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2012/05/09

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(10)

 さて、これから書こうとする事は、芥川が死んでからの『伝説』である。

 十返舎一九が死んで、遺骸を茶毘に附すると、数道の星光が棺の中から逬〔ほとばし〕った。これは、一九が遺言して、会葬者を驚かせるために、棺の中に花火を仕掛けておく事を花火師に頼んであったからである。(ところが、この話は嘘で、これに似た話が一九の作品の中〔なか〕にあるのである。)

[やぶちゃん注:十返舎一九の荼毘花火の逸話は、出所データが不明ながら、宇野の言うような一九の作品中にあるのではなく、同時代人であった落語家初代林家正蔵(安永十・天明元(一七八一)年~天保十三(一八四二)年)のエピソードとしても知られており、実際には一九の逸話として伝えたのも正蔵であったというのが事実であるらしい。とすれば、実際には一九はやっておらず、正蔵がそうした都市伝説を高座で語り、実際に自分の葬儀でやった、というのが正しいのであろうか。識者の御教授を乞うものである。]

『伝説』とは大体こういうものであるから、私がこれから書こうと思う芥川の死後の伝説も、この一九の伝説と似たり寄ったりの物〔もの〕にちがいないから、その事を前以〔もっ〕てお断りしておく。――

 芥川が自殺しそうな心配がある、と思って、芥川の内〔うち〕の人たちは警戒していたが、殊に文子夫人は鵠沼にいる時分から夜となく昼となく警戒していた。ところが、芥川はその事を十分に知っていた。さて、七月二十四日の午前六時すこし前に、文子夫人は、芥川の寝顔が不断とちがう事を、発見した。そこで、すぐ呼ばれた下島が、さっそく飛んで来て、聴診器を耳にはさんで、「蓬頭蒼顔の唯ならぬ貌」をしている芥川の寝間著〔ねまき〕の襟をかきあけると、左の懐〔ふところ〕から西洋封筒入りの手紙がはねて出た。それを、左脇にいた夫人が、はッと叫んで、手に取った。それは遺書であった。

 やがて、下島が、「もう全〔まったく〕く絶望である、」と知って、近親その他の人びとに通知を出した頃は、午前七時を少〔すこ〕し過ぎていた。(その時分に、下島は、芥川の伯母から、「これは昨夜〔ゆうべ〕龍之介から、明日〔あした〕の朝になったら、先生にお渡〔わた〕ししてくれと頼まれました、」と云って、紙につつんだ物を、わたされた、それが例の『水涕や……』の句を書いた短冊である。)

 さて、下島は、手続きをするのにも菊池に来てもらわねばならぬ事情があるので、文藝春秋社に電話をかけさせた。そこへ、小穴がやって来た。小穴は、下島から芥川の死んだ事を聞くと、何ともいえぬ悲痛な顔をした、が、すぐ、芥川の最後の面影を写すために、縁の近くの程よい所に画架を据えた。(小穴がその木炭でその下図〔したず〕をかいていると、その画架のまわりをうろついていた長男の比呂志が、突然、心配そうに、小穴の画布をのぞいて、「絵の具、つけるの、つけないの、」と、小穴に、云った、それで、小穴が「あとで、」と答えると、比呂志は、安心したような顔をして行ってしまったが、間〔ま〕もなく、帳面とクレオンを持って、出て来たが、帳面とクレオンを持ったまま、しずかに眠っている父の枕元に、ぼんやり立っていた、という話が残っている。その時、比呂志は、かぞえ年〔どし〕、八歳であった。)

 さて、前の晩の二時頃に、芥川が、睡眠剤を飲んで、寝た、として、今朝〔けさ〕の六時すこし前に、文子夫人が、寝ている芥川が異常であるのを、知った、――と、三時、四時、五時、六時、と四時間である、「これは、」と不審に思った下島は、斎藤茂吉の睡眠剤や薬屋から取って来た薬の包み紙や日数などを、計算してみた。すると、ますます腑におちない。「そこで、奥さんや義敏君[註―芥川の姉の子、葛巻義敏]に心当〔こころあた〕りを聞いてみると、二階の机の上が怪しさうだ。すぐ上〔あが〕つて検〔しら〕べてみて、初めてその真因を摑むことが出来たのであつた、」と、下島は、書いている。

(芥川は、睡眠剤で死ねる、とは思っていなかったので、ほかの『クスリ』を用意していたのである。)

[やぶちゃん注:この下島の文章は昭和二(一九二七)年九月一日発行の『文藝春秋・芥川龍之介追悼号』に載った「芥川龍之介氏終焉の前後」からの引用である。山崎光夫氏の「藪の中の家」によれば、昭和二年八月五日の執筆年月日がクレジットされている。但し、下島はこの後にその『真因』を語っていないのである。宇野は芥川龍之介の死後、小峰病院を退院後に、以下に見るように、誰かからの伝聞によって、「ほかの『クスリ』」であるという情報を得たのであろうが(山崎氏は小島政二郎と推定しているが、私は微妙に留保したい。山崎氏が根拠として昭和三十五(一九六〇)年十二月号『小説新潮』に掲載された「芥川龍之介」の『実際、死後の彼の書斎には青酸加里が一ト罎〔びん〕あった』を挙げておられるのだが、寧ろこの部分は、その前に書かれた本宇野浩二作の「芥川龍之介」のここの叙述を下敷きにしていると考える方が自然な気がするからである)、宇野の言を俟つ前に、山崎氏が不審(というより確信)を抱くのは、下島自身が記した行動と、その文脈の最後に現れる『真因』という語の重みである。確かなことは宇野も後述するように、これはド素人であっても芥川が自死に用いた薬物が、実は現在でも公式に記されているところの睡眠剤ベロナールとジャールでは――ない――確実に死を迎えることの出来る必殺の毒物で――ある――にという、自死の『真因を摑むことが出来た』という意味でしか、読めないということである。]

 最後に僕の工夫〔くふう〕したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。   『或る旧友へ送る手記』の内

……彼女は何〔なに〕ごともなかつたやうに時々〔ときどき〕彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎渡〔ひとびんわた〕し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言つたりした。   『或阿呆の一生』の中の『死』の内

 今度こそほんとに青酸加里を手に入れたよ。一寸〔ちよつと〕、君〔きみ〕、と言つて薬屋に這入つて行つた彼を神明町の入口〔いりくち〕の角〔かど〕で其の日見た。目薬の罎よりも小さい空罎〔あきびん〕を買つて、透かしてみながら、やつとこれで入物〔いれもの〕ができたよと嬉しさうにみえてゐた。   小穴隆一の『二つの絵』の内

[やぶちゃん注:私は特に小穴の記載に着目する。それは、この証言が真実を語っているとすれば、芥川は青酸カリを裸の粉末状態で一定量入手したという事実を指しているからである。則ち、芥川龍之介が入手した際、それが入っていた容器ごと入手は出来なかったことを意味する。また、余裕のある状態なら事前に壜を用意してそれを入れるだろうから、それを入手するシチュエーションが、比較的場当たり的な状況であるか、稀なチャンスであった、だから紙包とか封筒とか家庭内にあるピル・ケースのようなものに入れざるを得なかったのではないかと私は考えるのである。なお、青酸カリは、潮解により空気中の二酸化炭素と反応して猛毒のシアン化水素(青酸ガス)を放出しながら炭酸カリウムに変化してしまう(保管するだけでも家内の者にも危険が及ぶ可能性が生ずるし、長期にわたって開放的に放置すれば毒性は容易に失われてしまう)。特に日光に当たる状態では反応が進み易いため、空気に触れず、日光に当たらないよう、飴色の密閉したガラス瓶に保管するのが普通である。]

 右の三つの文章はみな一種の作品であるけれど、下島が「初めてその真因を摑むことが出来た」と書いているのは「(つまり、下島が芥川の机の上に見つけたのは、)『青酸加里』(つまり『シャン化カリウム』⦅Cyan Kalium⦆である。いうまでもなく、この薬は、猛毒薬であるから、下島は、その『真因』を公表しなかったのであろう。

 さて、下島が文藝春秋社にかけさせた電話によれば、菊池は、雑誌「婦女界」の講演のために、水戸から宇都宮の方へまわった、と云う。それで、下島は、近親の人たちと相談して、法律の手続きを取ることにした。

 やがて、警察官が来て、検案や調査をはじめた。方方に電報を打って通知した。そのうちに、鎌倉から、久米正雄と佐佐木茂索と菅 忠雄が駈けつけた。それが午後四時頃であった。夏の日はまだ高かった。

[やぶちゃん注:ここで多くの読者は、もし、山崎氏や私が考えるように青酸カリによる自死であったなら、何故、それが司法解剖(変死体で犯罪の結果の致死の可能性が疑われる場合の死因究明のための剖検)なり行政解剖(死因の判明しない犯罪性のない異状死体への死因究明のための剖検)なりが警察の検死によってなされなかったのかを疑問視されるであろう。それは下島医師が死亡診断書を書くに当たって、警察当局に、睡眠剤の「劇薬『ベロナール』と『ジャール』等を多量に服用」(昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』)したことによる「急性心不全」(山崎氏の「藪の中の家」での死因推定)であることを語り、当時の通報を受けて芥川家を訪れた担当警部補二人が、その下島の医師証言や家族の希望などを勘案して、解剖の必要を認めないと判断したからであると考えてよい。推理小説好きの方は、それでも当時であっても、もし青酸カリの自殺だったら、それは入手経路が問題にされるはずだ、と言われるであろう。下島から、もしかするとこの時の警部補らもそれが青酸カリ自殺であることを知らされていたのかも知れない(山崎氏は真相を下島は警部補らに話していたと考えておられるようである)。しかし、この時の芥川の身内・下島・警部補らは――そしてその直後に真相を知った周辺の人々も――『真相を包みこむ文学的処理は龍之介の名誉を守る』『芥川龍之介の場合、文学こそ真実だ』――という考えで一致した、と記しておられる。私も山崎氏の推論を支持するものである。読者の中のホームズ氏は――それでも尚且つ、入手先は? と食い下がるであろう。そこは山崎氏の名推理を「藪の中の家」で堪能されたいのである。……ヒントは……龍之介の辞世の句の……「鼻の先だ」け……である……♪ふふふ♪]

(ここで、書き忘れたことを述べる。――文子夫人に宛てた遺書の中に、「絶命後は小穴君に知らせよ、」という文句があったので、さっそく小穴の所へ葛巻が走ったので、小穴が一ばん早く来た。つぎに、近くの日暮里諏訪神社前に住んでいた、久保田万太郎が飛んで来た。)
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、ここらから後は、総て宇野の実体験に基づくものではなく、総て伝聞である。宇野自身は精神病院で『死ぬか生きるかの瀬戸際』(水上勉による底本の解説)にいたのである。宇野の叙述は会葬場の配置にまで及び、驚くべき精緻を凝らすのを不審に思われる読者も居ようが、これは小穴隆一の「二つの絵」の一四一頁に載せる精密巧緻な芥川龍之介の会葬場見取り図に拠るものである。その証拠は、後文で中野重治出席の誤りが中野自身によって指摘されたとあるが、小穴のそれには、はっきりと「記録係」の位置の左端に「中野重治」と記されていることから明白である。]

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