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2012/01/02

宇野浩二 芥川龍之介 「まえがき」及び「一」 附やぶちゃん冒頭注

芥州龍之介   宇野浩二

[やぶちゃん注:芥川龍之介の盟友宇野浩二の渾身の大作「芥川龍之介」は昭和二十六(一九五一)年九月から同二十七(一九五二)年十一月までの『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載され、後に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行された。底本は中央公論社昭和五十(一九七五)年刊の文庫版上・下巻を用いた。ブログ版では読みは〔 〕で当該字の後に示したが、拗音の同ポイントについては私の判断で小文字を採用している。本文中の割注のような( )によるポイント落ちの筆者の解説が入るのは、[ ]で同ポイントで示した。当初はこれは筆者とは別な編集者が挿入した疑いを持ったが、幾つかの箇所から筆者でなければ書けない内容であることが分かったので、省略しなかった。後日、私のオリジナルな注も附す予定である。]

芥川龍之介
  ――思い出すままに――

     まえがき

 芥川龍之介――と、こういう、ものものしい、題をつけたが、この文章は、芥川龍之介のことを、思い出すままに、述べるつもりで、書くのであるから、これまでに私が芥川について書いた文章と重複するところがかなりある、(いや、重複するところばかり、)というようなものになるにちがいない。
 この事を、まず、はじめに、おことわりしておく。
 それから、この文章は、もとより、評伝でも評論でもなく、私が芥川とつきあった短かい間〔あいだ〕の、私が、見、聞き、知った、芥川について、その思い出を、主として、書きたい、と思っているのであり、そうして、その思い出も、わざとノオトなどをとらないで、おもいだすままに、あれ、これ、と書つづる、というような方法をとりたい、と思うので、思い出すままに述べる事柄の年月〔としつき〕があとさきになったり、それぞれの話がとりとめのないものになったり、するにちがいない。
 こういう事も、ついでに、おことわりしておく。
 それから、このような、はかない、あてどのない、とおい昔の事を、たよりない記憶で、書くのであるから、これから、たどたどと述べてゆくうちに、つぎつぎと出てくる事柄に、思いちがいやまちがいが多くある事、名を出す人たちに、とんでもない事やまちがった事を書いたために、すくなからぬ御迷惑をかけるかもしれないことを、(かけるにちがいないことを、)前もって、おことわりし、おわびを申しあげておく。
 それから、最後に、これから述べようとする事は、もとより、私のはかない記憶をたどりながら書くのであるから、まずしい頭〔あたま〕からくりだす、あやふやな思い出が、なくなってしまったら、おわらねばならぬ事を、おことわりしておく。

 さて、今日(七月二十三日)は、亡友、葛西善蔵の祥月命日であり、明日〔あす〕(七月二十四日)は、亡友、芥川龍之介の祥月命日である。葛西は、昭和三年七月二十三日、東京府下世田ケ谷町三宿〔みしゅく〕の寓居で、この世を去り、芥川は、昭和二年七月二十日、東京市外滝野川田端の自宅で、この世を捨てた。――こう書く私は、文字どおり、感慨無量である。

 葛西は、芥川の『歯車』をよんで、「芥川ははじめて小説らしい小説をかいた、」といったが、(といって、葛西が、芥川の『歯車』以前の小説を、どのくらい読んでいたかは、わからないけれど、)芥川は、志賀直哉の作品は別として、葛西の小説はかなり認〔みと〕めていた。

     一

 私は、芥川を思い出すと、いつも、やさしい人であった、深切な人であった、しみじみした人であった、いとしい人であった、さびしい人であった、と、ただ、それだけが、頭〔あたま〕に、うかんでくるのである。それで、私には、芥川は、なつかしい気がするのである、時〔とき〕には、なつかしくてたまらない気がするのである。

 私が芥川と一しょに旅行したのはただ二度である。ところが、その二度とも大阪に行ったことをはっきり覚えていながら、大正九年の十一月の下旬に、直木三十五にさそわれて、里見、久米、菊池、その他と、大阪まで行き、それから、芥川と二人で、京都から、名古屋にまわり、諏訪に行った時の事は、よく、(些細の事まで、)おぼえているのに、もう一つの旅(二度目の旅)の思い出は、ただ、芥川と一しょに大阪に行った、という程〔ほど〕の記憶しかないのである。
 ただ、『二度目』という記憶があるのは、(といって、うろおぼえではあるが、)たしか、大正十三年の二月の中頃であったか、ある日、芥川が、私の家に、あそびに、(というより、はなしに、)来たとき、なにかの話〔はなし〕がとぎれた時、とつぜん、「……大阪イ一しょに行かないか、ぼく……」と、いった。そこで、私が、ちょっと考えてから、「ゆきたいけれど、……金がないから、……」というと、芥川は、すぐ、「金なら、心配は、いらないよ、」といいながら、あの、目尻に、二三本〔ぼん〕のしわをよせ、目にたつところに大きな歯が一本〔ぽん〕かけている少し大きな口を細目〔ほそめ〕にひらいて笑う、独得の、おどけたような、あかるい、笑い方をした。
 それだけで私は、すく「そんなら、行こう、」と、約束をした。
 今、その時の事をおもうと、(これも、また、まちがっているかもしれないが、)その時、芥川は、たしか、支那に行くことになっていて、それを、紀行文に、書く条件で、たのまれた、大阪毎日新聞社の、(その頃、学芸部長であった、)薄田泣菫にあうために、大阪にゆく用事があったので、私を、その『道づれ』にえらんだのである。それから、金の心配はいらない、といったのは、泣菫に、支那ゆきのうちあわせに行ったついでに、前借をたのんで、相当の金をうけとるつもりであったのだ。

 薄田泣菫といえば、私が、若年の頃、(十七八歳の時分に、)愛読した、第一詩集『暮笛集』の巻頭の、『詩のなやみ』の最初の、
 遅日〔ちじつ〕巷〔ちまた〕の塵〔ちり〕にゆき
 力〔ちから〕ある句〔く〕にくるしみぬ
 詩〔し〕はわたつみの真珠狩〔しんじゅがり〕
というのを、今でも、暗記しているほど、私の、青春の、あこがれの、詩人である。
 これは、私〔わたくし〕ばかりではない。ある時、ある会で、辰野 隆と久保田万太郎のちかくの席にすわった時、私が、なにかの話のきれめに、ふと、泣菫の詩のことを、述べると、その話がおわらぬうちに、辰野が、あの有名な『公孫樹下〔こうそんじゅか〕にたちて』のはじめの、
 ああ日〔ひ〕は彼方〔かなた〕、伊太利〔イタリア〕の
 七〔なな〕つの丘の古跡〔ふるあと〕や、
  円〔まろ〕き柱に照りはえて、
  石床〔いしゆか〕しろき回廊〔わたどの〕の
と、癖〔くせ〕の、口を長方形にひらき、目をランランとかがやかせながら、情熱をこめ、唾をとばしながら、朗誦しはじめた。(私は、その辰野の姿を見ながら、その辰野の朗誦を聞きながら、ひそかに、涙をながさんばかりに、感激した。ああ、論をすれば、しばしば、はげしい敵になる、辰野よ、……と、これを書きながら、私は、また、感激を、あらたにするのである。)
 ところが、辰野が、
  きざはし狭〔せば〕に居〔ゐ〕ぐらせる……
と、つづけているのに、いきなり、久保田が、そばから、ひきとるように、
  青地〔あをぢ〕襤褸〔つづれ〕の乞食〔かたゐ〕らが、
  月〔つき〕を経〔へ〕て来〔こ〕む降誕祭〔クリスマス〕
  市〔いち〕の施物〔せもつ〕を夢みつつ……
と、肩をゆすりながら、鼻の穴をふくらませながら、夢中〔むちゅう〕になって、朗誦しはじめた。すると、辰野が、また、……と、書きつづければ、はてしがないのである。
 そのうちに、辰野と久保田が合唱しだした。ここらで、私も、夢中になって、
  ここ美作〔みまさか〕の高原〔たかはら〕や、
  国のさかひの那義山〔なぎせん〕の
  谿〔たに〕にこもれる初嵐〔はつあらし〕
  ひと日〔ひ〕高〔たか〕みの朝戸出〔あさとで〕に、
  遠〔とほ〕く銀杏〔いてふ〕のかげを見て……
と、やりたいところであるが、遺憾なるかな、私には、胸にあまる感激だけがあって、声に出せないのである。

 さて、芥川と私は、大阪につくと、すく毎日新聞社に、薄田泣菫をたずねた。
 私は大正九年の秋の頃、東京日日新聞と大阪毎日新聞の夕刊に、『高い山から』という中篇小説を連載し、大正十年の春の頃やはり、東京日日新聞と大阪毎日新聞の夕刊に、『恋愛三昧』[『恋愛合戦』という長編小説の下巻になる]を連載したとき、泣菫から、しばしば、依頼や催促の手紙をもらったこともあるので、その挨拶をかねても、泣菫に、あいたかったからである。
 ところが、私が泣菫にはじめて逢って、いきなり、うけた印象は、こちらからお辞儀をしても、ただ、目をパチクリさせて、上半身を前にちょっとかたむけただけで、わずかな時間であったが、はじめからしまいまで、端然とした形〔かたち〕をほとんどくずさなかったので、実に行儀ただしい人のように見えた事である。それで、毎日新聞社を出てから、すぐ芥川に、その事を、いうと、芥川は、いつも、いたずらをしたり、皮肉をいったり、する時に、してみせる、笑い顔をしながら、「きみ、知らなかったのか、…あれは、脊椎カリエスで、ギプスを、はめているからだよ、名づけて、『維摩端然居士』というのだ、」と、くすッ、と聞こえる、笑い声を、たてた。
 ところで、この時の芥川との旅行は、たぶん、大阪だけで、一と晩ぐらい、とまって、帰京した、(と思う。)

 さて、私が芥川と一緒に最初に旅行した時の話は、すでに、二三度〔ど〕書いたが、こんど、これから、書いてみたいのは、前に書かなかった、(というより、書けなかった、)いろいろさまざまの事どもである。
 ところで、それを述べるには、読む人たちが退屈しイヤになる以上に、書く私もイヤでたまらないのであるが、重複するのを承知で、前に二三度も書いたことを、くりかえし、書かねば、話の筋がとおらない。それで、イヤでたまらないのを辛抱しながら、これから、はじめることにしよう。
 さて、その時、私たちが、(その時は、直木のほかに、芥川、菊池、田中 純、私、の四人が、)東京駅から、午後六時の汽車で、立ったのを、大正九年の十一月十九日、とすると二十日の夜は、大阪の堀江の茶屋に、とまり、二十一日の晩は、芥川と私と久米は、生駒〔いこま〕山麓の妙な茶屋に、とまり、二十二日の夜は、芥川と私は、京都の鴨川の岸の珍〔ちん〕な茶屋にとまり、二十三日の晩は、芥川と私は、下諏訪の宿屋に、とまった、という事になる。それから、里見と久米は、二十日の午後十二時頃に東京駅を出る汽車に、のりこんだ。
 ところで、二十一日の朝の五時ごろに、私たちは、京都で、おりた。大阪に行く筈であるのを、京都でおりたのは、直木が、だまって、汽車をおりたからである。これは、田中をのぞいて、芥川も、菊池も、私も、この旅行に出る三日まえに、直木(その時分は植村宋一)を、はじめて、知ったので、それに、その時の旅行は一さい直木まかせであったから、その時の行動は、かりに、私たちを羊とすれば、直木は、羊たちをみちびく、羊犬(つまり、シイプ・ドッグ)であった。
 それで、ふかい霧のたちこめている、早朝の、京都の町を、七条の駅の前から、三十三間堂のそばを通〔とお〕って、東山〔ひがしやま〕のほうへ、黙黙〔もくもく〕として、あるいて行く直木のあとから、芥川も、菊池も、私も、ほとんど無言で、あるいた。
 やがて、東山公園の『わらんぢや』に、はいった。『わらんぢや』は、大根の「ふろふき」[大根をゆでて、そのあつい間に、味噌をつけてたべるもの]を名物とする家であるが、かえってそれがゲテのうまさがあるのと、たしか、早朝だけ開業しているのとで、名代〔なだい〕の家である。その『わらんぢや』で食事をするあいだも、『わらんぢや』を出てからも、直木は、やはり、一〔ひ〕と言〔こと〕も、口を、きかなかった。(口をきかない、といえば、これも、前に、書いたことがあるが、東京駅の二等待合室で、芥川と顔をあわした時、両方がはじめて口をきいたのは、「君は、植村を、知ってるの、」「いや、こないだ、たのみにきた時、はじめてだ、」という言葉であった。それから、汽車のなかで、寝台車の中の喫煙室に通じるほそい廊下で、芥川とゆきあった時、芥川が、「きみ、植村って、こっちから、話しをしたら、ものをいうよ、」と、いった。それだけである。)
 さて、『わらんぢや』を出てからも、直木は、やはり、だまって、あるきつづけた。やがて、知恩院のそばも通り、南禅寺の門の前もすぎた。「ものはいわないけど、植村は、実に足の達者〔たっしゃ〕な男だね、」と、芥川が、いった。そのうちに、聖護院〔しょうごいん〕の前をとおり、それから、寺町の通りに出て、しばらくあるいたところで鎰屋〔かぎや〕の二階にあがった。(鎰屋は、ずっと後に、梶井基次郎が、名作『檸檬〔れもん〕』のなかにも、書いているように、その頃の京都にしばらくでも滞在した人には、おくゆかしい、なつかしい、喫茶店である。)しかし、鎰屋の二階にあがって、一服した時は、私たちは、へとへとになり、みな、いくらか、不機嫌になって、口をきく元気〔げんき〕さえ、なくなった。
 ところが、直木は、ひとり、平気な顔をして、鎰屋を出ると、また、さっさと、あるきだした。私たちは、足をひきずりながら、直木のあとに、つづいた。直木は、私たちが、一二歩おくれてあるいていても、一間〔けん〕ぐらいはなれてあるいていても、すこしもかまわずに、おなじあるき方〔かた〕であるいていた。やがて、あの古風な七条の停車場の建〔た〕て物〔もの〕が、見えだした時、芥川が、例の鼻声のような低い声で、
 「……今日〔きょう〕は、二里ちかく、あるかされたね。……きみ、植村という男は、一種〔しゅ〕の不死身〔ふじみ〕だね、」
  すると、その時、突然、私たちより半間〔はんげん〕ぐらいおくれて、のろのろと、あるいてくる、菊池が、「……ぼくは、腹がすいた……」と、もちまえのカン高〔だか〕い声で、(ちょっと情なさそうに聞こえる声で、)いった。
「こういう時に、空腹をうったえる菊池ひろしは、きみ、一種の猛者〔もさ〕だね、」と芥川が私に、云った。
(芥川は、私の記憶では、『キクチ』と姓〔せい〕だけを、云う時のほかは、かならず『キクチ・ヒロシ』と、いった、これが、本当の読〔よ〕み方〔かた〕である、と、いわんばかりに。)

 京都駅で、大阪に行くために、私たちが汽車にのったのは、午前十時頃であった。
 京都から大阪までのあいだの二等車のなかは閑散であった。その時分の二等車は、今〔いま〕の都電や省線の電車のように、車の両側に座席がついていて、その座席もふかくクッションもやわらかく、座席と座席のあいだの通路もひろかった。
 さて、汽車の中〔なか〕がすいていたので、私たち五人の連中〔れんぢゅう〕は、すこしずつはなれて、腰をかけた。私たちが腰かけたのは河内〔かわち〕の国のほうの側〔かわ〕であったが、その反対の側には、汽車のすすんで行く方〔ほう〕の隅〔すみ〕に、市村羽左衛門[十五世羽左衛門]と五十あまりの女が、席を、しめ、反対の隅〔すみ〕のほうに近い席に、『くろうと』らしい女が二人つつましく、腰を、かけていた。
「……汽車にのる前に、ぼくは見たんだが、羽左衛門は、まだ五十前だろうが、顔ぜんたい縮緬皺〔ちりめんじわ〕だね、あれは、白粉〔おしろい〕のせいだよ、」と私がいうと、
「色の黒いのも、白粉のせいだよ、」と芥川がいった。
 その時、ふと、見ると、羽左衛門も、そのつれの女も、座席の上にすわって、窓の外〔そと〕をながめながら、なにか、しきりに話しあっていた。
「……あのつれの女は、細君じゃないね、」と私が云うと、
「林家〔はやしや〕のおかみだよ、」と芥川がいった。
「きみは、妙なことまで、知ってるね。……ところで、こっちの隅にいる女は、芸者だろうが、ちょいとキレイだね。」
「君はじつに目〔め〕がはやいね。」
「そういう君は、僕より早く見ていたかもしれないから、どっちが早いか、わからないよ。」
 私たちがこういうくだらない話をしていた時、(いや、その前から、)座席のほとんどまん中〔なか〕へんに腰をかけていた、菊池は、直木が、いつのまにか、どこかで、買ってきた、パンやかき餅〔もち〕を、ムシャムシャと、たべていた。が、それから、いつのまにか、座席の上〔うえ〕に、横になり、腕枕をして、寝てしまった。
 こちらから見ると、足をのばして寝ている、菊池のむこう側〔がわ〕に、田中が本をよんだり目をつぶったりしている、その田中のむこうに、(座席の隅〔すみ〕にちかい方で、)直木が、京都から大阪まで、一時間あまりのあいだ、腕ぐみをしたまま、端然と、腰をかけていた。

 やがて、大阪駅につき、改札口を出たところで、直木が、自動車をよんだので、私たちは、すぐ、自動車にのった。(まだ自動車のめずらしい項であった。)その自動車で、私たちは、堀江の茶屋に、案内された。(堀江は、大阪の島之内にあるが、土地が不便なところで、色町としては二流であるけれど、義太夫の巧みな芸者がいるので、知られていた。その義太夫のできる芸者を太芸者〔ふとげいしゃ〕といった。これは、義太夫の三味線は太棹〔ふとざお〕[棹のふといこと。それで、普通の三味線を『ほそ』という]であることから因〔ちな〕んだものである。)
 さて、私たちがその堀江の茶屋についたとき、里見と久米が、そこに来ていたか、あとから来たか、――その記憶がまったくない。ただ、その日の夕方に、中之島の公会堂で、もよおされた、文芸講演会に、里見も、久米も、出なかった事を、はっきり、おぼえている。そうして、その講演会も、菊池が、『文芸と人生』という題で、田中が、ツルゲエネフについて、直木が、たしか、『ロシアの前衛作家』という題で、主として、ロオブシンについて、講演したことを、おぼえているだけで、芥川がどういう講演をしたかは、ほとんど覚えていないのである。と、書いたが、今、ふと、思い出したが、芥川は、会場の裏のほうの講演者の控室〔ひかえしつ〕のなかで、「……僕は、準備もなにもしていないから、『偶感』という題にしてください、」といった。さて、芥川は、演壇にのぼると、四五日前までは、名前も知らなかった、人も知らなかった、植村宋一という人間に、ふらふらと、大阪三界まで、つれてこられ、その上〔うえ〕、このような演壇に、さらし者にされた、……「もっとも、『晒〔さら〕し者〔もの〕』といっても、晒しの刑に処せられた罪人などではありません、」と、いって、芥川は、横むきに、あるきだした、『どうです、ちょいと、おもしろいでしょう、』と、いわんばかりに。それから、もう一つ前おきの話をしてから、芥川は、「諸君は、漱石先生の『トリストラム・シャソデエ』という文章を、読んだことがありましょう、……なかったら、うちに帰って、読んでください、」というような事を、いってから、「その『トリストラム・シャンデエ』というのは、英国の十八世紀の中頃に、ロオレンス・スタアンという『坊さん』の作〔つく〕った、大長篇小説の題名であるが、この小説は、型やぶりで、奔放で、無軌道で、……作家が人をくっているようなところは、(「今晩、この公会堂の講演者の控室まで来ていながら、講演に出ない、宇野浩二先生と、ちょいと似ていますが、」)この小説(『トリストラム・シャンデエ』)が、第三巻のおわりに至って、はじめて主人公があらわれる、というような脱線ぶりをしめすところなどは、宇野などの到底およばないところであります、…‥」と、いって、芥川は、また、横むきに、瞑想するような恰好で、あるきだした。
 しかし、これは、しいてほめて云えば、一等俳優の『おもむき』があった。この時、芥川は、かぞえ年〔どし〕、二十九歳であったが、すでに、よかれあしかれ、『孤独地獄』、『芋粥』、『地獄変』、『奉教人の死』、『秋』、その他を書いていたから、鬱然たる大家であった。

 その日の晩、堀江の茶屋で、私たちのためにもよおされた歓迎会は、実に盛大であった。いりかわりたちかわり、盛装した芸者が、あらわれた。
 その宴会には、東京から行った私たちのほかに、見しらぬ人が五六人もいた。その見しらぬ五六人とは、直木に紹介されて、矢野橋村、福岡青嵐、その他の、大阪在住の、日本画家であることを、知った。そうして、それらの人たちは、主潮社という、美術家の団体の同人であり、その主潮社の社主が、矢野橋村であり、矢野と直木が親友であることなどもわかってきた。
 私たちの中〔なか〕では、里見と久米と田中が飲み手であるから、この三人がみな酒のみの主潮社の六人を相手に、さかんに、飲んでいた。酒の飲めない直木は、あいかわらず、無言で腕ぐみをして、すわっていた。
 そのあいだにも、芸者が、めまぐるしいほど、いりかわり、たちかわり、あらわれるが、一人〔ひとり〕の芸者は、たいてい、五分ばかり、席にいるだけで、帰ってゆくので、一時間ぐらいのあいだに、数十人の芸者が、出たりはいったりする。「われわれは、酒はのまないから、酔わないけど、芸者に、ようね、」と、芥川が、いう。「そんなことをいいながら、ずいぶん熱心に見てるじゃないか。」「観察してるんだよ。なかなかシャンもいるよ。」「夜目遠目〔よめとおめ〕ということもあるよ。」「いや、あの、矢野のそばにすわっているのは、そばで見ても……」
 私と芥川がこんなたわいのない事をいっているあいだに、私たちのそばに来て、「菊池先生、どこにいやはります、」と、聞く芸者が、何人〔なんにん〕も何人〔なんにん〕も、いた。これは、菊池のはじめての新聞小説、『真珠夫人』が、大阪毎日新聞に連載ちゅうであった上に、芝居になって、道頓堀の浪花座に、上演されていたからである。「菊池より、浪花座で、『真珠夫人』を見た方〔ほう〕がいいよ、」と私がいうと、「あて、もう、二へんも、『真珠夫人』みましたさかい……」「菊池センセ、どこにいやはりまんねん、」と、うるさく、聞いた。
 こういう妙な会話をしていた時、ふと、菊池の方を、見ると、福岡青嵐のそばで、酒の飲めない菊池が、大きな膝をちゃんとあわし、その膝の上にふとい両手をついて、十六七の芸者にむかって、ほそい目を、一そう細〔ほそ〕め、しばたたきながら、なにか、しきりに、話しかけていた。私が、それを見て、芥川に、「あの、菊池君のよこに坐っている女は、半年〔はんとし〕ぐらい前に、舞子になった、というぐらいのところだね、……丸顔だが、ゴムマリ、というような感じだね、」と、いうと、芥川は、すぐ「あれは、菊池が、くどいてるところだよ、なにか、カナしいね、」と、いった。
 そのとき、時間はあまり遅くなかったが、宴会の席が、すこし乱れてきて、たえがたくなったので、私は、誰〔たれ〕にもいわずに、座敷からはなれた、表通〔おもてどお〕りに面した、六畳〔じょう〕の部屋に行って、そこに床〔とこ〕をとってもらった。床にはいっても、宴のさわぎは、そこまで、ひびいてきた。そうして、そのさわぎのきれ目に、表通りを往〔ゆ〕き来〔き〕する人の声や足音が、妙に、耳についた。
 しばらくすると、やはり、酒席にたえられなくなったらしい芥川が、私の寝ている部屋に、はいって来た。そうして、私の枕もとにすわりながら、芥川は、
「絵かきというものは、かなわんね。(芥川は、『気にいらぬ』ことも、『たまらない』ことも、一さい、『かなわん』という言葉を、つかった。)僕は、日本画家も、ずいぶん、知っているが、主潮社の連中は、みな、神経が、棒のように、ふといね。……君〔きみ〕、主潮社というのは、なんだろう、」と、例のからかうような口調で、いった。
「さあ、僕も、よく、知らないが、……去年の夏ごろ、『主潮』という雑誌を、舟木重信君から、おくってもらって、読んだことがあるが、どこか変っているので、おぼえているが、小説は、青野季吉の『姉』という自然主義風の短篇とか、舟木重信の『給仕のたこ』という、これは、ちょっと、新鮮なものだったが、短篇が、一冊に、一篇ずつ、載っているだけだが、加藤一夫の、ロオブシンの、『嘗て起こらなかつた事』の翻訳とか、宮島新三郎の、アルツィバアセフの、『最後の一線』の翻訳とか、そういう長篇を、五六十枚ずつ、連載してあったのは、めずらしいだろう――つまり、その『主潮』という雑誌と、(四六判の雑誌だ、)あの画家連〔れん〕の主潮社とは、元は、おなじだ、と、思うんだ、」と私がいうと、
「ふふん、そんなら、あの講演会の費用も、われわれにくれた講演料の百円も、今晩の宴会費も、みな、主潮社のタイショウの、矢野が、出したんだよ。…ああいう日本画家は、artistじゃなくて、artisanだよ。‥…植村という男は、なかなか、ヤリテだね、そうして、あの男は、artistだよ、」と、芥川がいった。
 このような話を芥川と私がしていた時、廊下のそとから、西洋流に、障子を、コツコツと、たたく音がしたので、こちらから、「どうぞ」と、いうと、直木が、のっそりと、はいって来て、私たちの側〔そば〕にすわると、すぐ、
「この家は、さわがしくて、うるさいでしょうから、しずかな所へ、案内しましょう、どうぞ、支度〔したく〕を、してください、」と、いった。
 妙な事をいう、とは、思ったが、私は、床〔とこ〕を出て、支度をし、芥川も支度をした。そうして、「では、行きましょう、」という直木のあとについて、私たちは、その茶屋を、出た。
 ところが、すぐ近くだ、と思ったのが、自動車にのせられ、上本町六丁目にゆき、そこから、奈良ゆきの電車にのせられ、生駒〔いこま〕駅でおろされた。そのあいだ、三人とも、ずっと、無言であった。
 生駒山は、海抜は二千尺ぐらいであるが、金剛山脈の北部を占〔し〕める生駒山脈の主峰であり、河内と大和の境にそびえる山である。二千六百年の昔、勇敢な神武天皇も越えられなかった、という伝説の山である。大阪から真東〔まひがし〕にある奈良まで行く電車がなかなか出来〔でき〕なかったのは、この大きな生駒山を東西に抜けるトンネルが容易にできなかったからである。数年の歳月と巨額の金額をついやし十数人の人の命を犠牲にして、やっと、トンネルを通じたのは、その大正九年の秋の頃であった。(これはまちがっているかもしれないが、)このトンネルを通〔とお〕すために無理な金をこしらえて、岩下清周[小林一三はこの人にみとめられた]は牢に入れられた。
 ところが、このトンネルが出来たために、これまで大阪から頂上までのぼるのにほとんど半日ぐらいかかったのが、三十分ぐらいで登〔のぼ〕れるようになった。
 この生駒山の山腹の東側に、『生駒聖天〔いこましょうてん〕』として名高い宝山寺がある。この宝山寺は、延宝六年、中興の開山、宝山律師が刻んだ、不動明王が本尊であるが、その上に、『歓喜天』を安置してからは、「霊験いやちこ」というので、近畿地方のある人たちは熱狂的に信心した。その『霊験』とは、「隣近所〔となりきんじょ〕七軒の財産が自分のものになり、自分から後の七代の財産を自分のものにする」という真に空〔そら〕おそろしき霊験である。
 ところが、その宝山寺にまいるために、生駒駅から宝山寺までケエブル・カアが出来〔でき〕た。そうして、ケエブル・カアができるとともに、そのケエブル・カアの停車場の横から、ケエブル・カアの通じる坂にそうた道に、アイマイな茶屋が十数軒あらわれ、そのアイマイ茶屋のために、アィマイ芸者が五十人ちかく集まって来た。
 直木が、「しずかな所」と称して、芥川と私を案内したのは、このケエブル・カアの停車場のちかくの、ちょっとした茶屋であった。
 ところが、その日の午前に、京都の町を二時間ちかく、あるかされ、夕方には、講演をさせられた、(私は、講演はしなかったけれど、やはり、疲れた、)芥川と私は、その茶屋のしずかな部屋にとおされた時は、文字どおり、ヘトヘトになってしまった。そうして、芥川と私は、べつべつの部屋で、寝ることになったが、その時になって、ふと、気がつくと、直木は、もう、その家〔うち〕のどこにも、いなかった。(それは、ずっと後に、わかったのであるが、直本には、堀江に、豆枝〔まめし〕という、太芸者〔ふとげいしゃ〕の愛人があり、矢野にも、おなじ堀江に、後〔のち〕に矢野夫人になった、ナニガシという、太芸者の愛人があったのである。)
 つまり、芥川と私は、生駒山中〔さんちゅう〕の妙な茶屋に、オイテケボリに、されたのである。
 しかし、(といって、)私は、芥川がどの部屋に寝ているか、知らないし、芥川も、自分の寝る部屋にはいってしまえば、私のことなども、忘れてしまったであろう。

 十一月の二十一日の夜ふけの生駒山中は、火鉢が一〔ひと〕つぐらいあっても、戸をしめきっても、寒い。
 それで、私は、寝床の中〔なか〕にはいってからも、寒さと冷〔つめ〕たさのために、ちょっとの間〔あいだ〕眠れなかつた。しかし、私は、十年ほど前に、廣津和郎と一しょに旅行した時、いつも、寝床にはいると、すぐ、寝てしまうので、翌朝になってから、廣津に、よく、「にくらしくなる、」と、いわれたものである。
 ところで、私は、その晩も、三分ぐらいで、眠ってしまったが、それから、なにほどの時間がたってからであろうか、ふと、肩のあたりが寒いので、目をさますと、いつのまにはいったのか、一人の白い顔の(とだけしかわからない)若い女が、私と背中〔せなか〕あわせに、寝ている。しかし、「ハ、こういう家〔うち〕かな、」と、思っただけで、私は、すぐ、眠ってしまった。
 その翌朝、はやく、私は、女が、ハデな著物〔きもの〕(白と紅〔べに〕にちかい赤い色が目にたったから、長襦袢であったろう)を殆んどきてしまって、寝床のよこに、立っているのを、かすかに覚えているだけで、すぐ、寝いってしまった。
 そうして、そのつぎに目がさめた時は、昨夜〔ゆうべ〕ねた時のとおり、私は、自分ひとり、寝ていたことを、発見した。そこで、ちょいと心ぼそくなったので、芥川の寝ている部屋をきいて、その部屋の襖を、表(おもて)から、コツコツ、たたきながら、
「……おい、もう、起きたか、はいってもいい、」と、私は、わざと、すこし大きな声でいった。
 すると、中〔なか〕で返事〔へんじ〕をする前に、クスクス笑っている声がしたので、私が咄嗟〔とっさ〕に、二人らしいな、と、思った瞬間に、
「…‥はいってもいいよ、」と、わりにちゃんとした声で、芥川が、いう声がした。
 そこで、遠慮なく、わざと快活に、襖をあけて、中にはいると、正面〔しょうめん〕に、壁にそうてしいた寝床に、蒲団を肩のへんまでかぶって、横むきに寝ていた、女の顔が、まず、見えた。
 その女は、目鼻だちはととのっているが、丸い顔で、平面〔ひらおもて〕で、なにもかも小〔ちい〕さいので、貧相〔ひんそう〕に見えた、それに、髪も平凡な銀杏〔いちょう〕がえしであったから、こういう所にいる女のようには見えず、いたって平凡な感じのする女であった。
 ところで、芥川は、丹前をきて、その女の寝床と、三尺ぐらいはなれて、並行に、肘枕をして、むこう向きに、横になっていたので、私が部屋にはいった時は、長い髪の毛の頭〔あたま〕だけ見えたが、すぐ起きあがって、私のほうを見て、ほんのすこしキマリのわるそうな顔をして、ちょいと笑い顔をして、
「やあ、」と云った。

 この生駒山中に行った時の写真が四五枚ある。(この時の旅行に、私は、写真の雑誌や本を出している、ある本屋から、もらった、イイストマン・コダックという、低級であるが、どんな素人〔しろうと〕がつかってもかならず写〔うつ〕る、写真を持って行ったので、二十枚ちかく写真をとった。久米もおなじ写真器を持ってきていた。)さて、その時の写真のなかに、その平面〔ひらおもて〕の小〔ちい〕さい顔の女が、蒲団を肩までかむって、正面をむき、その前に、私が、腹ばいになって、横むきに、顎〔あご〕を両手でささえ、その前に、(写真では一ばん下〔した〕の左の隅〔すみ〕に、)芥川の、むこう向いている、一見しでも特徴のある、ふさふさした髪の毛の頭〔あたま〕だけが見える写真がある。これは、長方形を横にして取ったものであるから、その長方形のむかって左よりに、上から、前むきの顔、その斜め右下に、横むきの顔、その斜め左下に、むこう向きの頭〔あたま〕、――と、この三つのものが、ざっと、上から下に、ならんでいるのであるから、ずいぶん、不細工〔ぶさいく〕な写真であり、だらしのない場面である。しかし、この写真を、その時から数年後に、廣津に、見せると、廣津は、癖の、ちょっと口をまげてわらう笑い方〔かた〕をして、「ほお、これは、なかなか、オモシロイね、珍写真だね、」と、云った。
 それから、やはり生駒でとった写真のなかに、久米と私が、べつべつであるが、おなじ柄〔がら〕の縞の丹前をきて、坂の途中で、蛇の目の傘を、だてに、肩にかけて、正面をきっているポオズの写真がある。このポオズは、『五人男』などといって、たぶん、久米が、考案したのであろう。
 ところが、この久米と私のきている丹前の柄と芥川があの部屋のなかで著〔き〕ていた丹前の柄がおなじであるところを見ると、久米も、あの妙な茶屋に、とまったにちがいない。しかし、久米が、いつのまに、あの妙な茶屋に、きて、とまったのか、私は、まったく知らない。しぜん、久米が、あの妙な茶屋で、どういう行動をとったかも、私は、まったく知らないのである。
 それから、まったく覚えていないのは、芥川と私が、どうして、あの妙な茶屋を出て、大阪の堀江の茶屋に帰ったか、である。
 しかし、また、覚えている事もある。
 あの、平面〔ひらおもて〕の、目鼻だちも小〔ちい〕さく体〔からだ〕も小〔ちい〕さい、女が帰ってしまって、芥川と私がしばしボンヤリしていた時、「ごめんやす、」といって、その茶屋のおかみさんが、はいって来た。そうして、おかみさんは、私にむかって、「あんたはんよんべ[『昨夜』という意味]、女子〔おなご〕はん、寝さしといただけで、かえしなはったんか、」と、いった。そこで、私が「そうだ、」というと、「ほんなら、花代〔はなだい〕いりまへん、」と、それだけ、云って、おかみさんは、さっさと部屋を出て行った。
 おかみさんの足音が廊下のそとに消えると、芥川は、例の皮肉な笑い方をしながら、
「珍〔ちん〕な計算だね。……ところで、ここの勘定、どうしよう、」と、いった。
「こんどは、一さい、植村が、やってるんだから、ほっとこう。」
「そうだ、こんなところへ、無断で、つれて来たんだからなあ。」

 その日の昼〔ひる〕すぎ、直木は、例のごとく、だまって、私たちを、自動車にのせて、公会堂に、つれて行った。公会堂の前で自動車をおりると、前の日の夕方、『文芸大講演会』とかいたビラがはってあった跡〔あと〕に、『主潮社大展覧会』と書いたビラがはってある上に、おなじことを書いた、白、青、赤、その他の、幟が、数本、入り口の両側、その他、いたる所に、立ててあるのが、目をひいた。それを見ると、芥川は、私の耳のそはに、口をよせて、
「チンドン屋が、休憩しているようだね、」と、いった。
 さて、会場の中〔なか〕にはいると、昨夜、だらしなく酩酊して、調子はずれの声で、端唄〔はうた〕をうたったり、義太夫をかたったり、むやみに手をたたいたり、して、さんざん私たち(酒の飲めない者)をなやました、画家たちが、今日〔きょう〕は、紋つきの羽織をき、仙台平の袴などをつけ、別人のような顔をして、会場内を、あちこちと、なにか、人をさがすような顔つきをしながら、あるいていた。それを見ると、芥川は、また、私の耳のそばで、
「アサマシイね、あれは、買い手を、物色〔ぶっしょく〕しているんだよ、」と、云った。
「そのアサマシイ連中から、植村が、一さいの費用を出してもらっている、とすると、僕らも、アサマシイ、という事になるね、」と、私が、いった。

 公会堂から、また、自動車で、堀江の茶屋に、帰ってくると、みな、自分の家にでも戻ったような気がして、二階の広間で、足を投げだしたり、寝そべったり、アグラをかいたり、くつろいだ気もちになった。
 ところが、私と芥川は、皆とわかれて、その日の晩は、京都にとまり、その翌日、京都から名古屋に出て、名古屋から、中央線にのりかえて、下諏訪に行くことになっていた。わざわざ、中央線にのりかえて、下諏訪による事になったのは、私が、その頃、『人心』、『一と踊』、『心中』その他の小説に、下諏訪を舞台にして、その町のゆめ子という芸者を、片恋いの女として、絵空事〔えそらごと〕にした、それらの小説がいくらか評判になっていたので、いたって(人一倍)好奇心のつよい、芥川が、「ひとつ、その女を、どんな女か、見てやろう、」と、思って、私に、諏訪に行くことをすすめ、「僕も、君のかく、『山国の温泉町』を見たいし、ゆめ子女史の顔を見たいから、一しょに行きたいんだ、」と、いささか、芥川流〔りゅう〕の、煽動をしたからである。そうして、私も、その女を、見たくなったからである。
 それから、途中で、京都によるのは、大阪から諏訪まで行くには、大阪を夜たつ、とすれば、どうしても、途中で、一泊しなければならなかったからである。それに、堀江の茶屋に私をたずねて来た、広島晃甫[その前の年に、はじめて文展に出品して特選になった変り者の画家で、廣津の近著『同時代の作家たち』の口絵の写真に、芥川、私、菊池のよこにすわっている半分かくれて見えない人物である。なお、あの写真は堀江の茶屋で、大阪毎日新聞社の写真班がとったもの]が、「京都にゆくなら先斗〔ぽんと〕町に、僕のよく知っているお茶屋ある、……僕は、君たちが行く晩、そのお茶屋で、待っているから、」と、云ったからである。
 さて、私たちが、公会堂から、帰って、堀江の茶屋の二階で、くつろぎながら、四方山〔よもやま〕の話をしていた時、下〔した〕から、二人の仲居〔なかい〕[東京でいう女中のこと]が、ウンウンいいながら、一人は、菓子を一ぱい盛〔も〕った盆を、他の一人は、果物を山のようにつんだ盆を、持って、あがって来た。それを見た、階段の下り口の一はん近くにいた、直木が、
「そんなもの、注文しないよ、」と、云った。
「いえ、おくり物だす。」
「だれに。」
「芥川先生。」
「えッ、」と、芥川が、めずらしく、ちょっと顔色をかえて、云った。
「べッピンさんだっせ。」
「なに、べッピン、」と、菊池が、例のカン高〔だか〕い声で、叫んだ。
 その時、私は、はッと、思いあたった。「が、それにしても‥…」と、思った。
 しかし、私は、用をたすような顔をして、下〔した〕に、おりて行った。そうして、梯子段の下に、妙な顔をして立っていた、仲居に、
「僕の知っている人だ、今、おくり物を持って来た人は。……どこにいるんだ、」と、私が聞くと、
「玄関で、待ってはります、」と女中が云った。
 私は、いくらか胸をおどらしながら、玄関の方へ、早足に、あるいて行った。
 と、玄関のタタキのすみに、ちょっと見えないようなところに、あの生駒の女が、顔が見えないほど、うつむいて、立っていた。

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