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2012/04/30

宇野浩二 芥川龍之介 二十二~(2)

 一般に、『地獄変』は、凄惨で、怪異で、「読む人ことごとく戦慄する、」名作である、と称されている。しかし、『地獄変』の陰惨は、作者の頭〔あたま〕で作られ、名文章で語られた、というだけのもので、借り物の観がある。それから、『点鬼簿』であるが、(これは、小説ではなく、随筆に近いものであるけれど、仮りに小説として見て、)この『点鬼簿』も、(『点鬼簿』でさえ、)しいて「鬼気せまる」という言葉をつかえば、そういう気もちを起こさせるのは、その㈠の気ちがいの母を書いたところだけで、その㈡にも、その㈢にも、題材が題材だけに人の心に迫るところもあるけれど、厳しく云えば、ところどころに、遊びがあり、ポオズがあり、気取りもある。そうして、更に極言すると、大抵の人がほめる、最後の、

  かげろふや塚より外〔そと〕に住むばかり

 僕は実際この時ほど、かう云ふ丈艸の心もちが押し迫つて来〔く〕るのを感じたことはなかつた。

 という一節さえ、私には、昔ながらの芥川の気取りがあるようにさえ思われるのである。

 芥川は、丈艸を、蕉門の中で、「最も的的と芭蕉の衣鉢〔いはつ〕」、を伝えている、(それに違いはないが、)という程、認めていたから、不断、丈艸の句に親しんでいたにちがいない、しぜん、この「かげろふ」などという句は、いつとなく、暗記していたにちがいない。されば、妙な臆測をすると、この句は書く前に用意してあったかもしれない、と思われる程である、それほど、情と景とがぴったり合っているからである。

[やぶちゃん注:「的的と」明白なさま。]

 ところで、前に、『ポオズ』とか、『気取り』とか、いう言葉を使ったが、元〔もと〕もと、ポオズや気取りは芥川の持ち前である、したがって、ポオズや気取りは芥川の人間にも文学にもあった、そうして、ポオズと気取りは芥川の文学の独得の特徴である、極言すれば、ポオズと気取りのない芥川の文学はあり得ない、という事になる。しかも、その芥川の文学の『ポオズ』や『気取り』には、わざと俗な言葉を使うと、「好〔す〕いたらしい」ところがあった。そうして、それが、青年たちに受けた所以〔ゆえん〕でもあったのだ。(しかし、前に述べたように、最晩年の芥川の作品にはそれらが次第になくなった、それで、これも先きに書いたように、いわゆる芥川らしい文学は晩年には殆んどなくなってしまったのである。)

 ここまで書いて、『点鬼簿』を、念のために、読みなおして見て、さきに述べた事を訂正しなければならなくなった、それは、先きに引いた所のほかは、(これも、もとより、晩年の作品であるから、)殆んどポオズや気取りがないからである。それは、(その一例は、)次のようなところである。

 僕の父や母の愛を一番余計に受けたものは、何と云つても「初ちやん」[註―ずっと前にも註をした、芥川の生れぬ前に死んだ、賢かった姉(長女)]である。「初ちやん」は芝の新銭座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園か何〔なに〕かへ通〔かよ〕つてゐた。が、土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊〔とま〕りに行つた。「初ちやん」はかう云ふ外出の時にはまだ明治二十年代でも今〔いま〕めかしい洋服を着てゐたのであらう。僕は小学校へ通つてゐた頃、「初ちやん」の着物の端巾〔はぎれ〕を貰ひ、ゴム人形に着せたのを覚えてゐる。その又端巾は言ひ合せたやうに細〔こま〕かい花や楽器を散〔ち〕らした舶来〔はくらい〕のキヤラコばかりだつた。

[やぶちゃん注:「サンマアズ夫人の幼稚園」言語学者・日本研究家James Summers(ジェームス・サマーズ 一八二一年~明治二十四(一八九一)年)の夫人が経営した幼稚園。明石橋橋畔にあった。ジェームス・サマーズは英国人お雇い外国人教師として明治六(一八七三)年に来日、東京開成学校の英文学と論理学教授から始まり、新潟英語学校、大阪英語学校の英語教授を経、明治十五(一八八二)年の札幌農学校を最後に満期契約となったが、そのまま帰国をせずに東京築地の自宅に「欧文正鵠英語学校」を設立、日本で生涯を終えた(以上は北海学園大学人文論集第四十一号(二〇〇八年十一月刊)所収の中川かず子氏の「ジェームス・サマーズ――日本研究者,教育者としての再評価」の記載に拠った)。筑摩書房全集類聚版脚注には、『築地のサンマーズ塾といえば英語を解する人達は大抵一度は厄介になったことのある古くから有名な学校』で、『塾長キャッセー・サンマーズ嬢』で(サマーズ夫婦の娘か?)、彼女は明治四十二年に『三十年ぶりで帰国した〔東京日日新聞〕』とある(私の注も異様に細かくなったが、この脚注も異例に長い)。なお、Hisato Nakajima氏のブログ「東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解くーPast and Present」の2011年4月26日 at 12:40 AM のコメントへの氏の返信の記事に現れるものでは、『藤善徳「築地居留地の思い出」では、「サンマー・スクール」と呼ばれた英語塾とされ、リリイ・サマーズという人がやっていたようで』(この「リリイ」が「サンマアズ夫人」の名か?)、『谷崎潤一郎や岡倉由三郎が学んだと』ある(岡倉由三郎(慶応四(一八六八)年~ 昭和十一(一九三六)年)は英語学者。夏目漱石の友人で、岡倉天心の実弟)。『清水正雄「築地に開設された教会と学校」では、正式名が「欧文正鵠学院」』、明治十六年から四十一年まで『開設されていたことが記載され』ている、とある。

「キヤラコ」英語“calico”は、インド産の平織りの綿布を言う。但し、本邦ではインド産の厚手の染色されたそれとは異なり、薄く織り目を細かく糊付けした純白の光沢のある布地を主に言い、足袋やステテコの材料とする。]

 これは、『点鬼簿』の㈡の中程の、芥川が、見たことない、懐しい、姉を思いながら、二十六七年前の、小学校に通っていた時分の回想を書いたものである。

 これ(つまり、『点鬼簿』)を書いている頃の芥川は、芥川について述べている誰の文章でも、(私の知る限り、)大てい、既に死を覚悟していた、とか、死に隣りしていた、とか、書いている。それは、鬼籍にはいった人たちのことを、その人たちの殆んど陰気な話はかりを、暗い、しみじみした、真に迫った、文章で、書いてあり、それに、厭世家の丈艸の、厭世的な、『かげろふや塚より外に住むばかり』という句にも幾らか動かされたからであろう。

 しかし、私は、前にも述べたように、魯鈍なためか、「改造」[註―大正十五年十月号]で、この作品を読んだ時、「ずいぶん暗い作品だなあ、しかし、うまいな、」とは思ったが、この作者人つまり、芥川)が、これを書く頃、「死を覚悟」していた、とか、「死に隣り」していた、とか、いうような事は、私の頭〔あたま〕に、殆んど浮かんでこなかった。

 ところで、先きに引いた一節は、殆んど全〔まった〕く暗〔くら〕いところがない、それどころか、明かるい感じさえする、そうして、芥川と同じ頃(つまり、明治二十年代の中頃)に生まれた私などには、「ゴム人形」とか、「細かい花や楽器を散らした」模様〔もよう〕のあるキャラコ[註―英語のCalico(キャリコ)の訛り、金巾に似て、金巾より薄く、織地の細かく、光沢のある布、更紗の一種]とか、いう物には、一種の『郷愁〔のすたるじい〕』という感じがあり、何ともいえぬ懐かしい気がするのである。

[やぶちゃん注:「金巾」は「かなきん」と読み、経糸と緯糸の密度をほぼ同じにして織った、目が細かく薄地で平織の綿織物のこと。本邦ではポルトガル語の「カネキン」が語源でかく呼称される。言わば「キャラコ」は、艶出しして光沢を持たせたカネキンである。]

『点鬼簿』――まず、書き出しの、「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻〔くしま〕きにし、いつも芝の実家にたつた一人坐〔ひとりすわ〕りながら、長煙管〔ながぎせる〕ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顔も小〔ちひ〕さければ体〔からだ〕も小さい。その又顔はどう云ふ訣〔わけ〕か、少しも生気ない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記〔せいさうき〕を読み、土口気泥臭味〔どこうきでいしうみ〕の語〔ご〕に出会〔であ〕つた時に忽ち僕の母の顔を、――痩〔や〕せ細〔ほそ〕つた横顔を思ひ出した、」と読んだ時、私は、ありふれた言葉ではあるが、その陰惨さに、その陰惨な書き方〔かた〕に、目を覆〔おお〕いたいような気がした、しかし、それと同時に、至って見え坊な芥川が、心の底では愛している母を、このようなむごたらしい言葉で、書いたことに、一そう驚いた、芥川はどうかしたのではないか訝〔いぶか〕るほど驚いたのである、廣津が、伝えられるように、この作品を読んで、芥川は死ぬのではないか、と思った、というのも、私には、頷〔うなず〕かれるのである。

[やぶちゃん注:「西廂記」王実甫〔おうじっぽ〕作の元代の戯曲。唐の詩人元稹〔げんしん〕の小説「会真記」(「鶯鶯伝」とも言う)を元にした金の董解元が書いた語り物「董西廂」を元代の雑劇としては全二十折(=幕)という異例の長さの歌劇に改編したもの。旅の書生張君瑞〔ちょうくんずい〕と亡き宰相の令嬢崔鶯鶯〔さいおうおう〕の波乱万丈の恋愛劇。現在も昆曲や京劇の人気の演目である。

「土口気泥臭味」これについて、筑摩書房全集類聚版脚注は、『これと同一の語は「西廂記に」見えない』とし、『第四本第三折に『土気息泥滋味』(土のにおい泥のあじ)とあるのがこれに近い』とある。これは、ネット検索をかけると、登場人物の以下の台詞の中に次のように現れることが分かる。

「將來的酒共食、嘗著似土和泥。假若便是土和泥、也有些土氣息、泥滋味。」

残念ながら私の能力では、注はここまでである。]

 ところで、私が殊更に述べようと思うのは、一般に『点鬼簿』を暗い憂鬱な作品であると云うのは、その最初の㈠の話があまりに凄惨で陰鬱なためであって、全体として見れば、『点鬼簿』は、暗い陰気な作品ではあるけれど、それほど暗い作品でないばかりでなく、なかなかうまい工合〔ぐあい〕に作ってある、という事である。それから、『点鬼簿』を読んで、私が感心したのは、表現に、(表現だけに、)凍っていた芥川の文章が、無駄な形容や文句が殆んどなくなっただけでも、行き著〔つ〕くところまで行った、という観がある事である。

 さて、㈠を読みおわって、㈡にうつると、前に述べたように、急に、書かれてある事も明〔あ〕かるくほのぼのとし、書き方〔かた〕も明かるく延び延びせしている。しぜん、㈠とちがって、読みながらも楽しい気がする、話がうらうらとしているからである。

 或春先〔あるはるさき〕の日曜の午後、「初ちやん」は庭を歩〔ある〕きながら、座敷にゐる伯母に声をかけた。(僕は勿論この時の姉も洋服を着てゐたやうに想像してゐる。)

「伯母さん、これは何と云ふ樹?」

「どの樹?」

「この苔のある樹。」

僕の母の実家の庭には脊〔せ〕の低い木瓜〔ぼけ〕の樹が一株〔〕ひとかぶ、古井戸へ枝を垂〔た〕らしてゐた。髪をお下〔さ〕げにした「初ちやん」は恐らくは大きな目をしたまま、この枝のとげとげしい木瓜の樹を見つめてゐたことであらう。

「これはお前と同じ名前の樹。」

 伯母の洒落は生憎〔あいにく〕通じなかつた。

「ぢや莫迦の樹[註―ボケの木、バカの木]と云ふ樹なのね。」

 伯母は「初ちやん」の話さへ出れば、未だにこの問答を繰り返してゐる。実際又「初ちやん」の話と云つてはその外に何も残つてゐない。「初ちやん」はそれから幾日もたたずに柩にはひつてしまつたのであらう。

 これは、『点鬼簿』の㈡の中程〔なかほど〕のところであるが、これだけでもわかるように、狂人の母の事を書いている㈠と、この夭逝した姉の事を書いている㈡の一節とを、読みくらべると、暗夜〔あんや〕と昼〔ひる〕の日中〔ひなか〕ほど、感じがちがう。これは、作者が、気分を一変〔いっぺん〕するために、このような書き方〔かた〕をしたのであろうか、それとも、㈠は、作者が、幼年の頃に、まざまざと見た母の顔や姿が、このように忌〔いま〕わしいものであったために、それを思い出しながら書くと、おのずから、こういう陰気な物語が出来〔でき〕あがり、㈡は、自分の生まれる前に夭逝した、或る親しみ」を持っていた、姉の少女の時分の話、伯母[註―実母の姉の、芥川が憎みながらも愛していた伯母のふきか]から聞いたのを、懐しく思い出しながら書いたので、しぜん、このような朗〔ほがら〕かな可憐な話が生〔う〕まれたのであろうか。

 ㈠には、「髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたつた一人坐〔ひとりすわ〕りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる」ところの母の姿を書き、㈡には、その同じ芝の実家の庭で、「髪をお下〔さ〕げ」にして、「恐らくは大きな目をしたまま、枝のとげとげしい木瓜〔ぼけ〕の樹を見つめてゐたことであらう」ところの姉の姿を書いている。

 胃と腸をわずらい、ひどい痔になやまされ、精神病に近い神経衰弱にかかり、「催眠薬をのみすぎ夜中に五十分も独り語をつづけ」[大正十五年九月二日、室生あての手紙のうち]た、というような状態にありながら、芥川は、このような心にくい細かい仕事をしているのである。しかし、たびたび云うが、そのころ芥川と逢っていなかった私は、この作品を読んだ時、芥川がこのような不治にちかい重い病気にかかっているのを、殆んど知らなかった、いや、うすうす知ってはいても、作品を読んでいる時は、そんな事は殆んど頭に浮かんでこなかった、又、そんな事が頭に浮かんでくる筈はない。

 さて、㈢は、実父の話であるが、これも、亦、㈠のように、いきなり、「僕の母は狂人だつた、」というような書き方をしないで、初めは、極めて穏かに、父が、明治三十年代の初めに、バナナ、アイスクリイム、パイナップル、ラム酒、その他、当時としては、実に珍しい果物や飲料を、幼年の芥川に、教えた、というような事から、書き出し、つづいて、短気な風変りな性質であった父と、やはり片意地で強情〔ごうじょう〕であった中学生時代の芥川が、相撲をとる所を、諧謔的に、述べた後〔あと〕で、芥川は、一転して、死病の床についている父の死ぬ前の日の事を、つぎのように書いている。

 僕が病院へ帰つて来〔く〕ると、[註―インフルエンザのために父が入院したので、教師をしていた芥川が、鎌倉から帰京して、二三日看病しているうちに、退屈して、友人たちに呼ばれて宴会に行って、帰って来たのだ]僕の父は僕を待ち兼ねてゐた。のみならず二枚折〔おり〕の屏風の外〔そと〕に悉〔ことごと〕く余人を引き下〔さが〕せ、僕の手を握つたり撫でたりしながら、僕の知らない昔のこと、を、――僕の母[つまり、「狂人」の実母であり、この父は実父である]と結婚した当時のことを話した。それは僕の母と二人〔ふたり〕で箪笥を買ひに出かけたとか、鮨をとつて食つたとか云ふ、瑣末〔さまつ〕な話に過ぎなかつた。しかし僕はその話のうちにいつか眶〔まぶた〕が熱くなつてゐた。僕の父も肉の落ちた頰にやはり涙を流してゐた。

[やぶちゃん注:「[註―インフルエンザのために父が入院したので、……」には注を要する(以下、主に宮坂年譜を参考にした)。まず、実父新原敏三のインフルエンザ(スペイン風邪)による東京病院入院は大正八(一九一九)年三月十三日で、当日、電報で連絡を受け、鎌倉の文との新居から上京、この日は病院に泊まっている。「教師をしていた」とあるが、実はこの五日前、龍之介はかねてよりの希望通り、大阪毎日新聞社から客員社員の辞令を受け取っており、芥川は三月三十一日で辞職することになっていた(実際に当日に退職はしたものの、免官辞令は何故かずれたらしい)。「友人たちに呼ばれて宴会に行って」とあるが、これは彼の親友であったアイルランド人ロイター通信の記者トーマス・ジョーンズで、「点鬼簿」で『僕はその新聞記者が近く渡米するのを口實にし、垂死の僕の父を殘したまま、築地の或待合へ出かけて行つた』たるのを指す(なお、このジョーンズを主人公に芥川との交流を実に印象深く描いたのが「彼 第二」である)。翌、三月十六日日曜の朝、敏三没。享年六十八であった。]

 この一節は、小さいうちに養子にやったために、滅多に逢えない子に、死にかかっている実父が、看病に来ている人たちを皆しりぞけて、気が違ったままで死んで行った妻(つまり、その子の母)と、所帯を持った頃、一しょに、箪笥を買いに行った話とか、鮨をとってたべた話とか、(つまり、)「瑣末な話」をして聞かせるところで、いわば普通の人情話ではあるが、読みながら、目頭が痛くなるではないか。

 先きに述べたように、『点鬼簿』といえば、唯、沈鬱な、陰気な、物語のように思われているが、『点鬼簿』とは、前に述べたように、一般に『過去帳』というもので、死んだ人たちの、俗名と法名と死亡した年月日を書き止〔と〕めておくものである、ところが、芥川は、この作品の㈡の初めの方に、「僕の『点鬼簿』に加へたいのは勿論この姉[註―次姉の久子]のことではない。丁度〔ちやうど〕僕の生まれる前に突然夭折した姉[つまり、長子の初子]のことである、」と述べているように、この『点鬼簿』で、自分が心の底から愛している、もっとも近い肉親の、実父と実母と実姉のことを、限りない懐かしさと慕わしさを、心をこめて、書いたのである。この三人は、それぞれ、不幸な人であった、その㈠の母は狂人であり、その㈡の姉は早世し、その㈢の父は「小さい成功者」であるが、「たびたび一人子〔ひとりご〕の芥川を取り戻すために、「頗る巧言令色を弄した」が、一度もそれが成功しなかった、というように、世にも不仕合〔ふしあ〕わせな人である、ありふれた言葉を使えば、死んでしまった子ならば諦〔あきら〕めはつく、が、そのたった一人〔ひとり〕の男の子は生きている、それを小〔ちい〕さい時分に何度む取り返しに行って、その度〔たび〕にその子に頭〔かぶり〕を振られた。ところが、その子の芥川も、短かい生涯の終りに近い頃になって、(自殺する考えを既に持っていたか、どうかそんな事は別として、自分の体〔からだ〕がどれほど弱っているか、自分は今にも気ちがいになるかもしれない、いや、もう既に気違いになっているにちがいない、というような事を一ぱい苦〔く〕にしていたのは、誰〔だれ〕でもない、本人の芥川である、)自分は、実の父にも、実の母にも、縁のうすい者であった、養父も、養母も、伯母も、みな、肉身も及ばぬほど、自分に、深切であった、が、しかし、……と思って、芥川は底知れぬ孤独を、しみじみと、感じた、『点鬼簿』の終りの方に、芥川は、「春先〔はるさき〕の午後の日の光の中に黒ずんだ石塔を眺めながら、一体彼等三人(つまり、実父、実母、実姉)の中では誰が幸福だつたらう、」と書いているが、この三人のほかに、疾〔と〕くに石塔になった、芥川を入れて、四人とし、さて、この四人〔にん〕の中で、誰が一ばん不幸であったか、と云えば、それは、芥川である。

[やぶちゃん注:この段落の宇野の芥川龍之介への思いは、本作の中でも最も万感迫ってくる、友人ならではの謂いである、と私は思う。]

 ……僕は僕の父の葬式がどんなものだつたか覚えてゐない。唯僕の父の死骸を病院から実家へ運〔はこ〕ぶ時、大きい春の月が一〔ひと〕つ、僕の父の柩車〔きうしや〕の上を照らしてゐたことを覚えてゐる。

と、芥川は、『点鬼簿』の㈢の終りに、書いている。

 この一節にはほのかな感傷があり、しみじみしたところがある。

 しみじみしている、と云えば、『点鬼簿』の文章は、寄り路〔みち〕しているところは別として、大体に、しみじみしている、切切〔せつせつ〕たるところがある。それは、作者の回想が親〔した〕しく懐〔なつ〕かしい最も近い肉親の身の上の事であり、それを回顧すれば、気が弱くなっていた作者に、限りなき極みなき悲しみの情が滾滾〔こんこん〕と湧き出すからである。

『点鬼簿』の一〔ひと〕つ一〔ひと〕つの回想には、その一つ一つに、侘しさと悲しさと懐しさとが、籠〔こも〕っている。

『点鬼薄』の中に、「実家」という言葉が、三〔みっ〕つか四〔よっ〕つ、出てくる。たった三つか四つであるが、それが、私の心を、打つのである。

 それは、「僕の母は髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたつた一人……」というところ、「僕の母の実家の庭には育の低い木瓜〔ぼけ〕の樹が……」というところ、「四十を越した『初ちやん』の顔は或は芝の実家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顔に……」というところ、「僕は彼是三日〔かれこれみつか〕ばかり、養家の伯母や実家の叔母と病室の隅に……」というところ、「唯僕の父の死骸を病院から実家へ運〔はこ〕ぶ時、大きい春の月が一〔ひと〕つ、僕の父の柩車の上を……」というところ、――つまり、この五箇所である。この「実家」という言葉のほかに、「養家」という言葉が、同じくらい(か、五〔いつ〕つ六〔むっ〕つ)出てくるけれど、『点鬼簿』をすっかり読んでしまった後〔あと〕に、読者の頭〔あたま〕に残るのは、殆んど「実家」という言葉だけである。

 数え年〔どし〕、三十五歳の秋、『点鬼簿』に、むかし、(二十年、あるいは、三十五六年前、)死んで行った、父母や見たことのない姉のありし日の回想を書いている間〔あいだ〕に、心も体〔からだ〕も弱ってしまった芥川の心の目に、絶えず、幼ない時分霞んでいた「実家」の姿が、浮かんだのであろう。

 その実家、の二階では、狂人の母が、いつも一人〔ひとり〕すわっていて、長煙管〔ながぎせる〕で煙草ばかり吸っていた、その二階の真下〔ました〕の八畳〔じょう〕の座敷で、その狂人の母は、死ぬ前には正気にかえったらしく、枕もとに坐〔すわ〕っていた、十一の芥川と十五の芥川の姉の顔を眺めて、ふだんのように何〔なに〕も口をきかないで、とめ度〔ど〕なしにぽろぽろ涙を落とした、が、間〔ま〕もなく、死んでしまった、さて、その実家の庭には、古井戸〔ふるいど〕に枝を垂〔た〕らしている木瓜〔ぼけ〕の樹〔き〕が一〔ひ〕と株あり、芥川の生〔う〕まれない前に夭逝した姉は、座敷にいる伯母に、「伯母さん、これは何と云ふ樹」と聞いたりしたが、それから幾日も立たないうちに、死んでしまった、それから、晩年は不遇であったらしい父の死骸が、病院から柩車で運〔はこ〕ばれたのも、この実家であった。

[やぶちゃん注:「その実家の庭には」とするが、「実家」の連関を認めたい宇野には申し訳ないのだが、「二」の中の「実家」は新原家ではない。「点鬼簿」の該当箇所を読めば分かるが、直前に「初ちやん」は『土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊りに』来たと記し、その後にあのシークエンスに入り、そこでは『僕の母の實家の庭には背の低い木瓜の樹が一株、古井戸へ枝を垂らしてゐた』とあるのである。『僕の母の實家』とは、母フクの実家、則ち「初ちやん」が毎土日にかけて泊まりに来ていた本所小泉町(現在墨田区両国)の芥川家を指すのである。だからこそ伯母フキもそこに居るのである。]

 養家で人と成〔な〕り、養家で、作家となり、作家生活をし、今、しばし養家をはなれて、鵠沼の寓居で、三つの重い病気なやんでいる芥川には、昔の「実家」は、限りなく懐かしくはあるが、かくの如く、侘しき家であり、哀傷の家である。

[やぶちゃん注:先の宇野の誤解を瓢箪から駒とするなら、芥川龍之介にとっては実は、実家新原家だけではなく――『養家』芥川家の旧宅も(それにシンボライズされる芥川という家の存在も)、結局は『限りなく懐かしくはあるが、かくの如く、侘しき家であり、哀傷の家であ』ったと言えるのかも知れない。]

 そこで、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、『点鬼簿』は、芥川の哀傷の作品であり、芥川の哀傷の詩である。

 ところで、『点鬼簿』の中から、父と母とが死ぬ前の事を書いてあるところを、ならべて、引いてみよう。

 僕の母は三日目〔みつかめ〕の晩に殆〔ほとん〕ど苦〔くる〕しまずに死んで行つた。死ぬ前には正気に返〔かへ〕つたと見え、僕の顔を眺めては……   ㈠の内

 僕の父はその次〔つぎ〕に朝に余り苦〔くる〕しまずに死んで行つた。死ぬ前には頭〔あたま〕も狂つたと見え「あんなに……   ㈢の内

 これでは、なんぼなんでも、出来〔でき〕すぎていて、作〔つく〕り物〔もの〕に見ええるではないか。作為〔さくい〕が見え過ぎるではないか。私が、ずっと前に、この作品をうまい工合〔ぐあい〕に作〔つく〕ってある、と述べたのは、こういう所の事をも、云ったのである。

 しかし、いずれにしても、『点鬼簿』は、実に巧みな作品である、しかし、結局、小品である。

 さて、この小品が発表された当時」わりに高く評価されたのは、この作品で、芥川が、はじめて、自分の幼少年時代の回想を述べるのに、「僕」という言葉をつかい、その僕が、肉身の、(父母と姉の、)思い出を、しみじみと語る、という形式を使ったからである、それは、又、これまで、幼少年時代の回想風のものを書いても、例えば、『少年』には、まだ、不評判であった、保吉という名をつかい、一部の評論家に劃期的と云われた『大導寺信輔の半生』でも、信輔という名を用〔もち〕いた上に、書き方にも見え透〔す〕いたような思わせぶりなところがあったからでもある。

 勿論、『点鬼簿』にも少しは思わせぶりなところがある。(「思わせぶり」は芥川の芸術の特徴の一〔ひと〕つでもある。そうして、その「思わせぶり」は、『或阿呆の一生』の中にも到る処にあり、死ぬ前の日まで書いた『続西方の人』の中にも多分にある。ところで、)『点鬼簿』には、仮りに「人間」は書かれていないとしても、何〔なに〕か人の心に迫ってくるものがある。
 私は、四節に分かれている『点鬼簿』の中〔なか〕で、その㈠が最もすぐれている、と思う、そうして、その㈠だけが最もすぐれている、と思う、『点鬼簿』に、(『点鬼簿』が雑誌[「改造」]に発表された時に、)読んで感心した大部分の人は、あの㈠の「僕の母は狂人だつた、」という書き出しの文句に先〔ま〕ず感嘆したにちがいない。

 書き出し、といえは、㈡、㈢、㈣は、前に述べたように、㈠よりは落ちるけれど、それでも、「僕は一人〔ひとり〕の姉を持つてゐる、しかしこれは……」という㈡の書き出しも、「僕は母の発狂した為〔ため〕に生まれるが早いか…‥‥」という㈢の書き出しも、「僕は今年〔ことし〕の三月半〔なか〕ばに……」という㈣の書き出しも、みな、工夫〔くふう〕に工夫〔くふう〕を重〔かさ〕ねたものにちがいない。そうして、見よ、ここでも、㈠、㈡、㈢、㈣の書き出しは、みな、「僕は…」となっている。

 芥川が志賀直哉と共に尊敬した、葛西善蔵は、若き間宮茂輔に、「小説は、書き出しと、切りが、大切ですぞ、」と教えた、という話を、間宮が、『風の日に』という実名(兼〔けん〕実際らしい)小説の中に、書いている。

[やぶちゃん注:「間宮茂輔」(もすけ 明治三十二(一八九九)年~昭和五十(一九七五)年)は小説家。慶應義塾大学中退後、『文藝戦線』に参加、昭和八(一九三三)年に逮捕、昭和十(一九三五)年に転向して出獄、代表作に「あらがね」。戦後は新日本文学会に属した。]

 彼はまたいつとなくだんだんと場末へ追ひ込まれてゐた。

 これは、葛西の処女作『哀しき父』[大正元年八月作]の書き出しの文句である。

  さて、芥川が『点鬼簿』を書いた鵠沼時代の生活の一〔ひと〕つの見本として、誰も彼〔かれ〕も引用するので気が引けるが、やはり、その時分の芥川の生活と気もちの一端をかなりよく現しているので、次ぎに、『或阿呆の一生』の中の『夜』を、うつす。

 

  夜〔よる〕はもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明〔うすあか〕りの中に絶えず水沫〔しぶき〕を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下〔もと〕に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歓〔よろこ〕びだつた。が、同時に又苦〔くる〕しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稲妻〔いなづま〕を眺めてゐた。彼の妻は一人〔ひとり〕の子を抱〔いだ〕き、涙をこらへてゐるらしかつた。

 「あすこに船が一〔ひと〕つ見えるね?」

 「ええ。」

 「檣の二つに折れた船が。」

 

  右の文章の中に、「二度目の結婚」とあるのは、大正七年の二月に結婚したので、その頃、横須賀の海軍機関学校の教師をしていた芥川は、田端の家をはなれ、鎌倉で、家(あるいは、部屋)を借りて、新妻〔にいいづま〕と、所帯を持った、そこでは、養父母も伯母もいなかったから、夫婦だけの水入らずの暮らしが出来た、楽しかつた、それから、八年目に、(八年ぶりに、)鵠沼の貸し屋で、夫婦と子供だけで、暮らすようになったのを、しゃれて、「二度目の結婚」と称したのである。(それで、芥川は、大正十五年の八月二十四月に、下島 勲に出した手紙の中に、「……二三日中にお出かけなさいませんか。ちよつと我々〔われわれ〕の二度目の新世帯に先生をお迎へして、御飯の一杯もさし上げたい念願があります、」と書いている。)

  ところで、先きに引いた文章の中の、絶えず水沫を打ち上げている、という海の話も、沖の稲妻を三人の子等と一しょに眺めるところも、更に、評論家たちが、その時分の芥川の心を現したものである、とか、その頃の芥川の象徴である、とか、いうような理窟をつけている、「檣の二つに折れた船」が見える、というような話も、私には、みな、『真〔まこと〕』とは、取れないのである。

  諸君、さきに引いた文章をよく読んでごらんなさい。実に、心にくいほど、うまく出来ているではないか。これは、一〔ひと〕つの散文詩と見ても、一〔ひと〕つの小品として読んでも、少し病的なところはあるけれど、実に巧みな、ものである。

   五十一章から成〔な〕る『或阿呆の一生』は、最後の『敗北』の終りに(昭和二年六月)という日附けがついているが、この長短五十一篇の散文詩のような文章は、一度に書かれたものでなく、一章、一章、思いつくままに、念に念を入れて、書いたものらしく、死んだ年〔とし〕の昭和二年の春頃から、書かれたものであろうか、と思う。

 『或阿呆の一生』は、どの章を読んでも、何ともいえぬ痛ましい気がする。

  しかし、この久米正雄に托された原稿、(遺稿、)、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と割註がしてあって、それが抹消されてあるそうだが、故人がそれを抹消した気もちはわかるような気はするけれど、これは、「自伝的エスキス」のようなところもあるが、文学の観照眼の特にすぐれた久米が云うように、「一箇の『作品』」である。

 [やぶちゃん注:「エスキス」は、フランス語“esquisse”で、英語の“sketch”のこと。素描。下絵。]

  つまり、『或阿呆の一生』は、一〔ひと〕つの芸術であり、一つの作品である。

  その『或阿呆の一生』のなかの『譃』という章の中に、「しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な譃に充ち満ちてゐた、」という文句がある。そのルッソオの『懺悔録』を、(私は、いつ、どこで、誰の文章で、読んだか、忘れたが、)brilliant lie〔ブリリアント ライ〕と云った人があった。『ブリリアント・ライ』を、簡単に、『光り輝く嘘』と訳すると、『或阿呆の一生』の幾つかの章に「自伝的エスキス」のように見られるものがあれば、それらは、たいてい、『ブリリアント・ライ』という事になるのではないか。

  ブリリアント・ライ。――『或阿呆の一生』はブリリアント・ライである。

  何と、これは、見事ではないか。

  久保田万太郎は、さすがに、芥川が、「最後まで自分を美しく扮装しつづけた、」と云い、そうして、『或阿呆の一生』が読者に与えるものは、「魂の美しい旋律」だけである、と云った。

  魂の美しい旋律。

 『或阿呆の一生』の最後の『敗北』という章の初めに、「彼はペンを執る手も震へ出した、」という文句がある。それを、大抵の評論家も、多くの人も、「芥川の文学の敗北」を意味する文句のように、云う。

  しかし、それは、違う。

  芥川は、仮にこの文句が本当とすると、ペンを執る手が震え出すまで、文章を書いていたのである。

  つまり、芥川は、死ぬ時まで、芸術家であったのだ。されば、芥川は、決して、文学に敗けたのではないのである。

 [やぶちゃん注:私はこの最後の宇野の言葉には、完全に同意するものである。]

 

  三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、烈〔はげ〕しい頭痛をこらへてゐた。すると僕の眶の裏に銀色の羽根を鱗〔うろこ〕のやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乗つた自動車のラディエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。……

  そこへ誰か梯子段を慌しく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駈け下りて行つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いて体〔からだ〕を起〔おこ〕すが早いか、丁度〔ちやうど〕梯子段の前にある、薄暗い茶の間〔ま〕へ顔を出した。すると妻は突つ伏したまま、息切れをこらへてゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。

 「どうした?」

 「いえ、どうもしないのです。……」

  妻はやつと頭を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。

 「どうもした訣〔わけ〕ではないのですけれどもね、唯何だかお父〔とお〕さんが死んでしまひさうな気がしたものですから。……」

 

  これは、『歯車』の最後の『飛行機』の終りに近いところの一節である。

  私は、この一節が、芥川の鵠沼時代の或る時の真相にいくらか近いのではないか、と思う。

  つまり、芥川は、ざっと、こういう状態の中で、『点鬼簿』を、書いたのである。

  そうして、芥川は、やがて、大正十五年を送ったのであった。

  大正十五年の十二月の三十一日から昭和二年の一月二日まで、芥川が、小さな家出をした、という話を、私は、ここで、思い出した。

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