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« ツウタンニタヘズアクタ | トップページ | 宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(3) »

2012/04/26

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2)

 芥川は、前にちょっと書いたように、大正十五年(いや、昭和元年)の十二月の月末から昭和二年の一月一日まで、小〔ちい〕さな家出をした。

[やぶちゃん注:これについて、新全集の宮坂覺氏の年譜の昭和元(一九二六)年十二月三十一日の条には、鵠沼で甥偶々葛巻義敏と二人っきりになり、「体の具合が悪くなって」(芥川文「追想 芥川龍之介」に拠る)『鎌倉小町園に静養に出かける。女将の野々口豊子の世話になった。この時、行き詰まりを感じて家出を考えたとも伝えられている』が、所在は明らかにされており(葛巻には知らせていたか)、『田端の自宅から早く帰るよう電話で催促を受け』ている。しかし、『結局、翌年正月の二日まで滞在し』、二日は鵠沼に一度戻ってから、田端に帰っている。因みに、昭和の改元はこれに先立つ六日前の十二月二十五日であった。]

 それで、書翰集[ここで後ればせに断っておくが私の使っているの『芥川龍之介全集』は昭和三年の初版である]を開いて見ると、十二月二十日〔はつか〕過ぎのは、二十五日に、滝井に宛てたのが、(それも葉書が、)一通しかないから、それを次ぎに写そう。

 御手紙拝見。僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。[下略]

 ここで、猶、よく書翰集の十二月のところを調べて見ると、二日から、日をおいて、十三日までのが、鵠沼はかりであるのに、十六日と十九日のだけが田端であり、飛んで、二十五日のが、今うつした滝井に宛てた、鵠沼となっている。そうして、この滝井に宛てたのだけが、「鵠沼イの四号」となっていて、年号が「昭和」となっている。(この「イの四号」は、前に述べた、私が訪ねた家であり、小穴の『二つの絵』の挿し絵に、略図まで書かれて、出ている家である。それから、この家は、田端の家とともに、《いや、田端の家以上に、》芥川の短かい生涯の中〔なか〕で、大事〔だいじ〕な役〔やく〕をつとめた家でもある。それから、大正十五年から昭和二年にかけての一年半程の間は、これ亦、芥川の短かい一生の内〔うち〕で、重大な時期の一つである。)

[やぶちゃん注:宮坂年譜を見ると、十二月十三日に鵠沼(前年の四月から芥川の生活の拠点はここに移っていた)から田端に戻って、同二十二日夜、鵠沼に戻っている。宇野がこれから推理するのは、この原稿を書くために田端に戻るという口実が、『小さな家出』の秘密の決行準備として仕組まれたものだとするのであるが、私はこの時期の書簡と年譜を見ていると、この田端帰還には別の、隠された「準備」(それは『小さな家出』の中に、芥川が一つの選択肢として野々口との心中を考えていたかも知れない可能性と実は密接に繋がっている)が行われたのではなかったかという気がするのである。先に「二十」で見た通り、十二月十三日に芥川は精神科医斎藤茂吉に宛てて鴉片丸二週間分を田端の芥川宛で送ってくれるように依頼しており(十九日に薬到着の礼状を書いている)、また、田端では友人であると同時に主治医でもあった下島勲が十七日、十九日の夜に来訪、何れも夜九時過ぎまで話し込み、しかも二十二日は下島を連れだっての鵠沼帰還であった。実は鵠沼では前年六~七月より藤沢の医師富士山〔ふじたかし〕という医師が彼の主治医であったが、この富士医師は芥川が濫用に近く睡眠薬服用をしていることに批判的であった。それを考え合わせると、この田端帰還は、正に富士医師が処方してくれない睡眠薬やその他の薬物を斎藤や下島から手に入れるため――それは、もしかすると単品では致死に足りない薬物を総量的致死量分まで蒐集するため――であったとは言えないだろうか?]

 さて、前に書いた、芥川が、大正十五年の十二月の十六日と十九日に、田端から、出したのは、十六日のは、「中央公論」の編輯長の、高野敬録に宛てたものであり、十九日のは、佐佐木と斎藤茂書に宛てたものである。そうして、高野に出したのは手紙であり、斎藤と佐佐木宛てのは葉書である。

 この頃は『玄鶴山房』を書きしぶっていた時分であるから、芥川は、高野への手紙のなかにも、(これはずっと前に引いたが、)佐佐木と斎藤に出した葉書の中にも、「二時すぎまでやつてゐたれど、薄バカの如くなりて書けず、」とか、「中央公論はとうとう出来上〔あが〕らなかつた、」とか、「中央公論は前後だけ出来て中間〔ちゆうかん〕出来ず、」とか、殆んど同じような文句を書いている。それから、十二月九日に、やはり、鵠沼から下島 勲に宛てた手紙の中に、「家へは新年は勿論、新年号の一部[これは『玄鶴山房』の大部分ならん]を書く為にもかへるかも知れません。こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たち[註―義母と伯母とか]のヒステリイをお鎮め下さい。今度は力作[註―『玄鶴山房』ならん]を一つ書くつもりです、」というのがある。

 これらの手紙や葉書を出した月〔つき〕と日〔ひ〕や、これらの手紙や葉書の中の文句などを綜合して、臆測すると、芥川は、『小さな家出』を決行する前に、田端の自分の家に出入りしている下島に、「新年は勿論、新年号の一部を書く為にも……」というような文句を書いた手紙を出して、新年には必ず家に帰るように仄〔ほの〕めかしたり、鵠沼の寓居で監視しながら同居している妻に自分の決心を悟られるのを予防するために、十二月の十六日頃から十九日頃まで、原稿を書くのを口実にして、田端の自分の家に帰ったり、して、その年〔とし〕の十二月の末から翌年の一月一日まで、『小さな家出』をしたのであろう。

 ところで、昭和二年の一月一日まで『小さな家出』をしていた、とすれば、芥川は、一月二日には、田端の家に帰っていた、という事になる。

 ここで、又、書翰集の昭和二年の一月のところを開いて見ると、みな、田端から、となっていて、八日の野間義雄宛ての葉書の中にも、九日の宇野浩二宛ての葉書の中にも、十日の藤沢清造[註―芥川より年上で、不遇作家で、ずっと本郷の根津あたりに住んでいたが、不遇でありながら人に頭をさげない人であった。菊池 寛、久保田万太郎、室生犀星、その他と親しかったように思う。『根津権現裏』という長編を一冊のこし、たしか昭和の中頃、芝公園の中で餓死したが、行路病者と見られた。武田麟太郎はこの長編の愛読者であった。この本の題字は高村光太郎である。]宛ての葉書の中にも、十二日の佐藤春夫と南部修太郎宛ての葉書の中にも、十五日の伊藤貴麿宛ての葉書の中にも、殆んど同じような文句が書いてある。次ぎに、みな、短かいから、写してみよう。

[やぶちゃん注:「藤澤清造」(明治二十二(一八八九)年~昭和七(一九三二)年)は、小説家。出版社などで生活を支えつつ、大正十一(一九二二)年に「根津権現裏」を発表するが、昭和七年一月二十九日早朝に芝公園内六角堂で凍死体となって発見された。本作の『文学界』連載が昭和二十六(一九五一)年九月から翌年十一月、文藝春秋新社からの単行本化が昭和二十八(一九五三)年五月、宇野がこの時点で昭和七年を「昭和の中頃」と呼称しているのが面白い。]

 冠省 拙作をおよみ下されありがたく存じます。なほ又支那語の発音を御注意下され愈〔いよいよ〕ありがたく存じます。[中略]二伸 なほ又親戚にとりこみ有之はがきにて御免蒙り候(野間宛)

[やぶちゃん注:「支那語の……」が何れの作品を指すかは未詳。「野間」は野間義雄なる人物であるが、この人物も未詳。]

 

 冠省、先夜はいろいろありがたう。その後又厄介な事が起り、毎日忙殺されてゐる。はがきで失礼 頓首(宇野宛て)

 

 冠省 御見舞ありがたう。唯今東奔西走中。何しろ家は焼けて主人はゐないと来てゐるから弱る。右御礼まで。(藤沢宛て)

 

 冠省君の所へ装幀[註―随筆集、『梅、馬、鶯』の装幀。わたくし事、私も佐藤に、『恋愛合戦』の装幀をしてもらったことがある]の礼に行かう行かうと思つてゐるが、親戚に不幸出来、どうにもならぬ。唯今東奔西走中だ。右あしからず。録近作一首

  ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ[宇野いう、芥川はよく、ナニナニ流といって、人の歌風をまねたが、これはまったく茂吉流なり](佐藤宛て)              

 

 はがきにて失礼。御見舞ありがたう。又荷が一つ殖えた訣だ。神経衰弱癒〔なほ〕るの時なし。毎日いろいろな俗事に忙殺されてゐる。頓首(南部宛て)

 

 冠省御手紙ありがたく存じます。大騒ぎがはじまつたので、唯今東奔西走中です。神経衰弱なほるの時なし。とりあへず御礼まで。頓首(伊藤宛て)

 

[やぶちゃん注:底本では、それぞれの末にある書簡クレジットの( )注記(表記通り、同ポイントで割注形式ではない)が、書簡文から改行されて、下インデントになっている。ここでは標記のように示し、各書簡の間に行空けを施して読み易くした。因みに老婆心ながら添えておくと、順にそれぞれ「野間義雄」「宇野浩二」「藤沢清造」「佐藤春夫」「南部修太郎」「伊東貴麿」宛てである。]

 先きに「殆んど同じような文句」と書いたのは、これらの葉書の中にあるように、親戚に、「とりこみ」「厄介な事」「不幸」が起こった事と、そのために「東奔西走中」という事と、神経衰弱がなおらない事と、――この三つである。

 この中の、親戚の『とりこみ』とは、芥川の姉の久子[葛巻義敏の母]の夫[義敏の父の死後再婚した人]の西川豊が、自宅が火災に遭ったのを、保険金を取るために放火をした、という嫌疑をかけられ、それを苦にして、鉄道自殺をした、という事件である。西川は弁護士であるが、西川が、嫌疑をかけられたという事で、どういう事情のために、自殺したか、その事情を、私は、まったく知らない、しかし、その西川の死骸を義弟になる芥川が引き取りに行った、といううな事を、誰からとなく、聞いたような気がする。『歯車』は、一つの小説であるから、事実の噓が、あり過ぎる程、書かれてあるかも知れないが、(あるにちがいないが、)『歯車』の中の『レニン・コオト』の終りの方に、「僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れてゐない或田舎に轢死してゐた。しかも季節に縁のないレニン・コオトをひつかけてゐた、」という所がある。

[やぶちゃん注:義兄の弁護士西川豊(明治十八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年)の事件を時系列で追っておく。なお、西川豊と新原久子の婚姻は大正五(一九一六)年で、久子は再婚で、先夫で義敏の実父である獣医葛巻義定[龍之介の実父新原敏三の経営する牧場に勤務していたことがある]とは明治四十三(一九一〇)年に離婚している(但し、西川没後の後年に久子と義定とは再び再婚している)。これらは正に直近の昭和二年一月上旬の出来事である(以下は主に鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)のコラム「義弟西川の自殺」(一九二頁)及び当該箇所に写真で載る昭和二年一月八日附『東京朝日新聞』の記事などを元にした。記事は原文通りとした)。

〇一月四日

南佐久間町(現・港区西新橋)の西川豊の自宅が出火する。同日の調査により、時価約七千円の同家屋に対し、火事の前に帝国火災保険株式会社へ三万円(『東京朝日新聞』の記事には『一萬圓』)の保険をかけていたこと、火災現場の検証によって二階押入の二箇所からアルコール瓶が発見されたことの二点が明らかとなり、同日、放火の嫌疑を受けて取り調べを受ける。西川は否認(任意同行であると思われるが、西川が解放されたのは同日か翌日かは不明。火災から現場検証、嫌疑の発生と任意同行と取り調べという一連の出来事が同日内で終わるというのは考えにくいから、翌日の一時解放か)。

〇一月六日

西川豊が、午後六時五〇分頃、房総線土気〔とけ〕駅と大網駅間の千葉県山武〔さんぶ〕郡土気トンネル近くに於いて両国駅発下り列車に飛び込んで自殺。新聞記事によれば、彼は『放火の嫌疑をかけられたのを苦にし』て『六日の未明五時、遂に死を覺悟し、妻女久子の弟に當る文士芥川龍之介にあてた』『「重々御心配をかけて申し譯がないがこの度の出火につき一家の主人たるもの責任を問はれ、官權の壓迫に耐へかねて身の潔白をたてるため死を擇む覺悟をした、妻子の事はくれぐれも賴む」といふ意味の遺書を殘して家出し鐵路の露と消えたもので自殺の現場には遺書三通があつた』(繰り返し記号「〱」は正字に。草体「消江た」は「消えた」に変えた)。

〇一月八日(『東京朝日新聞』記事より)

大見出しは「放火の嫌疑から/弁護士の自殺/身の潔白を立てるため/文士芥川氏の義兄」とあり、西川の履歴、家族構成、前記の引用などの事件の経緯を記す。その後に「涙の夫人」と小見出しして、

右につき妻久子さんは涙ぐんで『四日の出火について最初漏電といふ事になつてゐたのににはかに警察側で放火の疑ひを起され元來小心の夫はそれを苦にして到頭死を決心した譯です、二人の子供がありますがいづれもまだ幼いものですから私等の前途は實にさびしいものですたゞ賴りとする弟があの通り病身で現在でも神經衰弱で病臥してゐる始末ですから、この度の事件を知らせるさへも心苦しい次第です』と語つた

とあり、最後に「驚く芥川氏/自殺とは意外」と小見出しして、

芥川龍之介氏は病氣で臥床中であつたが義兄の死について語る『まだ遺書は見てゐないからよく判らぬが義兄は私とは性格も趣味も非常に異つてゐるので年に一、二度位より逢つてゐません。西川君は実際家なので自殺をするのが寧ろ意外な位です、昨夜急な用事があるからたれか來てくれといつて來ましたから母を送り屆けたのでした母も向ふへ着いてはじめて知つたのでせう全く意外です

とある。「昨夜」は一月六日であろうから、この芥川龍之介の談話は一月七日田端自宅での採録と思われ、記事中の『母』とは同居している養母儔〔トモ〕であろう。尚且つ、芥川龍之介は西川の現場にあったという遺書は勿論、家出の際の書置きも、この記者のインタビューの時点では読んでいないものと考えてよいであろう。この新聞画像記事自体、不学にして今回初めてちゃんと読んだのであるが、恐らく西川の現場に残した遺書の中の一通も芥川龍之介宛と思われ、何より出奔時の書置きが芥川龍之介宛であったことは初めて知った。芥川龍之介の受けた心傷を考えると想像を絶するものがあったろうと、考えを新たにしたし、更に言えば、芥川の姉久子が記者への談話中に、芥川龍之介の神経衰弱から病態にまで言及しているのには正直吃驚しもした(夫の自殺のインタビューに著名人である芥川龍之介のことを慮って語る姉久子の思いを考えると私は、彼女に如何にも傷ましいものを感じるのである)。なお、少なくともこの談話の時点での龍之介は義兄の否認を信じている印象であり、後も龍之介は、西川の放火疑惑は冤罪であったと考えていたのではないか、という可能性を私は抱いている。それは後に書かれる「河童」に、次のような箇所が出現するからである(引用は私の「河童」テクスト)。

 

 「この國では絞罪などは用ひません。稀には電氣を用ひることもあります。しかし大抵は電氣も用ひません。唯その犯罪の名を言つて聞かせるだけです。」

 「それだけで河童は死ぬのですか?」

 「死にますとも。我々河童の神經作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。」

 「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使ふのがあります。――」

 社長のゲエルは色硝子の光に顏中紫に染りながら、人懷つこい笑顏をして見せました。

 「わたしはこの間も或社會主義者に『貴樣は盜人だ』と言はれた爲に心臟痲痺を起しかかつたものです。」

 「それは案外多いやうですね。わたしの知つてゐた或辯護士などはやはりその爲に死んでしまつたのですからね。」

 

なお、この見解は私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』でも既に示してある。但し、岩波新全集の人名解説索引によると、西川はそれ以前に『偽証教唆の罪で失権、市ヶ谷刑務所に収監された』ことがある旨の記載があり、彼は当時、この偽証罪の執行猶予中の身であった(芥川龍之介「齒車」の「二 復讐」や芥川龍之介「冬と手紙と」を参照)という弁護士西川豊という人物評価のマイナス要因ともなる事実は、事実としてここに提示しておかねばなるまい。芥川龍之介はこれ以後、三月頃まで、亡き義兄家族の生活問題[久子には先夫との間の葛巻義敏と妹左登子(それぞれ当時、満で十八歳と十七歳)、豊との間に瑠璃子・晃(それぞれ十一歳と九歳)の四人の子がいた]、豊の死後に発覚した残された高利の借金の後始末、疑われた火災保険及び自殺した豊の生命保険の問題等で文字通り、『東奔西走』せざるを得なかったのであった。]

 この義兄の変死と、たしか、その前の年の、義弟[これは芥川の妻の弟]の死と、――この二つの死が、芥川の自殺の幾つかの原因の中の一つである。

[やぶちゃん注:「その前の年の、義弟[これは芥川の妻の弟]の死」は宇野の大きな錯誤。芥川が才能を高く評価していた文の弟塚本八洲の没年は、芥川龍之介自死の遙か後の、昭和十九(一九四四)年である。]

 ところで、『歯車』の中の、やはり、『レエン・コオト』の中に、

……往来の両側に立つてゐるのは大抵大〔たいていおほ〕きいビルデイングだつた。僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖〔ふ〕やし、半ば僕の視野を塞〔ふさ〕いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代り今度は頭痛を感じはじめる、れはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚(?)の為〔ため〕に度々〔たびたび〕僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草に親〔したし〕まない二十〔はたち〕前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為〔ため〕に片手に右の目を塞〔ふさ〕いで見た。左の目は果〔はた〕して何ともなかつた。しかし右の目の瞼〔まぶた〕の真には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。

というところがあるが、右の一節の中に「眼科の医者はこの錯覚(?)の為〔ため〕に……」という、この「錯覚(?)」は、『錯覚』ではなく、『幻覚』である、というのは、『錯覚』とは、英語でいうと、illusion であるから、主観的なものと客観的なものと二種あって、例えば、白衣を幽霊と誤認するようなのが主観的なものであり、正方形の物を長方形の物のように感じるのが客観的のものであるから、共に、その刺戟は外界にある、つまり、何の刺戟もなくて起こる『幻覚』とは全〔まった〕く性質がちがい、そうして、『幻覚』とは、英語でいうと、hallucinationであるから、やはり、知覚ではあるが、感覚器官が、外部から何の刺戟をうけることがないのに、誤って、外界に実物があるように知覚するからである。

 つまり、『歯車』の中の一節である、右に引用した文章の中で、作者の芥川は、「錯覚(?)」と書いているが、これは、『錯覚』ではなく、はっきり、『幻覚』である。『幻覚』とは、幻視、幻聴、幻触、幻味、幻齅、その他の事である。そうして、『幻覚』は精神病者の感じるものである。されば、『歯車』の主人公の「僕」は、神経衰弱にかかっている人であるが、それ以上に、精神病者である、という事になる。

 

 もし、その時分の芥川が、神経衰弱がしだいにひどくなって、精神病者になっていた、とすれば、いや、はっきり精神病者になりつつあった芥川が、死ぬ前の年あたりから、死ぬ年(つまり、昭和二年)の上半季〔かみはんき〕までの間〔あいだ〕に、『海のほとり』、『年末の一日』、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『蜃気楼』、『河童』、『歯車』、『或阿呆の一生』、その他のような作品を書いたのは、天晴〔あっぱれ〕であり、見事であり、壮烈と称したい程である、それは、それらの作品の中には作者が必死の努力をして書いた事がまざまざと分かる物があるからだ。(そうして、その一つの例が『歯車』である。)

[やぶちゃん注:ここで宇野浩二に悪いが、はっきりさせておきたいことがある。私は芥川龍之介を宇野が言うような重篤な精神病者であるとは全く(殆ど全く)思っていない。近年の研究では芥川龍之介を統合失調症と断定する病跡学者がいるが、私はせいぜいノイローゼか強迫神経症のレベルであったと思う。統合失調症の状態で、まさに宇野が讃嘆する通り、あの『天晴であり、見事であり、壮烈と称したい程』の緻密に計算された全く破綻のない名作群を持続的に書き続けることは不可能に近いと思われるからである。まず、ここで宇野が鬼の首を取ったように『幻覚』『幻視』とし、芥川を真正の重い『精神病者』と断定している「歯車」に描かれた視覚異常であるが、これは既に眼科の専門医によって(私は十代の頃、この方の論文を直に読んでいる)、実は単純で問題のない閃輝暗点であることが明らかにされている。この症状は主にストレスによって脳の視覚野の血管が一時的に収縮を起こすことで発生するものとされており、稀な症状でさえないものなのである。さて、しかし――私が寧ろ、ここで言っておきたいことは、宇野浩二が――ワトソンのように即物的証拠から『精神病者』というとんでもない誤った推理をしているという事実への批判――ではない宇野自身が――芥川龍之介を、何が何でも、重篤で致命的な回復可能性のなかった末期的精神病患者に仕立て上げないでは済まない、という、それこそ極めて異常な思い込みや執念の中にいる――ということが問題なのである。そうしてその「異常さ」に宇野自身、全く気付いていないということである。私は宇野が梅毒に因る進行麻痺(麻痺性痴呆)の罹患によって(マラリア療法の副作用による脳変性の可能性を含め)、その予後に、ある種の偏執質(パラノイア)的性格に変容(若しくは「を附加」)するに至ったのではないかと深く疑っているということである。ここまで私と宇野浩二「芥川龍之介」に付き合って来た読者は、既に気づいておられると思うが、宇野の文体はその読点の打ち方の異常な結節性を示しており、自覚的ながらも必要以上に同一内容を偏執的に繰り返し書き、物品や人に限らないあらゆる対象を執念深く分類等級貴賤化する嗜好を示している。私は宇野の限りない芥川への友情を感じながらも、時に、その宇野の眼の底にこそ、慄っとするモノマニアの冷たい輝きを見る気がするのである。他者を「精神異常だ!」と連呼する者は、まず連呼する本人の精神の異常性を疑ってかかる必要がある、ということだけは言っておきたいのである。以下、そうした(私からは)異常と感じられる芥川龍之介精神病者断定叙述が増えるが、ここで述べて終わりとする。]

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