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2012/07/22

李花   火野葦平

   李花

 

 花はうつくしい。それはだれでも知つてゐる。そこで花を愛する。花が咲く。たそがれの薄靄のなかに、光るやうに白く咲く。風にもろい花ほどうつくしい。李(すもも)の花は風にもろい。李の花はうつくしい。

 

 

 

 山のなかに、なにか、おそろしいものが棲んでゐるといはれる淵があつた。その淵のそばを、みんな避けて通る。夜はたれも通らない。かんかんとなにもかもあきらかに陽(ひ)が照るときだけ、ひとびとはその淵のよこの雜草のしげつた道を通る。そのときでも、なるだけ、山の端(は)に寄つた方を通り、淵に影をうつさないやうに注意をする。道がせまいので、それはなかなかむつかしい。しかし、その淵の道はそんなに長くはないし、駈けぬければ、たいてい危險はない。その淵にゐる魔のものといふのが、頭のはたらきが敏活でなく、間が拔けてゐるものにちがひないといふことは、そのやうに駈けぬければ、たとへあやまつて淵に影を落しても、つかまつたことがないことでわかる。通りすぎたあとで、水のなかからなにか浮きあがる水音がし、奇妙な聲がするのだが、それは振りかへつてみたものがないので、その魔ものの正體はたれも知らない。

 淵に主がゐるといふことは傳説であるが、そのやうな淵になにもゐなくては、その靑々とよどんだ意味ありげな水の色にも、のぼるままに生ひしげつた水邊の葦の葉むらにも、しづかな晝、そのとまつ重味で葦の葉のさきを水にひたし、そこから小さな波紋を淵いつぱいにひろげさせてゆく頭の赤いおはぐろとんぼにも、するどく鳴いて飛ぶよしきりにも、水のうへに浮いてかたまつた朽葉(くちば)にも、――つまり、そのやうに古色蒼然とした淵全體に、なんのうつくしさも、莊嚴(さうごん)さもないのである。なにかゐるといふことによつて、淵はいよいようつくしく、その價値をたかめる。

 河童たらはこの淵の魔ものをおそれた。河童たちはこのやうな立派な淵がありながら、それに棲まなかつた。傳説を尊敬したのである。その淵からすこし離れたたわいもない汚い池に、河童たちはむらがり棲んだ。河童たちの棲んでゐる池は、その淵の五分の一もない。馬の足あとに水のたまつたのにさへ、三千匹は棲息(せいそく)することができるゆゑ、その池がけつして狹くて不自由といふわけではなかつたが、河童たちは、その淵の水の色をうらやんだ。その淵の棲み心地のよさは、水の色を見ればすぐわかる。しかし、河童は傳説の掟(おきて)をつねにまもる。その淵のなかに主がすでに棲んでゐて、その傳説によつて、その淵が高名あるときに、それを攪亂(かうらん)することは、仁義にもとる。また、その淵の主とて、河童たちのゐる池に對してはなんらの意志表示をしないのだ。しかし、ほんたうは、河童たちはその淵をおそれたのである。

 あるとき、池にゐるいつぴきの河童が道をうしなつて、その淵のほとりに出たことがある。うつくしい月にさそはれて、空をとびまはり、うかうかとあそんでゐるうちに疲れたので、地に降りた。そして、ふと氣づくと、日ごろ敬遠してゐた淵が目のまへにあつた。しづかによどんだ黑い淵のまんなかに十六夜の月がはつきりとうつつてゐた。はつとした刹那、自分のすぐ足もとから、くろい小さなものが淵のなかにとびこんだ。ぼちやんと音がして、水面から消えた。その水音はあたりの森にこだました。ところが、その飛びこんだものは、相當のいきほひで水を破つたにもかかはらず、淵の面にうつつた月のかたちは、まつたくくづれず、それは月のかげでなく、月自身がそこにあるやうに、動かなかつた。池の河童はおどろきとおそれとに、からだがふるへ、背の甲羅がしばらくの間がちがちと鳴りやまなかつた。足も自由にうごかず、やつと池にかへりつくことができた。それ以來、池にゐる河童たちに、いつそう、ふかく淵をおそれるこころが兆(きざ)した。

 

 

 

 池の河童たちは、こよなく花を愛した。白い花がうつくしく、また風にもろい花ほどうつくしいことは、はじめに書いたとほりである。李(すもも)の花がうすみどりのさやにつつまれたつぼみをひとつづつやぶつて、いちめんに星をちりばめたやうに吹くと、それは遠くからでもまぶしいくらゐに見える。またそのたとへやうもないふくよかな香りは、風にのせられて、はるかの野のはてにまでひろがる。

 花の好きな池の河童たちは、李の花の咲きみだれるころになると、どうしても、よごれた赤どろの池の底にじつとしてゐることができなかつた。河童たちは、つぎつぎに池をすてて、花のほとりに出た。思ひ思ひに、ひとりづつ、あるひは、二三匹づつつれだちながら、李の花のところへ行つた。

 しかしながら、ここに、ひとつ困つたことがあつた。それは、その李の木のあるところが、魔のゐる淵から、あまりはなれてゐなかつたのだ。そのうへ、李の花のいちばんきれいに咲いてゐるところの見えるのは、もつとも淵に近い場所であつた。そのやうな意地のわるい配置にもかかはらず、河童たちは、なほも花を見に行つた。淵をおそれるこころもさることながら、その花のうつくしさは淵への恐怖さへ征服したのである。また、飛翔(ひしやう)することのできる池の河童たちは、その潤をおそれるこころは深いとはいへ、淵に影をおとすことなしに、迂囘(うかい)して、李の花のところへ行くことができるのである。河童たらは、こころゆくまで花のうつくしさに醉ふことができた。きらめき光るやうな白い李の花のまはりに群れ、その香に醉ひ、うたをうたひ、たはむれた。あまり遠くないところに、鏡のやうに、動かず、淵はしづまりかへつてゐた。毎日のごとく、池の河童たちは、李の花のまはりをさまよひ暮した。

 白い李の花が、その最大のうつくしさを發揮するときが來た。風にもろい花ほどうつくしい。ある日、西の空のなかから吹きおこつて來た風が、李の花を散らしはじめた。ふきおとされる星くづのやうに、あるひは、大束の雪のやうに、ぱつと散りたつ李の花は、はらはらと舞ひながら、吹きあがり、吹きながれて行つた。その落花のさまのうつくしさに、河童たちはどつと歡聲をあげた。花びらは風のまにまにながれ、あまり遠くない淵の方へ、散つて行つた。花びらは、淵の水面にはらはらと落ら、まつ靑な水面に、描かれた模樣のやうにあざやかに浮いた。みるみる靑い淵の面が、花びらで埋められて行つたのである。

 すると、それまでは靜まりかへつてゐた水面が、にはかにざわめきはじめたと思ふと、水面から無數にあたまをもたげたものがあつた。さうして、それらの動物たちは、水面にうかんだ李の花びらをたなごころにすくひ、奇妙なよろこびの聲を發し、どよめきさわいだ。はじめ、李花のほとりにゐた池の河童たちは、花びらが淵の水面に散りおちてゆくときから、ふたたび淵へのおそれのこころが、しだいに胸にわきはじめてゐた。花にみとれて忘れてゐた心におもひいたり、にはかに地に降りたつと、土堤のかげに身をひそめて、恐怖のまなざしをもつて淵の方を凝現した。しかし、その恐怖のこころの底にも、この花に對して、日ごろ、自分たちが尊敬してゐる淵の魔ものが、いかなるふるまひをするのかといふ好奇と期待の心は持つてゐたのである。すると、かつて、一度も見たこともなかつた淵の魔ものが、水面をさわがして姿をあらはした。さうして、その淵の魔ものも、また、花を愛する心においては、すこしもかはりのなかつたことがわかつた。

 このやうにして、池の河童たちと淵の河童たちとの交遊がはじまつた。故もなく、おそれてゐたことが、いまは笑ひばなしとなつた。それはおたがひがすこぶるはにかみやであつたからであらう。淵の魔ものが同じ河童であつたとわかると、それからは、池の河童たちは、われさきに、水のうつくしい淵にあそびに行つた。また淵の河童たちも、池にやつて來た。さうして、よく今までこんな汚い池にゐたものだといつて、皮肉な態度ではなく、その謙虛さと忍耐づよさとを稱揚した。まへに、月の夜、淵の河童が[やぶちゃん注:「池の河童」の誤りであろう。]、水にうつつた月かげを破らずに淵に沈んだことに非常におどろいたことをはなすと、淵の河童は、それは、月のある空からなにかが急に降りて來たので、自分の方がびつくりしたのだと答へ、自由に空をとぶことのできるのを、非常に羨んだ。さうしておのおのの技術をほこらず、兩方の河童たちは仲よくした。しかしながら、この交遊が、また奇妙な倦怠から、いくらか疎遠になることもあつた。それは倦怠ではなかつたかも知れない。他の河童たちは奇妙なもの足りなさにとらはれた。自分たちがおそれてゐた淵の正體がわかつたために、傳説の莊嚴さが失はれたからである。それは、たかが、自分たちと同じ河童であつた。その淵の魔ものがなにかわからぬときに、その傳説を胸いつぱいに持つてゐたときの、緊迫(きんぱく)したこころがどこかへ行つてしまつた索然(さくぜん)たる感覺は、どうにもやりきれぬものであつた。傳説の眞實が實驗でないことは明らかだ。もう淵のそばをおそれて通る必要がなくなつたことが、よろこぶべきことであるとは、たれも考へない。さうして、池の河童たちは、やがて、このやうな結果をもたらす役目を果した李の花びらをも、もう、うつくしいとはたれもいはなくなつたのである。

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