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2012/05/12

ブログ記事4000記念 鎌倉攬勝考卷之一 鎌倉總説

2005年7月5日のブログ開始より、この記事で4000となる。

本日より作業を始動した「鎌倉攬勝考卷之一」の電子テクスト化の「鎌倉總説」の部分を先程完成したので、それを記念してブログでプレ公開する。冒頭注も附した。

言っておくが、僕の作業はそれなりに真剣だ。以下のテクストだけで今日半日を費やした――僕は誰が何と言おうと暇じゃ、ない――これが僕の今の「野人の生態」なのである――

鎌倉攬勝考卷之一

[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考」は幕末の文政十二(一八二九)年に植田孟縉(うえだもうしん)によって編せられた鎌倉地誌である。全十一巻(本篇九巻と附録二巻)。植田孟縉(宝暦七(一七五八)年~天保十四(一八四四)年)は本名植田十兵衛元紳、八王子千人同心組頭、本書序文には八王子戍兵学校校長ともある。「新編武蔵風土記稿」「新編相模国風土記稿」地誌編纂作業に深く関わった知見を生かして文政六(一八二三)年には多摩郡を中心とする「武蔵名勝図会」を著して昌平黌の林述斎に献上している。全体に「新編鎌倉志」(リンク先は私の電子テクストの「卷之一」)を意識しながら、その補完を常に意図しており、その文章の読み易さからも優れた鎌倉案内記と言える。特に個々のやぐらの絵なども描かれており、今は失われた往古の形状を偲ばせるよすがとなっている。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。底本では各項目の解説部分が一字下げになっているが、ブラウザでの不具合を考え、多くを無視した。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入、キャプションは私が施した。底本では殆んど行空けはないが、読み易さを考え、各項目の前後に空行を設けた。画中の本文に現われない解説も極力判読して、注でテクスト化する。句読点(特に句点)の脱落や誤りと思われる部分がしばしば見られるが、前後から私が補ったり、変更したりしてある。歴史的仮名遣の誤りも散見されるが、これはママとし、注記は附していない。踊り字「〱」等は正字に直した。疑義のある方はメールを戴ければ、確認の上、私のタイプ・ミスの場合は御連絡申し上げて訂正させて頂く。判読不明の字は「■」で示した。お分かりになる方は、是非とも御教授を乞うものである。各項目の後に私のオリジナルな注を施した。「卷九」以降(降順)の注で引用してある「吾妻鏡」は国史大系本を底本とした。既に逆順編集で第六巻から第十一巻までの電子テクスト化を終了しているが、今回の私、藪野直史の野人化を迎えて、テクスト化の順を正規に第一巻からに変更、補注も普通に行うこととした。今回より若い読者の便を考え、濁点を適宜補った。]

鎌倉攬勝考卷之一
         植田孟縉君憂編輯

[やぶちゃん注:この「憂」は「力を尽くして苦労して」の意で、出版元の献辞であろう。なお、以下の「鎌倉總説」は非常に長く、最後に語注を附しても該当箇所から大きく隔たるため、適宜、途中に挿入し、読み易くするために注の前後を改行してある。]

    鎌倉總説

夫鎌倉は相模國鎌倉郡の南寄にて、海岸の限に接せり。東海道戸塚驛より相距こと二里半許、又藤澤驛より巽に當り行程凡二里許、《地名傳説》【和名抄】に載る郡中七ケ所の郷名の内に、鎌倉を訓して加萬久良と証せり。又【字類抄】には鎌藏と出たり。郡名もまた郷名より起れる歟。偖里老の古くいひ傳ふる鎌倉といえる地名の濫觴は、昔大織冠鎌足公のいまだ鎌子と稱せし時、宿願有て鹿島もふでし給ふ。折ふし靈夢の感得に仍て、年ごろもたらせし鎌を爰の小林郷松ケ岡え塡め給しとなん。是より鎌倉の名顯れりといふ。此説は【詞林採葉抄】に載る處にて、鎌倉の二字の訓譯は【鎌倉志】に委敷出たれば玆に略す。又鎌足公の玄孫なる染屋太郎大夫時忠といふは、文武の御朝より聖武の御朝の神龜年中になる迄鎌倉に住し、東八ケ國の總追捕使にて東夷を鎭めたりといひ、又此人は良辨僧正父なりといふ。されども【元亨釋書】等には載ず、同書に良辨は百済姓と見へたり。又時忠といふは【續紀】其餘の國史に見へ侍らず、唯土人等が口碑に傳ふるのみ。按ずるに【採葉抄】は藤澤山の沙門由阿といえるが貞治の頃にかきたるものなれば、今よりは昔なれど、大化白雉の上古に此すれば貞治のせは遙に後世とやいふべけれ。何れのものに出たる、其引書も見えず。文武の御朝の頃、鎌足公の玄孫染屋太郎大夫時忠といふは系圖にも載せず、其頃名乘し姓名にもあらず、總追捕使などいふ官名も上古はなくて、右大將家を初とする歟。
[やぶちゃん注:「詞林採葉抄」は「詞林采葉抄」が正しく、南北朝時代の僧、釈由阿(ゆうあ)が貞治年間(一三六二年~一三六七年)に著したとされる「万葉集」注釈書。彼の居た「藤澤山」とは藤沢山清浄光寺、遊行寺のことである。]
偖其後上總介平直方も鎌倉に家居したる由を傳ふれど、直方、時方が舊跡の傳へも聞ず。源賴義朝臣はじめ相模守に任じ給ひ、當國大住郡國府の廳に下向せられし時に、直方の女を迎ひ給ひて義家朝臣などを儲給ふ。其のち右大將家いまだ伊豆の北條に謫居の頃より、直方が五代の孫時政婿に成給ひ、鎌倉に覇業を興し給ふ。最初に先組賴義朝臣勧請し給ひし若宮の舊社を再營有て、松ケ岳に宮廟を構へ給ふ。是祖宗を崇んが爲なりと云云。是もまた宿緣の報應、不思議の事にぞありける。【海道記】にいふ、[源光行が記ともいひ、又は加茂の長明が記なりともいふ。]鎌倉相模國は下界の鹿混苑、天朝の築垣州なり。武将の林をなす。萬榮の花萬にひらけ、勇士道にさかへたり、百歩の矢百たひあたり。弓は曉月に似たり、一張そはたちて胸をたをし、劒は秋の霜の如し、三尺たれて腰すさまし、勝鬪の一陣には爪を楯にして讎を雌伏し、猛豪手にしたかえて直に雄構す。干戈威をいつく敷して梟鳥あえてかけらす。誅戮にきひしくて虎をそれをなし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすまさり、貴賤臣妾の往還するおほく、むまやのみち隣をしめ、朝儀國務の理亂は萬緒の機かたかたに織なせる。[下略]
[やぶちゃん注:以上の引用は「海道記」(作者不詳。鴨長明説は全否定されている)の「序」からであるが、表記に多くの問題があるため、ここに限っては濁点などを打たず、底本のままに表記してある。
「鹿混苑」は多重ミスが重なっている。則ち「鹿混苑」は恐らく底本の誤植による「鹿澁苑」の誤りで、更に「海道記」原本の「鹿澁苑」は「麁澁苑」の誤りなのである。「麁澁苑」は「そじふをん(そじゅうおん)」と読み、仏説で帝釈天界にある四つの苑の一つで、仏法守護のための武備で充満している苑のことを言う。
「天朝の築垣州」も多重ミスが重なっている。これも恐らく底本の「築塩州」の誤植であり、更に「海道記」原本の「築鹽州」はただの「鹽州」とすべき誤りなのである。「鹽州」は白居易の詩「城鹽州」(鹽州に城す)の中に『自築鹽州十餘載』(鹽州に築くより十餘載)とあるのを誤って引用したものである。「天朝」は本邦で、白居易の詩の鹽州を鎌倉に擬え、更に詩と同じく鎌倉に強固なる武家の砦を築いて本邦の国防を図ったことを讃えているのである。
「萬榮の花萬にひらけ」の「後半は「花よろづにひらけ」と訓ずる。
「百歩の矢百たひあたり」私が参照している朝日新聞社昭和二十六(一九五一)年刊の日本古典全書版玉井耕助校注「海道記」では(本引用との異同が激しいので版本は異なるようであるが)、「百歩の柳ももたびあたる」とあり、頭注で「史記」に楚の養由基が百歩を隔てた柳の葉を射たことから、『鎌倉には弓の名人が多いこと』を謂うとある。
「一張そはたちて胸をたをし」日本古典全書版「海道記」では、「一張そばだちて胸を照し」とあり、「和漢朗詠集」等に基づく、『弓を胸の前に執りすゑた姿』とあるが、「たをし」「てらし」何れも私にはしっくりこない。
「三尺たれて腰すさまし」日本古典全書版「海道記」では、「三尺たれて腰すずし」。
「勝鬪の一陣には爪を楯にして讎を雌伏し」日本古典全書版「海道記」では、「勝鬪(しようとう)の一陣には爪を楯にして寇(あだ)をここに伏す」とし、頭注に『決死の接戦をするの意であろう』と解釈しておられる。
「猛豪手にしたかえて直に雄構す」日本古典全書版「海道記」では、「猛豪の三兵にしたがえて互に雄稱す」とし、頭注に「三兵」を『三種の兵器、弓・剱・槍。またそれを手にする兵卒』と注す。「雄稱」は名乗りであろう。これも底本の誤植が疑われる。
「干戈威をいつく敷して梟鳥あえてかけらす」日本古典全書版「海道記」では、「干戈、威、いつくしくして梟鳥(けうてう)敢えてかけらず」とある。その幕府の武の威力は、厳めしくして、猛禽も一向に羽ばたかぬ――反抗しようとする手強い賊衆どもも敢えて逆らおうとはしない、という意である。
「誅戮にきひしくて虎をそれをなし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすまさり、貴賤臣妾の往還するおほく、むまやのみち隣をしめ、朝儀國務の理亂は萬緒の機かたかたに織なせる」ここは日本古典全書版「海道記」では大きく異なるので、以下に改行して同箇所を示しておく。
誅戮、罪、きびしくして虎狼ながく絶えたり。この故に、一町の春の梢は東風にあふがれて惠をまし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすませり。貴賤臣妾の往還する多くの驛(うまや)の道、隣をしめ、朝儀國務の理亂は、萬緒の機、かたかたに織なす。
「一町の春の梢は東風にあふがれて惠をまし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすませり。」の部分は頭注で『一國の民は鎌倉の恩惠を受けて榮え、天下の萬民は鎌倉の恩惠に照らされて平和ににくらす。』と比喩を戻して通釈されている。「臣妾」は男女、「隣をしめ」は、往還の街道に宿場が絶え間なく続いていることをいい街道筋の、ひいては民の繁栄を象徴する。「朝儀」は、玉井氏の頭注によれば、本来は朝廷を指すが、ここでは実権を握っている幕府に転用して用いられており、以下の「朝儀國務の理亂は、萬緒の機、かたかたに織なす」は『幕府が亂を理(ヲサ)める國務は、萬端の諸政を、よくあやつつてゐる。』と訳されている。なお、次の「【東關紀行】云、……」以下の引用は「東関紀行」ではなく、同じく「海道記」の鎌倉遊覧からの引用の間違いであるので注意されたい。以下も表記に多くの問題があるため、濁点などを打たず、底本のままに表記してある。]
【東關紀行】云、[源親行が記]此ところの景趣はうみあり、山あり、水木たよりあり、廣きにもあらす。狹きにもあらす、街衢のちまたかたかたに通せり。實に此聚おなじ邑をなす、郷里都を論じて望みまつめつらしく、豪をえらひ賢をえらふ、門郭しきみをならへて地また賑えり。をりをり将軍の安居を垣間見れは、花堂高く押ひらひて翠簾の色喜氣をふくみ、朱欄妙にかまえて玉砌の石すへ光をみかく。春にあえる鶯の聲は好客堂上の花にあさけり、あしたを迎る龍蹄は參會門前の市に嘶ゆ。論ぜす本より春日山より出たれは貴光たかく照して、萬人みな膽仰して風塵をはらふ、威驗遠く誡て四方悉く聞におそると云云。
[やぶちゃん注:前注末尾に示した通り、これは「東關紀行」ではなく、「海道記」からの引用の錯誤。なお、「東関紀行」の作者源親行説は現在では否定され、作者未詳である。
「水木たよりあり」前の「うみあり、山あり」を受けて「水の趣き、木の風情」と受けたもの。
「街衢のちまたかたかたに通せり」「街衢」は「がいく」と読み、街。市街地の通路は縦横に通じている、の意。
「實に此聚おなじ邑をなす」日本古典全書版「海道記」では、「げにこれ聚をなし邑をなす」。「聚」も「邑」も人の集まり住む場所の謂い。
「郷里都を論じて望みまつめつらしく」この鎌倉の里の縦横無尽な街路とそこここに蝟集する街の様子は、京の都の整然とした条里制に比して、まずは珍しく観察された、の謂い。
「門郭」の「郭」は底本では(つちへん)が附くが、ユニ・コードで表記出来ないので、「海道記」の表記を用いた。
「しきみ」は「閾」で内外の境として門や戸口などの下に敷く横木を指す。敷居。戸閾(とじきみ)。
「玉砌」は「ぎよくせい(ぎょくせい)」と読み、原義は建物の入口にある玉で造ったような立派な石の階段であるが、転じて立派な建物や御殿の意。
「好客堂上の花にあさけり」日本古典全書版「海道記」では、「好客、堂上の花にさへづり」。一見すると、古典全書版が正しく、これが誤りのように見えが、「嘲る」という古語には「風月に心ひかれて声を上げて詩歌を吟ずる」という意があり、これだと鶯を擬人化して意を通ずる。
「あしたを迎る龍蹄は參會門前の市に嘶ゆ」「嘶ゆ」は「いばゆ」と読み、朝を迎え、幕府に出仕する幕臣の騎乗する駿馬は、その門前に集まってきて、力強く嘶いている、の意。
「論ぜす本より春日山より出たれは貴光たかく照して、萬人みな膽仰して」日本古典全書版「海道記」では、「論ぜす、もとより春日山より出たれば貴光高く照して、萬人みな膽仰(きんかう)す。」である。頭注で『今の將軍は藤原賴經(今年貞應二年には六歳)春日山は藤氏の祖先を祭る春日神社。春日の神德によつて萬人が將軍をあがめてゐることは言ふまでもない。』と訳す。「貞應二年」は西暦一二二三年で、この時、後の鎌倉幕府四代将軍頼経は未だ三寅(みとら)と称し、数え六歳であった。彼は二年後の嘉禄元(一二二五)年に元服、頼経と名乗り、正式な将軍宣下は、更に翌嘉禄二(一二二六)年のことであった。]
《四至地形》上世此地の界限は知べからず。
[やぶちゃん注:「界限」境界。]
【東鑑】に、四至とは東は六浦、南は小坪、西は描村、北は山ノ内と云云。
[やぶちゃん注:「四至」は四方の境界。以上の引用は「吾妻鏡」の元仁元(一二二四)年十二月小の以下の記事に基づく。
廿六日戊午。此間。疫癘流布。武州殊令驚給之處。被行四角四境鬼氣祭。可治對之由。陰陽權助國道申行之。謂四境者。東六浦。南小壷。西稻村。北山内云々。
廿六日戊午。此の間、疫癘流布す。武州、殊に驚かしめ給ふの處、四角四境鬼氣祭を行はれ、治對(じたい)すべきの由、陰陽權助國道、之を申し行ふ。四境と謂ふは、東は六浦(むつら)、南は小壷、西は稻村。北は山内と云々。
「治對」は「退治」=「対治」と同義。]
是ものに見へたるの始とするか。されども六浦は武藏國久良岐郡なれば朝夷奈切通を踰て若干行ば岩に地藏を彫附、是を國界の標とすれば鎌倉も又界限となれり。
[やぶちゃん注:「踰て」は「こえて」と訓ずる。]
小坪もまた三浦郡なり、其餘は疆域の唱へは今も相同しけり。地境の廣窄を總計するに東西は長く、南北は狹し。東は鼻缺地藏より稻村堺迄凡一里半許、北よりして南迄は山谿をこめて海岸に至り、最も凡一里程には過ず。土人いふ、此地は要害堅固の勝地にして、南は由比の海濱、西の方は靈山ケ崎より連山北の方へ押運らし、又は圓覺、建長兩寺の後山より鶴ケ岡のうしろ迄山峰續き、夫より東へ瑞泉寺の一覧亭へ押亘り、又朝夷奈切通の峰より名越、比企谷の方なる峰々へ連續して、小坪切通より海岸もて山峰をもて包たるが如し。其間々に切通を設て通路とす。中央に鶴ケ岡の宮殿を崇め祀りて将帥擁護の神と仰ぎ、萬代不易の勝地なるべしとて、將軍爰に基を起せしといひ傳ふ。地形前件の如く峰巒重々として連続するゆへに、おのづから所々狭隘の地有て、村落は山に挾れたる所なれば、谷々の名多く、山も高く聳へたるにもあらず。磐山の時しもなく大概は土山なり。石を切出す山あれど其石伊豆みかげと稱するより柔石なり。作事等に用ゆれば年経て廉々剝落す。土性は都て眞土にて、海溝に至れば砂利交りもあり。
[やぶちゃん注:「時しもなく」は古語としては聞かない。「時しもあれ」や「時しもこそあれ」で「折も折」、「折もあろうに」、「他の折りもあろうに、よりによってこの折りに」の意で、これはそれを誤用したものか。いわば、丘陵程度の山々が連なっているが、「よりによって」それらの山は殆どが良石が「なく」(=産せず)、土山ばかりである、の謂いである。
「伊豆みかげ」伊豆石でも硬質の安山岩系ではなく、凝灰岩系の軟質のものを言う。耐火性に優れ、軟らかいために加工がし易く、比較的軽いが、風化しやすい欠点がある。
「廉々」は「かどかど」と読み、部分部分の意。]
地打開けたる所は若宮小路邊をいふ。東は大倉邊に至り小町へ大町、亂橋迄大抵平坦なり。材木座のあたりは平夷なれども砂地なり。
[やぶちゃん注:「平夷」は「へいい」と読み、平らなこと。]
若宮小路より西の方龜ケ谷、佐介谷への入口を遮り、御輿の嶽の麓に隨ひ、甘繩より長谷邊まで、是も又平坦の陸田にして、東西凡十町許、南北は濱手を限り凡六七町許、古え鎌倉繁栄の頃は此あたり皆大名の第地にて有しならん。又山ノ内より西は離山或は粟船村、戸塚道、藤澤道邊は悉く水田の地なり。谷々に至ては田畠すくなく、當所は昔より洞窟多く、寺院又は民居の地も皆山際に亭宅を構へ、佛寺の境内は堂後の山麓或は山の中段に窟を鑿て、塋域として塔を建てるもあり。洞皆横穴ゆへ土室として菜薪又は雑具を入置もあり。民家もまた左の如し。所々田圃の後なる山際に洞窟數ケ所あるは古へ人の住せし舊跡なり。其洞窟を覘(ノゾ)き見る、田舎の方言にいふ赤ナメ、靑ナメといふ埴土なり。
[やぶちゃん注:「埴土」は「はにつち」若しくは単に「はに」、音読みして「しょくど」で、きめの細かい黄赤色の粘土。瓦や陶器の原料とする。赤土。前に出る「赤ナメ」は単に赤土のことであろうと思わる。「靑ナメ」は青粘土で、粒の細かい粘り気のある粘土で青色を呈し、湖の底等に溜まって形成されたケイ酸質粘土層で、別名モンモリロナイトと呼ぶものを指しているか。]
稀には岩窟もあり。又土人の方言に洞窟の事を矢倉と唱へ、或は某人の土ノ牢と稱するものも皆古ヘの穴倉なるべし。又名越を呼てなこやと唱へ、谷を谷(ヤツ)と號せり。鎌倉入口に切拔道七口とはいえども實は九ケ所あり、其道路の事は末に出しぬ。或は十橋、十井、五水なといふも次に出せり。是等は皆後世に至り土人が類を集て名附しものなり。古詠に鎌くら山とよみたるはすべての山をさしての事なるべし。又は鎌倉の里とよみしも定まれる地にもあらで、村民のすめるあたり、其地名の係る所爰かしこ、皆鎌倉の里なるべし。
[やぶちゃん注:以下の和歌引用部は底本では二字下げ。]
萬葉十四讀人しらぬ歌
多伎木許流(タキギコル)。可麻久良夜麻能(カマクラヤマノ)。許太流木乎(コタルキヲ)。麻都等奈我伊波婆(マツトナガイハバ)。古非都追夜安良牟(コヒツツヤアラム)。
[やぶちゃん注:「万葉集」巻第十四の第三四三三番歌。漢字仮名交りに書き直すと、
 薪伐る鎌倉山の木埀る木を松と汝が言はば戀ひつつやあらむ
で、「薪伐る」は鎌で伐るので「鎌倉山」の枕詞、「松」は「待つ」の掛詞で、
○やぶちゃん通釈
 ……鎌倉山の……あなたへの思いで……重くたるんでいる木は……松だ……そう、あなたが一言……「待つわ」って君が言ってくれたなら……そうして呉れたなら……こんなに私は恋に苦しまずにいられるのに……]
同二十防人國歌 鎌倉郡上丁丸子連多麻呂[此人が郡中に住せし人なり]
奈爾波都爾(ナニハツニ) 〔余〕曾比余曾比弖(〔ヨ〕ソヒヨソヒテ) 氣布能比夜(ケフノヒヤ) 伊田弖麻可良武(イデテマカラム) 美流波々奈之爾(ミルハハナシニ)
[やぶちゃん注:二句目の万葉仮名の頭に脱落があるので〔 〕で補った。「万葉集」巻二十四の第四三三〇番歌。漢字仮名交りに書き直すと、
 難波津に裝ひ裝ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに
この歌には、
右一首、鎌倉郡上丁丸子連多麻呂
二月七日、相模國防人部領使、守從五位下藤原朝臣宿奈麻呂進歌数八首。但拙劣歌五首者不取載載之。
という後書きがある。書き下すと、
右の一首は、鎌倉の郡(こほり)上丁丸子連多麻呂(かみつよぼろまろこのむらじおほまろ)
二月七日に、相模國(さがむのくに)防人部領使(ことりづかひ)、守(かみ)從五位下藤原朝臣宿奈麻呂(すくなまろ)の進(たてまつ)れる歌の數は八首。但、拙劣(つた)なき歌五首は取り載せず。
で、「上丁」は防人でも上級職であったことを示す。
○やぶちゃん通釈
難波津で軍装を万全に整え整えし……さあ、遂に今日は、その日旅立つ日となるか……見送ってくれる母もなしに……
因みに本歌は天平勝宝七(七五五)年に同定されている。
以下の、和歌の頭の書誌名は底本ではポイント落ち。濁音は意識的に補わなかった。またすべての和歌を一行に収めるために一部が割注のようになっている和歌があるが、無視して同ポイントで示した。]
家 集
忘れ草かりつむはかりなりけり、跡も留めぬ鎌倉の山[藤原公任]
[やぶちゃん注:この歌は「近江輿地志略」に載り、「かまくらやま」でも、比叡山山系の神蔵山(かまくらやま:神蔵寺山とも)を歌ったものとするので引用は錯誤である。]
家 集
なかめ行心の色も深からん、鎌くら山の春のはなその[慈鎭和尚]
家 集
かきくもりなどか音せぬ郭公、鎌倉山に道やまとゑ努[藤原實方朝臣]
[やぶちゃん注:この歌、
かき曇りなどか音せぬほととぎす鎌倉山に道やまどへる
で、「努」は誤植か。]
【續古今】
宮ばしらふとしく立て萬代に、今もさかふる鎌倉のさと[鎌倉右大臣]
【夫木】
昔にも立こそまされ民の戸の、烟にきはふ鎌倉の里[藤原基綱]
[やぶちゃん注:「藤原基綱」なる人物は恐らく後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)。藤原秀郷の流れを引く京の武士後藤基清の子。評定衆・引付衆。幕府内では将軍頼経の側近として、専ら実務官僚として働き、歌人としても知られた。]
御 集
十とせあまり五とせまても住なれて、なを忘られぬ鎌倉の里[宗尊親王]
[やぶちゃん注:下句は底本では「をな忘られぬ」とある。訂した。]
家 集
民もまた賑ひにけり秋の田を、かりておさむるかま倉の里[藤原實方朝臣]
[やぶちゃん注:底本「賑ひにけり」が「賑ひけり」とあるが、訂した。]
【北國紀行】
廿日過る頃鎌倉山をたどり行に、山徑の芝の戸に一宵の春のあらしを枕とせり、
 都思ふ春の夢路もうちとけず、あなかまくらの山の嵐や[堯惠法師]
【東國陣道記】
天正十八年五月十二日鎌倉を見侍りに、兼て思ひやりしにもこえてあれたるところなれば、
 古いえの跡とひ行は山人の、たき木こるてふかまくらの里[玄旨法印]
[やぶちゃん注:「東国陣道記」は、豊臣秀吉の小田原城攻略に従軍した武将で、歌人にして歌学者細川幽斎の紀行文。「玄旨法印」は幽斎の法号。]
偖此地に附たる古き文書其餘古器等も、古えのものは經歴久しき内に回祿に罹り、或は散逸せしにや更に見えざれば、往昔の事實知るべからず。右大将家の殿營の跡は禾黍の田園となり、大名の第蹟なども悉く變替し、其舊蹤もしかとわきがたく、南の御堂、二階堂、大慈寺等の大伽藍を結構し給ひしも、尋んとすれど荊棘路を遮り、其俤さえ見へずなりぬ。寺院の古刹も廢亡せしは多く、建長、圓覺の二寺は五刹の上首にて今も大刹なれど、古えに比せば猶衰廢とやいふべけれ。其他の寺堂も隨て廢し、僅に堂塔を存するのみ。唯光明寺の如きは御當家の御代となり、關東十八刹の旃檀林の班次を定められしにも、元より關東總本山とも稱すれば、紫衣檀林の上首にて是れは古へよりまされるならん。
[やぶちゃん注:「旃檀林」は「せんだんりん」と読み、全国の重点寺院(ここでは浄土宗の)を言い、「班次」は順列のこと。]
八幡宮の神廟は星霜久敷荒蕪となりしが、御打入以來御修營有て翰奐美をつくし、木鳥居を玉石に改め造られ、五ケ所ともに御造立ゆへ末代の美觀にして上世に超過せり。
[やぶちゃん注:「御打入」家康の関東入城、「翰奐」は「かんくわん(かんかん)」と読み、壮大美麗な建物。]
天喜年中、始て源賴義朝臣勧請、又義家朝臣修造せられ、又治承、建久中賴朝卿大ひなる結構有しも、年経て應永の頃より頽廢に及しを、御當家の御代に至り宮殿其餘莊嚴を加えられければ、或記にしるせし如く、舊水源すみまさりて淸流れいよいよ遺跡をうるほしけるとあるは、此事にぞありけん。
[やぶちゃん注:「天喜年中」は西暦一〇五三年から一〇五八年、「應永」は、西暦一三九四年から一四二七年、「御當家」は徳川家。]

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