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2012/09/05

耳嚢 巻之五 菊蟲の事

 菊蟲の事

 

 攝州岸和田の侍屋敷の井戸より、寛政七年の比夥しく靈蟲出て飛馳(とびはせ)りしを捕へ見れば、玉蟲こがね蟲の樣成(やうなる)形にて、巨細(こさい)に蟲眼鏡にて是を見れば、女の形にて手を後ろ手にしてありし由。素外(そがい)と云る俳諧の宗匠行脚の時、一ツニツ懷にして江府(かうふ)へ來り知音の者に見せけるを、予が許へ來る者も顯然と見たる由かたりぬ。信當といへる宗匠も一ツ貰ひて仕廻置(しまはしおき)、翌寅(とら)の春人に見せるとて取出しけるに、蝶と化して飛行しと也。右は元祿の比靑山家尼ケ崎在城の時、右家士に喜多玄蕃(きたげんば)といひて家藏少からず給りし者の妻、甚(はなはだ)妬毒(とどく)ふかく、菊といへる女を玄蕃心を懸て召仕ひしを憤りて、食椀(めしわん)の中に密(ひそか)に針を入て右菊に配膳させしを、玄蕃食(を)しかゝりて大に怒りければ、菊が仕業なる由彼妻讒言せし故、玄事情なくも菊を縛りて古井戸へ逆さまに打込み殺しけるより、下女の母も聞て倶に右井戸の内へ入て死せし由。其後右玄蕃が家は絶しとかや。今は領主もかわりて年經けるが、去年は百年忌にあたりしが、怨念の殘りて靈蟲と變じけるや。播州皿屋敷といへる淨瑠璃などありしが、右の事にもとづき作りけるやと、彼物語せし人の申き。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。三つ前の「毒蝶の事」の昆虫譚で連関。播州姫路を舞台とする「播州皿屋敷」、江戸番町を舞台とする「番町皿屋敷」及びそれを素材とする浄瑠璃・歌舞伎などで人口に膾炙する、お菊という女の亡霊が皿を数える皿屋敷怪談の類話で、亡魂化生の後日譚。特定原話は確認されていないが、皿屋敷譚の基本形及びそのヴァリエーションはウィキの「皿屋敷」に詳しい。よく知られた話でもあり、本話はまた、四つ後の「菊蟲再談の事」でも分かるように、同怪異譚の本筋ではなく、霊虫としてのお菊虫が専らターゲットになった面白い採録である。なお、カッチンカチャリコズンバラリン氏のブログ「怪談をゆく」の「怪道vol.54 播州お菊めぐり(下)」の堤邦彦講演の記録によれば、『お菊虫の伝承は関西圏を中心とした西日本に分布が見られるが、関東圏では全くな』く、それらが「桃山人夜話」『のような関西系の画家が描くものと、江戸の北斎や月岡芳年が描くものとの差になっているのだろう』という見解が示されていて、興味深い。

・「菊蟲」は一般にチョウ目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科キシタアゲハ族ジャコウアゲハ Byasa alcinous の蛹を指す。本文にもある通り、その形状が後ろ手に縛られた女性のような姿をしていることに由来する。従って「飛馳りし」や「玉蟲こがね蟲の樣成形という冒頭の記載は不審である。勿論、飛ばないし、タマムシやコガネムシにその色や形状は全く似ていない。後の「菊蟲再談の事」の記載(『前に聞し形とは少し違ひて』とある)で分かるように、こちら記載時には、根岸は現物を見ておらず、ここは伝聞による誤記載と考えてよい(再談は実見による補正記事である)。

・「攝州岸和田」現在の大阪府岸和田市であるが、岸和田は摂津国ではなく、和泉国であるから泉州でなくてはおかしい。訳では訂した。

・「寛政七年」西暦一七九五年。この年にお菊虫が大発生した記載は多く、岩波版長谷川氏注には「譚海」の十をまず挙げ、底本の鈴木氏注では、太田南畝の「石楠堂(せきなんどう)随筆」(寛政一二(一八〇〇)年~享和元(一八〇一)年筆)に、その虫を『尼ヶ崎藩家老木田玄蕃が殺した下婢菊の亡魂』の化生とし、『約百年後の寛政七年夏に、お菊が投身した』(「投身」とあるのは「番町皿屋敷」系の自殺説を採っている)『廃井から、女が裸体で縛られた形の小虫がおびただしく出て、木の葉や細枝について死んだとあ』り(蛹化から羽化を死んだと誤認したか若しくは大発生による餌不足や病気などによるか)、『本書に岸和田とあるのと異なる』とし、更に幕末の大坂の人気戯作者暁鐘成(あかつきかねなり)の随筆自画集「雲錦随筆」(文久二(一八六二)年刊)の二を以下のように引用されている。『寛政七年卯どしお菊虫といひてもてはやせり。世俗にお菊の年忌毎に出づると言へり。是れ妄誕の甚しきなり。漢名を蛹といふて、毛虫などの蝶にならんとする前に、先づかくの形に変れり。蚕もこれに同じ、何処にも多き物なり。必ず迷ふべからず』これは完全変態まで説明して素晴らしい。最後に氏は、『もともとお菊という名が、下級の信仰宣布に携わる女性名である点に問題の所在があるとする説もある』と記されている。これは恐らく折口信夫の仮説で、本邦に於いて虐殺される女性の名には「おきく」という名が多いとし、御霊信仰や白山信仰、井戸―水―おきくの関連を示唆している。なお、長谷川氏の注には「譚海」と「石楠堂随筆」の発生現場を尼ヶ崎の源正院境内の廃井とするとあり、「譚海」を確認したが、確かに「源正院」とある。しかし、現在、尼ヶ崎に源正院という寺はない。ところが、これについては、私の小学生の時からの愛読書である今野圓輔氏の「日本怪談集―幽霊編―」の「第六章 浮かばれざる霊」に、には、三田村鳶魚「江戸ばなし」(昭和四一(一九六六)年青蛙房刊)から引用してお菊を死に追いやった『木田は改易になった。その屋敷は妖怪の崇りを恐れて誰も住む者もない』。『やがて青山家は国替えになって松平遠州侯が来られ、新しい尼ヶ崎侯は木田の廃宅へ源正院という菩提所を建てられたので、怨霊も仏化を蒙ったとみえて、その後は怪しい事もなかったが、源正院の地中へは菊を植えても花が咲かない』。『寛政七年の夏に至り、木田の旧邸の廃井から、女が裸体で縛られた様をした小虫がおびただしく出て、木の葉や細い柄について死んでいる。それを寺僧が不思議がって城主に獻上した』という叙述を発見した。問題はこの『松平遠州侯が来られ、新しい尼ヶ崎侯は木田の廃宅へ源正院という菩提所を建てられた』という部分である。松平遠州侯とは松平忠喬(ただたか 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のことで、正徳元(一七一一)年尼崎に入封し、先代忠倶の菩提を弔うために尼ヶ崎大物町に「深正院(じんしょういん)」という浄土宗の寺を建立している。そこで調べると、ドンピシャリ、山神一子氏の「尼の散歩道」によって、これが因縁の井戸のある寺の正しい名であることが判明した。リンク先をご覧あれ。

・「靈蟲」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『異虫』とする。総てを数え上げることはしないが、本話はバークレー校版とでは文字の異同が多い。

・「素外」谷素外(たにそがい 享保二(一七一七)年~文化六(一八〇九)年)。俳人。談林派七世。一陽井と号す。本姓は池田で大阪鰻谷の商家出身。建部綾足の門下で俳諧を学び、後に江戸に出て談林派に転じて七世宗家を継いだ。摂津尼崎藩第三代藩主松平忠告(ただつぐ)など、多くの門人を育てて寛政期の文化に大きな影響を与えた。日本浮世絵博物館旧館長酒井藤吉氏は東洲斎写楽の正体の一人とする説を唱えておられる(以上はウィキの「谷素外」に拠る)。

・「翌寅(とら)の春」寛政八(一七九六)年の春ということになるが、寛政八年の干支は丙辰(きのとたつ)で、寛政の寅年は前年である。こうした話柄で干支を誤るのは偽説の謗りを免れなくなるので、根岸のために訳では「辰」に訂した。

・「信當」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『津富』とする。不詳。

・「仕廻置」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『仕舞置』とするのを採る。

・「元祿の比」岩波版長谷川氏注に、先に掲げた「譚海」「石楠花堂随筆」『に元禄九年』(西暦一六九四年)『とする。以下の話は玄蕃妻の妬心以外は右二書にほぼ同じ。喜多を木田とする』とある。

・「靑山家」当時の藩主は第三代青山幸督(よしまさ 寛文五(一六六五)年~宝永七年(一七一〇)年)。青山家は幸督長男で第四代藩主幸秀(よしひで)の時、宝永八(一七一一)年、信濃飯山藩に移封となっている。

・「播州皿屋敷」まず、ウィキの「皿屋敷」より原話について引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。

『播州における皿屋敷伝説を代表するものとして『播州皿屋敷実録』が挙げられる。この筆者は明らかではない』。『永正年間(つまり現在の姫路城が出来る前)、姫路城第九代城主小寺則職の家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る。乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四朗に調査するように命令した。程なく弾四朗は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四朗は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四朗は、お菊が管理を委任されていた十枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後三百年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる』(「永正年間」は西暦一五〇四年から一五二一年で、その「三百年後」となると、本話柄より少し後の文化元・享和四(一八〇四)年から文政四(一八二一)年に相当)。『バリエーションとして以下のような物もある。

 お菊は衣笠元信なる忠臣の妾で、鉄山を討ったのは衣笠であったというもの。

 お菊は船瀬三平なる忠臣の妻で、お菊の呪いが鉄山を滅ぼしたというもの。

 お菊の最後の姿に似た「お菊虫」なる怪物によって鉄山が殺されたというもの。

これは小寺・青山の対立という史実を元に脚色された物と考えられている。しかし登場人物の没年や続柄などにおいて史実との矛盾が多く、『姫路城史』では好事家の戯作であると指摘している』。『他にも、播州佐用郡の春名忠成による『西播怪談実記』(一七五四年(宝暦四年))や姫路同心町の福本勇次(村翁)編纂の『村翁夜話集』(天明年間)などに同様の話が記されている』。『姫路城の本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する』(そして以下に本話柄と関連する記事が現われる)。『お菊虫の元になったのは一七九五年に大量発生したジャコウアゲハのサナギではないかと考えられている。サナギの外見が女性が後ろ手に縛り上げられた姿を連想させることによる』(一七九五年は正に寛政七年)。『このことと、最初の姫路藩主池田氏の家紋が平家由来の揚羽蝶であることとにちなんで、姫路市では一九八九年にジャコウアゲハを市蝶として定めた』。『また十二所神社では戦前に「お菊虫」と称してジャコウアゲハのサナギを箱に収めて土産物として売っていたことがあり』、志賀直哉の「暗夜行路」『にも主人公がお菊虫を買い求めるくだりがある』とある。

 因みに、この「暗夜行路」の下りというのは前篇の「第二」の「九」で、京都へ出向く時任謙作が急行待ちで降りた姫路で、休息のために停車場前の宿屋を借り、俥を飛ばして白鷺城を見物した後のシーンに現れる。帰り道、車夫は彼を十二所前町の十二所神社、通称お菊神社へ連れて行く(引用は岩波版新書版全集に拠った)。

彼はお菊神社といふのに連れて行かれた。もう夜だつた。彼は歩いて暗い境内を只一ト廻りして、其處を出た。お菊蟲(きくむし)といふ、お菊の怨霊(をんりやう)の蟲になつたものが、毎年(まいねん)秋の末になると境内の木の枝に下るといふやうな話をした。

 明珍(みやうちん)の火箸は宿で賣ると聞いて、彼は其儘俥を宿の方へ引き返さした。彼は宿屋で何本かの火箸と、お菊蟲とを買つた。その蟲に就いては口紅をつけたお菊が後手(うしろで)に縛られて、釣下(つるさ)げられた所だと番頭が説明した。

「明珍の火箸」(姫路藩十九世紀頃の姫路藩主酒井家などに仕えていた明珍家(知られた甲冑師一族)が作り始めた火箸。姫路の名産であったが、火箸の需要がなくなった現在ではこれを利用した風鈴が新名産となっている)は出がけにお榮(謙作の実父である祖父の愛人で、祖父の死後、謙作と同居して家事の世話をしている女性)から頼まれたもの。この叙述で面白いのは謙作が自発的にお菊虫を買っていること、謙作の見るお菊虫には本作の描く女性観が反映されていると思われること、更に、当時は姫路市内のいろいろな場所で名産として「お菊虫」が販売されていた事実である。

 浄瑠璃の「播州皿屋敷」為永太郎兵衛・浅田一鳥作で、寛保元(一七四一)年に大坂豊竹座で初演され、大当たりとなった。定番怪談として人口に膾炙する皿屋敷物の嚆矢と言える。内容は皿屋敷の怪異譚に細川家の御家騒動を絡ませて潤色したもの。岩波版長谷川氏は更に、菊岡沾凉(せんりよう)の江戸地誌「江戸砂子」(享保一七(一七三二)年)の一に『牛込御門内の皿屋敷の伝えをのせ、番町皿屋敷の早期の所出』とする、番町皿屋敷の梗概は……これ以上、注していると何時まで経っても現代語訳が出来ない。各自でウィキの「皿屋敷」などを参照されたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 菊虫の事

 

 寛政七年の頃、和泉国岸和田の武家屋敷の井戸より、妖しき虫が夥しく発生、辺りを飛び回るのを捕らえてみると、玉虫か黄金虫のようなる形の虫にして、虫眼鏡を用いて細部を観察してみると、それは女の姿形にそっくりで、しかも手を後ろ手に縛られた格好に酷似しているとの由。

 素外(そがい)という俳諧の宗匠が、行脚の途次、当地岸和田にて見つけ、一つ二つ、懐にして江戸へ持ち来たったものを、知れる者に見せたのであるが、その連中の中に私の許へ来たる者も御座って、

「……確かに文字通り、そうした形のものにて……我ら、はっきりと見申した。……」

と語って御座った。

 他に、その場にあった津当(しんとう)と申す宗匠は、この中の一つを素外より貰い受けて仕舞って置いたところが、翌寛政八年の春、人に見せんとて取り出して蓋を開けたところが、中で蝶と化して御座って、そのまま飛び去ったとのこと。

 

「――時に、この虫に就いては、ある因縁話が御座る。……」

と、以上の話を伝えた者が付け加えた。

 

……元禄の頃、青山家が尼ヶ崎御在城の折り、かの家臣に喜多玄蕃(きたげんば)と申して、相応の家禄を賜っておった者が御座いましたが、その妻、これ、甚だ嫉妬深く、菊と申す小女を玄蕃が目を懸けて御座ったを、殊の外憤り、この菊を陥れんがため、主人の飯椀(めしわん)の内に密かに針を忍ばせ、これを菊に配膳させたので御座います。

 危うく食べかけた玄蕃は、怒髪天を衝く勢い。すかさず、妻が、

「……かくかくのことにて……これはもう、菊の仕業に相違御座いませぬ!」

と、玄蕃の気違い染みた怒りを逆なでするような、巧妙なる讒言を致しました故、

……玄蕃は非情にも、菊を荒縄にて縛りつけた上……

……古井戸へ逆さに打ち込んで……

……これを、殺して、しもうたので御座います……。

 また、これを伝え聞いた、屋敷内の長屋に御座った、菊の母ごぜも……

……後を追って……

……同じ古井戸へ……

……身を投げて、死んで、しもうたので御座います……。

 その後、かの玄蕃が家は――立て続けに妖しき怪事と不可解なる不幸が、これ、たび重なり――遂には――絶えたとか。……

 さても今は、御領主様もお代わりになられ、年も経て御座いますが……

……去年は……

……その菊の……

……丁度、百年忌に当たって御座いまして、の……

……菊の……

……怨念……

……これ、百年経った今となっても……

……未だ残って御座って……

……この妖しき虫と変じた……

……とでも……申すので、御座いましょうか……

 「播州皿屋敷」と申す浄瑠璃が御座いますが、あれも、この話を元と致いて創ったものででも御座いましょうかのぅ……

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