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2012/06/16

生物學講話 丘淺次郎 二 種族の起り

計算してみると、本書が書かれてから実に100年近くが経とうとしている――しかし、その人類の生物起源の知見はいかほども進歩したと言えようか?――いや――それどころか――人類は生命の起源を探し当てるどころか――自らの「智」によって自らの生命を核によって滅ぼさんとさえしている――実に実に丘先生独自の進化学説の中の『一時全盛を極めた生物が忽ち絶滅するに至るのは初めその生物をして敵に勝つを得しめた性質が過度に發達するによる』という考え方が正しかったことを証明するものと言えはしまいか?……

    二 種族の起り

 さて生物の各個體は皆それと同種の親から産まれ生じたものとすれば、何代前まで遡つて考へても、今日世界に生存して居るだけの生物の種族が、その頃にもあつたわけになるが、若しさやうとすれば今日知られて居る數十萬種の生物はいづれも天地開闢の初めから未來永劫少しも變化せぬものであらうか、それとも又長い間には少しづつ變化して、昔の先祖と今の子孫との間には、幾分かの相違があるのではなからうかとの問題が是非とも起らざるを得ない。即ち生物の各種族は如何にして起つたものであるかとの問題が生ずるが、この問に答へるのは生物進化論である。而して進化論はそれだけでも一つの大論で、且その爲には別に適當な書物もあること故、こゝには詳しいことは略して、單に要點だけを短く書くに止める。
 昔地球上に住んで居た生物が今日のものと同じであつたか否かは、古い地層から掘り出された化石を調べて見れば大體は分ることである。今日地質學者は地層の生じた時代をその新古によつて幾つかに區別するが、各時代の地層から出た化石を比較して見ると、最も古い處から今日まで同一種類の生物の化石が引き續いて出るといふ例は一つもない。時代が違へば化石も多くは異なつて、今を去ることの遠ければ遠いほど、その時代の地層から出る化石は、我等の見慣れて居る今日の生物とは著しく異なつて居る。されば大體に於て地球上の生物の種類は時の移り行くと共に、順次變遷し來つたものであるといふことは爭はれぬ事實である。
 また今日生きて居る生物の身體を解剖し比較して見ても、その卵から發育する狀態を調べて見ても、生物各種は次第に變遷して今日の姿に達したものであると見做さねば、到底説明の出來ぬような事實を無數に發見する。一々の例を擧げることは略するが、兎や鼠では十分に働いて居る上顎の前齒が、牛・羊では胎兒のときに、一度生じて生まれぬ前にまた消え失せることや、魚類では生涯開いて居る鰓の孔が人間や鷄の發生の途中にも、形だけ一度は出來て後に忽ちなくなること、若しくは游ぐための鯨の鰭も、飛ぶための蝙蝠の翼も、樹に登るための猿の手も、地を掘るための「もぐら」の前足も、骨格にすると根本の仕組が全く相一致することなどを見ると、如何に考へても生物の各種が最初から互に無關係に生じて、その儘少しも變らずに今日まで引き續き來つたものとは思はれぬ。尚生物各種の地理上の分布の有樣、または各種相互の關係などを調べて見ると、如何なる種類でも長い時代の間に漸々變化して、今日見る通りのものとなつたと結論する外に途はない。
 古生物學・比較解剖學・比較發生學・生物地理學等の研究の結果を總合して、その結論を約めていふと、凡そ生物の各種は決して最初から今日の通りのものが出來たのではなく、その始めは如何なるものであつたかは知れぬが、長い間に漸々變化して現在見る如きものとなつたのである。而して、變化するに當つては常に少しづつその種族の生活に適するやうに變じ、大體に於ては身體の構造は簡單より複雜に、下等より高等に進み來つたのである。尤も一旦複雜な構造を待つた高等の生物が、更に簡單な下等のものに退化したと思はれる例もあるが、これはいづれも特別の場合で、寄生蟲や固着生活を營む生物の如くに、體の構造が簡單である方が、その種類の生活に特に都合の宜しいときに限られる。また今日數種に分かれて居る生物でも、その昔に遡ると共同の先祖から起つたらしく思はれることが頗る多い。世人の飼養する動物、栽培する植物には殆ど無數にその實例があるが、野生の動植物に於ても恐らくこれと同樣で、初め一種のものも後には子孫の中に種々體形性質などの相異なつたものが生じて、終に多くの種類に分れたのであらう。されば全體に通じていへば、生物なるものは昔より今日に至るまでの間に常に一種より數種に分れ、簡單より複雜に進み來つたものと見なすことが出來る。而して、この考へを先から先へと推し進めると、終に地球上に初めて生じた生物は恐らくたゞ一種であって、且最も構造の簡單な下等のものであつたに違ひないとの結論に達するが、これは實際如何であつたかは、勿論、確な證據を擧げて論ずることは出來ぬ。生物の各種族は如何にして生じたものであるかといふ問に對して、進化論は一應の確な答は出來るが、抑々生物なるものは初め如何にして生じたものであるかと、更にその先の問題を出せば、之に對しては事實に基づいた確な返答は出來ぬ。人間と猿とは共同の祖先から起つたとか、哺乳類は總べて初めは「カンガルー」などの如き有袋類であつたらしいとかいふ如き、比較的近代に屬することは隨分確に知ることが出來るが、時代が遠ざかれば遠ざかるほど我々の知識は曖昧になつて、最も古い時代まで遡ると何も分らなくなる。これはわが國の歴史でも明治時代のことならば相應に詳しく分るが、神代は邈焉として測度すべからざると同じ理窟である。
[やぶちゃん注:「約めて」は「つづめて」と読む。
「邈焉」は「ばくえん」と読み、非常に遠いさま、遠くてはっきりしないさまを言う。
「測度」は「そくたく」で、あれこれと推しはかることを言う。
なお、現在の最新科学の知見によれば、地球最初の生命体は約四十二億年から三十八億年の昔に、原始海洋の中に誕生したと考えられている。発生当時のその生物種及びそこから分化した種は総てが単細胞で核を持たない原核生物であったと推定されている。これらの生物は当初は海洋水の中を漂っている有機物を利用し、酸素を使わずに生きている嫌気性の生物であったと思われるが(一九七〇年代の深海熱水孔の発見による原初生物独立栄養生物仮説)、有機物の量には限界があるため、やがて自身で栄養を作り出す手段として光合成を始めたと考えられ、遅くとも約三十五億年前には現在の分類学で言うところの真正細菌 Bacteria のシアノバクテリア門 Cyanobacteria に入る藍藻(シアノバクテリア)類の祖形生物がそうした担い手として登場したと考えられている(以上はネット上の複数の記載を勘案して構成した)。化学進化説の分野では、一九五〇年代以降、分子生物学のセントラルドグマから、殆んどの生物を構成する三つの物質のいずれが祖形生物の雛形となったのかが論じられてきており、それぞれDNAワールド仮説・RNAワールド仮説・プロテインワールド仮説と呼ばれる。更に、これらとはまた異なる位相的な仮説として、生命の起源を地球上に求めず、他の天体で発生した微生物の芽胞が地球に到達したものであるというパンステルミア説(panspermia:ギリシア語の“pan”[汎]+“sperma”[種子])もある。但し、これは決して新しいものではなく、元は先の注に登場したイタリアの博物学者にして実験動物学の祖ラッザロ・スパッランツァーニが一七八七年に発表した同内容の仮説がルーツである。何れにせよ、丘先生がこれを書いた九十三年前(!)と生物起源の人類の「智」は、現象としての仮説を分子生物学的化学的な言葉で説明出来る程度にした進歩していないということは明白である。]

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