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« 僕は永遠にドンファンである | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 五 生物とはなにか »

2012/06/11

生物學講話 丘淺次郎 四 死なぬ生物

      四 死なぬ生物
Ameba



[アメーバ]

 

 「生あるものは必ず死あり」とは昔から人の言ふ所であるが、實際生物界に死なぬ生物はないかと尋ねると、「死」といふ言葉の意味の取りやうによつては、死なぬ生物が慥にある。長壽は何人も望む所で、死は何人も恐れる所であると見えて、不老不死の仙藥の話はいつの世にも絶えぬが、斯やうな藥を用ゐずとも、元來死ぬことのない生物があると聞いたら之を羨ましがる人が澤山あるかも知らぬ。先づ如何なるものが 「死なぬ生物」と名づけられて居るかを述べて見やう。

 動物でも植物でも顯微鏡で見なければ分らぬやうな微細なものは、多くは全身がたゞ一個の細胞から成つて居る。尤も前に述べた輪蟲などは例外として稍々高等のものであるが、かかるものを除けば、他は大抵構造の頗る簡單なもので、その最も簡單なものに至つては、恰も一滴の油か、一粒の飯の如くで、手足もなければ、臟腑もない。屢々書物で引き合ひに出される「アメーバ」といふ蟲などもその一例であるが、その一例であるが、その他に尚「ざうりむし」、「つりがねむし」、「みどりむし」、「バクテリヤ」などは皆この類に屬する。夜海水を光らせる夜光蟲は、稍々形が大きくて、肉眼でも「數の子」の粒の如くに見え、風の都合で海岸へ多數に吹き寄せられると、水が全體に桃色に見えるほどになるが、これも一疋の體はたゞ一個の細胞から成つて居る。死なぬ生物と稱へられるのは斯やうな單細胞の生物である。

Yakou

[夜光蟲]

 

 この類の生物は、生殖の方法が極めて簡單で、親の身體が二つに割れて二疋の子となるのであるから、何代經ても死骸といふものがない。煮るとか、干すとか、又は毒藥を注ぐとかして、態々殺せば無論死骸が殘るが、自然にまかせて置いたのでは、老耄の結果死んで遺骸を殘すといふ如きことはないから、若しも死骸となることを「死ぬ」と名づけるならば、これらの生物は慥に死なぬものである。普通の生物では死ぬといふことと、死骸を殘すといふこととは常に同一であるから、死ねば必ず死骸が殘るものの如くに思ふが、死ぬとは個體としての生存の消滅することとも考へられる故、この意味からいふと、甲の蟲が二分して乙と丙とになつた時には、甲の蟲は已に死んだといへぬこともない。一例として「アメーバ」類の生活状態を述べて見ると、この蟲は淡水・海水又は濕地の中に住み、身體は柔かくて恰も一滴の油の如く、常に定まつた形はなく流れるが如くに徐々と匐ひ歩き、微細な食物を求めて身體のどこからでも之を食ひ入れ、滋養分を消化した後は、滓(かす)を置き去りにして他處へ匐つて行く。斯くして少しづゝ生長し、一定の大きさに達すると體の中程に縊れた所が生じ、初めは先づ瓢箪の如き形と成り、次には縊れが段々細くなつて、終に柔かい餅を引きちぎるやうに切れて二疋となつてしまふ。これはもと一疋のものが殖えて二疋となるのであるから、慥に一種の生殖には違ひないが、世人が常に見慣れて居る生殖とは異なり、産んだ親の身體と生まれた子の身體との區別がないから、何代經ても親が老いて死ぬといふ如きことが起らず、隨つて死骸が生ずるといふことは決してない。されば若しも死骸となることを死ぬと名づけるならば「アメーバ」は慥に死なぬ生物である。然らば「アメーバ」は昔から今日まで同一の一個體が生存し續けて居るかといへば、勿論決してさやうではない。一疋が分れて二疋となる毎に、前の一疋の生存は終つて新な二疋の生存が始まるのであるから、一個體としての生存の期限は、親が分れて自身が生じたときから、自身が分れて子となるまでの僅に數十時間に過ぎぬ。

Ameba2

[「アメーバ」の分裂]

 

 さて斯やうなものを捕へて、これは死ぬ生物であるとか、死なぬ生物であるとか論ずるのは畢竟言葉の戲で、その原因は人間の言葉の不十分なことに存する。元來、人間の言葉は日常の生活の用を辨ずるために出來たもので、世が進み經驗が増すに隨つて次第に發達し來たつたが、「死」といふ言葉の如きも、もと人間や犬・猫の死をいひ現すために出來たもの故、これと異なつた死にやうをする生物にはその儘には當て嵌まらぬ。世の中には死なぬ生物があるといへば、素人には不思議に聞こえ、隨つて世の注意を引いて評判が高くなるが、實際を見るとたゞ死にやうが違ふといふだけである。從來の不完全な言葉を用ゐて、生物を死ぬものと死なぬものとに分ち、「アメーバ」の如きものを、そのいづれに屬するかと議論することは、殆ど時間を浪費するに過ぎぬかとも思はれるが、凡そ生殖によって個體の數の増加し行く生物ならば、各個體には必ず生存に一定の期限があつて、同一の個體が無限に生存するといふ如きことのないのは慥である。

[やぶちゃん注:「死なぬ生物」そもそも生物学で言う「生物」の定義がここではっきりさせておく必要がある。丘先生は前段でそれを「食うて産んで死ぬ」という明快にして素晴らしい言葉で表現されているが、例えば平凡社の「世界大百科事典」の規定はどうか。『生きもの、つまりいわゆる生命現象を示すものを広く生物というが、何を生物固有の性質と考えるかについては、昔からさまざまな議論があった。例えば、成長こそ生物の本質だといわれる。確かにほとんどすべての生物は成長するが、しかし、明らかに無生物と考えられる鉱物の結晶も成長する。物質代謝が生物の最も主要な性質だとされたこともあった。生物は物質エネルギーを外界からとりこみ,それを自己に同化して成長するとともに,不要となった構成成分を分解して捨てる。これが物質代謝であって、このような活動は無生物にはみられないからである。また物質代謝の結果として,生物は繁殖する。すなわち、自己と同じものを作って増殖していく。そして個体としては傷ついた部分を修復し,また増殖をとおして種を存続させていくなど,自己保存の機能をもっている。これもまた生物に固有の性質である。このような考察から、今日、生物はエネルギー転換を行い、自己増殖し、かつ自己保存の能力をもつ複雑な物質系であると定義されている。もし地球以外の天体にもこのような性質をもつものが見つかったら、それは生物と呼ばれるだろう。』とある(カンマを読点に代えた)。ということはまず、自己保存を志向する能力という規定から、

①自己と外界を区別し、何らかの形で「自己個体」を「個体」として認識する能力を持っていること。

を揚げることが出来よう。同時にそれは、

②エネルギー交換を行って、自己若しくは自己を含む群体を維持するための代謝能力を持っていること。

をも示す。この場合の「代謝」とは、緩歩動物門 Tardigrada のクマムシの如き、数十年単位の恐るべき長期間に亙ると考えられているアンハイドロバイオシス(anhydrobiosis:乾眠)のようなクリプトビオシス(cryptobiosis :隠された生命の活動)のように緩慢なものも含む。そして丘先生の言う「産む」、

③自己を複製する能力を持っていること。

の三つで示されると思われる。丘先生の「食う」は②、「産む」は③であり、「死ぬ」というのは正に「自分が死ぬ」という認識なしには生じない概念であるから自他認識としての①に相当すると私は思う。従って「死ぬ」ことは生物の生物たる由縁でなくてはならぬ。なお現在、「死なぬ生物」として話題に上るものとしては、性的な成熟個体(有性生殖可能な個体)がポリプ期へと退行可能という特異的な周年生活環を持つことで知られる刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目クラバ科ベニクラゲ Turritopsis nutriculaが挙げられる(クラゲ好きの私はその専門書を数冊持っているが)。ウィキの「ベニクラゲ」によれば、『世界中の温帯から熱帯にかけての海域に分布』し、直径四~五ミリの小型のクラゲで、『透けて見える消化器が赤色であるためこう名付けられた。ベニクラゲの形状はベル型で、傘の直径と高さはほぼ等しい。外傘や中膠は均一で薄い。胃は明るい赤色で大きく、横断面は十字型である。若い個体は外縁に沿って』八本程の触手を持つが、成熟個体は八十から九十本の多数の触手を備える。『触手の内側に眼点があり、これも鮮やかな赤』色を示す。通常のライフ・サイクルにあっては『受精卵は胃および外傘の中で発生し、プラヌラ幼生となる。幼生は基物に着生して群体性のポリプを形成する。ポリプは基質上にヒドロ根を広げ、まばらにヒドロ茎を立てる。その先端にはヒドロ花がつく。ヒドロ花は円筒形で、その側面にまばらに触手が出』、ポリプの形成後二日ほどで幼クラゲが個体として離脱、数週間で成熟する。ところがこのベニクラゲの成熟個体はこれとは別に『触手の収縮や外傘の反転、サイズの縮小などを経て再び基物に付着、ポリプとなる』ことが出来、実際に頻繁にそうした現象を見せる。『生活環を逆回転させるこの能力は動物界では稀であり、これによりベニクラゲは個体としての死を免れている。ただし、個々のベニクラゲは、食物連鎖において常に捕食される可能性があり、本種の全ての個体が死を免れている(永遠に生き続ける)ということを意味するものではない』。『有性生殖能を獲得するまでに発生が進んだ個体が未成熟の状態に戻る例は、後生動物としては本種と軟クラゲ目のヤワラクラゲ(Laodicea undulata)で』報告されているだけで、極めて稀な現象で、『動物におけるこのような細胞の再分化は分化転換』トランスデファレンシエイション(transdifferentiation)『と呼ばれる。論理的にはこの過程に制限はなく、これらのクラゲは通常の発生と分化転換を繰り返すことで個体が無限の寿命を持ち得ると予想されている。従って「不老不死(のクラゲ)」と称される場合もある。ただしこれは、老化現象が起こらないわけではなく若い状態に戻るだけなので、より厳密にいえば若返りである』。『この現象は地中海産のベニクラゲで発見され、一九九一年に学会発表されてセンセーションを起こした。その後各地で追試されたが、地中海産のものでしかこの現象は見られなかった。しかし、鹿児島湾で採集された個体も同様の能力を持つことが二〇〇一年にかごしま水族館で確認され』ている(アラビア数字を漢数字に変更した)と、ある。ただ、引用でも示されているように、これは「若返り」の能力を持っているだけで、真に不死、「死なぬ生物」とは言えない。そもそもが最近流行りの生物のDNAヴィークル説に則れば、あらゆる生物は遺伝的に不死だという馬鹿げた理屈にもなろう。やはり「死なぬ生物」はいないのである。「死ぬ」から生物であり、「死なない」生物は「生物」ではないのである。

「アメーバ」肉質虫綱アメーバ目 Amoebida に属する原生動物の総称。淡水・海水・湿土の中、苔類や動物の消化管などに寄生する。単細胞生物で、外側はプラスマレンマ(plasma lemma)という薄膜によって覆われている。原形質は等質で、透明な外質及び顆粒と流動性に富む内質とから成る。内質は核・収縮胞・食胞・ミトコンドリアなどを含む。仮足を出して運動するが、その際は、体の後方にある外質のゲルがゾル化して内質流となり、体の前方に向かって流動、先端部のプラスマレンマが前方に膨らみ、そこで左右に分かれた内質流が膜のすぐ下でゲル化して外質化する形で代謝が起こる。前方へ流出した内質は後端部分のゲルがゾル化して補われるようになっている。こうした原形質流動によって細胞全体を前方に移動させ、仮足を用いて細菌・原生動物・藻類等を採餌している。共生細菌や藻類を体内に共生させている種もある。生殖は通常はここに示されたような二分裂や多分裂で増殖するが、有性生殖をする種も存在する(主に平凡社「世界大百科事典」とウィキペディアに拠る。以下の注も同様)。

「ざうりむし」クロムアルベオラータ界アルベオラータ亜界繊毛虫門貧膜口綱(梁口綱)ゾウリムシ(ミズケムシ)目ペニクルス亜目ゾウリムシ科ゾウリムシParamecium caudatum 及び同目に属する種の総称。英名slipper animacule は体型がスリッパに似ていることに由来し、和名はその訳である。池沼・水溜まりなどに普通に見られ、体は紡錘形で、長さ一七〇~二九〇マイクロメートル。前端は丸く、後端は円錘形状に尖る。全面に繊毛が密生し、体の後端のものは長く、束のように見える。腹面には体長の約半分ほどの口溝があり、採餌物はここを通って細胞咽頭から体内に摂取される。移動には繊毛の運動で体を回転させながら盛んに泳ぐ。生殖には二つの方法があり、一つは体が横分裂で二個体になる無性生殖、今一つは二個体が接合し、分裂によって二つになった小核の一個を相手と交換する有性生殖である。互いに交換した二個の小核は後に癒合して一個の合核になる。その後、小核は何回かの分裂を行い、遺伝的な性質が変えられ、結果、細胞が若返る。           

「つりがねむし」アルベオラータ界繊毛虫門貧膜口綱周毛亜綱ツリガネムシ目ツリガネムシ科ツリガネムシVorticella nebulifera 及び同目に属する種の総称。池沼・水溜まりなどの木・石・ウキクサの根などに着棲する(海産もいる)。ツリガネムシ Vorticella nebulifera は池沼などに棲息し、体長一〇〇~二〇〇マイクロメートルの逆釣鐘形で、下端から体長の四、五倍の柄を生やして他の物に付着している。多数個体が付着した際には灰白色の塊になって視認出来る。体の前端には繊毛が環状に並んでおり、これでプランクトンを採餌する。生殖はゾウリムシと同様。

「みどりむし」エクスカバータ界ユーグレノゾア亜界ユーグレナ植物門(ミドリムシ植物門)ユーグレナ藻(ミドリムシ)綱ユーグレナ(ミドリムシ)目ユーグレナ(ミドリムシ)科ミドリムシ Euglena Ehrenberg 及び同門の属する種の総称。有機物の多い池沼・水溜まりなどに棲息し、時に大繁殖して水の華を形成、水を緑色に変色させることがある。ミドリムシ属は種数が多く、一六七四年のレーウェンフックによる発見以来、現在、一五〇余種、本邦では約二〇種が知られる。多くは体が紡錘形を成す。前端の口部に短い咽頭があり、それが貯胞という内臓器となっており、また、その底部(身体後部)からは一本の長い運動性のある鞭毛が生えていて、これを用いて泳ぐ。体内には一個の赤い眼点のほか、多くの種が葉緑体を持つ(Peranema 属のように葉緑体を持たず捕食生活を行う生物群もある)。鞭毛運動という動物的性質を持ちながら、同時に植物として葉緑体による光合成を行うため、かつてはしばしば動物と植物の中間型生物として挙げられたが、これはミドリムシ植物門が原生動物と緑色藻類との真核共生により成立した生物群であることに拠る。葉緑体は円盤状・帯状・板状・円筒状といった色々な形態をとるが、何れも主要な光合成色素としてのクロロフィル a とクロロフィル b を含み、光合成を行なって白色結晶状のパラミロンと呼ぶ炭水化物を生産する。ミドリムシ類の増殖は体が縦に二分裂する無性生殖で、有性生殖は知られていない。

「バクテリヤ」Bacteria(バクテリア)。真正細菌(放線菌・粘液細菌・スピロヘータなどの分裂菌類を含む場合もある)。単に細菌とも呼ぶ。語源はギリシャ語の「小さな杖」に由来。sn-グリセロール-3-リン酸の脂肪酸エステルから成る細胞膜を持つ原核生物。分類学上のドメインの一つで、古細菌ドメイン、真核生物ドメインとともに全生物界を三分する。真核生物と比較した場合、構造は非常に単純であるが、遙かに多様な代謝系や栄養要求性を示し、生息環境も生物圏と考えられる全ての環境に亙り、その生物量は天文学的である。腸内細菌・発酵細菌・病原細菌と、ヒトとの関わりも深い生物群である。

「夜光蟲」渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ Noctiluca scintillans(ラテン語の「夜」“noctis”+「光る」“lucens”)。暖海の沿岸に普通に見られるプランクトンで浮遊生活をする直径一、二ミリの球形海産単細胞生物。波の動きなどの刺激によってはルシフェリン-ルシフェラーゼ反応による発光をする。体の中心に原形質が集まっており、そこから網目状に原形質糸が周囲に向かって伸びる。体には深く窪んだ溝状の部分があって、その後端から一本の触手を生やす(他に二本の鞭毛を持つが目立たない)。体の中央付近に口部が開く。触手を反復させてプランクトンを採餌する。生体は淡い桃色を呈し、春から初夏に大繁殖して赤潮の元となったりする。体が縦に二分裂する無性生殖と、体内での連続的な核分裂による二五六個の雌雄配偶子が生まれて接合を行う特異な有性生殖も行う。色素体がなく動物的生活をする点で、動物学的には原生動物渦鞭毛虫門(古くは植物性鞭毛虫綱渦鞭毛虫目)に分類されたが、最近では核の構造や配偶子など遊走細胞の形態の類似から植物学的に渦鞭毛植物類に分類される。一般的な渦鞭毛藻類とは異なり、葉緑体を持たず専ら他の生物を捕食する従属栄養性生物であること、細胞核が普通の真核であること、通常細胞では核相が2nの複相であること等、極めて特異的な種と言える。]

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