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2012/04/29

宇野浩二 芥川龍之介 二十二~(1)

     二十二

 

 例の『芥川龍之介研究』の中で、川端が、「僕は『歯車』は芥川氏のすべての作品に比べて断然いいと思ふ、」と云うと、佐藤が、「僕も同感です、」と云い、廣津も、「僕なんかも一ばん頭に残つてゐるのは『歯車』だと思ふ、」と述べている。

 私は、(私も、)『歯車』は、芥川の晩年の作品の中で、特殊なものの一〔ひと〕つである、とは思う、が、もっとも勝〔すぐ〕れた作品である、とは思わない。私は、芥川が昭和二年に書いた作品の中では、小説としても、『玄鶴山房』が一番すぐれている、と信じる。

『玄鶴山房』は、前に述べたように、㈠は、大正十五年の十二月に、鵠沼で、書いたが、大部分は、昭和二年の一月に、田端で、書いた。

 僕ハ陰鬱極マルカ作ヲ書イテキル。出来上ルカドウカワカラン。君ノ美小童ヲ読ソダ、実ニウラウラシテヰル。ソレカラ中野[註―中野重治]君ノ詩モ大抵ヨンダ、アレモ活〔い〕キ活キシテヰル。中野君ヲシテ徐ロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜ク事数等ナラン。

 右は、大正十五年十二月五日、芥川が、鵠沼から、室生に宛てた手紙から、引用したのである。(この文章の中にある、室生の『美小童』という作品は、大正十五年の十二月号の

「近代風景」[たしか、北原白秋が個人で出していた雑誌である]に出たものであるが、この「近代風景」には川端康成、岡田三郎、浅原六朗、今野賢三、の作品が、出ている。それから、やはり、大正十五年の、十一月号の「世界」[これは、私も、聞いたことも、見たことも、ない]という雑誌に、芥川の『鴉片』というのが出ている、ついでに書けば、十月号の「改造」には、芥川の『点鬼簿』のほかに、佐佐木茂索、村山知義、の作品も、出ている。――こういう事は、大正末期の日本の文壇の現象の現れの一〔ひと〕つ、とでも云うのであろうか。有識者の御示教を乞う。)

[やぶちゃん注:「中野君ヲシテ徐ロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜ク事数等ナラン。」文学史ではプロレタリア文学作家として知られる中野重治は、この頃(大正十五(一九二六)年)、東京帝国大学独文科の学生で室生に師事しており、彼は正にこの前後に鹿地亘らとともに社会文芸研究会(一九二五年)やマルクス主義芸術研究会(一九二六年)を結成、この年(大正十五(一九二六)年)に日本プロレタリア芸術連盟へ加入し、その中央委員となっていた。芥川龍之介の先見性が窺われる。

「近代風景」は大正十五(一九二六)年に白秋が創刊した詩誌。

「岡田三郎」(明治二十三(一八九〇)年~昭和二十九(一九五四)年)は小説家。博文館で『文章世界』の編集者をする傍ら、小説を発表した。当時は新興芸術派倶楽部に属した(後に私小説に転ずる)。代表作に「巴里」「伸六行状記」。

「浅原六朗」(ろくろう 明治二十八(一八九五)年~昭和五十二 (一九七七)年)は小説家。新興芸術派倶楽部の結成に参加、モダニズム文学の作家として活躍した。戦後、日本大学教授となった。代表作に「或る自殺階級者」「混血児ジヨオヂ」、童謡「てるてる坊主」などの作詞者(浅原鏡村名義)としても知られる。

「今野賢三」(いまのけんぞう 明治二十六(一八九三)年-昭和四十四(一九六九)年) は小説家。大正十(一九二一)年に郷里の秋田で小牧近江らと『種蒔く人』を創刊、後に『文芸戦線』同人となった。

「世界」は大正十五(一九二六)十一月一日に創刊された雑誌とされるが、詳細未詳。芥川龍之介の「鴉片」の初出とするデータは、昭和二十九(一九五四)年から翌年にかけて刊行された岩波書店小型版全集十九巻所収の「作品年表」によるものであって、実は宇野だけでなく、現在も現物の確認がなされていない。以上の雑誌『世界』の情報は平成十二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介全作品事典」の「鴉片」の項(吉岡由紀彦氏執筆)に拠った。

「こういう事は、大正末期の日本の文壇の現象の現れの一つ、とでも云うのであろうか。有識者の御示教を乞う。」という部分、私が馬鹿なのか、意味がよく判らない。そもそも「こういう事」とは何を指しているのか? そして、どんな「有識者」から、どんな「示教」を宇野は期待しているのか? 「こういう事」とは馬鹿な私なりに勘ぐってみると、『たかが』個人の出した詩の雑誌「近代風景」とやらや、『どこの何様が出したのかも分からない、それこそ今だって現物が見つからない、怪しげな』雑誌「世界」やらや、『天下の小説誌(と宇野も芥川も一目置く――これは既出の内容である――)「中央公論」ではない、社会主義評論に偏頗していた、所詮、綜合』雑誌に『過ぎない』「改造」やらに、天下の著名作家達がこの頃何故、気安くほいほいと小説を発表したのか、してしまったのか、私(宇野)にはとっても理解が納得出来ないね、ということか? 雑誌を小説を本分とする一流(宇野はそう表現していないが)の雑誌と、綜合雑誌や女性誌やその他の怪しげな個人誌や趣味雑誌(と宇野が思っている)を二流として見下し(やはりそう言ってはいないが、今までの部分を読めば、宇野のそうした蔑視感は一目瞭然である)敢然と区別する宇野にして、私はそういう解釈をせざるを得ないのであるが、如何か? 有識者の御示教を乞う。]

 ところで、先きに引いた、芥川が室生に宛てた手紙の中の、「陰鬱極マル力〔りき〕作」というのは、いうまでもなく、『玄鶴山房』のことである。

 その『玄鶴山房』の㈠を、芥川は、「痔猛烈に再発、昨夜呻吟して眠られず」というような状態の中で、一字、五字、一行、三行、と、苦心惨憺しながら、書いたのであろう。神経衰弱(というより、精神病)に悩〔なや〕まされながら、一字、一句、書いては消し、消しては書き、して、書きつづけたのであろう。十二月といえは、鵠沼でも、寒さ冷たさは、厳〔きび〕しかったにちがいない。寒さと冷たさは痔に大禁物である。

 されば、芥川は、二枚あまりの『玄鶴山房』の㈠を書くのに、半月以上はかかったであろう。

 ところが、その㈠だけをやっとの思いで書き上げて、昭和二年の一月二日に、田端の自宅に、帰って来た芥川は、一月早早、思いがけない災難に遭〔あ〕った。それは、ずっと前にちょっと書いたが、義兄[姉の久子の後添いの夫]の西川 豊の家が丸焼けになった事であった、その上、火事に遇う前に多額の火災保険がかけてあったために、不在中の西川に放火の嫌疑がかけられた事であった、おまけに、西川は或る偽証罪のために執行猶予中の身であった、さて、その西川が鉄道自殺をしていたのが分〔わ〕かった事であった。

 極度の神経衰弱(というより、殆んど精神病)にかかっていた芥川には、このような事件は、精神的にも、物質的にも、大変な打撃であった。それは、たびたび云うように、大正十五年の中頃から、芥川は、神経衰弱を通〔とお〕り越して、しばしば精神病者のようになりながら、まったく正気は失わなかった、それどころか、芥川の頭は、時に、精神病者だけが持つ、鋭さになり、異様に冴えることさえあった。

 僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映〔うつ〕つた雪解〔ゆきど〕けの道をせつせと姉の家へ歩いて行つた。道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませてゐた。のみならずどれも一本〔いつぽん〕ごとに丁度〔ちやうど〕僕等人間のやうに前や後〔うし〕ろを具〔そな〕へてゐた。それも亦僕には不快よりも恐怖に近いものを運〔はこ〕んで来た。僕はダンテの地獄の中にある、樹木になつた魂〔たましひ〕を思ひ出し、ビルデイングばかり並〔なら〕んでゐる電車線路の向〔むか〕うを歩〔ある〕くことにした。しかしそこも一町〔ちやう〕とは無事に歩くことは出来なかつた。

 これは、『歯車』の中の『復讐』の中〔うち〕の一節であるから、創作と見成〔みな〕すべきであるが、昭和二年三月二十七日の作であるから、死ぬ四箇月〔かげつ〕ほど前に、書いたものである。

 ところで、この文章の初めの方の姉を、芥川の姉の久子と見なすと、芥川は、義兄の西川が自殺したために、忽ち、寡婦になった姉の一家の面倒を見なければならぬ事になった。それで、ずっと前に引いた葉書の文面でもわかるように、芥川は、一月の九日から十五日頃までの間〔あいだ〕に、どの友人に出した葉書の中にも、唯、簡単に、「東奔西走中」と書いているけれど、それは、火災のために殆んど丸裸になった一家の後始末〔あとしまつ〕の事であったから、並大抵〔なみたいてい〕の事ではなかった、殊に病人の芥川には。

……唯今姉の家の後始末の為〔ため〕、多用で弱つてゐる。しかも何〔なに〕か書かねばならず。頭の中はコントンとしてゐる。火災保険、生命保険、高利の金などの問題がからまるのだからやり切れない。神経衰弱癒るの時なし。   [昭和二年一月三十日、佐佐木茂索宛て]

……まだ姉の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の為に弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さんがやめたのは気の毒だね。余は拝眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。   [昭和二年一月三十日、宇野浩二宛て]

 右の、佐佐木あての手紙の中の「何か書かねはならず、」も、宇野あての手紙の中の「何か書いてゐる始末だ、」も、共に、『玄鶴山房』のことである。おなじ日に書いた手紙でありながら、一〔ひと〕つは「書かねばならず、」と云い、他は「書いてゐる始末」と述べている事など、誰あての手紙の中にも、『神経衰弱』を、まるで売り物のように、書きながら、昔ながらの、芥川である。

 ここで、やはり、『玄鶴山房』に関係のある書翰がまだ外〔ほか〕にあるかもしれない、と思って、念のために、改めて、書翰集の大正十五年の十二月のところを、くりかえし、くりかえし、丹念に読んでみた。すると、十二月三日に、佐佐木に宛てた葉書の中に、

……僕は暗タンたる小説を書いてゐる。中々出来ない。十二三枚書いてへたばつてしまつた。

というのがあった。

 この「暗タンたる小説」というのは、どうも、『玄鶴山房』らしい。そうして、これが、もし、『玄鶴山房』とすれば、後〔のち〕に書きなおしたとしても、芥川は、大正十五年の十二月三日に、『玄鶴山房』を、三分の一ぐらい、書いた訳である。しかし、その翌日、(つまり、十二月四日、)斎藤茂吉に宛てた手紙の中に、芥川は、次ぎのような事を、書いている。

……オピアム毎日服用致し居り、更に便秘すれば下剤をも用ひ居り、なほ又その為〔ため〕に痔が起れば座薬を用ひ居ります。中々楽ではありません。しかし毎日何か書いて居ります。小穴君曰〔いはく〕この頃神経衰弱が伝染して仕事が出来ない。僕曰〔いはく〕僕は仕事をしてゐる。小穴君曰、そんな死にもの狂ひミタイなものと一しよになるものか。但し僕のは確なものは出来さうもありません。少くとも陰鬱なものしか書けぬことは事実であります。……

 こういう事を書いた手紙を斎藤茂吉に出した翌日、(つまり、十二月五日、)芥川は、室生に宛てた手紙の中に、先きに引いた、「僕ハ陰鬱極マルカ作ヲ書イテヰル、」という文句を書いている。

 さて、この、佐佐木あての葉書の中の、「暗タンたる小説」というのも、斎藤あての手紙の中の、「陰鬱なもの」というのも、室生あての手紙の中の、「陰鬱極マルカ作」というのも、結局、『玄鶴山房』のことである。

 それから、十二月の、三日、四日、五日、とつづけて佐佐木と斎藤と室生とに「暗タンたる小説を書いてゐる、」「少くとも陰鬱なものしか書けぬ、」「陰鬱極マルカ作ヲ書イテヰル、」と、同じような事を報告しているのを見ると、芥川が如何に『玄鶴山房』に乗り気になっていたかが分〔わ〕かり、ありふれた言葉であるが、悲壮な気がする。

 それから、誰に出す便〔たよ〕りの中にも、「暗澹」とか、「陰鬱」とか、いう言葉を入れているように、芥川は、『玄鶴山房』で、限りなく暗澹たる、陰鬱極まる、小説を書こう、と志〔こころざ〕したのである。

 そうして、それには、力作をしなければならぬ、と覚悟した。『力作』とは、いうまでもなく、「力をこめて製作すること」である。

 その頃の、たびたび云うが、幾つかの重い病気にかかっていた芥川は、力作をするためには必死の努力をしなければならなかった。そうして、芥川は、必死の努力をしたのであった。されば、その有り様を見た小穴には、死に物ぐるいのように見えたのである。『死物狂〔しにものぐるい〕』とは、「死ぬる覚悟をして狂うがように働く、」という程の意味である。

[やぶちゃん注:現在の年譜的事実によれば(鷺及び宮坂年譜を参考にして関連のありそうな部分を纏めてみた)、「玄鶴山房」の脱稿の経緯は以下のようになる(リンク先は総て私の電子テクスト)。

十二月 三日 「玄鶴山房」は十二・三枚まで進んだが、そこで停滞。宇野の引く「暗タンたる小説を書いてゐる」という佐佐木宛書簡を書く。

一二月 四日 「僕は」を脱稿。宇野が引用した斎藤宛「オピアム毎日服用」の書簡を書く。

一二月 五日 先に宇野が引いた中野重治に言及する室生宛書簡を書く。

一二月 九日 漱石忌。「彼 第二」を脱稿。小穴によれば、この日を自殺決行日と考えていたこともあるとする。

一二月 十日 「或社会主義者」脱稿。

一二月一一日 痔と不眠に苦しむ。

一二月一三日 宇野が引いた「アヘンエキス二週間分」の書簡を書く。夕刻、鵠沼から田端へ戻り、原稿執筆を続ける(恐らく「玄鶴山房」)。

一二月一六日 この日に予定していた「玄鶴山房」の脱稿が出来ず、二月号への掲載延期を中央公論社に申し入れる。そこでどのような交渉が行われたかは分からないが、結局、この日の直近で「玄鶴山房」の「一」と「二」を脱稿している。

一二月二〇日 佐佐木らと赤倉へスキーに行く予定であったが、「玄鶴山房」執筆遅滞のため、中止する。

一二月二二日 午後八時頃、下島勲とともに鵠沼に帰る。

一二月二五日 大正天皇崩御、皇太子裕仁親王(昭和天皇)践祚、昭和に改元。宇野が引いた「くたばつてしまへと思ふ事がある」という滝井孝作宛書簡を書く。芥川龍之介随筆集『梅・馬・鶯』が新潮社から刊行される。

一二月二七日 妻文、正月準備のために田端に戻る。代わりに(自殺願望を持つ龍之介を監視する意味があったと思われる)葛巻義敏が鵠沼へ来る。

十二月三一日 鎌倉小町園へ行く(所謂、宇野の言う「短い家出」である。なお、鵠沼の借家は翌年の三月まで借りていたものの、これ以降は鵠沼には殆んど滞在しなかった)。

 一月 一日 鎌倉小町園に居続けする。「玄鶴山房」の「一」と「二」、『中央公論』に掲載される。

 一月 二日 鵠沼に立ち寄った後、夜、田端に帰還する。

 一月 三日 嘔吐する。下島来診。

 一月 四日 西川豊宅全焼。西川には放火の嫌疑がかかり、取り調べを受ける。

 一月 六日 午後六時五十分頃、西川、鉄道自殺。なお、芥川龍之介はこの頃から、平松麻素子の口利きで帝国ホテルに執筆用の部屋を借りている。後の自殺未遂もここで起きた。

 一月一六日 『中央公論』二月号に掲載を延引して貰った「玄鶴山房」の後半を執筆するが、義兄西川の事件で脱稿出来ない(この日が脱稿予定日であったか)。

 一月一九日 下島の他、友人一人が来訪するが、二人の前で「玄鶴山房」の推敲を続け、遂に「玄鶴山房」を脱稿する。]

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