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2012/03/31

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (13)

    白馬

 

  私の馬は白馬だ、

  初めは栗毛だつたが。

  夜でも晝でも旅をして

  歩いて行くのが大好きだ。

 

  旅した道は大變だ

  半分だけを語つてみても。

  アダムを花園で乘せた、

  彼が天から落ちた日に。

 

  バビロンの野では、

  賞牌目あてに驅けたが、

  ハンニンバル大王に

  その翌日は狩り立てられた。

 

  それからは狐狩の時に

  またしても狩り立てられた。

  その時ネブカトネザルは

  牛の姿で草を食べてゐた。

 

 

  THE WHITE HORSE

 

  My horse he is white,

  Though at first he was bay,

  And he took great delight

  In travelling by night

  And by day.

 

  His travels were great

  If I could but half of them tell,

  He was rode in the garden by Adam,

  The day that he fell.

 

  On Babylon plains

  He ran with speed for the plate,

  He was hunted next day

  By Hannibal the great.

 

  After that he was hunted

  In the chase of a fox,

  When Nebuchadnezzar ate grass,

  In the shape of an ox.

 

[やぶちゃん注:原詩は最初の一連が御覧の通り、五行である。

「栗毛」黄褐色の毛で覆われる毛色。我々がイメージする一般的なサラブレッドは「鹿毛(かげ)」と言って長毛(鬣(たてがみ)や尻尾)と四肢が黒色を帯びるが、栗毛ではそれがなく、全身が黄褐色である。但し、原文は“bay”で、これは「鹿毛」のことである。栗毛なら“chestnut”である。不審。

「バビロン」は紀元前のメソポタミア地方の古代都市で、バグダードの南方、ユーフラテス川河畔にあった。ハンニバルが生きた時代はセレウコス朝であるが、ここは超時空で(「翌日」は翌日ではない)、バビロンの栄華の時代の設定であろう。

「賞牌」は「しゃうはい(しょうはい)」と読み、競技の入賞者などに賞として与えるメダル。のこと。但し、ここは競馬であるから、“plate”は近代競馬の賞杯である「金(銀)盃」を意味していよう。

「ハンニバル」Hannibal Barca(ハンニバル・バルカ B.C.247年頃~B.C.183年か182年頃)はカルタゴの将軍。第二次ポエニ戦争でローマ軍に大勝したが、のちにローマの武将スキピオに敗れ、小アジアに亡命、自殺した。

「ハンニンバル大王に/その翌日は狩り立てられた」原文“He was hunted next day/  By Hannibal the great.”で、これは「翌日は狩りに駆り出された/ハンニバル大王様の御騎乗で」という意味である。この訳ではまるでハンニバルに生捕りにされそうになった、という誤読をしてしまう。

「ネブカドネザル」は古代メソポタミアの王の名で、四人の王がこの名を持つが、単に“Nebuchadnezzar”と記す場合はネブカドネザル2世(B.C.604年~B.C.562年)の新バビロニアの王を指す。いずれにせよ、この四人の王は総てハンニバルの時代より遥かに昔であるから、この狂詩の支離滅裂さの真骨頂である。但し、これはネブガドネザルが後世転生して牛(雄牛)となっていた、とも解釈は可能である。ともかくも「その時ネブカトネザルは/牛の姿で草を食べてゐた」という章句には、戯言以外の何らかのネブカトネザルに纏わる民間伝承が隠されているのかも知れないが、調べ切れなかった。識者の御教授を乞うものである。

最後に。ちょいと私も定型狂詩っぽくオリジナルに訳してみたい気になった。

 

    白馬(あおうま)

 

  おいらの馬は白馬(あおうま)よ、

  ところがどっこい昔は鹿毛(かげ)よ――

  奴(きゃつ)の好みは

  昼夜を継ぎ

  驅けるわ、驅ける、その驅り――

 

  奴(きゃつ)が走った、どえらい路程、

  その半分も語れねえ――

  昔を言やあ、園エデン、御先祖アダムを乗せ申し、

  堕天、韋駄天、それも奴(きゃつ)――

 

  バビロンの、その野辺の競馬場、

  金杯目あてに驅け抜けて――

  さて翌日は狩りに出る、

  騎(の)るは大殿(おおとの)ハンニバル――

 

  次に控えし奴(きゃつ)の狩り、

  そいつは狐を追う修行――

  さてもその時、ネブカドネザル、

  草を食んでる雄牛で御座い――

 

おあとがよろしいようで――]

 

 

 

 次の句では、ノアと箱船にはひつたり、モーゼを乘せて紅海を横切つたりした事があつた。それから――

 

  やつと運が向いて來て

  エヂプトではパラオの傍に居て、

  王を乘せては堂堂と

  花やかなナイルの岸を練つたものだ。

 

  サウル王と居た時は

  艱難辛苦を共にした。

  ダビテの傍に居た時は

  ダビテがゴリアテを殺した。

 

 

  We are told in the next verses of his going into the ark with Noah, of Moses riding him through the Red Sea; then

 

  He was with king Pharaoh in Egypt

  When fortune did smile,

  And he rode him stately along

  The gay banks of the Nile.

 

  He was with king Saul and all

  His troubles went through,

 He was with king David the day

  That Goliath he slew.

 

[やぶちゃん注:「パラオ」“Pharaoh”はファラオ、古代エジプトの君主の称号。

「サウル」は、旧約聖書「サムエル記」に登場する、紀元前10世紀頃のイスラエル王国最初の王。以下、ウィキサウル」から引用する。ユダヤの指導者にして預言者であったサムエルの神託によって王として選ばれた『サウルは息子ヨナタンや家臣たちと共にイスラエルを率いて、ペリシテ人や周辺民族と勇敢に戦った。しかしアマレク人との戦いで「アマレク人とその属するものを一切滅ぼせ」という神の命令に従わなかったため、神の心は彼から離れた』『神の声を伝えていたサムエルもこれ以降サウルに会うことはなかった。サムエルはサウルをあきらめ、神の言葉によってひそかにエッサイの子ダビデに油を注いだ。ダビデはペリシテの勇者ゴリアテ(次注参照)を討って有名になり、竪琴の名手としてサウルに仕えたが、サウルはダビデの人気をねたんで命を狙った。ダビデは逃れ、何度もサウルを殺害するチャンスを得たが、「神の選んだ人に手をかけられない」といってサウルに手を触れなかった』。『ダビデの立琴によってサウルから悪霊が出て行』ったが、後、『サウルはペリシテ軍との戦いの中で、ギルボア山で息子たちと共に追い詰められ、剣の上に身を投げて死んだ』とも、『「重傷だったサウルに頼まれて家臣がとどめをさした」との異なる伝承もある』。『サウルとヨナタンの遺骨は、次の王となったダビデによって、ベニヤミンの地ツェラの父の墓に葬られ』、『サウル王の四男のイシュ・ボシェテがただ一人生き残り、将軍アブネルに支持されて、マハナイムでサウル王朝第2代目の王になった。イシュ・ボシェテが暗殺されるとサウル王朝は滅亡して、ダビデ王朝が始まった』とある。

「ゴリアテ」は(以下、ウィキゴリアテ」から引用)『旧約聖書の「サムエル記」に登場するペリシテ人の巨人兵士。身長は6キュビト半』『(約2.9メートル)、身にまとっていた銅の小札かたびら(鎧)は5000シェケル』『(約57キログラム)、槍の鉄の刃は600シェケル』『(約6.8キログラム)あったという。サウル王治下のイスラエル王国の兵士と対峙し、彼らの神を嘲ったが、羊飼いの少年であったダビデが投石器から放った石を額に受けて昏倒し、自らの剣で首を刎ねられた』。

私の定型狂詩オリジナル訳。

 

  頃はエジプト、ファラオと一緒、

  運命の、女神がにっこり、笑みをかけ――

  王を騎上に堂堂と、

  花のナイルの岸うねる――

 

  サウルの王といた時にゃ、

  艱難辛苦をなめ尽くし――

  ダビテの王といた時にや、

  ゴリアテ殺した日にもいた――

 

おあとがよろしいようで――]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (12)

 それから、老人はなみはづれた英語の惡詩を謠つてくれたから私は書き留めたが、今寫してみると、頗る首尾一貫しないものである。此の詩を老人達は吟唱曲のやうに繰り返してゐるが、特に韻の不規則な行に來ると、彼等はそれを無理に朗吟風の型にして本當に樂しんでゐるやうであつた。その老人は吟唱しながら身體をくねくねと動かし續けてゐた。それが吟唱にふさはしく、板についてゐるやうであつた。

Then he gave us an extraordinary English doggerel rhyme which I took down, though it seems singularly incoherent when written out at length. These rhymes are repeated by the old men as a sort of chant, and when a line comes that is more than usually irregular they seem to take a real delight in forcing it into the mould of the recitative. All the time he was chanting the old man kept up a kind of snakelike movement in his body, which seemed to fit the chant and make it part of him.

[やぶちゃん注:「惡詩」“doggerel”は「狂詩」のこと。滑稽な内容を旨としたもの。但しこの後に示される「白馬」“THE WHITE HORSE”という詩を見ると、これは所謂、自由形式で民族的や叙事的な内容を表わした古形の朗誦用「狂詩曲」(ラプソディー)であると言ってよい。
「吟唱曲のように」“a sort of chant”。キリスト教の典礼聖歌のような感じの歌い方。同じフレーズを唱和して歌う。
「朗吟風の型」“the mould of the recitative”レシタティーボの型。叙事詩や歌物語の中で叙述や会話の部分に用いられる朗読調の歌唱部分。オペラやオラトリオなどに見られるように、歌い方に一定の類似性や定型がある。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (11)

 その後で、もう一つ同じやうな妖精騎手の話をした。それは彼が一シリングだけ殘して、全財産を失くした紳士に逢ひ、その人にその一シリングをくれと願つた。紳士はそれを與へると、その妖精騎手――小さな赤顏の男――彼のために競馬に出て、賭金が倍になる時に、信號に赤いハンカチを振つて、その紳士を金持にした。

After that he told me another story of the same sort about a fairy rider, who met a gentleman that was after losing all his fortune but a shilling, and begged the shilling of him. The gentleman gave him the shilling, and the fairy rider--a little red man--rode a horse for him in a race, waving a red handkerchief to him as a signal when he was to double the stakes, and made him a rich man.

[やぶちゃん注:原文では行空けはないが、独立させた。
「妖精騎手」原文も“fairy rider”であるが、謂いは、妖精のような超常的な能力を持った名騎手という謂いであろう。
「小さな赤顏の男」原文は確かに“a little red man”であるが、これは「小兵の赤毛の男」であろう。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (10)

 私はまた南島に來て居る。そして驚くほど色色の物語や歌を知つて居る老人たちに出逢つた。それもよく愛蘭土語と英語の兩方で知つてゐる最後の人たちなのである。今日はその一人の家へ、愛蘭土語を書ける土地の學者を連れて立寄つた。そしていくつかを書き留め、他は聞いておいた。此處に老人が、その本筋に熱中して行く前、最初に話した一つの物語がある。それは書き留めなかつたが、意味は次のやうであつた。――

 チャリー・ランバートといふ一人の男が居た。彼が競馬で乘る馬は、どれも一番になるのがきまりであつた。
 その國の人たちは遂に怒つてしまつて、今後、彼は競馬に出てはならぬこと、若し出たらば、見つけた者は彼を撃つ權利があるといふ法律ができた。それから後、國のその地方から英國へ行つた一人の紳士があつた。或る日、英國の人たちと話をして居る時、愛蘭土の馬が最良だと云つた。英國人は英國の馬が最良だと云ひ、終に競馬をやらうといふことになり、英國の馬がやつ來て、愛蘭土の馬と競走することになつた。紳士はその競馬に、全財産を賭けた。
 さて彼は愛蘭土に歸ると、チャリー・ランバートの處へ行き、馬に乘つてくれないかと賴んだ。チャリーは乘りたくないと云つて、紳士に自分の身に迫る危險を話した。そこで紳士は全財産を賭けた次第を話すと、終にチャリーは競馬の行はれる場所と時日を聞いたので、紳士はそれを教へた。
 「その當日に、此處から競馬場まで沿道七哩毎に、手綱と鞍をつけた馬を、おいて下さい。」
 ランバートは云つた。「さうしたら、其處へ行きませう。」
 紳士が行つてしまふと、チャリーは着物を脱いて、寢床にはひつた。それから醫者を呼びに遣り、醫者が來たと聞くと、熱のために脈搏が高いと思はせようと腕を振り廻はし初めた。
 醫者はその脈搏を感じ、明日また來るまで安靜にしてゐるやうにと命じた。
 次の日も同じやうな状態で、競馬の日まで此のやうだつた。その日の朝、醫者が重態だと思つ たほど、チャリーは激しく脈を打たせた。
 「チャリー、これから私は競馬に行かうと思ふ。」彼は云つた。「だが、今晩歸つて來たら、また來て診て上げよう。私が來るまで大事にしてゐなさい。」
 醫者が行つてしまふと直ぐに、チャリーは床から跳び起きて、馬に乘つた。そして第一の馬が待つてゐる處までで七哩行き、それからその馬で七哩行き、また他の馬で七哩行き、遂に競馬場まで來た。
 彼は紳士の馬に乘つて、競馬に勝つた。
 群集は大勢見物して居た。彼がやつて來るのを見た時、皆んなチャリー・ランバートだ、若しさうでないなら惡魔だと云つた。何故なら、そんな乘り方のできる者がほかにある筈はなかつたし、足が馬から離れてしまつてゐたが、彼はいつもさうだつたからである。
 競馬が濟むと、彼は待つてゐた馬に乘り、その馬で七哩行き、また次の處で七哩、自分の馬で七哩乘つて家に歸ると、着物を脱ぎ捨て、寢床に横になつた。
 暫くして、醫者が歸つて來て、素晴らしい競馬を見て來たと云つた。
 翌日、馬に乘つた男はチャリー・ランバートだと、人人は言ひ出した。調べられたが、醫者がチャリーは病氣で寢てゐて、競馬の前にも後にも自分が診察したことを誓つたので、例の紳士は財産が助かつたのであつた。

I am in the south island again, and I have come upon some old men with a wonderful variety of stories and songs, the last, fairly often, both in English and Irish, I went round to the house of one of them to-day, with a native scholar who can write Irish, and we took down a certain number, and heard others. Here is one of the tales the old man told us at first before he had warmed to his subject. I did not take it down, but it ran in this way:--
There was a man of the name of Charley Lambert, and every horse he would ride in a race he would come in the first.
The people in the country were angry with him at last, and this law was made, that he should ride no more at races, and if he rode, any one who saw him would have the right to shoot him. After that there was a gentleman from that part of the country over in England, and he was talking one day with the people there, and he said that the horses of Ireland were the best horses. The English said it was the English horses were the best, and at last they said there should be a race, and the English horses would come over and race against the horses of Ireland, and the gentleman put all his money on that race.
Well, when he came back to Ireland he went to Charley Lambert, and asked him to ride on his horse. Charley said he would not ride, and told the gentleman the danger he'd be in. Then the gentleman told him the way he had put all his property on the horse, and at last Charley asked where the races were to be, and the hour and the day. The gentleman told him.
'Let you put a horse with a bridle and saddle on it every seven miles along the road from here to the racecourse on that day,' said Lambert, 'and I'll be in it.'
When the gentleman was gone, Charley stripped off his clothes and got into his bed. Then he sent for the doctor, and when he heard him coming he began throwing about his arms the way the doctor would think his pulse was up with the fever.
The doctor felt his pulse and told him to stay quiet till the next day, when he would see him again.
The next day it was the same thing, and so on till the day of the races. That morning Charley had his pulse beating so hard the doctor thought bad of him.
'I'm going to the races now, Charley,' said he, 'but I'll come in and see you again when I'll be coming back in the evening, and let you be very careful and quiet till you see me.'
As soon as he had gone Charley leapt up out of bed and got on his horse, and rode seven miles to where the first horse was waiting for him. Then he rode that horse seven miles, and another horse seven miles more, till he came to the racecourse.
He rode on the gentleman's horse and he won the race.
There were great crowds looking on, and when they saw him coming in they said it was Charley Lambert, or the devil was in it, for there was no one else could bring in a horse the way he did, for the leg was after being knocked off of the horse and he came in all the same.
When the race was over, he got up on the horse was waiting for him, and away with him for seven miles. Then he rode the other horse seven miles, and his own horse seven miles, and when he got home he threw off his clothes and lay down on his bed.
After a while the doctor came back and said it was a great race they were after having.
The next day the people were saying it was Charley Lambert was the man who rode the horse. An inquiry was held, and the doctor swore that Charley was ill in his bed, and he had seen him before the race and after it, so the gentleman saved his fortune.

[やぶちゃん注:「私はまた南島に來て居る。そして驚くほど色色の物語や歌を知つて居る老人たちに出逢つた。それもよく愛蘭土語と英語の兩方で知つてゐる最後の人たちなのである。」原文は“I am in the south island again, and I have come upon some old men with a wonderful variety of stories and songs, the last, fairly often, both in English and Irish,”であるが、この「それもよく愛蘭土語と英語の兩方で知つてゐる最後の人たちなのである。」の「最後の人」というのは一読おかしい気がする。「古伝承や歌を古いゲール語と英語で語れる最後の人々」という意味でとれないとは言えないが、やはりそうした「最後の」と言い切る(言い切れる)のは、最早、そうした人が彼等以外にはいないという意味になり、断定に過ぎるからであり、現実的な謂いとは言い難い。問題は挿入句である“the last”で、これは実は “stories and songs”の「最後のもの」「後者の方の」という指示代名詞で、この後半部は「特に後者の『歌』については、かなりしばしば、アイルランド語と英語の両方で知っている人たちなのである。」という意味なのではあるまいか。栩木氏もそのように訳しておられる。
「土地の學者」“native scholar”。「學者」というのは、ここまでの島の描写からはそぐわない。所謂、アラン島の人の中でも多少の教養を持った「郷土史研究家」といった感じであろう。
「七哩」11キロメートル強。
「何故なら、そんな乘り方のできる者がほかにある筈はなかつたし、足が馬から離れてしまつてゐたが、彼はいつもさうだつたからである。」“for there was no one else could bring in a horse the way he did, for the leg was after being knocked off of the horse and he came in all the same.”。私には英文の後半部がよく分からないが、姉崎氏の訳は少なくとも辻褄の合う日本語ではある。則ち、馬を疾走させる際に、乗った騎手の足が馬の体から殆んど浮いたように見えるのが名騎手チャーリー・ランバートの騎乗の一番の特徴だったから、という謂いである。但し、栩木氏は全く異なった訳をなさっている。氏の2005年みすず書房刊の「アラン島」をお読みあれかし。なお、イェーツによるこの部分の挿絵と思われる“An Island Horseman”を見ると、仰天することに、その騎乗方法は跨るタイプではなく、腰掛けるような横座りである。そうして、その騎手の両足は馬の左手にすっくと伸ばされて文字通り、「足が馬から離れてしまつてゐ」るように見えるのは偶然か?]

An_island_horseman

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (9)

 今朝、ひどい嵐であつた。私は斷崖に登つて行き、打ち上げられた海草の番をする人のために建てた小舍にゐた。その後間もなく、羊の番をしてゐた一人の少年が、西の方から來て、長い間話をした。

 彼は先づ、先日起つた事件に就いて私が聞き得た最初のまとまつた話をしてくれた。それは、若者が南島へ行く途中で溺死した事件である。

 「南島から來た數人の男がね、」彼は云つた。「此の島へ渡つて來て馬を數匹買ひ、それを漁船に積んで渡らうとした。馬を海岸まで曳いて行くために、一艘のカラハを持つて行かうとした。一人の若者が自分が行くと云ふので、その男に繩をやり、漁船の後へ附けて曳いて行くことになつた。瀨の中へさしかかつた時、風が出て來た。カラハの中の男は漁船に引張られるので、波に乘るやうに向を變へることが出來ないで、水が一杯にはひり出した。

 漁船の人達はそれを見て、どうしてよいかわからず、あれよあれよと叫び初めた。一人の男が繩を持つてゐる男に「繩を放してしまへ、さうしなけりや、舟をひつくり返してしまふぞ」と呶鳴つた。

 そこで繩を持つてゐた男が、それを水の上に投げたが、カラハはもう水が半分はひり、櫂は一本しかなかつたのであらう。それから一つ波が來て、船は見てゐる前で沈んで行き、若者はそこら中を泳ぎ出した。若者を救はうと、漁船は帆を下ろした。そして下ろしてしまつた時には、餘り遠くへ來過ぎたので、また帆を擧げて、彼の方へ戻つて來た。彼は波の中を泳ぎに泳いだが、船が再び彼に近づくまでに三度目に沈んで、それつきり姿は見えなくなつてしまつた。」

 誰か彼の死後出逢つた人があるかと私は聞いた。

 「そんな人はない。」彼は云つた。「併し妙な話があるよ。その日、彼が海に行く前、犬が來て岩の上に坐り、彼の傍で鳴き出した。馬が船卸臺に來た時、一人のお婆さんが、以前に溺死した息子が、その中の一匹に乘つてゐるのを見た。お婆さんはその見たことを云はずにゐると、その男は目分の馬を最初に取り、その次にその馬を取つて、それから出かけて行つて、溺れたのさ。二日たつてから、私はこんな夢を見た。それは彼が「キヨーン・ギャネ」(砂の岬)で發見されて、原の家へ運ばれて、革草鞋を脱せられて、それを乾すために釘に掛けたといふ夢だつた。後で彼が見つかつたのは、あなたは聞いたでせうが其處だつたのです。」

 「お前さん連は犬の鳴聲を聞くと、いつも怖いかね?」私は云つた。

 「いやだね。」彼は答へた。「岩の上で天の方を見て鳴いてるのをよく見かけるでせう。あれは全くいやだね。牡雞か牝雞が家の中で何かを壞はすと誰かが死ぬといふので、あれもいやだね。此の間、此の下の家に始終住んでゐた人が、此の冬死ぬちよつと前に、そのお内儀さんの牡雞が喧嘩を初めたことがあつた。二羽とも料理臺へ跳び上つて、ランプのガラスを倒して、それを床に落して壞した。お内儀さんはその後で、自分の牡雞を捕へて殺したが、もう一羽の牡雞は隣りの家のだつたので、殺せなかつたのさ。それから旦那が病氣になつて、とうとう死んだのだよ。」

 私は島で妖精の音樂を聞いたことがあるかと尋ねた。

 「此の間、子供たちが學校で、そんなことを話してゐるのを聞いたよ。」彼は云つた。「その兄弟たちがよその伯父さんと、二週前の或る朝、牡雞のまだ鳴かないうちに、漁に出かけたさうだ。その人達が「砂の岬」の近くに降りて來ると、音樂が聞こえた。それが妖精の音樂だつたさうだ。また別の話だが、或る時、三人の男が夜、カラハで出かけた。すると大きな船がこつちの方へやつて來る。みんな驚いて逃げようとしたが、ずんずん近づいて來て、とうとう一人の男が、そつちへ向いて十字を切ると、それつきり見えなくなつたさうだ。」

 彼はまた次の問に答へて話し續けた。

 「よく妖精にさらはれる人があるよ。一年前に死んだ若者があつたが、彼はその兄弟の寢てる家の窓へ始終やつて來て、夜中にその人達と話をした。彼はその暫く前に結婚してゐたのだが、夜になると、土地を自分の息子に約束しておかなかつたのは、殘念だとか、その土地は息子に行くべきだとかいふことを口癖のやうに云つた。また或る時は牝馬のこと、その蹄のこと、それにはかせる蹄鐵のことを話すこともあつた。少し前に、パッチ・ルアはその男がブローガ・オルダ(革の長靴)をはいて、新しい着物を着て、道を行くのを見た。また二人の男は彼に別の處で逢つた。」

 「あの崖の絶壁が見えるでせう?」それから暫く間をおいて、下の方の或る場所を指しながら彼は云ひ續けた。「妖精達がボール遊びをするのはあすこです。朝來ると、足跡があり、線を引くための三つの石や、ボールを跳ねさす大きな石がある。子供たちが時時、その三つの石を取り除けておくが、いつも朝になると、また戻つて來てゐる。此の間、その土地を持つてゐる人が、大きな石まで取り除けて、それを轉がして、崖の下へ落しておいたが、それでも朝には又もとの所へ戻つてゐた。」

 

 

There was a great storm this morning, and I went up on the cliff to sit in the shanty they have made there for the men who watch for wrack. Soon afterwards a boy, who was out minding sheep, came up from the west, and we had a long talk.

He began by giving me the first connected account I have had of the accident that happened some time ago, when the young man was drowned on his way to the south island.

'Some men from the south island,' he said, 'came over and bought some horses on this island, and they put them in a hooker to take across. They wanted a curagh to go with them to tow the horses on to the strand, and a young man said he would go, and they could give him a rope and tow him behind the hooker. When they were out in the sound a wind came down on them, and the man in the curagh couldn't turn her to meet the waves, because the hooker was pulling her and she began filling up with water.

'When the men in the hooker saw it they began crying out one thing and another thing without knowing what to do. One man called out to the man who was holding the rope: "Let go the rope now, or you'll swamp her."

'And the man with the rope threw it out on the water, and the curagh half-filled already, and I think only one oar in her. A wave came into her then, and she went down before them, and the young man began swimming about; then they let fall the sails in the hooker the way they could pick him up. And when they had them down they were too far off, and they pulled the sails up again the way they could tack back to him. He was there in the water swimming round, and swimming round, and before they got up with him again he sank the third time, and they didn't see any more of him.'

I asked if anyone had seen him on the island since he was dead.

'They have not,' he said, 'but there were queer things in it. Before he went out on the sea that day his dog came up and sat beside him on the rocks, and began crying. When the horses were coming down to the slip an old woman saw her son, that was drowned a while ago, riding on one of them, She didn't say what she was after seeing, and this man caught the horse, he caught his own horse first, and then he caught this one, and after that he went out and was drowned. Two days after I dreamed they found him on the Ceann gaine (the Sandy Head) and carried him up to the house on the plain, and took his pampooties off him and hung them up on a nail to dry. It was there they found him afterwards as you'll have heard them say.'

'Are you always afraid when you hear a dog crying?' I said.

'We don't like it,' he answered; 'you will often see them on the top of the rocks looking up into the heavens, and they crying. We don't like it at all, and we don't like a cock or hen to break anything in the house, for we know then some one will be going away. A while before the man who used to live in that cottage below died in the winter, the cock belonging to his wife began to fight with another cock. The two of them flew up on the dresser and knocked the glass of the lamp off it, and it fell on the floor and was broken. The woman caught her cock after that and killed it, but she could not kill the other cock, for it was belonging to the man who lived in the next house. Then himself got a sickness and died after that.'

I asked him if he ever heard the fairy music on the island.

'I heard some of the boys talking in the school a while ago,' he said, 'and they were saying that their brothers and another man went out fishing a morning, two weeks ago, before the cock crew. When they were down near the Sandy Head they heard music near them, and it was the fairies were in it. I've heard of other things too. One time three men were out at night in a curagh, and they saw a big ship coming down on them. They were frightened at it, and they tried to get away, but it came on nearer them, till one of the men turned round and made the sign of the cross, and then they didn't see it any more.'

Then he went on in answer to another question:

'We do often see the people who do be away with them. There was a young man died a year ago, and he used to come to the window of the house where his brothers slept, and be talking to them in the night. He was married a while before that, and he used to be saying in the night he was sorry he had not promised the land to his son, and that it was to him it should go. Another time he was saying something about a mare, about her hoofs, or the shoes they should put on her. A little while ago Patch Ruadh saw him going down the road with brogaarda (leather boots) on him and a new suit. Then two men saw him in another place.

'Do you see that straight wall of cliff?' he went on a few minutes later, pointing to a place below us. 'It is there the fairies do be playing ball in the night, and you can see the marks of their heels when you come in the morning, and three stones they have to mark the line, and another big stone they hop the ball on. It's often the boys have put away the three stones, and they will always be back again in the morning, and a while since the man who owns the land took the big stone itself and rolled it down and threw it over the cliff, yet in the morning it was back in its place before him.'

 

[やぶちゃん注:この溺死した若者というのは、先に埋葬シーンが描かれた若者であろう。ここは怪異伝承の記載として素晴らしく、また面白い。

「私は斷崖に登つて行き、打ち上げられた海草の番をする人のために建てた小舍にゐた。」原文は“I went up on the cliff to sit in the shanty they have made there for the men who watch for wrack.”。“shanty”は「掘立小屋」(“they”とあるから、そうした小屋蛾が複数あるのであろう)。“wrack”で、これには「難破船・漂着物・残骸」の意の外に「漂着した海草・ちぎれ雲」の意がある。栩木氏はここを『難破船の破片などが島へ漂着するのを見張るため』と訳されている。漁村ではしばしばこうした物見台があるから、これは如何にも自然な訳ではある。しかし、姉崎氏の訳が誤訳かと言えば、そうともとれない。実際にこれらは海藻灰(ケルプ灰)として商品にする材料でもあり、恐らくはその時期になると、打ち上がった海藻は代々採取の場所が各家で決められていて、その掟を破ってこっそり他人の所有権のある海藻を不法に取る者が出ないように、例えば、村の中のグループ単位で順にここで見張りをすると考えれば、しっくりくる(寧ろ複数あるのはその可能性を示唆するとも言えるかも知れない)。いずれにせよ、そこは海難の際の物見台の役割もしていようから、何れの訳もおかしくはない。但し、栩木氏は“shanty”を『石積みの風除け椅子』と訳されておられ、これは氏の2005年みすず書房刊の「アラン島」の「訳者あとがき」で明らかにされているが、所謂、現在、正に島で「シングの椅子」(カヒール・シング)と呼ばれている場所を同定地としておられるからである。そこに載る氏が撮った「シングの椅子」の写真のキャプションに、『ほぼ円形の石積みのシェルターの内部に入ると、こじんまりと居心地がよく、崖上にあるので眺望絶佳』とある。さすれば、栩木氏は現地でここを見、恐らくそこで誰かからこの「椅子」(岩小屋)の機能を説明されたものと思われ、その点からはやはり、これは海事用・海難用の物見のための岩小屋と理解するのが妥当であろうと思われる。因みにかつてアランを旅した時、私は残念なことにここを訪ねていない。

「馬を海岸まで曳いて行くために、一艘のカラハを持つて行かうとした。」原文は“They wanted a curagh to go with them to tow the horses on to the strand”。これは今までに何度も描写されているように、アラン諸島では海岸や港近くが浅いために、大型の船は入港出来ず、しばしば出て来る小型のカラハで人や荷を運搬する。南島(イニシーア島)に着いた際、そのように馬を陸揚げするために、このカラハが必要なのである。

「一人の若者が自分が行くと云ふので、その男に繩をやり、漁船の後へ附けて曳いて行くことになつた。」空のカラハを曳航することは、恐らく勝手に波に動かされるために出来ないのであろう。そこで縄で漁船と結んだ上、カラハを操舵するために一人の若者が乗った、という意味である。

「繩を放してしまへ、さうしなけりや、舟をひつくり返してしまふぞ」瀬戸の荒波と複雑な流れが、漁船と曳航するカラハの一体性を阻害し、カラハが木の葉のように弄ばれて、ローリングやピッチングを繰り返して、転覆の危険性が高まったため、曳航索を放してカラハを自立させた方が、安定するからである。しかし既に浸水しており、しかも漕ぐために必要な一対の櫂も恐らく流されて一本しかなく、操舵不能に陥り、横波を喰らって転覆したのである。

「船が再び彼に近づくまでに三度目に沈んで」言わずもがなであるが、船が再び彼に近づいていく途中、沈んでは海面に首を出し、出しては沈むというのを二度繰り返したのを彼らは見た。が、三度目は沈んだまま、「それつきり姿は見えなくなつてしまつた。」という意味である。

「誰か彼の死後出逢つた人があるかと私は聞いた」という部分は、面白い。もしかすると、島では、死後、ある程度の時間が経過しないと、霊体は顕在化しないと考えられているのかもしれないことを示唆しているようにも読めるからである。

「併し妙な話があるよ。」以下の少年の語る怪異譚は以下の三つの部分から成り、三番目がこの手の当時の都市伝説としては極めて特異である。何故なら、話者の少年自身の体験談だからである。

①「その日、彼が海に行く前、犬が來て岩の上に坐り、彼の傍で鳴き出した。」“Before he went out on the sea that day his dog came up and sat beside him on the rocks, and began crying.”。その事故が起こった日、この若者が海へ出て行く直前、彼の飼っている犬が、普段は決してそんなことはしないのに、岩の上に立っていた彼の側へやってきて坐ると、しきりに吠え出した事実。この犬の遠吠えを不吉とする伝承は続く少年の語りで、一般的なものであることが示される。これはヨーロッパに限らず、本邦でも犬の遠吠えを不吉とする伝承は一般的にあり、例えば福岡などでは野犬が遠吠えをすると翌日に村から死人が出るという。

②「馬が船卸臺に來た時、一人のお婆さんが、以前に溺死した息子が、その中の一匹に乘つてゐるのを見た。お婆さんはその見たことを云はずにゐると、その男は目分の馬を最初に取り、その次にその馬を取つて、それから出かけて行つて、溺れたのさ。」“When the horses were coming down to the slip an old woman saw her son, that was drowned a while ago, riding on one of them, She didn't say what she was after seeing, and this man caught the horse, he caught his own horse first, and then he caught this one, and after that he went out and was drowned.”。イニシーアへ送る候補の馬が港の船卸台のところまで運ばれてきた時、そこに居た一人の老婆が、少し前に溺死した彼女の息子が、その中の一匹の馬に跨っているのを一瞬見た(ように思ったのであろう)。彼女は縁起でもないからそのことを黙っていたのだけれども、見ていると、その若者は馬を選び出すのに、まず彼の持ち馬を最初に選び、二番目にさっき彼女の死んだ息子が騎っていた馬を、若者は選んだ。そうして海へ出て行って溺れた、という事実。これは老婆によって語られた後日譚であろうから、本怪異譚の中でも後から付随したものであろう。

③「二日たつてから、私はこんな夢を見た。それは彼が「キヨーン・ギャネ」(砂の岬)で發見されて、原の家へ運ばれて、革草鞋を脱せられて、それを乾すために釘に掛けたといふ夢だつた。後で彼が見つかつたのは、あなたは聞いたでせうが其處だつたのです。」“Two days after I dreamed they found him on the Ceann gaine (the Sandy Head) and carried him up to the house on the plain, and took his pampooties off him and hung them up on a nail to dry. It was there they found him afterwards as you'll have heard them say.”。これが本話の極め付けだ。私、則ち話者である少年のオリジナルな怪異譚なのだ。非常にいい。私のオリジナルな邦訳を試みてみる。

「……それから、ですね……彼が行方不明になって、二日後のことなんですけど……僕、不思議な夢を見たんです……その夢は――

……彼の遺体が『砂の岬』にうち揚がっているのが見つかるんです……

……そうして……その遺体は野っ原の彼の家(うち)へと運ばれて行って……

……そうして……画面がアップになって……遺体から革草鞋が脱がされ……

……そうして……それが梁に打ち込まれた一本の大釘にぶら下げられて……

……そうして……それがぶらんぶらんと揺れながら……雫を垂らしながら……乾かされてる……

――っていう、もの凄くリアルな夢だったんです……で……ねえ、シングさん……シングさんは、もう聴いてるでしょうが……それよりずうっと後になって……彼の遺体が揚がったのは……『砂の岬』……だったんですよ……」

Ceann gaine”の“Ceann ”はネット上のネィティヴの発音を聴くと「キャン」と聴こえる。栩木氏は「キヤン・ガニヤウ」とルビされている(「キャン・ガニャウ」か)。この『砂の岬』は恐らく砂浜海岸のある岬ではなく砂洲か砂嘴ではないかと思われる。また「原の家」“the house on the plain”というのは、実は私は民俗社会の村の中の呼び名(特に同姓の多い村)にしばしば見られる(例:「川曲りの~」「北浜の~」)、地形を以て呼称する固有の地所名ではないかと推測している。

「牡雞か牝雞が家の中で何かを壞はすと誰かが死ぬ」というのは、これは直観であるが、西洋では一般的なものなのかも知れない。タルコフスキイの「鏡」で、そうした映像があり、そこに私は言いようのない不吉さを感じた。本邦ではニワトリが夜間に鬨を挙げると凶事や変事が起こるという伝承は広く知られるが、「家の中で何かを壞はすと」というシチュエーションのジンクスは、私は聞いたことがない。もしあるようならばここに掲げたい。識者の御教授を乞うものである。

「或る時、三人の男が夜、カラハで出かけた。すると大きな船がこつちの方へやつて來る。みんな驚いて逃げようとしたが、ずんずん近づいて來て、とうとう一人の男が、そつちへ向いて十字を切ると、それつきり見えなくなつたさうだ。」これは洋の東西を問わず存在する。幽霊船や本邦では船幽霊の一形態として知られる。

「パッチ・ルア」原文“Patch Ruadh”。ゲール語の“Ruadh”は英語の“red”であるから、「赤毛のパッチ」という綽名である。“Patch”は正式な名で、普通は通称の“Pat”「パット」で呼ばれる。

「ブローガ・オルダ(革の長靴)」“brogaarda (leather boots)”。栩木氏は『ブローガ・アーダ』と音写されている。

「線を引くための三つの石」原文“three stones they have to mark the line”。しかし日本語としてはちょっと奇妙だ。これは彼等独特のボール・ゲームの競技場のラインとしての「境界を示すための三つの置き石」であろう。

「妖精達がボール遊びをする」については、ミユシャ氏のHP「妖精辞典 夜明けの妖精詩」に、“Ganconer”・ゲール語“Gean-cannah”・英語“The Love Talker”・和名「ガンコナー/言い寄り魔/恋を語る人(ラヴ・トーカー)」というアイルランドの妖精を挙げて、この『ガンコナー達は、普通の[群をなす妖精達(トルーピング・フェアリーズ)]と全く同じ様に多勢で現れ、湖の底の町に住み、ボールを投げて遊び、人間の牛を盗んでは、その後に丸太を残していく』とあるから、妖精たちは一般にボール遊びが好きらしい。]

退職せり――私の総ての教え子たちに感謝します――

小生は本日を以て55歳で早期勧奨退職を致し、完全なる野人と相成った。

足の不具合な妻と父、また私自身も7年前に折った右腕の後遺症が発症して、曰く言い難い微妙な三人家族であるが、

三人四脚+元気一匹(ビーグル犬アリス)

で残る人生を楽しく歩まんとす。

――私の総ての教え子たちにここに感謝の意を表します――

以後は私のHPとブログが、私の好きな学びのフィールドとなる。

――向後とも宜しく御附き合いの程、お願い申し上げます――

   2012年3月31日 藪野直史

(追伸:たかだか55で離職する者が偉そうなことを申し上げるのも烏滸がましく、離任式には出席致しません。御来駕はもとより花卉その他もどうか御無用に願います。なお、既に生花を戴いているかつての教え子のIさんには心より感謝しております。「ありがとう!」。)

2012/03/30

もう俺を

先生とは呼ぶな/呼べない

だから

僕は君らと

同じ だ

いや

僕は君ら程には知的でない

その代り

僕は

君らと同等には愚劣に「ヘン」だ

いや

同等以上に最下劣に「ヘン」だ

これはテツテ的に真実なんだ

だから さ

一緒に

お前も俺も

とことん――魂のアナキスト――たろうでは、ないか!!!

俺が愛したのは

生徒としての君らではない

人間としての君らである

そこに恋愛感情があったことは

言うまでもない

それを

君らが拒否するなら

それはそれでよい

しかし

それでも

僕は君らを

確かに――愛している

それは

誰にも断罪出来ない

何故か?

それは僕が僕であるための存在証明(レゾン・デ・トール)だからに決まってるじゃないか!!!

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (8)

 此處の人達はお互ひ同志にもまた子供達にも親切であるが、動物の苦痛には冷淡で、また人が 苦しんでゐても危險でない時は、その苦痛に同情しない。女の子が齒痛で顏を曲げて泣き喚いてゐるのに、母宗は爐の向う側でその子を指しながら、その有樣を面白がるかのやうに、笑つてゐるのを時時見た。

 二三日前、マッキンレー大統領の死に就いて語つた時、私は暗殺者を殺すアメリカ式の方法を説明した。すると大の男が、大統領を殺した者はどの位の時間で死ぬだらうかと聞いた。

 「お前さんの指を彈くくらゐの間にさ。」 私は云つた。

 「なにも」その男は云つた。「電線などでやらなくても、同じやうに首は絞められるだらうがなア。王樣や大統領のやうな人を殺す奴は、自分も殺されることはわかつてゐる筈だから、樂に死ねば儲け物をさせるだけだ。三週間もかかつて死ぬのが當り前だ。さうすれば世の中に、そんなことをする奴は段段となくなるだらう。」

 人人が汽船を待つてゐる時、般卸臺で二匹の犬が喧嘩をすると、みんな面白がつて、激しい嚙み合ひを續けさせようとあらゆることをする。

 驢馬が動き出さないやうに、頭その蹄に縛りつけるのは、非常な苦痛を起させる仕方に違ひない。又いつか、或る家へ行つた時、其處にゐる女たちがみん膝をついて、生きた鴨や鵞鳥の羽根をむしってゐるのを見たことがあつた。

 苦痛のある時、人はその感情を隱したり、抑へようとしたりしない。或る爺さんは、此の冬病氣であつたが、「頭の痛かつた時」その唸り聲が、道の何處まで聞こえたかを教へようと云つて、私を案内した事があつた。

 

 

Although these people are kindly towards each other and to their children, they have no feeling for the sufferings of animals, and little sympathy for pain when the person who feels it is not in danger. I have sometimes seen a girl writhing and howling with toothache while her mother sat at the other side of the fireplace pointing at her and laughing at her as if amused by the sight.

A few days ago, when we had been talking of the death of President McKinley, I explained the American way of killing murderers, and a man asked me how long the man who killed the President would be dying.

'While you'd be snapping your fingers,' I said.

'Well,' said the man, 'they might as well hang him so, and not be bothering themselves with all them wires. A man who would kill a King or a President knows he has to die for it, and it's only giving him the thing he bargained for if he dies easy. It would be right he should be three weeks dying, and there'd be fewer of those things done in the world.'

If two dogs fight at the slip when we are waiting for the steamer, the men are delighted and do all they can to keep up the fury of the battle.

They tie down donkeys' heads to their hoofs to keep them from straying, in a way that must cause horrible pain, and sometimes when I go into a cottage I find all the women of the place down on their knees plucking the feathers from live ducks and geese.

When the people are in pain themselves they make no attempt to hide or control their feelings. An old man who was ill in the winter took me out the other day to show me how far down the road they could hear him yelling 'the time he had a pain in his head.'

 

[やぶちゃん注:「マッキンレー大統領」“President McKinley” ウィリアム・マッキンリー・ジュニア(“William McKinley, Jr.” 1897年~1901年)は第25代アメリカ合衆国大統領。最後の南北戦争従軍経験のある大統領であり、19世紀最後にして20世紀最初の大統領でもある。マッキンリー大統領ニューヨーク州バッファローのテンプル・オブ・ミュージックで、開催されていたパン・アメリカン博覧会に出席した1901年9月6日、無政府主義者“Leon Czolgosz”(レオン・チョルゴッシュ)に2度銃撃され、狙撃から6日後に容態が急変し、9月14日に死亡した(副大統領セオドア・ルーズベルトが大統領職を継ぐ)。マッキンリーは暗殺されたアメリカ合衆国大統領四人のうちの三人目に当たる。チョルゴッシュの裁判は9日後の9月23日に始まり、弁護士は精神異常を示唆したが、陪審員は一時間半の審議で有罪を評決、926日に殺人について有罪が宣告されて1029日に電気椅子による死刑が執行された。今回のシングのアラン帰還はチョルゴッシュの裁判の始まる直前であるから、死刑の話は推測の段階である(以上はウィキウィリアム・マッキンリー及びマッキンリー大統領暗殺事件を参照した)。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (7)

 今朝、起きると、家の人達は皆彌撒に出かけてしまつて、戸は外から鍵がかけられてあつた。

 それで明るくするために戸を開けることが出來なかつた。

 こんな小さな家に、たつた一人でゐることになつたらと、妙に考へながら、私は殆んど一時間近くを、火の傍に坐つてゐた。此の家の人達と此處に坐りつけてゐるために、此の部屋がたつた一人人で住んで仕事をすることが出來る場所とは、以前決して考へたことがなかつた。棰木や壁の白さがぼんやり見える位の明るさが煙突からはひつて來る中に、私は暫く待ちながら、何とも云はれない悲しい氣特になつて來た。と云ふのは、此の世界の表面にある小さな片隅にも、またその中に住んでゐる人たちにも、私たちには永久に窺ひ知ることの出來ない平和と尊嚴を持つてゐると思つたからであつた。

 うつらうつらしてゐるうちに、お婆さんが非常に迫(せ)き込んではひつて來て、私と若い坊さんに茶を入れた。その坊さんは、お婆さんの後少したつて、雨としぶきに濡れながらはひつて來たのである。

 此の中の島と南島を受け持つ副牧師は、骨が折れてまた危險な任務を持つて居る。土曜日の夜――海が穩かな時はいつでも――此の島か或はイニシールにやつて來て、日曜の朝の彌撒を重な仕事とする。それから、食事せずに他の島へ渡り、再び彌撒をする。それゆゑ、二同の渡航に時時荒れて危險な海に出逢つたりして、アランモアに歸る前、急いで食事するのが、正午頃になる。

 二週間前の日曜のこと、私が煙草を吹かしながら日のあたる宿の外で休んでゐると、大そう親切さうで愛橋のある副牧師が、濡れて疲れて、最初の食事を取りにやつて來た。暫く私の方を見ゐて、それから頭を振つた。

 「ねえ、」彼は云つた。「あなたは今朝聖書をお讀みになりましたか?」

 私は讀まないと答へた。

 「おや、さうですか、シングさん、」彼は續けて云つた。「あなたがもし天國へ行くやうなら、私たちはひどく笑はれる事でせう。」

 

 

When I got up this morning I found that the people had gone to Mass and latched the kitchen door from the outside, so that I could not open it to give myself light.

I sat for nearly an hour beside the fire with a curious feeling that I should be quite alone in this little cottage. I am so used to sitting here with the people that I have never felt the room before as a place where any man might live and work by himself. After a while as I waited, with just light enough from the chimney to let me see the rafters and the greyness of the walls, I became indescribably mournful, for I felt that this little corner on the face of the world, and the people who live in it, have a peace and dignity from which we are shut for ever.

While I was dreaming, the old woman came in in a great hurry and made tea for me and the young priest, who followed her a little later drenched with rain and spray.

The curate who has charge of the middle and south islands has a wearisome and dangerous task. He comes to this island or Inishere on Saturday night--whenever the sea is calm enough--and has Mass the first thing on Sunday morning. Then he goes down fasting and is rowed across to the other island and has Mass again, so that it is about midday when he gets a hurried breakfast before he sets off again for Aranmore, meeting often on both passages a rough and perilous sea.

A couple of Sundays ago I was lying outside the cottage in the sunshine smoking my pipe, when the curate, a man of the greatest kindliness and humour, came up, wet and worn out, to have his first meal. He looked at me for a moment and then shook his head.

'Tell me,' he said, 'did you read your Bible this morning?'

I answered that I had not done so.

'Well, begod, Mr. Synge,' he went on, 'if you ever go to Heaven, you'll have a great laugh at us.'

 

[やぶちゃん注:「と云ふのは、此の世界の表面にある小さな片隅にも、またその中に住んでゐる人たちにも、私たちには永久に窺ひ知ることの出來ない平和と尊嚴を持つてゐると思つたからであつた。」原文は“for I felt that this little corner on the face of the world, and the people who live in it, have a peace and dignity from which we are shut for ever.”。日本語がおかしい。主格なしで「~にも、……にも、――持つてゐる」と続くからである。しかし逆に、その不自然さにこそ気付けば、この訳文の意図は英文がなくてもそこそこ推定で汲むことが出来るのである。宿の狭隘で殆んど奈落の地獄のような暗闇に閉じ込められたシングは、「この世界という広大な地球表面の、そのまた小っぽけなアラン島という片隅には――また、その島の片隅に肩寄せ合って住んでいる人たちには――永久に窺い知ることの出来ない純な平和とまことの尊厳が確かに生きていて――しかしそこから私たち文明界の異邦人は、所詮、遮断されているという感懐であった」というのである。

「大そう親切さうで愛橋のある副牧師」は直前の「副牧師」と同一人物であろう。「同じ副牧師」と入れたい。]

2012/03/29

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(5)

 例の小穴の『二つの絵』のなかに、芥川が、自分で死をえらんだ一〔ひ〕と月〔つき〕ほど前に、小穴を浅草の茶屋につれて行って、小穴に「芸者E」を紹介するところがある。「芸者K」とは、小亀という芸者で、私もこの女をよく知っている事は、前にちょっと書いたか、と思う。書いた文章のなかに、つぎのような事を書いている。

 芸者Eを見せた以前、ホテル事件の後幾何〔いくばく〕の日も経過してゐないうちに、一日〔いちにち〕少〔すこ〕し歩〔ある〕かうと夕方の下宿から自分を彼が誘つた。

「もうこれで自分の知つてゐる女の一〔ひ〕ととほりは君に紹介してしまつたし、もう云つておく事もないし、すると、……」

 下宿の外に出てからかう云ひ出した彼の心は、何気〔なにげ〕なしのやうに、各自一〔ひと〕つの性格を持つた人々ではあるが、比較的周囲の近くからの女、例へば、K夫人、S夫人、S子、Kのおかみさんといつたやうに、彼のいふ賢い女の名を数へた。

 この文章の終りの方の、S夫人は例の謎の女であり、S子はせい子であり、Kのおかみさんは『小町園』のおかみさんである事は、想像がつくが、K夫人だけは私に見当がつかない。さて、ここで、ついでに述べると、さきの座談会の記事の中〔なか〕で、久米が「軽井沢で逢つてゐる女の人」と云っているのは、私の臆測ではあるが、アイルランドの文学の翻訳を幾つかした、松村みね子ではないか。

[やぶちゃん注:「芸者Eを見せた以前、ホテル事件の後」「芸者Eを見せた」は小穴を連れて谷中の新原家墓参をし、浅草料亭「春日」に行って愛妓子亀と別れを告げた昭和二(一九二七)年六月二十五日、「ホテル事件」先立つ同年四月十六日(七日とも)に平松麻素子との帝国ホテルでの心中未遂を指す。

「比較的周囲の近くからの女、例へば、K夫人、S夫人、S子、Kのおかみさんといつたやうに、彼のいふ賢い女の名を数へた」という小穴の「K夫人」は片山廣子、「S夫人」はひとまず佐野花子、「S子」はひとまず平松麻素子、「Kのおかみさん」『小町園』の女将野々口豊と考える。「S夫人」は一見、秀しげ子と思ったが、既に自死を決した芥川龍之介が「彼のいふ賢い女」にいっかな彼女を挙げることはあり得ないと思われ、すると小穴が直接は知らない(既にこの頃は佐野夫妻とは疎遠にはなっていたものの)過去に愛した既婚女性を挙げたとしも私はおかしくはないと思うのである。「S子」は「ますこ」の「す」のSで、彼女は未婚であるから「子」としておかしくなく、この羅列の中に、直前に自殺未遂まで企てた身近であった平松麻素子が入らない方が不自然だからである。宇野の言う「小林せい子」は先に述べた通り、あり得ないと私は判断する。]

[やぶちゃん注:以下の「後記」は底本では全体が一字下げ。]

(後記-芥川が、大正十四年の八月二十五日に、軽井沢から、小穴隆一にあてた手紙のなかに、「……軽井沢はすでに人稀に、秋冷の気動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日帰る筈、片山女史も二三日中に帰る筈、」という文句がある。ここで、愚鈍な私は、本文のなかで、「K夫人だけは見当がつかない、」と書いたが、このK夫人は、臆測すれば、片山ひろ子ではないか、と気がついたのである。片山ひろ子は、歌人で、翻訳する時に「松村みね子」という筆名を使ったのである。さて、臆測をもう一そう逞しゅうすると、堀 辰雄の処女作『聖家族』に出てくる「細木〔さいき〕といふ未亡人」は、片山ひろ子のような人を、小説に都合のよいように、使ったのではないか、とまで思われるのである。片山ひろ子の『軽井沢にて』のなかに、「影もなく白き路かな信濃なる追分のみちのわかれめに来つ」、「われら三人影もおとさぬ日中〔につちゆう〕に立つて清水のながれを見てをる」などという歌がある。)

[やぶちゃん注:『芥川が、大正十四年の八月二十五日に、軽井沢から、小穴隆一にあてた手紙のなかに、「……軽井沢はすでに人稀に、秋冷の気動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日帰る筈、片山女史も二三日中に帰る筈、」という文句がある。』この書簡を書いた時こそ、芥川龍之介は切ない廣子への恋情を苦渋の中で断ち切ろうとしていたのである。やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注を是非、参照されたい。

「堀 辰雄の処女作『聖家族』に出てくる「細木〔さいき〕といふ未亡人」は、片山ひろ子のような人を、小説に都合のよいように、使ったのではないか」よく知られているように言わずもがな、その通りである。私の「聖家族〈限定初版本やぶちゃん版バーチャル復刻版〉」でお読み戴ければ幸いである。

「軽井沢にて」の以下の短歌は、片山廣子の昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「日中」に初出し、後、第二歌集『野に住みて』(昭和二十九(一九五四)年)の「輕井澤にありて」にも採録された。但し、「日中」のルビは歴史的仮名遣ならば「につちう」が正しい。]

 私がこう云うのは、室生犀星の、たしか、『青い猿』という、その中に芥川らしい人物の出てくる、長篇小説のなかに、軽井沢のホテルで松村みね子が出てくる所があるので、せんだって室生に逢った時、その話をすると、室生は、「芥川は、松村さんと一しょにコオヒイなど飲むと目立つのでね、……と、云ったよ、」と、云ったからである。しかし、松村みね子は、本名を片山広子といって、佐佐木信綱に師事しながら、

  をとこたち

  煙草のけむりを吹きにけり

  いつの代とわかぬ山里〔やまざと〕のまひるま

などという歌をよむ人であるが、明治十一年に東京の麻布で生まれているから、芥川より十四五も年上〔としうえ〕である。といって、芥川がしたしくしていた、春日とよも、芥川より十〔とお〕以上も年上〔としうえ〕であるから、芥川は松村みね子ともしたしく附き合っていたのであろう。

[やぶちゃん注:「をとこたち」の短歌も片山廣子の昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「日中」に初出し、後、第二歌集『野に住みて』(昭和二十九(一九五四)年の「輕井澤にありて」にも採録されたもの。但し、何れもこのような三行分かち書きではない。私のテクストを参照。

「春日とよ」本名、柏原トヨ(明治十四(一八八一)年~昭和三十七(一九六二)年)は既出の料亭「春日」の女将、後に小唄春日派初代家元。函館生。先に芥川がちらりと述べているように、イギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、三歳の時に父は帰国、母と上京して十六歳で浅草の芸者となる。大正十(一九二一)年に浅草の料亭「春日」の女将となった。その後、小唄演奏家として知られるようになり、昭和三(一九二八)年、小唄春日流を創立した。]

 ここで、右に上〔あ〕げた女人たちの顔を芥川の好〔この〕んだ二〔ふた〕つの型に、しいて、わけてみると、つぎのようになる。

 芥川夫人、『小町園』夫人、松村みね子――以上の人たちは、はっきり、古典型であり、春日とよは古典型にちかく、小亀は古典型六分半浪曼型三分半であり、謎の女とせい子とはあまりパッとしない浪曼型であろう。

 ところで芥川は、小穴に、気質、顔つき、皮膚の色、爪の色まで、「江戸の名残〔なご〕をつたへた最も芸者らしい芸者である、」とまで褒めている、小亀を、大正十四年の秋の或る日、私と一しょに浅草の或る茶屋に行った帰り道で、今のさきまで其の茶屋で二人が逢っていた、小亀を、道をあるきながら、いきなり、私に、「君〔きみ〕、小亀をやろうか、」と、云った。

私は、これを聞いて、芥川は小亀がかなり好〔す〕きらしいな、と思った。

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(4)

 芥川の『或阿呆の一生』のなかに女の事を書いているところが七箇所ぐらいある。そうして、その中〔なか〕に、「彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた、」という文句が二箇所も、(『月』と『スパルタ式訓練』とに、)出てくる、それから「彼女の顔は不相変〔あいかわらず〕月の光の中〔なか〕にゐるやうだつた」(『雨』)というのもある。つまり、三つとも殆んど同じ文句である。それで、例の『芥川龍之介研究』(座談会)でも、それが問題になっている。それで、そこを次ぎに抜き書きしよう。

久米。『或阿呆の一生』の中に女が三人か四人出てくるだらう……

 廣津。だけど、あのホテルを出て後悔するかと聞く女……お月様〔つきさま〕のやうだと書いてある女……しかし、あれはどうもお月様の感じが全然ないからね。

 久米。あれはまた違ふんだ。君の云つてるのは気違ひの娘といふ方だらう。遺書の中にある女は、――スプリング・ボオドに使はうといふのはまた違ふんだ。僕に『す』とまではいふんだが、それから先きはどうしても云はん。……白蓮がよく知つてゐる。『あの方にはお気の毒しました……』と僕が知つてゐるやうに云ふんだが、どうもわからん。……それから、もう一人の女は廣津が今いつたのは京都だらうと思ふ。

 廣津。お月様といふのは、鎌倉の方面だらう。

 川端。月光のやうな感じがするといふこと、あれは二度も三度も書いてゐる。

 廣津。さうして、後悔するかしないかといふ、あれがどうもわからんがね。

 久米。聞いてみればわかるだらう。×××××××、軽井沢で逢つてゐる女の人は×××××××、それから、向うの人力車からすれちがつて、春の山が見えるといふのは、京都の××××お妾ぢやないかと思ふ、ちよつとそんな惚気〔のろけ〕を云つたことがあつた。

 廣津。君と菊池君と宇野と僕が上野の山下で飯を食はうと云つて、芥川のステッキを見つけて、それで、芥川芥川とどなつた事があつたね。

 久米。あれは『おいねさん』窪川いね子だよ。

 廣津。さうぢやない、その時、大丸髷が唐紙〔からかみ〕の向うにちよつと見えて、いいえ、芥川さん見えてをりません、……それで、四畳半へわれわれ押しこめられて、座敷のあくのを待たされた。

 徳田[註―秋声先生]。その大丸髷といふのは誰ですか。

 廣津。それは大抵わかつてゐるのだけれど、君は、(久米氏に、)よく知つてゐる、鎌倉だよ。宇野だけが知つてゐる。……宇野に何度聞いても云はない。

[やぶちゃん注:これを読むと、芥川龍之介を廻る女性関係のゴシップが憶測から連鎖して如何に錯綜していたかがよく分かる。以下、長くなるが宇野の叙述に先行して整理したい(宇野の叙述には誤りもあるので)。

まず、久米の言う『あれはまた違ふんだ』という〈月光の女複数説〉――後文で宇野が「芥川は、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないか」と述べる見解は――基本的に正しい。芥川が複数の女性を、それもかなり長いスパンの中での複数の恋した女性を「月光の女」と呼んでいる(少なくとも「或阿呆の一生」の中で)ことは最早、間違いない事実である。而して、それが誤解の連鎖を生んでいることも事実であるが、私はそれを何ら問題としないのである。何故なら芥川龍之介は小説家だからだ。「或阿呆の一生」は芥川龍之介の辿り着いた最後のオリジナルな稀有の独特な告白形式の立派な小説である。但し、芥川龍之介は少なくとも、それぞれの瞬間での「月光の女」は現存在として実在の人物を名指すことが出来るようには書いている(後述しているように宇野は性格上、「月光の女」は架空の理想像、『絵空事』として拡散させ、個別に指し示せない存在――というよりそのような価値を認めない傾向がある。いや、それはそれで芥川龍之介の女性観を捉える上では意義のあるものではあると私も認めるし、これから私が示すようにそれを実名を挙げて名指すことに意味があるかどうかも私自身、実は一面、疑問を持ってはいる)。ともかく〈月光の女〉の候補と、それを詠んだ章句を線で(一対一ではないが)結ぶことは可能だということである。但し、「或阿呆の一生」中の〈月光の女〉は複数の異なった時系列の女性をわざとダブ(トリプ)らせて描いていると思われ、また、後に示される定型詩の場合も、私は、芥川は〈昔の月光の女〉を詠んだものを、〈その時点での月光の女〉に対して、完全に若しくは部分的に巧みにリサイクルしてリユースして用いていると考えている。あたかも芥川龍之介の小説の多くに種本が存在するように、である。そして私はそれも問題にしない。我々の愛情は常に新鮮で一度きりのオリジナルで――あろうはずが――ない、と私は考えているからである。――愛の表現を永遠にデフォルメし続け、素朴な感情を粉飾し続けることなんぞが出来る輩の方こそ、私には救い難い「噓」がある――と言いたいのである。

以下、この座談で挙がっている女性を確認してみよう。但し、間違ってはいけないのは、芥川龍之介がここに挙がっている女性と総て特別な関係を持っていたという事実の提示ではないので注意されたい。

「気違ひの娘」歌人秀しげ子(明治二十三(一八九〇)年~?)。既婚者。夫は帝国劇場電気部主任技師秀文逸。既出の、遺書にも登場するファム・ファータルである。

「スプリング・ボオドに使はうといふの」「僕に『す』とまではいふ」「白蓮がよく知つてゐる」妻芥川文の幼馴染み平松麻素子。「白蓮」は歌人柳原白蓮のことで、平松は彼女と親しくしていた。未婚。彼女とは実際に帝国ホテルで自殺未遂をしているが、彼女は寧ろ、妻文の意志で自殺を志向していた芥川の一種の相談相手兼監視役としての存在が強い。「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の、

 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

は彼女であると考えられる。但し、廣津の言う「ホテルを出て後悔するかと聞く女」、則ち、「二十三 彼女」の、

 或廣場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のある體(からだ)にこの廣場を歩いて行つた。大きいビルデイングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。

 彼は道ばたに足を止め、彼女の來るのを待つことにした。五分ばかりたつた後(のち)、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。が、彼の顏を見ると、「疲れたわ」と言つて頰笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明い廣場を歩いて行つた。それは彼等には始めてだつた。彼は彼女と一しよにゐる爲には何を捨てても善(よ)い氣もちだつた。

 彼等の自動車に乘つた後、彼女はぢつと彼の顏を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顏はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。

は、必ずしも(という留保で)麻素子とは捉えられないというのが、今の私の印象ではある。

「京都」「京都の××××お妾」この久米の言う女性は私には不詳であるが、これは実は次の野々口豊と同一人物である可能性が高いように私は思っている(二〇〇六年彩流社刊の高宮檀「芥川龍之介を愛した女性」に京都での野々口豊との遭遇の可能性が考証されている)。

「鎌倉の方面」「大丸髷」「鎌倉だよ。宇野だけが知つてゐる」野々口豊(明治二十五(一八九二)年~昭和五十(一九七五)年)。既婚者。直後に示される如く、夫野々口光之助の営む鎌倉にあった料亭小町園の女将である。後に宇野も語る大正十五・昭和元(一九二六)年の暮れから翌年二日にかけての「小さな家出」の相手であり、相応に龍之介からの恋情は深いものがあった。

「×××××××、軽井沢で逢つてゐる女の人は×××××××」歌人にしてアイルランド文学者片山廣子(松村みね子)。「越し人」である。既婚であるが、晩年の芥川龍之介が恋心を寄せた時は既に未亡人であった。私は個人的に晩年の芥川龍之介が真に恋した相手は彼女であったと思っている。それについては私のHPの芥川龍之介及び片山廣子のテクスト注やブログ・カテゴリ「片山廣子」を参照されたい。

「『おいねさん』窪川いね子」既出の後の作家佐田稲子(明治三十七(一九〇四)年~平成十(一九九八)年)。料理屋の女中だった頃(大正九(一九二〇)年頃)からの馴染みであり、自殺の三日前に自殺未遂の経験を芥川龍之介から問われたりもしているが、彼女とは恋愛関係にはなかった。

また、芥川龍之介が〈月光の女〉と若き日に直に呼称した可能性が極めて高い女性として、

横須賀海軍機関学校時代の同僚で物理学教授であった佐野慶造の妻で歌人の佐野花子(明治二十八(一八九五)年~昭和三十六(一九六一)年)

がいる事実は挙げておく必要がある。〈月光の女〉としての彼女について、私は過去に自身のブログの「月光の女」芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察」『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』などで考察を重ねてきた。そちらも是非、参照されたい(但し、概ね、芥川龍之介の研究者は佐野花子のそれを一種の受身の恋愛妄想として捉え、眼中に置いていない。妄想や思い込みは多分にあるものの、彼女のことを芥川も愛していたと私は踏んでいる)。

最後に言い添えておくと、直接に〈月光の女〉との関連はないものの、

芥川の恋愛観・人生観に大きな影響を及ぼした失恋(芥川家の反対による)相手吉田弥生(明治二十五(一八九二)年~昭和四十八(一九七三)年)

や、二十一歳頃のものと思われる龍之介のラブ・レターが現存する、

彼女に先行する初恋の相手とされる新原家の女中であった吉村ちよ(明治二十九(一八九六)年~昭和四(一九二九)年)

などは龍之介の思春期の致命的とも言える女性観形成に非常に重要な人物である。

既出の小亀などの芸妓などを除外すると、他には、

大正十四(一九二五)年頃から翌年二月頃まで日本文学の個人教授を芥川がしていた南条勝代(詳細資料なし)

という女性などが少し気にはなる。が、逆に、宇野の話の既出部分で仄めかされる(若しくは取り上げられている)作家岡本かの子や、谷崎潤一郎の最初の妻千代の妹で谷崎の「痴人の愛」のナオミのモデルとされる小林せい子(小林勢以子)などは、失礼ながら、芥川の恋愛対象の外延からは大きく外れていると私は思っている。]

 この最後の『大丸髷』の一件について、前に少し書いたのを抹削したので、つぎに述べよう。

 やはり、大正十年か十一年頃であったか、たしか、秋のはじめ(まだ残暑)の頃の或る日の夕方、菊池が先頭に立って、久米、廣津、私の四人が、下谷の同朋町の何〔なん〕とかいう大阪料理を食べさせる家にはいって行くと、四人のうちの誰かが「あッ、芥川が、」と云った。さきに述べた、真鍮の鳳凰の頭のついたステッキが玄関のタタキの隅に立てかけられてあったからである。

 そこで、私たちが、いわず語らず、「芥川がこの内〔うち〕にいる、」というような好奇心をいだきながら、二階にあがって行くと、階段をあがったところの右側の部屋に、ちらと、大丸髷の女がむこうむきに坐〔すわ〕っている後姿〔うしろすがた〕が、見えた。咄嗟に、私は、はッと思った。後姿だけで、(今は、もう、はっきり、書こう、)それが、鎌倉の『小町園』のお上〔かみ〕である事がわかったからである。

 私が、はッと思った途端に、唐紙がすうっと締まった。

 やがて、奥の座敷に通〔とお〕されたので、私が、久米にむかって、「あれは……」と云いかけると、久米が、「フウン、」といったような顔をしたので、私は、すぐ、心のなかで、『あの女に久米は気がつかなかったらしいな、』と思ったので、あとの言葉を呑みこんでしまった。

 そこで、久米は、そのまま、だまってしまったが、菊池は、あの甲〔かん〕だかい声で、何度〔なんど〕も、私に、「あれは、誰だ、誰だ、」と聞いたが、私は「後姿だから、見当がつかない、それに、すぐ、唐紙がしまってしまったから、」と、答えた。

 つまり、『大丸髷』の一件とはこれだけの話である、なぜなら、私はその後、芥川に何度か逢ったが、芥川がその時の事を何〔なに〕もいわなかったから、私もその時の事は吹呿〔おくび〕にも出さなかったからである。

 ところで、さきの座談会であるが、あの記事だけで見れは、芥川という男は、遺書の中〔なか〕にまでお歴歴の人人〔ひとびと〕を迷わせるような事を書いた、という事にはなるけれど、あの中で廣津や久米もちょっと指摘しているように、「月の光りの中にゐるやうな女」とは、結局、芥川の『絵空事〔えそらごと〕』であるのである。

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(3)

 さきに、芥川が私を案内した所は、たべ物屋が六分で特別な所が四分、と書いたが、その『特別な所』とは、その頃、芥川ばかりでなく、多くの物ずきな人が、それからそれと、聞きつたえ、云いつたえ、して、そっと、出かけて行った、かくれた家である。

 いつの世にも、『ものずきな人』と、いう者は数多〔あまた〕あるものである。されば、『西鶴俗つれづれ』の中にも、「さりとは至りたる物ずき」という文句があり、『狭衣物語』のなかにも、「いと花やかに物ごのみしたまふ御本性にて」というような文句があるのである。

[やぶちゃん注:「西鶴俗つれづれ」は、西鶴の死後二年後の元禄八(一六九五)年版行の遺稿集。

「『狭衣物語』のなかにも、「いと花やかに物ごのみしたまふ御本性にて」というような文句がある」は「狭衣物語」巻三の冒頭部、洞院の上が、自分の老後の不安もあり、養女今姫君の入内を、夫の堀川の関白大殿〔おほいどの〕に依頼する段に現れる。

まこと、かの大殿御方にかしづかれ給ふ今姫君は、二十にもややあまり給ふままに、いとをかしけげにねびまさり給ふを、母上いとはなやかに物このみし給ふ御本性にて、齋宮〔いつきのみや〕の御ありさま見たてまつり給ふもいとうらやしく、行すゑの心細さも年月にそえてはおぼししらるれば、「この君をかくまで取り寄せつとなららば、おなじくは人なみなみにもてなして、かくさまざまにもてかしづきたまふ御方々のくさはひにもせむかし」など、せちに「人に劣らじ」の御心おきてにて、内裏〔うち〕參りのことなどおぼしよりにけり。

洞院の上は「いとはなやかに物このみし給ふ御本性にて」(何事にも派手好みであられて何より目立つことのお好きな性質〔たち〕であらせられたによって)の意。「齋宮」は狭衣の母。「くさはひ」は「種輩」か。同じ仲間。洞院の負けず嫌いで派手好みな性格が示されるところである。]

 芥川は、この、「至りたる物ずき」の一人〔ひとり〕であった。

私が芥川につれて行かれた『かくれた家』は、下谷の西町の閻魔堂の前の露地の中にもあり、本郷の根津権現神社の境内の炭薪屋であり、小石川の伝通院のちかくの裏町のしもた屋であり、四谷の荒木町のちかくの谷底のような町の中にもあり、その他、いたる所にあった。

[やぶちゃん注:「下谷の西町の閻魔堂」は現在の東上野から下谷辺りにあった旧地名に下谷西町がある。ここにはかつて天台宗薬王山善養寺があり、この寺の閻魔像が江戸の三大閻魔の一つに数えられたことからこう称したが、寺地が鉄道用地となったために、大正三(一九一四)年に寺は西巣鴨に移転している。これはその後のことと思われる。]

 ある日、ある時、芥川と一しょに町をあるいていると、突然、芥川が、「君、僕のゆく所へつきあってくれないか、」と私に云った。「どこだ。」「だから、今いったじゃないか、僕のゆく所だよ。」

 そこで、私は、だまって、芥川より半歩ぐらいおくれて、芥川とおなじように、早足であるいた。こういう時は、ふだんお喋〔しゃべ〕りの芥川が、啞〔おうし〕のように無口になった。

 御徒町〔おかちまち〕の交叉点を横ぎって、すでに日のくれた、うす暗〔ぐら〕い、ごみごみした、町を、横町〔よこちょう〕から横町へと、早足にあるきながら、私は、ふと、芥川という男は、ふしぎな男である、が、また、至極〔しごく〕おもしろい男であると思った。そうして、ときどき、道ゆく荒〔あら〕くれた人に突〔つ〕きあたられたり、方方〔ほうぼう〕で臭〔くさ〕やの乾物〔ひもの〕を焼いている臭いになやまされたり、しながら、いつか、芥川の気もちと私の気もちは一〔ひと〕つになってしまったようであった。

 が、やがて、芥川が、ふるびた閻魔堂の前で立ちどまり、ちょいと小首〔こくび〕をひねってから、すぐ私の方〔ほう〕にむかって、腭をふって合〔あ〕い図〔ず〕をしてから、その向〔む〕かいの、やはり、ふるびた格子づくりの家の中〔なか〕に、つかつかと、はいって行ったので、私は、なにか、勝手〔かって〕がちがうような気がした。が、仕方〔しかた〕ないので、芥川の後〔うしろ〕から中〔なか〕にはいると、「ごめんください、」と云う芥川の声で奥から出てきた六十あまりの老婆が、芥川の顔を見るなり、「まあ、どうなすったんです、ずいぶん、お見かぎりですねえ、」と云った。

 これが芥川が『特別の家』につれて行ったはじめである。特別の家とは、いろいろな女が、呼ばれると、ごく内証〔ないしょう〕で、内証の『ハタラキ』をするために、そっと来〔く〕る家の事である。

[やぶちゃん注:これは所謂、「隠し町」、私娼窟である。因みに、江戸の下谷や浅草は天明(一七八一~一七八九)の末まで素人風の最下級の私娼がいた場所として知られ、彼女たちは「蹴転ばし」「けころ」と呼ばれた。]

 私は、もちろん、この老婆の顔つきと言葉によって、すぐ「ははアン、」と、覚〔さと〕った。

 ところで、私などをこういう『特別の家』に案内するのはよいとして、先日、ある会で、こういう芥川の『物ずき』の話がさかんに出て、その時、その席にいた、芥川を尊敬している、佐佐木茂索が、若年の頃、四谷の荒木町のちかくの谷底のような町の中にある『特別の家』に連れて行かれかかった、という話をしたので、魂〔たま〕げたことがあった。

 ある日、昼〔ひる〕すぎに、佐佐木が芥川の後〔あと〕から、四谷の或る停留所で、電車をおりて、一町〔ちょう〕ほどあるいて行くと、むこうから吉井 勇、里見 弴、田中純[註―大正八九年頃、吉井、里見、久米、田中の、四人で、「人間」という同人誌を出した後に、同人以外の人の作品ものせるようになった。すなわちこれは「人間」の同人たちである。]の三人があるいて来たので、芥川が、「やあ、」と声をかけた、すると、その三人のうちの一人が、「君たちは、これから、『あそこ』へ行くんだろう、おれたちは『あそこ』からの帰りだよ、」と云った。それを聞いた温厚で内気であった、佐佐木は、かすかに感づいていた事ではあったが、びつくり仰天した、そこで、目的の『特別の家』に行くのに細い道をいくつも曲〔まが〕ったので、その幾つ目かのまがり角で、佐佐木は「三十六計〔けい〕逃ぐるに如〔し〕かず」と、芥川を、撒〔ま〕いたのである。(「逃ぐべき時に逃ぐるが、兵法中、第一の上策なり」という事を三十になるやならずで心得ていたからこそ、佐佐木は、今日〔こんにち〕の大〔だい〕をなしたのである。)

 

 大正十一年の春の頃であったか、私が、ある日、省線の牛込見附の駅で、ほそい腰かけに腰をかけて、電車のくるのを待っていると、すぐそばに腰をかけていた、いちょう返しの若い女が、膝の上にひろげて読んでいる本が、何〔なん〕と、ストリンドベルヒの、『痴人の告白』であったから、私は、はっと驚いて、その女の横顔を見ると、その女は、川路歌子であったから、思わず、「あッ、」と、声をたてた。すると、その声に、歌子も、目をまるくして私のほうを見て、「まあ、」と小〔ちい〕さい声で、叫んだ。

 私がはじめて川路歌子を知ったのは、川路歌子が、たしか、美術劇場[註―大正四五年頃、秋田雨雀、楠山正雄を看板にして、鍋井克之、その他の美術学生がおこした新劇団で、高田 保も片岡鉄兵も関係した]で、秋田雨雀の『埋れた春』[ウェデキントの『春の目ざめ』風のものである]に、少女の役で、出た時であった。その頃、誰かが、私に、「あの女優は、若いけれど、おもしろいところがあるよ、川路柳虹をすきになったので、『川路』という名にした、という話だから、」と、云った。

 その次ぎに、私が、歌子に逢ったのは、たしか、大正四年の十二月の中頃、西片町に住んでいた時分で、ある晩、今の兵科大学の前のへんをあるいていた時、歌子が佐藤春夫と所帯道具をわけあって持ちながらあるいて来た時である。そうして、その時、私は、佐藤に誘われるままに、追分に近い東片町の露地の中にあった佐藤の新居に、行った。その時、春夫と歌子が話した事を、私は、ふしぎに、いろいろ覚えているが、その中〔なか〕の一〔ひと〕つだけをここに書くと、歌子が、なにかの話のついでに、「あたし、川でも、溝でも、水を見ると、おしっこをしたくなる、」と、云った事である。私が、わざわざ、こういう尾籠〔びろう〕な話を書いたのは、この言葉は、「生きている」と思ったからである。(この歌子は、佐藤の傑作であり、大正の文学の中の傑作である、『田園の憂鬱』の女主人公、E・Y女史である。)

[やぶちゃん注:「西片町」「追分」「東片町」すべて現在の文京区駒込の旧町名。]

 さて、私が、この歌子と、牛込見附のプラットフォオムの腰かけで、逢ったのは、前に述べたように、大正十一年の春の頃であるから、歌子が二十四五歳の時分であろう。その時、私が、「ずいぶんしばらく……今、何をしているの、」と聞くと、歌子は、その私の言葉がおわらぬうちに、「芝浦で芸者をしています、」と、云った。

 その歌子に偶然あった事を、四五日後に、芥川に逢った時、はなすと、芥川は、すぐ、「君、そのうち、芝浦へ行こうか、」と、云った。

 そうして、それから、また、四五日後〔のち〕に芥川は、私をたずねて来て、座につくと、いきなり、(ほかのことは何〔なに〕もいわないで、)「これから、芝浦に行こう、」と、云った。

 ところが、芝浦の或る茶屋にあがって、出てきた女中に、こうこういう芸者がいないか、いたら、呼んでくれ、と云うと、その話はすぐ女中に通じたが、女中は、「その人なら、おりますけど、毎晩、大酒をのんで、いつも、ぐでんぐでんに酔っています、……それに、二三日前から、頭〔あたま〕が痛いと云って休んでいます、」と、云った。

 そこで、仕方がないので、女中にまかして、かわりの芸者を呼ぶことにした。それで、まもなく、芸者が二人〔ふたり〕あらわれた。その二人の芸者を相手に無駄話をしているうち芥川が話の切れ目に、私の耳のそばで、「あのふとっている芸者、ぼくの女房に似てるよ、」とささやいた。

 そのふとっている芸者は、面長〔おもなが〕で、目鼻立ちもちゃんとそろっていたが、いわゆる色気〔いろけ〕がなかった。

 私は、その頃はまだ芥川夫人を知らなかったが、このふとった芸者の顔を見ると、すぐ、これは、芥川の好〔す〕きな女の顔の型〔タイプ〕の一つである、と思った。

 この事は前に述べたかもしれないが、芥川のすきな女の顔は、簡単にいうと、はっきり二つの型にわけることができる。その一〔ひと〕つは、たいてい、面長〔おもなが〕の、目鼻立ちのそろった、古風な、顔であり、他の一つは、やはり、面長〔おもなが〕の、(面長でないのもあるが、)たとい美人であるとしても幾らか欠点のある、(器量はそれほどではないが男ずきのする顔、といわれるような、)顔である。そうして、それを、便宜のために、一つを古典的な顔とし、他の一〔ひと〕つを浪曼的な顔としておく。そうして、もう一つわかりよくするために述べると九条武子、赤坂の万竜[註―谷崎潤一郎の『青春物語』の中に写真まで出ている名妓で、潤一郎の友人の恒川の夫人になった人]ぽん太[註―斎藤茂吉の『三筋町界隈』に書かれてある、これも、名妓で、後、鹿島三河子として踊りの師匠になった。これも茂吉の『不断経』のなかに、写真まで出ている]などがその古典的な顔のそれぞれ代表的なものの一つであり、イギリスのラファエル前派の画家であり詩人である、ダンデ・ガフブリエル・ロゼッティの、名画、『ベアトリイチェの死』、『牧場の楽女』、その他に描かれている女などがその浪曼的な顔の代表的なものの一つであろう。

[やぶちゃん注:「赤坂の万竜」は本名、田向静(明治二十七(一八九四)年~昭和四十八(1973)年)。七歳で東京赤坂花街の芸妓置屋春本の養女となり、お酌(半玉)を経て芸妓になった。明治末頃、「日本一の美人」と謳われ、当時人気を博した芸妓。参照したウィキ龍」に写真が載る。

「ぽん太」本名、鹿島ゑ津子(明治十三(一八八〇)年~大正十四(一九一五)年)。宇野が言うのは新橋玉の家の名妓初代ぽん太。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に貞女ぽんたと称されたという。森鷗外の「百物語」はこの御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に、

  かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび

とあり、芥川龍之介の大正六(一九一七)年十二月一日附書簡(旧全集書簡番号三五六 池崎忠孝様宛葉書)に、

 

  Que m’importe que tu sois sage

  Sois belle et sois triste.

  C. Baudelaie

 

  徂く春の人の名問へばぽん太とぞ

 

    その人の舞へるに

  行けや春とうと入れたる足拍子

 

    その人のわが上を問へるに

  暮るるらむ春はさびしき法師にも

 

  われとわが睫毛見てあり暮るる春

 

    一九一七年日本の詩人思を日本の校書に寄するの句を録す。

 

とある。最初はボードレールの「悲しき恋歌」。「悪の華」所収のこの詩句は、「どんなにお前が貞淑であろうと、それが何になる? ただ美しくあれ! 悲しくあれ!」といった意味である。「徂く春」は「往く春」と同義。季節の移ろいと共に、さすがその面影に射している「ぽん太」の老いをも言う。中田雅敏氏は一九八八年近代文藝社刊「俳人芥川龍之介 書簡俳句の展開」に「ぽん太」について以下の解説をされている。『明治二十四年新橋玉の家から雛妓おしゃくとして出、はやくから嬌名を馳せていたが、一時落籍され座敷に出なかった。再び高座に上ったのは大正七年頃という。いつも洗い髪のようにさっぱりした髪型でほんのりと色気をただよわせていたという。』更に、次の「行けや春」の句については、福原麟太郎の次の文を引用されており、『北州は踊の方ではむつかしいものになっているようだがぽん太は何の苦もなくさらっと踊ってみせた。それが実に美しかった。浮世の垢をすべて洗い落としたような爽やかな踊りで、踊りはああでなくてはならない。』(出典未詳)。「北州」は「ほくしゅう」と読み、清元の曲名である。「北州千載歳壽」で「ほくしゅうせんざいのことぶき」と読む。蜀山人の作詞で、「北州」とは江戸の北、吉原を指す。遊廓吉原の年中行事と風物を詠んだ佳品の名曲。「校書」は芸妓(以上はやぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句の当該句注を一部加筆省略して用いた)。ブログに萬龍とともに本名「谷田恵津」で写真が載る。]

 さて、芥川は、その芝浦の茶屋から帰る道で、例のごとくお喋りをつづけたが、そのうちに、ふと、真面目な調子で、声をひくめて、

君〔きみ〕、さっきの、あの、ふとった芸者のような顔をした女は、人の細君〔さいくん〕になったら、良妻になるよ、」と、云った。

「……君も、むろん、知っているように、オットオ・ワイニンゲルは、女を母婦型と娼婦型にわけているが、……君、だいたい、良妻の亭主は浮気者で、悪妻になやんでいる男は、かえって、その反対のところがあるね、……田中 純などの話では、直木の細君は悪妻だそうだが、そういうと、直木は実に堅いところがあるからね。……君などは……」

「おれを浮気者というんだろう、僕は浮気者とすれば、……浮気者だが、……君、僕は、『心』の浮気者だよ。……」

「ふうむ。……」

[やぶちゃん注:「オットオ・ワイニンゲル」オーストリアのユダヤ系哲学者Otto Weininger(オットー・ヴァイニンガー 18801903)。カントやショーペンハウエルの影響下、一個の人間の中に共存する男性性と女性性に着目した『性の形而上学』を唱え、1903年にその集大成というべき名著「性と性格」を完成した後、最も敬愛したベートヴェン終焉の館でピストル自殺した。23歳。なお、この最後の部分、私は、

《そうして続けて芥川は》「……君も、むろん、知っているように、オットオ・ワイエンゲルは、女を母婦型と娼婦型にわけているが、……君、だいたい、良妻の亭主は浮気者で、悪妻になやんでいる男は、かえって、その反対のところがあるね、……田中 純などの話では、直木の細君は悪妻だそうだが、そういうと、直木は実に堅いところがあるからね。……君などは……」《と続けたので、私[=宇野]は、》

「おれを浮気者というんだろう、僕は浮気者とすれば、……浮気者だが、……君、僕は、『心』の浮気者だよ。……」《と答えた。芥川は、》

「ふうむ。……」《と呟いた。》

と読む。順列から言うと、一見、そうではなく、宇野がワイニンゲルを語り、芥川が『心』の浮気者だと答えているように読めるが、「良妻」を受けたワイニンゲルの饒舌は明らかに同じ芥川の口吻である。宇野はこの頃、正式な婚姻をせず、芸妓や愛人と複数の関係を持ってはいるが、何より「『心』の浮気者」というニュアンスは芥川よりも宇野らしく私には感じられるからである。何より、ワインンゲルは「河童」で芥川龍之介の影の濃いトックの心霊の霊界での交流人物として『予の交友は古今東西に亙り、三百人を下らざるべし。その著名なるものを擧ぐれば、クライスト、マインレンデル、ワイニンゲル、……』と挙げられてもいる。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (6)

 若者は葬られた。その葬式は、私がかつて見たうちで最も奇妙な光景であつた。朝早くから、その家へ行く人達を見かけた。併し私が老人と一緒に午後の最中に行つた時もまだ戸口の前には棺が置いてあつて、家族の男や女の人がその周りに立ち、人の大勢ゐる中で棺をたたいたり、その上にもたれて泣唱を歌つたりしてゐた。それから少したつて、皆は跪いて、最後の所感を云つた。それから死者の從兄弟達が――家族の者は何も手につかないほど悲しみにしをれてゐたから――二本の櫂、幾本かの繩を用意して、棺をくくりつけ、行列は初まつた。お婆さん等は棺の直ぐ後に隨いて行き、私は偶然にも、その丁度後、第一番目の男達の中にゐることになつた。墓場へ行く道は惡く、東の方へ向つて坂になつてゐる。女達の群は私の前を下りて行く。その赤い着物を着、赤いぺティコートを被る、丁度後から見えるが、その頭に腰帶を卷いてゐる樣は、不思議な效果を出してゐた。それにまた白い棺や一樣な色彩は全く僧院のやうな落着きを加へるのであつた。

 前に述べたことのある葬式の時には、何處にも早い羊齒が生えてゐたが、今度は、それに代つて墓場には、枯草や枯蕨が一面に生えてゐた。また今度は、八十の老人ではなく、成人したばかりの若者を葬りに來たのであるから、人人の悲しみはその性質が違つてゐた。從つて、泣唱は一部分、形式的の性質を失ひ、若者の家族の思ひ思ひの激しい悲しみを表はして歌はれた。

 棺がこれから、掘られようとする墓の近くに置かれると、岩の中の茨ら二つの長い枝が切られ、岩の上に棺の長さと幅が印された。それから男達は仕事を初め、石や土の薄い層を除いたり、新しい棺を下ろす場所にある古い棺を壞はしたりした。澤山の黑くなつた板や骨のかけらが土と共に堀り出されると、一つの頭蓋骨が上がり、墓石の上に置かれた。すると直ぐに、死者の母親であるお婆さんがそれを取り上げて、一人で持つて行つた。彼女は坐つてそれを――彼女の本當の母親の頭蓋骨であつた――膝の上に置き、激しい悲しみで泣唱と號泣を初めた。

 腐つた土の山が墓の近くに段々と高くなると、それから嫌な嗅ひが立ち初めたので、男たちは何度も二つの茨の棒で穴の大きさを計りながら仕事を急いだ。穴が充分に深くなると、お婆さんは立ち上つて、棺へ戻つて來て、頭蓋骨を左手に持ち、茨の棒で棺をたたき初めた。此の最後の悲しみの一時は最も慘めなものであつた。若い女たちは悲しみのため、憔悴して石の間に伏すやうにしてゐた。それでも、時時つと立ち上つて、立派な態度で棺の板をたたいてゐた。若い男たちも憔悴して、泣唱の悲しさのために絶えず聲を嗄らしてゐた。

 用意が萬端出來上ると、白布は棺から取り除かれ、その場所へ下ろされた。すると一人の爺さんが、聖水のはひつてゐる木の器と蕨の一束を取り上げた。皆の頭の上に水を振りかける間、人人は周りに群つてゐた。彼等はしきりに成るべく多くを貰はうと思つてゐるらしく、婆さんは幾度も滑稽な聲で叫んでゐた。――

 「タラム・プレイォン・エレ・オー・ムールティーン」(ムールティーン、私にもう一滴ください)。

 墓が半分ほど、埋まると、私は寄波近くに海豹が二匹追ひかけ合つてゐるのを眺めながら、北の方へぶらぶら出かけた。明るさの薄れかかる頃、「砂の岬」へ着くと、よく知つてゐる幾人かの男が、地引網のやうなもので魚を捕へてゐるのに出逢つた。それは仲仲手間取る仕事であつた。長い間、私は砂の上に坐つて、網が張られてはまた八人の男が一緒にかけ聲を合はせて、そろそろ手繰るのを見てゐた。

 彼等は私に話しかけた。私が腹がすいてゐると思つたらしく、少しの密釀酒とパンをくれた。さうやつてゐるうちも、死の宣告を受けてゐる人と語つてゐるやうな氣がして仕方がなかつた。此の人達も數年たてば、海に溺れて裸かのまま岩に打ち上げられるか、または自分の家で死ぬかであらう。そして今、私が墓地へ行つて見て來たばかりの恐ろしい光景で葬られるのであらう。

 

 

The young man has been buried, and his funeral was one of the strangest scenes I have met with. People could be seen going down to his house from early in the day, yet when I went there with the old man about the middle of the afternoon, the coffin was still lying in front of the door, with the men and women of the family standing round beating it, and keening over it, in a great crowd of people. A little later every one knelt down and a last prayer was said. Then the cousins of the dead man got ready two oars and some pieces of rope--the men of his own family seemed too broken with grief to know what they were doing--the coffin was tied up, and the procession began. The old woman walked close behind the coffin, and I happened to take a place just after them, among the first of the men. The rough lane to the graveyard slopes away towards the east, and the crowd of women going down before me in their red dresses, cloaked with red pethcoats, with the waistband that is held round the head just seen from behind, had a strange effect, to which the white coffin and the unity of colour gave a nearly cloistral quietness.

This time the graveyard was filled with withered grass and bracken instead of the early ferns that were to be seen everywhere at the other funeral I have spoken of, and the grief of the people was of a different kind, as they had come to bury a young man who had died in his first manhood, instead of an old woman of eighty. For this reason the keen lost a part of its formal nature, and was recited as the expression of intense personal grief by the young men and women of the man's own family.

When the coffin had been laid down, near the grave that was to be opened, two long switches were cut out from the brambles among the rocks, and the length and breadth of the coffin were marked on them. Then the men began their work, clearing off stones and thin layers of earth, and breaking up an old coffin that was in the place into which the new one had to be lowered. When a number of blackened boards and pieces of bone had been thrown up with the clay, a skull was lifted out, and placed upon a gravestone. Immediately the old woman, the mother of the dead man, took it up in her hands, and carried it away by herself. Then she sat down and put it in her lap--it was the skull of her own mother--and began keening and shrieking over it with the wildest lamentation.

As the pile of mouldering clay got higher beside the grave a heavy smell began to rise from it, and the men hurried with their work, measuring the hole repeatedly with the two rods of bramble. When it was nearly deep enough the old woman got up and came back to the coffin, and began to beat on it, holding the skull in her left hand. This last moment of grief was the most terrible of all. The young women were nearly lying among the stones, worn out with their passion of grief, yet raising themselves every few moments to beat with magnificent gestures on the boards of the coffin. The young men were worn out also, and their voices cracked continually in the wail of the keen.

When everything was ready the sheet was unpinned from the coffin, and it was lowered into its place. Then an old man took a wooden vessel with holy water in it, and a wisp of bracken, and the people crowded round him while he splashed the water over them. They seemed eager to get as much of it as possible, more than one old woman crying out with a humorous voice--

'Tabhair dham braon eile, a Mhourteen.' ('Give me another drop, Martin.')

When the grave was half filled in, I wandered round towards the north watching two seals that were chasing each other near the surf. I reached the Sandy Head as the light began to fail, and found some of the men I knew best fishing there with a sort of dragnet. It is a tedious process, and I sat for a long time on the sand watching the net being put out, and then drawn in again by eight men working together with a slow rhythmical movement.

As they talked to me and gave me a little poteen and a little bread when they thought I was hungry, I could not help feeling that I was talking with men who were under a judgment of death. I knew that every one of them would be drowned in the sea in a few years and battered naked on the rocks, or would die in his own cottage and be buried with another fearful scene in the graveyard I had come from.

 

[やぶちゃん注:若いシングは深い悲哀の感染から激しく感傷的になりながらも、野辺の送りから墓掘り、先祖の遺骨の扱いから埋葬と聖水散布に至るまで、非常に緻密にその葬送儀礼を描出して美事である。これは実に稀有のアランに於ける葬送の一部始終のドキュメントなのである。ラストのアザラシの描写から、墓地を下った海辺の地引網のロケーションもコーダとして絶妙である。

「前に述べたことのある葬式の時」とは「第一部」のちょうど中盤に描かれた老婆の葬儀であるから、1898年の五月下旬か六月上旬のことであった。今回は1901年の九月下旬か十月頭の情景である。

「前に述べたことのある葬式の時には、何處にも早い羊齒が生えてゐたが、今度は、それに代つて墓場には、枯草や枯蕨が一面に生えてゐた。」原文は“This time the graveyard was filled with withered grass and bracken instead of the early ferns that were to be seen everywhere at the other funeral I have spoken of,”。ちょっと気になるのは「枯蕨」の部分で、これは“early ferns”、第一部の当該部の描写の“bordered with a pale fringe of early bracken”「早蕨の青く緣取つた平らな墓石」と、まだ葉の開いていない新芽だったものが、今は季節も季節、すっかり開いて濃い青緑のシダとなっていることを言っていよう。「枯蕨」ではない(寒冷なアランとは言え、ワラビが枯れるには少し時期が早いと私には思われる)。栩木氏も『枯れ草と丈高いシダの茂み』と訳されておられる。ここはシングが先の大往生の老婆と若者を意識的に対比させている。そうした対照性を引き立ているものとして、この――莟の「早蕨」――と――開き切った「羊齒」――とは対峙して機能しなくてはならない。

「穴が充分に深くなると、お婆さんは立ち上つて、棺へ戻つて來て、頭蓋骨を左手に持ち、茨の棒で棺をたたき初めた。」“When it was nearly deep enough the old woman got up and came back to the coffin, and began to beat on it, holding the skull in her left hand.”この儀式は、名を呼んだり、着衣を屋根に登ってはためかせるといった死者の再生儀礼を想起させる。叩くことによって蘇生を促す古式である。若しくは魂の抜けた骸に邪悪な悪霊が侵入しないようにするためのやはり古式の葬送儀礼とも取れる。識者の御教授を乞う。このシーンの映像は私には鬼気迫るというよりも、死を悼む、いや「メメント・モリ」(死を忘るべからず)のシンボルとして激しく胸を打つ。

「婆さんは幾度も滑稽な聲で叫んでゐた」原文は“more than one old woman crying out with a humorous voice”。この「婆さんは」は、「会葬者の中にいた一人の老婆などは」としたい。何故なら姉崎氏は、直前で“the old woman, the mother of the dead man,”を――この若者の母を――「死者の母親である婆さん」と訳しているからである(ここは栩木氏の『死んだ若者の老いた母親』がよい/でなくてはだめである)。誤読する可能性は低いかも知れないが(いや、私は三十年前に読んだ時に誤読した)、やはりまずいと思う。

『「タラム・ブレイォン・エレ・オー・ムールティーン」(ムールティーン、私にもう一滴ください)。』“'Tabhair dham braon eile, a Mhourteen.' ('Give me another drop, Martin.')”。「ムールティーン」は「マーチン」でアイルランド系に多い名であるが、ここが「聖水」であることやその名から、後にシングが発表する戯曲「聖者の泉」を連想させる(主人公の男の名は“Martin”である。リンク先は私の片山廣子(松村みね子)訳「聖者の泉」)。栩木氏は音写して『トゥール・ゴム・ブリーン・エラ・ア・ヴァーチーン』しておられる。姉崎氏の音写は最初の二つの単語“Tabhair dham”を連声音にしておられるようである。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (5)

 今夜、爺さんは昔本土で聞いた話をしてくれた。――

 

 或る若い女が居て、一人の子供を持つてゐた。間もなく、その女は死んだので、翌日それを葬つた。その晩、もう一人の女――家のおかみさん――がその子供を膝に載せ、爐の傍に腰掛け、コップから牛乳を飮ませてゐた。すると葬つたばかりの女が戸を開けて、家にはひつて來た。彼女は爐の方へ行き、椅子を取りお内儀きんの前に腰掛けた。それから手を差出して、子供を膝の上に取り乳を與へた。暫くして子供を搖籠の中に置き、料理臺の所へ行つて、牛乳や馬鈴薯を取つて食べ、そして出て行つてしまつた。お内儀さんは驚いて、その事を夫の歸つて來た時告げ、また二人の若者に告げた。皆んな明日の晩は家に居て、彼女が來たら、捉へようと云つた。彼女は翌日の晩も來て、子供に乳房を與へ、料理臺の方へ行かうと立ち上つた所を、主人が捉へたが主人は床に倒れてしまつた。すると二人の若者がそれを捉へて、放さないやうにした。そこで、彼女の物語つた所に依れば、妖精に連れられて行き、その晩は、妖精と共に食物を食べてゐなかつたが、子供の處へ歸られるやうに妖精達は彼女を放した。そして妖精の全部はイーヘ・ホウナ[十一月一日に行はれる愛蘭土の祭で、その宵祭の意、此夜は一年中で幽靈や魔女の最も多く出歩くものと信ぜられる]に、國のその地方を立ち去るだらうこと、その四五百人が馬に騎つて行くであらうこと、彼女自身は或る若者の後に白馬に騎つてゐることを話した。そして彼女はその晩、妖精達が橋を渡るから、その橋まで來て、その袂で待つてゐてくれと賴んだ。さうすれば自分の通る時、自分と若者に何か投げられるやうに、馬をゆるめるであらう。そして自分達が地面に落ちれば、助かるだらうと語つた。

 かう云つて、彼女は行つてしまつた。男達はイーヘ・ホウナに行つて、彼女を取り戻した。

 彼女はその後、四の子を産み、遂に死んだ。初め葬つたの最女ではなく、妖精が彼女の代りに何か古い着物でもおいたのであらう。

 

 「そんな事は信ぜられないと云ふ人がある。」お婆さんは云つた。「だが不思議といふものはあるもので、そんな人達には、云ひたいやうに云はせておくさ。此の間のことだが、下の村で、或る女がその子供と寢床にはひつた。暫く眠らないでゐると、何者か窓の所へ來て、聲を聞いたやうであつた。その聲はかう云つた。――

 『これから、眠り通す時が來た。』

 子供の死んでゐたのは、その朝だつた。島でこんな風な死に方をする人は多いのです。」

 

 

This evening the old man told me a story he had heard long ago on the mainland:--

There was a young woman, he said, and she had a child. In a little time the woman died and they buried her the day after. That night another woman--a woman of the family--was sitting by the fire with the child on her lap, giving milk to it out of a cup. Then the woman they were after burying opened the door, and came into the house. She went over to the fire, and she took a stool and sat down before the other woman. Then she put out her hand and took the child on her lap, and gave it her breast. After that she put the child in the cradle and went over to the dresser and took milk and potatoes off it, and ate them. Then she went out. The other woman was frightened, and she told the man of the house when he came back, and two young men. They said they would be there the next night, and if she came back they would catch hold of her. She came the next night and gave the child her breast, and when she got up to go to the dresser, the man of the house caught hold of her, but he fell down on the floor. Then the two young men caught hold of her and they held her. She told them she was away with the fairies, and they could not keep her that night, though she was eating no food with the fairies, the way she might be able to come back to her child. Then she told them they would all be leaving that part of the country on the Oidhche Shamhna, and that there would be four or five hundred of them riding on horses, and herself would be on a grey horse, riding behind a young man. And she told them to go down to a bridge they would be crossing that night, and to wait at the head of it, and when she would be coming up she would slow the horse and they would be able to throw something on her and on the young man, and they would fall over on the ground and be saved.

She went away then, and on the Oidhche Shamhna the men went down and got her back. She had four children after that, and in the end she died.

It was not herself they buried at all the first time, but some old thing the fairies put in her place.

 

'There are people who say they don't believe in these things,' said the old woman, 'but there are strange things, let them say what they will. There was a woman went to bed at the lower village a while ago, and her child along with her. For a time they did not sleep, and then something came to the window, and they heard a voice and this is what it said--

"It is time to sleep from this out."

'In the morning the child was dead, and indeed it is many get their death that way on the island.'

 

[やぶちゃん注:一連の話であるので纏めて採った。

ここに語られる話は蘇生譚として、細部がよく描かれている興味深い民俗伝承である。冒頭部分で思い出すのは本邦の妊娠中若しくは出産時に死んでしまった女性が妖怪化した姑獲鳥(うぶめ)であるが、これは「本草綱目」などに所収する中国起源の妖鳥伝説と習合しており、一部の伝承によれば、この怪鳥は地上に降り立って赤子を抱いた女性に化けては道行く人に子を背負ってくれと懇願し、それを恐れて逃げる者には祟りをなし――悪寒と高熱に襲われて死に至る――こともあるとする。この部分、妙に直前のチフスに罹患した若い既婚の女の死の予感と連動して不気味である。

「爺さん」は、この時の(恐らくは第三部までと同じ定宿の)民家の主人である。

「そこで、彼女の物語つた所に依れば、妖精に連れられて行き、その晩は、妖精と共に食物を食べてゐなかつたが、子供の處へ歸られるやうに妖精達は彼女を放した。」原文は“She told them she was away with the fairies, and they could not keep her that night, though she was eating no food with the fairies, the way she might be able to come back to her child.”で、文脈に捩じれがあるように思われる。これは素直に順に訳せばよいのではなかろうか。

「そこで、彼女の物語つた所に依れば、」彼女は死んだのではなく、「妖精に連れられて行」ったのだということを語り、その晩」も彼女は、長くここには居られないのだと言い、しかし未だに「妖精と共に」彼らの「食物を食べて」は「ゐな」いから、こうしてこの現世、「子供の處へ歸」ってこられるのだ、と語った。

という意味であろう。中間部の「妖精と共に食物を食べてゐなかつた」というところが「古事記」のイサナキの黄泉国訪問で妻イサナキが「黄泉戸喫」の話をする(異界の食物を口にすることで世界が遮断・変異する)シーンを想起させて興味深い。

「イーヘ・ホウナ[十一月一日に行はれる愛蘭土の祭で、その宵祭の意、此夜は一年中で幽靈や魔女の最も多く出歩くものと信ぜられる]」“Oidhche Shamhna”は「1031日の晩という日附でお分かり頂けると思うが、所謂、“Halloween, Hallowe'en”(ハロウィン)のことである。“Oidhche”が「夜」、“Shamhna”が「ハロウィン」の意。以下、ウィキの「ハロウィン」から引用しておく。本来は『ケルト人の行う収穫感謝祭が、他民族の間にも行事として浸透していったものとされて』おり、ヨーロッパを起源とする民族行事で、毎年に行われる。いる。『ケルト人は、自然崇拝からケルト系キリスト教を経てカトリックへと改宗していった』が、『カトリックでは111日を諸聖人の日(万聖節)としているが、この行事はその前晩にあたることから、後に諸聖人の日の旧称"All Hallows"eve(前夜祭)、Hallowseveが訛って、Halloweenと呼ばれるようになった。そもそもキリスト教の教えと、魑魅魍魎が跋扈するハロウィンの世界は相容れるものではなく、聖と俗との習合がハロウィンという名称のみに痕跡を残している』。なお、ネット上のネイティヴの発音を聴くと「イーハ・ハウナ」と聴こえる。

「白馬」原文は“a grey horse”であるが、これは所謂「葦毛」の馬で、元は灰色でも年をとるに連れて見た目は白と変わらなくなるので訳としては問題ない。

「そして彼女はその晩、妖精達が橋を渡るから、その橋まで來て、その袂で待つてゐてくれと賴んだ。さうすれば自分の通る時、自分と若者に何か投げられるやうに、馬をゆるめるであらう。そして自分達が地面に落ちれば、助かるだらうと語つた。」まずは異界との境界である(従って異界からの帰還のルートともなる)端としての「橋」、霊界との通路である水に関わる「橋」が特異点として描出される。更に「何か投げられる」ことによって妖精世界からの帰還に可能であるという謂いが、例えばイサナキの呪的逃走の成功と近似する。ここで投げられたものが何であったかが語られていないのが如何にも惜しい。しかもこの「自分達が地面に落ちれば、助かるだらう」という部分にも何かが隠されているようだ。女の帰還には「若者」が一緒に地面に落ちる必要があるからである。面白い。実に面白い。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (4)

 私が何度も話したことのある若い既婚の女が熱病で死にかけてゐる――チブスださうである。

 ――それでその夫と兄弟たちは海が荒れてゐるにもかかはらず、北島から醫者と坊さんを呼びに、カラハで出かけた。

 此の人達の出立した後、私は砦の丘から長い間、眺めてゐた。風と雨は瀨戸の中へ押し寄せ、波の中をしぶきを立てて苦鬪してゐるその小さな黑いカラハのほかには、舟影も人影も見えなかつた。風が少し收まると私の足下の東の方で人が槌を打つてゐる音が聞こえた。二三週間前、溺死した靑年の死體が今朝岸邊に着き、その友達が、死んだ男の家の庭で、一日中棺を造るのに忙しいのであつた。

 少したつと、カラハは霧の中に姿を消した。寒さと慘めさに身ぶるひしながら、私は宿に歸つて來た。

 お婆さんは火の傍で、泣唱をしてゐた。

 「私は若者の居た家まで待つて來た。」彼女は云つた。「其處から出て來る匂ひのため、私は中へはひれなかつた。頭は全くないさうだが、海に三週間もひたつて居れば、それは無理もない事だね。此の島の者は誰も彼も、こんな危い目や悲しい目に逢はねばならないのかね?」

 私は、カラハは坊さんを乘せて直ぐ戻つて來るだらうかと尋ねた。

 「直ぐ戻つて來なけりや、今夜は戻つて來ないでせう。」彼女は云つた。「今、風が出た。恐らく此の二三日は此の島へカラハは來ないでせう。氣が急(せ)いてゐるのに、何時溺れ死ぬかも知れない危險にある人達を思ふと、可哀さうぢやないかね?」

 それから、私は、女はどうしたかと尋ねた。

 「あの女は、もう大方駄目だらう。」お婆さんは云つた。「明日の朝までは持つまい。棺を造る板がないので、此の下にゐる男が、まだ生きてゐるその母親の葬式のために、此の二年間持つてゐる板を借りたいと云つてゐる。熱を出してゐる女がもう二人と、三つにもならない子供が一人ゐるさうだ。神樣何卒、私達をお惠み下さい!」

 私はまた海を眺めに出かけた。併し日はとつぷりと暮れて、疾風は砦の丘の上に吠えてゐた。

 私は道を下りて行き、靑年の死んだ家で、泣唱の聲を聞いた。もつと行つて最近チブスにやられた家の戸口の騷騷しいのを見た。それから雨を冒して宿に歸つて來て、お婆さんやかみさんと一緒に爐を圍んで、夜の更けるまで島人の不幸を話し合つた。

 

 

A young married woman I used often to talk with is dying of a fever--typhus I am told--and her husband and brothers have gone off in a curagh to get the doctor and the priest from the north island, though the sea is rough.

I watched them from the Dun for a long time after they had started. Wind and rain were driving through the sound, and I could see no boats or people anywhere except this one black curagh splashing and struggling through the waves. When the wind fell a little I could hear people hammering below me to the east. The body of a young man who was drowned a few weeks ago came ashore this morning, and his friends have been busy all day making a coffin in the yard of the house where he lived.

After a while the curagh went out of sight into the mist, and I came down to the cottage shuddering with cold and misery.

The old woman was keening by the fire.

'I have been to the house where the young man is,' she said, 'but I couldn't go to the door with the air was coming out of it. They say his head isn't on him at all, and indeed it isn't any wonder and he three weeks in the sea. Isn't it great danger and sorrow is over every one on this island?"

I asked her if the curagh would soon be coming back with the priest. 'It will not be coming soon or at all to-night,' she said. 'The wind has gone up now, and there will come no curagh to this island for maybe two days or three. And wasn't it a cruel thing to see the haste was on them, and they in danger all the time to be drowned themselves?'

Then I asked her how the woman was doing.

'She's nearly lost,' said the old woman; 'she won't be alive at all tomorrow morning. They have no boards to make her a coffin, and they'll want to borrow the boards that a man below has had this two years to bury his mother, and she alive still. I heard them saying there are two more women with the fever, and a child that's not three. The Lord have mercy on us all!'

I went out again to look over the sea, but night had fallen and the hurricane was howling over the Dun. I walked down the lane and heard the keening in the house where the young man was. Further on I could see a stir about the door of the cottage that had been last struck by typhus. Then I turned back again in the teeth of the rain, and sat over the fire with the old man and woman talking of the sorrows of the people till it was late in the night.

 

[やぶちゃん注:本章は「アラン島」の中でも、モノクロームの、深く昏い、文字通り「死」の臭いのする箇所である。棺作りの釘を打つ音が虚空に響いて一読、忘れ難い。

「チブス」原文は“fever--typhus”。“Typhus”(窒扶斯・チブス・チフス)は高熱や発疹を伴う細菌感染症の一群を言い、異なった以下の三種を総称する。①サルモネラ菌の一種チフス菌“Salmonella enterica serovar Typhi”に経口感染することによって発症する「腸チフス」。腹胸部のバラ疹が特徴。通常の英語表記“typhoid fever”。抗菌薬がなかった当時の致死率は、主に調出血や腸穿孔による1020%。②サルモネラ菌の一種パラチフスA菌 “Salmonella enterica serovar Paratyphi A”に経口感染することによって発症する「パラチフス」。致死率は腸チフスに比して低く5%程度。通常の英語表記“paratyphoid fever”。③主にコロモジラミやアタマジラミが媒介する発疹チフス・リケッチア“Rickettsia prowazekii”に感染することによって発症する「発疹チフス」。体幹部の丘疹から広がる全身性発疹が特徴。致死率は1060%(10歳未満の小児では死亡は稀であるが、加齢により上昇、50歳以上の高齢者では治療不全の場合は60%を越える)。通常の英語表記“typhus”。この場合のアランの「チブス」は致死率が高いから、①か③の何れかであるが、古くは③の「発疹チフス」が“typhus”であった。原文の“fever--typhus”は①の腸チフスの英語名“typhoid fever”に最も似るが、英文の風土病記事などを検索すると、③の発疹チフスを“Endemic Typhus Fever”と記している記事を見かけるので同定し得ない。但し、私には③のベクター感染では①よりも高く、深刻な島内でのパンデミックが予想されるように思われるので、一応、腸チフスでとっておく。因みに、1898年を一回目とする、この四度目のシングのアラン帰還は1901年9月21日から1019日(栩木伸明氏訳2005年みすず書房刊の「アラン島」の「あとがき」による)であるが、漱石の「こゝろ」の「先生」の両親は腸チフスのために相次いで亡くなっている。私の推定するその没年は明治281895)年頃である(私のろ」マニアックスの『●「先生」の時系列の推定年表』を参照のこと)。]

2012/03/28

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (3)

 今日、天氣は荒模樣であつたが、午後の初めのうちは、コニマラから泥炭を積んで來る漁船は充分はひつて來られる位に、海は靜かであつた。尤もそれが波止場に泊つてゐる間は、うねりが大きいので、人は海の上を見乘りしてゐて、大きなのが來る度に、船が波に樂に乘やうに錨索を弛めなければならなかつたが。

 船の中には、二人の男がゐるばかりだつた。空(から)になつてゐると、錨索をたぐり込んだり、帆を擧げたりするのが面倒で、また港外へ出る前に岩に吹きつけられないやうにするのも面倒だつた。

 直ぐ後で激しい夕立が來たので、私は泥炭の積み重ねの下へ幾人かの人達と一緒にもぐり込んだ。此の人達は馬を積んでやつて來る他の漁船を待つて立つてゐた。彼等は昨晩の喧嘩のこと、その騷騷しかつたことを語り出して笑つた。

 「くだらないことから一番ひどい喧嘩がおつ始まつたんだ。」隣りにゐた老人が云つた。「ムルティーンか誰かが六十年前、濱でナイフで殺し合つた喧嘩の話をあんたにしたことはなかつたかね?」

 「聞かなかつたね。」 私は云つた。

 「さて、」彼は云つた。「皆んなが海草刈に出かけようとしてゐた。或る男が出かける前に、ナイフを砥石で研いでゐた。一人の子供が茶の間にはひつて來て、その男に云つた。――

 『何んのためにナイフを研いでゐるの?』

 『お前のお父さんを殺ためだ。』その男は云つた。彼等はいつも仲のよい友達だつた。子供は家に歸つて、父親にナイフを砥いで殺さうとしてゐる男があると云つた。

 『畜生!』父親は云つた。『彼奴がナイフを持つて行くなら、俺も持つて行くぞ。』

 それから彼はナイフを研ぎ、皆んなは濱へ下りて行つた。それから二人は互ひにナイフのこと揄揶(からか)ひ出したが、それが因(もと)で大聲を上げ出し、間もなく、十人の男がナイフを持つて入り亂れ、仲仲果てしがつかず、逐にその中の五人が殺された。

 翌日葬ひをして、みんなが歸つて來ると、みんなの目についたのは、事を起した子供が相手の男の子供と仲よく遊んでゐるところであつた。二人の父親はどちらも墓場の中に埋められてゐるのに。」

 彼が語り止めると、一陣の風が來て、近くの乾いた海草の束を私たちの頭上高く、吹き上げた。

 今一人の老人が語り出した。

 「大風の吹いたことがあつた。」彼は云つた。「忘れもしない、南島に、石垣の角に向つた圍ひの中に羊毛を澤山持つてゐた男があつた。その男が丁度羊毛を洗つたり、乾したり、裏返したり、梳(くしけず)られるやうに綺麗にしたりしてゐた。すると風が吹いて來て、羊毛がすつかり石垣の上へ吹き上げられ、その男は大手を擴げて止めようとした。今一人の男がそれを見た。

 『惑魔にでもあたまを治して貰へ!』彼は云つた。『その風にはお前はかなはねえぞ。』

 『よし惡魔がゐるなら、』相手の男は云つた。『おれが捕へてやる。』

 さう云つたためかどうかは知らないが、それから全部の羊毛が彼の頭の上を越して、島中到る所に吹き飛んだが、後でかみさんがやつて來て紡がうとすると、その量には少しも損はなかつたかのやうに、要るだけのものがすつかりあつた。」

 「それには、もつと話があるのだ。」今一人の男が口を出した。「と云ふのは、その前の晩、或る女が此の島の西のはづれで、えらい光景を見た。それは此の島と南島で少し以前に死んだ人が全部ゐて、互ひに話し合つてゐるのを見たのだ。その晩は隣島から一人の男が來てゐて、その男はさつきの女が見た物について話すの聞いてゐた。翌日その男は南島へ歸つたが、恐らくカラハの中は一人きりだつたのだらう。隣島の近くへ來ると、崖で釣をしてゐる人を見かけた。その人が彼に呼びかけた。――

 『早く急いで行つて、おツ母の密釀酒を匿せと云へよ。』――母親は密釀酒を賣るのが商賣だつた――『丁度今、此の島ではこれまで見たこともないほど大勢の巡査と郷士の人が、岩の上を通つて行くのを見たんだ』。丁度その時が、上の方で、さつきの男が丘の下の羊毛を持つて行かれた時だつたが、巡査などは一人も島にはゐなかつた。」

 それから少したつと、老人連は行つてしまつて、幾人かの二十代の靑年たちが私と一緒に殘つた。此の人達は私にいろいろな事を話した。一人は、私が嘗つて醉拂つた事があるかと聞いたり、また或る者は此の島から嫁を貰ふべきだと云つたりした。島には美人がゐて、よく肥つた娘なら、丈夫で、澤山の子を産み、金を浪費しないと云つた。

 馬船が岸に着くと、蟹の罠籠について遠くにゐた一艘のカラハが、大急ぎではひつて來た。それから一人の男が船から降りて砂丘を登つて行つて、一人の娘の子と逢つた。娘の子は晴着の一束を持つて來のであつた。男は砂の上で、それに着替へ、漁船の方へ出かけ、馬を返しにコニマラの方へ向つて出立した。

 

 

The weather has been rough, but early this afternoon the sea was calm enough for a hooker to come in with turf from Connemara, though while she was at the pier the roll was so great that the men had to keep a watch on the waves and loosen the cable whenever a large one was coming in, so that she might ease up with the water.

There were only two men on board, and when she was empty they had some trouble in dragging in the cables, hoisting the sails, and getting out of the harbour before they could be blown on the rocks.

A heavy shower came on soon afterwards, and I lay down under a stack of turf with some people who were standing about, to wait for another hooker that was coming in with horses. They began talking and laughing about the dispute last night and the noise made at it.

'The worst fights do be made here over nothing,' said an old man next me. 'Did Mourteen or any of them on the big island ever tell you of the fight they had there threescore years ago when they were killing each other with knives out on the strand?'

'They never told me,' I said.

'Well,' said he, 'they were going down to cut weed, and a man was sharpening his knife on a stone before he went. A young boy came into the kitchen, and he said to the man--"What are you sharpening that knife for?"

"To kill your father with," said the man, and they the best of friends all the time. The young boy went back to his house and told his father there was a man sharpening a knife to kill him.

"Bedad," said the father, "if he has a knife I'll have one, too."

'He sharpened his knife after that, and they went down to the strand. Then the two men began making fun about their knives, and from that they began raising their voices, and it wasn't long before there were ten men fighting with their knives, and they never stopped till there were five of them dead.

'They buried them the day after, and when they were coming home, what did they see but the boy who began the work playing about with the son of the other man, and their two fathers down in their graves.'

When he stopped, a gust of wind came and blew up a bundle of dry seaweed that was near us, right over our heads.

Another old man began to talk.

'That was a great wind,' he said. 'I remember one time there was a man in the south island who had a lot of wool up in shelter against the corner of a wall. He was after washing it, and drying it, and turning it, and he had it all nice and clean the way they could card it. Then a wind came down and the wool began blowing all over the wall. The man was throwing out his arms on it and trying to stop it, and another man saw him.

"The devil mend your head!" says he, "the like of that wind is too strong for you."

"If the devil himself is in it," said the other man, "I'll hold on to it while I can."

'Then whether it was because of the word or not I don't know, but the whole of the wool went up over his head and blew all over the island, yet, when his wife came to spin afterwards she had all they expected, as if that lot was not lost on them at all.'

'There was more than that in it,' said another man, 'for the night before a woman had a great sight out to the west in this island, and saw all the people that were dead a while back in this island and the south island, and they all talking with each other. There was a man over from the other island that night, and he heard the woman talking of what she had seen. The next day he went back to the south island, and I think he was alone in the curagh. As soon as he came near the other island he saw a man fishing from the cliffs, and this man called out to him--"Make haste now and go up and tell your mother to hide the poteen"--his mother used to sell poteen--"for I'm after seeing the biggest party of peelers and yeomanry passing by on the rocks was ever seen on the island." It was at that time the wool was taken with the other man above, under the hill, and no peelers in the island at all.'

A little after that the old men went away, and I was left with some young men between twenty and thirty, who talked to me of different things. One of them asked me if ever I was drunk, and another told me I would be right to marry a girl out of this island, for they were nice women in it, fine fat girls, who would be strong, and have plenty of children, and not be wasting my money on me.

When the horses were coming ashore a curagh that was far out after lobster-pots came hurrying in, and a man out of her ran up the sandhills to meet a little girl who was coming down with a bundle of Sunday clothes. He changed them on the sand and then went out to the hooker, and went off to Connemara to bring back his horses.

 

[やぶちゃん注:原文では、行空けなしで次の段落と繋がっているが、底本に準ずる。

「船の中には、二人の男がゐるばかりだつた。空(から)になつてゐると、錨索をたぐり込んだり、帆を擧げたりするのが面倒で、また港外へ出る前に岩に吹きつけられないやうにするのも面倒だつた。」はやや分かり難い。これは前段の「コニマラから泥炭を積んで來る漁船」が港で碇泊し、そして出て行くさまを波止場から、シングが観察しているのである。その船には「二人の男」しか乗船しておらず、船は泥炭を下ろした結果、「空(から)になつ」て軽くなったために、先に述べたような「大きな」「うねりが」来ると、「錨索をたぐり込んだり、帆を擧げたりするのが」二人では如何にも大変そうに見え、またその空船を「港外へ出」す際にも、岩礁にぶちあたらないよう、操船するのも、二人では如何にも大変なのが見て取れた、という意味である。

「郷士」原文“yeomanry”。イギリスでは古くから市民が“militia”(ミリシア:民兵。)を組織することが公的に認められていたが、特に“Yeoman”(ヨーマン:イングランドの富農層である独立自営農民。)は“yeomanry”「ヨーマンリー」と称される義勇騎兵部隊を組織して国家の軍事活動に協力していた。1854年のクリミア戦争勃発によって、イギリス陸軍は常備軍の深刻な兵力不足に見舞われ、その後のフランスとの対立やイタリア統一戦争などの軍事的需要が高まり、大規模な予備軍組織の要請が高まり、1859年、陸軍省管轄下の義勇軍“Volunteer Force”が創設された。参照したウィキの「国防義勇軍」によれば、『州知事の認可により部隊が設立され、平時には市民生活のかたわら一定の訓練を行い、有事には自弁で武装して動員されて常備軍同様の給与と軍法の適用を受けるものとされた。当初は小規模な部隊が乱立したが、次第に効率的な大隊規模に統一され、1862年には歩兵220個大隊など兵力16万人を数えた。実戦出動の経験もあり、1899年に起きた第二次ボーア戦争がその最後の事例となった』とある。従って、ここは時代背景から国防義勇騎兵隊の一団と訳すべきところか。――そんなことよりも――この話柄の前段から、私には「大勢の巡査と郷士の」一団が、あたかも「ヨハネの黙示録」の邪悪にして亡ぼされる(だってアランの貧農の正義の羊毛も、アランの母さんの密造酒も守られるんだからね)地獄の悪魔の軍団のように見えてくる面白さではないかと思うのであるが、如何?

「蟹の罠籠」原文は“lobster-pots”。これはよろしくない。何故なら、ロブスターは「蟹」ではないからである。敢えて言うならエビそれもザリガニの仲間である。甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目アカザエビ科アカザエビ亜科ロブスター属Homarus で、本種は分布域からヨーロピアン・ロブスターHomarus gammarus と考えてよい。

「馬船が岸に着くと、蟹の罠籠について遠くにゐた一艘のカラハが、大急ぎではひつて來た。それから一人の男が船から降りて砂丘を登つて行つて、一人の娘の子と逢つた。娘の子は晴着の一束を持つて來たのであつた。男は砂の上で、それに着替へ、漁船の方へ出かけ、馬を返しにコニマラの方へ向つて出立した。」という最終段落“When the horses were coming ashore a curagh that was far out after lobster-pots came hurrying in, and a man out of her ran up the sandhills to meet a little girl who was coming down with a bundle of Sunday clothes. He changed them on the sand and then went out to the hooker, and went off to Connemara to bring back his horses.”は、失礼ながら姉崎氏自身分かって訳されているようには思われないのである(但し、私も一部よく分からないのであるが)。まず、馬を積んだ船がやっと入港した丁度その時、“hurrying in”(波止場に大急ぎで)帰ってくるカラハがあったが、それはロブスター獲りのための籠を仕掛けに朝早くに出た漁師のカラハであった。何故、「大急ぎ」なのか? 自分の娘が用意して持ってきた“Sunday clothes”(日曜のミサ用の晴れ着)に着替えるためであり、この「馬を積んだ船」に乗ってコネマラへ向かうためである。何のための「晴れ着」か?――そこが今一つ、分からないのであるが――彼はその馬を積んで入港した船に乗り、どうも“his horses”彼の馬(この一回目の便ではもたらされていない馬。それも複数である)を、コネマラまで直接引き取りに行く“bring back”(連れて戻る)ために――その際に元の馬主と逢うための晴れ着か、それとももっと純粋に新しい栄えある名馬たちを受け取る晴れの日のためにか、分からないのであるが――正装をしているようなのである。複数の馬を正装で引き取りに行くこの漁師は、島でも相当な金持ちなのか? 英語の苦手な私にはその程度までしか推理出来ない。識者の御教授を乞うものである。]

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(2)


…‥さて帰り支度をして梯子段をおり、芥川が便所の方に行きかけると、意外にも階下の廊下で向〔むか〕うから女をつれて、これも食事ををへて玄関の方へ出て来たのは南部修太郎で、しかも同伴の女性は、芥川の情人Hだつた。
[やぶちゃん注:「H」は秀しげ子。私の推測であるが、実質上はこの時には芥川はしげ子を既に嫌悪しており、少なくとも芥川の方からの積極的な不倫関係は疎遠になっていたものと思われる。]

 これは村松梢風の『芥川龍之介』のなかの一節であり、この食事をしたところは『中華亭』である。
 ここに村松が『H』であらわしている女性を、小穴は、『S』として、つぎのように書いている。
*                                             
 S。高利貸の娘、芸者の娘、劇場の電気技師の妻、閨秀歌人、これが彼女の黒色影像〔シルエット〕であつた。
……さうしてただ一葉〔いちえふ〕の書簡箋の数行のなかに、確かに、(南部修太郎と一人〔ひとり〕の女〔ひと〕Sを自分自身では全くその事を知らずして××してゐた。それを恥ぢて自決をする。)と読んだのではあるが、(此の自分に渡〔わた〕された遺書で最初のものは後に彼にかへした。)次ぎに、南部修太郎が消えて宇野浩二の名が現れてゐた、と書かうとする自分には、非常な錯覚による支障を齎〔もた〕らすのである。
――ここに、二つの話が死者によつて僕に残されてゐる。(昔、宇野と一緒に諏訪に行つてゐた時である。)「一日〔いちにち〕、宇野の机の上に見覚えのある手紙があつたので、自分はそれを未〔いま〕だに恥づかしい事には思つてゐるのだが、それをそつと開〔あ〕けてみたら、実にたがはず、その筆者がSであつて、Sと宇野の間のことを、はじめて自分はその時知つて非常に驚いた。君、Sはそのやうな女なんだ。」以下省略。

 これと同じような事を、村松も、『芥川龍之介』のなかで、つぎのように述べている。

……諏訪は宇野の第二の故郷みたいな土地だつた。その土地にゐた間に、ある日、宇野の下宿で彼の机の上に見覚えのある筆蹟の手紙があるのを見て開〔あ〕けてみると、筆者はHだつた。Hは宇野とも関係があつたのだ。この時は流石の芥川も憮然となつた。このやうな放浪癖を有するHではあつたが、Hが生んだ男の子は甚だしく芥川に似てゐたので、最後まで彼は此の事を悩みの種にしてゐたといふ事だ。

 この村松の文章は小穴の文章から取ったものにちがいないが、その小穴の文章が、さきに引いたものだけでもわかるように、晦渋で、妙に気を持たせるようなところがある。それに、この謎の女と私とが関係があったなどという事はまったくマチガイであり、また、私はこの謎の女から手紙などもらった事は一度もない。それから、小穴の文章にあるように、もし芥川が本当に「宇野の机の上に見覚えのある筆蹟の手紙があつた」と云ったのなら、私は、かりに芥川が生きているとしたら、その芥川に、「いくら君が人をからかう事に興味をもっているにしても、君を信頼している小穴に、あんな作〔つく〕り事〔ごと〕をいうのは、あんまりひどいじゃないか、」と詰〔なじ〕りたい。
 その芥川の云った事を真〔ま〕にうけて、小穴は、芥川の思い出を述べた『二つの絵』という文章のなかで、『S女史』について十ペイジ以上も書いているので、この二三年のあいだに、このS女の事を、滝井孝作が、『純潔』という小説のなかで、S夫人という名で書き、廣津和郎が、『彼女』という小説に、彼女という代名詞で、S女史の若い時分の事を書き、村松梢風が、さきに述ベた、『芥川籠之介』のなかで、Hという名で書いている。そこへ、私が、この文章の中〔なか〕で、謎の女という事にして、S女史らしいものをちょいと書いた。そこで、そのS女史が、私と、偶然、町で逢った時、それらの小説の話などをして、私に、こぼした。
 そこで、私が、そのS女史といわれる女の人に、「……そういえば、僕は、あなたとあまりお附〔つ〕き合〔あ〕いをした事はない、だから、あなたから手紙などもらった事はないでしょう、」と云うと、相手の女は、「……あたしも書いたおばえはございませんが、何〔なん〕でも、あたしの名で、鍋井さんがお出しになった、と……」と云った。
 これには私もあいた口がふさがらなかった、鍋井は、芥川に一度も逢った事がない筈であり、また、かりに親友からこういう手紙の代筆など頼まれても、絶対に書かない男であるからである。
 そこで、「この文章をよむ人よ、」と私は云う、芥川に関する事は、小穴のような聡明なる人が書いても、村松のごとき賢明なる伝記者が述べても、このような、はなはだしい、マチガイがあるのであるから、私のごとき鈍物〔どんぶつ〕が述べる事は、(引用文のほかは、)ことごとくマチガイにちがいない、よって、「この文章をよむ人よ、私が、これまでだらだらと述べてきた事も、これから述べる事も、マチガイだらけにちがいないですから、了承するとともに、なにとぞ、御容赦〔ごようしゃ〕ねがいあげます。」
[やぶちゃん注:「あたしの名で、鍋井さんがお出しになった」という秀しげ子の証言の意味が分からない。「鍋井」は前出の洋画家鍋井克之であり、宇野は「鍋井は、芥川に一度も逢った事がない筈であり、また、かりに親友からこういう手紙の代筆など頼まれても、絶対に書かない男」だと言い、ではその鍋井が『しげ子の名を騙って宇野に手紙を出した意図』は何なのか、翻って見れば『宇野は何故、その詐称された手紙を貰った記憶がないのか』(但しこれは、宇野がその後に重い精神病に罹患した事実による記憶の欠落という説明は可能ではある)、そもそもこの時、『このしげ子の告白を聞いた宇野はそれをどう解釈したのか、宇野にとって全くの解釈不能なら、なぜしげ子にそこを突っ込んで聞かなかったのか』さえも示されていない。況や、宇野はしげ子との冤罪の一件に対して(断っておくが「しげ子」に対してではなく、あくまでこの小穴を震源地とすると断定してよい宇野の受けたとばっちりに対してである)憤慨しているにも拘わらず、『どうしてそこで突っ込んで語らないのか?』というところで、この宇野の文章でさえ――正しく「謎の謎」――ではないか、ということである。]

2012/03/25

随分 御機嫌よう

明日より名古屋の義母を見舞いに行く――では随分、御機嫌よう――

告別   宮澤賢治

三八四

 

告別   宮澤賢治   

 

      一九二五、一〇、二五、

 

 

おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴つてゐたかを
おそらくおまへはわかつてゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無數の順列を
はつきり知つて自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の樂人たちが
幼齡弦や鍵器をとつて
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この國にある皮革の鼓器と
竹でつくつた管とをとつた
けれどもちやうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもつてゐるものは
町と村との一萬人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかつたが、
おれは四月はもう學校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失つて
ふたたび囘復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多數をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無數の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを嚙んで歌ふのだ
もしも樂器がなかつたら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいつぱいの
光でできたパイプオルガンを彈くがいゝ

 

(「心象スケツチ 春と修羅」第二集より)

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~ (1)

     十

 

 前に「芥川は、私をたずねてくると、二分の一か三分の一ぐらいの割りで、私をつれだして、私をどこかへ案内した。そうして、芥川と私と一しょに行ったのは殆んど坐〔すわ〕る所であり、そのすわる所の三分の二はたべ物屋である、」と書いたが、それは少〔すこ〕しまちがいで、十分の六ぐらいがたべ物屋で、十分の四ぐらいは特別の家であった、と訂正しておく。

 さて、ある日、芥川は、上野の公園をおりて、『山下〔やました〕』と云われるところの、今の永藤〔ながふじ〕パン屋のある辺〔へん〕の、一間半〔けんはん〕ぐらいの間口〔まぐち〕の牛肉屋に、私を案内した。一間半ぐらいの狭い間口で、たしか、三階建〔だ〕てであったから、その家は、両側の家から挾まれ押しつけられて、痩〔や〕せ細ったように見えた。

 芥川は、その家にはいる前に、ちょっと立ちどまって、例の独得の微笑を頰にうかべながら、「どうだ、おもしろい家〔うち〕だろう、」と、自慢するように、云った。それから、その家の二階の座敷におちつくと、芥川は、「この内は、東京で一番うまい肉屋だよ。……それから、この家〔うち〕は、この四畳〔じょう〕半の部屋が大きい方〔ほう〕で、ほかには四畳半と三畳しかないんだよ、……おもしろいだろう、」と、また、自慢するように云って、にやにや笑った。(しかし、私は、その肉屋が、はたして、東京一のうまい家〔うち〕かどうか、疑わしく思った、そうして、芥川は、むしろ、この細長い家に芥川流の興味をもっているのではないか、と思った。)

 その細長い家の牛屋に行ってから半月〔はんつき〕ほど後、芥川は、こんどは、「今日〔きょう〕は、鰻を、くいに行こう、」と云って、京橋で電車をおりて、左の方へあるき出〔だ〕した。そうして、あるきながら、「これから行く『小松』(たしか『小松』と云った)という鰻屋は、東京で一番うまい家だが、長いあいだ待たすのでも、有名なんだ、だから、僕は、一人でゆく時は、本をよんで待っているんだ、……本をよんで鰻の焼けるのを待っているんだよ、君〔きみ〕……この前ひとりで行った時は君のすきな、アアサア・シモンズの“Studies in Seven Arts〔スタッデイイズ イン セブン アアツ〕”を持って行ったんだが、あの本の中〔なか〕で一ばん長い『リヒヤルト・ワグネルの観念』を読んでしまっても、まだ鰻を持ってこないんだ、それで、そのつぎに長い『ロダン』を読んでいると、『ロダン』を半分ぐらい読んでいる時に、やっと持って来たよ、……君、『ワグネル』は八十ペイジぐらいで、『ロダン』は三十ペイジぐらいだから、百十五ペイジ分〔ぶん〕ぐらい待たされた事になるんだ、……君、そのくらいの覚悟をしなければ、今日〔きょう〕の鰻は食えないんだから、今から覚悟をしときたまえごと、云った。『小松』は、しもた屋のような、地味〔じみ〕な構〔かま〕えの、小〔ちい〕さな、家であった。その『小松』の二階の小さな座敷で、鰻の焼けてくるのを待っている間〔あいだ〕に、私が、シモンズの、詩は、もとより、文芸評論を、このんで、読んでいるのに、いくらか反感を持っていた芥川が、持ち前のからかう気もちもあって、「……僕は、シモンズの、『シンボリスト・ムウヴメント』も、『ロマンティック・ムウヴメント』も、おもしろいとは思うけれど、あの気取ったような文章が気になるし、……」と云った。「かりに気どっているとしても、さすがにああいう詩を作った人だけに、あの文章はうまいじゃないか、……それに、流暢だし、……」と私がいうと、芥川は、それには答えないで、「……『フィギュアアズ・セヴュラル・センテュリイズ』の中にはいっているものでも、おもしろいのもあるけど、呆気〔あっけ〕ないのが随分〔すいぶん〕あるじゃないか、……それに、すこし穏健すぎるところもある、……」と、云った。「しかし、『ヸョン』を「ヸヨンは最初のモダン・ポエトであった、」などというのは、論の当否は別として、穏健どころか、ずいぶん思いきった論法じゃないか。」「しかし、あの本の中では僕は、『エレオノラ・デュウゼ』を取るね。」「あれは、あの本じゃないよ、『セブン・アアツ』の中だ、……あれは、おもしろいが、君ごのみだね、……、……君はデュウゼみたいな女優がすきだろう。……もっとも、僕も、サラ・ベルナアルより、デュウゼの方がすきだな、ダンヌンチヨが夢中になったのも、無理はない、と思うね。」(後記――『小松』は『小満津』か。)

 

 ふしぎな事に、私は、芥川に本を借りた事は一度もないが、めずらしく、私が芥川に本を貸した事がある。それは、ある日、芥川が、私の家に来た時、「……君、シモンズの、何とかいう、イタリイの紀行文のようなものと、パリの何〔なん〕とかいう随筆か評論のようなものがあったね、あれを、持ってる、持ってたら、貸してくれないか、」と云ったからである。『イタリイの紀行文のようなもの』とは“City of Italy”のことであり、『パリの何とか』とは、“Colour Studies in Paris”のことである。そうして、『パリの……』の中には、『モンマルトゥルとラティン区』とか『パリとパウル・ヴェルレエヌの覚書〔おぼえがき〕』とか、いう文章がはいっている筈なので、私は、この二冊の本を貸す時、「これも、おもしろいから、読んでみたまい、」と云って、ヴァンス・トムソンの“French Portraits”を添えた。この本には、マラルメ、ヴェルレエヌ、カテュウル・マンデス、ジャン・モレアス、レニエ、メリル、その他のフランスの詩人のほかに、ベルギイの、ヴェルハアレン、マアテルリンク、ロオデンハッハ、その他の詩人たちの事を、それらの詩人の詩を引用しながら、おもしろおかしく、書いてあるからである。

 ところで、芥川は、それから数日後に、それらの三冊の本をかえしに来て、「君のいうとおり、みなおもしろかったが、僕には『マウリス・バレスと利己主義』が一番おもしろかった、それから、あの本の中にある、いろいろな詩人をかいた、ヴァロットンの漫画のうまいのにはおどろいたな、ちょいと通俗味のあるのが気になるが、……」と云った。「……僕は、やっぱり、はじめの方〔ほう〕の『ヴェルレエヌの印象』と『ステファン・マラルメ』が圧巻だと思う、」と私は云った。

 ところが、それから一〔ひ〕と月〔つき〕ほど後、芥川は、私をたずねて来て、いつものように、文学談を一〔ひ〕と頻〔しき〕りしてから、「君、出ないか、」と云った。そこで、表〔おもて〕に出ると、芥川は、電車の停留場の方へあるく道で、「今日〔きょう〕はうまい日本料理を食おうか、」と半分ひとり言〔ごと〕のようにいって、その日は、日本橋の『中華亭』という贅沢〔ぜいたく〕な日本料理屋に、私を、案内した。

電車をおりた時はすでに日が暮れていた。白木屋の横の狭い露地をはいった時、私は、両側にさまざまなたべ物屋がならんでいるのを見て、ははあ、ここが有名な『食傷新道〔しょくしょうじんみち〕』だな、と覚〔さと〕った。私より一歩〔いっぽ〕ばかり先きをあるいていた芥川は、その食傷新道の中程の右側の、墨で『中華亭』と書いた行燈の出ている家の中〔なか〕に、さっさと、はいって行った。

 さて、その『中華亭』の二階の座敷で、二人が、高級の日本科理をたべながら、何〔なに〕かの話に夢中〔むちゅう〕になっていた最中〔さいちゅう〕に芥川が、突然、

 「君〔きみ〕、トムソンは『養鷄法』の本を出しているよ、」と、云った。

 これは、ヴァンス・トムソンという、日本ではまったく無名の、名を忘れてしまっていた時分であるから、私は、はじめ、ちょっと何〔なん〕の事かわからなかったが、すぐ、トムソンは私のふだん愛読している『フレンチ・ポオトレエツ』の著者であることに気がついて、何〔なん〕ともいえぬイヤアな気した。が、すぐ例の芥川の『嫌〔いや〕がらせ』だ、と気がついたので、又〔また〕かとは思ったけれど、私は、咄嗟に、

「それは、ちがう、同名異人だよ、」と、すこし強い調子で、いった。

すると、芥川は、私がはじめて見る、きまりのわるそうな、しょげた、顏をして、それには答えずに、聞きとれないような低い声で、

「どうも、この家〔うち〕は、僕には、鬼門〔きもん〕』だ、」と、云った。

 

[やぶちゃん注:「アアサア・シモンズ」アーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons 一八六五年~一九四五年)はイギリスの詩人・文芸批評家・雑誌編集者。以下、ウィキの「アーサー・シモンズ」から引用する(数字を漢数字化した)。『十七歳でロバート・ブラウニング作品批評を』『発表、ブラウニング協会の会員とな』り、一八八〇~一八九〇年代には『時代を代表する複数の文芸雑誌に文学、舞台、美術、音楽と多岐にわたる芸術分野に関する批評、エッセイを執筆する一方』、“Days and Nights”(一八八九年)、“Silhouettes”(一八九二)、“London Nights”(一八九七)といった『詩集もたてつづけに発表している』。一八九六年には『文芸編集シモンズ、美術編集オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)という組み合わせで、芸術と文学の融合を目指した定期刊行物The Savoyを発行』、『その斬新かつ国際色豊かな執筆陣と内容は「前衛的な」と呼ぶにふさわしい内容であった』。『一八九九年、文芸批評代表作のひとつThe Symbolist Movement in Literature』(「象徴主義の文学運動」)を発表、これは『フランス、ベルギーですでに萌芽していた新しい文学運動をいち早く英語圏に紹介した批評集として』、エリオット、エズラ・パウンド、ジョイスといった『二十世紀のモダニズム作家達にも多大な影響を与えた』。『日本でも大正期の象徴派詩人に多大な影響を与えたことで知られる』。本邦での最初の邦訳は岩野泡鳴訳の「表象派の文学運動」(大正二(一九一三)年)であった。『ジプシーの生活に憧れ、外国語に堪能で旅を愛したシモンズは、数多くの旅行記も発表して』おり、“Cities”(一九〇三年)、この芥川との会話の中にも登場する“Cities in Italy”(一九〇七)などがある。『印象派詩人と評されることの多いシモンズらしい、眼に映る光景を個人の心象風景とともに色鮮やかに綴るスタイルは、同時に文学や美術の批評家としての側面も伺える独自の魅力を有している』。

「ヸョン」は十五世紀フランスの放蕩詩人フランソワ・ヴィヨン(François Villon 一四三一年?~一四六三年以後?)中世最大の詩人にしてシモンズの言うように最初の近代詩人とも称される。

「エレオノラ・デュウゼ」はイタリアの舞台女優エレオノーラ・ドゥーゼ(Eleonora Duse 、一八五八年~一九二四年)。ダンヌンツィオの戯曲やサラ・ベルナールの当たり役をイタリア語で演じてひのき舞台に出る。以下のウィキの「エレオノーラ・ドゥーゼ」によると(アラビア数字を漢数字に変更した)、『一八九五年に彼女はダヌンツィオの元を訪れ、共働して仕事に取り組んでゆくうちに二人のあいだにはロマンスが芽生えていった。しかし、ダヌンツィオが『死都』 ("La Città morta") の主役をドゥーゼではなくサラ・ベルナールに与えたため二人は猛烈な大喧嘩をし、ドゥーゼはダヌンツィオとの関係に終止符を打った。ダヌンツィオが彼女のために書いた戯曲は四本残された』。『名声が高まりゆくのを歓迎したサラ・ベルナールの外交的な性格とは対照的に、ドゥーゼは内向的かつ個人主義的で、芸術家肌の演技によってしか自己を語ろうとはしなかった。この好対照の二人は、長年にわたるライバルであった。この二人がロンドンで数日と間を置かずに同じ戯曲を上演したことがあるが、両方を観劇する機会を得た人物の一人にバーナード・ショーがいる。ショーはドゥーゼの方を高く買い、伝記作家のF. Winwarにも引用された断固たる賛辞を曲げなかった』。『ドゥーゼの伝記作家F. Winwarは、ドゥーゼはほとんど化粧をしなかったが「道徳的な装いをまとっていた。言い換えれば、自分の性格に潜む内的な衝動や悲しみや喜びが、自分の体を表現のための媒体として用いるがままにさせておき、それはしばしば彼女自身の健康を損なうほどであった」』と記している。『感情を伝達するために既成の表現法を用いていたそれまでの俳優に対して、ドゥーゼは先駆者として新しい表現を生み出した。彼女が「自己の滅却」と呼んでいた技法で、自分の描き出そうとする登場人物の内面に心を通じ合わせ、表現を自ずから湧き起こらせるというもので』、『一九〇九年に一度引退しているが、一九二一年にはアメリカとヨーロッパで契約を結んで舞台に復帰している』。後掲される南部修太郎と秀しげ子の邂逅事件大正十(一九二一)年九月二十四日よりも優位に後であることが判っているから、この会話時、デユウゼはカム・バックしていた。

「サラ・ベルナアル」サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年)はフランスの舞台女優。ウィキの「サラ・ベルナール」によれば(アラビア数字を漢数字に変更した)。一八六二年に満二二歳でデビュー『一八七〇年代にヨーロッパの舞台で名声を得ると、間もなく需要の多い全ヨーロッパとアメリカでも名声を得た。彼女は間もなく真面目な演劇の女優としての才能も現し、「聖なるサラ」との名を博した。恐らくは十九世紀の最も有名な女優』と言える。『一九一四年、レジオンドヌール勲章を授与され』たが、一九〇五年に上演中の舞台で右脚を負傷、一九一五年には『右脚を切断し、数ヶ月の間車椅子に座ったままだった。それでも彼女は、木製の義足を必要としたにもかかわらず、仕事を続けた』という。

「ダンヌンチヨ」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 1863年~1938年)はイタリアの詩人・作家・劇作家。彼の文学は『その高い独創性、力強さおよびデカダンスが高く評価されていたし、同時代の全ヨーロッパ文壇、また後世のイタリア作家たちに多大の影響を与えた』が、国家主義者としてイタリア・ファシスト運動の先駆者でもあったため、彼の世紀末の印象的な『作品群は現在では忘れ去られつつある感がある』(引用は参考にしたウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」より)。

「小満津」が正しい。食通大路魯山人の「魯山人の食卓」に鰻の上手い店の一つとして紹介されている。京橋にあったが後に閉店、ブランクを経て、現在、高円寺に場所を変えて再開している。

「ヴァンス・トムソン」ヴァンス・トンプソン(Vance Thompson 一八六三年~一九二五年)はアメリカの文芸評論家・小説家・詩人。一九〇〇年に刊行された“French Portraits: Being Appreciations of the Writers of Young France”はヨーロッパ・サンボリスムを解析した彼の代表的な評論。

「カテュウル・マンデス」カチュール・マンデス(Catulle Mendès 一八四一年~一九〇九年)はフランスの詩人・評論家。フランス初期のワグネリアンの一人として知られ、バイエルン王ルートヴィヒ二世とワーグナーを描いた長編小説“Le Roi vierge”(「童貞王」)』(一八八〇年)がある。

「ジャン・モレアス」(Jean Moréas 一八五六年~一九一〇年)、一八八六年に“Le Symbolisme”(「象徴主義宣言」)を起草した詩人。上田敏の「海潮音」に「賦〔かぞへうた〕」が載る。

「メリル」スチュアート・メリル(Stuart Merrill 一八六三年~一九一五年)はアメリカ出身の詩人。1890年よりフランスに移ってサンボリスムの理論家の一人となる。代表作に“Pastels in prose”(「散文によるパステル画」一八九〇年刊)、“Les Quatres Saisons”(「四季」一九〇〇年刊)。

「ヴェルハアレン」エミール・ベルハーレン(Émile Verhaeren 一八五五年~一九一六年)はフランス語で執筆活動をしたベルギーの詩人。当初はフランドルの自然を讃えた自然主義的抒情詩を創っていたが、一八八八年から九〇年にかけて出版した「夕暮」「壊滅」「黒い炬火〔たいまつ〕」の三部作の詩集では死と幻想のサンボリスムへと沈潜した。後には社会主義的傾向へと傾いた。

「ロオデンハッハ」ジョルジュ・ローデンバッハ(Georges Rodenbach 一八五五年~一八九八年)はベルギーの詩人・小説家。私の愛読書である幻想文学の金字塔「死都ブリュージュ」の作者。

「マウリス・バレス」モーリス・バレス(Maurice Barrès 一八六二年~一九二三年)はフランスの小説家・ジャーナリスト。ウィキモーリス・バレスによれば、『ナショナリズムや反ユダヤ主義などの視点による政治的発言でも知られ、フランスにおけるファシズムの思想形成に大きな役割を果たした』とあり、『政治思想では対照的なアナトール・フランスと人気を競』って、二十世紀前半のフランス知識人階級に影響を与える。代表作は観念小説三部作「自我礼拝」であるが、『日本では政治的立場の為か訳書が少なく、人気は余りない』とある。

「ヴァロットン」は恐らくスイス生まれの画家フェリックス・ヴァロトン(Felix Vallotton 一八六五年~一九二五年)。1882年にパリに出、ナビ派の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した。ルナールの「ん」の印象的な挿絵は彼が描いている(リンク先は私のテクストでヴァロトンの挿絵もある)。

「中華亭」不詳。日本料理でこの名前、識者の御教授を乞う。

「食傷新道」現在の日本橋区通一丁目附近、今は完全な高層ビル街に変貌して往時の印象は全くない。前注に記した白木屋は後に東急百貨店となり、更にその跡地に現在はコレド日本橋ビルがある。このコレドと左側にある西川ビルの間の今や何の変哲もない細い通りが、「白木屋の横町」「木原店」と呼ばれ、左右共に美味の評判高い小飲食店が目白押しに建ち並んでいた。ここは江戸時代、文字通り通一丁目として、江戸で最も繁華な場所で、明治のこの頃は未だその面影が残っており、東京一の飲食店街として浅草上野よりも知られた通りであった。俗に「食傷通り」、ここで宇野が言うように「食傷新道」などとも呼ばれた。

「トムソンは『養鷄法』の本を出しているよ」確認は出来なかったが、ヴァンス・トンプソンの英語版のウィキを見ると、食生活関連の叙述を残していることが知られており、彼がこうした著作を書いていないとは言えない。

「どうも、この家は、僕には、『鬼門』だ」は次の段で明らかになる。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (2)

 私は村人の興味をつなぐ何か新しい物をと思つて、今年はヴァイオリンを携へて來た。彼等に幾つかの曲を彈いた。併し私のわかる限りでは、現代の音樂はその珍しさのために、熱心には聞くがわからないらしい。愛蘭土の歌「アイリーン・オルーン」[可愛いゝアイリーンの意]のやうな物をより多く喜び、「ブラック・ローグ」――島で知られてゐる――のやうな舞踏曲を彈く時のみ、その調子の意味が彼等にしつくり來るらしい。昨夜、私は島の方方から他の目的で集まつて來た大勢の人達のために演奏した。

 六時頃、學校の先生の家へ行く途中で、西の方の道の下にある家の近くで一人の女と一人の男が激しく言ひ合つてゐる聲が聞こえた。それを聞いてゐる間に、幾人かの女が石垣の後からこれも聞きに下りて來た。そして私に語つたが、その爭つてゐた人達は近しい親戚の人で隣同志に住んでゐて、次の日は又もと通りの仲よしになるのだが、些細なことから時時口論するさうである。

 聲が餘り激しいので、何か間違ひでも起るかと思つたが、そんな事はないと女達は笑つてゐた。それから一寸中休みとなつたので、遂に終つたやうだと私が云ふと、

 「終つたのですつて!」一人の女が云つた。「まだ本當に初まつてないのですよ。まだふざけてゐるだけなのです。」

 日沒後で、非常に寒かつた。それで私は家の中にはひり、彼等と別れた。

 一時間の後、爺さんが宿から來て、幾人かの少年と「ファル・リーオンタ」(網の男――少年達に網繕ひを教へるアランモアの若い男)が上の家に來てゐて、私が歸つて音樂をすれば踊りたいといふことを告げに彼をよこしたと云つた。

 私は直ぐに出かけた。外氣にあたつたと思ふと、喧嘩がまだ西の方で、前より一層激しく行はれてゐるのを聞いた。此のしらせが島中に傳はつて、男女の可愛いい子供連中まで丁度競馬場へ行くやうに、一生懸命に喧嘩の現場の方へ道を驅けて行つた。

 私は宿の戸口で一寸立止つて、罵る聲が島の靜けさを通して折重つて起るのに耳傾けた。それから茶の間にはひつて行き、少年達が私の音樂をしきりに待つてゐるので、ヴァイオリンの調子を合はせ初めた。最初立つて彈かうと思つたが、弓を上へ押すと棰木からぶら下つてゐる鹽魚や雨合羽に觸はるので、邪魔にならないやうに、隅のテーブルの上に座を占め、臺を持つてゐなかつたので、音譜を一人の男に支へて貰つた。最初、皆を馴染ますために、また土間と頭の上の藁屋根との間の反響の少い部屋の效果に慣れるために、フランスの曲を彈いた。それから「ブラック・ローダ」を彈き初めた。すると直ぐに、煙突の下の腰掛から背の高い男が躍り出して、獨特な確かさで而かも優しみのある伊達な身振で、茶の間を飛び廻り出した。

 革草鞋の輕いために、此の島の踊りは本土では見たこともないほど、輕快でまた敏捷である。また人の純樸なために、歩調に巧まない奔放さを入れることが出來る。これは、人が自意識を持つてゐる處では不可能なことである。

 併し速度が激しかつたので、私の練習してない指ではついて行くのに骨が折れ、また演じられてゐる事を見ようと少しの注意をそらす事も出來なかつた。彈き終ると、戸口の處が騷騷しくなつた。喧嘩を見に行つた連中が全部茶の間の中へぞろぞろはひつて來たのである。彼等は壁の周りに列を作り、女達や娘の子は例の如くぎつしりとかたまつて扉の近くに中腰にしやがんだ。

 私は今一つの舞踏曲――「バディ起きよ」――を彈き初めた。すると「ファル・リーオンタ」と最初の踊り手が一緒になつて、はひつて來た人たちの前で興奮したやうに、前よりも一層早く且つ優美に、それをやり通した。それから「小さいロージャー」と呼ばれる老人が外にゐると誰云ふともなく云ひ出した。その人は昔島一番の踊り手であつたさうである。

 彼は年を取つて踊れないと云つて、長い間はひるのを拒んだが、遂にくどき落されて、中に入り、私の向ひ側に席を占めた。彼を踊らせるにはなかなか時間がかかつたが、踊つた時は大喝采を博した。併し、踊つたのは一寸の間に過ぎなかつた。彼は私の本にあるやうな舞踏曲は知らないと云つた。また知らない音樂に合はせて踊りたくはないと云つた。皆がもう一度と彼を促した時、私の方を向いた。

 「ジョン、『ラリー・グロガン』を持つてかるかね? 愉快な曲だがね。」と震へる英語で云つた。

 私は持つてゐなかつたので、若い人たちがもう一度、「ブラック・ローグ」に合はせて踊つた。

 それから集りは散會した。口論は下の家で、まだやつてゐる。人人はどんなになつたかと、氣をもんでゐた。

 十時頃、或る若者が來て、喧嘩は納まつたと知らせた。

 「これで四時間やつたんだからね。」彼は云つた。「草臥れてしまつてるよ。草臥れる筈だあね。何しろあのがなり立てる聲を聞くよりは、豚殺(ぶたごろし)の聲を聞いた方がどのくらゐましだか知れないからね。」

 踊つたり騷いだりした後なので、私たちは興奮して眠れなかつた。それで長い間、炭火の燃えさしを取圍んで坐りながら、蠟燭の燈の傍で話をしたり、煙草をふかしたりしてゐた。

 話は普通の音樂のことから、妖精の音樂のことに移つて行き、私のいくつかの話が終つた後で、次のやうな話を彼等はした。――

 

 或る日、村の向うの端に住んでゐた一人の男が鉄砲を手に入れて、小さな砦の丘近くのしげみの中に兎を探しに出かけた。一匹の兎が木の下に立つてゐるのを見て、それを撃たうと、鐵砲を取り上げたが、丁度狙ひを定めた時、頭の上で音樂のやうな物を聞いたので、空を見上げた。兎はと見返ると影も形も見えなかつた。

 その男はその後を追つて行くと、音樂がまた聞こえた。

 それで石垣見上げると、一匹の兎がその傍に坐つて、笛のやうなものを口に當てて、二本の指でそれを吹いてゐた。

 

「どんな兎だつたかね?」話が終ると、お婆さんが聞いた。「どうしたつて、それは本當の兎の筈はないだらう。パット・ディレイン爺さんがいつも云つてたのを憶ひ出すがね。あの人が或る時崖の上に行つたのさ。すると、板石の下の穴の中に、一匹の大きな兎が坐つてゐるのを見たさうだ。連れの男を呼んで、杖の先に鈎を附け、それを穴の中へさし込んだ。するとこんな聲で呼びかけた者があつた。――

 『ああ、ファドリック、鈎で私を傷つけるなよ!』

 「パットはひどい惡戲者(いたづらもの)つたよ。」爺さんは云つた。「よく杖の先に角を柄のやうにつけてゐたのを憶えてるだらう? 或る日坊さんがやつて來て、パットに云ふには、――

 『パット、お前の杖に附いてるのは惡魔の角ぢやないかね?』

 『何んだかよくは知りませんがね。』パットは言云つた。『これが惡魔の角なら、あんたも生れて生まれてから飮んでるのは惡魔の乳だし、あんたの食つてるのは惡魔の肉だし、あんたのパンに附けるのは惡魔のバターです。何しろ、こんな角は國中のどんな年取つた牝年の頭にもくつ附いてゐますからね。』」

 

 

 

This year I have brought my fiddle with me so that I may have something new to keep up the interest of the people. I have played for them several tunes, but as far as I can judge they do not feel modern music, though they listen eagerly from curiosity. Irish airs like 'Eileen Aroon' please them better, but it is only when I play some jig like the 'Black Rogue'--which is known on the island--that they seem to respond to the full meaning of the notes. Last night I played for a large crowd, which had come together for another purpose from all parts of the island.

About six o'clock I was going into the schoolmaster's house, and I heard a fierce wrangle going on between a man and a woman near the cottages to the west, that lie below the road. While I was listening to them several women came down to listen also from behind the wall, and told me that the people who were fighting were near relations who lived side by side and often quarrelled about trifles, though they were as good friends as ever the next day. The voices sounded so enraged that I thought mischief would come of it, but the women laughed at the idea. Then a lull came, and I said that they seemed to have finished at last.

'Finished!' said one of the women; 'sure they haven't rightly begun. It's only playing they are yet.'

It was just after sunset and the evening was bitterly cold, so I went into the house and left them.

An hour later the old man came down from my cottage to say that some of the lads and the 'fear lionta' ('the man of the nets'--a young man from Aranmor who is teaching net-mending to the boys) were up at the house, and had sent him down to tell me they would like to dance, if I would come up and play for them.

I went out at once, and as soon as I came into the air I heard the dispute going on still to the west more violently than ever. The news of it had gone about the island, and little bands of girls and boys were running along the lanes towards the scene of the quarrel as eagerly as if they were going to a racecourse. I stopped for a few minutes at the door of our cottage to listen to the volume of abuse that was rising across the stillness of the island. Then I went into the kitchen and began tuning the fiddle, as the boys were impatient for my music. At first I tried to play standing, but on the upward stroke my bow came in contact with the salt-fish and oil-skins that hung from the rafters, so I settled myself at last on a table in the corner, where I was out of the way, and got one of the people to hold up my music before me, as I had no stand. I played a French melody first, to get myself used to the people and the qualities of the room, which has little resonance between the earth floor and the thatch overhead. Then I struck up the 'Black Rogue,' and in a moment a tall man bounded out from his stool under the chimney and began flying round the kitchen with peculiarly sure and graceful bravado.

The lightness of the pampooties seems to make the dancing on this island lighter and swifter than anything I have seen on the mainland, and the simplicity of the men enables them to throw a naïve extravagance into their steps that is impossible in places where the people are self-conscious.

The speed, however, was so violent that I had some difficulty in keeping up, as my fingers were not in practice, and I could not take off more than a small part of my attention to watch what was going on. When I finished I heard a commotion at the door, and the whole body of people who had gone down to watch the quarrel filed into the kitchen and arranged themselves around the walls, the women and girls, as is usual, forming themselves in one compact mass crouching on their heels near the door.

I struck up another dance--'Paddy get up'--and the 'fear lionta' and the first dancer went through it together, with additional rapidity and grace, as they were excited by the presence of the people who had come in. Then word went round that an old man, known as Little Roger, was outside, and they told me he was once the best dancer on the island.

For a long time he refused to come in, for he said he was too old to dance, but at last he was persuaded, and the people brought him in and gave him a stool opposite me. It was some time longer before he would take his turn, and when he did so, though he was met with great clapping of hands, he only danced for a few moments. He did not know the dances in my book, he said, and did not care to dance to music he was not familiar with. When the people pressed him again he looked across to me.

'John,' he said, in shaking English, 'have you got "Larry Grogan," for it is an agreeable air?'

I had not, so some of the young men danced again to the 'Black Rogue,' and then the party broke up. The altercation was still going on at the cottage below us, and the people were anxious to see what was coming of it.

About ten o'clock a young man came in and told us that the fight was over.

'They have been at it for four hours,' he said, 'and now they're tired.

Indeed it is time they were, for you'd rather be listening to a man killing a pig than to the noise they were letting out of them.'

After the dancing and excitement we were too stirred up to be sleepy, so we sat for a long time round the embers of the turf, talking and smoking by the light of the candle.

From ordinary music we came to talk of the music of the fairies, and they told me this story, when I had told them some stories of my own:--

A man who lives in the other end of the village got his gun one day and went out to look for rabbits in a thicket near the small Dun. He saw a rabbit sitting up under a tree, and he lifted his gun to take aim at it, but just as he had it covered he heard a kind of music over his head, and he looked up into the sky. When he looked back for the rabbit, not a bit of it was to be seen.

He went on after that, and he heard the music again.

Then he looked over a wall, and he saw a rabbit sitting up by the wall with a sort of flute in its mouth, and it playing on it with its two fingers!

 

 

 

'What sort of rabbit was that?' said the old woman when they had finished. 'How could that be a right rabbit? I remember old Pat Dirane used to be telling us he was once out on the cliffs, and he saw a big rabbit sitting down in a hole under a flagstone. He called a man who was with him, and they put a hook on the end of a stick and ran it down into the hole. Then a voice called up to them--

"Ah, Phaddrick, don't hurt me with the hook!"

'Pat was a great rogue,' said the old man. 'Maybe you remember the bits of horns he had like handles on the end of his sticks? Well, one day there was a priest over and he said to Pat--"Is it the devil's horns you have on your sticks, Pat?" "I don't rightly know" said Pat, "but if it is, it's the devil's milk you've been drinking, since you've been able to drink, and the devil's flesh you've been eating and the devil's butter you've been putting on your bread, for I've seen the like of them horns on every old cow through the country." '

 

[やぶちゃん注:本パートは妖精譚を挟み、有意な行空けが底本及び原文にもあるが、全体が一つのシークエンスとなっているので纏めて採った。

「ヴァイオリン」原文は“fiddle”。以下、ウィキの「フィドル」から引用する。『フィドル(英語 fiddle, ドイツ語 Fiedel)は弓を用いて演奏する擦弦楽器のうち、ヴァイオリンを指す名称である。主にフォークミュージック、民族音楽で使われるヴァイオリンを指す。一方、英語のViolinの俗語でFiddleが使われることがあり、この場合、クラシックで使われるヴァイオリンにも使われる』。『元々イタリアで生まれたとされるヴァイオリンという言葉は、イタリア語から派生した言葉であり、フィドルは英語である』。『ヴァイオリンとフィドルの構造はまったく一緒だが、次の言葉が両者の違いを良く示している。「ヴァイオリンは歌う、しかしフィドルは踊る」「フィドルにビールをこぼしてもだれも泣くものはいない」』。『ソロの演奏が多い。また、二挺のフィドル演奏は多くの北アメリカ、スカンジナビア地方、アイルランド(アイリッシュスタイル)で見られる。フィドルの演奏は、巨大な民族及びフォークミュージックの伝統によって形作られ、各々が特色のある音を持っている』。なお、シングのヴァイオリンを甘く見てはいけない。シングは1888年にトリニティ・カレッジに入学後は主に音楽を学び、1892年に卒業後はプロの音楽家を目指してドイツへ留学しているのである。

「アイリーン・オルーン」“Eileen Aroon”十四世紀に生まれたアイルランド民謡の甘い恋歌であるが、かのバロックの巨匠ヘンデルが絶賛したという。「You tube」などで聴くことが出来る。

「ブラック・ロウグ」“Black Rogue”の“Rogue”は、親しみを込めた「しょうがない奴・悪戯っ子・腕白小僧」、古風に「悪漢・ごろつき・詐欺師」、「浮浪者」、群れを離れた「はぐれもの・はみ出し者」と言った、ある意味、アイルランド人好みのキャラクターを示す語である。それにダメ押しの「黒」であるから、「悪たれ餓鬼んちょ黒っ子」といった感じか。やはり「You tube」などで聴くことが出来る。所謂、典型的な陽性のアイルランド・ジグである。

「バディ起きよ」“Paddy get up”。不詳。私が見つけた「You tube」の“Irish Arsenal Song 'By Jesus said Paddy'”とは別物か。これは軍歌らしく、バーで酔った男連中が只管、シャウトしているばかりで、踊りを合わせられそうなものではない。

「ラリー・グロガン」“Larry Grogan”。不詳。人名である。参考までに、後に、アイルランド共和国軍(IRA)に属し、アイルランド共和党の活動家となった政治家にラリー・グローガン(Labhras Gruagain 1899年~1979年)なる人物がいる。

「ファドリック」原文は“Phaddrick”。これは通称「パット」爺さんの本名である。アイルランドの聖人パトリキウスにちなんでアイルランド人に多い男性名であるが、通常は“Patrick”「パトリック」と綴る。極めて特異で、これで検索をかけると正にシングの「アラン島」のこの台詞がごっそり検索にかかってしまう。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (1)

   第 四 部

 

 此の群島へ二度旅をすれば二度とも變つたことに出遇ふ。今朝、私は五時少し過ぎ、灣の上には星が輝いて空氣の冷い中を汽船で出發した。多くのクラダの漁夫達は港から程遠くない處で夜通し釣に出てゐた。そして彼等は汽船のことを考へずに、恐らく考へることを好まずに、その通る道筋の海峽の中へ網を張つてゐた。出發の直前、運轉手が彼等を警告するために再三、汽笛を鳴らした。鳴らしながら、こんな事を云つた。――

 「皆さん、今、灣の中へ出て行くと、素晴らしい祈り聲を聞きますよ。」

 少し行くと漁夫の持つてゐる泥炭の火が、波間に見えつ隱れつするのが見え出し、恕つてゐる聲がかすかに聞こえ出した。そのうち大きな漁船の形が闇の中に現はれて來た。甲板に立つてゐる三人の人影が、こちらに向つて、航路を變へてくれと吠えるやうに呶鳴つてゐた。船長は海峽近くに砂洲があるので、脇へそれるのを恐れた。それで機關を止めて網の上をそれを害せぬやうに、靜かに通り過ぎる。船の直ぐ近くを通りながら、船頭達が甲板にゐるのがよく見える。一人は赤い泥炭の鉢を手に持ち、罵る聲ははつきりと聞こえた。それはゲール語の言葉數の多い呪詛から英語で知つてゐる簡單な怨言へ、絶えず變化した。物を云ひながら恕りに身をくねらし、悶えてゐるのが、海の小波の上に次第に明くなり初める光を背景にしてよく見えた。それから直ぐ後も、また幾人かの共に叫ぶ聲が前の方に起り初めたが、薄れ行く星影、曉の靜けさに妙なとり合はせであつた。

 その先でも多くの小船に出逢つたが、海峽に網を張つてゐなかつたので、何んとも云はずに通してくれた。それから夜は、寒い時雨と共に明けて行つて、その時雨は、波の谷を面白い透明と明るさで充たす太陽の第一閃の中に金色に變つた。

 

 

NO TWO JOURNEYS to these islands are alike. This morning I sailed with the steamer a little after five o'clock in a cold night air, with the stars shining on the bay. A number of Claddagh fishermen had been out all night fishing not far from the harbour, and without thinking, or perhaps caring to think, of the steamer, they had put out their nets in the channel where she was to pass. Just before we started the mate sounded the steam whistle repeatedly to give them warning, saying as he did so--'If you were out now in the bay, gentlemen, you'd hear some fine prayers being said.'

When we had gone a little way we began to see the light from the turf fires carried by the fishermen flickering on the water, and to hear a faint noise of angry voices. Then the outline of a large fishing-boat came in sight through the darkness, with the forms of three men who stood on the course. The captain feared to turn aside, as there are sandbanks near the channel, so the engines were stopped and we glided over the nets without doing them harm. As we passed close to the boat the crew could be seen plainly on the deck, one of them holding the bucket of red turf, and their abuse could be distinctly heard. It changed continually, from profuse Gaelic maledictions to the simpler curses they know in English. As they spoke they could be seen writhing and twisting themselves with passion against the light which was beginning to turn on the ripple of the sea. Soon afterwards another set of voices began in front of us, breaking out in strange contrast with the dwindling stars and the silence of the dawn.

Further on we passed many boats that let us go by without a word, as their nets were not in the channel. Then day came on rapidly with cold showers that turned golden in the first rays from the sun, filling the troughs of the sea with curious transparencies and light.

 

[やぶちゃん注:「クラダ」原文“Claddagh”。はゴールウェイ西部海岸地域の呼称。ゲール語“An Cladach”は「石の多い浜」の意。アイルランド最古の漁村の一つであったが、現在はゴールウェイの最高級居住区に変貌してしまった。愛・友情・忠誠のシンボルとされる冠のついたハートを二つの手が握るクラダ・リングはここのクラダの伝統工芸品である(以上はウィキクラダ」を参照した)。]

ジョン・ミリングトン・シング 姉崎正見訳 アラン島 第三部 全

「心朽窩 新館」に『ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部』(ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵 附やぶちゃん注)を公開した。

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (13) 第三部 了

 わし等はダブリンの波止場で、一人の男があちこち歩きながら、何んにも云はずに、こつちを眺めてゐるのを見た。するとその男はヨットの方へやつて來た。

 「あんた方はアランから來たんですか?」と聞いた。

 「さうです」とわし等は云つた。

 「私と一緒にお出でなさい。」 彼は云つた。

 「何故です?」わし等は云つた。

 すると彼はシングさんからの使だと云ふので、わし等は彼と一緒に行つた。シングさんはわし等を茶の間に通して、ウィスキーをーぱいづつ皆んなに振舞ひ、わしは子供だつたから――と云つてもわしはその時だつて、今だつて二人分を飮んでも、何ともないが――コップに半分くれた。暫く茶の間に居て、一人の男が行かうと云ふので、わしはシングさんに一言も挨拶をせずに行くのはいけないと云つた。すると女中が上に上つて行つて、下に呼んで貰つた。そしてまたウィスキーのコップを貰ひ、わしには、船乘にならうとしてゐて、又それが讀めると云ふので、愛蘭土語の本を一册くれた。

 わしはその後三十年間、一言だつて愛蘭土語を聞かなかつたが、此處へ歸つて來て島の誰にも負けずに、又それ以上に愛蘭土語を話せたのは、シングさんとその本のお蔭なのだ。

 

 彼の話から推して、彼は此の餘り知られてゐない言葉をよく知つてゐると云ふので、他の普通の船乘に對して優越感を持ち、それが彼の全性格へ影響し、又それが生活に於ける興味の中心になつてしまつたと私に考へられた。

 或る航海の時、仲間の水夫の中に、學校にゐて、ギリシア語を習つたことを時時鼻にかける者がゐた。それでこんな事件が起つた。――

 

 或る晩、喧嘩をした。わしは彼に口先のやうにギリシア語の本が讀めるのかと聞いてみた。

 「讀めるさ。」 彼は云つた。

 「そんなら、讀んで見ろ。」 わしはさう云つて、函から愛蘭土語の本を取り出して渡した。

 「ギリシア語を知つてるなら、これを讀んで見ろ。」 わしは云つた。

 彼はそれを取つて、と見かう見してゐたが、さつぱりわからない。

 「おや、ギリシア語は忘れちやつたぞ。」 彼は云つた。

 そこで本を取り返して、わしは云つた。――

 「それはお前さんが昔習つたギリシア語ぢやないんだ。此の本には、ギリシア語は一言も書いてない。だからわからないのさ。」

 

 また彼は航海中に、ただ一度だけ愛蘭土語を話すのを聞いたといふ話をした。

 

 或る晩、わしはニューヨークで他の男たちと街を歩いてゐると、酒屋の入口の前で二人の女が愛蘭土語で喧嘩をしてゐるのに出違つた。

 「何んたる寢言だらう?」一人の男が云つた。

 「あれは寢言ぢやない。」 わしは云つた。

 「ぢや何んだい?」彼は云つた。

 「愛蘭土語さ。」 わしは云つた。

 それからわしはその女達の方へ行つた。あんたも御承知の通り、愛蘭土語ほど人を慰め和らげるものはない。わしが女達に物を云ひかけると、直ぐにつかみ合ひも惡口も止めて、二匹の羊のやうにおとなしくなつた。

 それから、その女達はわしに中にはひつて、一杯やらないかと愛蘭土語で云ふので、わしは連れと別れる事が出來ないと云つた。

 「その人たちも連れて來なさい。」と女達は云つた。

 そこでわし等は皆んなして一杯やつた。

 

 私たちが話してゐると、他の男がそつとはひつて來て、パイプを銜へながら片隅に腰掛けた。

 雨は激しくなつて來て、鐵板の屋根の音で、私たちの聲は殆んど聞こえなかつた。

 爺さんは海上の經驗談やまた嘗つて訪れた土地の經驗談を話し續けた。

 「若しわしが生涯を再び繰り返すとしても、」彼は云つた。「これより他の生き方はない。わしはあらゆる處を訪れ、あらゆるものを見た。生涯の中で醉拂つたことはないけれども、盃を手にすることは決して恐れない。また金のためにトランプをやつたことはないけれども、わしはトランプの名人だつた。」

 「金のためにトランプをしなけりや面白味はない。」 片隅にゐた男が云つた。

 「金のためにトランプをしても、わしは駄目だ。」爺さんは云つた。「何故つて、始終負けてばかりゐたからさ。負けてばかりゐて、トランプをしたつて、何んにもなりやしない。」

 それから、話は愛蘭土語のこと、及びそれで書かれた本のことに移つて行つた。

 彼はムーアの「愛蘭土のしらべ」[Thomos Moore は愛蘭土の詩人、その詩集「Irish Melodies」は最も有名である]のマックヘール大僧正譯を英語と愛蘭土語の兩方で、その全體を讀みながら、嚴しく鋭く批評し初めた。それから彼自身の作つた譯を見せた。

 「飜譯が詩の言葉に伴つた音律を傳へないなら、それは飜譯ぢやない。」彼は云つた。「わしの譯には英語にない韻脚或は音節は一つも見つからないだらう。而かも言葉の意味は餘す所なく傳へ、足りない處はない。マックヘール大僧正の譯は一番つまらないものだ。」

 彼が引用した詩の句よりすると、その判斷は全く正しいやうであつた。たとへ間違つてゐるとしても、こんなつまらない船乘乃至夜番が忽ち昂奮して作詩法といふ稍々微妙な問題やゲール語のやうな古い言葉の細かい區別に關して、名高い高僧にして且つ學者なる人を批評しようとすることを思ふと、面白いことであつた。

 彼の秀いでた智慧や細かい觀察にもかかはらず、その推理は中世風であつた。

 私は此の島に於ける愛蘭土語の將來に就いて、彼の意見を聞いてみた。

 「それは決して亡び果てる事はありません。」彼は云つた。「何故つて、馬鈴薯畑の少しでもなければ、此處の家族たちは暮らして行けず、而かも其處で話す言葉は皆愛蘭土語ばかりを使つてゐるのだから。その人達は新しい船――漁船――を操る時は英語を使ふが、カラハを操る時は愛蘭土語を使ふ方が多い。畑では愛蘭土語ばかりだ。それは決して亡びはしません。非常に衰へたと見え出す時も、また不死鳥のやうにその死灰から甦るでせう。」

 「そしてゲーリック聯盟は?」私は聞いた。

 「ゲーリック聯盟! それは此處へもやつて來た。その設立者も、書記も、會合も演説も。そして支部が發會され、五週間半[やぶちゃん注:「五週間半」の頭右手にポイント落ちの「*」が附いている。]の間に澤山の愛蘭土語が教へられたぢやありませんか!」

 「此處で愛蘭土語を教へて、何する積りだらう?」隅の男が云つた。「我我は愛蘭土語を充分知つてゐるぢやないか?」

 「知つてやしない。」爺さんは云つた。「アランで英語を使はずに九百九十九まで數へ上げることの出來る者は、わしの外に一人だつてありやしない。」

 夜も更けて行き、雨は暫く小降りになつたので、私は秋の夜更けの深い闇の中を、手探りしながら宿へ歸つて行つた。

 

 これは數年前に書かれたといふことを考へててもらひたい(原著者註)。

[やぶちゃん注:この註は、底本では全体がポイント落ち。]

 

 

We saw a man walking about on the quay in Dublin, and looking at us without saying a word. Then he came down to the yacht. 'Are you the men from Aran?' said he.

'We are,' said we.

'You're to come with me so,' said he. 'Why?' said we.

Then he told us it was Mr. Synge had sent him and we went with him. Mr. Synge brought us into his kitchen and gave the men a glass of whisky all round, and a half-glass to me because I was a boy--though at that time and to this day I can drink as much as two men and not be the worse of it. We were some time in the kitchen, then one of the men said we should be going. I said it would not be right to go without saying a word to Mr. Synge. Then the servant-girl went up and brought him down, and he gave us another glass of whisky, and he gave me a book in Irish because I was going to sea, and I was able to read in the Irish.

I owe it to Mr. Synge and that book that when I came back here, after not hearing a word of Irish for thirty years, I had as good Irish, or maybe better Irish, than any person on the island.

 

 

I could see all through his talk that the sense of superiority which his scholarship in this little-known language gave him above the ordinary seaman, had influenced his whole personality and been the central interest of his life.

On one voyage he had a fellow-sailor who often boasted that he had been at school and learned Greek, and this incident took place:--

One night we had a quarrel, and I asked him could he read a Greek book with all his talk of it.

'I can so,' said he.

'We'll see that,' said I.

Then I got the Irish book out of my chest, and I gave it into his hand.

'Read that to me,' said I, 'if you know Greek.'

He took it, and he looked at it this way, and that way, and not a bit of him could make it out.

'Bedad, I've forgotten my Greek,' said he.

'You're telling a lie,' said I. 'I'm not,' said he; 'it's the divil a bit I can read it.'

Then I took the book back into my hand, and said to him--'It's the sorra a word of Greek you ever knew in your life, for there's not a word of Greek in that book, and not a bit of you knew.'

 

 

He told me another story of the only time he had heard Irish spoken during his voyages:--

One night I was in New York, walking in the streets with some other men, and we came upon two women quarrelling in Irish at the door of a public-house.

'What's that jargon?' said one of the men.

'It's no jargon,' said I.

'What is it?' said he.

'It's Irish,' said I.

Then I went up to them, and you know, sir, there is no language like the Irish for soothing and quieting. The moment I spoke to them they stopped scratching and swearing and stood there as quiet as two lambs.

Then they asked me in Irish if I wouldn't come in and have a drink, and I said I couldn't leave my mates.

'Bring them too,' said they.

Then we all had a drop together.

 

 

While we were talking another man had slipped in and sat down in the corner with his pipe, and the rain had become so heavy we could hardly hear our voices over the noise on the iron roof.

The old man went on telling of his experiences at sea and the places he had been to.

'If I had my life to live over again,' he said, 'there's no other way I'd spend it. I went in and out everywhere and saw everything. I was never afraid to take my glass, though I was never drunk in my life, and I was a great player of cards though I never played for money'

'There's no diversion at all in cards if you don't play for money' said the man in the corner.

'There was no use in my playing for money' said the old man, 'for I'd always lose, and what's the use in playing if you always lose?'

Then our conversation branched off to the Irish language and the books written in it.

He began to criticise Archbishop MacHale's version of Moore's Irish Melodies with great severity and acuteness, citing whole poems both in the English and Irish, and then giving versions that he had made himself.

'A translation is no translation,' he said, 'unless it will give you the music of a poem along with the words of it. In my translation you won't find a foot or a syllable that's not in the English, yet I've put down all his words mean, and nothing but it. Archbishop MacHale's work is a most miserable production.'

From the verses he cited his judgment seemed perfectly justified, and even if he was wrong, it is interesting to note that this poor sailor and night-watchman was ready to rise up and criticise an eminent dignitary and scholar on rather delicate points of versification and the finer distinctions between old words of Gaelic.

In spite of his singular intelligence and minute observation his reasoning was medieval.

I asked him what he thought about the future of the language on these islands.

'It can never die out,' said he, 'because there's no family in the place can live without a bit of a field for potatoes, and they have only the Irish words for all that they do in the fields. They sail their new boats--their hookers--in English, but they sail a curagh oftener in Irish, and in the fields they have the Irish alone. It can never die out, and when the people begin to see it fallen very low, it will rise up again like the phoenix from its own ashes.'

'And the Gaelic League?' I asked him.

'The Gaelic League! Didn't they come down here with their organisers and their secretaries, and their meetings and their speechifyings, and start a branch of it, and teach a power of Irish for five weeks and a half!" [a]

'What do we want here with their teaching Irish?' said the man in the corner; 'haven't we Irish enough?'

'You have not,' said the old man; 'there's not a soul in Aran can count up to nine hundred and ninety-nine without using an English word but myself.'

It was getting late, and the rain had lessened for a moment, so I groped my way back to the inn through the intense darkness of a late autumn night.

 

 [a] This was written, it should be remembered, some years ago.

 

[やぶちゃん注:第三部は、島から心情的には去りかねているシングを見透かしたように、天候が悪化し、涙雨を降らせる。私は個人的にはこの第三部の終わり方が最も印象的で好きだ。

「何んたる寢言だらう?」“What's that jargon?”。“jargon”(ジャーゴン)とは仲間うちにだけ通じる特殊用語、符牒。専門用語や職業用語も指し、転じて、「訳の分からない意味不明の言葉」を言う。アメリカで英語を母語とする人間が初めて純粋にゲール語の喧嘩(静かな会話ではない)を聴いたとすれば、構文法は元より、単語の共通性も皆無であるから、単なる符牒や内輪のスラングと感じたとは思えない。「何だ!? あの訳の分からん奇天烈な言葉は!?」といった感じであろう。

Thomos Moore は愛蘭土の詩人、その詩集「Irish Melodies」は最も有名である」アイルランドの叙情詩人トーマス・ムーア(1779年~1852年)の採集した、この「アイルランド歌曲集」にある「名残のばら」“The Last Rose of Summer”は1805年に当時二十六歳のムーアがアイルランド南東部“Kilkenny”(キルケニー)近郊の“Jenkinstown Park”(ジェンキンスタウン・パーク)滞在中に作詞したとされ、本邦では菊に読み替えられて、有名な童謡「庭の千草」として歌われている。

『彼はムーアの「愛蘭土のしらべ」のマックヘール大僧正譯を英語と愛蘭土語の兩方で、その全體を讀みながら、嚴しく鋭く批評し初めた。それから彼自身の作つた譯を見せた。』 原文は“He began to criticise Archbishop MacHale's version of Moore's Irish Melodies with great severity and acuteness, citing whole poems both in the English and Irish, and then giving versions that he had made himself.”であるが、言わずもがな乍ら、これら――ムーアの“Irish Melodies”英語で書かれた詩と、それをマックヘール大僧正がゲール語に訳したそれ、さらに同じ詩を老人がオリジナルにゲール語に訳したもの――総てを、このみすぼらしいトタン屋根の雨音の響く中で、暗誦しているのである。シークエンスから本を開いてと誤読する可能性は低いが、やはり邦訳としては、せめて『彼はムーアの「愛蘭土のしらべ」のマックヘール大僧正譯を英語と愛蘭土語の兩方で、その全體を《暗誦し》ながら、嚴しく鋭く批評し初めた。それから彼自身の作つた譯を《諳んじて》見せた。』としたい。

「マックヘール大僧正」“Archbishop MacHale”(ゲール語 Seán Mac Héil 1791年~1881年)アイルランドのローマ・カトリック大司教で、ゲール語で説教を行い、アイルランド独立運動の旗手でもあった。

「ゲーリック聯盟! それは此處へもやつて來た。その設立者も、書記も、會合も演説も。そして支部が發會され、五週間半[やぶちゃん注:「五週間半」の頭右手にポイント落ちの「*」が附いている。]の間に澤山の愛蘭土語が教へられたぢやありませんか!」の「*」は、原文を見るとこの老人の台詞の外の末尾に付されている。従って「五週間半の間に澤山の愛蘭土語が教へられたぢやありませんか!」に限定した注ではなく、この老人の台詞全体への注である。シングがこの三度目にアランに帰ったのが1900年、本書の出版は1907年で、ゲール語連盟の設立は直近の1893年、その中心人物であり、1938年に初代アイルランド大統領になった“Douglas Hyde”(ゲール語 Dubhghlas de hÍde ダグラス・ハイド 1860年~1949年)が、本格的なゲール語復興運動を起すには、まだまだ時間がかかった。因みに、ウィキアイルランドによれば、現代のアイルランド国内にあっては、アイルランド語保護地区である“Gaeltacht”(ゲールタハト)を除く『ほとんどの地域においては義務教育終了後、または就職後には忘れ去られ、使われなくなってしまうことが多い』とし、『多くのアイルランド国民にとって、アイルランド語はラテン語学習同様、非常に退屈なものである。英語化が進行していく過程においては、辺境の言語、貧者の言語、劣等者の言語とさえみなされていたアイルランド語であるが、今日あえてこれを話すのはむしろ、やや気取った人間だという偏見さえある』。『アイルランド政府は様々な保護策を採っており、ゲールタハトのネイティブなアイルランド語話者の家庭には、その土地に居住し続けることを条件に政府から補助金などが支給されている。しかし、英語がアイルランドの優勢言語であり、英語に長けていない者は社会的に不利な立場にあるという現実から、アイルランド語を母語とする親も子供の将来を考え、子供にはあえて英語で話しかける傾向にある』。『このような状況から、西部の一部の海岸地域に点在するゲールタハトを除いては、アイルランドの日常生活においてアイルランド語の会話はほとんど聞かれないのが実情である。またゲールタハトも人口過疎の僻地に偏っており、比較的話者が多いと思われる唯一の都市(シティ)は西部のゴールウェイのみである』と記す。この現状をシングやこの老人が知ったら――さて、どう思うであろう――]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (12)

 今朝は汽船が着くかどうか少し怪しかつたほど、風が強かつた。それで、半日をマイケルと一緒に、水平線を眺めながらぶらぶら歩いて過した。

 遂に斷念した時、汽船が遙か北の方に姿を見せた。汽船は波の最も高い處で追風を受けねばならぬので、そちらの方を通るのであつた。

 私は宿から荷物を取り出し、マイケルや爺さんと一緒に船卸臺の方へ出かけ、此處彼處へさよならを云ひに立寄つた。

 外の風にもかかはらず船卸臺の所の海は池のやうに靜かであつた。船が南島に寄つてゐる間、そこらに立つてゐる人達は、私がまた彼等に逢ひに來る時には結婚してゐるかどうかを、これを最後と問題にしてゐた。それから私たちは漕ぎ出して行つて、列の中に位置を占めた。汐が激しく流れてゐたので、汽船は岸から相當離れて止つた。その舷側のよい位置を占めるためには長い競爭をするやうになつた。一生懸命にやつたが、私たちの方は餘り成功しなかつた。それで甲板へ上るために、うねりで曲り、ぐらぐら搖れるカラハを二つ越えて、攀ぢ上らねばならなかつた。

 見知り顏の人を大勢乘せてゐるカラハが私を連れずに、船卸臺の方へ引返して行くのを見るのは妙な感じがしたが、瀨戸のうねりは直ぐに、私の注意をその方へそらした。船には南島で逢つた幾人かの人が乘つてゐた。また澤山のゴルウェーから歸りがけの人もゐた。此の人達は朝渡つて來る途中海の一所で大暴れに逢つたと語つてゐた。

 土曜日の例として、船はキルロナンに下ろす小麥や黑ビールの澤山の荷を積んでゐた。そして汐が波止場に船を浮ばせないうちに、四時近くなつたので、ゴルウェ一に渡るのは少し怪しく思はれた。

 午後が下るにつれて、風は吹き募つて來た。夕方の薄明りの中を下りて行くと、荷物はまだすつかりは下ろされてゐず、船長は盛んになる強風を衝いて行くのを心配してゐるのであつた。彼が最後の決定を下すまでには時間がかかつた。私たちは、厚い雲が頭の上を飛び、風が石垣に吠えてゐる村を行つたり來たりした。終に彼は翌日用があるかどうかを知らうとゴルウェ一に電報を打つた。その返事を待つため、私たちは酒場にはひつた。

 茶の間には、爐の兩側に長い列を作つてぎつしりと、人が一杯に坐つてゐた。粗野な顏をしてゐるが美しい一人の娘の子が爐邊に膝をついて男達と大聲に話してゐた。また幾人かのイニシマーンの土地の人は身汚く醉つて扉に凭れてゐた。茶の間の奧には酒飮場が設けてあり、その傍の奧の間のやうな處では、老人達が幾人かトランプをしてゐた。頭の上のむき出しの垂木には、炭や煙草の煙が一杯であつた。

 これは他の島の女達に非常に恐れられてゐる場所である。此處で、男達は金を懷にして長尻し、遂によろめく足取りで外へ出て、瀨戸で命を墜してしまふのである。男たちが毎晩毎晩安いウィスキーや黑ビールを飮み、漁のこと、海草灰のこと、煉獄の苦しみのことを繰り返し繰り返し語りながら坐つてゐる此の簡單な遊び場に、空(から)のカラハや汐のまにまに浮かんでゐる裸かの死體の背景がなければ、何かしら殆んど不調和なものがあらう。

 ウィスキーを飮み終ると、船は留まるかも知れないといふ聲が起つた。

 やつとの事で荷物を汽船から出した。そしてそれを、小麥粉の袋、石油の罐の名状すべからざるほどごたごたした中で、揉み合ひ押し合ひしてゐる女達や驢馬の群を押し分けて運び上げた。

 宿に着くと、お婆さんの機嫌は大へんよかつた。暫く茶の間の爐で話しながら時間を費した。それから暗い道を手探りして港へ引返した。其處では、最初私が島へ來た時に逢つた網繕ひの爺さんが夜番をしてゐると聞いたからであつた。

 波止場は眞暗で、恐ろしい嵐が吹いてゐた。彼がゐるだらうと思つた小さな事務所には誰もゐないので、ランターンの燈で動いてゐる人影の方へ、手探りしてまた進んで行つた。

 それは爺さんであつた。挨拶して私の名を云ふと直ぐに憶ひ出した。暫くの間、ランターンの用意をしてゐて、それから私をその事務所――波止場で進行中の仕事の請負師のため、建てた板と生子鐵板の只の小屋--に連れて行つてくれた。

 私たちが燈の所に來た時、私は、寒さ除けに途方もなく何枚も襟卷をしてゐる彼の頭を見た。その顏には今でも、多分に賢さうな所があるが、此の前逢つた時よりは餘程年取つて見えた。

 彼は四五十年前、船給仕となつて、初めて島を離れた時、ダブリンで私の親戚に逢ひに行つた顚末を語り出した。

 彼は例の如く詳しく話した。――

 

 

The wind was so high this morning that there was some doubt whether the steamer would arrive, and I spent half the day wandering about with Michael watching the horizon.

At last, when we had given her up, she came in sight far away to the north, where she had gone to have the wind with her where the sea was at its highest.

I got my baggage from the cottage and set off for the slip with Michael and the old man, turning into a cottage here and there to say good-bye.

In spite of the wind outside, the sea at the slip was as calm as a pool. The men who were standing about while the steamer was at the south island wondered for the last time whether I would be married when I came back to see them. Then we pulled out and took our place in the line. As the tide was running hard the steamer stopped a certain distance from the shore, and gave us a long race for good places at her side. In the struggle we did not come off well, so I had to clamber across two curaghs, twisting and fumbling with the roll, in order to get on board.

It seemed strange to see the curaghs full of well-known faces turning back to the slip without me, but the roll in the sound soon took off my attention. Some men were on board whom I had seen on the south island, and a good many Kilronan people on their way home from Galway, who told me that in one part of their passage in the morning they had come in for heavy seas.

As is usual on Saturday, the steamer had a large cargo of flour and porter to discharge at Kilronan, and, as it was nearly four o'clock before the tide could float her at the pier, I felt some doubt about our passage to Galway.

The wind increased as the afternoon went on, and when I came down in the twilight I found that the cargo was not yet all unladen, and that the captain feared to face the gale that was rising. It was some time before he came to a final decision, and we walked backwards and forwards from the village with heavy clouds flying overhead and the wind howling in the walls. At last he telegraphed to Galway to know if he was wanted the next day, and we went into a public-house to wait for the reply.

The kitchen was filled with men sitting closely on long forms ranged in lines at each side of the fire. A wild-looking but beautiful girl was kneeling on the hearth talking loudly to the men, and a few natives of Inishmaan were hanging about the door, miserably drunk. At the end of the kitchen the bar was arranged, with a sort of alcove beside it, where some older men were playing cards. Overhead there were the open rafters, filled with turf and tobacco smoke.

This is the haunt so much dreaded by the women of the other islands, where the men linger with their money till they go out at last with reeling steps and are lost in the sound. Without this background of empty curaghs, and bodies floating naked with the tide, there would be something almost absurd about the dissipation of this simple place where men sit, evening after evening, drinking bad whisky and porter, and talking with endless repetition of fishing, and kelp, and of the sorrows of purgatory.

When we had finished our whiskey word came that the boat might remain.

With some difficulty I got my bags out of the steamer and carried them up through the crowd of women and donkeys that were still struggling on the quay in an inconceivable medley of flour-bags and cases of petroleum. When I reached the inn the old woman was in great good humour, and I spent some time talking by the kitchen fire. Then I groped my way back to the harbour, where, I was told, the old net-mender, who came to see me on my first visit to the islands, was spending the night as watchman.

It was quite dark on the pier, and a terrible gale was blowing. There was no one in the little office where I expected to find him, so I groped my way further on towards a figure I saw moving with a lantern.

It was the old man, and he remembered me at once when I hailed him and told him who I was. He spent some time arranging one of his lanterns, and then he took me back to his office--a mere shed of planks and corrugated iron, put up for the contractor of some work which is in progress on the pier.

When we reached the light I saw that his head was rolled up in an extraordinary collection of mufflers to keep him from the cold, and that his face was much older than when I saw him before, though still full of intelligence.

He began to tell how he had gone to see a relative of mine in Dublin when he first left the island as a cabin-boy, between forty and fifty years ago.

He told his story with the usual detail:--

 

[やぶちゃん注:原文では、以下、文章が続いているが、ここで一区切りとする。

「夕方の薄明りの中を下りて行くと、荷物はまだすつかりは下ろされてゐず、」原文は“and when I came down in the twilight I found that the cargo was not yet all unladen,”なのであるが、これは一見、船倉に降りたら、という感じに読めるのであるが、そうではなく、実はこの直後にシングはこのゴルウェー行の船から一度、最終寄港地であるアランモア島に上陸していて、船着場と「風が石垣に吠えてゐる」キルロナンの「村」との間「を行つたり來たりし」ているのである。どこかに汽船から一度、島へ戻るシーンが描かれていないと不自然である。すると“came down”がそれらしく見えてくる。これは汽船(は当然船端が高いから降りることになるし、正に船を「降りる」とも言うのだから)から「降りて」、船卸台までカラハで戻ってみると、そこには汽船からイニシマーンに送られた降ろされるべき荷物さえ「まだすつかりは下ろされて」いなかったことが判った、ということではあるまいか? 因みに栩木氏もここを『宵闇が迫る頃、ようすを見に埠頭へ戻ってみたのだが、』と意訳されている。

「やつとの事で荷物を汽船から出した。そしてそれを、小麥粉の袋、石油の罐の名状すべからざるほどごたごたした中で、揉み合ひ押し合ひしてゐる女達や驢馬の群を押し分けて運び上げた。」原文は“With some difficulty I got my bags out of the steamer and carried them up through the crowd of women and donkeys that were still struggling on the quay in an inconceivable medley of flour-bags and cases of petroleum.”であるから、前注と同様、ここには省略がある。汽船から降ろし、カラハで運び、そして「小麥粉の袋、石油の罐の名状すべからざるほどごたごたした」波止場の船卸台の混乱の「中で、揉み合ひ押し合ひしてゐる女達や驢馬の群を押し分け」つつ、やっと荷物を再度島へ(船卸台から上方のパブへと)「運び上げた」のである。

「何かしら殆んど不調和なものがあらう。」これは、男たちの泥酔と乱痴気騒ぎと馬鹿っ話が毎晩毎晩展開されるこの胡散臭いパブの壁の向こうに、「空のカラハや汐のまにまに浮かんでゐる裸かの死體」という厳然たる恐ろしい死の影が漂っていなかったなら、これはもう「何かとんでもなく阿呆臭い馬鹿げたものにしか感じられないであろう」、それほどこのパブの見た目の雰囲気は常軌を逸した下劣さに満ちている、という意味である。

「最初私が島へ來た時に逢つた網繕ひの爺さん」この「最初」とはシングがアラン島へ初めてやって来た時のことを指す。則ち、第一部の頭で、

   *

 今夜、一人の老人が私を訪ねて來た。彼は四十三年前、暫く此の島にゐた私の親戚を知つてゐると云つた。

 「お前さんが船からやつて來る時、私は波止場の石垣の下で網を繕つてゐた。」と彼は云つた。「シングと云ふ名の人が、若し此の世界に出かけて來るとすれば、あの人こそ其の人だらうと、その時預言を云つた。」

 彼は、少年時代を終らないうちに船員となつて、此の島を離れた時から此處に行はれた變遷を妙に短いが品位のある言葉で慨き續けた。

 「私は歸つて來て、」と彼は云つた。「妹と一軒の家に住んだが、島は前とは全然變り、現在居る人から私は何のお蔭も蒙らないし、又彼等も私から何の得(とく)を受けようともしない。」

 さういつた話からすると、此の男は一種獨特の己惚(うぬぼれ)と空想の世界に立て籠り、網繕ひの業に超然として、他人から尊敬と面白半分な同情とで見られてゐるらしい。

   *

と語られた人物である。この作品構成の呼応の美事さは言うに言われぬ素晴らしさを持っていると私は思う。

「生子鐵板」は「なまこてつぱん」と読む。原文は“corrugated iron”トタン板。波板鉄板。正確には“corrugated galvanised iron”で亜鉛鍍金鋼板の中でも建築資材用として使われるものを指す。亜鉛鉄板とか形状からなまこ板とも言う。

「船給仕」“cabin-boy”。客船の船客を接待するボーイ。これも最早、「キャビン・ボーイ」の方が通りがよい。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (11)

 此の島の女達は未だ因習に捉はれてゐず、パリーやニューヨークの女に獨持と思はれる自由な特色を幾らか持つてゐる。

 彼女たちの多くは裝飾的興味以上の物を持つには餘りに滿足しきつて居り、あまりにがつちりして居るが、また面白い個性を持つた女もある。

 今年は私は大へんおもしろい一人の娘を知るやうになつた。彼女は二三日前から茶の間で、お婆さんの紡(いと)車で糸を紡いでゐる。彼女の初めた朝、私は目の覺めた時から、彼女の一語一語を物靜かに舌だるく云ふ微妙な調子を聞いた。

 それに似たものを私はドイツの女やポーランドの女の聲に聞いたことがあるが、女よりも遙かに單純な動物的感情から離れてゐる男――少くとも歐州の男――とか、或ひは佛語・英語のやうな弱い喉音の言葉を使ふ人とかには、日常の會話で、こんな不明瞭な調を出すことは出來ないであらう。

 彼女は女がよくやるやうに示小詞を重ねたり、文章法を滑稽に無視して、形容詞を繰り返へしたりして、彼女のゲール語で惡戲(いたづら)をやり續ける。彼女が來てゐる間、話は茶の間で盡きることがない。今日彼女はドイツのことをいろいろ私に聞いた。それは、彼女の姉妹の一人が數年前ドイツ人とアメリカで結婚して、その人は彼女を立派な「コパル・グロス」(白馬)に乘せたりして大事にしてくれるので、此の娘もそんな風にして島の賤役から逃れようと思つてゐるらしかつた。

 今夜は私が爐邊の椅子に腰掛ける最後の晩である。私は、別れの挨拶をしにやつて來た村人達と長い間話しをした。彼等は頭を低い腰掛に載せ、足を泥炭の燃え差しの方へ伸ばし、床の上に横になつた。お婆さんは爐と反對の側に居て、さつきの娘は誰彼となく話したり冗談を云つたりして、紡車の前に立つてゐた。彼女は、私が歸つたら持參金の澤山ある金持の女と結婚し、その女が死んだらまた此處へ來て、彼女を第二の妻として迎へてくれと云つた。

 此の人達の話ほど、純樸でまた愛嬌のあるのを聞いた事がない。今夜は妻といふものに就いて議論が出たが、彼等が女に於いて見る最大の長所は多産的で澤山の子供を産むことにあるやうであつた。島では子供に依つて金儲は出來ないが、此の一つの心の持ち方は此處の人達とパリーの人達との大いなる相違を現はしてゐる。

 島では、あから樣な性の本能も弱い事はないが、それは家族愛の本能に從屬してゐるので、無手法になる事は滅多にない。此處の生活はまだ殆んど家長制度の段階にあるので、野蠻人の本能的な生活から遙かに離れてゐると同樣に、空想的な戀の情緒にも緣が遠い。

 

 

The women of this island are before conventionality, and share some of the liberal features that are thought peculiar to the women of Paris and New York.

Many of them are too contented and too sturdy to have more than a decorative interest, but there are others full of curious individuality.

This year I have got to know a wonderfully humorous girl, who has been spinning in the kitchen for the last few days with the old woman's spinning-wheel. The morning she began I heard her exquisite intonation almost before I awoke, brooding and cooing over every syllable she uttered.

I have heard something similar in the voices of German and Polish women, but I do not think men--at least European men--who are always further than women from the simple, animal emotions, or any speakers who use languages with weak gutturals, like French or English, can produce this inarticulate chant in their ordinary talk.

She plays continual tricks with her Gaelic in the way girls are fond of, piling up diminutives and repeating adjectives with a humorous scorn of syntax. While she is here the talk never stops in the kitchen. To-day she has been asking me many questions about Germany, for it seems one of her sisters married a German husband in America some years ago, who kept her in great comfort, with a fine 'capull glas' ('grey horse') to ride on, and this girl has decided to escape in the same way from the drudgery of the island.

This was my last evening on my stool in the chimney corner, and I had a long talk with some neighbours who came in to bid me prosperity, and lay about on the floor with their heads on low stools and their feet stretched out to the embers of the turf. The old woman was at the other side of the fire, and the girl I have spoken of was standing at her spinning-wheel, talking and joking with every one. She says when I go away now I am to marry a rich wife with plenty of money, and if she dies on me I am to come back here and marry herself for my second wife.

I have never heard talk so simple and so attractive as the talk of these people. This evening they began disputing about their wives, and it appeared that the greatest merit they see in a woman is that she should be fruitful and bring them many children. As no money can be earned by children on the island this one attitude shows the immense difference between these people and the people of Paris.

The direct sexual instincts are not weak on the island, but they are so subordinated to the instincts of the family that they rarely lead to irregularity. The life here is still at an almost patriarchal stage, and the people are nearly as far from the romantic moods of love as they are from the impulsive life of the savage.

 

[やぶちゃん注:原文では、以下、文章が続いているが、やはり内容的には切るべきである。

「此の島の女達は未だ因習に捉はれてゐず、パリーやニューヨークの女に獨持と思はれる自由な特色を幾らか持つてゐる。」 “The women of this island are before conventionality, and share some of the liberal features that are thought peculiar to the women of Paris and New York.”の前の部分は、この島の女たちの感性が、誠に稀有なことに、歴史的な「制度としての因襲」によって縛られる以前の段階に踏みとどまっていることを言っている。そして「にも拘らず」(と逆接風に)、知的で先進的な「パリーやニューヨークの女に獨持と思」われがちな、リベラルな特徴部分をも持ち合わせているのだ、という意味である。

「彼女たちの多くは裝飾的興味以上の物を持つには餘りに滿足しきつて居り、あまりにがつちりして居るが、また面白い個性を持つた女もある。」失礼ながら、この前半は日本語としては悪文である。原文は“Many of them are too contented and too sturdy to have more than a decorative interest, but there are others full of curious individuality.”であるが、これは「彼女たちの多くが、ここでここの女として生きることに満足しきっていて、加えてとてつもなくがっしりとして丈夫であるから――失礼ながら私には、アラン島というこの魅力的な世界を、見た眼で美しく装い飾る存在という以上の関心は、彼女たちに持つことは出来ないのであるが――しかし」また中にはすこぶる魅力的な「面白い個性を持つた女もある」という謂いであろう。栩木氏もそうしたコンセプトで訳されておられる。この部分は続く後半も、シングにしてはかなり踏み込んだ島の女についての叙述がなされている。紳士にして少年性を持ったシングは、アランの女たちを傷つけないように遠回しに(というより飽くまで民俗学的な謂いに包んで)表現しているという気が私にはする。

「不明瞭な調」「調」は「しらべ」と読ませていよう。原文は“this inarticulate chant”で、これは「この不明瞭な詠唱」の謂いである。これはこの女のゲール語の会話が、喋っているのか歌っているのかちょっと分からないような独特の音楽的なある種の調べを持っていることを意味している。

「示小詞」“diminutive”は文法用語の「指小辞」のこと。ある語について、それよりもさらに小さい意を示したり、親愛の情を表したりする接尾語のこと。例えば英語の“-ie”“-kin”“-let”“-ling”、ドイツ語の“-lein”“-chen”など。

「……大事にしてくれるので、此の娘もそんな風にして……」この日本語はやはり違和感がある。「大事にしてくれるのだと言った。その口ぶりからはどうも此の娘もそんな風にして……」としたい。

「島では子供に依つて金儲は出來ないが」これは、子供を有意な労働力と認識して、専ら子供に労働をさせて金を稼がせることは出来ないという意味である。アランにはそんな賃金を払ってくれる仕事も何もないという意味もあろうが、それ以上にアランの人々(厳密にはイニシマーンの人々)には、伝統的な家父長制による縛りはあるものの(しかし前出する第一部に出た「谷間の影」「西部の人気者」のモデルとなった話を見ると、それも決して強靭なものとは思われない)、子供を単純に労働力と見、彼らの収益を親が簒奪することを当然とするような親子関係はやや希薄であることをも言っているように思われる。マイケルもそうだが、若者の多くは島を出て働いているが、彼らが親の主たる生計維持者であるようには、私には必ずしも読めないのである。

「無手法に」は「むてつぱふに(むてっぽうに)」と読む。]

2012/03/24

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (10)

 私は再び、イニシマーンに戻つて來た。今度の渡航は良い天候であつた。朝早くから、太陽は空一杯に輝き渡り、正午にカラハで迎へに來たマイケルと、他の二人の男と共に出發した時は、殆んど夏の日であつた。
 風は都合よく吹いたので、帆を擧げ、マイケルは舟尾にゐて櫂で舵を取り、一方私は他の男と共に漕いだ。
 私たちはよく食ひ、よく飮んだ。そして此の突然の夏の再來に段段と刺戟されて來て、夢のやうな充ち足りたよい氣持になり、青く輝く海を越えて我が聲も響けとばかり、嬉しさに思はず大聲を立てた。
 丁度南島の人達にならつてゐるやうに、此のイニシマーンの男たちも外界に對して妙に昔ながらの同感に心を動かすやうである。彼等の氣持は今日の天氣具合に驚くほどよく合ひ、またその古いゲール語は貴い單純さに充ちてゐるので、私は船を西へ廻はし、彼等と共に永久に漕いでゐたかつた。
 私は、數日中にパリーに歸つて本や寢臺を賣り、それからまた、此の西の島島にゐる人たちのやうに強健で單純になるために戻つて來るつもりだと彼等に話した。
 私たちの感激が鎭まつた頃、マイケルは將に坊さんの置いて行つた鐵砲があり、島へ戻つて來るまで使ふことを許されてゐると云つた。家にはもうーつの鐵砲と白鼬が一匹あるから、歸つたら直ぐに兎狩に連れて行かうと彼は云つた。
 その日、少し遲くなつて出かけた。マイケルは私が立派な射撃をやつてほしいと熱心なのには私は殆んど笑ひたくなるほど可笑しかつた。
 私たちは白鼬を二つの平らな裸岩の間の裂目に匿して、待つてゐた。間もなく、足下に驅けて來る足音を聞いたと思ふと、一匹の兎が、足下の穴から一目散に宙へ飛び上り、二三尺向うの石垣の方へ逃げて行つた。私は鐵砲を摑み上げて、撃つた。
 マイケルは岩を騷け上りながら、私の肘の所で、「ブーイル・テゥ・エ」(中つたよ)と大聲で叫んだ。私は仕留めたのである。
 それから一時間の間に、私たちは七八匹を撃つたので、マイケルは非常に喜んだ。若し私がまづかつたら、島から逃げ出さねばならなかつたであらう。島の人たちは私を輕蔑したであらう。
 撃つことの出來ない「ドゥイネ・ウァソル」(旦那)は此の獵人の子孫である人たちから背教者よりもだめな墮落した人間と思はれるのである。

I have come over again to Inishmaan, and this time I had fine weather for my passage. The air was full of luminous sunshine from the early morning, and it was almost a summer's day when I set sail at noon with Michael and two other men who had come over for me in a curagh.
The wind was in our favour, so the sail was put up and Michael sat in the stem to steer with an oar while I rowed with the others.
We had had a good dinner and drink and were wrought up by this sudden revival of summer to a dreamy voluptuous gaiety, that made us shout with exultation to hear our voices passing out across the blue twinkling of the sea.
Even after the people of the south island, these men of Inishmaan seemed to be moved by strange archaic sympathies with the world. Their mood accorded itself with wonderful fineness to the suggestions of the day, and their ancient Gaelic seemed so full of divine simplicity that I would have liked to turn the prow to the west and row with them for ever.
I told them I was going back to Paris in a few days to sell my books and my bed, and that then I was coming back to grow as strong and simple as they were among the islands of the west.
When our excitement sobered down, Michael told me that one of the priests had left his gun at our cottage and given me leave to use it till he returned to the island. There was another gun and a ferret in the house also, and he said that as soon as we got home he was going to take me out fowling on rabbits.
A little later in the day we set off, and I nearly laughed to see Michael's eagerness that I should turn out a good shot.
We put the ferret down in a crevice between two bare sheets of rock, and waited. In a few minutes we heard rushing paws underneath us, then a rabbit shot up straight into the air from the crevice at our feet and set off for a wall that was a few feet away. I threw up the gun and fired.
'Buail tu é,' screamed Michael at my elbow as he ran up the rock. I had killed it.
We shot seven or eight more in the next hour, and Michael was immensely pleased. If I had done badly I think I should have had to leave the islands. The people would have despised me. A 'duine uasal' who cannot shoot seems to these descendants of hunters a fallen type who is worse than an apostate.

[やぶちゃん注:原文では、以下、文章が続いているが、内容的には切るべきである。
「丁度南島の人達にならつてゐるやうに、此のイニシマーンの男たちも外界に對して妙に昔ながらの同感に心を動かすやうである。」原文は“Even after the people of the south island, these men of Inishmaan seemed to be moved by strange archaic sympathies with the world.”。これは誤訳の類と言っていいような気がする。日本語は「~のやうに、……も――」という完全な順接の複文になっているが、そもそも日本語として読んでいて文脈上、矛盾が感じられるからだ。前段でイニシーアの島民の悪い意味での近代化による陰鬱傾向を一貫して批判してきたシングが、その「南島の人達に」「イニシマーンの男たち」が「ならつてゐる」などと言うはずが、ない。この“Even”は「全く」の意味ではあるまいか。「ああしたどこか陰気な南島の人々と接した後では、全くも以って、このイニシマーンの男たちが実に素直に外界に対する不思議な、昔ながらの共感によって心を働かしているようにしみじみと感じられるのである。」という意味であろう。私は、強調された、逆接的な日本語として訳さないとおかしいと感じる。このシークエンスは久々にまばゆい陽光とシングの大好きなイニシマーンの人々との魂の美しい交感の場面であるだけに、この瑕疵は痛い。
「白鼬」は「しろいたち」と読む。原文は“ferret”で、今や「フェレット」で通用する。食肉目(ネコ目)イタチ科イタチ亜科イタチ属ヨーロッパケナガイタチ亜種 Mustela putorius furo。ヨーロッパではフェレットは古くから家畜とされており、フェレットにウサギなどの獲物を巣穴から追い出させて狩るという狩猟法で、現在でも残っている。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (9)

 此の島の民謠を歌ふ風は極めて荒つぽいものである。今日、東の方の村はづれで、妙な男と一緒になつて、海の方の岩の上までぶらぶら歩いて行つた。一緒に居る間に、冬の時雨が來て、私たちは疎らな石垣の下の蕨の中に蹲踞(しやが)んだ。例の如き話題が濟むと、彼は私に歌が好きかと聞いて、その手並みを示すべく歌ひ初めた。
 節は前に此の邊の島島で聞いたものとよく似てゐた――音律をつけるために高い音と低い音の後に休止を置く、抑揚のない歌であつた。併し鼻にかかつた耳觸りな聲で歌ふのは殆んどやりきれなかつた。歌ひ振りは、その全體として私がかつてパリーからディエプまで旅行した時、三等車の中で東洋人の一行から聞いた歌を憶ひ出させた。併し此の島人は聲をもつと廣い範圍に操つた。
 彼の發音は喉に掠れて聞こえなくなる。はつきり自分の云ふことをわからせようと、風の音に負けずに私の耳もとで叫んだが、それは或る若者が海へ行つて多くの冐險をする運命を物語つた長たらしい民話とだけ見當をつけられたに過ぎなかつた。英語の航海用語が、その船中生活を描くために始終使つてあるが、それが出て來ると、此の男は辻褄が合はなくなると思ふのであらう、暫く止めて、私を指で突いたりして、船首の三角帆、中檣帆、第一斜檣などを説明した。ところが、私にそれ等は一番よくわかる個所であつた。再び場面がダブリンに移ると、「ウィスキーの盃」・「酒屋」といふやうなものに就いて英語で話した。
 時雨が終ると、海から僅かに離れて童の中に隠れた妙な洞穴を見せてくれた。歸り途で、私の何處へいつても出逢ふ三つの質問をした。――私が金持であるか、結婚してゐるか、此の島より貧しい所を他所で見た事があるか。
 私が結婚してゐないと聞くと、彼は、私が夏歸つて來たら、「スプリー・モール・オグス・ゴ・ラル・レイディース」(大きな酒宴と澤山の婦人)のあるクレア郡の温泉場(スパ)にカラハで一緒に行かうと勸めた。
 此の人と一緒にゐるのが私には何んだかいやであつた。私は親切に心を廣くしてゐるのであつたが、彼は私が嫌つてゐると思つたらしい。夜また逢ふ約束をしたので云ふに云はれないいやな束縛で重い足を引きずりながらその場所へ行つたが、彼は影も形も見せなかつた。
 此の男は大方呑兵衞で、密造酒販賣人であるらしく、又確かに貧乏人に違ひなかつたが、私が嫌つてゐると感じたので、一シリングを貰ふ機會を拒んだのは此の男特有の氣質である。彼は妙に強情と憂鬱の交つた顏をしてゐた。大方その素質のために、島の評判がよくなく――友達から同情を得る事のない人の不安な氣持で、此處に住んでゐるのであらう。

The mode of reciting ballads in this island is singularly harsh. I fell in with a curious man to-day beyond the east village, and we wandered out on the rocks towards the sea. A wintry shower came on while we were together, and we crouched down in the bracken, under a loose wall. When we had gone through the usual topics he asked me if I was fond of songs, and began singing to show what he could do.
The music was much like what I have heard before on the islands--a monotonous chant with pauses on the high and low notes to mark the rhythm; but the harsh nasal tone in which he sang was almost intolerable. His performance reminded me in general effect of a chant I once heard from a party of Orientals I was travelling with in a third-class carriage from Paris to Dieppe, but the islander ran his voice over a much wider range.
His pronunciation was lost in the rasping of his throat, and, though he shrieked into my ear to make sure that I understood him above the howling of the wind, I could only make out that it was an endless ballad telling the fortune of a young man who went to sea, and had many adventures. The English nautical terms were employed continually in describing his life on the ship, but the man seemed to feel that they were not in their place, and stopped short when one of them occurred to give me a poke with his finger and explain gib, topsail, and bowsprit, which were for me the most intelligible features of the poem. Again, when the scene changed to Dublin, 'glass of whiskey,' 'public-house,' and such things were in English.
When the shower was over he showed me a curious cave hidden among the cliffs, a short distance from the sea. On our way back he asked me the three questions I am met with on every side--whether I am a rich man, whether I am married, and whether I have ever seen a poorer place than these islands.
When he heard that I was not married he urged me to come back in the summer so that he might take me over in a curagh to the Spa in County Glare, where there is 'spree mor agus go leor ladies' ('a big spree and plenty of ladies').
Something about the man repelled me while I was with him, and though I was cordial and liberal he seemed to feel that I abhorred him. We arranged to meet again in the evening, but when I dragged myself with an inexplicable loathing to the place of meeting, there was no trace of him.
It is characteristic that this man, who is probably a drunkard and shebeener and certainly in penury, refused the chance of a shilling because he felt that I did not like him. He had a curiously mixed expression of hardness and melancholy. Probably his character has given him a bad reputation on the island, and he lives here with the restlessness of a man who has no sympathy with his companions.

[やぶちゃん注:「民謠」原文は“ballads”。民謡・バラード。民間伝承の物語詩に節をつけた歌謡。短いスタンザ(連)から成り、リフレインが多い。
「ディエプ」“Dieppe”(ディエップ)はフランスのオート=ノルマンディー地域圏にあるセーヌ=マリティーム県のコミューン(フランス固有の地方自治体)。イギリス海峡に面した港町。
「辻褄が合はなくなると思ふ」言うまでもないが、ゲール語で語るアイルランド固有のバラードであるはずであるから、そこに英語が入り込むのはおかしいのである。
「船首の三角帆」原文“gib”。機械用語で、凹字形をした楔(くさび)、若しくはその楔で留める、締めるという意味。また別に、雄のサケの繁殖期及びその後に現われる下顎の鉤状の湾曲もかく言う。もしも“gibe”ならば“jibe”“gybe”と同義の海事用語で、ジャイブの意となる。ジャイブとは縦帆の向きが変わることで、動詞としては、縦帆を一方の舷から反対の舷に急反転させて船の進路を変える、船が追い風を受けて走る際に縦帆や帆桁が反対側の舷側に向きを変える動作を「ジャイブする」という。姉崎氏はこの意味で採ったものと考えられる。後の二つの海事用語を考えると、確かに「ジャイブ」のことのように思われる。
「中檣帆」は「ちゅうしょうほ」又は「ちゅうしょはん」と読む。原文“topsail”。トップスル。帆船でマストの中段に張られた帆を言う。
「第一斜檣」「斜檣」は「しゃしょう」と読む。原文“bowsprit”。船首斜檣、やり出し、バウスプリット。帆船の船首に突き出しているマスト状の丸太材を言う。
『「スプリー・モール・オグス・ゴ・ラル・レイディース」(大きな酒宴と澤山の婦人)のある』原文は“where there is 'spree mor agus go leor ladies' ('a big spree and plenty of ladies').”。姉崎氏の訳はゲール語でこのような名を持つスパ(高級鉱泉保養施設)のように訳されているが(そのような誤読をするように訳されているが)、これは「とんでもないどんちゃん騒ぎ(オーギー)と数多の接待の御婦人方が待っている」といった意味である。
「クレア郡」原文は“County Glare”となっているが、これはCの誤植であろう。クレア州(“County Clare” ゲール語“Contae an Chláir”)。アラン諸島の東、ゴルウェー灣の南側にある。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (8)

 私は二三日前から、南島へ來てゐる。例の如く、渡航は惠まれなかつた。
 その朝笑氣がよく、冬の初めの雨の降る前によくある獨特な妙に靜かな澄んだ日となる兆があつた。夜が明けかかつた時から、空は一面の白雲に蔽はれ、あらゆる物音も一つ一つ靜かな灣の上を渡つて響いて來ると思へるまで、全くの靜けさであつた。靑い煙は輪を描いて村の上に立上つてゐた。遙か沖合、水平線の上には、雨雲がちぎれちぎれに重く懸つてゐた。私たちはその日、朝早く出發したが、海は遠くからは靜かに見えたが、岸を離れて行くと、西南から來る相當なうねりに逢つた。
 瀨戸の眞中近くで、船首で漕いでゐた男がその櫂栓を壞したので、普通のカラハの操作はむつかしくなつた。なにしろ三人漕のカラハなので、若し海がこれ以上荒れたら、甚だ危險な目に出逢ふことになるであらう。進行がのろかつたので、私たちが岸に着かないうちに、風に乘つて雲がどんどんやつて來て、大粒の雨が降り出した。灰色の世界の中を黑いカラハは靜かに進んで行くと雨は靜かに降りそそぐので、私は我我が世界の凡ゆる不思議や美しさを經驗しようと殘して置いた短い瞬間を無限の悲哀を以つて實感するやうな氣持になつた。
 南島の船着場は、西北方の立派な砂濱にできてゐる。此の岩の途切れは村人にとつて大いに役に立つ。併し、濡れた砂の道はその上に近頃建てられたいやな漁夫の家が何軒かあつて、はつきりしない天氣の時は、特に淋しく見える。
 上陸した時は、汐が退いてゐたので、カラハをただ濱に上げただけで、小さなホテルへ上つて行つた。一つの部屋で税の集金人が仕事をしてゐた。四邊に大勢の男たちや子供たちが待つてゐて、私たちが戸口に立つて旅館の主人と話をしてゐる間、こちらを見つめてゐた。
 私たちは一杯飮んでしまふと、非常に行手を急いでゐる男たちと一緒に私は海の方へ下りて行つた。櫂栓を取換へるのに少し時を費し、風はまだ吹き募つてゐたが、彼等は出かけた。多くの漁夫達が出立を見にやつて來た。私は彼等の言葉や氣分を他の島で經險したそれと較べてみたくて仕方がなかつたので、カラハの姿が見えなくなつた後も長い間立つて、愛蘭土語で話をした。
 中には今まで聞いた事もないほど明瞭に、愛蘭土語を話す者さへゐたが、言葉は同一のやうであつた。併し體の形、服裝、一般的の性質には可成りの差異があつたやうである。此の島の住民は隣島の住民より進歩してゐて、社會は段段と各階級を造りつつある、即ち富裕な者、一生懸命に働かねばならぬ者、全くの貧乏で貯蓄のない者である。此の區別は中の島にも現はれてゐるが、住民に影響する程ではなく、彼等の中にはまだ完全な平等がある。
 少したつて、汽船の姿が見え出し、沖に碇泊した。カラハが出かけてしまつてゐる間、人々の中に襤褸を着て滑稽味のある型の幾人かの男達がゐた。かつては斯かる人達が愛蘭土の本當の百姓を代表してゐたのであらう。雨は激しく降つてゐた。霧を通して外を眺めてゐると、これ等の人達の中で、甚だ不恰好な頓智のある一人の男が擧げてゐる甲高い笑ひ聲には、何んだかぞつとするやうなところがあつた。
 遂に彼は上衣の端で目を拭き「タ・メ・モラヴ」(私は殺される)と、獨り呻りながら村の方へ去つたが、遂に誰かに呼び止められた。すると粗野な酒落や冗談をまたとばして笑ひ出したが、それには何か言葉以上の意味がありさうであつた。
 中の島には、奇妙な諧謔、時には野生の諧謔もあるが、こんな半ば肉慾的な陶醉の笑ひ方はない。恐らく此の人達は世を嘲らうとする前に、あちらでは知られてない内奧の不幸を感ずるに違ひない。その窪んだ額、高い頰骨、反抗的な目を持つた此の不思議な人達は歐洲の邊境の僅かな土地に住む古風な型を代表してゐるやうに見える。そして其處で、彼等は野生の冗談や笑ひに依つてのみ僅かにその淋しさとやるせなさを表現し得るのである。

I have come over for a few days to the south island, and, as usual, my voyage was not favourable.
The morning was fine, and seemed to promise one of the peculiarly hushed, pellucid days that occur sometimes before rain in early winter. From the first gleam of dawn the sky was covered with white cloud, and the tranquillity was so complete that every sound seemed to float away by itself across the silence of the bay. Lines of blue smoke were going up in spirals over the village, and further off heavy fragments of rain-cloud were lying on the horizon. We started early in the day, and, although the sea looked calm from a distance, we met a considerable roll coming from the south-west when we got out from the shore.
Near the middle of the sound the man who was rowing in the bow broke his oar-pin, and the proper management of the canoe became a matter of some difficulty. We had only a three-oared curagh, and if the sea had gone much higher we should have run a good deal of danger. Our progress was so slow that clouds came up with a rise in the wind before we reached the shore, and rain began to fall in large single drops. The black curagh working slowly through this world of grey, and the soft hissing of the rain gave me one of the moods in which we realise with immense distress the short moment we have left us to experience all the wonder and beauty of the world.
The approach to the south island is made at a fine sandy beach on the north-west. This interval in the rocks is of great service to the people, but the tract of wet sand with a few hideous fishermen's houses, lately built on it, looks singularly desolate in broken weather.
The tide was going out when we landed, so we merely stranded the curagh and went up to the little hotel. The cess-collector was at work in one of the rooms, and there were a number of men and boys waiting about, who stared at us while we stood at the door and talked to the proprietor.
When we had had our drink I went down to the sea with my men, who were in a hurry to be off. Some time was spent in replacing the oar-pin, and then they set out, though the wind was still increasing. A good many fishermen came down to see the start, and long after the curagh was out of sight I stood and talked with them in Irish, as I was anxious to compare their language and temperament with what I knew of the other island.
The language seems to be identical, though some of these men speak rather more distinctly than any Irish speakers I have yet heard. In physical type, dress, and general character, however, there seems to be a considerable difference. The people on this island are more advanced than their neighbours, and the families here are gradually forming into different ranks, made up of the well-to-do, the struggling, and the quite poor and thriftless. These distinctions are present in the middle island also, but over there they have had no effect on the people, among whom there is still absolute equality.
A little later the steamer came in sight and lay to in the offing. While the curaghs were being put out I noticed in the crowd several men of the ragged, humorous type that was once thought to represent the real peasant of Ireland. Rain was now falling heavily, and as we looked out through the fog there was something nearly appalling in the shrieks of laughter kept up by one of these individuals, a man of extraordinary ugliness and wit.
At last he moved off toward the houses, wiping his eyes with the tail of his coat and moaning to himself 'Tá mé marbh,' ('I'm killed'), till some one stopped him and he began again pouring out a medley of rude puns and jokes that meant more than they said.
There is quaint humour, and sometimes wild humour, on the middle island, but never this half-sensual ecstasy of laughter. Perhaps a man must have a sense of intimate misery, not known there, before he can set himself to jeer and mock at the world. These strange men with receding foreheads, high cheekbones, and ungovernable eyes seem to represent some old type found on these few acres at the extreme border of Europe, where it is only in wild jests and laughter that they can express their loneliness and desolation.

[やぶちゃん注:「灰色の世界の中を黑いカラハは靜かに進んで行くと雨は靜かに降りそそぐので、私は我我が世界の凡ゆる不思議や美しさを經驗しようと殘して置いた短い瞬間を無限の悲哀を以つて實感するやうな氣持になつた。」原文は“The black curagh working slowly through this world of grey, and the soft hissing of the rain gave me one of the moods in which we realise with immense distress the short moment we have left us to experience all the wonder and beauty of the world.”。後半が極めて生硬で意味が取れない。“moods”は複数形であるから、「不機嫌」、ネガティヴな傾向への気持ちの沈潜を意味する。「灰色の世界の中を黑いカラハは靜かに進んで行く」……そして……私に「雨は靜かに降りそそぐ」……そんな眼前の重く陰鬱な景色が……私をある一つの暗く沈んだ思念へと導いてゆく――それは、私たちが私たちのために「世界の凡ゆる不思議や美しさを經驗しようと殘して置いた」時間、その時間が如何に短いものであるかということを――私はこの瞬間に「無限の悲哀を以つて實感」したのであった、という意味であろう。
「近頃建てられたいやな漁夫の家」とは、如何にも近代的な、アランの自然の景観にそぐわない「いやな」感じのする漁師の家、という意味であろう。
「遂に誰かに呼び止められた」“till some one stopped him”。「遂に」は日本語としておかしい。「ふと誰かに呼び止められた。」でよい。
「それには何か言葉以上の意味がありさうであつた」とあるが、彼がつぶやく「タ・メ・モラヴ」(私は殺される)]にしても――これは今まで読んでこられた方は第一部のパット爺さんの妖精に攫われた娘の話を思い出されるであろう。『また或る夜、愛蘭土語で「オー・ウォホイル・ソ・メー・モラヴ」(ああ、お母さん、殺される)といふ叫び聲を彼は聞いたが、朝になつてその家の塀に血がついてゐて、そこから程遠からぬ處に、その家の子供は死んでゐた。』という例の話である――私はこの男のこの言葉は、偶然の一致では、ないと思う。それは「死」を言上げすることで、逆に死を遠ざける効果を持つ。「ぞつとする」「甲高い笑ひ聲」は死を忌避するための非日常的ポーズなのである。だからここで呼び止められた彼が飛ばした「粗野な酒落や冗談」と、その後の不気味な「半ば肉慾的な陶醉の笑ひ」は、恐らく民俗的な言霊を内包した呪言なのである。シングの中の原初的無意識がそれに直感的に気づいたから、彼は「ぞつと」し、また「それには何か言葉以上の意味がありさう」だと感じたのである。但し、それをシングが完全なプロトタイプとしては判断していないところが微妙で複雑なのである。次の段落にそれが示されている。則ち、確かにこの男の「何か言葉以上の意味」を持った「粗野な酒落や冗談」やそれに付随する不気味な「半ば肉慾的な陶醉の笑ひ」はアランの昔の百姓の古形に属する――だが、イニシマーン島の、近代思想に殆んど犯されていない純朴なプロトタイプと比較した時、イニシーアのこの男は、明らかに近代文明のカルチャー・ショックをその感性がネガティヴに受けて、イニシマーンの島民に「は知られてない内奧の不幸を感ずる」ようになってしまっているのである。「その窪んだ額、高い頰骨、反抗的な目を持つた此の不思議な人達は」「古風な型を代表してゐるやうに見える」けれども、純粋に古形ではない、文明にレイプされて「野生の冗談や笑ひに依つてのみ僅かにその淋しさとやるせなさを表現」するしかない、ある種の哀れみさえ感じさせるまでに零落している、とシングは語るのである。換言すれば「歐洲の邊境の僅かな土地」という卑屈な認識をイニシーアの島民は持ってしまっている(恐らくアランモアはもっとえげつなく近代化されてしまっている)のに対して、シングの愛するイニシマーンの人々は誰もが美しい魂の古形をしっかりと保存している、と言っているのである。]

2012/03/23

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (7)

 今日、私は船卸臺へ行つた時、キルロナンから來た豚の仲買が、英國の市場へ船に積んで持つて行く廿匹ほどの豚を連れてゐるのを見た。
 汽船が近づいて來ると、その豚の群全部が船卸臺に移され、カラハは海近く運んで來られた。
 それから豚は順順に捕へられ、横樣に投げ出された。その間に豚の脚は、運ぶ時のために繩の尾を殘して、一重結びに縛られた。
 受ける痛みは大したものでもなささうであつたが、其奴等は目をつぶつて全く人間のやうな聲で叫び、遂にその聲は何かを訴へるやうに、段段激しくなつて行つたので、ただ眺めてゐた男女達も興奮して騷ぎ出した。豚は順を待ちながら口から泡を吹き、互ひに嚙み合ひをしてゐた。
 少し經つてから、中休みが來た。船卸臺全部は啜り泣く豚の群で一杯になつた。その群の中に、怖がつてゐる女が所所に交り、しやがんで特に好きな豚を靜かにさせようと、撫でてゐた。その間に、カラハは下ろされた。
 それからまた泣き聲が初まつた。それは、豚が運び出され、帆布を傷めないやうに、脚の周りに胴着を附けられてそれぞれの場所に置かされる間ぢゆうであつた。それ等は何處へ行くのか知つてゐかのやうに見えた。船緣に動物ながらぐつたりとして、私の方を眺めてゐるのを見ると、私は此の啜り泣いてゐる動物の肉を食つてゐたのかと思ひ、ぞつとした。最後のカラハが出て行つてしまふと、船卸臺の上は私と女子供の一團と、海の方を眺めて坐つてゐる年取つた牡豚とだけになつた。
 女たちは非常に興奮してゐた。私が話しかけようとすると、私の周りにどつと集まつて來て、私の結婚してないのを理由にひやかし初め、喚き初めた。一度に大勢が叫び立てて、而かも早口なので何を云つてゐるのかわからないが、夫の留守を幸に、その惡口を一齊に云ひ立ててゐるのだと見當をつけた。これを聞いてゐた或る男の子たちは笑ひこけて、海草の中へ轉んだ。また若い娘たちは氣まり惡さうに、顏を赤くして、波をじつと見下ろしてゐた。
 暫くの間、私は狼狼してしまつた。物を云はうと思つても、こちらの云ふことを聞かすことが出來なかつた。それで船卸臺の上に腰掛けて、寫眞の袋を取り出した。すると忽ち、通常の氣持で、犇き合つて來る一團の人に私はすつかり取り圍まれた。
 カラハが戻つて來ると、――その中の一艘は波の上に大へんな恰好で、蜻蛉返りを打つて浮かんでゐた大きな茶の間用テーブルを引張つてゐた、――キャニゥィエ(行商人)が來たと云ふ聲が起つた。
 上陸すると、彼は直ぐに店を開いて、娘たちや若い女たちに安物のナイフや寶石をたくさん賣りつけた。彼は愛蘭土語を話さなかつたが、値の掛引が、取卷いてゐる大勢の人たちを非常に面白がらせた。
 幾人かの女たちは英語を知らないと云つてゐるくせに、氣に向いた時には、苦もなく云ひたい事を通じさせてゐるのを見て、私は驚いた。
 「此の指環はあんまり高いです。」或る女はゲール語の構造法を使ひながら云つた。「もつと少い金にしなさい、さうしたら女の子は皆んな買ふでせう。」
 寶石の次には安物の宗教畫――いやな油繪風石版畫(オレオグラフ)――を見せたが、買手はあまりなかつた。此處へ來る行商人の多くはドイツ人かポーランド人ださうだが、私は此の人とは直接に話す機會はなかつた。

Today when I went down to the slip I found a pig-jobber from Kilronan with about twenty pigs that were to be shipped for the English market.
When the steamer was getting near, the whole drove was moved down on the slip and the curaghs were carried out close to the sea. Then each beast was caught in its turn and thrown on its side, while its legs were hitched together in a single knot, with a tag of rope remaining, by which it could be carried.
Probably the pain inflicted was not great, yet the animals shut their eyes and shrieked with almost human intonations, till the suggestion of the noise became so intense that the men and women who were merely looking on grew wild with excitement, and the pigs waiting their turn foamed at the mouth and tore each other with their teeth.
After a while there was a pause. The whole slip was covered with a mass of sobbing animals, with here and there a terrified woman crouching among the bodies, and patting some special favourite to keep it quiet while the curaghs were being launched.
Then the screaming began again while the pigs were carried out and laid in their places, with a waistcoat tied round their feet to keep them from damaging the canvas. They seemed to know where they were going, and looked up at me over the gunnel with an ignoble desperation that made me shudder to think that I had eaten of this whimpering flesh. When the last curagh went out I was left on the slip with a band of women and children, and one old boar who sat looking out over the sea.
The women were over-excited, and when I tried to talk to them they crowded round me and began jeering and shrieking at me because I am not married. A dozen screamed at a time, and so rapidly that I could not understand all that they were saying, yet I was able to make out that they were taking advantage of the absence of their husbands to give me the full volume of their contempt. Some little boys who were listening threw themselves down, writhing with laughter among the seaweed, and the young girls grew red with embarrassment and stared down into the surf.
For a moment I was in confusion. I tried to speak to them, but I could not make myself heard, so I sat down on the slip and drew out my wallet of photographs. In an instant I had the whole band clambering round me, in their ordinary mood.
When the curaghs came back--one of them towing a large kitchen table that stood itself up on the waves and then turned somersaults in an extraordinary manner--word went round that the ceannuighe (pedlar) was arriving.
He opened his wares on the slip as soon as he landed, and sold a quantity of cheap knives and jewellery to the girls and the younger women. He spoke no Irish, and the bargaining gave immense amusement to the crowd that collected round him.
I was surprised to notice that several women who professed to know no English could make themselves understood without difficulty when it pleased them.
'The rings is too dear at you, sir,' said one girl using the Gaelic construction; 'let you put less money on them and all the girls will be buying.'
After the jewellery' he displayed some cheap religious pictures--abominable oleographs--but I did not see many buyers.
I am told that most of the pedlars who come here are Germans or Poles, but I did not have occasion to speak with this man by himself.

[やぶちゃん注:「カラハは海近く運んで來られた。」“the curaghs were carried out close to the sea.”とは、舟卸臺より上に引き上げられていたカラハが、豚を汽船に移送するために、海面近くまで降ろされることを言っている。
「怖がつてゐる女」“a terrified woman”。女たちは、豚のパニックに感染して、テンションが異様に昂まっている。その中でも特に気持ちが動転して、凝っとしていられないヒステリー気質の女性を指している。
「年取つた牡豚」“one old boar”。“boar”は去勢していない雄豚の意。種豚である(食肉用の去勢した雄豚は“hog”という)。
「夫の留守を幸に、その惡口を一齊に云ひ立ててゐるのだと見當をつけた。」原文は“yet I was able to make out that they were taking advantage of the absence of their husbands to give me the full volume of their contempt.”であるが、まず姉崎氏の訳では「その悪口」の「その」が彼らの夫を指していることになり、これは私は誤りであると思う。“their contempt”とは、私は彼らがシング個人へ向けた「聞くに堪えないえげつない物言い」(その内実は分からぬにせよ)を指しているものと思うのである。例えば栩木氏もこれを『僕に最大限の侮辱をぶつけているらしい』と訳しておられることから、姉崎氏の誤訳と考えるのである。ただ私は「惡口」も「侮辱」もピンとこないである。これは直前で「私の結婚してないのを理由にひやかし初め、喚き初めた」ことから分かるように、定められたパートナーを持たない若者シングへの、ある種の性的な揶揄なのである。「夫の留守を幸」、更に豚パニックでエクサイトしてテンション揚がりっぱなしの女たちがするそれは、とても夫のいる前では恥ずかしくて口に出来ないようなセクシャルな毒や誘惑を含んだ話柄なのであり、だからこそ「これを聞いてゐた或る男の子たちは笑ひこけて、海草の中へ轉」げまわるのであり、「また若い娘たちは氣まり惡さうに、顏を赤くして」、『……あの人たちの言っていること、私には分からないわ、そんなの、興味ないわ……』、という困惑と含羞から、あらぬ彼方の「波をじつと見下ろしてゐ」るのである。だから私は、ここは「夫の留守を幸」、私に対して、秘めごとに関わるようなえげつない物言い「を一齊に云ひ立ててゐるのだと見當をつけた。」と意訳したいのである。ここは民俗的な描写としてすこぶる面白いシークエンスである。シングがもう少しゲール語を解していて、その語句や言い回しをここに残していてくれたら、もっと素晴らしかったのだが……。
「その中の一艘は波の上に大へんな恰好で、蜻蛉返りを打つて浮かんでゐた大きな茶の間用テーブルを引張つてゐた、」“one of them towing a large kitchen table that stood itself up on the waves and then turned somersaults in an extraordinary manner”。このテーブルは、恐らく汽船から離れた時には、カラハの後の何らかの筏のようなものの上に正常な形で置かれていたのであろうが、波に揉まれてその筏か牽引用のアタッチメントのようなものが損壊し、テーブルがもんどりうって――逆さま(足を上にして)になり――しかし深く沈潜することなく、奇体に脚を海から突き出して運ばれた一部始終を一文で述べたものと私は解釈する。
「キャニゥィエ(行商人)」“ceannuighe (pedlar)”の“ceannuighe”はゲール語と思われる。“pedlar”は“peddler”とも綴り、行商人・麻薬密売人の外、噂などを好んで言い触らす輩の意など、余りよいイメージの言葉ではない。如何にも怪しげな行商人に相応しい単語だ。
「ゲール語の構造法」ゲール語の構文法では、英語のようなSVOではなく、動詞を最初に持ってくるVSO型を取る。
「いやな油繪風石版畫(オレオグラフ)」“abominable oleographs”。“abominable”は恐らく恐ろしく下手な、という意味で用いている。如何にもキッチュでお粗末な、お定まりのキリスト教の聖画を描いた、コテコテの油絵風に彩色した石板画であることを言っている。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (6)

 今日、夕方遲くなつて、漕手の外に二人のお婆さんを乘せた三挺擢のカラハが、大きいうねりの中を上陸しょうとするのを見た。此の人達はインニシールから來たのである。忽ちのうちに寄波の線内數ヤードの所へ漕いで來て、其處で轉囘し、舳先を海の方へ向けて止つた。その間に、波は次々その下を通り拔けて、船卸臺の殘部に碎けた。五分經ち、十分經つたが、彼等は未だに擢を水にひたしながら待ち、首を肩越に後へ向けてゐた。

 彼等は斷念して、島の風下の方へ漕ぎ廻らなければならないだらうと、私は思ひかけた。するとその時、カラハは突然生き物のやうに變つた。水煙の中を驅りながら、跳びながら、舳先は再び船卸臺の方へ向けられた。到着しないうちに船首にゐた男がくるつと向を變へたと思ふ間に、劍の閃きのやうに二つの白い脚が舳先を越えて出で、次の波の來ないうちに、カラハを危險から曳き出した。

 此の男たちの咄嗟の協同した動作は、訓練があるのではないが、波が彼等に與へた教育である事がよくわかる。カラハが無事にはひると、二人のお婆さんはその息子の脊をかりて、寄波や滑り易い海草の中を連れて來られた。

 こんな變り易い天氣に、カラハが出れば必ず危險な目に逢ふが、事故は稀で、殆んどきまつて飮酒に起因するらしい。昨年、私が此處へ來てから、四人の男が大島から歸る途中、溺死した。

 最初のは南島のカラハで、酒にしたたか醉つた二人の男を乘せて出かけた。翌日の晩、帆を半分かけ、濡れもせず、壞れもせずに此の島へ打ち上げられたが、中には誰も居なかつた。

 もつと最近では、此の島から出かけたカラハで、飮酒で危險になつてゐる三人の男を乘せてゐたが、歸る途中で轉覆した。汽船が近くにゐたので、二人は助けられたが、三人目までには及ばなかつた。

 さてドニゴールの岸に、一人の男が打ち上げられた。その男は一つの革草鞋をつけ、縞のシャツを着、そのポケットの一つには財布と煙草入があつた。 三日の間、此處の人達は此の男の身元を確かめようとしてゐた。或る人は此の島の男だと考へ、また或る人は南島から來た異に人相書がよく合つてゐると考へた。今晩、舟卸臺から歸る途中、此の島から行つて溺れた男の母親に逢つたが、まだ海の方を眺めて泣いてゐた。彼女は南島から來た人を止めては、あちらではどんな風に考へられてゐるかと、こわごわ小聲で尋ねてゐた。

 夕方遲く、私が或る家に居た時、死んだ男の妹が子供を連れて雨の中をやつて來て、屆いた噂話を長い間してゐた。彼女はその着物の事、財布の體裁やそれを買つた處について、覺えてゐるだけを考へ合はせてゐた。また煙草入や靴下についても同じやうにしてゐた。終にそれが兄の物である事に、少しの疑ひもないやうであつた。

 「あゝ!」と彼女は云つた。「マイクの物に違ひない。神樣、どうぞあの人を淸らかに葬り下さいますやうに。」

 それから、彼女は祕かに泣唱を初めた。黄色い髮の毛は雨に濡れて首にくつついてゐた。子供に乳を飮ませながら扉の傍に坐つてゐる所は、島の女の生活の典型であるかのやうに見えた。

 暫くの間、人人は何も云はずに坐つてゐた。子供の乳を吸ふ音、庭に降り注ぐ雨の音、一隅に寢てゐる豚の鼾のほかには、何の音も聞こえなかつた。それから一人の男が、新しいボートが南島に送られた事などを話し出したが、話はいつも同じ話題に戻るのであつた。

 一人の男の死は、直接の肉親の者以外のすべての者にとつては一つの些細な破滅であるらしい。よく不慮な災難が起つて、父親と上の息子の二人が一緒に死ぬといふやうなことがある。またどうかして、家族の働き手全部が死ぬといふやうなこともある。

 二三年前、今でも島で使つてゐる木の器――小さな桶のやうな――を作るのが、商賣であつた家の三人の男が一緒に大島に行つた。歸り途で皆溺死したので、小さな桶を造る技(わざ)が同時に、少くとも此の島では絶えてしまつた。尤も、その後も此の技(わざ)は今でも北島と南島には僅かに殘つてゐるが。

 去年の冬起つたもう一つの破滅は、祝祭日の慣例に一つの奇妙な興趣を添へた。祝祭日の晩に、男たちが漁に出るのは習慣ではないらしい。ところが、去年の十二月の或る夜、幾人かの男たちが、翌朝早く釣を初めようと思つて、漕ぎ出して、漁船の中で寢た。

 すると朝近くなり、恐ろしい嵐が吹き起り、幾艘かの漁船は、その船員たちを乘せたまま碇泊地から吹き流されて難船した。波が高かつたので、救助の手段を試みることも出來ず、男たちは溺死したのであつた。

 「ああ!」此の話をしてくれた男は言つた。「これから祝祭日に、男たちが二度と海へ出かけることは當分なくなるだらう。その嵐は、その冬を通じて、港にまでとどいた、たつた一度きりのものだつた。これには何か譯があつたのだらう。」

 

 

Late this evening I saw a three-oared curagh with two old women in her besides the rowers, landing at the slip through a heavy roll. They were coming from Inishere, and they rowed up quickly enough till they were within a few yards of the surf-line, where they spun round and waited with the prow towards the sea, while wave after wave passed underneath them and broke on the remains of the slip. Five minutes passed; ten minutes; and still they waited with the oars just paddling in the water, and their heads turned over their shoulders.

I was beginning to think that they would have to give up and row round to the lee side of the island, when the curagh seemed suddenly to turn into a living thing. The prow was again towards the slip, leaping and hurling itself through the spray. Before it touched, the man in the bow wheeled round, two white legs came out over the prow like the flash of a sword, and before the next wave arrived he had dragged the curagh out of danger.

This sudden and united action in men without discipline shows well the education that the waves have given them. When the curagh was in safety the two old women were carried up through the surf and slippery seaweed on the backs of their sons.

In this broken weather a curagh cannot go out without danger, yet accidents are rare and seem to be nearly always caused by drink, Since I was here last year four men have been drowned on their way home from the large island. First a curagh belonging to the south island which put off with two men in her heavy with drink, came to shore here the next evening dry and uninjured, with the sail half set, and no one in her.

More recently a curagh from this island with three men, who were the worse for drink, was upset on its way home. The steamer was not far off, and saved two of the men, but could not reach the third.

Now a man has been washed ashore in Donegal with one pampooty on him, and a striped shirt with a purse in one of the pockets, and a box for tobacco.

For three days the people have been trying to fix his identity. Some think it is the man from this island, others think that the man from the south answers the description more exactly. To-night as we were returning from the slip we met the mother of the man who was drowned from this island, still weeping and looking out over the sea. She stopped the people who had come over from the south island to ask them with a terrified whisper what is thought over there.

Later in the evening, when I was sitting in one of the cottages, the sister of the dead man came in through the rain with her infant, and there was a long talk about the rumours that had come in. She pieced together all she could remember about his clothes, and what his purse was like, and where he had got it, and the same for his tobacco box, and his stockings. In the end there seemed little doubt that it was her brother.

'Ah!' she said, 'It's Mike sure enough, and please God they'll give him a decent burial.'

Then she began to keen slowly to herself. She had loose yellow hair plastered round her head with the rain, and as she sat by the door sucking her infant, she seemed like a type of the women's life upon the islands.

For a while the people sat silent, and one could hear nothing but the lips of the infant, the rain hissing in the yard, and the breathing of four pigs that lay sleeping in one corner. Then one of the men began to talk about the new boats that have been sent to the south island, and the conversation went back to its usual round of topics.

The loss of one man seems a slight catastrophe to all except the immediate relatives. Often when an accident happens a father is lost with his two eldest sons, or in some other way all the active men of a household die together.

A few years ago three men of a family that used to make the wooden vessels--like tiny barrels--that are still used among the people, went to the big island together. They were drowned on their way home, and the art of making these little barrels died with them, at least on Inishmaan, though it still lingers in the north and south islands.

Another catastrophe that took place last winter gave a curious zest to the observance of holy days. It seems that it is not the custom for the men to go out fishing on the evening of a holy day, but one night last December some men, who wished to begin fishing early the next morning, rowed out to sleep in their hookers.

Towards morning a terrible storm rose, and several hookers with their crews on board were blown from their moorings and wrecked. The sea was so high that no attempt at rescue could be made, and the men were drowned.

'Ah!' said the man who told me the story, 'I'm thinking it will be a long time before men will go out again on a holy day. That storm was the only storm that reached into the harbour the whole winter, and I'm thinking there was something in it.'

 

[やぶちゃん注:「ドニゴールの海岸」“ashore in Donegal”はイニシマーンにある海岸の固有地名であるが、同名でアイルランド北西部の州があり、このドニゴール (ゲール語“Dún na nGall”)とは、「外国人の砦」(アイルランド人にとっての「外国人」でヴァイキングを指す)に由来するという。

「此の島から行つて溺れた男の母親」原文は“the mother of the man who was drowned from this island”。確かに海で消えた(可能性が高い)のだから、“drown”(溺れる・溺死する)と用いているのであろうが、後の「死んだ男の妹」“the sister of the dead man”も合わせて、シングの書き方自体が上手くない。これではネタバレしているのと同じである。ここは私は意訳(“drown”には「音が消える」の意があり、これは消息が絶えることだ。また“dead man”は必ずしも「死んだ男」と訳さねばならないわけではない。「消滅した男」の意味もある)をしても、「此の島からアランモアへ行って帰る折りに行方知れずとなってしまったイニシマーンの男の母親」、「さっきの消息不明のイニシマーンの男の妹」としたいのである。

「暫くの間、人人は何も云はずに坐つてゐた。子供の乳を吸ふ音、庭に降り注ぐ雨の音、一隅に寢てゐる豚の鼾のほかには、何の音も聞こえなかつた。それから一人の男が、新しいボートが南島に送られた事などを話し出したが、話はいつも同じ話題に戻るのであつた。」原文“For a while the people sat silent, and one could hear nothing but the lips of the infant, the rain hissing in the yard, and the breathing of four pigs that lay sleeping in one corner. Then one of the men began to talk about the new boats that have been sent to the south island, and the conversation went back to its usual round of topics.”。ここは「アラン島」の中でも映像的に(SEからも)頗る印象的なシークエンスである。細かいことを言うと、原文では「四匹の豚」である。また、最後の姉崎氏の訳は誤読される虞がある。叙情的な読みをする人は「いつも同じ話題」とは、「死んだ男」の話題という風に読みがちであろうが、ここは次の段落の冒頭に示される通り、「一人の男の死は、直接の肉親の者以外のすべての者にとつては一つの些細な破滅で」しかないのであり、小さな声から普通の声へと移り変わる彼らの話の内容は、もう「死んだ男」の話題ではなく、普段の日常的な話柄へと変じていたことを指しているのである。そうした画面全体(向こうでは、相変わらず男の妹が赤ん坊に乳をやりながら死んだ兄を悼む泣唱を奏でている)を撮る監督シングは、正しくタルコフスキイの先駆者である。

「去年の冬起つたもう一つの破滅は、祝祭日の慣例に一つの奇妙な興趣を添へた。」原文“Another catastrophe that took place last winter gave a curious zest to the observance of holy days.”。最後が生硬。「奇妙な興趣を添へた」は「妙に熱烈な信心の習慣を添えた」、則ち、祝日には仕事をしてはならない、すればろくなことはない、命をも落とすのだ、という頑ななまでのジンクスが広く信じられるようになった、ということである。直後に述べているように、日本のお盆の殺生禁断と同様に、アラン島でも祝祭日には漁に出ることは、恐らく日本的な禁忌というよりも、習慣として祝祭日は安息するもの、と考えられていたのであろうが、この事故をきっかけに「何か譯があつた」→「祝祭日」→多くの島民がそうした禁忌を熱心に信じ始める、という経過を描いているのである。]

宇野浩二 芥川龍之介 九~(4)

 私が芥川を訪問した度数と芥川が私をたずねて来た度数をくらべると、比較にならぬほど、芥川が私をたずねてくる度数の方が多かった。そうして、芥川は、私をたずねてくると、二分の一か三分の一ぐらいの割りで、私をつれだして、私をどこかへ案内した。そうして、芥川と私と一しょに行ったのは殆んど坐〔すわ〕る所であり、そのすわる所の三分の二はたべ物屋である。そうして、行くのは芥川と私と二人だけである。それで、まず、その『二人だけ』の例外から書きはじめよう。それは、不忍池のほとりの、『清凌亭』という小ぢんまりした日本料理店である。
 この『清凌亭』にはじめて行ったのは芥川である。一度か二度そこに行ってから、芥川は、(ひどく気の弱いところもある芥川は、)一人でゆくのがキマリわるくなる理由ができて、友だちを連れて行くようになったのである。
 私がはじめて芥川につれられて『清凌亭』に行った時、芥川のほかに、どういう連れがいたか、私は、まるで覚えていない。(芥川が、『清凌亭』に一人でゆくのがキマリわるくなったのは、そこにつとめている、十七八歳の女中が、ちょいと好きになったのである。その女中とは後の窪川いね子である。)
[やぶちゃん注:「窪川いね子」は作家佐田稲子のこと。]
 私がその上野の桜木町の家に住むようになったのは、その家の裏(その家と背中あわせ) の家に住んでいた、江口 渙の世話で、その家を借りるようになったからである。江口は、ちょっと見ると、恐〔こわ〕そうな顔をしている上に、人なみはずれて声が大きいので、気の荒い人のように見えるが、その反対で、気はいたってやさしく、感情にもろい人である。それで、江口は、私よりも年〔とし〕が四〔よっ〕つぐらい上〔うえ〕であるからでもあるが、私よりもずっと前から、菊池、芥川、久米、佐藤春夫、広島晃甫、川路柳虹、その他と、したしい友だちである。中でも、その頃の、江口と芥川、佐藤と江口、江口と菊池などの友情の厚さは、涙ぐましい程である。まったく『好漢』というのは江口のような人をいうのであろう。その江口が、やはり、芥川につれられて、いつのまにか、『清凌亭』に連れて行かれた事を、くわしく、『芥川龍之介とおいねさん』という文章に、書いている。
 それによると、江口は、久米正雄、菊池 寛、小島政二郎、の三人と、芥川につれられて、『清凌亭』に、行っている。それは大正九年の春である。その時、芥川は、上野展覧会を見たかえりに、江口、菊池、久米、小島、と、ぶらぶらと、上野の山を山下の方へ、あるきながら、突然、江口に、「君、これから一〔ひと〕つ好いところに連れて行ってやろうか、」と、いって、江口を、その『清凌亭』に、連れて行ったのである。
 菊池と久米は、その洗で、芥川に、すでに、何度か、『清凌亭』に、連れて行かれていたのである。
 さて、その時、窪川いね子は、前に述べたように、諺にいう『鬼も十八、番茶も出花』という、十七八歳であり、色白く、豊頰で、眉は濃く、目が大きく、鼻は尋常で、ただ口がやや大きかったが、それも、笑うと、大きな白い歯が見えるので、愛敬になった。それに、髪は銀杏がえしで、(島田の時もあった、)あらい縞〔しま〕のお召〔めし〕をき、(銘仙の時もあった、)それに黒繻子の襟をかけ、はでなお召の前垂〔まえだれ〕をかけていたから、まったく下町〔したまち〕の娘であり、あどけない娘であった。
[やぶちゃん注:「お召し」は御召縮緬のこと。縦横に絹の練糸を用い、横糸に強く縒〔よ〕りをかけて織った高級縮緬。縞縮緬とも。名前は第十一代将軍徳川家斉が好んで着たことに由来。
「銘仙」は、秩父・伊勢崎・足利地方で織られた先染めの平織りの絹織物。
「黒繻子」は「くろしゅす」と読む、黒光沢の繻子織(縦横五本以上からなる密度の高い、光沢の強い織物。サテン)。]
 芥川が、そういう娘のような女中に、署名した自分の本をおくった、というのは、芥川が、世をはかなく思い、みずから命を絶とうとまで考えるようになった理由の一〔ひと〕つの中〔なか〕に、芥川が不義のような事をした一人のナゾの女(前に『謎の謎子』と書いた)があった、という噂が、芥川としたしかった人たちにまで、本当のように、つたわっている。そうして、その時の元になったのは、小穴隆一の『二つの絵』のなかの『S-』という文章である。(このナゾの女は私も面識はあるが、このナゾの女については、後〔のち〕に、くわしく書くつもりである。)
 さて、このナゾの女は女流歌人といわれているが、私は、このナゾの女が何という雑誌に歌を出したか、を知らないから、このナゾの女の歌を、よんだ事はない。芥川がこのナゾの女にはじめて逢ったのは大正八年の六月十日で、岩野泡鳴が主宰していた、十日会に出席した時である。
 十日会とは、毎月十日に、万世橋の駅の二階の「みかど」という西洋料理店で、岩野泡鳴を中心として、その時分の若い作家や詩人や歌人や画家などが、集まって、雑談をする会合で、毎月十日に開かれるので、『十日会』というのである。
 芥川は、その六月十日の日録のなかに、ただ、「……十日会へ行く。始めてなり。岩野泡鳴氏と一元描写論[註―泡鳴の発明した新論]をやる、」と書いているだけであるが、その時、会場で、はじめて、ナゾの女を見かけて、すぐ傍〔そば〕にいた、おなじ十日会の会員廣津和郎[註―廣津は、芥川よりさきにこの会員になっていた]の肩をたたき、その女の方をかげで指さして、「おい、僕を紹介してくれ、」と、廣津に、たのんだのでナゾの女は、二十四五歳ぐらいであったろうか。
[やぶちゃん注:「一元描写論」岩野泡鳴が主張した小説描写論。作中に作者の視点を担う人物を必ず設定し、すべてはその人物の目を通して観察され描写されてこそ、小説は真の人生を描くことが可能となるという、田山花袋の平面描写論への反論として展開された。
「二十四五歳ぐらいであったろうか」秀しげ子は明治二十三(一八九〇)年八月二十日生まれであるから、大正八(一九一九)年六月当時は満で既に二十八歳である。以下の「廣津」の説明でも示されるように、当時の彼女は見た目、かなり若く見えた。]
 廣津は、その女を、「目鼻立ちは当り前であり、飛び抜けて美人とは云へない、いはば十人並〔じふにんなみ〕の器量ではあつたが、小作〔こづく〕りの体〔からだ〕つきは年〔とし〕よりは若く見え、小〔こ〕ぢんまりした顔の中に怜悧な目がよく動き、ちよいと上唇の出た口つきが一種魅惑的であつた、」と述べ、江口は、「……彼女は妖婦ではなかつた。フラッパアでもなかつた。又男性に対して積極的に誘惑の手を差しのべる女でもなかつた。その上いはゆる美人型の美人でもなかつた。無論きれいではあつた。だが、そのきれいさは、むしろ清楚な消極的なきれいさだつた。それでゐて、都会的に洗練されたしとやかさの中に驚くほどこまやかな魅力を多量に持つてゐた。凡そ彼女に好感を寄せる男性に対しては彼女も亦同様な好感を持つて迎へることが出来る女性であつた。その上“How to play a love scene”といふことを好〔よ〕く理解してゐて、しかもそれをあまり露骨に演じなかつた女性であつた、」と書いている。
[やぶちゃん注:「フラッパア」フラッパーとは大正から昭和初期の、正に一九二〇年代に普及した流行語で、「お転婆娘」の意。英語の“flapper”(ばたつくもの・ばたばたする状態)が元で、既存の道徳観などに捉われない女性に対して「おてんば娘」という意味で使われた。但し、当時はボーイッシュや先進的ニュアンスよりも主に批判的軽蔑的で、不良少女の言い換えの感が強かった。
「How to play a love scene」「恋路の手解き」「恋愛処方箋」といった意味。]
 右の二人の云い方は、それぞれ、このナゾの女の特徴のようなものを、さすがに、よく現している。ところで、私は、このナゾの女は、しいて云えば、瘠せ型で、すらりとした体〔からだ〕つきではあるが、私が逢った場合は、都会的なところはあるとしても垢ぬけしたところがあるようでなく、黒人〔くろうと〕じみたところがありながらやはり垢ぬけがしていない、もし魅惑的なところがあるとすれば、細い目でときどき相手の顔をジロリと上〔うわめ〕目に見る事ぐらいである、しかし、それは、スイタらしいところもあればイヤらしいところもあった。
 ところで、芥川は、このナゾの女にも、やはり、署名した自分の本を、おくっているのである。
 これには、なにか、魂胆が、あるのであろうか、ないのであろうか、私には、大した魂胆はないように思われるのである。
 話はまったく変るが、もう十五六年も前の事であろうか。私ははじめて安倍能成に逢った時の事をときどき思い出すのである。安倍がまだ朝鮮の京城大学の教授をしていた頃である。その頃、安倍が、たしか、暑中休暇で東京に帰って来た時、安倍の甥の、小山書店の主人の、小山久二郎に紹介してもらって、はじめて安倍に逢ったのである。
 私(あるいは私たち)が二十歳の文学書生時代に、安倍能成は、新進の評論家として、はなばなしく、活動した。おなじ頃、阿部次郎も、やはり、新進の評論家として、もてはやされた。そうして、この二人は、ほんの少しではあるが、書くものが幾らか似ている上に、おなじ『アベ』であるから、私たちは、それを区別するために、能成の方を『アンバイ』とよび、次郎の方を『アべ』と称した。ところで、書かれている事は別にして、『アンバイ』の文章は、滋味はあるが、地味であり、『アべ』の文章は、わかりよい上に、一種の調子がついていたので、一般には、(『三太郎の日記』などというものがあるので、)非常にうけた。が、その反対に、一部には、「能成の方が、……」というものも可なりあった。私は、もとより、『アンバイ』組の方であった。
 さて、その日の夕方、銀座の裏(つまり、西銀座)の細い町の小〔ちい〕さな日本料理星の二階の一〔ひ〕と間〔ま〕で、私は、小山と一しょに、安倍を、待った。その部屋は、二階の角にあって、夏の事であるから、障子などはまったくはまってなかったので、すぐ外〔そと〕に梯子段の下〔お〕り口が、見えた。
 やがて、その梯子段の下の方から、重い足音がしてきたので、その方を窺がうと、まず、斑白〔はんぱく〕のもしゃもしゃの頭〔あたま〕の毛らしいものが、見えてきた。それが安倍能成であった。
 さて、その晩、その日本料理屋を出ると、安倍が、「……こんどは、僕……」といって、小山と私を、とおりかかるタクシに乗せて、日本橋の呉服橋のちかくの、かなり大きな茶屋に、案内した。とおされた二階の座敷もひろかった。長方形で十五畳〔じょう〕ぐらいの部屋であった。
 やがて、つぎつぎと部屋にはいって来た老若の芸者たちは、みな、安倍を知っていて、「まあ、先生、しばらく、……」と、口口に、いった。それに答えて、安倍は、「やあ、」と云っただけであった。が、その声をたてない笑い顔には何〔なん〕ともいえぬ味〔あじ〕わいがあった。ただ、それだけで、安倍は、それからは、芸者たちを相手に、ぽつりぽつりと、普通の平凡な話をするだけであった。しかし、それから、しばらくすると、安倍は、さまざまの唄を、うたった。しかし、そのさまざまの唄は、安倍が、決して、一人で、うたわなかった。そのかわり、長唄でも、清元でも、常磐津〔ときわず〕でも、小唄でも、安倍は、その芸者がうたえば、(あるいは、かたれば、)一秒ほどおくれて、何でも、うたい、何でも、かたった。
 そこで、私が、あとで、「ふしぎな事をやりますね、が、実にうまいですね、」と、いうと、西洋古代中世哲学史、その他の著者であり、オイケンの『大思想家の人生観』その他の訳者である、安倍は、持ち前のゆったりした口調で、「僕は附ける[註―ひたと合わす、というほどの意味]名人です、」と、いった。
[やぶちゃん注:「オイケン」ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken, 一八四六年~一九二六年)はノーベル文学賞を受賞したドイツの哲学者。安倍訳の「大思想家の人生観」は昭和二(一九二七)年刊。]
 そうして、また、安倍は、芸者たちが、ライオン先生[註―頭の毛からつけたらしい]と呼ぼうが、何といおうが、すこしも頓著〔とんぢゃく〕せず、五十歳ぐらいの芸者とも、十六七ぐらいの舞妓とも、おなじような事を、おなじ口調で、話した。もとより、色気〔いろけ〕というようなものは殆んど感じられない。
 さて、安倍は、(日本橋だけでなく、新橋、その他の芸者にも、)すこしでも知っている芸者たちに、ときどき、旅さきから、『たより』を出す事がある。そうして、変っているのは、その時はかならず芸者の本名を書く。「あの先生は、あたしたちの本名を一ペんお聞きになったら、決してお忘れにならない、」と、安倍を知っている芸者は、みんな、そういうのである。むかし来栖三郎と相愛の仲であった或る芸者が、芸者をやめて、今、名古屋のちかくの四日市で、菓子屋をしている。その四日市の元芸者が、数年前に、「安倍先生からおたよりいただきました、」と、私に、いった事がある。
[やぶちゃん注:「来栖三郎」(くるすさぶろう 明治十九(一八八六)年~昭和二十九(一九五四)年)外交官。ペルー公使やベルギー大使を歴任後、昭和十四(一九三九)年、駐ドイツ特命全権大使となり、翌年の日独伊三国同盟調印では大使として署名している。但し、実際の彼は戦争回避のための親米主張派であった。]
 ところで、かくのごとく、悪例のごとく、ながながと、安倍能成のわたくし事を、書いたのは、芥川が、むかし、『清凌亭』のおいねさんや、謎の謎子、その他に、署名した自分の本を、おくったのは、安倍能成が、ときどき、芸者に、『たより』を出すのと、形はちがうが、ちょいと同じような種類のものではないであろうか、と、ふと、思ったからである。
 また、余談であるが、ある時、辰野 隆が、私に、なにかの話のついでに、「安倍能成は男に惚れられるところがあるねえ……」と。いった。

宇野浩二 芥川龍之介 九~(3)

 いつ頃の事であったか、(大正十一二年頃であったか、)広島晃甫が、突然、たずねて発て、広島の癖で、座につくと、すぐ、芥川のところに、唐の三彩の壺があるらしいが、「それを見たい、すぐ、つれて行ってくれないか、」と、いった。
[やぶちゃん注:「広島晃甫」画家。「一」で既出。]
 広島は、極端な無口で、『遠慮』という事を少しも知らぬ男として友人間に知られている程であったから、私は、もう夜の八時頃であったが、さっそく、広島をつれて、芥川を、たずねた。しかし、芥川は、こころよく、私たちをむかえて、私が広島の希望をつたえると、「ふン、」といったが、すぐ、つぎの間に行って、片手で持てるくらいの、三彩の壺を、持ってきた。
 そこで、広島は、だまって、芥川の手からその三彩の壺を、うけとり、しばらく、矯〔た〕めつ眇〔すが〕めつ、眺めていたが、やがて、「しッ、」といって、芥川の膝の前に、おいた。「しッ、」というのは、「しッ、」というように聞こえるので、広島は、「ありがとう、」という時も、「しっけい、」という時も、自分ではそう云っているつもりであるらしいのに、それが、人には、「あッ、」と聞こえたり、「しッ、」と聞こえたり、するのである。
ところで、芥川は、私がハラハラしているのに、それにはあまり気にとめなかったらしいが、だまって、その三彩の壺を、部屋の隅〔すみ〕に、おいた。そうして、それから、すぐ、立ちあがって、床の間の下〔した〕の戸棚の中から、二つの軸をとりだし、まず、その一つをひろげて、壁にかかっている掛け物の上に、かけてから、芥川は、私たちの方を、(おもに広島の方を、)見ながら、「これは、どうです、」と、いった。
 ところが、それは、広島の好〔す〕きそうな、宗達風の、風景画であったが、広島は、こんどは、一〔ひ〕と目〔め〕見て、首を横にふりながら、「うン、」と、いった。
すると、芥川は、ちょいと苦笑してから、すぐ、その掛け物を取りはずして、別の軸を、するすると、そのあとに、かけた。それは、小〔ち〕さな、長方形を構にした、大きさで、殆んどその紙面いっぱいに、牛を、(牛だけを、)かいたものであったが、一と目見て、私のような者でも、「はッ、」と思っただけに、広島は、その牛の絵が見えると殆んど一しょに、うなるように、「うン、」といった。すると、芥川は、すかさず、私と広島の方を、見くらべるように、眺めながら、
「これは、いいでしょう、」といった。
「うン。」
「これは、僕が見ても、いい。」
 そこで、芥川は、例のニヤニヤ笑いをしながら、
「これは、巧芸画だよ、進呈しようか、」と、私の方をむいて、いった。
[やぶちゃん注:「巧芸画」横山大観が大塚巧藝社(創業大正八(一九一九)年)と大正中期に開発した書画の複製品。原作の可能な限りの再現を目的とし、原作と同じかそれに近い材料・素材を用いて、作業工程もある程度まで再現、プロの画家によって、同質の顔料と手彩色を施した精密複製画を言う。]
 その時、女中が、下〔した〕から、菓子皿をのせた盆を持って、あがって来た。
 そこで、菓子をたべたり、煙草をすったりしながら雑談しているうちに、座がくつろいで来た。
 座がくつろぎ、気もちがくつろぐと、芥川は、しだいに、おしゃべりになった。しぜん、話がはずんでくる。その話がはずんでいるうちに、芥川が、広島に、「あなたが、五六年前の文展に出された、たしか、『夕月』という絵は、ペルシャのミニイアテュウル[註―小画あるいは豆画というほどの意味]から来たのではないか、と思いますが……」というと、広島は、例の云いしぶるような口調で、「……そ、そう、……ミニイアテュウル、……ペルシャ、……サラセン、……」と、いった。
 そこで、私が、側から、
「君は、実に物おばえのいい男だなあ、」というと、
「ふん、」というような返事をしてから、芥川は、目尻に例のうす笑いをうかべながら、「……そうだ、僕の珍蔵している物を見せようか、」と、いいのこして、下〔した〕へおりて行った。
 やがて、あがって来た芥川は、こんどは、ちょいとニコニコしながら、両手で白い細長い瀬戸物の人形のような物を大事そうにかかえて、元〔もと〕の座にすわると、それを、机の上に、そっと、おいた。
「まりや観音〔かんのん〕だよ。」
『まりや観音(摩利耶観音)』とは、徳川時代に、キリスト教が禁止されてから、長崎で、聖母のマリヤを、観音に見たてて、崇拝し信仰したもので、殊に長崎の丸山の遊女たちに信仰された、といわれている。ところで、ここで、芥川が、「まりや観音だよ、」といったのは、たしか、観音の像になずらえてマリヤの像にした瀬戸物で、その像には気のつかないところに十字架の形がついている。
 さて、そのマリヤ観音像を、「どうだ、」というような顔をして、芥川に、見せられた時は、私は、もとより、物に動じても殆んど顔や声にあらわさない広島も、おもわず、はっと、目を見はった。そこで、私が、
「これは、うらやましいね、」というと、
「シッケイしてきたんだよ、」と、芥川は、例のニヤニヤ笑いをしながら、しゃあしゃあとして、いった。
「ぼくも失敬しにゆこうかな。」
「もうないよ。」
 ところで、芥川の『長崎日録』を見ると、

 五月十六日
  與茂平[註―渡辺庫輔]と大音寺〔だいおんじ〕、清水寺〔きよみずでら〕等〔とう〕を見る。今日天晴、遙かに鯨凧〔くじらだこ〕の飛揚するあり。帰途まりや観音一体を得〔う〕、古色頗〔すこぶ〕る愛すべし。

とある。が、これ、亦〔また〕、誠にしゃあしゃあとしているかの如くに見える。
 さて、その夜〔よる〕、かえり道で、広島は、例の云いしぶるような口調であるが、あの芥川の三彩は、あまりきれい過ぎるので、康熙のものではないか、と思う、康熙の物は西洋人がよろこぶけれど、……という意味の事を、私に、はなした。
[やぶちゃん注:以下、「後記」は底本では全体が一字下げ。]
(後記-筑摩書房版の『芥川龍之介』(日本文学アルバム叢書のうち)の中の『手に入れたマリア観音』という題の写真の説明のうち、大正八年[註―二十八歳の年]五月と十一年五月に、彼は二度長崎に遊んでいる。そこで、永見徳太郎、渡辺庫輔〔くらすけ〕、蒲原春夫等を知り、『日本の聖母の寺』――大浦の天主堂、『観音』等を見物している。彼の愛蔵した『マリア観音』は当地で渡辺と共に、「多少の冒険をおかして手に入れたもの」とある。ところで、『マリア観音』を芥川が「多少の冒険をおかして」手に入れたのは、大正十一年の五月に長崎に行った時のことであろう。それは、私が、昭和二十九年の十一月中頃に長崎に行って、渡辺庫輔の案内で、大浦の天主堂を見物に行った時、その『マリア観音』入手の顚末を渡辺に聞くと、渡辺は、例の微笑をしながら、「……あの時、芥川さんが、あの観音さんを私に手ばやくわたしながら『クラスケ、これを……』と云って、浴衣〔ゆかた〕をきていた私のふところに捩じこまれていたのです……」と云ったからである。ところで、大正十一年の五月二十日の日記に「払暁〔ふつげう〕、與茂平〔よもへい〕(渡辺のこと)、春夫の二人と『日本の聖母の寺』に至る、弥撤〔ミサ〕の礼拝式に列せん為なり。松ヶ枝橋〔まつがえばし〕を過ぐる頃、未〔いま〕だ天に星光あり、」とあるから、芥川が『マリア観音』を「シッケイ」したのは五月二十日の夜明け頃ということになる。それから、五月十五日の日記のなかに、「今日〔こんにち〕暑気盛夏の如し、」とあるから、渡辺庫輔が、私に、五月(実は二十日であるのに)に「浴衣をきていた」のが噓でないこともわかるのである。
[やぶちゃん注:「永見徳太郎」(ながみとくたろう 明治二十三(一八九〇)年~昭和二十五(一九五〇)年)は実業家・作家・美術研究家。長崎で家業の倉庫業を営みつつ、俳句・小説などを書いた。南蛮美術・写真の蒐集研究でも知られる。
「渡辺庫輔」(明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)は作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人である。
「蒲原春夫」(かもはら・はるお 明治三十三(一九〇〇)年~昭和三十五(一九六〇)年)は作家・郷土史研究家。長崎県出身。長崎を舞台としたキリシタン小説を発表、大正十一(一九二二)年、渡辺庫輔とともに上京、芥川に師事した。]
 それから、おなじ本のおなじペイジの中に、芥川が、やはり、大正十一年の五月に、長崎の茶屋(『鶴の家』)に書きのこしたちょいと有名な『河童屏風』の写真が出ている。この『河童屏風』について、たしか、青野季吉が、あの銀屏風が、年月〔としつき〕を経て、銀がいくらか黒くなり、銀色が沈んでいるので、あの気味のわるい河童〔カッパ〕の絵が一そう気味わるく見える、という意味のことを云った。まったく青野の云うとおり、私は、『鶴の家』であの屏風を見たとき、その凄みと気味わるさに、正視できなかった、目をおおいたくなった。あの河童は、私が見たかぎりでは、どの人がかいた河童(十数疋の河童)のどれにも似ていない、他の人のかいた河童どもはたいてい何か趣きがあり幾らかの愛敬〔あいきょう〕もあり諧謔もある。ところが、この屏風の河童には、何の趣きもなく、愛敬もなく、諧謔もない、唯ただ凄さと気味わるさがあるだけである。猶この銀屏風の、右半双〔そう〕には、「橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆるかぶろ(禿)のあたま」という歌を三行に書き、その横に少し下げて少し小さい字で「お若さんの為に」と書き、その横にずっと下げてもう少し小さい字で「我鬼酔筆」と書いてある。(お若とはその頃の長崎の芸者照菊の本名である。)芥川は、その時、呼ばれた茶屋にあらわれた四五人の芸者のなかで、この照菊に一ばん興味を持っていたらしい。『長崎日録』のなかで、芥川は、「戯れに照菊に与ふ、」として、『萱艸〔くわんぞう〕も咲いたばつてん別れかな』という句を照菊に寄せている。この照菊は、今は、本名の杉本わかとなり、『鶴の家』のおかみになっているが、今は五十を半〔なか〕ば過ぎているであろう。が、私は、去年(昭和二十九年)の秋、この人に逢ったが、今でもまず美しく、大へん失礼な言葉であるが、この人はどこか芥川未亡人に似ているところがあるようにも思われた。それから、例の『河童屏風』は、私には、一分と眺めてはいられなかった、まったく青野の云うように、無気味で、実にもの凄くて、殆んど正視できなかった。そこで、卑しいことを云うと、芥川の書いたものなら大抵ほしいけれど、この屏風は……この屏風は、今の持ち主がもし私とおなじ思いをいだいているとすれば、東京の博物館にでも納めてはどうであろう。)
[やぶちゃん注:『河童屏風』(正しくは「水虎晩帰之図」と言う)についての宇野の感想には激しく反論する(但し、誰もが観賞出来る博物館等への寄贈云々は支持するし、実際に現在は長崎歴史文化博物館の所蔵となっている)。河童は零落した神であり、本来は人の尻子玉を抜いて死に至らせる立派な恐るべき妖怪である。更に零落させられて滑稽諧謔のみに堕した河童は真の河童にあらず(芥川の「河童」の登場する連中でさえ、実は我々人間から見てひどく不気味なものとして描かれている)。――私なら喜んで言い値で買う。]
 ところで、『長崎日録』は大正十一年であるが、大正十二年の『澄江堂日録』の六月六日、というところを読むと、芥川は、つぎのような事を、書いている。

 蒲原[註―蒲原春夫]君に枇杷を貰ふ。午後、永日荘〔えいじつさう〕にペルシャの古陶を観る。価〔あたひ〕高うして購〔あがな〕ふべからず。

 ところが芥川龍之介全集の月報の第四号[註―昭和三年三月]を見ると、その中に、「遺愛の一つ」として、タテ四寸三分五厘四毛というギリシャの壺の写真が出ている。もとより、写真であるから、よくわからないけれど、もし本当のギリシャの壺であるならば、まったく大〔たい〕したものである。それに、これは、さきに書いたように、芥川の「遺愛の一つ」として、親友であった小穴が、えらんだのであるから、本物であろう。ところで、ここで、どうしても不思議なのは、芥川がはっきり「僕の家に伝はつた紫檀」のペン皿と書いているのを、小穴が、さきの月報のなかで、やはり、「遺愛の一つ」として選んで出している、ペン皿の説明に、「竹材、本是云々の文字は菅白雲さんの書であらうが、刻上〔きざみあ〕げた人は僕知らぬ。故人のペン皿はこれ、」と書いている事である。それは、写真で見ても、芥川が書いているとおり、窪んだ中に、「本是云々」という菅虎雄の字が刻んであり、外には、やはり、細木伊兵衛が刻んだ、という「素人の手に成つたらしい岩や水」が刻んであるから、小穴が「遺愛の一つ」として写真で出したペン皿と、芥川が『ペン皿』という文章で書いているペン皿は、同じ物にちがいないのであるが、ちがうのは『竹』と『紫檀』であるから、これは、たいへんな違いである。(芥川の事を誰よりもよく知っている筈の小穴にも、こういうマチガイがあるのであるから、私のこの『思い出すままに』などという文章はマチガイだらけにちがいない。たびたび断るようであるが、やはり、この事をくりかえし断っておく。)

宇野浩二 芥川龍之介 九~(2)

 さきにくどいほど書いた、ゴオゴリの胸像(テラコッタ)をかりに骨董とすれば、芥川は、ある人たちが考えるほど、骨董という物にさほど興味をもっていなかったように、私は、思う。ただ、芥川の身辺にある物であれば、何〔なん〕でもない物が、ツマラない物でも、由緒〔ゆいしょ〕ありげに見え、味〔あじ〕わいがあるように思われたのではないか。それは、芥川よりたった二〔ふた〕つ年下〔としした〕の、小島政二郎、佐佐木茂索、というような、なみなみならぬ利発で利口な人でさえ、芥川の事では、あとで苦笑させられたような事がしばしばあったのではないか、と、私には、臆測されるからである。それから、更に臆測をたくましゅうすれば、芥川は、骨董(あるいは、それに類した物)を、無料、ではなくても、案外、手軽に、また、俗なことをいえは、安く、手に入れていたのではないか、と思われる節〔ふし〕もあるからである。

 芥川が死ぬまで住んでいた家は、その頃は、東京市外田端町で、市電の動坂から行っても、省線の田端から行っても、かなり遠く、どちらから行っても、長い坂道があり、さて、やっと近くまで行けば、入り組んだ細い道で、その細い道をいくつかまがったところの角〔かど〕で、その角に門があった。そうして、その門をはいって、石畳〔いしだたみ〕を一間〔けん〕ぐらい踏んでゆくと、目のあらい格子戸〔こうしど〕のはまった入り口がある。そうして、時によると、その格子の横桟に、今の言葉でいえは、A5判より少し大きいぐらいの大きさの紙が白い紐でしばりつけてあって、その紙に、『忙中謝客』という字を、『忙 中』『謝 客』とならべて、しゃれた書体で、墨で書いてある。ところが、近づいて、よく見ると、その左側の『謝 客』のよこに、うすい墨色〔すみいろ〕でくずした字で、「おやぢにあらずせがれなり」と書いてある。つまり、この「せがれ」を芥川龍之介とすれば、「おやぢ」は、龍之介の養父の、芥川道章であろう。これは、何〔なん〕と、珍〔ちん〕な札〔ふだ〕ではないか。しかし、これは、今、かんがえると、(いや、そのとき見ても、)おもしろき札である。しかし、また、このような『珍中〔ちんちゅう〕の珍〔ちん〕』ともいうべき札を、所もあろうに、入り口に、かけているところが、やはり、芥川であり、また、こういう光景は、芥川の小説を思わせもして、おもしろいではないか。ところで、年月〔としつき〕を経て、往事〔おうじ〕を回想しながら、このような呑気〔のんき〕らしい事を書いているけれど、三十にもならないうちに鬱然たる大家になり、同時代の数多〔あまた〕のすぐれた作家のなかでもっとも花やかに見えた、芥川龍之介を、さきに述べたように、電車をおりてからかなり遠い道をあるいて、やっと、たどりついて、たずねていったところで、奥ぶかく見える家の入り口で、この『忙中謝客』の札を見れば、気のよわい文学青年なれば、(あるいは、文学青年でなくても、)おおげさにいえば、芥川龍之介という人間が、後光〔ごこう〕でもあって、奥の院〔いん〕におさまっているような人物と思われて、しばし、茫然としたであろう。

 芥川の書斎(をかねた客間)は、この入り口をはいった玄関の部屋の斜め上ぐらいのところにあった。部屋は八畳〔じょう〕か十畳ぐらいである。廊下からその部屋にはいると、右手に、まん中に柱があって、その柱の手前は一間と三尺ぐらいの、たしか、板の間〔ま〕で、その向〔むこ〕うに二枚の小〔ちい〕さな障子のはまった小窓があった。そうして、その小窓の前に、二〔ふた〕つの本棚がならんでいて、その三尺ぐらいの二つの本棚には、二つともたぶん四〔よ〕ならびに、和本が横につんである。その本棚は、たしか、三段で、一ばん下〔した〕だけが広かった。さて、中央の長のむかって右側は、床〔とこ〕の間〔ま〕であるが、この床の間は、下〔した〕の方〔ほう〕が二尺〔しゃく〕ぐらいの高さの戸棚になっていて、その上〔うえ〕は、やはり、和本らしいものが、横にならべて、五六冊か十冊ぐらいずつ、積〔つ〕み重〔かさ〕ねてあった。が、その中〔なか〕には、帙〔ちつ〕に入れたものなどもあり、ふるい陶器でも入れてあるらしい茶色の箱などもあった。それから、壁には、誰かの手紙か原稿からしいものを表装したものが掛けてあり、壁の隅に掛け物の巻いたのが二三本たてかけてあった。

 さて、真中〔まんなか〕の柱から五六尺はなれたところに、紫檀〔したん〕の机がすえてあって、芥川は、いつも、その机の前に、すわっていた。そうして、その机の横に小〔ちい〕さい長火鉢がおいてあったので、私は、芥川をたずねると、その長火鉢の横に、すわる事になっていた。

 芥川は、大正五年(かぞえ年〔どし〕、二十五歳の年)の秋、『芋粥』を書いて、はじめて、一枚四十銭の原稿料をとったが、それでは一人前の生活ができないので、その年の十二月に、海軍機関学校の教官になった。(その年の十二月九日〔ここのか〕に、漱石が、死んだ。)ところが、それから一年ほど後〔のち〕に、六十円の月俸が百円にあがり、原稿料も一枚二円前後になったので、「これらを合〔あは〕せればどうにか家計を営〔いとな〕めると思ひ、前から結婚する筈だつた友だちの姪と結婚した。僕の紫檀の古机〔ふるづくゑ〕はその時夏目先生の奥さんから祝つて頂〔いただ〕いたものである。机の寸法は竪三尺、横四尺、高さ一尺五寸位であらう。木の枯れてゐなかつたせゐか、今[註―大正十五年]では板の合〔あは〕せ目〔め〕などに多少の狂ひを生じてゐる、」と、芥川が、書いている。それから、おなじ文章のなかで、芥川は、「小さい長火鉢を買つたのもやはり僕の結婚した時である。これはたつた五円だつた。しかし抽斗〔ひきだし〕の具合〔ぐあひ〕などは値段よりも上等に出来あがつてゐる、」と、述べている。これで見ると、紫檀の机は無料であり、小さき長火鉢は金五円である。いずれにしても、これだけでも、いかに、芥川が、物もちのよい男であったかが、わかるであろう。

[やぶちゃん注:以上の引用は芥川龍之介が大正十五(一九二六)年一月発行の雑誌『サンデー毎日』に掲載した「身のまはり」から。以下の複数の引用も同じ(リンク先は私のテクスト)。]

 それから、私が、芥川のところに行くと、いつも、机の上に、妙に私の目をひく物があった。それは、私のすわっている方からいえば、机の上の一ばん手前においてある、凝〔こ〕りに凝った、ペン皿である。これは、私のような無骨〔ぶこつ〕な者には殆んど不用な物であるから、目に立ったのであろうが、万年筆をきらって、ふだん、ペン(Gペン)を使っていた、芥川の自慢の物らしかったからでもある。芥川は、そのペン皿について、つぎのように、書いている。

 夏目先生はペン皿の代りに煎茶の茶箕を使つてゐられた。僕は早速その智慧を学んで、僕の家に伝はつた紫檀の茶箕をペン皿にした。(先生のペン皿は竹だつた。)これは香以〔かうい〕[細木香以は、幕末の江戸の一代の通人で、新橋の山城河岸の酒屋であったが、豪遊を事としたが、「年四十露に気のつく花野哉」とよんで店を継母にわたし、妻のふさと子の慶次郎をつれて、浅草の馬道の猿寺に移った。この香以の姉の子が芥川の養母である。芥川の『孤独地獄』は香以を題材にしたものであるが、森 鷗外の『細木香以』はすぐれた小説である。大方の人に一読をすすめる]の妹婿に当たる細木伊兵衛のつくつたものである。僕は鎌倉に住んでゐた頃、菅虎雄先生に字を書いて頂〔いただ〕きこの茶箕の窪んだ中へ「本是山中人愛説山中話〔もとこれさんちゆうのひととくことをあいすさんちゆうのわ〕」と刻ませることにした。茶箕の外〔そと〕には伊兵衛自身がいかにも素人〔しろうと〕の手に成つたらしい岩や水を刻んでゐる。といふと風流に聞えるが、生来〔しやうらい〕の無精〔ぶしやう〕のために埃〔ほこり〕やインクにまみれたまま、時には「本是山中人」さへ逆〔さか〕さまになつてゐるのである。

[やぶちゃん注:「茶箕」は「ちやみ(ちゃみ)」と読み、煎茶の殻・塵を取り除く箕である(最近では靴べらのような形をした茶筒から茶葉を掬う道具を指しているが)。

「浅草の馬道の猿寺」は、鷗外の「細木香以」に書かれたものの転載であるが、「猿寺」というと現在、東京都中野区上高田にある臨済宗松源寺で、この寺は江戸期には牛込通寺町にあったものの、「浅草の馬道」ではない。識者の御教授を乞う。

「本是山中人愛説山中話」は、特にその初句を芥川は好んで揮毫した。中国の禅僧蒙庵岳の「鼓山蒙庵岳禪師四首」の一首「本是山中人 愛説山中話 五月賣松風 人間恐無價」から採ったもの。]

 この文章のはじめの方の(先生のペン皿は竹だつた。)とあるのを読むと、(僕のペン皿は紫檀ですよ、)というようにもとれない事もない。

 それから、このペン皿の前に、(ペン皿でなく、硯がおいてあったかもしれないが、なにぷん二十六七年か三十年ぐらい前の記憶であるから、記憶がアヤフヤである、)やはり、凝った硯屏〔けんびょう〕がおいてあった。この硯屏は、私のような無知な者が見ても、見事〔みごと〕なものであったが、この青磁の硯屏も、こんど、必要があって、芥川の全集をとりどりに読みかえしてみると、これも、団子坂の骨董屋で、室生犀星が、見つけてきて、「売らずに置けといつて置いたからね、二三日中〔にちうち〕にとつて来なさい。もし出かける暇がなけりや、使でも何でもやりなさい、」といったので、十五円ぐらいで、買った物である。すなわち、これでわかるように、紫檀の茶箕のペン皿は無料であり、青磁の硯屏は金十五円である。

僕は

今日の今日まで僕は好き勝手にしてきた――

だから――

僕は今日の今日まで僕が好き勝手にしてきたことの償いを――

明日から(しかしやはり)好き勝手に償おうと思う――

だからこその――

歸去來(かへりな)ん いざ 田園 將に蕪(あ)れんとす 胡(なん)ぞ歸らざる――

2012/03/22

歸去來兮 田園將蕪胡不歸

歸去來兮 田園將蕪胡不歸

教師 狂師 最後の日に

……「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇はないから。」

 鐵冠子はかう言ふ内に、もう歩き出してゐましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、

「おお、幸、今思ひ出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持つてゐる。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好(い)い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、さも愉快さうにつけ加へました。

芥川龍之介「杜子春」終章)

2012/03/21

亡くしたものは……

先日の佐渡島で、僕は僕が唯一自分で選んで買った――僕の身に着けているものは悉く母か妻が買ったものなのだが――正にアランのイニシュマーン島で買ったマフラーを――亡くした――

僕が人生で亡くしたものは――一体、何だったのだろう……

亡くしたものより――得たものの方が――ずっとずっと多いのに――僕らはいつも――亡くしたものしか考えず、そして、亡くしたことをただただ哀しむという――芥川龍之介が「枯野抄」で解剖したような――愚かな生きものなのかも――知れないね……

ともかく――これで一つの終わりは――否応なく――やって来る――

では諸君――まずは、随分、御機嫌よう――

――そして――

また――何時か――何處かで……

宇野浩二 芥川龍之介 九~(1)

     九

 この前の回の中で、芥川が木蘇 穀から印章を買うことを述べたが、その年月を忘れたので書かなかった。ところが、芥川の全集の書翰篇のうちの、つぎにうつす手紙をよんでそれが大正十一年の三月下旬であることがわかった。
[やぶちゃん注:「大正十一年の三月下旬」三月二十六日。岩波旧全集書簡番号一〇〇九。]

 拝啓 この頃左の印を得ました鳳鳴岐は読めるのですがもう一つのは読めないのです何哉ですか教へて頂けれは幸甚です又小さい印の中細長い○日○石とか云ふ○印の中も教へて頂ければ幸甚です

こう書いたあとに、その字のよめない印が縦〔たて〕に六〔むっ〕つ押してある。そうして、そのあとに、「作者は皆蔵六です 頓首 香取先生」とある。香取とは香取秀真である。

 その後無恙〔つつがなく〕御消光の事と存候さてこの頃石印両三顆手に入れ候につき御鑑裁を経たく存居侯へども近々御来駕下さるまじく候や当方より参上致す可〔べ〕きの所何分にも煉瓦程の石印につき途中難渋に候間手前勝手を申上ぐる次第に御座候[下略]
[やぶちゃん注:これは大正十一(一九二二)年三月二十六日佐佐木忠一宛。岩波旧全集書簡番号一〇一〇。佐佐木忠一は佐佐木茂索の兄で、骨董屋を経営していた。]

 この二つの手紙のうちの、前の香取にあてた中の印の読み方は、(ここにその印を押したのを木版にして出せば判断はつくが、)『鳳鳴岐』は『鳳鳴岐山』であり、『何哉』は『鉞哉』であり、『○日○石』は『終日弄石』である。いずれにしても、これらの手紙をよむと、芥川が、木蘇からゆずりうけた印を自分の物にして、いかに喜び得意になったかが、うかがわれ、私も、これを知って、その印について間接の世話をした事を思い出して、うれしい気がするのである。
[やぶちゃん注:「鉞」は音「エツ」、訓で「まさかり」。鮮やかな斧正や王権を象徴する。]
 なお、香取秀真は、子規門人のふるい歌人であり、工芸(殊に鋳金)の大家である。芥川が、大〔だい〕きらいな犬をおっばらうために常用していた、といわれる、籐〔とう〕のステッキの頭〔あたま〕についていた、たしか、真鍮の、鳳凰の頭は、香取が造ったものである。こういうステッキはまったく珍しいものであったから、このステッキがいかなる場所においてあっても、その近くにかならず芥川がいる事がわかった。(十数年前に或る百貨店で物故作家の遺品展覧会があった時、あのステッキが出ていたが、あれは今だれが持っているのであろう。ところで、そのステッキ物語があるが、それは後に述べることにしよう。)
 ところで、芥川は、さきに述べたような手紙を書いた日から五日後〔いつかのち〕に、小説の題材に必要な事を聞きただす、という用事だけで、塚本八洲[註―芥川の夫人の弟]に、手紙を書いているのである。つまり、芥川はその手紙の中に、

㈠明治元年五月十四日(上野戦争の前日)はやはり雨天だつたでせうか
㈡雨天でないにしてもあの時分は雨降りつづきだつたやうに書いてありますが、上野界隈の町人たちが田舎の方へ落ちるのにはどう云ふ服装をしてゐたでせう? 殊に私の知りたいのは足拵へです足駄、草鞋、結ひ付け草履、裸足、等の中〔うち〕どれが一番多かつたでせう?
㈢上野界隈、今日〔こんにち〕で云へば伊藤松坂あたりから三橋へかけた町家の人々は遅くも戦争の前日には避難した事と思ひますがこれは間違ひありますまいか? 念の為〔ため〕に伺ひたいのです皆面倒な質問ですがどうかよろしく御返事下さいかう云ふ点が判然しないと来月の小説にとりかゝれないのです
[やぶちゃん注:三月三十一日附。岩波旧全集書簡番号一〇一一。]

と書いて、この手紙をあてた、塚本に、「「御祖母様に伺つた上〔うへ〕二三日中〔ちゅう〕に御返事下さい、」とたのんでいるのである。
 ここに、芥川が、「来月の小説」と書いているのは、『お富の貞操』である。そこで、『お富の貞操』を読みなおしてみると、「戸をしめ切つた家の中は勿論午過〔ひるす〕ぎでもまつ暗だつた。人音も全然聞えなかつた。唯耳にはひるものは連日の雨の音ばかりだつた。雨は見えない屋根の上へ時々〔ときどき〕急に降りそそいでは、何時〔いつ〕か又中空〔なかぞら〕へ遠のいて行つた、」[★やぶちゃん注:「連日の雨」に「ヽ」点があるがこれは宇野によるものである。以下の傍点も同じ。]というところと、「手織木綿の一重物に、小倉の帯しか……」[★やぶちゃん注:「手織木綿の一重物」に「ヽ」点。]というところと、「素裸足に大黒傘を……」[★やぶちゃん注:「素裸足」に「ヽ」点。]というところぐらいが、塚本の祖母に教えられた事を使っているだけで、他はことごとく芥川の空想(あるいは創作)である。してみると、『お宮の貞操』はすぐれた小説ではないけれど、雨降りの描写や殊に猫の描写などは、さすがに、水際〔みずぎわ〕だっている。(『花舞台霞猿曳〔はなぶたいかすみのさるひき〕』のなかに、「見れば見る程、くつきりと、水際の立つよい男」という文句があるが、)芥川の幾つかの小説には、まったく水際だった作品がある。
[やぶちゃん注:「花舞台霞猿曳」は江戸後期の歌舞伎。四世中村重助作の所作事で、天保九(一八三八)年、江戸市村座にて初演された。狂言「靱猿」に基づく。]
 芥川の小説を、このごろ、あまりよく云わない人が多いが、(かく云う私もときどきそう思う事もあるが、)芥川のさきにも、芥川のあとにも、芥川が書いたような、水際だった小説を、(よかれあしかれ、)作〔つく〕った人はないのではないか。ついでに褒〔ほ〕めていえは、私がさきに述べたように、芥川は、空想の才能はあまりなかったとしても、(いや、相当にあったけれども、)それを十分〔じゅうぶん〕におぎなう、独得の、無類の、心にくいような、文学的才能は、多分に、持っていたのである。
[やぶちゃん注:最後の宇野の逆説的な謂いは分かり難い。ここは「芥川は、空想の才能はあまりなかったとしても――いや、相当にあったけれども、それを作品にあからさまに発揮することを芥川は感性として好まなかったために、空想の才能の煌めきを感じさせる芥川の作品は少ないのだが――そこに起因する種の物足りなさを十分におぎなうに足る独得の、無類の、心にくいような、稀有の『物語作家〔ストーリー・テラー〕』としての文学的才能は、多分に持っていたのである。」といった意味で私は採る。但し、私は同時代の作家たちに比べて芥川龍之介の作品に空想が欠けている、とは思っていないことを付け加えておきたい。]

2012/03/20

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (5)

 マイケルは晝間は忙しいので、私は毎日來て、愛蘭土語を讀んでくれる一人の男の子を得た。
 その子は十五歳位で、非常に賢く、私たちの讀む言葉や物語に本當の好意を持つてくれる。
 或る晩、私に二時間、本を讀んでくれた時、疲れたかと尋ねた。
 「疲れたつて?」彼は答へた、「本を讀んで疲れることなんかありやしない。」
 數年前まで、こんな知的傾向の少年達は年寄りの人達と一所に坐つて、その物語を覺えたものであらうが、今はこんな少年達は、ダブリンから來る愛蘭土語の本や新聞に心を向ける。
 私たちの讀む大抵の物語には、英語と愛蘭土語の兩方が竝べてあるが、少し曖昧な章句になると、彼は英語の方を臨き見してゐるのを見かける。併しお前は愛蘭土語より英語の方がよくわかると私が云ふと、彼は憤慨した。彼は多分、英語よりも地方的な愛蘭土語の方がよくわかり、又印刷されると、愛蘭土語よりも英語の方がよくわかるのであらう。何故なら、印刷された愛蘭土語には彼のわからない地方的な形がよく出て來るからである。
 二三日前、彼がダグラス・ハイド[Douglas Hide. 愛蘭土文藝復興の指導者の一人、同國の詩や傳説を集めて、その國語を以て書くことを努めた人]の「爐邊にて」[Beside the Fire]の中の傳説を讀んでゐると、譯の中で、彼の目に觸れた所があつた。
 「英譯に一つ間違ひがある。」と云ひ、一寸躊躇した後で、「golden chair としないで gold chair としてある」と云つた。
 私は、gold watches (金側時計)、gold pins (金の針)と云ふのだと教へた。
 「何故さういふのかなあ。」彼は云つた。「golden chairの方がずつと綺麗なのに。」
 初歩の學習が言葉の形式と共に思想までも、研究しようとする批評的精神の萌(きざし)を彼に與へたことを考へると面白いことである。
 或る日、私は紐繫ぎの奇術に言ひ及んだ。
 「貴方が紐を繫ぐ筈がない。そんなことは云はないで下さい。」彼は云つた。「どんな風にして私たちを瞞したんだか知らないが、あの紐を繫いだのでは毛頭ないんだ。」
 また或る日、一緒に居たが、煖爐の燃えが惡かつた。私は風道を作るため、その前に新聞紙を當てがつたが、餘り效果がなかつた。少年は何んとも云はなかつたが、私を馬鹿だと思つてゐたのであらう。
 翌日、非常に迫(せ)きこんでやつて來た。
 「爐に新聞紙を當てがつてやつてみた。」彼は云つた。「そしたら盛んに燃えた。貴方がやつてゐるのを見た時、全く駄目だとは思はなかつたが、先生(學校の先生)の家で爐で紙を當てがつたら、よく燃え上つた。それから紙の端をゆるめて頭を突込んでみたら、冷い風が煙突へ吹き上つてゐた。全く頭を吸ひ込まれさうになる程に。」
 私たちは殆んど喧嘩をする所であつた。何故なら、土地の手織の方が島の原始的な生活を聯想さすので、遙かに彼に似合ふのであつたが、彼はそれを嫌つて、ゴルウェー産の晴着で、寫眞を撮つてくれと云ふからであつた。彼の鋭い氣性をもつて、苟くも世の中に踏み出すならば、やり通すことが出來るだらう。
 彼は始終考へてばかりゐる。
 或る日、島の人たちの名前は、國では大へん可笑しくはないかと聞いた。
 私は少しも可笑しくはないと答へた。
 「さうかね。」彼は云つた。「島では貴方の名前は大そう可笑しい。私たちの名前も國では、多分大そう可笑しいだらうと思つた。」
 これは或る意味で道理がある。名前は此處で全く普通であるが、その名前は近代の姓氏法とは全く違つた方法を用ひてゐる。
 子供が島の中を歩き出すと、村の人は彼をその洗禮名(クリスチァン・ネーム)で呼び、父の洗禮名(クリスチァン・ネーム)を後につける。
 それでも充分に、いひ表はされない時は、その父の通り名――綽名かその父の名――が附け加へられる。
 父の名が借りられない場合があるが、その時は、母の洗禮名(クリスチァン・ネーム)が通り名として用ひられる。
 此の宿の近くの或る婆さんは「ペギーン」と云はれるが、その息子は「パッチ・ペギーン」、「シォーン・ペギーン」等である。
 時時、姓が愛蘭土式に用ひられるが、彼等同志で愛蘭土語を話してゐる時、「マック」(Mac)を上につけて用ひてゐるのを聞いた事がない。恐らく姓の考へは彼等にとつて餘り新し過ぎ、私の氣がつかない時に、時時使ふぐらゐなものであらう。
 或る時は、その髮の毛の色から名附けられる。それでシォーン・ルア(赤毛のジョン)があり、その子供は「ムールティーン・シォーン・ルア」等である。
 また或る人は「アン・イスガル」(漁夫)、その子供は「モーリャ・アン・イスガル」(漁夫の娘、メァリ)等として知られてゐる。
 學校の先生が私に云つたが、朝、名簿を讀み上げる時、公けの名前の後では、子供たちが皆一緒に小聲で土地風の名前を繰り返す。するとその子供が返事をする。例へば先生が「パトリック・オフラハティ」と呼ぶと、子供たちは「パッチ・シォーン・ダルグ」と云ふやうな名前を小聲で云ふ。すると子供が返事をする。
 此の島へ來る人も多く同じやうに取扱はれる。近頃フランス人のゲール語研究家が島に來たが、常に「アン・サガート・ルア」(赤毛の坊さん)、或は「アン・サガート・フランカハ(フランス人の坊さん)と呼ばれ、決して名前では呼ばれない。
 若し島の人が、名前だけで通る場合には、それだけが用ひられる。私は「エーモン[エドモンドの愛蘭土名]と呼ばれる男を知つてゐる。島で他にも「エドモンド」といふ男があるかも知れないが、その場合には大概通常な綽名とか通り名とを持つてゐるのであらう。
 他の國、例へば現代のギリシアのやうに、名前が幾分似寄つてゐる所では、その職業がその人を表はす最も普通の方法であるが、皆同じ職業を持つてゐる此處では、此の方法は役に立たない。

As Michael is busy in the daytime, I have got a boy to come up and read Irish to me every afternoon. He is about fifteen, and is singularly intelligent, with a real sympathy for the language and the stories we read.
One evening when he had been reading to me for two hours, I asked him if he was tired.
'Tired?' he said, 'sure you wouldn't ever be tired reading!'
A few years ago this predisposition for intellectual things would have made him sit with old people and learn their stories, but now boys like him turn to books and to papers in Irish that are sent them from Dublin.
In most of the stories we read, where the English and Irish are printed side by side, I see him looking across to the English in passages that are a little obscure, though he is indignant if I say that he knows English better than Irish. Probably he knows the local Irish better than English, and printed English better than printed Irish, as the latter has frequent dialectic forms he does not know.
A few days ago when he was reading a folk-tale from Douglas Hyde's Beside the Fire, something caught his eye in the translation.
'There's a mistake in the English,' he said, after a moment's hesitation, 'he's put "gold chair" instead of "golden chair."
I pointed out that we speak of gold watches and gold pins.
'And why wouldn't we?' he said; 'but "golden chair" would be much nicer.'
It is curious to see how his rudimentary culture has given him the beginning of a critical spirit that occupies itself with the form of language as well as with ideas.
One day I alluded to my trick of joining string.
'You can't join a string, don't be saying it,' he said; 'I don't know what way you're after fooling us, but you didn't join that string, not a bit of you.'
Another day when he was with me the fire burned low and I held up a newspaper before it to make a draught. It did not answer very well, and though the boy said nothing I saw he thought me a fool.
The next day he ran up in great excitement.
'I'm after trying the paper over the fire,' he said, 'and it burned grand. Didn't I think, when I seen you doing it there was no good in it at all, but I put a paper over the master's (the school-master's) fire and it flamed up. Then I pulled back the corner of the paper and I ran my head in, and believe me, there was a big cold wind blowing up the chimney that would sweep the head from you.'
We nearly quarrelled because he wanted me to take his photograph in his Sunday clothes from Galway, instead of his native homespuns that become him far better, though he does not like them as they seem to connect him with the primitive life of the island. With his keen temperament, he may go far if he can ever step out into the world.
He is constantly thinking.
One day he asked me if there was great wonder on their names out in the country.
I said there was no wonder on them at all.
'Well,' he said, 'there is great wonder on your name in the island, and I was thinking maybe there would be great wonder on our names out in the country.'
In a sense he is right. Though the names here are ordinary enough, they are used in a way that differs altogether from the modern system of surnames.
When a child begins to wander about the island, the neighbours speak of it by its Christian name, followed by the Christian name of its father. If this is not enough to identify it, the father's epithet--whether it is a nickname or the name of his own father--is added.
Sometimes when the father's name does not lend itself, the mother's Christian name is adopted as epithet for the children.
An old woman near this cottage is called 'Peggeen,' and her sons are 'Patch Pheggeen,' 'Seaghan Pheggeen,' etc.
Occasionally the surname is employed in its Irish form, but I have not heard them using the 'Mac' prefix when speaking Irish among themselves; perhaps the idea of a surname which it gives is too modern for them, perhaps they do use it at times that I have not noticed.
Sometimes a man is named from the colour of his hair. There is thus a Seaghan Ruadh (Red John), and his children are 'Mourteen Seaghan Ruadh,' etc.
Another man is known as 'an iasgaire' ('the fisher'), and his children are 'Maire an iasgaire' ('Mary daughter of the fisher'), and so on.
The schoolmaster tells me that when he reads out the roll in the morning the children repeat the local name all together in a whisper after each official name, and then the child answers. If he calls, for instance, 'Patrick O'Flaharty,' the children murmur, 'Patch Seaghan Dearg' or some such name, and the boy answers.
People who come to the island are treated in much the same way. A French Gaelic student was in the islands recently, and he is always spoken of as 'An Saggart Ruadh' ('the red priest') or as 'An Saggart Francach' ('the French priest'), but never by his name.
If an islander's name alone is enough to distinguish him it is used by itself, and I know one man who is spoken of as Eamonn. There may be other Edmunds on the island, but if so they have probably good nicknames or epithets of their own.
In other countries where the names are in a somewhat similar condition, as in modern Greece, the man's calling is usually one of the most common means of distinguishing him, but in this place, where all have the same calling, this means is not available.

[やぶちゃん注:「私たちの讀む言葉や物語に本當の好意を持つてくれる。」原文“with a real sympathy for the language and the stories we read.”。日本語でも注意深く読めば間違えないのであるが、この「私たちの讀む言葉や物語」「私たち」はシングとこの少年であり、「言葉や物語」とは、ゲール語やゲール語で書かれたケルト系の伝承を指している。
「ダグラス・ハイド[Douglas Hide. 愛蘭土文藝復興の指導者の一人、同國の詩や傳説を集めて、その國語を以て書くことを努めた人]古代ゲール語学者、ゲール語連盟・アイルランド民俗学協会(“the Folklore of Ireland Society”)の設立者にして後の初代アイルランド共和国大統領Douglas Hyde(Dubhighlas de Hide 1860年~1949年)。第二部の「コンノートの戀歌」“Love Songs of Connaught”(「コナハトの恋愛歌集」)の注参照。
『「爐邊にて」[Beside the Fire]』同上部に既出。ダグラス・ハイドによるアイルランド民話や伝承の民俗学的集成。1910年刊。
「golden chair としないで gold chair としてある」は、『「金で出来た椅子」とせず、「金色をした椅子」とある。これ、如何?』という不服である。
「私は、gold watches (金側時計)、gold pins (金の針)と云ふのだと教へた」は、『怎(そも)、真鍮なれど金メッキなれど、これ、「金時計」「金の留め金」と言うが如し』というシングの返答である。この辺り、禅問答のようで私には頗る面白いのである。「golden chairの方がずつと綺麗なのに。」という少年に、私は一本!
「初歩の學習が言葉の形式と共に思想までも、研究しようとする批評的精神の萌(きざし)を彼に與へたことを考へると面白いことである。」原文は“It is curious to see how his rudimentary culture has given him the beginning of a critical spirit that occupies itself with the form of language as well as with ideas.”であるが、この「思想までも」というのは、寧ろ、次の「紐繫ぎ」の奇術への少年の懐疑の部分を指している。しかし、姉崎氏の訳ではそこが伝わり難くなっている。栩木氏はそこがはっきりと分かるように、言葉の形式(形態)と思想(観念)を分割して、『彼の初歩的な教養がこんなふうに批判精神をめばえさせせているのは興味深いが、批判の矛先は言語の形態だけでなく観念にも及んでいる。』と、非常に上手く訳しておられる。
「紙の端をゆるめて頭を突込んでみたら」は、「よく燃え上がった炉の火口全体に宛がっていた新聞の端に少し隙間を作って、試みに自分の頭部を近づけて見たら」という意味であろう。
「私たちは殆んど喧嘩をする所であつた。……」原文は“We nearly quarrelled because he wanted me to take his photograph in his Sunday clothes from Galway, instead of his native homespuns that become him far better, though he does not like them as they seem to connect him with the primitive life of the island.”と長いので姉崎氏は主文の主述を頭に持ってきたのであろうが、これも日本語としてはかなり不親切な印象を与える。その内容は前を受けるのではなく、後の写真の件を受けるということが読み終わらないと分からないからである。意訳しても、ここは前に「また、ある時のこと、……」と頭に附けるだけで、それは解消されるはずだ。栩木氏はこの主述部分を日本語として、巧みに後に持ってきて、原文通りの一文で訳しておられる。分かり易い非常によい訳であると思う。
「近代の姓氏法」原文は“the modern system of surnames”で、これは所謂、相手を当時のヨーロッパで汎用されていた人を呼称・呼名する場合の方法・使用名についての習慣やマナーの謂いである。
「父の名が借りられない場合があるが、その時は、母の洗禮名(クリスチァン・ネーム)が通り名として用ひられる。」原文は“Sometimes when the father's name does not lend itself, the mother's Christian name is adopted as epithet for the children.”。ここはやや訳が雑である。まず「父の名が借りられない場合がある」というのが父がいないとか、私生児で使用出来ないという誤読を生む。ここは同名異人が多いことから、父名のみでは識別が不能である場合を言っているものと思われ、その場合は「母の洗禮名(クリスチァン・ネーム)」を「通り名として用ひられる」のではなく、「母の洗禮名(クリスチァン・ネーム)」に“epithet”(この語には確かに「通り名」の意もあるが、「形容詞的に」の意があり、ここはそれであろう。栩木氏もそれを採用されている)――則ち、父の洗礼名に、更に形容詞的に「母の洗禮名(クリスチァン・ネーム)を」添えたものが付加される、の意でとるべきであろう。
「ペギーン」“Peggeen”という名は、後のシングの名作にして問題作“The Playboy of the Western World”「西部の人気者」(1907年)のヒロインの名である。彼女は本名は“Margaret Flaherty”(マーガレット・フラハルティ)だが、通称“Pegeen Mike”(ペギーン・マイク)である(舞台となる酒場の主人である彼の父は“Michael James Flaherty”(マイケル・ジェイムズ・フラハルティ)である)。因みに、ゲール語の“Peggeen”は“pearl”(真珠)の意である。
「(Mac)」言わずもがなであるが、“Mac-”は“son of”(~の息子)の意の接頭語で、アイルランド及びスコットランド系の姓の頭に見られるのだが、その姓名命名法の古形であるアランでは逆に用いられることがないのではないか、とシングは言っているのである(断定は出来ないから、段落末では留保はしている)。
『「アン・イスガル」(漁夫)』原文“an iasgaire' ('the fisher')”。栩木氏は『アン・チャスカラ』と音写されている。
『「モーリャ・アン・イスガル」(漁夫の娘、メァリ)』原文“'Maire an iasgaire' ('Mary daughter of the fisher')”。栩木氏は『モーラ・アニャスカラ』と音写されている。
「パッチ・シォーン・ダルグ」原文“Patch Seaghan Dearg”。栩木氏は『パッツィ・ショーン・デャルグ』と音写されている。
「サガート」原文“Saggart”。ゲール語で「司祭の家」という意味らしい。栩木氏は「神父」と訳されており、「サガーチ」と音写されている。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (4)

 秋の季節には、ライ麥扱(こ)きが男達や子供達に課せられる仕事の一つである。麥の束は裸岩の上に集められ、その各々互ひにもたせ合はせて立てかけてある二つの石の上で別別に打たれる。
 一つの畑から、翌年の種を取るのに必要以上の麥は取れないほど、土地は甚だ瘦せてゐるので、ライ麥の植ゑ付は屋根葺に使ふ藁を取るためのみに行はれる。
 穀草の山は麥扱(こ)きの柵から、又は畑へ、驢馬に積まれて運ばれる。それゆゑ、此の季節には、金色の藁の小さな尖塔の下から馬勒(ばろく)のしてない黑い頭部を覘かせてゐる驢馬に到る所で出逢ふ。
 麥扱(こ)きが行はれてゐる間、息子や娘たちがあれやこれやの物を持つて入れ代り立ち代りやつて來て、遂に岩の上には小人數の集りが出來、また海へ行く途中の人も誰彼となく立ち止まつて、一二時間話して行く、それで此の仕事は夏の海草灰焚きの時のやうに、和氣藹々たる物がある。
 麥扱(こ)きが終ると藁は家まで運ばれ、物置か或は時時茶の間の隅などに高く積まれ、家の中に生生とした色彩が新たに一つ加はる。
 二三日前、島で最も綺麗な子供たちのゐる家へ行つたが、十四歳位の一番上の娘が出て來て、戸口の傍の積藁の上にどつかと坐つた。日光が彼女とライ麥の一所に當つて、彼女の姿や赤い着物は、その下の藁と共に網や雨合羽を背景とした面白い浮彫のやうであり、また自然に勝れた調和と色彩のある繪のやうであつた。
 此の宿で、屋板葺――毎年爲される――が丁度行はれてゐる。繩綯ひは天氣の變り易い時、一方は小路で一方は茶の間で、行はれる。此の仕事には通常二人の男が一緒に坐り、一人は重い木の棒で藁を叩き、他は繩を造る。此の繩の重な部分は男の子或は女の子によつて、これに使ふために特別に作られた曲つた木片で綯はれる。
 雨の日、屋内で仕事をしなければならない時は、繩を綯ふ人は段段と後退さりして、家の外へ出て、終には道を横切り或る時は一つ二つの畑を越える事もある。葺藁に密な網目を張るためには、各々が約五十ヤード位の非常に長い物を必要とする。村の家の半ばが此の仕事をしてゐる最中は、道は奇觀を呈する。綯はれつつある繩は、暗い戸口の何れかの側から出て、畑まで曲りくねつてゐる。人はその中を拾ひ歩んで行かなければならない。
 大きな繩の玉が五つ六つ出來上ると、屋根葺の一隊が組織せられ、彼等は朝の夜明け前に、その家へやつて來る。そして仕事は普通その日のうちに終つてしまふほど、精出して初められる。
 島に於いて共同してやる凡ての仕事と同じく、此の屋根葺も一種のお祭りと思はれてゐる。屋根に手がつけられた時から終りまで、どつと笑ふ聲、しやべる聲が續く。そして葺替へしてゐる家の主人は傭主ではなく、主人(あるじ)役であるから、一緒に働いてくれる人を犒ふために、大いに骨を折る。
 此の宿の屋根が葺かれた日、大きなテーブルが私の部屋から茶の間の方へ持ち出され、御馳走付のお茶が二三時間毎に出された。道を通りがかつた人は多く茶の間へ立寄つて、しやべり聲は絶え間がなかつた。一度私が窓の處へ來た時、マイケルが破風の頂きから、私の天文學の講義の受け賣りをやつてゐるのを聞いた。併し彼等の話題は大概は島の事に關してゐた。
 此の人達の智慧があり、愛嬌のあるのは、多く勞働の分離が無いためであるらしく、また從つて各人が多方面に發達するためでもあるらしい。各人のいろいろの知識や熟練には、可成り旺盛な精神力を必要とするからである。各自は二國語を使ふことが出來る。彼は熟練した漁夫で、なみはづれた度胸と機敏さを以つて、カラハを操る。彼は簡單な耕作を爲し、海草灰を焚き、革草鞋を拵へ、網を繕ひ、家を建て、屋取を葺き、また搖籠や棺桶を造ることが出來る。その仕事が四季と共に變はる。これは謂はば同じ仕事を常にしてゐる人にありがちな倦怠を防ぐことになる。海上生活の危險は彼に原始時代の狩人の機敏さを教へ、カラハに乘つて釣をして過す長い夜は、藝術を友として生活する人に獨特と思はれる或る感情を彼に植ゑ付ける。

In the autumn season the threshing of the rye is one of the many tasks that fall to the men and boys. The sheaves are collected on a bare rock, and then each is beaten separately on a couple of stones placed on end one against the other. The land is so poor that a field hardly produces more grain than is needed for seed the following year, so the rye-growing is carried on merely for the straw, which is used for thatching.
The stooks are carried to and from the threshing fields, piled on donkeys that one meets everywhere at this season, with their black, unbridled heads just visible beneath a pinnacle of golden straw.
While the threshing is going on sons and daughters keep turning up with one thing and another till there is a little crowd on the rocks, and any one who is passing stops for an hour or two to talk on his way to the sea, so that, like the kelp-burning in the summer-time, this work is full of sociability.
When the threshing is over the straw is taken up to the cottages and piled up in an outhouse, or more often in a corner of the kitchen, where it brings a new liveliness of colour.
A few days ago when I was visiting a cottage where there are the most beautiful children on the island, the eldest daughter, a girl of about fourteen, went and sat down on a heap of straw by the doorway. A ray of sunlight fell on her and on a portion of the rye, giving her figure and red dress with the straw under it a curious relief against the nets and oilskins, and forming a natural picture of exquisite harmony and colour.
In our own cottage the thatching--it is done every year--has just been carried out. The rope-twisting was done partly in the lane, partly in the kitchen when the weather was uncertain. Two men usually sit together at this work, one of them hammering the straw with a heavy block of wood, the other forming the rope, the main body of which is twisted by a boy or girl with a bent stick specially formed for this employment.
In wet weather, when the work must be done indoors, the person who is twisting recedes gradually out of the door, across the lane, and sometimes across a field or two beyond it. A great length is needed to form the close network which is spread over the thatch, as each piece measures about fifty yards. When this work is in progress in half the cottages of the village, the road has a curious look, and one has to pick one's steps through a maze of twisting ropes that pass from the dark doorways on either side into the fields.
When four or five immense balls of rope have been completed, a thatching party is arranged, and before dawn some morning they come down to the house, and the work is taken in hand with such energy that it is usually ended within the day.
Like all work that is done in common on the island, the thatching is regarded as a sort of festival. From the moment a roof is taken in hand there is a whirl of laughter and talk till it is ended, and, as the man whose house is being covered is a host instead of an employer, he lays himself out to please the men who work with him.
The day our own house was thatched the large table was taken into the kitchen from my room, and high teas were given every few hours. Most of the people who came along the road turned down into the kitchen for a few minutes, and the talking was incessant. Once when I went into the window I heard Michael retailing my astronomical lectures from the apex of the gable, but usually their topics have to do with the affairs of the island.
It is likely that much of the intelligence and charm of these people is due to the absence of any division of labour, and to the correspondingly wide development of each individual, whose varied knowledge and skill necessitates a considerable activity of mind. Each man can speak two languages. He is a skilled fisherman, and can manage a curagh with extraordinary nerve and dexterity He can farm simply, burn kelp, cut out pampooties, mend nets, build and thatch a house, and make a cradle or a coffin. His work changes with the seasons in a way that keeps him free from the dullness that comes to people who have always the same occupation. The danger of his life on the sea gives him the alertness of the primitive hunter, and the long nights he spends fishing in his curagh bring him some of the emotions that are thought peculiar to men who have lived with the arts.

[やぶちゃん注:「馬勒(ばろく)のしていない」原文“unbridled”。「馬勒」は馬具用語で、手綱をつけるために馬の頭部に耳から口にかけた皮のマスク状のものを言う。
「繩綯ひは天氣の變り易い時、一方は小路で一方は茶の間で、行はれる」「一方は」は「或は」とするべきところ。天気が良ければ小路で、悪ければ茶の間で、の意。
「綯はれる」は「なはれる」と読む。「縄をなう」の「綯(な)う」である。
「約五十ヤード位」凡そ45.7m。
「人はその中を拾ひ歩んで行かなければならない」縄だらけの道を縄を踏まないようにぬって歩かねばならない、ということ。
「犒ふ」は「ねぎらふ」と読む。「労(ねぎら)う」である。本邦でもかつての民俗社会の村落の茅葺の吹き替えは村民総出で行ない、アラン島のようにそれは一種の祭儀(本邦で用いられる茅は霊力を持ったものと信じられた)でもあった。
「彼は熟練した漁夫で、……」確かに“he”が用いられているが、以下、段落の最後まで「彼」は「此の人達」「各人」を代表する、アランの「男」としての“he”である。邦訳では「彼等」と訳す方が分かりがよい。
「海上生活の危險は彼に原始時代の狩人の機敏さを教へ、カラハに乘つて釣をして過す長い夜は、藝術を友として生活する人に獨特と思はれる或る感情を彼に植ゑ付ける。」原文“The danger of his life on the sea gives him the alertness of the primitive hunter, and the long nights he spends fishing in his curagh bring him some of the emotions that are thought peculiar to men who have lived with the arts.”。この訳の後半はやや生硬である。『また、カラハに乗って釣りをして過ごす夜長には、芸術に生きる風流人士特有と思われている、ある種独特な繊細なる情緒を彼等にもたらす。』といった意味である。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (3)

 此の人たちは自然と超自然の區別をつけない。

 今日の午後――島の人達の間によく面白い話の交はされる日曜であつた――雨が降つたので、私は村人の中でも比較的進歩した人の多く集まる、學校の先生の茶の間へ行つた。私は彼等の漁業や耕作の風習はよく知らず、話を續けてゆけば、必ず私の云ふことが彼等にわからなくなる事柄に來るし、また寫眞の珍しさも段段とうすれて來たので、私が仲間入りをして彼等が期待してゐるらしい慰み事をするのが少しむづかしくなつた。今日は簡單な體操の藝當や手品師の奇術を見せたが、大いに喜ばれた。

 「ねえ、もし、」終つた時、一人のお婆さんは云つた。「そんな事はその土地の魔術使から教はつたのかね?」

 奇術の一つは、村の人が切つた紐を繫ぐやうに見せるのであつたが、完全に成功したと見えて、一人の男はそれを持つて一隅に行き、繫いだと見える所を手に赤い筋が出來るまで引張つてゐた。

 それから私にそれを返した。

 「おやおや、」と彼は云つた。「こんな不思議なことはまだ見た事がない。お前さんの繫いだ所は少し細くなつてゐるが、もと通り丈夫だ。」

 若い方の幾人かの人は疑はしげに見えたが、ライ麥が燕麥になつたのを見た年取つた方の人達は魔術をあつさり信じてしまつて、「ドゥイネ・ウァソル」(旦那)は魔術使のやるやうな事が出來る譯だと別に驚いた樣子もなかつた。

 私は此の人たちと交つてから、新らしい理念の理解されない所には、いつも奇蹟は澤山あると云ふ事を實感してゐる。此の群島だけでも、神祕の密使を立てるほど奇蹟は毎年隨分起る。ライ麥が燕麥になつたり、嵐が取立ての役人を近づかしめないやうに吹き起つたり、又離れ島に獨りゐる牝年が子を産んだりするやうな種類の事はあたりまへの事である。

 不思議とは稀に起る出來事で、雷雨とか虹のやうなものであるが、異る所はそれよりも少し稀で珍しいと云ふことである。私が散歩してゐて、時時村人の誰かと言葉を交はすことがある。そんな時、ダブリンから新聞が來たと云ふと、彼等は私に聞く。――

 「そして、近頃、一體何か非常な不思議がありますか?」

 私の熟練の藝當が終つた時、島の最も若くて素早い者でも私のした事が出來ないのを知つて驚いた。教へようと、一生懸命に彼等の手足を引張りながら氣がついたが、その動作の樂で美しいのは、實際よりずつと身輕に思はせてゐるのであつた。あの斷崖の間や大西洋の中でカラハに乘つてゐる所は、輕さうで小さく見えても、私たちのやうに着物を着て普通の部屋で見ると、彼等の多くは身體がどつしりとして、力強さうに見える。

 少したつと、流石に島の代表的の踊り手である一人の男は起ち上つて、鮭跳びをしたり ――顏を下にして平たく伏して宙に高く跳び上るのである――その他幾つかの非常に素早い藝當を演(や)つて見せたりした。併し彼は若くなかつたから、私たちは踊らせる事が出來なかつた。

 私の奇術の評判は島中に擴がつたので、今夜は此處の茶の間で又やらなければならなかつた。きつと此の藝當は此處、代代傳はり覺えられるに違ひない。島の人たちは物を云ひ表はすのに、比喩をあまり知らないから、外來者の目星しい何かを捉へて、後の話にそれを用ひる。

 それで、最近數年間、立派な指環をはめてゐる人の事を云ふ時に、「あの人は、島のお客であつた、何何夫人のやうに美しい指環をはめてゐる」と云ふ。

 

 

These people make no distinction between the natural and the supernatural.

This afternoon--it was Sunday, when there is usually some interesting talk among the islanders--it rained, so I went into the schoolmaster's kitchen, which is a good deal frequented by the more advanced among the people. I know so little of their ways of fishing and farming that I do not find it easy to keep up our talk without reaching matters where they cannot follow me, and since the novelty of my photographs has passed off I have some difficulty in giving them the entertainment they seem to expect from my company. To-day I showed them some simple gymnastic feats and conjurer's tricks, which gave them great amusement.

'Tell us now,' said an old woman when I had finished, 'didn't you learn those things from the witches that do be out in the country?'

In one of the tricks I seemed to join a piece of string which was cut by the people, and the illusion was so complete that I saw one man going off with it into a corner and pulling at the apparent joining till he sank red furrows round his hands.

Then he brought it back to me.

'Bedad,' he said, 'this is the greatest wonder ever I seen. The cord is a taste thinner where you joined it but as strong as ever it was.'

A few of the younger men looked doubtful, but the older people, who have watched the rye turning into oats, seemed to accept the magic frankly, and did not show any surprise that 'a duine uasal' (a noble person) should be able to do like the witches.

My intercourse with these people has made me realise that miracles must abound wherever the new conception of law is not understood. On these islands alone miracles enough happen every year to equip a divine emissary Rye is turned into oats, storms are raised to keep evictors from the shore, cows that are isolated on lonely rocks bring forth calves, and other things of the same kind are common.

The wonder is a rare expected event, like the thunderstorm or the rainbow, except that it is a little rarer and a little more wonderful. Often, when I am walking and get into conversation with some of the people, and tell them that I have received a paper from Dublin, they ask me--'And is there any great wonder in the world at this time?'

When I had finished my feats of dexterity, I was surprised to find that none of the islanders, even the youngest and most agile, could do what I did. As I pulled their limbs about in my effort to teach them, I felt that the ease and beauty of their movements has made me think them lighter than they really are. Seen in their curaghs between these cliffs and the Atlantic, they appear lithe and small, but if they were dressed as we are and seen in an ordinary room, many of them would seem heavily and powerfully made.

One man, however, the champion dancer of the island, got up after a while and displayed the salmon leap--lying flat on his face and then springing up, horizontally, high in the air--and some other feats of extraordinary agility, but he is not young and we could not get him to dance.

In the evening I had to repeat my tricks here in the kitchen, for the fame of them had spread over the island.

No doubt these feats will be remembered here for generations. The people have so few images for description that they seize on anything that is remarkable in their visitors and use it afterwards in their talk.

For the last few years when they are speaking of any one with fine rings they say: 'She had beautiful rings on her fingers like Lady--,' a visitor to the island.

 

[やぶちゃん注:「ドゥイネ・ウァソル」(旦那)」“'a duine uasal' (a noble person)”。「一人の高潔なる御方」という尊敬を含んだ呼称。ネット上の発音サイトで聴いたものを音写すると「ドウィナ・ウォソル」と聴こえる。栩木氏は「ディニャ・ウァサル」(表記は「デイニヤ・ウアサル」)とルビを振られている。時に「ア」は発音しない(若しくは後の単語の発音に吸収される)のだろうか? 姉崎・栩木両氏とも、ない。識者の御教授を乞う。

「鮭跳び」原文“salmon leap”。サケが遡上する際のジャンピングに似ているからであろう。実は“sal-”は「跳びかかる」で、“salmon”は跳びかかる魚の意が語源らしい。

『それで、最近數年間、立派な指環をはめてゐる人の事を云ふ時に、「あの人は、島のお客であつた、何何夫人のやうに美しい指環をはめてゐる」と云ふ。』原文は“For the last few years when they are speaking of any one with fine rings they say: 'She had beautiful rings on her fingers like Lady--,' a visitor to the island.”。“a visitor to the island”は会話文の外に出ているから、『例えばこの数年の間、彼らが立派な指環を嵌めている誰彼について話す際には、「あの人は指に何何夫人みたような美しい指環をはめてるね、」と言うのだが――この「何々夫人」とは、その実、何年も前に島をちょいと訪れたお客の名に過ぎないのである――。』というニュアンスである。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (2)

 今年はマイケルは晝間は忙しい。併し今は、秋の月があり、夜の大方を、灣の方を眺めながら島を歩き廻つて過した。灣には雲の蔭が、黒と金の面白い綾模樣を投げてゐた。今夜、村を通つて歸る途中、お祭り騒ぎが一軒の稍々小さな家から洩れて來た。マイケルに聞くと、若い男女が、一年中の此の頃に、遊戲をやつてゐるのださうであつた。私もその仲間入りをしたかつたが、彼等の娯みを邪魔しては惡いと思つた。道の兩側にちらほら家のかたまつてある處を再び通りながら、私がフランスやバヴァリヤ邊を旅行した時、夜、折折通つた處を憶ひ出した。其處は再び目醒めるとは思はれないまでに、靜かな蒼い夜の幕に包まれてゐた處であつた。

 後で、私たちは砦の丘に登つた。マイケルは手の屆くほど近くに住みながら其處へ眞夜中に登つた事はなかつたさうである。その場所は、島の頂上に、先史時代の石は光茫のやうに浮き出して、その光の中に、思ひかけない壯觀を呈してゐた。私たちは幽かな黄色い屋根を見下し、又その向うにキラキラ輝いてゐる岩や靜かな灣を眺めながら、石垣の頂上を暫く彷徨つた。マイケルは四圍の自然の美を氣付いてをりながら、それを決して直接語らない。私たちは重に星や月の運行の事ばかりを長い間ゲール語で話しながら、多くの宵を散歩した。

 

 

This year Michael is busy in the daytime, but at present there is a harvest moon, and we spend most of the evening wandering about the island, looking out over the bay where the shadows of the clouds throw strange patterns of gold and black. As we were returning through the village this evening a tumult of revelry broke out from one of the smaller cottages, and Michael said it was the young boys and girls who have sport at this time of the year. I would have liked to join them, but feared to embarrass their amusement. When we passed on again the groups of scattered cottages on each side of the way reminded me of places I have sometimes passed when travelling at night in France or Bavaria, places that seemed so enshrined in the blue silence of night one could not believe they would reawaken.

Afterwards we went up on the Dun, where Michael said he had never been before after nightfall, though he lives within a stone's-throw. The place gains unexpected grandeur in this light, standing out like a corona of prehistoric stone upon the summit of the island. We walked round the top of the wall for some time looking down on the faint yellow roofs, with the rocks glittering beyond them, and the silence of the bay. Though Michael is sensible of the beauty of the nature round him, he never speaks of it directly, and many of our evening walks are occupied with long Gaelic discourses about the movements of the stars and moon.

 

[やぶちゃん注:「お祭り騒ぎ」原文は“a tumult of revelry”で、“tumult ”も“revelry”も騒ぎであるから、正に飲めや歌えのどんちゃん騒ぎという意味である。これは例えば現在、大西洋に近い西海岸の村“Lisdoonvarna”リスドゥーンバーナで行われてい“Matchmaking Festival”(マッチメイキング・フェスティバル:お見合い・縁結び祭り)と呼ばれているものと同類の祭りである。マッチメイキング・フェスティバルはアイルランド政府観光庁の記事によれば、毎年9月から6週間に渡って行われる。昼の各所でのダンスパーティーに始まり、ホテルやパブでの生演奏が朝まで賑わい、実際に仲人役がおり、国外の旅行者など多くの男女の仲を取り持つ。二百年も前からアイルランドに伝わる最も古形の伝統的な祭りの一つである、とある。恐らくこれはローマ神話のフローラ祭などに起源を持つ民間信仰で、若い男女が夕刻から森の中に入って日の出までそれぞれに二人で過し、翌朝、花輪などを作って帰って村を飾るという儀式で、その間は無礼講の野合が許された(アンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」の中で美事な再現が行われている。必見!)。本邦でもこうした祭りはかつて普通に存在した。古くは陰暦九月一日に行われて八朔祭とも呼ばれ、夜、男女が神社の鎮守の森に集って自由に関係を持ったのである。万葉の「歌垣(かがい)」の伝統である。姉崎氏の訳ではちょっと分かり難いが「道の兩側にちらほら家のかたまつてある處を再び通りながら、私がフランスやバヴァリヤ邊を旅行した時、夜、折折通つた處を憶ひ出した。其處は再び目醒めるとは思はれないまでに、靜かな蒼い夜の幕に包まれてゐた處であつた。」(原文“When we passed on again the groups of scattered cottages on each side of the way reminded me of places I have sometimes passed when travelling at night in France or Bavaria, places that seemed so enshrined in the blue silence of night one could not believe they would reawaken.”)では、「再び」なのである。則ち、直前のどんちゃん騒ぎから時間が経過して「再び」同じ場所を通っているのである。このシングのさりげない対照的な描写は、実はその「祭り」の一部始終を画像の中に描き切っていることに気付いて戴きたいのである。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (1)

   第 三 部

 

 私がパリーに居る間、マイケルから一本の手紙が來た。それは英語であつた。

 

親愛なる友よ、――此の前、手紙を戴いてから、あなたは御丈夫なことと思ひます。あれ以來何度もあなたのことを思ひます。また將來もあなたのことを忘れないでせう。

 私は三月初めに二週間ばかり家に籠つてゐました。インフルエンザで大へん惡かつたのでしたが、隨分養生をしました。

 今年の初めから、私はよい賃銀を取るやうになりました。辛くはないのですが、やつて行けるかどうか案ぜられます。私は木挽工場で働いてゐるので、木材を賣つて金を儲けたり、その帳付けをしたりしてゐます。

 一週間に二三囘、家から手紙やらニュースやらを貰つてゐます。皆無事です。またあなたの島のお友達の事を云へば、皆同じく無事です。

 あなたはダブリンで私の友達の何何さんや、その他これ等紳士淑女の誰かにお逢ひになりましたか?

 私は間もなくアメリカへ行かうと思ひますが、私が無事なら來年までは待たないでせう。

 お互ひに丈夫で機嫌よく再びお逢ひ出來る事を望んでゐます。

 も早、お別れを言ふところに來ました。さよなら。ですが、永久にではなく。早く返事を下さい。――ゴルウェーの友より。

  返事を何卒早く。

 

 もう一つの手紙の方は、やや飾つた心持である。

 

 親愛なるS樣、――私は前ら寸暇を得て、一筆さし上げようと思つてゐました。

 先日、お手紙を戴いてから、あなたは至極健在でいらつしやる事と思ひます。

 今あなたは生れ故郷の言葉を習ひに、此處へ來る時期が來たやうに思はれます。二週間前、此の島に盛んなフェス[愛蘭土の昔よりの祭で、此の日は演劇、音楽ダンス等が行はれる]がありました。南島から非常に澤山の參集者がありましたが、北島からはさう多くはありませんでした。

 私の従兄弟二人が此の家に三週間或はそれ以上ゐましたが、今は歸りました。それで、若しあなたがいらつしやるなら場所があります。いらつしやる前に手紙を下さい。私たちは一つ骨折つて、出來るだけ面倒をみませう。

 私は今、二ケ月ばかり家にゐます。働いてゐた工場が燒けましたから。その後、ダブリンに行きましたが、比の都會は私の健康によくありませんでした。――敬愛する貴方の友より。

 

 此の手紙を受けて直ぐ、私はマイケルに、そちらへ戻るつもりだと云ふ手紙を出した。今度、私は船が直接に中の島へ行く日を選んだ。船卸臺の外側に二列に竝で待つてゐるカラハの間へ舟が進んで行くと、私はマイケルがまたも島の着物を着て、カラハの一つを漕いでゐるのを見かけた。

 彼は認めた合圖はしなかつたが、船に横付けになると直ぐに、甲板に攀ぢ上つて來て、私の居る船橋までまっしぐらにやつて來た。

 「ヴ・フイル・テゥ・ゴ・モイ?(御機嫌如何です?)」彼は云つた。「貴方の荷物は何處ですか?」

 彼のカラハは汽船の船首に近い惡い場所にかかつてゐたので、カラハが船側にあたつて搖れたり傾いたりするなかを、私は小麥の袋や自分の鞄の上の可成り高い所から吊り下ろされた。

 本船から離れると、マイケルに手紙を受取つたかどうかを聞いた。

 「いいえ」彼は云つた。「影も形も見ません。ですが、大概來週屆くでせう。」

 船卸臺の一部が冬の間に、流されてしまつたので、私たちはその左側の方の岩の中へ、歸つて來つつある他のカラハと共に順を待つて、上陸しなければならなかつた。

 上陸すると直ぐに人人が歡迎の挨拶を云ひに集まつて來て、私を取り圍んだ。握手をしながら、此の冬遠くへ旅行して、澤山の不思議を見なかつたかと尋ねた。そして終りには例の如く今、世界では大きな戰爭があるかと聞いた。

 此の人たちのゲール語の挨拶を聞き、此の人たちの中に私を一人殘して汽船の出て行くのを見ると、私は嬉しさに戰くのを覺えた。その日は天氣がよく、空は澄み、海は石灰岩の向うに輝いてゐた。遙かに大島の斷崖やコンノートの山山のうすい霧はまだ夏の如き幻想を私に起させた。

 一人の小さな男の子が私の來たことをお婆さんに知らせに遣らされた。私たちは話しながら、その後を鞄を持つてついて行つた。

 私の方の土産話がすつかりなくなると、彼等は自分の方のを語り出した。此の夏、澤山の――四五人の――外國人が、その中には一人のフランスの僧侶も交つて、此の島にゐたこと、馬鈴薯は出來が惡かつたが、ライ麥は日照の來る一週間の前までは、出來がよくなりかけてゐたこと、それから、燕麥に變つたことなどを語つた。

 「お前さんが、若し私たちの事をよく知らないなら、」語り手の一人の男が云つた。「私たちは嘘を云つてゐると思ふだらうが、毛頭噓ぢやない。それはずんずん伸びた。さうだ、膝ぐらゐの高さになつたね。それから燕麥になつた。そんなやうな事はウィクロー郡では見かけなかつたかね?」

 宿では何もかも、もとのままであつた。お婆さんの機嫌と滿足はマイケルのゐるために、もと通りになつてゐた。私は椅子に腰を下し、炭火の端でパイプに火をつけながら、また來てよかつたと、嬉しさに聲を立てんばかりであつた。

 

 

LETTER HAS come from Michael while I am in Paris. It is in English.

 

MY DEAR FRIEND,--I hope that you are in good health since I have heard from you before, its many a time I do think of you since and it was not forgetting you I was for the future.

I was at home in the beginning of March for a fortnight and was very bad with the Influence, but I took good care of myself.

I am getting good wages from the first of this year, and I am afraid I won't be able to stand with it, although it is not hard, I am working in a saw-mills and getting the money for the wood and keeping an account of it.

I am getting a letter and some news from home two or three times a week, and they are all well in health, and your friends in the island as well as if I mentioned them.

Did you see any of my friends in Dublin Mr.--or any of those gentlemen or gentlewomen.

I think I soon try America but not until next year if I am alive.

I hope we might meet again in good and pleasant health.

It is now time to come to a conclusion, good-bye and not for ever, write soon--I am your friend in Galway.

Write soon dear friend.

 

 

Another letter in a more rhetorical mood.

 

MY DEAR MR. S.,--I am for a long time trying to spare a little time for to write a few words to you.

Hoping that you are still considering good and pleasant health since I got a letter from you before.

I see now that your time is coming round to come to this place to learn your native language. There was a great Feis in this island two weeks ago, and there was a very large attendance from the South island, and not very many from the North.

Two cousins of my own have been in this house for three weeks or beyond it, but now they are gone, and there is a place for you if you wish to come, and you can write before you and we'll try and manage you as well as we can.

I am at home now for about two months, for the mill was burnt where I was at work. After that I was in Dublin, but I did not get my health in that city.--Mise le mor mheas ort a chara.

 

 

Soon after I received this letter I wrote to Michael to say that I was going back to them. This time I chose a day when the steamer went direct to the middle island, and as we came up between the two lines of curaghs that were waiting outside the slip, I saw Michael, dressed once more in his island clothes, rowing in one of them.

He made no sign of recognition, but as soon as they could get alongside he clambered on board and came straight up on the bridge to where I was.

'Bh-fuil tu go maith?' ('Are you well?') he said. 'Where is your bag?'

His curagh had got a bad place near the bow of the steamer, so I was slung down from a considerable height on top of some sacks of flour and my own bag, while the curagh swayed and battered itself against the side.

When we were clear I asked Michael if he had got my letter.

'Ah no,' he said, 'not a sight of it, but maybe it will come next week.'

Part of the slip had been washed away during the winter, so we had to land to the left of it, among the rocks, taking our turn with the other curaghs that were coming in.

As soon as I was on shore the men crowded round me to bid me welcome, asking me as they shook hands if I had travelled far in the winter, and seen many wonders, ending, as usual, with the inquiry if there was much war at present in the world.

It gave me a thrill of delight to hear their Gaelic blessings, and to see the steamer moving away, leaving me quite alone among them. The day was fine with a clear sky, and the sea was glittering beyond the limestone. Further off a light haze on the cliffs of the larger island, and on the Connaught hills, gave me the illusion that it was still summer.

A little boy was sent off to tell the old woman that I was coming, and we followed slowly, talking and carrying the baggage.

When I had exhausted my news they told me theirs. A power of strangers--four or five--a French priest among them, had been on the island in the summer; the potatoes were bad, but the rye had begun well, till a dry week came and then it had turned into oats.

'If you didn't know us so well,' said the man who was talking, 'you'd think it was a lie we were telling, but the sorrow a lie is in it. It grew straight and well till it was high as your knee, then it turned into oats. Did ever you see the like of that in County Wicklow?'

In the cottage everything was as usual, but Michael's presence has brought back the old woman's humour and contentment. As I sat down on my stool and lit my pipe with the corner of a sod, I could have cried out with the feeling of festivity that this return procured me.

 

[やぶちゃん注:栩木伸明氏訳2005年みすず書房刊の「アラン島」の「あとがき」によれば、シングの三度目のアラン訪問は1900年9月15日から1014日である。

「フェス[愛蘭土の昔よりの祭で、此の日は演劇、音楽ダンス等が行はれる]」原文“a great Feis”。ゲール語の発音は「フェシュ」に近い。伝統的なゲール語の総合文化祭で、姉崎氏の注にあるように、ダンス・コンテストをメインとして、音楽・演劇などの芸術祭と各種スポーツなどの競技が行われる。英語のウィキを見る限りでは、開催日は限定されていないようである。現在、恐らくこの祭典から生まれたものとして、アイルランド最大の芸術祭としてヨーロッパでも有名なゴールウェイ芸術祭(“The Galway Arts Festival”・ゲール語“Féile Ealaíon na Gaillimhe”)が毎年七月に行われているが、これは1978年に始まる新しいもので、七月では投函されたであろうマイケルの手紙の日時ともずれるように思われる。

「――敬愛する貴方の友より。」原文はゲール語で“--Mise le mor mheas ort a chara.”。栩木氏は「ミシヤ・ラ・モール・ヴアス・オルト・ア・ハラ」のルビを振られている(拗音はルビのため確認出来ないので、そのまま写した)。

「ヴ・フイル・テゥ・ゴ・モイ?(御機嫌如何です?)」“Bh-fuil tu go maith?”。栩木氏の音写は「ヴィル・トゥー・ゴ・マイ」とされている。

「ライ麥は日照の來る一週間の前までは、出來がよくなりかけてゐたこと、それから、燕麥に變つた」とあるが、勿論、イネ科ライムギSecale cereale がイネ科カラスムギ属エンバクAvena sativa になることはあり得ない。彼らには失礼だが、エンバクは元来、ライムギ栽培時の雑草であったから、普段よりも伸びの早かったエンバクを希望的にライムギと誤認したものか?

「世界では大きな戰爭があるか」1900年当時は6月21日、義和団の乱が発生、清がイギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの八ヶ国に宣戦布告、シングがアランに帰る直前の8月14日に連合軍は北京攻略を開始、翌日、北京は陥落した。義和団の鎮圧から北京議定書によって翌1901年9月7日に終結を見た。但し、アメリカに移住した親族が多いアランの人々にとっては、前年から燻っていた米比戦争(べいひせんそう 1899年~1913年:アメリカ合衆国とアメリカが併合しようとしたフィリピンとの間で勃発した戦争)の方が心痛の関心事であったと思われる。当時の戦況は既にアメリカに優位で対ゲリラ戦となっており、正にシングが島に着く直近、9月13日にはプラン・ルパの戦い、9月17日にもマビタクの戦いがあった。最終的にはフィリピン第一共和国が崩壊し、フィリピンは植民地化された。因みに、やはりシングが渡島する一週間前9月8日に一人の日本人が大日本帝国文部省留学生としてロンドンに向けて横浜を出航している。――夏目漱石、その人であった。]

宇野浩二 芥川龍之介 八

      八

 

 この前の章のなかで、芥川とはじめて顔をあわした時の事を述べたので、こんどは、私がはじめて芥川を見た(というより瞥見した)時のことを、書いてみよう。この事は、ずっと前に、書いたことがあるけれど、それはもう三十年ぐらい前であるから、重複してもよいと思い、また、わたくし事〔ごと〕であるが、私の記念にもなるので、述べることにする。

 たしか大正七年の十二月の末である。私は、その頃、牛込の神楽坂の都館〔みやこかん〕という下宿屋に、住んでいた。その下宿屋は、肴町の停留所をおりて、坂の下〔した〕の方へ半町の半分ぐらい行ったところを右にあがった坂の途中にあった。

[やぶちゃん注:「肴町」は現在の神楽坂五丁目。「坂の下」は一般名詞というより、「神楽坂下」という固有名詞として用いていよう。]

 その十二月の末の夕方の七時ごろ、私は、歳暮〔せいぼ〕の売り出しなどで雑沓〔ざっとう〕している狭い町を、なにか急の用事があったのか、大いそぎで、人ごみの間〔あいだ〕を、縫うように、くぐり抜けるように、あるいた、南の方へ。私は、その頃、二十八にもなりながら、一介〔いっかい〕の無名の文学書生であった。しかし、その時、私は、自分だけは自信のある『蔵の中』を書きあげ、しかもそれが三四箇〔か〕月のちに発表されることにきまり、さらに自信のある『苦の世界』も三分の一ほど書いていた。それで、長い間〔あいだ〕、小説を書こう書こう、と思いながら、ふとした過〔あやま〕ちのために出来〔でき〕なかったのが、ようやく芽を出しかけ、前途にほのかな明〔あ〕かりが見えはじめていたので、まだ貧しくはあったが、私の心ははずんでいた。それで、心のはずんでいた私は、道の真中〔まんなか〕を、足もかるく、おそらく肩で風をきって、脇目もふらずに、あるいていたにちがいない。ところが、どういう拍子であったか、一間〔けん〕ほどはなれた、道の片側を反対の方向に、一人〔ひとり〕の洋装の男が、これも、燕のような早さで、すっすっと、通〔とお〕りすぎるのが、ゆきかう人の群〔む〕れをすかして、ちらと私の目をひいた。そうして、それが、咄嗟に、芥川だな、と、私に、わかったのである。

 ところが、その頃、私は、まだ、芥川を、知らなかったばかりでなく、見たこともなかった。そうして、芥川の顔は、ただ、雑誌の口絵に出たのを、見ただけであるが、それも、その時分まで、雑誌に出たのは、本棚の前に腰をかけている、それも、ぼんやりした、写真だけである。しかも、その写真は、私の記憶ちがいでなければ、着物をきていた。ところが、そんな不鮮明な写真しか見ていないのに、その写真とまったくちがった風〔ふう〕をしているのに、私は、実物(らしい物)を見た時、はっきり、芥川にちがいない、と、直覚した。

 その時、黒い、瘠〔や〕せた体〔からだ〕にぴったりついた、洋服をきた、長身の、芥川が、半身をやや前の方に傾〔かたむ〕きかげんにして、真直〔まっす〕ぐに、あるいて行く恰好は、年〔とし〕の暮れの町の目まぐるしく人の往〔ゆ〕き来〔き〕する中〔なか〕にも、きわめて印象的に、私に、見えたのである。(それは、その数年前に、近代劇協会[註―上山草人が主宰し、伊庭 孝が助けた新劇団で、一時は島村抱月の芸術座と対抗した]で出した『ファウスト』で、伊庭 孝が扮した、黒装束をした、メフィストフェレスを、思わせた。)ところで、その時、私は、早足にあるきながらも、ちらりと、その黒服の男の方を、見た。と、その男も、いそぎ足にあるきながら、私の方を、ちらりと、見たような気がするのである、なぜなら、その男の青白く光る日が、(というよりその男の目から出る青白い光りが、)ぎろりと、私を、射るような気がしたからである。(しかし、これは、私の自惚〔うぬぼれ〕であって、もしかすると、私のすぐそばを美しい人が通〔とお〕っていて、その方〔ほう〕に流し目をしていたのかもしれないが、……)

[やぶちゃん注:「伊庭 孝」(明治二十(一八八七)年~昭和十二(一九三七)年)は俳優・音楽評論家・演出家。大正元(一九一二)年に上山草人らと近代劇協会を設立(旗揚げ公演はイプセンの「ヘッダ・ガブラー」)、翌大正二(一九一三)年三月二十七日から三十一日に、宇野が語っている近代劇協会第二回公演上山草人演出になるグノーのオペラ「ファウスト」を帝国劇場で上演している。大正五(一九一六)年に舞踊家高木徳子と後に「浅草オペラ」と呼ばれることになるオペラ興行を立ち上げ、その後、藤原義江や田谷力三らとともにその全盛期を打ち立てた功労者である。後にラジオ放送での歌劇や音楽評論で活躍した。]

 しかし、その時の印象は、(もし、それが、芥川であったら、)芥川も、また、歳暮の町の群集をうるさく思って、町の片側を、なるべく人を避けるように、通〔とお〕ってゆくらしく、その、いそぎ足にあるく、かたむいた棒のような姿は、写真や絵で見た、異国の詩人、アアサア・シモンズか、ウィリアム・バトゥラア・イェエツか、ジャン・アルテュゥル・ランボオか、――そういう人たちの様子に似ているように見えて、(俗な言葉でいえば、何〔なん〕とも意気に見えて、生意気なところもあったが、)私は、はなはだ感心したことであった。

[やぶちゃん注:「シモンズ」は以前にも注したが、「十」の芥川との会話で詳述されるところで再注する。彼が最初に挙がっているのは、後に宇野自身が述べるように彼の大好きな作家であったからである。]

 

 さて、芥川、といえば、どういう訳〔わけ〕か、『鵠沼〔くげぬま〕』という言葉が、私の頭〔あたま〕に、うかぶ。そう思う、東家〔あずまや〕は、それを思い出すと、里見、久米、芥川、佐佐木茂索、江口、中村武羅夫、大杉 栄、小林せい子、その他の人びとの事を思い出す、その東家である。

 私がはじめて鵠沼の東家に行ったのは、大正九年の三月ごろで、その時は仕事をするために出かけたのであるが、それからは、習慣のようになって、仕事が七分ほど遊びが三分ぐらいの割りで、行くと、一週間あるいは半月ぐらい滞在するのが常であった。

 ところで、その、書いてみたいと思う、東家は、大正十年の三月ごろの事で、この時の事は、十年ぐらい前に書いて、『文学の三十年』という本の中に、入れたが、あらためて述べてみたくなったのである、それは、さきに名を上〔あ〕げた人たちが、別別〔べつべつ〕に出かけたのが一緒になったり、おなじ頃に一緒に滞在したり、したので、いろいろな事があったからでもある、その上、プロレタリア文学に専心するようになった、江口と、ずっと後〔のち〕に、プロレタリア文学が跋扈〔ばっこ〕して、芸術派といわれた若い作家たちが圧倒され気味〔ぎみ〕になったのを憤慨して、『花園を荒らす者は誰だ』というような論文を書いた、中村武羅夫とが、東家から半町以内の所に、住んでいたり、無政府主義者といわれた、大杉 栄と、後〔のち〕にブルジョア作家と軽蔑された、里見 弴、久米正雄、芥川龍之介、宇野浩二、その他が、おなじ部屋で、談笑したり、したからでもある。(もっとも、大杉は、幸徳秋水や白柳秀湖[白柳は、明治から大正はじめかけて、相当な社会主義者であった]と交際したり、過激な文章をかいて筆禍をこうむったり、例の『赤旗事件』などにも連坐したり、したが、根は、極端な自由主義者であり、芸術家でもあり、人情ぶかい人でもあった。)

[やぶちゃん注:「赤旗事件」明治四十一(一九〇八)年六月二十二日に発生した社会主義者弾圧事件。前年三月、封建的家族制度を批判した「父母を蹴れ」を平民新聞に寄稿した山口孤剣が新聞紙条例違反の罪に問われて禁錮刑に処せられていたが、この六月十八日に出獄、その出獄歓迎会が東京府東京市神田区錦町(現在の東京都千代田区神田錦町)にあった映画館(元は貸ホールでもあった)錦輝館(きんきかん)」で社会主義者数十名が集って行われた。以下、ウィキの「赤旗事件」によると、歓迎会自体は発起人の、山口に先んじて出獄していた平民新聞編集者の石川三四郎による開会の辞から始まった。続いて西川光次郎(日本初の社会主義政党「社会民主党」の結成発起人の一人)と堺利彦が挨拶した後に余興となり、夕刻には終了したが、『散会間際に、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎ら硬派の一団は、突如赤地に白の文字で「無政府共産」「社会革命」「SOCIALISM」などと書かれた旗』を翻して『革命歌を歌い始めた』。『石川はこれを制止しようとしたが、硬派は従わず、「無政府主義万歳」などと絶叫しながら錦輝館を飛び出した。歓迎会開催に当たり現場で待機していた警官隊は、街頭に現れた硬派の面々を認めるや駆け寄って赤旗を奪おうとし、これを拒んだ彼らともみ合』いとなり、『格闘の末、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎、佐藤悟、徳永保之助、森岡栄治、百瀬晋のほか、女性4名(大須賀里子、管野スガ、小暮礼子、神川松子)が検挙され、またこれを止めに入った堺と山川も同じく検挙された』事件を言う。判決は大杉の重禁錮二年六ヶ月罰金二十五円を筆頭に予想に反した重刑が下された。『荒畑ら当事者がのちに明かしたところによれば、赤旗を翻したのは軟派に対する示威行動に過ぎなかった』のだが、その『判決は、大した罰を受けるとは考えていなかった彼らの楽観を裏切る内容であった』。事件発生から五日後の六月二十七日には西園寺公望首相は辞意を表明、七月四日、内閣は総辞職した。『表向きは健康上の問題によるとされたが、山縣有朋が「事件は社会主義者に対する融和の結果発生した。これは西園寺内閣の失策である」と奏上したのが直接の原因といわれている』。この当時、幸徳秋水はたまたま『郷里の高知県にいたため難を逃れたが、事件を知るや直ちに上京し、勢力の建て直しに奔走した。この結果、無政府主義者やそれに近い者が社会運動の主流派を占めるに至った』。次いで成立した第二次桂内閣は社会主義者への取締りを強化したが、これが逆に拍車をかけ、明治四十三(一九一〇)年の大逆事件へと発展することとなった、とある。]

 さて、この東家に偶然あつまった連中は、毎日、ほとんど仕事をしないで遊んで、くらした。(そうして、遊んでいなかったのは、神経衰弱とかをなおすために、といって、東家の表〔おもて〕の二階の部屋に陣取って、バアネットの『小公子』と『小公女』を翻訳していた、佐佐木茂索だけであった。その頃、佐佐木は、かぞえ年〔どし〕、二十八歳であったが、年よりふけて見えたけれど、色白く眉目〔びもく〕秀麗な青年であった。しかし、一人〔ひとり〕、はなれた部屋にこもって、その秀麗な顔を緊張させ、口を斜めに堅〔かた〕く結〔むす〕んで、適当な訳語を案じているところを、ときどき、私は、見て、あの茂索が、と感心した、それは、その真剣な顔つきにも打〔う〕たれたのであるが、おなじ宿にとまっている友だちが、その部屋から、その有〔あ〕り様〔さま〕も見えず、それらの人たちのはしゃぐ声は聞こえなくても、それを感じない筈のない敏感な佐佐木が、じっと辛抱している、その辛抱づよさに、一そう心を打たれたのであった。そうして、あの若さで、あの忍耐が、……と、今〔いま〕の私は、思うのである。)

 ところで、その時の私たちの『あそび』というのは、その頃はやった「表現と理解」[註―字にかくと、しかめつらしいが、実は無邪気なバカバカしい遊戯であるから、解説したいが、省く]とか、まだ麻雀などなかった時分であったから、「花歌留多」[あるいは「花あわせ」]とか、等、等、等である。

[やぶちゃん注:「表現と理解」不詳。識者の御教授を乞う。私の直感だが、これは所謂、「天狗俳諧」や、シュールレアリストのやった“cadavre exquis”ではなかろうか? 因みに“cadavre exquis”とは「美しき屍体」「優雅な屍体」等と訳されるもので、私の好きな画家イヴ・タンギーが発明したとされる遊び。複数の参加者が一つの文章やデッサンを、各人が別個に(他の若しくは先の又は前後の)製作者の存在や内容・描画を伏せておいて共同で製作する、一種のパフォーマンス・自動描法(オートマティスム)の一つである。名の由来はタンギーらの最初の試みの際に偶然生じた文、“Le cadavre – exquis – boira – le vin – nouveau”(「優美な―屍体は―新しい―酒を―呑むだろう」)に基づく。)]

 さて、花歌留多は、徳川時代に、西洋伝来のカルタが禁止されたので、そのかわりに、案出されたものであるから、麻雀などとは比較にならぬはど、多くの人になじまれたので、徳川時代のことは知らないが、(『栄華物語』のなかに、「花合〔はなあはせ〕、菊の宴など、をかしき事を好ませたまひて……」というのがあるが、)明治から大正にかけて、民衆娯楽の一〔ひと〕つになっていた。しぜんその頃は、文学者のなかにも、「花」を好む人が、かなり誇り多かった。(滝井孝作の『博打〔ばくち〕』[昭和二年四月]のなかに、「自分は遊び事に熱中するたちで、茲〔ここ〕半月ばかり花や麻雀で仕事ができなかつた、……」というところがある。)

[やぶちゃん注:ここで宇野が「栄華物語」(本引用は同作の第三十七巻「けぶりの後」の一節)のなかに「花合」という語がある、と述べているが、この「花合」というのは花札とは全く異なるもので、これは「物合〔ものあは〕せ」の一種である。「物合せ」とは多くの人が集まって右方・左方二手に分かれてそれぞれの組になる示す対象の優劣を争う遊びである。「花合せ」はそのように二手に分かれ、それぞれ花を出し合って比べた上(一般には花の小枝を庭の遣水や池端に立てた)、通常は、その花に因んだオリジナルな和歌などを詠んで優劣を競った遊戯で「花競〔はなくら〕べ」「花軍〔はないくさ〕」などとも言った。勝負は勿論あるが、引き分けもあり、「持〔じ〕」と呼称した。花は主に桜であったが、「紅梅合せ」・「女郎花合せ」・「菊合せ」(「栄花物語」の「菊の宴」はこれかも知れない)・「撫子合せ」・「菊合せ」などがあった。また、「草合せ」というのもあって「紅葉合せ」・「菖蒲の根合せ」(根の長さを競う)、更に凝ったものでは「前栽〔せんざい〕)合せ」といって盆に植込みや箱庭のような盆景を作り、実物や工芸細工の虫やミニチュアの飾りを配したりして、そこに植えられた草花や装飾に関わる歌題を決めて、それらを詠んだ和歌をそれぞれの決められた位置に書き添えて配し、勝負を競ったりした。

「菊の宴」は重陽の節句の祝宴のこと。]

 さて、東家では、この「花」は、いつも、大杉の部屋で、もよおされた、大杉の部屋は、二階の八畳〔じょう〕で、誰の部屋よりも、ひろびろとしていたからである。その大杉の座敷からは、目の下〔した〕に、東家の庭が、見おろされた。その庭は全体が芝生で、その芝生の真中へんに池があって、その池のほとりに亭〔ちん〕があった。それで、庭ぜんたいが箱庭のように見えた。さて、その亭は、小〔ちい〕さい家になっていたので、入り口もあり、縁もあり、全体が四畳〔じょう〕半ぐらいの部屋になっていた。そうして、その部屋には、いつも、二人〔ふたり〕の男がいて、その二人〔ふたり〕の男は、障子があけてあるので、ときどき、大杉の座敷を、じろじろと、見あげた。それは大杉を尾行〔びこう〕する刑事である。したがって、大杉はその二階の座敷にいれば、二人の刑事は、安心して、その亭の部屋で、休息できるわけであつた。それで、大杉は、私たちと花歌留多をしている時、ときどき、目に微笑をうかべて、その亭の方を見ながら、「あそこに番人がいるから、安心だよ、」と、いった。(ところで、芥川は、ときどき、東京に帰ったからでもあるが、たまたま、大杉の部屋に、はいって来ても、花歌留多は一度もした事はない。)

[やぶちゃん注:「亭〔ちん〕」は唐音。池亭。四阿〔あずまや〕。

「大杉栄」宇野の記憶通り、このシークエンスが大正十(一九二一)年三月頃とすると、大杉はこの一月にコミンテルンからの資金援助でアナキスト・ボルシェヴィキ(アナ・ボル)共同機関紙として第二次の『労働運動』を刊行しているが、二月に腸チフスを悪化させ入院している。鵠沼東屋での静養が、その予後の養生と考えるとしっくりくる。]

 

 さて、今、さきに上〔あ〕げた『文学の三十年』を取り出して、開いてみると、その日絵に、私が、その時、東家でとった写真が二〔ふた〕つ、東家でない家でとった写真が二つ、――と、あわせて、四〔よっ〕つの写真が出ている。そうして、その四つの写真の解説が本のしまいに出ている。むろん、その解説は、私が、書いたものである。それを、便宜のために、左にうつしながら、解説の補遺と訂正をしよう。

 むかって右のガラス障子を背景にして、いかにも写真に取られるところらしい恰好をして、ならんでいる、二人の青年は、右が佐佐木茂索(二十八歳)で、左が芥川龍之介(三十歳)である。

 補遺――佐佐木も芥川も着物を着ている。芥川は、両手袖の中にかくし、膝をまげているが、ほとんど正面を見ている、そうして、かすかに歯を出している。佐佐木は、右の方にちょっと反〔そ〕りかえり、左でを籐椅子〔とういす〕の背によせかけ、手の甲だけ出している、トルコ帽のようなものをかぶっている。そうして、佐佐木の方が年上〔としうえ〕のように見える。よく見ると、御両人は籐〔とう〕の寝椅子にいささか行儀〔ぎょうぎ〕わるくならんで腰をかけているらしい。

 むかって左の、庭園の中〔なか〕で、これも、いかにも、写真に取られるかまえをしている、二人〔ふたり〕の人物は、右が里見、左が佐佐木、とだけ説明しておく方が無事であろう。ところで、この庭園は、東家ではなく、どうも、他の家の庭園であったような気がするが、なにぶん二十年ほど前の、あまり大切な事でない、記憶であるから、その「他の家」が如何〔いか〕なる家であったかを丸〔まる〕で忘れてしまった。見る人、諒焉。

[やぶちゃん注:「諒焉」返り点で返って、「焉〔これ〕を諒せよ」と読む。]

 補遺訂正――「他の家」とは、むろん、東家でなく、鎌倉の、当世の流行の言葉でいえば、avec 専門の家である。但し、この家に、御両人は、avec などではなく、とまったのであろう。

 この二〔ふた〕つの改まっていないようで改まっている写真の下の、これ亦、改まっていないようで改まっている、食卓をかこんでいる図は、場所はやはり東家の座敷で、人物は、むかって右から、芥川、せい子[当時の谷崎潤一郎夫人の令妹]、宇野、里見、久米、である。

 解説の附加――五人とも宿屋のそろいの丹前をきているが、それぞれとりどりに写真にとられる姿勢をしているところに、興味がある。芥川は、右腕で頰杖をつき、斜め横むきで、写真器のある方を見ている。すこし不機嫌らしい顔をしている。せい子嬢は、正面をむいて、かすかに笑顔〔えがお〕をしている、ほんの少〔すこ〕し色っぽい顔をしている、里見は、やはり、横むきで、ちょいと頰笑〔ほほえ〕みながら箸を鉢につっこんでいる、(が、それが、いかにも箸を突っこんでいる恰好〔かっこう〕をして見せている、という風〔ふう〕に見える、)半身だけしか写〔うつ〕っていない久米は、首をすこし無理にまげて、やはり、写真器のある辺〔へん〕を、にらむように見ている。さて、私(つまり、宇野)はについては、解説に、こう(つぎのように)書いてある、「宇野だけが、食卓から少〔すこ〕しはなれて、かしこまっている形など、客観的に見て、何〔なに〕か珍〔ちん〕である。しかし、これは私(宇野)が、写真器をうつす仕掛〔しか〕けにしておいて、自動停整器をかけておいて、後〔あと〕で仲間〔なかま〕いりしたので、こういう形〔かたち〕になったのである。」――この解説は、十年ほど前に、私が書いたものであるが、せい子と里見のあいだに、食卓から少しはなれて、ちょこなんと坐〔すわ〕って、真正面〔ましょめん〕をむいている私は、客観的に見て、(客観的に見なくても、)きわめておめでたい顔をしている。もっとも、これは、私ばかりでなく、他の四人の顏も、みな、遊んでいる、これは、四海波〔なみ〕しずかな、天下太平〔たいへい〕な、大正の世のせいばかりではなく、この時この鵠沼の東家に滞在していた人たちは、ここでは、仕事などほとんど忘れて、呑気〔のんき〕にあそびくらしていたからである。(大杉と私は、ときどき、宿の女中と相撲〔すもう〕をとった、という事によって、女中たちにもっとも人気があった、これをもって、他は「推して知るべし」である。)

 さて、この食卓の図の下の右側は、やはり、鵜沼の、江口の家の座敷の縁側で、おなじ頃うつしたもので、むかって右から、佐佐木茂索、谷崎精二、江口、江口の側〔そば〕にいる子供は誰の子か不明。そうして、江口だけが粗末な丹前をきているのは、谷崎と佐佐木が、東家から、江口を訪問した時であろう。

 解説の補遺――粗末な丹前をきた江口と粗末な二重廻〔にじゅうまわし〕し(鳶合羽〔とんびがっぱ〕ともいう)をきた佐佐木が江口と窮屈〔きゅうくつ〕そうに体〔からだ〕をおしつけあって縁側に腰をかけている、ふだん恐〔こわ〕いように見える江口の顔が、ほのかに笑っているので、柔和に見え、日〔ひ〕がさしてまぶしかったのか、佐佐木が二十五度ぐらいに首をかたむけ、その佐佐木と江口の顔のあいだに、やはり、粗末な二重廻しをきた谷崎が、腕ぐみをして、半身を出している。江口は両手を膝の辺でかるく組んでいるが、佐佐木は、両手を着物の袖からだらりと出し、右の手に持っているステッキを斜めにつき、着物の裾と二重廻しの裾がすこし広がっているので、聊〔いささ〕かだらしなく見える、この時、佐佐木はよほど疲れていたらしい。(ここで、余計な事を、承知で述べると、このとき粗末な二重廻しをきていた二人が、二十七八年のちに、一人が早稲田大学の文学部長になり、他の一人が文藝春秋新社の社長になろう、とは、それは、西洋流にいえば、神だけが知っていたかもしれない。)

[やぶちゃん注:所謂、シャーロック・ホームズのスタイルで知られるインバネス(“Inverness coat”)のことである。肩から体を蔽う袖なしのオーバー・コートで、京都の「風俗博物館」の「日本服飾史 資料」の「山高帽、二重廻しのマント」によれば、本邦には十六世紀後半ポルトガル人宣教師らの外套として齎され、ポルトガル語の“Capa”から「合羽」と当字された。明治七(一八七四)年頃に外国軍人の外套を模して、陸海軍の将校用外套や警察・消防の防寒用制服とされた。一般には『洋服だけでなく和服用にも用い出され、和洋混交の新しい姿として重用された。特に半円形のマントを和服用に改良を加え、身の部分を袖なしに作り、マントを重ねたものが「とんび」「二重廻し」「インバネス」と呼ばれて一般の男子の防寒用のオーバーとされた』。大正・昭和を通じて『特に和服用として多く使用されたが、戦後は殆どその姿を消した』とある。]

 最後に、これらの写真を見て、ふと、気がついたのは、ふさふさした髪の毛を真中からわけて耳のへんまで垂らしている芥川の顔は、『ドリアン・グレイの画像』の作者、オスカア・ワイルドをおもわせ、佐佐木の鼻下に目にたつ細長い口髭をはやしている事である。これを見て、ふたたび、余計な口をきくと、「文藝春秋」の増刊の「炉辺読本」[昭和二十六年十二月五日発行]の口絵に、尾崎士郎、田村秋子、徳川夢声、越路吹雪、石黒敬七、一万田尚登、吉屋信子、宇野浩二、の若年の頃と現在の写真を出して、『彼は昔の彼ならず』という題をつけているが、その中〔なか〕に佐佐木茂索を漏らしたのは、『抜群〔ばつぐん〕』といわれる、「文藝春秋」の編輯者の手おちであろう、諺にいう『智者も千慮に一失あり』とはかくの如き事〔ごと〕をいうのであろうか、閑話休題。

[やぶちゃん注:「田村秋子」(明治三十八(一九〇五)年~昭和五十八(一九八三)年)は新劇女優。築地小劇場・築地座・文学座名誉座員。この頃は舞台復帰した直後で、前年の昭和二十五(一九五〇)年にはイプセンの「ヘッダ・ガブラー」でヘッダを演じている。

「石黒敬七」(明治三十(一八九七)年~昭和四十九(一九七四)年)は講道館所属の柔道家・随筆家。ヨーロッパや中近東など海外での柔道普及に尽くした。昭和二十四年からNHKのラジオ番組「とんち教室」のレギュラーとして出演、人気を博した。

「一万田尚登」一萬田尚登(いちまだひさと 明治二十六(一八九三)年~昭和五十九(一九八四)年)は日本銀行総裁・衆議院議員(五期)・大蔵大臣(四回)などを歴任。当時は日銀総裁であったが、この数ヶ月前の昭和二十六(一九五一)年九月のサンフランシスコ講和会議では、全権委員として吉田茂とともにサンフランシスコ平和条約の署名を行っている。]

 ところで、旧著の口絵の解説などをもちだしたのは、鵠沼の東家に、その頃、集まった人たちの動静を述べるには骨がおれる上に余程の枚数がいるので、手をぬいて、その一端を述べるためであった。

 さて、この東家にいた連中〔れんじゅう〕のなかの『花』の特にすきな人たちは、東家のちかくに住んでいた、中村武羅夫の家に、しばしば、出かけた。ところが、その人たちは、中村の『花』のやり方〔かた〕が、手堅〔てがた〕くて、大きく勝たないが、決して負ける事がないので、感じがわるい、といって、ときどき、こぼしながら、しかし、その人たちは、やはり、中村の家に、出かけた。

 ところで、私は、『花』にはあまり興味がなかったので、その連中と中村の家に行ったことは一度もなかったが、ある時、用事があって、中村をたずねた時、めずらしい人に逢った、木蘇 穀という人である。木蘇は、私たちと同年ぐらいであったが、初志を得ないで、西洋の小説の翻訳などを、ほそぼそと、していた。これには、その頃(大正十年ごろ)の翻訳ばやりの有り様を、ちょっと、書いておかないと、一般の読者にわからない、と思うので、――その頃、翻訳の本をほとんど一手〔いって〕に出していたのは新潮社である。その新潮社で、その頃、『世界文芸全集』というのを出していて、その広告を見ると、「約一百巻の予定――空前の大叢書也」とあるが、実際に出したのはその半分ぐらいであったか、と思う。そうして、出したものは、『ボヴァリイ夫人』、『ヸルヘルム・マイステル』、『赤と黒』、『従妹ベット』、その他、大部のものでは、『戦争と平和』、『アンナ・カレエニナ』、『レ・ミゼラブル』、『ジャン・クリストフ』、その他、で、訳者は、中村星湖、米川正夫、原 久一郎、豊島與志雄、佐々木孝丸、その他で、この『その他』の中には、廣津和郎、阿部次郎、江馬 修、などもいるが、他は無名といってもよい人たちである。そうして、その無名といってもよい人たちの中〔なか〕に、『従妹ベット』を翻訳した、布施延雄という男があるが、この布施は、早稲田で、私の同級生で、英語がよく出来たので、バルザックのほかにも、ツルゲエネフ、パルビュス、メリメ、その他翻訳をした。木蘇は、この布施としたしくしていたが、布施ほど語学ができなかった上に、ひっこみ思案の人であったから、翻訳をしても、代訳であったらしく、木蘇の名で出た和訳の本は一二冊であった。

[やぶちゃん注:「木蘇 穀」(きそこく 生没年未詳)は編集者・翻訳家・作家。辻潤から英語を習い、後に『万朝報』記者となり、国家社会主義を唱えた哲学者高畠素之などとも関係があった。個人のブログ「漁書日誌ver.β」の「余震の趣味展」の記事によれば、今東光が『文壇三大醜男』と呼び、谷崎潤一郎「人面疽」のモデルとも言われる、とある(谷崎の書生のようなことを彼はしていたらしい)。「後家ごろし」等、通俗推理小説の創作も手掛けているが、現在は忘れられた作家である。

「従妹ベット」はバルザックの『人間喜劇』シリーズの代表作の一つ。

「中村星湖」(明治十七(一八八四)年~昭和四十九(一九七四)年)翻訳家・小説家。『早稲田文学』記者、戦後、山梨学院短大教授。ここに出たフロベール「ボバリー夫人」は彼の翻訳の代表作。

「原 久一郎」(はらひさいちろう 明治二十三(一八九〇)年~昭和四十六(一九七一)年)はトルストイの翻訳家として知られるロシア文学者。昭和十一(一九三六)年から十五(一九四〇)年に個人訳「大トルストイ全集」を完成させた。。東京外国語大学名誉教授。ロシア文学者として知られる原卓也は彼の息子である。

「佐々木孝丸」(明治三十一(一八九八)年~昭和六十一(一九八六)年)は俳優・翻訳家・作家・演出家。戦前は左翼系演劇に参加、落合三郎のペン・ネームでプロレタリア戯曲集を書き、フランス文学の翻訳をも手掛けた。ここに出る「赤と黒」(落合三郎名義)は彼のその代表作。また「インターナショナル」の日本語訳詞は彼の手にある。熱心なエスペランティストとしても知られ、私にとっては東宝特撮映画でお馴染みのバイ・プレーヤーである。

「江馬 修」(えましゅう/えまなかし 明治二十二(一八八九)年~昭和五十(一九七五)年)は作家。田山花袋の書生となり、夏目漱石門下の阿部次郎らと交遊を結び、大正五(一九一六)年の長編「受難者」がベスト・セラーとなる。関東大震災を契機として社会主義に傾き、『戦旗』派のプロレタリア作家として活動する。戦中から戦後にかけて、長編「山の民」を執筆、文化大革命の中華人民共和国に渡り、現地では最も有名な日本人作家として知られた(以上は、主にウィキの「江馬修」によった)。

「布施延雄」(明治二十五(一八九二)年~?)翻訳家。エドガー・アラン・ポオの作品集「全譯 橢圓形の肖像」(「楕円形の肖像」。大正八(一九一九)年。「ベレニス」「エレオノラ」「モレラ」等を含む作品集の全訳)、バルビュス「地獄」(大正十(一九二一)年で本邦に於けるバルビュスの初訳)、ツルゲーネフ「貴族の家」(現在の「貴族の巣」。大正十一(一九二二)年訳)、ウィリアム・モリス「無何有郷だより」(昭和四(一九二九)年訳)、メリメ「カルメン」(昭和十(一九三五)年訳)、など、多くの翻訳をものしている。]

 さて、私が、中村の家で、木蘇に邂逅したのは、その頃、木蘇も、鵠沼に、住んでいて、ときどき、木蘇は、特殊の用事で、中村を、たずねて来たからである。(木蘇は、翻訳の仕事で、中村と知り合い類を中村に買ってもらう事である。そうして、その書画の類は木蘇の父の遺産であった。木蘇の父は木蘇岐山という有名な漢学者である。

[やぶちゃん注:「木蘇岐山」(?~大正五(一九一六)年)漢詩人。美濃国出身。東本願寺派僧の子。若き日は勤王派として活動したらしい。「大阪毎日新聞」詩(漢詩)欄を担当し、関西詩壇を指導したこともある。宇野が鵠沼の東屋で出逢ったこのシークエンスは、先の記述から大正九~十年頃であるから、岐山の死後四~五年ということになる。]

 それを誰からか聞いた私は、その書画がちょいとほしくなったので、ある日、木蘇をたずねた。すると、木蘇は気の毒そうな顔をして、目ぼしい物はみな中村が取ってしまって、これだけしか残っていない、といって、奥から、二幅の書〔しょ〕を出して来た。そうして、木蘇は、その二幅を私の膝の前において、小〔ちい〕さい声で、「梧竹と楊守敬です、……僕の親父〔おやじ〕は、楊守敬としたしくしていたらしいのです、それで、……」と、いった。

[やぶちゃん注:「梧竹」は中林梧竹(文政十(一八二七)年~大正二(一九一三)年)のこと。明治の三筆と称せられた書家の一人。肥前国小城藩(現・佐賀県小城市)生。その特徴は絵画的で、実際に水墨画も描いた。

「楊守敬」(Yáng Shŏu jìng 道光一四(一八三九)年~民国四(一九一五)年)清末の学者。湖北省宜都生。訓金石学に通じ、欧陽詢の書風を受け継ぐ能書家としても知られた。明治十三(一八八〇)年、初代駐日公使何如璋〔かじょしょう〕の随行員として来日、大陸では既に散逸した古典籍の収集に勤しむ傍ら、書家巌谷一六〔いわやいちろく〕や日下部鳴鶴〔くさかべめいかく〕らに北魏の書を伝えて、本邦近代書道史に大きな影響を与えた。明治十七(一八八四)年帰国、晩年は上海に寓居、書を売って生計を立てたという。]

 私は、それだけ聞いて、「失敬ですが、……」と、いって、木蘇のいうままに、三拾円で、その二幅の書を、木蘇に、譲〔ゆず〕ってもらった。

 ところが、私がこの二幅の書を木蘇から買った翌日、二三日〔にち〕東京にかえっていた芥川が、また、東家にやって来たので、さっそく、芥川に、その二幅の書を見せながら、私は、

「……木蘇君は、もっといい物をたくさん持っていたらしいのだが、その中〔なか〕のもっともいい物を、はじめに、中村君が、買ってしまったらしいんだ、……だから、これは、君〔きみ〕、その、売れ残りだよ、……」と、いった。

 すると、芥川は、私の話がおわらないうちに、目をかがやかしながら、

「君〔きみ〕、すぐ、その木蘇という人のうちへ、案内しでくれたまい、」と、云った。

 そこで、私が、すぐ、芥川を、木蘇のところへ、連れて行くと、木蘇は、ちょっと悲しそうな顔をして、書画の類はもう一幅ものこっていない、と、いった。

 すると、芥川は『地〔じ〕だんだ』ふむような情〔なさけ〕なさそうな、顔をした。

 温厚な木蘇は、その芥川の顔を見て、しばらく、途方にくれていたが、やがて、芥川の顔をうかがうように見ながら、

「印章なら大分ありますが、……」と、云った。

「え、印章、」と、芥川は、めずらしく顔色をかえて、(平凡な形容をつかうと、愁眉〔しゅうび〕をひらいたような顔をして、)飛びつくように、いった。

 そこで、木蘇は、奥の方〔ほう〕へ行って、引き出〔だ〕しを、そのまま、持って来た。

 すると、芥川は、たちまち、私が傍〔そば〕にいるのを忘れたように、その引き出しの中〔なか〕から、大小の印形を、一〔ひと〕つ一〔ひと〕つ、丁寧に、取り出して、「ほお、」とか、「これは、」とか、いちいち、感歎の言葉を、放〔はな〕っていた。しかし、私は、印章というようなものに殆〔ほと〕んど興味がなく、しぜん、芥川と木蘇が、それらの物について、何かしきりに話している事もほとんど全くわからなかったが、そのあいだに、しばしば、『蔵六〔ぞうろく〕』という名が、くりかえされたので、それだけが耳についた。

 さて、芥川は、それらの印形の中〔なか〕から、気にいった物を、五〔いつ〕つ六〔むっ〕つ、木蘇から、ゆずりうけるところと、私の方にむかって、「やあ、失敬、さあ、おいとましようか、」と、いった。

 ところで、芥川の死後に『印譜』が刊行されたが、それには十〔とお〕おさめられていて、その十〔とお〕の中には、芥川の家厳芥川道章の作一〔ひと〕つ、芥川の親友の小沢仲丙[俳人の小沢碧童のこと]の作一つ、他に鋳銅が一つ、陶印が一つ、その他(『仙箭楼居』と刻まれたもの)一つ、――それらの五〔いつ〕つのほかは、(他の五つは、)みな、蔵六浜村 袞の作である。

[やぶちゃん注:「蔵六浜村 袞」は恐らく篆刻家五世浜村蔵六(慶応二(一八六六)年~明治四十二(一九〇九)年)であろうか。初世蔵六以来の最大の印人と称された名工である(但し四世浜村蔵六門人で養子)。襲名は明治二十七(一八九四)年で、各地を遊歴後、二度にわたって清に渡中し、政治家康有為・篆刻家徐三庚・書家で篆刻家としても知られた呉昌碩らと親交を結んで、奥義を学んだ。犬養毅や幸田露伴など多くの名士が彼の印を好んだ。但し、彼の名は「裕」、字が「有孚」、別号「無咎道人」「彫虫窟主人」、通称も「立平」で、「袞」は見当たらない。ただ「袞」はよく見ると(上)が「谷」に、(下)が「衣」に似ていて、「裕」の字に通ずる気もする(事蹟部分はウィキの「五世浜村蔵六(五世)の記載を参照した)。]

 それで、これはまったく私の臆測であるが、この五つの蔵六の作と『仙箭楼居』と刻まれてあるのと合わせて六つの蔵六の作を、芥川が木蘇から、買ったものとすれば、芥川の印章の重なものは、木蘇穀の父の木蘇岐山の所蔵した物である、という事なるのである。そうして、それらの物のうちで、『印譜』の一番はじめに出ている『鳳鳴岐山』は、その大きさといい、その風格といい、私のような者が見ても、蔵六浜村袞の傑作の一つではないか、と思うほど、すぐれた篆刻である。(これは、先の色が出なくても、せめて写真版にしても出したいぐらいである。)

 木蘇 穀が、この芥川の『印譜』を見て、「芥川さんはひどい人だ、」といったそうであるが、死んでしまった芥川には、この木蘇の言葉は、もとより、つたわらない。

[やぶちゃん注:「芥川さんはひどい人だ」という台詞は――他人の印でありながら、自分のオリジナルのように死後の印譜で示させた点(印譜配布の指示は遺書(菊池宛)の中に書かれている)、心情的には、木蘇氏が呟くのは、倫理的な意味に於いては、分からないではない――が――論理的には、おかしい気がする――だったら、売るな、と言いたい、のだ――木蘇氏は、死んだ後には自分の元に返すべきだ、とでも、思ったものかも知れないが、「ゆずりうける」という語は、ただで贈った、というわけではあるまい。そんなに返して欲しければ、芥川家に行って、言を尽くして、買い戻すべし――と、私は言いたい。何だか、私が、宇野のような語り口に、なった。]

 

 さて、つぎに述べる事も、十五六年まえに、書いたけれど、それを書かないと、この文章の筋が通らないから、――

 この印章の一件があってから、十日ぐらい後〔のち〕であったか、ある日、芥川が、少〔すこ〕しあわただしい様子をして、私を、たずねて来た。そうして、座につくのと殆んど同時に、

「今日〔きょう〕は、いつか、君が、鵠沼で買った、あれを見せてもらいに来たんだがね、……」と、いった。

 その芥川の『あれ』というのは、私が木蘇から買った、あの、二幅の書である。そうして、その二幅の書とは、前に述べたように、一つは梧竹の書であり、他は楊守敬の書であるから、私が、その二幅の書を出して、見せると、芥川は、その二つの軸を、ひろげて、いかにも慣〔な〕れた見方で、しばらくながめていた。が、すぐ、楊守敬は、維新の時分に日本に来たが、書がうまいので有名である、殊に、「君、これは、楊守敬としても、出来〔でき〕のいい方だよ、……それに、この詩も、ちょいと、うまいよ、」と、芥川は、いった。そうして、そう云いおわると、芥川は、すぐ、梧竹の書の方を見て、「やっぱり梧竹はいいな、」と、いった。

(後記――『楊守敬』について、私は、何も知らない。ここに書いた芥川の「維新の時分に日本に来たが、書がうまいので有名である、」というのも芥川流の云い方としか思われない。ところが、森 鷗外の『澀江抽斎』の(その二)の終りの方に、楊守敬の名が出ているのを、私は、発見した。そこのところをうつしてみよう。「……これ(抽斎の『経籍訪古志』)は抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園と分担して書いたものであるが、これを上梓することは出来なかつた。そのうち支那公使館にゐた楊守敬が其写本を手に入れ、それを姚子梁が公使徐承祖に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させる、」と、これを見ると、芥川が、楊守敬が「書がうまいので有名である、」というのは、やはり、例の芥川流の云い方であり、それが面白い、と、私は、思うのである。)

[やぶちゃん注:「経籍訪古志」は弘前藩侍医にして稀代の考証家渋江抽斎(文化二(一八〇五)年~安政五(一八五八)年:伊沢蘭軒に師事。)が森立之とともに編んだ、奈良平安まで遡ったあらゆる分野に亙る漢籍の善本解題目録。近代の書誌目録学の中でも稀有の快挙とされる。

「森枳園」(もりきえん)は森立之(もりりっし/もりたつゆき 文化四(一八〇七)年~明治十八(一八八五)年)のこと。備後国(現・広島県)福山藩医。伊沢蘭軒に師事、渋江抽斎と親交、後に幕府医学館講師として「医心方」を校訂、維新後は文部省勤務。

「姚子梁」(ようしりょう 生没年未詳)。楊守敬と同じく駐日公使随行員と思われるが、初代何如璋・第二代黎庶昌〔れいしょしょう〕・第三代徐承祖のいずれの随員かは不明。

「徐承祖」(じょしょうそ 一八四二年~一九〇九年?)は清国第三代駐日公使(公使在日一八八四年~一八八八年)。徐承祖の序本邦の「経籍訪古志」は清国上海で光緒十一(一八八五)年に公刊を見た。その際、森立之が校訂を行った旨、鷗外の「渋江抽斎」には引用部に続いて『徐承祖が序文を書いて刊行させることになつた。その時幸に森がまだ生存してゐて、校正したのである』と続く。]

 私は、その芥川の云い方を聞いて、どうも、梧竹より楊守敬の方がいい、という意味にとれたので、芥川の気質をいくらか心得ている私は、『ははア、これは……』と思ったので、

「君に、こっちを進呈しようか、」と、梧竹の書の方を指さして、云ってみた。

 すると、はたして、芥川は、かすかににやりと笑って、

「これ、もらっていいか、ありがとう、じや、もらうよ、」と、いった。

 ところで、私は、その時は、ただ、それだけの考えで、芥川に、梧竹の書をあたえたのであるが、ずっと後〔あと〕で、私が取っておいた、楊守敬の書が、

   山路只通樵客江邸半是漁家

   秋水磯辺落雁夕陽影裏飛鴉

     岐山仁兄方家正  宜都 楊守敬

とあるのを見て、『岐山』は、前に述べたように、木蘇岐山であるから、このような書は、岐山でなければ、掛けておけない、という事になると、ふと、考えた、そうして、もし、この私の臆測があたっていれば、芥川のすばやい目は、この書を見た時、すぐこの『岐山仁兄』が目につき(それが芥川の気に入らなかった理由の一つであったのだ。

[やぶちゃん注:書を自己流で書き下してみる。

   山路〔やまじ〕 只だ樵客〔しょうかく〕を通し

   江邨〔こうとん〕 半ばは是れ漁家〔ぎょか〕

   秋水磯辺〔しゅうすいきへん〕の落雁

   夕陽影裏〔せきようようり〕の飛鴉〔ひあ〕

     岐山仁兄方家正  宜都 楊守敬

「夕陽影裏」は、夕陽の中に、の意であるが、全体に禅語の「森羅影裏藏身」(「森羅影裏に身を藏す」)、天地万物と総ての現象の中にこそ――「夕陽の中を飛ぶ鴉」、その一匹の黒き鴉の飛ぶ景の中にこそ――まことは深く潜んでいる、の意を掛けているものと思われる。「仁兄方家正」は総て敬称であろう。「宜都」は楊守敬の出身地。]

 しかし、私は、こういう事は、ずっと後〔あと〕になってから、気がついたのであるが、こういう事(つまり、梧竹の書の事)などをきれいに忘れた時分に、(その一件があってから半年ほど後〔のち〕、)ある日、芥川が、私の家の二階の客間に通〔とお〕ると、すぐ、無造作〔むぞうさ〕に新聞紙につつんだものを解〔と〕いて、一尺ぐらいの高さのブロンズの胸像を取り出し、それをテエブルの上において、例の少し鼻にかかる声で、

「これは進呈しよう、」と云った。

 それは、長い髪の毛を左わけにした柔和な人相の男の胸像である。そうして、その胸像の変〔かわ〕っているのは、その胸像の台が羽根ペンを添えた二冊の書物を台にしている事である。

 それで、私が、それを見て、ちょっとの間、呆気にとられていると、芥川は、それを右手で取り上げて、

「……わかるだろう、これ、君に、ゴオゴリだよ、この胸の下に書いてあるロシア語は、N.V.GOGOL と読むんだそうだ。今そこの、日暮里の、田村松魚[註―田村俊子の夫]の家で見つけたんだ、うん、松魚は、元はちょいとした小説家だが、今は、小説家を廃業して、骨董屋になってるんだ、……これ、たぶんロシア人が、国に帰る時、売って行ったんだ、と思うが……」と、ここで、芥川は、持ち前の微笑を目にうかべて、その胸像の底を私に見せながら、「見たまえ、これ、ブロンズのように見えるだろう、がテラコッタだよ、……ところが、テラコッタというものはイタリイが本場だ、それが不思議じゃないか、これはまちがいなくロシアのゴオゴリだからね、」といって、私の目を、うかがうように見た。

[やぶちゃん注:「この胸の下に書いてあるロシア語は、N.V.GOGOL と読むんだそうだ」ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリのロシア語表記は“Николай Васильевич Гоголь”。英語表記では“Nikolai Vasilievich Gogol”となる。

「テラコッタ」“terracotta”イタリア語で「焼いた土」の意。粘土を素焼きにして作った塑像。]

 

 さて、芥川からゴオゴリの胸像をもらってから、数日後であったか、数箇月であったか、私は、ふと、あのゴオゴリの胸像は、「あ、そうか、あの梧竹の書に対する返礼であったのだ、」と気がついた。そうして、返礼と思わせないために、わざと無造作に、新聞紙に、つつんで来たが、実は、わざわざ、自分の家〔うち〕から、大事〔だいじ〕にしていた物を、持ってきたのではないか、と、私は、思った。無造作に持ってきたのは、芥川の持ち前と都会人らしい細〔こま〕かい気質のあらわれであり、返礼にきたのは、芥川の礼儀ずきと義理がたさをあらわしている。そうして、私は、「なるほど、芥川らしいな、」と思って、感心した。

 ところが、芥川がなくなってから五年ほど後(つまり、昭和七年頃)の在る日、諏訪三郎[註―この人は、たぶん、大正の末年頃の四五年のあいだ、「婦人公論」の名記者であった]が、たずねて来た時、私が、なにかの話のついでに、座敷のすみの台の上においてあった、ゴオゴリの胸像を見せながら、諏訪に、ここに書いたような話をすると、諏訪は、話の切れ目毎〔ごと〕に、うなずく癖があって、頻りにうなずきながら、私の話をおもしろそうに、聞いていた。ところが、その翌日、ある雑誌に、諏訪は『文学上の信念』という題で、私をたずねた時の事を、書いていたが、その中〔なか〕に、つぎのような一節があった。

……もう一〔ひと〕つのブロンズの胸像というのは、[註―これは、胸像ではなく、首だけであるが、大杉 栄のブロンズの首で、おなじ座敷の別の所においてあったもの]私は、嘗てこの品を芥川龍之介氏の書斎で見たことがあった。たしか宇野さんは芥川さんから貰ひうけたのであらう。本二冊つみかさねた上〔うへ〕に立てるゴオゴリである。私はさっきからブロンズと呼んでゐたが、実は、ブロンズではなく、テラコッタである。

「君、これは土〔つち〕だぜ。」芥川さんもかう云つて私に見せられたことがあつたが、[中略]宇野さんも、「ブロンズのやうだらう。しかし、これ、土だよ、」とわざわざそのゴオゴリの胸像を逆〔さか〕さにして、見せてくだすつた。

 これを読んで、私は、自分の想像があたっていたので、いささか得意な気がした。が、すぐ、諏訪が、すでに、芥川の書斎で、そのブロンズのように見える胸像がテラコッタである事まで、聞き知りながら、いい気になってしゃべっている私の話を、何〔なに〕くわぬ顔をして、聞いていたのだ、と、気がつくと、私は、心の中〔なか〕で、真赤〔まっか〕になった。いや、私の事などは、どうでもよい。おなじ文章の中〔なか〕で、諏訪は、「君、これは土だぜ、」という言葉だけで、芥川の高い鼻をさえ、折っているではないか。これを見れば、『腕』のある記者は、芥川のような抜け目のない秀抜な作家をさえ観察する『目』をも、持っている、という事なる。天下太平であった、といわれる、大正時代の記者でさえ、(しかも、諏訪のような温厚な人さえ、)かくのごとき観察眼を持っていたのであるから、近頃の、(つまり、『戦後』の、)記者たちは、(腕のない人でも、)エッキス光線のごとき観察眼をもっているかもしれない。そこで、「寄稿家諸氏よ、」と私は叫びたい、「近頃の記者にめったに心ゆるすな。」閑話休題。

[やぶちゃん注:「諏訪三郎」(明治二十九(一八九六)年~昭和四十九(一九七四)年)は編集者・小説家。本名、半沢成二。『中央公論』『婦人公論』の記者を経、新感覚派の『文藝時代』同人として創刊に参加、小説「郊外の貧しき街より」「ビルヂング棲息者」「大地の朝」など。

「これは、胸像ではなく、……」は日本語としては、やや説明不足。『もう一つの、というこの前で語っているブロンズの胸像というのは、これは、胸像ではなく、……』という意味。]

2012/03/19

ジョン・ミリングトン・シング著 姉崎正見訳 アラン島 第二部 ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵 附やぶちゃん注

「心朽窩 新館」に『ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部』(ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵 附やぶちゃん注)を公開した。

母の一周忌に――

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (12) 第二部 完

 私はアランを立つた。汽船は普通以上に重く荷を積んでゐたので、キルロナンを出帆したのは四時過であつた。

 私は、一瞬時言ひ難い苦痛を以つて、再び三つの低い岩島が海の中へ沒するのを見た。晴れた夕方であつたので、灣に出ると、太陽は極光のやうにイニシマーンの斷崖の鋒に懸かつてゐた。

 少したつと燦爛たる光は空に行き亙り、海やコニマラの山山の靑さを描き出した。

 全く暗くなつてしまふと、寒さは激しくなつて來た。海の上をただ一艘だけ道を進んで行く淋しい船の上を私は歩き廻つた。乘客は私だけで、一人の舵取りの少年のほか、全部の船員は暖い機關室の中で押し合つてゐた。

 三時間たつても、誰も動かなかつた。般はのろいし、舷側の寒い海の物悲しい音は全く堪へられなかつた。やがてゴルウェーの燈火が見え出した。そして船が徐ろに波止場に近づくにつれて、船員たちの姿が現はれた。

 さて岸に上つてみると、私の荷物を汽車まで運んでくれる人を見つけるのに困つた。暗闇の中にやつと一人の男を見つけて、荷物を背負はせると、その男は醉拂ひであつた。私の財産もろ共に波止場の外へ轉がらないやうに氣をつけるのに苦勞した。彼は町へ出る近道に連れて行くと云つたが、壞れた建物のがらくたや船の殘骸の眞只中に來た時、彼は荷物を地面に投げ出して、その上に坐つた。

 「旦那、こいつあ、ばかに重いなあ。」彼は云つた。「此の中には金がはひつてるんだらう。」

 「金は一文もはひつてないよ。本だけだ。」私はゲール語で答へた。

 「べダッド・イス・モール・アン・スルーアェ(ちえツ、そいつあ惜しかつた)。」彼は云つた。「金がはひつてたら、今夜、一緒にゴルウェーで馬鹿騷ぎして遊べるのだがなあ。」

 半時間もかかつて、もう一度荷物を背負はせ、やつと町の方へ歩き出した。

 曉遲くなつて、マイケルを訪ねるために、波止揚の方へ下りて行つた。彼の宿を取つてゐる狹い横丁に入ると、誰かが陰になつて私の後をつけて來るやうである。立ち止まつて彼の家の番號を探さうとしてゐると、私の直ぐ傍で、イニシマーン語の「フォルティエ」(いらつしやい)と云ふのを聞いた。

 それはマイケルであつた。

 「往來であなたを見かけましたが、」彼は云つた。「人中で話しかけるのが恥かしかつたので、後をつけて來たのです。私を覺えていらつしやるかどうかみようと。」

 私たちは一緒に引返して、彼が宿へ歸らなければならない時まで町を散歩した。彼は昔の純朴さや機敏さで、相變らずであつた。併し此處の仕事が合はないので、滿足してゐない。

 今夜は、ダブリンのパーネル記念祭[Ponell,Charles Stewart184691)愛蘭土の自治運動の爲活動した政治家。十月六日は丁度その命日で、記念祭が行はれる。]の宵祭で、町は眞夜中に出發する汽車を待つてゐる旅客で混み合つてゐた。マイケルと別れると、私はホテルに暫く時を費し、それから鐡道の方へぶらぶら歩いて行つた。

 歩廊(プラットホーム)では、物凄い群集があらゆる熱狂振りを見せて、汽車の周りに波うつてゐた。此の時ほど、コンノートの半野生的な素質をよく見た機會はなかつた。此の有象無象の群集の熱狂は、私がローマやパリーの大暴民の中で感じたものより激しかつたやうに思へた。

 歩廊に、島から來た幾人かの人がゐた。私はその人たちと三等車に乘り込んだ。一行の中の一人の女は姪を連れてゐたが、その人はコンノートから來た若い娘で、私の傍に腰掛けた。車の向う側に、愛蘭土語で話してゐた幾人かの老人連がをり、また水夫であつた一人の若い男がゐた。

 列車が動き出すと、歩廊に物凄い歡呼の聲や叫び聲が擧り、汽車の中でさへ、男女の金切り聲を上げる者、歌を唱ふ者、仕切り壁を杖で叩く者で騷ぎは激しい。いくつかの驛で、酒場へ驅け込む突貫があつたり、行くにつれて騷ぎは愈々大きくなつた。

 バリンスローでは數人の兵士が歩廊にゐて席を探してゐた。此の中の一人と私たちの仕切りにゐた水夫が口論を初め、扉がぱツと開いた瞬間に、仕切りの中はよろめく軍服や杖で一杯になつた。一寸の間騷いだ後、仲なほりが出來、兵士たちは出て行つた。兵士たちが出て行くと、連れの女たちの一團が、非常な怒りに惡口を吐きながら、露はな頭や腕を戸口へさし入れた。

 少したつて、汽車が動き出すと、その女たちは狂氣のやうな泣き聲を擧げた。私は外をのぞいた。カンテラの燈に、むき出しの腕を振り上げ喚き叫んでゐる嘗つて見た事もないやうな物凄い顏や人影をちらつと見た。

 夜が更けると、次の車で、女たちは大聲を上げ出した。停車場に汽車が止まつた時、卑猥な歌の言葉が聞こえた。

 私たちの仕切りの中では水夫が皆を寢かせようとしない。夜中ぢゆう、滑稽味のある事、或ひは卑しげな事をしやべつたが、荒つぽい氣性をかくしながら、常に非常な雄辯であつた。

 黑い上衣を着てゐた隅の老人たちは何か家傳の古物らしい物を持つてゐて、夜中ぢゆうひそひそとゲール語で話してゐた。私の傍の娘は、少したつとはにかみを捨てて、ダブリンに近づくにつれて夜明けの中に見え初めて來た田舍の地形を私にあれこれと指ささせた。彼女は木の影や、――木はコンノートには少いのである――曉の光を映し初めた堀割を喜んだ。私が何か新らしい影を教へてやる度毎に、彼女はあどけない喜びで叫んだ。――

 「ああ、綺麗だこと。だけど見えないわ。」

 此の私の傍の有樣は、背後で仕切り壁を搖がす亂暴さと奇妙な對照であつた。西部愛蘭土の全精神は、その妙な氣荒さや愼み深さと共に、此の一つの汽車に乘つて、東部の今は亡き政治家に最後の敬意を捧げるために、動いてゐるやうに思へた。

 

 

I have left Aran. The steamer had a more than usually heavy cargo, and it was after four o'clock when we sailed from Kilronan.

Again I saw the three low rocks sink down into the sea with a moment of inconceivable distress. It was a clear evening, and as we came out into the bay the sun stood like an aureole behind the cliffs of Inishmaan. A little later a brilliant glow came over the sky, throwing out the blue of the sea and of the hills of Connemara.

When it was quite dark, the cold became intense, and I wandered about the lonely vessel that seemed to be making her own way across the sea. I was the only passenger, and all the crew, except one boy who was steering, were huddled together in the warmth of the engine-room.

Three hours passed, and no one stirred. The slowness of the vessel and the lamentation of the cold sea about her sides became almost unendurable. Then the lights of Galway came in sight, and the crew appeared as we beat up slowly to the quay.

Once on shore I had some difficulty in finding any one to carry my baggage to the railway. When I found a man in the darkness and got my bag on his shoulders, he turned out to be drunk, and I had trouble to keep him from rolling from the wharf with all my possessions. He professed to be taking me by a short cut into the town, but when we were in the middle of a waste of broken buildings and skeletons of ships he threw my bag on the ground and sat down on it.

'It's real heavy she is, your honour,' he said; 'I'm thinking it's gold there will be in it.'

'Divil a hap'worth is there in it at all but books,' I answered him in Gaelic.

'Bedad, is mor an truaghé' ('It's a big pity'), he said; 'if it was gold was in it it's the thundering spree we'd have together this night in Galway.'

In about half an hour I got my luggage once more on his back, and we made our way into the city.

Later in the evening I went down towards the quay to look for Michael. As I turned into the narrow street where he lodges, some one seemed to be following me in the shadow, and when I stopped to find the number of his house I heard the 'Failte' (Welcome) of Inishmaan pronounced close to me.

It was Michael.

'I saw you in the street,' he said, 'but I was ashamed to speak to you in the middle of the people, so I followed you the way I'd see if you'd remember me.'

We turned back together and walked about the town till he had to go to his lodgings. He was still just the same, with all his old simplicity and shrewdness; but the work he has here does not agree with him, and he is not contented.

It was the eve of the Parnell celebration in Dublin, and the town was full of excursionists waiting for a train which was to start at midnight. When Michael left me I spent some time in an hotel, and then wandered down to the railway.

A wild crowd was on the platform, surging round the train in every stage of intoxication. It gave me a better instance than I had yet seen of the half-savage temperament of Connaught. The tension of human excitement seemed greater in this insignificant crowd than anything I have felt among enormous mobs in Rome or Paris.

There were a few people from the islands on the platform, and I got in along with them to a third-class carriage. One of the women of the party had her niece with her, a young girl from Connaught who was put beside me; at the other end of the carriage there were some old men who were talking Irish, and a young man who had been a sailor.

When the train started there were wild cheers and cries on the platform, and in the train itself the noise was intense; men and women shrieking and singing and beating their sticks on the partitions. At several stations there was a rush to the bar, so the excitement increased as we proceeded.

At Ballinasloe there were some soldiers on the platform looking for places. The sailor in our compartment had a dispute with one of them, and in an instant the door was flung open and the compartment was filled with reeling uniforms and sticks. Peace was made after a moment of uproar and the soldiers got out, but as they did so a pack of their women followers thrust their bare heads and arms into the doorway, cursing and blaspheming with extraordinary rage.

As the train moved away a moment later, these women set up a frantic lamentation. I looked out and caught a glimpse of the wildest heads and figures I have ever seen, shrieking and screaming and waving their naked arms