠に済みませんが個人情報が一杯御座いますこの職員室には部外者の方は立ち入れないことになっています。そう張り紙がしてあると思いますが、目に入りませんでしたでしょうか?」と慇懃無礼に言える奴は教師以前に、人間じゃねえな。1も2も解説する教授は「いいですか。学校に帰ったら必ず皆さんに伝えてすぐにでも提言して下さい。」と念を押した。言っとくが至極、真面目にだ。それを聴きながら僕はゲーデルの不完全性定理を思い出していた。一つの系の中で個々の論理式が無矛盾であれば、その系全体の誤謬(偽)を我々は認知することは出来ない。

3は言わずもがなだね、普段は生徒においらが大将で試験をして当たり前の面をしているくせして、ああいう場で鉄面皮(おたんちん)に平然とあんなことを質問出来ちゃう輩こそ、正真正銘厚顔無恥破廉恥オセンチ馬の糞の教師不適格者だ。鮮やかに落第とすべきであると僕は思う。これだけでも講師の評価作業は楽になるゼ。言っとくが僕は教師適格者だなんて全く以って思っていない。ついでに言えば試験も字数が制限されて書きたいことの半分も書けなかったが、それでも落第したとしても全く僕には問題ない(3年間で全国で更新試験に落ちた奴はいないんじゃないかと思うが。僕はその名誉ある一号になりたいぐらいだ)。教員免許の更新なんぞ、僕は実は確信犯で拒否したい口だからね。じゃあ、何故受けたかって? 職場に迷惑がかかるし(今夏は免許状更新に関わる厳重なある種の調査が各職場の管理職に厳命されたらしいゼ)、妻(僕の妻は全国で27名しかいない免許状失効退職者の一人なのにね)が受けろと言ったからさ。それだけのことだ。

エルモライ最後の写真帖8

2011年8月16日 送リ火ノ夕ベ テレジア公爵夫人ノオ帰リヲオ送リスル道スガラ コルジセーヴァ伯爵夫人ノ農園ニテ魂送リノ白蓮ヲ見ル

Koru

2011/08/16

送り火

火烟りを煽ぐは母の手のかたち

2011/08/15

反復する下宿夢

僕には長い年月、反復して何度も見る夢がある。本未明も、それを見た。

今の僕である。ところが訪ねた場所は、36年前、大学一年の時に一年だけ居た渋谷代官山の三畳のボロ下宿だ。

そこには何と36年の間、僕の持ち物や本がそのまま放置してあるのだ。

[やぶちゃん注:ここまでがこの夢のマニエリスムである。この後は毎回バリエーションがあり、今日のパターンは今までに見られない展開を示した。]

下宿の老婆に平身低頭して、すぐに運び出しますからと答えるが、僕は今、右腕が利かないから、内心、どうしたものやら途方に暮れているが、手伝いますと数人の若者が来る。彼らは皆、僕の昔の教え子(高校生のままの)である。書籍は彼らに頼み、男子生徒にダンボールの手配を、女子生徒に本の棚卸しなどを頼む。

僕はとりあえず、不自由な右手で文房具や小物をナップ・ザックに押し込んでいる。

ところが、机の引き出しを開けてみると、何故か北海道の縄文・弥生時代の遺物とおぼしい小型の円盤状女面土器や手形・足形・環状土器の夥しいコレクションが出てくる。僕はその幾つかを選び出し、後はゴミ箱に捨ててまおうとした。そこに下宿のステテコ姿の老主人が現われ、口角泡を飛ばしながら「これは貴重なものだ。高く売れるぞ!」と頻りに惜しがる。爺さんは、俄かに指揮者となって荷物のまとめを手伝い始める。

その時、廊下を学生服やセーラー服を着た地方の学生が、荷物を持って賑やかに通るのが見えた――僕はその時、しみじみ思ったのだ……

『ああ、僕の後釜たちがやって来たんだな……みんな純情可憐な表情をしているな……さあ、彼らのためにも、僕はこの部屋を明け渡さなきゃいけないんだ……』

今日と明日は教員免許状更新講習である。僕には何となしに、この夢の意味が分かったような気がする。

2011/08/14

新編鎌倉志巻之三 円覚寺 終了

「新編鎌倉志巻之三」の円覚寺を終了して、常楽寺に入った。僕の地元、大船である。巻之三も先が見てきた。今月中に完全公開が出来そうだ。

また、今月中に310000アクセスに達するものと思われる(今現在のアクセス数308375)。幸いにして、記念テクストは用意出来ている。

右腕の不具合が本格的になってきたし、義母の容態も悪い。妻も看病に名古屋へ行ったきりだ。それでも最近、別なあるテクスト作業をまたまた目論んではいる。腕の続く限り、頑張ろう――

エルモライ最後の写真帖7

2011年8月14日 テレジア公爵夫人ノオ帰リニ合ワセテ咲カセ申シ上ゲタ黒薔薇

Br

エルモライ最後の写真帖6

2011年8月14日 テレジア公爵夫人ノオ帰リヲ祝ウニギヤカナ朝ノ牧場Bon

迎へ火

   母の新盆に

迎へ火や茄子の肌への汗の跡   唯至

2011/08/13

「鎌倉攬勝考巻之九」縦書版

「鎌倉攬勝考巻之九」縦書版を作成した。

新編鎌倉志巻之三 円覚寺 更新 佛光禅師塔銘 書き下し文語注附 

「新編鎌倉志巻之三」の円覚寺を、佛光禅師塔銘まで更新した。この無学祖元の伝記風の銘、注には苦労したが、頗る面白い。銘が、というより祖元の生き様が、禅機に満ちていて面白いのだ。是非、お読みあれ。

2011/08/12

エルモライ最後の写真帖6

2011年8月12日 テレジア公爵夫人ノタメノ薔薇園

Barahahahe

鎌倉攬勝考卷之九 完全テクスト化終了

「鎌倉攬勝考卷之九」の完全テクスト化を終了した。僕がこの巻を一番公開したかった理由は――最後のやぐら群のパートがあるからである。僕は鎌倉のやぐらが大好きだ。この画像は、その大好きなやぐらの、原像を伝えてくれる、唯一のまとまった最古の記録なのである――

2011/08/10

エルモライ最後の写真帖5

2011年8月10日 テレジア伯爵夫人遺愛ノアジサイ

Ajisai

後鳥羽院遠島百首より

里とほみきねが神楽の音すみておのれも更くる窓の灯

2011/08/09

エルモライ最後の写真帖4

2011年8月9日昼下ガリ ヒマワリ

Himawari

2011/08/08

後鳥羽院遠島百首より

遠山路いくへもかすめさらずとてをちかた人のとふもなければ

エルモライ最後の写真帖3

農園 2011年8月8日 イチメンノナノハナ

Itimennnonaohana

後鳥羽院 恋

思ひつつ経にける年のかひやなきただあらましの夕暮の空

2011/08/07

嘘つき

僕が

あらゆる人々に燃やした

愛や憎しみや哀しみや悦びが

僕の生きる意味そのものである。

だから僕には何の悔いもない――

誰もが当たり前に思うように少しだけ思うのは

もう少し違った生き方はあったのかもしれないということ――

あの時……あの時……あの時……

氷見の神社……気多神社の貯水池の山……江ノ島の橋……港の見える丘……森戸海岸……能見台を下った公園……夜の横浜港……

その瞬間は永遠だった――

でも、それは誰も同じことなのだ――

あなたも……あなたも……あなたも……

エンドレスなんてお綺麗ごとじゃない? いや 僕には永遠だ――

そうして多分、僕は誰より幸せだ――

いや

幸せは誰彼と比較するもんじゃない……

僕はいつでもカルナバルの丘に「君」を抱いて登ろう……

祝祭と嫉妬と神罰の投石を受けて……

君と龍舌蘭の蕚に抱かれよう――

そんな覚悟ぐらいないのに

文学を語るなんて

それは

とんでもない嘘つきだもの……

エルモライ最後の写真帖2

ミクーシ農園牧場ニテ 2011年8月7日朝 アルパカ5頭 ブタ1頭

Nouen2

2011/08/06

ひとりだけの水族館 最終水槽 ひとりだけの部屋

ひとりだけの水族館 最終水槽 ひとりだけの部屋

Hitoridakenoheya

ここはね――ヤン・シュヴァンクマイエルの後裔にしてエリック・サティの画師――野山映氏のアニメーション「ひとりだけの部屋」の題名を冠した最後の水槽だ。ひとりぼっちのヤドカリの――「僕」の水槽なんだ――ここはね、「僕」ひとりだけの部屋だ――ヒトデたちはそれぞれに李徴や李賀や槐多や龜之助といった有名な詩人だったり画家だったりするんだけど、みんな偏屈で「僕」の話し相手になんかなってくれやしないんだ。ほら、「ひとりだけの部屋」にもブンブン飛ぶ虫はいたじゃないか。あれみたようなもんさ――だから「ひとりだけの部屋」でも、まんざらおかしくはないんだな――

……どう? 君? 実は「僕」のこの水族館はここで行き止まりなんだよ……入り口はもうパートのおばさんがとっくに閉めてる頃なんだ……閉めていいって、僕は僕の鍵で出るからねと伝えたからね……さあ、君……「僕」のこの「僕」だけの水槽に……僕と一緒に……入らないかい?…………

少年、突然、無言のまま、両手でステンレスの水筒を振り上げると、水槽に思い切り叩きつける。
水筒は空しく跳ね返って、床に転がる。そのステンレスの表面に映る「ひとりだけの部屋」の明かり。(F・O)

翌朝、パートのおばさんがやってきて、いつもの通り、最後の水槽の部屋まで見回りをしてみた。
特に変わった様子はなかった。
最後の部屋も、いつもと変わらずヤドカリが一匹だけ蠢いているばかりだった。
ただ、見かけないステンレスの水筒が床に転がっていた。
おばさんは大きな欠伸をすると、忘れものらしいその水筒を取り上げると切符売り場に戻って腰をかけた。
水筒は切符売り場の窓の口の内側の脇に、客から見えるように置かれた。おばさんの手書きのおかしな日本語を書いた紙が貼り付けられて――

――『忘れられたもの』――

そうしておばさんはその日の午後、館長の男が行方知れずになったことを知った。

       ひとりだけの水族館 完

追記:本作は、2011年9月末日で終了する「ハッピー・アクアリウム」への僕なりの個人的なオマージュであって、誰かに読んでもらいたい訳ではない。この3月の母の死以降、ある不思議な逃避的意識がこの他愛もないアプリに向かって異様な空間形成願望を働かせたことは事実である。もっと下らないアプリはゴマンと生き残っているのに、これが消えるのは少しばかり、淋しい気もする。一応、上にリンクは張っておくが、この僕の水槽を直に覗くにはミクシイのマイミクであり、なおかつ、アプリに参加する必要がある。今更始めても二月足らずで終了するのだから馬鹿馬鹿しいことは請け合いである。

ひとりだけの水族館 第5水槽 死なない蛸

ひとりだけの水族館 第5水槽 死なない蛸

Sinanaitako

この水槽には二匹のカニ以外に何にもいないって?

いや、いるんだな、シナナイダコというんだ。岩の上のヤツかい? いや、あれは岩の上の作り物だ。
学名はない。未だ誰も発見していないからさ。
完全に透明で、如何なる光線を以ってしても、人間には可視化出来ないんだよ――

あの沢山沈んでる瓶は何かって?

あれはね、このシナナイダコを幻の中で直感した詩人が、この水槽には確かに蛸がいる! と言って投げ込んだ漂流瓶なんだ。

僕はその詩人に敬意を表して、この水槽を残しているのさ――

その詩はこうだ――

死なない蛸

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。

萩原朔太郎という詩人の詩さ……うん? ほう?! 朔太郎を知ってる! これはますます僕と似てるねえ!――

ひとりだけの水族館 第4水槽 金城哲夫沖繩水族館

ひとりだけの水族館 第4水槽 金城哲夫沖繩水族館

Kinjyou

ここには沖繩と本土の架け橋になろうとして志半ばに逝った金城哲夫さんという人の夢の水槽だ。ここにいる多様な暖海性の魚には総て「ウルトラQ」に始まる金城さんの世界の住人たちの名前がついている。
怪獣は好きかい? そう! それじゃ、この水槽はじっくりみなくっちゃ! 僕もこの年になっても、大好きさ! 気が合うね! 厳密に言うと金城さんの関わっていない作品の怪獣の名も付いているけれど、これは僕の好みなんだな。僕の少年時代へのオマージュなのさ――
人間に恐れられ嫌がられ、そうして葬られてゆく怪獣たち――彼らを創り出した金城さんは、実は心から彼らを愛していたんだよ――

あえて言うならその命名や交配には僕のこだわりもあるんだ。例えばね――
ヒトデの愛称はペスターだし――

マンジュウイシモチの善玉有翼竜リトラ♀のお相手は巨鳥ラリゲリウスになる前の少年のつけた文鳥が演じたクロオだ――
クシクラゲには最も形状の近いものとしてバルンガとジュランと名付けた――陸性巨大古代植物ながら、ジュランはクラゲっぽいじゃないか――
ああ、見つけたね、ハナダイギンポの金城哲夫。その♀はね、ウルトラ・シリーズきっての美人宇宙人、地球人に帰化したルパーツ星人のゼミだよ――
シリキルリスズメダイ♂のモロボシ・ダンの相手は、アンヌ――じゃあ、ないんだ。誰だか分かる? ダンがこの星で一緒に生きようと説得した――あのマゼラン星人マヤさ――

ひとりだけの水族館 第3水槽 エピクロスの園

ひとりだけの水族館 第3水槽 エピクロスの園

Epikurosu

ここはハタゴイソギンチャクとカクレクマノミの共生水槽だ。ニモだよ。

オルフェとユリディケ――
宮澤賢治とトシ――
芥川龍之介と片山廣子――
キャルとアブラ――「エデンの東」
アリョーシャとシューラ――「誓いの休暇」
イーベンとジェニー――「ジェニーの肖像」
トムとハティ――「トムは真夜中の庭で」……そして
スザクサラサエビとコガニだが……と……これはそれぞれ片方は生きている人だから黙っていよう……先に名前を出した彼らは神話の恋人たちだったり、実際の兄と妹だったり、実在した文学者だったり、それから悲恋の主人公たちだったりね、今言った小説や映画はお奨めだよ、きっと君も好きになる……君は僕の小さな頃に……似ているからね……そういえば……その水筒、僕も小さな頃に同なじものを持ってたな……江ノ島にとうさんとかあさんと三人で行った時、僕がバスの中に忘れたのを、とうさんが忘れたと言ってかばってくれたから、よく覚えてるんだよ……そっくりだな、それ……

この水槽の中ではね――人知れず、この世では結ばれず、しかし結ばれるべきであった真に愛し合った恋人たちが、寄り添って共生しているのさ――

ひとりだけの水族館 第2水槽 瓔珞之禁裏

ひとりだけの水族館 第2水槽 瓔珞之禁裏

Youraku

ここはね、当初は40個体に及ぶクシクラゲの水槽だったんだけどね、人の顔みたような如何にもな形状と大ぶりの成虫個体が水槽を息苦しく塞ぐ感じになっちゃてね、思い切ってミズクラゲに展示変えをした水槽なんだ。

この水槽では不思議な現象が起きているんだよ。全くの新種が突然変異によって出現したんだ。ほら、画面のやや右にいる明るい色をした一個体、僕の知る限りでは、他のミズクラゲを多量に飼育している水族館の水槽でもまずは見かけないから、レアな現象らしい。私の洗礼名の「ルカ」と名付けたよ。このルカはもうしかし、繁殖させる時間も金もないんだ。可哀想だけど、ルカは孤独なままに消えてゆくんだ。

ここには「唯至」という♂を除いて「源氏物語」の中の僕の好きな登場人物だけが個体愛称に名を連ねているんだ。
夕顔――花散里――空蝉――玉鬘――右近も忘れずに、ね。
繁殖が進まないので惟光という♂もいるよ。考えてみりゃ、同じ「光」の名を持った乳兄弟の彼は、光のアリバイ作りやら夕顔の遺体処理やら、ただただ光の影のようなもんだったからね、せめてここでのびのびしてもらおうと思ってさ。

えっ? ああっ? あのウミウシかい? あれはね「靜」というんだ。実はこの水槽のベントス系は別テーマでね、他にもテーブルサンゴの間に三匹ほど隠れているんだ……いや、これはやめておこう……君が「こゝろ」という作品を読んで考えたまえ、僕がどうしてこの4人を総て交配不能な孤独地獄に陥れたかを、ね……

この水槽にはテーブルサンゴを左手から右手奥に、それぞれ形状の回転と大きさを変化させながら配して、擬似的な遠近感を演出しているんだ。因みに、僕はこのテーブルサンゴがいっとう好きだ。世の中には水族館の水槽にあるまじき愚かしい人間趣味の下劣なアイテムを並べて悦に入ってる輩もいるが、僕はああいうのは大嫌いなんだ。僕の水族館には、このテーブルサンゴさえあれば、他に何もいらないと言ってもよいほどに、好きなんだ――

ひとりだけの水族館 第1水槽 FLEURS DU MAL

ひとりだけの水族館 第1水槽 FLEURS DU MAL

夕方の、とある水族館の入り口。
ステンレスの水筒を肩からぶら下げた少年が一人立っている。
その少年に「僕」が声をかける。
「どうしたんだい、君は? 水族館、好きかい? 一人で来たの? そうか。それは偉いな。――僕はこの水族館の館長なんだ。でもね、この水族館も9月で閉鎖されちまうんだ。――どうだい、館長の僕じきじきに夏休みの特別限定個人ガイドをして上げようじゃないか。――遅くなったって構やしない。僕がちゃんと送ってってあげるからさ――」

Akunohana2

ここにはトゲチョウチョウウオとハリセンボンの霊感交配繁殖群が飼育されているんだ。

彼らの内の「ルカ直史」と名付けたトゲチョウチョウウオの一尾以外は、総てこの世の人ではないんだ。今年の三月に天に召された僕の母聖子テレジアと僕の、トリュフォーの「緑色の部屋」なんだ――死者を永遠に弔う密室だ――。白血病で若くして亡くなった伯母のチョコおばちゃん、僕の亡き祖父や叔父、フランスで自動車事故で亡くなったり、病気のために夭折した僕の教え子たち、僕が小さな頃から飼ってきた動物たち、更には架空の娘や妹もだ、あやとかさち、節子というのがそれだ――そして人工生命として人類の犠牲となってきた一群も全く同じ水槽の中で、その人々の魂と共存しているんだよ――「2001年宇宙の旅」のHAL9000、「プルートゥ」のゲジヒトと妻へレナ、イプシロン、ブランド、ヘラクレス、モンブラン――そしてノース2号とアトム、勿論、プルートゥもね――そうか、君もSFや漫画が好きか。気が合うね!――歴史上の人物では円空というのもいるんだけど、めったにサンゴの隙間から顔は出さないな――

「FLEURS DU MAL」――悪の華――怖い名前だね――でもね、これは実は僕のカモフラージュなのさ――サンゴを敷き詰めた僕と母だけの結界であり、シールドなんだ――

実はこんな風に、それぞれの魚の愛称を全体表示出来るのはね、餌をやることが出来る館長の僕にしか出来ないことなんだ。すごいだろ? 普通の来館者が見るのは、ほら、こんな水槽なんだ。これはほら、水槽の前に「水槽を軽く叩く」のボタンがあるだろ? これで叩いた時の「FLEURS DU MAL」水槽の映像だ。ハリセンボンが膨らんでて、面白いだろ?

Akunohana1

因みに僕が二年ぶりにこの水族館を再開したのが今年の5月29日なんだ。――僕の水族館の評価レベルはその時、12だった。そこから二ヶ月弱で画面下に示されたレベル38まで上がって、御覧の通り、ミクーシ共和国アプリH.A.州内の水族館では上位三位に入るんだぜ。――しかし、この水族館のシステムはね、実は飼育に不可欠な僕のパソコンととてつもなく相性が悪くってさ。魚の動きはコマ送り映画みたようで、最近はますます不具合が高まっちゃってさ、以前はよくやっていた魚の調教や他の水族館のガラス磨きもとんでもない時間がかかるので、もうやめちゃったんだ。――それでもこの水族館が大好きなんだよ。ずっと僕は僕の「緑の部屋」を守ろうと思ってたのに――僕がどれだけこの水族館を愛していたか、分かってもらえたかな?――

隠岐日記4付録 ♪知夫里島のアメフラシの食べ方♪

旅立つ朝、最後の驚きが僕を待っていた。
「ホテル知夫の里」のロビーに置かれた知夫村教育委員会編「海の食べ物」(島名は知夫里島であるが、村名は知夫村である)の冊子の中にそれはあった。
私が初めて目にした「正しいアメフラシの食べ方」であった。昭和天皇が食った話は有名だが、この叙述は何といっても公的な教育委員会の記載なのである(但し、手書きであった)。そこでは実際に食べている人が研究を試みて、最も美味い食べ方に到達しているという実感が感じられる名文である(研究者や好事家のエピソードは読んだことがあるが、これは「日常食」の叙述なのだ)。ここに不自由な右手で筆写したものからテキストに起こして、今回の旅の形見としたい。無断転載することを、どうか知夫村教育委員会殿、お許しあれ。

隠岐島内ではベコ(ベッコ)と呼んで食べられているようだ。色に姿に似合わず美味で、隠れたファンも多いのは巻貝の仲間だからか。山椒となめ味噌で食うのが一番だ。茹で方によっては苦味が生ずる。それをなくす方法を試行して、一つの答がでた。まず紫の汁が体内に染み込まないうちに、その場で内臓等を取り除く。(この紫が苦味の元と考えられる)。鍋に水を入れないで、ベコだけを入れてフットウさせ、更に4~5分弱火で。その後、火を止め、5~10分位フタをしてむらす。この間、決して煮汁を替えないこと。最後はお湯で洗う。これでほとんど苦味は消えた。

但し、信頼出来る研究者の記載によれば、一部の褐藻類を餌としているアメフラシの場合、藻類由来の有毒成分が蓄積していることがあり、食用として供している地域以外ではアメフラシ食はすべきではないとあることは申し添えておこう。
また、この苦味の元とされる紫色の汁の成分には制癌作用が期待されており、研究が進められているとも聞く。まさしく、良薬口に苦し、か。

島を去るフェリーの中のポスターのキャッチ・コピー――

――感島(かんどう)!

隠岐日記3 中ノ島 知夫里島

中ノ島観光。
昼間の「あまんぼう」に再乗船。――悪かぁないが……「あまんぼうは」は、やっぱりナイトに限る――

大型観光バスに僕らを含めて6人(+ガイド1名)乗って島内観光。後鳥羽院の旧跡を中心に巡る。
多くの天皇の御製が宮中の架空の題詠でしかなたっかことを考えれば、今回、僕には後鳥羽院の歌がどれも、如何にもリアリズムに富んだ佳句に感じられた。配流後の歌を、今度、真面目に読んでみようと思った。――ここまで生きてきて、御製を真剣に読もうなんぞと思うようになるとは――正直、不思議!――

昼は是非とも幻の隠岐牛を食わんとして見れば――唯一の隠岐牛専門店は定休日であった(諸君、隠岐各島の飲食店は、どこも数少ない。くれぐれも定休日の確認をお忘れなきよう!)。
ガックリ自棄になって観光案内所の二階の食堂「承久海道」(スゲえ名前だな)で、
隠岐そば(サバぶしでだしを取った100%そば粉のもの)☆☆
寒シマメ(スルメイカ)肝醤油漬け丼(この時期限定のガイドさんお勧め)☆☆☆
に満を持して待っていた、かのブランド岩ガキ
「春香」4個☆☆☆☆
をビールと隠岐誉の生酒(あっさりとした辛口で隠岐逗留中は郷に入ってはでずっとこれを飲んだ。☆☆)で頂く。――至腹、基、至福ナリ――

島内渡船にて最後の島知夫里島へ渡る。
ホテル知夫の里泊。
部屋は全室オーシャン・ビューの絶佳! 露天風呂がある(但し、温泉ではなく、内風呂はかなり狭いことは申し添えておく)。
支配人に隠岐牛の話をしたところ、在庫があったというので(生肉は桐の箱に入っていた)夕食で出してもらう。
これまた舌佳! 隠岐では必ず隠岐牛を食うべし!――航海の後は後悔先に立たずなり――

旅の終わりの日、奥川さんというUターンの団塊の世代のボランティアの方が知夫里島を車で観光して下さった。昨年、心不全でヘリで松江に運ばれたという奥川さんは、妻の歩調ニ合わせて歩いてくれた。
牛が放牧されている隠岐諸島フル・ロケーションの赤ハゲ山も――「だんだん」のロケ地の断崖絶壁、エメラルド・グリーンを見下ろす赤壁も――どこも僕ら三人だけ――プライベート・サイトシーイングだった……

隠岐日記2 西ノ島 中ノ島

二日目の宿は中ノ島にとってあったが、4島制覇を掲げる妻の鼻息に負けて、西ノ島を訪れる。国賀(くにが)海岸はカルデラ形成から沈降したこの島前(どうぜん)三島の特徴を最も美事に発揮している奇岩奇石のオン・パレードの地である。水木しげるの妖怪霊力は隠岐にも侵攻していて、北端の島星神島(ほしのかみじま)には美事なヌリカベとネズミ男が断崖に姿を現す。僕は序でに子泣キ爺イのミミクリーも発見した。今度、行かれる方は、船がネズミ男の正面から少し動いた時に沖から陸に向かって右側をみておられるがよい。きっと口をあけて笑っている子泣キ爺イが空を見上げている――

鬼の金棒岩は、船長が意味深に沖側に回ってから、「何やらん立派なモノに見えます」と意味深に言ったが、そう言われてものの十数秒立ってから見て御覧なさい! 驚天動地! 1954「ゴジラ」のラストシーン、オキシジェン・デストロイヤーにやられて、東京湾上に浮かび出たゴジラの断末魔の映像に、確かに見える! これはもう、お見逃しなく!

僕は奇岩趣味で仏ヶ浦も羅臼も見てきたが、落葉樹林帯と多様な色彩と摂理を持つ地層が複雑異様に絡まっている、この国賀海岸をこそ、最高の奇岩奇石スポットとして自信を持って第一に推奨するものである。

そして――明暗(あけくれ)の岩屋である。
まずはそう物事に動じない僕が「こんな大きな船が、本当に、こんな狭いところに入るの? 真っ暗だぜ?」とナマで叫んでしまったほどに、あり得ないアクロバティック洞窟クルーズである。船体がぶつかって擦れた場所が見える。入り口から入りきってライトが消されると、ゆらるゆらゆら揺れたまま、完全な暗黒となって、こりゃ、女子供でなくても慄っとする(これが岩屋の名の「暗」である)。そうしてまたゴリゴリとぶつかりつつ、奥へ行くと、突然右手から光が差してくる(これが「明」で、今回はそうならなかったが、時間と日差しによっては海水面下がエメラルドグリーンに輝いて、カプリ島の「青の洞窟」と同じ体験が出来る)。そうして船はその洞窟をゆるゆると今度はバックで出るのである。僕はここでも、ハーンが鎌倉の長谷観音の顔を、上って行くランプで眺めたときの驚きのように、明暗の岩屋を後にした。
因みに、「青の洞窟」と同じで、この岩屋、気象条件によって、なかなか入れない(確かに入った経験から少しでも荒れたら絶対無理! 三度か四度に一度入れるとのことだ)。僕らは強運だったのだ。あなたが行かれた時には、僕らの強運をお授けしよう。

島の資料館で、戦後、ソビエトのラーゲリで亡くなった本島出身の山本幡男という人物に衝撃を受けた。ロシア語が堪能で、収容所仲間と社会主義の学習会を自立的に開き、万葉集の和歌を語り、俳句や詩をものした彼は、スパイとみなされ、ついにシベリアの地に果てた。1954年8月29日、享年45歳であった。多くの仲間が彼の遺言を暗記して(文字を記したもの持っているだけでスパイとみなされ、帰国(ダモイ)は不可能となる)故国へ帰り、それを妻や子に伝えた。僕はいつか、彼の記録やテクストをHP内に設けたいと考えている。それにしても――古来日本の配流の島出身の一人の類稀な一人の知識人が、シベリアの流刑地で生涯を閉じる――何と皮肉な事実ではないか――。

(*追加補足:山本幡男氏についての詳しいネット上の記載は、管見したところ、「クタビレ爺イの廿世紀裏話」というブログ記事の「シベリアの奇跡・届けられた遺書」がしっかりしている。是非、お読み頂きたい。)

島内渡船で中ノ島海士(あま)町へ戻る。
今日の宿は「マリンポートホテル海士」である。特に飯がうまいわけでも、部屋がいいわけでもない(ただ、隠岐の数少ない温泉であるのは嬉しい)。しかしここには決して見逃してはならない素晴らしいイベントがあるのである! ずばり! 水中展望船「あまんぼう」ナイト・クルーズである! 水中展望船はそれほど珍しくもない(但し、幾多の水中展望船に乗ってきた僕の経験から言うと、この船、その中でも海底の見易さや空調システム等を比較してかなりグレードが高い)。しかし、夜の8:50スタートの、ヤコウチュウを見るクルーズは、見なくては人生最大の後悔となると断言しよう。僕の今回の隠岐の旅のクライマックスはこれに尽きた。流れ踊る(スクリューの前進後進・左右ホバリング用補助スクリューを用いて多様な水流を発生させ、刺激を加えることで、めくるめく――マジホンで「めくるめく」なのだ!!!――ファンタジックな世界が現前するのだ!!! ハーンがこよなく愛し、その穏やかな浦見に「鏡が浦」と名づけたその海底で、僕はハーンが見なかった夜光虫の幻想的な乱舞の中――夜光虫となったのだ――

隠岐日記1 島後島

今回の旅は妻の足も悪くなっており、僕の右腕も不具合なため、カメラを持って行かなかったので写真は一切ない。その分、僕は如何にも落ち着いて自然の美観を心の「アルバム」にとどめることが出来た。

隠岐ノ島という島はない。我々の多くが恐らく隠岐ノ島と考えている本島を島後(どうご)と呼ぶ。本来は「道後」と書いた。旧くは地方を「~道」と言ったあの用法である。現地の人は「道後島」という言い方さえもあまりしないようだ。

隠岐ではみなとタクシーの小泉禎さんのガイドを頼むが一番だ。神社仏閣の歴史から神前相撲や牛突(うしづ)きまで、彼のお蔭でこの身体不自由な夫婦でも半日で十二分に島後を満喫出来た。彼の知識と推論は専門ガイドに匹敵する。おまけに隠岐相撲(神前相撲で柱相撲ともいい、最後の役力士には相撲場の四方の柱が下賜される)の一番目の真の勝者――二番取り、一番は真剣勝負、二番は一番で勝った力士が負ける仕来りで、神前で一勝一敗となった後、土俵上で相手のまわし取って持ち上げ合い、互いの健闘を讃えて兄弟の契りを結ぶ。何と美しい相撲であろう。これが島人の心である――であり、彼の対戦相手の家を訪ねて、柱も見せて貰ったりした。彼は擦れ違う人々とは悉く知り合いである。私は隠岐を訪れたかつてのラフカディオ・ハーンになったかのように、この島人たちの心に触れた。

ローソク岩では、雲の隙間から美事に落日が顔を出し、網膜に穴が開くかと思うほどに、僕は灯る火を見つめた。
付け加えるならば、その美観も最たるものながら、小型船の船長の、あの複雑な岩礁帯の中で、船客の目の高さを計算しながら、前後左右に操船するその技術と拘りに大いに舌を巻いたのである。

ローソク岩の観光の間も、本社(西郷)に戻ると結果的に総費用が上がってしまうからと、小泉さんはずっと港で待っていてくれた。

翌朝、ホテルの車で港に向かう途中、小さな女の子が、自宅で出来たナスやキュウリを袋に抱えて、近所の人にお裾分けをしにゆくのと擦れ違った(これは島では日常的なことである。そしてそれはかつての美しき日本の原風景である)。少し離れた少女の家の前に母親らしき人が、少女の「初めてのお使い」なのか、見守っていた。その少女が、僕らの車の方を見た。右手の掌を返して高く上げると、少女は僕らにさよならをした――島後は別れの最後まで美しかった――

2011/08/02

流刑地より

流刑地はいいな――明日は最後の島――そこでは牛が角を突き合い――神前に今も相撲が献ぜられている――昨日は蝋燭岩は美事に火が燈った――今日は強運成就驚天動地の明暗の岩屋にも入れた――カフカよ――流刑地は――いいぜ――

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »