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« 宇野浩二 芥川龍之介 二十~(4) | トップページ | ツウタンニタヘズアクタ »

2012/04/24

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(1)

     二十一

 

『大導寺信輔の半生』で失敗した芥川は、文学の上で、敗北した形〔かたち〕になった。

 芥川が『大導寺信輔の半生』を書いたのは、さきに述べたように、大正十三年の十二月の中頃であった。

 その十二月の十九日に、芥川は、又、中根に宛てて、つぎのような葉書を、出している。

……「羅生門」「傀儡師」なる可く沢山刷〔す〕ることとし、その印税の余分及「煙草と悪魔」印税至急おとどけ下され度候新年号に原稿かゝぬ為貧乏にて弱り居候両方合せ二百円位にならば幸この上なしと存居候何とぞ一両日に御工〔く〕めん下され度候

(余計な事であるが、読む度〔たび〕に、芥川の金談の手紙のうまさには、おどろかされる。)

 ところで、この葉書の文句にあるように、この年の十二月には、芥川は、『大導寺信輔の半生』だけしか、書いていない。ところが、翌年(つまり、大正十四年)の一月には、『早春』と『馬の脚』とを書いている。

 ここで、私が不思議に思うのは、芥川のような作家が、前にも、ずいぶん乱作をした事があったが、この時も、ひどく健康をわるくしながら、まだ乱作(大いそぎで書くという意味も含めて)をしている事である、というのは、『早春』[大正十四年一月作]は、「保吉物」の一つであるが、単なる思いつきの短篇であり、『馬の脚』[大正十四年一月作]も出来そくないの小説であるからだ。

『馬の脚』は、何から思いついたのか、頓死した人間が、生きかえったが、両足とも腿〔もも〕から腐っているので、その代りに馬の脚をつけられる。そこで、その馬の脚の人間が、足だけが馬であるために、いろいろな苦労をし、さまざまの事件をおこすことを、巨細〔こさい〕に書いてある。

 この小説について、吉田精一は、「ゴオゴリの『鼻』の模作にすぎない、」と説いている。それも当っているけれど、芥川は、殊にゴオゴリの愛読者であったが、あの、鱷〔わに〕に呑まれながら、その腹の中で、生きながらえて、いろいろな意見を吐く男と、その一件のためにさまざまな事件が持ち上がる、ドストイェフスキイの『鱷』も読んでいたであろうし、あの、影をなくしたために、いろいろの辛い思いをし、さまざまの思いがけない事に遭遇する人物の事を書いた、シャミッツソオの『影をなくした男』なども、読んでいたにちがいない。

 そこで、臆測をすれば、芥川は、書くのに気が楽な、荒唐無稽な物を書いてみよう、と思い立ち、それに向く舞台を自分が嘗〔かつ〕て遊んだ『支那』に取ったのであろう、支那なら、どんな荒唐無稽な事でも書ける。(『荒唐』とは「漠然としてとりとめのない言説」という程の意味であり、『無稽』とは「よりどころのない言説」という程の意味である。)さて、それから先きは、ゴオゴリか、ドストイェフスキイか、シャミッソオか、その何〔いず〕れもか。ただ、『馬の脚』の初めの方の、「生憎大した男ではない。北京〔ペキン〕の三菱に勤めてゐる三十前後の会社員である、」とか、「同僚や上役の評判は格別善いと言ふほどではない。しかし又悪いと言ふほどでもない、」とか、いう、中流の会社員忍野半三郎〔おしのはんざぶろう〕は、芥川の愛読した、ゴオゴリの『外套』の主人公、アカアキイ・アカアキヰッチである。(そうして、このアカアキイ・アカアキヰッチは、ずっと前に述べたが、『芋粥』の五位である。)それから、『外套』の書き出しと『馬の脚』の書き出しは殆んどそっくりである。それから、やはり、ゴオゴリの「三月二十五日のこと、ペテルブルグではなはだ奇妙な事件が持ち上つた、」という『鼻』の書き出しは、『馬の脚』というような「奇妙な事件」を考え出す本〔もと〕になったかもしれない。

 (こんな事を述べているうちに、私は、これもずっと前に書いた、芥川が私にくれたゴオゴリの半身像は、長い間、芥川の机辺にあったのではないか、というような事を思い出した。わたくし事を云えば、今、そのゴオゴリの半身像は、この文章を書いている机辺にある。)

 大正十三年の十二月に書いた『大導寺信輔の半生』も、大正十四年の一月に書いた、『早春』も、『馬の脚』も、雑誌社(と新聞社)が強要したのか、それとも、芥川が、必要があって、強行したのか、三つとも、無理に無理をして、書いたものであった。そのために、『大導寺信輔の半生』は未完成のものとなり、『早春』も、『馬の脚』も、前に述べたような、作者自身も不満を感じるような、いやな、作品になってしまった。その上、その無理がたたって、持病が一そう悪〔わる〕くなった。――

 大正十四年の二月二十一日に、芥川が、清水昌彦[註―中学の同窓]に宛てた手紙の中に、「僕は、胃を患ひ、腸を患ひ、神経衰弱を患ひ、悪い所だらけで暮らしてゐる、」という文句がある。

 この芥川の手紙は、その清水から来た手紙への、返事である。だから、その芥川の手紙は、「君の手紙を見て驚いた、」という文句から始まっている。その芥川が「驚いた」というのは次ぎのような手紙である。

 これは僕の君に上げる最後の手紙になるだらうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併発してゐる。妻は僕と同じ病気にかかり僕より先に死んでしまつた。あとには今年五〔ことしいつ〕つになる女の子が一人残つてゐる。……まづは生前の御挨拶まで。

[やぶちゃん注:読者諸君は、ここで疑問に思われることであろう。この芥川龍之介宛清水昌彦書簡をどうして宇野浩二は引用できるのか、と。実は、宇野は注記していないが、この引用は実際の清水昌彦書簡からの引用ではないのである。これは実は大正十五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載された「追憶」(後に『侏儒の言葉』にも所収)からの引用なのである。以下、当該章「水泳」を総て引用する(引用元は私の「追憶」テクスト)

 

       水  泳

 

 僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。

 「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」

 かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。

 「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」

 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絶望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。

 

「清水昌彦」は、江東小学校時代に回覧雑誌を作ったりした幼馴染で、明治三十九(一九〇六)年に東京都立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の生徒だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戦争」の中で、好戦の末、轟沈する『帝国一等装甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している。彼は正に憧れの海軍士官となったが、その後は音信が途絶えていた。なお、宇野がこの後で一部引用し、芥川龍之介がこの「水泳」末尾で述べている書簡は、旧全集書簡番号一二八四の清水昌彦宛書簡(田端発信・大正十四(一九二五)年二月二十一日附)で、先に以下に全文を示しておきたい(岩波版旧全集に拠る。「〱」は正字に直した)。

 

冠省君の手紙を見て驚いたそんな病気になつてゐようとは夢にも知らなかつたのだから。第一君が呼吸器病にならうなどとは誰も想像出来なかつた筈だ。君の手紙は野口眞造へ郵便で造る。僕は胃を患ひ、腸を患ひ、神経衰弱を患ひ、惡い所だらけで暮らしてゐる。生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とも思はない。僕も生きられるだけ生きる。君も一日も長く生きろ。實は僕の妻(山本喜譽司の姪だ)の弟も惡くて今度三度目の喀血をしたのでいま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其處へ君の手紙が來たので餘計心にこたへた。何か東京に用はないか。もつと早く知らせてくれれば何かと便利だつたかも知れないと思つてゐる。この手紙は夜書いてゐる。明日近著「黄雀風」を送る。禮状、返事等一切心配しないでくれ給へ。

   冴え返る夜半〔ヨハ〕の海べを思ひけり

    二月二十一日夜   龍之介

   昌彦樣

 

素の龍之介の優しさが伝わってくる。清水はしかし、同年四月十日前後に逝去の報が入った。同年四月十三日の府立三中時代の共通の友人西川英二郎宛の書簡(旧全集書簡番号一三〇〇)には「淸水昌彦が死んだ。咽喉結核と腸結核になつて死んだのだ。死ぬ前に細君に傳染してこの方が先へ死んでしまつた。孤兒四歳。」とある。年次や子の年などの些細な部分は問題ではなく、芥川の「追憶」の叙述に粉飾は皆無である。]

 これは、芥川ならずとも、驚くべき手紙である。これを読んだ芥川は、さきに引いた、二月二十一日に清水に宛てた手紙の中に、清水をはげますために、(ついでに、自分自身をもはげますつもりか、)次ぎのような事を、書いている。

 ……生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とは思はない。僕も生きられ るだけ生きる。君も二日も長く生きろ。実は僕の妻の弟[註―塚本八洲という名、芥川がたよりにしていた義弟、鵠沼でも傍にいた]も悪くて今度三度目の喀血をしたので、いま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其処へ君の手紙が来たので余計心にこたへた。

 これはこたえる筈である。芥川としては、(もっとも、これは私が思うのであるが、)義弟が「三度目の喀血」をし、旧友の妻が肺結核で死に、旧友が結核の病気で死にかかっている、という事になるからである、しかも、その時、自分も三つの病気をしているからである。

 芥川が、その後、前に述べたように、『春の夜』にも、『玄鶴山房』にも、『悠々荘』にも、肺結核の病人を出したのは、こういう事も一つの原因のようなものであろうか。

 ところで、この年〔とし〕(つまり、大正十四年)の四月の中頃から五月の初め頃まで、芥川が、修善寺に滞在したのは、病気の養生のためでもあろうが、憂さ晴らしのためでもあったのではないか。芥川が、修善寺から、方方へ出している手紙には、めずらしく、伸び伸びした文句なども書かれたのがあり、得意の洒落〔しゃれ〕のはいった文章で書かれたのもある。ずっと前に書いた上司小剣を、突然、訪問して、西洋の社会主義者たちの話を持ち出して、烟〔けむ〕に捲いたのも、その時分であろう。

[やぶちゃん注:この時の修善寺滞在は、四月十日から五月三日。上司小剣関連では、宮坂覺氏の新全集年譜のこの湯治期間中の四月十七日の条に、芥川龍之介が編集する『近代日本文芸読本』(全五巻興文社から同年十一月刊行)への作品収録許可を水上滝太郎や上司小剣らに依頼するという記事があり、これは宇野が勘ぐるように龍之介が多分に悪戯っ気から上司に面会を求めたのわけではない、仕事であった(尚且つ、その掲載許諾依頼という性質上、それはある意味、相手をよいしょして和やかなものとしなくてはならなかったに違いない)ことが明らかである。]

 しかし、又、芥川が、小説らしい小説を書かなくなったのも、その時分からである。いや、小説らしい小説どころか、殆んど作品を書かなくなり始めたのも、その頃からである。

 それを稍〔やや〕くわしく云えば、大正十四年には、前に述べた、『早春』と『馬の脚』を除〔のぞ〕くと、『温泉だより』、『桃太郎』、『海のほとり』、『尼提』、『湖南の扇』、などを書いているが、その中で、増〔ま〕しなのは『海のほとり』だけである。しかし、これも、小説というより、小品である。

 しかし、この時分から、芥川は、昔のような筋と文章に凝ったような小説は、肉体的に書けなくなったばかりでなく、興味がなくなった。が、これは、前に述べたように、そういう物を書く素材の種〔たね〕が尽きたからでもあり、やはり、結局、根気がなくなったからである。それから、もう一〔ひと〕つの理由は、(かなり重大な理由は、)いろいろ複雑な家庭の紛糾が次ぎ次ぎに起こり、その上に、親戚に不幸や不慮の災難があった事で、それらがみな芥川の重荷になった事である。

 そうして、芥川が、その頃から、身辺の見聞のような物を、書き出したのは、病苦を押して書くのに、一ばん楽〔らく〕であったからである。それから、芥川は、それらの物を書くのに、一ばん楽な書き方をした。それで、それらの作品には、みな、『僕』という一人称を使っている。そうして、それらの作品が、しぜんに『筋のない小説』という事になったのである。それから、くりかえし云うが、それらの『筋のない小説』は殆んどみな小品である。

 それから、そういう小品さえなかなか書けなかったのは、健康が極度におとろえていたからである。しかも、それらの作品は、長くて、十八九枚であり、短かいのは、七八枚ぐらいであった。(しかし、その頃の芥川をよく知っている私は、それでも、あれだけ、よく書けたものだ、と、しばしば、感心する事がある。)

 そうして、それらの作品の中で、『海のほとり』[大正十四年八月七日]、『年末の一日』[大正十四年十二月八日]、『点鬼簿』[大正十五年九月九日]、『悠々荘』[大正十五年十月二十六日]、『蜃気楼』[昭和二年二月四日]、の五篇がすぐれている。

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