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2012/08/07

詫び證文 火野葦平

   詫び證文

 

 こんな情ないことがあるものか。情ない。情ない。あれからもう一ケ月ほどになるが、まるで今のことのやうに生生しい。實に無念だ。無念だ。思ひだすたび、考へるたび、情なくなつて泣かずにはをられない。もう涙も涸れてしまひさうになつて、眼も焦げつくやうに痛いが、泣くのをやめるわけにはいかない。おれがながした涙で、山國川の水かさがふえたやうだ。おれの悲しみを知つてくれるのはこの川だけだ。……ウワン、ウワーン、キチキチツクウ、ウワン、ウワーン、キチキチツクウ、ウワン、ウワーン、キチキチキチキチキチキチ。……

[やぶちゃん注:「山國川」後でルビが振られているが「やまくにがわ」と読み、大分県と福岡県県境付近を流れる川。大分県中津市山国町英彦山(ひこさん)付近を源流とし、上・中流域の渓谷は耶馬渓と呼ばれ、景勝地として知られる。]

 あツ、だれだ? おれの肩をたたくのは?……これはこれは、人間さんでしたか? 仲間だとばかり思つたものですから、無禮な言葉づかひをいたしました。おゆるし下きい。……なにをそんなに泣いてゐるのかと、おききになるのですか?――わけを話せ、都合では力になつてやらぬでもない、との仰せ、ありがたうございます。あんまり情ないので、泣かずにはをられなかつたのですが、あなたのおやさしいお言葉で、すこし胸がなごみました。親切なおたづねに甘えて、ありのままお話し申しませう。一體どちらが正しいか、御判斷下さつて、わたくしのために一臂(いつぴ)の力をおかし下さいますなら、このうへのよろこびはございません。

 わたくしは、この山國川(やまくにがは)に棲んでをりますケンビキ太郎と申す河童でございます。御承知のとほり、山國川の兩岸は耶馬溪(やばけい)の絶勝になつてをり、いまはまたいちだんと美しい紅葉(こうえふ)のさかりですから、これをおとづれる人たちは連日引きも切らぬありきま、きつと、あなたさまも耶馬の探勝においでなさつたのでありませう。わたくしたら河童も美しいものを愛する心に變りはありませんから、毎年、紅葉のころには胡瓜酒(きうりざけ)を、瓢(ひさご)につめて、秋をたのしむ習慣になつてゐるのですが、……今年は、わたくしは、モミヂどころか、人間に父を殺され、その仇を討つこともできず、あべこべに詫(わ)び證文(じやうもん)を書かされる始末で、あまりの情なさに、毎日、泣いてゐるのでございます。

 亡父は辨金太郎と申しまして、由緒(ゆゐしよ)正しい平家の末流でございました。壇ノ浦で源氏から亡ぼされた平家の一門が、男は平家蟹(へいけがに)となり、女は河童となつたといふ傳承については、あるひはおききおよびのことでもありませうか。能登守能經(のとのかみのりつね)の奧方は海御前(あまごぜ)といふ女河童の總帥として、今でも門司の大積(おほづみ)にがんばつて活躍をしてをりますが、男の方はだらしのない蟹になつて、ただ背の甲羅に口惜しげな無念の形相をあらはしながら、關門海峽の海底にうごめいてゐるだけだといはれてゐます。しかし、これはデマなのです。歴史といふものはいつでもさういふたわいもない誤傳によつて眞實を歪めてしまふものだとされてゐますが、たしかにそのとほりです。はしたない平家蟹などになつたのは雜兵小者ばかりでありまして、氣骨ある一方の旗頭、侍大將などはいち早く滅亡の戰場から脱出し、九州各地に散つて、やはり河童となりました。そのうち、山國川の上流、奧耶馬の淵に繁榮した源太郎坊が、わたくしたちの祖先であります。一門は、後年、筑後川、三隈川(みくまがは)、大野川、源左衞門尻などに移り棲んで行きましたが、わたくしの父辨金太郎は、この山國川の頭目として殘され、その勢力もなみなみならぬものがあつたのであります。毎年、秋が深くなり耶馬溪全體の紅葉が火のやうにもえはじめると、父は部下に命じて胡瓜酒をととのへさせ、盛大の宴を張つて、山國川の秋色を滿喫したものでした。……それなのに、その父が、人間のため、思ひもかけず、あへない最後をとげようとは。……

[やぶちゃん注:「大積」現在の門司区大積(おおつみ)。門司区の北東部に周防灘に面した位置にある。古くは荷卸しの港で、壇ノ浦は企救(きく)半島先端部で丁度、反対側に当たる。

「源左衞門尻」は別府にある源左衛門尻川という川の名。永石川。]

 おゆるし下さい。父のことを考へますと、胸がつまつて思はず言葉がとぎれました。苦しい思ひをこらへて、一部始終をお話し申しあげます。

 一ケ月ほど前の、或るよく晴れた日の朝のことでございました。實は恥もなにもお話しいたさなければ、ほんたうのことがわかつていただけませんので、つつみかくしをせず、なにごとも申しあげますが、父辨金太郎が仲間の頭目となつてをりましたとはいへ、やはり内輪もめがなくもありませんでした。いつの世にも絶えないのは嫉妬の爭ひといはれてをります。父が立派でありましたので、表だつてこれに對抗する者はさすがにありませんでしたが、父をしりぞけて自分が支配者の位置にとつてかはらうといふ野心をいだき、ひそかに陰謀をたくらんでゐた者はあつたのです。それが力量識見においてはなんとしても父にかなひませんので、自然に陰謀は惡質になり、暗殺――といつても、正面からの太刀打ちはできないので、毒殺といふやうな、陰險な方法を練つてゐたやうでした。しかし、父はしつかりしてをりまして、そんないやらしい連中の下手な策謀におちいることもなく、長い年月がすぎたのです。なにかの毒を盛つた酒とか、毒汁を注射した胡瓜や茄子とか、あるひは猛毒を持つた魚――たとへば、河豚とかを父のもとにさしだしましても、父は容易にそれを看破することができましたし、また、父に心服してゐる味方もたくさんあつたわけですから、陰謀家どもはけつして成功するといふことがありませんでした。

 わたくしが河童仲間の不統一についてお話しいたしますのは、父のあへない最後が、やはりこのことに關聯してゐたからに外なりません。その日、空はよく晴れてをりましたのですが、父の心は晴れるどころか、ひどく曇つてをりました。肅淸(しゆくせい)しても肅淸してもあとを絶たない野心家、陰謀家、心のひねくれた者ども――そのときの惡漢の大將は堤(つつみ)の四郎といふ、これは頭はすこぶるわるいのですが、膂力(りよりよく)だけは拔群、これまで河童の歴史にも類のなかつた不世出の大男でありまして、これが父の地位を簒奪(さんだつ)しようと狙つてゐたのです。そのころ、わたくしは父の用務を帶びて筑後川の九千坊一族のもとへ旅してをりましたので、父の死に目にあふことができなかつたのでございますが、わたくしにも、今度こそはこの恐しい堤の四郎のために、父は危險にさらされるかといふ豫感はありました。味方のスパイの報告によりますと、四郎は同志のよりあひの席では、大をな嘴をとがらし、大きな皿をたたき、大きな背の甲羅を鳴らして――やがて辨金太郎の命運も盡き、おれの時代ももう近い、と豪語してをつたさうでございます。かれは毒藥などの姑息(こそく)手段によらず、ぢかに腕力をもつて父をたふす考へのやうでありました。

 父がその日くらい心になつてゐましたのは、四五日前から風邪をひいて、熱もあり、食慾がすすまず、體力も衰へてをりましたので、境の四郎とたたかふことに多少の不安を感じてゐたからでした。父は電流よりもするどい直感力を持つてゐましたから、そのとき、敵が父をたふすために近づいて來つつある氣配をさとつてゐたのです。山國川の曲り角、瀨にせせらぐ水のながれの騷がしいところに、大きな岩がいくつも川のうへに露出してをりますが、その岩のひとつに父は横たはつてをりました。場の四郎が近づいて來るにつれて、殺氣のみなぎつた電波がしだいに強く父のからだにひびいて來ます。父は病氣ではあつても境の四郎に負けない自信はあつたのですが、不安でくらい氣持が拔けなかつたといふのは、やはり身體の衰へと不自由さとのため、萬が一の不覺をとりはしないかといふ懸念があつたからでありませう。その萬が一こそは絶體絶命のものです。父は緊張しいつでもたたかへる姿勢をととのへて、堤の四郎の襲撃を待ちました。

 このとき、どこからか飛び來つた小さな石ころが、父の頭の皿にあたつて、ガラスのこはれるやうな音を立てました。頭の皿は河童の生命です。名門平家の末裔(まつえい)として、源太郎坊から由緒ある血筋をひいて來た山國川河童の大頭日辨金太郎は、あつといふ間もなく絶命してしまひました。……實に、實に、無念とも、無念とも、はかり知れぬことでした。こんなばかげたことがどこにあるか。考へるだに、腸(はらわた)が煮えくりかへる。……いや、思はず興奮してしまつてすみません。父の最後を考へると、自省心をうしなつてしまひます。おゆるし下さい。

[やぶちゃん注:「大頭日辨金太郎」の「日」はママ。「目」の誤植であろう。]

 まつたく父の油斷でした。そのとき、父はただ恨むべき仲間の裏切者のことばかり考へてをりまして、人間の方はすこしも氣がむいてゐませんでした。堤の四郎がするどい眼を光らし、大きな頭の皿いつぱいに水をたたへ、棍棒まがひの大きな腕をさすりさすり、近よつて來る、その西の淵の方にばかり氣をとられてゐましたので、東の方のことはお留守になつてゐたのです。父の命とりとなつた石はその東から飛んで來たのでした。不慮の災難とはまつたくこのことでせう。その石を投げたのはなに者だとお考へになりますか?……わからない?……さうでせう。たれにもわかるはずはありません。それまでなんのゆかりもなかつた人間であつたからです。しかも、別に父辨金太郎を狙つたわけではなく、いたづら半分に投げた石がたまたまその方角にゐた父にあたつたにすぎないのです。下手人は川緣にある眞王寺といふ禪寺の小僧惠欣(けいきん)でした。

 これは後でわかつたことですが、まだ十二歳の意欣は腕白ざかりで、和尚のいふことをきかず、お經の勉強もせず、魚釣りやセミとりが好きで、ほとんど寺にゐたことがなかつたので、その日、和何からたいへんなお眼玉を頂戴してゐたとのことでした。覺道といふ住職は鷹揚(おうやう)な人物だつたさうですが、惠欣のあまりの怠けン坊にさすがに堪忍袋の緒が切れたものでせう。小僧をよびつけると、いつにないきつい語調で――そんなことでは先が思ひやられる。心を入れかへて修業しなければ破門する。……そんな風に説教したもののやうです。寺を追ひだされては困るので、惠欣はそのとき素直に詫びをいひ、ともかく和何の許しを得ましたが、鬱憤は消えやらず心内にわだかまつてゐて、それが石投げとなつたらしいのでした。山國川の岸に出て來た惠欣はそこらに落ちてゐる小石をひろつては、やたらに川のなかに投げこみました。大人なら鬱憤晴らしにいつぱい酒でもひつかけるところでせうが、子供ですから、小石をひろつては――エーイ、和尚さんの馬鹿たれ、和尚さんのわからずや、とかなんとか、一番ごとにつぶやきながら、川にむかつて投げてゐたのです。平べたい石だと水面をすべつて、何段にも飛ぶことがある。それに氣づくと、惠欣は小石投げが面白くなつて、今度は水面を何囘とぶかといふやうなことに興味を感じはじめました。氣の變りやすい子供のこと、さうなると、もう鬱憤よりも石投げ遊びに熱中しはじめて、だんだん大きな石、平べたいするどい石をえらぶやうになりました。その一つが父の頭の皿を割つたのです。

 惠欣には河童の姿は見えず、それが死んでからさへも、自分が河童を殺したことを知りませんでした。そして、石投げにも倦きた樣子で、寺に歸つて行きました。

 河童界がこの大頭目辨金太郎の頓死といふ突發事故のために、大騷動をおこしたことは御想像下さいますでせう。私は電報がまゐりましたので仰天して九千坊のもとを辭し、故郷の川へとんで歸りました。父のむざんな屍骸をながめて慟哭いたしましたが、追つつくことではありません。チチシスの電報をうけとつたときは、てつきり堤の四郎が仇だと直感しましたので、歸つて來ても、私は四郎の言動に注意し、彼が父の死について、悔(くや)みの言葉をのべるのを、なにを白々しいことをいつてゐるか、今に復讐してやるぞと腹の内では齒ぎしりをしてをりました。まつたく堤の四郎の愁歎の樣子は芝居じみてゐるとわたくしには考へられ、この惡虐狡猾(くぎやくかうかつ)な男を八ツ裂きにしてやりたいくらゐにいらだちました。ところが、四郎としてもなにか昏迷(こんめい)にさらされてゐました模樣です。今日こそはと日ごろの念願をたくましい腕一本にこめて、辨金太郎に近づいて行つたのに、あつと思つたとたん目的の金太郎は死んでしまつた。善惡はともかく自分が力一杯にたたかふ相手、を持つことは生き甲斐であり、これをうしなふことには氣拔けを感じるものなのでせうか。もともと金太郎をのぞくことを目的としてゐたくせに、たわいもない人間の小僧の手によつて強敵があつけなくたふれてしまつたことを知ると、奇妙な空虛感、えたいの知れぬ寂寥(せきれう)感におそはれたやうに思はれます。それで嫡子たるわたくしが歸つて來ましたときに――かかる不慮の椿事(ちんじ)によつて、辨金太郎をうしなつたことは殘念無念のこと、自分としても生きる張りをなくした、といつたことは本音であつたかも知れません。しかし、なんといつたつて、堤の四郎にとつてはもつけの幸の出來事、タナからボタ餅といふ諺(ことわざ)は彼のためにあつたやうなものでありまして、長年の念願どほり、父歿後は山國川の宰領は四郎がすることになりました。だから、現在の頭目は境の四郎であるわけです。わたくしがもうすこし年をとつてをりましならば、父のあとを繼ぐことができたのですが、掟にさだめた年功に達してゐなかつたため、衆議は四郎を次期の頭目とすることに決しました。膂力は拔群でも頭のわるい堤の四郎を統率者としていただくことには、無論つよい反對もありました。しかし、いつの世でも暴力は價値です。智力に富んだ父に心服してゐた者たちは堤の四郎のやうな荒くれ男の部下となることを好まなかつたにもかかはらず、多數決で敗北しました。このため民主主義に疑ひを生じた者もあつたやうです。數で正邪をきめることが一見正しいやうでありながら、危險至極であることはわたくしも以前感じたことがありました。十人の考へよりも一人の考への方がはるかに正しい場合があつても、多數決になると正しい考へは葬られてしまふ。十人の狂人のなかに一人の正氣な者がをりますと、狂人たちは――

あいつは氣が變だぞ、氣をつけろ、といふのです。父の腹心で、淀淵の七郎坊は智力膽力ともにすぐれ、武勇にも富んでゐたので、わたくしが成年に達するまでの辨金太郎の後繼者は七郎坊だとする聲も高かつたのですが、やはり堤の四郎の無法な暴力をおそれる者の方が壓倒的に多く、彼が當選いたしました。

 ただ、わたくしはかういふ腹の立つ事態の連續のなかにあつても、血のつながりといふことについては多少心なごむものがありました。それは堤の四郎も、父を殺した眞玉寺の小僧惠欣を河童共同の敵として、復讐をするといふ決議はしてくれたからです。

 或る夜、わたくしは眞玉寺をおとづれました。紅葉が燃えるやうに耶馬(やば)の溪谷(けいこく)を染め、枯葉が黄金のやうに散りしいてゐる山の道はうつくしく月光に照りはえてをりましたが、わたくしの心はもはやそんな風景などには向きません。さへづる夜鳥の聲も秋の夜の風情といふよりは――ケンビキ太郎よ、早く父の仇を討て、といふ激勵になつてきこえるほどです。古い由緒を持つ眞玉寺は亭々とそそりたつ杉林のなかにあつて、その杉の暗い梢には寶石をちりばめたやうに梟(ふくろふ)の眼があちこち光つてをりました。その眼さへわたくしには――ケンビキ太郎よ、お前が仇を討つのを見まもつてゐるぞ、といふ風に見えます。

 覺道和尚はあたかも弘法大師を想像させるやうな人品骨柄いやしからぬ僚侶でしたが、わたくしの申し出に對しては、憎々しげに、また、嘲笑するやうに、鼻であしらひました。わたくしはまことを面にあらはし、涙さへうかべて父をうしなつた悲しみを述べたのです。そして申しました――小僧の惠欣をわたくしへおわたし願ひたい。山國川で河童裁判がおこなはれ、殺人ををかした惠欣の處分をすることになつてゐます。いやしくも他人の生命を絶つた者には、それ相應の報いがなくてはなりません。おまけに、惠欣は佛に仕へる身でありながら、……わたくしがここまで申しましたとき、覺道は全身をゆすつて高らかに哄笑(こうせう)いたしました。そして、彼はいひます――辨金太郎が死んだのは天罰ぢや。いや、佛罰かも知れん。大體河童どもは常日ごろ人間に害をなして怪しからん。わしもこの近郊の住民たちからいくたびその苦情をきかされたかわからん。子供を川へ引きこむ。尻子玉(しりこだま)を拔く。ときには馬や牛まで引つぱりこみ、畑を荒し、人間に角力(すまふ)をいどんでこれを不具者にする。近來は河童も助平になりをつて、人間の婦女子にいたづらをする。いまその頭目辨金太郎が、……その方のオヤヂかなにかは知らぬが……わが愛弟子惠欣によつて退治されたるは天命ぢや。それなのに惠欣をわたせなどといふは逆うらみ、絶對にさやうなことはできぬから、早早に立ちかへれ。……かういふ調子でとりつく島もないのです。人間に害をなしてゐるのは下賤の河童どもであつて、いやしくも高貴な平家のながれをくむわれわれ一門は、けつして人間に危害を加へたことはないといくらいつても、和尚はききません。それどころか、あべこべにわたくしを罵倒する始末なので、やむなくその夜は引きあげました。

 このことをかへつて報告いたしますと、仲間もみんな憤慨しました。そして、今後の對策を練つたのですが、甲論乙駁(かふろんおつばく)、容易に結論が出ません。しかし、かういふときにも本心といふものは露出するものとみえ、はじめは父へ同情してゐるかと思はれた堤の四郎一派は、だんだん面倒くさくなつて來た樣子で、一人去り二人去り、最後まで復讐の協議のため、川底にのこつたのは、いつか淀淵の七郎坊一黨だけになつてゐました。でも、このうへ堤の四郎の不信實をののしつてみたところではじまらないことですから、結局氣心の合つた同志だけで、膝つきあはせて案を練つたのです。なかなかうまい方法が見つからず、夜陰をすぎ、いつか明けがたになつてしまひました。天井になつてゐる水面が螢光燈のやうにぼうと靑白くなつて來たので、朝が來たことを知りましたが、そのときになつてはじめて、岩の六郎坊といふ、もう年齡さへわからないほどの元老格の河童が一つの案を提出しました。それは――惠欣をわたさないといふなら、その小僧をわれらの神通力によつて發狂させてしまはうといふのでした。みんなそれに賛成いたしました。

 恥かしながら、わたくしはまだ若くて、人間の神經を狂はせる呪禁(まじなひ)の方法を知りませんでした。いや、わたくしのみではなく多くの者が知りませんでした。ただ賴りは元老の六郎坊です。その翌日からわたくしどもは奧耶馬の白蛇ヶ淵の底にこもり、妖しい祈禱をはじめることになりました。ゲンゴロウ、ミヅスマシ、カブトムシ、カミキリムシなど、そんな尾昆蟲が材料のやうでしたが、六郎坊は奇妙な臭氣のただよふ粉末をこしらへて、それにドロドロした靑苔の汁をそそぎ、これを生きてゐる山椒魚(さんせううを)の背中にのせて、不思議な呪文をとなへるのでした。ただわたくしたちは六郎坊の指示にしたがつたのです。一心不亂でした。とくに、父の仇を討ちたい一念で、わたくしが、夢中だつたことは御推察下さるでせう。仲間も熱心に協力してくれました。一日、二日、三日とすぎました。わたくしは小さいときから六郎坊に可愛がられて來たのですが、このときほど彼を恐しいと思つたことはありません。老いさらばへた六郎坊の皺だらけの顏は、鬼のやうな形相を呈し、だらりとたれた嘴は、巨大なイソギンチヤクのやうに開閉して、不氣味な祈りの言葉をつぶやきます。奧ふかくに光る三角眼はぞつとする靑白い光をたたへ、丼鉢(どんぶりばち)のやうな深く大きい皿には、落葉色の液體がたまつてゐて、祈禱に熱中して頭をふるたび、ドポドポと變てこな音を立てます。これが、わたくしを、おんぶしたり肩車をして可愛がつてくれた好好爺(かうかうや)の六郎坊かと、いくたびとなくわたくしは眼をうたがつたほどでした。正邪は拔きにして、人を呪ふといふ非道の執念が、かういふすさまじい變化をつくりだすのでせうか。わたくしとて自分の姿を想像して、われながら慄然(りつぜん)とする瞬間もありました。

 しかし、わたくしどもの一念は成就したのです。眞玉寺の小僧惠欣は、わたくしどもが白蛇ケ淵にこもりはじめて三日目ごろから、氣が變になりはじめ、囈言(うはごと)をいふやうになりました。わたくしの怨念(をんねん)がのりうつつて――ころした父を返せ、父をころしたのは誰ぢや? お前ぢや。父を返せ。……などと口走つては木魚をたたく撥(ばち)をふりまはして、覺道和尚を追ひまはすやうになつたのです。これが嵩じて行けば發狂し、つひには死にいたることもあるわけですので、わたくしどもの復讐も成就することになります。斥候(せきこう)がつねに偵察に行つては、惠欣の症状を報告して來ます。それをきくと日一日狂態ぶりがはげしくなつてをることが明瞭でしたので、いよいよ白蛇ケ淵では祈禱が本格的になりました。六郎坊はわたくしをふりかへり――ケンビキ太郎よ、安心せよ、憎い仇惠欣を呪ひころせるのももう數日の後ぢやぞ、といひました。わたくしはそれをきいて無論よろこばしいと思ひましたが、それよりもそのときの六郎坊の恐しい形相の方に、ぞつといたしました。さらにニタツと笑はれて、全身が冷えあがる思ひでした。

 はじめ堤の四郎は六郎坊の神通力をばかにしてをつたやうです。あんなオイボレにそんな藝當ができるもんか、あいつは低能で、意氣地なしで、怠け者で、とり得といへば、ただ年をとつてゐるだけだといつてゐたさうです。しかし、案に相違して效果を發揮しはじめたと知ると、急にまたわれわれに近づいて來て、祈禱の仲間に加はりました。大願成就のあかつきに自分たちも協力したといふ證明が欲しかつたのでありませう。しかし、六郎坊をはじめ最初からの同志はもうそんなオポチュストたちには眼もくれず、最後の仕上げのための馬力をかけました。

 ところが、意外のことが持ちあがつたのです。斥候の通報によると、惠欣の狂態がすこしづつ恢復しはじめたといふのでした。そして數日後にはもはやまつたく全快したといふ報告が來ました。六郎坊はいふまでもなく、わたくしたち一同、驚愕と焦躁とに、ゐても立つてもをられぬ思ひでしたが、現實はいかんともすることができません。氣がつくと、いつの間にか堤の四郎一派は消え去つてゐましたので、惠欣快復の原因は不純な四郎一派が祈禱に加はつたからだと激昂する者もありました。わたくしもはじめはさうにちがひないと思ひました。かへすがへすも憎むべき四郎だと齒ぎしりしたのです。しかし、さうではありませんでした。やはり法力の問題なのでした。岩の六郎坊が沈痛な面持で申しました――人間の法力、いや佛法の加持(かぢ)に敗けた。覺道和尚はぼんくらぢやが、眞玉寺の本山、中津にある自性寺の名僧、十三世海門和尚が惠欣のため眞玉寺に出張つて、呪法調伏の加持祈禱(かぢきたう)をはじめた。殘念ぢやが、その高僧の祕法にはかなはん。もはや、わしの力は盡きた。……さういつて泣きだしましたが、わたくしどもも無論これをなぐさめる言葉などあるわけはありません。ただともどもに泣いたのです。……この氣持、おわかりでせうか。河童一同こころから人間を恐れ憎みましたけれども、能力の差は絶對的で、いかんともする術がなかつたのです。

[やぶちゃん注:「自性寺」大分県中津市新魚町にある臨済宗妙心寺派の金剛山自性禅寺。奥平藩歴代菩提寺で、天正五(一五七七)年、三河国に梅心宗鉄禅師を開山として金剛山万松寺として創建された。その後、藩転封に随って移り、享保2(1717)年に現在の地に収まった。延享二(一七四五)年、自性寺に改称している。池大雅所縁の寺で、敷地内には彼の書画を展示した大雅堂がある。

「十三世海門和尚」白隠禅師のであった自性寺十二世堤洲和尚の法嗣。本話のモデルとなった「河童の詫び證文」の伝承で現在も知られる名僧。]

 絶望のはて、わたくしは思慮をうしなひました。なんとしてでも父の仇を計ちたい一念から、つひに意を決して、或る夜、ふたたび單身で眞王寺に乘りこんだのです。前のときはただ話しあひ、惠欣引きわたしの交渉をしに行つたのでありますから、おだやかにわたくしの方も面會し、覺道和尚も表面はなにげない風で迎へてくれましたが、こんどは事情が一變してをります。正面きつたたたかひ、惠欣呪縛(じゆばく)のあとですから、わたくしが惠欣に面會をもとめたところで逢はせてくれるはずはありません。わたくしは夜盜のやうに足音を忍ばせ、そつと庫裡(くり)に近づきました。かねて斥候の報告で、惠欣は外出を禁止され庫裡の一間に寢泊りしてゐることを知つてゐたからです。もはや錯亂にちかい心理状態にあつたわたくしは惠欣を見つけ次第、その場で八ツ裂きにしてやりたいくらゐの瞋意(しんい)の情に燃え狂つてゐたのでした。その夜も生ひしげつた杉林のなかで夜鳥がさへずり、梟が眼を光らせてをりました。そして、その鳥たちは――ケンビキ太郎の間拔け野郎、と嘲笑し、梟はつめたく白い眼つきでわたくしを輕蔑しあざ笑つてゐるやうに思はれました。前のときのやうに月はなく、星も見えず不吉な暗黑の空は重苦しく頭上から壓して來るやうです。

 なんといふ不覺か――いや、不覺ではなく、やつぱり人間の智惠の方が河童よりも上手(うはて)なのか、わたくしは庫裡ちかくにある一本の玉大な蘇鐡のかげからそつと出ようとしたとき、いきなり人間の腕につかまれて地面へおさへつけられてしまひました。おどろきました。身うごきができないのです。わたくしども河童の身體には數ケ所の急所がありますが、生命の根源たる頭の皿以外は、まづ背の甲羅の六枚目です。……これです。ここの甲羅を指でつかまれましたならば、まるで魔法でもかけられたやうに、全然自由がきかないばかりか、長くさうしてをられますと、氣分がわるくなり、嘔(は)き氣がして來て悶絶することが往々あります。わるくするとそのまま絶命してしまふ場合がないとはいへません。しかし、このことは河童の重大祕密に屬することで、人間にわかつてゐるはずはないのですが、どうしてわたくしをとりおさへた人間が知つてゐたのでせうか。わたくしは苦しくなりながらも下からその人間を見あげました。それは覺道和何でなく見知らぬ白眉白髯(はくびはくせん)の老僧でした。ああこの坊主が名僧といはれてゐる海門和尚だなとわたくしは氣づき、六郎坊の呪縛を苦もなくほどいてのけたこの僧をおそれる心がきざしました。この博學廣識の僧侶はたれ知るはずもない河童の急所、六枚目の甲羅のことをふかい學問の末に知悉してゐたものと見えます。わたくしは口惜しく情なく泣きたくなりました。といつて、逃れることも出來ません。

 海門和尚はわたくしの甲羅をにぎつたまま申します――不屈千萬の河童奴、命が惜しいなら、わしのいふことを聞け。いつかお前がやつて來るくらゐのことはこのわしにはわかつてをつたんぢや。今後のこらしめのために待つてをつた。さあ、詫び澄文を書け。そしたら許してやる。わしのいふとほりに書けばええんぢや。……わたくしがなんの惡いことをしたといふのか。惡いのは人間ではないか。詫び證文を書かなければならぬのは人間の方ではないか。こちらが詫び證文を書く理由などはない。あべこべだ。……さうは思ひましたが、お察し下さい。急所をおさへられ、氣分がわるくなり嘔き氣さへして來ましたので、わたくしはつひに海門和尚の理不盡な強請にしたがふほかはなかつたのです。不甲斐のないことですが、命にはかへられませんでした。ちやんと海門和尚は硯(すずり)と紙を用意してゐます。そして、わたくしに筆をにぎらせ――さあ、書けと、その文句を口述するのでした――「自性寺に法華經を上げておくれなさい。此後人に災ひ致すまい。御座敷は不及申、中津中はもちろん山國川べりの人に皆災ひ致すまい。御子供方にも災ひいたすまい。おとなにも致すまい。災ひいたしたる時は如何なる目にあはさるるも苦情はいふまい。天明六年十一月十六日、ケンピキ太郎廿二歳」……

[やぶちゃん注:「不屈千萬」はママ。「不屈」は「不屆」の誤植であろう。]

 お察し下さいませ。こんな情ないことが世にありませうか。理由もない詫び證文を書いてわたくしはやつと釋放されましたが、仲間からはさんざんに嘲笑されました。しかし、河童の生命の急所、甲羅の六枚目をつかまれて、どんな河童が人間の要求をしりぞけることができるでせうか。最近、きくところによりますと、自性寺ではわたくしの書きました詫び記文が評判になりまして、見物が殺到し寺は大儲けをしてゐるとのことです。それまではさびしい寺だつたのに、河童の詫び證文が珍しい觀光資源になつたわけでせう。こんな屈辱があるでせうか?

 あッ、なにをなさるのです?……アイタ、……あ、ウウム、‥…痛い。……放して下さい。…その甲羅の六枚目をつかまれては。……なに?――おれにも詫び澄文を書け? とんでもない。なんのためにあなたに詫びなければならぬことがあるのです?……ア、ア、……ア、ウウム、苦しい。……氣分がわるくなつた。氣が遠くなりさうだ。……書きます。書きます。……これでよろしいですか。……ああ、死にさうだつた。強慾な人間奴、大ゐばりで行つてしまひをつた。きつと、あれを見世物にして一儲けするつもりにちがひない。ああ泣きたい。

 こんな情ないことがあるものか。情ない。情ない。實に無念だ。無念だ。考へると情なくなつて泣かずにはをられない。もう涙も涸れてしまつて、眼も焦げつくやうに痛いが、泣くのをやめるわけにはいかない。おれがながした涙で、山國川の水かさがふえたやうだ。おれの悲しみを知つてくれるのはこの川だけだ。……ウワン、ウワーン、キチキチツクウ、ウワン、ウワーン、キチキチツクウ、ウワン、ウワーン、キチキチキチキチキチ。……

 あツ、だれだ? おれの肩をたたくのは?……これはこれは人間さんでしたか? 仲間だとばかり思つたものですから無禮な言葉づかひをいたしました。おゆるし下さい。……なにをそんなに泣いてゐるのかと、おききになるのですか?――わけを話せ、都合では力になつてやらぬでもない、との仰せ、ありがたうございます。あんまり情ないので泣かずにはをられなかつたのですが、あなたのおやきしいお言葉で、すこし胸がなごみました。親切なおたづねに甘えて、ありのままお話し申しませう。一體どちらが正しいか、御判斷下さつて、わたくしのために一臂(いつぴ)の力をおかし下さいますなら、このうへのよろこびはございません。

 わたくしは、この山國川に棲んでをりますケンビキ太郎と申す河童でございます。御承知のとほり、山國川の兩岸は耶馬漢の絶勝になつてをり、いまはまたいちだんと美しい紅葉のさかりですから、これをおとづれる人たちは連日引きも切らぬありさま、きつと、あなたさまも耶馬の探勝においでになつたのでありませう。わたくしたち河童も美しいものを愛する心に變りはありませんから、毎年、紅葉のころには胡瓜酒を瓢につめて、秋をたのしむ習慣になつてゐるのですが……、今年は、わたくしは、モミヂどころか、人間に父を殺され、その仇を討つこともできず、あべこべに、詫び證文を書かされる始末で、あまりの情なきに、毎日、泣いてゐるのでございます。おまけに、いま、また、ひどい目にあひまして。……

 亡父は辨金太郎と申しまして、由緒正しい平家の末流でございました。壇の浦で漁民から亡ぼされた平家の一門が、男は平家蟹となり、女は河童になつたといふ傳承については……

[やぶちゃん注:「亡ぼされた」は底本「亡ばされた」。これはリフレインで誤植が明白なので訂した。

本話のモデルとなった「河童の詫び證文」伝承及び自性寺の関連画像は、例えば「おにぎり太郎」氏のブログ「九州大図鑑」の「自性寺にある河童の墓と詫び証文」や、「菜花のお宿」のおかみさんの「鬼と仏の国東半島めぐり」の中津―自性寺に詳しい。是非、御一読あれかし。因みに、「おにぎり太郎」氏の方にある、自性寺伝来のものと思われる『河童の詫証文』をコピー・ペーストしておく(本作にはないが、この河童は僧だけでなく、中津の女性にもとり憑いたとされる)。

 

自性寺に法華経を上げておくれなさい。皆々参りさっぱりと退きまする。この後人に災い致すまい。御屋敷内は不及申中津中の人に皆わざはひ致すまい、大人にも致すまい。私の気分はさっぱりと退時にようなり右女へ再障り不申間敷右証相書き私はじめ四捨人の者とも魚床殺害から後日事、野辺書仕間敷候、詫証文の件

天明六年六月十五日 ケンヒキ太郎 廿二

 

……それにしても……私は本作を読むと、このケンビキ太郎が可哀そうでならなくなる……暗澹たる気持ちになってくる……本作は戦前の作と思われるが……私は本作の持つ強烈なアイロニーが、戦後日本を強烈に照射しているように感じられてならないのである。……]

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