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2012/01/03

宇野浩二 芥川龍之介 一ノ三

     一ノ三

 さて、その日[大正九年の十一月二十二日]の夕方、さきに述べたように、芥川と私が、他の連中〔れんじゅう〕とわかれて、京都にゆくことになっていたので、直木は、私たちをもてなすつもりであったか、「……汽車の時間は十分〔じゅうぶん〕に間〔ま〕にあいますから、文楽にゆきませんか、里見さんも、一しょに行く、と、云ってらっしやいますから、……」と、いった。

 この時分は、文楽座は、平野町〔ひらのまち〕の御霊神社〔ごりょうじんじや〕の境内〔けいだい〕にあったので、俗に『御霊文楽』といった。そうして、文楽座は、この御霊神社の境内にあった頃が、一番はなやかな時代であった。
 ところで、この御霊神社のなかの文楽座は、大正十五年の十一月二十九日の朝、火災のために、焼けてしまった。名作『文楽物語』の著者、三宅周太郎が、この火災について、「見方によつては、『国宝』とも、大阪の『宝』ともすべき、幾多の古き風雅優美の人形を焼失してしまつた。勿論、それらのよき『頭』[舅、娘、老女形、新造、鬼一、孔明、文七、源太、みなで、十七種の『頭』ろいう程の意味]は、再び作らうとしても、今の世ではどんな方法をもつても作り得ない名品ぞろひである。その時、文楽座の焼土を見て、こつちの一〔ひと〕かたまり、向うの一〔ひと〕かたまりの、座方、太夫、人形つかひが、その一かたまりづつゐて、みな、おなじやうに、泣きあつてゐた、といふのは、満更に誇張ではあるまい、と思ふ、」と、述べている。
 私は少年の頃(といって、十六七歳の頃から、)この『御霊楽』で、不世出の名人といわれた、摂津大掾、三代越路太夫、その他の浄瑠璃〔じょうるり〕を、聞き、名人、広助、吉兵衛、その他の三味線を、聞き、また先代、玉造、紋十郎、玉助、その他、というような、名人のつかう、さまざまの人形も、しばしば、見た。

 さて、その日の夕方、町幅のせまい平野町の、御霊神社の前で、自動車をおりて、小〔ちい〕さな社殿の横をとおり、小ぢんまりした劇場の前に、出た。(『小ぢんまりした劇場』とは、この劇場に登場するのは人形と人形つかいだけであるから、普通の劇場の舞台の三分の二ぐらい⦅こんど新築された東京の歌舞伎座の三分の一ほど⦆であり、二階は中二階〔ちゅうにかい〕[普通の二階より低く、平屋よりやや高くかまえた二階]の構造であるから、劇場の『雛形〔ひながた〕』の観あったからである。)
 ところで、私は、その時、うすぐらい平土間〔ひらどま〕の後〔うしろ〕のほうの枡〔ます〕[劇場で見物人をすわらせるように、四角な枡のような形にしきったところ]に五六人の連中と一しょに坐〔すわ〕った事と、その平土間には四分〔ぶ〕どおりぐらいしか『入り』がなかったので、平土間ぜんたいが、(いや、文楽座の客席ぜんたいが、)いやに、がらんとしていて、うすぐらくて、陰気に見えた事と、――そのくらいの記憶しかないのである。しかも、その五六人の連中のなかに女〔ひとり〕が一人いたことをおぼえていながら、その女が誰であったか、その連中がだれだれであったか、という事さえ、おぼえていない。が、その連中は、まえに述べたように、里見、芥川、直木、私、の四人であったことは略〔ほぼ〕たしかで、女は、その頃の直木(前に書いたように、その頃は植村)の愛人であった、堀江の太芸者〔ふとげいしゃ〕、豆枝〔まめし〕であった。豆枝は、そのころ、十七八歳であったが、ふとっていた上に、背〔せ〕が五尺二寸ぐらいであったから、大柄〔おおがら〕な女であった。(もとより、太芸者は、浄瑠璃をかたるのが専門であったから、たいてい、恰幅〔かつぷく〕がよかった。私は、それを知っていたので、豆枝をはじめて見た時から、『なるほど』と思っていたが、)そんな事を知らない芥川は、私の耳のそばで、「……豆枝は、植村にまけないはど、無口だから、おもしろいね、……相撲〔すもう〕をとったら、植村は、負けるね、」と、いった。
 ところで、この時の私の『文楽座』の思い出は、これだけであるが、里見の『芥川の追悼』という文章のなかに「植村宋一に案内されて、吾々〔われわれ〕みんなで文楽に行つた。そこへ行くまで、私はどこかでひどく飲んでゐたものとみえて、はたの聴衆に迷惑をかけるほどの酔態を現した由、これは後に植村に聞いて恐縮したが、つれの芥川君といひ、宇野君といひ、さういふことは恐らくや毛虫より嫌ひにちがひないから、その日の私は、二人にずゐぶんうとまれたらうと、それは無理なく思つでゐる。そこを出てから、梅田[註―大阪駅のこと]まで二人を送つて行き、プラットフォオムで、またもや、大はしやぎにはしやぎ出して、そこらを踊りまはり、遂には二人の一路平安を祈るのだと云つて、機関車のそばに立つて、三拝九拝してゐた由、これも植村の話、」というところがある。
 これを読んでも、私には、里見が、酩酊していたために、文楽座で「はたの聴衆に迷惑をかけ」たことなど、まったく記憶していない。それから、私は、葛西善蔵、三上於菟吉、ふるくは、今井白楊、その他、強酒の人たちとつきあったが、その人たちがいくら泥酔しても、うとんだ事はほとんどない。さて、大阪駅のプラットフォオムの一件であるが、この時の事は、うろおぼえであるが、今でも、わりに、はっきり記憶にのこっている場面がある。これは、プラットフォオムで、若かりし里見 弴が、いかにも、楽しそうな、おもしろそうな、邪気のない、顔をして、おどった恰好である。誇張していえば、その時の里見の姿は『天真爛漫』そのものであった。私は、(私も、)それにつられて、里見と両手をとりあって、それを上〔あ〕げたり下〔さ〕げたりした。それは、すこしはなれてその里見の一等俳優のような振舞〔ふるまい〕をながめながら、酒をすこしも飲まぬ私も、酔い心地〔ごこち〕になったのであろうか、「……もう少〔すこ〕し背が高いと、いいのだがなあ、ほんとに惜しいなア、」と、いった。いってから、その時は、本当にそう思ったのであるが、先輩にたいして失礼なことをいったことを、いたく後悔した。さて、その時、里見が、あの文章のなかに書いているように、いくらかよろけながら『三拝九拝』したことを、私は、はっきり、おぼえている。しかし「機関車のそば」ではない。

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