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2012/01/02

宇野浩二 芥川龍之介  一ノ二

      一ノ二

   『ことわり』
 本文にかかる前に――
 この文章の『まえがき』のなかで、「これから述べようとする事は、もとより、私のたよりない記憶で、書くのであるから、これから、たどたどと、述べてゆくうちに、つぎつぎと、出てくる事柄に、おもいちがいやまちがいが多くある事、名前を出す人たちに、とんでもない事やまちがった事をかいたために、すくなからぬ御迷惑を、かけることを、(いや、かけるにちがいないことを、)前もって、おことわりをし、おわびを申しあげておく、」と、書き、「これから述べようとする事は、もとより、私のはかない記憶をたどりながら、書くのであるから、まずしい頭〔あたま〕からたぐりだす、あやふやな、思い出……というような事を、述べた。
 ところが、今から一週間ほど前に、まえの文章(『一』)のおわりの方〔ほう〕の『生駒山』の段のことについて、(その他の事について、)
[やぶちゃん注:以下の手紙引用は底本では全体が二字下げ。以下、このように引用されている前後には底本にはない「*」を附して読み易くする。以下、この注は略す。]

……生駒へ直木の案内で行つたのは、菊池、久米、田中 純[直木と同級でありながら、里見、久米などと特にしたしく、「人間」(里見、吉井、久米、などが出した一種の同人雑誌)の同人]も一緒です。それは、主潮社の講演会、堀江の茶屋、生駒、みな、小生も同行してゐるから確実です。
 生駒では深夜に菊池が大きな声を出したといふ珍聞もあります。

という文句のはいっている手紙をくれた人があった。
 つまり、ここにうつした一節だけによっても、いかに、私のこの文章(『芥川龍之介』)が、まちがった事をかいているか、デタラメなものであるか、いかに、私の『記憶』というものがアヤフヤなものであるか、ということを、証拠だてられた事になるのである。
 しかも、まだ、『一』の半分(あるいは三分の一ぐらい)しか述べていないうちに、このような、まちがった事をかき、このように、記憶のアヤフヤなことを、暴露〔ばくろ〕されたのであるから、これから、私が、なお、懲りずまに、書きつづける事は、ほとんど、すべてが、まちがった事であり、アヤフヤな『記憶』であり、その『記憶』もまちがいだらけになるのは、必定〔ひつじょう〕であろう。この事を、かさねて、ことわっておく。
[やぶちゃん注:「懲りずまに」は副詞で、前の失敗に懲りもせず、性懲りもなく、の意。「ま」は、ある状態にあるの意を添える接尾語。]
 いずれにしても、あのような文章をよんで、あのように、深切に、忠告をしてくれた人があったことは、私には、なによりも、ありがたい。そこで、私は、その深切な人に、ここで、ふかき感謝の意を、表したい。
 ところで、私が、まえの文章で、生駒に行ったのは、芥川と久米と私だけのように、書いたのを、『それはちがいます、』と、あらわに、いわないで、そのほかに、菊池も、田中純も、一しょであった、というような含〔ふく〕みのある云い方〔かた〕をしてから、「それは、主潮社の講演会、堀江の茶屋、生駒、みな、小生も同行してゐるから確実です、」と、ちくと、急所を、おさえ、すぐ調子をかえて、「生駒では深夜に菊池が大きな声を出したといふ珍聞もあります、」と、いうような、味〔あじ〕のある、(私などがとうてい足下〔あしもと〕にもおよばないような、)文句を述べて、ちょいと目尻にシワをよせ、ちよっと口をななめにゆがめて、微笑する、というような、心〔こころ〕にくいところのある、隅〔すみ〕におけない、男は、いずこの、いかなる、人物であるか。
 それは、ちょっとコセコセしたところもあり、気が弱いようなところもあるけれど、なみなみならぬ苦労人であり、一〔ひ〕と癖〔くせ〕(つまり、どこか凡ならぬところの)ある、一人物〔いちじんぶつ〕である。それは、文藝春秋新社の社長、佐佐木茂索である。(ところで、佐佐木が「主潮社の講演会、堀江の茶屋、生駒、」に、私たちと同行したのは、二十七歳の年〔とし〕である。といって、その年〔とし〕、芥川は、二十九歳であり、里見と菊池は、三十三歳であり、久米と直木と私は、三十歳であった。――しかし、この年、佐佐木は、たしか、三篇の小説を発表しており、三四年のちに、一二年のあいだに、佳作を矢つぎ早〔ばや〕に、発表しているところを見ると、その時、二十七歳の佐佐木は、心〔こころ〕の底に、文学にたいする鬱勃たる思いを、いだいていたにちがいない。)
 さて、佐佐木は、菊池が社長であった時分〔じぶん〕の文藝春秋社の専務取締役であったが、実際は文藝春秋社をほとんど一人〔ひとり〕できりまわしていたような観〔かん〕があった、が、今の文藝春秋新社ができてからは、一人〔ひとり〕で社長と専務取締役をかねているように思われる。ところで、文藝春秋社の専務取締役であった頃の佐佐木は、(十年以上もおなじ役をしていたためであろうか、)りっぱな肘かけ椅子などにおさまっていると、時とすると、かえって、不敵な、(勢〔いきお〕いのあたりがたい、)社長のように見えることがあったけれど、こんどの、五階だての、宏荘〔こうそう〕な、ビルディングの、四階の、社長室の窓ぎわにちかいテエブルの前に座をしめている、佐佐木は、私がその部屋にはいった時だけかもしれないが、表面は居心地〔いごこち〕よさそうに見えることもあるけれど、しばしば、その反対のように見えることがあるのである。いや、そればかりではない。その顔にも、その姿にも、かすかに、憂鬱のおもむきが、ただようているように思われる時さえあるのである。私などが、今〔いま〕さら、いうまでもなく、だいたい、社長とか取締役とかいう者には、太腹〔ふとっぱら〕であり、決断力があり、ふとい神経の持ち主〔ぬし〕であり、計算がこまかい、という事が、必要であるらしい、ついでにいえば、『文学』などわかることは禁物〔きんもつ〕である。ところが、佐佐木は、計算は細〔こま〕かいらしいが、決断力はあまりなさそうであり、もとより、太腹ではなく、神経はほそ過〔す〕ぎる方〔ほう〕である。それに、佐佐木は、気もちのいたって織細な人である。(たいへん卑俗な言葉であるが、)俗に、女をくどくのに『一、押し、二、金〔かね〕、三、男〔おとこ〕』という諺がある。この卑俗な諺をもじると、佐佐木は、かりに金〔かね〕は大〔おお〕いにあるとしても、『三、男、』の方〔ほう〕であり、佐佐木が師として尊敬した、芥川も、やはり、『三、男、』の組〔くみ〕であるが、芥川には、いくらか、(いや、かなり、)『押し』のつよいところがあった。しかし、いずれにしても、当世〔とうせい〕では、男前〔おとこまえ〕がよい事だけでは、活動写真の俳優でさえ、しだいに、通用しなくなってきた。そうして、芥川のような鬼才さえ、男前〔おとこまえ〕がよかった、という事が、(これは、もとより、『譬〔たと〕え』ではあるが、)かえって、『わざわい』となったのである。西鶴の『日本永代蔵』のなかに、「みめは果報の一つ」という文句があるが、その果報が徒〔あだ〕になることもある。また、「見目〔みめ〕のよい子は早く死ぬ」という諺もある。
 さて、佐佐木が、『女の手紙』『或る男の方に』などという短篇を発表したのは、大正七年であるから、私などがまだ小説を発表できなかった頃ある。(『おぢいさんとおばあさんの話』というちょっと気のきいた短篇は、大正七年の作か、大正八年の作か。)ところで、佐佐木は、それから、大正八年には、たぶん、小説を一篇も、発表せず、大正九年にも、たしか、『女の手紙と手』というのを一篇だけ出し、大正、十年、十一年、十二年、と、三年のあいだにも、『ある死・次の死』、『翅鳥』、『或日歩く』、その他、五篇ぐらい発表したが、それらの中〔なか〕で、これは、と思われるものが、ここに題名をあげた三篇ぐらいである。これらの佐佐木の小説は、一〔ひ〕と口〔くち〕にいうと、表現(あるいは文章)が妙に凝〔こ〕っていて、(表現に気をつかいすぎるほど凝っているのが目につき、)しぜん、気がきいていて、間〔ま〕がぬけたところなど殆〔ほと〕んどないが、思いつきのようなところがあり、手軽〔てがる〕なところがある。それが、後年の『兄との関係』などになると、文章などにむやみに気をつかわなくなり、作品の木目〔きめ〕も、しだいに、こまかくなり、深くはないが、人間味が出てくるようになった。しかし、さきに述べた、大正、七、八、九、年頃の作品は、いくら、気がきいていても、たくみに出来〔でき〕ていても、どこか、ものたりない、借り物のような、感じがあつた。これが、読者である私を、安心させなかったのである。そうして、これを、作者(佐佐木)のために誰〔たれ〕よりも、佐佐木の友人たちよりも、もっとも、親身〔しんみ〕になって、心から、心配したのは芥川であった。
 さて、私は、こんど、必要があって、芥川龍之介全集のなかの第七巻(書翰篇)の一部をよみかえした時、大正八九年頃に、芥川が佐佐木にあてた数通の書翰をよんで、感動し、感激した。あの、儀礼の多い、魂胆〔こんたん〕(つまり、たくらみ)の多い、わざとらしい諧謔の多い、ある点で芥川の俗物らしい一面さえ、ところどころに、あらわれている言葉の多い、一千一百四十一通の書翰のなかで、極言すれば、真実と友情と情熱をもって書かれているのは、その佐佐木にあてた数通の書翰だけである。そのなかの、例になるようなものを、一〔ひと〕つ二〔ふた〕つ、抜き書きしてみよう。(後記――これはまったく過言で、芥川の一千一百四十一通の書翰の中には真実に充ちた⦅本音を吐いた⦆書翰が随分ある事を後で知った。)

……書き飛ばす稽古なんぞする事勿〔なか〕れ如何〔いか〕にあせつて見た所で君〔きみ〕善く一夜にして牛込天神町よりヤスナヤポリヤナへ転居する事を得ん僕は尻を落ちつける工夫〔くふう〕を積まんとす蓋〔けだ〕し書き飛ばす稽古をしてもう懲〔こ〕り懲りしたればなり君幸〔さいはひ〕に僕の愚を再〔ふたたび〕する勿れ私〔ひそか〕に思ふ君の短〔たん〕は伸び難〔がた〕きにあらずして伸び易〔やす〕きにあり書き飛ばす稽古なぞした日にはこの短遂に補〔おぎな〕ふの日無からんとす[中略]……佐佐茂索は常に佐佐木茂索たらざる可〔べ〕からず佐佐木茂索たる可からんには一拳石を積んで山と成〔な〕す程根気を持つ事肝腎なりあせる可らず怠る可らず僕自身この根気の必要を感ずる事今の如く切〔せつ〕なるは非〔あら〕ざるなりされば将〔まさ〕に君に望む書き飛ばす稽古なんぞしちやいかんすると君の天分が荒〔すさ〕む惧〔おそれ〕がある
[やぶちゃん注:以下の注は先の芥川龍之介書簡の「牛込天神町」の下にある割注であるが、読みにくくなるので、ここへ移した。]
[註―この書翰は大正八年十二月二十九日づけであるが、佐佐木は、この時分から、大正十三年ごろまで、この牛込天神町の家に、住んでいたのであろうか。牧野信一が、中戸川吉二に招かれて、小田原から上京したのが、大正十二年の十月で、その時、この佐佐木の家のすぐ近所に住み、朝に晩に、レコオドをかけたり、ダンスをしたり、して、佐佐木をなやました、という、ことを、私は聞いたことがある。しかし、その年、(つまり、大正十三年、)牧野は、佐佐木より、二つ下で、二十九歳であったが、すでに「新小説」、「新潮」、「中央公論」などに小説を発表し、『父を売る子』という短篇集を出していた]

 ここに引いた文章だけでほぼしられるように、これは、佐佐木が芥川に出した手紙のなかに、「書き飛ばす稽古」をしている、というような文句を述べたのに対する、芥川の返事の手紙であるらしい。私は。この手紙をよみながら、『書き飛ばす稽古』という文句が、いかにも佐佐木らしい(佐佐木独得)の文句である、と思って、ほほえませられ、その佐佐木の手紙に対して返事(このような文章の返事)をかく芥川の顔が、まざまざと、目にうかんで、私には、何〔なん〕ともいえぬ懐〔なつ〕かしい気がするのである。しかし、芥川が、佐佐木にたいして、その短所を、「伸び易き」ところにあり、と指摘し、「根気を持つ事」を、すすめ、自分が、書き飛ばしていることを「懲り懲り」している、と述べているところは、実に平凡な事であるけれど、その時分の、佐佐木が、いかに、文学に対して、むきであったか、その佐佐木の一途〔いちず〕な心にうごかされたのか、芥川が、めったに他人には明〔あ〕かさない事を、ここで漏らしている事などに私は、いたく、心をひかれたのである。
 佐佐木は、大正十一年には、『麗日』、『商売』『或日歩く』、[これはちょっと面白い作であった、と私は、うろおぼえに、おぼえている]などを、書きながら、大正十二年には、(この年〔とし〕の前半、南部修太郎が、乱作と思われるほど、たしか、六七篇の小説を発表しているのに、)『水いらず』一篇しか発表せず、それが、大正十三年には、たぶん、『選挙立会人』、『おしやべり』、[これはちょっとおもしろい、但し、「ちょっと」である]『靦慚』[いまどき、(いや、大正十三年でも)このようなむつかしい熟語を知っている者があろうか。私は『字源』をひいて、これは『宋真宗文』から出た言葉で『テンザン』とよみ、「はじて顔を赤くする」という意味であることを知った。これは、芥川などの好みであるが、これは、わるい『このみ』であり、わるい癖である][やぶちゃん注:『宋真宗文』とは北宋の第三代皇帝真宗の文「進眞君事迹表(眞君の事迹を進むるの表)」の中に「勉從勤請、良積靦慙(勉めて勤請に從ひ、良〔まこと〕に靦慙を積む」とあることを指す。]、『赴くまま』、『三つの死に目』、『王城の従兄』、『夢ほどの話』、『莫迦な話』[この『莫迦』という言葉も変な『このみ』である]、『曠日』、と、九篇も、書いているが、おなじ年の十一月に、『自嘲一番』[これは中戸川吉二が社長になり、牧野信一が編輯人になった「随筆」という雑誌に出たものであるから随筆であろう]というものを、発表している。ところで、さきに引いた芥川の手紙は、前にのべたように、十二月二十九日の日づけであるから、佐佐木は、年の瀬がちかくなって、芥川に手紙をかいて、『自嘲一番』して、「書き飛ばす稽古」をしている、というような事を、書いたのであろうか。いや、いや、ちょいと『自嘲』もしたであろうが、佐佐木は、それで、自分を投げ出してしまうような男ではない。
 ここで、さきの芥川の手紙を、もう一度、念をいれて、読んでみると、「書き飛ばす稽古をしてもう懲り懲りした」とあるのは、調子は軽〔かる〕いように見えるが、これは、芥川の本音〔ほんね〕であったのだ。大正五年の二月、つまり、かぞえ年〔どし〕、二十五歳の年〔とし〕の二月、「新思潮」に、『鼻』を発表し、それを漱石が激賞したために、たちまち、流行作家になった、芥川は、さすがに、調子にのってしまった。まず、二月の「新思潮」[その頃は、あまり知られなかった同人雑誌]に出た『鼻』が、五月に、「新小説」に、そのまま、載〔の〕せられた。それで、その年、[つまり大正五年]芥川は、『鼻』のほかに、小説を、十一篇も書き、その翌年[つまり大正六年]には、十三篇も、書き、その中の三篇が、その頃、文壇の登竜門といわれ、その雑誌に作品が出れば、第一流の作家の候補者になる、といわれた、「中央公論」に、出た。おそらく、二十六歳で、その頃の「中央公論」に、一年のうちに、三度、作品を発表したのは、芥川だけであろう。その上、その年の六月に、最初の短篇集『羅生門』が、出た。これでは、芥川でなくても、たいていの人は、有頂天になるであろう。一般に、谷崎潤一郎が文壇に出た時をもっともはなはなしかったように、いわれるが、(それはそのとおりであるが、)芥川の方が、どういうわけか、文壇に出方〔でかた〕が、なにか、颯爽していた。芥川には、なにか、そういう『得〔とく〕』のようなものがあった。しかし、また芥川は、その『得』のようなもので、『得』以上の『損』をしたところがあった。(さきに、谷崎をヒキアイに出したが、谷崎は、はなばなしく文壇に登場しても、かるがるしく、調子にのらないようなところがあった、したがって、決して『書き飛ばす稽古』などしなかった。)さて、芥川は、大正七年には、小説を、十篇書き、この年、(大正八年、)には、小説を、十三篇も、書いた上に、翻訳まで、二篇も、雑誌に、出した。これだけでもわかるように、極言すれば、芥川は、佐佐木の手紙のなかに、『書き飛ばす稽古』をしている、という文句を見たとき、ドキッとしたにちがいないのである。――ここまで書いてきて、私は、芥川が、(二十八歳の芥川が、)この手紙のなかで、悲鳴〔ひめい〕をあげているような気がして、心が痛くなるのをおぼえるのである。
 さて、ここで、寄〔よ〕り路〔みち〕した文章を、元〔もと〕にもどして、べつの手紙を、抜き書きしてみよう。

 君の手紙を読んだ
 あてがなければ書けないと云ふのは尤〔もつとも〕だと思ふ。しかし君の場合はあてがない訣〔わけ〕ぢやない。僕は何時〔いつ〕でも君として恥〔はづか〕しくないやうな作品が出来たら中央公論へも持ちこむと云つてゐるのだ。翅鳥や此間〔このあいだ〕の題のきまらない小説[『ある死・次の死』か]でも新小説とか何とか云ふ所なら何時でも持ちこんで上〔あ〕げて好い。そんな事には遠慮なくもつと僕を利用すべきだ。
 しかし実際問題を離れての話だが、君に今最も必要なものは専念に仕事をすべき心もちの修業ではないか。[中略]翅鳥やあの題のきまらない小説は実際君自身の云ふやうな短時間の中〔うち〕に出来たかどうかそれは問ふ必要はない。しかし、あれらの作品にはどうも一気に書き流したやうな力の弱さが感ぜられる。筆鋒森然と云ふ言葉とは反対な心もちが感ぜられる。
 ああ云ふ心もちをなくなす事が(作品の上から)――ああいふ書き流しをしない事が(仕事の上から)少〔すくな〕くとも君を成長させる第一歩ではならうか。[中略]
 序〔ついで〕ながら云ふが僕は此処〔ここ〕一二年が君の一生に可成大切な時期になつてゐるのではないかと思ふ。如何にこの時期を切り抜けるかと云ふ事が君の将来を支配する大問題なのではないかと思ふ。僕は君の作品を推薦するだけの役には立つ。小島や滝井も能動的に或は或〔あるひ〕は反動的に君を刺戟する事は出来るかも知れない。しかし大事を決定するのは飽くまでも君自身の動き方一〔ひと〕つだ。……[中略]君は坂の中途の車が動き出したと云ふ。車の動いてゐる事は自力かも知れない。しかしそれならもう一歩〔ぽ〕進めてその自力の動き方を正〔ただ〕しい方向に持続さすべきだ。さもなければ君は滅ぶ。

 さて、こうして、抜き書きをして、読んでみると、芥川の手紙は、理論は井然〔せいぜん〕としており、文章も納得〔なっとく〕ゆくように書かれてある。しかし、私が、前に、「真実と友情と情熱をもって書かれている」と述べたのは半分ぐらいまちがっていないが、ただ、『もっとも』である、と感じさせるだけで、どうも、もう一〔ひと〕つ、迫〔せま〕ってくるものがないのが気になるのである。口でだけで物を云って、手を出すところがないからである。これは、芥川のその時分の小説が、(いや、芥川の作品の大部分の作品が、)たいてい、おもしろい物語〔ものがたり〕で「筋に変化があり、語り方〔かた〕が上手〔じょうず〕であるために、気がつかないけれど、それらの作品に登場する人物たちが、形はちゃんとしていながら、血が通〔かよ〕っていないのと、通〔つう〕じるところがある。それから、『いいまわし』の巧〔たく〕みな事では、もとより、芥川ほどではないが、佐佐木も、なかなか、うまいところがある。そのほんの一例は、この芥川の手紙の中に引用されている、「坂の中途の車が動き出した」などという文句である。芥川が、大正九年の一月十九日に、森 鷗外に出した手紙に、「友人佐佐木茂索氏を御紹介申上げます 氏は天真堂と云ふ古玩をあきなふ店の御主人でその天真堂の命名を先生に願つた事があるさうですから……」という一節がある。この頃、佐佐木は、時事新報の文芸欄の編輯者をしていたが、この手紙にあるように、『天真堂』の主人もしていたらしい。――大正十年の八月、私は、佐佐木と京都に一と晩とまった時、佐佐木と、鞍馬山に、のぼった事がある。それは、佐佐木の名作『兄との関係』に書かれてある、佐佐木の兄を、佐佐木が訪問するのに、私が佐佐木にたのんで同行したのであった。鞍馬山にのぼり鞍馬寺を見るのに興味があったからである。鞍馬山にのぼるには、今は鞍馬鉄道があるが、その頃は、出町柳〔でまちやなぎ〕ら鞍馬寺まで、二里あまり、山道を、のぼらなければならなかった。佐佐木の兄の家は、道よりだいぶ高くなっている鞍馬寺の山門の手前の右側で、山中の家にしては、風雅なかまえであった。その家のひろい玄関の部屋に、私は、今、ふと、骨董や古玩なども、かざられてあったように、思い出したのである。佐佐木の兄は、ちょっと無骨〔ぶこつ〕に見えるが、ちゃんとした奥ゆきのある、風雅をこのむ人のように思われた。もしそうであるなら、佐佐木が風雅を好むらしいのは、兄に似ているのであろう。ところで、芥川は、殊に、風雅をこのみ過ぎるところがあった、そのために、多分に、文人気質をもっていた。しかし、芥川は、私には、ほとんど文人気質を、見せなかった。
 さて、芥川が、まえに抜き書きした手紙のなかで、「翅鳥や此間の題のきまらない小説でも新小説とか何とか云ふ所なら何時でも持ちこんで上げて好い。そんな事には遠慮なく……」とまで書いているのが、その後、佐佐木の小説が、「新潮」、「新小説」、「人間」、その他に、出たところを見ると、その効果がいくらか現〔あらわ〕れたように思われるけれど、それが一年に三篇か四篇であったのは、けっきょく、佐佐木は、芥川の期待に添わなかった、という事になる。これは、一たい、どういうわけであるか。それは、佐佐木が、新聞社の仕事をもっていたためでもあり、それ以上の事情があった、としても、やはり、佐佐木の気質のためにちがいない。しかし、『兄との関係』をかいた時分(一、二年のあいだ)の佐佐木の小説の中〔なか〕には、今〔いま〕よんでも、同時代の同じ年輩の作家の小説とくらべると、それらの作家の持っていない、心にくいほど上手〔じょうず〕な小説があり、書き方〔かた〕に何〔なん〕ともいえぬ旨〔うま〕さがある。しかし、なにか、肝腎のものが足りないところがあった。(しかし、それは、性質はちがうが、芥川にも、あった。)
 昭和十年の十月に出た「文壇出世作全集」のなかにおさめた『兄との関係』の附記のなかに、佐佐木は、「……仮〔かり〕に『おぢいさんとおばあさんの話』以後を第一期とすると、ここに出した『兄との関係』は第二期の始まりだらう。この時分は本当に熱心に書くつもりであつたのだから。そして『魚の心』あたりから第三期で、『困つた人達』は中休みで、今後また書き始めるとしたら、それが第四期となるだらう」と、書いている。ここで、私は、「親愛なる佐佐木よ、」と、よびかけよう。世に『六十の手習』、『八十の手習』、という句がある。しかし、三十の半〔なか〕ばにならないうちに、立派〔りっぱ〕に『手習』をし、その上手〔じょうず〕の域にまで達したのではないか。もとより、手習は、質〔たち〕のよしあしにかかわらず、怠らなければ、年〔とし〕をとればとるほど、上達する、もとより、六十にちかい君〔きみ〕は、三十の君ではない、人一倍感受性のつよい君は、第三期で「中休み」した君は、第二期の頃の気もちにかえり、そこで、思いきって、第四期に進むべきである。そうしたら、君に誰よりも望みをかけた芥川は、生きていれば、『佐佐木君、大いにやれよ、』と、いいながら、目に涙を一ぱいためて、君の手を握るであろう。――と、こういう光景を思いうかべると、『佐佐木君、ぼくも、うれしいよ、』――こう書きながら、さきの君の手紙を、もう一度、とりだして、最後の『今年の暑さは澄江堂が死んだ年〔とし〕以来の暑さです、』とあるのを読み、私は、今更ながら、君が芥川によせる親愛の深さに、目頭〔めがしら〕のあつくなるのを、おぼえるのである。「佐佐木よ、その芥川のためにも、ふたたび、久〔ひさ〕しぶりで、小説をかくために、筆をとれよ、」と。
 ここで、おもわず、長く長くなった『ことわり』の文章を、おわる。
   『ことわり』(完了)

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