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2012/01/29

宇野浩二 芥川龍之介 三~(1)

今回は、大きな注記が幾つもあるため、注を施した語句の当該段落末に注記を配した。僕としては未電子化テクストも含む、かなりオリジナリティを発揮出来た注が書けたと内心自負している。今回のパートはやや長いが、よろしければお読みあれ。

     三

 下諏訪は、諏訪湖の東北岸にあり、旧中仙道〔きゅうなかせんどう〕の一駅であり、甲州街道と伊那街道の分岐点にあたり、和田峠の麓にある。と、こう書くと、書く私がいうまでもなく、固苦〔かたくる〕しいが、下諏訪は、このような所であるから、今もそうであろうが、その頃は、殊に古風な町であった。しかし、また、この町は、その時分は、長野県内で製糸場もっとも多い諏訪湖北の四箇町村の一〔ひと〕つであったから、下諏訪の駅前の通りの片側には、繭〔まゆ〕をいれてある、窗〔まど〕のたくさんある、白壁の倉が、四〔よっ〕つ五〔いつ〕つ、ならんでいた。
 さて、私たちが、その時、この下諏訪の駅についたのは、昼〔ひる〕すぎであったが、プラットフォオムにおりると、二人とも、殆んど一しょに、「おお、これは、」と、呻〔うめ〕くように、云った。『これは、』といったのは、『これは寒い、』という意味である。
 そう云ったきりで、二人は、無言で、足を早めて、あるせ出した。ところが、芥川は、改札口を二三歩〔ぽ〕出〔で〕ると、「ウ、ウ、」というような声を出して、立ちどまった。そうして、胴ぶるいしながら、もう一度、
「ウ、ウ、」と、いって、こんどは、怒〔おこ〕ったような声で、
「じっに寒いね、……君〔きみ〕、これは、ひどい町〔まち〕だね、……どこに、温泉が、あるんだ、」と、芥川は、いった。
「……ここは、温泉は、上〔うえ〕の方〔ほう〕に、あるんだ、……この町の一ばん高いところにあるんだ、しかし、あまり遠くないから、歩こう、」と、私は、わざとおちついた調子で、云いながら、芥川の返事を待たずにあるきだした。
 すると、芥川は私と競争するようにすたすたと、歩きはじめた。
 停車場の前のせまい広場をぬけると、細い、でこぼこの道が、はじめだらだら坂であった町が、しだいに急になってくる。その坂道の両側に、両側の家家の前に、溝川がある。それらの家家はみすぼらしくて古〔ふる〕びている。風はすこしもないが、いくら早く歩いても、体〔からだ〕じゅうが、寒いのをとおりこして、冷〔つめ〕たい。息をきらしながら無言で歩きつづけていた芥川が、突然、「ほお、ここに、郵便局があるね、」と、いった。青いペンキぬりのドアがついているので、目についたのであろう。やがて、その道が、二〔ふた〕つにわかれて、さらに急な坂道になる。その急な坂道を半町〔ちょう〕ほど上〔のぼ〕ると、つきあたりになって、広い道に出る。温泉宿は、この急な坂道の上の方〔ほう〕の両側にあり、その広い道の両側にある。そうして、この広い道を左の方にゆけば、中仙道で、和田峠に出〔い〕で、右の方にゆけば、すく諏訪神社の下社〔しもしゃ〕がある。私が一年ほど前とまった万屋〔よろずや〕は、その急な坂をのぼりきったつきあたりにあった。
 ところが、やっと万屋の二階の座敷におちついたが、ゆめ子をよぶには、日のみじかい時であったが、時間が早すぎた。そこで、部屋のまん中〔なか〕の火燵に、私たちは、さしむかいに、はいってみたが、日が暮れるまで時間をつぶすのに困ってしまった。すると、芥川が、例のごとく、いきなり、
「君、土屋文明が、諏訪高等女学校の校長をしている筈だから、電話をかけてみて、いたら、たずねて行って、案内かたがた、おごらしてやろう、行かないか、」と、いった。
「……行くけど、土屋文明って、歌人だろう、……君は、さすがに、いろいろな人を知ってるね。」
「だって、土屋は、僕らのやった『新思潮』の同人だよ、……土屋は、われわれ――つまり、僕、菊池、久米、など――より、五六年も前に名を出したよ、君〔きみ〕、その点、歌人は、いったいに、名をあげるのが早いね、……しかし、あんまり早く名をあげるのもヨシアシだね、(と、ここで、芥川は、ちょいと、例の一流の笑い方〔かた〕をした、)……しかし、いずれにしても、ちょっと逢ってみたい。」
 ところが、宿屋の番頭をよんで、諏訪高等女学校に電話をかけてくれ、というと、諏訪高等女学校は、下諏訪でなく、上諏訪にあるという事であった、それで、せっかく思いついた土屋文明を訪問する事も、『おじゃん』になってしまった。
 土屋のところへ行かないときまると、二人とも急に眠くなってきた。そこで、温泉にはいってから、私たちは、火燵をはさんで、寝ることにした。
 その火燵の両側に蒲団をしいて、女中が部屋を出てゆくと、芥川は、私の方をむいて、例のように、いきなり、
「……君〔きみ〕、あの女中は、蒲団をしきながら、君に、しきりに、色目〔いろめ〕をつかっていたよ、」といった。
 その女中は、大柄〔おおがら〕で、背〔せ〕もたかく、顔も大きく、鼻は低〔ひく〕かったが、目が大きく、ちょっと目をひく女であった。(その女中は越後の小千谷〔おぢや〕の生まれである。)
「……君は、あいかわらず、目が早いね、……君は、あんな女がすきか。」
「いや、僕は、大きな女は、きらいだ、……もっとも、例外もあるがね、」と、云いながら、芥川は、にやりと、笑った。
 さて、私は、蒲団の中〔なか〕にもぐつてから、ふだんなら一分〔ぷん〕か二分〔ふん〕で寝ついてしまうのであるが、この時は妙に眠れなかった。それは、芥川が、「ぜひ逢わしてくれよ、君のあの小説の女主人公を見たいよ、」といった、そのゆめ子が、普通にいう美人ではなかったからである、いや、『美人』の部にはいらなかったからである。それで、芥川が、あの芥川流の目で、ゆめ子を見て、どのような事をいうか、(というより、どのように思うか、)と心にかかったからである、芥川にゆめ子を見せるのがきまりがわるくなってきたからである、はては、芥川をこんな所につれて来たことを後悔する気になったからである。――私も、まだ若かったのである。前にかいたように、その年〔とし〕、芥川は、かぞえ年〔どし〕、二十九歳であり、私は、三十歳であった。
 私は、そのゆめ子をモデルにした小説のなかに、「芸者ゆめ子はその時二十一歳であつた。顔はいくらかしやくれ顔で、色は黒いかと思はれる、お世辞にも美人とはいひにくいが、顔をしじゆう俯〔うつむ〕きかげんにしてゐる、口数はすくない、髪は、すこし癖があるので、ゆひたての時でも、島田の髷がいつでもこころもち投げやつたやうに見えるのさへ気にいつたことであつた。鼻筋がうすく、鼻ぜんたいが顔のわりに小さすぎ、口もとが少〔すこ〕し不〔ふ〕つり合〔あ〕ひにふくれてゐて、目にたつ二三本の金歯のほかに、二三本の味噌歯〔みそっぱ〕さへある、つまり、反歯〔そっぱ〕なのであるが、さういふところさへ気にいるのである、」という一節がある。しかし、これは、小説(しかも、あまい小説)であるから、もとより、絵空事〔えそらごと〕である。『絵空事〔えそらごと〕』とは、いうまでもなく、「絵に作意をくわえ実物を姿致あるように書きなす」という程の意味である。『古今著聞集』のなかに、「ありのままの寸法に書き候はば、見所〔みどころ〕なきものに候ふ故に、絵空事とは申すことにて候ふ」とあるけれど、今は、『絵空事』などといってはいられない、なぜなら、その小説においてはずいぶん絵空事をつかうけれど、実生活のあるところにおいては、その道〔みち〕の『猛者〔もさ〕』である芥川が、あのときどき三角に見える、するどい光りをはなつ、目をもって、「ありのまま」のゆめ子を見る事になったのである。――と、こんな事をおもえば、私は、おちおち、寝られないのである。しかし、そのうちに、私は、眠りいってしまった。
[やぶちゃん注:「姿致」は容貌挙止動作。「姿致ある」で美景美貌にして優雅にして趣のあることを言う。「『古今著聞集』のなかに……」以下の引用は、同書の巻第十一画図の大系本番号三九六の「鳥羽僧正、侍法師の繪を難じ、法師の所説に承伏の事」の一節。「鳥獣戯画絵巻」等の作者と伝えられる画僧鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の弟子の侍法師は僧正にも引けを取らない達筆であった。僧正は幾分の嫉妬もあってか、ある時、彼の描いた絵の中に相手に突き刺した短刀が背中に柄を握った拳ごと突き出ているのを見つけ、これ瑕疵と幸いに、こんなことは誇張した言説としては言うが、「あるべくもなき事なり。かくほどの心ばせにては、繪かくべからず」と咎めた。その法師は居ずまいを正すと、僧正のさらに畳み掛けた叱責をものともせず、「さも候はず。古き上手どもの書きて候おそくづの繪などを御覧も候へ。その物の寸法は分に過ぎて大きに書きて候ふ事、いかでかまことにはさは候べき。ありのままの寸法にかきて候はば、見所なきものに候ふゆゑに、繪そらごととは申すことにて候。君のあそばされて候ふものの中にも、かかる事はおほくこそ候ふらめ」と臆することなく答えた。僧正はこの真理の表明には黙るほかなかったという。この「おそくづの繪」とは「偃息図」(おんそくづ:寝て休む絵図。)の転訛したもので、男女の交合を描いた春画のことである。宇野は前話の「ハリカタ」をも受けてこの話柄を展開しているのである。上手い。]
 やがて、越後の女中におこされた時は、すでにあかりがつき、火燵の上の台の上には夕方の食事の用意もしてあった。そこで、私たちは、さっそく、火燵をはさんで、食事をしながらも、芥川は、なにかおちつかない様子で、たえず目をきらきらさせていた。
 食事がちょうどおわった頃に、しずかに襖のあく音がした。ゆめ子は、「こんばんは、……」とほとんど聞きとれないような声でいって、座敷の入口にすわって、両手をついて、頭〔あたま〕をさげた。それから、しずかに顔あげて、私がいたのを見ると、
「あらッ、おめずらしい、……」と、いいながら、立ちあがって、火燵の方に近〔ちか〕づいて来た。
 そこで、私が、紹介するつもりで、火燵に当ったままで、芥川を指さしながら、「この……」といいかけると、芥川は、いきなり、火燵から出て、すこしはなれて坐〔すわ〕っているゆめ子の方にむかって、宿屋の丹前姿〔たんぜんすがた〕のままで、ちゃんと、端坐〔たんざ〕して、両手を畳の上について、丁寧に頭〔あたま〕をさげてから、あらたまった声で、
「……お名前は、かねて、……宇野の小説で……それで、……」と、いった。
 ゆめ子は、ちょっと妙な顔をしたが、やがて、少し顔を赤らめた。それから、だまって、癖〔くせ〕で、うつむきがちに、坐〔すわ〕っていた。
 芥川は、ふだん、その家の家人〔かじん〕の悪口〔わるくち〕を、かなり辛辣な悪口を、いっていても、その家を訪問した時は、玄関の部屋にあがると、すぐ、端坐して、そこの家人にむかって両手を畳の上について、丁寧に頭〔あたま〕をさげて、挨拶する癖があった。それは、むろん、私の家に来た時も、いつも、そうであった。であるから、どこの家行っても、そうであったにちがいない。この事について、岡本かの子は、ある小説のなかで、「浅いぬれ縁に麻川氏〔芥川のこと〕は両手をばさりと置いて叮嚀にお辞儀した。仕つけの好〔よ〕い子供のやうなやうなお辞儀だ、」と述べているが、この見方ははっきりまちがっている。これは、芥川の、好みであり、趣味であるのだ。――
[やぶちゃん注:「岡本かの子は、ある小説のなかで、……」は「鶴は病みき」の冒頭、主人公の「鎌倉日記」の引用の一節で、芥川龍之介をモデルとした麻川と初めて挨拶するシーンである。以下に引用する(引用は筑摩全集類聚版別巻を用いたが、恣意的に正字に直した)。
 某日。――主人が東京から來たので、麻川氏はこちらの部屋へ挨拶に來た。庭續きの芝生の上を、草履で一歩一歩いんぎんに踏み坊ちやんのやうな番頭さんのような一人の男を連れて居た。淺いぬれ緣に麻川氏は兩手をばさりと置いて叮嚀にお辞儀をした。仕つけの好い子供のやうなお辞儀だ。お辞儀のリズムにつれて長髪が颯〔さつ〕と額にかかるのを氏は一々掻き上げる。一藝に達した男同志――それにいくらか氣持のふくみもあるやうな――初對面を私は名優の舞臺の顏合せを見るやうに默って見て居た。
宇野の引用は古文にしろ、現代文にしろ、表記や漢字使用がかなり正確で、引用に際しては、記憶に頼らず(一見すると彼の書き方は記憶に頼ったもののようにしか見えないが)、出来る限りの原本確認をしているものと思われる。]
 さて、ゆめ子が来ても、ゆめ子は無口な質〔たち〕であり、私も、ひさしぶりでゆめ子に逢ってみても、別〔べつ〕にこれという話もなく、ふだん饒舌の芥川も、この時はただ、ときどき、ゆめ子の方を、じろじろと、見るだけでほとんど物をいわなかった。
 ところが、芥川と私が、なにか、ぽつりぽつりと、話をして、それが、ちょっととぎれた時、めずらしく、上諏訪のナニガシ劇場で、活動写真をやっている、という話をした。
 すると、芥川は、すぐ、はずんだ声で、
「行こう、」と、いった。
「行こう、」と、いって、私は、立ちあがった。
「君〔きみ〕も行きませんか、」と、芥川は、つづけて、ゆめ子の方を見ながら、いった。
「……お供いたしましょう、」と、ゆめ子は、立ちあがって、私の方を吾がら、「ちょっと、家〔うち〕にかえって、支度〔したく〕してまいります、」と、いって、部屋を、出て行った。
 ゆめ子の姿が座敷の外〔そと〕に消えると、芥川は、私の方にむかって、
「僕たちも、すぐ、支度をしようか、……なかなかいいじやないか、……僕は、ああいう型〔タイプ〕の顔がすきだよ、」と、いった。
 その時、はるか下〔した〕の方〔ほう〕で、(私たちのあてがわれた部屋は二階であったから、下〔した〕の玄関の前あたりで、)コチ、コチ、コチ、というような、堅〔かた〕い、音が、小刻〔こきざ〕みに、連続的に、した。そうして、その昔は、しだいに、遠ざかって行った。
「……気味がわるい音だね、あれは、なんの音だ。」
「……ゆめ子の足音だよ、……君の『お株〔かぶ〕』をとっていうと、蕪村の『待つ人のあしおと遠き落葉かな』の、あの足音だよ。……しかし、あれは、落葉でなく、道がこおっているから、あんな音がするんだよ。…主の辺〔へん〕では、今日〔きょう〕は、寒いとか、冷〔つめ〕たいとか、いうことを、今日は凍〔し〕みる、というよ。『しみる』というのは、『こおる』という意味だよ。……ここは、軽井沢をのぞくと、信州で、一ばん寒くて冷〔つめ〕たい所だそうだ、……君〔きみ〕、これから、――むろん、自動車だが、――上諏訪〔かみすわ〕まで、出かける勇気があるか、」と、私は、芥川のまねをして、嫌がらせをいってみた。
 しかし、芥川は、言下に、
「むろん、行くよ、……君〔きみ〕早く支度をしたまい、…自動車は、ぼく、その卓上電話、帳場にかけて、たのむから、……」と、せかせかした調子で、いった。
 私は、支度をしながら、ふと、今〔いま〕さき、芥川が、「いいじゃないか、……僕は、ああいう型〔タイプ〕の顔がすきだよ、」といったことを、思い出した。そこで、私は、著物をきかえながら、芥川に、話しかけた。
「……僕は、君のすきな女を二三人ほど知っているが、……ね、芥川、君は、二〔ふ〕た通〔とお〕りの型の女が、すきだね、つまり、ちゃんとした、典型的な、瓜核〔うりざね〕顔の女と、すこし形〔かたち〕のくずれた、たとえば、古今集の中〔なか〕にある、あの『さそふ水あらばいなんとぞ思ふ』とでもいうような顔をした女と、――君のすきなのは、この二〔ふた〕つの型だよ、……しかし、どちらかといえば、君はデッサンのくずれた型の方が、すきだよ。……僕は、あまり、ちゃんとした、典型的の方は、このまないね。……それから、僕が、かりに、ロマン派とすると、君は、なかなか、実行派のようなところもあるね。……」
「ふん、……」
 そこへ、すうッと、襖があいて、簡単なよそ行きの支度をした、ゆめ子が、はいって来た。それとほとんど同時に卓上電話のベルがなりひびいた。自動車が来たのである。
[やぶちゃん注:「古今集の中にある、あの『さそふ水あらばいなんとぞ思ふ』……」は、「古今和歌集」(国歌大観番号九三八)の小野小町の歌、
   文屋康秀が三河の掾〔ぞう〕になりて、
県見〔あがたみ〕にはえいでたたじやと、
   いひやれりける返り事によめる
わびぬれば身をうき草の根をたえてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ
を指す。三河国国司となって下向することとなった旧知の六歌仙の一人文屋康秀が「一緒に田舎の物見遊山に出掛けられませぬか」と戯れたのに対する返歌で、
――もう年も経て侘しく暮らししておりましたから……「浮き」草の根が絶えたように、おが身を「憂し」と思うておりましたところでございますから……誘うところの水があれば、浮き草の根が切れて水に流れて漂うごと……私も誘って下さるお方のあるのなら……ともに都を出て行かんと思うておりまする……
といった意味である。後の小野小町の零落回国流浪伝説のルーツとされ、宇野はそこに年増女の妖艶なちょっと崩れた、メンタルに危ない感じを表現したのであろう。宇野の言は美事に芥川の恋愛感情に於けるアンビバレツを言い当てている。後の「越し人」片山廣子は、そうした後者の中でも究極の例外的美神であったのだと、私は思うのである。]
 二階から玄関におりると、一度〔ど〕に、身をきるような冷たさを、感じた。
 自動車にのる時、芥川は、運転手に、湖水は右側だ、と聞くと、すぐ、私の方をむいて、「君、さきにのりたまえ、」といい、私のあとから、ゆめ子をのせ、自分は、最後に、乗りこんだ。
 やがて、自動車は、走りだした。下諏訪の町をはずれると、ずうッと、上諏訪の町にはいるまで、道は、湖水に、そうている。田舎の幌〔ほろ〕のボロ自動車であったから、やぶれた幌のすき間〔ま〕から、冷たい氷のような風が、容赦〔ようしゃ〕なく、吹きこんでくる。ふと、気がつくと、自動車に乗りしなに、芥川が、運転手に、湖水が右側であることを、聞いておいて、私を、ていさいよく、先きに乗せたのは、自分が左側にのりたいためであったのだ。
 ところで、自動車にのってからまもなく、ゆめ子の体〔からだ〕が、どういうわけか、私の体を、押しはじめて、それが、しだいに、ひどくなってきた。はじめのうちは、寒さと冷たさのために、体をおしつけてくるのであろう、とぐらいに、私は、思っていた。ところが、ゆめ子が私を押してくるのがひどくなるとともに、自動車にのってから妙にしゃべりはじめた芥川の饒舌がはげしくなってゆくのに、私は、ふと、気がついた。
 しかし、その時の芥川の『おしゃべり』は、あまり取りとめがなかったので、殆んどまったく覚えていないが、唯、「……僕の尊敬している島木赤彦の故郷は、たしかこの辺〔へん〕だ、高木村というんだ、おい、宇野、『雪ふれば山よりくだる小鳥おほし障子のそとに日ねもす聞ゆ』――どうだ、こういう歌は、茂吉でも、よめないね、……」というような事だけが、記憶に、残っている。
[やぶちゃん注:「島木赤彦の故郷は、たしかこの辺だ、……」島木赤彦(明治九(一八七六)年~大十五(一九二六)年)は長野県諏訪郡上諏訪村角間(現在の諏訪市元町)に旧諏訪藩士の子として生まれ、後に同郡下諏訪町高木村(現在の西高木)に住した。「雪降れば」の短歌は大正九(一九二〇)年刊の第三歌集『氷魚』に所収するもの。]
 が、それ以上に記憶にのこっているのは、ゆめ子は決してそういう事をする人〔ひと〕ではない、と思っていたのが、ゆめ子が、はじめ私を押しはじめ、それがしだいにひどくなったのは、芥川が、しだいしだいに、ゆめ子に、体〔からだ〕を寄〔よ〕せつけだしたから、とわかった事であった。
 ところで、この、自動車の中で、芥川がゆめ子を押したのは、いま述べたとおり、記憶によって、後〔あと〕で、さとったのであるけれど、ナニガシ劇場にはいってからは、私は、その場で、芥川の芥川流の『やり方〔かた〕』を、見たのであった。
 ナニガシ劇場は、名はいかめしいけれど、ときどき、田舎まわりの役者が、三日〔みっか〕か五日〔いつか〕ぐらい、出演する、古風な芝居小屋である。それで、むかしの劇場のように、平土間〔ひらどま〕とか、桟敷〔さじき〕とかがあって、それらには『桝〔ます〕』があった。そうして、それぞれの『桝』の中には、まんなかに、櫓火燵〔やぐらごたつ〕、がおいてあり、その櫓火燵には蒲団がかけてあり、その櫓火燵のまわりには座蒲団がしいてある。
 私たち三人は、その櫓火燵を、三方から、かこんで、火燵にあたりながら、活動写真を見た。
 芥川は、ナニガシ劇場にはいってからも、一人〔ひとり〕で、はしゃいでいた。たとえば、写真の切れ目ごとに、例の鼻にかかる声で、「君、火燵にあたりながら活動写真を見る、また、楽しからずや、というのは、どうだ、」とか、「ほうぼうを持ちまわった、雨の降るような、ふるびた写真は、かえって、グロテスクなところがあって、いいね、」とか、いうのである。
 私は、もともと、火燵がきらいであったから、はじめから、あまり、火燵のなかに、手をいれなかった。芥川も、さきにいったように、ちょっと行儀のよい男であったから、やはり、あまり火燵の中に手をいれなかった。しかし、ひどい冷え性であり、うまれた時から火燵にしたしむ国でそだった、ゆめ子は、はじめからしまいまで、火燵に、手をいれどおしであった。
 ところで、その劇場の中でも、私が一番なやまされたのは、宿屋を出てからの芥川の『おしゃべり』であった。が、それも、相手〔あいて〕にしないことにきめてからは、なれてしまった。ところが、それとともに、ふと、気がついたのは、桝〔ます〕にはいってからは、芥川が、妙なおしゃべりをする時、かならず、火燵の中に、手を、入れる事であった、そうして、それは、きっと、場内が、暗くなる時であった。それで、それに気がついた時、さすがの私も、ははあ、芥川は、この火燵のなかで、……と、さとったのである。
 ――ここまで書いてきて、私は、不意に、ハカバカしい気がしてきた。それは、これまで私が向きになって述べてきた事は、(すなわち、あの『生駒』の一件も、あの『張型』の一件も、このゆめ子との自動車や劇場の中〔なか〕での振〔ふ〕る舞〔ま〕いも、)みな、芥川の一片〔いっぺん〕の好奇心(ともう一〔ひと〕つのもの)の現〔あらわ〕れで、『跡〔あと〕は野となれ山となれ』の観〔かん〕もあり、『後足〔あとあし〕で砂をかける』ような形〔かたち〕もあるからである。もしそうであるとすれば、私は芥川に「シテヤラレタ」事になるのである。
 しかし、また、芥川が、あの『好奇心』を、ちょいと満〔み〕たしただけで止〔や〕めずに、どこまでも進めて行くような人であったら、と、私は、切〔せつ〕に、思うのである。それは、芥川の多くの小説が、やはり、『好奇心』をちょいと満〔み〕たしたようなところもあるからである。(こういう事と話はまったくちがうが、芥川が、ある時、例のにやにや笑いをしながら、「君なら感づいたかもしれないが、あの『枯野抄』に出てくるいろいろな人物は、漱石門下だよ、」と、いったことがある。)
 ところで、さきに述べた芥川の『好奇心』のことを書いた時、ふと、(これも『好奇心』とは別の話であるが、)思い出したのは、S女史の事である。S女史とは、小穴隆一が、『二つの絵』という文章のなかで、たいへん気にして書いている女であり、芥川のかかりつけの医師であり、親友の一人であった、下島 勲が、『訂しておきたいこと』という文章のなかで、「問題のS子夫人については、私は稍や徹底的に追求もし、(情事の状況まで、)話し合ひもしたもので、……」と書き、十数年前に、岡本かの子が、『鶴は病みき』のなかに書き、近頃、(といって、一昨年と昨年、)滝井や廣津が小説に書いた、謎の謎子の事である。――この謎の謎子の事は、後に、くわしく書くつもりであるが、この謎の謎子その他の事をおもえば、芥川という人は実に気が弱かった。この気が弱いという事は芥川のもっとも大きな欠点の一〔ひと〕つであった。(気が弱い、といえば、それぞれ、ちがった形で、菊池も、久米も、気の弱い人である、と、私は、思う。)
[やぶちゃん注:「S女史」「S子夫人」「謎の謎子」は勿論、芥川の愛人にしてストーカーであった歌人秀しげ子のことである。]
 さて、芥川は、さきに引いた、十二月二十四日に、佐佐木にあてた便りの中に、『白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し』と、これだけ、書いて、そのあとに、「二伸 但し宇野僕二人この地にゐる事公表しないでくれ給へ」と書いている。これは、いったい、何〔なん〕であろう。芥川は、この便りを出した二日前の晩に、佐佐木と一しょに生駒山の中腹の妙な茶屋にとまっているではないか。そうして、佐佐木はおそらく芥川と私が行動を共にしている事を知っている筈ではないか。しかし、私は芥川のこういう事を、単に『児戯に等〔ひと〕し』などとは、思わないのである、思いたくないのである。私は、こういう芥川をかんがえると、まったく涙ぐましくなるのである。
 また、小穴の『二つの絵』の中に、こういう、(つぎのような、)一節があることを、私は、思うのである。

(昔諏訪から帰った田端にてである。)「諏訪に〇〇〇といふ芸者がゐるが、これは宇野の女だが、君その頼むから諏訪に行つて、君がこれを何〔な〕んとか横取〔よこど〕りしてくれまいか。金〔かね〕は自分がいくらでも出すよ。」
[やぶちゃん注:本作の後に再合本単行本化されたものと思われる昭和三十一(一九五六)年刊行の「二つの繪」(宇野が言うのは、『中央公論』に連載されたとする先行する同名の原「二つの繪」である)の「宇野浩二」では、以下のように記されている。
「諏訪にゆめ子といふ(宇野の小説のヒロインとなった人、)藝者がゐるが、これは宇野の女だが、君、その賴むから諏訪に行つて、君がそれをなんとか横取りしてくれまいか、金は僕がいくらでも出すよ。」
とある。因みに、この昭和三十一(一九五六)年版「二つの繪」のこの直前の芥川の会話には、芥川が諏訪で宇野の机に宇野宛の秀しげ子(『〇〇〇子』『(□夫人)』と伏字となっているものの一目瞭然)の手紙があり、宇野としげ子が関係を持っていたと告白した記載が載る(秀しげ子と南部修太郎との三角関係は周知であるが、これは驚天動地の記載で、後に宇野は厳にこれを否定している。とすれば小穴の記載は嘘か勘違いである、そもそもこの小穴の文章自体が、次で宇野も言うように表現が捻じれて意味がとりにくく、日本語としては重度の悪文に属するものである)。この小穴の「宇野浩二」は後文を見ると、この宇野浩二の「芥川龍之介」を読んで、改稿されたものであることが分かる。]

 この小穴の『二つの絵』は、

 あはれとは見よ
 自分は裟婆にゐてよし人に鞭打たれてゐようとも君のやうに、死んで焼かれた後の□□□を、「芥川さんの聡明にあやかる。」とて×××種類のフアンは一人も持つてゐない。それをわづかに、幸福として生きてゐる者だ。
        昭和七年秋 隆一
[やぶちゃん注:この『序(のようなもの)』(以下の宇野の言)は、後の昭和三十一(一九五六)年版の「二つの繪」には(ざっと見たところでは)見当たらない。伏字は類推が出来ない。『中央公論』に連載されたとするプロトタイプ「二つの繪」をお持ちの方、この表記でよろしいか、また伏字の推定が出来る方、是非とも御教授を乞うものである。]

という序(のようなもの)を読んでも察せられるように、一種かわった文章であるばかりでなく、意味のわからないようなところや、わざとわからなく書いたように思われるところや、いろいろで、「中央公論」に連載ちゅうに、読者に、ふしぎな好奇心をいだかせたものであるから、ここに引用したものも、半分ぐらい筆者の創作のようにも思われるが、……
 ところで、話は、また、かわるが、私は、昭和十年頃、飛騨の高山に行く途中、十五年ぶりぐらいで、上諏訪に寄った時、ゆめ子が上諏訪にこして来ていたことを知ったので、町の料理屋でゆめ子と食事をしながら、いろいろな話を、とりとめなく、しているうちに、ふと、芥川がふいに死んだ話が、出た。その時、ゆめ子が、ふと漏らした言葉から、私が、鎌をかけるつもりなどでなく、「芥川の手紙も取ってある、」と聞くと、ゆめ子は、ただ、「……ええ、」と、云った。しかし、その時は、そのままで、わかれた。
 ところが、その時から、また、十四五年後〔のち〕(昭和二十三年)の秋、私は、富士見に行った時、上諏訪に三晩〔みばん〕ほどとまったので、ふと、思いたって、ゆめ子を、たずねた。その時は、ゆめ子は、もう芸者をやめて、二階を人に貸して、一人〔ひとり〕で、くらしていた。二人〔ふたり〕の子をなくし母に死にわかれたからである。私がはじめてゆめ子に逢った時、ゆめ子は、かぞえ年〔どし〕、二十一歳であったが、その時は、五十歳になっていた。その時、私は、やっと、ゆめ子に、大正九年の十一月の末頃、芥川がゆめ子に出した手紙を、見せてもらった。
 その手紙は、ぜんたいが赤い色の、(紅〔べに〕にちかい赤い色の、)巻き紙に、書かれてあった。そうして、その手紙の中〔なか〕に書かれてある事は、ただ、私と一しょに諏訪に行った時の礼状のようなものであるが、その中〔なか〕には、「あんな楽しいことはありませんでした、」とか、「僕はこの世界にあなたのやうな人がゐるとは、……」とか、「僕はただあなたが僕のそばにすわつてゐて、ときどき茶をたててくださるだけで満足です、」とか、いうような、うれしがらせのような、文句が、はいっていた。
 しかし、おもしろいのは、この中〔なか〕の、「茶をたてる」というのは、私が、抹茶がすきで、その前の年あたりにゆめ子を女主人公にして書いた小説のなかに、よくゆめ子に茶をたててもらった、という事を、書いたので、芥川が、それを応用しているところである。それから、おなじ手紙のなかに、「この手紙を出すことは宇野が知つてをります、」という文句があるが、これは、まったく、私のあずかり知らぬところであり、嘘である。
[やぶちゃん注:実はこの書簡は旧岩波版全集に所収している(旧全集書簡番号八一二)。本名は原とみ、本文では宇野は自作の『ゆめ子もの』(「人心」「一と踊」「心中」等)に合わせてあくまで「ゆめ子」と表記しているが、本当の源氏名は「鮎子」であった。以下に、活字化する。大正九(一九二〇)年十一月二十八日附、原とみ宛である。

拜啓
先日中はいろいろ御世話になりありがたく御礼申上げます 今夕宇野と無事歸京しました 他事ながら御安心下さい
なたの御世話になつた三日間は今度の旅行中最も愉快な三日間です これは御せいじぢやありません實際あなたのやうな利巧な人は今の世の中にはまれなのです 正直に白状すると私は少し惚れました もつと正直に白状すると余程惚れたかもしれません氣まりが惡いから宇野には少し惚れたと云つて置きました それでも顏が赤くなつた位ですから可笑しかつたら澤山笑つて下さい
その内にもつとゆつくり十日でも一月でも龜屋ホテルの三階にころがつてゐたい氣がします ああなたは唯側にゐて御茶の面倒さへ見て下さればよろしい いけませんか どうもいけなさそうな氣がするため、汽車へ乘つてからも時々ふさぎました これも可笑しかつたら御遠慮なく御笑ひ下さい
こんなことを書いてゐると切がありませんから この位で筆を置きます さやうなら
   十一月廿八日   芥 川 龍 之 介
  鮎 子 樣 粧次
 二伸 いろは單歌「ほ」の字は「骨折り損のくたびれ儲け」です 今日汽車の中で思ひつきました
            龍 之 介 拜

宇野が指摘する「この手紙を出すことは宇野が知つてをります」という嘘は書かれていない。「氣まりが惡いから宇野には少し惚れたと云つて置きました」の勘違か、これをそのような意味で嘘といったのであろうが、私にはこれは問題視するような虚偽記載とは感じられないが、如何? なお、この書簡によって本文の旅館名「万屋」は仮名で、実は「龜屋」であることが分かる。……にしても……芥川のラブ・レターは実に巧みではないか。]
 ついでに、もう一〔ひと〕つ述べると、芥川は、私の『我が日我が夢』という諏訪を題材にした小説を六篇あつめた連作の本の序文の一ばん後〔あと〕につぎのように、書いている。

 最後に僕の述べたいのは僕も亦一度宇野君と一しよにこの本の中の女主人公――
夢子に会〔あ〕つてゐることである。夢子は実際宇野君の抒情詩を体現したのに近い女だつた。僕はこの悪文を作りながら、甲斐の駒ケ嶽に下りた雪やもう散りかゝつた紅葉と一しよに夢子を伴つた数年前の宇野浩二君を思ひ出してゐる。
[やぶちゃん注:本作は現在までに電子テクスト化されていないので、ここに全文を示す。底本は岩波版旧全集を用いた。

「我が日我が夢」の序   芥川龍之介

 宇野浩二君の「我が日我が夢」に序するのに當り、先づ僕の述べたいのは君の諧謔的抒情詩の解されてゐないことである。宇野君はいつも笑ひ聲に滿ちた筆を走らせてゐる爲に往々戲作者などと混同され易い。しかし君の諧謔的抒情詩は君以前にはなかつたものである。(恐らくは又君以後にもないこととであらう。)宇野君はいつか君自身の抒情詩を輕蔑する口ぶりを洩らしてゐた。勿論君の輕蔑するか否かは自由であるのに違ひない。けれどもかう云ふ特色は確かに宇野君以前には誰も持つてゐない特色である。讀者はこの本の中に度々常談にぶつかるであらう。同時に常談の後ろにある戀愛家の歎聲にもぶつかるであらう。
 それから僕の述べたいのは宇野君の文藝的地位である。君はこの譜諺的抒情詩の爲に所謂「文藝の本道」を踏んでゐないやうに見られ易い。僕は所謂「文藝の本道」とは何であるかを疑つてゐる。が、たとひ宇野君は所謂「文藝の本道」を外れてゐたとしても、それは君の患ひとするに足りない。「正にして雅ならざるもの」よりも「正ならずして雅なるもの」を高位に置いて顧みなかつた芥舟學畫編の作者の見識は文藝の上にも通用するであらう。僕は宇野君の「正なること」よりも「雅なること」を進んで行けば善いと思つてゐる。
 最後に僕の述べたいのは僕も亦一度宇野君と一しよにこの本の中の女主人公夢子に會つてゐることである。夢子は實際宇野君の抒情詩を體現したのに近い女だつた。僕はこの惡文を作りながら甲斐の駒ケ嶽に下りた雪やもう散りかかつた紅葉と一しよに夢子を伴つた數年前の宇野浩二君を思ひ出してゐる。宇野君は未だにあの時代の元氣を持つてゐるかも知れない。しかし僕はいつの間にかすつかり無精になつてしまつた。「夢子」は女主人公の名だつたばかりではない。或は又僕等の夢の人間に落ちたものだつたのであらう。 (昭和二年五月七日)
底本後記によれば、本作は昭和二(一九二七)年六月発行の『文藝春秋』に掲載され(後に「文藝的な、餘りに文藝的な」の「十」となる「二人の紅毛畫家」が続けて掲載されている)、後の芥川自死の直後である昭和二年八月十日に新潮社から刊行された宇野浩二著『我が日・我が夢』に「序」として収められた。「芥舟學畫編」は「かいしゅうがくがへん」と読み、清代中期の画家沈宗騫(しんそうけん)が一七八一年に刊行した画論書である。因みに、芥川龍之介はこの文章を認めた時にはとうに自死を決意していた。本文の末尾には遺書などに現れる共通した末期の眼の雰囲気が如実に表れているのが見て取れる。]

 これは、昭和二年五月七日の日づけになっているから、芥川が世を捨てた二〔ふ〕た月〔つき〕半ほど前に書いたものである。それはそれとして、この時分までに私がゆめ子と一しょにあるいたのは、下諏訪の諏訪神社秋社の境内を横ぎり、南側の石段をおり、万屋の間だけである、しかも、その時、ゆめ子は、二歳〔ふたつ〕になる子を抱〔だ〕いていたのである。それが、海抜八千四百七十八尺の、「甲斐の駒ケ嶽に下りた雪やもう散りかゝつた紅葉と一しよに……」という事になるのであるから、話にもなにもならぬのである。しかし、おなじような事を幾度も述べるようであるが、芥川は、『話にならぬ話』を小説にしたのである。それから、ついでにいえば、芥川は、創造の才能がとぼしかったけれど、平安朝時代の物語(たとえば、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、その他)から、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、『地獄変』、『往生絵巻』、その他を、江戸時代を背景にして、『枯野抄』、『或日の大石内蔵助』、『戯作三昧』、その他を、明治の開化期を背景にして、『開化の殺人』、『舞踏会』、『お富の貞操』、その他を、キリスタンの文学を元にして、いくつかのキリスタン物を、工夫し、作り出す、というような才能には、実にめぐまれていた。そうして、それが、小説のヨシアシは、別として、芥川の押しも押されもせぬ才能であり、これが芥川の小説が生前から死後二十四五年になる今日〔こんにち〕まで、多くの人に読まれている所以であろう。(しかし、なにか『種〔たね〕』⦅つまり、平安朝の話、その他⦆がなけれは、書けなかったようなところが、芥川の致命傷にちかいものであった、なぜなら、芥川はそういう種をつかいつくしてしまって、⦅それだけではないけれど、⦆いきづまってしまったからである。)

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