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2012/09/23

「20世紀少年」読了記念1 読後雑感

3日前に浦沢直樹の「20世紀少年」全巻を読了した。

この手のものを実写映画と比較すること自体が、余り意味のあることとは思われないが(それは映画や実写というヴァーチャル・リアリティの属性――及びその映像の質レベル――が持つものと漫画という二次元芸術の属性――及びその質レベル――の致命的な懸隔に拠る)、どうしても先行して見た映画版との比較は無意識にしてしまうのはお許し願いたい。

作品全体の印象は、無論、原作に軍配が挙がるに決まっている。原作をお読みでない方は、読まずんばならず。これは言わずもがな。

実写版の実写ゆえの致命傷は既に『映画「20世紀少年」 或いは 20世紀少年である僕』で述べたし、その質感の問題は「ALWAYS 三丁目の夕日」の時と同じである。
現物のホーロー看板やキッチュな地球防衛軍バッジ《原作では「宇宙特捜隊バッジ》*
*当時の駄菓子屋――我々は五円屋と呼んでいた――にあった稼特隊の流星バッジは実際には、仁丹玉が頭に付いたみたようなアンテナが如何にも直きに壊れることを予感させてスライドしてはストンと落ちてしまう、もっと素敵にキッチュなものであった。――因みに僕はあれを持っていた自慢げな友達に触らせて貰ったのだった。――僕は正に、あのバッジを盗みたかった少年の一人だったのだ――*
といったアイテムによって演出されるはずの懐かしさ、そのタイム・スリップ感覚が、それを包む「雰囲気」の書割全体の整然さや清浄さ(日本映画の優等生的清潔感と言ってもよい。黒沢辺りの数人だけがこの症候群を破ることに成功している)、ドライで臭ってこない映像によって美事に裏切られてしまい、寧ろ「作り物臭さ」を強く感じさせてしまうからである。寧ろ、原作も映画も後半のヴァーチャルな「ともだちランド」の場面や映像には、そうした「作り物臭さ」の奇態な清浄や整然としたそれを差別化して描くべきであったと思う。これは原作に対する私の不満でもある。
但し、原作のケンジたちの真正過去シーンは、実に素晴らしい! モノクロ映画の属性であるイマジネーティヴな印象が横溢している。妙なところで尖ったり、ソフトだったりする浦沢のペン・タッチを僕は今一つ好まないのだが、そうしたブレのあるタッチも、はたまたリキの入った細密なジジババの駄菓子屋の店頭も、そうして彼らの神聖な秘密基地のある原っぱも――これは実にあの頃の完璧にリアルな「絵」であり、僕はその一コマ一コマから、あの懐かしい時間に容易に戻ることが出来たのだ。その点で、彼の「絵」は確かにスカルプティング・イン・タイムしていると言えるのである。

実写版は浦沢が脚本監修に参加しているだけに、原作を裏切りするような印象は余りない。寧ろ、「ともだち」の正体の論理的な明晰性では、一般大衆納得大団円という映画の方が、伝統的冒険活劇活動写真としては成功であろう。
ただ、恐らくは、昨今のムハンマドと同じで、ローマ法王暗殺や法王が「ともだち」を崇敬してしまうシークエンスなどがカットされているのは製作経費上の問題とは別に、宗教的な自主コードを製作者側が発動させてしまった結果としか思えない。*
*おそらく原作通りに実写化すると、ローマ法王庁及びカトリック教徒から間違いなく大きな批判と上映禁止が期待される。それくらいの作品に僕はして欲しかったから「期待される」と言っている。*
あのプロットが映画でスポイルされた結果――ルチアーノ神父の絡みや、仁谷神父の中国での過去、アメリカでのケロヨンのエピソードといった部分の削除は、日本映画の製作費の吝嗇さから仕方がないとして――「ともだち」の世界大統領、宗教的世界支配という原作の持っているそれなりのグローバル・スケールが、日本――いや、寧ろ、正にたかが「ともだち」の「作り物」世界である壁の中の「東京」だけのブラック・ファンタジー、に堕してしまった感が拭えない。

浦沢は、僕の好きな「プルートゥ」でもそうだが、プロットが描いている内に、作者自身が制御し切れないほどに罅のように周縁に増殖して行き、時々、フラッシュ・バックされるコマが伏線や意味深長さを通り越して、読者を混乱させ、読了後に、何か喉に棘の刺さったような違和感を残す。原作では「ともだち」の正体の、如何にもどんよりと濁った仮面の不明性が、エンディングの、実写版が持っているような、ある種のさわやかな感動を明らかに削いでいる。それは実は、彼の作劇上の確信犯、正に伝統的な仮面劇の呪的効果を狙った、神々の祝祭としてのエンディング、「流星仮面」は実はデウス・エクス・マキナなのかも知れない。――しかし「知れない」が、映画では共同製作者によって、あれは、難色を示されるであろうことは想像に難くない。オタクは原作を支持するであろうが、一般大衆はあれでは消化不良を起こすのは決まりだ。だから、実写版はあの、キッチュな似非ウッドストックで、模範的愛国的日本国民は満足するのである(僕はあの実写版のコンサートに集まった集団自体にこそ実は何か得体の知れない「ともだち」への盲信を掻き立てるところの人間の核心を見たようにさえ感じたことを告白しておく)。いいや、「祭り」はキッチュなものの方が寧ろ、いいのだ――現実はもっとキッチュで退屈だからね……

僕にとって大きな違和感が原作にはある。それは高須が人工授精によって聖母化するというシチュエーションである。
実子カンナ(但し、原作では「ともだち」は二人――若しくはそれ以上――であるから、その違った「ともだち」の意識まで共有しているとまで断定はしにくいものの、彼らはその謂いや思考方法からも真正の影武者であって思考方法や感覚も同じでなくてはおかしい)がああなって致命的に抵抗する存在になってしまっている以上、
――僕が「ともだち」なら――
高須の卵子に体外受精、母体挿入はあり得ない(そう原作は読める)。
――僕が「ともだち」なら――
100%間違いなく、自分のクローンを高須の子宮で産ませる――
それでも第二のマリアには高須はなれるから、一石二鳥ではないか。悪いが、あの高須の野望の話としては面白いが、それは「20世紀少年」の埒外の話だ。
いいや――彼女は死なないし、堕胎の暗示もない――だから新たな「20世紀少年」の続編へ――カンナと反救世主弟妹との再戦への布石の色気――とも取れないことはない。

「ともだち」の正体を明かさず、最後のケンジの名指した言葉にも無言で、流星仮面を脱がない彼――
彼は――正に神である――
ウィトゲンシュタインは、神は名指すことはできるが、示すことはできないということを、そして「語ることができないことに対して、我々は沈黙せねばならない」ということを、「論理哲学論考」で述べている――

では、この辺で僕も口を閉じることとしよう――

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