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2012/06/30

耳嚢 巻之四 賊心の子を知る親の事

 賊心の子を知る親の事

 

 京都三條通りと哉(や)らんに商人のありしが、一人の小鬼兒を持しが、彼悴(かのせがれ)五六才の時夏の事也しが、其親へ瓜を食度(くひたき)由を申けるを、後に調(ととの)へ與(あたふ)べしといひて過しに、暫く過て瓜商人來りしを呼て直段(ねだん)を付しが、直段不調(ととのはず)して瓜商人立歸りぬ。又こそ來んといひしに、彼の五六才の小兒、唯今商人瓜を落し置しとて椽下(えんのした)より二つ取出しぬ。其親つくづくと考へて、右の小兒を責め尋しに、直段きめ合(あひ)の内に瓜二つ橡下へ立廻る振り蹴込たる由を申ける故、彼親大に驚き或は歎き或は怒りて、迚も始終親の愁をなすべき事と、稻荷祭禮の節伏見海道人群集の節、突放して不知(しらず)顏にて宿へ歸りぬ。妻には途中にて見失ひしと語りて、鐘太鼓して組合を賴み、二三日は迷子を尋、程過ぬれば夫(それ)なりにして濟(すみ)ぬ。夫より五七年も過て、扨も捨し子はいかゞ也しやと、流石恩愛の忍びがたきにや、伏見海道へまかりし序(ついで)に或茶屋へ寄りて、四五年以前に我しれる人此邊にて子を見失ひしといひし事有りしと語りければ、其子は向(むかひ)の多葉粉やに居候若衆(わかしゆ)也。よき生れ付にて多葉粉屋夫婦實子の如く育て、手跡(しゆせき)抔も書て今は人も羨む程の子也と語る故、餘所ながら是を見るに、其容儀と言(いひ)發明らしき樣子殘る所なければ、扨々殘念成事をせしと思へども今更詮方もなく、又一年も立て其近所にて樣子を聞ば、彌々評判よろしき取どりの沙汰故、頻に殘念に成りて、今や妻にも語り彼多葉粉屋へ至り名乘らんと思ひしが、五六才の時親の愁とも成らんと一度見切りしを、今更飜(ひるがへ)さんはきたなしとて打過けるが、又二三年過て彼所を通りしに、有し多葉粉屋も行方なし。先に腰懸て樣子を聞出せしみせに立寄、四方山の物語の上多葉粉屋の事を尋しに、其多葉粉屋は先に御咄申せし拾ひ子故に、今はいかゞ成けん行方も知らず、恐ろしきは彼拾ひ子、大きなる盜惡事(ぬすみあくじ)をして、親迄も迷惑の事に及びしとの咄を聞て、能(よく)こそ見限りて能も執着を放(はなち)けるといひしとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:巧妙なる詐欺団から根っからの悪党の少年へ悪事連関。今回の訳は、今までのような根岸の語りを意識した、「御座る」調のくだくだしい感じに少し飽きたので(以降ではまた戻ると思うが)、全体に禁欲的でドライな訳文にしてみた。なお会話文ではやや京都弁染みたものを用いたが、私は京都弁をよく知らないので、心内語はほぼ標準語に統一した。

・「食度(くひたき)」底本は『(くはせたき)』とルビを振るが、訂した。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『くいたき』とある。

・「立廻る振り蹴込たる」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『立廻る振りして蹴込たる』とある。こちらを採る。

・「稻荷祭禮の節」伏見稲荷大社の稲荷祭。特にこれは一連の稲荷祭りの中でもその初日に当たる、神幸祭若しくは稲荷のお出(いで)と呼ばれる祭りを指すものと思われる。陰暦三月の中の午の日(二番目の午の日)に行われた(現在は四月二十日の最寄の日曜日に行われている)。なお、三条通りから伏見稲荷へは南北直線距離最短でも五キロ弱離れる。

・「今更飜(ひるがへ)さんは」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『今更帰さんは』とあるが、本書の方が、父の台詞としてはよい。本書でも実は「飜(かへ)さんは」と訓じている可能性もあるが、私は文字通り、父親が心を飜す、翻意する、の意で採った。

・「能(よく)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 生来の賊心を持った子を見抜いた親の事

 

 京都三条通りとかに、とある商人があった。彼には一人の子があったが、この悴が五、六歳の時の、夏のことであった。その子が父に、

「瓜、食(た)べたい。」

と言うので、

「後で買(こ)うてやるさかい。」

と言い紛らかしておいた。

 その日、暫くして、たまたま瓜売りが通り掛ったのを幸い、家内に呼び入れて値を訊いたが、これが如何にも高い。さんざん値引きを求めたものの、結局、折り合いつかず、買わずに帰した。子には、

「また、直きに他(ほか)のもんが売りに来はるて。」

と言い訳した。

 ところが、かの五、六歳の子供は、

「……さっき、瓜売りが落といていかはった……」

と言いながら、縁の下より瓜を二つ、取り出だす。

 父は黙って暫く考えていたが、結局、子をきつく問い糺いたところ、最後には如何にも厭そうに、見たこともない悪しき眼つきにて、それも平然と、

「……値(ねえ)をあれこれしとる間(ま)に、瓜売りのそばで、遊んでおるふりして、ぽんと、瓜二つ、あんじょう、縁の下へ蹴り込んだんや。……」

と、嘯(うそぶ)く。……

……その聊かも悪びれる様子もない獰悪(どうあく)の眼(まなこ)に、父は大いに驚き、歎き、怒った。

……そうして……

『……さても、この子は、我ら親の、永き愁いともなろうほどに……』

と、心底、感じる自分に気づいていた。……

 

 翌年、三月の中の午の、伏見稲荷の祭礼の日、父は、かの悴を連れて祭り見物に出掛けた。

 伏見街道には稲荷のお出(いで)での参詣人でごった返していた。

 父はその人混みの中へ――

――子を

――突き放した

――そうして

――素知らぬ顔をして

――そのまま家へ帰った。……

 妻へは、

「……伏見からの帰るさに、はぐれてしもた……」

と悲痛な思いで――を演じて――語り――二、三日の間は、そうした折りの定石通り、人を集めては鉦・太鼓を叩いて迷子捜しに奔走した――振りをした――。しかし、不幸にして――いや、彼には幸いにして――見つかることなく、妻へは神隠しに逢ったと諦めよ――と如何にもな諭しを入れ、それで――仕舞い――となった。

 

 それから五年か七年も過ぎた頃、

「……さても……捨てた子(こお)は……どないしとるやろ……」

と――かくも非情の仕儀を講じた父も――流石に恩愛の情の忍び難かったものか――ある日のこと、所用で伏見街道へ参ったついでに、とある茶屋へ立ち寄って、店の者と四方山話をしつつ、それとなく、

「……四、五年ほど前のこと、我の知れる御仁が、この辺りで己が悴とはぐれてしもうたことがおますが……」

と水を向けると、

「……そら、向かいの煙草屋におらはる、若衆のことやおまへんか?! なかなか、かわらしい子(こお)で、煙草屋の夫婦(みょーと)が実の子のように育てて、読み書きもえろう巧(うも)うての! 今は近隣にても、誰(たれ)も羨むほどの子(こお)でおます。……」

と語る。

「……いや……その子(こお)とは……様子が違いますな……」

と言い紛らして、茶屋を出でて、立ち去る振りをした。

 そうして、暫く経ってから戻ると、物蔭より、そうっと煙草屋の方を覗いてみた。……すると……

……その端正な容貌といい……

……利発そうな雰囲気といい……

……最早、かの日の――邪眼の――面影は、これ、微塵も残してはおらなかった。……

『……さてもさてッ!……残念なことを、してしもうた!……』

と思ったが、今更、詮方もなかった。――

 

 また、一年が経った。

 また、かの近所にて、それとなく、かの悴の様子を訊く。――と――いよいよ評判よろしく、聴くことは皆、これ、何もかもが――褒め言葉に続く褒め言葉ばかり――であった。――

 これを聴くに至って――父は、流石に深く、慙愧の念に襲われた。

『……かくなる上は……妻にも総てを打ち明け……かの煙草屋へと参って……親の名乗り、しょうか……』

と、思ったのだが、

『……五、六歳の時、親の愁いともならんと……一度は見切りをつけて沿道に棄てたものを……今更、子知らずの、かの非道の思いと行いを……都合よう、翻して……返してくれと言うは……これは……汚ない!!……』

と、またしても、何もせず、うち過ぎた。――

 

 かくしてまた、二、三年が過ぎた。

 男がまた、かの伏見街道を通った。

 そこにあったはずの――煙草屋が――ない――。

 四、五年前、最初に床几に腰懸けて様子を訊き出した、あの煙草屋の正面にあった、かの茶屋へ立ち寄って、あの折りと同じ店の者と、又しても四方山話をしつつ、それとなく、なくなった向かいの煙草屋の話に水を向けると、

「……あの煙草屋は、ほうれ、ずうと前(せん)にお話し致しました、あの拾い子のため……今はどないしてはるやろ……一家離散して、行方も知れんようになりましたんや……ああ、恐ろしゅうおすは、かの拾い子……よう言わん盗みや悪事を働き……親御はんともども……仕置きを受くる羽目になりはったんやそうどす……」

と語った。――

「……矢張り……さればこそ……よくこそ……あの時……かの者、きっぱりと、見限ったわ!……よくこそ……あの時……恩愛の執心、美事、見放いたわ!……」

と父は一人ごちた、とか言うことである。

2012/06/29

生物學講話 丘淺次郎 二 進んで求めるもの(一)

本段はやや長く、挿絵も多いので分割して公開する。



     二 進んで求めるもの

 

 大抵の動物は自身に進んで餌を求めるものであるから、この組の中には食物の種類も之を取る方法も實に千態萬狀で、到底之を述べ盡す遑はない。植物を食ふものもあれば動物を食ふものもあり、同じく植物を食ふといふ中にも、葉を食ふもの、根を囓るもの、果實を食ふもの、芽を啄むもの、花の蜜を吸ふもの、幹の心を嚙むものなどがあり、大きな餌を一部づつ食ふものもあれば、小さな餌を多く集めて一度に丸呑みにするものもある。而していづれの場合に於ても動物の口の形、齒の構造などを見れば、各々、その食物の食ひ方によく適して居る。進んで餌を求める動物の餌の取り方を殘らず列擧することは勿論出來ぬから、ここには、たゞその中から多少常と異なつたと思はれるもの數種を掲げるに止める。

[やぶちゃん注:「遑」は「いとま」と読み、「暇」に同じ。]


Namakemono

[なまけもの]

 南アメリカの森林に住む「なまけもの」といふ小犬位の大きさの獸は常に緑葉を食物としているが、四肢ともに指の先には三日月狀に曲つたた大きな爪があつて、之を樹の枝に懸け、背を下に向けてぶら下がりながら木の棄を食つて居る。木の葉は近い處に幾らでもあつて、決して遠方まで探しに行く必要がなく、且繁つた森林では隣れる樹の枝と枝とが相觸れて居るから、次の樹に移るに當つても態々地面まで降りるには及ばぬ。それ故、この獸は生まれてから死ぬまで樹の枝からぶら下つて生活して、一度も地上へ降りて來ることはない。猿などが樹の枝を握つて居るのは、指を屈げる筋肉の働きによること故、死ねば指の力がなくなり枝を握ることも出來なくなるが、「なまけもの」は曲つた爪を枝に掛けて居るのであるから、死んでもぶら下つたまゝで決して落ちて來ない。眠るときにも無論そのまゝである。

[やぶちゃん注:「なまけもの」哺乳綱異節上目有毛目ナマケモノ亜目ミユビナマケモノ科 Bradypodidae 及び フタユビナマケモノ科 Megalonychidae に属する二科五種。一日の主食の植物の摂取量は約八グラムと、基礎代謝量が極端に低いため、外気温に合わせて体温を変える、哺乳類では珍しい変温動物である。天敵はワシでワシの主採餌の三分の一はナマケモノが占めるという(以上はウィキの「ナマケモノ」に拠った)。]

Senzannkou

[穿山甲]

 アフリカアジヤの熱帶地方から臺灣にかけて穿山甲といふ奇妙な獸が居る。この獸は尾が太くて全身大きな堅い鱗で被はれて居るから、昔の本草の書物には陸鯉などと名をつけて魚類の中に入れてあるが、腹側を見れば普通の獸類と同じく一面に毛がはえて居る。常に蟻の巣を掘つて蟻を食つて居るが、そのため前足の爪は特に太くて鋭い。また舌は蚯蚓のやうな形で非常に長く、且頸の内にある唾腺から出る極めて粘つた唾液は恰も黐(とりもち)を附けた如くによく粘著する。蟻や白蟻の巣は熱帶地方には隨分大きなのがあつて、一つ掘れば何十萬も何百萬も蟻が出るが、之を忽ち嘗めて食ふにはかやうな舌は最も重寶であらう。

[やぶちゃん注:「穿山甲」哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科Pholidota Weber。背面と尾と四足(裏面を除く)が硬い鱗様の松毬(まつぼっくり)状を呈する角質(体毛に由来する)に覆われている。全体的な姿は、南米の哺乳綱獣亜綱異節上目被甲目 Cingulata Illiger アルマジロに似るが、アルマジロの鱗片が単なる装甲機能しか持たないのに対し、センザンコウの鱗片は縁の部分が薄く鋭く固くなっており、防衛のために丸くなった際には、この鱗が突き立てられ、特にその尾部を振り回して積極的に相手への攻撃も行うことが知られている。なお、講談社学術文庫版で「穿山甲(ありくい)」とするが、( )は編集部による『現在慣用されているもの』ということなのだが、現在の生物学的知見では誤った補注である。確かに古くは食性や形態が哺乳綱異節上目有毛目アリクイ亜目アリクイ Vermilingua Illiger に似ていることからアリクイ目(異節目・貧歯目)に分類されてはいたが、名前は現在もセンザンコウであり、更には体の構造が異なることから、現在は別の目として独立している。参考にしたウィキの「センザンコウ」によれば、このローラシア獣上目センザンコウ目は『意外にもネコ目(食肉目)に最も近い動物群であることは、従来の化石研究でも知られていたが、近年の遺伝子研究に基づく新しい系統モデルでも』、ローラシア獣上目の獣類(Laurasiatheria:ローラシアテリア。哺乳類真獣下綱の現生有胎盤類の四つの下位タクソンの一つ。)の一つとして、ネコ目(特に同系統と目されている)・ウマ目(奇蹄目)・コウモリ目の近縁グループとされている。

「昔の本草の書物には陸鯉などと名をつけて魚類のなかに入れてある」本邦でも寺島良安は「鯪鯉」を「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」に入れて、ご丁寧に、『本朝にも九州の深山の大谷の中に、鯪鯉、希れに之有り。』『俗に云ふ、波牟左介(はんざけ)。』と記す。これは勿論、ハンザキ=両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ Andrias japonicas とセンザンコウを誤認したものである。但し、センザンコウを「本草綱目」の記載や杜撰な図でしか見たことのない良安先生が、類似生物をハンザキとしたのは無理からぬことと思うし、寧ろ、良安先生が魚類とせずに、爬虫類としたところを評価すべきであろう。]

耳嚢 巻之四 金子かたり取し者の事

全然関係ない話だが、明日、記事を書くと(最大の記事99日を越える結果)、このブログ・トップ・ページからは「教師」としての僕の書き込みが消えることになる。――感慨は――ある――



 金子かたり取し者の事

 

 番町邊と哉らん、須藤文左衞門とかいひし、武家などの仕送り用人をしてなま才覺の男有しが、去年とか去々年(をととし)とか師走の廿五六日に、金子貮拾兩かたりとられ、今に其無念を散ぜんと所々心掛て尋歩行(たづねありく)由、我が元へ來る人の語りける故、其子細を尋問しに、右文左衞門、池の端の料理茶屋とか又は藥屋とかへよりて休みしに、人品尤らしき老僧これも腰を懸て休居(やすみゐ)たりしが、文左衞門へ向ひ相應の挨拶して世上の咄などせし上、文左衞門が仕送りなどするといへる咄しを聞き、我等知る人に、多分も無之(これなし)といへども金子五六百兩、丈夫成(なる)處へ貸し附申度(つけまうしたく)、利分は五分位にて利安にいたし可申迚(まうすべしとて)賴まれぬれど、先方を氣遣ひ丈夫の處に無之(これなく)候ては世話も難成と咄しけるを文左衞門聞て大に喜び、何卒借出し相(あひ)ならば、此節の事ゆへ丈夫に御世話可申とて賴ければ、老僧も喜び候躰(てい)にて、左候はゞ明日金主へ引合せ可申(まうすべき)間此茶屋へ來給へ、某(それがし)は何寺と申(まうす)小寺の住職也と語りけるゆへ、酒抔呑て暫く咄合(はなしあひ)の上、金子は右の通至(とほりいたつ)て丈夫成所を第一にし氣遣ひ被申候(まうされさふらふ)間、其手段なくては安堵いたすまじ、不思議に御身と昨日よりの知る人なれ共、數年の馴染の趣に金主へは可申談(まうしだんずべく)、金銀の取遣(とりや)りも今始てのふりに無之(これなく)、不斷取(とり)やりいたし候樣に仕成(しなし)可申、御身も金子二三十兩程持參あれ、我等より用立候を返し被申候殊(まうされさふらふこと)に致(いたし)、則(すなはち)御身の證文を返すなど、彼金主の前にて取引を致し見せ可申と、かたく約束して立別れしが、文左衞門は能き才覺出來しと、翌日早々彼茶屋へ至りければ、未(いまだ)右出家は不來(きたらず)、茶屋にては右出家申付候由にて、精進料理を取交(とりまぜ)何か急度(きつと)したる獻立などして待(まつ)由なれば、文左衞門も暫(しばらく)待居たりしが、彼出家昨日に彌增(いやまし)に立派の裝束をして、隱居躰(てい)の禪門勿躰(もったい)ら敷(しき)侍兩人同道にて來り、酒など出し料理抔も丁寧に出して、扨御咄の人に引合可申由にて文左衞門を引合、右は兄弟同樣の數年の馴染にて、丈夫成(なる)所は我等同樣に思召るべしと彼禪門侍へ申談(まうしだんじ)、盃など取遣りして彼禪門文左衞門に向ひて、老僧の御世話故相違もあるまじ、金子の儀は千兩程は御用立(だつ)べし、去(さり)ながら利分も安く可致(いたすべく)候へ共、間違候ては申分難成(まうしわけなりがたき)筋も候と語りし故、文左衞門も色々辯を振ひ、丈夫ら敷(しき)事申並(まうしなら)べけるに、老僧も文左衞門も數年私とは金子の取遣りもいたし、いかにも丈夫の所は受合候事也、既に文左衞門より今日も金子取遣いたし候といへる故、文左衞門も懷中より金子を出し、先達ての金子三拾兩今日取上(とりあげ)候趣にて老僧へ渡せば、則(すなはち)懷中より手形を取出し文左衞門へ渡し、ケ樣(かやう)の事に候間御案じ被成間敷(なされまじ)と申ければ、禪門も侍も大に悦び候躰(てい)にて、右千金にても五百金にても明日手形等丈夫にいたし、禪門の宅は深川何所(どこそこ)にて候間御越可有之(おこしこれあるべし)と念に念を入、酒數獻(すこん)に及びて文左衞門餘程沈醉の折から、禪門も侍も立歸りぬる躰(てい)故、風與(ふと)文左衝門心附て老僧を宿の亭主へ尋ければ、是も今少し已前立歸りぬ、今日の仕出し入用何程(いかほど)は文左衞門より可拂(はらふべし)と被申置候(まうしおかれし)由故、大に驚きながらよもや僞もあるまじと彼是(かれこれ)渡り合(あひ)、茶屋の入用をも拂ひて、さて翌日右禪門の宅深川を尋しに、右躰(てい)の名前も無之(これなく)、老僧の寺所は暫隔(しばらくへだつ)る所なれども、前々日書付等に致し渡しぬる故、飛脚を立て問合(とひあは)すれど左樣の寺は無之(これなき)由故、文左衞門足摺(あしずり)して無念骨髓に徹し、三人の内何れか不捕(とらへざる)事は有べからずと、今以(もつて)尋るよし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:神隠しの少女の家は番町、本話の詐欺にひっかかる主人公も番町辺りに住まい、地所繋がり。それにしても共犯三人(もしかすると主人公の用人について調べ上げるための登場しない詐欺団の探索方もいるかも知れない)のその衣裳から筋立てに至るまで、興行二日の巧妙な劇場型詐欺である。綿密な計画なしには無理で、酒に軽い眠り薬なんども仕込まれたかも知れぬ。「オレオレ詐欺」なんぞより手が込んでいて、欺される須藤文左衛門なる主人公が如何にも成り上がりの厭らしさを感じさせ、同情も生じず、不謹慎乍ら、極めて面白いダマしなのだ。僕は差し詰め、この禪門辺りを演(や)りたいね!

・「仕送り用人」財政担当の用人。武士である。

・「なま才覺」猿知恵。なまじ(中途半端で軽薄なこと)の才覚の略。

・「池の端の料理茶屋とか又は藥屋とかへ」の「藥屋」は不審。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『池の端料理茶屋とか又茶屋とかへ』で、こちらを採る。

・「不思議に御身と昨日よりの知る人なれ共」「昨日」はママ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『きのふ』。訳では「今日」とした。

・「急度(きつと)したる獻立」ルビは底本のもの。立派な、精進料理の定式に則った献立。

・「禪門」俗人のままで剃髪し仏門に入った男子を言う。「禅定門」「入道」に同じい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 金子を騙り取った者どもの事

 

 番町辺りに住んでおるらしい須藤文左衛門とか申す、武家なんどの仕送り用人を務めて御座った、生半可な才覚のくせに、それに驕って御座った男があった。

 去年で御座ったか――いや、一昨年で御座ったやも知れぬ――ある年の師走の二十五、六日のこと、金子二十両を騙(だま)し取られて、その怒り、冷めやらず、今にきっと、その無念を晴らさんものと、あちこちを執拗(しゅうね)く尋ね歩いておる由――我が元へしばしば参る御仁が語った故、その子細を尋ねたところ――

 

……この文左衛門、ある時、池の端の茶屋だか料理茶屋だかへ立ち寄って休んで御座った折りから、人品卑しからぬ老僧が一人、やはり、彼のそばに腰かけて休んでおった。文左衛門に、相応の僧侶らしい挨拶を致いて世間話なんど致いた上、彼が仕送り用人をしておるという話を聞くと、その老僧、徐ろに、

「……我らの知れる御仁に……まあ、大した額にては御座らねど……金子五、六百両ほどを……しっかりとした心配なきところに貸し付け致したき由にて……利率は五分程度の割安にてよきに計ろうて欲しい……とのことにて……拙僧に適当なる相手を捜いて呉れようと頼まれて御座ったれど……その御仁、特に取り引き相手の素性を……その……気に致いて御座っての……ともかくも、しっかりとした心配なきところにて御座らねば、うっかり世話も致しかぬるので御座るのじゃ……」

と話す。これを聴いた文左衛門は、大いに喜んで、

「なにとぞ!――もし、それ、拙者へ貸し出だいて下さらば――昨今の拙者の仕送りのこれこれの実績から推して頂きましても――しっかりと全く心配なきよう、お世話申し上ぐること、御約束致しましょう! どうか、一つ!」

と懇請すれば、老僧も喜べる体(てい)にて、

「そうとなれば、明日にでも早速、金主(かねぬし)へ引き合わせ致しますれば、この茶屋へお越し下されい。某(それがし)は用向きのあって、江戸へ出て参っておりますが、▲▲にある●●寺と申す小(ち)さき寺の住職にて御座る。」

と一決、酒など酌み交わし、暫く話し合(お)うて御座った。その話の中で、

「……くどいようじゃが、先方は『金子は何より、しっかりとした心配なきところを第一に』とお気遣いになっておられ、そこがツボじゃ……先方は、何ぞの信頼の証しなくしては安堵致しますまい。……そこでじゃ……不可思議なる縁にて、御身とは今日よりの知人にて御座るが……ここは一つ、二人は、もう数年の馴染みであるといった風に……金主へはそれとのう、知らせるに若くは御座らぬ。……金銀の遣り取りに就きても、今初めての様子にては、これ、御座らず……普段より、頻繁に遣り取り致いて御座るように見せ申すがよろしかろうぞ。……そこでじゃ……一つここは、御身も金子二、三十両程を明日(みょにち)ご持参あって、それ、我らより用立て申し上げて御座ったことに致し、たまたまその場にてお返し下すったという風に見せ金致し……そこで拙僧は、やおら懐より御身の証文を出だいて返す……なんどとかの慎重なる金主の前にて、我らが昵懇にして相応の信用の取引を致いて御座るかのように見せ申すが……これ、よろしかろうと存ずるのじゃが、どうじゃ……?」

などと申す僧の言葉に、いちいち尤もなれば、文左衛門も請け合い、台詞なんどの綿密な取り決めを致し、別れた。

 帰る道すがら、文左衛門、笑みを浮かべ、

「いや、何とうまい具合に、仕送りの金蔓を、手繰り寄せたわい!」

と独りごちて御座った。――

 翌日、文左衛門、気が急いて早々に茶店を訪れて見たが、老僧は未だ来ておらなんだ。が、茶屋にては、

「お坊さまより申し遣って御座います。」

との由にて、精進料理を取り交ぜた、いかにも立派なる献立の下ごしらえやら準備やら致いて待っておるとの話し。

 かくして文左衛門も暫く待って御座ったところ、かの老僧が、昨日に、いや勝る、立派なる僧装束を纏い、更に隠居風の禪門と、何やら如何にも勿体ぶった侍の両人同道の上、現れた。

 用意した酒なんどが出だされ、料理なども丁寧に運ばれて参った。

 老僧は、

「――さて、昨日お話し申した御仁にお引き合わせ申そうぞ。――こちらは、拙僧、兄弟同様に親しくして御座るところの、数年の馴染みなる、須藤文左衛門殿じゃ。――しっかりとした心配なきところは――これ、拙僧同様――と、思召さるるがよかろうぞ。」

と禪門と侍に向かって語り、四人して献杯致いた。

 暫くすると、かの禅門が文左衛門に向かって、

「――老僧のお世話故、間違いも御座りますまい。――金子の儀は――そうさ、上限千両ほどまでならば即座に御用立て出来ましょう。……さりながら……いや、利率のことも格段に安く致そうとは思うて御座る……が……額も額、利分も格安なればこそ……万が一、間違いが御座っては……これ、困って御座るのじゃ……。」

と、案の定、シブりが入った。

 文左衛門も昨今の彼の実績なんどを交えて弁を奮い、己れが、正にしっかりとした心配なきところなることを滔々と述べ立て、老僧もまた、これに口添えして、

「文左衛門殿とは、もう数年に亙って金子の遣り取りを致し、いかにもしっかりとした心配なきところなること、これ、神仏に誓って請け合い申そうぞ。――そうじゃ――たまたまのことなるが――文左衛門殿とは、今日も別の一件にて金子の取引を致すことと相い成って御座るのじゃった。……ちょいと失礼仕る……」

とのこと故、文左衛門も懐中より用意しておいた金子をとり出だいて、

「……我らが別件の仕事なれば、御両人には失礼仕る――老師よ、こちらは先日御用立て戴きまして御座る金子三十両――本日、耳を揃えて返上仕りまする――。」

と、老僧へ渡す。――

 老僧は、金子を確かめると、懐中より手形を取り出いて、文左衛門へ渡いた。――

「……御両人には失礼仕った――なれど――御覧の通りの仕儀にて御座れば――御心配、これ、御無用で御座る!――」

と言えば、禅門も侍も、これ、大いに喜悦の体(てい)にて、

「――相い安堵致いて御座る!――安心の上は、千両にても五百両にても――明日にでも漏れなき定式の手形なんどを用意の上――拙者の屋敷は深川■■にて御座れば――お越し下されい!」

との確約――流石に慎重なる御仁と見えて、念には念を入れて――手形の書き方・日付・禪門の名の漢字の表記と言った細々したことまで打ち合わせて――そうこうする内……献杯も数十献に及び、文左衛門はすっかり酔っぱろうて、ふっと――居眠り致いて御座った。……

 ……ふと、気づいて回りを見渡せば――座敷には――誰も――おらぬ。

 座の様子を見れば禅門も侍も、とうに立ち帰った様子。

 文左衛門、思わず、非礼の不覚と思うたが……

『いや……それにしても……かの老僧は何処(いずこ)へ参ったものか?』

と茶屋亭主に訊ねてみる。すると、

「今少し前にお帰りになられました。帰り際、今日の宴席仕出しの分は文左衛門さまよりお支払が御座る、と申し置かれて御座いました。」

文左衛門は、己れの泥酔の失態に加えて、宴会費用の意想外の出費に大いに驚き慌てて御座ったが、

「――かの商談、よもや、偽りなんどということは、これ、あるまいて。」

と――かの仕出し代金は予想以上の高額で御座った故――茶屋主人と交渉の上、何とか代金をも支払い終えて帰った。

 さて翌日、文左衛門は揚々と、かの禪門の深川■■にあるという邸宅を訪ねてみた。

……が……

……昨日、本人の言葉によって認(したた)めて御座った、かの禪門の厳かなる名(なあ)は……

……誰(たれ)ひとり、知る者とて――ない――。

……文左衛門は真っ青になった……

……かの老僧の住まうという寺は、これ、江戸より外れた遠地に御座ったれども――三日前に話を決した折り、本人が備忘のためと『▲▲の●●寺住持××』なんどと書付けに致いたものを渡されて御座ったれば――飛脚を立て、その地の『▲▲の●●寺住持××』へ問い合わせてみた……

……ところが……

……そのような寺は、これ――ない――との返事……

 文左衛門は地団駄踏み、その無念、骨髄に徹し、

「……サ、三人のうち、いずれか一人でも、つ、つ、ツカマエまえずにャ、お、おカねえッ!!!」

と、今以て、捜し廻っておるとの、ことじゃ。

2012/06/27

耳嚢 巻之四 小兒行衞を暫く失ふ事

 小兒行衞を暫く失ふ事

 

 寛政六七の頃、番町に千石程もとれる何某とかや言るは、身上(しんしやう)も相應にて其主人折目高き生れにて有りしが、八才に成りし息女、ある日隣家へ三味線など引唄を唄ひて、乞食の男女門に立て囃子物などせし音を聞て、頻りに見度(みたき)由を申ける故、奧方もかろがろしきとて制し戒めけるを、いかにいふても聞わけず、庭へかけ出なんどせしを乳母など押止めけれど聞入ず、納戸(なんど)の内へ缺入(かけいり)しを、乳母は直(ぢき)に立て納戸へ押つゞき立入しに、娘の行方なしとの由奧方へしかしかとかたり、家中驚きて雪隱物置はいふに不及、屋敷中くまなく搜せ共(ども)しれざれば、主人の外へ罷りしを呼戻し、糀町變迄近隣を搜し尋れども更に影もなければ、奧方は大きに歎き、祈禱などして色々手を盡しけるに、三日目に納戸の方にて右娘の聲して泣し故、搜しけれど見へず。又庭にて泣聲せし故缺出(かけだし)みれば右娘成故、早々取押へ粥藥抔與へけるに、髮には蜘(くも)の絲だらけにて、手足抔はいばら萱野(かやの)を分け歩行(ありき)し如くに疵共(きずども)多くありし故、早々療養して右の樣子を尋問(たづねとひ)しに、一向不覺(おぼえざる)由を右小女のいひしが、いかなる事にてありしや、其後は別の事もなく、當時は十五六才にも成べしと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狐狸によらんかの狂乱から天狗に攫われた如き神隠しへ。更に私はASD(Acute Stress Disorder 急性ストレス障害)直連関とも採る。異次元のパラレル・ワールドや天狗の神隠しなんどを肯定出来ず、怪しもうと思えば怪しめる隣家に門付する「乞食の男女」や当家の「乳母」も事件とは無関係――とすれば――この納戸と満七歳の少女に、その真相を解き明かす鍵を求めるしかあるまい。まず気づくのは、この手の超常現象や事件性のないとされる神隠しでは、失踪する人物に失踪動機がない場合が多いのだが、彼女は自分の望みが受け入れられないことへの激しい感情的高揚の動機がある点で、寧ろ、「神隠し」としては特異である。更に言うなら、彼女のヒステリー状態から、もしかすると彼女には脳に何らかの器質的な変性若しくは精神病質があったことも疑える(「其後は別の事もなく、當時は十五六才にも成べし」とあるが、正に婚期を迎えた千石取りの武士の娘で、例えば間歇的な意識混濁や癲癇といった症状があった場合でも、それを公にはしないであろう)。加えて、この納戸には現当主の知らない、例えば唐櫃の底が何らかのスイッチによって反転して床下へ抜けるような秘密の仕掛けがあって(時代劇ではしばしば見かけるが、ある種の武家屋敷には、そうした仕掛けが実際にある)、たまたまそうした箇所に入り込み、何らかの弾みでからくりの機能が起動し、彼女は床下に転落、その際に頭を打ったか、もしくは先にいったような体質(病質)から長時間の失神状態となったと仮定することは出来まいか。暫くして覚醒した彼女が真暗な床下を闇雲に這いまわって行ったなら、「髮には蜘(くも)の絲だらけにて、手足抔はいばら萱野を分け歩行し如くに疵共多く」生ずるのは全く以って自然であり、そうして遂には庭に通ずる縁側から脱出した、という仮説である。満七歳であれば、この未曾有の恐怖パニック体験はASDとなって、「右の樣子を尋問しに、一向不覺由を右小女」が証言するのも、よく理解出来るのである。

・「千石程」ネット上の記載によれば、江戸時代に家禄千石の旗本は家数でいえば上位十六%に入るまずまずの家格で、軍役基準に照らすと、小者も含めて二十一扶持。大名の場合、相場は知行の三分の二が家臣の知行相当であったというから、家臣に千石出せるのは知行五万石以上の大名であろう、とある。因みに、根岸の場合を見ると、天明七(一七八七)年の勘定奉行抜擢後に家禄は二〇〇俵蔵米取から五〇〇石取りとなり、その後の寛政十(一七九八)年の南町奉行累進などでも加増があったと思われ、後に最終的には逝去直前の加増によって千石の旗本となっている。

・「缺出(かけだし)」は底本のルビ。寧ろ、私が附したように先に「缺入(かけいり)しを」とすれば、ここはいらない。

・「當時は十五六才にも成べし」本「卷之三」の執筆を寛政九(一八〇四)年とすると、たかだか二、三年でまだ十、十一歳となる。寛政六(一八〇一)年か七年から七、八年後は、享和元・寛政十三(一八〇一)年か享和二年となり、これは鈴木棠三氏が言う「卷之六」の下限である文化元(一八〇四)年に近い。そうして、鈴木氏はこの「卷之六」は先行する前二巻の補完的性格が強いとするから、この時期に根岸が、律儀に記載の補正を行った可能性が考えられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 小児の暫くの間の行方知れずの事

 

 寛政六、七年の頃のことで御座る。

 番町に、千石ほども扶持を持った、暮らし向きも相応にして、折り目正しき家柄の何とか申す御仁が御座って、八歳になる息女があられた。

 ある日、隣家へ三味線など弾いてざれ歌を唄っては物乞いする門付けの男女が来たって、その囃子なんどする音を聴き、かの息女、頻りに見たいとねだって御座った。奥方は、

「かのようなる下賤の者のなすを見るなんどというは軽々しきこと!」

とてお許しのまられず、強く言うて御座ったが、如何に言うても聞き分けずに、今にも庭へ駆け出さんとせば、乳母なんどが止めたれど、やはりお聞き入れになられず、その押さえた乳母の手を振り払うや、癇癪を起して部屋奥の納戸の中へと走り入ったによって、乳母はすぐ、その後を追うて、続いて納戸へと入ってみたところが――娘の姿――これ――ない。――

 乳母は直ちに奥方へ報じ、家中の者も皆、驚き、雪隠から物置に至るまで、屋敷中、隈なく捜して御座ったれど――やはり杳(よう)として――行方が知れぬ。所用にて外出して御座った主人を急遽、呼び戻いて、遙か南の麹町辺りまで足を延ばして、近隣近在を捜し尋ねたが――影も形も――ない。

 奥方は大いに嘆き、一両日、祈禱師を頼むなんど致いて、色々と手を尽くいたが――これ、万事休して御座った。――

 ――ところが――

……姿を消して丁度、三日目のこと、家中の者の一人が、

「……納戸の方(かた)にて、かの姫様の声がしたやに思われまする!……」

と告げ、更に別な者からは、

「……確かに! 納戸の辺りにて、姫さまの泣く声を聞いて御座る!……」

とのこと故、納戸や、その周辺やら、捜いてみたものの、やはり――姿は見えぬ。

……なれど今度はまた……奥方自身、庭ではっきりと泣き声がするのを、聞いた!

……駆けつけて見ると……これ……

――娘――で御座った。

……慌てて抱きかかえ……粥や薬餌なんど与えて、介抱致いた。

……髪は蜘蛛の糸にまみれ、手足などは、茨(いばら)か茅(かや)の野原を掻き分けて歩いて参った如く、傷や擦過の跡が夥しく残って御座った。

 即座に手厚き療養を致いて、落ち着いた頃合い、父母、打ち揃うて、

「……この間(あいだ)……どこでどうして、御座ったじゃ?……」

と問うてみたれど……

「……なあんにも……覚えて……おらん……」

と娘は答えたと言う。

……一体……これは……どう解釈したらよいのであろうか?

……なお、この息女は、その後は別段、どうということものう、今は十五、六歳にもなっていよう、と知れる人が語ったことで御座る。

2012/06/26

HP開設7周年記念 釈安珎(「元亨釋書 卷第十九 願雜十之四 靈怪六 安珎」より) 附やぶちゃん訳注+縦書版

HP開設7周年記念として「――道成寺鐘中――Doujyou-ji Chronicle」『釈安珎(「元亨釋書 卷第十九 願雜十之四 靈怪六 安珎」より) 附やぶちゃん訳注』(+縦書版)を公開した。

7年は永いようで短かった。
僕がこのHPをここまで構築出来るとは、その当初、実は全く以って思ってもいなかったことであった。
ただの自慰自愛の人生の四阿程度にしか考えていなかった。
よもや――
これだけに生きる野人と化すとは……
大蛇に襲われて灰になるとは思っていなかった誰かと同じで……

「お釈安珎様でも御存知あるめえ」……

僕のオリジナル現代語訳は「道成寺鐘中」では初めての試みだ。自在勝手乍ら、いや、それ故にこそ、お楽しみ戴けるものと自負している。

御笑覧、御笑覧、呵呵!……

2012/06/25

耳嚢 巻之四 奇病の事

 奇病の事

 

 松平京兆(けいてう)の物語に、此程奇成事あり。家中の侍の妻病氣にて里へ歸り居しが、風與(ふと)口走りていへるは、夫の外の女に心を寄せて我を見捨、不快に事寄(ことよせ)里へ差越せしも右女の仕業也と、或は恨み或は怒りなどせし有樣、一通(とほり)の病氣とも見へず。右妻は至て其容貌も美麗なるよし。男は美道の沙汰はさし置(おき)、いとたくましき人物の由。彼女の疑へる女は脇坂家の茶道成(なる)者の娘にて、主人の奧に勤居(つとめをり)しが、彼男の人躰(じんてい)を平日譽てことのふ執心せしよし。然れども不埒などありし事も聞かず、只しれる中のみ也しが、これ發熱して、彼本妻我を憎み呪詛せる抔口ばしり、此程は熱も覺て快よけれど、いまだ幻は右の事をいひ罵る由。全(まつたく)狸狐のしわざに哉(や)と怪敷(あやしき)事もありぬと私に語り給ひぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異譚連関だが、この話は根岸も怪異とせずに「奇病」としているように、これは一種の心因性精神病で、どちらの女も偶然に病的なヒステリーと強い関係妄想を呈した、一種の強迫神経症に相次いで罹患した(妻の病態とその恐らく名指しの自分への批難を聴いて、謂わばASD(Acute Stress Disorder 急性ストレス障害)に『感染』、病態を見るにPTSD(Posttraumatic stress disorder 心的外傷後ストレス障害)へと移行したと思われる。即ち、これは確かな事実であったと考えてよい。現代語訳では、そこを考えて、細部のリアルさを加えて翻案してある。

・「松平京兆」前の「怪刀の事」の松平輝和のこと。

・「事寄(ことよせ)」は底本のルビ。

・「美道」底本には右に『(尊本「美色」)』と傍注する。

・「脇坂家」播州龍野脇坂藩。寛政九(一七九七)年当時ならば、当主は第八代藩主寺社奉行(後年に老中)であった脇坂安董(わきさかやすただ 明和四(一七六七)年~天保十二(一八四一)年)である。当時、松平輝和は奏者番と、脇坂安董と同じ寺社奉行を兼任していたから、ここに脇坂家側の女の情報源としての接点が窺えると言える。

・「茶道」茶坊主。彼らは剃髪していたために「坊主」と呼ばれただけで、れっきとした武士。将軍や大名の下での、茶の湯に於ける給仕や接待を担当した。因みに、芥川龍之介の養家芥川家の家系は、将軍のそれである御数寄屋(おすきや)坊主で、由緒ある家柄であった。

・「彼本妻我を憎み呪詛せる」の「憎み」は底本では「僧み」。誤植と見て、訂した。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『うらみ』とあるから、「恨」の可能性もあるとは言える。

・「幻は」奇妙な謂いである。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『折りには』とあるから、これの誤写とも思われる。「かはりては」等と訓読するのは、如何にもつらい。岩波版で採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇病の事

 

 松平京兆輝和殿が語る。

 

……このほど、何とも奇妙な事が御座っての。

……家中の侍の妻が、病気で里へ帰っておったのじゃが、この女、ある日、突然、

「……夫は、他所の女に心を寄せて妾(わらわ)を見捨てた! 病気を名目にして、里へ下がらせたも、その女が仕業!……」

と、恨みごとを口走るわ、怒って呶鳴りまくるわで、その有様、尋常の病いとも思われぬほどじゃ、と。……

……その妻で御座るか?

……聴くところによれば、容貌も、これ、十人並の美麗なる者と聴いて御座る。……

……その夫の方はと?

……そうさの……これは好色の噂はともかくとして……これも、まあ、なかなかの偉丈夫で御座る。……

……実は、の

……かの妻女が疑っておる『女』、というも……これ、分かって御座っての……これが、その、拙者の同僚で御座る、脇坂安董(やすただ)殿が屋敷の、茶坊主をしておる者の娘で御座っての……脇坂殿にも直接、お話を伺ったのじゃが……御屋敷の奥方に勤めておる娘とのことなのじゃが……

……実は、この娘……何でも、かの夫の侍とは、何処ぞで知り逢(おう)てでも御座ったらしく……かの男の人体(じんてい)を、これ、普段から頻りに褒めそやしておったそうじゃ……まあ、何で御座るな、その、世間で言うところの――『ご執心』――という体(てい)では御座ったと申す。……

……なれど、申しておくと――この二人の間に不埒なることがあった――なんどという噂は、これ、全く聞かぬは、拙者の家内にても脇坂殿御家中にても、これ、同じゃった……

……拙者も、実は……かの男を呼び出だいて、直(じか)に問い質いてみたが……

……かの男は、やはり思うておった通りの実体(じってい)なる者にて御座っての……要は、ただ、互いに少しばかり見知っておったというだけの仲で御座ること、これ、相い分かり申したのじゃ。……

……ところがじゃ

……脇坂殿のお話によれば、かの茶坊主の娘も――

突如、高熱を発し、

「……あの、本妻が!……妾を恨んでおる!……呪詛致いておる!……」

なんどと口走りだしたと申すのじゃよ……

……まあ、近頃は、やっと熱も引いて、恢復致いたとは聞いて御座るが……未だに折に触れて、

「……本妻が!……妾を恨んでおる!……呪詛致いておる!……」

と、言い罵っておる由。……

……全く以って……狐狸なんどの仕業にてもあろうか、なんどと噂致いての……何ともはや、怪しきこともあるもんじゃて……

 

――と、私にお話になられた。

2012/06/24

鎌倉攬勝考卷之二 段葛

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之二」のテクスト化と注釈を「鶴岡八幡宮」の「段葛」まで終了した。

嘗て僕の教え子はウィキの引用を学術的でないと批評したが……今回は、ウィキの記載を批判した。……これで……いいかね?

「平清盛」

常盤の拒絶――舘野泉――カッチーニ――アヴェ・マリア……

伊武谷万二郎――蓮田善明

「陽だまりの樹」の最終回を見ながら――僕はあの伊武谷万二郎に――何故か蓮田善明の姿が重なってならなかったのだ……

生物學講話 丘淺次郎 一 止まつて待つもの

     一 止まつて待つもの


Kumonosu

 

[蜘蛛の巣]

 

 動物の中には自身は動かずに餌の來るのを待つて居るものがある。例へば、蜘蛛の如きは庭や林の樹の間に綱を張り終れば、その後は唯蟲が飛んで來て引懸るのを待つだけである。斯かる所だけを見ると、さも安樂らしく見えるが、初め綱を造るときの蜘蛛の骨折りは中々容易でない。蜘蛛が絲を巧みに遣ふことは昔から人に知られた所で、希臘の神話や中國の西遊記の本などにも、その話が出て居るが、蜘蛛の腹を切り開いて見ると、絲の材料を造る腺と絲の表面を粘らすための黐(とりもち)の如きものを出す腺とがあり、絲は腹の後端の近くにある數個の紡績突起の先から紡ぎ出され、足の爪の櫛によつて適當の太さのものとして用ゐられる。初めは粘らぬ太い絲を用ゐて枝から枝へ足場を掛け、全體の網の形が略々定まると、次に細い粘る絲を出して細かく網の目に造り上げる。試に指を蜘蛛の巣に觸れて見ると、太い絲は強いだけで粘らず、細い絲は指に粘着する。小さな蟲が「くも」の巣に觸れると、恰も黐竿(とりもちざを)で差された蜻蛉の如くに逃げることの出來ぬのはそれ故である。また蜘蛛は唯、網さへ張れば餌が取れるかといふと、決してさやうには行かぬ。一個所に止まつて、餌の來るのを待つてゐるのであるから、恰も緣日の夜店商人と同じく、往來の盛な良い場所を選ぶことが必要であるが、良い場所を見付けても、そこが已に他の蜘蛛に占領せられて居る場合には如何とも出來ぬ。その上、一旦網を張つても雨風のために無駄になることもあれば、大きな蟲や鳥のために破られることもあるから、屢々造り直さねばならぬ。また緣の下などの如き雨の掛からぬ地面には小さな擂鉢形の規則正しい窪みが幾つもあるのを見つけるが、その底には一四づつ小さな蟲が隱れて居る。これは「うすばかげろふ」といふ昆蟲の子供で、蜘蛛と同じく自身は動かずに餌の來るのを待つて居る種類に屬する。この蟲は好んで蟻を食するが、擂鉢形の穴の處へ蟻が來かゝると、土が乾いて居るために穴の底まで轉がり落ちるから、直にそれを捕へて食ふ。もし蟻が再び穴から匍ひ出しさうにでもすれば、扁平な頭を以て土を掬ひ、蟻を目掛けて打ち付け、土と共に蟻が再び底まで落ちて來るやうにするから、一旦この穴に滑り落ちた蟻は到底命はない。それ故この穴のことを俗に蟻地獄と名づける。一寸呑氣な生活の如くに見えるが、同じ所に多數の蟻地獄が竝んであるから、あたかも區役所の門前に代書人の店が並んで居る如くで、中には餘りお客の來ぬ爲に飢を忍ばねばならぬものも有らう。また天氣のよい日に田舍道を歩いて居ると、靑色と金色との斑紋があって、美しい光澤のある甲蟲が飛んでは止まり、止まつては飛びして、恰も道案内をする如くに先へ進んで行くのを屢々見ることがある。これは「みちをしへ」といふ蟲であるが、この蟲の幼蟲なども止まつて餌を待つ方である。即ち地面に小さな孔を造りその中に隱れて、他の昆蟲が知らずに近づくのを窺ひ、急に之を捕へて食する。

Arijigoku

[蟻地獄]

[やぶちゃん注:この図では、巣穴の外に出ているアリジゴクを描いているが、彼等は体表面をこのように完全に曝した形で地面上にいることは殆どない。成虫のウスバカゲロウと幼虫のアリジゴクの特異な形状を同時に示すために描かれた博物画ではあるが、教育的見地からすると、やや気になる。]


Mitiwosihe

[みちをしへ]

[やぶちゃん注:この図は右の白い空白部分に本文があり、もともと逆L字型の挿絵である。]

 

[やぶちゃん注:「希臘の神話や中國の西遊記の本などにも、その話が出て居る」前者は、アテナの嫉妬と怒りによって蜘蛛にさせられた織姫アラクネ(Arákhnē)、後者は第七十二回に現れる盤糸洞に巣くう蜘蛛の女怪、蜘蛛精七仙姑辺りを指している。因みに、こんな事実を御存知か?(私の教え子はかつてしばしば私が授業で米軍が蜘蛛の糸で防弾チョッキを造っていると言ったのを眉唾ものとして記憶しているかも知れぬ。眉唾では――ないよ――)

   《引用開始》(アラビア数字を漢数字に代え、改行箇所に「/」を入れた)

「弾丸をも止めることができる人工防弾皮膚をクモの糸とヤギの乳から作り出すことに成功(オランダ)」

(邦文引用は私の御用達パルモ氏の「カラパイア」より)

英文記事:'Making science-fiction a reality': Bulletproof human skin made from spider silk and goat milk developed by researchers

その強度は鋼鉄の十倍。弾丸をも止めることができるという人工皮膚をオランダの研究者らが開発したそうだ。まずはクモの糸と同じ構造を持つプロテインを含む乳を出すヤギを作り出した。この乳を特殊なマテリアルに組み込み、強度の高い人工皮膚を作り出すことができるという。/オランダの研究者Jalila Essaidiが、オランダ法科学ゲノムコンソーシアムと共同で研究を進めている"スパイダーシルク"プロジェクトでは、この皮膚に二十二口径ロングライフルの弾丸を撃ち込んだ時の実験映像を公開した。 最終的には人間のゲノムにクモの遺伝子構造を組み込むというものだが、この研究が進めばスーパーマンやアイアンマンのような弾丸をもはね返す鋼鉄の肉体を持つ人間の誕生も夢ではないということだ。

   《引用終了》

「黐」かつて竿の先などに塗りつけて小鳥や昆虫などを捕らえるのに用いた強い粘着力を持った物質。モチノキ・クロガネモチ・ヤマグルマなどの樹皮から作った。

「うすばかげらふ」昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidaeに属する種の総称、又はその代表種であるウスバカゲロウ Hagenomyia micans を指す。しばしば勘違いされるが、和名で「ウスバカゲロウ」と呼び形状が酷似するが、正統な「カゲロウ」(蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera)からは極めて縁遠い。また、本科全ての種の幼虫がアリジゴクを経るわけではない。

「みちをしへ」鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科 Cicindelidaeに属する昆虫の総称。成虫は春から秋まで見られ、日当たりが良く、地面が湿っている林道や川原などによく棲息するが、公園などの都市部でも普通に見られる。人が近づくと飛んで逃げるが、一~二メートル程飛んでは直き着地し、度々後ろを振り返る動作を連続的に行う。ここから「道標べ」「道教え」という別名が生まれた。ここに描かれた幼虫については、ウィキの「ハンミョウに、『成虫は粘土質の固くしまった裸地の土中などに一粒ずつ離して卵を産みつけ、孵化した幼虫はそのまま卵のあった場所の土壌を掘り下げて巣穴とする。幼虫の巣穴は産卵の行われた場所に垂直に掘られた円筒形の深い穴であり、温帯産のハンミョウの多くでは地表に巣穴を掘るが、熱帯や亜熱帯には木の幹に巣穴を掘る種もある。海岸の岩礁にみられるシロヘリハンミョウ』(Callytron yuasai)『では、海岸の岩石が風化して、亀裂に粘土質の風化生成物がたまったところに巣を掘っている。幼虫も肉食性で、巣穴の円形の入り口付近を、円盤状の頭部と前胸でマンホールの蓋のように塞いで待ちかまえ、付近を通るアリ等の昆虫を捕らえ、中に引き込んで食べる。巣穴から勢いよく飛び出し、大顎で獲物を捕らえる様はびっくり箱のようである。このとき力の強い獲物に巣穴の外に引きずり出されないよう、幼虫の背面には前方を向いたかぎ状の突起が備わっており、これを巣穴の壁に引っ掛けている』。充分成長した終齢(三齢)幼虫は『巣穴の口を土でふさぎ、巣穴の底を蛹室に作り替えて蛹となる』とある。]


Hoya


[海鞘]

 

 陸上の動物には止まつて餌の來るを待つものは割合に少いが、水中に棲む動物にはかやうなものは極めて多い。その理由は陸上に於ては動物の餌となるものは多くは固著して動かぬか、または勝手に運動するものかであつて、風に吹き廻される如きものは殆どない。それ故、牛や羊が如何に大きな口を開いて待つて居ても、自然に口の中へ草の菓が飛んで入ることは決してないが、海水の中には動物の餌となるべき微細な藻類や動物の破片などが幾らでも浮游して急に底に沈んでしまはぬから、氣長に待つてさへ居れば口の近所まで餌の流れて來ることは頗る多い。故に之を集めて口に入れるだけの仕掛があれば、相應に食物は得られる。例へば牡蠣(かき)の如きは、岩石の表面に附著して一生涯他に移ることはないが、殼を少しく開いて絶えず水を吸うて居れば、必要なだけの食物は水と共に殼の内には入り來つて口に達する。鮑の類は全く固著しては居ないが、常に岩の一箇所に堅く吸ひ著いて居るから固着も同然である。蛤(はまぐり)・蜊(あさり)などは徐々と動くが、その食物を得る方法は牡蠣と同じで、全く止まつて待つ仲間に屬する。靑森や北海道邊で盛に食用にする海鞘(ほや)といふ動物は實に止まつて餌の來るのを待つことでは理想的のもので、身體は卵形をなし、根を以て岩石に固著し、全身革の如き嚢で包まれて居るから、動物學上ではこの種類の動物を被嚢類と名づけるが、その革嚢にはは唯僅に二箇所だけに孔あり、一方からは水が吸ひ込まれ、一方からは水が吹き出される。海鞘(ほや)の體内に入り來つた水は鰓を通つて直に出口の孔の方へ出て行くが、海水中に浮いて居る微細な藻類などは、食道・胃・腸を通過し、不消化物だけは出口の所ろに達して水とともに流れ出る。この點からいへば一方の穴は眞に口で、他の穴は肛門に相當するが、總じて固著して居る動物では、口と肛門とが接近して、兩方が並んで前を向いて居ることが多い。これは恰も勸工場の入口と出口とが並んで往來の方へ向いて居るのと同じ理窟で、止まつたまゝで食物を食ひ、滓を吐き出すに最も便利な仕組ある。尚海岸へ行つて見ると、「ふぢつぼ」・「かめのて」・「いそぎんちやく」、海綿等が一面に岩に附いて居て、之を踏まねば殆ど歩けぬほどの處があるが、これらはいづれも止まつて餌を待つ動物である。また、それより少しく深い處に行けば、珊瑚や海松・海柳などと植物に形の似た動物が澤山にあるが、これらも食物の取り樣は、「いそぎんちやく」と全く同樣である。


Hudditubo



[ふぢつぼ]



Sangosyou

 

[珊瑚礁]

 

[やぶちゃん注:ここに登場する海産生物は悉く私の偏愛する生物ばかりである。ここでそれぞれについて私の薀蓄を語り出すとキリがなくなる。詳しくは私の電子テクスト「和漢三才圖會 介貝部 四十七 寺島良安」の私のマニアックな各注に譲るので、是非、それぞれを参照されたい。

「牡蠣」軟体動物門二枚貝綱ウグイスガイ目イタボガキ科 Ostreidae に属するカキ類の総称。これについて語り出したら、終わりを知らなくなる。涙を呑んでここまでとする。

「海鞘」これだけは私の最も愛する海棲生物の一つであるから、ここでどうしても簡単に注しておきたい。知り合いの物理の大学教授や年季の入った寿司屋の大将、果ては町の魚屋でさえ、「ホヤガイ」と呼称して貝類だと思っていたり、イソギンチャクの仲間と言って見たりと、かなり最近は市民権を獲得して市場に出回っているにも関わらず、誤認している人が多い生物である。ここで丘先生が図として掲げているものは、脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓亜目ピウラ(マボヤ)科マボヤ Halocynthia roretzi である。ホヤは無脊椎動物と脊椎動物の狭間にいる、分類学的には極めて高等な生物である。オタマジャクシ型の幼生時に、背部に脊索(脊椎の原型)がある。おまけに目もあれば、口もあり、オタマジャクシよろしく、尾部を振って元気に泳いでいる。しかし、口器部分は吸盤となっていて、その内に岩礁にそれで吸着、尾部組織は全て頭部に吸収され、口器部分からは擬根が生じ、全くの植物のように変身してしまう。因みに近年の研究によってホヤは生物体では珍しく極めて高濃度のバナジウムを血球中に濃縮していることが分かっている。本文に現れる「被嚢類」は尾索類の旧称。

「ふじつぼ」節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balaninano に属する富士山状石灰質の殻板をもつ固着性節足動物。あの中でエビのような生物が逆立ちしていると考えればよい。

「かめのて」フジツボと上目まで一緒で完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目カメノテPollicipes mitella である。間違ってはいけない。「ミョウガガイ」類と呼称するが貝類ではない。このカメノテも、フジツボと同じく、あの中に逆立ちしたエビが入っていると思えば宜しい。

「いそぎんちやく」刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目 Actiniaria に属する種の総称。

「珊瑚」刺胞動物門花虫綱 Anthozoa に属する固い骨格を大きく発達させる種の総称。

「海松」これはウミマツと読み、花虫綱六放サンゴ(六射珊瑚)亜綱ウミカラマツ科ウミカラマツ Antipathes japonica 及び同科に属する種で、特に黒い角質の骨軸を持つ種の俗称で、装飾加工品としての「クロサンゴ」の方が現在は通りがよい。代表種のウミカラマツは水深一〇メートル以深の岩礁に着生し、通常は高さ五〇センチメートル内外の樹状群体を形成するが、時には二~三メートルの高さになるものもある。

「海柳」花虫綱ウミヤナギ科ウミヤナギ Virgularia gustaviana 。別名ヤナギウミエラ。相模湾以南に分布。一〇メートル以深の砂泥海底に柄部(朱色)で直立する。長さ三〇~四〇センチメートル、発達した骨軸を中心にして、柄上部には紫色の三角形をした葉状体が並ぶ。葉状体上縁に二〇〇以上の大きなポリプが並ぶ。文系の諸君であっても、これらの生物の分類学上の差異を知らないのは、悲しい。脅威の生態システムとライフ・サイクルを持つ彼らを、ただの下等動物として十把一絡げにして顧みない者は、正に文字通り、『智の下等』と言わざるを得ないと私は思うのである。]

 止まつて餌の來るを待つ動物は、逃げる餌を追ひ廻すわけでないから、殆ど筋肉を働かせる必要がなく、また餌の行衞を探すに及ばぬから、眼や耳の如き感覺器も要らぬ。筋肉や感覺器を用ゐなければ疲勞することもなく、食物を要することも極めて少いが、少い食物ならば態々求めずとも口の邊まで流れ寄つて來る。その有樣は、恰も社會に出て活動すれば儲かると同時に費用も掛かるが、隱遁して暮らせば、收入も少い代りに出費も少く、結句、靜に生活が出來るのと同樣である。併し止まつて餌を待つに適する場所には、かやうな生活をする動物が集まつて來て、各々好い位置を取らうとして互に壓し合ふから、生存のための競爭はやはり免れることは出來ぬ。

耳嚢 巻之四 蠻國人奇術の事

 蠻國人奇術の事

 

 長崎奉行を勤し人の用役を勤ける福井が、主人の供して崎陽に赴しに、母の煩(わずらは)しきと聞て頻りに江戸の事を思ひつゞけ、少し病氣にて鬱々と暮しけるが、是も又病氣故にや誠に朝夕の食事も不進(すすまず)忘然(ばうぜん)と暮けるを、主人も大に憐みて品々療養を加へしに、或人の言へるは、右樣の病氣は紅毛(おらんだ)人に見せれば療治の奇法あるべしと言ひし故、紅毛屋敷へ至り通辭を以しかじかの事を語りければ、かぴたん則(すなはち)醫師へ申付け、何か判斷の上、療治の仕方ありとて盤へ水を汲(くみ)て、此内へ頭を入(いれ)給へと言ひし故、其差圖に任せければ、襟を押へて暫(しばらく)水中へ押入置(おしいれおき)、眼を開き給へと通辭して申しける故眼を開きければ、凡そ六七間も隔て我母帷子樣(かたびらやう)の物を縫居(ぬひゐ)たるやう成に顯然たり。其時水中より顏を引上げて何か藥など與へけるゆへ用之けるに程なく右病氣癒へてその頃交代にも至り、無滯(とどこほりなく)江戸へ着しに、彼母語りけるは、偖(さて)も一年餘の在勤母子の恩愛戀しき事限りなかりしが、或日帷子を縫ひて其方(そなた)へ與へんとて針を取(とり)思ひつゞけしに、窓より隣なる小笠原氏の境の塀を風與(ふと)見しに、右塀の上に御身の姿歴然と顯れ、暫し顏を見合しは夢にもあらず、若(もし)長崎にて替る事もありしやと案じけるうちにも、我胸の迷ひよりと又かへり思ひし事ありしと語りける故、彼長崎にて紅毛人の療治を受し事を思ひ出で、其日限時刻等を尋しに符節を合けると也。全(まつたく)幻術の類ひなるべし。紅毛は耶蘇(やそ)の宗門を今以(もつて)專ら行ふ由聞しが、かゝる類にも有べしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。超心理学でいう超感覚的知覚(ESP:Extrasensory Perception)の一種である精神遠隔感応(mental telepathy)、所謂、テレパシーを問題とした都市伝説であるが、母子の情愛を介するところで、嫌みがなく、私は好きな話である。術式自体は過心居士クラスの妖しげなもので、一種の催眠術のような感じはするものの、暗示は言語上の障壁が邪魔して無理があるし、何らかの麻薬による幻覚作用にしては丸薬は事後に飲ましているのが不審(水盤の水の中に何らかの薬物が溶かし込まれていた可能性もあるし、実際には母を見たという記憶は術後に投与された麻薬による記憶の錯誤の可能性も疑うことは出来る)なお、訳中のドクトル(医師)の台詞は、通辞の訳したものであるから、普通の日本語でよいのだろうが、どうもそれでは南蛮妖術の雰囲気が出ず、面白くない。さて、誰の何を真似たかは――ご想像にお任せしよう――

・「長崎奉行」寛政九(一七九七)年以前で直近の長崎奉行なら新しい順に松平貴強(たかます 一七九七年~一七九九年)・中川忠英(一七九五年~一七九七年)・高尾信福(のぶとみ 一七九三年~一七九五年)・平賀貞愛(さだえ 一七九二年~一七九七年)・永井直廉(一七八九年~一七九二年)で、恐らくモデルはこの辺りの誰かであろう。この頃の長崎奉行は定員二名で、一年交代で江戸と長崎に詰め、毎年八月から九月頃に交替をした(以上は主にウィキの「長崎奉行」に拠った)。

・「紅毛(おらんだ)」は底本のルビ。

・「かぴたん」カピタン(甲比丹・甲必丹・加比旦などと漢字表記もした)は元はポルトガル語で「仲間の長」という意味。日本は当初、ポルトガルと南蛮貿易を行ったため、商館長をポルトガル語の“Capitão”(カピタン)と呼んだ。その後、南蛮貿易の主流はポルトガルからオランダに変わったが、この呼称維持された)は変わらなかった。先の長崎奉行の候補と合わせて考えると、このモデルとなった長崎商館長(カピタン)は第一四六代ヘイスベルト・ヘンミー(Gijsbert Hemmij 一七九二年~一七九八年)か第一四五代ペトルス・セオドルス・キャッセ(Petrus Theodorus Chassé 一七九〇年~一七九二年)となる(以上は日本語版及び英語版ウィキの「カピタン」に拠った)。

・「紅毛屋敷」長崎出島にあったオランダ商館。オランダ東インド会社の日本に於ける出先機関。慶長十四(一六〇九)年に平戸に設置され、寛永十八(一六四一)年に長崎出島へ移転した。出島に滞在するオランダ人は商館長(カピタン)・次席(ヘトル)・荷倉役・筆者・外科医(ドクトル)・台所役・大工・鍛冶など九人から十三人程度で、長崎奉行の管轄下に置かれた。長崎町年寄配下の出島乙名と呼ばれる選ばれた町人がオランダ人と直接交渉した。乙名は島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ・積出し・代金決済・出島の出入り・オランダ人の日用品購買の監督を行った。乙名の下には組頭・筆者・小使など四十人の日本人下役がおり、更に通詞は一四〇人以上いた。出島商館への出入りは一般には禁止されていたが、長崎奉行所役人・長崎町年寄・オランダ通詞・出島乙名とその配下の組頭などは公用の場合に限り、出入りを許された(以上はウィキの「オランダ商館」に拠った)。

・「六七間」約十一メートルから十二メートル強。この距離感がかえって自然なパースペクティヴを生み、リアルな印象を与えると言える。

・「我母帷子樣の物を縫居たるやう成に顯然たり」底本には、後半部の「居たるやう成に顯然」の右に『(尊本「居たり、誠に顯然」)』とある。「帷子」生絹や麻布で仕立てた、夏に着る裏を附けていない単衣(ひとえ)の着物。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛮国人の奇術の事

 

 長崎奉行の用役を勤めた福井が、主人の供をして崎陽に赴任致いて御座った折り、彼の母が患いついた、という知らせを長崎で聞き、頻りに江戸のことを気に懸けるうち、福井自身も何とのう、病みついた感じで鬱々と日を暮らして御座ったが、そのうちに、とうとう朝夕の食事も喉を通らずなって、病み呆け、呆然として、見るからに尋常でない様態と相い成って御座った。

 主人の長崎奉行もこれを憐れみ、種々の療治を試みてはみたものの、芳しくない。

 そんな折りに、ある出島の関係者が言うに、

「……こうした病気は紅毛人に見せれば、何か、療治の奇法も御座るのでありますまいか……」

 とのこと故、長崎奉行の職権にて、福井を同道の上、紅毛屋敷を訪れ、通辞を通してかくかくしかじかの事情を話したところ、カピタンが部下のドクトルを呼び出だいて、何やらん相談を致いた上で、カピタンは、

「……治療ニヨロシキ法ガアリマス。……」

と、言うたかと思うと、ドクトルはやおら、室内に大きな水盤を持ち込ませ、そこに水を汲んで、

「……ココノ内ヘ頭ヲオ入レナサイ。……」

と言う故、その通りにする。

 ドクトルは福井の襟の辺りを上からそっと押さえ、暫く水中に福井の顔を押さえて御座った。

「……福井サン、福井サン、目ヲオ開ケナサイ。……」

と通訳を通して言われたので、福井は目を開けた――

――と――

『……およそ水を通して……六、七間も隔ったて御座いましたか……私の母が……帷子(かたびら)様のものを……縫っておるのが……まっこと……はっきり見えたので御座います。』《福井本人による後日談》

……見えた……と思うた……その途端……福井はドクトルによって水中より顔を引き上げられた上、何やらん丸薬なんどを与えられて、商館を後にした。

 その後、その丸薬を服用したところが、ほどなく病いも癒え、丁度、奉行交代の時期をも迎え、滞りのう、江戸へ帰着致いた。

 母も幸いにして病い癒え、健在であったは何よりであった。

 その福井の母が語る。――

「……さても一年余の長崎御在勤、御苦労にて御座いました。母子の恩愛故、御身がこと、案じられてなりませなんだが……実はある日のこと、帷子を縫いつつ、これを、愛しい御身に送らんと、針を運びつつ、御身のことのみ、思い続けて御座いましたところ……窓より、隣の小笠原様御屋敷との境の塀を、ふと、見ましたところが……その、塀の上に……御身の姿が……これ、はつきりと現われ……しばしの間、互いに顔を見合わせたこと、これ、決して夢にては御座りませなんだ。……もしや……長崎にて変わったことでもあったのではあるまいか、とも案じましたが……いいえと、また、これも、心の迷いかと思いかえしたり……まっこと、さような不思議がありました……。」

とのこと故、福井、かの長崎にて紅毛人に療治を受けたを思い出だいて、母がその不思議を見たと申す日時を尋ねたところが――完全に一致致いて御座った――というのである。――

 福井が語る。――

「……全く以って幻術の類なので御座いましょう。紅毛は耶蘇の宗門の魔術を、今以って専らに行のうておる由と聞いておりますが……そのような類いの妖術・奇術ででも、あったのでしょうか……」

「道成寺現在蛇鱗」の外題の読み方

浄瑠璃の外題は大方意想外、これも、

「道成寺現在蛇鱗」

――だうじやうじげんざいじやうろこ――

と読む。「蛇(じゃ)」が大蛇の尾の一叩きの如く利いてるね。

……時に僕が初めて高校生の時、この手の読みで、思わず

「オオッ! お前もか!」

と叫んで感激したのは――

坪内逍遙のシェークスピア「ジュリアス=シーザー」の翻訳邦題、

「自由太刀余波鋭鋒」

――じいうのたちなごりのきれあぢ――

だったねぇ――。

迂遠なるかな「道成寺現在蛇鱗」

どれほど手強いか――ちょいと見開きの半分をワード文書化してみたのを御目にかけよう――定型の五段ものであるから、これが実に、96頁も続く(おまけに安珍清姫は最後の方)――こりゃ流石にワーム・ホール並の超弩級の大蛇なれば――一筋繩ではいかないというのが、お分かりいただけよう――【2015年5月25日追記:ずっと大序ばかりで放置し続けていたが、HTMLでルビ化するとすると、とても完成の目途が立たぬと遅まきながら認識したため、当時ここで示していた分までを縦書ルビ化したワード文書に差し替えた。】

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耳嚢 巻之四 松平康福寛大の事

 松平康福寛大の事

 

 老職勤給ひし康福は可笑しき人也しが、一年類燒にて下屋敷燒失ありしに、飼置し鶴を其懸りの家來持除(もちのき)けるが、いかゞせしや雌鶴を一つ退落(のきおと)して燒死せしゆへ、右掛りの役人大に恐れ入て、不調法の由にて重役へ申立差扣(さしひかへ)を伺ければ、康福打笑ひて、右鶴は千年目なるべしとて更に咎めなかりし由。愛鶴を不惜役人を不咎(とがめざる)の寛大、いさゝか學才の德と人の語りけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一種の落とし話として連関。

・「松平康福」(享保四(一七一九)年~寛政元(一七八九)年)は石見浜田藩藩主から下総古河藩藩主・三河岡崎藩藩主を経、再度、石見浜田藩藩主となっている。幕府老中及び老中首座。官位は周防守、侍従。幕府では奏者番・寺社奉行・大坂城代を歴任、老中に抜擢された。記載通り、天明元年の老中首座松平輝高が在任のまま死去、その後を受けて老中首座となった。天明六(一七八六)年の田沼意次失脚は松平定信と対立、寛政の改革に最後まで抵抗したが、天明八(一七八八)年に免職された(ウィキの「松平康福」に拠る)。「卷之一」の「松平康福公狂歌の事」に既出。あちらでも如何にも滑稽ないい味を出している。

・「退落して」底本には右側に『(尊本「取落」)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 松平康福殿寛大の事

 

 老中首座をお勤めになられた松平康福殿はまことに面白いお方で御座った。

 ある年、類焼を被られて御自身の下屋敷が焼失致いたことが御座ったが、その折り、邸内に飼っておられた複数の鶴を、その飼育係の家来が退避させて御座ったが、如何致したものか、康福殿御寵愛の雌の鶴を、一羽だけ捕り損のうて、焼死させてしまった。かの係りの役の武士は大いに恐れ入って、己(おの)が不調法によるものなればとて、重役へ申告致いた上、自ら謹慎の処分を、と伺いを立てた。

 すると康福殿はうち笑って、

「――何の、あの鶴はの――丁度、寿命の千年目であったに、違いないわ。」

と、更にお咎めも、これ、御座らんなんだ由。

 御寵愛の鶴を惜しまず、係の役をも咎めぬ、その寛大さは、まっこと、真の学才の仁徳じゃと、人々の讃えたことにて御座る。

2012/06/23

清姫登場 道成寺現在蛇鱗 全段入手!

「元亨釋書」の「安珎」は僕のオリジナルな現代語訳まで、ほぼ完成した。近日公開! 乞期待!!

――しかして――

「安珎」(安珍)が出たからには「清姫」が欲しい――

ついさっき国立国会図書館のデジタル・ライブラリーで発見した!

「道成寺現在蛇鱗」

――これが清姫という名の初出とされているのだ!――

JPEG画像にして48枚をしこしこ保存完了!

この分量と見たこともない、ユニコードにもない漢字――なかなか手強いが――頑張るぞうさん!!!

鎌倉攬勝考卷之二 鶴岡八幡宮 二の鳥居

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之二」のテクスト化と注釈を「鶴岡八幡宮」の「二の鳥居」まで終了した。「新編鎌倉志」でもそうだが、注意しなくてはいけないのは、江戸時代まで鳥居の呼称は逆だった事実である。 海に最も近い現在の一の鳥居は「浜の鳥居」「大鳥居」と呼ばれ、最も八幡宮寄り(赤橋の前)の鳥居、現在の「三の鳥居」が「一の鳥居」であることである。特に「新編鎌倉志」は各名所への距離を常にこの「一の鳥居」(現在の三の鳥居)を起点に計測しているから注意しなくてはならないのである。

耳嚢 巻之四 一向宗の信者可笑事

 一向宗の信者可笑事

 近き比(ころ)東本願寺參向(さんかう)の時、大勢右駕(かご)に隨從して、貴餞門跡(もんぜき)を見るを値遇(ちぐ)と悦びけるが、或日本願寺門跡を拜むとて大勢駕の廻りを取卷ける中に、壹人の老姥(らうば)門跡を拜むとて駕の戸の際(きは)に取付(とりつき)輿(こし)の内へ頭を入けるを、門跡手にて頭を押出し給ふを見て、右の老姥が天窓(あたま)へは門跡の御手をふれられしとて、信者共大勢集りて姥(うば)が頭の毛を引拔、或はむしり取りし故、姥は漸々(やうやう)にその所を遁れしが、大形は髮はむしりきられて思わぬ法躰(ほつたい)をなしけると、其頃一同笑談に及びしとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:寺絡みで軽くは連関。既巻で明らかにしたように、根岸の宗旨は実家(安生家)が曹洞宗、養家の根岸家は浄土宗である。根岸は仏教には総じて比較的冷淡な傾向を持つように私には思われる。ここでも盲信の徒に対してかなり意地の悪い根岸の視線が窺える。
・「一向宗の信者可笑事」は「一向宗の信者笑ふべき事」と読む。
・「近き比東本願寺參向」とあるから、これは(本執筆時を下限の寛政九(一七九七)年とすれば)東本願寺第二十代法主達如(たつにょ 安永九(一七八〇)年~慶応元(一八六五)年)であろうか。彼は寛政四(一七九二)年に第十九代法主であった父乗如の示寂に伴って第二十代法主を継承。弘化三(一八四六)年に次男嚴如(大谷光勝)に法主を委譲するまで実に凡そ五十四年間法主(これは門主・門跡の浄土宗での尊称である)の地位にあった。寛政九年当時で未だ十七歳であった。もし、彼の父第十九代法主乗如(延享元(一七四四)年~寛政四(一七九二)年)とすると、彼の示寂した寛政四年二月以前に遡らなくてはならず、最低でも六年ほどのスパンが空き、「近き比」というのには私は抵抗がある気がする。青年の門跡がグイと婆さんの頭を押し出す方が話柄としては面白い。
・「値遇」縁あってめぐりあうことの意で、仏縁あるものに巡り逢うこと。「ちぐう」と読んでもよい。
・「天窓(あたま)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 一向宗の信者お笑いの事

 近年の出来事で御座る。
 東本願寺門跡江戸参向の際、道中にても大勢の信徒が金魚の糞の如く追従致し、貴賤を問わず、一目、門跡がお姿を拝さんが値遇(ちぐ)の冥利と、誰もが大層な喜悦のうちにあるようで御座った。
 そんなある日のこと、やはり、本願寺門跡を拝まんとて、大勢、駕籠の周りを取り巻いて御座った中に、一人の老婆が御座った。この者、門跡を拝顔せんものと、あろうことか、駕籠の戸の際(きわ)にしがみ付いて、その隙間より輿の中へ頭をさし入れたのじゃが、当然の如く、門跡、手でもって、かの老婆の頭を外へと押し出しなされた。
 ――と――
「――この婆(ばば)が頭へは――御門跡様が御手(おんて)をお触れになられたぞ!――」
と、誰かが叫ぶや……信徒どもが大勢……雲霞の如くに老婆の元へと群がって騒然となる……ある者は……婆の頭の毛を力任せに引き抜き……ある者は……摑んで捩じって毟り取る……老婆は這々(ほうほう)の体(てい)にてその場を逃れたものの……大方の髪の毛、これ、毟り切られて……つんつるてんのつるつるてん……思わぬ法体(ほったい)となって御座った、という……その頃、人々の集まっては、頻りに話題となった笑い話で御座ったとか……お跡、基、お後がよろしいようで……。

生物學講話 丘淺次郎 第三章 生活難

     第三章 生活難

 生物の生涯が食うて産んで死ぬといふ三個條に約めることが出來るが、先づその中の食ふことから考へて見るに、食物の種類にも、その食ひ方にも、之を獲る方法にも、實に種々雜多の差別がある。生きるためには食はねばならぬといふことに例外はないが、食物の中には滋養分を多く含むものと少なく含むものとがあり、隨つて時々少量の食物を食へば事の足りる生物もあれば、また多量の食物を晝夜絶えず食はねば生きて居られぬ生物もある。併しながらいづれにしても食物の方には一定の制限があり、生物の繁殖力の方には殆ど限がないから、食ふためには是非とも劇しい競爭が起らざるを得ない。植物の如きは、日光の力を借りて炭酸瓦斯・水・灰分等から有機成分を造つて生長し、これらの物は到る處ににあるから、競爭にも及ばぬやうであるが、適度に日光が當り適度の濕氣を具へた地面に制限があるから、やはり競爭を免れぬ。然も一株につき數百、數千もしくは數萬も生ずる種子の中で、平均僅に一粒を除く外は皆生存の望みのないことを思へば、如何にその競爭の激烈であるかが知れる。されば生物の生涯は徹頭徹尾競爭であつて、食物を多く食ふものも、少く食ふものも、肉食するものも、草食するものも、食ふためには絶えず働かねばならず、而して働いたならば必ず食へるかといふと、大多數のものは如何に働いても到底食へぬ勘定になつて居て、暫時なりとも安樂に食うて行けるものは金持の人間と寄生蟲との外にはない。然も、かやうな寄生蟲類が目前稍々安樂な生活をして居るのは、數多の難關を切り拔けて來た結果で、初め數百萬も産み出された卵の中の僅に一二粒だけが、この境遇に達するまで生存し得たのであるから、その生涯の全部を見れば無論劇しい競爭である。本章に於ては動物が食物を獲るために用ゐる、種々の異なつた方法の中から若干を選んで、その例を擧げて見やう。
[やぶちゃん注:「されば生物の生涯は徹頭徹尾競爭であつて、食物を多く食ふものも、少なく食ふものも、肉食するものも、草食するものも、食ふためには絶えず働かねばならず、而して働いたならば必ず食へるかといふと、大多數のものは如何に働いても到底食へぬ勘定になつて居て、暫時なりとも安樂に食うて行けるものは金持の人間と寄生蟲との外にはない。然も、かやうな寄生蟲類が目前稍々安樂な生活をして居るのは、數多の難關を切り拔けて來た結果で、初め數百萬も産み出された卵の中の僅に一二粒だけが、この境遇に達するまで生存し得たのであるから、その生涯の全部を見れば無論劇しい競爭である。」という部分、人間世界の因果に見えてくるから不思議だ。]

2012/06/22

耳嚢 巻之四 黄櫻の事

 黄櫻の事

 

 櫻に黄色なきと咄合けるに、或人の言へるは、駒込追分の先に行願寺といへる寺に黄櫻あり。尤(もつとも)山吹黄梅などの正黄にはあらず。然れども白にうつりて黄色なる一重の花に、彼寺の名木と近鄰にももてはやしぬるを、旦家(だんか)の内ひそかに參詣の折から、根より出し芽をかきて四五度も植付しが、相應に生育しては枯ぬ。一本根づきしと覺しも、花咲出しを見れば一重の山さくらゆへ、和尚へしかじかの事有躰(ありてい)に咄して、何卒植木し度(たき)由を願ひしかば、安き事也とて請(うけ)がへければ、植木やなど雇ひて繼穗(つぎほ)せしに、是又花咲ぬれど山櫻の白きにて有りし故本意なく過しが、寺内にて根分せし櫻はやはり黄色にて有し由。土地にもよりけるや、不思議成事と語りぬ。右旦家と言るは、笛吹の春日市右衞門(しゆんにちいちゑもん)也とも聞し由也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:物怪から木怪へ。フローラの本格記載は「耳嚢」では珍しい。

・「黄櫻」この呼称は複数の桜の栽培品種を指すようで、代表種は二種、一つはバラ目バラ科サクラ属サトザクラの品種ギョイコウ Cerasus lannesiana 'Gioiko' で、「御衣黄」と書く。今一つは、ウコン Cerasus lannesiana 'Grandiflora'で、「鬱金桜」「黄桜」「浅葱桜(浅黄桜)」などとも呼ぶもの(人口に膾炙するカレーに含まれるショウガ目ショウガ科ウコン Curcuma longa とは全くの別種)。前者ギョイコウ Cerasus lannesiana 'Gioiko'は、花期はソメイヨシノより遅く、花の大きさは場所によって異なり、本州中部で直径二~二・五センチメートル、北海道で四~四・五センチメートル。花弁数は一〇から一五枚程度の八重、花弁は肉厚で外側に反り返る。色は白色から淡緑色、中心部に紅色の条線があり、開花時には目立たないが、次第に中心部から赤みが増してきて紅変し、散る頃にはかなり赤くなる。花弁の濃緑色の部分の裏側にはウコンにはない気孔が存在する(以上のギョイコウの記載はウィキギョイコウ」に拠った)。後者のウコン Cerasus lannesiana 'Grandiflora'は、ギョイコウに比して色は緑色が弱く淡黄色。数百品種あるサクラのうちで唯一、黄色の花を咲かせる桜として知られる。花弁数は一五から二〇枚程度の八重、ギョイコウのようには厚くなく、気孔もない。本種は国外でも人気が高い(以上のウコンの記載はウィキの「ウコンに拠った)。いずれも開花時期はソメイヨシノより遅めの四月中下旬で、ともに花の緑色は葉緑体によるものであるが、ウコン Cerasus lannesiana 'Grandiflora'の方が葉緑体の含有量が少ないため、もっと薄い淡黄色で、こちらの方が以上の通り、「黄桜」の呼称としては分があるが、本文では「一重」とあり、ウコンもギョイコウも八重であが、花弁数が少ない場合、八重の印象の持たないものもある点からギョイコウ Cerasus lannesiana 'Gioiko' を同定候補から外すことは出来ない。

・「駒込追分」中山道と日光御成街道(岩槻街道)の分岐点。当時、ここは本郷ではなく旧駒込村に属した。江戸期には現在の東大農学部前本郷通りの反対側にその一里塚があった。

・「行願寺」諸注より、文京区本駒込にある既成山光明院願行寺のこととする。駒込追分の北の東側にある浄土宗の寺で、品川願行寺開山観誉祐宗の孫弟子観誉祐崇が明応三(一四九四)年に開山、慶長年中は馬喰町にあったが、明暦の大火の後に現在地へ移転した。江戸期には塔頭九院を擁した大寺院であった。但し、ネット上の検索では、現在、ここに桜があるかどうか、それがウコンかギョイコウか、はたまた全くの別種かなどは判明しなかった。本文に「一重」とあるのも非常に気になっている。御存知の方は是非、お教え頂きたい。

・「春日市右衞門」諸注によれば、能の観世流笛方である春日家七世市右衛門長賢(享保六(一七二一)年~寛政十二(一八〇〇)年)。この話柄、最後にこの事実を明かすこと、それを最後に根岸が記していることに、私は興味がある。これは本話の原作者が、この話から能の「西行桜」などの花の精の登場する話柄を暗に連想させようとする意図があり、それを根岸はホームズよろしく、鋭く嗅ぎ取っているのではあるまいか? 識者の御意見を伺いたく思う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 黄桜の事

 

 桜に黄色のものはないという話題になった折り、ある人の言うたことで御座る。

「……駒込追分の先の、行願寺という寺に、黄桜が、これ、御座るじゃ。尤も、山吹や黄梅といった感じのまっ黄色では御座らぬ。然れども、白っぽい黄色をした一重の花で御座っての、かの寺の名木として近隣にては、大層、もて囃して御座るものじゃ。……さても、左様なれば、さる檀家の者、毎度の参詣の折りから、こっそり、この根(ねえ)から生えた、芽(めえ)を掻き採って、四、五度も己(おの)が屋敷の庭へ植え付けてみた……が……ある程度まで成長致いては……枯れる。……それでも、一本根付いた……かと思うたも……さても花の咲いたを見れば……これ、一重の……ただの白(しいろ)い山桜じゃったそうな。……さればこそ、この檀家、芽では無理と考えたによって、行願寺が和尚へ、今までの、こっそりぶっ掻いて御座った非礼不作法を深謝の上、『何卒、接ぎ木を致させて戴きたし!』と願い出たところ、和尚は『易きことじゃ』と承諾致いた故、玄人の植木屋なんども雇い、念には念を入れて、大事大事に接ぎ穂致いた……なれど……これまた、花は咲いたものの……ただの白(しいろ)い山桜じゃったという。……なれば、流石に、かの檀家も、仕方のう諦めた、とのことで御座ったよ。……因みに、寺内(てらうち)にて根分け致いた桜は、これ、やはり、黄色にて咲くとのこと故、これはもしや……かの地の特殊なる地(ちい)の質や不可思議なる養分にても、拠る、とでも申すので御座ろうかのぅ?……いっかな、不思議なことにて御座るじゃ……。」

 なお、この『檀家』というのは、観世の笛方の春日市右衛門であるとも聴いた、とのことで御座る。

窓に吹き付ける雨

を僕は55歳にして初めて見た

2012/06/21

元亨釋書 道成寺伝承 視認!

先ほど、道成寺伝説で「安珎」(安珍)の名が初めて登場する「元亨釋書」の当該箇所を、国立国会図書館のデジタル・ライブラリーで遂に探し当てた。現在、テクスト化作業に入っている。乞う、御期待!

耳嚢 巻之四 怪刀の事 その二

   又

 

 小田切土佐守は其先(そのせん)甲州出の事なれば、武田晴信より先祖へ與へし長刀、今に所持して玄關の鎗懸に餝(かざり)置し由。折節玄關に詰(つむ)る時跡(あと)などにし臥せば、必(かならず)枕返しする事度々の由。營中にて物語りしを記し置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖しき刀剣二連発。

・「小田切土佐守」小田切直年(寛保三(一七四三)年~文化八(一八一一)年)。旗本。参照したウィキ小田切直年に、『田切家はもともと甲斐武田氏に仕えており、武田氏滅亡後徳川家康の家臣となって近侍したという経緯を持つ。直年の頃には』凡そ三千石の知行地を拝領していた、とある。明和二(一七六五)年、二十三歳で西ノ丸書院番となり、その後使番・小普請、駿府町奉行・大坂町奉行と遠国奉行を歴任した後、寛政四(一七九二)年に五十歳で江戸北町奉行に就任、文化八(一八一一)年に在職のまま六十九歳で没するまで十八年間奉行の任務に当たった。歴代奉行中、四番目に長い永年勤続歴で、幕府が小田切に対して篤い信頼をおいていたことの証左で、奉行としても後の模範となる多数の優れた裁きを判例として残している。駿府町奉行在任中には男同士の心中事件を裁いたり、盗賊として有名な鬼坊主清吉を裁いたのも彼である。根岸は寛政一〇(一七九八)年に勘定奉行から南町奉行へ昇進しており、その後も、十三年に亙って小田切と町奉行を勤めた(根岸の勘定奉行は公事方であったと思われるから、実際には寛政四年起算で、小田切との付き合いは十九年に及ぶと考えてよいだろう)。ウィキによれば、両人の奉行在任中の面白い(不謹慎を失礼)裁きが載っている。インクブス的少女による奉公人青年への性行為強要の結果による、今なら業務上過失致死相当と思われる事件である。主家の十歳(満九歳?)の娘かよが、十九歳(満十八歳?)の『奉公人喜八に姦通を強要し、喜八がついに折れて渋々承諾し、行為中に突如かよが意識を失いそのまま死亡するという事件が起こり、小田切は根岸鎮衛と共にこれを裁断した。根岸と寺社奉行は引き回しの上獄門を、二人の勘定奉行は死罪を主張したが、小田切は前例や状況を入念に吟味し、無理心中であると主張、広義では死刑であるものの、死刑の中でも最も穏当な処分である「下手人」を主張した。最終的に喜八は死罪を賜ったが、この事例にも小田切の寛大かつ深慮に富んだ姿勢が伺える』とある(下手人は庶民に行われた斬首死罪の中では最も軽く、首を切るだけで資産没収などを行わないもの)。その以下には、逆に不名誉な記載もあるが、ここは小田切殿を立ててここまでとしておこう。

・「武田晴信」武田信玄の諱。

・「詰る時」底本では右に『尊本(詰る侍)』と注する。これで採る。

・「跡などにし臥せば」飾られた槍の方に足を向けて寝たりすると、の意。

・「枕返し」就寝中、知らぬうちに身体の位置が逆になることで、怪奇現象として古来、妖怪の仕業などとされた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 怪刀の事 その二

 

 小田切土佐守直年殿の御先祖は甲州の出であられる。武田信玄晴信公より小田切殿御先祖へ与えられた長刀と申されるものを今に伝えて、御屋敷の玄関の槍掛けに飾るおかれておられる由。

 折節、玄関番に詰める侍が、たまたま長刀に足を向けて寝たり致すと、必ず、枕返しに遇う、との由。城中にて物語なされたのをここに記しおいた。

耳嚢 巻之四 怪刀の事

 怪刀の事

 

 松平右京亮寺社奉行にて被咄(はなされ)けるは、同人家に三代も箱に入て土藏の棟木(むなぎ)に上げ置刀あり。右(みぎ)右京亮先代の足輕、毎夜うなされ甚苦しみける故、仔細もありやと色々療治などせしが、不斷はさしたる事なし。不思議なる事とて枕元の刀を外へ遣し臥せしかば、いさゝかその愁なかりし故、全(まつたく)刀の所爲なるべしと、右刀を枕元に置て臥せば又前の如くうなさるゝ故、其語を申立主人へ差出しけるを、右の通(とほり)藏の棟木へ上げ置由申傳へ、いか成ものにや改見んと思へども、事を好むに似たりとて家賴も押へ留る故、其通打過ぬと語りける也。(其後代替り有て改見しに、大原ノ安綱大同二年トアリ、彼家士海老原文八と語り)

 

□やぶちゃん注

○前項連関:天狗の魔界から妖しき魔刀へ。

・「松平右京亮」松平輝和(まつだいらてるやす 寛延三(一七五〇)年~寛政十二(一八〇〇)年)。上野国高崎藩第四代藩主。寺社奉行、大坂城代。松平輝高次男。天明元(一七八一)年、家督を継ぎ、奏者番から天明四(一七八四)年から寺社奉行を兼任。寛政十(一七九八)年、大坂城代となっている。

・「先代」文字通りの先代なら第三代藩主松平輝高であるが、これは自然に読むなら三代前で初代藩主松平輝規(まつだいらてるのり 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のことであろう。

・「家賴」底本には右に『(家來)』の傍注を附す。

・「(其後代替り有て改見しに、大原ノ安綱大同二年トアリ、彼家士海老原文八と語り)」底本には右に『(尊本)』と、尊経閣本による補綴を意味する傍注がある。因みに、唯一の全十巻完備本である岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には、この( )部分は存在しない。更に底本では最後の『語り』の右に『(ママ)』注記がある。これは内容と記載から見て、遙か後日になっての記載であり、根岸本人による書き込みでない可能性も高いものと思われる。

・「代替り」を次代とするなら第三代藩主松平輝高三男(輝和の弟)で老中ともなった高崎藩第三代藩主松平輝延(安永四(一七七六)年~文政八(一八二五)年)ということになるが、根岸以外の者による記載ならば、その後の代かも知れない。私は根岸以外の者の記載と採って訳した。

・「大原ノ安綱」(生没年未詳)は平安中期の伯耆国大原の刀工。大原安綱とも称した。以下、参照にしたウィキ綱」に、『安綱は伯州刀工の始祖といわれる。山城国の三条宗近などとともに、在銘現存作のある刀工としては最初期の人物の一人である。伯耆国の刀工である大原真守(さねもり)は安綱の子とされている』。『作刀年代は、日本の刀が直刀から反りのある日本刀(湾刀)に移行する平安時代中期と推定されている』。『太刀姿は平安時代特有の細身で腰反りが強く、切先に近づくにつれて身幅と反りが小さくなるもので、備前国の古備前派の作刀に似る。地鉄はやや黒ずみ、小板目肌を主体にして流れ肌や大肌が混じり、地刃の働きが顕著なものである。安綱には数代あるものと思われ、代が下がるほどに豪壮な作風となっているとされる』とあって、以下に作品が並ぶが、津山藩(津山松平家)伝来の名物「童子切」(国宝)に始まり、徳川家康佩刀(紀州徳川家重宝)・新田義貞佩刀(号「鬼切」最上家伝来)と錚々たる名品揃いである。

・「大同二年」西暦八〇七年。事実なら、作中内時間なら寛政九(一七九七)年まで九九〇年で、検分された時には一〇〇〇年が有に経過している。松平家伝来とするならまだしも、こりゃ足軽の持った打ち物としては、如何にも嘘くさい。

・「海老原文八」不詳。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 怪刀の事

 

 寺社奉行であられる松平右京亮輝和(てるやす)殿のお話しになられたこと。

 同人御屋敷に三代前より箱に入れて土蔵の棟木の上に載せ上げ置いて御座る刀があると……。

 

 右京亮輝和殿の先代初代藩主輝規殿が親しく使(つこ)うて御座った足軽、毎夜毎夜、寝入ったる途端に魘(うな)され、尋常ならざる苦しみよう故、これは何ぞ重き病いの前兆ならんかと、殿よりの命によりて、いろいろ療治なんどさせ給(たも)うたが――実は、不思議なは――かの足軽、日常、目の覚めておる間は、これ、全く、そうした病いの疑いの片鱗とて御座らぬことであった。――

 本人も――そもそもが就寝後のことにて、端の者どもも詐病でなきことは請け負うて御座ったれば――まっこと不思議なことと、ある時、かの足軽、常時帯刀して御座った刀――普段、就寝の折りには枕元に置いて御座ったもの――を、たまたま枕元ではのうて、外へ片づけて横になった――と――周囲の同輩の足軽どもが――気づいた。――

――かの男、全く以って――

――魘されておらぬのである……。

 翌日、同輩の一人が本人に告げた。

「……これ、全く以って、かの刀の所為(せい)に違いないぞ!……」

 そこで、試みに、次の晩はかの刀を枕元に置いて寝る――夜伽して御座った同輩の前で――またぞろ、かの男は前の如くに魘され始めた。……

 以上の訳を皆して上方へ申し上げ、主人輝規殿へご報告申し上げた。

 その後、輝規殿――代わりの刀と引き換えに、かの刀を足軽より召し上げられた上――かの妖刀を――土蔵の棟木の上へ載せ置かれ――そのままずっと据え置かるるようになった、申し伝えられて御座るそうな。

 

 右京亮殿談――

……一体、如何なる刀かと、拙者も検分致さんとせしが、

「敢えてただならぬ変事の起こるを殊更に好むに似たり。」

と家来どもも、平にと押し止めるが故、そのまま、打ち過ぎて未だに、かの打物の影も見たことは御座らぬ。……

 

[後日、本書を書写せる者の附記]

後日談として、その後、高崎藩主代替わりがあって、当時の藩主が土蔵の棟木より降ろさせて検分したところ、『「大原ノ安綱大同二年」の銘があった』と、私の知人である、かの高崎藩藩士海老原文八なる者が語った、ということを参考資料として、ここに記しておきたい。

耳嚢 巻之四 魔魅不思議の事

 魔魅不思議の事

 或る人の語りけるは、小日向に小身の御旗本の二男、いづちへ行けん其行形をしれず。其祖母深く歎きて所々心懸けしに終に音信(おとづれ)なかりしが、或時彼祖母本郷兼康(かねやす)の前にて、風與(ふと)彼二男に逢ひける故、いづかたへ行しやと或ひは歎き或は怒りて尋ければ、されば御歎きをかけ候も恐入候得共(おそれいりさふらへども)いま程は我等事も難儀成事もなく世を送り候へば、案じ給ふべからず、宿へも歸り御目にかゝり度候へ共、左ありては身の爲人の爲にもならざる間其事なく過ぎ侍る、最早御別れ可申といふを、祖母は袖を引留めて暫しと申ければ、左思ひ給はゞ來る幾日に淺草觀音境内の念佛堂へ來り給へ、あれにて御目に懸るべしといひし故、立別れ歸りかくかくと語りけれど、(老にや耄(ほ)れ給ふなりとて家内の者もとり合ざれど、其日になれば是非淺草へ可參(まゐるべし)とて、僕壹人召連れて觀音境内の念佛堂へ至りければ、果して彼次男來りてかれ是の咄をなし、最早尋給ふまじ、我等もいまは聊難儀なる事もなしと語り、右連れにもありける歟、老僧抔一兩輩念佛堂に見へしが、其後人だまりに立ちかくれ見失ひける由。召連れし小ものも、彼樣子を見しは祖母の物語と同じ事なる由。天狗といへるものゝ所爲にやと、祀母の老耄の沙汰は止みしとなり。)

□やぶちゃん注
○前項連関:私にはある強烈な連関を感じさせる。それは……かの癩病筋の家に生き残った女人と別れて俗世へ帰還した男の眼差しと、この失踪してたまさか姿を現わした次男の眼の輝きの中に――不思議に共通したあるペーソス(哀感)を感じるからである。……
・「魔魅」人を誑(たぶら)かす魔物。但し、ここでは異界の意の「魔界」と訳した。本話のような天狗による失踪譚や異界訪問譚は枚挙に暇がない。その中でも、天狗の導きによって神仙界を訪れ、そこで呪術修行をして帰って来たという天狗小僧寅吉を保護、その聞き書きを公刊した平田篤胤の「仙境異聞」(文政五(一八二二)年刊)は名高い。天狗小僧寅吉の幽冥界からの帰還は文政三(一八二〇)年の秋の末のこととされる。寅吉は七歳の時に天狗に攫われたとし、あちらの世界にいたのは七~九年とするものが多いので、最長で計算すると寅吉の天狗神隠し事件の発生は文化二(一八〇五)年まで遡れる。本執筆を寛政九(一七九七)年、同年中の事件と仮定すると、その間僅かに九年後……寅吉は異界で――この次男坊の指導を受けたのやも――知れぬな……
・「本郷兼康」現在の文京区本郷三丁目南側の東の角にあった雑貨店。現在は少し位置を動かしたが「かねやす」として現存する。以下、ウィキの「かねやす」より引用する。『「かねやす」を興したのは初代・兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)で、京都で口中医をしていた。口中医というのは現代でいう歯医者である。徳川家康が江戸入府した際に従って、江戸に移住し、口中医をしていた』。『元禄年間に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業する。「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、芝にもう一つの「兼康」を開店した。同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となる。これを裁いたのは大岡忠相であった。大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下した。本郷の店がひらがななのはそのためである。その後、芝の店は廃業した』。享保十五(一七三〇)年の大火の後、『復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があったあたりから南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた』(但し、後の文政元(一八一八)年に行われた江戸範囲を示す朱引の定めでは「かねやす」よりも遙か北側に引かれている)。『東京(江戸)という都市部において度重なる大火や地震、戦災を経ても同一店舗が』四〇〇年もの永きに亙って存在しているのは珍しいケースである、とも記されている。――ここはそういう意味でも、普通でないパワーを持つ「魔界」なのではないか? いや、そもそもここが江戸の境界であったとすれば、それは異界との境界でもあったのだ。祖母が失踪した、天狗の仲間となった、異界の者となった次男と遭遇するに、この場所は正しく民俗学的な異界への通路として相応しいということがここに判明すると言えるのではあるまいか?
・「其事なく過ぎ侍る」底本「其事なく過き侍る」。訂した。
・「(老にや……老耄の沙汰は止みしとなり。)」部分は底本に三村本からの補綴を示す右注記あり。
・「耄(ほ)れ」自動詞ラ行下二段活用「惚(ほ)る」。年をとってボケる、耄碌するの意。

■やぶちゃん現代語訳

 魔界の不思議の事

 ある人の語った話で御座る。
 小日向に住む小身の御旗本の次男、一体、どこへどうしたものやら、行方知れずとなった。
 その祖母、深く嘆いて、いつも方々に心懸けて捜し廻って御座ったれど、遂に何の音沙汰も御座らなんだ。
 ところが――
ある日のこと、その祖母自身が本郷兼康の前にて……
――ぱったり――
出逢(お)うた! かの次男に!
「……!……いったい!……どこへおいでたえ?……」
と、あるいは嘆き、あるいはしかりつつ、なおも尋ねたところ、
「……されば、皆様には多大なる御心配をお掛け致しおること、これ、まっこと、恐れ入って御座いまする。……なれど、今にては、我らも難儀なることものう、身過ぎ致いて御座いますればこそ。……どうか、ご案じめさるな。……実家へも立ち帰り、皆様にもお目にかかりたく思うはやまやまなれど……かく致いては……我が身のためにも、あらゆる人々のためにも……これ、よからざることにてあれば……結果、今まで打ち過ぎて参りました。……かくして……御祖母様(おばばさま)……これにて……最早、お別れ……申し上げまする……」
と立ち去らんとするを、祖母、
「お待ち!」
と、孫の袖取って引き留めた。
 細きたおやかなその手(てえ)……流石に孫には……振り払(はろ)えまい……
「……御祖母様(おばばさま)……かくも拙者がこと、心懸けて下すったなれば……来たる〇月×日に……浅草観音境内の念仏堂へ……お参り下されい。……そこにて……今一度だけ……お目にかかりましょうぞ……」
と言うて、雑踏の中に――姿を――消した……。
 家へ立ち戻るや、かの祖母、かくかくと今日の出来事を話いたものの、
「……御祖母様(おばばさま)、遂に……耄碌なされたのぅ……」
と、家内には、誰(たれ)一人としてとり合(お)う者とて、ない。
 なれど、約束のその日になったれば、
「孫は確かに言うたによって、必ず浅草へ参ります!」
と聞かず、従僕一人をめし連れて観音境内の念仏堂へと参詣致いたところ……
――果たして――約束通り――かの次男がやって参った……
「……御祖母様(おばばさま)……どうか最早……我らがこと……二度と、お探しなされるな……我らも今となっては、まっこと、聊かの難儀なること、これ、御座いませぬによって……」
と優しゅう語って聞かせた。……
……その連れにてもあったものか、奇体なる老僧なんどのそれとなく付き添うておるようなる者が一人、念仏堂の近くにて、うろついて御座った……
……が……ふと気付けば……かの孫は……かの老僧と人ごみの中へと紛れ……そのまま……見失(みうしの)うてしまったとのことじゃった。……
 召し連れておった小者も、祖母とかの次男との最後の邂逅の様は一から十まで見申し上げ、かの祖母様(おばばさま)の話の通り、と誓(ちこ)うて御座った。
 聞く者、皆、
「……かの失踪……これ、天狗、というものの、仕業にても、あろうか?……」
と噂致いた。
 祖母耄碌という風評は、これにて家中にては絶えた、とのことで御座る。

2012/06/20

生物學講話 丘淺次郎 四 刹那の生死

       四 刹那の生死

 

 生物の個體が生活を續けるには常に外界から食物を取らねばならぬが、植物と動物とではその食物に大なる相違がある。先づ普通の植物は何を食うて居るかといふと、空中からは水と炭酸瓦斯を取り、地中からは水と灰分とを吸ふのであるが、これらのものが材料となり、相集まつて次第に植物體の組織が出來る。試に材木を燒けば、炭酸瓦斯と水蒸氣と灰とになつてしまふが、これは一度植物の體内で組合せられたものを、熱によつて再び舊の材料に碎き離したと見做すことが出來る。而して植物が灰・水及び炭酸瓦斯の如き無機成分から、自身の體を造るに當つて必要なるものは日光である。緑葉を日光が照せば、緑葉内で水の成分なる酸素・水素と炭酸ガス中の炭素とが結びついて澱粉が生じ、次に澱粉は糖分に變じ、溶けて植物體の各所に流れ行き、或は芽に達して、新たな組織を造ることもあれば、また根や莖の中で貯藏せられることもあらう。葡萄の中の糖分も、甘藷の中の澱粉も、大豆の中の油も、皆かやうにして生じたものである。日光が當れば緑葉内に澱粉粒の生ずることは、極めて簡單な試驗で、誰でも自身に試して見ることが出來る。即ち黑い紙か錫板かで葉の一部を蔽ひ、暫時日光に照らした後にこれをヨヂウム液に浸ければ、日光の當つて居た處だけはその中に生じた澱粉粒がヨヂウムに觸れて濃い紫色になるが、影になって居た處はかやうなことがない。若しアルコールで葉の緑色を拔いてしまへばそこは白くなるから、澱粉粒の出來たところとの相違が頗る明瞭に見える。かやうな次第で、植物は常に日光の力を借り、無機成分より有機成分を造り、之を用ゐて生活して居るのである。

Denpun

[澱粉實驗]

 

[やぶちゃん注:「ヨヂウム液」「ヨヂウム」は“iodine”ヨウ素 (沃素)の英名の当時の音訳。ヨウ化カリウム(Potassium Iodide)の水溶液である三ヨウ化物イオンの溶解したヨウ素ヨウ化カリウム溶液を指す。この溶液は一般には「ヨウ素液」(本件の「ヨヂウム液」)と通称され、ヨウ素デンプン反応の試薬としてお馴染みである。――が、最近では――原子力災害時の放射線障害予防薬としてこのヨウ化カリウムとしての方が人口に膾炙するようになってしまった。以下、ウィキの「ヨウ化カリウム」から引用する。『「安定ヨウ素」製剤として用いる。 動物の甲状腺は、甲状腺ホルモンを合成する際にヨウ素を必要とするため、原子力災害時等の放射性ヨウ素を吸入した場合は、気管支や肺または、咽頭部を経て消化管から吸収され、その一〇~三〇%程度が二十四時間以内に甲状腺に有機化された形で蓄積される。放射性ヨウ素はβ崩壊により内部被曝を起こしやすく、甲状腺癌、甲状腺機能低下症等の晩発的な障害のリスクが高まる』。『そのため、非放射性ヨウ素製剤である本剤を予防的に内服して甲状腺内のヨウ素を安定同位体で満たし、以後のヨウ素の取り込みを阻害することで放射線障害の予防が可能である。この効果は本剤の服用から一日程度持続し、後から取り込まれた「過剰な」ヨウ素は速やかに尿中に排出される。 また、放射性ヨウ素の吸入後であっても、八時間以内であれば約四〇%、二十四時間以内であれば七%程度の取り込み阻害効果が認められるとされる』。『本剤に副作用は少ないが、ヨウ素への過敏症や、甲状腺機能異常を副作用として惹起する可能性があるため、一般人の判断での服用は極力避けるべきである』(記号・数字等の表記を改めてある)とある。こんな注を附さねばならなくなった現代は――恐ろしく不幸な時代ですね、丘先生――。]

 之に反して、動物の方は已に出來て居る有機成分を食はねば命を保つことが出來ぬ。動物の中には植物を食ふものと、動物を食ふものとがあるが、食はれる動物は必ず植物を食ふもの、または植物を食ふものを食ふものであるから、動物の食物は、その源まで遡れば必ず植物である。されば植物なしに動物のみが生存するといふことは到底出來ぬ。而して動物の呼き出す炭酸瓦斯や、その排泄する屎尿は、また植物の生活に缺くべからざるものである。即ち植物と動物とは相依り相賴つて生活して居る有樣故、若し適當量の植物と動物とを硝子器の中に密閉して外界との交通を全く遮斷しても、日光さへ受けさせて置けば長く生存する筈であるが、實際試して見るとその通りで、硝子の試驗管に海水を入れ、海藻を少しと小さな「いそぎんちやく」一疋とを入れて管の上端を閉ぢれば、海岸から遠い處へ生きたまゝ容易に運搬も出來、また長く飼うても置ける。斯くの如く植物は日光の力によつて絶えず無機成分から有機成分を組立て、これを動物に供給し、動物は有機成分を食うて之を破壞し、舊の無機成分として之を植物に返するのであるから、同一の物質が常に循環して或る時は無機成分となり、或る時は有機成分となつて、動植物の身體に出入して居るといふことが出來やう。

Baiosufia

 

[試驗管に生物を入れたもの]

[やぶちゃん図注:本文のそれはバランスド・アクアリウム(BALANCED AQUARIUM:オーストリアの動物学者コンラート・ローレンツ(Konrad Lorenz 一九〇三年~一九八九年)が「ソロモンの指環」(一九四九年刊)で言及して有名になったので“LORENZ AQUARIUM”とも呼ばれる)の一種、若しくは試験管を密封しているから疑似的なバイオスフィア(BIOSPHERE)の紹介としては本邦の濫觴とも言えるものとも思われる。但し、上下にあるのは見るからに同一の藻類であるが、原画像を拡大してみても「動物」の指示線が何を指しているか分からず、イソギンチャクが現認出来ない。残念ながらこの挿絵は杜撰である。]

 

[やぶちゃん注:「呼き出す」は、これで「はきだす」と読む。「呼吸」と言う熟語で分かる通り、「呼」は元来が「息を吐く」の意である。]

 昔は化合物を分けて有機化合物と無機化合物との二組とし、有機化合物の方は、動植物の生活作用によつてのみ生ずるものであつて、人爲的に無機物から造ることは出來ぬと考へたが、今より百年ばかり前に有機化合物の一種なる尿素を人造し得たのを始めとして、今日では多數の有機化合物を化學的に組立てて製造し得るに至つた。藍・茜などの染料は昔はその植物がなければ出來ぬものであつたのが、今は澤山に人造せられるから、面倒な手間を掛けて藍や茜を培養するに及ばなくなつた。有機化合物中の最も複雜な蛋白質でさへ、近年は人造法によつて稍々これに似たものを造ることが出來る。されば有機化合物・無機化合物といふ名稱は便宜上今も用ゐては居るが、その間には決して判然たる境があるわけではなく、分子の組立てが一方は複雜で一方は簡單であるといふに過ぎず、然もその間には無數の階段がある。緑葉の内で澱粉が生ずるというても、無論炭素・酸素・水素が突然集まつて澱粉になるのではなく、一歩一歩分子の組立てが複雜になつて、終に澱粉といふ階段までに達するのである。また動物が死ねば、その肉や血は分解して水・炭酸瓦斯・アンモニヤ等になつてしまふが、これまた急劇に斯く變ずるのではなく、一段づつ簡單なものとなり、無數の變化を重ねて終に極めて簡單な無機化合物までになり終るのである。無機化合物から有機化合物となり、有機化合物から無機化合物になる間の變化は今日尚研究中であつて精しいことは十分に分らぬが、その一足飛びに變化するものでないことだけは確である。

[やぶちゃん注:「無數の變化を重ねて終に極めて簡單な無機化合物までになり終るのである。」の句点は読点であるが、訂した。]

 生物個體の身體の各部に就てその物質の起源を尋ねると、以上述べた如く決して同一分子が長く變化せずに留まつて居るわけではなく、一部分毎にそこの物質は絶えず新陳代謝する。毛や爪を見ればこの事は最も明白であるが、他の體部とてもやはり同樣で、役を濟ませた古い組織は順を追うて捨てられ、之を補ふ爲には新しい組織が後から生ずる。昔の西洋書には人間の身體は七年毎に全く換はると書いてあるが、これは素よりあてにならぬ説で、障子の如きものも紙は度々貼り換へる必要があるが、框の方は長く役に立つのと同樣に、人間の身體の中にも速に換はる部分と遲く換はる部分とがあらう。例へば血液の如く絶えず盛に循環して居るものは新陳代謝も頗る速であらうが、骨格などは新陳代謝が稍々緩慢でも差し支へはない。併し、とにかく常に新陳代謝することは確であるから、生物の體が昨日も今日も明日も同じに見えるのは唯、形が同じであるといふだけで、その實質は一部分づつ絶えず入れ換はつて居る。その有樣は恰も河の形は變らぬが、流れる水の暫時も止まらぬのに似て居る。生物は一種毎に體質が違ふから、人間が牛肉を食うても、決して牛の筋肉がそのまゝ人間の筋肉とはならぬ。先づ之を分解して人間の組織を造る材料として用ゐるに適するものとし、更に之を組立て直して人間の組織とするのであるが、食物をかやうに分解するのが消化の働である。また一旦出來上つた血液・筋肉等も之を働かせれば少しづつ分解して老廢物となり、大小便となつて體外に排出せられる。乳のみを飮む赤兒や、飯と豆腐とを食うた大人の大小便に色のついて居るのを見ても、大小便が單に飮食物中から滋養分を引き去つた殘りのみでないことは知れる。かやうに考へると、生物の身體は一方に於ては時々刻々に生じ、他方に於ては時々刻々死して捨てられて居るのであるが、このことに就ては世人は別に不思議とも思はずに居る。人間の身體は無數の細胞の集まりであるが、その一個一個の細胞を見たならば、今生まれるものもあり、今死ぬものもあり、若いものもあり、老いたものもあつて、恰も一國内の一人一人を見ると同じであらう。斯くの如く體内の細胞の生死は時々刻々行はれて居ても、これは當人が知らずに居るから、別に問題ともせず、たゞ細胞の集まりなる個體の生と死に關してのみ、昔から樣々の議論を鬪わせて居たのである。生物の起りに關する議論は殆ど際限のないことで、然もその大部分は假説に過ぎぬから、以上述べただけに止めて置く。

[やぶちゃん注:「框」は「かまち」で、窓・戸・障子の周囲の枠。この場合は障子の桟も含んだ謂い。

 ここで語られるのは、しばしば耳にする生物学的言説で、例えば、

〇人間の細胞は一日で約三千億個死滅する。

〇人間の体を成り立たせている細胞の総数は約六十兆個である。

60000000000000÷300000000000200で七ヶ月もすれば体中の細胞は新しいものに入れ替わる。

という謂いである(資料によっては約三千億個の細胞とは二〇〇グラム程のステーキに相当する分量とまで記す)。但し、ここで注意しなくてはならないのは、これは通常の体細胞についての、しかも極めて大雑把な機械的単純計算によるものであることだ。丘先生の言を俟つまでもなく、それぞれの部位で新陳代謝に伴う速度差があるし(早いものでは皮膚細胞は約一ヶ月であるが、脳の一部・肝臓や腎臓は凡そ一年、骨は幼児期一年半/成長期二年未満/成人二年半/七十歳以上約三年と言われる)、言わずもがな、脳細胞のニューロンや眼球を構成する細胞の一部は幼児期に器官形成した後は、欠損や老化はあっても代謝によって入れ替わることはなく、骨髄の血球を生成する母細胞及び生殖器官でも精原細胞・精母細胞・卵原細胞は分裂して精子や卵子(若しくはその元)を造るけれども、それ自体は代謝しないから、「新陳代謝によって新しく入れ替わる」という定義からは外れると言える。丘先生が「入れ替わる」ということを非科学的なニュアンスで捉えておられるのは、蓋し、正しいと言えよう。]

2012/06/19

耳嚢 巻之四 不義の幸ひ又不義に失ふ事

今日の午後、まるまる本作にかけた……
皆さんは――この私の翻案訳をどう思われるであろうか……



 不義の幸ひ又不義に失ふ事

 

 予が元へ來れる者語りけるは、當春彼仁(かのじん)召仕ひし僕は桶川近所の者にて、神道の祓(はらひ)など朝夕せし故、其出所を尋しに、桶川宿最寄の神職の次男也しが、不行跡にて親元を立出、鈴を持て所々修行抔せしが、途中にて同職の者に出合しに、彼者も倶々(ともども)修行すべしとて一同所々徘徊せしが、或村方の同職の者方へ參りて、彼連れの一人申けるは、此邊には祈禱など賴べき人も有べき哉(や)と尋ければ、右同職の者申けるは、富家の内に心當りはなけれども、是より半道計(はんみちばかり)あなたに酒造などいたし餘程の有德人(うとくびと)有りて、(不付合せも有るものにて、去年の事なるが、いづ方の者に候や女人、富家の井戸へ入りて死せしを、内々にて取出し寺へ葬りしに、當年)造り込(こみ)の酒三四本かわりて(大きなる)損失せしといふ沙汰の由語りければ、夫こそ能(よき)手段也とて、米を貮升餘飯に焚せ、黄土(わうど)の砥(と)の粉(こ)を調へ、右飯に交へ握り飯にして彼一人申付、何卒右富家の者の井戸へ是を入置くべしと差圖して、扨彼富家に至りぬ。門に立て高間が原に神とゞまりしなど鈴打振りて、八卦占ひ好(このみ)次第など申ければ、右酒屋の内より老人壹人出て手の内を與へ、さて占ひを賴む由にて酒の替りし事を言んとせしを押止め、我等占ひは此方よりさし候事と斷て、偖(さて)算木筮(ぜい)などとりて暫く考へ、大き成(なる)損をし給ふ、何れ水によりての愁(うれひ)也、酒にてもかわりしやと言ける故、大きに驚き家内一同出て尚吉凶を尋しに、去年の頃人ならば女の井戸へ入りし事あるべし、右死骸は北の方へ葬り給ふならん、彼井戸に執心も殘りて水の色も常ならじと、實(まこと)らしく申ければ大きに驚きて頻りに信仰なしける故、右は得(とく)と祈禱にても成し給はずばなをなを愁あらんといひし故、井戸を改見(あらためみ)れば、實(げに)も水の色紅(くれなゐ)なれば、何分祈禱なし給へと頻に賴し故、しからば一室を明けて五色の木綿を與へ給へ迚、祈禱科なども約束して彼一室に籠り、供物抔をそなへ、右五色の木綿を四方に張て、右の内にて晝夜かわりがわりに鈴等を振りて、三日程は品々馳走などを受て、扨井戸をかへさせ水の色も復しければ、最早愁なしといゝて、金十兩の禮物と木綿五反と申請(まうしうけ)て彼家を出、拾兩を三ツに分て跡兩人は博奕場(ばくちば)などにて右金子を遣ひ、彼知れる人の小者へもすゝめけれど、我は不知由にて斷ければ、かゝる事にて設(まうけ)し金子遣ひ捨てよと勸けれど、いかに無益なりと隨はざれば、彼兩人も心よからざる樣子故立別れて、右金子三兩を懷中し所々修行して廻りけるが、ある山家に至りて日も暮かゝりけるに、泊るべき家居なかりしに、燈の影幽(かすか)に見へしに立寄て宿を乞しに、家内に人も見へず、一人年若なる女有りしが、日暮れ難儀し給はゞ止り給へといゝしまゝ、忝(かたじけなき)由にて一宿せしに、翌の日も雨ふりて止り給へと申けれど、女の壹人ある所なればいかゞあるべしと言ひしに、一人老男來りて、何かくるしかるべきと言し故、其心に任せ、雨晴ぬれば近邊を修行し、貰受(もらひうけ)し米を携へ歸りしに、彼女右米などを仕廻(しまひ)錢など取仕廻(とりしまひ)、其外の仕向(しむけ)女房同前の取扱ひ故、思わず一兩日止宿せしが、或朝村方の者と覺しく拾四五人も彼家を取卷き、最初の老人來りて、御身若き女の一人住の所に三四日止宿ある上は、此所の聟に成て住居を極めよと動けれど、我は古郷に家督もありて終(つひ)には歸るべき身の上なれば、此所に止りがたき由言けれど、然らば女の獨り住の所に止るべき謂(いはれ)なしと、怒責(いかりせめ)けれど承知せざりければ、しからば打よ叩けよと大勢寄りて散々に打擲(ちやうちやく)し、迯(にげ)んとするを取り押へ衣類を剝(はぎ)、懷中の金子をも奪ひ取、漸(やうやう)袷(あはせ)一ツにて追放されし故、ほうぼうの體にて迯のび、とある所に立よりてしかじかの事と語りければ、其宿り給ひし女の家は癩病にて、不殘(のこらず)死絶へて彼女壹人殘りし故聟をとらんと思へど、近郷近村にては彼筋(かのすぢ)を嫌ひて誰も取組(とりくむ)者なければ、御身を引留ん爲に斯(かく)なしたるならんと語りし故大きに驚き、夫より江戸へ出て奉公を稼(かせぎ)とせしと語りし由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。但し、十七話前の「鯛屋源介危難の事」の構成類型譚で、あちらの穢多に対する誤った身分差別の意識が、ここではハンセン病の誤解と偏見に満ちた病者差別となっているもので、今の我々の感覚からすると如何にも不快な設定ではある。差別批判の視点を忘れずにお読みになられたい。なお、この主人公や同業者の職業については、「鹿島の事触れ」が最も近いように私には思われる。これは、古く毎春に鹿島神宮の神官が鹿島明神の御神託を触れて回ったことに由来する商売で、ニセ神官が吉凶・天変地異などの偽神託を触れ歩き、偽物のお札やまじない・祈禱などを生業とした者たちである。――最後に。――私は現代語訳で、女と過ごした「一兩日」を思い出すに、本話の主人公である話者の男に『何やらん、幸せで、御座いました』と勝手に言わせた。――この話の後半部は脱出に成功した/してしまった「砂の女」の主人公の話としても読める。――いや、そんなことはどうでもいい……私は……この話の最後に……彼は実は……かの村の女を哀れと感じている……と読みたいのである。……いや、私は……今の彼の毎日の朝夕の「祓」さえも……実は……あの三日の間だけ、夫婦(めおと)のように美しく純潔に触れ合った女の……「幸い」と「後生」のために……そのためだけに……秘かに行っている「祈り」ではなかったろうかと……私は……そう思っているのである……私は……そう思いたい人間なのである……。

・「(不付合せも有るものにて、去年の事なるが、いづ方の者に候や女人、富家の井戸へ入りて死せしを、内々にて取出し寺へ葬りしに、當年)」及び「(大きなる)」の括弧の右には、『(三村本)』と傍注する。これは旧三村竹清氏本(現在の日本芸林叢書本)によって補ったことを示す。私は、かの酒蔵の主人は、何かと面倒であるから、この女性変死事件を公にせず、「内々にて」――狂乱して入水した変死人としてではなく、恐らくは普通の路傍の行路死病人扱いとして――秘密裏に自家の檀那寺の無縁仏として葬ったものと推定する。そして、後の詐欺部分から推して、それをこの村の同業者は、極秘に情報を得ていたと考えるのである。そうでないと後の詐欺がそんなにうまく行くはずはないからである。そこで現代語訳では、私の推測する背景プロットを出してある。翻案ぽくなったが、この方が無理なくお楽しみ戴けるものと確信するものである。――それにしても――この前半の狂い入『水』した女は、実は後半の薄幸の癩病――生きながら業『火』に焼かれるとされた――筋の女と、奇しくも妖艶にしてシンボリックな額縁をなしているように感ぜられるのは、私の深読みであろうか?

・「桶川」現在の埼玉県桶川市。中山道桶川宿。

・「黄土の砥の粉」粘土(黄土)を焼いて粉にしたもの。刀剣の磨き粉・木材塗装・漆喰下地・目止め・漆器の漆下地等に用いた。ただ、これでは井戸の水は「紅」にはならないから、本来は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の当該箇所にあるように『殼(べんがら)・黄土を調へ』で、「紅殻」(第二酸化鉄を主成分とした赤色染料)が脱落したものと思われる。黄土を加えたのは、井戸水を如何にも毒々しく、濁った赤に染めるためであろう。「紅殻」を補って訳した。

・「何卒右富家」底本「右」は「石」。訂した。

・「手の内」乞食や托鉢僧・大道芸人などに施す金銭や米。

・「得(とく)」は底本のルビ。

・「實(げに)」は底本のルビ。

・「設けし金子」底本では「設」の右に『(儲)』と傍注する。

・「癩病」「癩」は現在はハンセン病と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。ハンセン病への正しい理解を以って以下の話柄を批判的に読まれることを望む。寺島良安の「和漢三才図会卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の項ではこの病について『此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり。』と書いている。これは「この病気は、四季の廻りの中で、秋に草木が急速に枯死する(=「粛殺」という)のと同じ原理で、何らかの天地自然の摂理たるものに深く抵触してしまい、その衰退の凡ての「気」を受けて、生きながらにしてその急激な身体の衰退枯死現象を受けることによって発病した『悪しき病』である。」という意味である。ハンセン病が西洋に於いても天刑病と呼ばれ、生きながらに地獄の業火に焼かれるといった無理解と同一の地平であり、これが当時の医師(良安は医師である)の普通の見解であったのである。因みに、マムシはこの病気の特効薬だと説くのであるが、さても対するところこの「蝮蛇というのは、太陽の火気だけを受けて成った牙、そこから生じた『粛殺』するところの毒、どちらも万物の天地の摂理たる陰陽の現象の、偏った双方の邪まな激しい毒『気』を受けて生じた『惡しき生物』である。」――毒を以て毒を制す、の論理なのである――これ自体、如何にも貧弱で底の浅い類感的でステロタイプな発想で、私には実は不愉快な記載でさえある。――いや――実はしかし、こうした似非「論理」似非「科学」は今現在にさえ、私は潜み、いや逆に、蔓延ってさえいる、とも思うのである……。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 不義なる幸いで得たものを再び不義によって失のう事

 

 私の元へよく訪ねてくる者の語ったことで御座る。

 今年の春のこと、彼の人が召し使って御座った下僕は――桶川辺りの出の者にて――朝夕、神道のお祓いなんどを、如何にもつきづきしゅう、欠かさず成して御座った故、その出自を問うたところ、桶川宿にある神社の神官の次男坊であったが、不行跡にて親元を追い出され、鈴を持っては、諸国を修行なんど致いて御座ったとのこと。……その放浪の折りのことである……

 

 ……そんな当てどない旅の途中、同じような身過ぎの者と道連れになり、

「いっそ一緒に修行せんがよかろうぞ。」

と、意気投合致しまして、連れ立って各所を徘徊致いておりました。……

 と、とある村にて、また同(おん)なじ身過ぎの者の塒(ねぐら)を訪ねた折り、その組んだ相方が、

「……この辺りにゃ、祈禱なんど、頼むような奇特なお人ももはや、御座らぬかのぅ?……」

と話を向けると、その村の騙り神官の申すことにには、

「……とんと金蔓になりそうな富裕の手合いにゃ、心当たりはなけれども……そうさの、この村から半里ほど参ったところじゃが……酒造りなんど致いて、随分と、裕福な御仁が御座るぞ。……そういやぁ、気の毒なことに、よ――去年のことじゃが――どこぞの馬の骨とも分らん女が一人……気の狂うてか、その豪家の井戸へ飛び込んで死んだを……面倒なことなれば、誰(たれ)にも知られんようにと……こっそり井戸から引き上げて、豪家のすぐ北にある檀那寺の方へ葬って済ましたことがあったそうじゃ――我らが懇意にして御座るところの、その寺僧本人からこっそり聴いたによってな、こりゃ、間違いないわ――ところが、よ……その年のこと……これまた、聴いた話によればじゃ……豪家で仕込んでおいた大酒樽の三つ四つ、何故か知らん、すっかり腐って御座って、の……そりゃもう、ひどい損を致いたという、専らの噂じゃて……」

と、それを聴いた、かの相方、

――パーン!――

と膝を打って、

「それこそ――渡りに舟――というもんじゃい!」

と叫ぶや――かの屋の男に米の二、三升も飯に炊かせ、紅殻(べんがら)と粘土の砥の子を用意の上、それを混ぜ入れて堅めの握り飯をたんと作り、かの同職の男に声を顰めて、

「……どうか一つ、こいつらをな……その豪家の井戸へ……ぽぽぽい、ぽいっと……投げ入れて来て呉れんか、の……」

と指図致いておりました。……

 さて、その翌日のこと、私とその相方、そうしてその村の同業のニセ神官と三人同道の上、かの酒造り屋形の門(かど)へと立っては、鈴高らかに振り鳴らいて、

「――高天原にィ!――神、座(ま)しましィ!――」

「――八卦ェ!――占いィ!――」

「――お好み次第ィ!――」

なんどと、何時もの調子で呼ばはれば、かの屋形の内より老人が一人出でて参りまして、我らに施し致いた上、

「……さても……一つ……占(うらの)うて呉れぬかの……実は……その、去年(こぞ)の……」

と話しかけた途端、相方、

――ザッ!――

と老人が表の正面に右掌を差し出だし――老人が原因不明の酒の腐ったことを語り出さんとするを――食ってとどめ、

「――我ら占いは――その占(うらの)うべき事から――先ず占うて存ずる――」

と老人を黙らせる。

……と、さても、やおら算木・筮竹を取り出だし、

――タ! ターン!――

――ジャラジャラ! ジャラン!――

……と、これまた、まことしやかにあれこれ並べ替えては、数えなど致いて……暫く考えておる――振りを致いて――おる。

 そうして、徐ろに、

「……さて貴殿は『去年(こぞ)』――大いなる『損』――をなされたな――そは――何か――『水』――に関わる愁いなると見た――水――酒――貴殿の造れる酒に何ぞ変わりが御座ったのではあるまいか?……」

と美事な演技で言い放てば、老人、慌てふためいて、屋敷内(うち)に走り込んだかと思うと、屋形の者ども一人残らず引き連れて参り、

「……ど、どうか! な、なっ、なおも、吉凶、占うて、下されぃイ!……」

と喉から声を絞り出して懇請する……

……相方はといえば……相変らず落ち着き払って、今度はさらに厳粛に、

「……『去年』の頃――『人』?――人ならば――恐らく――『女』――か――女が――『井戸へ落ちる』のが――見える……その女の『死骸』も見える……『北』――ここから北の方へ――その遺体はそこに貴殿が手厚うに葬られた――はずで御座った……が……待て!?……未だ……未だその井戸に……かの女の執心――これ、残って――見えるぞ!――見える!――『水』の――『水の色』が常ならぬ!……それじゃ! その井戸の水の変じるが如、酒も女の執念によって変じた! 腐ったのじゃッ!……」

とまたしてもまことしやかに申せば、一同、いよいよ驚愕、叫喚、一人残らず地に這って、我等ら三人を礼拝致いておりました故、すかさず相方が、

「……これは先ずは……とくと祈禱にてもお上げになられずんば……なおなお……禍根……これ、残しましょうぞ!……」

と申す故、誰ぞが――それは、今考えれば、かの村の同業者でも御座ったか――

「先ずは、井戸の方を改め見ん!」

と呼ばわるに、行って汲み上げて見れば……水の色……これ、まっこと……血の如く……赤こう……染まっておりました。……

……なればこそ、老爺は、

「……な、な、何分! どど、ど、どうか!……ね、ねっ、懇ろなる御祈禱、こ、これ、成したまえッ!!」

と頻りに願うので御座います。すると、やおら相方は、

「……然らば……お屋形内(うち)に一間をお空け下され、また――結界に致すための五色の木綿を我らにお与え下されよ。……」

と、ちゃっかり概算の全祈祷料なんども示して契約致しますと――さてもその宛がわれた大広間に三人して――籠りました――

――供物なんどもふんだんに供えさせ、三人してふんだんに食い――

――高価な五色の木綿を四方に張って、外からは見えぬように致し――

――昼夜、三人、代わる代わる鈴を振って、残りの二人は――喰う――寝る――遊ぶ――

――それとはまた別に、この三日の間は正式の饗応も御座いました故――

――山海珍味の品々馳走――

加えて御酒(ごしゅ)も飲み放題……

という仕儀にて……井戸の水も即日に汲み替えを命じておきましたによって……そう、三日目の朝には、すっかり元のきれいな水に戻っておりました。……

 四日目の朝、我らは、

「――これにて最早――愁い、御座らぬ――」

とかなんとか、殊勝に申しまして――

――祈祷料金十両の御礼――

――加えて褒美の、三人それぞれ木綿五反ずつ――

を申し請けて、まんまと、かの家を悠々、退去致いたので御座います。……

 

 十両は三つに山分け致しました。

 その後すぐ、他の二人は、その金子を博打場なんぞですっかり使い果たしてしまい、また私にも

「我らと同なじように――遣っちめえな。」

と、しきりに勧めましたが、私は勝負事は不調法なれば、断わりました。

「――ままよ――こうして得た銭は悪銭の泡く銭じゃて――きれいさっぱり使い果たすが、身のため、だ、ゼ――」

としつこく勧めるのですが、

「……いや……それじゃ、せっかくの金子……余りに、無益なこととなる。……」

といっかな従わずにおりましたところが……何やらん、二人はいたく気分を害した様子にて……いえ、はっきり申せば、かの二人……私の金子を狙(ねろ)うておるような気も致して参りましたによって……そこで、彼らとは、分かれたましたので御座います。……

 

 さて、私めはその三両を懐中に致いたままに、また気儘なる諸国行脚の旅に出でました。

 それから、そう日も経たぬ、ある日のことで御座いました。

 とある村里に辿り着いたところが、日も暮れかけておりましたに、泊まれそうな家もござらず、暗くなった中、燈火(ともしび)の幽かなに見えたに立ち寄り、一夜(ひとよ)の宿を乞うたところ、家内には一人、年若き女があるばかりにて、他に人気はまるで御座いませなんだ。――

「――日暮れて難儀なさっておられるのであらば――よろしければ――お泊り下さりませ――」

と申しますによって、言葉のまま、

「忝(かたじけな)い。」

と申して、一泊致しました。――

 翌の日も雨が降っており、女は、

「――お留まりなさいませ――」

と申しましたが、流石に、

「……女子の一人住まいなれば……如何なものかと……思うて御座れば……」

と言い澱んでおりましたところへ、女の知り合いと思しい一人の老人が訪ねて参り、

「――何んの。何の不都合が御座ろうか。留まられるがよかろうぞ――」

と、やさしゅうにこれも勧め下さる故、その親切に甘えまして……その翌日は流石に雨の上がって晴れましたが、かの村里を中心にその近辺を渡り歩いて、貰い請けた米や銭を携えて女の家へと帰ってみると――

――かの女はその米をありがたくおし戴き――

――銭も神仏に祈願致いて仕舞い置き――

――米をかいがいしく炊き――

――ともに食い――

――ともに語り――

――ともに笑うて……

……そんな……そんな私に向ける……

――その眼――

――その仕草――

――その表情……

……これ……もう……女房も同然にて……私もあたかも……夫のように……

……何やらん、幸せで、御座いました……

……思わず、丸三日も止宿致いて御座ったのです。……

 

 ところが、その翌朝のことでした。

 村方の者と思しい、十四、五人の者が、

――ザザッ!――

とこの家を取り巻き、最初に訪ねて御座った老人が私の前に進み出でて、

「……お主……若き女の一人住まいのところに……三、四日止宿致いた上は……ここの――婿――となって棲み家と定めよ!――」

と打って変わった強面(こわもて)にて断言致すでは御座いませんか。

「……い、いえ……そ。そ、その……わ、我らには、こ、故郷に……つ、つ、継ぐべき家も、ご、御座ればこそ……い、何時かは帰らねば、なりませぬ、み、身の上にて……こ、ここには、と、とてものこと……と、留まること、で、出来にくう、ご、こ、御座いますれば、こ、こそぉ……」

と申しましたそばから、

「――何じゃとぅ!? 然らば――いたいけな女子(おなご)の一人住まいに――留まってよい謂われなんぞ――ないわッツ!!」

と、突如、老人は怒って、口汚く罵り、さんざんに責め立てましたが、私は遂に、承知致しませなんだ。……

「ようし! 分かった! 然らば! 皆の者! この男! 打っ殺せ! 叩っ殺セい!!」

と、知らぬ間に膨れ上がって御座った村人らが、大勢で私をとり囲んで、散々に、

――殴る

――蹴る

――打(ぶ)つ

――叩く

――逃げんとするところを取り押さえられて……

――身ぐるみ剝がれ……

――懐中の金子も……ビタ一文残さず奪い取られてしまいました。……

……そうして……そうして、お恥ずかしい……お目こぼしの袷(あわせ)一つで……豚の死骸の如、放り出されてしまいましたので御座います……。

 

 ……それでも……その村里を……這々(ほうほう)の体(てい)にて逃げのびまして……その近在の別の村の、とある屋にお世話になることとなり、お助け頂きまして御座います……。

 ……半死半生の状態から、やっと生気を取り戻いて、かのお助け頂いた方に、これまでの事を、かくかくしかじか、お話申し上げましたところ……

「……お前さん……お前さんが泊まったという、その家は……この辺でも知られた、癩病筋の、家じゃ……癩がために残らず死に絶え……かの娘一人が、生き残っておる家じゃによって……村の者どもも、かの娘を哀れに思うて……婿を取ってやろうといろいろ致いたのじゃが……この近郷近村にては……かの筋は最も忌みきらわれるもので、の……かの家のことも……もうすっかり知れ渡って御座ったれば……誰(たれ)も、その話には、取り合わなんだ。……されば、他所者(よそもん)のお前さんを――渡りに舟――と、引き留めんがため……かくも企略を致いたもので、あろうのぅ……」

と……語って下さいました。……

 

……ええ……私も、ひどく驚きまして……それよりすぐ……逃げるように江戸へ出で……かく、奉公させて戴いておりまする次第にて……御座いまする……



8539
Boccaccio Boccaccino Gipsy girl 1516

(ウフィツィ美術館所蔵)

鎌倉攬勝考卷之二 鶴岡總説 終了

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之二」を「鶴岡總説」までテクスト化注釈した。

最後のパートは――知る人ぞ知る――関東管領上杉謙信鶴岡八幡宮拝賀の儀、その太鼓橋の前の成田長泰との一悶着の一件――戦国好きにはたまらないシークエンス――であろうが――僕の守備範囲には戦国が含まれないため――実は結構、注釈に困った。お暇な折りにそこだけでもご笑覧あれ。

2012/06/18

耳嚢 巻之四 産物者間違の事 その二

   又

 

 近き頃産物者の判斷にて鐵木也とて、眞黑に至て堅き物の長さ五六寸にて四五寸廻りの物を所持せし人あり。いづれ奇品迚(とて)机上に調寶せしを、上總より抱へし下女是を見て、是は何ゆへ調寶なし給ふやと尋し故、鐵木と云物也と答へしかば、彼婢女(はしため)大きに笑つて、我々の國にはいくらも有品也、海中のあらめの根にて、食料にもならざる故取捨候品の由を申ける故、暫く寵愛せし鐵木、一時に寵衰へけるもおかし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「博物学者誤認の事」その二。

・「鐵木」「鉄刀木」と呼ばれたマメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサン Senna siamea のことと思われる。東南アジア原産で、本邦では唐木の代表的な銘木として珍重された。材質硬く、耐久性があるが加工は難。柾目として使用する際には独特の美しい木目が見られる。他にも現在、幹が鉄のように固いか、若しくは密度が高く重い樹木としてテツボク(鉄木)と和名に含むものに、最も重い木材として知られるキントラノオ目 Calophyllaceae 科セイロンテツボク Mesua ferrea・クスノキ科ボルネオテツボク(ウリン) Eusideroxylon zwageri・マメ科タイヘイヨウテツボク(タシロマメ)Intsia bijuga が確認出来るが(これらは総て英語版ウィキの分類項目を視認したものだが、どれも種としては縁が遠いことが分かる)、これは英名の“Ironwood”の和訳名で、新しいものであるようだ。

・「あらめ」褐藻綱コンブ目コンブ科アラメ Eisenia bicyclis。種小名の bicyclis は「二輪の」で、本種の特徴である茎部の二叉とその先のハタキ状に広がる葉状体の形状からの命名である。かつては刀の小刀の柄として用いたほど、付着根とそこから伸びる茎部が極めて堅牢である。太平洋沿岸北中部(茨城県~紀伊半島)に分布し、低潮線から水深五メートル程度までを垂直分布とする。茎が二叉に分かれ、葉状体表面に強い皺が寄る。似たものに、カジメ Ecklonia cava とクロメ Ecklonia kurome があるが、カジメは太平洋沿岸中南部に分布し、水深二~十メートルまでを垂直分布とし、茎は一本で上部に十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るものの、葉の表面には皺が殆んどない点で区別出来、クロメは、カジメよりもやや南方に偏移する形で太平洋沿岸中南部及び日本海南部に分布し、垂直分布はカジメよりも浅く、二種が共存する海域では、カジメよりも浅い部分に住み分けする。茎は一本で上部にやはり十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るが、葉の表面には強い皺が寄っている。また、乾燥時にはカジメよりもより黒くなる。但し、クロメの内湾性のものは葉部が著しく広くなる等の形態変異が極めて激しく、種の検討が必要な種とされてはいる(以上の分類法等は二〇〇四年平凡社刊の田中二郎解説・中村庸夫写真の「基本284 日本の海藻」に依った)。以上は、私の電子テクスト、寺島良安の「和漢三才圖會 卷九十七 藻類 苔類」で私が注したものを省略加工して示した。よろしければそちらも参照されたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 博物学者誤認の事 その二

 

 最近のことにて御座る。

 学者の鑑定によって「鉄木――銘木タガヤサン――に間違いなし」とされた――漆黒・材質極めて堅牢・全長十五~十八センチメートル・周径十二~十五センチメートル――品を所持して御座ったお人があった。

 何れ、世にも稀なる奇品なりと、机上に厳かに飾り置いて大事にしておったところが、ある日のこと、家に召し使(つこ)うておった上総より雇うて御座った下女、これを見て、

「……あのぅ……だんなさん……これは……はあ、まあ、こんなもんを……どうして、こんなに大事になさって、おられるんか、のぅ?」

と訊ねる故、田舎丸出しの無知なる婢女(はしため)なればと憐みの目を向けつつ、如何にも荘重に、

「――これは、の――鉄木と言うて、の――世にも稀なる、宝物(ほうもつ)にも値するもの、な、の、じゃ――」

と言うた。

――と――

それを聞くなり、婢女、大いに笑(わろ)うと、

「……だんなさん!……おいらの国ににゃ、こんなもん、いくらもあるじゃ!……海ん中のアラメの根えで、食いもんにもなんねえから、いっとう先に捨てっ、ちまうじゃ!――」

と申した。……

 ……永きに亙って重宝なりとして大切にして御座った、奇品にして稀品のはずの『鉄木』が――これ、一瞬にして愛玩の情失せしとは――これ、実におかしきことじゃ。

耳嚢 巻之四 産物者間違の事

 産物者間違の事

 

 或人三年酒を德利に入て仕廻忘れしに、七八年其餘も立て、藏の掃除などに取出せしに、德利もわれ何か底に殘りし一塊の有しを、人々よりて何ならんと疑ひし上、右一塊を奇麗にとり分て、事を好む者淸壽館(せいじゆかん)へ持行しに、諸醫判斷の上、上品のミイラ也と札を付し由。彼持主微笑せしと人の語りけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせないが、強いて言えば、ある意味、誰にも大きな損害を与えぬ怪しき騙りという繋がりはあるか。最後の「微笑」が――いいね!

・「産物者」学者。博物学者。

・「三年酒」一般に落語などで聞く「三年酒」は飲んだら三年目覚めないという都市伝説の秘酒であるが、ここは今流行りの古酒、三年寝かせた日本酒である。

・「何か底に殘りし一塊」三年酒の腐敗後の酒精滓か。有意に有形の固形物であるなら、何らかの外力によって徳利が割れて酒が流出するも、まだ幾分かが底部に残っていた折りに、破損個所から侵入した小動物(比較的大型の昆虫や節足動物・トカゲのような小型爬虫類・鼠の子のようなものが考えられる)が、そこでそのまま死亡し、乾燥したものと考えられる。最初はアルコールによる一種の液浸標本のようになり、その後にゆっくりと乾燥したと考えると文字通りの「ミイラ」で面白い(ここでの「ミイラ」は後注するように、所謂、生物体のミイラではないが)。

・「淸壽館」「躋壽館」が正しい。幕府の医学専門学校。現在の台東区浅草橋清洲橋通りにあった。明和二(一七六五)年、幕府奥医師多紀元孝(元禄八(一六九五)年~明和三(一七六六)年)が漢方医教育のために神田佐久間町に建てた私塾躋寿館を元とし(没年を見て分かるように創立の翌年に多紀は亡くなっている)、寛政三(一七九一)年に、医師養成の必要性を認めた幕府が官立の幕府医学館とした。台東区教育委員会の記載によれば、敷地約七千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保十四(一八四三)年には寄宿舎を増設して全寮制となり、広く一般庶民からの入学を許可、江戸後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献したとある。――さすれば、この記事、その最初期の(官立になってからと考えた方が面白い)、その象牙の塔の誉れに、少しばっかり、ちゃちゃを入れるものとして、面白いではないか。

・「ミイラ」先にも記したが、これは所謂、「ミイラ」ではなく、ああした「ミイラ」を原料にして作られたと考えられていたフウロソウ目カンラン科コンミフォラ(ミルラノキ)属 Commiphora の樹木から分泌される樹脂を原料とした「没薬(もつやく)」を指している。ウィキ没薬によれば、没薬とは、ミルラ(あるいはミル、Myrrh)とも呼ばれ、『ミルラも中国で命名された没薬の没も苦味を意味するヘブライ語のmor、あるいはアラビア語のmurrを語源と』しており、『古くから香として焚いて使用されていた記録が残されている。 また殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた。 古代エジプトにおいて日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。 またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。 ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』とする。『聖書にも没薬の記載が多く見られ』(具体はリンク先を参照)、『東洋においては線香や抹香の調合に粉砕したものが使用されていた』とある。形状は『赤褐色の涙滴状』の固まりで、『表面に細かい粉を吹いたような状態となる』とあり、リンク先の画像を見る限りでは、本件は徳利が割れた際に外部から雑菌や異物が入って腐敗が進行、その沈殿物が後にまた時間をかけて乾燥固形化したものという風に考えた方がよさそうだ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 博物学者誤認の事

 

 ある人、三年酒を徳利に入れて大事大事に箱に仕舞(しも)うたはよいが、それを、すっかり忘れて仕舞うて御座った。

 

 さて、七、八年も経って、蔵の大掃除なんど致いたところ、見つけて箱から取り出だいて見たところが、徳利は割れて仕舞うて酒はとうに一滴たりと残ってはおらず――ただ、その乾き切った、もと徳利の底と思しい辺りに――何やらん、得体の知れぬ――塊りが一つ――御座った。――

 家内の人々、打ち寄って、

「……何じゃろ?……」

と、皆して矯めつ眇めつするも――分らぬ。――

 

 さて、ここにある悪戯好きな男が御座った。

 彼、この異物を、当時の天下の躋寿館(せいじゅかん)へ――以上の事実を総て隠して、飽くまで出所不明の奇体なる異物という触れ込みで――持ち込んだところが、……

……居並ぶ医師ども……

……額に皺寄せて頻りに論議致いて御座ったが――

「――よく精製されたところの、所謂、ミイラと同定される。」

と決し、定式標本として恭しく箱に収められ、

――上品 木乃伊――

と記した標札を添附の上、医学館の棚に飾られることと相い成ったそうな。――

 

 かの三年酒の元の持ち主、これを聞いて微苦笑した――と、ある人の語った、ということで御座る。

耳嚢 巻之四 初午奇談の事

 初午奇談の事

 

 寛政八年の初午は二月六日也けるが、其已前太鼓の張替抔渡世とせる穢多(ゑた)、本郷邊を通りしに、前田信濃守屋敷前にて、家僕とも見へる侍、太鼓の張替を申付、則破れし太鼓を渡しける故、其價を極めて右の侍は何の又左衞門と申者の由申ける故、右穢多は太鼓を張替、初午前日とかやに前田の屋敷へ至り、又左衞門と申人より誂へ給ふ太鼓出來の由門にて斷ければ、又左衞門といへる用人はあれども、年恰好抔は右穢多の申處とは相違せし上、太鼓張の儀又左衞門より申付候事なし、さるにても稻荷の太鼓を改見べしとて、社頭に於ゐて搜しければ太鼓なし。棄て破れ古びし太鼓の新らしく成りし事の不思議なりととりどり申けるが、價貮百疋餘の極を、穢多も右不思議にて直段(ねだん)を引下げしと人のかたりし。狐などの仕業や、又穢多或は前田家の家士の仕業にや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:先の妖狐譚と軽く連関。……でも……これは一体誰で、何の目的だったのか……ホームズに真相の謎解きをして貰いたい欲求に駆られるのは、僕だけであろうか?……ただの愉快犯とは……どうしても思えない、というのが私の習性なんである……

・「寛政八年の初午」全国の稲荷社の本社伏見稲荷神社の神が降りた日が和銅四(七一一)年二月の初午であったことから、全国で稲荷社を祀る。和暦サイトで確認したが、寛政八年の初午は壬午(みずのえうま)で、確かに二月六日である(グレゴリオ暦では一七九六年三月一四日に相当)。

・「穢多」平凡社「世界大百科事典」より引用する(アラビア数字を漢数字に、句読点及び記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって十七世紀後半から十八世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。一八七一年(明治四)八月二十八日、明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが,これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ,「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては,鎌倉時代中期の文永~弘安年間(一二六四~八八)に成立したとみられる辞書「塵袋(ちりぶくろ)」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また,ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが,末尾の「穢多」の二字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は,鎌倉時代末期の永仁年間(一二九三~九九)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では,鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取(えとり)」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』(著作権表示:横井清(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

・「前田信濃守」前田長禧(まえだながとみ 明和二(一七六五)年~文化二(一八〇五)年)は、江戸時代の高家旗本(高家は幕府の儀式や典礼を司る役職で朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があることから武家としては高い官位を授けられた)。安永九(一七八〇)年に高家職に就き、従五位下侍従伊豆守、後に信濃守。

・「貮百疋」既出であるが、一般には一貫=一〇〇疋=一〇〇〇文であるから、二〇〇〇文。平均的金貨換算なら三万三千円ほどになる。因みに、現在、和太鼓の皮は牛皮を用いるが、ネット上の一頭分販売価格(張替価格ではなく太鼓の皮用の単品)で六万円を超え、張替となると、ある業者では二尺のサイズ両面張替二十八万三千五百円とある。稲荷の太鼓で、その場で渡せる大きさだから小さいものとしても、それでも一尺四寸もので十二万六千円である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 初午奇談の事

 

 寛政八年の初午は二月六日で御座った。

 それより少し前のこと、太鼓の張替なんどを生業(なりわい)と致いて御座った、とある穢多の身分の者、本郷近辺を通りかかったところが、高家前田信濃守長禧(ながとみ)殿御屋敷前にて、かの家僕と見え候う侍出でて呼び止められ、太鼓の張替を申し付けられ、その場で破れた太鼓を渡されたが故、品物見定めた上、張替修理費用概算を見積もって御座ったところ、相手はそれで頼むとの由。侍の姓名を問うたところ、又左衛門某なる由。

 さても請け負うたかの者、頼まれた日限までに――聞くところによると、それは初午の前日で御座ったらしい――太鼓の皮、しっかと張り替えた上、かの前田殿が御屋敷へと参上致いた。

「――又左衛門と申されるお方より、誂えるよう承りました太鼓の皮張り替え、出来申して御座りまする――」

と門番に言上致いた。

……が……

……どうも……おかしい……

……仔細を訊ねた門番……御家中に又左衛門某なる用人は確かに御座る……御座るが……どうもかの者に皮張替を依頼した人物の、その年格好なんどを聴くに……その者の申すのとはえろう違(ちご)うて御座った……まずはともかくと、又左衛門某に門前へ出向いて貰(もろ)うたが……かの者も、このお方とは違う、と言う……いや、そもそもが……又左衛門某も太鼓の張替なんどは、申し付けた覚え、これ、御座ない、とのこと。

 そうこうするうちに、御家中の者どもが集まって来、皆して、

「……それにしても、よう分らんことじゃ……」

「……ともかくも、屋敷内の稲荷の太鼓じゃて……」

「……そうじゃ、まずはそれ、改め見ようと存ずる……」

ということに相い成り、屋敷内の稲荷の社を探いてみたところが……ちゃんと納めて御座ったはずの太鼓、これ……

……ない……

 皆々、

「……いや、確かに長く破れ古びた太鼓にては御座った……」

「……それが、その……新しくなって戻ったとは……」

「……こりゃ、いっかな……不思議なることじゃ……」

と口々に申して御座った。

 かの者の申し受けた値段は二百疋ちょっきりで御座ったが、かの者も、

「……へえ……かくなれば……不思議なることなればこそ……」

とて、言い値を引いて、えらい安うに手を打った、とのことで御座る。

――さても狐なんどの仕業か――はたまた実は、その穢多の謀ったことか――いや、或いは前田家御家中の中の悪戯好きの家士の仕儀ででも御座ったか――一向に分らず仕舞いで御座ったそうな。

2012/06/17

鎌倉攬勝考卷之二 始動

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之二」を始動した。

「建久三年八月十五日供養の放生會終て同舞樂を修せる迦陵頻並胡蝶の一樂なり舞童是を修せり」とする二枚の絵が圧巻である。御覧あれ。

生物學講話 丘淺次郎 三 生物の初め

     三 生物の始め

 

 かやうに生物の個體の起りと種族の起りとに就ては、ある程度まで確な答が出來るが、抑々生物なるものは最初如何にして生じたものであるかとの問に對しては、今日の所、學問上確と見做せる答はない。併し答の出來ぬ所を何とか答へたいのが人間の知的要求であると見えて、今まで種々樣々の想像説が持ち出された。そのなかには初めから相手にするに足らぬと思はれるものもあれば、また比較的に無理の少ない穩當な説と思はれるものもある。地球は始め熱した瓦斯の塊で、次には鎔けた岩の塊となり、その後段々冷却して今日の有樣になつたものであらうとは、天文學上確らしい説であるが、これから考へると、地球の表面には最初から生物があつたわけではなく、地面が冷めて生物の生活に適する狀態になつてから生物が現れたものに違ひない。然らばいつ頃如何なる生物が初めて生じたかと尋ねると、前にいうた通り想像説を以て答へるの外に仕方はない。或人は地球上の生物の先祖は、流星の破片にでも附著して天から降つて來たのであらうと説いたが、これなどは如何にも眞らしからぬのみならず、かりに眞としても流星に著いて居た生物は如何にして生じたかといふ問が更らに起こる故、單に疑問を一段先へ推しやつただけで、實は何の解決をも與へぬ。また或人は、地球の尚熱して温度の高かつた頃は、今日と違つて種々の化學的變化も盛に起つたであらうから、無機物から生物の生ずるのに必要な條件が具はつて居たのであらうと論じて居るが、これは或はそうかも知れぬ。併しながらその條件とは如何なることであつたかは全く分らず、隨つて今日はそのやうな條件が具はつて居ないと斷然いひ切ることも出來ぬ。當今多數の學者は、生物が無機物から生じたのは地球の歷史中のある時期に起つたことで、今日は最早その頃とは地球の狀態も異なつて居るから、無機物から直に生物の生ずる如きことは決してないと考へて居るやうであるが、この説は實際如何ほどの根據を有するものであろうか。

  親なくして生物の生ずることは決してないといふ今日の考へは、多くの實驗の結果であつて、その應用に誤りのないところを見ると、恐らく疑いなく確なことであらうが、地球が昔は生物の生活に適せぬ火の塊であつたとすれば、その後いつか一度初めて生物の生じたといふ時があつたに違ひなく、その生物には親はなかつたに相違ない。また今日と雖もどこかで、無生物から漸々生物が出來て居るかも測り難い。なぜといふに最も簡單な生物は最も微細なもので、現に黴菌の類には千倍、二千倍に擴大せねば明に見えぬものもあり、病原の中には微生物であることが餘程確に思はれながら、最高度の顯微鏡を用ゐてもその正體を見出すことの出來ぬものもある。それ故、無機化合物から漸々複雜な分子が組立てられ、終に生物が出來たとしても、これは決して直に形には見えぬであらう。我々が見てこれは明に生物であると考へるものは、已に生物として幾分か進歩したもので、まだこの程度に達せぬ前のものは、あるいはこれを見ることが出來ぬやも知れぬ。されば種々の實驗によつて、生物は決して親なしに生ずるものでないといふことが確になつても、これは已に幾分か進歩した明な生物についての論であつて、出來始まりの生物が無機物から漸々生ずることも、決してないと斷言することは出來ぬ。

 前にも述べた通り、生物の個體は必ず親から生じ、生物の種族は長い間に漸々變化して終に今日の姿に達したものとすれば、今日の生物は皆長い歴史の結果である。斯く長い歴史の結果として生じた生物各種と同じものが、今日それだけの歴史を經ずして突然生ずることは到底出來さうに思はれぬが、その歴史の最初の生物に似たものが、今も尚生じつゝある如きことはないかとの問に對しては、否と確答するだけの證據はない。著者の考によれば、無機物から生物になるまでには無數の階段があつて、その間の移り行きは、恰も夜が明けて晝となる如く、決して之より前は無生物之より後は生物と、判然境を定めて區別すべきものではない。地球の表面に初めて生物が出來たといふ時も恐らくかやうな具合で、簡單な化合物から漸々複雜な化合物が生じ、いつとはなしに終に生物と名づくべき程度までに進み來つたのであらう。されば今日と雖も、かやうなことの行はれ得べき條件の具はつてある場合には、無生物から生物の生ずることがあるべき筈で、若しかやうな場合を眞似ることが出來たならば、人爲的に無生物から生物を造ることも出來ぬとは限るまい。新聞か雜誌にときどき出て來る生物の人造といふのは、現今人の知つて居る如き進歩した生物を試驗管内で突然生ぜしめるとのことであるゆえ、これは恐らく無理な註文であらうが、生物の出來始めの程度のものを造るといふことならば、これは決して不可能であるといひ放つことは出來ぬであらう。要するに、生物のなかつたところに新に生物の生ずるのは如何なる場合であるかといふ問に對しては、我等の知識は極めて貧弱であつて、今日の所到底滿足な答は出來ぬ。たゞ實驗によつて、消毒した鑵の内に自然に黴菌の生ずる如きことはないといふことを、確に知り得たのみである。

[やぶちゃん注:丘先生からは評価の低いパンスペルミア説であるが、本説に肯定的な資料をウィキの「生命の起源」から抜粋しておく。まず支持者の中で注目すべきは『DNA二重螺旋で有名なフランシス・クリック』が挙げられよう。また前章注で示した通り、『パンスペルミア説はオパーリンの論じた化学進化よりも時代的に先行している生命の起源に関する仮説の一つであるが、仮説とするには余りにもブラックボックスが多いと考える学者は大勢いた。一見、判らないものは宇宙に由来させよう、という消極的な考えに見えるが、「地球上で無機物から生命は生まれた」ということを否定しているのみで、また化学進化は否定していない』点には着目しておくべきであろう。『この説は化学進化と同様現在でも支持されている学説の一つで本仮説の可能性を示唆出来るデータとして以下の項目が掲げられている。一つは、三十八億年前の地層から『真正細菌らしきものの化石が発見されている。地球誕生から数億年でこのようなあらゆる生理活性、自己複製能力、膜構造らしきものを有する生命体が発生したとは考えにくい。パンスペルミア説では有機物から生命体に至るまでの期間に猶予が持て』るとし、次に、『宇宙から飛来する隕石の中には多くの有機物が含まれており、アミノ酸など生命を構成するものも見られ』、彗星の中の塵にさえ『アミノ酸が存在すること確認されている』点、『地球の原始大気は酸化的なものであり、グリシンなどのアミノ酸が合成されにくい』が、『酸化的な原始大気でも隕石が海に衝突する際の化学反応で、アミノ酸などの有機物が合成できるという発表もある』等、『特に、地球誕生後数億年で生命体が発生したと言う点で、パンスペルミア仮説が支持されることが多い』 と書かれている(但し、この最後の部分には「要出典」が請求されている)。最後に『二〇一一年、日本の海洋研究開発機構で、大腸菌など、五種類の細菌を超遠心機にかけ、超重力下での生物への影響を調べる実験が行われた。その結果、五種とも数千から数万Gの重力の下でも正常に増殖することが確かめられ、中には四〇万三六二七Gもの重力下でも生育した種もあった。地球に落下する隕石の加速度は最大三〇万Gに達すると予測されており、この実験は、パンスペルミア仮説の証明とはならないが、このような環境を生き延びる可能性を示している』と附言されている(最後の引用はアラビア数字を漢数字に直した)。但し、この仮説は丘先生が止めを刺しておられるように、『流星に著いて居た生物は如何にして生じたかといふ問が更らに起こる故、單に疑問を一段先へおしやつただけで、實は何の解決をも與へぬ』という点で、他の生物起源説と並べて等価に評価出来ない弱点があることは事実である。しかし丘先生の言を逆手に取れば、今現在、そうした原初生物の発生に類する現象が認められず、アルケミーよろしく実験をしてみてもそうした片鱗も見いだせないという事実は、寧ろ、パンスペルミア説をどうしてもとっておくべき必要がある、とも言えるであろう。]

鎌倉時代の四股名って面白い

角觝 建久三年八月十四日、廻廊の外庭に於て相撲の取手を召決せられ、右大將家御覧、藤判官邦通奉行す。

 一番 奈良ノ藤次   相手 荒次郎
 二番 鶴次郎      同  藤塚目
 三番 犬武五郎    同  白河ノ黑法師
 四番 佐賀良江六   同  傔伏太郎
 五番 所司ノ三郎   同  小熊ノ紀太
 六番 鬼王        同  荒瀨ノ五郎
 七番 紀六        同  王鶴
 八番 小中太      同  千手王

[やぶちゃん注:「角觝」は音は「かくてい」、これで「すまう(すもう)」とも読ませる。「角」は爭う、「觝」は触れるの意で、力比べや相撲をすること。中国起源。この建久三(一一九二)年八月十四日の「吾妻鏡」の条を見ると、翌日行われる次の項の放生会の神前奉納相撲の取手の予選会として行われていることが分かる。上段が勝ち力士である。「傔伏」は「傔杖」の誤植。鎌倉時代の四股名は自由で、プロレス並みに面白いではないか。幾つかを読んでおくと、「藤塚目」は「ふじつかめ」、「犬武五郎」は「いぬたけのごろう」、「白河ノ黑法師」は「しらかはのくろはうし」(若しくは「くろほっし」か「くろぼし」だが、「くろぼし」じゃ縁起が悪いか)、「佐賀良江六」は「さがれえのろく」、「傔杖太郎」は「けんぢやうたらう」、「小熊ノ紀太」は「こぐまのきた」、「鬼王」は「おにわう」、「王鶴」は「わうづる」(これは今でも使えそう)であろう。
「藤判官邦通」藤原邦通(生没年未詳)は頼朝の初期の右筆。有職故実に通じ、博覧強記、頼朝の旗挙げ以来の近臣である。緒戦の山木判官兼隆襲撃の際には、『直前に、酒宴にかこつけて兼隆の館に留まり、周囲の地形を絵図にして持ち帰り、それを基に頼朝達が作戦を練った』と伝えられる(以上はウィキの「藤原邦通」に拠った)。]

耳嚢 巻之四 珍物生異論の事

 珍物生異論の事

 

 大前何某の娘を外へ嫁(か)しけるに、右緣家の家僕ことの外骨折りし故、大前より提物(さげもの)を與へけるに、寛政九年の春右家來大前の元へ來りて、拜領の提物付(つき)候桃核(ももざね)の紐〆(をじめ)を、松平能登守殿醫師山田宗周といへる者來りて一覧の上、兼て人に賴まれ候間貸し呉候樣申故、其乞(そのこひ)に任せける處、其後右の醫師來りて、右紐〆の事は、兼て東海寺地中淨惠院に被賴(たのまれ)し故借り受し也、右子(ね)仔細は運慶の作にて東海寺に持傳へし十六羅漢を彫し桃核の紐〆什物(じふもつ)たる所、四五年已前右之内一つ紛失せしゆへ、見當り候はゞ取戻の儀世話いたし呉候樣賴(たのみ)に付、此間の紐〆を借受爭惠院へ見せ候處、紛失の品に無相違(さうゐなき)間、價ひは高料にて候共取戻し度(たき)由切に賴(たのむ)由を申候、給(たまはり)候物故伺(うかがふ)由申ける故、大前聞て、右桃核の紐〆は親の代より持傳へし品にて、幼年より五十年來所持の處、東海寺紛失の品と聞て與へば、東海寺の什物盜物(たうもつ)を買調ひ候に當り何共不相濟(なんともあひすまざる)事故、御身には外の紐〆可遣(つかはすべき)間、取戻し呉候(くれさふらふ)樣急度申談(きつとまうしだんじ)、代りには珊瑚珠(さんごじゆ)の玉を與へける故、漸(やうやく)に取戻し返しけるが、如何いたしけるや不思議成事と人にも咄、右類は幾つもあるべき事と尋しに或人のいへるは、右は東海寺の僧不存(ぞんぜざる)由の儀にて、右類は世に數多(あまた)ある品を、什物の十六羅漢の外はなき物と心得し故ならん、虞初新志(ぐしよしんし)といへる書に左(さ)の通有(とほりあり)と言(いひ)し故、安堵の思ひをなせしと大前語りける。

   記桃核念珠    經進文稾    高士奇

得念珠一百八枚、以山桃核爲之、圓如小櫻桃、一枚之中、刻羅漢三四尊、或五六尊、立者、坐者、讀經者、荷杖者、入定於龕中者、蔭樹趺坐而説法者、環坐指畫論議者、祖跣曲拳、和南而前趨而後侍者、合計之、爲數百五、蒲團竹笠、茶奩荷策、缾鉢經卷畢具、又有雲龍風虎、獅象鳥獸、戲猊猿猱、錯雜其間、初視之、甚了了、明窓浮几、息心諦觀、所刻羅漢、僅如一粟、梵相奇古、或衣文織綺繡、或衣袈裟、沓絺褐、而神情風致、各蕭散於松柏巖石、可謂藝至矣。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:武辺物ではないが、武士の節が関わることから、緩く連関しているように見える。

・「珍物生異論の事」は「珍物、異論を生ずるの事」と読む。

・「提物(さげもの)」腰にさげて持ち歩く印や巾着、煙草入れなどの総称。「こしさげ」とも言う。ここは印籠ととって訳した。

・「寛政九年」西暦一七九七年。

・「桃核(ももざね)の紐〆(をじめ)」の「紐〆(をじめ)」は「緒締」で、穴に口紐を通し、印籠・巾着・袋などの口を締めるもの。多く球形で玉・石・動物の角・象牙・金属・珊瑚などを素材とする。緒どめ。ここは桃の種に彫刻を施し、孔を開けて紐を通して印籠の口を締めるものとしたものと採っておく。

・「松平能登守」諸注は名を記さないが、美濃岩村藩第四代藩主松平乗保(寛延元(一七四八)年~文政九(一八二六)年)。当時は西丸若年寄で、後に老中となった。偶然と思われるが寛政九年は数え歳五十歳で、主人公の大前某と同世代であることが知れる。

・「山田宗周」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『山田宗固』とある。不詳。

・「東海寺地中淨惠院」は東京都品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派の万松山東海寺の塔頭浄恵院(現存)。ウィキの「東海寺」によれば、寛永十六(一六三九)年に徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建、沢庵を住職とし、沢庵禅師所縁の寺であるが、明治六(一八七四)年に寺領が新政府に接収されて衰退したとある。

・「子(ね)」この読みは自信がないが、恐らく「根付」のことと判断して、かく読んだ。厳密には「根付」と「緒締」はセットになった別個な部品名であるようだが、ここでは同じものとして考えた。

・「與へば」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『与へ置かば』とある。こちらの方が意味の通りがよいので、それで訳した。

・「盜物(たうもつ)」の読みは自信がない。

・「虞初新志」明末清初の張潮撰になる小説集。以下は巻十六にある(底本では全体が二字下げ)。「維基文庫」(中国語版ウィキ)の「虞初新志 巻16」から原文全文を引用しておく(一部の漢字を変え、カンマと「:」を読点に、読点を「・」に、「《 》」を鍵括弧に代え、「!」は句点に変えた)。

 

記桃核念珠

──高士奇(澹人)

得念珠一百八枚、以山桃核爲之、圓如小櫻桃。一枚之中、刻羅漢三四尊、或五六尊。立者、坐者、課經者、荷杖者、入定於龕中者、蔭樹趺坐而法者、環坐指畫論議者、袒跣曲拳和南麵前趨而後侍者、合計之、爲數五百。蒲團、竹笠、茶奩、荷葉、瓶缽、經卷畢具。又有雲龍・風虎・獅象・鳥獸・狻猊・猿猱錯雜其間。初視之、不甚了了。明窗淨幾、息心諦觀、所刻羅漢、僅如一粟、梵相奇古。或衣文織綺繡、或衣袈裟水田絺褐。而神情風致、各蕭散於鬆柏岩石。可謂藝之至矣。

向見崔銑郎中有「王氏筆管記」雲、唐德州刺史王倚家、有筆一管、稍粗於常用、中刻「從軍行」一鋪、人馬毛發、亭台遠水、無不精。每事複刻「從軍行」詩二句、如「庭前琪樹已堪攀、塞外征人殊未還」之語。又「輟耕錄」載、宋高宗朝、巧匠詹成雕刻精妙。所造鳥籠四麵花版、皆於竹片上刻成宮室人物・山水花木禽鳥、其細若縷、而且玲瓏活動。求之二百餘年、無複此一人。今餘所見念珠、雕鏤之巧、若更勝於二物也。惜其姓名不可得而知。

長洲周汝瑚言、「中人業此者、研思殫精、積八九年。及其成、僅能易半之粟。八口之家、不可以飽。故習茲藝者亦漸少矣。」噫。世之拙者、如荷擔負鋤、輿人禦夫之流、蠢然無知、唯以其力日役於人。既足養其父母妻子、複有餘錢、夜聚徒侶、飲酒呼盧以爲笑樂。今子所雲巧者、盡其心神目力、曆寒暑月、猶未免於饑餒、是其巧為甚拙、而拙者似反勝於巧也。因以珊瑚木為飾、而囊諸古錦、更書答汝瑚之語、以戒後之恃其巧者。

張山來曰、末段議論、足醒巧人之夢。特恐此論一出、巧物不複可得見矣、奈何。

 

さて以下、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」の文政六(一八二三)の画像を元に訓読を試みる(当該画像の36~38に該当)。一部の原文は先の「維基文庫」版と異なるが、特にそこは示さない(こちらの方が正しいと思われる部分ばかりである)。〔 〕は割注、〈 〉は私の補綴。訓点は分かり易い左の和訓を総て採ったため、一部の文脈がおかしい(漢文訓読と和訓の混在)のはお許し願いたい。

 

桃核の念珠を記す     高士奇〔澹人〕

 念珠一百八枚を得、山桃の核を以て之を爲る。圓にして小(ちい)さき櫻桃(ゆすらむめ)のごとし。一枚の中、羅漢三四尊、或は五六尊を刻す。立〈つ〉者、坐す者、經を課する者、杖を荷ふ者、龕中(〈た〉うのうち)に入定する者、樹に蔭(いこ)ひ趺坐して法を説く者、環坐指畫論議する者、袒跣曲拳、和南(てをあはす)して前に趨て後(しりぞ)き侍する者、合〈せ〉て之を計ふれば、數五百と爲(す)。蒲團・竹笠・茶奩・荷策・瓶鉢・經卷、畢く具はる。又、雲龍・風虎・獅象・鳥獸・狻猊・猿猱有り。其〈の〉間に錯雜す。初〈め〉て之を視れば、甚だ了了(はつきり)ならず。明窗淨几、息心諦觀すれば、刻む所の羅漢、僅〈か〉に一粟のごとし。梵相奇古、或は文織綺繡を衣(き)、或は袈裟・水田(みすあさぎ)・絺褐(ちぢみのぬのこ)を衣る。而して神情風致、各々松柏岩石に蕭散す。藝の至と謂ふべし。

 向きに崔銑郎中、「王氏の筆管(ふでのじく)の記」に有〈る〉を見る。云く、『唐の德州の刺史王倚が家に、筆一管有〈り〉。稍(やゝ)常用より粗なり。中〔に〕「從軍行」一鋪を刻す。人馬毛髮、亭臺遠水、精絶ならざる無し。事每に複〈た〉「從軍行」の詩二句を刻す。「庭前の琪樹 已に攀るに堪〈へ〉たり 塞外の征人 殊に未だ還らざる」の語のごとし』〈と〉。又、「輟耕錄」に載す、宋の高宗の朝に、巧匠(さいくにん)詹成、雕刻精妙、造る所の鳥籠、四面の花版、皆、竹片上に於て成宮室人物・山水花木禽鳥を刻み、其〈の〉細き、縷のごとし。而して且つ、玲瓏(すきとう)り活動す。之を求〈む〉る〈こと〉二百餘年、複た此の一人〈として〉無し。今、余が見る所の念珠、雕鏤(ほりもの)の巧に、更に二物より勝るがごとし。惜くは其〈の〉姓名得て知すべからず。長洲の周汝瑚、言ふ、「呉中の人、此〈れ〉を業とする者、思を研(みが)き精を殫(つく)し、八九年を積〈む〉。其〈の〉成〈る〉に及〈び〉て、僅〈か〉に能く半歳の粟(こめ)易ふ。八口の家、以て飽くべからず。故に茲の藝を習ふ者、亦、漸く少なし。」(と)。噫(あゝ)、世の拙き者、荷擔(にもち)・負鋤(すきもち)・輿人(かごかき)・御夫(むまのくちとり)の流(たぐひ)、蠢然(をろかしく)として無知(ものしらぬ)、惟〈だ〉其の力を以て日に人に役(つかはれ)す。既に其〈の〉父母妻子を養ふに足〈れ〉り。複〈た〉餘錢有れば、夜は徒侶(ともだち)を聚め、酒を飲〈み〉、盧を呼〈び〉(ばくえきし)、以て笑樂を爲す。今、子が云ふ所の巧なる者、其〈の〉心神(こんき)・目力(がんりき)を盡し、寒暑歳月を歴(へ)て、猶〈ほ〉未だ饑餒(ひもじきめ)を免れざる〈が〉ごとし。是れ其〈の〉巧み甚〈だ〉拙と為す。而して拙き者、反〈り〉て巧みに勝〈た〉れるに似たり。因〈り〉て珊瑚木難を以て飾りて諸しを古錦に囊にし、更に汝瑚に答〈ふ〉るの語を書して、以て後の其〈の〉巧を恃む者を戒む。

張山來〈りて〉曰〈く〉、「末叚の議論、巧人の夢を醒するに足る。特に恐る、此〈の〉論、一たび出て、巧物、複た見〈みる〉ことを得べからざる、奈何せん。」〈と〉。

これは――凄い。神技に通ずることの難しさ、世の多くの拙なる、自称「業師」を退けつつ、これを語ることが、真の技芸者の滅亡をも促すという虞れを述べるこれは「小説」(下らない話)どころか――現代にも十分通用する、立派な文明批評である。

 

・「経進文稾」不詳。「文稾」は草稿の意であろう。識者の御教授を乞う。

・「高士奇」(一六四五年~一七〇四年)は清の文人政治家・書家。出身は浙江省平湖とされる。国学生(官僚候補生)として首都北京で科挙に臨むも合格出来ず、売文を生業とした。彼の作文揮毫した新年の春帖子(しゅんじょうし:立春の日に宮中の門に言祝ぎの春詞を書いて貼ったもの)が偶然に聖祖康煕帝の目にとまり、帝の特別の配慮によって約十日間で三度の試験を受験、それぞれ首席の成績で合格し内廷供奉(ないていきょうほう:宮中侍従)に任ぜられ、後、礼部侍郎(文部副大臣)に至る。没後、その功労をもって「文格」と諡号された。代表作に帝室書画に関する鑑賞録「江邨銷夏録」(一六九三年)がある(以上は遠藤昌弘氏の「臨書探訪31(48)」に拠った)。

・「櫻桃」このままなら文字通りなら、バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属 Cerasus のサクラの実を指すが、先の左和訓の「ゆすらむめ」ならサクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa を指す。実は「櫻」という漢字は本来はユスラウメを指し、実のなっている様を首飾りを付けた女性に見立てた象形文字であった。実は食用になり、かすかに甘さを持ち、酸味は少ない。サクランボに似た味がする(ユスラウメの記載はウィキの「ユスラウメ」に拠った)。

・「龕」仏塔。

・「祖跣」原文の「袒跣」の誤り。「たんせん」と読み、肌脱ぎして、裸足になること。

・「曲拳」体を深く屈して拳を隠すようにして礼をすること。

・「和南」先の左和訓で示されているように、合掌して礼拝すること。

・「趨り」は「はしり」(走り)と読む。

・「茶奩」は「ちやれん(ちゃれん)」と読み、茶箱。茶は仏家の霊薬である。

・「荷策」禪で用いるところの警策、策杖、大きな杖の意であろう。

・「瓶鉢」酒器。

・「畢く」「ことごとく」と訓ずる。

・「風虎」普通は前の「雲龍」とセットで四字熟語「雲龍風虎」として龍のあるところに雲の沸き起こり、虎のあるところには必ず風が吹き荒ぶという意から、同類相い呼ぶことを言うが。ここは一種の聖獣への尊称のように「雲」「風」を用いている。

・「獅象」「しぞう」か。獅子と象で大型哺乳類を後の「獸」から区別して示したものか、それとも単一の動物名か。識者の御教授を乞う。

・「戲猊」狻猊(しゅんげい)のことであろう。伝説上の動物である唐獅子。獅子に似た姿で、煙や火を好むとする。そこから寺院の香炉の脚部の意匠にされた。高僧の座所を「狻座」「猊座」と言い、また、古く手紙の脇付に用いた「猊下」というのもこれがルーツである。

・「猿猱」「猱」は「じゆう」と読む。岩波版の長谷川氏の注は、これをサル目真猿亜狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属Hylobates のテナガザルを指すとするが、私は直鼻猿亜目オナガザル科コロブス亜科シシバナザル属キンシコウ hinopithecus roxellana と考える。その根拠は私の電子テクスト「和漢三才圖會 巻第四十 寓類 恠類」の「猱 むくげざる」の私の注を参照されたい。但し「猿」との熟語になっているから、猿一般を現わしているので、特に同定の問題はない。

・「梵相奇古」羅漢の図像は通常、胡人の、しかも奇怪な姿形をとるものが多く、それを「胡貌梵相」と言う。ここもそれと同じことを指していよう。

・「文織綺」「文織綺繡」の脱字。「文織」は綾織(斜文織。経糸・緯糸が三本以上から構成される織物)、「綺繡」(美しく色染めした織物)。

・「沓」「水田」の錯字。文政本は濁音と歴的仮名遣にあやまりがある。「みづあさぎ」が正しい。「水浅葱」「水浅黄」薄いあさぎ色、水色を指す。古代の羅漢の着服していた僧衣の色か。

・「絺褐」音は「ちかつ」。「絺」は葛の細い糸で織った布帷子、「褐」は布子、粗末な着物、麻衣の意。粗末な麻布の短衣を言う。

・「神情風致」「神情」は人の表情の意で、それが持つ味わいの意。

・「蕭散」静かでもの寂しいこと。禪家で尊重される境地である。

 

■やぶちゃん現代語訳(訓読文は誤りの少ないと思われる「近代デジタルライブラリー」の文政六(一八二三)年版の当該箇所を基準とし、我流の文字選び・再訓読を行ってある。その後ろに現代語訳を配した)

 

 珍物が異論を生む事

 

 大前何某が娘を他家へ嫁がせたが、その折り、その家の縁家の家僕が殊の外、骨を折って世話致いて呉れた故、大前より提(さ)げ物を与えて御座った。

 ところが寛政九年の春のこと、かの家の家来が大前のもとへ参って、

「……実は……ご拝領致しました提げ物のことにつきましてで御座いますが……かの提げ物に附いて御座いましたところの……桃の実の緒締めについてで、御座います……その……拙者のところに松平能登守殿お抱えの医師山田宗周という者が訪ねて参りまして……たまたま拝領の桃の実の緒締めを見せましたところが……

『……仔細は申しかぬるが、かねてよりさる人に頼まれておったによって、どうか、一時、この緒締め、黙って貸しては下さるまいか。――』

と頻りに申します故、その乞いのままに貸しました。

 ところが、その後、暫く致しまして、また、かの医師が参り……その……申し上げにくいことにては、御座いまするが……、

『……この緒締めに就きて、訳を申さば……かねてより、東海寺塔頭の浄恵院より頼まれて御座った、とあることによって、貴殿より借り受けた仕儀に御座る。……この根付……仔細を申さば……運慶が作にて……東海寺にては代々……十六羅漢を彫(え)りつけた桃の実の緒締めを秘蔵して御座った……ところが……四、五年以前……有体(ありてい)に申せば……そのうちの一つが、紛失致いたので御座る。……故に、もしかくかくの仕様のものを見かけることがあったならば……それを取り戻して呉れるよう、宜しくとの、依頼で御座った。……されば、実は……この間の借り受けも、その儀に沿うた仕儀にて御座った……かの緒締め、浄恵院へ持参致し、見せ申したところが……紛失した品に間違い御座らぬ故、たとえ高値に御座っても取り戻したき由にて……どうか、切に! お頼み申す!……』

とのことにて……殿様よりの賜わりもの故……一体……どうしたらよいものか途方に暮れまして……お伺いに参上致しました次第にて、御座いまする……。」

と申し上ぐるによって、大前殿、

「――あの桃の実の緒締めは、親の代より伝来の品にて、我、幼年の折りより五十年来、ずっと所持して参った物。東海寺から紛失したものじゃと言うによって、成程、左様か、――それは違う品なるは確かなれど、これで良ければ、なんどと安易に売り渡いたとなれば――これ、東海寺宝物の盗品を我らが買うて平然と使(つこ)うておったという冤罪を蒙らんとも限らぬ――これは、いっかな、納得出来ぬことじゃ!――さても――そうさ、御身には別の我ら所蔵の紐締めを遣わすによって――必ずや、かの紐締め、取り戻し候よう!」

ときつく申し渡いて御座った。

 代わりには後日、早速に、これまた高価な珊瑚珠の玉の紐締めをその者に与えて御座った故、家僕も恐縮致いて、まずは殿の名誉がためと、なんとか、かの医師に貸して御座った桃の実の緒締めを取り戻し、大前殿にお返し申し上げたとのことで御座った。

 後日、大前殿は、

「……これは一体、如何なることにて御座ったろうかのう。……今以って、不思議なことにて御座るのじゃ。……」

と知れる人なんどに、この話の一部始終を語り、また、その最後には、

「……こうした提げ物は、世間に幾つもあるものなので御座ろうか?……」

と問うたもので御座った。そんな中の、さるお人が答えて言うたことには、

「――それはかの東海寺の坊主の無知によるもので御座る。こうした類いの細工、実に世には数多ある品じゃ。それを自分の寺の宝物の、十六羅漢の荘厳(しょうごん)の外には、世になき逸物なり、なんどと思い込んでおった故、そんな馬鹿げた話になったに相違御座らぬ。『虞初新志』という書に次の通り、書かれて御座る。」

とのこと故、大前も安堵に胸を撫で下ろした――とは、大前殿本人の語ったことにて御座る。

 

[根岸注:添付資料「虞初新志」より]

 

  桃核の念珠を記す    経進文稾    高士奇

 念珠一百八枚を得、山桃の核を以て之を爲(つく)る。圓かにして小(ちい)さき櫻桃(ゆすらむめ)のごとし。一枚の中(うち)に羅漢、三、四尊、或ひは五、六尊を刻す。立つ者、坐す者、經を課する者、杖を荷ふ者、龕中(ぐわんちう)に入定せる者、樹に蔭(いこ)ひ趺坐して法を説く者、環坐指畫論議せる者、袒跣曲拳(たんせんきよくけん)、和南して前に趨て後(しりぞ)き侍する者、合はせて之を計(かぞ)ふれば、數五百と爲(な)す。蒲團・竹笠・茶奩(ちやれん)・荷策・瓶鉢(へいはつ)・經卷、畢(ことごと)く具はる。又、雲龍・風虎・獅象・鳥獸・狻猊(しゆんげい)・猿猱(えんじふ)有りて、其の間に錯雜す。初めて之を視れば、甚だ了了とせず。明窓淨几、息心諦觀すれば、刻む所の羅漢、僅かに一粟のごとし。梵相奇古、或ひは文織・綺繡を衣(き)、或ひは袈裟・水田(みづあさぎ)・絺褐(あさのぬのこ)を衣る。而して神情風致、各々松柏岩石に蕭散す。藝の至と謂ふべし。

 

   桃の核(み)の念珠について記す    経進文稾    高士奇

 百八粒からなる念珠を得た。山桃の実によって創られたものである。一つ一つの種が全き球体であって小さら桜桃(さくらんぼ)のように見える。一粒の中に、羅漢が三尊から四尊、ものによっては五尊から六尊を彫琢してある。立つ者、座す者、経を読む者、杖を担う者、龕中にて入定せる者、樹に憩い、結跏趺坐して法を説く者、環座して絵を指して論議する者、肌脱ぎの裸足で蝦のように体を屈して礼をする者、合掌したままに前に走る者、又、逆に退いて侍する者。これ、合計すれば凡そ五百余りの羅漢像である。蒲団・竹笠・茶箱・策杖・酒器・経巻、悉く具わっている。またそれ以外にも遠景近景に雲竜・風虎・獅象(しぞう)・鳥獣・戯猊(ぎげい)・猿猱(えんじゅう)がおり、それらの彫像の間に、これまた散りばめられているのである。但し、初めはこれを見ても、何が彫られているのかは、実は、よく分からない。明窓浄机して、息を調え、端然として観ずる時、そこに刻む所の羅漢、僅かに一粒の粟の如くに、その奇怪にして古色を帯びたるそれぞれの梵相が現前し、或いは文織・綺繡を着し、或いは袈裟・水浅黄・縐の布子を羽織る。而して一人ひとりの表情は味わいに富んで、各々が松柏や岩石の中へと貫入し、人気を払って寂莫(じゃくまく)の境地を開く。これはもう、至上の芸と言うべきものである。

何故だか知らん――ブログ・アクセス急増

現在、ブログ・アクセス数374402――5月29日に370000アクセス突破から半月余り――この一週間は何故かアクセスが毎日200越え、昨日は400を越えている――このままでいくと、380000突破は最短記録になりそうだ――

2012/06/16

次の「耳嚢」は手強い

次の「珍物生異論の事」には「虞初新志」が引かれており、これはかなり手強い。国立国会図書館のデジタル・ライブラリーの文政年間の画像から訓読を試みるが、相当な時間がかかりそうだ。悪しからず。こんな作業は、仕事をしていたら、100%放棄して誤魔化した。だから、野人藪野直史としては、ゼッタイのテツテ的な仕儀として――やらねばならぬ――のである!

現在進行形ながら――「虞初新志」訓読――これってかなり――ネット上じゃ――誰もやってないことかも知んないぞ!

耳嚢 巻之四 靑砥左衞門加増を斷りし事

 靑砥左衞門加増を斷りし事

 

 靑砥左衞門へ其此の鎌倉執權より、夢に左衞門精忠を以て加增あるべしと神示ある故加增給るべきとありしを、左衞門強て斷(ことわり)に及びければ、いかなれば加增褒賞有べき事を、斷るとは愚昧且非禮ならんとありしに、左衞門答ていへるは、武邊其外手柄ありての加增ならば難有(ありがた)かるべし、夢の告を以加增を給はる事にあらば、靑砥左衞門を首刎(はぬ)べしとの夢の告あらば首刎給ふべきやと、終に請(うけ)ず有しと。面白き議論也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。定番の武辺物で、いい話ではある。

・「靑砥左衞門」多くのエピソードで知られる青砥藤綱(生没年不詳)。鎌倉後期の武士とされるが、実在は疑わしい(モデルとなった人物の存在可能性はある)。参照したウィキの「青砥藤綱」には、本記載と同ソースと思われる以下のような記載がある。

   《引用開始》

北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。『弘長記』では評定衆に任じた、ともある。藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。

   《引用終了》

因みに、この時、藤綱は二十八歳であったとする。最も人口に膾炙するのは、以下の逸話で(アラビア数字を漢数字に変えた)、

   《引用開始》

かつて夜に滑川を通って銭十文を落とし、従者に命じて銭五十文で松明を買って探させたことがあった。「十文を探すのに五十文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は応えて「十文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。五十文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて六十文の利は大であるとは言えまいか」と。

次代執権の北条時宗にも仕え、数十の所領があり家財に富んでいたが、きわめて質素に暮らし倹約を旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に困窮している人々に与えた。藤綱がその職にあるときには役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。なお、『太平記』では藤綱を北条時宗及び次代執権の北条貞時の時の人としている。

《引用終了》

更に言っておくなら、『江戸時代には公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などの芸術作品にしばしば登場した。同様の性格を持つものとしては大岡政談が挙げられるが、江戸幕府の奉行・大名であった大岡忠相を登場させることには政治的な問題が生じやすかったため、歴史上の人物であった藤綱を代わりに主人公とした』ケースが多く見られ、藤綱は江戸時代の武辺物の定番的ヒーローであったことを忘れてはならない。なお、彼については、私の「新編鎌倉志 卷之六」の「固瀨村」の項に詳細なオリジナル注を施してある。参照されたい。

・「鎌倉執權」「弘長記」によるならば北条時頼、「太平記」にも同様の記載があり、そこでは北条時宗とする。こうした類話がごろごろある事自体、鎌倉の青砥橋で著名な青砥藤綱であるが、実は一種の理想的武士の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても実在はしなかったと私は考えている。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 青砥左衛門藤綱が御加増を断わった事

 

 青砥左衛門藤綱へ、その当時の鎌倉執権より、

「夢に『左衛門はよく勤めておる故に加増あるべし』との神託が御座ったによって加増して遣わさんと思う。」

と御下知が御座ったが――

――左衛門は、あくまでこれを断って御座った。

「加増・褒美を賜るとあられるを、断るとは愚昧じゃ――いや、何より非礼であろう。」

との執権のお言葉に、左衛門、答えて曰く、

「――武道その外の手柄あっての御加増ならば、これ、有り難くお受け致すが、これ、定法ならん。――なれど――夢の告げなんどを以て御加増賜わるということになれば――『青砥左衛門を斬首と処せ』――という告げが御座ったれば――御主(おんあるじ)殿――同様に――拙者が首を――お切りなさる、おつもりか?」

と、答え、遂に請けあわなかったということである。

 誠に面白い議論である。

耳嚢 巻之四 しやくり呪の事

  しやくり呪の事

 

 しやくりを止るには、其人の口をあかせ、右口の内へ宗といふ文字を三度書けば止る事妙なりと、人の語りし故爰に認(したた)め置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。但し、本巻は巻頭から呪(まじな)いずいている。

・「しやくり呪」しゃっくりを止めるまじないの意。「しゃっくり」という言葉は「刳りぬく」の意味の「さくる」の変化したもので、しゃっくりの腹を抉られるような感じに由来する。医学的にはミオクローヌス(myoclonus:筋肉の素早い不随意収縮。)の一種で、横隔膜又は他の呼吸補助筋の強直性痙攣によって声帯が閉じて音が発生することが一定間隔で繰り返される現象を言う。この「宗」の字を口の中に書くと言うのは迷信染みているが、そのためには大きく口を開かねばならず、尚且つ、宗の字三回は試みにやって見ると十秒以上はかかるので、その間、通常呼吸とはことなる呼吸をすることになり、効果があるとも言える。根拠なしでも、それを信じてやるならば一種のプラシーボ(偽薬)効果も期待出来よう。

 さて、私の知るものでは本件に似たものとして、

自分で掌に「森」という字を書いて飲み込む。

というのがある。これは嚥下行動が横隔膜に作用すると考えればやはり非科学的とは言えまい。現実には、しゃっくりを止める決定打は、ない。

 以下、信頼出来る医薬品メーカーのサイトや複数の質問箱・しゃっくり呪いの頁(思いの外多い)などを見ると、昔からの定番である、

〇びっくりさせる

〇息を止める

〇ゆっくりと息を吸う

〇胸に手を当てる

といったシンプルなものや、

〇腰に手を当てて左右の横隔膜部分を人差し指から薬指までの指で押し込み、同時に息を吸ってそのまま止める

という一見医学的処方のような記載、やはりしばしば聞くところの、

〇コップ一杯分の水を飲む

〇お椀に水をなみなみと張ってそれを向こう側から(深いお辞儀で顔が逆になったような状態)一気に飲み干す

この応用型で、私も聞いたことがある(が、面倒なのでやったことはない)、

〇お茶をいれた茶碗の上に割箸を十字に置き、それらの割箸を両手で固定し、それらのあいだからお茶を少し飲み、茶碗を九十度回転させながらそれを繰り返す

という方法(じゃがべぇ~(^_-)-ブログでの分布域を見ると、これは関西系の止め方らしい)、

〇ご飯を丸呑みする

〇盃一杯の酢を飲む

などの他、変形ものでは

〇スプーン一杯分の砂糖を食べる

〇柿のへたの煎じ薬を飲む

などがある。中でも面白いのは、

〇「豆腐の原料は何?」という質問に答えさせる

というのがあり、これはその答えの「大豆」という発声をすることに意味があるのではなく、驚かすのと同じで、突然、虚を付く質問をすることに意味があると思われる。即ち、意識をずらさせる効果であろう。従って質問は「ナスの色は何色?」「菜の花の色は何色?」と言ったヴァリエーションがあるらしい。

 かなり複雑ながら、効果があるとする記載が多いネットで見た方法をここに記しおく。

〇十二秒で止める方法

1 深く息を吸う。

2 ドアや扉の枠の下に移動する。

3 手を伸ばして上の枠をつかむ。

4 枠を押し上げる感じで腕を伸ばす。

5 背中を曲げて前に倒れるような感じで腹のストレッチをする。

6 息を止めたまま三十秒から六十秒、この姿勢を保つ。

最後にやはり面白いと思った記事を最後としよう。

〇“My father, a science teacher, always quickly offers his students a quarter if they hiccup again. Amazing and nearly foolproof!  2002  Jason-san(USA)

因みに“a quarter”は二十五セント硬貨のことである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 しゃっくりに効く呪(まじな)いの事

 

 しゃっくりを止めるには、その人の口を大きく開かせた上、その口の中に人差し指を入れ、その口中にて「宗」という文字を三度書けば、ぴたりと止まる、のは実に奇妙なこと乍ら、本当(ほんと)のこと、と人の語った故、ここに記しおく。

生物學講話 丘淺次郎 二 種族の起り

計算してみると、本書が書かれてから実に100年近くが経とうとしている――しかし、その人類の生物起源の知見はいかほども進歩したと言えようか?――いや――それどころか――人類は生命の起源を探し当てるどころか――自らの「智」によって自らの生命を核によって滅ぼさんとさえしている――実に実に丘先生独自の進化学説の中の『一時全盛を極めた生物が忽ち絶滅するに至るのは初めその生物をして敵に勝つを得しめた性質が過度に發達するによる』という考え方が正しかったことを証明するものと言えはしまいか?……

    二 種族の起り

 さて生物の各個體は皆それと同種の親から産まれ生じたものとすれば、何代前まで遡つて考へても、今日世界に生存して居るだけの生物の種族が、その頃にもあつたわけになるが、若しさやうとすれば今日知られて居る數十萬種の生物はいづれも天地開闢の初めから未來永劫少しも變化せぬものであらうか、それとも又長い間には少しづつ變化して、昔の先祖と今の子孫との間には、幾分かの相違があるのではなからうかとの問題が是非とも起らざるを得ない。即ち生物の各種族は如何にして起つたものであるかとの問題が生ずるが、この問に答へるのは生物進化論である。而して進化論はそれだけでも一つの大論で、且その爲には別に適當な書物もあること故、こゝには詳しいことは略して、單に要點だけを短く書くに止める。
 昔地球上に住んで居た生物が今日のものと同じであつたか否かは、古い地層から掘り出された化石を調べて見れば大體は分ることである。今日地質學者は地層の生じた時代をその新古によつて幾つかに區別するが、各時代の地層から出た化石を比較して見ると、最も古い處から今日まで同一種類の生物の化石が引き續いて出るといふ例は一つもない。時代が違へば化石も多くは異なつて、今を去ることの遠ければ遠いほど、その時代の地層から出る化石は、我等の見慣れて居る今日の生物とは著しく異なつて居る。されば大體に於て地球上の生物の種類は時の移り行くと共に、順次變遷し來つたものであるといふことは爭はれぬ事實である。
 また今日生きて居る生物の身體を解剖し比較して見ても、その卵から發育する狀態を調べて見ても、生物各種は次第に變遷して今日の姿に達したものであると見做さねば、到底説明の出來ぬような事實を無數に發見する。一々の例を擧げることは略するが、兎や鼠では十分に働いて居る上顎の前齒が、牛・羊では胎兒のときに、一度生じて生まれぬ前にまた消え失せることや、魚類では生涯開いて居る鰓の孔が人間や鷄の發生の途中にも、形だけ一度は出來て後に忽ちなくなること、若しくは游ぐための鯨の鰭も、飛ぶための蝙蝠の翼も、樹に登るための猿の手も、地を掘るための「もぐら」の前足も、骨格にすると根本の仕組が全く相一致することなどを見ると、如何に考へても生物の各種が最初から互に無關係に生じて、その儘少しも變らずに今日まで引き續き來つたものとは思はれぬ。尚生物各種の地理上の分布の有樣、または各種相互の關係などを調べて見ると、如何なる種類でも長い時代の間に漸々變化して、今日見る通りのものとなつたと結論する外に途はない。
 古生物學・比較解剖學・比較發生學・生物地理學等の研究の結果を總合して、その結論を約めていふと、凡そ生物の各種は決して最初から今日の通りのものが出來たのではなく、その始めは如何なるものであつたかは知れぬが、長い間に漸々變化して現在見る如きものとなつたのである。而して、變化するに當つては常に少しづつその種族の生活に適するやうに變じ、大體に於ては身體の構造は簡單より複雜に、下等より高等に進み來つたのである。尤も一旦複雜な構造を待つた高等の生物が、更に簡單な下等のものに退化したと思はれる例もあるが、これはいづれも特別の場合で、寄生蟲や固着生活を營む生物の如くに、體の構造が簡單である方が、その種類の生活に特に都合の宜しいときに限られる。また今日數種に分かれて居る生物でも、その昔に遡ると共同の先祖から起つたらしく思はれることが頗る多い。世人の飼養する動物、栽培する植物には殆ど無數にその實例があるが、野生の動植物に於ても恐らくこれと同樣で、初め一種のものも後には子孫の中に種々體形性質などの相異なつたものが生じて、終に多くの種類に分れたのであらう。されば全體に通じていへば、生物なるものは昔より今日に至るまでの間に常に一種より數種に分れ、簡單より複雜に進み來つたものと見なすことが出來る。而して、この考へを先から先へと推し進めると、終に地球上に初めて生じた生物は恐らくたゞ一種であって、且最も構造の簡單な下等のものであつたに違ひないとの結論に達するが、これは實際如何であつたかは、勿論、確な證據を擧げて論ずることは出來ぬ。生物の各種族は如何にして生じたものであるかといふ問に對して、進化論は一應の確な答は出來るが、抑々生物なるものは初め如何にして生じたものであるかと、更にその先の問題を出せば、之に對しては事實に基づいた確な返答は出來ぬ。人間と猿とは共同の祖先から起つたとか、哺乳類は總べて初めは「カンガルー」などの如き有袋類であつたらしいとかいふ如き、比較的近代に屬することは隨分確に知ることが出來るが、時代が遠ざかれば遠ざかるほど我々の知識は曖昧になつて、最も古い時代まで遡ると何も分らなくなる。これはわが國の歴史でも明治時代のことならば相應に詳しく分るが、神代は邈焉として測度すべからざると同じ理窟である。
[やぶちゃん注:「約めて」は「つづめて」と読む。
「邈焉」は「ばくえん」と読み、非常に遠いさま、遠くてはっきりしないさまを言う。
「測度」は「そくたく」で、あれこれと推しはかることを言う。
なお、現在の最新科学の知見によれば、地球最初の生命体は約四十二億年から三十八億年の昔に、原始海洋の中に誕生したと考えられている。発生当時のその生物種及びそこから分化した種は総てが単細胞で核を持たない原核生物であったと推定されている。これらの生物は当初は海洋水の中を漂っている有機物を利用し、酸素を使わずに生きている嫌気性の生物であったと思われるが(一九七〇年代の深海熱水孔の発見による原初生物独立栄養生物仮説)、有機物の量には限界があるため、やがて自身で栄養を作り出す手段として光合成を始めたと考えられ、遅くとも約三十五億年前には現在の分類学で言うところの真正細菌 Bacteria のシアノバクテリア門 Cyanobacteria に入る藍藻(シアノバクテリア)類の祖形生物がそうした担い手として登場したと考えられている(以上はネット上の複数の記載を勘案して構成した)。化学進化説の分野では、一九五〇年代以降、分子生物学のセントラルドグマから、殆んどの生物を構成する三つの物質のいずれが祖形生物の雛形となったのかが論じられてきており、それぞれDNAワールド仮説・RNAワールド仮説・プロテインワールド仮説と呼ばれる。更に、これらとはまた異なる位相的な仮説として、生命の起源を地球上に求めず、他の天体で発生した微生物の芽胞が地球に到達したものであるというパンステルミア説(panspermia:ギリシア語の“pan”[汎]+“sperma”[種子])もある。但し、これは決して新しいものではなく、元は先の注に登場したイタリアの博物学者にして実験動物学の祖ラッザロ・スパッランツァーニが一七八七年に発表した同内容の仮説がルーツである。何れにせよ、丘先生がこれを書いた九十三年前(!)と生物起源の人類の「智」は、現象としての仮説を分子生物学的化学的な言葉で説明出来る程度にした進歩していないということは明白である。]

2012/06/15

耳嚢 巻之四 誠心可感事

 誠心可感事

 

 寛政七年、清水中納言殿逝去ありし。東叡山凌雲院に葬送なし奉り、俊德院殿と諡(おくりな)し奉る。名は忘れたるが、右屋形(やかた)に至て輕く勤仕なし、年も七旬に近く、好みて能の間(あひ)狂言をなしけるが、黄門公御在世に能を好給ひし故、輕き者ながら御相手にも立ちし由。逝去後御目見以下の者故拜禮は難成(なりがた)けれど、御廟の後御幕張(まくはり)の外より日々拜禮をなしけるが、百ケ日御法事後御廟に參り、外に人も不居合(ゐあはせざる)故、御廟前の片影(かたかげ)へ廻りて拜しけるを、御庿番の者も渠が深切を感じ見免(みゆ)るし置しに、漸(やうやく)半時うつ臥して居ければ、死しやらんと思ひ迷ふ程なるに漸に起出ける故、いかに久しき拜禮也と右御庿番の者尋ければ、御在世の時好せ給ふ事故、龍田の間(あひ)を一番口の内にて相勤候由涙を流し申けるが、値遇の難有を思ひ出て歌をも詠たりとかたりしが、右歌は狂歌とも何か分らぬ事ながら、誠心の哀成事と人の語りける故爰に記ぬ。

 關守も暫しはゆるせ老の虫人こそしらね鳴ぬ日はなし

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。能絡みで遠く「戲藝にも工夫ある事」と連関。死亡時から「百ケ日」法要の出来事で、日付の特定まで可能な珍しい記事と言える。

・「清水中納言」徳川重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)徳川御三卿清水家の祖。第九代将軍徳川家重次男。官位は従三位左近衛権中将兼宮内卿・参議・権中納言。家名は江戸城清水門内の田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあったことに由来する。満五十歳の彼の死によって家重の血筋は断絶、子がなかったため、その後の清水家は再興と断絶を繰り返した。彼の逝去は寛政七年七月八日はグレゴリオ暦で一七九五年八月二十二日、和暦サイトの表から百ヶ日を計算したところ、この出来事は寛政七年十月十一日(西暦一七九五年十一月二十二日)のことになるはずである。季節を感じつつ、映像を想像されたい。

・「東叡山凌雲院」東叡山寛永寺三十六坊の塔頭の中では最も格式が高かったが、現存しない(上野駅公園口を出て道路を渡った現在の文化会館と西洋美術館附近にあったという)。

・「間狂言」能一曲の中で狂言方が演じる部分や役を指す。

・「黄門」中納言の透唐名。

・「御目見以下」御目見得以下。将軍直参の武士でも将軍に謁見する資格のない者。御家人。対語は「御目見得以上」で旗本が相当。

・「御庿番」の「庿」は廟に同じ。

・「龍田の間」謡曲「龍田」の間狂言の部分の意。能「龍田」は行脚僧が龍田明神参詣のため河内国へ急ぐ途中で龍田川まで来ると、一人の前シテの巫女が現われ、「龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん」という古歌をひいて引き止め、僧が、それは秋のことにて今はもう薄氷の張る時節と答えると、更に「龍田川紅葉を閉づる薄氷渡らばそれも絶えなん」という歌もあると答えて社前に案内、そこには霜枯れの季節にもかかわらず、未だ紅葉している紅葉のあるを不審に思う僧にこれは神木なることを語り、更に龍田山の宮廻りをするうち、巫女は自らが龍田姫の神霊であると名乗って社殿の中に姿を消す。その夜、社前で通夜をしている僧の前に、後ジテ龍田姫の神霊が現れ、明神の縁起を語り、紅葉の美しさを舞って夜神楽を奏でて虚空へと上って行くという複式夢幻能。私は書による知識のみで舞台を見たことがないので、残念ながら、この能の舞台を知らぬが、謠本を見るにワキツレで従僧二人が登場する。老人はこの一人を黄門公生前には演じたものであろう。それを「一番口の内にて相勤候」とは、ただワキツレとしての自分のパートだけではなく、前シテとワキの始まりから後シテとワキの夜神楽までを心に描き、己れの登場の部分の台詞を口の中にて演じたことを意味しよう。因みに、私の謠をする教え子からは、江戸時代の謡曲の上演時間は現在よりももっと短かった、演技は今のようなスローさとは大分、異なっていたらしいと聞いている。

・「値遇」底本には右に『(知遇)』と傍注。

・「關守も暫しはゆるせ老の虫人こそしらね鳴ぬ日はなし」幽冥界を隔てる廟を関所に喩え、番人を関守とし、御家人でも身分の低い老いた七十に近い己れを老いの虫に喩え、数え五十一の若さで亡くなった主君との老少不定を含ませた狂歌と言えよう。私の自在勝手訳を示す。

……あの世とこの世を隔てる関の番人と雖も……暫しの間は、かくするを許せかし……人は誰(たれ)一人知らずに御座れど……この、老いさらばえた秋の虫の如き、既に死すべき者なるに……主はあの世、己れは塚の外……その哀れを、泣かぬ日とて、ない……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠心感ずべき事

 

 寛政七年のこと、清水中納言徳川重好殿の御逝去が御座った。

 東叡山凌雲院に御葬送し奉り、俊徳院殿と諡り名され給うた。

 名は忘れて御座るが、清水殿の御屋形にて、至って身分の低い者として召し使われておった、年はもう七十に近い者にて、己の好みに能の間(あい)狂言を致す者があったが、俊徳院殿黄門公御在世の折りは、殊の外、能をお好みになられたがため、低き身分の者ながら、その御相手をも勤めて御座ったとの由。

 御逝去後、御目見得以下の身分の者故、御廟所にては直接の拝礼を致すこと、これ、許されなんだが、かの老人は、目立たぬよう、御廟の後ろの幕張の外から、一日として欠かさずに御霊(みたま)を拝礼致いて御座ったという。

 百ヶ日の御法要の日のその終わった後のこと、彼はかの御廟に参ったが、偶々、外には人の居合わせたなんだが故、御廟前の目立たぬ物蔭に回り込んで、ひっそりと蹲っては拝み申し上げて御座ったそうな。

 御廟所の番方も、これに気づいては御座ったれど、以前からの、かの老爺の深く御主君を悼む心に打たれておった故、見て見ぬ振りを致いて、許して御座った。

 ところが、老僕は突っ伏したまま――半時もの間――そのまま――微動だにせぬ。――

 流石に番方も、

『まさか……死んでおるのでは……御座るまいか……』

と思い迷うほどにて御座った――

――が――

ようやっと、ゆるゆると身を起こいて、御廟所霊前より立ち出でた故、

「……如何にも永き拝礼であったのう……」

と、かの御廟番方の武士が訊ねたところ、

「……はい……御在世の砌、お好みであられたが故……「竜田」の間(あい)を一番、口の中にて……相い勤めて御座いました故に……」

と述べつつ、涙を流して御座ったが、更に、

「……知遇の有り難きを思い出だいて……かくなる拙き歌一首も……詠まさせて……頂き申した……」

と語った。

 その歌――まあ、狂歌とも和歌とも称せぬようのものながら――その誠心の、これ、まっこと、哀れなること……と人の語ることにて候えば、ここに記しおく。

  関守も暫しはゆるせ老の虫人こそ知らね鳴かぬ日はなし

鎌倉攬勝考卷之二 始動(続)

《八幡宮鎭座由來》其往昔鎭座なし奉れることを繹るに、後冷泉院の御宇天喜年中に、奧の夷賊安倍賴時が王命に叛きしに仍て、源賴義に勅して凶徒賴時幷其子貞任等を征伐せしめ給ふ時下向せられ、八幡宮え丹祈の旨趣有て、年を經て夷賊悉く討滅し給ふことは、偏に宿願の冥助なりとて、凱旋の砌康平六年秋八月、潜に石淸水の大神を勸請し、瑞籬を當國由比の濵に建給ひ、地の名を鶴岳と稱せり。〔由比濱の舊跡あり、其神殿は今のしたの若宮これなり。〕
[やぶちゃん注:「繹るに」は「たづぬるに」と訓ずる。
「後冷泉院の御宇天喜年中に、……」前九年の役の始まりは複雑怪奇で、ここで簡単に述べることは出来難いが、前半の状況としては、十一世紀の中頃に安倍賴良よりよし=「安倍賴時」(?~天喜五(一〇五七)年)が朝廷への貢租を怠ったことから、永承六(一〇五一)年に陸奥守藤原登任なりとうが懲罰を試み、両者の間に戦闘が勃発(鬼切部おにきりべの戦い)、安倍氏が圧勝、敗れた登任は更迭される。そこで朝廷は同年、河内国(現在の大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏二代目源頼義を陸奥守に任じて赴任させ再攻略を計るが、その翌永承七(一〇五二)年に後冷泉天皇(在位は寛徳二(一〇四五)年から治暦四(一〇六八)年で、彼は在位のまま崩御しているから、彼は生存中は「冷泉院」ではなかった。これは彼への死後の追号である)の祖母上東門院(藤原道長娘中宮彰子)の病気快癒祈願の大赦が行われ、安倍氏は恩赦の対象となって、天喜元(一〇五三)年には安倍頼時は鎮守府将軍となっている(この前、頼良は陸奥に赴任した頼義を饗応、頼義と名が同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めて、一種の休戦状態が形成された)。ところが、頼義の陸奥守としての任期が終わる天喜四(一〇五六)年二月に阿久利川事件と呼ばれる謎の事件が発生(詳しくは私が参考にしたウィキの「前九年の役」の、当該項を参照されたい)、これが実質的な後半の戦闘の始まりとなった。頼義の人格的な弱さや戦略戦術上の拙さ、頼時戦死の後を引き継いだ嫡子安倍貞任(寛仁三(一〇一九)年?~康平五(一〇六二)年)の善戦によって戦闘は長引いたが、康平五(一〇六二)年、九月十七日に安倍氏の拠点である厨川柵(現在の岩手県盛岡市天昌寺町)・嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落。貞任は深手を負って捕虜となって亡くなり、ここに前九年の役は終息した。
「下向せられ、八幡宮え丹祈の旨趣有て」「丹祈」は、誠心を込めた祈り。これは、「下向」の際に、京都の石清水八幡宮の八幡神に戦勝と加護を祈ったことを言う。但し、一説には河内源氏氏神の壺井八幡宮とも言う。
「康平六年秋八月、潜に石淸水の大神を勸請し」西暦一〇六三年。前九年の役の終結の翌年(頼義による騒乱鎮定上奏は康平五年十二月十七日になされている)で、鎮定後の帰洛の途中ということになる。「潜に」は前の「丹祈の旨」を受けると考えてよいから、頼義はこの時、東国での地盤確保を企図して、「潜に」(朝廷の許可を得ずに)勧請したことが分かる。
「瑞籬を當國由比の濵に建給ひ、地の名を鶴岳と稱せり。〔由比濱の舊跡あり、其神殿は今のしたの若宮これなり。〕」「瑞籬」は「みづがき(みずがき)」と読み、神霊の宿る山・森・木などや神社の周囲に巡らした垣根。割注部分について初心者のために述べておくと、「由比濱の舊跡」がその最初の祭祀場所で、現在の材木座にある「元八幡」=「由比の若宮」を指す。これを頼朝が現在の鶴岡八幡宮の下宮の位置に遷座、「鶴岡若宮」と称した。その後、建久二(一一九一)年の鎌倉大火による全焼後、新たに石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を創建した際、今の本宮(上宮)が主祭殿として配され、この時、「鶴岡若宮」がその「下宮」として再建されたたが、最初に遷座された後も、元の「由比の若宮」での社壇祭祀が続いたために、それが「下の若宮」とも呼ばれたことから、現在の下宮の「下の宮」「若宮」と類似した呼称が生じたと考えられる。即ち、
由比ヶ浜の八幡宮原型「元八幡」=「由比の若宮」「下の若宮」
その遷座した現在の鶴岡八幡宮下宮=「鶴岡若宮」「若宮」「下の宮」
という呼称の区別があると私は考えている。]

其後永保元年二月、源義家朝臣陸奧守に任じ、彼國下向の時修理を加え給ふ。
[やぶちゃん注:「永保元年」は西暦一〇八二年。当時、源の頼義嫡男八幡太郎「源義家」(長暦三(一〇三九)年~嘉承元(一一〇六)年)は当時白河帝の近侍(義家の陸奥守兼鎮守府将軍就任は永保三(一〇八三)年で、これは「新編鎌倉志卷之一」の記載と同様の、というより、あちらは呼称であるから許せるとしても、こちらは致命的な誤りを犯していると言える)であったが、この年、清原氏の内紛に介入して後三年の役が始まっている。但しこの合戦には朝廷の追討官符が出されておらず、少なくとも当時の朝廷にあっては私戦と認識されていた。従って寛治元(一〇八七)年十一月の戦勝報告後も恩賞はなく、翌寛治二年正月には陸奥守を罷免されてさえいる。その結果として義家は戦闘に参加した東国武士団の恩賞に私財を分け与え、それが東国に於ける絶大なる八幡太郎神話を形成するに至るのである。]

然るに治承四年十月十二日、右大將家祖宗を崇んが爲に、小林の郷の北山に宮廟を構え、鶴か岳の宮を遷し奉らる。伊豆權現の別當專光坊をして暫く別當坊とせられ、大庭平太影能奉行す。されどもいまだ華構の飾に及ず、松の柱、萱の軒を營給ふ。是より先に右大將家潔齋し給ひ、當社の御在所を遷座し奉らんと祈願せられしかど、神慮はかりがたく、仍て否を神鑒に任せんとて、寶前にて鬮をとらしめ給ふの後、此所に遷座治定せられ禮奠を行はるゝと云云。
[やぶちゃん注:ここは「吾妻鏡」の治承四(一一八〇)年十月十二日に条に拠る。以下にその全文を示す。筆者植田孟縉は、実はこれ以前の部分もこの記載に基づいて記していることが判明するからである。
〇原文
十二日辛卯。快晴。寅尅。爲崇祖宗。點小林郷之北山。搆宮廟。被奉遷鶴岡宮於此所。以專光房暫爲別當職。令景義執行宮寺事。武衛此間潔齋給。當宮御在所。本新兩所用捨。賢慮猶危給之間。任神鑒。於寳前自令取探鬮給。治定當砌訖。然而未及花搆之餝。先作茅茨之營。本社者。後冷泉院御宇。伊豫守源朝臣賴義奉 勅定。征伐安倍貞任之時。有丹祈之旨。康平六年秋八月。潛勸請石淸水。建瑞籬於當國由比郷。〔今號之下若宮。〕永保元年二月。陸奥守同朝臣義家加修復。今又奉遷小林郷。致蘋蘩禮奠云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日辛卯。快晴。寅の尅、祖宗を祟めんが爲に、小林郷の北山を點じ、宮廟を搆へ、鶴岡宮を此の所に遷し奉らる。專光坊を以て暫く別當職と爲し、景義、宮寺の事を執行せしむ。武衛、此の間、潔齋し給ふ。當宮の御在所、本新兩所の用捨、賢慮猶危ぶみ給ふの間、神鑒しんかんに任せ、寳前に於て自づからくじを取り探らしめ給ひて、當砌りに治定ちぢやうし訖んぬ。然而しかれども、未だ花搆のかざりに及ばず、先づ茅茨ばうしの營をす。本社は、後冷泉院の御宇、伊豫守源朝臣賴義、 勅定を奉りて、安倍貞任を征伐するの時、丹祈の旨有りて、康平六年秋八月、潛かに石淸水を勸請し、瑞籬を當國由比郷〔今之を下若宮と號す。〕に建つる。永保元年二月陸奥守、同朝臣義家修復を加ふ。今、又、小林郷に遷し奉り、蘋蘩ひんぴん禮奠れいてん致すと云々。
・「治承四年」西暦一一八〇年。
・「專光坊」専光房良暹(りょうせん 生没年不詳)伊豆国走湯山伊豆山権現住僧。頼朝の伊豆配流時代からの師である。
・「景義」は大庭景義(?~承元四(一二一〇)年?)。本文のように「景能」とも表記した。桓武平氏で相模国高座郡南部(現在の茅ヶ崎市・藤沢市)にあった大庭御厨(鎌倉時代末期には十三郷が有する相模国最大の伊勢神宮領)を領した。鎌倉権五郎景正を祖とし、保元の乱では弟大庭景親(石橋山合戦では平氏方として頼朝軍を大破、後に処刑)とともに義朝に従い、鎮西八郎為朝と戦い、治承四年の頼朝挙兵の当初から参加して功があった年来の御家人で、曽我の仇討ちの後、頼朝弟範頼に謀反の嫌疑がかけられ、古くからの範頼配下でもあった大庭景義は出家・謹慎を命ぜられたが、後に許されて、建久六(一一九五)年の東大寺再建供養の際には頼朝の隨兵を許されるなど、幕府草創期の長老として厚く遇された。
・「神鑒」神託。
・「華構」華やかで立派な建物の造り。
・「茅茨の營み」屋根をチガヤとイバラで葺いた質素な家屋の建造を言う。元は、聖帝堯は宮殿の屋根を葺いた茅や茨の端を切り揃えず、丸太のままの垂木を削らなかったとする「韓非子」の「五蠹ごと」の「茅茨不翦、采椽不」)茅茨剪きらず、采椽さいてん削らず)という質素な住居や倹約の譬の故事に基づく。]

或はいふ、賴義朝臣夷賊征伐の勅を奉じて下向の時、丹祈をこらしめ給ふ事は、往昔桓武天皇の延暦年中、奧の東夷叛きしかば、坂上田村麿に征夷將軍を賜ひ下向し、東夷悉く討平げ給ふ。是則八幡大神の加護に因てなりとて、奧州膽澤に八幡宮を勸請し、彼卿の弓箭幷鞭等を寶前に納給ふといふ。其先蹤に擬し給ひ、心中に此事を丹所せられ、果して賊平らぎしゆへ、此所に石淸水を勸請せられし事なり。されば文治五年九月、右大將家泰衡征伐の時、奧州膽澤郡鎭守府に至り、奉幣八幡宮瑞籬〔號第二の神殿〕田村丸將軍東夷を征せられし時、此所に勸請し給ひし神廟也。
[やぶちゃん注:この部分は「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月二十一日の条に基づく。
〇原文
廿一日戊寅。於伊澤郡鎭守府。令奉幣八幡宮〔號第二殿。〕瑞籬給云々。是田村麿將軍爲征東夷下向時。所奉勸請崇敬之靈廟也。彼卿所帶弓箭幷鞭等納置之。于今在寳藏云々。仍殊欽仰給。於向後者。神事悉以爲御願。可令執行給之由被仰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿一日戊寅。伊澤郡鎭守府に於て、八幡宮〔第二の殿と號す。〕瑞籬を奉幣せしめ給ふと云々。是れ、田村麿將軍東夷を征せんが爲に下向の時、勸請崇敬し奉る所の靈廟なり。彼の卿、帶る所の弓箭幷びに鞭等、之を納め置き、今に寳藏に在りと云々。仍て殊に欽仰し給ふ。向後に於ては、神事悉く以つて御願と爲し、執行せしめ給ふべきの由、仰せらると云々。
・「伊澤郡」岩手県南西部に位置する胆沢郡。
・「鎮守府」坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)は、延暦二十一(八〇二)年、阿弖流為あてるいの激しい抵抗を抑えて盛岡市以南を朝廷直轄支配地に組み入れ、胆沢城を築いた。それとともに多賀城にあった鎮守府はこの胆沢城に移された。この胆沢鎮守府は胆沢郡以北・岩手郡以南の奥六郡といわれた地域を管轄した。
・「八幡宮」現在の岩手県奥州市水沢区黒石町字小島にある石手堰いわてい神社。現在、通称は黒石神社。
・「第二の殿と號す」は「二宮と呼ぶ」の意。社伝によると「陸奥二宮」として「二宮明神」とも呼ばれた由、「玄松子の記録」の「石手堰神社」の頁にある。
・「彼の卿」。正三位大納言兼右近衛大将兵部卿であった坂上田村麻呂を指す。]

2012/06/14

イル・ポスティーノ リターン

台詞はないが――これは「イル・ポスティーノ」の飛び切りいいシーンを――印象的なオリジナル曲とともに聴ける、素晴らしいヴィデオ・クリップ――

鎌倉攬勝考卷之二 始動

「鎌倉攬勝考卷之二」の電子テクスト化・注釈作業に入った。先程、始めたばかりで、今日は名古屋から足を引きづって帰ってくる妻を迎えに行かねばならないので、冒頭の少ししか出来なかった。「鶴岡總説」の最初の、「東関紀行」のそれをお示しして作業開始の報告としておく。

現在の同時進行テクストは、
「耳嚢巻之四」
「生物学講話」
「鎌倉攬勝考卷之二」
の三種である。

【東關紀行】〔前河内守親行〕 抑かまくらの始を申さば、故右大將家と聞え給ふは、水の尾の御門(淸和)の九世のまつえふたけき人にうけたり。さりにし淸泉(高倉)のすゑにあたりて、義兵をあげて朝敵をなびかすより、恩賞くはゝりて身をたて家をおこされ、つゐに瀧山の跡をつぎて將軍のめしをえたり。營館をこの所にしめ、佛神をそのみぎりにあがめ奉るよりこのかた、今繁昌の地となれり。中にも鶴岡の若宮は松栢のみどりいよいよしげく、蘋蘩のそなへかくる主なし。陪從をさだめて四季の御かぐらをこたらず。職掌に仰て八月の放生會をゝこなはる。崇神のいつくしみ、本社にかはらずと聞ゆ云云。
[やぶちゃん注:「東関紀行」の鎌倉の段の前半部からの引用(なお、作者源親行説は現在では否定され、作者未詳とする)。先にこの本文の疑義を示す。
「淸泉(高倉)」高倉天皇の陵墓は後清閑寺陵と呼ぶが、清泉と別称したという記載はない。高倉天皇の治世の末は頼朝挙兵を含む「治承」ではある(高倉帝は治承四(一一八〇)年四月二十二日に安徳帝に譲位した)。
「瀧山の跡をつぎて」は「隴山の跡をつぎて」の誤り。隴山は前漢の李広(その出身地からかく呼んでいる。彼は李陵の祖父で匈奴から飛将軍として恐れられた武将であった)が将軍職に就いたことを言う。
「をこたらず」正しくは「おこたらず」。
但し、以上ように誤字・誤植が疑われるので、以下に同箇所を含む日本古典全書版の鎌倉到着から鶴ヶ岡遊覧の部分を、ここに示しておく。

 くれかかるほどに下りつきぬれば、何がしのいりとかやいふ所に、あやしの賤しづが庵をかりてとどまりぬ。前は道にむかひて門なし。行人征馬かうじんせいば、すだれのもとに行きちがひ、うしろは山ちかくして窓に望む。鹿の音、蟲の聲、かきの上にいそがはし。旅店りよてんの都にことなる、さま變りて心すごし。
 かくしつつ、明かしくらすほどに、つれづれも慰むやとて、和賀江わかえの築島つきじま、三浦のみさきなどいふ浦々を行きて見れば、海上の眺望哀れを催して、こしかたに名高く面白き所々にも劣らずおぼゆ。
  さびしさは過ぎこしかたの浦々も
        ひとつながめの沖のつり舟
  玉よする三浦がさきの波間より
        出でたる月の影のさやけさ
 そもそも鎌倉の初めを申せば、故右大將家ときこえ給ふ、水の尾のみかどの九つの世のはつえを猛き人にうけたり。さりにし治承の末に當りて、義兵を擧げて朝敵をなびかすより、恩賞しきりに隴山ろうざんの跡をつぎて、將軍の召しを得たり。營館をこの所に占め、佛神をそのみぎりにあがめ奉るよりこのかた、いま繁昌の地となれり。中にも鶴が岡の若宮は、松柏の緑いよいよしげく、蘋蘩ひんぱんのそなへ缺くることなし。陪從べいじゆうを定めて四季の御神樂怠らず、職掌に仰せて、八月の放生會はうじやうゑを行はる。崇神のいつくしみ、本社に變らずときこゆ。

以下、以上の「東関紀行」に注する。
・「水の尾のみかど」第五十六代清和天皇。御陵が山城国葛野郡水尾村(京都市右京区嵯峨水尾清和の水尾山腹)にあることからの称。
「はつえ」末枝。末葉・子孫に同じ。
・「治承の末に當りて」頼朝の挙兵は治承四(一一八〇)年、翌治承五年七月、養和に改元。なお、頼朝の実際の挙兵は八月十七日であるが、以仁王の平氏追討の令旨を彼が受け取ったのは四月二十七日、正に高倉帝退位の五日後である。
・「蘋蘩のそなへ」「蘋蘩」は浮草の一種で中国で祭祀に用いたことから、神前に供える供物の意。
・「陪從」賀茂・石清水・春日神社の祭りなどで、神前で行われる東遊あずまあそびの舞で、舞人に従って管弦や歌を演奏する地下の楽人。
・「放生會」捕らえた生き物を池や野に放しやる法会。仏教の殺生戒に基づくもので、奈良時代より行われた。八幡宮の祭りに八月十五日に行われ、ここに書かれている通り、石清水八幡宮のそれが最も有名である。]

耳嚢 巻之四 人間に交狐の事

 人間に交狐の事

 

 丹波の國、處は忘れしが富家の百姓有りしが、數人其家にある翁の、山の岨(そは)に穴居して衣服等も人間の通(とほり)食事も又然(しか)也、年久敷仕へし幼兒を介抱などし、農事家事共手傳、古き咄などする事は更に人間とは思われず。され共年久敷ありければ家内老少共是を調寶して怪しみ恐るゝ者もなし。然るにある時かの家長にむかひて、我等事數年爰許にありて恩遇捨がたしといへども、官途の事にて此度上京して、永く別れを告也と語りける故、家長はさら也、家内共に大に驚き、御身なくては我家いか計か事足るまじ、殊には數年の知遇とて切に留めけれど、不叶(かなはず)とて明(あけ)の日よりいづち行きけん行衞知れざれど、彼翁別れを告る時、もし戀しくも思ひ給はゞ、上京の節富士の森にておぢいと呼給ふべし、必出て對面せんといゝし故、始て狐なる事を知りて藤の森に至り、うらの山へ行ておぢいと呼(よばは)りしかば、彼翁忽然と出來りて安否を尋ね四方山の物語りし、立別れける時、御身の知遇忘れがたければ、此上家の吉凶を前廣(まへびろ)に告(つげ)ん、狐の三聲づゝ御身の吉事凶事に付鳴(つきなき)なば其愼み其心得あるべきと言て立別れしが、果して其しるしの通りなりし由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:四つと五つ前の妖狐譚で連関。表題は「人間に交はる狐の事」と読む。

・「仕へし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『仕へして』。こうでないと意味が通じない。

・「數人其家にある翁の」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『數年其家におる翁の』。ここもこうでないと意味が通じない。

・「富士の森」前出。藤の森。京都市伏見区深草の地名。同地区には伏見稲荷がある。

・「前廣に」副詞。前もって。予め。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人間に交わる狐の事

 

 丹波国――在所は忘れたが――裕福な百姓があった。

 その家に、数年仕えておったとある翁で、山の崖にあいた穴に住まい致し、衣服なども人間と同じで、食事もまた、少しも変わるところなかった。年久しく仕えて、幼児の世話など致し、農事・家事なんども手伝い、古く遠い御世の話を、恰も見てきたかのように語る、その語り口なんどは、更に人とは思われぬ、所謂、異人奇の類では御座った。

 されども、長年の付き合いにてありければ、家内の者は老少を問わず、皆、彼を重宝して、怪しみ恐れる者は一人として、なかった。

 然るに、ある日のこと、その翁、家(や)の主人に告げた。

「――我らこと、数年、ここもとにあって厚遇を受け、まことにその御好意、捨て難く存ずれども――このたび、官位拝受のことあって、上京致すことと相い成って御座る。――永のお別れを告げんとこそ――」

と語る故、主人は勿論のこと、家内一同、大いに驚き、

「……御身なくては、我が家は立ち行かなくなろうほどに……」

「……何と申しても、永い付き合いでは御座らぬか……」

と、皆々、せつに引き留めて御座ったれど、

「――いや、こればかりは、我が意にてもどうにもならぬのじゃ――」

と、その翌日には、何処へどうしたのやら、行方知れずと相い成った。

 ただ、かの翁、前日に別れを告げた、その最後に、

「――もし拙者がこと、懐かしゅうお思いになられることなんぞの御座ったならば……上京の砌、藤の森をお訪ねあって、『おじい』とお呼びなさるがよい。……必ず、出でて、対面せんに……。」

と言い残して御座った故、一同の者は、これ、初めて――かの翁は狐であったを――知ったので御座った。

 後日のこと、家の主人、藤の森を訪れ、その裏山へと参って、

「おじい――おじい――」

と呼ばわったところ、かの翁、忽然と出で来たって、互いに安否を訊ね、四方山話を致いたが、さあ、その別れ際に、翁は、

「……御身の知遇、これ、まこと、忘れがたい。……なればこそ……向後、主が家の吉凶、これ、拙者が前もってお告げ致そうぞ。……狐が

――コン、コン、コン――

と、三度ずつ鳴く……それは御身の吉事や凶事につき、その予告をするものじゃと心得られよ……狐が

――コン、コン、コン――

と鳴いたならば……その時は、相応に身を慎み、吉凶の到来の心構えをなさるがよろしゅう御座る……」

と告げて別れたという。

 ……その後、果たして……

――コン、コン、コン――

と、三度の狐鳴きが御座ると……その通りの不可思議なることが、必ず起こった、との由。

2012/06/13

生物學講話 丘淺次郎 一 個體の起り

      一 個體の起り

 

 一人づつの人間、一疋づつの犬や猫が、如何にして生じたかといふ問は前に掲げた問題の中では一番答へ易いものである。即ち先づ親があり、親の生殖の働によつて新に生じたものであると答へることが出來る。犬・猫の如く胎生するもの、鷄・家鴨の如く卵生するものの區別はあるが、常に人の見慣れて居る高等動物では、子が必ず親から生まれることはいづれの場合にも極めて明瞭である。併し少しく下等の動物になると、卵や幼蟲が頗る小さいために容易に見えず、その結果としてどの子がどの親から生まれたか少しも分からぬことが珍しくない。昔の本草の書物を見ると、生物の生ずるには胎生・卵生・化生・濕生の四通りの出來方があると書いてあるが、胎生と卵生とは別に説明にも及ばぬとして、化生とは如何なることかといふと、これは無生物もしくは他種の生物から突然變化して生ずるのであって、腐草化して螢となるとか、雀海中に入っては蛤となるとかいふのがその例である。山の芋が鰻になるとか鰌が「いもり」になるとか「けら」が「よもぎ」になるとかいふ如き傳説は、どこの國にもあつて一般に信ぜられて居た。また濕生といふのは何等の種もなしに、たゞ濕氣のある所に自然に生ずるので、俗語で「湧く」といふのが即ちそれである。例へば古い肉に蛆が湧いたとか、新しい堀に鰻が湧いたとか、腹の中に囘蟲が湧いたとかいふ類が、皆これに屬する。さて斯やうな化生とか濕生とかによつて、生物の出來ることは實際にあるものであらうか。

Hitode

[ひとで]

 實物に就て實際に調べて見ると、昔から化生とか濕生とか稱へ來つたものは悉く觀察の誤りで、無生物から或種類の生物が突然生じたり、甲種の生物が突然變じて乙種の生物となつたりすることは決してない。海岸地方では漁夫が頻に「ひとで」が貝を産むと主張することがあるが、その理由を聞いて見ると、たゞ「ひとで」の腹の中にはいつでも必ず小さな貝があるといふに過ぎぬ。「ひとで」は主として貝を食ふもので、小さな貝ならばこれを丸呑みにするから、その腹の中に介殼のあることは素より當然であるが、漁夫はそのやうなことには構はず相變らず「ひとで」は貝を産むものと思ひ込んで居る。田の籾が小蝦になるといふ地方もあるがこれも同樣な誤である。又針金蟲というて長さ二尺〔約六一センチメートル弱〕以上にもなる實際針金のやうに極めて細長い蟲があるが、之を馬の尾の長い毛が水中に落ちて變じたものと信じて居る處がある。恐らく細さと長さとから考へて、馬の尾の毛より外に之に似た物はないと定めて斯く信ずるのであらうが、この蟲の幼蟲は「かまきり」の腹の中に寄生して居る細長い蟲で、子供らは「元結」と名づけてよく知つて居る。田圃道などを散歩すると屢々昆蟲が植物に變じ掛つたかと思はれるものを見つけることがある。之は冬蟲夏草というて、昔の書物には冬は蟲になり夏は草になるなどと書いてあるが、實は「けら」・「いなご」・「せみ」などの身體に菌が附着し、蟲の體から汁を吸うて成長して幹を延ばしたものに過ぎぬ。「ゐもり」は鰌から變じて生ずるといふ地方があるが、これは恐らく「ゐもり」の幼兒が極めて鰌の子に似て居る所から起つた誤りであらう。斯くの如く、從來化生と思はれたものは丁寧に調べて見ると悉く觀察の誤りであつて、甲種の生物が突然變じて乙種の生物を生ずるといふ確な例は今日の所では一つもない。

Toutyuukasou_2

[冬虫夏草]

[やぶちゃん注:「針金蟲」脱皮動物上門類線形動物門 Nematomorpha 線形虫(ハリガネムシ)綱 Gordioidea に属する生物の総称。かつては、ミミズや回虫などの線虫である線形動物門 Nematoda と似ていたため、そこに含めて考えられていたが、現在では上記のような別門とするのが一般的である。線虫類とは異なり、体に伸縮性がなく、のたうち回るような特徴的な動き方を示す。体は左右対称、種によっては体長数センチメートルから一メートルに達し、直径は一~三ミリメートと細く長い。内部には袋状の体腔があって表面はクチクラで覆われ、体節はない。カマキリ(主にハラビロカマキリ)・バッタ・ゴキブリといった昆虫類に寄生する。本文中に異名で示される「元結」は「もとゆい」「もっとい」と読み、昔の日本髪を結う際に紙を束ねて縛る蠟引きの紙紐と形状が似ることによる。「ゼンマイ」という地方名もある。英名の“horsehair worms”は馬の洗い水桶の中から発見されたことに依るもので、本邦の俗信と同根である(ジャガイモや大根などの害虫として知られている「ハリガネムシ」は本種とは全く無縁な鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae に属するマルクビクシコメツキ・クロクシコメツキ等の幼虫で、形状も全く異なる)。水棲生物であるが、生活史の一部を昆虫類に寄生して過ごす。水中に産卵された卵は孵化し、その幼虫は水と一緒に飲み込まれて水棲昆虫に寄生する。その宿主をカマキリなどの陸上生物が捕食、その体内で寄生生活を送って成虫になる。寄生された昆虫は生殖機能を失う。成虫になると、何らかの方法で宿主から出て、池沼や流れの緩やかな川辺等の水中で自由生活し、交尾・産卵を行なう。陸上生物に寄生した場合は水中に脱出する機会に恵まれず、陸上でそのまま乾燥して文字通り、錆びた鉄の針金のように硬くなるが、水分が与えられれば復元し得る能力を保持している。一般的に寄生生物は宿主と運命を共にするが、ハリガネムシの場合は宿主が上位者に捕食される際には宿主の体外に出ようとする行動をとるとも言われている。ヒトへの寄生例が数十例あるようだが、いずれも偶発的事象と見られ、しばしば手に載せたハリガネムシが爪の間から体内に潜り込むと言われるのは都市伝説の類いで、最終宿主から成虫が新たな寄生生活に入ることはない(以上は主にウィキの「ハリガネムシ」を参照した)。

「冬蟲夏草」虫に寄生した菌類が虫からキノコを生やしたもので、現在はこの菌を菌界子嚢菌門核菌綱ボタンタケ目バッカクキン科冬虫夏草属 Cordyceps の昆虫寄生菌に対する総称として用いられる(但し、昆虫に寄生する菌類は他にも自然界に多数存在することが知られ、それらも同様な現象を引き起こして「冬虫夏草」様のものを形成する場合もあるので注意が必要である)。昆虫や蛛形類・唇脚類等の幼体や成虫の体内に入った菌は菌糸を伸ばして生長、やがて被寄生個体の体内を完全に占領する(虫はこの時は既に死んでいる)。虫の体型は余り崩れないが、内部の菌糸が密に固まって硬い菌核という組織を形成し、やがて温度・湿度などの条件によって菌核組織からキノコが生ずる。この時の状態が虫から草が生じたように見える。キノコは種類によってかなり異なるが、多くは細く伸び上がって先は少し膨らんで小さな疣状突起で覆われる。このいぼ状突起が成熟すると先端から胞子が放出され、その胞子が再び新しい虫に付着、寄生する。セミタケ Cordyceps sobolifera・サナギタケ Cordyceps militaris (蝶や蛾などの鱗翅目の昆虫のサナギに寄生)・ミミカキタケ Cordyceps nutans(カメムシの成虫に寄生)等、多数。中国や朝鮮を中心に不老不死や強壮剤として扱われ、現在でも漢方の生薬や薬膳食材として珍重・市販されている。生薬としては健肺・強壮・抗癌効果を謳うが、その薬理効果の証明は難しいとされている(以上は主に平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「冬虫夏草」に拠った)。]

Uji

[蠶の繭より蛆の匐ひ出す狀]

 また濕生といふ方もこれと同樣で、如何に濕つて居ても今まで何もなかつた處へ親なしに子だけが偶然生ずるといふ如きことは決してない。古い肉に蛆が生ずるのは蠅が飛ん出來て卵を産み付けるからであって、もし肉を目の細かい網で覆うて置いたならば、いつまで經ても決して蛆は生ぜぬ。蠶を飼うて見ると往々繭に小さな穴を穿けて蛆が匐ひ出すことがあるが、これも桑の葉の裏に蠅が卵を産み附けて置いたのを蠶が食ふ故に、その體内に生じたものである。人間の腹の中に蛔蟲や條蟲が生ずるのも理窟は全く同樣で、極めて小さな卵か幼蟲かをいつの間にか知らずに食つたから、それが腹の中で生長して大きな蟲となるのである。中には微細な幼蟲が人間の皮膚を穿つて體内に入込んで來るものもある。これらの場合には、卵も幼虫も頗る微細であるから餘程詳しく調べぬと、いつどこから入つたか分らず、隨つて世人は自然に腹の中で湧いたものの如くに思つて居る。コップに一杯の淸水を入れ、その中に藁を少し漬けておき、數日の後に顯微鏡でその水を見ると、實に無數の小さな蟲が泳いで居て、一滴の中に何百疋も何千疋も數へることが、出來るが誰もこの蟲を態々入れた覺はないから、水の中で自然に生じたものの如くに考へるのも無理ではない。然しながら斯やうな蟲にも皆それぞれ親があって、決して偶然に生ずるものではない。その證據には初め藁を漬けた水を一度煮立てて、その中にある蟲の種を悉く殺してしまひ、次に之を密閉して外から蟲の種の紛れ込んで來ることのないやうに防いで置くと、いつまで待つても決して蟲は生ぜぬ。藁を漬けた水の中に自然に蟲が湧くか湧かぬかといふ如きことは、一寸考へるといづれでも宜しいやうで、斯かる問題に實驗研究を重ねるのは、全く好事家の慰に過ぎぬ如くに思はれたが、一旦その研究の結果、生物は決して種なしには生ぜぬとのことが確になった後は、直にこれが廣く應用せられるに至つた。例へば今日最も便利な食物貯藏法は鑵詰であるが、これは人の知る通り、先づ鑵に入れた食物を熱してその中の徽菌を殺し、次に之を密閉して他から徽菌の紛れ込むのを防ぐのであるから、全く上述の學理を應用したものである。また今日外科醫學が進歩して、思ひ切つた大手術が出來るようになったのは、一つは消毒法の完全になつた結果であるが、傷口にも繃帶にも醫者の手にも、器械にも、決して黴菌の附かぬやうな工夫の出來たのは、みな以上の學理の應用に外ならぬことである。若し生物が親なしに偶然生ずるものならば、密閉した鑵の内にも自然に黴菌が生じて食物を腐らせることもあり得べく、また以下に傷口や繃帶を消毒して置いても、そこへ化膿菌が發生して、傷が自然に膿み始めることがあり得べき筈であるに、そのやうなことが實際にないのは、如何に微細な生物でも決して種なしには生ぜぬといふ證據である。

[やぶちゃん注:「古い肉に蛆が生ずるのは蠅が飛ん出來て卵を産み付けるからであって、もし肉を目のこまかい網で覆うて置いたならば、いつまで經ても決して蛆は生ぜぬ。」は、自然発生説の最初の否定を行ったイタリアの医師フランチェスコ・レディ(Francesco Redi 一六二六年~一六九七年)の一六六五年の実験に基づき、後の「初め藁を漬けた水を一度煮立てて、その中にある蟲の種を悉く殺してしまひ、次にこれを密閉して外から蟲の種の紛れ込んで來ることのないやうに防いで置くと、いつまで待つても決して蟲は生ぜぬ。」の部分は、イタリアの博物学者にして実験動物学の祖ラッザロ・スパッランツァーニ(Lazzaro Spallanzani 一七二九年~ 一七九九年)が一七六五年に行ったフラスコ密閉実験を補正補完しつつ、フランスの近代細菌学の祖ルイ・パストゥール(Louis Pasteur 一八二二年~一八九五年)が一八六一年の「自然発生説の検討」で示したパストゥール壜(白鳥の首フラスコ)による自然発生説否定実験に基づく。

「微細な幼蟲が人間の皮膚を穿つて體内に入込んで來るものもある」ヒト寄生虫感染症の大部分は経口感染であるが、一部にはこうした経皮感染(蚊などに刺されるのではなく)をするものがある。例えば鉤虫の一種でアフリカ・アジア・アメリカ大陸の熱帯地方にいるアメリカ線虫門有ファスミド綱円形線虫亜目円形線虫上科アメリカコウチュウ Necator americanusは経皮感染が主で、同科のズビニコウチュウ Ancylostoma deodenale (インド・中国・日本・地中海地方に棲息)も経皮感染をする場合がある。これらは肺炎や腸炎を引き起こし、人の皮膚下で幼虫移行症(皮膚の下をその幼体が移行するのを視認出来るという「エイリアン」並に慄然とする症状)を示す。腸に寄生して自家感染し、長期に及ぶ慢性的な下痢症状を呈する Strongyloides stercoralis による糞線虫(熱帯地方に広く分布し、本邦では南九州以南にみられる)症も経皮感染をする。]

 要するに、一疋づつの生物個體の生ずるには必ず先づその親がなければならぬ。人間や、犬・猫・馬・牛の如き大きなものは勿論のこと、一滴の水のなかに數百も數千も居るやうな微細な黴菌と雖も、親なしに自然に湧いて生ずる如きことは決してない。然してその親なるものは必ずその生物と同種同屬のものであつて、決して從來言ひ傳へられた如くに、甲種の生物が突然乙種の生物に變化するといふ如きことはない。生物個體の起りを一言でいへば、如何なる種類のものでも必ず先づこれと同種の生物が生存し、そのものの生殖によつて初めて生ずるのである。

新編鎌倉志卷之一 詳細注補完作業終了

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「新編鎌倉志卷之一」詳細注補完作業を終了した。これで僕の「新編鎌倉志」は、正しく完結したと言える。ほっとした。

耳嚢 巻之四 螺鈿の事

耳嚢 巻之四 螺鈿の事

 

 中国の細工に螺鈿を以器物に鏤(ゑ)り付たる多し。鈿は日本にて出生の物にあらず、後世日本にて近江の湖水より出る、俗に泥貝といへる類ひを螺と名付細工にしけるが、糀町に住る御具足師春田播摩(はりま)、右近江の螺を細工せしに、異国より渡りしに少しもおとらざる由を兼て語りしは、寛政七八年の比江戸溜池定浚(じやうざらへ)の者掘出せし貝、近江の湖より出せし螺に少しも違ひなし。未(いまだ)細工はせじが、彌々細工になして其しるし不違(たがはざれ)ば、彼貝には玉ある事と異国には言傳ふるなれば、玉も有べきやなど、親友なれば望月翁へ咄せしと、彼望月の翁語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:儒学生望月氏談話で連関。中国関連という共通性もある。

・「螺鈿」螺鈿細工は青貝細工とも言い、ヤコウガイ・アワビ・アコヤガイ・オウムガイ・ドブガイ(淡水産)などの貝殻の表層を除去して真珠層を取り出し、これを短冊形にして磨きをかけて粁貝(すりがい)とし、それを用途によって方形や小型のメダル状に打ち抜いたものを、木彫などの彫り込んだ空所に張り合わせて文様や図柄を描いた。「螺」は主な原材料である巻貝の意、鈿は嵌装することを言う。以下、「世界大百科事典」やウィキの「螺鈿」の記載を参照しながら、中国と本邦の螺鈿工芸の歴史を見ておく。中国では陥蚌(かんぽう)・坎螺(かんら)・螺浬(らてん)などとも言う。貝で器物を飾ることは中国や朝鮮で古くから行われた。中国では西周の頃から貝を用いた加飾があったとされているが、螺鈿が発達するのは唐代で、ヤコウガイを紫檀などに嵌装する木地螺鈿が盛んに行われた。しかしその後、中国では螺鈿は停滞し、十世紀から十三世紀頃には寧ろ、日本産螺鈿器が珍重された。中国で螺鈿が再び盛んになるのは明代に入ってからである。本邦の螺鈿は奈良時代に始まり、「宋史」の「日本伝」には、永延二(九八八)年に橿然(ちょうねん)が宋へ螺鈿器を送ったとあり、北宋の頃に書かれた「泊宅編」には『螺鈿器は倭国に出づ』とあって、日本製螺鈿細工が中国を凌ぐものとなっていたことが分かる。十一世紀になると浄土信仰が盛んとなったが、螺鈿は蒔絵と結びついて豪華な阿弥陀堂建築の荘厳に用いられるようになる(平等院鳳凰堂須弥壇・天蓋や中尊寺金色堂等)鎌倉時代は和様螺鈿にとって最も輝かしい時期で、特に螺鈿鞍に於いて究極の技巧美を示した(ここまで「世界大百科事典」に拠る。以下はウィキ)。『室町時代になると中国の高価な螺鈿細工の影響を強く受け』、『安土桃山時代にはヨーロッパとの貿易によって螺鈿産業は急成長した。この頃は螺鈿と蒔絵の技術を使って、輸出用にヨーロッパ風の品物(例えば箪笥やコーヒーカップなど)が多く作られた。これらの品物はヨーロッパでは一つのステータス・シンボルとなる高級品として非常に人気があった。日本ではこの頃の輸出用の漆器を南蛮漆器と呼んでいる』。『江戸時代になっても螺鈿は引き続き人気を博したものの、鎖国政策によってヨーロッパとの貿易は大幅に縮小されたため、螺鈿職人は必然的に日本向けの商品に集中することとなった。江戸時代の螺鈿職人としては生島藤七、青貝長兵衛、杣田光正・杣田光明兄弟などが名高い』とある。

・「鏤り付たる」螺鈿細工には相応しい言葉で、正に彫り刻んで、そこに青貝のチップを嵌め込むのである。

・「泥貝」はカラスガイGristaria Plicata 及び琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)を指していると考えてよい。但し、この話柄からは、それらとドブガイAnodonta woodiana とは区別されていない。いや寧ろ、現在でも区別していない一般人は多いと思われる。形態上の判別は、その貝の蝶番(縫合部)で行う。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は、貝の縫合部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。何れもその貝殻の内層の真珠光沢は螺鈿細工に用いられる。私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 介貝部 十七」の「蚌(ながたがひ どぶかい)」及び「馬刀(かみそりかひ からすかひ)」の項を参照されたい。

・「春田播摩」岩波版の長谷川氏注に文化六(一八〇九)年(本文の「寛政七八年」(西暦一七九五~九六年から十三、四年後である)の「武鑑」に具足師として名が出ている旨、記載がある。但し、そちらの表記は『播磨』である。

・「溜池」は固有名詞。江戸城の南西部の一部を構成していた外濠。現在の総理大臣官邸の南方にあった。元来は水の湧く沼沢地であり、その地形を活かしたまま外濠に取り込んだもので、江戸時代中期から徐々に埋め立てられ、明治後期には完全に水面を失ったとされる。現在は、細長かった溜池の長軸を貫く形で外堀通りが走っている(以上は主にウィキの「外濠(東京都)」に拠った)。

・「定浚」江戸城下の河筋・堀川の泥土・塵芥を定期的に行うこと。

・「玉」ここで言っているのは所謂、真珠である。実際に、ドブガイやカラスガイには淡水真珠が生じる(近年では十ミリを越える大型の淡水パールも技術的に可能となった)。なお、中国は紀元前二三〇〇年頃より真珠が用いられていたという記録があり、本邦に於いても「日本書紀」「古事記」「万葉集」に既に、その記述が見られる。「魏志倭人伝」にも邪馬台国の台与が曹魏に白珠(真珠)五〇〇〇を送ったことが記されており、「万葉集」には真珠を詠み込んだ歌が五十六首含まれる。当時は三重県の英虞湾や愛媛県の宇和海で天然のアコヤガイから採取されていたが、日本以外で採れる真珠に比べ、小粒であった(歴史部分はウィキ真珠」に拠った)。私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 介貝部 四十七」の「真珠(しんじゆ)」の項も参照されたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 螺鈿の事

 

 中国の工芸細工には螺鈿を以て器物に彫り嵌めたものが多い。鈿という工芸は日本で創出された技術ではない。後、日本でも近江の琵琶湖より採取される、俗に泥貝という類いの二枚貝を「螺」と称して、かの螺鈿細工に用いるようになった。

 麹町に居住する御具足師の春田播摩は、

「……近頃。この近江の螺を具足螺鈿の細工に使ってみたところが――これ、異国渡りの粁貝(すりがい)と比しても――少しも劣らぬもので御座る。……」

とかねてより語って御座ったが、寛政七、八年の頃のこと、

「……江戸の溜池の定浚(じょうざら)えの際、ある者が泥の中から掘り出した大きな貝が、この近江の琵琶湖から採取した――螺鈿に使用可能な真珠光沢を持って御座る泥貝――「螺」と、これ、少しも違いがない。……尤も未だ細工には使(つこ)うてみては御座らねど、……いや、実際に細工に成して見て、その結果が異国渡りの粁貝と何らの違いも御座らぬということになれば、……

……余り、大きな声では言えんが、の……

……かの大陸の螺鈿に用いる貝には、の……

――その中に、希有の『珠』がある――

……と、かの異国にては言い伝えておることなれば、の……

……日本の、その泥貝にも、の……

――希有の『珠』がある――かも知れんのじゃ!……」

などと、親友なれば、望月翁に話したという。

 かの儒学者望月翁が私に語って御座った話である。

2012/06/12

生物學講話 丘淺次郎 第二章 生命の起り

    第二章 生命の起り

 

 さて生物は如何に食ひ如何に産み如何に死ぬかを述べる前に、一通り生命の起こりについて説いておく必要がある。已に出來上がつて居る生物の生活狀態を論ずるに當つては、それが初め如何にして生じたものであつても構はぬやうに思はれるが、事柄によつてはその生じた起りを考へぬと誤に陷り易いこともあり、特に死について論ずる場合の如きは、決して生の起源を度外視するわけには行かぬ。而して生命の起こりといふ中には種々の問題が含まれてある。例へば今、目の前にある生物の各個體は如何にして起つたかといふ問題もあれば、その生物個體の屬する種族は如何にして起つたかといふ問題もあり、更に遡れば、一體地球上の生物は最初如何にして生じたかといふ問題も解かねばならぬ。又生物の身體をなせる生きた物質は日々取り入れる食物が變じて生ずる外に途はないが、死んだ食物が如何に變化して生きた組織となるか、熱や運動は原因なしには決して生ぜぬものであるが、生物の日々現す運動や熱は抑々何處にその原因があるかといふやうな問題も自然に生ずる。これらはいづれも中々大問題であるが、その中には今日の知識を以て稍々確かな解決の出來るものと、殆ど何の返答も出來ぬ程の困難なものとがある。例へば生物の各個體は如何にして起つたかといふのは發生學上の問題で、これは已に研究も進んで居るから大體に於ては誤のない答をすることが出來やう。又生物の各種族は如何にして起つたかといふことは生物進化論の説く所で、今日に於ても詳細の點に關しては尚學者間に議論はあるが、大要だけは已に確定したものと見做して差支へはなからう。之に反して、地球上には初め如何にして生物が生じたかといふ問題は實驗で證明することも出來ず、遺物から推察するわけにも行ゆかず、たゞ想像によるの外はないから、これまで隨分出放題と思はれるやうな假説さへも眞面目に唱へられたことがあり、今日と雖も未だ確かな返答をすることは出來ぬ。次に生物の體内に於ける物質の變遷や力の轉換は所謂生物化學および生物物理學の研究する所で、近來はそのための專門雜誌も出來、報告の數から見ると頗る目醒しい進歩をした。十餘年前、英國理學奨勵會の席上でフィッシャーといふ生理學者が生命の起こりについて演説したのも、生物化學の進歩に基いたことであつたが、この演説はロイテルから世界各國へ電報で知らせたゆえ、「生命人造論」などといふ勝手な見出しで新聞紙に掲げられ、我が國でも一時評判になつた。未だ解らぬ方を見ると、實に尚前途遼遠の感があるが、今日までの研究の結果、一歩づつこの間題の解決の方向に進み來つたることは疑ない。本章に於ては、以上の諸問題に就て極めて簡單に述べて、各種生物の生活狀態を論ずる前置として置く。

[やぶちゃん注:「フィッシャー」それらしき人物としては、現代推計統計学の確立者として、また、集団遺伝学の創始者として知られるイギリスのネオダーウィニズムの生物学者であったサー・ロナルド・エイルマー・フィッシャー(Sir Ronald Aylmer Fisher 一八九〇年~一九六二年)がいるが、初版の記載から考えると二十四歳ということになり、年齢が若過ぎる。実はこの部分、大正五(一九一六)年初版では、

『一昨々年の秋、英國理學奨勵會の席上でシェーフェルといふ生理學者が』

となっている。全集を底本として校訂を行ったと記す講談社学術文庫版では、

「シェーフェル」

となっているから、「シェーフェル」が正しいものと思われる(そもそも第四版で何故誤った記載に変更したのかが不思議である)。そしてこれはイギリスの生理学者・医学者エドワード=シャーピー=シェーファー(Edward Albert Sharpey-Schafer 一八五〇年~一九三五年)のことを指していると思われる。彼は糖尿病の原因が膵臓からのインスリンの分泌量にあることを確認、インスリンやエンドコリン等の命名者として知られる。ただ、この「生命の起こりについて演説した」内容はよく分からない。識者の御教授を乞うものである。]

耳嚢 巻之四 聖孫其のしるしある事

耳嚢 巻之四 聖孫其のしるしある事

 

 當時も孔子々孫は連綿として諸侯たる由。淸朝の乾隆帝巡狩(じゆんしゆ)の時孔子の庿(びやう)に詣で、名は忘れたり、孔子の裔孫何某を見給ふに、其容貌進退の樣子、年若なれども温順にして至て其位を得たりしかば、帝も流石聖孫成(なる)を甚(はなはだ)賞歎して聟(むこ)にせんとありしを、孔孫甚だ恐れ入て、勅に違(たが)ふは如何なれ共、幾重にも免(ゆる)し給はるべしと厚く乞願(こひねがひ)けるに、其譯を尋ねられけるに、淸朝は夷狄の孫也、聖孫として夷狄と緑を組(くま)んは先祖孔丘への恐れ有りと答へけるを、乾隆帝聞給ひて、尤の事也、流石に聖人の裔たる事をと感じて、中華世家の女を媒酌して婦人とし給ひし由。帝の惇直成(じゆんちよくなる)を却て稱(しやう)たんせしと、近頃渡りし書にて見しと望月氏なる儒生の語りけるを記ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。中国物は「耳嚢」の中では珍しい。

・「乾隆帝」(一七一一年~一七九九年)は清の第六代皇帝(在位:一七三五年~一七九六年)。台湾やビルマ・ヴェトナムなどへ遠征に総て勝利し清国最大の版図を実現して清朝の最盛期を実現したが、同時に上皇になった後は賄賂政治がはびこり、白蓮教徒の乱などが多発して、清朝没落の開始期ともなった。本件執筆時と思われる寛政八(一七九六)年、その二月九日に乾隆帝は退位している。

・「巡狩」古代中国で天子の諸国巡視を言う語。「巡守」とも書く。

・「孔子庿」孔子の生地とされる魯の昌平郷陬邑(すうゆう:現在の山東省曲阜。)に孔子の死後一年目(紀元前四七八年)に魯の哀公によって孔子旧宅を廟にしたのがルーツとされ、現在、孔廟と呼ばれて儒教の総本山として厚く信奉されている。

・「孔子の裔孫」ウィキの「子孫」及び「系譜」の項によれば、孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(十一世孫)、孔融(二十世孫)などがおり、孔子の子孫と称する者は、実は予想外に非常に多く、直系でなければ現在四〇〇万人を超すと言われている。本話でも感じられる通り、永い間、その子孫にも厚遇が与えられた経緯があり、『前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は一〇五五年、第四十六代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する』、とあって、更に『孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑八百戸を与えられ、「褒成侯」孔均も二千戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる』とする。なお、近代の直系であった『孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、一九四九年に台湾へ移住している』。『孔子の子孫一族に伝承する家系図は「孔子世家譜」である。孔子以降、現在に至るまで八十三代の系譜を収めたこの家系図はギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されて』おり、最新の「孔子世家譜」には初めて中国国外や女性の子孫も収録され、総数『二百万人以上の収録がなされた』とある(引用中の総てのアラビア数字を漢数字に代えた)。――正直言うと――何だか気持ちが悪い。

・「婦人」底本では右に『(夫人)』と傍注する。

・「夷狄」漢民族の時代の中国の周辺地域に存在した異民族の蔑称。一般に「東夷北狄南蛮西戎」呼ぶ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 聖孫には相応の節のある事

 

 現在に至るまで、中国の孔子の子孫は、連綿として諸侯の地位にあるとの由。

 先般、譲位された清朝の乾隆帝は、その巡察の折りに、孔子廟に詣でて――名を失念致いたが――孔子の裔孫何某なる人物にお逢いになられたところ、その容貌や挙止動作、年若であるにも拘わらず、殊の外に優れて、その人柄も温順にして至って仁徳を持ったる人物で御座ったれば、帝も、

「流石、聖孫である。」

と甚だ賞賛なされた上、

「ぜひ我が娘の婿にせん。」

とのお言葉が御座った。

 ところが、かの孔孫は、甚だ恐れ入りながらも、

「勅命に違(たが)うは畏れ多きことながら――何卒、それだけはお許し下さいまし。」

と丁寧に固辞致いたれば、帝は、その訳をお問いになられた。

 すると彼は、

「――お畏れながら――清朝は、これ――漢民族ならざる夷狄の子孫にて御座います。聖孫として――お畏れながら――夷狄と縁を結んでは、これ、漢人たる先祖孔丘へ申し訳が立ち申さぬので御座いまする。」

と――まっこと、畏れ多くも――言い放ったという。

 しかし、それをお聞きになられた乾隆帝は、

「――それは尤もなること。いや、流石に聖人の末裔じゃ!」

と感ぜられて、帝自ら、中華漢民族の名家の娘を媒酌して、かの聖孫の夫人とさせなさったとの由。

 これは却って、乾隆帝の、その純粋にして正しき御心なればこそ、と人皆、賞嘆致いた、と最近中国から渡ってきた書物に書かれていたのを見た、と望月氏という儒学生が語って御座ったのを記しおく。

アバター 追伸

僕が泣いた一つは――彼がイクランと出逢うシーン……

2012/06/11

アバター 又は パンドラ星版「ダンス・ウィズ・ウルブズ」

何となく気になっていた――遅まきながら――邪道にも――DVDで「アバター」を今日観たぞ!

つい一昨日、教え子の男子に――映画は映画館でと豪語していたのに……許して呉れ給え……

これはまず――民俗学的にも博物学的にも極めて興味をそそる素晴らしい傑作である――と思った……

ところが……見ながら、特にナヴィの出現以降……

「これは何処かで見たことがあるぞ?!」

と感じさせた。……

アメリカ・インディアンの隠喩はその習俗から容易に連想される――ところが――何が僕にデジャ・ヴ(既視感)を感じさせているのか……残念ながら、愚かにも……見終わっても分からなかった……

ネットで漫然と検索を掛けた……「アバター インディアン」で……

――と――

来たね!!!

これだわ!!!!!!

樺沢紫苑氏の『「アバター」を深読みする 先住民描写についての考察 (ネタバレ注意)』だっ!!!!!!

そうだ!!!!!!

これはSF版“Dances with Wolves”なんだ!!!!!!

樺沢氏の言辞に屋上屋を架す必要はない。リンク先をお読みあれ!

僕は――ともかくも――3Dで映画館でこれを観ることを――向後の自身の『義務』とするものである――

僕はかつてSFで涙を流したのは――タルコフスキイの「惑星ソラリス」を除いて――ない――と思っていた――が――今日――僕は――三度、涙腺が緩んだことを――正直に告解しておく……ネイティリの胸の乳輪を……見ようとする猥雑な「僕」がいたことも……更に付け加えておかねば、なるまい……

耳嚢 巻之四 疱瘡神狆に恐れし事

 疱瘡神狆に恐れし事

 

 軍書を讀て世の中を咄し歩行(ありく)栗原幸十郎と言る浪人の語りけるは、同人妻は五十じに近くしていまだ疱瘡をせざる故、流行の時は恐れけるが、近所の小兒疱瘡を首尾克仕廻(よくしまひて)て幸十郎が門へ來りしを抱て愛し抔せしが、何と哉(や)らん襟元より寒き心地しければ、早々に彼(かの)子を返し枕とりて休しに、何とやらん心持あしく熱も出るやうなる心持の處、夢ともなく風與(ふと)目を明き見れば、側へ至つて小さき婆々の、顏などは猶更みぢかきが、我は疱瘡の神也、此所へ燈明を燈し神酒(みき)備(そなへ)を上げて給はるべしといいける故、召使ふ者に言付て神酒備をも取寄、燈明をも燈しけるに、兼て幸十郎好みて飼置ける狆(ちん)六七疋もありしが、右婆々見へけるにや大にほへければ、彼婆々は右狆をとり除(のけ)給へといゝけれども、渠(かれ)はあるじの愛獸也、主は留守なればとり除る事叶(かなひ)難しと答へけるに、頻りに右の狆ほへ叫びける故にや、彼婆々は門口の方へと寄ると見へしが跡もなし。幸十郎は外へ用事ありて歸りけるに、燈明など灯し宿の様子ならねば、是を尋問ひしにしかじかの事妻の語りける故、大に驚き召仕男女に尋しに、様子はわからねど妻が神酒備を申付何かひとつ言をいゝし事、狆の吠へ叫びし事迄相違なき由かたりしが、右婆々歸りて後は妻心持もよく、熱もさめて平生に復しけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐のやんごとなき男に化ける話から、疱瘡神の婆となる話で直連関。

・「狆」日本原産の愛玩犬の一品種。英語でも“Japanese Chin”と呼ぶ。以下、ウィキの「狆」より引用する。『他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきた為、抜け毛・体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬である。 狆の名称の由来は「ちいさいいぬ」が「ちいさいぬ」、「ちいぬ」、「ちぬ」とだんだんつまっていき「ちん」になったと云われている。 また、【狆】と云う文字は和製漢字で中国にはなく、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである。 開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なく所謂小型犬の事を狆と呼んでいた。 庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた』。『祖先犬は、中国から朝鮮を経て日本に渡った、チベットの小型犬と見られ』るが、現在は、シーボルトの記述に拠る『戦国時代から江戸時代にかけて、北京狆(ペキニーズ)がポルトガル人によってマカオから導入され、現在の狆に改良された』という説が定説のようである。『室町時代以降に入ってきた短吻犬や南蛮貿易でもたらされた小型犬が基礎となったと思われ』、江戸期では享保二十(一七三五)年に清国から輸入された記録が残るとする。『狆の祖先犬は、当初から日本で唯一の愛玩犬種として改良・繁殖された。つまり、狆は日本最古の改良犬でもある。とは言うものの、現在の容姿に改良・固定された個体を以て狆とされたのは明治期になってからである。 シーボルトが持ち出した狆の剥製が残っているが日本テリアに近い容貌である。 つまり小型犬であれば狆と呼ばれていた事を物語る』。犬公方第五代将軍徳川綱吉の治世下(一六八〇年~一七〇九年)にあっては、江戸城内『で座敷犬、抱き犬として飼育された。また、吉原の遊女も好んで狆を愛玩したと』され、「狆育様療治」という書によれば、『狆を多く得る為に江戸時代には今で言うブリーダーが存在し、今日の動物愛護の見地から見れば非道とも言える程、盛んに繁殖が行われていた。本書は繁殖時期についても言及しており、頻繁に交尾させた結果雄の狆が疲労したさまや、そうした狆に対して与えるスタミナ料理や薬』に関する記述がある。『近親交配の結果、奇形の子犬が産まれることがあったが、当時こうした事象の原因は「雄の狆が疲れていた為」と考えられていた』 という。本執筆は寛政八(一七九六)年であるから、この享保二十(一七三五)年の清国からの輸入を起点に、約六十年で庶民レベルまで狆の飼育が大々的に広がったと考えられる。

・「軍書を讀て世の中を咄し歩行」軍記や武辺物などを講釈する芸人。「軍記読み」「軍書読み」「軍談師」とも呼ばれた、現在の講釈師のこと。

・「疱瘡」天然痘。「卷之三」の「高利を借すもの殘忍なる事」の私の注を参照されたい。

・「五十じ」底本には右に『(五十路)』と傍注する。

・「克仕廻(よくしまひて)て」は底本のルビであるが、「て」のダブりはママ。

・「備(そなへ)」は底本のルビ。御供物のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疱瘡神は狆を恐れるという事

 

 軍記や武辺物を読んで生業(なりわい)と致いておる栗原幸十郎という浪人者が語った話で御座る。

 彼の妻は五十に近かったが、未だに疱瘡にかかったことがなかったがため、疱瘡流行の折りには、なにかと恐れて御座った。

 そんな小さな流行りのあったある時、近所の可愛がって御座った子供が、首尾よく疱瘡の軽くしてすんだとて、病み上がりの直ぐ後日に、幸十郎が家(や)の戸口へと遊びに来たを、抱いてあやいたり致いておったところが……何やらん、襟元より――ゾゾっと――寒気を感じたによって……早々にその子を家へと送り……自宅に戻るとすぐに、枕をとって横になった。……

 ……何やらん、気持ちも悪うなって参り、熱も出始めておる様子なれば……夢とも現(うつつ)とものう……ふっと……目を開けてみた……ところが……

……床のそばに……

……小さな小さな……

……老婆が……座って御座った――

……その老婆のその顔……

……これがまた……

……体の小ささに輪をかけて……

……異様に更に更に……

……小さい――

……その奇態な老婆が口を開いた。

「――我は疱瘡の神じゃ――ここへ灯明を灯し――神酒(みき)に供物を――あげて給(たも)れ――」

とのこと。

 熱に朦朧とする意識の中、かの妻は召使(つこ)おておった者を呼んで言いつけると、お神酒とお供えなんどを取り寄せさせ、灯明をも灯して御座った。

 さて、この家(や)にはかねてより幸十郎が好きで飼って御座った狆(ちん)が、これ、六、七匹も室内におったが……

……彼ら狆には……

……もしや、この老婆が見えたものか……

――突如として、一斉に――

――!!!!!!!――

――狆どもが、激しく吠えたてる――

すると、かの老婆は、

「……あふぁ、ふぁあ、ふぁ!……こ、この、ち、ち、チンども!……ど、どこぞへ、と、取り除けて、お呉れ、や、ん、し!……」

と懇請する。かの妻、

「……あれらは主(あるじ)の愛犬で御座います。主は留守なれば、他の者のいうことは、これ、きかざればこそ、とり除けるは難しゅう御座います。……」

と熱に魘されるように答えた。

 さても――頻りに、かの狆が吠え叫んだ故か――かの小さな老婆――家の門口の方へと――すうっと寄って行ったかと見えた――が――そのままあとかたものう消えてしもうた。――

 さて、幸十郎、用事を済ませて外から戻ってみると――

――何やらん、辛気臭い灯明が灯され、見たこともない御神酒やら供物やらが立ち並んで御座る……

――我が家とも思えぬ様子なればこそ

――何が御座った、女房殿?

――妻は答える、しかじかと

――大いに驚き、召し使う

――男女に、委細尋ぬれば

――ようは分からぬ、奥様が

――お神酒お供物、命ぜられ

――何やら、誰かに喋るよに

――独り言をば、申されし

――それに加えて今一つ

――狆の頻りに吠えつきし

――それらのことは、相違なし……

……と、口を揃えて証言致いて御座った。

 而して付け加えておくと――かの老婆が消え去ってより後は、妻の具合はようなって、熱もさめて、すっかり普通の体調に復した――とのことで御座ったよ。

生物學講話 丘淺次郎 五 生物とはなにか

これで「第一章 生物の生涯」が終わる。



     五 生物とはなにか

 

 前に述べた通り、生物の生涯は食うて産んで死ぬといふ三箇條に約めて觀ることが出來るが、これだけは先づ總べての生物に通じたことで、生物以外には見られぬ。食わぬ生物、産まぬ生物、死なぬ生物など、一見しては例外の如くに思はれるものがないでもないが、これらもよく調べて見ると、決して眞に食はず産まず死なぬわけではなく、たゞ親が澤山に食うて置いてくれた故に、子は食ふに及ばぬとか、姉が餘分に産んでくれる故に、妹は産むに及ばぬとかいふ如き分業の結果に過ぎぬ。また死ぬ死なぬは、單に言葉の爭で、個體の生存に一定の期限のあることは、死なぬと稱せられる生物でも他に比して少しも變りはない。されば、生物とは何かといふ問に對しては、森羅萬象の中で、食うて産んで死ぬものを斯く名づけると答へて大抵差支へはなからう。

 然らば所謂無生物には之に類することは全くないかといふと、その返答は少々困難である。普通の石や金が食ひもせず産みもせぬことは明瞭であるが、鑛物の結晶が次第に大きくなるのは、外から同質の分子を取つて自分の身體を増すのであるから、幾分か物を食うて成長するのに似て居る。又一個の結晶が破れて二片となつた後に、各片の傷が癒えて二個の完全な結晶となる場合の如きは、如何にもある種類の生殖法に似て居る。然しながらこれらの例ではいづれも初めから同質の分子が表面に附着するだけで、前からあつた部分は舊のまゝで少しも變化せぬから、素より生物が物を食ひ子を産むのとは大に違ふ。生物が物を食ふのは、自分と違つたものを食うて自分と同じものとする。例へば、牛に食はれた草は變じて牛の身體となり、鯉に食はれた蚯蚓は變じて鯉の身體となるが、斯かることは無生物では容易に見出せない。それ故一寸考へると、この事の有無を以て明に生物と無生物との區別が出來るやうであるが、よく調べて見ると、無機化合物の中にも多少之に類することを行ふものがあるから、結局生物と無生物の間には判然たる境は定められぬことになる。また一方理屈から考へて見ても判然たる境のないのが當然である。

 元來、生物の身體は如何なる物質から成つて居るかと分析して見ると、植物でも動物でも皆炭素・水素・酸素・窒素などといふ極めて普通にありふれた元素のみから出來て居て、決して生物のみにあつて無生物には見出されぬといふ如き特殊の成分はない。これらの元素は水や空氣や土の中に殆ど無限に存在するもので、これが植物に吸はれて暫時植物の體となり、次に動物に食はれて暫時動物の體となり、動物が死ねば更に分解して舊の水・空氣・土に歸つて再び植物に吸はれる。されば今假に炭素か窒素かの一分子の行衞を追うて進むとすれば、或時は生物となり、或時は無生物となつて常に循環する。而して生物から無生物になるときにも、無生物から生物になるときにも、決して突然變化するわけではなく、無數の細かい階段を經て漸々一歩づゝ變化するのであるから、到底こゝまでが無生物でこゝから先が生物であるといふ如き判然した境のある筈がない。これらに就ては次の章と終の章とで更に述べる故、ここには略するが、自然界に於ける生物と無生物との間には決して線をもって區劃することの出來るやうな明な境はなく、恰も夜が明けて晝となり、日が暮れて夜となる如くに移り行くもの故、生命の定義なるものを考へ出さうとすると必ず失敗に終わる。スペンサーの著した『生物學の原理』といふ書物の中には、哲學者流の論法で「生活の現象とは内的の關係が外的の關係に絶えず適應して行くことである」との定義が掲げてあるが、これは樣々に考えた末に出來上がった定義が、生物に當て嵌まる外に、空にある雲にも當て嵌まるので、更に雲を除外するように訂正して得た所の最後の定義である。その詳しい説明は暗記しても居らず、又こゝに掲げる必要もないから略するが、著者の如き哲學者にあらざる者から見ると、斯かる定義は單に言葉の遣ひ分けの巧なる見本として面白いのみで、眞の知識としては何の價値もないやうに思はれた。本書に於ては、生物とは何ぞやといふ問に對して、生命の定義を以て答へる如きことをせず、ただ生物は食うて産んで死ぬといふ事實だけを認めて、今よりこれに就て少しく詳細に述べて見やう。これだけの事實は生物の九割九分以上には適し、無生物の九割九分以上には適せぬから、所謂、定義なるものよりは餘程確である。

[やぶちゃん注:「スペンサー」の部分は表記通りの傍線。ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)はイギリスの哲学者・社会学者。一八五二年に“The Developmental Hypothesis”(発達仮説) を、一八五五年に“Principles of Psychology”(心理学原理)を出版後、「社会学原理」「倫理学原理」を含む“A Systemof Synthetic Philosophy”(『総合哲学体系』一八六二年から一八九六年までの三十五年をかけて完成させるなど、多くの著作をものした。これらの著作はかれの“evolution”(「進化」)という着想に貫かれており、現在のダーウィニズムの「進化」という概念や、我々がダーウィンの言葉と誤解している“survival of the fittest”(「適者生存」)という言葉は、実はダーウィンの進化論発表の直前に示された彼スペンサーによる概念及び造語である。丘先生が若かりし日の一八八〇年から九〇年代の明治期の日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、『スペンサーの時代』と呼ばれるほどで、一八六〇年に出版された“Education”(教育論)は、尺振八の訳で一八八〇年に「斯氏教育論」と題して刊行され、『スペンサーの教育論』として人口に膾炙した。また、その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた(以上は主にウィキハーバート・スペンサーに拠った)。

『生物學の原理』“Principles of Biology” は一八六四年の刊行。但し、ここに示されている生物の定義は一八八三年の“First Principle”(第一原理)によるもののようである(挾本佳代氏の以下ページを参照)。挾本氏よれば、スペンサーの「生物」概念の定義は、

①「個体を群体から切り離すことは出来ない。」

②「個体数概念は、必然的に食糧概念を要求する。」

③「生命とは、内的関係と外的関係との持続的な調整である。」

という三命題によって構成されている、とある。――が――生物学者である丘先生の、それへの『著者の如き哲學者にあらざる者から見ると、斯かる定義は單に言葉の遣ひ分けの巧なる見本として面白いのみで、眞の知識としては何の價値もないやうに思はれ』るという言は痛烈にして痛快である。]

生物學講話 丘淺次郎 四 死なぬ生物

      四 死なぬ生物
Ameba



[アメーバ]

 

 「生あるものは必ず死あり」とは昔から人の言ふ所であるが、實際生物界に死なぬ生物はないかと尋ねると、「死」といふ言葉の意味の取りやうによつては、死なぬ生物が慥にある。長壽は何人も望む所で、死は何人も恐れる所であると見えて、不老不死の仙藥の話はいつの世にも絶えぬが、斯やうな藥を用ゐずとも、元來死ぬことのない生物があると聞いたら之を羨ましがる人が澤山あるかも知らぬ。先づ如何なるものが 「死なぬ生物」と名づけられて居るかを述べて見やう。

 動物でも植物でも顯微鏡で見なければ分らぬやうな微細なものは、多くは全身がたゞ一個の細胞から成つて居る。尤も前に述べた輪蟲などは例外として稍々高等のものであるが、かかるものを除けば、他は大抵構造の頗る簡單なもので、その最も簡單なものに至つては、恰も一滴の油か、一粒の飯の如くで、手足もなければ、臟腑もない。屢々書物で引き合ひに出される「アメーバ」といふ蟲などもその一例であるが、その一例であるが、その他に尚「ざうりむし」、「つりがねむし」、「みどりむし」、「バクテリヤ」などは皆この類に屬する。夜海水を光らせる夜光蟲は、稍々形が大きくて、肉眼でも「數の子」の粒の如くに見え、風の都合で海岸へ多數に吹き寄せられると、水が全體に桃色に見えるほどになるが、これも一疋の體はたゞ一個の細胞から成つて居る。死なぬ生物と稱へられるのは斯やうな單細胞の生物である。

Yakou

[夜光蟲]

 

 この類の生物は、生殖の方法が極めて簡單で、親の身體が二つに割れて二疋の子となるのであるから、何代經ても死骸といふものがない。煮るとか、干すとか、又は毒藥を注ぐとかして、態々殺せば無論死骸が殘るが、自然にまかせて置いたのでは、老耄の結果死んで遺骸を殘すといふ如きことはないから、若しも死骸となることを「死ぬ」と名づけるならば、これらの生物は慥に死なぬものである。普通の生物では死ぬといふことと、死骸を殘すといふこととは常に同一であるから、死ねば必ず死骸が殘るものの如くに思ふが、死ぬとは個體としての生存の消滅することとも考へられる故、この意味からいふと、甲の蟲が二分して乙と丙とになつた時には、甲の蟲は已に死んだといへぬこともない。一例として「アメーバ」類の生活状態を述べて見ると、この蟲は淡水・海水又は濕地の中に住み、身體は柔かくて恰も一滴の油の如く、常に定まつた形はなく流れるが如くに徐々と匐ひ歩き、微細な食物を求めて身體のどこからでも之を食ひ入れ、滋養分を消化した後は、滓(かす)を置き去りにして他處へ匐つて行く。斯くして少しづゝ生長し、一定の大きさに達すると體の中程に縊れた所が生じ、初めは先づ瓢箪の如き形と成り、次には縊れが段々細くなつて、終に柔かい餅を引きちぎるやうに切れて二疋となつてしまふ。これはもと一疋のものが殖えて二疋となるのであるから、慥に一種の生殖には違ひないが、世人が常に見慣れて居る生殖とは異なり、産んだ親の身體と生まれた子の身體との區別がないから、何代經ても親が老いて死ぬといふ如きことが起らず、隨つて死骸が生ずるといふことは決してない。されば若しも死骸となることを死ぬと名づけるならば「アメーバ」は慥に死なぬ生物である。然らば「アメーバ」は昔から今日まで同一の一個體が生存し續けて居るかといへば、勿論決してさやうではない。一疋が分れて二疋となる毎に、前の一疋の生存は終つて新な二疋の生存が始まるのであるから、一個體としての生存の期限は、親が分れて自身が生じたときから、自身が分れて子となるまでの僅に數十時間に過ぎぬ。

Ameba2

[「アメーバ」の分裂]

 

 さて斯やうなものを捕へて、これは死ぬ生物であるとか、死なぬ生物であるとか論ずるのは畢竟言葉の戲で、その原因は人間の言葉の不十分なことに存する。元來、人間の言葉は日常の生活の用を辨ずるために出來たもので、世が進み經驗が増すに隨つて次第に發達し來たつたが、「死」といふ言葉の如きも、もと人間や犬・猫の死をいひ現すために出來たもの故、これと異なつた死にやうをする生物にはその儘には當て嵌まらぬ。世の中には死なぬ生物があるといへば、素人には不思議に聞こえ、隨つて世の注意を引いて評判が高くなるが、實際を見るとたゞ死にやうが違ふといふだけである。從來の不完全な言葉を用ゐて、生物を死ぬものと死なぬものとに分ち、「アメーバ」の如きものを、そのいづれに屬するかと議論することは、殆ど時間を浪費するに過ぎぬかとも思はれるが、凡そ生殖によって個體の數の増加し行く生物ならば、各個體には必ず生存に一定の期限があつて、同一の個體が無限に生存するといふ如きことのないのは慥である。

[やぶちゃん注:「死なぬ生物」そもそも生物学で言う「生物」の定義がここではっきりさせておく必要がある。丘先生は前段でそれを「食うて産んで死ぬ」という明快にして素晴らしい言葉で表現されているが、例えば平凡社の「世界大百科事典」の規定はどうか。『生きもの、つまりいわゆる生命現象を示すものを広く生物というが、何を生物固有の性質と考えるかについては、昔からさまざまな議論があった。例えば、成長こそ生物の本質だといわれる。確かにほとんどすべての生物は成長するが、しかし、明らかに無生物と考えられる鉱物の結晶も成長する。物質代謝が生物の最も主要な性質だとされたこともあった。生物は物質エネルギーを外界からとりこみ,それを自己に同化して成長するとともに,不要となった構成成分を分解して捨てる。これが物質代謝であって、このような活動は無生物にはみられないからである。また物質代謝の結果として,生物は繁殖する。すなわち、自己と同じものを作って増殖していく。そして個体としては傷ついた部分を修復し,また増殖をとおして種を存続させていくなど,自己保存の機能をもっている。これもまた生物に固有の性質である。このような考察から、今日、生物はエネルギー転換を行い、自己増殖し、かつ自己保存の能力をもつ複雑な物質系であると定義されている。もし地球以外の天体にもこのような性質をもつものが見つかったら、それは生物と呼ばれるだろう。』とある(カンマを読点に代えた)。ということはまず、自己保存を志向する能力という規定から、

①自己と外界を区別し、何らかの形で「自己個体」を「個体」として認識する能力を持っていること。

を揚げることが出来よう。同時にそれは、

②エネルギー交換を行って、自己若しくは自己を含む群体を維持するための代謝能力を持っていること。

をも示す。この場合の「代謝」とは、緩歩動物門 Tardigrada のクマムシの如き、数十年単位の恐るべき長期間に亙ると考えられているアンハイドロバイオシス(anhydrobiosis:乾眠)のようなクリプトビオシス(cryptobiosis :隠された生命の活動)のように緩慢なものも含む。そして丘先生の言う「産む」、

③自己を複製する能力を持っていること。

の三つで示されると思われる。丘先生の「食う」は②、「産む」は③であり、「死ぬ」というのは正に「自分が死ぬ」という認識なしには生じない概念であるから自他認識としての①に相当すると私は思う。従って「死ぬ」ことは生物の生物たる由縁でなくてはならぬ。なお現在、「死なぬ生物」として話題に上るものとしては、性的な成熟個体(有性生殖可能な個体)がポリプ期へと退行可能という特異的な周年生活環を持つことで知られる刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目クラバ科ベニクラゲ Turritopsis nutriculaが挙げられる(クラゲ好きの私はその専門書を数冊持っているが)。ウィキの「ベニクラゲ」によれば、『世界中の温帯から熱帯にかけての海域に分布』し、直径四~五ミリの小型のクラゲで、『透けて見える消化器が赤色であるためこう名付けられた。ベニクラゲの形状はベル型で、傘の直径と高さはほぼ等しい。外傘や中膠は均一で薄い。胃は明るい赤色で大きく、横断面は十字型である。若い個体は外縁に沿って』八本程の触手を持つが、成熟個体は八十から九十本の多数の触手を備える。『触手の内側に眼点があり、これも鮮やかな赤』色を示す。通常のライフ・サイクルにあっては『受精卵は胃および外傘の中で発生し、プラヌラ幼生となる。幼生は基物に着生して群体性のポリプを形成する。ポリプは基質上にヒドロ根を広げ、まばらにヒドロ茎を立てる。その先端にはヒドロ花がつく。ヒドロ花は円筒形で、その側面にまばらに触手が出』、ポリプの形成後二日ほどで幼クラゲが個体として離脱、数週間で成熟する。ところがこのベニクラゲの成熟個体はこれとは別に『触手の収縮や外傘の反転、サイズの縮小などを経て再び基物に付着、ポリプとなる』ことが出来、実際に頻繁にそうした現象を見せる。『生活環を逆回転させるこの能力は動物界では稀であり、これによりベニクラゲは個体としての死を免れている。ただし、個々のベニクラゲは、食物連鎖において常に捕食される可能性があり、本種の全ての個体が死を免れている(永遠に生き続ける)ということを意味するものではない』。『有性生殖能を獲得するまでに発生が進んだ個体が未成熟の状態に戻る例は、後生動物としては本種と軟クラゲ目のヤワラクラゲ(Laodicea undulata)で』報告されているだけで、極めて稀な現象で、『動物におけるこのような細胞の再分化は分化転換』トランスデファレンシエイション(transdifferentiation)『と呼ばれる。論理的にはこの過程に制限はなく、これらのクラゲは通常の発生と分化転換を繰り返すことで個体が無限の寿命を持ち得ると予想されている。従って「不老不死(のクラゲ)」と称される場合もある。ただしこれは、老化現象が起こらないわけではなく若い状態に戻るだけなので、より厳密にいえば若返りである』。『この現象は地中海産のベニクラゲで発見され、一九九一年に学会発表されてセンセーションを起こした。その後各地で追試されたが、地中海産のものでしかこの現象は見られなかった。しかし、鹿児島湾で採集された個体も同様の能力を持つことが二〇〇一年にかごしま水族館で確認され』ている(アラビア数字を漢数字に変更した)と、ある。ただ、引用でも示されているように、これは「若返り」の能力を持っているだけで、真に不死、「死なぬ生物」とは言えない。そもそもが最近流行りの生物のDNAヴィークル説に則れば、あらゆる生物は遺伝的に不死だという馬鹿げた理屈にもなろう。やはり「死なぬ生物」はいないのである。「死ぬ」から生物であり、「死なない」生物は「生物」ではないのである。

「アメーバ」肉質虫綱アメーバ目 Amoebida に属する原生動物の総称。淡水・海水・湿土の中、苔類や動物の消化管などに寄生する。単細胞生物で、外側はプラスマレンマ(plasma lemma)という薄膜によって覆われている。原形質は等質で、透明な外質及び顆粒と流動性に富む内質とから成る。内質は核・収縮胞・食胞・ミトコンドリアなどを含む。仮足を出して運動するが、その際は、体の後方にある外質のゲルがゾル化して内質流となり、体の前方に向かって流動、先端部のプラスマレンマが前方に膨らみ、そこで左右に分かれた内質流が膜のすぐ下でゲル化して外質化する形で代謝が起こる。前方へ流出した内質は後端部分のゲルがゾル化して補われるようになっている。こうした原形質流動によって細胞全体を前方に移動させ、仮足を用いて細菌・原生動物・藻類等を採餌している。共生細菌や藻類を体内に共生させている種もある。生殖は通常はここに示されたような二分裂や多分裂で増殖するが、有性生殖をする種も存在する(主に平凡社「世界大百科事典」とウィキペディアに拠る。以下の注も同様)。

「ざうりむし」クロムアルベオラータ界アルベオラータ亜界繊毛虫門貧膜口綱(梁口綱)ゾウリムシ(ミズケムシ)目ペニクルス亜目ゾウリムシ科ゾウリムシParamecium caudatum 及び同目に属する種の総称。英名slipper animacule は体型がスリッパに似ていることに由来し、和名はその訳である。池沼・水溜まりなどに普通に見られ、体は紡錘形で、長さ一七〇~二九〇マイクロメートル。前端は丸く、後端は円錘形状に尖る。全面に繊毛が密生し、体の後端のものは長く、束のように見える。腹面には体長の約半分ほどの口溝があり、採餌物はここを通って細胞咽頭から体内に摂取される。移動には繊毛の運動で体を回転させながら盛んに泳ぐ。生殖には二つの方法があり、一つは体が横分裂で二個体になる無性生殖、今一つは二個体が接合し、分裂によって二つになった小核の一個を相手と交換する有性生殖である。互いに交換した二個の小核は後に癒合して一個の合核になる。その後、小核は何回かの分裂を行い、遺伝的な性質が変えられ、結果、細胞が若返る。           

「つりがねむし」アルベオラータ界繊毛虫門貧膜口綱周毛亜綱ツリガネムシ目ツリガネムシ科ツリガネムシVorticella nebulifera 及び同目に属する種の総称。池沼・水溜まりなどの木・石・ウキクサの根などに着棲する(海産もいる)。ツリガネムシ Vorticella nebulifera は池沼などに棲息し、体長一〇〇~二〇〇マイクロメートルの逆釣鐘形で、下端から体長の四、五倍の柄を生やして他の物に付着している。多数個体が付着した際には灰白色の塊になって視認出来る。体の前端には繊毛が環状に並んでおり、これでプランクトンを採餌する。生殖はゾウリムシと同様。

「みどりむし」エクスカバータ界ユーグレノゾア亜界ユーグレナ植物門(ミドリムシ植物門)ユーグレナ藻(ミドリムシ)綱ユーグレナ(ミドリムシ)目ユーグレナ(ミドリムシ)科ミドリムシ Euglena Ehrenberg 及び同門の属する種の総称。有機物の多い池沼・水溜まりなどに棲息し、時に大繁殖して水の華を形成、水を緑色に変色させることがある。ミドリムシ属は種数が多く、一六七四年のレーウェンフックによる発見以来、現在、一五〇余種、本邦では約二〇種が知られる。多くは体が紡錘形を成す。前端の口部に短い咽頭があり、それが貯胞という内臓器となっており、また、その底部(身体後部)からは一本の長い運動性のある鞭毛が生えていて、これを用いて泳ぐ。体内には一個の赤い眼点のほか、多くの種が葉緑体を持つ(Peranema 属のように葉緑体を持たず捕食生活を行う生物群もある)。鞭毛運動という動物的性質を持ちながら、同時に植物として葉緑体による光合成を行うため、かつてはしばしば動物と植物の中間型生物として挙げられたが、これはミドリムシ植物門が原生動物と緑色藻類との真核共生により成立した生物群であることに拠る。葉緑体は円盤状・帯状・板状・円筒状といった色々な形態をとるが、何れも主要な光合成色素としてのクロロフィル a とクロロフィル b を含み、光合成を行なって白色結晶状のパラミロンと呼ぶ炭水化物を生産する。ミドリムシ類の増殖は体が縦に二分裂する無性生殖で、有性生殖は知られていない。

「バクテリヤ」Bacteria(バクテリア)。真正細菌(放線菌・粘液細菌・スピロヘータなどの分裂菌類を含む場合もある)。単に細菌とも呼ぶ。語源はギリシャ語の「小さな杖」に由来。sn-グリセロール-3-リン酸の脂肪酸エステルから成る細胞膜を持つ原核生物。分類学上のドメインの一つで、古細菌ドメイン、真核生物ドメインとともに全生物界を三分する。真核生物と比較した場合、構造は非常に単純であるが、遙かに多様な代謝系や栄養要求性を示し、生息環境も生物圏と考えられる全ての環境に亙り、その生物量は天文学的である。腸内細菌・発酵細菌・病原細菌と、ヒトとの関わりも深い生物群である。

「夜光蟲」渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ Noctiluca scintillans(ラテン語の「夜」“noctis”+「光る」“lucens”)。暖海の沿岸に普通に見られるプランクトンで浮遊生活をする直径一、二ミリの球形海産単細胞生物。波の動きなどの刺激によってはルシフェリン-ルシフェラーゼ反応による発光をする。体の中心に原形質が集まっており、そこから網目状に原形質糸が周囲に向かって伸びる。体には深く窪んだ溝状の部分があって、その後端から一本の触手を生やす(他に二本の鞭毛を持つが目立たない)。体の中央付近に口部が開く。触手を反復させてプランクトンを採餌する。生体は淡い桃色を呈し、春から初夏に大繁殖して赤潮の元となったりする。体が縦に二分裂する無性生殖と、体内での連続的な核分裂による二五六個の雌雄配偶子が生まれて接合を行う特異な有性生殖も行う。色素体がなく動物的生活をする点で、動物学的には原生動物渦鞭毛虫門(古くは植物性鞭毛虫綱渦鞭毛虫目)に分類されたが、最近では核の構造や配偶子など遊走細胞の形態の類似から植物学的に渦鞭毛植物類に分類される。一般的な渦鞭毛藻類とは異なり、葉緑体を持たず専ら他の生物を捕食する従属栄養性生物であること、細胞核が普通の真核であること、通常細胞では核相が2nの複相であること等、極めて特異的な種と言える。]

2012/06/10

僕は永遠にドンファンである

昨日――僕は愛するいっとう若い教え子と呑んだ――あの子は二十歳――だから嬉しい――僕は永遠に――ドンファンである――

生物學講話 丘淺次郎 三 産まぬ生物

     三 産まぬ生物

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[蜜蜂の雄  蜜蜂の雌  働蜂]

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[雄蟻  雌蟻  働蟻]

[やぶちゃん注:この図像を見ると、「雌蟻」とキャプションのある個体は頭部が有意に小さい。これは一般には雄蟻の特徴である。このキャプションは「雌蟻」と「雄蟻」とが誤っているのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

 次に子を産まぬ生物はないかと考へると、これにも普通の例が幾らかある。世人も知る通り、蜜蜂や蟻の類には雄と雌との外に働蜂とか働蟻とか名づけるのがあるが、これらは一生涯他の産んだ子供を養ひ育てるだけで、自身に子を産むといふことは決してない。蜜蜂でも蟻でも多數集まつて社會を造る昆蟲であるが、その社會の大部分を成すものは右の働蜂または働蟻であつて、雄と雌とはいづれも實に少數にすぎず、蜜蜂に於ては子を産む雌はたゞ女王と稱するもの一疋より外にはない。而してこの少數の雌雄は子を産むことを專門の仕事とし、全社會のために生殖の働を引き受けて居る。隨つて食物を集めること、敵の攻撃を防ぐこと、巣を造ること、子を育てることなどは、總べて働蜂または働蟻の役目となり、朝から晩まで非常に忙しく働いて居る故、通常人の眼に觸れる蜂や蟻は、皆働蜂・働蟻のみである。然らば働蜂・働蟻なるものは雌雄兩性の外に一種特別の性を有するかといふと、決して左樣ではない。何故かといふに、解剖によつて體の内部の構造を調べて見ると、小さいながら卵巣も輸卵管も明に具へて居るから、慥に雌と見做すべきものである。たゞこれらの生殖器官はみな甚だ小さくて實際その働きをなすに適せぬといふに過ぎぬ。言を換へれば、働蜂・働蟻は、生殖器官の退化した雌である。これから考へて見ると、蜜蜂や蟻の雌は、分業の結果二種類の形に分れ、一は生殖器官が特に発達して、全社會のために生殖の働を引き受けるに適するものとなり、他は生殖器官が退化して生殖の働が出來なくなり、その代わりに他の體部の働が進んで、食物を集めること、子を育てることなどは、十分に出來るやうになつたものと見做さねばならぬ。

 右の外にもなほ、一度も子を産まずに生涯を終る生物は、人の見慣れぬやうな海産の下等動物には澤山に例があるが、いづれも團體を造つて生存する種類で、その中の個體の間に分業が行はれ、榮養を司どるものと、生殖の働きをするものとの別が生じたものである。斯くの如く一個體を取つて見ると、子を産まずに一生涯を終わるものは敢て珍しくはないが、種族全體として子を産まなかつたならば、その種族は無論一代限りで種切れとなるに定まつて居るから、そのやうなものは實際には決してない。生物でありながら、子を産まぬものは、必ず子を産む役を同僚に讓つて、自分はその他の仕事を引き受けて居る個體に限ることである。

生物學講話 丘淺次郎 二 食はぬ生物

     二 食はぬ生物 

 

 普通に人の知つて居る生物は、必ず物を食うて生きて居る。何を食ふか、如何に食ふか、何時食ふかは、それぞれ異なるが、とにかく食ふことは食ふ。小鳥類の如くに、一日でも餌を與へることを忘れると忽ち死んでしまふほどに、絶えず食物を要求するものもあれば、蛇類の如くに、一度十分に物を食へば、その後は數箇月も食はずに平氣で居るものもある。蛭の如きは一囘血を吸ひ溜めると、約二年は生きて居る。併しその後はやはり食物を要する。然らば、生まれてから死ぬまで少しも物を食はぬ生物はないかといふと、そのやうなものも全くないことはない。例へば輪蟲類の雄などはその一である。

 

 

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[輪蟲 雌(左) 雄(右)]

 

 

 

 輪蟲というのは、顯微鏡を用ゐねば見えぬほどの極めて小さな蟲であるため、一向世間の人に知られては居ないが、池や沼の水草の間、檐の樋の中などに、どこにも澤山居る普通なものである。その形は圖に示した通りで、體の前端に稍々圓盤状の部分があり、その周邊に粗い毛が並んで生え、常に之を振り動かして水中に小さな渦卷を起し、微細な食物を口ヘ流し入れる。之を顯微鏡で見ると恰も車輪が囘轉して居る如くであるから、學名も、通俗名も、みな「車輪を有する蟲」といふ意味に名づけてある。所が不思議なことには池からこの蟲を採集して見ると、いづれも雌ばかりで雄は殆ど一匹もいない。それ故昔はこの蟲の雄は學者の間にも知られなかつた。併しよく注意して調べると、雄も時々發見せられる。而して雄と雌とを比較して見ると、體の大きさも内部の構造も著しく違ひ、雄の方は遙に小さく、且口もなければ胃も腸もなく、體の内部は殆ど生殖器だけというて宜しい程で、卵から孵つて出ると、直に忙しく水中を泳ぎ囘つて、雌を探し求め、これに出遇へば忽ち交尾して暫時の後には死に失せるのである。即ち輪蟲の雄の壽命は生まれてから僅に數日に過ぎぬが、その間に物を食ふといふことは決してない。條蟲などは口も腸胃もないが、他の動物の腸内に住んで常に溶けた滋養物に漬かつて居ること故、體の表面から食物が浸み込んで來るが、輪蟲の雄は之と異なり、自由に水中を游いで居るのであるから、眞に一生涯中に少しも物を食はぬ生物である。

 

 然しながらよく考へて見ると、輪蟲の雄自身は一生涯なにも食はずに生活するが、斯く食物なしに活動し得るのは、生まれながら身體内に一定の滋養分を貯へて居るからである。輪蟲の卵は比較的に大きなものであつて、中に比較的に多量の滋養分を含んで居るから、卵の内で雄の身體が出來るに當つて、その身體の内には初から若干の滋養分がある。輪蟲の雄は、恰も滿腹の状態で卵から孵り、その續く間だけ生存して、然る後に死に去るのであるから、これは全く食物を體内に含ませて親が産んでくれた御蔭といはねばならぬが、卵の内の滋養分は嘗て親の食うた食物の中から濾し取られたもの故、子が一生涯食はずに生きて居られるのは、實は親が子の分までも食うて置いた結果に過ぎぬ。されば食はずに生活の出來るということは、親が前以て子に代つて食うて置いた場合に限ることであつて、一種類の生物が絶對に食物なしに生活し得るといふことのないのは明である。

 

[やぶちゃん注:「輪蟲」扁形動物上門輪形動物門 Rotifera に属するワムシ類と総称される凡そ三〇〇〇種を数える動物群。参照したウィキの「輪形動物」によれば、『単為生殖をする種が多く、雄が常時出現する例は少ない。雄が全く見られない群もある。なお、雄は雌よりはるかに小さく、形態も単純で消化管等も持たない』とあり、周年生活環(ライフ・サイクル)の部分でも『多くの種が単為生殖をする。それらは条件のいい間は夏卵と言われる殻の薄い卵を産み、この卵はすぐに孵化して雌となり、これを繰り返す。条件が悪化するなどの場合には減数分裂が行われて雄が生まれ、受精によって生じた卵は休眠卵となる。休眠卵は乾燥にも耐え、条件がよくなれば孵化する。なお、ヒルガタワムシ類では雄は全く知られていない。他方、ウミヒルガタワムシでは雄が常時存在することが知られる』とある。なお、綱名の“Rotator”はラテン語で回転させる者、という意味で、“rota”は車輪の意である。見たことがない方のために、写真や分かり易い解説のある、どろおいみじんこ淡水プランクトンページ」ワムシ」リンクさせておく。

 

「條蟲」扁形動物門条虫綱 Cestoda の単節条虫亜綱 Cestodaria 及び真正条虫亜綱 Eucestoda に属する、所謂、サナダムシ(真田虫)類の総称。長いものは十メートルを越える個体も存在する。]

生物學講話 丘淺次郎 一 食うて産んで死ぬ

当たり前のことを丘先生は書いているのであるが……また科学の人間中心主義をも批判されておられるのであるが……逆に、これ、読んでいるうちに……何やらん、人間やその社会の、さまざまな破廉恥な様態を、皮肉めいて書いておられるように見えてくるから、実に、不思議!


     一 食うて産んで死ぬ

 人間と普通の生物とを比較して見ると、些細な點では素より無數の相違があるが、その生涯の要點を摘まんで見ると、全く一致して居るといふことが出來る。少なくとも生まれて食うて産んで死ぬということだけは、人間でも他の生物でも毫も相違はない。動物の方は人間と相似て居る點が多いから、この事も明であるが、人間とは大いに異なる如くに見える植物でも、理窟はやはり同樣である。先づ親木に實が生じ、種が落ちて一本の若木が生ずるのは、木が生まれたのである。それからその木が空中に枝葉を擴げて炭酸ガスを吸ひ、地中に根を延ばして水と灰分とを取るのは、即ち食うて居るのである。斯くて段々成長して、花を咲かせ、實を生じ、種子を散らせて、多くの子を産み、壽命が來れば終に死んでしまふのであるから、これまた生まれて食うて産んで死ぬに外ならぬ。
 而して一疋の動物一本の植物を取つて言へば、その生涯の中に生まれる時と産む時とが別にあるが、數代を續けて考へると、生まれると産むとは同じであつて、單に同一の事件を親の方からは産むといひ、子の方からは生まれるというて居るに過ぎぬ。それ故これを一つとして數へると、生物の生涯なるものは、食うて産んで死ぬという三箇條で總括することが出來る。
[やぶちゃん注:「灰分」は「かいぶん」と読み、カルシウム・鉄・ナトリウム・カリウム・リンなど無機物を多く含んだもの。ミネラル。]
 斯くの如く、たゞ食うて産んで死ぬということだけは、どの生物でも相一致するが、然らば、如何に食ふか如何に産むか、如何に死ぬかと尋ねると、これは實は種々樣々であって、そこに生物學の面白味が存するのである。例へば食うというても、進んで食物を求めるものもあれば、留まつて食物の來るのを待つものもある。武力で相手に打勝つものもあれば、騙して之を陷れるものもある。同じ餌を多數のものが求める場合には競爭の起るは勿論であるが、競爭に當つては、或は筋肉の強いものが勝ち、或は感覺の鋭いものが勝ち、或は知力の優れたものが勝つ。中には他の生物の食ひ殘しを求めて生活して居るものもある。また食ふ方にのみ熱中して居ると、自身が他に食はれる虞があるから、安全に食ふためには、一方に防禦を怠ることは出來ぬ。而して防禦するに當つても、主として筋肉を用ゐるもの、感覺によるもの、知力を賴むものなど、各々種類に隨うて相違がある。餌を攻めるにも、身を守るにも、多數力を協せることは頗る有利であるが、斯く集まつて出來た團體中には、敵を亡ぼし終わるや否や直に獲物の分配について劇しい爭の起る如き一時的の集團もあり、またいつまでも眞に協力一致を續ける永久的の社會もある。次に産むといふ方について見ても、單に卵を産み放すだけで、更に後を構はぬものもあれば、産んでからこれを大切に保護するものもある。卵を長く胎内に留めて幼兒の形の十分に具はつた後に産むものもあれば、産んだ後更に之を教育して競爭場裡に生活の出來るまでに仕立てるものもある。特に雌をして卵を産ましめる前の雌雄の間の關係に至つては實に種々樣々で、中には奇想天外より落つるとでもいふべき思ひ掛けぬ習性を有するものも少なくない。また同じく死ぬというても、その仕方は色々あって、全身一時に死ぬものもあれば、一部だけが死んで餘は生き殘るものもあり、瞬間に死ぬものもあれば、極めて緩慢に死ぬものもある。親の死骸が子の食糧となるものもあれば、兄が死なねば弟が助からぬものもある。また同じ種類の個體が次第に悉く死んでしまうて、種族が全く絶滅することもある。かやうに數へて見ると、生物の食ひやう、産みやう、死にやうには、實に千變萬化の相違があつて、人間の食ひよやう、産みやう、死にやうは、たゞその中の一種に過ぎぬ。何事でもその本性を知らうとするには、他物と比較することが必要で、之を怠ると到底正しい解釋を得られぬことが多い。例へば地球は何かといふ問題に對して、たゞ地球のみを調べたのでは、いつまで過ぎても適當な答は出來ぬ。之に反して、他の遊星を調べ、その運動を支配する理法を探り求め、之に照し合せて地球を檢査して見ると、始めてその太陽系に屬する一小遊星であることが明に知れる。人間の生死に關する問題の如きも恐らく之と同樣で、たゞ人間のみに就いて考へて居たのでは、いつまでも眞の意味を解し得べき望みが少いではなからうか。

生物學講話 丘淺次郎 第一章 生物の生涯 (巻頭言)

生物學講話

      理学博士 丘 淺次郎 著

     第一章 生物の生涯

[やぶちゃん注:本冒頭にはハンセン病患者に対する、現在では到底、容認出来ない『頽れ果てた手足と眼鼻も分らぬ顏とを看板にして、道行く人の情に縋りながら尚生きんと欲する癩病の躄もある』という表現が現われる。我々は当時の最高学府を出た、博士号を持った学術的権威、真摯なる教育改革者さえも、こうした異常なる偏見と差別を持っていたことを熟知すべきであり、向後も現れるであろう時代的限界に基づく差別表現に対しては、常に批判的視点を忘れずに読み進めて戴くことを切望する。こうした差別表現に対しては、逐次、注記することが望ましい。でなければ、差別であることが認識されずに過ぎ、文字通り差別表現として、読者に悪影響を及ぼすからである。それが面倒なら、そもそも出版やテクスト化をせぬがよいというのが私の考えである。但し、言っておくなら、差別感覚派時秒刻みで変化する。大袈裟に言えば、昨日の普通は今日の差別表記として伏字化せねばならぬこととなる。いや、我々の「表現行為」とは区別化と差別化の行程を経て文字化されるものであってみれば、差別表現を絶滅させることは我々から識字能力を喪失させない限り、無理であるというのも私の持論である。更に私は、過去の差別表現をなかったものとするような「隠す」ための「改善」は、寧ろ、臭いものに蓋式の「改悪」であると考える人間である。また、漠然とした差別注記を巻末に記してお茶を濁す、免罪符とする輩も唾棄すべき存在として敵視する者でもある。従って、世間の出版物で行なわれているような、一括差別注記や文章の勝手な改変は一切しないことをここに表明しておく。その代わり、この部分のような「私が許し難い差別表現」に対しては、敢然と注記を施すことを敢えて言明しておく。謂わばこれは、私の感性の他者の文章への「差別表現」ででもあると言えよう。なお、当該部の「頽れ」は「くずおれ」と読む。「躄」は「ゐざり」と読み、現在は差別用語として用いるべきではない。]

 長い浮世に短い命、いつそ太く暮さうと考へる男もあれば、如何に細くともたゞ長く長く生きながらへたいと思ふ老爺もある。戀人と添はれぬ位ならば寧ろ死んだ方がましと、若い身體を汽車に轢かせる娘もあれば、頽れ果てた手足と眼鼻も分らぬ顏とを看板にして、道行く人の情に縋りながら尚生きんと欲する癩病の躄もある。十人十色に相異なる所行はいづれも當人等の相異なつた人生觀に基づくことで、甲の爲すことは乙不思議に思はれ、一方の決心覺悟は他方からは全く馬鹿馬鹿しく見える。著者は嘗てある有名な漢學の老先生が、眼も鈍り、耳も聞こえず、教場へ出て前列の生徒にさへ講義が分らぬほどに耄碌しながら、他人に長壽の祕法を尋ねられて、自分は毎晩床についてから手と足と腹と腿とを百遍づゝ靜かに撫でると、得意げに答へて居るのを側から聞いて、問ふ者をも、答へる者をも愍然に思はざるをえなかつたが、これもやはり人生觀の相異なつた故であらう。かやうに人々によつて人生觀の著しく異なるのは、素より先祖からの遺傳により、當人の性質にもより、過去の經歷にもより、現在の境遇にもよることであらうが、その人の有する知識の如何も大に與つて力あることは疑がない。而して、その知識といふ中にも、生物學上の知識の有る無しは人生觀の上に頗る著しい影響を及ぼすものであることは、著者の固く信ずる所である。
[やぶちゃん注:「愍然に」は「びんぜん」と読み、憐れむべきさまを言う。
「與つて」「あづかつて(あずかって)」。]
 抑々生物學とは動物學と植物學との總稱であるから、生物學講話といふ表題を見て、讀者は或は學校で用ゐる教科書を敷衍した如きものかと思はれるかも知れぬが、本書は決して、さやうな性質のものではない。本書は寧ろ生物學の範圍内から専ら人生觀に相觸れると考へられる事項を選み出し、之を通俗的に述べて生物學を修めぬ一般の讀者の參考に供するのが目的である。それ故これと關係の稍々少ない方面は全く省略しておいた。例えばこの種類の蟲の翅には斑點が一つよりないが、かの種類の蟲の翅には斑點が二つあると述べる如き記載的の分類學、こゝの山にはこのやうな獸が居る、あそこの海にはあのやうな魚が居るといふ如き生物の地理分布學、甲の動物の筋肉繊維には横紋があるが、乙の動物の筋肉繊維には横紋がないと論ずる如き比較組織學等は、一切略して述べない。されば本書は決して生物學の總べての方面を平等に殘りなく講述するものではないことを、先づ最初に斷つて置かねばならぬ。
 さて、人間も一種の生物であるから、生物學を修めた者から見ると人間の生活中に現れる各種の作業は、皆それぞれ生物界に之に類似すること、または之と匹敵することが必ずある。人間が産まれ死ぬ如くに他の生物も産まれて死ぬ。人間が戀する如くに他の生物も戀する。人間に苦と樂とがある如くに他の生物にも苦と樂とがある。人間社會に戰爭や同盟がある通りに生物界に戰爭や同盟がある。而して人生を觀るに當つてこれ等と比較して考へるのと、人間だけを別に離して他と比較せずに考へるのとでは、結論の大に異なるべきは言を待たぬ。芝居で同じ役者が同じ役を務めても、背景が違へば見物人の感じも大に異なるのと同じ理窟で、人生を觀るに當つても、何を背景とするかによつて、結論も著しく異なるを免れぬ。本書に於て今より説かうとする所は、即ち斯かる背景として役に立つべき事項を生物學の中から選み出して列べたものである。願はくば讀者は本書の内容を背景と見立てて、人間なるものを舞臺の上に連れ來つて日々の狂言を演ぜしめ、自分は棧敷から眺めて居る心持になつて虛心平氣に人生を評價することを試みられたい。遊興の場、愁歎の場、仇討の幕、情死の幕などが、それぞれ適當な生物學的の背景の前で演ぜられるときは、見物人に如何に異なった感じを與へるであろうか。若し斯くすることによつて幾分かなりとも、人生の眞意義をよく解したる如き感じが讀者に起つたならば、著者は本書を著した目的が達せられたこととして誠に滿足に思ふ次第である。

生物學講話 丘淺次郎 始動

新カテゴリ「生物學講話 丘淺次郎」を創始し、遂に永年やりたいと思っていた電子テクストを――意を決して――行うこととする。

恐らくは――諸君の想定外の――テクストであろう。
――しかしこれは誰の著作より――やりたかったテクストなのである――


生物學講話 丘淺次郎

画像視認によるので、かなり時間がかかるが――どうかご一緒に――ゆっくらと読みましょうぞ――

 

[やぶちゃん注:本書は生物学者丘 浅次郎(おかあさじろう 明治元(一八六八)年~昭和十九(一九四四)年)によって書かれた本邦に於ける啓蒙的生物学書として忘れてはならない名著である。

 専ら進化論の紹介者として知られる丘先生は、帝国大学理科大学選科で動物学を学んだ後、ドイツに留学、その後は山口高等学校教授・東京高等師範学校教授・東京文理科大学講師を歴任された。帝国学士院会員・日本動物学会会長。ホヤやヒルなどの分類・発生についての比較形態学を専攻、カンテンコケムシ Asajirella gelatinosa Oka, 1891など、多くの新種の発見もなされ、国際的にも価値ある業績を残されている(文理科大学が母体の一つである筑波大学生物学類標本室には先生の作定になるホヤ類正基準標本約二〇点が所蔵されてある)。明治三十七(一九〇四)年の「進化論講話」では当時最新のダーウィンの進化論を初めて一般人向けに解説、後には、本書の「はしがき」にも示された、当該生物の生存に有利に働いた特異形質が過度に発達し過ぎた結果、逆にその種属を滅亡へと導いた、という独自の進化学説を表明、これは一種の文明的批評へと展開され、ヒトに対しても悲観的な未来観を述べておられる(これは実に正しかったと私は今以って思っている)。旧制中学の生物学教科書の多くを執筆、また、特定の思想の絶対化を排し、何事も疑うことを目標に掲げた教育改革論は今なお傾聴に値するものである。その他にも、国際補助語にも関心を寄せられ、ラテン語などを基にした「Zilengo」(ズィレンゴ)という人工言語を考案されたり、日本人初のエスペランティストとして明治三十九(一九〇六)年、黒板勝美らとともに日本エスペラント協会(現在の日本エスペラント学会の前身)を設立されてもいる(以上の事蹟は平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「丘浅次郎」に拠った)。

初版は大正五(一九一六)年に東京開成館から刊行された。本テクストは大正十五(一九二六)年東京開成館刊の第四版を底本とした。本来なら、若い読者に向けて、昭和五十六(一九八一)年講談社学術文庫版の「生物学的人生観」(上・下二巻 八杉龍一序)を底本としようと考えたが、新字新仮名遣に変換し、一部の漢字を平仮名に改め、文意から改行を施してあって、さらに改題までなされている。従ってテクスト化の最中に講談社編集部から編集権を行使される虞れがなくもない。そんな吝嗇臭い虞れを感じながら、私の大好きな本書をテクスト化するのは業腹である。されば、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにある原書の画像を見ながら、原本を復刻するに若くはないと決した。当該画像のアドレスは以下の通り。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952306/2?tocOpened=1

今回、このテクスト化に入って、「はしがき」部分を校訂しただけでも、学術文庫版「生物学的人生観」は「生物學講話」と表記や表現が大きく異なることが分かった。なお、本テクストでは学術文庫版「生物学的人生観」を真似て、〔 〕で現在慣用されている動物名や、現在慣用されている度量衡換算を示したが、総ては私が改めて精査換算したものであって、学術文庫版の引き写しでは全くないことを表明しておく。それ以外にも私の注を附した。ブログ版では傍点「ヽ」は下線に代え、一部に見られる漢文様の繰り返し記号は「々」に代えた。

――二十五歳の私は――本書を学術文庫版で刊行されたその年に夏、むさぼるように読んだのを思い出す――国語教師になって三年目だった――担任も持って、私の心は教師になったことの喜びと楽しさに満ち満ちていた……ところが……これを読み終えた私は複雑な思いに駆られたのだった……それは――やっぱり生物学を学ぶべきだった――という慙愧の念であった。――

――その後――私はこの本を当時の同僚であった生物の教師故林田先生(故人となられた)にお貸しした――先生は蟹学に詳しい今では数少なくなった真正の博物学的生物学者であられたが――「この本は五十年以上たっているのに内容が全く古びていないとても素晴らしい本だね!」――と感動されておられた。――

正に私にとってこの作品は、そうした『いわくつき』の忘れ難い本なのである。本電子テクストを、その故林田良幸先生に捧げたいと思う。【作業開始:二〇一二年六月一〇日】]

 

丘 淺次郎著

 

生物學講話

 

    第四版

 

    はしがき

 

 本書は第一章の始にも斷つてある通り、生物學の範圍内から各人の人生觀に最も多く影響を及ぼすであらうと考へられる事項を選み集め、これを適當に配列して極めて簡單に述べたものである。生物學上の事實の中には餘程專門的に研究せぬとわからぬやうなものも頗る多いが、本書に於てはかやうな事項は出来るだけ避けて、専ら誰にも了解し易いやうにと努めた。

 人間が一種の生物である以上は、人生を論ずるに當つて廣く生物學上の事實を參考すべきは當然のことと思はれるが、今日多數に出版せられる人生に關する著書を見るに、人間以外の生物をも見渡して論を立てたものは殆ど一册もない。隨つて生物學から見れば明に誤りであるやうなことを眞面目に論じて居る場合も頗る多い。これは何故であるかといふに、一つには誰にもわかるやうに書いた生物學の書物がまだ世間にないにも因るであらうが、また從來の所謂博物學者が多くは珍しい草や蟲や貝を集めて喜んで居るのを見て、世人が生物學を誤解し、恰も金持ちが骨董を集め、子供が郵便切手を集めるのと同じやうな一種の道樂に過ぎぬと思うて居たにも因るであらう。されば人生を論じた書物に生物學上の研究を無視してあることは、半は素よりその書を著した人の不行屆きであるが、半はまた適切な材料を供給することに務めなかつた生物學者の怠慢の結果とも見做される。初め本書の著述を思ひ立つたのはかかる考からであつた。

 世人が從來生物學を誤解して一種の變つた道樂の如くに思うたのも實は決して無理でなかつた。たゞ蟲を取り草を集めなどして、これを記載しその名稱を定めるだけならば、たとひ用ゐる言葉がラテン語であらうともギリシヤ語であらうとも、仕事の性質に於ては、夏子供が蟬や「とんぼ」を取って、これは「みんみん」これは「鬼やんま」と覺えて居るのと少しも違うた所はない。しかもこれを鬚の生えた成人が熱心にやるのであるから、世間ではこれを餘程の物好きと見るのは當り前である。また昔の博物家は、この草は何の藥になるとか、この蟲はどうして驅除したらよいとかいふやうに専ら實用の方面に重きを置いたが、これは無論有益なことで、今後もなほ引續き盛に研究せねばならぬ。しかしながらこれは人生の問題とは直接には何の關係もない。されば若し生物學が以上の如きことのみを爲すものならば、人生を論ずる人等がこれを度外視するのが當然であるが、生物學なるものは決してそのやうなものではない。凡そ學問と名が附く以上は、たゞ事物を記載し記憶するだけで宜しいといふ筈はなく、必ず事物のよつて起る原因を探らうと努めねばならぬ。生物學に於ても、生物界に現れる一箇一箇の事實を正確に觀察し、同じ類のことをなるべく多く集め、相比較して結果より原因を推し、原因より結果を求め、その間の關係を明にするのが、この學問の本務である。そして一箇一箇の事實を正確に知るためには、無論標本も集めねばならず、野外の觀察もせねばならず、飼養することも實驗することも必要であるが、これらは孰れも學問のための材料を集める手段過ぎぬ。今日世間から生物學者と見做されて居る人の中には、たゞ標本を集め、新種を記載するより以上に腦力を働かせぬ人も多くあるが、これでは他の人に研究の材料を供給するだけであつて、いまだ眞に生物學を修めて居るとはいはれぬ。

 人間が初め下等の動物から起り、漸々進化して今日の狀態までに達したことは、疑ふべからざる事實であるが、人間が下等動物より起つた以上は、人間の爲すことは悉く下等動物にもその初歩か痕跡かがあるべき筈で、宗教でも倫理でも文藝でも美術でも、そこまで調べなければ到底その根底を窮めることが出來ぬ理窟である。通常科學を分けて自然科學と精神科學の二つとするが、以上の如くに考へると、所謂精神科學なるものはすべて生物學上の研究を基礎としてその上に築き上げたものでなければならぬ。生物學を無視した議論は、いかに論法が巧に組み立てられてあつても、一朝生物學の進歩の結果、議論の出發點に誤謬のあることが證明せられたならば、全部殘らず覆ることを免れぬであらう。本書の如きは、生物學の各方面から僅少の例を選んで極めて簡單に説いたもの故、その不完全なることは勿論であるが、若しもこれによつて精神科學でも藝術でも遠くその源まで探れば、必ず生物學と相接觸することを幾分かでも廣く世に知らせることを得たならば、著者はこれを以て既に成功と見做して大に滿足する次第である。

 本書は全篇を二十章に分けてあるが、更にこれを大別すれば、最初の二章は前置き、第三章より第八章までは食ふことに關し、第九章より第十八章までは産むことに關し、最後の二章は死ぬことに關したものである。例として掲げた事實は多くの書物に出て居ることで、生物學者の熟知して居るものばかりであるが、理論の方は決して悉く生物學者の認めて居る説を紹介したわけではなく、往々著者一人だけの考を述べた所がある。特に一時全盛を極めた生物が忽ち絶滅するに至るのは初めその生物をして敵に勝つを得しめた性質が過度に發達するによるとの考は、まだ何人もいうたことのない説で全く著者一人の意見に過ぎぬ。隨つて人間の將來に關する説も恐らく他の生物學者の考とは一致せぬであらう。この事に就いては本文の中にもそれぞれ斷つて置いたが、誤解を避けるために豫めこゝにも十分に明にして置きたいと思ふ。

 なほ本書は已に數年前から豫告してあったために、今日までに著者及び出版書肆に向けてその發行を促す鄭重な書狀を送られた方が數十名もあつた。記名の手紙に對してはその都度返事を差出したが、匿名の書狀に對しては何分にも返信することが出來なかつたから、今この處で厚く感謝の意を表する。

 

  大正四年八月十二日

 

                著   者

2012/06/09

耳嚢 巻之四 化獸の衣類等不分明の事

 化獸の衣類等不分明の事

 

 大坂に古林見意といへる醫師ありしが、彼見意が語りける由。眞田山(さなだやま)の邊に學才ありし老人ありし故行き通ひて物抔尋問ひしに、或日人物勿躰(もつたい)らしき男、衣類さわやかにて彼老人の許に來る者ありて、老父、遠方來りし事を尋ければ、用事有て遠國へ參る間、暫しの暇乞に來りしといふ。當時は藤森(ふじのもり)邊に居候趣にて、彼老人召使ふ者に申付、外より貰ひし牡丹餅を盆に乘せて出しければ、何か禮謝して彼男人躰(じんてい)に不似合、手又は箸などにて取らずして、うつむきて口にて直(ぢか)に喰(しよく)しければ、遠方なれ早々歸るべしと、老父の辭に隨ひ暇乞ふて立歸りぬる。跡にて、藤森迄は此邊よりは里數も是あるに、今日暮に及び歸るといゝしが、夜通しにも歸る事にやと見意彼の老人に尋しに、彼者は暮ざる内に歸るべし、實は狐なる由、且彼ものが着服は何と見紛ふやと尋ければ、何か立派には見へしが品は不覺(おぼえざる)由申ければ、さればとよ、狐狸の類ひ都(すべ)て妖怪の者の着服は何と申事見留(みとめ)がたき物の由、彼老人語りしと見意直々(ぢきぢき)にわが知れる人に語りし由也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐で直連関。エイリアンの着衣が見たこともないような、地球上に存在しない素材で出来ている――というのと通底する。

・「古林見意」底本の鈴木氏注に、古林見宜(桂庵)の後裔であろう、とされる。古林見宜(ふるばやしけんぎ 天正七(一五七九)年~明暦三(一六五七)年)は江戸前期の儒医で、桂庵と号した。播磨国飾磨郡の出で赤松氏則の子孫という。京で医術を修業、大坂聚楽町にて医師を開業する一方、同門の堀杏庵とともに京都嵯峨に医師養成を目的とした学舎を創設、門人三千人を数えた(以上は「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。

・「眞田山」現在の大阪市天王寺区の北東端にある真田山町。真田山は慶長十九(一六一四)年の大阪冬の陣の際、大阪城の弱点とされた南方面の防御を強化するために、大阪方の真田幸村が築いた出城であったとされる。

・「藤森」は京都市伏見区深草の地名。同地区には伏見稲荷がある。

・「藤森迄は此邊よりは里數も是ある」凡そ十里以上あったと考えられる。大阪の真田山と京都の藤森では現在の地図上の直線実測でも三十九キロ程ある。時速五キロとしてもヒトの足なら八時間は有にかかる。狐の時速は諸資料によれば、時速約四十八キロから、アカギツネで七十二キロ(瞬間最大時速であろう)とあるから、時速五十キロとすれば、文字通り、一時間かからないうちに(恐らくは夕方と思われる当話柄内時間から日没の前までに)辿り着くことが可能である。

・「都(すべ)て」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妖獣の衣類等は不分明で得体の知れぬものを素材としている事

 

 大阪に古林見意という医師があったが、その見意が語ったとの由。

 

……真田山の辺りに、医術に特異な学才を持った老人が御座った故、拙者、この老人の元に頻繁に通っては、日頃の種々の疑問疑義を尋ねたり致いて御座った。

 そんなある日の訪問の折りしも、相応なる人物と思しい男で、如何にも小ざっぱりとし、いや、それでいて何とも言えぬ不思議な美しさを感じさせる衣を纏った男が、この老人のもとを訪ねて御座った。

 老人が、

「――遠方より遙々の御到来、如何致いたかな――」

と訊ねると、

「――用事の御座るによって、遠国へと参ることと相い成り――暫しの暇乞いに参りました――」

と答える。

 拙者は部屋の端にて、それとのう、二人の会話を聞いて御座ったのだが――その会話の趣きから察すると――この男、今は京の藤の森辺りに住んでおるらしい。

 かの老人が、召し使(つこ)うて御座った者に申し付け、貰い物なるよしの牡丹餅を盆に載せて男に出したところ……

……人声としては如何にも奇妙な……

……知れる言語にては御座ない、何か意味のよう分からぬ詞にて、礼のようなるものを述べた……

……かと思うたら……

……その男……

……かの相応の身分と思わるる風体(ふうてい)からは想像も出来ぬままに……

……手も箸も使わず……

……牡丹餅を、これ……

……顔を俯けて……

……あんぐりと……

……口だけで……

……食べて御座った……。

と、

「――遠方なれば、の――早々に帰ったがよかろうぞ――」

という老人の言葉に促され、男は短い暇の詞を述べると、立ち帰って御座った。――

 ――さてもその後刻のこと、

「……藤の森までは、ここいらからは相当の里数が御座るが……今最早、この日暮に及んで『帰れ』とおっしゃられたが……これ……夜通し歩いて……帰る、ということになりますかな?……」

という拙者の意地の悪い質問に、老人、平然と、

「――かの者は――日も暮れぬうちに帰り着くじゃろ――実はな――あれは――人――でにては――ない――狐――じゃ――」

と答え、間髪を入れず、

「――貴殿――あの者の着ておった――服――あれは――何と見たもうた?」

と訊ぬる故、

「……何やらん、立派なものには見えました……が……如何なる素材にて出来て御座ったか……はて……よう分かりませなんだ……いや……寧ろ……何やらん……不思議なことにて御座るが……今……はっきり言うて……よう……覚えておりません……」

と申したところ、

「――さればとよ――狐狸の類い――総て妖怪なる『もの』の着れる衣服なるものは――これ――何とも訳の分からぬ――記憶も残らぬ――人の意識には不分明にして不可視不可知に等しい――妖しき『もの』なのじゃ――」

と、かの老人が語って御座った。……

 

 以上は、見意本人が私の知人に直接語ったこと、とのことで御座った。

2012/06/08

耳嚢 巻之四 靈獸も其才不足の事

 靈獸も其才不足の事

 

 武江眞崎(まつさき)に稻荷の靈社ありて、寶曆の頃より參詣群集(ぐんじゆ)をなし、其後明和安永の比は少しく衰へぬれど、好事の遊人は春秋に逍遙の場所とせり。天明の頃右場所にお出狐(いでぎつね)といへる狐あり。是は彼境内の一穴中に濟る。信心の輩彼邊の茶店の婦女によりて菓子或は食物を穴の邊に供してお出お出と呼べば、穴中より狐出て彼食物を食しけるを、品々興じ唱へける事ありしが、其後は右狐いづちへ行けん今は其沙汰もなし。仙臺家の家士齋藤所平と言るは、江戸生れにて仙臺の事は不案内なるが、春の此眞崎稻荷へ參詣し、傍の茶鄽(ちやみせ)によりてお出狐の事を尋しに、今は呼でも不出、定て所をかへしならんといゝければ、所平甚殘り多く、扨々遲く來りしゆへ其樣子を不見事とて委敷(くはしく)尋問ひしに茶みせの女、狐は奇怪の物也、一ト年我等娘十二になりけるが、賤(しづ)の子なれば今に一字を引(ひく)事もならざるが、右に付て唯ならぬ事など申故、不思議と切(せつ)に尋ければ、我等は爰元の狐なれど官位の事にて最早外(ほか)へまかるなり。年月世話にもなりぬれば此娘に付て暇乞をなす也、緣あらば又こそ來るべしとて、一首の歌を其邊に有し扇に書置たりとて右の扇を見せけるに、彼娘無筆なるが相違なきが、扇に書し歌も拙(つたな)からざるとはいひがたけれど、

  月は露露は草葉に宿かりてそれからこれへ宮城のゝ原

 かく認有りしを珍ら敷(しき)に任せて、彼婦人に金子貮百疋(ぴき)與へ、彼麁末(そまつ)成扇を貰ゐ請て、表具などして家中の同志の友集合の節見せけるが、さるにても上の句は面白けれど下の句分らざると咄しければ、右友の内奧州所生の者ありて、右狐は奧より下りしや、是は奧州宮城野にて古き物語有事なるを聞き覺へて、流石は畜類也、歌の月をも全く不覺なるべしといいし故、右古き物語の事を問ひければ、いつの比にやありけん、奧州ある寺に居ける兒(ちご)、和歌を好み詠て宮城のゝ月萩を賞して、ある時月は露露は草葉に宿かりてとよみて、下の句を色々案じけれど心に浮(うか)まず、明暮宮城のに立つくして終(つひ)に病の床にふし身まかりぬ。不便の事とてとり寄て一塊の塚に埋みて吊(とむら)ひしが、夫より宮城のゝ原にて月さやかなる夜あるいはうち曇れる比は、誰ともしれず、月は露露は草葉に宿かりてと詠じては、わつと言て一團の煙火たちぬるよし。師の坊聞て不便の事に思ひて、鐵如意を携て月さやかなる夜宮城の原に至りて、同宿の僧など召連今や今やと待居たりしに、夜も四更の頃かとよ、一團の煙ありて聞に違はず、月は露露は草葉に宿かりてと詠じわつといふ聲せしを、師の坊大聲に、それこそこれよ宮城野の原といゝて鐵如意を投付しに、其後は佛果を得道せしや、宮城野に右の怪も無かりし由。畜類なれば右の下の句を覺(おぼえ)迷ひけるならんといゝし。左も有べきや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:鶴三羽雷撃死からお狐さまの動物奇談で直連関。鶴の雷撃もあればこそ、狐の人に馴れるのは、餌付けを禁ずるキタキツネを見れば、分かる。岩波版の長谷川氏の注に、津村淙庵(つむらそうあん 元文元(一七三六)年~文化三(一八〇六)年)の「譚海」の『十に同様の話をしるし、雲居禅師と宮千代の事とする』とある。参考までに、「譚海」の該当話を以下に掲げておく(底本は本底本と同じ「日本庶民生活史料集成 第八巻 見聞記」所収のものを用いたが、読みは私が適宜補った)。

 

〇明和の頃、江戸隅田川の北岸、眞崎明神の境内、稲荷の祠のかたはらなる茶店の老媼に、馴たる狐ありて、媼(おうな)よぶときは狐ひとつ明神のかたより出來る。茶店にあつまる客、是に物などあたふれば、狐それを食しをはりて、又ふらふらともとのかたへかへりうせける。人々是を興ある事にいひ傳へて、専ら世の中にもめづらしきことにいひたるに、其後いつとなく此事絶たり。寛政四年の春、萱場丁(かやばちやう)の町人冬木三右衞門と云もの、此茶店にあそびて狐の事を尋ければ、其狐は元來奧州仙臺のものにはべりしかば、此さきのとし故郷へ歸りぬといふ。夫はいかにして慥成(たしかなる)証據にても在事にやと尋ければ、老媼彼狐本國へかへり侍るとき、和歌を一首とゞめて歸り侍りしといふ。こはめづらしきことなり、其歌なにとぞ見たきよし乞ければ、其媼短册を一枚取出て、是にさぶらふとてみす、あやしき手蹟にて、筆のたちどもそこはかとなけれど一首の歌あり、

  月は露つゆは草葉にやどかりてそれからそれを宮城野の萩

三右衞門いとめづらかなる事におぼえ、何とぞ此たんざくもらひ度よし、しひて所望せしかば、老媼もそしなき望にをれてゆるしつ。三右衞門大によろこび、金子などあたへもてかへりて、人にも此事をかたりいで、殊にもて祕藏しおけるに、仙臺の侍醫工藏平介といふ人、或る日三右衞門かたへ來る時、主人本國の物がたりなどのついでに、此事をかたり出たるに、平助もふしぎ成事におぼえて、或時主人の間に侍せしついで、又此事を申上ければ、陸奧守殿ゆかしきことに聞かれ、何とぞそのたんざく見たきよし懇望により、平助又三右衞門をとひて、たんざくを借得て、陸奧守殿へみせまゐらせければ、珍敷(めづらしき)事にぞんぜらるゝ所、側に侍せし用人申けるは、成ほど此狐御領地のものにあるべし、その仔細は元來此うた久しく御國に申傳(まうしつたへ)たる歌にて、人のよく存(ぞんじ)たる事に候へば、さやうに推量いたされ候。但御國にて申傳候とはうたの上下少したがひ候。そのをもむきは、むかし松島の雲居(うんご)禪師の召仕(めしつかへ)る童子に、宮千代と申もの御座候。此童子生質(きしつ)和歌を好み候所、病氣付(やみつき)候内も、日夜うちすてず詠(よみ)候中(うち)に、月は露つゆは草葉にやどりけりと申上(しんじやう)の句を按得(あんじえ)候て、いろいろ考候へども、下の句をなしえず、やがて其まゝに病氣おもり相はて候。その後おのづから宮城野の原へ、化物出(いづ)るよし申いだし、のちのちは此化もの歌を吟じてあるき候よし、雲居禪師がめしつかへる宮千代が幽靈なりと、もつぱら申つたへ候を、禪師聞得て、何にもあれあやしき事とて、一夜禪師宮城野へ行て、幽靈の實否をたゞされけるに、按(あん)のごとく夜ふけて、宮千代形を現じきたり、月下に歌をぎんじさまよひあるき候。禪師よく聞けば、月はつゆ露は草ばにやどりけり、といふ上の句をいくたびも沈吟して行かふさまなり、そのとき雲居禪師聞すまして、とりもあへず、それこそそれよ宮城野のはぎと、下の句をつけられければ、言下に此幽靈形消て見得ず。その後ふたたび宮城野へ、宮千代の靈いづる事なく候、禪師の辭に覺悟して、成佛なし候事と人申つたふる也。それがために祠をたてて、神にまつり候。今に石權現とて宮城野に御座候は、かの宮千代の靈を祭りたる祠に候よし、人みな申侍候事に候。此狐もよく此歌を聞覺え候まゝ、それをやがて書候はんにて候。畜類ゆへおぼえあやまりて、かく書たがへ候か、何にも候へ右申上侯物がたりの、うたをおぼえ居候まゝ、御領内の狐に相違無之候かと、申上けるとぞ。いとめづらしき物語になん。

 

「陸奧守殿」明和の頃の仙台藩は第六代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)。陸奧守。「雲居禪師」雲居禅師(天正十二(一五八二)年~万治二(一六五九)年)伊予の土佐一條家重臣小浜左京の子。九歳で出家、東福寺内の永明院を経て妙心寺蟠桃院一宙禅師に師事。寛永十三(一六三六)年、仙台二代藩主伊達忠宗の懇請を受けて瑞巖寺九十九世となった。「石權現」現存しないか、名称が変わったものと思われ、不詳。……いや、それにしても――この短冊も扇も――茶店の奥には……同なじものが、これ、ゴマンとあるんだろうなぁ……

 

・「武江眞崎に稻荷の靈社あり」真先(真崎)稲荷。荒川区南千住に現存(但し、場所は異なる)。天文年間(一五三二年~一五五四年)に石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝えられる。喜多村節信(ときのぶ)の「喜遊笑覧」によれば、伊豆国君沢郡真崎村(現在の静岡県の伊豆半島の西北部のあった郡であるが、「真崎村」というのは現認出来ない)の稲荷が、官位をとろうと東武まで出ばって来たが、何か因縁でもあったものか、不図、この地に留まってより小社を建て、本国の村名をそのままに真崎の稲荷と唱えるようになった、とあり、また、供物をしてもそれを狐が食べなかった時は願は叶わぬ、といった顎が外れそうになる愚説があるとも記している。もとは隅田川の「橋場の渡し」の北にあって、その門前は景勝地として知られており、奥宮の狐穴から出現する『お出狐』は、対岸にある三囲(みめぐり)稲荷の狐と並んで有名であった。江戸中期より繁昌し始め、宝暦七(一七五七)年頃には、名物となった吉原豆腐を使った田楽を売る甲子(きのえね)屋、川口屋などの茶屋が立ち並び、焼物の狐の像なども売られていた。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」などと当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。大正十五(一九二六)年、東京ガス千住工場建設に伴って石浜神社(これももとは橋場にあって朝日神明宮と言った)に併合されて摂社となり、そちらに移転した。(以上は底本の鈴木氏注及び私の御用達「東京紅團」の「岡本綺堂の東京を歩く 稲荷神社散歩」の「真崎稲荷神社」の教育委員会の紹介文を元にした記載を参照させて頂いた)。

・「寶曆の頃より參詣群集をなし、其後明和安永の比は少しく衰へぬれど」「寶曆」は明和の前、西暦一七五一年から一七六四年で、「明和安永」は西暦一七六四年から一七八一年。次が天明(西暦一七八一年から一七八九年)で、その後に寛政が続く。本執筆時と推定される寛政八(一七九六)年を起点とすると、「天明の頃」は十五年から七年程前の近過去でる。

・「お出狐」底本の鈴木氏注に、「お出で」は「御出」で『御いでなさいの御いで。伏見稲荷の神幸行事を御出というので、この字面を用いるようになったか』と考証され、以下に書誌学者三村竹清翁の注として『十九巻本我衣巻二、安永三年の下に云、真崎神明の境内に、水茶屋の婆々油揚などを持って、おいでおいでと呼ぶ時は、狐出ると、皆人見物に行く』とある、とする。

・「濟る」底本には「濟」の右に『(住)』の傍注。「すめる」と訓じていよう。

・「茶鄽」茶店に同じ。底本で鈴木氏はここに注して、再び三村竹清翁の注を次のように『岡持がかきし、後はむかし物語に云、真崎稲荷はやり出て、田楽茶屋の出来たるは、我二十二三歳、宝暦六七年の頃なるべし、鳳岡先生の会日に、其はなしを初て聞けり、江戸町の名主は先生の門人にて、英男が別て甲子屋と申茶やの田楽はよしと申也など、先生に語りしを聞けり、其後大に繁栄し、青楼の婦人をいざなひて遊ぶ人も多かりき、向島の秋葉は、今信仰薄くなりて淋しけれど、茶やの賑ひは替らず、真崎は神威とともに茶屋も衰へたり、真崎は手前の角、若竹や(後袖すりや)又甲子や、川口屋、玉や、いねや、仙石や、きりや、道を隔てゝ八田屋など、いづれも繁昌なりき。また続飛鳥川に云、真崎稲荷、安永明和頃繁昌、祠の下辺に狐住て、お出お出と呼と出来る、油揚を遣す、大勢見物あつても、恐れず出で来たり、恭按、享和の頃、お出お出という狐出たり』と多量に引用され、最後にこの人気は『招き猫などと通ずる心理もあったろう』と推測されている。

・「宮城のゝ原」宮城野。現在の宮城県仙台市東方にあった広大な原野。ツツジの名所として知られた榴岡(つつじがおか)から東に延びる平野を指す。歌枕で、宮城野の萩として知られた。現在の仙石線の榴ヶ岡駅周辺や隣の宮城野原駅から陸奥国分寺跡のある木ノ下あたりまでが当該地に当たる。

・「貮百疋」一般には一貫=一〇〇疋=一〇〇〇文であるから、二〇〇〇文。平均的金貨換算なら三万三千円ほどになる。これに表装代も含めれば、結構な金額となろう(しかし、これ、このぐらいの値段はしないと、この話は話として面白くない)。齋藤所平なる男、全く以て好き者である。

・「歌の月をも全く不覺なるべし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『歌の心をも全く覺えざるなるべし』である。両義を採った。

・「兒(ちご)」は底本のルビ。

・「四更」五更の第四。現在の午前一時(或いは二時とも)頃からの二時間程の間を指す。丑の刻や丁夜(ていや)と同時刻。深夜から未明の境界的時間で、霊の出現に相応しい。

・「覺迷ひけるならん」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『覺へ違ひけるならん』である。両義を採った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 霊獣たらんもその才に足らんこともある事

 

 武江真崎に稲荷の霊社がある。

 宝暦の頃より、参詣の者、群集(ぐんじゅ)をなし、その後、明和・安永の頃になってからは少しく人気も衰えたようであるが、それでも今も、好事の遊び人なんどの春秋の逍遙の場として知れて御座る。

 天明の頃、此処に「お出で狐」という狐が棲んでいた。こ奴は、この真崎稲荷の境内にあった一穴に住みなしており、近くの茶店に訪れた婦女が、菓子やら食い物やらを穴の辺りに供えて、「お出で、お出で」と呼べば、穴中より狐が出で来て、かの供物を食べるということで、稲荷参詣の者どもの間では評判で御座った。――が――その後は、この狐、何処(いづこ)へ行ったものやら――今は、とんと、絶えてなく、そんな噂も聞かずになって御座る。――

 仙台家の家士斉藤所平と申す者――彼は江戸の生まれにて、仙台のことは不案内で御座った――、とある春の一日(いちじつ)、真崎稲荷へ参詣し、傍らの茶店へ寄って、そこの女に『お出で狐』のことにつき、尋ねてみたところが、

「……生憎、今は呼んでも出て来ずなってしまいました。きっと棲み家を移したのと違いますかねぇ……」

との答え故、所平、如何にも残念そうに、

「……さてもさても、今少し遅う御座った故、名にし負うた『お出で狐』を拝めなんだか……」

と呟きつつ、この茶汲み女に、『お出で狐』が姿を隠す前後のことを、詳しく尋ねてみた。するとこの女の曰く、

「……狐って、ほんに不思議なもので御座います。……ある年、うちの娘……当時は十二歳で御座いましたが……こんな賤しい茶屋の娘で御座いますから、今でも一と文字たりとも、これ、字を書くことなんぞは出来ませんのですが……この娘に……かの『お出で狐』がとり憑いて……まあ、ただごとではないこと……これ、口走ります故……不思議に感じ、いろいろと尋ねてみましたところが……

『――我ラハ此処モトニ住メル狐ナレド――官位ノ沙汰御座レバコソ最早――此処ヲ出ヅルコトト相イ成ッタ――永キ年月世話ニモナッタレバコソ――コノ娘ニ憑キテ暇乞イヲセントス――縁アラバコソ又来タランコトモアルベシ――』

と厳かに語ると……一首の歌を……その辺に置いて御座いました扇を取り上げて……さらさらと……書きおいて御座いましたので……」

と言いつつ、その扇を見せた。

 その扇はと見ると――娘の無筆なるは、これ、間違いなく――書かれたその字は、これ、まあ、何というか――『拙くない』とは言い難い――といった代物では御座った――が――それでも判読出来得る程度の文字では――これ、ある――さても、その一首、

 

 月は露露は草葉に宿かりてそれからこれへ宮城のゝ原

 

 と認めて御座った。

 ――所平、物好きなる者にて、珍しきに任せ、その如何にも貧しい女に金子二百疋をも与え、その如何にも粗末なる扇を貰い請け、ご丁寧にも立派な表具なんどまで致いた上――仙台藩御家中の、同志の者どもの集える会にて、お披露目致いた。

「……それにしても……上の句は相応の謂いなれど……下の句は……何じゃら、分からんのぅ……」

とある者が呟いた。すると、友の中に、奥州生まれの者が御座って、

「……この狐は、奥州から下って来たものならんか?……これは……奥州宮城野に伝わる古き昔語りを、この狐が聴き覚えており……とは言うても、流石に畜類のことじゃ……歌のまことの『月の心』の部分……悟入の眼目を……誤って覚えておったということであろうの……」

と語った故、皆してその古き昔語りにつき、彼に訊ねた。――

 

「……何時の頃のことにかありけん……奥州の、とある寺に住まう稚児……大層、和歌を好いて御座ったが……ある時……かの仙台宮城野の月と萩を賞し……

 

 月は露露は草葉に宿かりて

 

と詠んだ。……そうして、その下の句を……これ……いろいろと案じて御座った……御座ったれど……これ、いっかな浮かんで来ず……毎日……毎日……かの宮城野に出でて一日中……野原に立ち尽し……歌を詠み上げぬままに……終(つい)に病いの床に臥して……身罷って御座った。……寺にては、不憫なることとて、亡骸を宮城野に野辺送り致いて……そこに一塊の塚を設けて埋め弔(とむろ)うて御座った。……それからというもの……宮城野の原にては……月の清かなる夜(よ)……或いは……うち曇れる夜には……誰(たれ)とも知れず……

 

 月は露露は草葉に宿かりて……

 

と詠ずる声のあって、すぐ……

 

 ――わっツ!――

 

という悲痛なる叫びとともに……

……一団の鬼火が……

……立った……という……

――さて――この稚児の師の坊は、この噂をお聴きになられ、不憫なることに思われて、一日、鉄の如意を携えると、月の清かなる夜、宮城野の原にお立ちになられた。

 同宿の僧などを召し連れ、今ならんか、今ならんか、と待っておられたところ……夜も四更に至る頃で御座ったか……一団の鬼火が現れ……噂に違わず……

 

 月は露露は草葉に宿かりて……

 

と詠じ……

 

 ――わっツ!――

 

という悲嘆の声がした――が――

――その時――

――師の坊、大喝して

 

「――それこそこれよ宮城野の原!――」

 

と言い放ち、持った鉄の如意を鬼火に投げつけた……

   *

……さても、その後(のち)は――稚児の残れる執心も仏果を得道致いたので御座ろうか――宮城野にてはかの怪異、なくなって御座ったということじゃ。

 畜類なればこそ、この師の悟入一喝の下の句を、獣の哀しさ、迷いのあって、誤って覚えておったので御座ろうか……。」

 

 なるほど――霊力を持ったる獣たらんも、その才にはやはり、獸故に、哀しいかな、足らんことも、これ、あるということ――ででも、あるのであろうか。

耳嚢 巻之四 雷鶴をうちし事

耳嚢 巻之四 雷鶴をうちし事

 

 寛政八辰年春、雷の鳴りし事ありしが、林大學頭營中におゐて語りけるは、同人知行に奇事有りし由。武州忍(おし)領近所にて雷落て鶴を三羽打殺しける由。尤空中を舞ひけるにや、又は求食(あさ)る鶴を打しやと尋けるが、其程は難分(わかりがたし)、晝の事にて雷甚しかりしに其村の百姓、側の家に雨を凌ぎて、少しやみけるゆへ立出みしに、鶴三羽雷に打れて翼を損ざしくすぼりて有し由、あるべき事ながら珍ら敷事也と語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:自然界の瘧りの毒気が人型を現じる怪談から、長寿のシンボルたる鶴が雷に打たれて焼け燻っているという奇談連関。なお、これはあり得るか、と言われればないとは言えないが、文中で問題となっているように、飛んでいた場合は極めて可能性は低いものと考えられる。飛んでいる鳥は周囲とほぼ同電位であるから、雷を誘わず、生体であるから静電気が溜まる可能性はあっても、雷が鳴る際は周囲の湿度も高く、鳥の大きさも小さいので(鶴は相対的にはかなり大きいが)、静電気もなかなか溜まらない可能性があるので飛翔中の鳥の落雷の可能性は小さいという記載がネット上にある。そもそも大型の鶴が三羽飛翔中に雷電に打たれるという可能性は更に小さい。寧ろ、地上に降りて近接していた三羽の鶴(鶴が首を伸ばしていれば広大な湿地や平地ではやや高いし、当然、地面と同電位になる)の何れか一匹、若しくはその近くにある、例えば樹木や竿、百姓の鍬などに大きな落雷があった場合、こうした集団雷撃死はあってもおかしくはない、という気がする。

・「寛政八年」は丙辰で西暦一七九六年。

・「林大學頭」儒学者林述斎(明和五(一七六八)年~天保十二(一八四一)年)。林家第八代。寛政五(一七九三)年、林錦峯の養子となって林家を継ぐ。昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化や儒学教学の刷新、「寛政重修諸家譜」「徳川実紀」「新編武蔵風土記稿」といった公刊史書の編纂事業など、寛政の改革に於ける文部行政を推進した。当時、二十八歳で根岸より三十一も若い。

・「武州忍(おし)」「おし」は底本のルビ。現在の埼玉県行田市にあった忍藩。

・「難分(わかりがたし)」は底本のルビ。

・「くすぼりて」「燻ぼる」で煙によって黒くなる、すすけるの意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 雷が鶴を打った事

 

 寛政八年辰年の春、頻りに雷が鳴った日が御座ったが、その折り、林大学頭述斎殿が城中にて雑談のうちに語って御座ったことで、同人の知行所にて、奇異なること、これ、御座った由。

 「……武州忍(おし)の近隣の村のことなるが、雷が落ちて鶴を三羽打ち殺した、というのじゃ。――尤も、その三羽、空中を舞っていたところを雷撃されたのか、又は地に降り立ちて餌を探しているところを打たれたのか、とその者に尋ねてみたので御座るが、その辺りは、よく分からぬということにて――ともかくも、昼間のことにて、雷雨、殊の外、厳しき折から、その村の百姓、近場の農家にて雨を凌ぎて、少し小振りになって参ったによって立ち出でてみたところが、目の前の原に、鶴が三羽、雷に打たれて翼を焼かれ、ぷすぷすと烟りを吹きながら、全身、これ、黒ずんで御座った――とのこと。……まあ、あり得ぬ話では御座らねども、やはり珍しきことでは御座る。」

と語って御座った。

2012/06/07

egmont 様 深謝とお詫び 藪野直史

拝啓。egmont 様。

今朝、小生の注記の誤りを御指摘頂き、誠にありがとう御座いました。御指摘の注は「江南游記」ではなく、「雜信一束」の小生の「大別山」の注記とその後の「月湖」のものと存じますが、旧称大別山、現在名亀山の詳細な位置とロケーションをお教え頂き、誠にありがとう御座いました。早速に訂正させて頂きましたが、知ったような顔をして訂するのもお恥ずかしく、誤りは取り消し線で残し、失礼乍ら、貴方のハンドル・ネームegmont 様を掲げさせて頂いた上、頂戴したメールの御指摘箇所をそのまま、転載させて戴き、深謝を評させて頂きました。

「雜信一束」 (「三 黄鶴樓」及び「四 古琴臺」の注)

実は、先程、アップ・ロード後、直ぐに egmont 様 へ御礼の御返事を致すつもりで、メールボックス内を操作しておりましたところ――全くの言い訳ですが、本日は早朝より小生のプロバイダーであるニフティが接続不具合でなかなか開けず、多量の受信メールが溜まっておりましたため整理をしているうちに――誤って貴方のメールを削除してしまいました。保存していなかったため、御返事が出来なくなってしまいました。誠に失礼致しました。本ブログを御覧になって戴けることを心より願って、ここに直接の御礼が出来ませんことのお詫びと、御指摘の御親切に再度、心より感謝致します。
誠にありがとう御座いました。
この愚かなる仕儀に呆れられておるとは存じますが、今後とも、また何か御座いました折には、よろしく御鞭撻の程、お願い申し上げます。

      藪野 直史

2012/06/06

ヤドカリの深内部の甘さとは何だろう?

オニヤドカリAniculus などの内臓部には何らかの配糖体に属する成分が含まれているのではないだろうか。水を含むと甘くなるというのは、水道水の塩素がそれに反応して糖度を急速に高めるのではなかろうか。教え子の薬物学の識者に質問したい。

恐るべきサイトの発見

調べて行くうちに出逢った……

鶴岡八幡宮大塔

……これは……とんでもない凄いページだ!

そして――「がらくた置場」と謙遜されるこのサイト――その注記に――

『当サイトにあるオリジナル画像の加工・使用・配布などはフリーです。(著作権などの腐った主張は致しません。』

s_minagaなる御仁の御言葉に甘えて――もうじき終わる予定だった「新編鎌倉志卷之一」の改修作業は――♪ふふふ♪――暫く――終わるわけにはいかなくなった、ゼ!……

耳嚢 巻之四 小兒産湯を引く事

 小兒産湯を引く事

 

 出産後小兒即時に産湯を引(ひく)は取揚婆(とりあげばば)の役目也。二番湯とて三日目に湯を引事これ又定例なるが、出生より三十六時の内に二番湯を引事と或る人の語りしが、予が孫出生せし三日目、取揚婆に障る事ありしや來らず、四日目に湯を引しを、預け置ける小兒科木村某來りて、以の外の由、こよひさつこうの愁なき樣いたし度とて、其手當など教示して歸りしが、其夜は別條なかりしが六ツ目の日より煩ひて撮口(さつこう)の症となり終(つひ)に失ひける。後人の心得のため爰にしるしぬ。一番湯たりとも延し候て不遣(つかはざる)は害なし。出生三日迄は臍のしまり宜敷(よろしき)故湯の愁なし。四日目よりは臍の穗(ほ)かわきてあがり候程合(ほどあひ)なれば、右臍の穗より濕氣入れば果して撮口を生じ候ものと彼木村某かたり侍る。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。冒頭三項に出るような「小兒餅を咽へ詰めし妙法の事」などと通底する民間療法・習俗の一つのように見えるが、もうすこし民俗学的な根が深い。ここでは特に三日目の二度目の産湯(これをやはり産湯と呼ぶ)が問題とされているが、それは一義的にはここに記されるような医学的根拠に基づくものではなく、専ら宗教的儀礼的なものであったと考えられている。

・「産湯」現在は専ら分娩直後に使う湯を言うが、古くは分娩直後の湯浴みと、ここに示された三日目の湯浴みを区別した上で、両方を同じように産湯と呼称していたようである。「産湯」という呼称には出産後初めての湯浴みという意味以外に、大地母神である産土神への無事の感謝と生育の守護を祈る儀式であり、産湯の水は本来は自然界の水気に産土神を象徴したものと考えられ、この「お清め」によって神の産子=氏子となるといった意味が孕まれている。産湯に邪気を払う塩や酒を入れると風邪をひかない強い子に育つといった俗信もそうしたものの名残りと考えてよい。但し、分娩直後の産湯の水は穢れたものとされ、陽の当たらぬ産室の床下や、占いが示す当該の方角の特定の場所に捨てたようであり、捨てた場所が悪いと夜泣き癖が残るという俗信は広く信じられてもいた。三日目に使う湯は「産湯」又は「湯初(ぞ)め」、「湯殿始め」と呼称し、これが済んで始めて「三日祝いの晴れ着」が行われた。里方から贈られた袖のある「手通し」と称する産着を着せて三日の母子の恙無きことを祝う儀式で、これを見ても、三日目の産湯が本来は儀礼的傾向の強いものであったことは明らかである。主に参考にした平凡社「世界大百科事典」の大藤ゆき氏の「産湯」の項によれば、「三州奥郡産育風俗図絵」に、『分娩して後産が出て、へその緒を始末してから生児を洗うのを〈初湯(はつゆ)〉または〈とりあげの湯〉といい、そのためには大すり鉢を用いた。三日の湯以後はたらいを用いたという。偉人の産湯に使われたという湧き水の伝説は全国に分布しているが、その水を妊婦が飲むと安産するとか、女児の産湯に用いるなど不思議な薬効を説いているものもある』(読点記号を変更した)と記されている。

・「出生より三十六時の内」当時、一時(とき)は現在の約二時間であるから、三日後の七十二時間後は『三十六時』に相当する。

・「さつこう」「撮口」は漢方医学で「臍風」「噤風」等とも言い、新生児の破傷風のこと。ここに示されたように臍帯切り口から感染することが多かった。現在でも発展途上国では数十万から百万程度の破傷風による死亡が推定されており、その大多数は乳幼児や幼児で、特に新生児の臍の緒の不衛生な切断による新生児破傷風が大多数を占める。以下、参照したウィキの「破傷風」から引用すると、罹患は『土壌中に棲息する嫌気性の破傷風菌 (Clostridium tetani) が、傷口から体内に侵入することで感染を起こす。破傷風菌は、芽胞として自然界の土壌中に遍く常在している。多くは自分で気づかない程度の小さな切り傷から感染して』おり、『芽胞は土中で数年間生きる。ワクチンによる抗体レベルが十分でない限り、誰もが感染し、発症する可能性はある。芽胞は創傷部位で発芽し増殖する。新生児の破傷風は、衛生管理が不十分な施設での出産の際に、新生児の臍帯の切断面を汚染し発症する。ヒトからヒトへは感染しない』。『破傷風菌は毒素として、神経毒であるテタノスパスミンと溶血毒であるテタノリジンを産生する。テタノスパスミンは、脳や脊髄の運動抑制ニューロンに作用し、重症の場合は全身の筋肉麻痺や強直性痙攣をひき起こす』(この薬理作用とその発症機序及び毒素と抗毒素は明治二十二(一八八九)年から翌年にかけて北里柴三郎によって発見された)。『一般的には、前駆症状として、肩が強く凝る、口が開きにくい等、舌がもつれ会話の支障をきたす、顔面の強い引き攣りなどから始まる。(「牙関緊急」と呼ばれる開口不全、lockjaw)徐々に、喉が狭まり硬直する、歩行障害や全身の痙攣』(強直性痙攣による手足・背中の筋肉の硬直が発生し全身が弓なりに反る。リンク先に一八〇九年にイギリスの著名な神経解剖生理学者サー・チャールズ・ベル(一七七四年~一八四二年)の描いた患者の画が載る)、といった『重篤な症状が現れ、最悪の場合、激烈な全身性の痙攣発作や、脊椎骨折などを伴いながら死に至る』とある。潜伏期間は三日から三週間で、『神経毒による症状が激烈である割に、作用範囲が筋肉に留まるため意識混濁は無く鮮明である場合が多い。このため患者は、絶命に至るまで症状に苦しめられ、古来より恐れられる要因となっている』。死亡率は高く、五十%。成人でも一五%から六〇%、新生児に至っては八〇%から九〇%と極めて高率を示し、幸いにして生存しても、新生児破傷風の罹患患者は難聴の後遺症が残ることがある、とある。

・「臍の穗」底本には右に『(臍の緒)』の傍注を附す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 小児に産湯を浴びせる事

 

 出産後、小児にすぐ産湯を浴びせるは、これ、産婆の役目で御座る。二番湯と言って三日目に湯を浴びせることは、これまた定例のことで御座れど――出生から三十六時、三日以内に、この二番湯は浴びせること――とある人の語ったを、以前に聞き知っては御座った。――

 私の孫は出生(しゅうしょう)して三日目、産婆に何か不都合でも御座ったか、やって来なんだがため、一日遅れて四日目に湯を浴びせて御座ったが、これを聞いた当家かかりつけの小児科医木村某が参って、以ての外の仕儀と気色ばみ、

「……ともかくも今宵、破傷風に罹患する虞れのなきよう、処置致いたい……」

と、その応急処置と、急変時の手当の仕方などを指示して帰って御座った。

 その夜はこれと言って別状なく御座ったが――六日目より煩いついて――撮口の症状を呈し――遂に――亡くなって御座った。……

 後人の心得のため、ここに記しおく。

 なお、一番湯については、それを延ばしたり、有体に言わば、使わずとも、これ、害はない。その理由は、出生三日目迄は臍の締まりがよろしい故、湯浴みによる臍部からの病毒の感染の恐れはないからである。

 ――しかし四日目からは、臍の緒が完全に乾き切ってしまう頃合いで御座れば、その臍の尾の干乾びた隙間より湿気が入ると、果たして破傷風を発症する仕儀と相い成る――と、その木村某が語って御座ったよ。

2012/06/05

芥川龍之介「凶」の大正十三年の首吊の両足の出来事を八月五日に同定せる語

 大正十三年の夏、僕は室生犀星と輕井澤の小こみちを歩いてゐた。山砂(やまずな)もしつとりと濕氣を含んだ、如何にももの靜かな夕暮だつた。僕は室生と話ながら、ふと僕等の頭の上を眺ながめた。頭の上には澄み渡つた空に黑ぐろとアカシヤが枝を張つてゐた。のみならずその又枝の間に人の脚が二本ぶら下つてゐた。僕は「あつ」と言つて走り出した。室生も亦僕のあとから「どうした? どうした?」と言つて追ひかけて來た。僕はちよつと羞しかつたから、何とか言つて護摩化してしまつた。

芥川龍之介「凶」より)

今日読んだ、講談社文芸文庫の室生犀星「深夜の人|結婚者の手記」(2012年2月刊)の「日記」大正十三年八月五日より。

五日 七十五度
晩、マンペイホテルへ茶をのみに行く。途中芥川君木の茂みに怕がる。予が何か突然言いしとき也。驚きしにあらず怕かりしなりと頻りにそれを言う。驚くと怕がることの区別を混同することを繰り帰して言えり。
松村みね子さん見ゆ。三人で予の室で話をする。いつか二人で晩食に呼ぼうよと芥川君言う。
 堀君帰京、

耳嚢 巻之四 番町にて奇物に逢ふ事

番町にて奇物に逢ふ事

 

 予が一族なる牛奧(うしおく)氏壯年の折から、相番(あひばん)より急用申來(まうしきたり)、秋夜風強き夜一侍を召連、番町馬場の近所を通りしに、前後行來も絶(たゆ)る程の大雨にて、道の側に女など見へてうづくまり居しが、合羽やうのものを着、傘笠の類ひも見へず、確に女とも不見、合點行かず樣子故右の際を行過しに、召連たる侍、あれは何ならん、得(とく)と見可申哉(みまうすべきや)と言しが、いらざるものゝ由をこたへしに、折ふし挑灯を持たる足輕使躰(あしがるづかひてい)の者兩人脇道より來る故、右の跡につき元來し道へ立戻り、彼樣子を見んとせしに、始見し所に何にても見へず、四邊打(うち)はれたる道なれば、何方へ行べきや樣(やう)もなしとて口ずさみ歸りしが、門へ入んとせし頃頻りに寒氣せしが、翌日瘧(おこり)を煩ひ廿日程惱みしが、召連し者も同樣寒氣して熱病を廿日程惱ひけるとかや。瘴癘(しやうれい)の氣の雨中に形容をなしたるならん。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。久々の耳嚢怪談である。構成は遙かに複雑であるが、岡本綺堂の「妖婆」は場所も番町で、道端に怪しい老婆を見るという話柄の初期設定はよく似ている(リンク先は青空文庫版)。

・牛奧氏:「卷之二」の「鄙姥冥途へ至り立歸りし事」にもこの姓の人物が登場する。その話柄も老女蘇生譚で本話と類感する。そこで注した通り、旗本の中にこの姓があり、先祖は甲斐の牛奥の地を信玄から与えられてそのまま名字としたらしい。岩波版長谷川氏注には幕臣で、鎮衛の一族(但し、東洋文庫版鈴木棠三氏注の孫引きの指示有り)とする。ここの底本の注では、鈴木氏は『寛政譜には同姓五家あり、どれか明らかでない』ともある。

・「相番」江戸時代の幾つかの職務の当番や宿直の中には二人一組で交互にその職務を務めるものが多い。

・「番町馬場」御用明地騎射馬場(三番町馬場)のこと。現在の靖国神社参道に当たる。

・「前後行來も絶(たゆ)る程の大雨にて、道の側に女など見へてうづくまり居しが」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、ここが、

 前後行來も絶る程の大雨にて、提灯一つを不吹消(ふきけさざる)やう桐油(とうゆ)の陰にして通りしに、道の側に女子とも見へてうづくまり居しが、

となっている。「桐油」は長谷川氏注に『桐油をひいた紙の合羽』とある。これはあった方が場面の流れとしては自然。底本はここを脱文したと考えてよい。これを挿入して訳した。

・「合點行かず樣子故右の際を行過しに、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 合點行かざる樣子故、右の際を行過しに、

とある。こちらの方がよいが、文脈から言えば、

 合點行かざるままに、右の際を行過しに、

とあるべきところであろう。そのように訳した。

・「得(とく)と」は底本のルビ。

・「始見し所に何にても見へす」は底本では「見へす」とある。訂した。

・「四邊打はれたる道」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 四邊打はなれたる道

となっている。「晴れたる」(見通しがよい)、「離れたる」(淋しい)どちらでも通ずる。

・「歸りしが」相番の急な出務要請を受けているのに、このシチュエーション、そこへ出向く前では不自然である。冒頭で、その帰り、という設定にして訳した。

・「瘧」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログ追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。

・「瘴癘」水気を含んだ自然界に生ずる毒気によって起こると考えられていた熱病。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 番町で奇体なるものに出逢う事

 

 私の一族である牛奥(うしおく)氏の壮年の頃の話。

 相番の者から急用の出務要請の使いが参って、秋の、雨風の強い夜で御座ったが、部下一名を召し連れて出で、その帰り、番町馬場の近所を通った折り、前後の往来、人も絶えるほどの大雨となって、提灯一つを大事大事に、吹き消されぬように桐油(きりゆ)の紙合羽の蔭にして、しずしずと歩いて御座った。

……すると……

……道の傍らに、誰やらん、女と見える者が蹲っておって……その者、合羽様(よう)のものを着てはいるものの、番傘や被り笠の類いも見えず……いや実は……確かに女である、とも定かでは御座らなんだ……いやもう、如何にも妖しげな感じのする、『者』で御座った。

 合点のゆかぬままに、その者の側を通り過ぎたところ、召し連れて御座った侍が、

「……先程の、『あれ』は……一体、何で御座いましょう?……一つ、確かめて参りましょうか?……」

と申したが、

「……いらぬことじゃ。」

と答えたものの……丁度、提灯を持った足軽風の者が、二人連れで、すぐの脇道からやって参って、今しがた我らが来た方へと向かわんとせし故、不審なる者の由話しを致し、彼等の後について、元来た道を戻って、かの妖しき者の様子をとくと見んとしたところ……

……最初に見かけた場所には……

……何者も……

……何も見えずに、御座った……

……そこは四辺、遙かに見通しのよい、如何にも、もの寂しい道で御座った故、

「……何処(いずこ)へ参ったものであろう……」

「……いえ、短い間のこと故、何処(どこ)へ行けようはずも、これ、御座いませぬ……」

などと、二人して不審を呟きつつ、帰ったので御座ったが、

……屋敷の門へ入らんとした、丁