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2011/09/30

秋の花 橘曙覧

秋の花

 それもなにせむ

  折りとりて

    見すべき君に

     見せられもせず

            橘 曙覧

 

2011/09/29

鎌倉攬勝考卷之六 テクスト化着手

「鎌倉攬勝考卷之六」のテクスト化に着手、取り敢えず「安養院」まで公開した。挿絵一杯だ!

今一つ、新しい画像処理ソフトを使いこなせず、不満のままの画像アップなのだが――まあ、起死回生のパソコンだからね――贅沢か――僕はどうも古いものに執着し過ぎるらしい――新しいパソコンになって無数のソフトが死んだ――使えなくなった――どうも僕は、あの梅崎春生の「猫の話」の若者なんだな――馴染みのソフトがガラクタになるのが――どうしても許せないでいるのだった……でも……それも……今日で……終わったよ……

2011/09/28

山本幡男氏御子息山本顕一先生より

ツイーターで山本幡男氏御子息山本顕一先生から突然のお便りを頂戴した。お手持ちの山本幡男氏資料の利用を許諾なされ、誠に恐縮。先生は先般の御父君の墓参で転倒され、頭部に御怪我をなされたとツイートされておられた。御平癒を心からお祈りします。まずは御礼まで。

2011/09/27

バスに乗り遅れた?

僕らはバスに乗らないんだよ

僕と母と父と妻は

四人の不自由な四肢を助け合って

ゆっくりと峠を越えてゆくのだ

縄文時代にバスはないんだよ

知らなかったかい?

お生憎さま――

鎌倉攬勝考卷之七 全テクスト化終了

「鎌倉攬勝考卷之七」の全テクスト化を終了した。OS環境を救ってくれた我が友、安彦君へ、感謝する。

2011/09/25

母さん もう大丈夫だよ

母さん 武満の「小さな空」を聴いても もう 僕は 泣かなくなったよ 僕 少し大人に なったのかな 母さん――

鎌倉攬勝考卷之七 長楽寺廃跡

「鎌倉攬勝考卷之七」を「長楽寺廃跡」まで公開。巻七も残り僅か。

2011/09/24

パソコン・メンテナンス辛くも今夜終了 HP・ブログ総てOK

パソコン・メンテナンスのため、本日昼、友人が来て、パソコン本体を完全にリニューアルした。そのため、HPビルダー等を全て再インストールしなくてはならなくなり、HPの更新を断念せざるを得ないと危惧したが、泥酔しながらも、何とか復活出来た。今まで通り、御安心を。

2011/09/23

鎌倉攬勝考卷之七 日光山別當宿院旧跡

「鎌倉攬勝考卷之七」を日光山別當宿院旧跡まで更新した。

――げに恐ろしきは女人と僧じゃわいのう――

瓢箪から駒の面白さだ――

ここでは作者植田孟縉(底本編者の可能性もある)のとんでもない誤りを、いい加減、厭になるほど注を付しているうちに――

あれあれ!?――

こいつはゴシップ中のゴシップ! それも天下の将軍を退位させるね!――

♪ふふふ♪――

今日まで鎌倉好きの僕、不勉強で、この「歴史的事実」を知らなかったのでした――

ともかくも、是非、ご覧あれかし。

辺見じゅんさん追悼 / 御遺族の方へ

辺見じゅんさんが21日に亡くなったことを、今、知った。この数年、僕の中では因縁のある方だった。芥川龍之介と片山廣子――そして、山本幡男――心より御冥福を御祈り致します。

直に会って龍之介と廣子そして山本幡男のこと、お聴きしたかった――

そして――

御遺族の方へ。お悲しみの中、誠にぶしつけなお願いです――

――どうかじゅんさんが所蔵しておられたはずの芥川龍之介宛片山廣子書簡総てを、近代文学館に必ずや、寄贈されんことを望みます。これがまた、かつてそうであったように(吉田精一氏から辺見さんへと流れ流れたように)個人に、況やコレクター・好事家の手に渡ってしまえば、ますますあの書簡は散佚し、ますます芥川龍之介と片山廣子の純愛は妄想の彼方へと醜く歪曲されてしまうに違いないからです。この瞬間だけが、それを阻止出来る、そして、正しい二人の純愛を我々が知り得る、最後の機会と、私は信じているのです――どうか

未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)やぶちゃん不完全復元版

をご覧下さい。 

武満徹「小さな空」の素晴らしいMIDI

あの武満徹「小さな空」の素晴らしいMIDI――小林昭氏の「わたしの居場所」「小さな空」

――昔聞いた足踏みオルガンを思い出す。前奏と間奏、そして後奏が特に哀切の満ちている。こちらはちゃんとJASRACの許諾がなされている。安心してご覧あれ。

――昨日――このページを見つけた――

――これを聴きながら――

僕は――はからずも――落涙してしまった――

僕の憂鬱は完成しました――

2011/09/21

鎌倉攬勝考卷之七 二階堂(永福寺)廃跡

特に断っていないが、「鎌倉攬勝考卷之七」は二階堂(永福寺)廃跡(途中)まで更新した。ここのところ、ほぼ毎日、更新している。ブログが止まっても、これが更新されているうちは、パソコンは死んでいないとお思いになってよい。

2011/09/20

僕が鬱になるとパソコンが壊れる

前の怒りのブログ記すのに、三度もパソコンがシャットダウンした(メディア操作かと思ったぜ!)――

そろそろお後がよろしいようだぜ――

またぞろ、320000アクセスが近づいてきたというのに――

それまでパソコンが生きているかどうか心配なんだ――

もう、この世界だけが僕の生きる糧なのに――

それも奪われるとなら――

糞の「神」の試練なんて僕はもう全く信じない――

記念テクストはもう出来てるよ。

昨日、作ったんだ。

ちょいと面白いオリジナルだ。

僕の大好きな能楽の一本なんだ。

杉崎君、君に捧げてあるよ(と言えば君には分かるね)。

結構、気にいった、オリジナルなんだが……

パソコンが死なずば……

また 逢おう……

これが自省しているという「日本原子力学会」なる「学会」の正体だ!!!

お前ら――反省なんか、これっぽっちもしてないよな?

2011年7月7日 プレスリリース 一般社団法人日本原子力学会

福島第一原子力発電所事故「事故調査・検討委員会」の調査における個人の責任追及に偏らない調査を求める声明

東京電力㈱福島第一原子力発電所事故に関する事故調査・検証委員会が事故原因の調査を進めている。多くの被災者の皆さまに対する責任はもとより、我が国がこのような重大事故を起こしてしまったことに対する国際的責任を果たすには、事故原因の徹底的解明は不可欠である。そのためには事故対策に当った政府並びに東京電力の関係者の正確で詳細な証言が必須となる。しかし、これまで、我が国の重大事故の調査においては、本来組織の問題として取り上げられるべきことまでが個人の責任に帰せられることをおそれて、しばしば関係者の正確な証言が得られないことがあった。今回、もしそのような理由から十分な原因究明が行われないこととなれば、重要な技術情報を得る機会を失うこととなる。
今回の事故調査においては東京電力㈱福島第一原子力発電所及び原子力防災センター(OFC)等の現場で運転、連絡調整に従事した関係者はもとより、事故炉の設計・建設・審査・検査等に関与した個人にたいする責任追及を目的としないという立場を明確にすることが必要である。この点については、既に畑村洋太郎委員長が就任時の抱負として「責任追及は目的としない」方針を示しているところである。
日本原子力学会としては、この方針に則り、また、学術会議報告書にも述べられているとおり、結果だけをみて直接関与した個人の責任を追及するのではなく、設置者のみならず規制当局等も含めた組織要因、背景要因などについても明らかにされ、関係者間で共有されて再発防止に活かされることが重要と考える。今後の調査において、事故関係者からの証言聴取が、国際的に整合性を持った手法で、実効性を最大限高めるべく進められることを求める。

日本原子力学会会長自らが福島原発の事故の責任性に対して
――「俺には責任なんかないぞ!」――
――「科学者にはだあれも責任なんかないんだぞ!」――
――「いいや! 誰あれも今回の責任なんか、ない!」――
と叫んでる!!!
――「個人の責任」を追求すれば「十分な原因究明が行われない」ばかりか、「重要な技術情報を得る機会を失う」ことになる――

だと?
お里が知れるゼ!

お前らは
――「原因究明」を行うことより、この致命的な原発事故を、格好の稀有の「重要な技術情報を得る機会」としてしか捉えていない――
ことを図らずも告白しているではないか!

そうして
――「現場で運転、連絡調整に従事した関係者はもとより、事故炉の設計・建設・審査・検査等に関与し」て、過去に於いて原子力開発や原発に関わって虚偽の安全発言を垂れ流し続けた「個人にたいする責任追及を目的と」するな!――
――「結果だけをみて」もの言うな!――
――俺たちは、ど偉い科学者、ど偉い資本家なんだ!――
――俺たちは無原罪なんだ!――なんだ!――なんだ!――

そう絶叫しやがる!

お前らの「倫理委員会」「倫理規程」――

笑止千万セシウム千万倍――科学者の風上にもおけない――いいや、お前らは風上にいるもんなあ、放射性物質の降って来ない風上に、な!――植木等も呆れちまう、正真正銘日本一の無責任野郎どもが!

地獄に落ちたロバの顔した法王が精液を垂れ流しながら、盛りのついた不妊の雌ロバどもに生臭い免罪符を売ってるようなもんだゼ! お前らの腐ったザーメンの臭いに――反吐が出る!

これがまことしやかに反省しているという「日本原子力学会」なる「学会」の正体だ――

騙されちゃ――イケネエ!

――「日本原子力学会」会員・賛助会員どもよ! お前らも万死だ!!!

浅川マキ夢

昨夜の夢――

渋谷のジャンジャンのようなアンダーグラウンドな小ホールで浅川マキのコンサートにマキと共演する。

僕は、マキに特に許されて「少年」の最後の口笛を担当することになっている。

開演直前、僕はマキの横に座っている。

マキが微笑みながら僕に言う。

「あんたに――逢えてよかったね」

僕が微笑みながらマキに答える。

「ホントウに――逢えてよかった」

マキの向こうで共演の青年が僕を見て、微笑んだ後、凝っと僕を見続けて、寂しい顔になって、目を膝に落とした――

――青年は、僕のこの「ホントウに」に特別な響きがあることを知っている――僕が、マキはもうじき亡くなることを知っていることを、青年は知っているのだな――

千年も生かさうと思ふたに

權四郎「千年も生かさうと思ふたに」

( 「ひらかな盛衰記」松右衛門内の段より)

2011/09/19

母 半年忌 / エルモライの最後の手紙と写真帖

今日で母の逝去から半年が経つ。

半年忌という言葉が何故ないのだろう?

まあ いいや――

母さん もう 夏も終わる、よ――

エルモライからの最後の手紙――

「フヰヨドール様 今朝を以つて 農園と牧場と水槽を閉ぢまして御座いまする 農園の蓮と薔薇は故テレジア公爵夫人の香華と致し 牧場のアルパカとタヌキは野に放ち 水槽のテフテフウオとミヅクラゲは海へ戻して御座います 永年の御愛顧を感謝致し テレジア公爵夫人の御冥福とフヰヨドール様御家族一同の御多幸を御祈り致しまする

 ――隠居所と定めたるビェージンの野へと向かはんとせる馬車にて

     元農奴 エルモライ」

エルモライ最後の写真帖

「水槽ノ思ヒ出」――今朝ノ最後ノ御家族

Kazoku

「牧場ノ思ヒ出」――テレジア様ヘ献上ノ最後ノアルパカ

Saigonoarupaka

「農園ノ思ヒ出」――今朝ノ解放直前ノ 狸囃子ニテ御座イマス

Tanukibayasi

「最後ノ農園」――白キ蓮ノ中ニ故テレジア様ノオ好キダツタ赤キ薔薇ヲ植エマシテ魂送リト致シマシタ――今朝ノ農園ハテレジア様ヲ イヤ新タニ悼ム 涙雨デ 御座イマシタ……

Namidaame

エルモライへ――

「エルモライよ 私も

 歸去來兮  田園將蕪胡不歸

――歸へりなん いざ 田園 將に蕪れなんとす――

と決した――

また 会おうぞ 友よ――

 ――母テレジアの半年忌に

  2011・9・19

     フィヨドール、ルカ・ヤブノヴィッチ・タダスキー」    

2011/09/18

鎌倉攬勝考卷之七 大仏 確認更新20:47 / 文楽は最前列に限る

「鎌倉攬勝考卷之七」の「大仏」の注を今朝、補正・追加した。鎌倉の大仏は、あの大きさで、実は造立の経緯や、何代あったか(現在は先に木造があり、何らかの理由で失われ、後に銅製の現在のものが造られたとするのが有力)、露座となった理由でさえも、よく分かっていない。最後に付された漢詩が、何やらん気になって、面白い。〔何らかの不具合によって、今迄、更新がなされていなかった。只今、確かに更新確認した。【20:47】〕

昨夜は国立劇場にて文楽「ひらがな盛衰記」を堪能、最前列で玉女の樋口の激しい息遣いを聴いた。「紅葉狩」でも、主遣が掛け声を掛けるという現場を初めて実見――舞台照明の照り返しが暑く、首も痛くなるが――文楽は最前列に限る――

2011/09/16

鎌倉攬勝考卷之七 新居閻魔堂注他 更新

「鎌倉攬勝考卷之七」の「新居閻魔堂」に注を附し、また少し更新。「新居閻魔堂」の注は……ちょっと、面白いゼ……

鎌倉攬勝考卷之七 テクスト化着手

「鎌倉攬勝考卷之七」のテクスト化に着手、取り敢えず「新居閻魔堂」まで公開した。寺社の解説パートになると、何だかほっとする。「巻之八」のような人物が多量に登場する場合、それも南北朝期という僕の守備範囲を越える時代は、読んでいて不明な箇所をどうしても注せざるを得ないという、強迫神経症的にピリピリしてテクスト化していた部分があった。それに「巻之七」は挿絵も一杯あるよ。お楽しみあれ。

2011/09/15

鎌倉攬勝考卷之八 全テクスト化終了

「鎌倉攬勝考卷之八」の全テクスト化を終了した。

本日より「巻之七」テクスト化作業に入った。

2011/09/11

土岐仲男(酒詰仲男) 詩集 人

本トップ・ページ「父のアトリエ」の下に『土岐仲男(酒詰仲男)詩集「人」』を公開した。ブログ版の完全版で、ルビ化を施し、ほんの少し僕の注にも手を加えた。先生の詩は、忘れ去られるには勿体ない。是非、多くの方に読んで戴きたい詩群である。

鎌倉攬勝考卷之八 公方家營館舊跡 基氏 氏滿

「鎌倉攬勝考卷之八」の「公方家營館舊跡」の冒頭「基氏」と「氏滿」の項を更新した。この氏満の部分に登場する若犬丸なる人物、どうも気になる。

キリスト 土岐仲男 / 土岐仲男詩集「人」完

キリスト

キリストはある朝便所の中で考えた
自分は朝めしも食わねばならぬ
それに女の膚に触れても見度い
いや それは迷夢だ
おれの糞は人のとは違った匂がする
弟子どもがみなそう言う
その方が真実だ
おれの頭は狂ったのかな
そんなことはない
ただ異常に
神が
在天の大神が
このおれを目にかけて下さるのだ
まてよ
しかしあの時
おれは無我夢中で祈ったが
魚はもと通りただの一匹だった!
それだのに
ああ奇蹟が現われた
魚が十匹にふえた
魚が千匹にふえた
弟子どもが叫びおった!
そんなことを言っているうちに
誰かが皆に魚をくばった
「奇蹟の魚だ」
「奇蹟の魚だ」
人びとは口々に叫び
争うてこのおれを礼拝した
おれは詐欺師ではないか
おれはペテン師ではないか
いや!
弟子共には一匹の魚が百匹に見えた
千匹に見えた
何故だろう!
あいつらは迷っているからだ
このおれだけがあいつらよりすこし強い
このおれが迷いだしたら
人類の破滅
世界の破滅だ!
人類の善意が破滅する
人類の道徳が破滅する
そして
世界はなくなる!
その直前に
このわしと言う細い綱によって
皆が
人類全体が
神の国にぶら下がろうとする
このおれが切れたら
世界はつぶれるのだ
人類はつぶれるのだ
おれは糞なんかしていられない
いや
またどこかで野糞でもひればよいのだ
おれは出発しよう

[やぶちゃん注:――酒詰先生、先生は芥川龍之介と同じように、キリストにジャーナリストを見たのではありませんか?――いえ、そして先生もキリストとなられたのですね――ジャーナリスト・キリストとして現世に復活された、のですね――]

詩集 人 土岐仲男 完

五条坂 土岐仲男

五条坂

街吹く白い秋風が
わたしとあなたを吹き通り
愛宕の蒼ずむ頃だった
痩せイヌが来て追いこして
あとは静かな街だった
たかなる胸の鼓動まで
きこえるほどの静けさよ
何を考え何を言い
どうしてそこまで来たのやら
前もうしろもぼけている
ただ青春の一ト時に
いつか歩いた五条坂

今日も秋澄む高空に
いつかの雲が流れてる
三十年の年月が
わたしとあなたを押しへだて
悔恨に似てほのぼのと
うずく心をかきいだき
ひとりさまよう五条坂
千里を走るトラックが
ならす警笛恐ろしや
思わず深き夢やぶれ
慌てる古都のエトランゼ
シャッポをぬいで手を振って
ぐるっとまわってサヨウナラ!

[やぶちゃん注:二行目「愛宕の蒼ずむ頃だった」は底本では「愛宕の蒼すむ頃だった」であるが、私の判断で濁音化した。この詩も、私は一読、胸がキュンとなる。]

孤影――陸奥尻尾岬に寄せて―― 土岐仲男

孤影
      ――陸奥尻尾岬に寄せて――
何と言うことだ
風と海と
岩にへばりつくいくばくかの草と
カモメが飛び
カラスがおりている
心の果てにひろがる
荒蓼たる一つの地域
「神」もなく「仏」もない
ただ砂原のおき伏し
ああ何のために私は
こんな地の果てに彷徨うて来たのだ
こんな陸(くが)果にも
遠古の人がいたと言うので
それを調べるためにやって来たのだ
この荒蕪の地に住み
獣類をおさえ魚類を漁(すなど)り
日々のたつきを立てていた者は誰
莫々としてつかみようもない
この忘却の霧につつまれて
一人立つ岬の高さ
天地の太初以来
繰り返し打つ大洋の浪が
今日もまた同じように打っている
この地の果てを駈けめぐり
虚ろなる心かき立て
風の響きに首すくめつつ
草に憩うこのひととき
遥かなる天心の太陽(ひ)が
遠い水面に微塵と砕け
蝦夷(えぞ)ケ島が雲間に隠見する
祈りも信仰も役に立たぬ
夏にして冬景色を備えた
ここ岬の一隅に心冷えて
厳かに身ぶるいつつ
孤影をまもる

[やぶちゃん注:「尻尾岬」は下北半島北東端に突き出た岬で、津軽海峡と太平洋を分けるような位置にある。本州の最北端である下北半島北西端の大間岬に対し、この尻尾岬は地元で「本州最果て地」と呼ばれている。但し、ネット検索では尻尾岬の貝塚や縄文遺跡についての記載は見出せなかった。識者の御教授を乞うものである。]

ホトトギス 土岐仲男

ホトトギス

人は会い訣かれるものと知りながら
このひとときのいとなみに
まことの生命(いのち)かけつくし
互に攻むる身のもだえ
互にみつむる涅槃境
また唇(くち)を吸い身を進め
ひとしほ強くかき抱く
長き捷毛の細き眸に
はやそのときをしるすとき
ゆめかうつつか何もなく
ただ白銀(がね)の高なりが
怒濤の如くわき返し
華火のごとく散り消ゆる
今はしづかに瞼閉じ
大きくもらす肩の吐息(いき)
互に充ちて二つ身に
ゆれもどりたるたまゆらに
ふと聞く雲間のホトトギス

[やぶちゃん注:「白銀」の「がね」は「銀」のみのルビで「しろがね」。「吐息」は二字で「いき」と読ませている。……先生、これは……もう、脱帽です!……]

「寺」  土岐仲男

「寺」

私はその名を知らない
岩山に抉ぐられた一画の土地
高く聳える樹々にかこまれ
その「寺」はある
まつります御仏は
観音か 菩薩か
信仰の衰亡も今は問うまい
ただ日本の「土地」のその一隅に
何世紀かの風雪に耐えて
厳かに存続するこの「寺」を見る
はかなき現し身の魂が指向する
「寺」と言う存在
限りなく浮き迷う
わが魂の港
民族の祈りの礎
仏をもてあそぶ僧等の恣意は
僧等の野望は
幾度かの治乱興亡を過ぎて
その庭苔に吸収され
ただこの御仏(みほとけ)と「寺」と
樹々と 碧空とが
人類の苦悩と御仏の慈悲を直結して
この上もなく健かに
この上もなく穏かに
この上もなく厳かに
この上もなく大きく
天地と共にしずもり返っている
ああ幾世紀かの
灼日と荒雪に耐え
耐え耐えて滅びざる民族の「寺」よ
大乗 小乗の教はとまれ
天地のかびにもひとしき
人間われは
今恭しくこの「寺」の姿に合掌する

君ほほえまば 土岐仲男

君ほほえまば

君ほほえまば
よろず花
恥じらうごとしと
帝詔(の)りし
かの虞美人のほほえみも
かくはありしか
たまゆらの
かの君えみしほほえみは
瞼閉づれば
眼の底に
眸あぐれば大空に
桜色せる頰もみな
濡れしが如き唇も
象牙の如き白き歯も
焼くるがごとく鮮かに
触るるがごとく迫りつつ
うららひろごるかなしさよ
ああたまゆらの
かの君の
かくもかなしきほほえみを
胸ぬち深くひたかくし
野辺にい向い
ただ一人
すべなく口笛(ふえ)を吹けるかな

[やぶちゃん注:「口笛」の二字で「ふえ」と読ませている。]

× 土岐仲男

×

けたたましく警笛を鳴らしながら
意識の中心を車が走る
多くの概念が
慌てて道をよける

何だ
赤いさるこを着た
サルめが運転するコウノトリだ

[やぶちゃん注:「さるこ」は文字通り「猿子」で、江戸時代、綿の入った袖無しの羽織のことを言った。主に子供用であるが、女性の胴着にも用いた。猿回しの猿が着るものに似ていることに由来する呼称である。この詩、尾形亀之助詩集に潜ませたら面白い。]

天理教 土岐仲男

天理教

六百畳にも余る大広間
そこに学会人が集まって
六人づつすき焼鍋を囲んで
酒をのみ交わすその瞬間
何かを期待して
一座は急にシーンとしずまった
原始林のようなしずけさ
そうだ!
丁度原子爆弾がおちて
宇宙全体が音になりながら
ひとにはそれが聞こえない瞬間
そうした沈黙が一座を支配した
沈黙は容易にやぶれそうになかった
その瞬間
鉢巻をしてよい痴れた真柱が
盃と徳利とをもって
「ワッハッハッハッ」と
大声で笑いながら立ち上がった
「ようきぐらし!
 ようきぐらし!」
真柱は頭をたたいて一廻転した
一座はまたもとのざわめきに返った
何だ?
何でもないんだ
何でもないんだ
「ワッハッハッハッ」
どこかで小さくまた笑うものもあった

[やぶちゃん注:「真柱」は「しんばしら」と読み、天理教及び教会本部を統括する役職。真柱は「教祖の血統者の系譜に基づき、本部員会議において推戴する」とされ、現在まで教祖中山みきの子孫が世襲している。「ようきぐらし」とは、天理教のHPの「教え」の「陽気ぐらし」には以下のように記されている(段落を排除させて頂いた)。『私たちのからだはどうなっているのか、科学の発達が、次々に細部まで明らかにしてくれました。とりわけ、遺伝子に関する研究が長足の進歩を遂げ、驚かされるばかりです。考古学は考古学で、人類の歴史をどんどんさかのぼり、一枚また一枚とベールをはがしていきます。どこまでもミクロの世界へ、どこまでも太古の世界へ。探求心旺盛な人間のことですから、人類は「いつ」「どのようにして」つくられたのか、その情報はもっともっと私たちの手元へ届けられることでしょう。しかし、どうしても分からないことがあります。それは、人間は「誰が」「なんのために」つくったのか、ということです。それは、人間を創造した「元の親」に尋ねる以外に術はないのでしょうか。教祖が自ら筆を執られた書き物に、「月日(神)には人間創めかけたのは、陽気遊山が見たいゆえから」とあります。人間が陽気ぐらしするのを見て、神も共に楽しみたい、というわけです。各自勝手の陽気ではなく、ほかの人々を勇ませてこそ真の陽気とうたわれます。それは、互いに立て合いたすけ合うこと。人間はそれぞれ異なります。そのそれぞれの個性を持った人間が、互いに良いところを伸ばし合い、足りないところは補い合って、たすけたりたすけられたりしながら、共に生きることをいいます。陽気ぐらしこそが、私たち人間の生きる目的なのです』。ここで考古学が特に挙げられているのが面白い。]

2011/09/10

無花果のジャム 土岐仲男

無花果のジャム

銀の鋏で切って
佐渡の竹で作った笊に入れて
その笊のまま賀茂川の水で洗って
比叡山から出た太陽に干して
それをしばらく大徳寺の坊さんにあずけて
阿蘇山で焼いた炭で煮て
ハト時計が十二時を指したら止めて
その煮上がった鍋をイヌの鼻先を通して
そうして出来上がった無花果のジャムです
どうぞお客様!
パンにたっぷりつけてお召し上がり下さい

[やぶちゃん注:先生! このファンタジックな詩、とっても好きです!]

伝説 土岐仲男

伝説

私の息子よ
このことだけはよく覚えていておくれ
お前のお祖父(じい)さんは
物好きな人で
オーロラと言うボロ船を買って
家を何軒か売ってそれを艤装し直して
夫婦者の船員を幾組か乗せて
あれは千九百十年代のことだった
その何月の何日だったか
今の束京港当時の芝浦岩壁から
南方へ向って旅立たせたのだ
その船はある鉱物を探しに行った
いいかい
神戸港か横浜港に
オーロラと言う名の不思議な船が入港したと
新聞に出たら
それはお前か
お前の子供達
あるいは孫達のものなのだ
それは素晴しい鉱物を積んで戻って来る
忽ちお前は世界有数の富豪の一人になるのだ
オーロラと言う船だよ
その名をよく覚えて置けよ
お祖父(じい)さんの代には遂に戻って来なかった
私の代にも未だ戻って来そうにない
然しお前の代には
いやお前の子の代には
孫の代かな
オーロラは必ず戻って来る
オーロラと言う名を忘れるんではないよ!

[やぶちゃん注:「艤装」は「ぎそう」と読み、一般には船舶に限らず、自動車や鉄道等の製造過程に於いて、原動機や車室内外の各種装備品等を本体に取り付ける工程を言う。――この詩は、先生――遙かな未来の徐福――永遠の未来のニライカナイ――永劫のカーゴ・カルトを夢見た詩ですね――]

慧可断臂 土岐仲男

慧可断臂

達磨は天竺から渡って来て
中国の嵩山で面壁の坐禅をはじめた
坐禅は何年も何年も続いた
中国人は最初この乞食坊主を相手にしなかったが
やがて彼の名は漸く人びとの尊敬を集めるようになった

丁度その頃のことである

  慧可はだまって面壁する達磨の背後に立った
  達磨は依然として坐禅を続けた
  達磨は慧可に気がついているのであろうか
  雪がひひとして降りはじめた
  慧可の足は冷えて来た
  達磨は依然として坐禅を続けていた
  雪は脛まで積もった
  やがて雪は膝を越した
  達磨は坐禅を続け慧可は立ちつくした
  雪は腰を埋め腹を埋めはじめた その時
  「お前はそこで何をしているのだ」
  はじめて達磨が慧可に声をかけた
  「あなたは何を考えていらっしゃるのですか」
  慧可は突差に叫んだ
  達磨は何も答えずにふり向いて又座禅を続けた
  雪はなお降り続いて慧可の首にまで達した
  やがて雪は溶けはじめたが
  慧可の身体は瘦せ細って腐って行った
  然し達磨は坐禅を続け慧可は立ちつくした
  そして又幾月かが過ぎた
  「お前はそこで何をしているのだ」
  達磨は振り向いて再び問うた
  慧可は答える前に劔を抜いて左腕を切り落とし
  それを達磨に献じて叫んだ
  「どうすれば悟れるのですか」
  達磨は答えた
  「悟ればよいのだ」
  達磨ははじめてしみじみと慧可を見た
  「どうやらお前は俺の弟子になれそうだ」

   慧可ははじめてこうして達磨の弟子になった
   達磨の面する岩に清水が迸走り
   新芽をつけた小枝には色鳥が飛び交わしていた
   見上げる空には断雲がころび
   達磨と慧可の胸の間にはじめて同じ温かい血が流れた

   中国禅の初祖達磨と
   中国禅の二祖慧可は
   こうして師弟の交を結んだ

[やぶちゃん注:「嵩山」は「すうざん」と読む。現在の河南省鄭州市登封にある。この山群の少室山北麓に嵩山少林寺があり、ここがインドから中国に渡来した達磨による禅の発祥の地とされ、中国禅の名刹として知られる。私は雪舟の有名な絵で知られる「慧可断臂」の逸話が事の外、大好きなのだが、それを語る話柄の中でも、酒詰先生のこの詩は、他の追従を許さない、非常に優れたものである。三段階のパートの字下げはママである。]

S―― 土岐仲男

S――

またあるときはさみどりの
賀茂の山べの草を藉き
君と語らうたのしさよ
燃ゆる思はうたとなり
いく山脉(やまなみ)を打ち越えて
はるばる空へながるれば
わがこえいつかそを追いて
ふるえももつつまろぶなる
この日この君いと若く
この日この時われ若く
過ぎし月日は夢と消え
君人妻の絆(きづな)なく
われに衣食の憂なし
血しほのたぎる胸二つ
つらぬく情念(おもひ)一つなり
君かろやかに脚を投げ
風に吹かるるおくれげを
われかきあげてしのびかに
くちずけすればあかあかと
夕空遠くカラス飛ぶ
球打ちいそぐゴルファーの
色とりどりのセーターも
浮世の夢の影と消え
楽しき園の絵の如し
ああかかる日のかかる時
夜のとばりのはや落ちて
われらの彫像つつめかし――

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「S」とは先生の奥様である静枝さんである。本詩は珍しく一部に歴史的仮名遣が用いられている。表立っては技巧を感じさせないが、その定型がお洒落に成功しており、その歌垣としての詩想も透明で美しい。なお底本では目次が「S――」、本文が「S―」であるが、目次の標題を採用した。]

ゾウ(象) 土岐仲男

ゾウ(象)

やさしい眼をした
どこまでも続く肉の塊
鼻もゾウで
耳もゾウで
しっぽもゾウだ
ゾウでないゾウだけが
いと静かに宇宙に漂う
どれがゾウで
どれがゾウでないのか
全きゾウ
一部のゾウ
ふくれるゾウ
しぼむゾウ
硬いゾウ
やわらかいゾウ
ゾウでないものがなければ
ゾウであるものがない
ゾウは鼻を振って
尻尾を振って
木の幹の如き
四つ脚をふんまえて
歩いて行く
歩いて行く
ゾウでないゾウと
永遠の虚無へ――

[やぶちゃん注:この詩が村上昭夫の「動物詩集」に紛れ込んでたら、誰もが村上昭夫の詩だと思うのではあるまいか? 村上昭夫の「象」をここに掲げておく。

    象

 象が落日のようにたおれたという
 その便りをくれた人もいなくなった
 落日とありふれた陽が沈むことの
 天と地ほどのへだたりのような
 深い思いをのこして

 それから私は何処でもひとり
 ひとりのうすれ日の森林をのぼり
 ひとりのひもじい荒野をさまよい
 ひとりの夕闇の砂浜を歩き
 ひとりの血の汗の夜をねむり
 ひとりで恐ろしい死の世界へ入ってゆくよりほかはない

 前足から永遠に向うようにたおれたという
 巨大な落日の象をもとめて

酒詰先生は恐らく法(カルマ)を象徴する普賢菩薩の乗る象から、禪の空(くう)のシンボルとして象を形象として選んだように私には思われるが、村上氏の「前足から永遠に向うようにたおれたという/巨大な落日の象をもとめて」という最終行は、先生の「ゾウでないゾウと/永遠の虚無へ――」と恐ろしいまでに響き合っている。では――酒詰先生が村上昭夫の「動物哀歌」を読んでいた可能性は?――これは、あり得ないのだ。「動物哀歌」の出版は先生の死から二年後の昭和四十二(一九六七)年だからである。――でも、もし酒詰先生が「動物哀歌」を読んだら、きっと誰よりも感動されたに違いない。――いや、村上昭夫が先生のこの死を読んでいたら(それはあり得ない)、きっと彼の「象」も少し変わっていたかも知れないな……]

エルモライ最後の写真帖14

フィヨドール様――今月ノテレジア公爵夫人ノ御命日19日ヲ以テミクーシノ農園牧場水族館ヲ総テミクーシ政府ノ強制執行ヲ受ケル前ニ私自ラノ手デ解放致スコトニ決シマシタ――今日既ニ御親族ノ名ヲ付ケラレタ魚ト一部水母ヲ残シテ魚達ヲ海ヘ放流致シマシタ――悪シカラズ――水族館ノ水槽ハ第一水槽ノ「FLEURS DU MAL」ト第五水槽ノ「死なない蛸」ヲ残シテ御座イマスガ当日ニハ総テノ魚達ヲ放流致シマスノデ御心配ナキヨウニ――最後ノ水槽ノ写真ヲオ送リ致シマス――コレハ今日先程放流スル直前ニ記念ニ撮リマシタノデスガ「エピクロスの園」ノ写真ヲ撮リソコナッテ御座イマスノデコレダケハ古イ以前ニオ見セシタモノニテ失礼致シマス。

「在りし日の『FLEURS DU MAL』」

Owakareakunohana

「在りし日の『瓔珞之禁裏』」

Owakareyouraku

「在りし日の『エピクロスの園』」

Epikurosu

「在りし日の『金城哲夫沖繩水族館』」

Owakarekin

「只今の『死なない蛸』 ――今ハココハ文字通リ蛸ノ魂ダケガ飼育サレテオリマス――」

Sinanaisaigo

「在りし日の『一人だけの部屋』」

Owakarehitori

――最後ニ今ノ『FLEURS DU MAL』デ御座イマス――

2011910   

鎌倉攬勝考卷之八 御臺所〔政子〕御産所舊跡 御臺所〔政子〕濱御所の舊跡 竹乃御所の舊跡 二位禪定尼御所の亭跡

「鎌倉攬勝考卷之八」の「御臺所〔政子〕御産所舊跡」「御臺所〔政子〕濱御所の舊跡」「竹乃御所の舊跡」「二位禪定尼御所の亭跡」の4項を公開した。ここでは先般の原則から外れて、かなり細かな注釈を附した。それは植田孟縉がかなりの箇所で、重大な錯誤をしており、それが看過出来ない部類の重大な誤りであるからである。時間が掛かったが、「吾妻鏡」から引用をし、それらを訂正し解説してある。また、僕がどうしても注せずにはいられなかったのは、そこに鎌倉時代史の中の女人の哀しみが漂っているからでもある。是非、この4項だけでもお読みあれ。

銚子屏風ヶ浦 土岐仲男



銚子屏風ヶ浦

 

作為者は天地の焰

観客は太陽(ひ)一人

日本の陸島の東極

太平洋に直面するところ

千仭の崖屏風の如く

立ち亘るその曲輪(まがわ)いく粁

顧れば犬吠の端(はな)より

海霧に見えつかくれつ

銀色に細く

渚の曲線立てり

風は無きがごとくにして

砂つぶて草に音して流れ

波は動かざるごとくにして

時に岩にあたれば

雪白の飛沫

しばらく中空に漂漾する

この時足下に

白き海鳥の猫声湧き起こる

崖端に沿い

地隙を飛び越え

砂上のわが黒影を踏む時

見出でたり一塊の土器片に混じて

イヌの枯骨白き歯を揃えて笑うを

赤禿遺跡とは

そも誰が名付けし

日本の太古

このイヌを牽き連れ

この丘を彷徨いし人や誰

海坂(うなさか)高く垂雲に接し

この時

太平洋は

一点の帆影を点ずるなし

 

[やぶちゃん注:この詩は全体に漢詩を意識したようなところがあり、多くの漢語が音読みされる。従って「誰」も「たれ」と清音で読みたい。私はこの詩も大好きだ。ここには酒詰先生が明らかにした縄文人の飼育していた父の『落葉籠』(PDFファイル)にも登場する縄文犬を連れた、砂丘を行く縄文時の映像が素晴らしい。ところが「赤禿遺跡」という遺跡は千葉県銚子市内には現在、見当たらない。しかし、この銚子市屏風ヶ浦周辺には複数の貝塚遺跡があり、銚子ロータリクラブ会誌っぱ一八六の銚子市郷土史談会会長大木衛氏の「銚子は古代より生活の適地=市内の遺跡から古代人の生活=」によれば、この一帯は旧石器時代から『近くに湧水地もあり、生活に適した地とされる。この時代は、人々は生活し易い温暖で食料としての木の実やヤマイモやユリなどの球根が食料とされ、若葉や水を求めてくる小動物を捕らえての、自然をうまく利用しての生活とされて』おり、『銚子の屏風ヶ浦に面した地は、海からの魚や磯の貝などが豊かで、年間を通して温暖な地として数年の定着した地とされる。下総地方は旧石器時代の遺跡が少ない地として、古代人の自然物を食料とし、漂泊した時代であるが、生活条件の良い地としてこの地方で唯一の地とされる』とある。その中でも私には、現在の銚子市粟島町・南小川町・西小川町に跨る大きな粟島台遺跡がこの詩の舞台ではないかと感じさせる(現地に行った訳ではないから、とんでもない勘違いかもしれないが)。何故なら、現代の地図では、この遺跡から西南西へ二キロ弱の地点に銚子の「屏風ヶ浦」があり(「浦」であるからこれは実は遺跡の南五百メートル、見下ろす形の入り江を指すと考えてよい)、更に東南東二キロ弱の位置に犬吠埼があるが、そこから南を海岸線に沿って回り込んでこの粟島台遺跡を西側の根とする岬全体を犬吠埼と呼称するのである。そして、決定打は、ここに確かな先生の足跡を確認したからである。以下、銚子ポータルサイト「すきっちょ くるっちょ」の「とっておき、銚子散歩」の「粟島台遺跡」(二〇〇八年一月)より引用する(アラビア数字を漢数字に変換した)。

   《引用開始》

粟島台遺跡は、舌状の台地とそれを取り巻く低湿地によって構成されています。台地上には縄文時代前期の住居跡があり、低湿地には主として縄文時代前期から後期初頭にわたる遺物が層をなして包含されています。特にこの包含層は土器・石器はもとより、動植物などの有機質の遺物が、質・量ともに豊富に出土したことで知られています。

 この遺跡については、一九三三年(昭和八)頃に、吉田文俊という考古学愛好者が、石器や土器を多数発見したのが始まりとされています。その後、一九四〇年(昭和十五)三月に、東京大学人類学教室から酒詰仲男・和島誠一の両考古学者が遺跡を訪れ、初めて学術調査が行われ、後に『下総国小川町貝塚発掘略報』を発表しました。

   《引用終了》

詩の中には波の花に類似した現象を記しているが、波の花は通常、冬場に発生するから、この記載の三月というのは決して不自然ではない。また親潮と黒潮がぶつかり合う犬吠埼ならば、この現象が起きてもおかしくない。それにしてもあの酒詰先生が遺跡名を誤記するとは思えない。「赤禿」という遺跡名、若しくは他に相応しい比定地があれば、是非、御教授を乞うものである。

「太陽」は二字で「ひ」と訓じている。

「漂漾」は「ひょうよう」と読み、漂うこと。

「白き海鳥の猫声」言わずもがなであるが、チドリ目カモメ科カモメ属ウミネコLarus crassirostris。]

無題 土岐仲男

無題

また逢う日まで

さちあれと

いのりしこころもことなり

あきの没り日の

おののきて

せすじをとおる一条(すじ)の

かの秋風のつめたさよ

光陰はそ矢と流れ過ぎ

生(よ)の煩いにうみつかれ

また会うつても機(おり)もなく

老いにけらしな今日ははも

時には痛むこの胸を

君に伝えんすべもなや

心の底に一すじの

潔き音(ね)と鳴る

よき君よ

その一条(すじ)の楽の音(ね)に

生きぬく今のこのわれを

実なきものと言うなかれ――

[やぶちゃん注:「没り日」は「いりひ」と読む。「光陰はそ」の「そ」は代名詞。それは。「けらしな」は過去の助動詞「けり」の未然形+推量の助動詞「らし」の、「けるらし」の約されたものに、詠嘆の間投助詞「な」が附いたもの。「けらし」は古くからあったが近世以降に「らし」の推量の意味が失われ、過去(詠嘆)の婉曲的用法として用いられるようになった。「今日ははも」の「はも」は取り立ての係助詞「は」に、終助詞「は」+終助詞「も」の連語が附いたもので、強い詠嘆を示す上代語である。]

達磨 土岐仲男

達磨

大人(だいじん)は頭のいい人ですね
十年面壁して悟を啓いたのですってね
私は十年の十倍かかっても
とても大人(だいじん)の裳(すそ)にも触れそうにありません
ただ私にはまだ手もある脚もありまする
もう暫く陋巷にあぐらをかいてみましょう
悟が先か死が先に来るか
とにかく私は私のいまの悟を
その時まで大切に抱き
大切に育てて行きましょうぞ
大人だけが体得(たいとく)して
われわれがまだ知らない世界が
そこにあると聞くだけで
われわれには生きて行く希望が生まれ
そして生きて行く勇気が湧いて来まする
衣食住からはみ出した
摩訶不可思議の世界を
われわれ人類にお与え下さった
達磨よ!
私は大人(だいじん)の履物に額をすり寄せて
恭しく礼(いや)し拝しまつる

スキャンベンジャーズの群 土岐仲男

スキャンベンジャーズの群

死臭に集まる敵影に

爛々たる警戒のひとみを凝らしつつ

腕の利鎌(とがま)を

腐肉に打ち込み

打ち込み

腐肉の美味に身を打ち慄わせ

歯をならす

汝スキャンベンジャーズの群よ

昼は太陽(ひ)をおそれて

木の根の黴に身をひそめ

宵闇と共に

欣嬉雀躍して這い出ずるもの

地軸の朽ちるその日にも

ああ汝等は

汝等は

銀色のほの暗い月光の下で

あらゆる獣類の腐肉に埋もれて

濁った血液の乾杯を挙げ

神々の恩寵をことほぐであろう

[やぶちゃん注:「スキャンベンジャーズ」は<Scavengers>で、表記は「スカベンジャーズ」が正しい(本来は英語教師だった酒詰先生に言うのもなんなんですが)。<Scavenger>【skˈævɪndʒə】は可算名詞で、「腐肉食動物」の意。一般には腐肉を食う動物であるハゲタカやジャッカルなどを指すことが多いが、ここで酒詰先生が想定しているのは、「腕」に「利鎌」を持ち、「歯をならす」動物で、「昼は太陽(ひ)をおそれ」る「宵闇と共に」「欣嬉雀躍して」出て来る夜行性で、その体軀は「木の根の黴に身をひそめ」ることが出来るほど小さい、その動きは「這い出ずる」と表現するようなものである。これは最早、昆虫しかいない。これら総ての条件と一致するのは、ただ一つ、鞘翅(甲虫)目カブトムシ(多食)亜目ハネカクシ上科シデムシ科 Silphidae のズバリ、シデムシ(死出虫)類である。英名も<Carrion beetle>(腐肉を食らう甲虫)。以下、ウィキの「シデムシ」より引用する。『シデムシは、動物の死体に集まり、それを餌とすることで有名な甲虫である。名前の由来は、死体があると出てくるため、「死出虫」と名づけられたことによる。また、死体を土に埋め込む習性をもつものもあるため、漢字では「埋葬虫」と表記することもある』。体長は三ミリメートルから三センチ内外。『頭部には大顎がよく発達する。触角は先端がふくらんでいる。体は平たく、黒っぽいものが多い』。『体型は、モンシデムシ類は前胸は丸っこく、同体はほぼ後ろがやや幅広い台形、羽根の後端から腹部末端が覗く。多くはつやがあり、黒っぽい羽根に黄色の斑紋をもつものもある。ヒラタシデムシ類は全体が小判型で、黒い艶消しの体をしており、やはり羽根の後ろから腹部末端が覗く』。習性は『そのほとんどがその名の通り死肉食、あるいは死体で繁殖するハエの幼虫を捕食するなど動物の死体に依存した生活を送る。中には動物の糞で繁殖するハエの幼虫をもっぱら捕食しているものもある。また、死体だけではなく、腐敗したキノコやその他の腐敗物に集まっているのも見ることがある』。『幼虫も同様のものを食物とする。ヒラタシデムシ類のように幼虫も単独自由生活で餌をあさるものもあるが、成虫が幼虫を保護する習性が発達しているものもある』。特にモンシデムシ属 Nicrophorus の『シデムシは、家族での生活、すなわち亜社会性の昆虫である。雌雄のつがいで小鳥やネズミなどの小型の脊椎動物の死体を地中に埋めて肉団子に加工し、これを餌に幼虫を保育する。親が子に口移しで餌を与える行動も知られており、ここまで幼虫の世話をする例は、甲虫では他に見られないものである』。『なお、この死体を土の中に埋め込む行動については昆虫学者ファーブルの興味を引き、昆虫記の中で様々な実験を行なってその習性を検討している』。因みに、たまたま調べたウィキの「腐肉食」には、「古人類は屍肉食いであったか」という項目の下、米国ユタ大学の研究者が二〇〇四年に『初期人類は、動物遺体から屍肉を集め、石を使って骨を割り、栄養価の高い骨髄を得ることを生息手段とする、一種の腐肉食動物であったとの仮説を提唱した』。『人類は競合者に先駆けて動物遺体を手に入れるため、発汗による高い体温調整能力を始めとし、弾性のあるアキレス腱や頑丈な脚関節といった「速いピッチでの長距離移動の能力」を進化させ、広い地域を精力的に探し回る者として特化したとするものである。このような適応の傾向と栄養価の高い食物が大きな脳の発達を可能にしたのではないかと説い』ているという記載があった。「太陽(ひ)」は二字で「ひ」と読ませている。――酒詰先生、先生は予言されていたのですね、人類もスカベンジャーだったと。――]

岩 ――石女夜生子―― 土岐仲男

――石女夜生子――

岩に何回頭をぶつけるのだ

十回か

百回か

百万回か

その度毎に皮膚が破れて

血糊が霧と飛ぶ

眼球がとび出して潰れ

鼻がひしゃげ

舌もなくなる

それでもなお止めてはいけないのだ

まだまだ岩に頭をぶっける

遂に頭が岩になり

岩が頭になる

その時人は岩であり

岩は人である

人が岩に入いり

岩が人に入いる

世界が岩になり

宇宙が人となる

岩は軽く飛行し

人がその中にいる

天使が来てそのものを護り

天使がそのもののために楽を奏でる

いつかそれは釈迦と合体し

時間と空間をすりぬけて

絶対の虚空に定着する

[やぶちゃん注:題の添書の「石女夜生子」は、「正法眼蔵」「山水経」巻頭に現れる。以下に「松門寺の坐禪會」の「正法眼藏」を元に画像埋込漢字部分を代えたものを引用する。読みは適宜、私が歴史的仮名遣で補った(読みついては個人ブログ「翻訳家のノート」の「第二十九山水経ノート(1)」を参考にさせて頂いた)。

而今(しきん)の山水は、古佛の道現成(だうげんじやう)なり。ともに法位に住して、究盡(くじん)の功德を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計(かつけ)なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱(とうとつ)なり。山の諸功德高廣なるをもて、乘雲の道德かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透するなり。

大陽山楷和尚示衆云(大陽山楷和尚、示衆(じしゆ)に云く)、

「靑山常運歩、石女夜生兒。」(靑山 常に運歩し、石女 夜 兒を生む。)

山はそなはるべき功德の虧闕(きけつ)することなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。さの運歩の功德、まさに審細に參學すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人間の行歩(ぎやうふ)におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。

いま佛祖の道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究辨(きうはん)すべし。運歩のゆゑに常なり。靑山の運歩は其疾如風(ごしつによふう)よりもすみやかなれども、山中人(さんちうにん)は不覺不知なり、山中とは世界裏の花開(けかい)なり。山外人(さんげにん)は不覺不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覺不知、不見不聞、這箇道理なり。もし靑山の運歩を疑著(ぎぢや)するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに靑山の運歩をもしるべきなり。

青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま山の運歩を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として靑山を照鑑すべしとしらず。靑山の運歩、および自己の運歩、あきらかに撿點すべきなり。退歩歩退、ともに撿點あるべし。

未朕兆の正當時、および空王那畔より、進歩退歩に、運歩しばらくもやまざること、撿點すべし。運歩もし休することあらば、佛祖不出現なり。運歩もし窮極(きゆうごく)あらば、佛法不到今日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向(けかう)せず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功德を山流(さんる)とし、流山とす。

靑山も運歩を參究し、東山も水上行を參學するがゆゑに、この參學は山の參學なり。山の身心をあらためず、山の面目ながら廻途(ういと)參學しきたれり。

靑山は運歩不得(ふて)なり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下(ていげ)の見處のいやしきゆゑに、靑山運歩の句をあやしむなり。小聞のつたなきによりて、流山の語をおどろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺(ちんじやく)せるのみなり。

しかあれば、所積(しよしやく)の功を擧せるを形名(ぎやうみやう)とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山兒を生ずる時節あり、山の佛祖となる道理によりて、佛祖かくのごとく出現せるなり。

たとひ草木土石(どしやく)牆壁の見成する眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。たとひ七寶莊嚴なりと見取せらるる時節現成すとも、實歸にあらず。たとひ諸佛行道の境界と見現成あるも、あながちの愛處にあらず。たとひ諸佛不思議の功と見現成の頂※(ちんにん)をうとも、如實これのみにあらず。各各の見成は各各の依正なり、これらを佛祖の道業とするにあらず、一隅の管見なり。[やぶちゃん字注:「※」=「寧」+「頁」。]

轉境轉心は大聖の所呵なり、説心説性は佛の所不肯(しよふけん)なり。見心見性は外道の活計(かつけ)なり、滯言滯句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる靑山常運歩なり、東山水上行なり。審細に參究すべし。

石女夜生兒は石女の生兒するときを夜といふ。おほよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補(ふ)し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理しるべし。生兒のときは親子並化するか。兒の親となるを生兒現成と參學するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證なりと參學すべし、究徹すべし。

「山水経」とは山水の景色が教える仏性の謂いである。私は「正法眼蔵」は「隨聞記」の方を少しかじったのみで、太刀打ち出来ないのでToshiのブログ「Be quiet」の「正法眼蔵・心訳ノート 山水経」(1~4とあり、リンク先は1)から氏の現代語訳部分を引用させて頂く(但し、段落は原文に一致させてある)。但し、この方の訳は上記引用部の最後の三段落が未訳であるので、高杉光一氏の「正法眼蔵 山水経」の現代語訳を参考にさせて頂きながら(特に「石女、夜、兒を生む」以下の難解な段落では高木氏の訳が大いに役立った)、Toshi氏の訳に繋がるような訳を行った。両者の方に感謝する。

   《引用開始》

今、ここにある山水は、仏の教えを現成したものである。いずれもそのものになり切っており、窮め尽くされた功徳をたたえている。それらは、分節未然の途方もない過去からの(時を超えた)存在であるがゆえに、今ここに、いのちあるものとして存在しているのである。分節未然の途方もない過去からの(時を超えた)自己であるがゆえに、今ここでの透脱(解脱)を果たしている。山の諸々の功徳は高く広いために、雲に乗り世にはたらく道は、必ず山から発せられるのである。風に乗って世にはたらく妙なる功徳は、確かに山によって解脱しているのである。

大陽山の道楷和尚が、僧達に示して言った。

「青山は常に歩を進めており、石女は夜に子を産む」

と。

山は備わるべき功徳が欠けているということがない。このために、常に山は山になりきっており、常に歩を進めている(功徳を生じている)。その(山の)功徳の働きを、子細に学び究めるべきである。山の(功徳の)働きは、人間の(功徳の)働きと同じなのであって、人間が歩を進める姿と同じに見えないからと言って、山の(功徳の)働きを疑ってはならない。

ここで道楷和尚の説いていることは、すでに功徳の働きを示しており、これは仏の教えの根本である。「常運歩」の示しているところを、学び究めなさい。(山の)功徳の働きによって、安住している。青山の(功徳の)働きは、疾風よりも速いが、山の(功徳の)中に居る人は、そのことに気づかない。山中には、世界の全体が現成している。山の外にいる人は、そのことに無頓着である。山(の働き)を見ることのできない人は、こうした道理を知ることもなく、見ることも、聞くこともない。もし山の(功徳の)働きを疑うというならば、自らの(功徳)の働きをも知らないのである。自己の(功徳の)働きがないのではなく、まだ知らないのである。明らかにできていないのである。自己の(功徳の)働きを知るように、青山の(功徳の)働きをも知らなければならない。

 青山はもはや生物でも無生物でもない。自己もまた生物でも無生物でもない。いま、青山の(功徳の)働きを疑うことはできないのである。幾星霜を尽くして、青山の働きを明らかに究めるべきであることを人は知らない。青山および自己の(功徳の)働きを、明らかに調べなければならない。前に進むだけでなく、後ろに歩む働きについても、調べなければならない。

分別未然のまさにその時より、進歩退歩ともに、(功徳の)働きがひとときも病むことがないのを、よく調べなければならない。(功徳の)働きがもし止むことがあったならば、仏祖は現れなかったであろう。(功徳の)働きに極まりがあるのであれば、仏の教えは今日まで伝わらなかったであろう。進歩はいまだ止むことがなく、退歩もいまだ止むことがない。進歩のときは退歩に背くことなく、退歩のときは進歩に背くことはない。この功徳を「山が流れる」と言い、「流れるが山」と言うのである。

青山も(功徳の)働きを学び究めており、その他のあらゆる方面の山々も水上を行く働きを学び究めているがゆえに、我々が学ぼうとしていることは、これら山々が学び究めようとするのと同じである。

山がその姿のままさまざまに仏の道を学び究めてきたのである。「青山は歩むことなどできない、その他のあらゆる方面の山々も水上を行くことなどできない」と山を誹謗してはならない。自らの視点が低くいやしいために、青山運歩の句を疑ってかかるのである。見聞が狭くつたないために、流山の語を受け入れがたいのである。いま、流水の語は広く理解されているとは言えず、理解の低い者どものあいだに捨て置かれている。

そのために山の(功徳の)働きが、目に見える事実としても、真理としても顕れているのである。山は歩みを進め、山は流れゆく。山が山を生むときがある。山が真理を究め尽くして仏祖となるがゆえに、仏祖はこの世に出現したのである。

   《引用終了・以下は私こと淵藪野狐禪師訳》

たとえ、「山は草木・土石・土塀によって山として構成され成立している」という認識があっても、それは取り立てて疑ったり迷ったりすべきことではなく、また、それによって山のすべてが現成する――分かる訳ではない。たとえ、「山は宝玉輝く荘厳なる聖地である」と見える時があっても、それだけが総ての現成――真理な訳ではない。また、「山は諸仏が修行する結界である」という見解があっても、そうした考え方に執着してはならない。また、「山は諸仏の摩訶不可思議なる働きを現わしている」という、どう見ても最も適切なる現成たる捉え方が認知出来たとしても、実はそれでも、真理はそればかりではない。それぞれの捉え方は、それぞれの立場に基づくものに過ぎず、いずれもが諸仏祖が悟達した世界とは異なる狭い捉え方でしかない。

こうした物心を分離して捉えようとすることは、釈尊が何よりも戒められ、心と本質を分けて説くことは、諸仏祖もまた求めなかったことである。ましてや、ただ心や本質を上辺だけで捉えて済ませようとするのは、禍々しい異教徒の仕儀に他ならないのであり、一言一句に拘わって滞留してしまうのは、悟達の道では、ない。このような状況世界を一瞬のうちに超えることが、ある。それが今ここに述べた、「青山は常に歩を進めている」であり、「東山が水上を行く」ということなのである。これを子細に学ばねばならない。

 「石女、夜、兒を生む」――石女(うまずめ)、夜、子を生む――というのは、子を孕まぬはずの女が子を生む時、それを「夜」と言うのである。即ち、そこでは女も子もすべてが区別を超越して「夜」がその総てを一体とし、総ての対立から完全に自由であるということなのである。石女などと取り立てて言っているが、この世には他にも男石・女石・非男女石があり、彼らは天地の欠けたところを補っている。いや、また、天石・地石がある。これらのことは実は、俗世間の者がしばしば口にすることなのであるが、その真実を知る者は実は、稀である。われわれはこの「生児」(児として生まれる)という言葉の真意を知らねばならないのだ。「生児」――生まれた児の時は、親と子は当たり前に一緒に在る――いや、それだけが「生児」か?! 「生児」――児を生んで親となる時も、これ「生児」の現成である、とばかり分かっただけで参学し得たと思うか?!――いや、「その親がその子となる」時にこそ「生児」の真実の認識がそこに現成するのだということをこそ学べ! 極め尽くせ!

「楷和尚」芙蓉道楷(一〇四三年~一一一八年)。宋の禅僧。曹洞宗。本邦の曹洞宗では中国第十八祖に数える。

――酒詰先生、偉そうですが、キリスト教も包含してしまう超宗派的神話世界を持ち込もうとされたのでしょうが、私としては最後の「天使」は「飛天」としたい気がします。そうです、あの薬師寺東塔水煙に居る、楽を奏でる飛天です。――]

2011/09/09

秋草 土岐仲男

秋草


むさし野の空晴れて
つゆけき草の色どり
憇うこころのやすらかさ
みにくきものよ
わずらいよ
かさなり充ちる生(よ)はとまれ
心のすみに咲き匂う
ここむさし野の秋草に
祈れ
平和のひとときの
いとささやけき一ふしの
美(は)しき生命(いのち)の表徴(シンボル)に

ああ麗わしき表徴は
ささやかなれど
滅びざり
人の心の野の果てに
咲き乱れつつしのびかに
まことにしあるものとして
心と共に生きて行く


むさし野の空晴れて
咲き出し花に憇うとき
心ゆたかに盈ちあふれ
幸福ほのかにあたたまる!

[やぶちゃん注:「ささやけき」は文法の誤りではない。これは「細やけし」ク活用連体形で、小さい、細かい、小さく纏まっている、こじんまりとしているの意。「しのびかに」も「しのび」(忍び)という「目立たないようにすること、人目を避けてひそやかにすること」という意の名詞に、状態を表す体言を形作る接尾語「か」が附き、それが形容動詞ナリ活用化した、その連用形である。「まことにし」の「にし」は格助詞「に」に強意の副助詞「し」が附いた強調体で、既に「万葉集」にも用例が多く見られる。僕は詩集「人」の中でも、この詩が特に好きだ。一種の定型的音律があって朗誦心地よいことと、そして、この詩の僕の心の映像に、僕の大好きな国木田独歩の「武蔵野」を、そしてやっぱり大好きな手塚治虫の「鉄腕アトム」の「赤いネコの巻」を、そして僕の小説「こゝろ佚文」を鮮やかに見るからである。]

蓮の華 土岐仲男

蓮の華

蓮の華は咲いている
一つ一つ花弁はくねり
一つ一つの色の濃淡
どこかに䕃をつくり
どこかで光をはじく
一ひらではなく
二ひらではなく
まこと万朶のはなびらが
立つもあり
坐するもあり
跳るもなりわだかまるもあり
おのがじし思い思いに
左し右しおどけつつ考えつつ
しかも相集って何かを抱く
汚れた水の上
澄んだ水の上
流れ流れる水の上
何か尊いものが真中にあって
また尊いものが普ねく亘っていて
それが美しい香と棚引き
何の微粒子かわからぬものもあって
それでいて全部が整然と乱れ
開き揃っていると言えば揃い
たしかに咲いている
昨日までは無かった事
明日はまた内であろう事
それ故に愉しく
それ故に悲しく
それ故に憂いなく
しかも億万劫の生命を伝え
億万劫の悩みと解決を伝え
今の刹那は
それを確かに明らかに咲いている事
力一杯に咲いている事
その華は私であり
私は又その華でもある
その華は私の恋人のヨニーであり
その華は又赤ん坊の乳房である
釈迦自らが見
釈迦自らが成就した華
その華を私も見る
釈迦の華は釈迦の華であり
私の華は私の華である
宇宙全体が一華であり
事々無碍がそこにある
誰もその華を見ようとは言わない
その華は誰にも見えないところの咲いている
然しその華は誰にも見えている
眼を閉じても
眼を開いても
華は無く
華は有り
華は
華は
釈迦の愛した蓮華である

[やぶちゃん注:「ヨニー」は梵語の<yoni>で、女陰または子宮、女性生殖器。一般には外生殖器を指すことがことが多い。ヨニ。男根を意味する対語は<linga>。
「事々無碍」は「じじむげ」と読む。「事事無碍法界」のこと。「華厳経」に基づく華厳思想では四法界(事法界・理法界・理事無碍法界・事事無碍法界)という考え方がある。「法界」とは、我々の感知可能な現実と、その裏面にある実相を含めた世界全体を言う。無常の現象としての現実世界を「事」の世界として捉えて「事法界」、その「事法界」を働かせている原理の世界が「理法界」、その「事」と「理」が妨げ(「碍」)が全くなく、複雑に絡み合って渾然一体となり、共鳴し合っている状態が「理事無碍法界」、そこから「理」を取っ払って「事」だけとなっても、「理事無碍」と変ることなく渾然一体共鳴共振状態にある完全調和した世界を「事事無碍法界」と言う。
ここで仲男の言う「蓮華の華」は、また「古事記」や「日本書紀」に載せる、「ときじくの花」(垂仁天皇が常世国に使者を遣わして持ち帰らせた不老不死の霊薬「非時香菓」(ときじくのかぐのこのみ)「非時香木実」(時じくの香の木の実)」であり、芥川龍之介の「スマトラの勿忘草」でもあったに違いない。]

平常着 土岐仲男

平常着

平常着はいいなあ
誰にも見せるものではない
それだのに美しく
それだのにしっくりと身体に合っていて
いつも真心をこめて
この私を守ってくれる
朝から晩まで
遠慮なく忘れることができて
私がお前を裏切っても
お前は決して私を欺かない
どんな姿勢をしても
どんな汚ない仕事をしても
お前はじっと私についている

平常着はいいなあ

雑草 土岐仲男

雑草(あらくさ)

今年の春も
また雑草を引いている
去年も抜き
一昨年(おととし)も抜き
抜き抜きて絶えざるもの
なんじ雑草よ!
雑草は強きかな
雑草は逞しきかな
雑草は数多く
雑草は偉くなく
然し抜いても刈っても
雑草はまた出て来る
土の精を吸いとって
それはすくすくと成長する
いそがずに確実に無遠慮に
雑草は生き生きて絶えない
雑草と戦うことは
所詮人類の宿命なのだ
遠古以来
人類は雑草と戦い続けて来た
人類が雑草をやっつけ
雑草が人類をやっつけ
そこには永遠の死闘があった

雑草と戦う人だけが
雑草の強さを知っている
刈りとって火に投げ込む雑草が
声高く哄笑するその声を聞け

雑草には知恵もなく
雑草には思想もなく
雑草には意地もなく
雑草には名誉もなく
滅び滅びては又生きて来る

雑草は悪魔である
雑草は神である
ああそれは厳粛なる存続
雑草よ!

老子 土岐仲男

老子

老子はそこにいた
老子はそこにない
青い煙が漂い
その中から金鉱が燦と輝く
カラカラと大笑して
老子は出て来た
そこには人類の玩具
スプートニックが飛んでいた
「今いるのはどこだと思う」
老子は私に問うた
「わかりません」
と私は素直に答えた
「木星の上さ」
老子は答えた
続いて劇しい目まいがして
やっと私は立直った
「今いるのはどこだと思う」
老子は私に問うた
「わかりません」
と私は素直に答えた
「N宇宙のN星の上だよ」
老子は答えた
「生命について述べて下さい」
私は耐まり兼ねて訊ねた
「私はお前の中に生きている」
老子は即座に答えた
そこで老子である私は叫んだ
「絶対に住み
 絶対を着
 絶対を食う時に
 虚無――
 なくてある世界
 人類はそこに行き着くのだ」

[やぶちゃん注:スプートニク1号は1957年10月4日に打ち上げられ、以降、人類初の人工衛星計画として動植物の生存帰還を果たしたスプートニク5号(1960年8月19日発射、翌日軟着陸回収)まで続いた。Спутник( Sputnik ・スプートニク)というロシア語の原義は「旅の道連れ」「つきもの・付随するもの」の謂いで、これより「衛星」そして「人工衛星」という意味を持つようになった。]

2011/09/08

カテゴリ 土岐仲男 花月風流の道(序にかえて)/みどりの祭典

カテゴリ「土岐仲男」を創始する。

土岐仲男

(明治35(1902)年~昭和40(1965)年)
本名、酒詰仲男。日本考古学協会員・日本人類学会評議員・文化史学会理事・日本博物館協会評議員・日本貝類学会評議員・奈良県橿原考古学研究所所員・大阪府文化財専門委員・京都外国語大学講師・詩誌「世界詩人」極東詩委員(1925年8月刊行の創刊号による)。
明治35(1902)年5月29日
東京雑司ヶ谷生。
昭和 2(1927)年
同志社大学文学部英文科卒。東京開成中学校英語教諭となる。
昭和 9(1934)年
大山史前学研究所研究員。大山史前学研究所は陸軍少佐で文学博士であった大山柏(かしわ)が渋谷の自邸内に置いた、私設の考古学研究施設。遺跡調査研究・雑誌刊行・出土品展示を目的とし、考古学関連蔵書1万冊を公開するなど、戦後日本考古学の基礎となった機関である。
昭和14(1939)年
東京帝国大学理学部人類学教室嘱託。
昭和22(1947)年
東京帝国大学理学部助手。
昭和28(1955)年
同志社大学文学部専任講師。
昭和29(1956)年
同志社大学文学部教授。
昭和35(1960)年
論文「日本縄文石器時代食料総説」(画期的な手書きの労作である「日本貝塚地名表」附す)により文学博士。
昭和39(1964)年11月
同志社大学北ボルネオ学術調査隊隊長に就任(調査は翌年7月に行われた)。
昭和40(1965)年5月31日
ボルネオ学術調査のための準備研究を行っていた京都市紫野大徳寺高桐院の書斎にて喘息性心臓麻痺のために逝去。六十三歳。

私の父のたっての願いで、酒詰仲男遺稿として一周忌記念として七百部限定で出版され、酒詰静枝未亡人から父に謹呈された「土岐仲男詩集 人」を本ブログでの全テクスト化を行う。父には著作権に抵触することを何度も述べたが、鼻でせせら笑って大丈夫の一言、是非に及ばずである。父と酒詰仲男先生の関係については、僕のHPトップの「父のアトリエ」にある『落葉籠――昭和22(1947)年群馬県多野郡神流川流域縄文遺跡調査行ドキュメント――日本考古学の「種蒔く人」酒詰仲男先生の思い出に 藪野豊昭』(PDFファイル)を是非、参照されたい。父の話で印象的なのは、日本で初めて縄文時代の犬の埋葬墓を発見、狩猟用に縄文人が犬を飼育し、それを丁重に埋葬した事実を発表されたこと、戦争中、左翼思想を疑われ、特別高等警察から尋問を受け、先生の毅然とした態度が気に入らなかったからであろうか、殴られて歯が折れたというエピソードである。

ただ、同詩集の「序」の最後で、若き日に藤村や晩翠の詩を愛好した元同志社大学総長住谷悦治氏は、酒詰先生が密かに詩を創作していたことを知って正直、驚き、その「無題」とか「S――」といった詩を読んで、『ひとり涙しました。あなたとひそかに相通う心の時代があったのですね。この詩集はきっと多くの親しい人びとが胸に抱いて大切にするに違いありません。いつまでも、いつまでも。』と記されている。ネット検索で「土岐仲男」で検索をかけても、5件しかヒットせず、その内、意味あるページは4件、内1件は上記の父のファイルである。限定版詩集さえ、市場に出回っていない。土岐仲男の詩はもっと多くの人に読まれるべきである。何より、まさにこの詩集の巻頭詩「花月風流(ふりゅう)の道(序にかえて)」が、如何にもこういう僕を励ましてくれる。結果、僕自身、そうした確信犯でもって自律的にテクスト化に入ることとした。但し、著作権侵害を酒詰氏のみにするため、住谷悦治氏の「序」と堀田由之助氏の「あとがき」及び要樹平氏の秀抜な装丁画などは一切省略した。以下の目次はページを省略した。一部に僕の注を附した。

詩集 人 土岐仲男

花月風流(ふりゅう)の道(序にかえて)
みどりの祭典
老子
雑草(あらくさ)
平常着
蓮の華
秋草

スキャンベンジャーズの群
達磨
無題
銚子屏風ヶ浦
ゾウ(象)
S――
慧可断臂
伝説
無花果(いちじく)のジャム
天理教
×
君ほほえまば
「寺」
ホトトギス
孤影
五条坂
キリスト

 序  文   住谷 悦治
 あとがき   堀田由之助
 装  画   要  樹平

   序に代えて
花月風流(ふりゅう)の道

キリストは大工の子で
ヒューマニティーで人類を救った
釈迦は王子であり
王にもなり
哲学することで人類に教えた
ところで花月風流の道に従えば
人はキリストにも釈迦にもなり
花と月とを友にして
道楽三昧に耽けることができる
花月風流の道は庶民のものだ
だがそれが庶民の間に絶えてから
既に久しい
真実の詩(うた)は
いつの世にもあると言うわけのものではない
真実の詩(うた)を作る人も
いつの世にもいると言うわけのものでもない
私の詩がそれだとも
私こそが真実の詩人だとも言わない
それは歴史が裁いて呉れるだろう
私は
私の生命の焰(ひ)が消えるまで
鉛筆をなめては
襲い来る激情の浪を
紙面にぶっつけるだけで
それでよいのだ

[やぶちゃん注:「風流」は古くは「ふりゅう」と読んでいた。「花月風流」の「花月」自体、風流な対象としての花と月以外に、「風流な遊び」という意を持つから、「花月風流」で「風流」ととってよい。これが総ての始まりである。]

みどりの祭典

ワッショイ ワッショイ
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
みどりだ みどりだ
左も右も 上も下も
ワッショイ ワッショイ
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
昔のみどり 今のみどり
去年のみどり 今年のみどり
ワッショイ
大きなみどり こまかいみどり
つらなるみどり
ぶらさがるみどり
ワッショイ
ひれふすみどり ひろがるみどり
明るいみどり 暗いみどり
みどり みどり みどり
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
動くみどり 佇むみどり
のびるみどり ちじむみどり
高い高いみどり
高くて 暗くて こまかいみどり
低くて 明るく 大きいみどり
ワッショイ ワッショイ
こぼれるみどり ただようみどり
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
笑うみどり 怒るみどり
酔っぱらうみどり
吸われるみどり
みどりの本尊
みどりの脇立
ワッショイ ワッショイ
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
みどりをあげろ みどりをおろせ
みどりをまわせ みどりをゆすれ
みどりをおがめ みどりになあれ
ワッショイ ワッショイ
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
そこのけ そこのけ
みどりのお通り
ワッショイ ワッショイ
ワッサイ ワッサイ ワッサイ

[やぶちゃん注:「脇立」は「わきだて」と読み、兜の立物(たてもの:威風を与える飾り。)の一つで、兜の鉢の左右に立てて装飾とするものを言うのだが、ここは前行の「本尊」に対するものと考え、本尊の左右に控える脇侍仏のことを指している。このリフレイン、不思議に心地よいではないか!]

2011/09/07

鎌倉攬勝考卷之八 テクスト化着手

「鎌倉攬勝考卷之八」のテクスト化に着手、取り敢えず「将軍家六代御所跡」まで公開した。

昨日、僕の「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」をお読みになられた、高柳英麿という方から御助言と励ましのお便りを頂戴した。この方、調べさせて頂いたところ、神奈川県自然保護協会理事でかまくら桜の会会長であられた。

パソコンの具合も悪く、山本幡男氏と祖父の遺稿を公開して、これを一つの区切りとして暫くHPの更新は休もうと思っていたのだが、かくどなたかが僕の拙ないHPでも見て頂いている以上、沈潜している訳にはいかない。

人生もパソコンもダマシだまし、そろそろといこう――

2011/09/04

山本幡男遺稿抄 やぶちゃん編 全 HP版

祖父の遺稿の公開に合わせて、今一人、この夏、私がブログで遺稿を打ち続けた、「山本幡男遺稿抄――やぶちゃん編――」(全)を、「心朽窩新館」増田晃森川義信の前に公開した。

戦前に結核で誰にも看取られずに亡くなった祖父の遺稿と、戦後にソヴィエトのラーゲリでやはりたった一人で亡くなった山本幡男氏のそれと――二人の遺稿をじっくりとお読みになれば、それがただ、記す言葉の不思議な一致や、その孤独な死の類似ばかりではない――一己の稀有の、真面目な信念に満ちた二人の青年の、その死にざまであり、それが即、生きざまでもあるのだということが、お分かり頂けると思う。

僕はこれからも、この二人にこだわって生きたいと思う。

僕の祖父遺稿のテクストの校正に協力してくれた父に、心より感謝したい。

――ともかくもこれで僕の今年の夏は――真に終わった。――

藪野種雄遺稿 落葉籠 全 HP版

祖父藪野種雄の遺稿集である「落葉籠」(全)をトップ・ページに公開した。辞世の句について、父所蔵の原本によってブログ版に補正を加え、底本の画像も添付してある。

2011/09/03

藪野種雄 日記 昭和9(1934)年 辞世

□〔昭和九年(四十一才)〕

  病中日記の一節

  昭和九年七月九日
 母校二十五周年記念號を讀み、恩師の慈言を拜し、學園を偲び、病床數星霜、只何となく涙出ず。

  昭和九年八月十三日(死の前日)

    健康なりし日、眞面目な或る米國人と富士登山した折を追懷して。

 月光にひとしきなり 夜の蛙

 月光に大男の馬を選びけり

 樹閒漏る月影あびて馬子の唄

 歌ひつゝ居眠る馬子や月夜哉

 己がじ〔し〕駄馬も憩へり月の茶屋

[やぶちゃん注:先にも記したが、現在、祖父の祥月命日は八月十五日である。父の推測では、八月十四日深夜に誰にも看取られずに亡くなった祖父が、翌十五日の朝に看護婦の巡回で亡くなっているのが見つかったといった事実があったのではないか、とのことである。しかし、この辞世の句群は、月光射す富士の実景と臨場感溢れる蛙声や馬子の唄声を伝えて、あくまで清澄にして透明な絶唱である。]

     編 輯 後 記

 病中日記の無いのは淋しいが、茲に一つ男子の面目躍如たる、一面を紹介して稿を結ばう。其は氏が九軌時代〔、〕天誅を加へんと迄激怒された草刈氏と、東邦電力に於て再會された時の事である。嘗ての仇敵である事とて、草刈氏も相當覺悟されてゐたものとの事であつたが、案に相違して藪野兄の下へもおかぬ歡待に、全く驚かれたさうである。兄は「若氣の到りで…」草刈氏も「イヤ當時仕色々…」二人は呵々大笑して手を握られた。後〔、〕藪野氏の紹介で一人九軌へ就職を依賴した人があつたが、草刈氏も藪野さんの紹介される人ならとて、無理にも採用されたとの事である。
 永遠の若さと、若さが特有するイデアリズムを貫徹された外柔内剛の氏の一斑にても、此の稿によつて傳達出來れば余の欣幸之に増すものはない。

[やぶちゃん注:以下、奥附。]

【非賣品】

昭和十年七月 二十  日 印  刷
昭和十年七月二十五日 發  行

名古屋市東區柳原町三丁目四三番地
編集兼發行人        村 上 正 巳

        名古屋市東區千種町五反田五二番地
印刷所        合資會社 三 益 社

        名古屋市東區柳原町三丁目四三番地
發行所            村 上 正 巳

藪野種雄 日記 昭和5(1930)年

□〔昭和五年(三十七才)〕

  昭和五年正月三日
 夜十時、ヘソの上に温灸をのせ仰臥して隣家のマージアンの音を聞きつゝ靜かに新春を想ふ。父七十一才、母六十四才、正雄二十四才、種雄三十七才、茂子二十九才、直亮七才、豐昭二才〔。〕何よりも親子兄弟打ち集ひ、今年も多難の年なるを覺悟して靜省したい。
 二月中は日記一度も書かず、三月も今日(十七日)に到り始めてである。
 三月六日朝、思ひ設けざりし胃潰瘍突發せり。其より正味二晝夜絶食、幸に輕度に過し得たり。福島先生に多謝せざるべからず。
 最後かと、死なれぬ心 妻の守れる。
 誰れ博士、何の用かや 病癒ゆ
 二日間絶食中の一夜實にもうれしきユートピアを夢みぬ。
(一)日本アルプス高原にの一家に放浪の身。
(二)其の峻峰アルプス連山の中にも人生爭鬪の一場面を見る。
大男鑛山を失ひしとて狂氣。
(六)山上象牙の塔とも云ひたき純白に桃色の世界、此の所は
   遙か下にニユーヨークを見下し、透明の海たり、此所よ
   り子等を飛び込ませ、スマートな人々の集ひ。
右は夢なれど眞のユートピアには純情の外何者も妨げず、自由自在なるを見て愉快極まれり。
(註)是より五月十一日迄欠勤、十二日始めて出勤、暫くの後風邪の氣味にて就床、時々具合の好き日出勤として俸給は全額支給されたとか、〔→。〕信用の篤かつた事推して知るべしである。
[やぶちゃん注:この祖父の夢記述は面白い。夢分析を試みたい願望に駆られるが、祖父のユートピアを汚すまい。]

  六月某日
 小生欠勤(六ケ月内を限り)全額支給の件、身にあまる御言葉なり、穴あらば入りたき次第なるが、永く御厚意を銘記せん爲に左に録しおくものなり。
    具   陳
 藪野種雄技師ハ大正十三年八月名古屋火力建設所氣罐係主任トシテ來任シ、新鋭ナル箇所ノ汽罐工事ニ、更ニ二期増設工事二於テハ機械主任トシテ汽機増設ノ大工事ヲ一身ニ責任ヲ荷ヒ全力ヲ傾注シテ、驚異ニ値スルエ事ノ迅速正確ト、エ事上ノ低廉ナル竣成ヲ見クルハ君ノ粉骨碎身ノ努力ノ效大ナルモノアリ。且又爾來運轉ニ從事シテハ君ノ謹直ナル性格ヨク衆ヲ率ヒ衆望ヲ荷フテ責任者トシテ地位ヲ穢サズ、燦トシテ光彩ヲ放チ、火力界模範ノ良運轉成績ヲ擧ゲツヽアルハ實ニ氏ガ研鑚ノ效多キニ負フモノト信ジ疑ハザル者ニ候。然ルニ家庭ニハ老父母卜妻子三名及ビ實弟アリ、一昨年同氏ノ病臥シテ醫藥ニ親シメルニ引續キ長女ノ難病ニ、又病死ニ、常ニ醫藥ノ料ニ數々家計不如意ノ嘆聲ヲ漏ラスヲ漏レ聞クニ及ビ誠ニ同情ニ堪エズ。(中略)
 右は原稿なれ共辻野氏がかく迄に申し下されし御心中に對し
感激無くしては居られぬ心地す。

  七月十三日
 (註)一家を引あげて知多郡師崎に轉地療養、海岸通に借家して療養生活始まる。約二ケ月後六月三十一日歸名。後昭和七年退職されて河和町に轄地。更に病篤うして九年山田田村中病院に入らる。

  病中雜詠

 鱚釣りや、夜明けて獲物 少かり

  大震災追憶

 燒け跡に、西瓜ならべし 帝都かな

 子等の顏、覆ふて西瓜 喰ひ居り

 堀拔けの 井戸に西瓜の 浮べあり

 籤ひいて 西瓜買ひたる 女工かな

 西瓜積んで トラツク飛べる 暑さ哉

[やぶちゃん注:祖父は関東大震災当時、浅野セメント東京本社嘱託として東京にいた。]

藪野種雄 日記 昭和4(1929)年

□昭和四年〔(三十六才)〕≪日記復活≫
  一月一日
 見るばかりなり日記哉。
 今日は一月二十四日の夜、床の中よりペンを執る。お隣りの鐵雄君の泣き聲がする。さて思ひ出せば………と、
 元且や、長男連れて年始なり。
 元且や、寒うて年賀も橋の上
今年は幸福參れと、三社詣でとシヤレる。
[やぶちゃん注:「三社詣で」は三社参りとも言い、正月の初詣として三つの神社を詣でることを言う。西日本各地に広く伝わる風習で、必ずしも特別な神道への信仰心に基づくものではない。特に福岡県を中心として九州・中国地方に見られるから、これは福岡在住時の習慣に基づくもので、名古屋であるから三つの内には熱田神宮が含まれていると考えてよい。「日記復活」は〔 〕の二重括弧で括られている。私の補正括弧と混同するので、表記のような括弧を用いた。]

  一月二日
 初雪や、樂しかりける祝哉
 酒くみて、壽ほぐ歌や、年新なり。

  一月四日
 仕事始め。
 正月の氣分や仕事も、遠慮哉。
 遠慮なき、休みなりけり お正月

  一月十七日
 彈き初めや、若奧樣の 指の音
 ピンコシヤン、半日鳴るなり お正月
 あいの手に、尺八の音もすなり、春のどか。
 赤ん坊、今日は泣き初めらるゝ お正月

藪野種雄 手紙 昭和3(1928)年10月2日附 妻茂子(推定)宛て

□〔昭和三年(三十五才)〕

    手   紙
 昭和三年十月二日(奧さんあてのものらし)
一昨日正坊は校長ドンより「今月より五圓昇給」辭令は出さぬが次に正式の訓導の辭令下附の時には、改めて更に幾らか増俸の事になつて居るからとの事、「五十圓ニナツタラチツターエ、ナア」と老父と話し居ると聞きたり。
 昨日(一日)第一號タービン、主要な羽根の組立を終了したので一寸とホツとした。其の終了の時。吉原氏來所、態々小生を招きて曰く「一度も御見舞にも來なかつたが、どうですか」少々痛み入る「心配せぬが好いですよ。氣を樂にしてやり給へ」との事。
 「ヘイ、ぼつぼつやらして貰つてゐます」と答ふ。「僕の親戚の者で少し非道いのがあつたから鬪病術を買つて送つてやつたよ」………「小生も讀んで元氣は出してゐますが」と答ふ。「僕の知つた人で、獨乙と英國と日本の體温計を持つて、どれがどの位違ふとやら云ふて手ばかり握つてゐるのがあるが、あれでい〔→は〕イケン」との事、小生は一度も測らん方で困つた男なんぢやが、内心びくびくして死ぬのを待つてるような死ぬのが恐い樣な、自分自身を一寸と内省して見た。
一昨朝は自見夫人の御味噌汁、昨晩は同夫人がソツと臺所に來られて茶碗を洗つて下された。………老父と直亮は湯に行つたのだがと、寢轉んでゐなら音がする。………マア折角蔭德をして下さるのだから感謝しながら、歸られる時だけソロソロ出て障子の外から、誠に恐れ入ります。
 今朝は三輪夫人がおいしい味噌汁を作つて持つて來て下された。直亮が老父と一所について行つた留守に自見夫人が菜葉のお漬物を持つて來て下された。
 兎に角カヽアの留守ちうものを考察すると二つの得がある〔。〕
一、他人の親切を味へることが深い。其してどうやら、よりうまいものが喰べられる樣である。(あんまり永くなると味が惡うなるかも知れぬが)ツマリカヽアは居らんでも生きて行かれるらしい事之也。然し爺さんがビクビクして「胸のシツプ、背中のシツプ、喉のシツプ」をして呉れるのは心苦しい樣だ。ぢやが今日あたりは少しは氣分は宜しいから、心配せんでもよろしい。
 第二の得は、第一の裏か表か知らんが兎に角幾分自分の事は自分でやらうと云ふ氣が少しは起る。つまり克己心が少しは増加して精神修養になるかも知れんと言ふ心配がある。
良い意味で解釋すればツマリカヽアは有難いと言ふ結論になるかも知れぬと思はれる節がある。
 兎に角今朝手紙が來ると………來るべきであるのに來ぬので少し低氣壓の傾がある。マア其の積りで手紙を讀むのもよからう。
  昭和三年十月二日
[やぶちゃん注:当時、一家は名古屋在。祖父は既に肺結核に罹患している。「正坊」は弟正雄(当時二十二歳)。訓導とあるから、この頃は尋常小学校の美術教師をしていたものか。「直亮」は祖父の長男(当時五歳)。私の父の兄である。「態々」は「わざわざ」と読む。一部に鍵括弧を補った。]

藪野種雄 大正11(1922)年12月14日附 友人宛手紙

大正十一年〔二十九才〕

 (註)三月二十三日上京。
 再度の參禪〔。〕
 「如何か是堅固法身」より始め二十八日に終了、此の年は佐々木指月の霜花集から、何やかや取つて拔き書きされてゐる。後年筆者がよく談じ會ふようになつてからも、よく指月の話が出たものであるが、此の時始まつたらしい。
[やぶちゃん注:「如何か是堅固法身」は「碧巌録」の第八二則「大龍堅固法身」に基づく公案。以下、長い評唱を省略して示す(底本は岩波文庫版を用いたが、恣意的に旧字に直した)。

第八二則 大龍堅固法身
垂示云、竿頭絲線、具眼方知、格外之機、作家方辨。且道、作麼生是竿頭絲線、格外之機。試擧看。
【本則】
擧。僧問大龍、色身敗壞、如何是堅固法身。龍云、山花開似錦、澗水湛如藍。

○やぶちゃんの書き下し文
第八二則 大龍(だいりやう)の堅固法身
垂示に云く、竿頭の絲線、具眼にして方に知る。格外の機は、作家にして方に辨ず。且道(さて)、作麼生(いか)なるか是れ、竿頭の絲線、格外の機。試みに擧(こ)し看ん。
【本則】
擧す。僧、大龍に問ふ、「色身は敗壞す、如何なるか是れ堅固法身。」と。龍云く、「山花開きて錦に似、澗水湛へて藍のごとし。」と。

○淵藪野狐禪師訳
 垂示に云う、寺の旗の竿先にある紐は、それを普段から見ておれば、それが何であるかを確かに知っている。しかし、そんな常識を遙かに超越した禅機というものは、手だれの真(まこと)の悟達者にしか見抜けぬ。さても、如何なるか是れ! 竿先の紐、超絶の禅機?!
【本則】
僧が大龍和尚に問うた。
「現象としての肉体がやがて衰え、腐敗し、完膚無きまでに壊れるものであることは真理であります。だのに、堅固な仏の法身というは、これ一体、如何なるものなのですか?」
龍が答える。
「――山の花が咲き乱れている――それは錦を広げたのに似ている――渓谷は深く清き水を湛えている――それはまるで藍を流したようなじゃ……」

「佐々木指月」(明治十五(一八八二)年~昭和十九(一九四四)年)は先に示した通り、釈宗活の弟子。彫刻家(仏師)でもあり詩人でもあった。本名栄多。禅伝道のため長く在米した。太平洋戦争の際にはアメリカへの忠誠心を問う日章旗への発砲を拒否して監禁され、病いに冒されて死去している。文字通り、気骨ある古武士というべきか。]

    手   紙

 僕ノ血ミドロナ全信仰ハ、兄モ御承知故、今更贅言ハ要ラヌコト、サリ乍ラ想フガ故筆ノマヽニ記シテン。
 生涯ノ忘ルべカラザル重大ノ岐路ニ立ツタ僕ニトツテ、此年十二月一日ハ實ニ容易ナラザル日デアツタ。茂子サンノ告白ヲ聽キシ其瞬間迄、寸時モ腦裡ヲ去ル能ハザリシ、シカモ夢想ダニ許サレザリシ身ニトツテ、此ノ血ヲ吐ク樣ナ告白ハ僕自身ニトツテハ實ニ晴天ノ霹靂デアツタ。幾度カ其ノ言葉ヲ繰り返へシ、繰り返へシ我卜我ガ耳ヲ疑ヒシカ、オ察シノ事デセウ。其歡驚ハ茂子サンニ對スル從前ノ熱愛ガ。イヤガ上ニ深刻ナ反省ニナツタノデス。僕ガ常時抱懷セル生活目標ガ那邊ニアルカハ略々御察シトハ存ジマスガ、參禪卜云ヒ辨道トイヒ、上京卜云フ、一トシテ僕ノ信念ノ發露ナラザルモノハアリマセン。信念卜申スハ外ニ非ズ金剛不動ノ南無阿彌陀佛ニ廻向サル、僕ノ信念ハ「茂子サンヲ本當眞實ニ受サズニ居ラレナイ、シカモ本當ニ愛スルコトノ出來ナイ僕自身ノコノ心、コノ血、此ノ私ノ淺間シクモカ弱キ、愛ノ足ラザル日々ノ日暮シ」是ガ僕ノ全人格的、全信仰生活ノ表現デアリマス。此信念以外二僕ノ何者モナイ。低級ナ信念卜嘲ハバ嘲ヘ、僕ニトツテ茂子サント云フ眞實ノ愛ノ外ニ何ノ人生ノ意義ガアラウ。ヨモヤ兄モ是ヲシモ單ナルホレタスペツタノ世迷ヒ語トハ云ツテハ下サラナイト信ジマス。顧レバ九軌ニ於ケル二三ノ私ノ意義探キ奮鬪ノ跡モ、母校問題ニ死力ヲ盡セシコトモ參禪辨道ノ向上ノ一路ハ云フモ野暮ノコト、今又上京素志貫徹ノ決意モ皆是ナラザルモノハアリマセン。今後如何ナル事情ノモトニ僕ト僕ノ茂子サントノ愛ノ具體化ガ否定サルヽノ悲運ニ會フトモ、其ハ僕ニトツテハ死ノ問題デアリマス。魂ヲ奪ハレタ僕ハ自殺ハセヌ然リ、生ケル屍トナツテ微動ダニセザル僕ノ信仰生活ハ即チ茂子サンノ愛ノ具體化ハ一層峻嚴味ヲ帶ブルノミ。(中略)希クハ茂子サント不二ノ第一義ノ生活ガ一日モ早ク惠マレ、眞ニ生キ、念佛ニ愛シ愛サル、念佛ノ世界ヲ創造シタイ云々(中略)
 大正十一年十二月十四日
 (註)以下五六年と云ふものは記録なく、精神生活史は不明であるが、とも角其中に茂子さんと結婚され、二三職を變へられて大正十三年來名、東邦電力に入られたのであつた。
[やぶちゃん注:「スペツタノ世迷ヒ語」の「ペ」はママ。]

2011/09/02

藪野種雄 日記 大正10(1921)年

□大正十年〔(二十八才)〕

  一月一日
 朗らかな、木の間漏る光や落葉影。
 午前一時といふと、もう大正十年の元旦だな、乃公は丁度發電所で第八號機ばかりにしておいての歸りがけだ。汽車の踏切の所で東の山の端、家並の彼方に無格好な圖體の半月がヌツと出てゐる。歌にもならぬ俗景だ。
 朝十時頃又會社へ出た。午後日隈君來訪。夕食を共にし夜を明かし乍ら純な巖君と唯二人、佛の慈悲にひたり入つたのであつた。
 今日は元旦からして思ひもかけぬ有難い感謝の機會を頂けた。此上の喜びは無い。が矢張り此の胸は切實である。
[やぶちゃん注:「乃公」は普通は「だいこう」又は「ないこう」と読み、一人称の人代名詞で、男性が目下の人に対し、または尊大に自分を指していう語。我が輩。祖父は恐らく「わし」「おれ」又は「わたし」と訓じていると思われる。「東の山の端」当時、九軌の本社は小倉市京町にあった(現在の小倉駅南口の近く)から、足立山から下る富野の辺りの尾根下がりの部分を指しているものと思われる。]

  一月十日
 嚴君へ。
 何と言つたつて、誰がどう思つたつて、南無阿彌陀佛より外に、何が眞か、何が絶對ぞ。何が慈悲ぞ。何が愛ぞ。何が人の道ぞ。唯、々、々。
 南無阿彌陀佛のみぞ、まこと空事なき、天上天下唯一の事ぞ。ものぞ、心ぞ。我ぞ。人ぞ。いとし戀人ぞ。

  七月九日
 午前七時東京着、康さんが迎えてくれる。午後二時半、谷中の兩忘菴を訪ふ、大峽先生不在、夜半十時迄上野の動物園松坂屋をぶらつく。足が痛い、ねむい。兩忘菴に寢る。
[やぶちゃん注:「兩忘菴」は、現在は千葉県茂原市本納にある臥龍山両忘禅庵という禅宗寺院の前身。今は御茶会の会場としてしばしば用いられる。利休庵保利氏の「臥龍山両忘禅庵」の解説頁によれば、『両忘会の発足は明治初年頃、山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟、鳥尾得庵、ほか十数名の居士が、鎌倉円覚寺・初代管長今北洪川老師を拝請して東京・湯島の麟祥院に於いて宗派によらぬ参禅会を結成、これを両忘会と名付け参禅活動を行なった事が始まり』で、「両忘」とは『論語「能所両志 能見所見」より導いた言葉で、禅の思想「自と他、物と我、生と死、善と悪、苦と楽、前と後」などの両者の対立観念を忘れ、ひとつになる』という謂いで、『「主客一如」に成りきると』いう意味を持っているという。開庵の発案者は鎌倉円覚寺初代管長であった今北洪川老師である。彼は『幕末・明治の禅僧で、雲水のみならず、一般大衆に対する禅指導に力を注ぎ、山岡鉄舟や鳥尾得庵ら明治期の著名人が参禅、弟子では、後に円覚寺管長となる釈宗演や鈴木大拙が著名で共に渡米して禅の宣揚につとめ』た人物である。明治二十六(一九〇五)年、『円覚寺管長今北洪川老師が還化したのち法嗣であった釈宗演が円覚寺管長に就任、今北洪川老師の志を引き継』ぎ、明治三十五(一九〇二)年に釈宗演は、禅をより広めることを目的として当時の高弟であった釈宗活に、この事業を託す。『宗活は、宗演より表徳号「両忘庵」を授かりその命により、東京谷中に草庵を結んで両忘会を継承』した。宗活は明治三九(一九〇六)年、後藤瑞巌・佐々木指月ら門下生十八名とともに渡米、西海岸に四年間滞在して、『初めて欧米に本格的な禅の布教をする。一行の中、佐々木指月が残留し、ニューヨークに支部道場(現在の北米第一禅堂)を開』いてもいる(明治四十五(一九一二)年帰国)。因みに大正十四年には『東京谷中の両忘庵を本部会堂に、九州、中国、東海、東北、北海道、朝鮮、満州、米国に支部道場を設け、財団法人両忘協会の認可を得、衆望により釈宗活老師が総裁に就任』、昭和十(一九三五)年には『宗教法人両忘禅協会と改称し、千葉県市川市国分新山(現在の国府台)に本部道場を建設』、この時の入門会員は約三千人、坐禅会員は約三万と、在家禅道場の草分けとして躍進した。一時、戦後の昭和二十二(一九四七)年、『釈宗活老師は、敗戦後の混乱期に正法の将来を憂』えて両忘会を解散したが、昭和二十九(一九五四)年に釈宗活老師が千葉県八日市場市に於いて遷化すると、彼に参禅していた禅僧大木琢堂が宗活の意を継いで、『道場建設を発願、建設基金のため托鉢をしながら全国を行脚』、昭和四十九(一九七四)年に茂原市本納に座禅道場を「両忘会」を設立、昭和五十八(一九八三)年、八日市場市椿の宗活老師終焉の地に諸堂を移築建立、臥龍山両忘禅庵となる。現在の地に移転したのは昭和六十三(一九八八)年である。「大峽先生」は一夢庵大峽竹堂。当時、明治専門学校の教師であったが、深く禅に帰依し、この後の大正十三(一九二四)年五月には九州に於ける禅道場の必要を痛感、最初の座禅会を行っている。また、ドイツ語版「禅」(副題は「日本における生ける仏教」)を出版、昭和八(一九三三)年には現在の福岡県北九州市小倉北区都に鎮西坐禅道場が建設、現在も続いている。この明専の恩師(と思われる)人物が、祖父とこの仕事を休んでの(としか思えない)上京、実に十一日間に及ぶ座禅会出席という出来事のキー・パーソンである。]

  七月十日
 午前五時、大峽竹堂居士から起された。朝參の時正式(あやしい素振りであつたが)に釋宗活老師に禪に入門を許された。是からが始まりだ。公案を貰ひ、參禪の心得を懇ろに御示し下された。
 午後三時から法話甲會があり、苔巖居士の「布施は報なき布施」とて實例を示さる。竹堂居士は禪と實際的修養法とて有益な御話があつた。終つて茶話あり、學者或は畫家、多分新聞の文學家らしき詩人風の大きな人が話題の中心であつたのも面白く、ウイツトに富んだ物語りを實に面白く拜聽したものだ。
[やぶちゃん注:「苔巖居士」は不詳だが、後に「畫家」という語あることから、一人の同定候補はいる。画家藤田苔巖(たいがん 文久三(一八六三)年~昭和三(一九二八)年)である。本名は俊輔で、特に山水画を得意とした。孤高な画家であるが時間的には符合する。]

  七月十一日
 午前五時に十分前だ。太鼓五つの音にとび起きた。終日參禪。
 朝參の見解見事に叱られた。そんな父母だの我だのを突破して「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」自分は父母と言ふものから分析的に考へて、かく考へたのであつた。哲理を解く考であつたので、一喝を喰つたのである。
[やぶちゃん注:「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」というのは「父母未生以前、本来の面目如何」という有名な公案の変形である。但し、実は「父母未生以前、本来の面目如何」自体が「不思善、不思悪、正與麼(しょうよも)の時、那箇(なこ)か是れ、明上座が本來の面目」を原型としたものであることは余り知られていない。これは「無門関」の第二十三則に現れる公案である。私の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」から引用する。

  二十三 不思善惡
六祖、因明上座、趁至大庾嶺。祖見明至、即擲衣鉢於石上云、此衣表信。 可力爭耶、任君將去。明遂擧之如山不動、踟蹰悚慄。 明白、我來 求法、非爲衣也。願行者開示。祖云、不思善、不思惡、正與麼時、那箇是明上座本來面目。明當下大悟、遍體汗流。泣涙作禮、問曰、上來密語密意外、還更有意旨否。祖曰、我今爲汝説者、即非密也。汝若返照自己面目、密却在汝邊。明云、某甲雖在黄梅隨衆、實未省自己面目。今蒙指授入處、如人飲水冷暖自知。今行者即是某甲師也。祖云、汝若如是則吾與汝同師黄梅。善自護持。
無問曰、六祖可謂、是事出急家老婆心切。譬如新茘支剥了殻去了核、送在你口裏、只要你嚥一嚥。

頌曰
描不成兮畫不就
贊不及兮休生受
本來面目没處藏
世界壞時渠不朽

淵藪野狐禪師書き下し文:
  二十三 善惡を思はず
 六祖、因みに明(みやう)上座、趁(お)ふて、大庾嶺(だいゆれい)に至る。
 祖、明の至るを見て、即ち衣鉢を石上に擲(な)げて云く、
「此の衣(え)は信を表す。力をもちて爭ふべけんや、君が將(も)ち去るに任す。」
と。
 明、遂に之れを擧ぐるに、山のごとくに動ぜず、踟蹰(ちちう)悚慄(しやうりつ)す。
 明曰く、
「我は來たりて法を求む、衣の爲にするに非ず。願はくは行者(あんじや)、開示したまへ。」
と。
 祖云く、
「不思善、不思惡、正與麼(しやうよも)の時、那箇(なこ)か是れ、明上座が本來の面目。」
と。
 明、當下(たうげ)に大悟、遍體、汗、流る。泣涙(きふるい)作禮(されい)し、問ふて曰く、
「上來(じやうらい)の密語密意の外、還りて更に意旨(いし)有りや。」
と。
 祖曰く、
「我れ今、汝が爲に説く者は、即ち密に非ず。汝、若し自己の面目を返照(はんせう)せば、密は却りて汝が邊(へん)に在らん。」
と。
 明云く、
「某-甲(それがし)、黄梅(わうばい)に在りて衆に隨ふと雖も、實に未だ自己の面目を省(せい)せず。今、入處(につしよ)を指授(しじゆ)することを蒙(かうむ)りて、人の水を飮みて冷暖自知するがごとし。今、行者は、即ち是れ、某甲の師なり。」
と。
 祖云く、
「汝、若し是くのごとくならば、則ち吾と汝と同じく黄梅を師とせん。善く自(おのづ)から護持せよ。」
と。
 無門曰く、
「六祖、謂ひつべし、是の事は急家(きふけ)より出でて老婆心切なり、と。譬へば、新しき茘支(れいし)の殼を剥ぎ了(をは)り、核を去り了りて、你(なんぢ)が口裏(くり)に送在して、只だ你(なんぢ)が嚥一嚥(えんいちえん)せんことを要するがごとし。」
と。
 頌して曰く、
描(ゑが)けども成らず 畫(ゑが)けども就(な)らず
贊するも及ばず 生受(さんじゆ)することを休(や)めよ
本來の面目 藏(かく)すに處(ところ)沒(な)し
世界の壞時(えじ) 渠(かれ) 朽ちず

淵藪野狐禪師訳:
  二十三 善惡を思わない
 六祖慧能が、慧能自身が五祖弘忍から嗣(つ)いだ法灯をそのままに、蒙山恵明(けいみょう)に嗣いだ時の話である。
 慧能は、ある日、ぷいと自分がそれまでいた寺を出てしまった。
 当時、未だその同じ寺で上座を勤めていた恵明は、機縁の中で、慧能の後を追いかけて行き、遂に大庾嶺(だいゆれい)の山中で追いついたのであった。
 慧能は、恵明の姿が見えるや、即座にその袈裟を脱ぎ、鉢(はつ)もろともに、傍にあった岩の上にぽんと投げて、
「この袈裟は、拙僧が五祖弘忍さまから真実(まこと)の伝法を受けた証しとして、受け嗣いだもの――臂力権力を以って、争い奪い去る如きものでは、ない――あなたが、勝手に持ってゆかれるがよろしいかろう。」
と言って、穏やかな表情で恵明に対した。
 恵明は、形ばかりの礼を示して、慧能の膝下に跪いていたが、その言葉を聞くや、かっと見開いた鋭い眼を上げると、慧能を凝っと見据えた。そうして、即座に躍り上がるや、慧能を見つめたまま、すぐ脇の石の上の衣鉢(いはつ)に手を伸ばして、荒々しくそれを取り挙げようした。
 ――動かない!?
恵明は恐懼(きょうく)して、黙ったまま、思わず衣鉢をきっと見つめるや、今度は両手でそれをぐいと摑むと、渾身の力を込めて持ち上げようとした。
 ――動かぬ!
薄くぼろぼろになった袈裟と粗末な鉢と――それが、如何にしても、山の如く微動だにせぬのであった。
 恵明は、諦めて手を離すと、再び、慧能の前に土下座し、余りの恥かしさから、とまどい、また、恐れ戦(おのの)き、へどもどしながらも弁解して言った。
「……私めが、ここまで行者(ぎょうじゃ)を追いかけて参りましたのは、その『法』そのものを求めんがため……袈裟のためにしたことでは、御座らぬ……どうか、行者! 私めのために、悟りの真実(まこと)を開示して下されい!……」
 すると慧能は、優しい声で問いかけた。
「遠く遙かに善悪の彼岸へ至り得た、まさにその時、何がこれ、明上座、そなたの本来の姿であるか?」
 ――その言葉を聴いた刹那、恵明は正に大悟していた。
 恵明の体じゅうから汗が噴き出したかと思うと、瀧のように下り、涙はとめどなく流れ落ちた――暫らくして、身を正した恵明は、慧能にうやうやしく礼拝すると、謹んで誠意を込めて訊ねた。
「只今、頂戴し、確かに私めのものとし得た密かな呪言、聖なる秘蹟以外に、もっと別の『何か深き秘儀』は御座いませぬか?」
 慧能は、ゆっくりと首を横に振りながら、穏やかに答えた。
「拙僧が今、あなたのために示し得たものは、総てが、秘儀でも、何でもない。あなたが、自分自身の本来の姿を正しく振り返って見たならば、きっとその『秘儀なるもの』は、かえって、あなたの中にこそ、あるであろう。」
 恵明は、莞爾として笑うと、
「拙者は、黄梅(おうばい)山にあって、かの五祖弘忍さまの下(もと)、多くの会衆とともにその教えに従い、修行に励んで参りました――しかし、実のところ、一度として、己(おのれ)の本来の姿を『知る』ということは、出来ませなんだ――ところが今、あなたさまから『ここぞ!』というお示しを頂戴し――丁度、人が生れて初めて水を飮んでみて、初めてその『冷たい!』ということ、また、『暖かい!』ということを、自(おの)ずから知ることが出来た――それと全く同じで御座いました――今、行者さま! あなたはまさしく、拙者の師で御座いまする。」
と言って、地に頭をすりつけた。
 すると慧能は、ゆっくりとしゃがんむと、その両手で、土に汚れた恵明の両手をとり、諭すように言った。
「あなたが、もし言われた通りであられるなら、則ち私とあなたと――この二人は、共に黄梅の五祖弘忍さまを師としようとする者――どうか心からその法灯を堅くお守りあられよ。」
 ――恵明には、その慧能の声が、あたかも大庾嶺の峨々たる峰々に木霊しながら、遠く遙かな彼岸から聞こえてくる鐘の音(ね)のようにも思われたのであった――
 無門、商量して言う。
「ヒップな六祖、言うならば、『やっちまたぜ! 老婆心! 有難迷惑! 至極千万! 小ずるい恵明に法灯を、渡してどないするんじゃい!』。喩えて言えば、新しい、茘支(ライチ)の殼を、剥(む)き剥きし、核(たね)までしっかり取り去って――『坊ちゃん、お口を、はい、ア~ン! 後は、自分でゴックン、ヨ♡』――」

 次いで囃して言う。
描(か)いても描いても成りませぬ 彩(いろど)ってみても落ち着きませぬ
当然 画讃も書けませぬ だから礼には及びませぬ
生れたマンマのスッポンポン
壊劫(えこう)にあっても朽ちませぬ

[淵藪野狐禪師注:
・「大庾嶺」は、現在の江西省贛州(かんしゅう)市大余県と広東省韶関(しょうかん)市南雄市区梅嶺にまたがる山。
・「壊劫」は、仏教で言う四劫(しこう)の第三期。四劫とは仏教での一つの世界の成立から存在の消失後までの時間を四期に分けたもので、その世界の成立とそこに生きる一切衆生(生きとし生ける総ての生物)が生成出現する第一期を成劫(じょうごう)、その世界の存続と人間が種を保存して生存している第二期を住劫、世界が崩壊へと向かい完全に潰滅するまでの第三期を壊劫、その後の空無の最終期を空劫(くうこう)と呼ぶ。この四劫全部の時間を合わせたものを一大劫(いちたいこう)と呼ぶ。
・「渠」について西村注は『第三人称の代名詞。「伊」(かれ)に同じ。禅者が真実の事故を指していう語。』とある。]

さて、この日記はちょっと分かりにくいのだが、私は次のように解釈する。祖父はこの前日、宗活老師から「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」(人類が誕生する以前のお前の本来の姿とは何か?)という公案をもらい、朝の参禅で、自分の「見解」である、
「かかる父母だの我だのを突破して、人類出来ざりし以前の本来の面目!」
答えた。すると宗活老師から、「一喝を喰」らって「見事に叱られた」のであった。何故、叱られたか? それは祖父自体がその原因をはっきりと示しているから面白い。祖父は「父母と言ふものから」極めて論理的「分析的に考へて」、どこまでも理詰めで「かく考へ」抜き、総体として如何にも学者然として「哲理を解く考で」公案に向かってしまったからであると言い切ってよい。禅の公案と問答は、祖父が自信を以て語っている論理的帰結やヘーゲルのアウフヘーベン(止揚)のような構造からは、実は無限遠の対極にあると、私は思うからである。]

  七月十一日
 是ならばと提げて老師に面した。獲物は一喝である。實に有難い一喝である。「其はよくわかつた。然し其は實際上の問題である。實際上の問題は暫らく措いて、父母未生以前本來の面目如何」參禪亦參禪工夫、更に工夫流汗淋漓、午前に四時間、午後に二時間、本來の面目とは如何、本來の面目とは如何。
[やぶちゃん注:祖父が「かかる父母だの我だのを突破して」という答えを言ったことから、宗活は公案を人口に膾炙した例の「父母未生以前本來の面目如何」という公案にスライドさせている。ここには祖父が一括を食らったこの日の答えは示されていないが、その答えを宗活が「其はよくわかつた。然し其は實際上の問題である。實際上の問題は暫らく措いて」考えなければ、いつまで経っても一喝だぞ! と批判していることからも、私が先の注で推測した通り、祖父の公案深考の方法が徹底した論理的思考であり、誤った公案への姿勢であることを証明している。]

  七月十三日
 午前中獨參、本日休參
[やぶちゃん注:現実の論理的思考から抜け出せない祖父は答えが出ない。]

  七月十四日
 大接心、六時朝參「色もなし相もなし」とやり出すと、此の名論を屁の樣に「ソンナ公案を外所にした批評はいらぬ」「公案三昧、公案三昧」本來の面目如何。第二回の朝參、「梢に渉る風」其んな木も風もない以前の事じあ。本來の面目如何、ウーンクソ。何と何と蹴られても、此の信念にゆるぎあるべき。彌陀に救はれし身には、唯念佛、唯念佛。ドレモコレモ皆本來の面目じや。
[やぶちゃん注:この日も面白い。祖父はこのツー・ラウンド、巧妙に作戦を変えている。
○第一回朝参の場面
宗活「作麼生(そもさん)! 父母未生以前本来の面目如何?」
祖父「色(しき)もなし相もなし!」
宗活(鈴を鳴らして)「ソンナ、公案を外所(よそ)にしたような批評は、イ、ラ、ヌ!」

○第二回朝参の場面
宗活「作麼生(そもさん)! 父母未生以前本来の面目如何?」
祖父「梢に渉る風!」
宗活(鈴を鳴らして)「虚け者ガ! そんな木も風も、ない、以前のことじゃ!!」

第一回は私でも吹き出してしまいそうだ。勿論、祖父は極めて真面目に考えてはいる。「色」(しき)は色法で仏教でいう「存在」の謂いである。修行禅定のみを実存として考える仏教では、色(存在)は総ての認識されるところの対象となる諸行無常の自身の肉体を含む物質的現象の総称である。具体的には感覚器(目・耳・鼻・舌・身・意)によって認識される対象である「境」の一つで、狭義には特に眼識の対象を言う。「相」(そう)は同様にあらゆる現象・対象の見た目の外形や姿形(すがたかたち)の謂いであろう。それにしても私が笑ってしまうのは、
「父母未生以前とかけて何と解く?」
「本来の面目如何と説く。」
「その心は?」
「色もなし相もなし。」(笑)
と、これではまるで落語の謎かけみたようなもんだ。
 第二回の「梢に渉る風」はカンニングが見え見えだから、だめだと私も思う。これは容易に「雨月物語」の「青頭巾」の引用でも超有名な「禅林句集」の一節、
  江月照松風吹
  永夜淸宵何所爲
○書き下し文
江月照らし 松風吹く
永夜淸宵 何の所爲ぞ
○やぶちゃんの現代語訳
  ――月影は川面を美しく照らし――
――松風が爽やかに吹きぬける……
……この永き夜――
――淸らかな宵……これは一体、何のために、あるか?!
という公案を答えに安易にインスパイアしたものに過ぎないからである。この場に私がいたら、宗活の答えを聞いた瞬間、やっぱり吹き出してしまうだろう――しかし、そうして当然の如く、祖父の怒りを買って、夜、藪野種雄は私の寝床へやって来てさんざん議論を吹きかけられ、睡眠不足になること、必定でもある。]

  七月十五日
 どうしても愈々自分のものとして示す事が出來ぬ。布團上の公案が老師の面前屁一つ。殘念だ。無念だ。茶話會の時、何が故か俺には分らぬが老師の一言一句が乃公の心を打ち、生れて未だなき苦しさに耐え兼ね、衆人列座の中に聲をあげて涕泣す。
[やぶちゃん注:祖父の不思議な激情的資質を見る。祖父はともかくここまで徹底して超真面目に公案の答えを考えて続けて来たのである。ところが老師の、不真面目にしか見えない屁のような答えに対する、無意識の内的不満と抑え難い憤怒が頂点に達し、衆人列座の中にあって、図らずも涕泣してしまったのである。]

  七月十六日
 不思議とて、かくも不思議のことがあるか。興奮してゐるのではない。見るもの聞くもの一つとして公案ならざるはない。此の浴場の水迄も、くだらぬ廣告迄も。しかも老師の一喝に會ふ。古劍居士戒めて曰く。玄境なり、今一息の所、大勇猛心を起し給へ。本來の面目如何。
[やぶちゃん注:「古劍居士」不詳。]

  七月十七日
 大法を傷けし不屆者!彼禪宗活をしめ殺す宗活奴がと、其が目につきては殺しも殺せず。又無爲にして歸る。殘念無念〔。〕
[やぶちゃん注:そうだ! じっちゃん! それでいいよ! もう、一歩だよ!]

  七月十八日
 五感に感ずるもの一として我本來の面目に非るものなし。道行く人も人に非ず。空行く雲も雲に非ず。然るに何ぞや。卒然として惡夢より覺めし如く、宗活何者ぞ。我が此の絶大の信念を看破すること能はずして、徒らに宗旨を弄する者と思ひし瞬間、道は道、人は人、妙齡の美人は矢張り妙齡の美人だよ。元の木阿彌だ。何の爲の修業ぞ。何の爲の上京ぞ。將に危うし危うし。
[やぶちゃん注:祖父はここで確かに深化した。「妙齡の美人」は間違いなく祖母茂子である。快哉! 快哉!]

  七月十九日
 本來の面目如何、座禪三昧布團上工夫し骨折つて取り去り取り來る。一劍頭に、宇宙乾坤を卒然擧止するの外なき胸裡の苦惱、しかも切實なる將に死に勝る苦惱である。南無阿彌陀佛の本願がほのかに分明した心地がする。
 午前十一時、見性成佛。
[やぶちゃん注:はっきり言おう。確かに――この時――祖父は悟達している!]

  七月二十日
 午前二回、午後二時の參禪にて終り。
(註)此の年の九月頃かと思へるが、草刈氏と意見衝突、十月五日最後の談合、辭職に決せられて森先生や藤井先生、笠井さん等に相談と云ふより寧ろ報告された樣子である。超えて大正十一年二月二十五日離職許可、是丈けの經濟的壓迫の中に敢然として主義の爲に辭職された事には滿腔の敬意を表せずには居られない。
[やぶちゃん注:祖父の辞職と、この一連の座禅体験は無縁ではないと私は思う。村上氏は確かにそうしたコンセプトでこの年の日記を抜粋していると言ってよい。私は、祖父の毅然たる鮮やかな態度に、素直に心からの畏敬を覚えるものである。]

2011/09/01

藪野種雄 日記 大正9(1920)年

□大正九年〔(二十七才)〕

  一月一日
 男が二十七才と言へば花だ、其花の盛りには力の限りを押し延ばし、美しい花にせねばならぬ時だ。よろしい。
嵐に破れ散るか、見事に吹くか、どちらでも關はぬ。自分の力のあらん限りを奮つて大正九年を回顧する愉快な日を期するであらう。

  一月三日
 本年の第一に爲すべき事は。
 専門に對するしつかりとした土臺を作り、實力を物にせねばならぬこと。第二には身體を十分健全にし、活動の原動力をよくすることだ。

  一月十九日
 ワット百年祭。母校機械學會、牛後七時より十時迄、雨あり。(中略)卒業生六人の所感あり下級生の所感があつた。止むを得ず自分も出た。其して或る辯士が、何か湯呑を見てヨコンデンサーを考へたとの大發見?から思ひ出し。
一、ワットの如き偉人の追慕に対する自分の態度(讃美でなく、自分を偉大ならしむこと)
 二、大雷の例を出し、我が機械工學界の未成品なること、資本家の横暴なこと、技術者の無力を示し、今後の労働問題の大なるを告げ、團體的に訓練無き彼等を善導する我々殊に諸君の中に團結心無きを甚だ遺憾とする由を告げた。最後に二年吉村君の語りし二等卒が戰死するとの話を引いて。
 三、自分達は等級によりて評價さるべきでなく、又明専ニズムが何だ、大學が何ぞと、つまらぬ小競合ひは止めて、パーソニズムの爲に一身を捧ぐべき事を絶叫し、つまらぬ寮の解放など罵倒してやつた。
 (註)此時著者は初めて藪野氏の風貌に接したのである。當時二年生で、クラスメイト吉村が、兵卒が萬歳をとなへて死ぬるのは虚僞だとか何とか云つたのを大分反駁されたやうに記憶してゐる。
[やぶちゃん注:ジェームズ・ワット<James Watt>は一七三六年一月十九日生、一八一九年八月二十五日没であるから、ワット生誕記念祭ならば百年ではなく、百八十四年祭であるが、没年からは百一年目に当たるから、日本風に言うなら百回遠忌(それも本邦では百回遠忌は没年から九十九年に行うので二年遅れで)を祥月命日ではなく、誕生日に行ったということになる。明専の工学学会開催に合わせたためであろう。]

 一月二十二日
 欠勤届を出して、母校日隈君に會見す。
九州製鋼に行くべく確定せる君に對して氣の毒なれば、公の爲に、我動力界の爲に、吾等と共に行動せられん事を祈る。僕も男である。かく決心する迄には十分熟慮したのである。一度君に対して世話を爲すからには、絶對の責任を喜んで受けるのである。男子意氣に感ず。乞ふ吾輩のこの希望を入れ給へと。

  二月八日
 明治維新その折の人々の
 二十七年内外の靑年なりしを思へば
 わが身此年になりても尚さだかならぬ
 其日其時に捕はるゝを泣きたく思ふ。

  三月一日
 静かに自ら反省して過ぎこし方を思ふと、此の頃の自分はあまりに輕薄な奴になつたと思ふ。恩人に對しても、殊に松本氏に對して自分の心は實に御目にかゝるも苦しい事である。御手紙を差し上げるは勿論、訪問すべきであつた。(中略)

  三月二日
 ××さんと話してゐると○○と言ふ男の如何につまらぬ奴であるかと思ふや切である。折だにあらば、必ず天誅を加へてやらねばならぬ。
 紳士振つて、しかも内心利己の外何者も有せぬ。人の上におかれぬ輩である。

 ≪〔(註)〕五月より八月にかけては殆どブランク〔。〕≫
[やぶちゃん注:これは村上氏の註であるが、ここのみ表記の通り、「(註)」の表題がない。且つ、何故かここだけ〔 〕の二重括弧で括られている。私の補正括弧と混同するので、表記のような括弧を用いた。]

  八月二十七日
 昨日より愈々出勤、之にて丁度一ケ月の欠勤なりき。

  八月二十八日
 濱口氏より茲に新しく研究員を命ぜらる。主任補佐の大役を命ぜらる。自省して責任の大なるを思ふ。

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