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2012/02/04

宇野浩二 芥川龍之介 三~(2)

 さて、芥川は、前から少〔すこ〕しずつ述べたように、そういう事やする事に、ときどき、人を迷わせる事があるように、書く事にさえ人を迷わせるような事が、しばしば、ある。これは、芥川自身がたくまないのに、そういう事もあるけれど、それをはっきり意識してやる事もあるのである。
 それらの中〔なか〕の二〔ふた〕つの事件について述べよう。
  その一つは、『奉教人の死』の一件である。
 『奉教人の死』は、二十五六枚の短篇ではあるが、芥川の数おおいキリスタン物のなかで、まず最初の作であり、すぐれた小説の一〔ひと〕つである。しかし、この悪文をよむ人は、この小説が大正七年の作であることを、頭〔あたま〕にいれていただきたい。そこで、この小説について述べると、まず、「……これは或年〔あるとし〕御降誕の祭の夜、その『えけれしや』の戸口に、餓ゑ疲れてうち伏し居〔を〕つたを、参詣の奉教人衆が介抱し、それより伴天連〔ばてれん〕の憐みにて、寺中〔じちゅう〕に養はれることになつたげでござるが、……」というような、まず才気のある、文体にも、その時分の一部の読者は、目をみはった。それに、種〔たね〕のある事は知らないから、極めて変化のある異様な物語にも、この小説は、おおげさにいえば、その頃の一部の読者の度胆をぬいたのである、(いや、年わかくて高名になった芥川は、読者の度胆をぬくつもりで、書いたのであろう。)そうして、芥川は、更に調子にのって、この小説のおわりの方に、「予が所蔵に関〔かか〕る、長崎耶蘇会出版の一書、題して『れげんだ・おうれあ』と云ふ。蓋し、「LEGENDA AUREA〔レゲンダ・アウレア〕の意なり。……体裁は上下二巻、美濃紙摺草体交〔みのがみずりさうたいまじ〕り平仮名文にして、印刷甚だしく鮮明を欠き、活字なりや否やを明〔あきらか〕にせず。上巻の扉には、羅甸字〔ラテンじ〕にて書名を横書〔よこがき〕し……」などと書いている。この『奉教人の死』は、この『れげんだ・おうれあ』の下巻の第二章に依る、と書いている。
 ところで、この時分はキリスタン研究の草分け時代であったから、専門の学者たちは、キリスタン関係のめずらしい本を、血眼〔ちまなこ〕になってさがしまわり、裕福な人たちは、千金をかけても、とあさりまわっていた。こういう時であったから、この芥川の『奉数人の死』の元になった『れげんだ・おうれあ』とはどのような本であろう、と、たちまち、専門家たちの注意をひいた。その中で、この『れげんだ・おうれあ』に、うっかり、興味を待ったのは、碩学、内田魯庵であった。魯庵は、その時分の事を、ずっと後に、『れげんだ・おうれあ』という文章のなかで、つぎのように述べている。

 恁〔か〕ういふ最中に現れたのが芥川君の『奉教人の死』であつた。篇末著者が所蔵の切支丹本『れげんだ・おうれあ』から材を取つたといふ記事を見た切支丹党は恰もメシヤの再臨を聞いたやうなショックに打たれた。今思ふと馬鹿々々しいが、何しろドコかにマダ世に知られない切支丹本が秘襲されてゐてイツかは世に出る時が必ず有るに違ひないと信じ切つてゐた最中だから『れげんだ・おうれあ』なぞといふツイぞ聞いた事のない書名を少しも疑はずに逆上〔のぼせあが〕つたので、アトになつてこそいろいろ疑問も生じたが、之〔これ〕を聞いた瞬間は疑ふ余地もなく夢中になってしまつた。それまで芥川君とは面識もなく書信も通じた事さへなかつたのだが、恁うなつては矢も楯もたまらず、即時に飛札を芥川氏の寓居の鎌倉へ飛ばして『れげんだ・おうれあ』の内見を申しこんだ。
 中一日おいて折返して来た返事をワクワクしながら取る手も遅しと封を切ると、サラサラと書流した文句は、右は全く出鱈目の小説にて候。思はずアツと声を上げて暫らく茫然してしまつた間抜けさ加減……

 この年、内田は五十二歳であり、芥川は二十七歳である。が、年〔とし〕などはどうでもよい。私は結果からいうのではないが、大袈裟にいうと、この『れげんだ・おうれあ』の一件は、ある意味で、芥川の一世一代の失敗の一つである、と思う。その理由は簡単に述べられないから別に書くとして、たとえば、何でもない事のようであるが、大正七年九月二十二日に、芥川が、鎌倉から小島政二郎にあてた手紙のなかに、「『奉教人の死』の『二』はね内田魯庵氏が手紙をくれたのは久米から御聞きでせう所が今日東京にゐると東洋精芸株式会社とかの社長さんが二百円か三百円で譲つくれつて来たには驚きました随分気の早い人がゐるものですね出たらめだつてつたら呆れて帰りました、」と書いている。芥川が、小説を作るために、『れげんだ・おうれあ』という世にない本をあるように書く事は決してわるいことではない。しかし小説で、世にない本をあるように書いたために、矢も楯もたまにあると思って、「欠も楯もたまら」ない思いで手紙を出した真面目な好学の徒、(しかも先輩である、)内田魯庵に一杯くわした事を、おもしろがって、久米に報告したり、けっきょく無邪気な会社の社長にもー杯くわした事を、手をうつように、よろこんだり、その上それらの事を小島に報告してホクソエんだり、した事は、その事を知った時は、私は、なんともいえぬイヤアな気がしたが、しかし、こういう事に、(こういうイタズラに、)興をおぼえる(としたら、)芥川を、今になって、思うと、私は、なんという理由なしに、失礼な言葉ではあるが、なんともいえぬ悲しさと哀れさのようなものを、しみじみと、感じるのである。
[やぶちゃん注:「奉教人の死」について、実は芥川は二度我々を騙している――これには実は種本が存在し、それは明治二十七(一八九四)年秀英社刊の斯定筌(スタインシェン Michael Steiche)の「聖人伝」所収の「聖マリナ」であること(原典は私の電子テクスト『斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人傳」より「聖マリナ」』で読むことが出来る)――のであるが、それでも尚且つ私は(私は勿論、宇野が綴っている魯庵や某好事家社長の話も知っている)、ここで宇野のように芥川龍之介に対して『イヤアな気』は全くしない、ということだけは表明しておきたい。文芸、いや芸術によって構築された世界の内包と外延はテクストのみに留まるものではない。いや、「奉教人の死」のストーリーのどんでん返しは作品の中にのみ留まるものではないのである――これらのすべての総体が『芥川龍之介の稀有の名作「奉教人の死」という現象そのもの』なのである、ときっぱりと言明するものである。]

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