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2012/05/27

耳嚢 巻之四 景淸塚の事

 景淸塚の事

 

 御代官を勤し三代已前の池田喜八郎西國支配の時、享保八年日向國に景淸の塚ありと聞て土老へ尋しに、宮崎郡下北方村沙汰寺といへるに寺の石碑をさして、是なる由申ければ、能々其碑を見るに、年經ぬると見へて苔むせしに、水鏡居士と彫付あり。喜八郎は和歌をも詠ける故、

  世々經とも曇りやはする水鏡景淸かれとすめる心は

と書付、其邊へ出役(しゆつやく)せし手代に爲持(もたせ)、右墳墓へ手向けるを、頰骨あれて怖げ成老人、何事也やと尋る故、景淸の塚と聞て和歌を手向候由申ければ、奇特成事、我等無筆也そこにて書給はるべしとて、乞(こふ)に任せて筆取ければ、

  心だにすめばかげ淸水かゞみくもらずすめる世こそ嬉しき

と言て書消て失ぬる故、其邊の草刈童に尋しに、何方の人にや不覺(おぼえざる)者の由申せしとかや。此事傳(つて)ありて武者小路公蔭聞たまひて、

  ます鏡世々にくもらぬ跡とめて景淸き名を聞くもかしこし

右實蔭の歌は明和六年の比、喜八郎次男諸星明之丞在番の節の事の由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。藤原景清(生没年不詳)は俗に悪七兵衛で知られる平家の武将。治承四(一一八〇)年に安徳天皇の滝口の武士となり、源平合戦を奮戦、壇の浦の合戦後に潜伏した後には、源頼朝に降伏して建久六(一一九五)年三月の頼朝東大寺大仏供養の日に断食して自死した(長門本「平家物語」)とも、捕縛されて鎌倉へ護送され、預けられた八田知家の邸で絶食して果てた(鎌倉の扇ヶ谷には「景清の籠」と称される岩窟がある。私の「新編鎌倉志卷之四」の「景淸籠」を参照)とも、翌建久七年の京での平知忠(知盛遺子)の乱に加わった末に行方をくらました(延慶本「平家物語」)とも伝えられる。平家残党伝説の一人として数々の説話を各地に残しており、謡曲「景清」を始めとして、後々の浄瑠璃や歌舞伎、落語に至るまで、様々な創作作品に取り上げられるトリック・スターである。本編は短い話柄の中で和歌を主体に緩急緩を見せ、更に正に謡曲の複式夢幻能を意識した構成をとったものとなっている。知られる「景清」は娘とのたまさかの邂逅を描くもので、今一本の「大仏供養」も頼朝暗殺を扱った現在能である。この話柄のような能が、あってもいい。

・「池田喜八郎」池田季隆(延宝六(一六七八)年~宝暦四(一七五四)年)。第六代将軍家宣将軍就任前から勘定役、正徳三(一七一三)年上州代官、その後、不正によって小普請に落とされるも、享保三(一七一三)年に許されて、西国筋代官に復職した模様だが、ネット上の情報によれば、享保十四(一七二九)年に、再び部下の不正により処罰を受けている(如何なる処罰内容かは不明)が、底本の鈴木氏注では宝暦元(一七五〇)年に致仕、とあるから重い処罰ではなかったものと思われる。鈴木氏は更に、『三代前とあるが、寛政当時の当主は孫の但季』であったと錯誤を指摘しておられる。

・「西國支配」底本の鈴木氏注によれば、享保三年の武鑑によれば、彼は上州の代官七人の一人で、現在の九州地方を支配していた代官は室七郎左衛門とあり、記憶違いを指摘されておられる。ネット上の情報とは大きな食い違いを示すが、私はそれを確認する資料を持ち合わせていない。どちらが正しいのか、識者の御教授を乞うものである。

・「享保八年」西暦一七二三年。以下に示した景清所縁とも言われる宮崎市生目(いきめ)神社関連のネット上の情報では、『豊後国日田の郡代』池田季隆が参拝して、本話の原歌とも思われる、

  かげ淸く照らす生目の鏡山末の世までも雲らざりけり

という歌を献納したのは、元禄二(一六八九)年三月三日とする(例えば神社探訪」という個人(御夫婦)のHPのこちらのページ)。が、元禄二(一六八九)年では池田季隆満十一歳、丸で『七人の代官』ならぬ「七人の侍」の菊千代になってしまう。この齟齬についてお分かりの方は、是非とも御教授願いたい。

・「景淸の塚」宮崎市下北方町には、現在、藤原景清廟なるものがあり、景清の墓と娘人丸の墓と伝えるものが現存する。例えば、高橋春雄氏の「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」「謡蹟めぐり 景清 かげきよ」には、『景清はこの地にきて「源氏一門の繁栄を見るに耐えず、「この拙者の健眼が敵であるぞ」と叫んで自ら両眼を抉って投げた。その地が生目であり、生目神社に祀られている』とする(ここは全国にある景清伝説の遺跡を総攬出来る、素晴らしいページである。是非、御覧あれ)。この生目神社は同市生目亀井山にあり、この神社に纏わる伝承では『頼朝は平景清の武勇を惜しんで、自分の下に重く用いたいと思った。しかし景清は、その厚意を断って、西国に流してくれるように願った。頼朝は景清』に日向国『宮崎郡北方百町、南方百町、池内村百町、計三百石を与えた。文治二年十一月、景清は家臣の大野、黒岩、高妻、松半(まつは)、山野、旧橋(ふるはし)、重長、有半(ありわ)の諸氏を引き連れて、日向に下り、下北方古城(宮崎市)に居城』、『その地に住み着いてのち、景清は深く神仏に帰依した。下北方名田(みょうだ)、帝釈寺(たいしゃくじ)、岩戸寺、浮之城、正光寺などを建立した。静かな余生を送りたいと考えたが、過去に対する追憶や後悔、源氏が勢力をふるっている現実に対する不満などのために、煩悶(はんもん)し続けた。ついにはその苦しさから逃れるために、自分の両眼をえぐって、虚空(こくう)に投げつけた。投げられた両眼は付近の生目の地(宮崎市生目)にとどまった。現在、目の神様として知られている生目神社は、その景清の両眼を祭っているといわれている』とある(先の「神社探訪」という個人(御夫婦)のHPの日向民話集の引用より)。

・「宮崎郡下北方村沙汰寺」現在の宮崎市下北方町。ここには真言宗の古城村今福寺末の神集山沙汰寺があったが、明治三(一八七〇)年に廃絶したと伝える(「角川日本地名大辞典」に拠る)。

・「世々經とも曇りやはする水鏡景淸かれとすめる心は」「景淸かれ」は「影淸かれ」の、「すめる」は「澄む」と「住む」の掛詞。また以下の歌も同様だが、ふんだんに縁語が用いられてもいる。私の勝手な通釈。

……永い年月を経るとも、曇ることがあろうか?――いや、決して、ない――ということを私は信ずる……水鏡よ……いついつまでも、清くあれ……そう願う、それが古人の美しき心を願う……私の正直な嘘のない澄んだ心にて……その心もて、この世に住まんと切(せち)に願う……

・「心だにすめばかげ淸水かゞみくもらずすめる世こそ嬉しき」私の勝手な通釈。

……身は、宇宙のあらゆるところに、自在に住みなし……心は、あるがままに、自在に澄みきっておればこそ……水鏡に映る影も、久遠(とわ)に曇ることなど――決して、ない――曇ることなく全き澄める世に……我も住んで、おることこそ……これ、我が喜び……

なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 心だにすめばかげきよ水かゞみくもらずすめるよしぞうれしき

の表記で載る。大意は変わらない。

・「書消て」底本では「書」の右に『(搔)』の傍注を附す。

・「傳(つて)」は底本のルビ。

・「武者小路公蔭」底本には右に『(ママ)』の傍注を附す。公卿・歌人であった武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ 寛文元(一六六一)年~元文三(一七三八)年)の誤記。和歌の師でもあった当時の霊元上皇の歌壇にあって代表的歌人であった。

・「ます鏡世々にくもらぬ跡とめて景淸き名を聞くもかしこし」「ます鏡」は「真澄の鏡」の約で、和歌では「清き」「影」などの枕詞で、ややひねりを加えて用いている。私の勝手な通釈。

……年月経ても、その古えの光栄は……一抹の曇りもなく、記憶に刻まれて御座る……五百年を経た今も……忠にして誠なる景清様の御名を聞くに……畏れ多くもかしこくもまこと勿体なきことにて御座ることよ……

・「明和六年」西暦一七六九年。当時、根岸は勘定組頭であったが、直ちに江戸の根岸が聴いたというはおかしいから、これはもっとずっと後に諸星明之丞から(若しくは諸星を知れる者からの伝聞で)根岸が聴いた談話であろう。

・「諸星明之丞」諸星信豊。池田喜八郎季隆の次男で、後に諸星信方養子となった。天明四(一七六七)年に大番組頭となっている(底本鈴木氏注)。大番組頭は、江戸城警備隊隊長相当の侍大将(騎馬隊指揮官)である大番頭配下の中間管理職相当の職。

・「在番」大番衆が交替制で二条城・大坂城などの勤務に当たることをいう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 景清塚の事

 

 今の池田殿の、その三代前の御代官を勤めて御座った池田喜八郎季隆殿が、西国筋支配の御代官をなさっておられた頃、享保八年のことと言う。

 季隆殿、人伝てに、日向国に景清の塚ありと聞いたによって、その地へ赴き、土地の古老に尋ねてみたところ、宮崎郡下北方村沙汰寺という寺に案内(あない)され、老人はそこに御座った石碑を指して、これで御座ると申すによって、よくよくその石碑を見るに、随分に年経たものと見えて、すっかり苔むして御座ったれど、幽かに「水鏡居士」と彫付けが御座った。喜八郎は和歌をも詠む人で御座った故、

  世に経とも曇りやはする水鏡景清かれとすめる心は

と書付けた歌を詠んで、後日、その辺りに出向くことになっておった部下の男に持たせ、かの墳墓に手向けさせんせしが、その男の眼前に、

――頬骨もすっかり枯瘦致いた、怖ろしげなる老人が一人――

忽然と現われ、

「――何事ぞ――」

との尋ね故、

「……景清の塚と聞いて、和歌を手向けておる……」

と、委細主人の趣きを申したところ、

「――それは奇特なる事――我らは無筆なるによって――そこもと――我らが代わりとして――お書き下されよ――」

と乞うによって、筆を執れば、

  心だにすめばかげきよ水鏡曇らずすめる世こそ嬉しき

と詠んだかと思うと――老人は――ふっと、かき消えてしまった――

 男は、近くで草を刈っておった童べに尋ねてみたものの、

「――どこの人や、よう、知らん――」

と答えた、とのことで御座る。……

 

 このことあって後、和歌の名家武者小路実陰(さねかげ)様が、このことをお聞き及びになられ、

  ます鏡世々に曇らぬ跡とめて景清き名を聞くもかしこし

 この実蔭様の御詠のことは、明和六年の頃、喜八郎次男諸星明之丞が、二条城に在番して御座った折りのことの由で御座った。

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