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2012/10/31

耳嚢 巻之五 太田持資始て上京の時詠歌の事

 太田持資始て上京の時詠歌の事

 

 持資上京せし時、歌道を好む由(よし)雲卿(うんぎやう)の好み給ひしに、關東の田舍に住(すま)ひて堂上(たうしやう)などの可掛御目(おめにかくべき)歌などあるべくもなし、田舍にて詠(よみ)し歌也とて奉りければ、

  武藏のの折べは草は多けれど露すぼこくて折られないもさ

皆々どよみ笑ひける時、一首かくもよみ侍るとて奉りぬ。

  露をかぬかたもありけり夕立の空よりひろきむさしのゝ原

一同感心ありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:太田道灌和歌技芸譚二連発。

・「雲卿」月卿雲客のこと。公卿や殿上人。「月卿」は中国では天子を日に臣下を月に擬えて大臣を言う語であるが、本邦では公卿(「公」は太政大臣・内大臣・左大臣・右大臣を指し、「卿」は大納言・中納言・参議及び三位以上の朝官と四位の参議を指す)、「雲客」は殿上人(雲上人)。

・「武藏のの折べは草は多けれど露すぼこくて折られないもさ」分かり易く書き直すと、

  武藏野の折(を)るべは草は多けれど露すぼこくて折られないも

岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に載るものの方が分かり易い。

  武蔵野の折(をる)べい草は多けれど露すぼこくて折られないもさ

この歌は関東方言に似せて詠まれたもので、「折るべは草」「折るべい草」は「折るべき草」で推量の助動詞「べし」の連体形のイ音便、「すぼこくて」は恐らく「すべつこくて」等を疑似転訛(方言っぽく似せた)したものかとも思われ「滑っこくて」(滑り易くて)の意で、「折られないも」「折られないもさ」は「折られないものさ」である(「も」には別に「万葉集」等に上代東国方言での推量の助動詞「む」に相当する用法がある)。但し、本文の「折るべは」の「は」は、「い」の書写の誤記の可能性が高いと思われる。敢えて当時の標準語表現に直すならば、

  武藏野の折るべき草は多けれど露に滑りて折られざるまじ

という感じか。原歌を敢えて雰囲気を出して訳すなら、

――武蔵野はヨ、そりゃ、広れえ広れえ、八重葎の原また原だんベ――だからヨ、折らずばなんねエ草は多いんだけんど、ヨ――そいつはヨ、露にヨ、えれえ、滑っこくって、ナ――そう簡単にゃヨ、折れねえもんサ――

となろう。

 バークレー校版の「べい」は、表記の通り、助動詞「べし」の連体形「べき」のイ音便であるが、厳密には関東に限らず、平安時代の会話文等には普通に使用された形であるが、中世以降、東国で文末終止の用法が次第に多くなった結果、「べいべい言葉」等と呼称されて、東国方言を特徴づける一要素となった。近世の上方の歌舞伎作品等でも専ら、関東訛の奴言葉(江戸時代、伊達男や侠客が使った言葉。「涙」を「なだ」、「冷たい」を「ひゃっこい」、「事だ」を「こんだ」という類)、田舎言葉として用いられている。「もさ」は「申さん」の変化したものとも言われ、やはり、近世関東方言を特徴づける間投助詞。文節末に配して親愛の情を込めるが、「もさ言葉」などと称して上方で関東人を蔑称する言葉、転じて広く田舎者や野暮な人間を嘲る語ともなった(以上は主に「日本国語大辞典」に拠った)。

 以上から、実はこの如何にもな関東(東国)方言(若しくはそれに似せた)の和歌は、名歌人でもあった道灌が詠んだ歌とはおよそ思われない代物であり、底本の鈴木氏の注でも、『この種の田舎ことばによって和歌を綴ることは、伊勢物語にも例があって歴史が古い』が、『都人士や文字ある階級が鄙の下﨟ならばこうもあろうかと、愚弄するためにわざと作った戯歌であろう』と切り捨てておられる。

・「露をかぬかたもありけり夕立の空よりひろきむさしのゝ原」分かり易く書き直すと、

  露置かぬ方も有りけり夕立ちの空より廣き武藏野の原

――夕立ちが降ったが――その雨露を微塵も葉末に置かぬ場所さえあるものだ――天空の夕立ちを降らせた、その空よりも広い――この天然自然の広大なる武蔵野の原野……

と言った意味であろう(詠想の割にスケールの広がらない技巧的な和歌であると私は思う)。但し、底本の鈴木氏の注には、『この歌の古い出典を見ない』とされ、「塩尻」(十三)に「太田持資入道道灌上京の時勅答のうた」として出ているのが最古のものらしいと記され、この時、この和歌を聴いた後花園天皇は『叡感あって、「むさし野は高かやのみと思ひしにかゝることばの花やさくらむ」と勅答のうた一首を下されたとある』とある(この勅詠もまた、如何にもなつまらぬ歌である)。また、岩波版の長谷川氏注には、「神代余波」(上)及び「三省録」(八)にも見える、と記されておられる。「塩尻」は尾張藩士国学者天野信景(さだかげ)が元禄一〇(一六九七)年頃に起筆し没年(享保一八(一七三三)年)まで書き続けた随筆(長谷川氏の挙げる二随筆は「耳嚢」よりも遙か後代のもの)であるから、根岸の本巻執筆推定下限の寛政九(一七九七)年からきっちり一〇〇年以上は遡らないことになる。道灌上京の時期は私には分からないが、仮に文明年間(一四六九年~一四八六年)とするなら、「塩尻」との間はやはり凡そ一〇〇年。残念ながら、少なくとも、本話全体の史実性は疑わしいと言わざるを得まい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 太田持資道灌初上洛の際の詠歌の事

 

 太田持資道灌が初めて上洛した際、彼が歌道を嗜むということを聴きつけた公卿や殿上人が頻りに詠歌をお促しになられたところ、

「……関東の田舎に住まい致いておりまする野鄙の輩にて御座いますれば、堂上(とうしょう)の御方々などの御目に掛くる如き歌など、これ、あるびょうも御座らぬ。……なれど、強いてとの仰せなればこそ……」

とて、

  武蔵のの折べは草は多けれど露すぼこくて折られないもさ

と高らかに詠じた。

 これを聴いた場の公卿・殿上人、これ、こぞって、その文字通り野鄙なる歌柄に、声高く笑ひ合った。

 すると、道灌は臆することなく、

「……今、一首、こうも詠んで御座る。」

と、今一首を詠じ奉った。

  露をかぬかたもありけり夕立の空よりひろきむさしのゝ原

 一転、場が静まり返った。

……そうして次に

――ホウ!

と、場にあった公卿・殿上人、こぞって感心致いた、と申す。

寒牡丹四句 畑耕一

寒牡丹とほき雲より眼を移す

寒牡丹土よりあぐる風の見ゆ

寒牡丹かたひら搖れてすべて搖る

寒牡丹人影よぎる時ゆるる

2012/10/30

私の嫌ひな女 《芥川龍之介未電子化掌品抄》

 私の嫌ひな女――アンケート「私の嫌ひな女」に対する芥川龍之介の回答―― 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年十月発行の雑誌『婦人公論』に掲載された。底本は岩波版旧全集(本作は総ルビ)を用いたが、読みは一切省略した。敢て若い読者のために付け加えておくと「誰彼」は「たれかれ」、「差扣へて」は「さしひかへて」と読む。底本後記には「私の嫌ひな女」を『大見出し』とあって、更に『芥川の文に表題はない』と記しているから、これが同雑誌の特集、諸家アンケートの中の一つであったことを示唆しており、また勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊の「芥川龍之介作品事典」では末尾の『アンケート一覧』に載せていることから、以上のような副題を附した。この内容、多くの読者(特に芥川好きの女性)は聊か鼻白むかも知れぬ内容であるが、彼が最後に愛した片山廣子への思いなどから推せば、芥川は実にまことに素直に、まっとうな答えをしているのだと言えるであろう。ただ、これがアンケートへの回答ではなく、もっと芥川龍之介に『莫迦と云ふ語の内容を詳しく説明する時間と紙數と』を与えていたならば、もっと芥川という個の核心に迫れ得る面白いものになっていたとは思う(少なくとも芥川龍之介をファンとする諸女性の嫌悪を幾分かは和らげ得たとは思われる)。因みに芥川龍之介には、これとは真逆の僕の好きな女(大正九(一九二〇)年十月発行の雑誌『夫人倶樂部』創刊号に掲載)があるので、それも併せてお読みになられたい(リンク先は私のテクスト)。]
 

私の嫌ひな女
 

 要するに莫迦な女は嫌ひです。殊に利巧だと心得てゐる莫迦な女は手がつけられません。歷史上に殘つてゐるやうな女はどうせ皆莫迦ぢやない人だから、この場合ちよいと例にはなり兼ねます。それから又現代の婦人になると、誰彼と活字にして莫迦の標本にするのは甚失禮だから、これも同じく差扣へて置きませう。兎に角、夫人たると令孃たるとを問はず、要するに莫迦な女は嫌ひです。唯、莫迦と云ふ語の内容を詳しく説明する時間と紙數とに乏しいのは、遺憾ながら仕方がありません。 

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 三 防ぐこと~(1)

     三 防ぐこと

 

 逃げも隱もせずして敵を防ぐものの中には、攻撃用の武器を用ゐて對抗するものと、單に受動的の防禦裝置のみによつて、敵をして斷念せしめるものとがあるが、こゝには攻撃用の武器を用ゐるものの例は一切省いて、たゞ純粹の防禦裝置による場合を幾つか掲げて見よう。



Syakogai

[しやこ]

 まづ敵の攻撃を居ながら防ぐ普通の方法は、堅固な甲冑を以て身を包むことである。これは、貝類では一般に行はれて居る方法で、卷貝でも二枚貝も、多くは敵に遇へば直に殼を閉ぢるだけで、その他には何らの手段をも取らず、たゞ敵が斷念して去るのを根氣よく待つて居る。「たにし」や「しゞみ」のやうな薄い貝殼でも彼等の日常出遭ふ敵に對しは相應に有功であるが、「さざえ」・「はまぐり」などになると殼は頗る堅固で、我々でも道具なしには到底これを開くことも破ることも出來ぬ。更に琉球(沖繩)や小笠原島など熱帶の海に産する、夜光貝とか「しやこ」とかいふ大形の貝類では、介殼が頗る厚いから、防禦の力もそれに準じて十分である。夜光貝は「さざえ」の類に屬するが、往々人間の頭位の大さに達し、介殼が厚くて堅く、且眞珠樣の美しい光澤があるから、種々の細工に用ゐられる。また「しやこ」は「はまぐり」と同じく二枚貝であるが、大きなものは長さが一米餘もあり、重さが二百瓩にも達する。殼の厚さは二〇糎もあつて純白で緻密であるから、裝飾品を製するには最も適當である。それ故、昔から七寶の一に數へられ、珊瑚の柱、硨礫(しやこ)の屋根と相竝べて龍宮の歌に謠はれる。佛國パリのサン、シュルピスの寺では、この介殼を手水鉢に應用してゐる。

[やぶちゃん注:「夜光貝」腹足綱古腹足目ニシキウズ超科サザエ科リュウテン属ルナティカ(Lunatica)亜属ヤコウガイ TurboLunatica marmoratus。本和名に「夜光貝」は実は当て字であって、本来は「屋久貝」(屋久島の貝)であったとされる。ウィキヤコウガイ」にも『ヤコウガイは本来「ヤクガイ(屋久貝)」と呼称されていたようである。奄美群島の地域名称は、「ヤクゲー」、「ヤッコゲ」、沖縄・先島諸島での地域名称は「ヤクゲー」、「ヤクンガイ」であり古称の名残を感じさせる。ヤクガイのあて字の一つに「夜光貝」があり、ここから「ヤコウガイ」という読みが生じた可能性もある』と記す。以下、形状・生態及び文化史を当該ウィキから引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『インド太平洋のサンゴ礁域に生息する大型の巻貝である。重厚な殻の裏側に真珠層があり、古くから螺鈿細工の材料として利用されてきた。その名前から、夜に光ると思われることがあるが、貝自体は発光しない』。『ヤコウガイはリュウテンサザエ科で最大の貝である。成体の重さは二キログラムを超え、直径一五~2二〇センチメートルほどに成長する。殻は開口部の大きさに比して螺塔が低い。数列の竜骨突起が発達するが、連続せずに瘤状に分離することもある。殻表面は滑らかで、個体によっては成長肋が目立つ。殻表全体は暗緑色を呈し、赤茶色の斑点を有している。殻の内側は青色から金色を帯びた真珠光沢である。他のサザエの仲間同様、石灰化した厚手の蓋を持つ』。『熱帯から亜熱帯域のインド~太平洋区に分布する。日本近海では屋久島・種子島以南のあたたかい海域に生息する。生息域は水深三〇メートル以浅の比較的浅い水路や岩のくぼみであり、砂泥質の海底には認められない。基本的に夜行性で、餌は海藻など。雌雄の判別は外見からは不可能である。繁殖活動は冬場を除き一年中みられ、大潮の前後におこなわれる。メスが緑色の卵子を、オスは白い精子を放出する。稚貝は三年で七〇ミリメートルほどに成長する』。『軟体部は刺身や煮物として食用にされる。ただし非常に硬いので調理には圧力釜などが必要である。焼き物にはむかない。貝殻は古くは螺鈿の材料として重宝され、産業的多産地としてはフィリピン諸島、アンダマン諸島、ニコバル諸島などがあり、日本では奄美群島、沖縄諸島、先島諸島が産地として知られる』。『ヤコウガイは、先史時代からすでに食用として軟体部が利用されている。ヤコウガイはその美しさゆえ古くから工芸品に使われており、平螺鈿背八角鏡など、正倉院の宝物にも螺鈿として用いられている。ヤコウガイから加工できる螺鈿素材は最大で五センチメートル×一五センチメートルほどになり、温帯・亜寒帯域で捕獲できる螺鈿素材の貝よりもはるかに大きいパーツが取れる利点から珍重された。また、土盛マツノト遺跡、用見崎遺跡、小湊フワガネク遺跡(いずれも奄美市)などといった六~八世紀の遺跡からヤコウガイが大量に出土している。こうした大量出土の遺跡のほとんどは奄美大島北部に集中しているが、その貝殻の量は先史時代の遺跡と比べ圧倒的に多いため単なる食料残滓の廃棄とは考えにくく、加えて貝殻集積の周辺部分より貝匙の破片も出土していることから、貝殻は原料確保としての集積の可能性が考えられる。あるいは、平安時代以降、ヤコウガイは、螺鈿や酒盃などとして、日本本土で多く消費されているが、その供給地としての役割をこれらの遺跡付近の地域が果たしていたことも考えられる』とある。

「しやこ」二枚貝綱異歯亜綱ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科 Tridacninae のシャゴウガイ属 Hippopus 及びシャコガイ属 Tridacna に属する二枚貝類の総称。シャゴウガイ属 Hippopus のヒッポプスとはギリシア語で「馬」を意味する“ippos”と「足」の意の“poys”の合成で、貝の形状を馬の足のヒズメに見立てたものであろう。またシャコガイ属 Tridacna の方はギリシア語の「3」を意味する“tria”と「嚙む」の意の“dakyō”で、殻の波状形状と辺縁部の嚙み合わせ部分に着目した命名と思われる(以上の学名由来は荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水棲無脊椎動物」の「シャコガイ」の項を参考にした)。以下、ウィキの「シャコガイ」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『熱帯~亜熱帯海域の珊瑚礁の浅海に生息し、二枚貝の中で最も大型となる種であるオオジャコガイを含む。外套膜の組織に渦鞭毛藻類の褐虫藻が共生し、生活に必要な栄養素の多くを褐虫藻の光合成に依存している』(熱帯や亜熱帯のクラゲ・イソギンチャク・造礁サンゴ類等の海産無脊椎動物と細胞内共生する褐虫藻“zooxanthella”(ゾーザンテラ)としては、Symbiodinium spp.Amphidinium spp. 及び Gymnodinium spp. などが知られる)。『貝殻は扇形で、太い五本の放射肋が波状に湾曲し、光沢のある純白色で厚い。最も大型のオオシャコガイ(英語版)は、殻長二メートル近く、重量二〇〇キログラムを超えることがある』。『サンゴ礁の海域に生息し、生時には海底で上を向いて殻を半ば開き、その間にふくらんだ外套膜を見せている。この部分に褐虫藻を持ち、光合成を行わせている。移動することはなく、海底にごろりと転がっているか、サンゴの隙間に入りこんでいる』。肉は食用となり、特に沖縄地方では刺身にして普通に食用とし(私は好物である)、古くから殻は置物や水盤などに用いられた(私の小学校の庭ではこれを池にして金魚が飼われていた)。分布は『太平洋の中西部とインド洋の珊瑚礁。オオシャコガイはその分布地の北の限界が日本であり、八重島諸島で小柄な個体が僅かながら生息している。しかしながら海水温が高かった約七〇〇〇~四三〇〇年前までは沖縄各地に分布し、現在でも当時の貝殻が沢山発見されている。その中にはギネス級の貝殻も見つかっている』。私たちが幼少の頃の学習漫画にはしばしば、海中のシャコガイに足を挟まれて溺れて死ぬというおどろおどろしい図柄が載っていたものだったが、これは誤伝であって有り得ない話である(今でも私の世代の中にはこれがトラウマになっていて恐怖のシャコガイが頭から離れない者が必ずいるはずである)。ウィキではそこも忘れずに『「人食い貝」の俗説』の項を設けて以下のように記載しているのが嬉しい。『シャコガイに関する知識や情報が乏しかった頃、例えば一九六〇年代頃まで、特にオオシャコガイについては、海中にもぐった人間が開いた貝殻の間に手足を入れると、急に殻を閉じて水面に上がれなくして殺してしまうとか、殺した人間を食べてしまう「人食い貝」であると言われていた。しかし実際には閉じないか、閉じ方が緩慢で、そのようなことはない』のだ。安心されよ。

「佛國パリのサン、シュルピスの寺」パリ六区にあるカトリック教会“Église Saint-Sulpice”(サン=シュルピス教会)。創建の命は一六四六年にルイ十三世の王妃アンヌ・ドートリッシュによるが、完成は困難を極めた。]

白い旗 火野葦平

   白い旗

 

 ぬるまこい流水に足をひたしてゐると、みづかきの問に水藻がさはるのがわかる。川は淺いのである。落葉松(からまつ)の密生した前方の峯々の上をゆるやかに卷くやうにして動いてゐた霧が、やがて紗(しや)をかぶせるやうに靑い峯をつつみ、こちらの方に降りて來る。この川には水のきれいなくせに魚はゐないのか、さつきから水面をみつめてゐるが、たえまない水のゆらめきの底に絲くづのやうな水藻と硝子玉のやうな小石が見えるばかりである。

 河童は背を鳴らした。それから振りむいて、もう秋が近いといつた。それは別に愁傷のひびきをおびてはゐなかつたが、かれらが先祖から負うて來た傳説の宿命をかれらのこころの中に感ずるともなく感じたものがなしい調子があつた。背を接してうしろの深い谷に眼をおとしてゐたもう一匹の河童が、やがて秋の花がたくさん咲きはじめるだらうといつた。かれらは全山がことごとく紅葉(こうえふ)するのを指折りかぞへて待つてゐるのである。

 かれらはさまざまの種族を輕蔑して、かれらの矜持(きようぢ)を胸いつぱいにふくらませる。筑後川の水底に棲む頭目九千坊に統率されてゐる多くの河童たちは、この二匹の河童から見ればまことに下賤なるものであり、教養も思想もなく、勇氣もないものである。阿蘇の那羅延坊(ならえんぼう)に伺候する輩(やから)にいたつては沙汰のかぎりである。かれらは第一になにごとかあればすぐに嘴を鳴らすやうなはしたない所業をする。第二にその身體の色は草に似てゐる。そして生を終るときには靑いどろどろの液體となつて溶け流れ、その不潔さと臭氣とはたへがたい。なまぬるい水に足をひたしてゐる二匹の河童はやがて自分たちの上におほひかぶさつて來た霧のなかに自分たちのからだをかくし、二本の腕をたかくさしあげてうちふる。それはひらめく二本の赤い旗のやうに見える。かれらは胸をはり眉をうちふるふことによつて、自分のからだをどのやうにも赤くすることが出來る。それはしまひに眞紅のひらめく長旗のやうにみえはじめる。この術をたびたび行ふことは生をちぢめるといふことによつて禁じられてゐるにもかかはらず、かれらの矜持のこころはおさへがたく、名門の紋章のまぼろしを追ふたへがたいよろこびはこのやうにうつくしい霧の舞臺のときには生死の觀念をのりこえてしまふのである。かれらのからだのいろは褐色(かつしよく)である。かれらは下賤の河童たちの草色の皮膚を笑ふけれども、實はかれらの褐色の肌もかれらの考へてゐるほど立派ではない。しかし、かれらが禁ををかして眞紅のほむらとなるときは、そのあざやかな赤の色はなめらかな水氣のあるからだのためにきらきらと光り、うちふる二本の手はひるがへる旗のやうにみごとなのである。筑後川の九千坊一族は河底の水藻から簇生(そくせい)した。植物を先祖とするかれらにくらべて、この二匹の河童の先祖はもと位高くやんごとなき公達(きんだち)であり、あるひは武士(もののふ)であつたが、一の谷にやぶれ、壇の浦に落ち、つひに壇の浦の海底深く沈んで亡んだ。さかまく潮流がはげしい音をたてて流れ去りゆく壇の浦の水底に、かれらはひとつの歴史を終るとともに、男たちは蟹となり、女(をみな)たちは河童(かむろ)となつた。男たちはその背にまで滅亡の悲愁を負うてあるいたが、女たちは皿に水をみたし、長髮をひるがへして遠い國々にさまよひ出た。かれらは傳説を負うて花さく野べに、水ぬるむ河畔に、小鳥うたふ森にいこうた。

 船べりに立つて靑空をあふぎ、雅(みやび)やかな歌曲をうたうた思ひ出や、絃(いと)ふるふ琴の音色や、銀扇のかげりなどへの追憶が、すべて赤い旗につつまれてかれらの腦裡にうかぶ。赤の旗こそはかれらの矜持の柱である。かくて、かれらはかれらのいのちをけづるといふ禁斷の妖術への誘惑をおさへることが出來ない。

 かれらは流れる霧の中を飛んで、あかい虎杖(いたどり)の上にやすんだ。それからまた肩を組んで、あかい百日紅(さるすべり)の花びらの上に降りた。

 かれらはまなこをあげて秋ちかい野邊をさぐる。すると、かれらはふと見た遠景のながめに愕然(がくぜん)となる。ふたりは同時にけたたましいおどろきの聲をあげた。かれらは見た。見はるかす亭々たる杉並木の前方にへんぽんとひるがへる數十旈(りう)の白旗を。その仇敵の旗は流れる霧の中にひらひらとひるがへり、光りながらしだいにこちらに迫つて來るやうに見えた。今やいつさいの矜持を喪失した二匹の河童はいろ靑ざめ、うちふるへ、背を凍らせて百日紅の花びらの上からいつさんに飛び立つた。かれらは長いあひだのがれ飛び、やうやく曼珠沙華(まんじゆしやげ)のあかい葩(はなびら)を見つけてそこに降りた。かれらは息を切らし、はづれさうになつた背の甲羅をかきしめた。しかし見合はしたかれらの眼の中にはおたがひの恐怖の感情を相手に見せまいとする強がりのこころがあり、なんであのやうに同じ行動をしたかについてもその原因をかくさうとする見榮があつた。さうしてかれらは奇妙な微笑をとりかはしたのである。したりげな顏つきをして、ふたりは鷹揚(おうやう)にうなづきあひ、おなじやうに下の方に眼を轉じたが、ふたたび、かれらは凍りつくやうに思をつめ、無意識のうちに肩を組み曼珠沙華の花をはげしく散らして飛び立つた。眼をむけた野邊のはづれにまたもかれらに迫る白い旗を見たからである。しかしながら、かれらの敵はなほもかれらの行くところに待つてゐた。もはやかれらの行かんとする地上は、いづこも白旗をもつて滿たされてゐたのである。かれらは、かぎりなき失意と寂寥(せきれう)のこころをいだいて海底にかへつた。すると、そこにはむらがる蟹の群とともに、さきにかへつた多くのともだちがむつつりとなにもいはず膝をいだいてうづくまつてゐた。その樣子からは聞いてみるまでもなく、かれらが一樣に遭遇した旅での運命が感じとられた。二匹の河童が水をあわただしく搖るがしてかへつて來たのを見ても、ちよつと背を鳴らしただけである。

 秋ちかく、地上では黑々と水をふくんだ土の上に、いたるところに白々とした蕎麥(そば)の花が咲いてゐた。

[やぶちゃん注:底本末尾の火野葦平の後記「河童獨白」の中の記載に、本作は第二次世界大戦中の作であると記されてある。源平の合戦の描写に、何かそうした時代の冥い影が読み取れるように私には思われる。

「簇生」植物が群がって生えること。叢生。この前後、河童生物学上の新たな知見を我々に語っている。即ち、「筑後川の九千坊一族は河底の水藻から簇生した」ものであり、彼らは「植物を先祖とする」のである。河童にはそのルーツを植物由来とする一族がいる一方、本記述から、例えば平家の落武者と言った、ヒト由来の河童群が存在するという驚天動地の事実である。河童生物学者火野葦平版「鼻行類」である。]

北條九代記 瀧口三郎經俊斬罪を宥めらる

      ○ 瀧口三郎經俊斬罪を宥めらる

 

山内瀧口(やまのうちたきぐちの)三郎經俊は源家譜代の被官として、代々相州に居住しける所に、經俊如何思ひけん、平氏に心寄せ、大庭三郎影親に與(くみ)して、兵衞佐賴朝を石橋山に攻め追ひ奉る。然るに源家の運命盛(さかり)に開け、東國には平氏の輩足を留むべきやうも無ければ大庭影親長尾兄弟を初として、石橋山合戰の餘黨等(ら)悉(ことごとく)降人(がうにん)に成て出けるを、科(とが)の輕重に從ひて或は殺し、或は許さる。瀧口經俊も身の置所(おきどころ)の無きまゝに己(おの)が不忠不義を抱きながら、恥を捨てて降人にぞ出でたりける。賴朝即ち山内の莊を召放ち、その身は土肥實平に預置かる。この間生捕(いけどり)降人多き中に至て重科(ぢうくわ)の輩は殺し給ふといへども其は僅に十が一にして、宥(なだ)めらるゝは少なからず。されども瀧口が事は重々不義の罪科人(ざいくわにん)なりとて殺さるべきにぞ極(きはま)りける。經俊が老母は賴朝の御爲には乳母(めのと)なり。我子の斬(きら)るべき由を聞て、泣々(なくなく)鎌倉に参りて申入れけるやう、「祖父資通入道は八幡殿に仕へて、禪室の御傅(めのと)なりき。其より以來(このかた)代々忠勤を源家に盡し奉りし事誰か是に比(たくら)ふべき。父俊通は平治の軍に六條河原に骸(かばね)をさらし、隨分の働を以て御恩を報じまゐらせたり。其子として三郎經俊既に大庭影親に與せし事その科(とが)餘ありといへども、これ只一旦平家の後聞を憚る所にて候。凡(およそ)軍旅を石橋山に張出(はりいだ)し候輩(ともがら)多く候へども、皆恩免を蒙り、科を宥め給ふ所君の御惠(めぐみ)深く渡らせ給ふ故なり。然らば經俊も爭(いかで)昔の勳功に御許(ゆるされ)を蒙(かうぶ)らざらん」と泣口説(なきくど)きて申しければ、賴朝何とも仰せられず、土肥次郎を召して、預置所(あづけおくところ)の鎧(よろひ)をまゐらすべきの由仰せらる。實平持參して櫃(ひつ)の蓋を開きて取出す。山内の尼が前に置かせて宣ふやう、「これは石橋合戰の日三郎經俊が射ける矢既にこの鎧の袖に立ちたり。その矢の口巻(くつまき)の上に瀧口三郎藤原經俊と漆(うるし)にて書付けたり。文字の際(きは)より箆を切て、鎧の袖に立ながら、今まで置かるゝ所なり」とて見せ給ふに、老尼は重て子細を申すに及ばすして、泣く泣く御前を立ちにけり。誠にその罪狀遁るゝ所なしといへども、且(かつう)は先祖の勳勞を感じ、且は老母の悲歎に優(いう)じて死刑を宥め給ひし事、「仁慈類(たぐひ)なき良將かな」と諸人賴しくぞ思ひ奉りける。

[やぶちゃん注:「山内瀧口三郎經俊」山内首藤経俊(やまうちすどうつねとし 保延三(一一三七)年~嘉禄元(一二二五)年)。藤原秀郷の流れをくむ刑部丞俊通の子。母は源頼朝の乳母である山内尼で相模国鎌倉郡山内荘を領した。以下、ウィキの「山内首藤経俊」よりほぼ全文を引用させて頂く(アラビア数字を漢数字に代え。記号の一部を省略変更した)。『平治の乱では病のため参陣せず、源氏方で戦った父・俊通と兄・俊綱の戦死により家督を継ぐ。治承四年(一一八〇年)八月の源頼朝の対平家挙兵に際し、頼朝から乳母兄弟にあたる経俊にも加勢を呼びかける使者として安達盛長が派遣されたが、経俊は要請に応じず暴言を吐いたという(「吾妻鏡」七月一〇日条)。なお三井寺にいた経俊の兄弟である刑部房俊秀は、頼朝挙兵に先立って以仁王の挙兵に加わり、南都に落ち延びる道中で討ち死にしている(「平家物語」)』(この「暴言」については『「富士と背を比べたり、鼠が猫を狩る様な」として、平家と頼朝(勢力)の大小を嘲ったとされる』という脚注がある)。『経俊は平氏方の大庭景親の軍に属して石橋山の戦いで頼朝に矢を放っている。景親降伏後の十月二十三日に頼朝軍に捕らえられて山内荘を没収され、土肥実平に身柄を預けられた。十一月二十六日、経俊は斬罪に処せられる事が内々に決められたが、母の山内尼が頼朝の元を訪れ、涙ながらに父祖である山内資通入道が源義家に仕え、源為義の乳母父であった事など源氏への奉公を訴えて経俊の助命を求めた。頼朝は尼に対し、経俊が自分に放った矢の刺さった、当時自身が着用していた鎧の袖を見せると、尼はそれを見て顔色を変えてさすがにその場は引き下がった。結局、経俊は赦されて頼朝に臣従する』。『その後、元暦元年(一一八四年)五月の志田義広、七月の平家残党の反乱の追討に出陣。この年に伊勢国の守護となっている。また大内惟義の後を受けて伊賀国の守護も兼ねており、特に戦功もない経俊にこのような重任が課されたのは、ひとえに頼朝の乳母子であるためと思われる。翌文治元年(一一八五年)四月に頼朝の怒りを買った無断任官者二十四名の内の一人になり、頼朝から「官職を望んでも役に立たない者である。無益な事だ」と罵倒されている。ここまで失態を重ねた上に、頼朝からの人物評価は低いが、それでも乳母兄弟である経俊の地位は保全された。その後、源義経の家臣・伊勢義盛と交戦して破る。奥州合戦、頼朝の上洛にも供奉』。『頼朝死後の梶原景時弾劾に参画。元久元年(一二〇四年)に伊勢国・伊賀国などで起こった三日平氏の乱で経俊は平氏残党の反乱鎮圧に失敗した事により、伊勢・伊賀の守護職を解任され、両国の守護職は経俊が逃亡した後に乱を鎮圧した平賀朝雅に移された。その後、朝雅は失脚し、経俊の子の六郎通基に殺害された。その後、職の回復を願ったが許されなかった(「吾妻鏡」同年九月二十日条)』。『「吾妻鏡」では建保四年(一二一六年)七月二十九日に源実朝に供奉して相模川に赴いた記録が最後である』とある。

・「禪室の御傅(めのと)なりき」「禪室」は義家のことか。「傅」は貴人の子を守り育てる役目の男。守役。

・「比(たくら)ふ」「た比(くら)ぶ」「た較ぶ」で、比べるの意、「た」は強意の接頭語。

・「矢の口巻」鏃を指し込んだ箆(の:矢柄。)の先を糸や籐で巻き締めた部分。矢の本体と鏃の接合部。

・「且(かつう)は」「且(か)つは」の音転。 

・「優じて」「優す(ず)」はさ行変格活用の動詞で、厚くもてなす、優遇する、褒めるの謂いがある。ここは老乳母の、子息処罰への悲嘆を目の当たりにして、特別に厚遇し、特に経俊の死罪を減じて大目に見たことを指している。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 淨光明寺/網引地蔵/藤為相石塔

   淨光明寺

 泉谷ノ内、藤谷ノ南也。山號ハ泉谷山。此寺古ヘハ四宗兼學ナリシヲ今ハ禪律ノミニテ泉涌寺ノ末也。四貫八百文ノ寺領アリ。武藏守平長時、建長年中ノ建立、開山ハ眞聖乘國師ナリ。本尊ハ寶冠ノ阿彌陀卜云名佛也。寺内三慈恩院卜云有。其内ノ寶物

[やぶちゃん注:以下の解説部が二行以上に及ぶものは底本では二字下げになっている。]

 愛染明王  願作ノ作也

 寺僧云、願行ハ禪僧ニテ一生泉涌寺ニ居住ス。

[やぶちゃん注:「愛染明王」の下の「願作」は「願行」の誤り。]

三千佛繪  弘法筆  一幅

地藏木像〔矢拾ヒノ地藏卜云。錫杖ニハ矢ガラヲ用ユ。長時ノ守リ本尊也。一戰ノ時分ニ、矢ダネツキケレバ、敵陣ヨリ小僧一人走リ來テ、放チ捨タル矢ドモヲ拾ヒ捧ゲルト也。アヤシク彼地藏ヲミレバ、矢一筋杖ニ持ソヘケルト云傳タリ。〕

[やぶちゃん注:「長時」は北条長時(赤橋長時)で第六代執権であるが、「新編鎌倉志卷之四」の「淨光明寺」の「慈恩院」の項に載る「矢拾地藏」でも、また現在の伝承でも、この主人公は北条長時ではなく、ずっと後の足利直義である。異伝承があったものか、単なる光圀の聴き違いかは不明。]

 大塔宮位牌

  表ニハ沒故兵部卿親王尊靈

  裏ニハ建武七年七月廿三日トアリ。

[やぶちゃん注:「建武七年七月廿三日」「建武七年」は西暦一三四〇年であるが、この元号はおかしい。後醍醐天皇は建武三(一三三六)年二月に延元に改元しており、建武の元号を使い続けた北朝方でも建武五年八月に暦応に改元している。誤記か、そもそもこの位牌自体が偽物である可能性も疑われる。]

 寺内華藏院ノ寺寶

 八幡御影 畫像    一幅

 弘法影  畫像    一幅

 右是ヲ互ノ御影卜云也。文覺上人高雄ヨリ此寺ニ移スト也。八幡ノ御影ハ弘法ノ筆、弘法ノ影ハ八幡ノ筆ニテ、互ニ容ヲウツサレケルト云傳フ。

 八坂不動       一軀

 文覺鎌倉ニ負來ルヲ、後此寺二安置ス。淨藏貴所、八坂ノ塔ノ傾クルヲ祈リ直セシ時ノ本尊ナリト云。此年延寶二年甲寅ニ至テ七百八年也トゾ。

 壒嚢抄曰ク。神護寺ニ幡ノ御影アリ。是ハ大師、昔、東大寺ノ南ノ大門二行ケル時、對面有テ相互三和影ヲ寫シ玉ヘリ。神納メ冷房ニアリ。細筆ノ神影ハ初ヨリ高雄寺ニ安置セラレシヲ、近衞院ノ御宇ニ、東大寺ノ鎭守ニ祝ヒ進ゼントテ、南都ヨリ頻ニ申請ク。又八幡ヨリ去ル保延六年正月廿三日ノ炎上ニ、延書帝ノ勅定ニ依テ、敦實親王造作シ玉ヒシ僧俗二體ノ外殿ノ御神體燒失セシ故ニ、社家ヨリ強チニ望ミ申ケレバ、鳥羽上皇聞召テ不思議ノ重寶ナリトテ、鳥羽ノ勝光明院ノ寶藏ニ召納メラレシヲ、後人修造ノ時、又申請テ返シ納メラルヽト也。其大菩薩ノ徹影ハ僧形ニテ、赤蓮華ニ坐シ、日輪ヲ戴ヒテ勅袈裟ヲ掛テ錫杖ヲ持シメ玉フト云云。今按ズルニ、是モ亦文覺鎌倉ニ持來スルナルべシ。後ニ此寺ニ納メ置タリト見へタリ。此事浮屠ノ説ニハカク云傳タレドモ、信ズルニ足ラズ。八幡宮ヲ僧形ニ畫クルモ疑ガハシキコト也。辨ズルニタラザル事ナレバ詳ニ書セズ。

[やぶちゃん注:「壒嚢抄(あいのうしょう)」からの引用の内、「神納メ冷房ニアリ」の部分は、「神筆ノ影像ハ納冷房ニアリ」が正しい(新編鎌倉四」の「淨光明寺」の項の「八幡并弘法の畫像」に拠る)。

「保延六年」西暦一一四〇年。

「八幡宮ヲ僧形ニ畫クルモ疑ガハシキコト也」とあるが、当たらない。ウィキの「八幡神」によれば、八幡信仰は、東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(七四九年)に宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたという記録が残っており、早くから仏教と習合していたことが分かっている。天応元(七八一)年には、朝廷が宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈っており、これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まる契機となった。後の本地垂迹説にあっては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされ、平安時代以降、武士の尊崇を集め、同時に本地垂迹思想の拡大によって八幡神は僧形で表されるようになる。これを僧形八幡神と呼び、明治の廃仏毀釈までは僧形八幡神の図像は寧ろ、一般的なものであった。]

 

   網引地藏〔又滿干地藏トモ云〕

淨光寺ノ本堂ノ後ニアリ。ミチヒノ窟トモ云。巖窟ノ内ニ石地藏ヲ安置ス。地藏ノ後ニクボカナル所アリ。潮滿候ニ從テ往來スルト云ドモ、今ハ塵ノミ埋ミ乾タル處也。藤爲相卿ノ建立ナリト云。或曰、昔由比ノ濱ニテ網ニ懸テ上リタル故ニ網引ノ地藏卜云也。

[やぶちゃん注:「クボカ」「窪か」で窪んだ箇所の謂い。]

 

   藤爲相石塔

 網引地藏ノ後ノ山ヲ上リ、巓ニ有リ。此山上ヨリ西北ニ大友屋敷・飯盛山・藤谷等眼下ニ見ユル也。此東峯ヲ打越テ多寶寺谷・泉井アリ。多寶寺谷ニ寺ハナシ。忍性菩薩ノ石塔トテ大ナル五輪アリ。文字ハナケレドモ、淨光明寺ニ云傳タリ。泉井谷ノ邊ニ潔キ水涌出ル也。淨光明寺ノ門ノ向ヒ南ニ内藤帶刀忠興ガ屋敷有、茂林鬱々タリ。歸テ壽福寺二詣ル。

耳嚢 巻之五 太田持資童歌の事

 太田持資童歌の事

 

 太田持資(もちすけ)の十三歳なる時、初陣に武州小机の城を攻めし時詠める由。

 小机はまづ手習の初めにていろはにほへとちりぢりにせん

 

□やぶちゃん注

○前項連関:滑稽の和歌技芸譚。滑稽と言っても、この場合、殺戮の予感を交えるから、「童歌」(童子の戯れ唄の謂いであるが、後注するように主人公太田道灌の史実には反する)と言っても「マザー・グース」のようなブラック・ユーモアである。

・「太田持資」太田道灌(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)のこと(元服後は資長を名乗ったが、その初名は持資であったとも言われる)。以下の文明一〇(一四七八)年の小机攻めの時は数え四十七歳で、勿論、これは初陣なんどではなく、この歌も自軍の兵士達を鼓舞するための戯れ歌である。なお、彼の初陣はよく分からないが、「十三歳」直近ならば、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発する永享一〇(一四三八)年に起った永享の乱がある。但し、この時、道灌は未だ数え七歳である。

・「武州小机の城を攻めし時」「小机の城」は武蔵国橘樹郡小机郷(現在の神奈川県横浜市港北区小机町)にあった上部の平坦な低い山城。山内上杉家家宰長尾景春が父の死後に家宰職を相続出来なかったことを遺恨として主家へ反乱を起こしたが、この際、景春の味方をした豊嶋氏がこの小机城に立て籠ったため、太田道灌がこの城を攻撃した。以下、参照したウィキ小机城」に以下のようにある(アラビア数字を漢数字に代えた)。『この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞した。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約二ヶ月をかけて落城させたとされる。道灌が歌を詠んだ松は、以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存(羽沢町)する』。

・「小机はまづ手習の初めにていろはにほへとちりぢりにせん」書き直すと、

  小机は先づ手習(てなら)ひの初めにて「いろはにほへとちり……」散(ぢ)りにせん

で、恐らく、この山の形状からついた「小机」城を、実際の(たかが)小机に掛けて、更に「小机」「手習(の初め)」「いろはにほへとちり」という縁語を配し、引き出した「いろは歌」の途中の「ちり」の部分を、敵を散々に殲滅するの意の「散り散りにす」に掛けた。

――小机と言うたら――我らが幼き日、初手の手習いを致いたちっぽけな机じゃ――そのいっとう最初の文句は――ほうれ、「いろはにほへと ちり」……「ちりぢり」……散り散(ぢ)り! 奴(きゃつ)ら! 散り散りにして呉れるわ!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 太田持資童歌の事

 

 太田持資の、十三歳の折りの、初陣に武州小机の城を攻めた際、詠んだ和歌の由。

 

  小机はまづ手習の初めにていろはにほへとちりぢりにせん

萱に佇ちもつとも遠き人思ふ 畑耕一

   妻求むる男となりて
萱に佇ちもつとも遠き人思ふ

2012/10/29

僕の愛する義母長谷川喜久子の僕のいっとう好きな彼女……「愛するお母さん……さようなら!」

義母――恐らく4、5歳の頃……僕の……とっても好きな「義母の肖像」……


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僕の愛する義母長谷川喜久子の肖像 2 昭和29(1954)年11月22日 24歳 花嫁衣裳

義母は名古屋屈指の通人の指物師柴田家の長女として生まれ、岐阜の山奥の七宗(ひちそう)の長谷川家の次男に嫁いだ。これは――

昭和29(1954)年11月22日 24歳の時――その七宗での婚礼の前に――義父の実家の側の義父の親族の家で撮られた――一枚――

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僕の愛する義母長谷川喜久子の肖像 1 昭和36年9月 31歳

義母は亡くなる前日、入院後、毎日、欠かさず通っていた義父に――義父は耳が遠い上に、義母は一年前から一切の食事を点滴(四箇月前には胃婁となった)で行っていたために総入れ歯を外しており、しかもアルツハイマーであったから、その会話は殆ど聴き取れなかったのであるが――次のように別れ際に語ったという。

「もう、明日(あした)は、来んでええよ。ありがとう――」

父は、

「……あいつが『ありがとう』なんて言うたことは……今まで一度も言うたことはないのに、変やなあ――と、帰りの電車の中で思うとったで……」

と僕に語った……



次の写真は――僕の妻と妻の妹を産んだ後の昭和36年9月、31歳の時の金沢は東尋坊で義父の撮った義母長谷川喜久子のスナップ写真である。

僕は思わず――女優のプロマイドかと見紛うたものである――


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北條九代記 平氏東國討手没落

      ○ 平氏東國討手没落
大相國淸盛入道大に驚き、嫡孫小松少將維盛を大將軍とし、薩摩守忠度を副將とし、上總守忠淸、齋藤別當實盛を侍大將として、三萬餘騎、賴朝追討のため、駿河國富士川の西の岸に下著す。賴朝大軍を率して、黄瀨河に出向(いでむか)はる。甲信兩國の源氏等(ら)北條時政に從つて、二萬餘騎にて推來(おしきた)る。平氏は富士沼の水鳥の騷ぐ羽音(はおと)に驚き、一戦にも及ばす、逃落ちて、都に歸る。九郎義經奥州より上りて、賴朝に對面す。大庭景親降人(がうにん)に成て出でたり。石橋山の役(えき)に方(あた)つて、強敵の張本なれば、首(かうべ)を刎(は)ねられけり。佐竹太郎義政味方に屬す。その弟秀義は金砂(かなさ)の城に楯籠る。叔父佐竹藏人返忠(かへりちう)して城を落す。今度寄手の中に熊谷、平山が勲功を第一に賞せらる。志多(しだの)三郎先生(せんじやう)義廣、十郎藏人行家等、国府(こふ)に参向す。賴朝は鎌倉に歸りて、和田小太郎義盛を侍所の別當にぞ補(ふ)せられける。
[やぶちゃん注:後半部は常陸国金砂城(現在の常陸太田市上宮河内町の西方にある金砂山の山城)に於ける頼朝軍と常陸佐竹氏との戦いである「金砂城の戦い」を語る。まず、現在の知見をウィキの「金砂城の戦い」で見る(ここでは「きんさじょう」と音読みしている。アラビア数字は漢数字に代えた)。『治承四年(一一八〇年)十月、富士川の戦いに勝利した源頼朝は敗走する平家を追撃すべしと命じるが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが、まず佐竹氏を討つべきと主張した。その意見を取り入れた頼朝は平家追撃を諦め佐竹討伐に向かうことにする』。『十月二十七日、頼朝は軍勢を引き連れ佐竹氏のいる常陸に向かって出発する。この日は頼朝の衰日(陰陽道で行動に支障があるとされる日)にあたり、周囲は出発に反対したが、頼朝は「二十七日こそ以仁王の令旨が到着した吉日である」として反対を押し切って出陣した。十一月四日、頼朝は常陸国府に入る。そこで軍議が開かれた』。『まず、佐竹一族の一人佐竹義政が、縁者である上総広常に矢立橋に誘い出された所を誅殺された。この動きを見て動揺した佐竹氏の中には頼朝方に寝返ったり逃亡する者も出てきた。五日、金砂城に立て籠もった佐竹秀義らに対して総攻撃が仕掛けられ、熊谷直実、平山季重が真っ先に城を登った。佐竹氏当主隆義は在京中で不在であったものの、金砂城が断崖に位置する難攻不落の城郭であり、佐竹氏の守りは強固であると見た頼朝は、広常の献策により、金砂城には入城していなかった秀義の叔父佐竹義季を味方につくよう勧誘する。義季は頼朝軍に加わって金砂城を攻撃した。城のつくりに詳しい義季の案内で金砂城は攻め落とされた』。『その後、城を守っていた秀義は奥州(または常陸奥郡)の花園城へと逃亡した』。『佐竹義李は御家人に列せられ、佐竹秀義の所領が頼朝の家人たちに与えられた。新たな占領地を得たことによる御家人たちへの恩賞、地理的には現に鬼怒川水系と香取海を支配して更に北の奥州藤原氏と提携の可能性があり、関東に残る平氏方最大勢力であった佐竹氏を屈服させた事は、関東を基盤とした頼朝政権確立の上で重要な位置を占める戦いであった』。『しかし、頼朝は関東の諸豪族に対しては一旦帰服を促す使者を派遣した上で対応を決定しているのに対して、佐竹氏に対してはそうした動きが確認できないことから、この戦いは相馬御厨や香取海沿岸の帰属問題で佐竹義宗(隆義の弟)や片岡常春と対立関係にあった上総広常・千葉常胤などの房総平氏および同一族と婚姻関係にある三浦義澄が房総地域から佐竹氏勢力を排除するために頼朝に攻撃を要求したとする学説もある』。また、延慶本「平家物語」『によると治承五年の春に佐竹隆義が頼朝と戦った記載があったり』、「玉葉」の翌治承五(一一八一)年四月二十一日条に『浮説ながら佐竹氏が常陸国で頼朝と敵対したとの記載がある。また佐竹氏の存在が奥州藤原氏と共に頼朝の上洛拒否の理由とされた。以上のようなことから、この金砂城の戦いのみで佐竹氏を屈服させたわけではなく、治承・寿永の乱の後期まで佐竹氏は常陸国において頼朝に対して敵対的な行動を取り続けたとみる学説もある』とある。
「佐竹太郎義政味方に屬す」以上のウィキの記載との齟齬でお分かりのように、この部分、筆者は「吾妻鏡」を誤読(若しくは省略した結果、誤記載となってしまった)しているように思われる。佐竹義政は和議に応じたものの、その場で謀殺されている。先のウィキが基づいたところの「吾妻鏡」の当該箇所、治承四(一一八〇)年十一月四日から六日の条を実際に読もう。
   *
〇原文
四日壬子。武衞着常陸國府給。佐竹者。權威及境外。郎從滿國中。然者。莫楚忽之儀。熟有計策。可被加誅罰之由。常胤。廣常。義澄。實平已下宿老之類。凝群議。先爲度彼輩之存案。以緣者。遣上總權介廣常。被案内之處。太郎義政者。申即可參之由。冠者秀義者。其從兵軼於義政。亦父四郎隆義在平家方。旁有思慮。無左右稱不可參上。引込于當國金砂城。然而義政者。依廣常誘引。參于大矢橋邊之間。武衞退件家人等於外。招其主一人於橋中央。令廣常誅之。太速也。從軍或傾首歸伏。或戰足逃走。其後爲攻撃秀義。被遣軍兵。所謂下河邊庄司行平。同四郎政義。土肥次郎實平。和田太郎義盛。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱。同三郎盛綱。熊谷次郎直實。平山武者所季重以下輩也。相率數千強兵競至。佐竹冠者於金砂。築城壁。固要害。兼以備防戰之儀。敢不搖心。動干戈。發矢石。彼城郭者。構高山頂也。御方軍兵者。進於麓溪谷。故兩方在所。已如天地。然間。自城飛來矢石。多以中御方壯士。自御方所射之矢者。太難覃于山岳之上。又嚴石塞路。人馬共失行歩。因玆。軍士徒費心府。迷兵法。雖然。不能退去。憖以挾箭相窺之間。日既入西。月又出東云々。
五日癸丑。寅尅。實平宗遠等進使者於武衞。申云。佐竹所搆之塞。非人力之可敗。其内所籠之兵者。又莫不以一當千。能可被廻賢慮者。依之及被召老軍等之意見。廣常申云。秀義叔父有佐竹藏人。藏人者。智謀勝人。欲心越世也。可被行賞之旨有恩約者。定加秀義滅亡之計歟者。依令許容其儀給。則被遣廣常於侍中之許。侍中喜廣常之來臨。倒衣相逢之。廣常云。近日東國之親疎。莫不奉歸往于武衞。而秀義主獨爲仇敵。太無所據事也。雖骨肉。客何令與彼不義哉。早參武衞。討取秀義可令領掌件遺跡者。侍中忽和順。本自爲案内者之間。相具廣常。廻金砂城之後。作時聲。其音殆響城郭。是所不圖也。仍秀義及郎從等忘防禦之術。周章横行。廣常彌得力攻戰之間。逃亡云々。秀義暗跡云々。
六日甲寅。丑尅。廣常入秀義逃亡之跡。燒拂城壁。其後分遣軍兵等於方々道路。搜求秀義主之處。入深山。赴奥州花園城之由。風聞云々。
〇やぶちゃんの書き下し文(日ごとに注を附した)
四日壬子。武衞、常陸國府に着き給ふ。佐竹は權威を境外に及び、郎從は國中に滿つ。然れば、楚忽の儀莫く、熟々(つらつら)計策有りて誅罰を加へらるべきの由、常胤・廣常・義澄・實平已下の宿老之の類、群議を凝らす。先づ彼の輩の存案を度(はか)らんが爲に、緣者たる上總權介廣常を以て遣はして案内せらるるの處、太郎義政は即ち參ずべしの由を申す。冠者秀義は、其の從兵義政に軼(す)ぐ。亦、父四郎隆義は平家方に在り。旁々(かたがた)思慮有て、左右無く參上すべからずと稱して、當國金砂城(かなさじやう)に引き込もる。然而(しか)れども、義政は廣常の誘引に依りて大矢橋邊に參ずるの間、武衞、件の家人等を外に退かせて、其の主(ぬし)一人を橋の中央に招き、廣常をして之を誅せしむ。太(はなは)だ速やかなり。從軍、或ひは首を傾けて歸伏し、或ひは足を戰(をのの)かして逃走す。其の後、秀義を攻撃せんが爲に軍兵を遣はさる。所謂、下河邊庄司行平・同四郎政義・土肥次郎實平・和田太郎義盛・土屋三郎宗遠・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷次郎直實・平山武者所季重(むしやどころすゑしげ)以下の輩なり。數千の強兵を相ひ率ゐて競ひ至る。佐竹冠者は金砂に於て城壁を築き、要害を固め、兼て以て防戰の儀に備へ、敢へて心を揺がさず、干戈を動かし、矢石を發(はな)つ。彼の城郭は高山の頂きに構ふるなり。御方(みかた)の軍兵は、麓の溪谷に進む。故に兩方の在所、已に天地のごとし。然る間、城より飛び來る矢石、多く以て御方の壮士に中(あた)る。御方より射る所の矢は、太だ山岳の上に覃(およ)び難し。又、嚴石、路を塞ぎ、人馬共に行歩(ぎやうぶ)を失ふ。茲(ここ)に因りて、軍士、徒らに心府を費し、兵法に迷ふ。然りと雖も、退去すること能はず、憖(なまじひ)に以て箭(や)を挾みて相ひ窺ふの間、日、既に西に入り、月、又、東に出づと云々。
[やぶちゃん各注:・「軼ぐ」過ぎるの意味で、秀義の郎等は義政のそれよりも遙かに武運に優れている、の謂い。
・「旁々」これは副詞で、いずれにしても、どのみちの謂い。]
五日癸丑。寅の尅、實平・宗遠等、使者を武衞に進(しん)じて申して云はく、佐竹の構へる所の塞(とりで)は、人力の敗るべきに非ず、其の内に籠る所の兵は、又、一を以て千に當らずといふこと莫し。能く賢慮を廻(めぐ)らさるべし者(てへれ)ば、之に依りて老軍等の意見を召さるるに及ぶ。廣常、申して云はく、秀義の叔父に佐竹藏人有り。藏人は、智謀、人に勝れ、浴心、世に越ゆるなり。賞を行はるべきの旨、恩約有らば、定めし、秀義、滅亡の計を加へん歟(か)者(てへれ)ば、依りて其の儀を許容せしめ給ふ。則ち、廣常を侍中が許に遣はさる。侍中、廣常の來臨を喜び、衣を倒(さかしま)にして之に相ひ逢ふ。廣常云はく、近日東國の親疎、武衞に歸往し奉らつらずといふこと莫し。而るに秀義主(ぬし)、獨り仇敵を爲すは太だ據所(よんどころ)無き事なり。骨肉と雖も、客、何ぞ彼の不義に與(くみ)せしめんや。早く武衞に參じ、秀義を討ち取りて、件(くだん)の遺跡を領掌(りやうじやう)せしむべし者(てへれ)ば、侍中、忽ちに和順す。本より案内の者たるの間、廣常を相ひ具して金砂城の後(しりへ)に廻り、時の聲を作る。其の音(こゑ)、殆(ほとほと)城郭に響く。是れ、圖らざる所なり。仍りて秀義及び郎從等、防禦の術を忘れて周章横行(しうしやうわうかう)す。廣常、彌々(いよいよ)力を得て攻め戰ふの間、逃亡すと云々。秀義、跡を暗(くらま)すと云々。
[やぶちゃん各注:・「佐竹藏人」佐竹義季(生没年未詳)。頼朝の挙兵には加わらなかったために頼朝軍の追討を受けたが、ここに見るように上総介広常の懐柔策に乗って頼朝軍に内通、甥佐竹秀義を亡ぼした。その功によって後に幕府御家人となったが、頼朝に、この時の親族の裏切りを疎まれ、文治三(一一八七)年三月二十一日に駿河へ蟄居させられている。
・「侍中」秀義。
・「衣を倒にして」慌てるさまを言うが、歓迎するの意にも用いる。ここは後者。]
六日甲寅。丑の尅、廣常、秀義逃亡の跡に入りて城壁を燒き拂ふ。其の後、軍兵等を方々の道路に分ち遣はして、秀義主(ぬし)を搜し求めるの處、深山に入りて奥州花園城に赴くの由、風聞すと云々。
[やぶちゃん各注:・「花園城」現在の茨城県北茨城市華川町花園にあった山城。]
   *
「国府(こふ)」「こくふ」の略。]

北條九代記 鎌倉新造の御館

      ○ 鎌倉新造の御館
同年十二月鶴ヶ岡の東の方大倉の郷に新御館(しんみたち)を建てらる。大庭景義同じく奉行を承る。奇麗大廈(きれいたいか)の構(かまへ)は合期(がふご)の沙汰致し難ければ、先(まづ)暫く知家事(ちけじ)兼通が山内の宅(いへ)を遷(うつし)立てたり。往初(そのかみ)正曆年中にこの宅を造りし時、安倍晴明鎭宅(ちんたく)の符をおしけるを以て、遂に囘祿の災なしとかや。同月十一日土木の功を遂げしかば、賴朝即ち渡御し給ふ。前陣は和田小太郎義盛、後陣は畠山次郎重忠なり。斯(かく)て寢殿に入り給へば、御供の諸將等(ら)十八間(けん)の侍所に二行に對座し、義盛中央に候(こう)す。凡(およそ)出仕の侍三百十一人御家人等(ら)皆思ひ思ひに家造(いへづくり)し館(たち)を構へ、命を守り、忠を勵(はげま)す、有道順理の政(まつりごと)に四方悉くその風に懷(なつ)きて、推(をし)て鎌倉殿と稱し奉る。その所は本より遠境邊鄙の事なれば、海郎(かいらう)野人の外には住人(すむひと)少かりしに、今この時に方(あた)つて大名小名多少の人集り、或は市を立て或は店(たな)を飾り、家居更に軒を轢(きし)り、賣買諸職の輩町(まち)を立て、小路を通して、山谷村里夫々(それぞれ)に號(な)を授け、絶えたるを繼ぎ、廢れるを興し、鎌倉の荒蕪を刈拂つて天下草業(さうげふ)を立て給ふ。武威の輝く事、抑(そもそも)頼朝は源家中興の英雄たり。
[やぶちゃん注:「合期」間に合うこと。
「知家事」政所の職掌の一つで、案主(あんじゅ)とともに事務を分掌した。
「知家事兼通」「吾妻鏡」治承四年十月九日の条に基づくが、そこでは「兼道」とある。この人物、不詳であるが、個人のHP「北道倶楽部」の「奈良平安期の鎌倉 頼朝の父義朝の頃」のページの「知家事(兼道)が山内の宅」に鋭い考証が載せられてある。そこでは「知家事兼」道の邸の解体された木材が、大倉まで、どのルートで運ばれたかの考証までなさっておられ、極めて興味深い。
「正曆年中」西暦九九〇年から九九五年。
「同月十一日土木の功を遂げしかば、賴朝即ち渡御し給ふ」治承四(一一八〇)年十二月十二日に移徙(わたまし)の儀が行われている(ここはその条に基づいて書かれている)。「吾妻鏡」には前日の竣工記事はないが、自然ではある。
「十八間」約三二・七メートル。
「大名」鎌倉時代のそれは、多くの名田(みょうでん:荘園や国衙領(こくがりょう)の構成単位を成した田地。開墾・購入・押領などによって取得した田地に取得者の名を冠して呼んだ。)を所有した大名主(だいみょうしゅ)で、家の子・郎等を従えた有力な武士。
「小名」大名主に比して、有意に規模の小さい名田しか領していない武士。]

北條九代記 鶴ヶ岡八幡宮修造遷宮

      ○ 鶴ヶ岡八幡宮修造遷宮
大庭平太景義に仰せて、鎌倉小林郷の北の山を點じて、宮所を造營し、鶴ヶ岡の八幡宮を落慶す。賴朝この間精進潔齋し給ふ。然るにこの宮所の事本所(ほんじよ)を改(あらため)て新地に遷し奉らんは神慮如何(いかゞ)はからひ難し、只神鑒(しんかん)に任せらるべしとて、賴朝自(みづから)御寶前に於いて御鬮(みくじ)を取り給ひければ, 小林の郷に遷り給ふべき由三度まで同じ御鬮の出たりける故にさては神慮も納受あり、危(あやぶ)み奉るべからず」とて、未だ華構の飾(かざり)には及ばすといへども、茅茨(ぼうじ)の營(いとなみ)形(かた)のごとくに修造せらる。抑この八幡宮と申すは古(いにしへ)後冷泉院の御宇伊豫守源朝臣賴義勅(ちよく)を承りて、安部貞任征伐の爲東國に下向ありし時、懇祈(こんき)の旨有て康平六年秋八月竊(ひそか)に石淸水の八幡を勸請し、宮所(みやどころ)を鎌倉の由井郷に建てられたり。其後永保元年二月に賴義の長男陸奥守源朝臣義家修理を加へ、崇祀(あがめたてまつ)り給ひけり。今又是を小林の郷に遷し奉らる。本の宮居をば下の若宮と號し、今の鶴ヶ岡をば上の若宮と申し奉る。往初(そのかみ)平家世を取て年久しく、幣帛(へいはく)を獻(さゝ)ぐる人も自(おのづから)稀なりければ、宮居いつしか神閑(かみさ)びて漸く荒に就き侍りしに、賴朝鎌倉に入り給ひてより、修造遷宮の事を營み、即ち走湯山(そうたうさん)の住侶(ぢゆうりよ)專光坊良暹(りやうせん)を當宮(たうぐう)の別當職にぞ補(ふ)せられける。御燈の光(ひかり)は神威を顕(あらは)し、宮前の花は神德を表す。讀經の聲は砌(みぎり)に響き、振鈴(しんれい)の音は雲に通ひ、蘋蘩蘊藻(ひんぱんうんさう)の供(そなへ)、鼓笛名香(こてきめいかう)の薫(かをり)玉の殿宇(みあや)に潔(いさぎよ)く、朱(あけ)の瑞籬(みづがき)に充満(みちみち)たり。賴朝頭(かうべ)を傾(かたぶ)けて、禮奠(れんてん)信仰丹誠を凝し給へば、その外の輩(とこがら)高きも卑(いやし)きも參詣禮拜せずと云ふ者なし。神慮定て納受(なうじゆ)新(あらた)に、源家擁護の眸(まなじり)は、遠く平氏の凶惡を退治し、国衙垂跡(こくがすゐしやく)の惠(めぐみ)は、近く軍士の勝利を施與(せよ)し給ふものなりと、有難かりける神德なり。
[やぶちゃん注:標題「鶴ヶ岡八幡宮」の「ヶ」には、底本では明らかな濁点が附されている。以降にも散見するが、以後本注は略す。
「蘋蘩蘊藻」「蘋蘩」は浮草と白蓬(しろよもぎ)、「蘊藻」(「おんそう」とも読む)群がる藻の意であるが、ここでは数多の神饌の穢れのない食菜類を指している。
「殿宇(みあや)」読み不審。「みあらか」の誤りか。「御殿」と書いて「みあらか」と読み、宮殿・殿舎を意味し、これも「御在所(みありか)」の転訛である。
「神慮定て納受新に」神もまた、この新しい神宮寺の建立をお納めになったのを契機となさって、の意。
「国衙垂跡の惠」「国衙」は極めて広義の、日本各地の国庁によって支配された正当な国土の謂い、「垂跡」はその日本に神が衆生済度のために仮の神や人の姿となって現われて統率し、それら全国を正しく安定させる恩恵の謂い。
「施與」恵みを与えること。]

北條九代記 鎌倉草創付來歷

      ○鎌倉草創付來歷
上總權介廣常は當國の軍勢二萬餘騎を引率して、隅田川の邊に參向す。賴朝の仰に「廣常が遲參の條、心得難し。後陣にありて、御下知を守るべし」となり。この大軍にて、馳參らば、定て喜び給ふべきかと思ひし所に、却て遲參を咎めらるる事大量の英機あり。いかさま天下を治むべき人なりと恐入てぞ感じける。千葉介軍(いくさ)評定の中にして、賴朝へ申入られけるは、「今此御陣所はさせる要害の地にあらず、讐敵不慮に襲ひ來らば、防難(ふせぎがた)かるべし、相摸國鎌倉こそ曩祖(なうそ)の勝跡とて地形(ちぎやう)堅固なり、陸の手賦(てくばり)、海の通路、四方の國郡に便宜(びんぎ)あり。軍兵を集むるに分内(ぶんない)廣く、兵糧の運漕心のまゝに候。抑(そもそも)此所を鎌倉と名付くる事は昔大職冠鎌足公は常陸國に誕生し、都に上りて、宮中に仕奉(つかうまつ)り、次第昇進して、家門榮え、天智天皇八年に藤原の姓(しやう)を賜り、入鹿の逆臣(げきしん)を討(うつ)て、天下を靜め、内大臣に補任(ふにん)せられ、威勢四海に耀き、聲德八荒に盈(みち)ち給ふ。其宿願の喜(よろこび)として、常州鹿嶋に詣で給ふ歸洛の次(ついで)、相州由井の郷に宿し、その夜夢の告(つげ)に依(よつ)て、守(まもり)の鎌を大倉の松岡に埋(うづ)み給ふ。是に依て鎌倉とは名付け候なり。鎌足公の玄孫染屋太郎時忠と云ふ者忠孝武勇(ぶよう)の譽(ほまれ)あり。文武天皇の御宇より聖武皇帝の御世に至るまで、鎌倉に居住して東八ヶ國の追捕使(つゐふし)たり。後に平貞盛が孫上野介平直方(なほかた)任に應じて下り住みける所に、伊豫守賴義相摸守になりて下向の時、貞方が女(むすめ)を妻(めあは)せて賴義を婿とす。八幡太郎義家その腹に誕生し給ひ、成人して陸奧守に任じ、征夷將軍に補(ふ)せられ御下向ありける所に、直方即ち鎌倉を義家に讓り奉りしより以來、源家累代の領知として御家人は多く東國に充満(みちみち)たり。然れば佳運(かうん)を天下(あめがした)に開き先祖を雲の上に顯(あらは)さんには、誠に慶(めでた)き勝境(しようきやう)にて候」とぞ申されける、賴朝大に甘心(かんしん)し給ひ、總州鷺沼の陣旅(ぢんりよ)を拂(はらつ)て軍兵三萬餘騎を率(そつ)して、隅田川を渡りて、武藏國に入り給へば、畠山、葛西、足立の人々馳付(はせつ)きたり。相摸國に著き給ふ前陣は、畠山次郎重忠、後陣は千葉介常胤なり。軍兵追々加りて、幾十萬とも知難し、先(まづ)鎌倉の民屋(みんをく)を點じて、御座として入れ奉る。その外の輩(ともがら)は谷に塞(ふさが)り、山に満(みち)て、思ひ思ひに陣を取る。治承三年十月六日鎌倉山に花開けて瞻々(にぎにぎ)しくぞなりにける。同十一日賴朝の御臺政子を大庭平太景義迎へ奉りて、鎌倉に入れ給ふ。めでたかりける事どもなり。
[やぶちゃん注:「八荒」国の八方の果て。全世界。
「總州鷺沼」現在の千葉県習志野市津田沼の一部。
「治承三年十月六日」は「治承四年」の誤りである。]

北條九代記 右大將賴朝創業

      ○ 右大將賴朝創業
爰に右大將源朝臣賴朝は淸和天皇十代の後胤左馬頭義朝の三男なり。後白河院の御宇保元三年二月に生年十二歳にして皇后宮權少進(ごんのせうしん)に補(ふ)せられ、右近少監上西門院藏人になされ、二條院平治元年十二月十四日右兵衞佐に任ぜられ、源家貴顯の時至りける所に、同じき十二月二十七日父左馬頭義朝は右衞門督藤原信賴に賴まれ、謀叛に與(くみ)して、淸盛の爲に没落して、東國に赴き、長田莊司に討たれ給ひぬ. 賴朝は十四歳にして、彌平兵衞宗淸に生捕れ、殺さるべきに定りしを、池禪尼にたすけられ、伊豆國蛭が小嶋に流され、伊藤入道祐親が館におはします。祐親是を殺しまゐらせんと計りければ、伊藤を忍出(しのびいで)て、北條時政を賴みて入り給ふ。時政、即ち我が娘政子を合せて婿とす。斯(かく)て二十餘年の星霜を送迎へて、賴朝既に三十四歳に成り給ふ。治承四年四月に高倉宮の令旨を給はる所にその事露顯して、源三位賴政入道父子一族共に宇治の平等院にして、平家の爲に討たれ高倉宮は光明山の鳥居の前にして流矢に中(あたつ)て、御命を落し給ふ。平家大に憤り、今度令旨を受し諸國の源氏等悉く追討すべき由聞えければ、賴朝仰けるは「平家の討手を受て防がんとせば、今の世に誰(たれ)か味方に參る者あらん。徒(いたづら)に手を束(つか)ねて死を待つより外の事有べからず。遮(さへぎつ)て平氏追討の策(はかりごと)をめぐらし、運命を天道に任すべし」とて、北條時政と密談し、藤九郎盛長を使とし、累代源氏の御家人をぞ招かれける。土肥、岡崎、佐々木、工藤、宇佐美、加藤の輩(ともがら)召(めし)に應じて參向(さんかう)す。八月十七日の夜、八牧(やまきの)判官散位兼隆を討て、それより北條を出て、相州土肥郷に赴き、其勢三百餘騎にて石橋山に陣取り給ふ。大庭三郎景親、俣野五郎景久、梶原平三景時、曾我太郎助信、以下三千餘騎にて襲掛る。賴朝の軍敗績(はいせき)して、佐奈田與一、武藤三郎討死す。賴朝は椙山(すぎやま)に登り、伏木(ふしき)の中に隱れ給ふを、梶原平三是を知ながら助け奉る。軍(いくさ)散じて、北條時政、土肥實平、近藤、岡崎尋ね逢ひ奉り、土肥の眞名鶴が崎より舟に乘り、賴朝既に安房國に渡り給へば、三浦介義澄以下迎へ奉り、小山、豐嶋、下河邊(しもかうべ)の輩御味方に参りぬ。甲斐の源氏武田太郎信義、一條次郎忠賴起立(おこりたち)て、旗を揚たり。千葉介常胤は三百餘騎にて賴朝の御陣に参向(まゐりむか)ふ。賴朝今は漸く軍兵を儲け給ふ。其勢都合六百餘騎いづれも一騎當千の勇士として二心なき忠節の人々なれば、たのもしくぞ思ひ給ひけれ。
[やぶちゃん注:「高倉宮」。以仁王のこと。三条高倉に邸宅があったことから、こう別称された。
「敗績」は、大敗して今までの功績を失うこと。
「伏木の中に隱れ給ふ」底本の頭書きには『虛説といふ』とあり、現在知られる一般的な話柄では、現在の湯河原町山中にある洞窟「しとどの窟(いわや)」とする。
「豐嶋」底本では「てしま」とルビするが、採らない。]

北條九代記 朝將帥の元始

卷第一
      ○本朝將帥の元始
夫武將元帥の始を按ずるに、人王の第一代神武天皇東征の時、道巨命(みちおみのみこと)を以て軍帥とし給ふ。是物部氏の始祖なり。崇神天皇十年に四道の將軍に命じて四方の國を治めしむ。將軍の號是より起れり。第十二代景行天皇四十年に皇子日本武尊(わうじやまとたけるのみこと)を以て大將軍とし、武日武彦(たけひたけひこ)の二人の命(みこと)を左右の副將として東夷を征伐し給ふ。神宮皇后三韓を伐(うつ)て、鎭守將を遣して、其後を治めらる。鎭守府の稱(な)は是より起れり。日本國中に殊更東夷叛き易く、帝都を襲ひ奉るを以て、東征の將軍を置きて、國司の外に鎭守府を任じ、邊要(へんえう)の警(かため)とせらる。聖武天皇の御宇に始れり。藩鎭才幹の器(き)を逞(たくまし)く、智謀武勇(ぶよう)を兼ねざる則(ときん)ば、この仁にあたるべからず。文屋綿丸(わたまる)より征夷將軍の號あり。坂上田村丸は征東夷將軍と稱す。参議藤原忠文(ただぶん)を征東大將軍に任ぜらる。その後久しく中絶せしに木曾義仲都に上り、兵權を執るの日征東將軍に任じ給ふ。其後右大將賴朝を征東六將軍に任ぜられしより連綿として相續し、その子賴家は少將にして是を兼ねたり。舍弟實朝は兵衞佐の時より右大臣に至るまで是を兼ね給へり。徃昔(そのかみ)は國司職五ヶ年にして改補(かいふ)せられ、武將勳功大なれども、數ヶ國を管領(くわんりやう)する事なし。然るを後白河法皇叡慮短くおはしまして、平氏相國淸盛に高位を授け、一類に給はる分國三十七ヶ國、日本の半分に越えたり。是より武威盛(さかり)になり、主上上皇近臣の御惱(おんなやみ)と成りにけり。是にも御後悔の叡慮なく、賴朝を六十餘州の惣追捕使(そうついふし)に補(ふ)せられ、暫は公家武家牛角(ごかく)なりけるを、王法次第に衰微になり、武家日を追て昌榮(しやうえい)せり。京都には兩六波羅に奉行を置き、築紫には探題を居(すゑ)、諸國には守護を定め、荘園に地頭を置きて、公家の政務を用ひず。賴朝の權威雲に翔(かけ)り、賴家實朝に至り、僅に父子三代四十二年を持ちて、天下の柄(へい)自然として北條時政の手に屬(しよく)せり。承久の末に攝家の御息を鎌倉に申下し、征夷將軍に仰ぎ奉る。是も只二代にして跡絶えたり。又親王家を申下し、將軍と崇め奉りしも、四代にして終り給ふ。その間(あひだ)北條遠江守時政より相摸守入道高時に至る天下國家の執權たる事前後九代を持(たもち)たり。武將三代、攝家二代、親王四代、是も亦九代なり。
[やぶちゃん注:「是物部氏の始祖なり」とあるが、道臣命は大伴氏の祖神であるから、「大伴氏の始祖なり」の誤りである。
「邊要」京を離れた辺地の要所。
「聖武天皇の御宇に始れり」現在の知見では、大野東人(おおののあずまびと 生年不詳~天平一四(七四二)年)が聖武天皇により天平元(七二九)年、陸奥鎮守将軍に任じられたのを濫觴とするとされている。
「文屋綿丸」文室綿麻呂(ふんやのわたまろ 天平神護元(七六五)年~弘仁一四(八二三)年)。弘仁二(八一一)年に「征夷将軍」に任ぜられている。
「坂上田村丸」文室綿麻呂の前任者であった東夷征討の責任者坂上田村麻呂は延暦一五(七九六)年鎮守将軍に任命され、翌延暦一六(七九七)年に征夷大将軍に昇格している。また、同類の称を遡るならば、和銅二(七〇九)年に「鎮東将軍」に任ぜられた巨勢麻呂(こせのまろ)がいる。
「参議藤原忠文」(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)の「征東大将軍」叙任は天慶三(九四〇)年で平将門追討を目的としたもの。当時六十八歳であったが、実際には忠文の関東下着前に、将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれていた(ウィキの「藤原忠文」に拠る)。
「木曾義仲都に上り、兵權を執るの日征東將軍に任じ給ふ」寿永二(一一八三)年八月十六日に「旭の将軍」(征夷大将軍に準ずる特別職として後白河法皇が与えたもの)の号を受けたことを指す。彼は翌寿永三年一月十五日には、正式な征東大将軍の宣下を受けている。
「牛角」互角。
「承久の末に攝家の御息を鎌倉に申下し、征夷將軍に仰ぎ奉る」建保七(一二一九)年一月二十七日に実朝が暗殺され、建保七年は四月十二日に改元されて承久元年となる。将軍の後継者として五摂家の一つである九条家の九条道家三男(源賴朝同母妹坊門姫曾孫)三寅(みとら)が満一歳で鎌倉に迎え入れられたのは七月十九日であった。但し、その後の承久の乱をはさんで、六年後の嘉禄元(一二二五)年、元服し賴経と名乗り、翌嘉禄二(一二二六)年、将軍宣下により第四代将軍となっている。以上の史実を考えれば、「承久の末」は誤りで、直下の「攝家の御息を鎌倉に申下し」に応ずるならば、「承久の始め」とすべきところである。]

ブログ・アクセス410000記念始動「北條九代記」 序

北條九代記

[やぶちゃん注:本書は頼朝・頼家・実朝の源家三代将軍の事蹟(巻第一から巻第四)及び、北条時政から高時に至る鎌倉幕府を実質支配した北条得宗家九代(時政①・義時②・泰時③・時氏・経時④・時頼⑤・時宗⑧・貞時⑨・高時⑭。名前の後の数字は執権次第で時氏は二十八歳で早世しており執権になっていない)を中心に鎌倉幕府の興亡を物語風に語った記録で、全十二巻からなり、延宝三(一六七五)年に初版が刊行されている。著者は不詳とされるが、江戸前期の真宗僧で仮名草子作家として有名な浅井了意(慶長一七(一六一二)年~元禄四(一六九一)年)が有力な候補として挙げられている。底本は昭和四(一九二九)年友朋堂書店刊「友朋堂文庫 保元物語 平治物語 北條九代記」(大阪大学大学院文学研究科国文学東洋文学講座教授岡島昭浩氏作成になるPDF版)を用いたが、読みについては、私が読みが振れると判断したもの、難読と思われるもの及び一般的でない読みをしている箇所についてのみ振った。句読点についてはただの字空けとなっていたり、句読点が逆転している部分などが散見されるため、私の判断で打ち変えたり、打ったりしており、底本には準拠していない。本文記載には明らかな誤りと思われる箇所があり、後注で理由を述べて補正した。難語や不審な個所については注を附した。本文の誤りについては教育社一九七九年刊の増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記」(全三巻)を参考にさせて頂いた。本テクストは鎌倉地誌「新編鎌倉志」及び「鎌倉攬勝考」の注釈附電子テクストを完成した今、鎌倉時代史を面白く読みながら歴覧出来るものを私のHPに加えたいという私の願望充足を目的として始めたものである。たかが、そうしたテクストであり、されど、それなりのテクストではある。加えて、ブログ版での先行始動は二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログ・アクセスが四一〇〇〇〇を突破した記念として公開を始めた。【二〇一二年一〇月二十九日】]

北條九代記

北條九代記序
夫文武両道。天下治世之經緯。國家安民之綱紀也。亂時期良將逞武威。而靜四海於大平之地。治世則明君修道德。而浴萬民於淳化之澤矣。斯故文武如兩輪。又譬二翼。若是缺一。則謬理政一之基。而損敗自淺至深焉。蓋君暗而親侫信讒極奢。臣偸昌其權誇勢奸邪濫上淸廉廢下。流言聞于外。憤恨生於内。禍必起乎蕭墻之本。熒熒既炎炎。遂招于滅亡之患焉。茲以天下國家之興廢如運掌矣。庶幾復仁修德。本義謹深。正義謹深。正禮而行和也。道德即契天理。庶品仰其惠。明時歸日新。六合雲治。四海浪靜。錯宗門戸昌榮。靡草安泰之佳運。以致萬全。以流昌永代言爾。

[やぶちゃん注:以下に私なりに読んだ書き下し文(難読語には私が歴史的仮名遣で読みを振った)を示す。

北條九代記序
夫れ文武の両道は、天下治世の經緯、國家安民の綱紀なり。亂時は、良將、期して、武威を逞しうして、四海をして大平の地に靜めしめ、治世は則ち明君、道德を修めて、而して萬民をして淳化の澤に浴せしむ。斯かる故に文武は兩輪のごとく、又、二翼に譬ふ。若し是れ、一を缺かば、則ち理政を謬するの基いにして、損敗、淺より深に至る。蓋し、君、暗にして侫に親しみ、讒を信じ、奢を極むれば、臣、其の權を偸み、勢を誇り、奸邪、上を濫して、淸廉、下に廢る。流言、外に聞き、憤恨、内に生じ、禍、必ず蕭墻(せうしやう)の本(もと)を起す。熒熒(けいけい)は既に炎炎たり。遂に滅亡の患を招く。茲れを以て、天下國家の興廢、掌を運ぶがごとし。庶幾(こひねが)はくは、仁を復し、德を修し、義を本(もと)として謹んで深め、禮を正して和を行はんや、道德は即ち天理に契り、庶品(しよひん)は其の惠を仰ぎ、明時(めいじ)は日新に歸る。六合、雲、治まり、四海、浪、靜かにして、錯宗(さくそう)の門戸も昌榮(しやうえい)す。靡草(びさう)たり、安泰の佳運、以て萬全に致るとは、以て永代に流るる言のみ。

「蕭牆の本」は細長い垣根状の囲い、転じて身内や一門を指す。災いは必ず身内から起こるという謂い。
「熒熒は既に炎炎たり」「熒熒」は、小さくきらきらと輝くさまであるが、小さなどうとういことにも見えぬ禍いの火(ほ)むらの意で、それがますます「炎炎」、盛んに燃え広がってという意。
「掌を運ぶ」掌を返す、の意であろう。
「庶幾」心から願うこと。
「庶品」あらゆるもの(人々)。
「明時」文明が開化して平和に治まっている太平の世。
「日新」日々、新しく良くなっていくこと。
「六合」天と地と四方。天下。世界。全宇宙。六極。
「錯宗の門戸」「錯宗」は「錯綜」で世に建ち並ぶ民草の家々の謂いであろう。
「昌榮」昌運繁栄。運が向いて高まり、栄えること。
「靡草たり、安泰の佳運」風に従って自然、草が靡くような、順風満帆の安泰の幸運。
「永代に流るる言」永久に変わらぬ謂いである、即ち、真理である、という意味であろう。]

母と義母と / ブログ・アクセス410000突破 / スペシャル・プレゼント予告

木曜の朝に亡くなった義母蓮臺淨喜大姉(俗名長谷川喜久子)の通夜と葬儀は翌日が友引であったため、この土日に行われた。

僕の僕の母との別れは――たった4時間余りであった。――亡くなった母に病院で逢ったのが朝の6時過ぎ、午前10時半、僕が依頼した慶応大学医学部の献体の引き取りに来た車で去ってゆく母を、父と僕と妻と看護婦さん一人の4人だけで見送ったのだった。

僕と僕の義母との別れは、既に名古屋は瑞穂区にある実家に戻っていた義母と対面したのが10月25日の午前10:00、名古屋の八事斎場で拾骨を終えたのが4:30――実に丸3日と6時間余りであった。――私は長女の婿であることから、喪主である義父の次の座らされ、妻は足が悪いために茶汲みから受付(家族葬であったために30人弱しか弔問は来なかったが故に通夜も葬儀も僕一人で受付香奠計算もした)まで、文字通り、八面六臂の働きをせずんばならずであった訳である。

それは――あらゆる点で――すこぶる対照的且つ相互に印象的であったと言える。

しかし、今、それについて語ろうとは思わない。

思わないが――しかし――まず、普通の人が経験することの稀なるところの――二人の「母」の「送り」を僕はしたのだ――ということだけは言っておこう。

告別は人を変える――

事実、僕は母との別れを境に文章まで変わった(と教え子は言う)――

さて――義母との別れは僕に何を「齎して呉れる」でのあろう……楽しみである……

   *

先程、一足先に僕だけが鎌倉へ戻った。
たまたま今日のついさっき、

2012年10月29日の14:06に

“The Picture of Dorian Gray: Sans Souci”

を見た方(これは僕の幼稚園時代の写真だ。義母が天国からアクセスしたのだろうか?)、あなたが2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、410000丁度のアクセス者でした。

既に記念テクスト(というより、特殊プロジェクトの始動用部分テクスト)は用意してある。

これより公開作業にとりかかりたいのだが、アリスの右眼が炎症を起こしているので、動物病院に連れて行き、久し振りに散歩に連れ出す。暫く、お待ちあれ。

   *

また――その公開後に、とある飛び切りの美人の写真を紹介したいとも思っている――乞うご期待!

2012/10/25

本日、午前4時9分、名古屋の義母長谷川喜久子が亡くなりました。82歳でした。

本日、午前4時9分、名古屋の義母長谷川喜久子が亡くなりました。82歳でした。

結婚式をしなかった僕をただ一人笑顔で讃えて呉れ、最後まで「たーちゃん」と呼んで愛して呉れた彼女は――今頃、凡そ一年半前、一足先に旅立った僕の母と再会し、優しい笑顔で二人して、この喧噪の下界を見下ろしていることでしょう――。

2012/10/24

望むこと二つ 《芥川龍之介未電子化掌品抄》

 

望むこと二つ――アンケート「私がもし生まれかはるならば」に対する芥川龍之介の回答――

やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年三月発行の『文章倶楽部』に「私がもし生まれかはるならば」という大見出しの元に諸家アンケートとして表記の題で冒頭に掲載された(保昌正夫「文章俱楽部総目次・執筆者索引」によれば、外に葛西善蔵「健全な人間に」・小川未明「私の延長」・川路柳虹「地球の最後迄」・白鳥省吾「現在の自分を滓として生れる」・福田正夫「大樹のやうな性格の持主に」が載る)。底本は岩波版旧全集を用いた。副題は底本に従わず私が附した。]
 

望むこと二つ
 

 もし現在の自分の個性をそのまゝ持つて生れかはるとすれば、先づ矢張り人間に生れかはりたい。唯もう少し、頭が良くて、肉體が丈夫で、男振りが好い人間に生れかはりたい。生れる場所は、成るべく金のある家に生れて一生食ふ爲に働かずともいゝやうにしたい。あまり大金持の家に生れるとすると、却つて苦んだり戰つたりしない爲めに、健全に發達しないと云ふ説もあるけれど、僕の個性をそのまゝ持つてゐれば、その點は大丈夫だから、矢張り大金持の方が好都合である。 

 その外に僕は、かう云ふことを考へてゐる。と云ふのは、もし本當に生れかはるものとすれば、人間より下等な馬か牛に生れかはる。そして何か惡いことをして死ぬ。さうすると、神だか佛だか知らないけれども、兎に角、さう云ふものが僕を、馬や牛よりも下等な雀か鳥にするだらう。それが又惡いことをして死ぬと、今度は、魚か蛇にするだらうと思ふ。それ、が又惡いことをして死ぬと、今度は蝶々とか蚯蚓とか云ふものにするだらうと思ふ。それが又惡いことをして死ぬと、今度は松の樹や苔などになるだらうと思ふ。それが又惡いことをして死ぬと、今度は、バクテリヤになるだらうと思ふ。そのバクテリヤが惡いことをして死んだ時に、神だか佛だか何かさういふ知らないものが、一體僕を何にする了簡だらうと思ふと、ちよつと馬や牛に生れかはつて、順々に惡いことをして、死んで行つてみたいやうな氣もする。 

人寐ねて月けだかしや萩の上 畑耕一

人寐ねて月けだかしや萩の上

耳嚢 巻之五 守護の歌の事

 守護の歌の事

 

 加茂の長明、禁理(きんり)へ守護を奉りける時、守護はいかなるわけにて其奇特(きどく)ありやと御尋ありし時、

  守りせは己もしらじおやまだに弓もてたてるかゝし也けり

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。二つ前の「戲歌にて狸妖を退し由の事」と滑稽和歌技芸譚で直連関し、同話のに登場する神主である賀茂神社でも繋がる。にしても都市伝説(噂話)が多い中、珍しい六〇〇年前の鎌裏時代の話柄である。

・「守護」神社のお守り・護符・守り札のこと。

・「鴨長明」(久寿二(一一五五)年~建保四(一二一六)年)は賀茂御祖神社(下賀茂神社)の神事を統率する鴨長継の次男として京都で生まれたが、望んでいた同神社内にある河合社(ただすのやしろ)の禰宜につくことが叶わず、神職としての出世の道を閉ざされたため、後に出家して蓮胤とを名乗った(出家遁世の動機は琵琶の師の亡くなった後、禁曲を演奏したことが告発されたためとも言われる)。位階は従五位下(以上はウィキ鴨長明」による)。

・「禁理」底本には右に『(禁裏)』と傍注する。

・「奇特」神仏の持っている超自然の霊力。霊験。この意の場合は「きどく」と読んで「きとく」(優れている、珍しいの意)とは読まないのが通例。

・「守りせは己もしらじおやまだに弓もてたてるかゝし也けり」分かり易く書き直すと、

  守りせば己(おのれ)も知らじ小山田に弓持(も)て立てる案山子(かかし)なりけり

で、「己も知らじ」は掛詞で、護符が何から守ってくれるかは私もよう分からぬの意と、山田の案山子は何を自分が守っているかは分からぬの意を掛ける。

……何を守るかとおしゃるか? これは、我らも存ぜぬ――それは――丁度、山田の只中に弓矢を持って立つ案山子そのものであったのじゃったのぅ――何を守るかは存ぜぬ故にこそ――何もかも堅固に守って御座るのじゃ……

これは長明より百年後代の鎌倉後期の臨済僧、仏国禅師高峰顕日(こうほうけんにち 仁治二(一二四一)年- 正和五(一三一六)年)の以下の歌によく似ている。

  心ありて守(も)るとなけれど小山田に徒(いたず)らならぬ案山子なりけり

この歌は恐らく、

――心があって守るという訳ではない――その山田の只中の案山子でも――その威厳を以て鳥獣を去らせる――これは無為に見えながら妙法を致いておる――心の面に現わるることなくして――無念無想の境地に案山子は――「在る」のであったのぅ――

といった公案みたようなものであろう。長明に本歌の記録がなければ、本話柄はこの仏国禅師の和歌に基づく後の創作と思われる(長明の和歌を精査したわけではないので確かなことは言えない)。高峰顕日は後嵯峨天皇第二皇子。康元元(一二五六)年に出家後、兀庵普寧(ごったんふねい)・無学祖元に師事、下野国那須雲巌寺開山。南浦紹明とともに天下の二甘露門と称され、幕府執権北条貞時・高時父子の帰依を受けて鎌倉の万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺住持を歴任、門下に夢窓疎石などの俊才を輩出、関東における禅林の主流を形成した(以上の事蹟はウィキ高峰顕日に拠った)。

 なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

  守りとは己(おのれ)も知らじ小(お)山田に弓もて立てる案山子(かがし)也(なり)けり

の形で載る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 守り札の歌の事

 

 鴨長明が宮中へ御守護の札を奉った際、

「『守護』とは如何な意味にておじゃる?――何から守り――何の奇特(きどく)があると――申すのじゃ?」

とお尋ねがあった。それに長明が応えた歌、

  守りせは己もしらじおやまだに弓もてたてるかゝし也けり

2012/10/23

僕は 三好達治

さう、さうだ、笛の心は慰まない、如何なる歌の過剩にも、笛の心は慰まない、友よ、この笛を吹くな、この笛はもうならない。 僕は、僕はもう疲れてしまった、僕はもう、僕の歌を歌つてしまつた、この笛を吹くな、この笛はもうならない、―― 昨日の歌はどこへ行つたか? 追憶は歸つて來ない! 春が來た、友よ、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

昨日の歌はどこへ行つたか? 思出は歸つてこない! 昨日の戀はどこへ行つたか? やさしい少女は歸つてこない! 彼女はどこへ行つたか? 昨日の雲は歸つてこない! ああ、いづこの街の黄昏(たそがれ)に、やさしい彼女の會話があるか、彼女の窓の黄昏に、いかなる會話の微笑があるか、僕は、僕はもう知らない、春が來た、友よ、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

僕は今日、春淺い流れに沿つて、並樹の影を歩いたのだ、空は曇つてゐた、僕は、野景に、遠い畑や火見櫓(ひのみやぐら)を眺めたのだ、森の梢に鶫(つぐみ)が光つて飛んでゐた。風に、高壓線が鳴つてゐた。それから、いろいろの悲しい憧憬(あこが)れが、僕に、僕の頰に、少し泪(なみだ)を流したのだ、僕は、僕は疲れて歸つて來たのだ、僕はもう追憶の行衞(ゆくへ)を知らない、友よ、春が來た、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

   (三好達治「測量船」より)

乳母車 三好達治

母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花(あぢさゐ)いろのもののふるなり
はてしなき並木のかげを
そうそうと風のふくなり

時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ

赤い總ある天鵞絨(びろおど)の帽子を
つめたき額(ひたひ)にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり

淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私はしつてゐる
この道は遠く遠くはてしない道

   (三好達治『測量船』より)



「轔々」とは車が軋んで音を轟かす形容である。

……僕はこの詩を、遠い昔――授業でやった気がする――それを教えたのは「君」だったかどうか――もう僕は覚えていない――しかし今日――僕は少しばかりこの詩を「君」と一緒に読んでみたくなったのだった……

耳嚢 巻之五 壯年の血氣に可笑しき事もある事


 壯年の血氣に可笑しき事もある事

 

 予が同寮(どうりやう)其の側にて召仕(めしつかひ)たる若者、申合(まうしあはせ)て錢湯へ至りて風呂へ入、あがり湯を取りて手足を洗ひ居しが、隣は女湯にて上の方は羽目にて境ひせしが、下は格子也しが、右女湯へ入りし女子(をなご)、隣より見へん事はしらず、陰門をかの格子の方へむけて微細(みさい)に洗濯するを風與(ふと)見付て、壯年の勢ひ男根突起して中々忍び難く、さながら人の見んも恥かしく、早々風呂の内へ飛入て暫くして立出(たちいで)みれば、やはり最初の通り故、見まじと思へ共彌(いよいよ)男根踊起(をどりおき)る故、詮方なく又々風呂の内へ入りしが、餘りに長く風呂に有し故、湯氣(ゆき)にあがり暫く忘然(ばうぜん)として氣絶もなさん樣子故、連(つれ)の傍輩(はうばい)兎角して介抱なし漸々(やうやう)ともなひ歸りし。老來我黨(らうらいのわがたう)浦山(うらやま)しき元氣也と一笑しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。「耳嚢」では比較的珍しい下ネタである。湯屋(ゆうや)艶笑譚であるが、一つ気づくことは、当時の男湯と女湯の仕切の造作はそれぞれの湯屋によって相当に異なっていたことが窺える。そうでなければ、かくその構造を巨細に描く必要はないからである。なお、現代語訳では、主話のコーダに私の山椒を利かせておいた。

・「同寮」底本には右に『(同僚)』と傍注する。

・「銭湯」銭湯ではまず、江戸前期の男女混浴の事実を挙げねばなるまい。ウィキの「銭湯」の相当箇所には以下のようにある。『男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した』ため、寛政三(一七九一)年に男女入込(いれこみ)禁止令『や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた』とある。また、風呂の世界史から日本史まで絵図も添えて書かれた優れた「風呂の話」(個人HP「シルバー回顧録内)では、この辺りからの記述が詳細を極めてまことに面白いので引用させて頂くと(アラビア数字を漢数字に代えた)、『ざくろ口のために浴室内は湯気がもうもうと立ちこめ、窓が無いので暗く、男女が混浴のために現代風にいえば痴漢・痴女が横行し、商売女がなじみ客と顔を会わせると人目もはばからず風紀を乱すこともありました。そこで風呂屋の営業日を男女別に定めて、今日は男性専用日に、翌日は女性専用日にすることにしましたが、この制度はやがて崩れてしまい、元の「男女混浴の入れ込み風呂」になりました』。寛政の混浴禁止令以降も『男女混浴(入れ込み)は何度も禁止されましたが、必ずしも守られずに継続し、天保一三年(一八四二年)には、幕府が 一つしかない浴槽に仕切りを作り、男湯、女湯の分離を設けさせましたが、仕切りは表面に近い部分だけで底の方は共通していたので、潜水して隣の浴槽に移る不心得者がいたそうです』。『日本では昔から男女混浴についてはおおらかであり明治になってからも何度も混浴禁止令が出されましたが、実際に都市部の公衆浴場での男女混浴が減少したのは、明治二三年(一八九〇年)からで、七歳以上の男女の混浴は禁止という内務省令が出されて以降のことで』、『これでも長年の混浴習慣はなかなか変えられずにいたので、明治三三年(一九〇〇年)にも混浴禁止令が出されましたが、昭和三四年(一九五九 年)に私が北海道を旅行した当時は、脱衣所は別でも中では混浴の温泉風呂が数多くありました。その習慣は現在も各地のひなびた温泉宿に残り、混浴風呂があります』と美事に銭湯考現学が語られてある。以下、銭湯のアカデミックな歴史について平凡社「世界大百科事典」より、晴山一穂の記載の相当箇所を一部表記を改変して引用する(それにしても何故、この記述は男女混浴の事実を語っていないのであろう。これがアカデミズムというものなのであろうか?)

   《引用開始》

銭湯には蒸気浴と温湯浴の二種類があり、古くは前者が風呂屋で、後者が湯屋とはっきり区別されていた。室町末の上杉家本《洛中洛外図》には風呂屋が描かれている。土塀に囲まれた板屋根の粗末な建物で、入った左手が脱衣場、右手が洗い場らしく、垢(あか)取女が客の背中を流している。奥には、板で囲い出入口に垂壁(たれかべ)のついた蒸気室のようなものが描かれている。この形式の風呂屋は江戸初期まで盛んだったらしく、慶長~寛永(一五九六-一六四四)ころの風俗画にはしばしば描かれている。外観については特別に銭湯らしい装置というものもなかったようで、大衆向けの風呂屋はごく粗末な板屋根の小屋のようなものである。ぜいたくな風呂屋では蒸気室の入口に唐破風(からはふ)をつけたり、洗い場を広くとり、休憩室を設けたりしているが、外観は一般の町屋と変りはない。蒸気室の出入口を引戸に改良したのが戸棚風呂であるが、これが湯屋にとり入れられるようになった。すなわち、引戸の中の小室に湯槽を据えて、膝ぐらいまで湯を入れ、湯と蒸気により熱効率をよくしようとするもので、〈風呂六分湯四分〉といわれる。このあたりで風呂屋と湯屋の区別があいまいになった。これがさらに改良されたのが柘榴口(ざくろぐち)である。柘榴口は出入口の引戸をまた垂壁式に変え、湯槽の湯を深くしたもので、〈風呂四分湯六分〉といわれる。柘榴口の場合も唐破風がつけられたが、なかには垂壁の部分に牡丹(ぼたん)と唐獅子などの極彩色浮彫をつけたものもあった。こうした形式になるのは幕末ころと思われるが、このころには外観も二階建てで、男湯、女湯と分かれた湯屋らしい特徴のある建物となり、二階は男湯の休み場となっていた。柘榴口は、内部が狭くて暗く、不衛生であったため、明治に入ると禁止されるようになり、ほぼ明治三十年(一八九七)ころにはなくなった。柘榴口が撤去されたかわりに出てきたのがペンキによる風景などの壁画で、一九一二年が最初という。(中略)

[江戸の銭湯]近世初期、江戸では丹前(たんぜん)風呂の名が喧伝され、〈丹前風〉と呼ぶ風俗を生み出した。この銭湯は、現在の神田須田町付近、堀丹後守の邸前にあった何軒かの湯女(ゆな)風呂で、丹後殿前を略して〈丹前〉と呼んだ容色のすぐれた湯女をかかえて、浴客の垢をかき、髪を洗い、酒席にはべるなどさせて人気を集め、一六二九年(寛永六)吉原の夜間営業が禁止されたこともあって繁昌した。とくに、津の国屋の勝山という湯女が男装したことにはじまり、町奴、旗本奴などの〈かぶき者〉の間に伊達(だて)で異様な服装や動作が流行した。これがいうところの〈丹前風〉で、厚く綿を入れた広袖のどてら(丹前)や歌舞伎の六法の演技などにいまもその面影をとどめている。湯女風呂は風紀上の理由で一六五七年(明暦三)に禁止され、以後江戸の銭湯はそれぞれの町内の共同入浴施設といった性格をもつようになった。そして、狭い地域内の人々がたえず顔を合わせるところから、銭湯は町の住人たちの社交場としての役割を果たすようになった。式亭三馬の《浮世風呂》など銭湯を舞台とする小説が書かれたゆえんである。五月五日の菖蒲湯(しようぶゆ)、冬至の柚子湯(ゆずゆ)などはいまも行われているが、明治以前は盆と正月の藪入り(やぶいり)の日にはその日の売上げを三助の収入とする〈貰湯(もらいゆ)〉も行われていた。なお、これは江戸にかぎらず船の出入りの多い港ではどこでも見られたものだが、一種の移動式銭湯とでもいうべき〈江戸湯船(えどゆぶね)〉、あるいは単に 〈湯船〉と呼ぶものがあった。小舟の中に浴室を設け、停泊中の船の間を漕ぎまわり、湯銭をとって船員たちに入浴させたものである。西鶴の《日本永代蔵》にも書かれているように、それ以前にまず〈行水船〉というのがあり、それを改良して据風呂(すえふろ)を置いた〈据風呂船〉ができ、さらにそれが〈湯船〉になったものであろう、と山東京伝はいっている。(後略)

   《引用終了》

如何であろう? これら三つの記述の内、リアルに銭湯の歴史を正しく面白く伝えて呉れているものは非アカデミックなジャーナリスト「シルバー回顧録」氏であると、私は思うのであるが。……

・「あがり湯」風呂から上がる際に浴びたりするために湯舟の湯とは別の湯桶に入れてある湯、またはその槽。陸湯(おかゆ)。かかり湯。

・「忘然」底本には右に『(茫然)』と傍注する。

・「老來我黨」「老來」は年をとること、「我黨」は、ここでは話者であるところの、この若者の主人である根岸同僚の言であるから、その主人自身を示す一人称代名詞である。但し、これを記す根岸もその「黨」(同類)というニュアンスも感じられて面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 壮年の血の気が多い者には如何にも可笑しなこともあるという事

 

 私の同僚の側にて、召し仕えられておる一人の若者、朋輩らが声を掛け合って銭湯へ参り、風呂へ入(い)って御座った。

 さて、まずはとて、かかり湯を取って手足なんどを洗っておったところが、隣りは女湯にて、上の方は羽目板にて仕切られておったものの、下の方はと申せば、これ、申し訳程度の格子ばかり。

……ところが……

……この隣りの女湯に入って御座った女子(おなご)、これ、隣りより丸見えなること、丸で気づかずにおって……

……その火登(ほと)を……

……これ、その格子が方へ

――バッ!

……と向け……

……これまた……

……微に入り、細を極て……

……洗い濯いで……御座った――

……それが、かの若者の目(めえ)に……

……ふと……

……飛び込む――

……そこは壮年のことじゃ……

……勢い

――ニョッキ!

……と一物(いちもつ)突き出で……

……どうにもこれ、納まらずになって御座った――

……そのままにては、これ、人の見んも恥ずかしく、かの者、早々に

――ドンブリ!

と、風呂内へと飛び入って御座った。……

 暫く致いて、湯舟をたち出でて見るも……

……これ……やはり……

……女子(おなご)の様……

……最初の通りなればこそ……

……見るまいと思えども……

……いよいよ一物(いちもつ)は、これ

――ニョッキニョキ!

……と踊り上がる体(てい)なればこそ……

……仕方のう……

……またまた、風呂内へと

――ドンブリ!

と入(い)る…………

……そのまま……

……納まりのつかざるままに……

……ずーっと……

……ずーーうっと……

……まんじりともせず、風呂に身を沈めて御座った……

……あまりに長(なご)う風呂に浸(ひと)うておった故、湯気(ゆうき)に当たって、これ、朦朧と致いて御座って、今にも気絶致さんまでに相い成って御座った。

 されば、ここでやっと、連れの朋輩らも若者の様子のおかしきことに気づき、湯槽(ゆおけ)より引き揚げて――水を掛けるやら、呑ませるやら――手拭で煽るやら、平手打ちを致すやら――と、あれこれ介抱致いて、ようよう、連れ帰って御座って御座った。……

……話によれば……その介抱の最中(さなか)にても……かの若者の一物……これ……荘厳に……そそり立って御座った……とか……

 

「――いや! 全く以って――老いの我が身には――これ――羨ましき――血気で御座るわい!……」

と、我が同僚の一言に、我らも一笑致いて御座った。

2012/10/22

「何つちが先へ死ぬだらう」

 「何つちが先へ死ぬだらう」

 私は其晩先生と奧さんの間に起つた疑問をひとり口の内(うち)で繰り返して見た。さうして此疑問には誰(たれ)も自信をもつて答へる事が出來ないのだと思つた。然し何方が先へ死ぬと判然(はつきり)分つてゐたならば、先生は何うするだらう。奧さんは何うするだらう。先生も奧さんも、今のやうな態度でゐるより外に仕方がないだらうと思つた。(死に近づきつゝある父を國元に控へながら、此私が何うする事も出來ないやうに)。私は人間を果敢(はか)ないものに觀じた。人間の何うする事も出來ない持つて生れた輕薄を、果敢ないものに觀じた。

(夏目漱石「こゝろ」より)



僕は必ずふと繰り返し繰り返しこの「学生」の「私(わたくし)」の、紛れもない突きつけられた人間というものの宿命としての真理を思い出すのです――

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 海蔵寺

   海 藏 寺

 武田屋敷ヨリ北ノ入也。ヱゲガ谷卜云。寺門ニ入、西北ノ方ニジャクグハイガ谷見ユ。山號ハ扇谷山、開山ハ玄翁、中興ノ祖トス。初玄翁ノ師空外ト云僧居住ス。玄翁相嗣テ居之(之に居す)。寂外ト云。曹洞宗也。後ニ那須野ノ殺生石ヲ祈テヨリ以來、大覺禪師ノ五世ノ嗣法ニテ臨濟派トナル。故ニ今建長寺ノ塔頭也。建長寺領ノ内、昔繩一貫二百文收ルト也。本尊ハ御腹藥師ト云テ春日ノ作也。初此藥師ノ像土中二有テ、毎夜小兒ノ呼聲シケルヲ、玄翁異ク思ヒ、其所ヲ見ルニ金色ノ光リヲ放ツ小墓アリ。異香四方ニ薫ズ。立寄テ袈裟ヲヌギ、墓ニオホヘバ泣聲止ケリ。明テ此墓ヲ掘ケルニ、一寸八分ノ藥師ノ像アリケリ。依之(之に依りて)藥師ノ像ヲ彫リ、其腹中二納置シト也。今モ有卜云。故ニ土人ハ啼藥師トモ云也。

寺寶

 玄翁自畫自讚像     一幅

  贊ハ文字湮滅シテ其ノ字、誠ノ字等一二字ノミ能ミユル。繪ハ分明ナリ。

 二十五條ノ袈裟     一ツ

  玄翁授法ノ時及殺生石ヲ祈タル時ノ袈裟ナリ。

 五部大乘經 是ハ全部ナラズ 二十箱

[やぶちゃん注:「ヱゲガ谷」は會外谷。

「ジャクグハイガ谷」寂外谷。「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の「寂外菴跡」の項には「蛇居谷」と書いて「じゃくがや」とも呼んだとある。

「昔繩」底本では「甘繩」の誤りかという旨の傍注が附されるが、建長寺は寺領の記録が殆んど伝わらず、海蔵寺の割当が鎌倉の「甘繩」であったかどうかは分からない(「鎌倉市史 資料編第三」の資料番号二二二の天正一九(一五九一)年の「建長寺朱印領配分帳案」によって海蔵寺分が「二百文」であることは確認出来る)。]

耳嚢 巻之五 戲歌にて狸妖を退し由の事

 戲歌にて狸妖を退し由の事

 

 京都にて隱逸を事とせる縫庵といへる者、隱宅の庭に狸ならん折々腹鼓(はらつづみ)など打(うつ)音しければ、縫庵琴を引寄(ひきよせ)て右鼓に合せて彈じける、一首のざれ歌を詠(よめ)る、

  やよやたぬまし鼓うて琴ひかん我琴ひかばまし鼓うて

其程近きに住(すめ)る加茂の社司(しやし)に信賴といへるありしが、

  ほうしよくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん

かく詠吟なしければ、其後は狸の鼓うつ事止みけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。妖狸譚を絡ませた和歌技芸譚。狸は人を驚かすことを目的として奇態な音(おと)の腹鼓を打つ。ところが、かくも人がそれを良き音(ね)と喜んで、逆に催促されてしまえば、狸公、これ、腹鼓を打つ気も失せる、というオチである。面白い掌品である。

・「やよやたぬまし鼓うて琴ひかん我琴ひかばまし鼓うて」分かり易く書き直すと、

 やよや狸(たぬ)汝(まし)鼓打て琴弾かん我(われ)琴弾かば汝(まし)鼓打て

で、「やよや」は感動詞で、対人の呼びかけを意味する感動詞「やよ」(囃子(はやし)の掛け声「やれ!」の意とも本歌では重複する)の強調形、「まし」は同等かそれ以下の対人・対称に対して言う二人称で、「いまし」「みまし」などとも言い、古語の中でもかなり古い形である。

――♪ヤンヤレヤ♪ やあ! 狸(たぬ)公! お前は鼓打て! 我れら、琴弾こう! 我れら琴弾かば、お前は鼓打て! ♪ヤンヤレヤ♪――

・「加茂」上賀茂・下賀茂神社。なお、後注を参照のこと。

・「社司」神主。

・「ほうしよくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん」一見、初句の意味が不明であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、

 拍子よくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん

とあって意味が分かる。「拍子」は歴史的仮名遣では一般には「ひやうし」であるが、それ以外に「はうし」(発音「ほうし」)とも表記する。更に分かり易く書き直すと、

 拍子良く狸(たぬ)鼓打て海神(わたつみ)の翁(おきな)琴弾け我笛吹かん

となる。「海神の翁」とはエビのこと。「海老」を「海の老(人)」(古歌に用例あり)とし、それを更に風雅に言い換えたもので、ここでは隠棲の縫庵翁を福神エビスに譬えて言祝いだものであろう。

――♪ヤンヤレヤ♪ 狸(たぬ)公! お前は拍子良く! 鼓を打てや! 海神(わたつみ)の翁(おきな)は、やれ! 琴弾け! 我、笛吹かん! ♪ヤンヤレヤ♪――

ここでこの歌を詠んだのは賀茂神社の神主となっているが、ウィキ主」(「ことしろぬし」と読む)によれば、全国の鴨(賀茂・加茂など)と名の付く神社の名前の由来は、この事代主を祀る鴨都波神社(奈良県御所市)にルーツがあるとされ、更に同解説に事代主『託宣神のほか、国譲り神話において釣りをしていたことから釣り好きとされ、海と関係の深いえびすと同一視され、海の神、商業の神としても信仰されている。七福神の中のえびすが大鯛を小脇に抱え釣竿を持っているのは、国譲り神話におけるこのエピソードによるものである』とあり、そうした意味での連関が、この歌には隠されているようにも見える。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 戯れ歌で狸妖を退けたという話の事

 

 京都にて隠逸をこととする縫庵とか申す者、その隠棲致いておる庵(いおり)の庭に、どうも狸の仕業ならんか、折り折り、奇態なる腹鼓(はらつづみ)なんどを打てる音(おと)の致いたれば、縫庵、ある夜、琴を引き寄せて、またぞろ聴こえて参った腹鼓に合わせて弾じつつ、一首の歌を詠んだ。

  やよやたぬまし鼓うて琴ひかん我琴ひかばまし鼓うて

――それにまた――近所に住まう加茂神社の神主に信賴といか申す者が御座ったが――彼が応じ、

  ほうしよくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん

と詠吟致いたところが、その後は狸が腹鼓を打つこと、これ、止んだ、とのことにて御座る。

芥川龍之介 紅葉 《芥川龍之介未電子化掌品抄》

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年十一月刊の『現代』に掲載された。底本は岩波版旧全集第十二巻第二刷の「拾遺」を用いた。底本は総ルビであるが、必要を認めないので省略した。底本では冒頭が「紅葉(こうえふ)」と書きてモミヂと讀む」となっているのを見ても、このルビは芥川自身によるものではないことは明白と思われる。因みに私の知れる限りでは(近代俳句であるが)正岡子規の明治二五(一八九二)年の「寒山落木」の一に、

 紅葉する木立もなしに山探し

がある。]

  紅葉

 紅葉と書きてモミヂと讀む、この言葉を動詞にしたるは、歌には多けれども句には少きやうなり。素堂の『雲なかに岩を殘して紅葉けり』と云ふ句など、乏しき中の一例ならんか。予の好む紅葉の句は、凡兆の『肌寒し竹切る山のうす紅葉』なり。

飛び失する珠のくれなゐ柘榴割る 畑耕一

飛び失する珠のくれなゐ柘榴割る

2012/10/21

芥川龍之介 正直に書くことの困難 《芥川龍之介未電子化掌品抄》

 [やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月発行の『婦人畫報』に「藝術家としての婦人」の大見出しのもとに表記の題で掲載された。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本の総ルビは本作に限っては五月蠅いものでしかないので、総て省略した。因みに私が読み違えた箇所は「前人」の「ぜんにん」のみであった。踊り字「く」は正字に直した。なお、勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊「芥川龍之介作品事典」の同作の項で熊谷信子氏は『本格的な恋愛小説を描いていない芥川が、なぜ女流作家の恋愛小説に言及したのか、その真意の追求が待たれ』、また『大正時代文壇に登場してきた女流作家の描いた小説、芥川と関係のあった秀しげ子と片山広子の創作内容の考察も必要であろう』と述べておられる。【二〇一二年一〇月二一日】] 

  正直に書くことの困難
 

 女の書いた文藝に對するものは、勿論、男の書いた文藝である。すると、女の書いた文章が、男の書いた文藝に異る所以は、つまり、男が女に異る所以でなければならぬ。男が女に異る所以は、單に、性の問題である。男女兩性の差は、勿論、戀愛にばかりあらはれるとは限らない。政治論にも、哲學論にも、或はまた、風景論にも現はれ得ることは、事實である。しかし、最も直接にあらはれるものは、やはり、戀愛でなければならぬ。或は、戀愛を書いた作品でなければならぬ。けれども、古來戀愛を取扱つた女の作家は、比較的、男らしい女が多いやうである。サッフォはいふをまたず、例へば、ジョルジユ・サンドでも、色男のミュツセやショパンよりも、寧ろ、男らしいくらゐである。この、男らしい女の書いたのではでない、即ち、女らしい女の書いた戀愛小説があつたら、さぞ、われわれ男には面白いだらうと思つてゐる。
 

 しかし、これは論ずるは易く、行ふは難い問題に違ひない。正直に書けとか、眞實を怖れるるなとかいふことは、如何なる文藝批評家でも、公然と口にする言葉であるが、さて何が眞實だか、どうすれば正直に書けるかといふことは、事實上、容易にわからぬものである。そこで先づ、前人の眞實を怖れなかつたり、正直に書いたりした例を求める。それから、その例の示すやうに、正直に書いたり、眞實を怖れなくなつたりする。ところが、女の場合には、そのお手本になるものが、男らしい女と來てゐるのだから、いよいよ眞賓を怖れなかつたり、正直に書いたりすることが、困難になるわけである。しかし、その困難にうち勝たなければ、全然、男と別方面に出た作品を作ることは出來ないわけである。けれども、これは、男と別方面――即ち、横の廣がりの上に、新機軸を出す問題である。縱の高さ――即ち、男と同じ方面に、女の作家の手腕を揮ふことも、勿論、出來ない次第ではない。僕は、女の腦味噌は、必ずしも、男の腦味噌よりも、少いといふことを信じてゐない。だから、この縱の方面にも、女の作家の出ることを期待してゐる。尤も、女は男よりも、虛僞本能に長じてゐるから、存外、女らしいものを書くよりも、男らしいものを書く方が、手つ取り早く出來るかも知れない。 

耳嚢 巻之五 奸婦其惡を不遂事

 奸婦其惡を不遂事

 

 淺草藏前邊の小間物屋とやらん、日々觀音へ參詣をなす事多年也しに、是も下谷邊の木藥屋(きぐすりや)にて同じく觀音を信仰して年頃歩行(あゆみ)を運び、相互(あひたがひ)に日々の事故(ことゆへ)或は道連に成、又は日參茶やといへる水茶屋にて落合、後々は他事なき知音(ちいん)と成しが、或日彼(かの)小間物屋觀音へ參詣して、歸り道にも右の木藥屋には不逢(あはざる)故、いかゞなしけるや尋見んと下谷の方へ立向ひしに、向ふより右木藥屋來りし故、いか成(なる)譯にて今日は遲きや、尋んため爰迄來りしと申ければ、彼(かの)木藥や殊の外色もあしく愁ひたる氣色にて、甚だの難儀有て今日は遲く成し由故、其譯を尋しに、我等商賣躰(てい)にて砒霜斑猫(ひさうはんみやう)の毒藥類は、譬(たと)へば求めに來る者ありても外科(ぐわいれう)其外其用ひ方を聞て、證文をも取窮め商ひ候事也(なり)、然るに昨日(きのふ)雨の降けるに、一人の男格子嶋(じま)の羽織を着し大嶋の單物(ひとへもの)を着たるが、右砒霜を求めたりしを、鄽(みせ)にありし者うかと證文もなく其身分取計ひも聞かで賣りし由、跡にて承り大に驚き、其買人(かひて)を詮議なせどいづくの人なるや知れず、左(さ)すれば人の害を成さん事の悲しさに、昨夜より食事も通らず愁ひに沈(しづみ)しが、せめて兼て信心せし觀音薩陀(さつた)の佛力(ぶつりき)にて此愁ひをまぬがれんと、只今立出しといへるに、扨々氣の毒成(なる)事也(なり)と、其衣類の樣子等委敷尋問(くはしくたづねとひ)て、小間物屋は我宿に歸しに、片脇に棹に懸けて干有(ほしあ)りし羽織を見れば、木藥屋が咄したる羽織に違ひなければ、是は誰(たれ)が羽織なれば鄽に干置(ほしおく)やと尋ければ、伴頭成(ばんとうなる)者出て、それは昨日外へ出て雨に濡れ候故干し置(おき)し迚(とて)、棹をはづし片付し躰(てい)を見れば、大嶋(おほしま)の單物を着し居(をり)たる故いよいよ怪みしが、其日女房は里へ用事ありて參りけるとて支度して牡丹餅(ぼたもち)を重(ぢゆう)に入れ、是は好物故今朝(けさ)拵へたれば、給(た)べ給(たま)へとて夫へ差出しければ、是社疑敷(これこそうたがはしき)事也(なり)と今は不好(このまざる)由をいへば、伴頭なる男も進(すすめ)ける樣子彌々難心得(いよいよここえがたく)、留守の淋しきに至り後程給(のちほどたべ)なんとて女房は里へ遣しぬ。さて近きに住居(すみ)ける兄弟を呼寄せ、まづかくの次第也(なり)、定て女房と伴頭兼(かね)て密通しての仕業ならんと相談して、伴頭を呼て其方(そのはう)事、心に覺(おぼえ)有べし、汝が不屆の仕末公(おほやけ)へ訴(うつたへ)なば重き刑にも行(おこなは)れんが、町人の事なれば右躰(てい)の事好むべきにもあらず、暇(いとま)を遣す間(あひだ)早々其身の儘にて立去(たちさる)べし、重(かさね)て町内へも立入らば其分(そのぶん)になしがたしと怒りければ、何故の咎(とが)にやと始(はじめ)はいなみしが、左あらば今朝我等に女房共(とも)一同進(すすめ)し此牡丹餅を目前にて食(を)すべしとせめければ、伴頭も色靑く成(なり)て一言の返答に及(およば)ず、すごすごとして立出(たちいで)ければ、女房へは去狀(さりじやう)を認(したため)、右重箱を持せて弟成(なる)者、直々(じきじき)里へ罷越(まかりこし)女房へ離別狀を渡し、右離別狀に不審ありていなむ心あらば、此重(ぢゆう)の内を食(を)し候て立歸り給へ、左もなくば離別狀を取收(とりをさめ)よとの事也といひければ、彼女も赤面して離別狀を受取、事なく濟しと也。誠(まこと)町家の取計には左も有べき事にて、觀音の利益(りやく)、知音の信切(しんせつ)、面白事ゆへ爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:相学の超現実的予言から観音利益による超常的真相露見で連関するとも言えようが、寧ろ私は、偶然の一致の瓢箪から駒、とどちらも意地悪く皮肉りたくなる話柄である。かくも私が酷評を下すのは、御一緒にここまで私と「耳嚢」を読んで来られた方は触りの一読でお分かりになったように、これは「巻之三 深切の祈誓其しるしある事」と全くと言ってよい程の同話であって、千話のキリを誇る「耳嚢」の甚だしい瑕疵と私には映るからである。登場人物の設定(前話では薬種屋主人と未遂ながら被害者である夫はその日初めて逢っているが本話では以前からの知己である点)、話者の変換(前話は前半のシークエンスの主体が薬種屋主人で後半で害者の夫に転換する二部構成が際立っているのに対して、こちらはほぼ一貫して害者夫の一人称映像に近い点)、犯行の着手(犯行に用いられた薬物を購入するのは前者は主犯と思しい妻であるのに対し、こちらは間男の番頭)、クライマックスのシチュエーションの相違(夫による真相部での対決相手が前話では単独犯――但し、男は間違いなく居そう――の妻のみであるのに対して、こちらはその間男である番頭が新たに登場し、彼が主に糾問されるという捻りを加えてある点)等の変化はあるとしても……誰がどう読んだって、これは焼き直しで、げしょウ! 根岸の檀那! なんでそれに旦那はお気づきになられなかったんで、ごぜえやすか? ちょいと、儂(あっし)は残念でなんねえスよ!……

・「薩陀」「薩埵(さった)」に同じい。「菩提薩埵」の略。菩薩。

・「伴頭」底本には『(番頭)』と傍注する。

・「是社疑敷(これこそうたがはしき)事也(なり)」のうち、「是社(これこそ)」は底本のルビ。「社」は国訓で、確術の度合いを深める係助詞の「こそ」を当てる。

・「誠町家の取計には左も有べき事にて、觀音の利益、知音の信切、面白事ゆへ爰に記しぬ。」前話にはない、根岸の好意的感想である。ここには公事方勘定奉行としてウンザリする刑事・民事訴訟を扱ってきた根岸の本音がポロリという感じである。法の番人として、この殺人未遂の共犯二人の逃走を見逃すというのは、当時としても許されるべきことではないように思われる(二人は当時、訴えられれば確実にともに死罪と考えてよい。現刑法下でも主犯と思われる妻は殺人未遂罪が成立し、番頭は犯行のための薬物の入手及び薬物摂取の際の積極的な助勢・慫慂を行っている点で共同正犯であり、夫からの刑軽減の嘆願書でも出ない限り、実刑は免れない)。

・なお、「砒霜」「斑猫」の注は「巻之三 深切の祈誓其しるしある事」を参照されたい。

「――私、マジ一寸、怒ってるんです、鎭(しづ)さん!――」

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奸婦がその悪を遂げ得なかった事

 

 浅草蔵前辺の小間物屋を商うておるとか申す男、これ、毎日欠かさず浅草の観音へ参詣、これがまた実に長い歳月に亙る習慣でも御座った。

 また、下谷辺の生薬屋(きぐすりや)の主(あるじ)にて、同じく観音を信仰して、永年、日々足を運んでおる者があ御座った。

 相いみ互い、日々参詣のことなれば、或いは道連れとなり、また、文字通り、「日参茶屋」と申す浅草寺近くの水茶屋にて落ち合(お)うては、四方山話に暮れるうち、後々にては知音(ちいん)とも言える仲に相いなって御座った。

   ――――――

 そんなある日のこと、かの小間物屋が何時も通り、観音に参詣致し、その帰るさになりても、今日は一向、かの生薬屋に逢わなんだ。

 こんなことは今までにない、初めてのことに御座ったれば、

「……何ぞあったものか……一つ、訪ねてみることと致そう。」

と、下谷の方へ向かって歩くうち、向こうより件(くだん)の生薬屋が、これ、参った。

「……如何なる訳のあって、今日はかくも遅くなられた?……心配になって、ここまで参ったところじゃった……」

と申したが、見ると、かの生薬屋、殊の外顔色も悪(あ)しく、何ぞ、深(ふこ)う愁いに沈んでおる気色(けしき)にて黙って御座ったが、暫く致いて、その重い口を開いた。

「……いや……甚だ難儀なことの御座って、今日はかくも遅くなり申した……」

と申す故、小間物屋の主は、

「……そは、また如何なることにて……」

と訊ねたところ、

「……我ら、商売柄、砒霜(ひそう)・斑猫(はんみょう)といった毒薬の類いも扱(あつこ)うて御座るが……具体に申せば――それらを求めんとして来たる者のあっても、容易には、これ売り申さぬ。外科の施術その他諸々の顔料・薬物などへの調合調剤等、その用いる目的をしっかりと確認致いて――売主たる我らと買主たる人物を明らかに致いた証文をも取り交わした上で――商い致して御座る。……然るに……昨日(きのう)――確か、雨の降って御座った時分のこと……一人の男――後で糺しましたとこでは、格子の縞の羽織を着、大島紬(つむぎ)の単衣(ひとえ)を着て御座ったと申す――が、かの砒霜を求め参ったを、我ら留守にて、店におった者が、これ、うっかり……証文も取らず、その身分・住まいはおろか、何に用いんとするかをも聞かずに売ってしもうた、と申すので御座る。……出先より帰った遙か後になってからこれを聞かされた我ら、大いに驚き、とにもかくにも、その買い手が誰であるかを調べんと致いたので御座るが……これ、店の者は誰も見知り顔の者にては御座らず、これといった面相風体(ふうてい)の特徴もなければ、どこの御仁なるやも皆目分からず……さすれば……つい、悪うも考えて……もしや……誰かに、その薬がこっそりと盛られて……害をなすようなことに……これ、なりはすまいか、と思う悲しさに……昨夜より食事も喉を通らず、愁いに沈んで御座る……せめて、兼ねてより信心致いておりまする観音薩埵(さった)さまの法力にて……この愁いを免れんものと……只今、ようやっと家を這いずるように出でて参ったところで御座いまする……」

と申すによって、

「……さてさて、それはまた……気の毒なことじゃ。……」

と、何ぞの手助けにもならんかと、買い手の着衣の様など、改めて委細聴き訊ねて、生薬屋は浅草の観音へ、小間物屋は我が家へと帰って御座った。

   ――――――

 さて、その小間物屋、自分の店へと戻ってみると、店の入り口のすぐ脇の空(す)いたところに、棹に掛けて干してある羽織を見かけて御座った。

 そうして、その柄を、ようく、見れば――「格子縞」……ついさっき、生薬屋が話して御座った羽織に……これ、相違御座ない。されば、入り口にて、

「……おい……これは誰の羽織なれば、ここな、店の脇に干し置いとるんじゃ?」

と訊ねたところが、

「相い済みませぬ!」

と番頭が小走りに走り出で来て、

「……相い済みません。昨日(きのう)、所用にて外回りを致しました折り、雨に降られ、濡れました故、不調法にも、風通しの良き、店脇に干しておりまして御座います。……」

と、急いで棹を外し、片付けておる、その番頭の、着ておる――単衣(ひとえ)は――これ、ついさっき、生薬屋が話して御座った――大島紬……これ、相違御座ない。……主(あるじ)の疑いは、これ、深まるばかり……

   ――――――

 さてもその日、女房は里方へ用事あって参ります、と申して御座ったのだが、丁度、その時、出かける支度もし終えたところで御座った。

 すると女房、牡丹餅をお重に入れたを、

「……これは、お前さんの好物の牡丹餅……今朝、拵えたものなれば……出来たてを、今、どうぞ、お食べなさいませ。……」

と、差し出だいた。

 主は、

『……これこそ――まさに疑わしきこと、だ、ら、け、じゃ!……』

と思い、

「……今は、食べとう――ない……」

と素気なく答えたところ、

「――そう仰らずに。」

と何時の間にか――側に侍って御座った例の番頭までもが――これ、頻りに勧める……

『――!……これは……いよいよ以って、妖しき上にも怪しきことじゃわッ!……』

と思うにつけ、

「……そうサ、後ほど……留守の間、お前が居らぬ淋しさを紛らかすために……食べることと。致そう……」

と紛らかいて、ともかくも女房を里へと発たせて御座った。

   ――――――

 すると、主、すぐに近所に住んでおる兄弟を呼び寄せ、

「……かくかくしかじか……っとまあ、先ず、このような次第じゃ。――間違いなく、女房とその番頭は、兼ねてより密通致いており、これもその遂(つい)の所行に間違いない。」

と相談致いた上、一同の前に番頭を呼び据え、

「……お前さん……身に覚えがあろうのぅ……お前の不届きなる、この仕儀……公(おおやけ)へ訴え出るとならば……これ、重き刑に処せられようが……我ら町人同士なれば、そうしたおぞましくも無惨なる表沙汰には……これ、しとうは――ない。――暇(いとま)を遣わすによって――早々に――着のみ着の儘――立ち去れぃ。――向後、一度でも浅草蔵前一円の町内に立ち入ったならば――お前の身(みい)は――ただにては――済まぬと――心得るがよいッ!」

と怒気を含んで叱(しっ)したところ、当初、番頭は、

「……い、一体、……何の咎(とが)を以って、そのような御無体なことを申されますか……」

と、あくまで白(しら)を切て御座った。そこで主は、

「……そうかイ!……そんなら……今朝、お前が女房と一緒になって、頻りに我らに勧めた……ほうれ! この牡丹餅じゃ!――この牡丹餅を――一つ、この目(めえ)の前で――食べて見せて――呉りょう!……」

と責め立てたところが、流石の千両役者の番頭も、みるみる顔色が真っ青になって、一言の返答にも及ばず、文字通りの着のみ着の儘、執る物も取り敢えず、転げまろぶ如くに店から逃げ出して御座った。

   ――――――

 そこで主、今度は、女房へ、三行半(みくだりはん)を認(したた)め、かの牡丹餅の入った重箱とともに、自分の弟なるものに、その場で直接、女房の里へと持って行かせ、その三行半を妻に手渡させた。しかしてその弟に、

「――この三行半に不審あって受け取るを拒絶致す心ならば――ともに持参致いたる、この重の内なるものを食うて立ち帰り、己れに不義なきを訴えらるるがよい!――もし、それが出来ぬとなれば――この三行半、取り収むるに、若かず!」

と口上を切らせたところ、女は、その場に赤面致いて離縁状を受け取り、しかして一事が万事、誰にも何事も無(の)う、済んで御座ったと申す。

 

 誠に、町方の取り計らいは、出来得れば、かくあって欲しいものにて御座る。……いや、観音の利益(りやく)・知音の親切、本話は何もかも、これ、面白きことにて御座れば、ここに記しおくことと致す。

木の実二句 畑耕一

空ばかり見ゆる木の實の落ちて來る

こども等智慧の悲しみ木の實降る

耳嚢 卷之四 目次追加

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「耳嚢 卷之四」に附け損なっていた目次を追加した。

徹夜はしかったが、「巻之五」の補正が終ったのは午前3時近くであった。どうもHPビルダーのルビ・タグは鬼門だ。

2012/10/20

耳嚢 卷之五 HP版一括版 中途公開始動

ブログで進行中の根岸鎭衞「耳嚢 卷之五」の全注釈現代語訳が半分の50話に達したので、HP版一括版も中途公開を始動した。結局、この作業に午後の実働8時間を総て費やしてしまった。ルビ化作業がそのほぼ2/3を占めており、聊か眼が疲れた。次巻からは、最初からある程度の一纏まりで同時進行の方が楽な気がしている。

【2012年10月21日0:38】今、見て――HPビルダーのシステム誤作動でルビ・タグの半数以上が破壊されているのを発見した。半日の作業が半分以上、無駄になった――如何にも哀しい――徹夜で補修に入る……。

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 梅谷/武田屋敷

   梅  谷

海藏寺へ行道也。尻引櫓ノ東ノ畠ヲ云。或云、ツヾキノ里ニアリトゾ。今按ニ夫木集ニツヾキノ原、相摸トアリ。

 タカ里ニツヽキノ原ノ夕霞 姻モ見エス宿ハワカマシ 從二位家隆

此地ノ事ヲヨメルカ。ツヾキノ里卜云所、不分明。

[やぶちゃん注:私はこの地名に何か麗しい響きを覚えてならない。「新編鎌倉志 卷之四」では、

◯梅谷〔附綴喜の里〕 梅谷(ムメガヤツ)は、假粧坂(ケワヒザカ)の下の北の谷なり。此邊を綴喜里(ツヾキノサト)と云ふ。【夫木集】に、綴喜原(ツヾキノハラ)を相模の名所として、家隆の歌あり。「誰(タ)が里につゞきの原の夕霞、烟も見へず宿はわかまし」と。此の地を詠るならん。

とするだけで、ここは鎌倉一」の「地名」の記載の方が考証を含んで詳細であるから、特別に以下に私の注とともに転載する。

綴喜(ツヾキノ)里 假粧下の北の谷をいふと。【夫木集】に、相模の名所とせしゆへに此里なりと土人等は傳えければ、【類字】に綴喜の里山城綴喜郡とあり。又【歌林】には綴喜里、山城・武藏に同名ありと載たり。【名寄松葉】には載せず。按ずるに、武藏の都筑は同名なりといへども、文字も違ひ、鎌倉よりは東に當り三里半許、山城に綴喜郡の稱名に綴喜と【和名抄】にも見たれば、【類字】の載る所當れるならん。茲にいふべきならねど後の考へに出す。

【夫木】

誰さとにつつきの原の夕霞、烟も見へすやとはわかまし[家隆卿]

【新拾遺】

やかて又つつきの里にかきくれて、遠も過ぬ夕立の空[爲世卿]

[やぶちゃん注:「假粧下の北の谷」大きな扇ヶ谷の西、化粧坂に登る小さな谷に当たるが、現在では、この「綴喜の里」という呼称は廃れているように思われる。美しくいい字の地名なのに、惜しい。

「【類字】」「色葉字類抄」(平安時代末期に成立した橘忠兼編の古辞書)のことか。本書冒頭の引用書目には「假名字類抄」とあるが、こういう書名はない。

「綴喜郡」は「つづきのこおり」と読む。山城国に属した郡で、現在も京都府の郡名として存続している。

「【歌林】」「類聚歌林」(伝山上憶良編著の奈良時代前期の歌集で正倉院文書)のことか。本書冒頭の引用書目には所載しない。

「武藏の都筑」現在の横浜市緑区・青葉区・都筑区の全域と瀬谷区・旭区・保土ケ谷区・港北区・川崎市麻生区の各一部を含む旧武蔵国の郡名。

「【名寄松葉】」「松葉和歌集」(江戸前期の内海宗恵編になる歌枕名寄なよせの和歌集)のことか。本書冒頭の引用書目には所載しない。この引用書目ははっきり言って杜撰である。

「家隆卿」藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)。鎌倉初期の公卿・歌人。歌の下の句「やとはわかまし」は、よく意味が分からない。宿は見つかるだろうか、の意の「宿は分かまし」か。識者の御教授を乞う。

「爲世卿」二条(藤原)為世(ためよ 建長二(一二五〇)年~暦応元・延元三(一三三八)年)。鎌倉から南北朝期の公卿・歌人。上句の「かきくれて」は暗くなる、曇るの意。心情としての、心が哀しみに沈むの意をも、余韻とするか。]

   武田屋敷
 梅谷ノ少シ北ノ畠ナリ。

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(8)/了

 以上述べた通り、敵の攻撃を免れるには隱れることは最も有功であつて、大概の動物は必ずこれを試みるものであるが、たゞ隱れて居ることによつてのみ身を護る動物では、身體の形狀・構造にもこれに應じた變化が現れ、恰も寄生動物などの如くに、運動の器官と感覺の器官とは少しづつ退化し、生殖の器官は發達して、子を産む數は比較的に多くなるのが常であるやうに思はれる。


Ikasumi


[「いか」が墨を噴く]

 「たこ」・「いか」の類は敵に逢うたとき身を隱すに一種特別の方法を用ゐる。即ち濃い墨汁を出し、これを海水に混じて漏斗から吐き出すのであるが、かくすれば海水中に遽に大きな不透明な黑雲が生ずるから、「たこ」・「いか」の體は全く敵から見えなくなり、黑雲が漸々薄くなつて消え失せる頃には、已にどこか遠くへ逃げ去つた後であるから、敵は如何ともすることが出來ぬ。「たこ」・「いか」の胴を切つて見ると、腸の側に多少銀色の光澤を帶びた楕圓形の墨嚢があるが、これを少しでも傷つけると、忽ち中から極めて濃い墨が流れ出てそこら中が眞黑になる。このやうな特別の隱遁術を用ゐて身を守るものは、全動物界の中に恐らく「たこ」・「いか」の類より外にはなからう。

[やぶちゃん注:ここでは、過去に私がブログ蛸の墨またはペプタイド蛋白という記事を以って注に代えたい(少し加筆してある)。

   *

   ――蛸の墨またはペプタイド蛋白――

 イカスミは料理に使用するが、蛸の墨はタコスミとも言わず、料理素材として用いられることがないことが気になった。ネット検索をかけると、蛸の墨には、旨味成分がなく、更に甲殻類や貝類を麻痺させるペプタイド蛋白が含まれているからと概ねのサイトが記している。

 では、それは麻痺性貝毒ということになるのであろうか(いか・タコの頭足類は広い意味で貝類と称して良い)。一般に、麻痺性貝毒の原因種は有毒渦鞭毛藻アレキサンドリウム属 Alexandrium のプランクトンということになっているが、タコのそのペプタイド蛋白なるものは如何なる由来なのか? 墨だけに限定的に含まれている以上、これは蛸本来の分泌物と考える方が自然であるように思われる。ただ、そもそも蛸の墨は、イカ同様に敵からの逃避行動時に用いられる煙幕という共通性(知られているようにその使用法は違う。イカは粘性の高い墨で自己の擬態物を作って逃げるのであり、タコは素直な煙幕である)から考えても、ここに積極的な「ペプタイド蛋白」による撃退機能を付加する必然性はあったのであろうか。進化の過程で、この麻痺性の毒が有効に働いて高度化されば、それは積極的な攻撃機能に転化してもおかしくないようにも思われる。しかし、蛸の墨で、苦しみ悶えるイセエビとか、容易に口を開ける二枚貝の映像は見たことがない。また、蛸には墨があるために、天敵の捕食率が極端に下がっているのだという話も聞かない。

 更に、このペプタイド蛋白とは何だ? 化学が専門の知人にも確認したが、ペプタイドとペプチドはPEPTIDという綴りの読みの違いでしかない。しかし、更に言えば彼女も首をかしげたように、「蛋白」という語尾は不審だ。そもそも、ペプチドはタンパク質が最終段階のアミノ酸になる直前に当たる代謝物質なのであって、アミノ酸が数個から数十個繋がっている状態を指すのであってみれば、この物言いはおかしなことになる。彼女は、その繋がりがもっと長いということかしらと言っていたが、僕も、煙幕が張られているようで、どうもすっきりとしない。調べるうちに、逆に蛸壺に嵌った。

   *
「遽に」「にわかに」。]

耳嚢 巻之五 相學的中の事

本話を以って「巻之五」の半分、五十話となるので、これより一括HPテキストの構築に入ることとする。



 相學的中の事

 

 予が許へ來る栗原某は相術(さうじゆつ)を心掛しが、誠に的中といへる事も未熟ながらある事也と退讓(たいじやう)して語りけるは、近頃夏の事成しが、築地邊へ行て歸りける時、護持院原の茶店に腰懸て暫く暑を凌けるに、町人躰の者兩人、是も茶店に寄て汗など入(いれ)て、何か用事ありて是より戸塚とやら川崎とやらんへ出立する由咄し合しを、栗原つくづくと彼者の面(おもて)を見るに、誠に相法に合(あは)すれば劍難の相(さう)顯然たる故、見るに忍びず立寄(たちよ)て、御身は旅の用事いかやう成事也(なることや)と尋ければ、我等不遁者(のがれざるもの)の娘を被誘引出(さそひいだされ)、川崎の宿(しゆく)の食盛(めしもり)に賣りし由、依之(これより)かしこへ至り取戻す手段をなす事也(なり)と語りけるにぞ、左あらば人を賴みて遣(つかは)し候共(さふらへども)、又は知る人もあらば書通(しよつう)にて、能々(よくよく)糺して其後行(ゆき)給ふべし、我等相術を少々心掛けるが、御身の相(さう)劍難の愁ひ歴然に顯れたれば、見るに忍びず語り申也(まうすなり)といひしに、彼(かの)者大きに驚き厚く禮謝して住所抔尋ければ、禮を請(うけ)んとの事にはあらずとて立別れしが、彼栗原は施藥をもなしける故、右町人にも不限(かぎらず)同じく涼(すずみ)し者へ施藥などいたしけるが、右包帋(つつみがみ)に宅をも記し置(おき)ける故にや、五七日過(すぎ)て右町人、肴(さかな)を籠(かご)に入(いれ)て栗原が許へ來り、誠に御影(おかげ)にて危難をまぬがれし也(なり)、其日の事也しが、彼旅籠屋(はたごや)にては右女(むすめ)の事に付(つき)大きに物言ひありて、怪我などせし者ありしと跡にて聞(きき)けるが、我等彼(かの)所に至りなば果して變死をもなさん、偏(ひとへ)に御影也と厚く禮を述(のべ)て歸りし。是等近頃の的中といふべしと自讚して咄しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。恐らくはニュース・ソース栗原幸十郎話の一つ。本話は本巻(底本東北大学図書館蔵狩野文庫本)の折り返し点、丁度、五十話目に当たる。

・「相術」相学。人相学。

・「幸十郎」「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行(ありく)栗原幸十郎と言る浪人』とある人物と同一人物であろう。本巻でも既に何度も登場しているが、本話では彼は医者まがいの熱中症患者への無料の施薬なんぞもしており(今のTVでもよくある手では御座らぬか!)、その薬包にはちゃっかり名前と住所が書いてあったり、話柄の最初では根岸、「退讓」としながら、掉尾では鋭く「自讚」と表現している辺り(語るうちに栗原が饒舌自慢となってゆくさま見て取れる優れた額縁である)……「栗原、お主も、なかなかじゃのう……♪フフフ♪……」……

・「護持院原」元禄元(一六八八)年に第五代将軍徳川綱吉が湯島にあった知足院を神田橋外(現在の千代田区神田錦町)へ移して、隆光を開山として新たに護持院としたが、この寺は享保二(一七一七)年に火災で焼失して火除け地となり、護持院ヶ原と呼ばれた(護持院は音羽護国寺の境内に移されている)。底本の鈴木氏の注によれば、当時、御寺院ヶ原自体は閉鎖されていたらしく、『夏と春は一般人に開放し、各春は将軍の遊猟に使用した』とある。

・「汗を入て」ひと休みして汗の出るのを抑える、また、ひと休みして汗を拭くの意。

・「不遁者(のがれざるもの)」は底本のルビ。

・「食盛(めしもり)」は底本のルビ。飯盛女。ウィキの「飯盛り女」の記載がここでの刃傷沙汰を自然に納得させて目から鱗であるから引用しておく(アラビア数字は漢数字に代え、注記号は省略した)。『盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場にいた、奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼である』。『その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に(売春婦)のみを指すわけではない』。『また「飯盛女」の名は俗称であり、一七一八年以降の幕府法令(触書)では「食売女」と表記されている』。『十七世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。もともと遊女を置いていたのを幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したとも、給仕をする下女が宿駅間の競争の激化とともに売春を行うようになったとも言われる』。『当時、無償の公役や競争激化により宿駅は財政難であり、客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府も、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限の無い拡大は未然に防いだ。一七七二年には千住宿、板橋宿に一五〇人、品川宿に五〇〇人、内藤新宿に二五〇人の制限をかけている』。『また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒などアウトロー集団が出入り、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすく、一方で目明かしなども料理屋に出入りし、公権力とも関わりをもっており、料理屋における飯盛女雇用は公権力への協力の見返りに黙認されるケースであったと考えられている』(但し、末尾の一文には要出典要請が掛かっている)。

・「書通」書面を以って相手に意を通じること。

・「帋」は「紙」に同じい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 相学的中の事

 

 私の許をしばしば訪れる栗原某は相術をも独学致いておるが、

「……まっこと――ズバリ的中――と申すことも……これ、未熟ながら、御座いましてのぅ……」

と謙遜しつつ、語ったことには……

 

……近頃の夏のことで御座った。築地辺へ出かけての帰るさ、護持院原の茶店に腰掛けて暫く暑さを凌いで御座ったところ、町人体(てい)の者二人、これも茶店に寄って、我らが近くに座り、汗を静め、何やらん用事のあって、これより戸塚とやら川崎とやらへと出立する由、話し合(お)うて御座いましたが……我ら、その出で立たんと申した男の顔をよう見るに……これ、相術相法に照らし合わせますると――まっこと、剣難の相――歴然たる故、見るに忍びず近くへと参り、

「……失礼乍ら、伺い申す。……貴殿、これより旅をなさるようじゃが……その用向きは、これ、如何なることにて御座るかの?」

と訊ねたところ、我らがこと、さまで不審にも思うさまもなく、

「……へえ、旅と言やぁ、旅でござんすが……儂(あっし)の身内の者の娘が、これ、体(てい)よく、甘い話に乗せられてかどわかされ、川崎の宿の飯盛り女に売られたって聴きやして、そいつは一大事と、これから、おっつけそこへ行って、この娘を取り戻そうってえ、算段でごぜえやすが。……」

と答えて御座った故、我ら、

「……さあらば、仲に人を頼み、相手方へ遣わしなさるるか……或いはまた、仲介に立って下さる御仁のあらば、貴殿の認(したた)めし書状を以って、よくよく、かく至った経緯を糾いた上、その後(のち)、先方へ出向かるるが、これ、よろしゅう御座る。……何とならば……我ら、相学を少々心得て御座るが……御身の相には、これ――剣難の相――歴然と出でて御座る。……見るに忍びず、かくお声掛け致いた次第。……」

と真摯に申したところが、当の男、これ、大いに驚き、厚く礼を申して、我らが住所なんどを訊ねました故、

「我ら、謝礼を請わんとて、今の事実をお話致いたわけにては、これ、御座らぬ。」

と固辞致いて、我ら、そこを立ち去って御座った。……

……ところが、それ、我ら、片手間に諸人(もろびと)に施薬なんども致いておりますのはご存知のことで……この折りも実は、この男らと話を致す前に、その当の町人に限らず、そこな茶屋に涼んでおった町人どもへ、例の我ら秘伝の暑気払いの薬、これ、ただで配って御座いまして、の――まあ、さればこそ、この町人も話しかけた我らがことも胡散臭くも思わずに御座ったものでしょう――ところが、その折りに配った藥包(やくほう)に、我らが住所を記してあったがためか……五日七日(いつかなぬ)ほど経って、かの町人が、鮮魚を籠に入れたものを手土産にして、我らが元を訪ねて御座った。

「――いやぁ! まっこと、お侍(さむれえ)さまのお蔭を以て、危難を、これ、免(まぬが)れやして、ごぜえやす! あの日のことでごぜえやすが――何でも、かの旅籠屋にては、かの娘のことにつき――売り飛ばしに関わった不逞の輩との間の悶着ででもごぜえやしたものか――大きに、ひと騒動御座って、怪我なんど致いた者もおったとの由、後になって聴きやしてごぜえやす。儂(あっし)も、もし、その場に居合わせてごぜえやしたら……これ、果たして巻き添えを食って、哀れ、変死の憂き目に逢(お)うておったところでごぜえやした。……これは偏えに、お武家さまのお蔭に、ごぜえやす!」

と厚く礼を述べて帰って行きまして御座る。……

 

「……と、まあ、これなんどは、近頃の的中致いた一つとは申せましょう。……」

と、栗原、最後は自画自賛となって語って御座った。

睡蓮の風に乘り入る蜘蛛黄なり 畑耕一

睡蓮の風に乘り入る蜘蛛黄なり

2012/10/19

紅皿 火野葦平

   紅皿

 

     ト書きのない一幕物

 

        登場人物

          靑  河  童

          赤  河  童

 

「君はおれをこんなさびしい處につれだして、いつたいどうするつもりなのか」

「いや、さうむきになられると困るのだ。別におびきだしたわけでもなんでもない。木瓜(ぼけ)の花がこんなに美しく吹いてゐるところはほかにはないし、すこし猿酒(さるざけ)も手にはいつたので、君をさそつたまでなのだ。この節、猿酒もさうたやすくは手にはいらぬし、いつかずつと昔に、君と飮みながら、歪と猿酒との倖訣について語りあつたことを思ひだしたので、つい、君をさそふ氣になつたまでだよ」

「さうか」

「よい氣候になつたな。春になつた」

「うん、春になつた」

「君はどうしてさうむつつりしてゐるのかい。そんな、尻つぴり腰でおどおどしなくたつていいぢやないか。うちとけてもらひたいのだ。笑顏を見せてくれ。昔は昔、いまはいま、昔は仲たがひしたこともあつたが、あんなつまらぬことをさういつまでも根に持たなくともよいではないか」

「君は河童の皿がどんなに大切なものか、知らんわけでもあるまい」

「それはよく知つてゐるよ。しかし、あのときは、あやまちだつたのだから……」

「あやまち? ふん、おれはあやまちとは思つてゐないのだ。命びろかをしたからよかつたものの、あのときの怪我がもうすこし大きかつたならば、お陀佛で、おれはもういまごろはこの世にゐなかつたらうぜ」

「それで、まだおれを怨んでゐるといふのだな。執念ぶかい男だ」

「君は忘れられても、おれがどうして忘れることができるか。君はあやまちといふが、おれは君が故意にやつたとしたか考へられん。君はおれが石馬(せきば)の淵から拾つて來た郎尻子玉(しりこだま)を横取りしたかつたにちがひない。是でおれを殺さうと、……」

「おいおい、君はおそろしいことをいふ。おれが君を殺きうなんて、……きいただけで身の水穴(みづあな)ちぢまるやうだ。そんな風にいはんでくれ。なるほど、あのとき、おれは君に怪我をさせた。それは重々相すまんと思つてゐる。しかし、何度もいふが、それはまつたくおれの心にもない過失なんだ。たしかにおれは君の拾つて來た尻子玉が羨望に耐へなかつた。當節は人間が注意ぶかくなつて、われわれ河童もめつたに尻子玉にありつくことはなくなつてゐたんだし、君の語は耳よりだつた。しかも、その尻子玉が金色に光つてゐるなどときいては、じつとしては居れんではないか。そこでおれはただ見せて貰ひに行つただけなんだ。君も君ぢやないか。見せるくらゐ見せたつてよさきうなものを、あんまり頑固に拒むもんだから、おれもつい意地になつたのだ。それで、君の家に無理やりに押しいらうとした。尻子玉のあり場所はちやんとわかつてゐた。蓮の葉でかぶせた滑石(なめいし)の下がぼうと金色に光つてゐたからだ。ところが君はあくまでもおれを拒んだ。あのとき、おとなしく見せて居ればなにごともなかつたのに、たうとう、組みうちみたやうなことになつて、君に怪我をさせてしまつた。そんな氣はすこしもなかつたのに、……」

「なにをいつてるか。君は石をふりあげて、おれの頭の皿を叩きわらうとしたではないか。そんなあやまちがどこにあるか」

「そんなことをした覺えはない。それは君の錯覺だ。誹謗(ひばう)だ。おれはただ立ちはだかる君を押しのけようとしただけだ。おれたちは重なりあつてたふれた。そしたら、どこかで打つたとみえて、君の頭の皿のこはれた音がしたのだ。おれはびつくりして逃げたのだ。おれがはじめから君をころして尻子玉をとるつもりだつたら、君がたふれて、頭の皿が割れ、水がこぼれてぐにやりとへたばつたとき、尻子玉をとつて逃げるのがほんたうぢやないか。おれはそれをしなかつた。尻子玉には指ひとつ觸れなかつた。尻子玉はそのままに殘つてゐたらう?」

「うん、それは殘つてゐた」

「そんなら、なにもいふところはないではないか」

「……さういへば、さうだが……」

「そんなことで、おれに寃罪(えんざいを)着せて、いつまでも根に持つてゐるなんて、おれには君の了見が知れないのだ。……さあ、そんな佛頂面をせずに、一杯、飮みたまへ。この猿酒はもう百年以上も經つてゐるといつてゐた。木瓜(ぼけ)もこんなに美しいぢやないか。木瓜の木の下で猿酒を飮んだ先輩が、自由に思ふものの姿に化ける忍術を會得(ゑとく)したといふ話がほんたうかどうか、ためしてみようぢやないか。さあ、盃をとらないか」

「う、ううん」

「さ、一杯いかう。そら」

「君と酒を飮むときには、いつも、なにか騙(だま)されるやうな氣がする。尻子玉をとりに、……見に來たのかも知れんが、……來たときにも、君は酒を持つて來た」

「君の疑ひぶかいのにはあきれるな。大切なものを見せて貰はうといふのに、土産くらゐは持つてゆくのが禮儀だらうぢやないか」

「さういへば、さうだが……」

「さあ、つがう。ああ、いい香ひだな。百年以上經つてゐるといふのは、おそらく噓ではあるまい。……やあ、機嫌をなほしてくれたな。おびきだしたなんて、二度といつてくれるなよ」

「うん、なるほど、これはいい酒だ。このとろりとした舌ざはりはどうだ。ずつと昔にこんな酒を飮んだことがある。このごろの酒はなつてゐなかつた」

「腹の底にしみわたるやうだ。この醉ひ心地はなんともいへん。ひよつとしたら、先輩のいふのがほんたうかも知れないな。忍術を覺えたら、仲間の奴等をおどろかしてやるぞ」

「駄目だよ。酒の年(ねん)が足りないよ。たしか、おれが死んだ親父からきいたのでは、三百年以上の猿酒でないと駄目だといふことだつた」

「さうかなあ。そんなら、忍術も覺えられんか」

「だが、これはいい酒だ。百年も長生するやうな氣がする。五臟六腑(ござうろつぷ)が浮かれだすやうだ。こんな酒が手に入る君が羨しいよ。どこで、どうして手に入れたか、おれに教へてくれんかね」

「はつはつはつは、さうたやすくは教へられんな」

「さう、もつたいぶらなくてもよいぢやないか」

「もつたいぶるよ。君の得手(えて)勝手にはおどろいてゐるところだ。おれが尻子玉を見せてくれといつたときには、君はもつたいぶらなかつたかい。あんなに、もつたいぶつた癖に、いまごろになつて、そんなことをいふ資格はないよ」

「それは、さうだが‥…」

「冗談だよ。おれはそんなにもつたいぶることは嫌ひだ。そんなことはおれの趣味にあはん。ちやんと教へるよ」

「さうか、それはありがたい。どこでだ? どうしてだ?」

「おつと、さうあわてるな。君はせつかちだな。なんぼ、おれが人がよくてもさう簡單にはいかんよ。……まあ、今日は飮むだけにしとかうぢやないか。久しぶりに大いに飮んで、河童音頭でも唄はう」

「うん、飮むのは飮むが、……駄目かなあ。そんな薄情なことをいはんで、いま教へてくれよ」

「はつはつはつは、いやにせつかちだが、まあ、酒好きの君としたら無理もあるまい。それではかうしよう。君の希望どほり、いまここで教へるが、そのかはり、おれも聞きたいことがあるのだ。それを君が聞かせてくれたなら、猿酒のことを君に教へよう」

「交換條件といふわけかね。仕方がない。君の聞きたいといふのはどんなことだね。……尻子玉のことかね」

「いや、あれはもうよい。また喧嘩になつてはいかんから」

「今なら見せてもいいよ」

「もういいよ。そんなことぢやないのだ。もつと手近なことだよ」

「早くいひたまへ」

「君の頭の皿だ」

「おれの頭の皿?」

「さうだ」

「ふうん、これか」

「それだよ。その頭の皿の話を聞かせてくれ。おれは君の頭の皿が羨しくてたまらんのだ。君のやうな立派な皿を持つたものは、仲間にはゐない。おれたちの頭の皿は、たいてい褐色(かつしよく)か、草色か、靑みどろ色だ。それは生まれつきで、なにもそれが特別にいやと思つたことはなかつたのだが、君の皿を見てからはどうにも自分の皿がたまらなく憂鬱になつて來た。こんな汚ならしい皿は早くすててしまひたくなつた。君の、君のその皿の色の美しさはいつたいどうしたのだ?」

「君のおかげだよ」

「皮肉をいはないでくれ。おりや眞面目なんだ。あのときのことは、あらためてあやまる。あのとき、君の皿を割つたと思つて、おれは恐しくなつて逃げだした。そのために、君が死ぬのではないかと思ふと、おれはおそろしさで、あのころ、おちおちと夜も眠れなかつた。あやまちであつたとしても、おれの罪はまぬがれぬことになる。ところが、君が死んだといふことを誰もいふものがなかつた。君の怪我がわづかですんだと思つて、おれはほつとした。さうして、その次に、……さうだ、二箇月ほど經つてからだつたと思ふが、……君に會つた時、おれはおどろきで、心臟が破裂しさうだつた。足がすくんでしまひ、瞠(みは)つた眼が吊りあがりさうになるのが自分でもわかつた。君は憎惡の眼でおれをちらと見ただけで、おれに背をむけて行つてしまつたが、おれは君の姿から、いや、君の、その頭の皿から、眼をはなすことができなかつた。いつたい、なにごとが起つたのだ? 君の頭の皿はもとはおれたちとすこしもちがはなかつたのに、いや、率直にいふと、おれたらのよりは薄ぎたないくらゐだつたのに、いま見ると、まるで牡丹の花のやうに美しい。さうだ、頭の上に、一輪、まつ赤な牡丹の花びらを乘せたと同じだ。どうしてそんなすばらしいことになつたのか。おれにはわけがわからない。そのときのおどろきは、今もつづいてゐる。一層ふかくなる。……おお、君の頭の皿はだんだん紅(あか)くなる。紅くなるやうにみえる。おれの錯覺か。酒のせゐか。ここに來たときの三倍も紅くなつた。燃えるやうだ。……どうして、そんなすばらしい皿になつたのか。話してくれ」

「君のおかげだといつたではないか。君がおれの皿を割つたので、修繕しただけだ。それだけだよ」

「そんな無愛想な変事をしないでくれ、修繕しただけで、そんなことになるわけがない。仲間で、怪我して修繕したものもたくさんあるが、誰ひとりだつてそんな美しい皿になつたものはない。もとのままの褐色の、草色の、靑みどろの皿だ。なにか、特別な方法でやつたにちがひない。な、賴む。教へてくれ。教へてくれ」

「うるさいな。別に特別な方法なんてないよ」

「さう、もつたいぶらんでくれ。その紅(くれなゐ)のいろはどうしたのだ? 人間の世界にある紅屋(べにや)から、紅でもとつて來てつけたのか。それとも、昔、先輩のやつたやうに、夕燒の色を湖の上からすくつて來たのか。ああ、さうぢやない。もつとちがつた方法だ。それとも、新しい紅の皿ととりかへたのか。とりかへられるのか」

「そんなにおれの皿をのぞかんでくれ。君がそばに來ると氣味が惡い。君は興奮してゐるな。醉つたのかい。もうすこし落ちついたらどうだ?」

「うん、落ちつかう。なるほど、すこし興奮をしてゐた。あんまり、知りたかつたもんだから、……」

「まあ、一杯、飮みたまへ。そんなに興奮したんでは話がされない」

「そのとほりだ。飮まう。ついでくれ」

「飮めば飮むほどいい酒だな。親父が酒ずきだつたが、生きてゐたら飮ませてやりたいな。どんなに喜ぶだらう。この酒のためなら、命もいらんくらゐだ。身體中がぬくもつて來た。こなひだからの肩の凝りもすつかりとれた。夢を見てゐるやうな心地だ。……ああ、話さう、話さう。おれはもつたいぶるのはきらひだからな。いま、話すよ」

「さうか、ありがたい。早く話してくれ」

「なんでもないことなんだよ。しかし、知らなければできることぢやない。君の皿だつて、いつでも、……今でも、おれと同じになることができるんだ」

「なんだつて? いつでも、今でもだつて?」

「さうだよ。おれはあのとき、皿を割つて昏倒したが、さいはひに命に別條はなかつた。息を吹きかへしたときには、君はゐなかつた。尻子玉は君のいふとほり、もとのところにあつた。しかし、しらべてみると、それは贋物(にせもの)であることがわかつた。色や形はよく似てゐたが、まつたく贋造物(がんざうぶつ)であることは疑ふ餘地がなかつた。つまり、すりかへられてゐた」

「そんな馬鹿なことが、……もし、すりかへられたとしても、おれの知つたことぢやない」

「なにも、君がすりかへたといふわけぢやない。ほかの仲間のやつたことだらう。だが、そんなことは、もうどうでもよいのだ。……おれは息を吹きかへした。さうして生きてゐたことを知つたが、皿の傷がひどくて、ずきずきと痛み、放(ほ)つておいたらあと一時間も命の保たんことを悟つた。おれはあわてた。死の恐怖のために、身體中の甲羅や蝶番がはづれるくらゐ、がちがちふるへだした。どうしたらいいか、しばらく思案もうかばず、ただ死を待つばかりかと、戰慄のために靑い油汗が身體中をべとべとにした。むろん、君に對する怨みの念は頂點に達し、死んだら化けてとりころしてやるぞとまで思つた。その混亂と絶望のなかに、とつぜん救ひの靈感がわいた。死んだ親父の殘してある祕傳の書のことが、稻妻のやうに、頭に閃いたのだ。それにはあらゆる病氣や怪我に對する治療の方法が書いてあつた。それに思ひいたると、おれは歡喜のためにとびあがつた。助かつた、助かつた、と思はず聲が出た。その本はすぐ見つかつた。さうして、その本に書いてあつたとほりにした。そしたら、助かつたばかりぢやない。このとほりの紅皿(べにざら)になつたのだ」

「どうしたのだ?」

「きはめて簡單だ。傷口に、木瓜(ぼけ)の花の汁をすりこめばよい」

「え? 木瓜の花の汁を? この木瓜のか」

「さうだ、君の見あげてゐるその木瓜の花だ。おれが本のとほりにすると、十分も經たぬうちに、傷はなほるし、元氣は出るし、皿は美しくなつた」

「わかつた、わかつた。ああ、いいことを聞いた。さうだつたのか。おまけに、ここに木瓜の花があるといふのは、なんといふ奇緣だ。おれは運がいい。……すぐに、それをやらう。君、君、すぐできるのだね?」

「できるとも」

「手傳つてくれるか」

「手傳つてもよい」

「たのむ。……まづ、どうしたらよいか」

「君も性急(せつかち)だなあ。そんなに君が望むのなら、おれがすつかり手筈を運んでやらう。まづ、君の皿にすこし傷をつけそれから、木瓜の花汁をすりこむ。はじめはすこし痛いかも知れぬが、……」

 

「痛いくらゐ、なんでもない」

「よろしい。では、盃をおきたまへ。なにか傷をつける手頃なものはないか。……うん、この花崗岩(みかげいし)の缺片(かけら)がいい。さあ、眼をつぶりたまへ」

「これでいいか」

「それでよい。……痛いか?」

「ううん、……痛くない」

「まだ、傷が淺い」

「あいた。……まだか?」

「もうすこしだ」

「う、……う」

「我慢するんだ」

「痛い、痛い、……ああ、そんなに、……うむ、ちよつと待て。待つてくれ。……ああ、ああ、……ううむ、……」

「たうとう、のびてしまつたな。ざまあみやがれ。お前のやうな惡黨には、天罰覿面(てんばつてきめん)だ。ぶざまな恰好でくたばつてゐやがる。……まあまあ、お慰みに、木瓜の花汁をすりこんどいてやらう。それでおれの役割はすむ。約束したことはちやんと果すのが、おれは好きだ。……花はきれいだが、どうも汁はすこし臭いな。‥…これで、よし。……ああ、せいせいした。お前などに、ほんたうのことなど教へてやれるかつてんだ。お前がおれを殺して尻子玉をとるつもりだつたことは、ちやんとはじめから見ぬいてゐたんだ。尻子玉をすりかへたのもお前だといふことくらゐ、氣づかぬおれと思つてゐるか。おれの大事な皿に傷をつけやがつて、よつぽどでお陀佛になるところだつた。いつか、復讐の機會を狙つてゐたんだ。そしたら、ちやうどお誂(あつら)へむきになつて來た。うまいことをいつて、おびきだしに來やがつた。……だが、猿酒はおれも意外だつた。こんなすてきな酒を、こいつが持つてゐようとは思はなかつた。こんな猿酒は何百年もの間、仲間のたれもが飮んだことがない。まつたくすばらしい。おれは猿酒が欲しくてたまらなくなつたのだ。うまく計略にかけてやつた。木瓜の花汁なんぞで、傷がなほつたり、紅皿になつたりなんかするものか。みんな出まかせの作りごとだ。おれはなかなか頭がいいぞ。ここに木瓜の花が咲いてゐたんで、思ひつきでうまく話を仕組んだら、あいつあつさり本當にしやがつた。この紅皿だつて種をあかせばお笑ひ草だ。業(ごふ)つくばかりで見榮坊(みえぼう)のあいつの氣をひくために、ただ赤の繪具を塗つただけだ。死ななんだのは、傷が淺かつたからだ。ふん、あいつうまうまと、おれの罠(わな)にかかりやがつた。萬事はおれの思ふとほりにいつた。おれを陷(おとしい)れようと考へたあいつが、かへつて罠に落ちた。あいつ、まことしやかに、木瓜と猿酒と忍術の傳説などをもちだしておれを誘ひに來たが、こんなさびしいところにつれだして、おれから紅皿の祕密をきいてしまつたら、おれを殺すつもりだつたのは見えすいてゐる。馬鹿にするな。おれをそんな甘い男と思ふか。……しめたぞ。猿酒が手に入つた。すこしは飮んだが、まだしばらくはたのしめる。いい香ひだ。いい色だ。いい音だ。……ぶざまな恰好で死んでゐるぞ。……あ、おや?……こりや、いつたい、どうしたんだ? なにごとが起つたんだ? あいつの頭が紅(あか)い。あいつの皿が紅い。すばらしい眞紅(しんく)だ。……どうしたといふのか?…:わからない。わからない。……あ、しまつた。びつくりした拍子に猿酒を落した。みんな滾(こぼ)した。ちえつ、なんといふことだ。……それにしても、それにしても、……あいつの皿が紅いのは?……だんだん紅くなる。だだだん濃くなる。牡丹の花のやうだ。……ああ、あいつ、動きだした。……生きて來る。生きて、蘇る……また、生きて、來る。……どうしたのだ? どうしたのだ?」

 

[やぶちゃん注:「猿酒」猿が木の洞に溜め込んだ果実が自然発酵して酒になったもの。ましら酒。

「君が故意にやつたとしたか考へられん」は、「やつたとしか考へられん」の誤りのように見えるが、もしかすると一部の方言にある言い回しなのかも知れない。

「石馬の淵」未詳。

「水穴」不詳であるが、ここでのもの謂いからは河童の尻の穴を彼らは呼称するようである。河童世界の生物学及び民俗学の貴重な記録である。

「滑石」鉱物名としては、マグネシウムを含む含水珪酸塩鉱物の名称として滑石(かっせき)が存在するが、この場合は単に表面が滑らかな石の謂いである。]

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(7) / ドウケツエビの注はちょいと面白いぜ!


Kairoudouketu2

[同穴海綿]

 


Douketuebi
[同穴えび 雌(左) 雄(右)]

 

「隱れがに」でも「隱れ魚」でも、好んで即や「なまこ」の體内に隱れて居るだけで、若し出ようと思へば隨意に出ることが出來る。現に網に掛つた「なまこ」の尻からは、往々「隱れ魚」が躍ね出ることがある。これに反して海綿の體内に隱れて居る「えび」の類は、全く海綿の組織に包まれて一生涯外に出ることが出來ぬ。その最も著しい例は、相模灘の深い處などから取れる偕老同穴(かいらうどうけつ)と名づける美しい海綿で、その内部には必ず雌雄一對の「えび」が同棲して居る。海綿の體は中空の圓筒形で、骨骼は全部無色透明の珪質の針から出來て居るから、乾した標本を見ると恰も水晶の絲で編んだ籠の如くで實に麗しい。西洋人がこの海綿のことを「愛の女神ヴェヌスの花籠」と名づけるのは尤である。但し普通の海綿とは違ひ、籠の口には目の細かい網があるから、その穴を通過し得る程の小さなものでなければ籠の内に出入りは出來ぬ。されば、この海綿の内に住んで居る「えび」は、牢の内に閉ぢ込められた如くで終身その外へは出られぬ。恐らく幼い時に水流とともに海綿の體内に入り込み、その中で成長して遂に出られなくなつたのであらうが、それが必ず雌雄一對に限るのは、後に入り來るものがあつても、これを食ひ殺すか、追い退けるかして、家庭の平和を保つことに努めるからであらう。かくの如く同穴海綿の内に住む「同穴えび」は、水流と共に入り來る少量の餌を食つて滿足し、外に出て大に活動するといふやうな野心は夢にも起さず、明けても暮れても夫婦差向ひで、雄の方も嚴重に貞操を守り、或る種の女權論者の理想とする所を實現して居るのである。

[やぶちゃん注:「偕老同穴と名づける美しい海綿」海綿動物門六放海綿綱リッサキノサ目カイロウドウケツ科カイロウドウケツ Euplectella aspergillum。英名 Venus’ Flower Basket。種名のエウプレクテラは、ギリシャ語の“eu”「上手に」+“plektos”「編まれた」に由来し(学名解説は荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「カイロウドウケツ」に拠る)、和名「偕老同穴」は、本来は「詩経」邶風(はいふう)の「撃鼓」に出る「偕老」と、同書王風の「大車」に出る「同穴」を続けて言った、生きては共に老い、死んでは同じ墓に葬られるの意の、夫婦が仲睦まじく、契りの堅固なことを言う故事成句を、ここで示されたように海綿内に雌雄一対で死ぬまで共生するドウケツエビ Spongicola venusta (後注参照)の様態に比して命名されたもの(共生エビから逆に遡及して名付けられたものではあるものの、私は海産動物の中でもとても素晴らしい和名命名であると思う)。二酸化ケイ素(ガラス質)の骨格(骨片)を持ち、ガラス海綿とも呼ばれる。本邦では相模湾や駿河湾など一〇〇〇メートル程度の深海底に限られており、砂や泥の深海平原を好む。以下、参照したウィキの「カイロウドウケツ」より引用する(アラビア数字は漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『円筒状の海綿で、海底に固着して生活している。体長は五~二〇センチメートルほど、円筒形の先端は閉じ、基部は次第に細くなって髭状となり接地している。円筒の内部に広い胃腔を持ち、プランクトンなどの有機物粒子を捕食している』。『パレンキメラ(parenchymella)と呼ばれる幼生を経て発生』、『成体となったカイロウドウケツの表皮や襟細胞、柱梁組織(中膠)といった体の大部分はシンシチウム(共通の細胞質中に核が散在する多核体)である』。カイロウドウケツの体部を構成する『骨片は人間の髪の毛ほどの細さの繊維状ガラスであり、これが織り合わされて網目状の骨格を為している。これは海水中からケイ酸を取り込み、二酸化ケイ素へと変換されて作られたものである。このような珪酸化作用はカイロウドウケツに限ったものではなく、他の海綿(Tethya aurantium など)も同様の経路でガラスの骨片を作り、体内に保持している。これらのガラス質構造はSDVsilica deposition vesicle)と呼ばれる細胞小器官で作られ、その後適切な場所に配置される。カイロウドウケツのガラス繊維は互いの繊維が二次的なケイ酸沈着物で連結されており、独特の網目構造を形作っている。ガラス繊維には少量のナトリウム、アルミニウム、カリウム、カルシウムといった元素が不純物として含まれる。なお、普通海綿綱の海綿が持つ海綿質繊維(スポンジン)は、カイロウドウケツには見られない』。深海を生息域とするが、『骨格が珪酸質で比較的保存されやすい事、形状が美しい事から、打ち上げなどの形でしばしば人目に触れる機会があった。ヴィクトリア朝時代のイギリスでは非常に人気があり、当時は五ギニー(現在の貨幣価値で三〇〇〇ポンド以上)ほどの値段で売買されたという』(二〇一二年一〇月現在の為替レートでは約三十八万円強であるが、ヴィクトリア朝時代当時は変動が激しく確定出来ないものの、ネット上のある記載では一ポンドは少なくとも五万円相当とあるので、何と一億五千万円に相当する)。但し、当時のヨーロッパでは専ら、中国の名工が人工的に作物した工芸品と捉えられていたようである。本邦の文献上では、「平治物語」『の中に「偕老同穴の契り深かりし入道にはおくれ給ひぬ」(上巻第六)というくだりがある。現在でもカイロウドウケツは結納の際の縁起物として需要がある』とする(荒俣氏の記載にはドイツの動物学者ドーフラインの「東アジア旅行記」(一九〇六年)に載る逸話として、シーボルトがミュンヘン博物館のためにフィリピンからカイロウドウケツを取り寄せた際、税関で高価な工芸品として高額の関税が掛けられそうになり、シーボルトが「これは動物(の骨格)である」と必死に説明してことなきを得たという面白い話を記しておられる)。現在は『工業的な側面から、カイロウドウケツのガラス繊維形成に着目する向きもある。例えば光ファイバーに用いるようなガラス繊維の製造には高温条件が必須であるが、カイロウドウケツはこれを生体内、つまり低温で形成する。またこのガラス繊維を構成する二酸化ケイ素は結晶質ではなくアモルファスであり、かつ光ファイバーと同じように屈折率の異なるコアとクラッドの構造を持』っており、『光ファイバーよりも細く曲げに対しても強い。このような低温条件での繊維形成制御機構を解明し、いわゆるナノテクノロジーや光学用途へ応用する事が期待されている。』とある。昏い深海にひっそりと佇むウェヌス(ビーナス)の籠が、未来の鮮やかな光明となる可能性――これこそヒトが手にした素晴らしい光である――チェレンコフの業火など――いらない。

『その内部には必ず雌雄一對の「えび」が同棲して居る』上記の海綿カイロウドウケツEuplectella aspergillum の網目構造内の胃腔の中に片利共生する十脚(エビ)目抱卵亜目オトヒメエビ下目ドウケツエビ科ドウケツエビ Spongicola venusta。このエビは幼生のうちにカイロウドウケツ内に入り込み、そこで成長して網目の間隙よりも大きくなって、外部に出られない状態となる。多くの場合、丘先生の述べられた如く、一つのカイロウドウケツの中に雌雄一対のドウケツエビが棲んでおり、二匹が海綿内で一生を過ごす。なお、編み目から入るときには雌雄は未分化の状態で、内部でやがて分化する。ドウケツエビは、海綿の食べ残しやガラス繊維に引っかかった有機物を食べて生活している。また、カイロウドウケツの網目がドウケツエビを捕食者から守る効果もあるとされる(以上はウィキの「カイロウドウケツ」の解説中の「ドウケツエビ」の項を主に参照した)。

〇丘先生はこの一対のドウケツエビの夫婦和合を非常に高く評価されておられる

のだが、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「カイロウドウケツ」には非常に興味深い反論が示されている。まず、

●生物学者牧川鷹之祐は昭和九(一九三四)年の雑誌『植物及動物』の「生物関係の語彙集 Ⅲ」の中でこのエビにつき、『はたして古人の思ったとおり幸福円満といえるのか』、小さな時にたまたま入って出られなくなって、遂に一生を終えねばならないものであるなら、『これを夫婦和合の象徴として珍重するのはちょっと考えものではなかろうか』と疑義を呈しているのである。また、

●動物学者岡田要も、カイロウドウケツの内部に於いてはその初期、複数個体がいて、それらが『激しい生存競争結果、』互角の二匹だけが生き残る、しかも時には三匹が一つ穴に入っていて(と語っているのはそのようなカイロウドウケツの個体を岡田氏は複数回観察しているということらしい)『三角関係になっている』。『その何がおめでたいのか、とつねづね語っていたと伝えられる』

とあるのである。――私はこれを非常に面白く読んだ。それは丘・牧川・岡田という同じ生物学者が

×『ドウケツエビが幸か不幸か』を考えている

――のではなく――

それぞれ丘・牧川・岡田という男(♂)の女性観や夫婦観、ひいては人生観の違いが微妙に作用して、このドウケツエビの様態を、

◎『自分自身だったら幸か不幸か』になぞらえて考えている

からである。

×この何れが正しいのかを考えること

は無益である。

――が――

□こう考えるそれぞれの学者先生一人ひとりが、どういう男(♂)であったかを考えてみること

――これは――

頗る面白い。誰がどうだと非難したいのでは毛頭、ない。しかし例えば、

――三角関係になるのはまっぴらだ、と『つねづね語っていた』という岡田先生は、もしかすると三角関係で辛酸を嘗めたのかも知れない(勿論、そんな「こゝろ」みたような地獄を知らずに今の妻と円満でいられるのは幸せだ、と考えたのでもよい)。

――自分の意思に反して、選ぶ自由もなしに、女(♀)を与えられて、家から出られなくなって、遂に一生を終えねばならないなんて悲し過ぎる、と考えた感じのする牧川先生も、もしかすると自分の身に引き比べて考えているような雰囲気がありはしないか(勿論、それが牧川先生が相思相愛の夫婦であったからというポジティヴな認識に基づくものであっても一向に構わない)。

――私は小学生の時に図鑑で読んだ時から今に至るまで、丘先生と同じように感じ続けてきたし、三者の意見を比較している今現在も、それは変わらない。だからと言って――私が『後に入り來るものがあつても、これを食ひ殺すか、追い退けるかして、家庭の平和を保つことに努め』たかどうか――『少量の餌を食つて滿足し、外に出て大に活動するといふやうな野心は夢にも起こさず、明けても暮れても夫婦差向ひで、雄の方も嚴重に貞操を守り、或る種の女權論者の理想とする所を實現して居る』という稀有の至福の夫婦像を思い描きながらも、実際の私と私の妻との夫婦生活が、それを一分たりとも実現しているかどうかは――これまた――別問題なのである……]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 葛原岡〔附唐絲ガ籠〕

   葛原岡〔附唐絲ガ籠〕

 假粧坂ヲ打越テ北ノ野ヲ云也。昔右少辨俊基ヲコヽニテ害スルト也。相摸守高時ヲ亡サルル計策ハ、專ラ此人ノ所爲ナリトテ、京都ニテ召コメ、鎌倉へ下シテ誅セラルヽ也。假粧坂ヨリ舊路ヲ再ビ下テ、海藏寺へ行路次ノ景淸ガ籠ヨリ東ノ岐路ニ尻ヒキヤグラト云大岩屋アリ。又ハヘヒリ矢倉トモ土民ハ云リ。〔ヤクラトハ、里語ニイハヤノコトヲ云ナリ、〕

或ハ是ヲ唐絲ガ寵ナリ土石。俗二傳フ、唐絲ハ手塚太郎光盛ガ女也。賴朝二仕へ居ケルガ、木曾義仲へ内通シテ、賴朝ヲ殺サン爲ニ、中刀(ワキサシ)ヲ常ニ懷中二隱シ置ケリ。遂二顯レテ籠舍シケルト也。

[やぶちゃん注:「唐絲籠」は釈迦堂ヶ谷の南でここでは位置がおかしい、と目次の注で書いたが、この本文を読む限り、これは光圀の錯誤ではなく、実際にこの頃、「尻ヒキヤグラ」(尻引やぐら?)別名「ヘヒリ矢倉」(屁放やぐら?)と呼称するやぐらがここにあって、それ釈迦堂ヶ谷の南の現在知られている「唐糸やぐら」とは別個な伝承としてあったとしか考えられない。位置的に見て、現在、景清の牢を中心とした化粧坂下やぐら群と呼称されるやぐら群の中でも最北に位置する(若しくは現存せずかつて「した」)やぐらを指している(「鎌倉市史 考古編」に載る『鎌倉期の標準的な』『山裾の藁谷氏裏のやぐら』というのがこれか?)。但し、その場合でも「新編鎌倉志二」では正しく現在知られている位置で示されていることから、この当時は鎌倉には「唐糸やぐら」と呼ばれたやぐらが二箇所(もしくはそれ以上)あったもの考えられる。そもそもが、やぐらは墳墓であって牢ではない。鎌倉御府内には想像を絶する数のやぐらが散在するから、こうしたものの中から「景清の」「唐糸の」はたまた「護良親王の」、「土牢(つちろう)」なるものが後追いの伝承によって創作され、不当に同定されたと考えてよい(護良親王の土牢などはまことしやかに復元されて大塔の宮にあるけれども、鎌倉七」で植田盂縉も反論している通り、古記録を見る限り、家屋内への軟禁である。多くの場合、鎌倉では重罪人でも彼等は家臣団の誰彼へお預けになって家屋内に禁錮されており、実は「土牢」などは滅多に存在しなかったのである)。私は本来の葬送された人物になってみれば、鵜の目鷹の目で「牢屋」として眺められ、踏み込まれては、死後の安穏もへったくれもない、とんでもない迷惑であろうと思うのである。それにしても――「唐糸草子」で知られる義女唐糸のおしこめられたやぐら伝承にしては、如何にも尾籠なやぐら名である。今に残らなくてよかったと私は思うのである。

「中刀(ワキサシ)」「唐糸草子」前半の重要なアイテム。木曽家伝来の銘刀「ちやくい」(著衣?)で、政子の入浴に従った際に、それを懐帯しているところを見咎められ、木曽家伝家の銘刀と頼朝に見破られ、唐糸がアサッシンであることが露見してしまうのである。]

耳嚢 巻之五 鼠恩死の事 附鼠毒妙藥の事

 鼠恩死の事 附鼠毒妙藥の事

 

 西郷市左衞門といへる人の母儀、鼠を飼ひて寵愛せしが、如何しけるや彼鼠、右母儀の指へ喰附(くひつき)しが、殊の外痛(いたみ)はれければ市左衞門立寄て、憎き事哉(かな)、畜類なればとて日比(ひごろ)の寵愛をも顧(かへりみ)ず、かゝる愁(うれひ)をなせる事こそ不屆(ふとどき)なれとて、打擲(ちやうちやく)なしければ迯失(にげうせ)ぬ。其夜母儀の夢に彼(かの)鼠來りて、右指へ白躑躅(しろつつじ)の花を干たるを付れば、立所に鼠毒を去て癒る由を述て、右白躑躅の花を枕元に置(おく)と見て夢覺ぬ。驚きさめて枕元をみれば、有し鼠は死して白つゝじの花をくわへ居(をり)ける故、右花を指の痛(いたみ)に附しに、立所にはれ引て快也しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間伝承薬で連関。動物霊異譚シリーズの一つでもある。

・「西郷市左衞門」底本の鈴木氏注に『西郷員寿(カズヒサ)』(元文四(一七三九)年~?)とする。宝暦四(一七五四)年に十六歳で『遺跡(三百俵)を継ぐ。七年西城後書院番』、寛政二(一七九一)年『本丸勤め、八年若君(家慶)付きとなり西城に勤務』とあるから、執筆推定下限の寛政九(一七九七)年には満五十八歳で、その母であるから七十五は有に越えている。

・「彼鼠、右母儀の指へ喰附しが、殊の外痛はれければ」鼠咬症である。ネズミに咬まれることで、モニリホルム連鎖桿菌又は鼠咬症スピリルムという細菌に感染することで発症する。モニリホルム連鎖桿菌による鼠咬症は、ラット以外にもマウスやリスあるいはこれらの齧歯類を補食するイヌやネコに咬まれて発症する場合があるが、鼠咬症スピリルムの場合は、殆んどはネズミ(ラット)が原因である。モニリホルム連鎖桿菌の感染の場合は通常三~五日の潜伏期の後、突然の悪寒・回帰性を示す発熱・頭痛・嘔吐・筋肉痛などのインフルエンザ様症状で呈する。九〇%以上の罹患者に暗黒色の麻疹(はしか)に似た発疹が四肢の内側や関節の部位に現れるが、数日で消え、痛みを伴う多発性関節炎の症状が現われ、心内膜炎・膿瘍形成・肺炎・肝炎・腎炎・髄膜炎等を合併症として発症することがある。鼠咬症スピリルムの感染ではほぼ同じであるが、関節炎を伴うことは殆どない。ペニシリンを第一選択薬とするが、テトラサイクリン・ドキシサイクリンも有効である。ラットなどの齧歯類に咬まれた場合は、速やかに傷口を消毒し、医療機関を受診することが肝要である(以上は「goo ヘルスケア」の「鼠咬症」の国立感染症研究所獣医科学部部長山田章雄氏の記載に基づく)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鼠の恩死の事 附 鼠毒の妙薬の事

 

 西郷市左衛門と申される御方の御母堂、鼠を飼ってご寵愛になられて御座ったが、どうした弾みか、ある時、この鼠、こともあろうに、かの母者(ははじゃ)の指に喰いついて御座った。その後、そこが殊の外痛んで腫れ上がって御座った故、市左衛門殿は母者の部屋へ見舞った折り、

「憎っくきことじゃ! 畜類とは申せ、日頃の御寵愛をも顧みず、かかる憂いをば母者に齎(もたら)すとは、これ、不届き千万!」

と、持った扇子で籠を打ち叩いたところ、壊(こぼ)れた隙より、何処ぞへ逃げ失せて御座った。……

……その夜のこと、母者が夢に、かの鼠が来たって、

「……そのお指へ白躑躅(しろつつじ)の花を干したものを、お貼(つ)けにならるれば、たちどころに我らが毒を去って、癒えまする……」

かく述べて……鼠が……その白躑躅の花を……枕元に……置く……と見えて……夢から覚める――すっかり覚めた眼(めえ)で、ふと枕元を見れば――在りし日の、かの鼠が白躑躅の花を銜(くわ)えて死して御座った――

――されば、この花を痛む指にお貼けになったところ、たちどころに腫れが引いて、快癒なされたとのことで御座る。

向日葵のねむたげ雲は生きて來る 畑耕一

向日葵のねむたげ雲は生きて來る

2012/10/18

耳嚢 巻之五 鼻血を止る妙藥の事

 鼻血を止る妙藥の事

 

 靑じといへる鳥の腹を割(さき)て、人參を一匁入て黑燒になし、鼻血出る時呑み又は付て妙也。鼻血のしたゝりて下へ落(おち)しへ、右黑燒をふりかけても速(すみやか)に止るとかや。誠に奇法と言べし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。民間療法(しかもかなり怪しい系の)シリーズの一。本条は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では巻之五の掉尾にある。

・「鼻血を止る妙藥」底本の鈴木氏注に『黒焼とか灰がよいというののが一つのセオリーだったらし』いとして、「和漢三才図会」の例を訳して揚げる。ここでは「和漢三才図会」の巻十二の「鼻」の項の掉尾にあるそれの原文と私の書き下したものを示す。
〇原文
衂〔音忸〕 鼻出血也 不止者亂髮燒灰吹之立止永不發男用女髮婦用男髮也
 凡鼻痛者是陽明經風熱也
〇やぶちゃんの書き下し出し文
衂(はなぢ)〔音忸〕 鼻より血を出だすなり。止まざれば、亂髮、灰に燒きて之を吹けば、立処に止みて永く發せず。男は女髮を用ゐ、婦には男髮を用ふるなり。
  凡そ鼻痛は、是れ、陽明經の風熱なり。
「忸」の音は「ジク・ニク」。「処」は訓点にある。この場合はもっと怪しく異性の髪を焼いてただ吹けば(患部である鼻に塗布したりするのでもなんでもない)たちどころにに止まるとある。この不思議な療法を、少なくとも筆者の寺島良安は最後の「風熱」であることに求めているような書き方になっている。「風熱」とは体内の熱が過剰に籠っている状態を言うらしい。分かったような分からないような……。
・「靑じ」スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属アオジ Emberiza spodocephala。漢字表記は「青鵐・蒿鵐・蒿雀」。下面が黄色い羽毛で覆われ、喉も黄色い。オスの成鳥は頭部が緑がかった暗灰色で覆われ、目と嘴の周りが黒い。和名にある「アオ」は、緑も含めた古い意味での青(「鵐」は「巫鳥」で「しとと」「しとど」と読み、このアオジやホオジロなどの小鳥を総称する古名であった。その「し」が残って濁音化したものか)色の意で、オスの色彩に由来する。画像は参考にしたウィキの「アオジ」で。

・「一匁」三・七五六五二グラム。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鼻血を止める妙薬の事

 

 青鵐(あおじ)という小鳥の腹を裂いて、人参を一匁入れて黒焼きに致いたものを、鼻血が出た折り、飲むか、鼻孔につけるかすれば、これ、ぴたりと止まること、妙なり――鼻血の滴って下へ落ちた血溜まりへ、この黒焼きを振りかけるだけにても、これ、たちどころに止まる――とか。……さても、そこまでいくと、これはもう、まっこと、奇法――奇(く)しき法と申すより、奇っ怪なる妖しき法――と言うべきではあろう。

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(6)

Kakureuo

[隱れ魚]

 「なまこ」は一寸見ると、どちらが頭かどちらが尻か分らぬやうであるが、生きて居るのを觀察すると、頭の方には口があつて、その周圍に枝分れした指の如きものが竝び生じ、常に徴細な食物を口の中へ運び入れて居る。また尾の方には大きな肛門があつて、人間が呼吸するのと略々同じ位の囘數で絶えず開閉して多量の海水を吸ひ入れたり噴き出したりする。されば「なまこ」の尻の内は常に新たな海水が出入して、小さな動物の住むには適するものと見えて、「かに」が往々その中に隱れてゐることは前に述べたが、なほその他に一種の魚が住んで居ることがある。前の「かに」を「隱れがに」といひ、後のを「隱れ魚」と稱するが、いづれも單に「なまこ」の體内の空處を利用して居るに過ぎぬから、「なまこ」に害を及すことなしに、自身は稍々安全に生活が出來る。「隱れ魚」は形が稍々「あなご」に似た細長い魚である。日光に當たらぬから色は餘程白い。大きな餌を喰ひたいとか、大勢集まつて賑かに暮したいとか思ふ普通の魚類に比べると、競爭を恐れる意氣地なしのやうに見えるが、紛々たる魚界の俗事を餘處にして、「なまこ」の尻の内に悠々自適して居る「隱れ魚」は、所謂風流人に似た所がないでもなからう。

[やぶちゃん注:「隱れ魚」条鰭綱新鰭亜綱側棘鰭上目アシロ目アシロ亜目カクレウオ科 Carapidae に属する海水魚。オニカクレウオ亜科 Pyramodontinae とカクレウオ亜科 Carapinae の二亜科で構成され、七属三一種が記載される。ナマコや二枚貝などの他の底生生物の体腔内に隠れ住む習性を持つ種が多い(オニカクレウオ属などには自由生活をするものもいる)。体は細長く、鱗がなく、腹鰭もない。以下、参照したウィキの「カクレウオ」から引用するが、彼らの生態はあまりよく分かっていないのが現状である(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記号を変更、注記号は省略した)。『インド洋・太平洋・大西洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布』し、『サンゴ礁など沿岸の浅い海から水深二〇〇〇メートルに至る深海まで、生息域は幅広い。主に海底付近で生活する底生魚のグループであり、日本近海からは少なくとも六属一二種が知られている』。『本科魚類はナマコなど他の底生生物の体内に隠れ住むという、際立った習性をもつことで知られている(inquiline:偶棲生物)。肛門などの開口部から宿主に侵入したカクレウオの仲間は、昼間は体内に潜み、夜間に外に出て小型甲殻類を捕食する。宿主の内臓を食い荒らすような寄生性が一部の種類に指摘されているが、明瞭な証拠は得られておらず、一般に片利共生とみなされることが多い。カクレウオ属・シロカクレウオ属・シンジュカクレウオ属(いずれもカクレウオ亜科)の仲間がこの習性をもつ一方、オニカクレウオ亜科およびクマノカクレウオ属・ソコカクレウオ属は共生をせず、生涯自由生活を送る』。『ナマコの他にヒトデ・二枚貝・ホヤなども宿主となり、一匹のナマコの中に十五匹のカクレウオが共生していた例が知られている。本科魚類の英名「Pearlfish」は、カクレウオ類の一種がカキの殻の中に埋まった状態で発見されたことに由来する』。『二つの段階に明瞭に分かれた仔魚期を送ることも、本科魚類の特徴である。第一期(vexillifer期)の仔魚は長い背鰭鰭条をたなびかせながら中層を漂い、浮遊生活を送る。仔魚は第二期(tenuis期)になると底生生活に移行し、長い背鰭鰭条は脱落し体長の短縮が生じる。この時期に宿主との共生生活に入るものとみられている』とある。但し、英名については、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」の「カクレウオ」には『北アメリカでは真珠貝のなかにいるのがふつうである。ただ、真珠貝にすむカクレウオは、ときとして貝の中に閉じ込められる危険性があり、そのうえ真珠質で体を塗りこめられることもある。真珠色の魚になれば、文字通りパールフィッシュだ(ノルマン《魚の博物学》』とあって、こちらの方がしっくりくる。荒俣氏は同項でカクレウオ属 Encheliophisとシロカクレウオ属 Carapus の学名を『エンケリオフィスは、ギリシア語の〈ウナギ enchelys〉と、〈ヘビ ophis〉を合わせたもの。この魚の形態を示す。カラプスは本種を指すアマゾンのトゥピ族の言葉 carapo に由来する』とされている。また、上記のノルマンの著作から、『カクレウオがナマコの体内にはいるときは、まず頭でナマコの肛門を探し、次に尾を丸く曲げて肛門の中に挿入し、体をまっすぐにして、後ろ向きに蠢動(しゅんどう)しながら宿主のなかに入る』とあって、荒俣氏は一貫してナマコの体内の損傷の可能性を記しておられ、平凡社一九九八年刊の日高敏隆監修「日本動物大百科 第6巻 魚類」の林弘章氏の記載でも『一般に「ナマコ類と共生」するといわれているが』、『ナマコ類を宿主とする場合は共生よりもむしろ寄生に近く、宿主の内臓や生殖腺を食べることが知られている』とあり、私もこれを共生(片利共生)と呼ぶことには懐疑的であることを記しておきたい(荒俣氏・林氏の引用部はコンマとピリオドを句読点に代えた)。

「頭の方には口があつて、その周圍に枝分れした指の如きものが竝び生じ」口触手(若しくは単に触手)と呼ぶ。ベントス食である彼らの触手は種によって微妙に異なり、それぞれが異なる大きさの細粒状堆積物を採餌している。]

やぶちゃん主演SFドラマ夢

本未明に見た頗る楽しかった第二話の夢。

僕は深宇宙開拓の先遣基地である惑星ビュフォンの図書館司書として勤務している(実際に、僕は図書館司書の資格も有している。前夜、僕はビュフォンの博物誌を読んでいた)。

基地の同僚は――皆――何かを隠している……(日本人は私だけだが、夢は嬉しいことに、分かり易い罵倒の台詞なんぞは英語のままで、大事な部分はちゃんと日本語にふき替えてあったよ)

観測用無人ロケット(と聞かされているもの)が自動帰還するが、たまたまそこに居たのは僕だけであった(このシーンはタルコフスキイの「惑星ソラリス」のロケットの発射ブースに似ていた)。
ハッチが開くと、人一人が通れる筒状の通路の奥に妙に沢山の人の気配がした。……

自動接続された基地のコンピュータにロケットからデータ転送がなされるが、その空中ディスプレイに表示されたのは多量の画像で、それも――何故か、少年や少女の、遊園地のジェット・コースターやヨットやクライミングをして遊んでいる無数のマルチ画像(動画らしい)であった。……

最後に極秘扱いのスタンプが押されたデータが表示されるが、そのコンテンツには“New gene ?”“old gene ?”という選択肢や、“Disposal”“Hold”とか“Survivor”という文字が見えた。……

と、そこに防護服に身を固めた(因みに僕は三つ揃えの地味な茶のスーツを着ている)同僚らがやって来て、先頭のシガニー・ウィーバーみたような姐さんが、
「――あとは任せなさい。」
と言って僕を室から出るように促した。……

僕は図書室に戻るが(この図書室はやはり「惑星ソラリス」のそれを数十倍にした感じのレトロで重厚なものであった)、そこで本を読んでいる二人の非番の隊員たちが、何故か、意味深長な目つきをしているのに気づく。
僕は、
『あの中にいる「子ども」たちは――一体なんだ?」
と単刀直入に訊くのだが、彼等はカフカの「審判」よろしく、
「――君は何だと思う?」
「――それは微妙な問題なんだ。」
「――謎は謎のままだからこそ謎として美しい……」
といった訳の分からないことを笑みを浮かべて呟くばかり。
中の一人(基地の警備係という設定らしい)が、掌のバーチャル・ディスプレイを掲げて、
{――御覧よ、やっこさん、あんたのこと、相当イカってるゼ。」
と言う。確かにそこには、さっきのブースで僕の上司が僕を名指しで罵倒している監視カメラの生映像が映し出されていた。
彼はそのまま図書室を出て行くが、出しなに入口のガラス・ボードに何かを書いて行った。
見てみると、何か無意味なアルファベットと数字とアインシュタインをカリカチャラズした戯画が記されている(これらの文字列は覚醒した時は一部覚えていたのだが残念なことに失念した。すぐに書き取っておくべきだった)。
もう一人(彼は僕が最も親しくして心許している友人と言う設定らしい)が寄って来て、
「こりゃ……警告のアナグラムだな……」
と呟いて出て行こうとする(これはもう「ダヴィンチ・コード」の影響だな)が、振りかえって、
「今日、これから○○谷(この地名も失念)へ行くけど、一緒に行かないか?」
と声をかけてくる。……

――青い水面から硫黄臭いガスを激しく吹き出している〇〇谷(この星の大気は地球と等しいらしく、僕と彼は普通のトレッキング・スタイルである)

――その噴煙の中から、突如出現する、小さな、「少年」の顔をした(顔だけが美少年)、おぞましいビースト!*
(*四肢はチュパカブラ風であったが、これは恐らく僕の好きな漫画家諸星大二郎の作品に登場するに相応しいモンスターであった)
――私に飛びつくビースト!
――僕を水底に引き込もうとするビースト!
――それを笑いながら見ている友人の彼……(仰角のクロース・アップでフェイド・アウト)……

注:これで最後に“To be continued”と字幕が出れば完璧だった。流石に出なかったが、今朝、目が覚めた時は「続き! 見たい!」と思ったことは言うまでもない。なんてったって僕が主演なんだからネェ……。

遺伝子診断夢

本未明の第一話。
僕は新しい山間の高校に赴任して間もない(実在する学校ではなく、同僚も悉く見知らぬ人々であった)。
どうも僕は着任早々に体調を崩し、学校医の若い男性の内科医(これも全く見知らぬ人物)に診察して貰ったことがある、という設定らしい。
その日は職員の内科健診の日で、私の番がくると、その内科医は、
「その後は如何です?」
と訊ねるから、
「どうもこのところ喉の調子が悪くて。」
と言うと、医師は舌圧子で舌を押さえ、ライト(懐中電灯である)で咽頭を診た(この時、その医師からの見た目の映像となった)。
咽頭は白っぽく腫れていた。
その時、僕は医師に、
「先生、母はALS(筋萎縮性側索硬化症)で先日亡くなったのですが、最近、ALSの遺伝的因子が新しく発見されていますね。実は私の父母は従兄妹同士の結婚なのですが、遺伝子診断をした方がいいでしょうか?」(この母の死因やALS遺伝因子の発見や父母の関係は総て事実である。)
と切り出した。彼は、
「ちょっと。」
というと、そのまま検査会場から姿を消してしまい、なかなか戻って来なかった(このシーンは、母から聞いた、母の病気がALSではないかと疑った際の入院先の医師の実際の行動がモデルであると考えられる)。
僕は何故か、上着を上げて腹を出したまま(内科の診断であるから)、無様に待っている。
その向こうに同僚の職員が沢山いて、待つのにウンザリしているのが、その表情から手に取るように分かる(だからそれが「異常に長い間であった」事実として実感されている)。
やっと医師は戻ってきた。
「まあ、御心配には及ばないと思いますが。」
と言いながら、彼の手から町の大病院への紹介状が手渡された。

職員室に戻ると、同僚が心配してあれこれと語り掛けて来る(このシーンの会話は失念した)。

夕方、僕は山間の間借りしている農家に戻った。
僕に馴染んでいる主人の息子(この子だけが実在する少年――先のブログで書いた「ドンキー少年」であった)のために、僕は厨(くりや)で、パスタをゆでている。
その湯気を眺めながら僕は何か考え込んでいる。
そこに少年が駆け寄って来る。
少年は無言で僕を見上げて笑っている。……(そのクロース・アップでフェイド・アウト)

注:ALSの遺伝的要因による発症は10%程度と低く、三代前まで厳密に遡って調べないと遺伝性を疑うことは出来ないそうである。原因不明の孤発性のものが殆どである(なお、その孤発性の場合の遺伝子上の問題が検討されているようだが、無論、これについても殆ど分かっていない)。10ほどの特定因子は見つかっているとはいえ、遺伝子診断は難しいようだ(一部のケースでは可能であるらしい)。因みに、私は可能であっても遺伝子診断をする意志は全くない(私は遺伝子診断、特に出産前遺伝子診断には大きな問題があると考えている)。寧ろ、それで分かったとして――ALSは発症のメカニズムも効果的治療法も発症の時期も、発症後いつ死ぬかも分からない癌よりも厳しい疾病であることは母を通して実感している――メンタルな部分で厳しくなることは目に見えているからである。それにしても、僕には不思議に印象的な夢であった。

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 尼屋敷/ホウセン寺舊跡/靑龍寺谷/景淸籠/山王堂跡/播磨屋敷/六國見/六本松

   尼 屋 敷

 智岩寺谷ノ北ノ畠ヲ云。二位尼ノ居宅地トゾ。御前谷卜云テ尼屋敷ノ北並ヲ云。今按ニ尼御前ノ屋敷ニテ尼屋敷卜一ツナルヲ、里俗誤テ二ツニ分テ、賴朝ノ御臺ノ屋敷ナリト云。異名同地也。

 

   ホウセン寺舊跡

 尼屋敷ノ向ヒ東ノ畠ヲ云。

[やぶちゃん注:現在の表記は「法泉寺」。]

 

   靑 龍 寺 谷

 御前谷ノ東向ヒ、ホウセン寺ノ北ノ畠ヲ云。

[やぶちゃん注:これは「新編鎌倉志卷之四」に「淸涼寺谷」と載せるものの誤りである。恐らくは聴書きの際、清涼の音の「しやうりやう(しょうりょう)」に青龍を当ててしまった誤記であろう。現在は「新清凉寺谷」として残るが、少なくとも廃寺となった寺の方は、貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)で「せいりょうじ」と読んでいる。]

 

   景 淸 籠

 假粧坂へ上ル左リ道ヨリ西ノ大巖窟ナリ。景淸都ヨリ下ルベキノ支度ノ爲ニ設ケタリト云傳フ。鎌倉ニテ景淸ヲ籠ニ入シ事ハ本書ニ見へズ。景清ガ女ヲバ龜谷ノ長ニ預ケシト也。

[やぶちゃん注:「本書」不詳であるが、新編鎌倉四」の「景淸籠」の考証記載から見ると、ここは『景淸ヲ籠ニ入シ事』への疑義と考えられ、「本書」は恐らくは「吾妻鏡」を指すと思われる。]

 

   山 王 堂 跡

 景清ガ籠ノ西北ノ方也。

 

   播 磨 屋 敷

 景清ガ籠ノ北、道ノ左也。里老ガ云。賴朝ノ近臣播磨守某ガ屋敷ナリ云。此ヨリシテ假粧坂へノボル坂ノ中段ニ、六國見卜云山見ユ。

 

   六 國 見

 小高キ峯也。坂へ上ル束ノ少シ北ヲ云。從是(是れより)安房・上總・下總・武藏・相摸・伊豆ノ六ケ國能ク見ユル。

 

   六 本 松

 假粧坂ノ北、六國見ノ西ニ六本アル松ヲ云。駿河次郎淸重ガ此所ニノボリ、鎌倉中ヲ見タル舊跡也トゾ。

向日葵のねむたげ雲は生きて來る 畑耕一

向日葵のねむたげ雲は生きて來る

2012/10/17

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(5)

Kakuregani

[隱れがに]

 敵に對して身を守るためには、岩や木や土の中に隱れるものの他に、生きた動物の體
内に假の住居を定めるものがある。「はまぐり」「たいらぎ」の貝の中には往々小さな「かに」が居るが、この「かに」は常に肉の間に隱れて居て、殼の開いて居るときでも外へ匐ひ出さぬ。しかし、ただ場所を借りて居るだけで、貝の血を吸ふのでもなく肉を食ふのでもないから、決して寄生とは名づけられぬ。支那の古い書物には「※蛣」という名で[やぶちゃん注:「※」=「虫」+(「嗩」-「口)。]、この「かに」のことが出て居るが、その説明を見ると、「はまぐり」には眼がないから、敵が近くへ來ても知ることが出來ぬが、かかる場合には※蛣が常に宿を借りて居る恩返しに、鋏で輕く貝の肉を挾んで警告すると、貝は急に殼を閉ぢて貝も「かに」も共に敵の攻撃を免れると書いてある。これは素より想像であるが、全く類の異なつた二種の動物が共同の生活をして居るのを見て奇妙に思ひ、考へ附いたことであらう。常に貝の内部に住んで居て、生活の狀態が稍々寄生動物に似て居るから、幾分か寄生動物の通性を具へ、甲は柔く、足は短く、體は丸く肥えて、眼は極めて小さい。卵を産むことの頗る多いのも、やはり寄生動物と相似て居る。或る種類の「なまこ」を切り開いて見ると、體内からこれと同じやうな「かに」の出て來ることが屢々ある。
 

[やぶちゃん注:甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目原始短尾群Thoracotremata(トラコトレマータ)亜群カクレガニ上科カクレガニ科Pinnotheridaeに属するカニ類の総称。同科の種の殆んどは貝類等の他の動物との共生性若しくは寄生性を持つ。甲羅は円形乃至は横長の楕円形を呈し、額は狭く、眼は著しく小さい。多くの種は体躯の石灰化が不十分で柔らかい。本邦には四亜科一四属三〇種が知られる。二枚貝類の外套腔やナマコ類の総排出腔に棲みついて寄生的な生活をする種が多く、別名「ヤドリガニ」とも呼称する。一部の種では通常は海底で自由生活をし、必要に応じてゴカイ類やギボシムシなどの棲管に出入りするものもいる。以下に示す基準種の属名 Pinnotheres から「ピンノ」とも呼ぶ。丘先生の言われるように、宿主の体を食べることはないが、有意に宿主の外套腔や体腔等の個体の内空間域を占拠するため、宿主の発育は阻害されると考えられ、この点から私は寄生と呼ぶべきであると思っている(以上の記載は主に保育社平成七(一九九五)年刊「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」及び平凡社「世界大百科事典」の記載を参考にし、以下の種記載は主に前者に拠る)。以下に貝類に共生する代表種三種と本文最後に示されるナマコ共生性の一種とその近縁種一種の計五種を示しておく。
 

カクレガニ亜科オオシロピンノ Pinnothres sinensis

甲長は♂四ミリメートル以下、♀一四ミリメートル以下。乳白色の甲羅の表面は平滑で辺縁部には歯(ギザギザの突起)はない。カキ・イガイ・アサリ・ヒメアサリなどの外套腔に寄居する。分布は房総半島以南九州まで。

 

カクレガニ亜科カギヅメピンノ Pinnotheres phoradis

最もよく見かけるピンノ類で、歩脚の指節(先端部の節)は短く鉤爪状になっている。アサリ・ハマグリ・イガイ・アズマニシキ・ヒオウギなどの外套腔に寄居する。

 

カクレガニ亜科クロピンノ Pinnotheres boninensis

上記のカギヅメピンノ Pinnotheres phoradisに似ているが、歩脚の指節が長く、生時は紫黒色をしている。ケガキ・マガキなどカキ類の外套腔に寄居する。分布は東京湾から紀伊半島及び小笠原諸島。

 

マメガニ亜科シロナマコガニ Pinnixa tumida

甲長は七ミリメートル以下。鉗脚(第一脚)の長節(頭胸部に最も近い長い節)には長い軟毛は密生する。可動指(鉗脚の尖端の鋏の外側部分)の内縁には一個の大きな歯(隆起した突起)を持つ。歩脚は第一・第二対に比して第三対が際立って太い。浅海の砂泥底に棲む棘皮動物門ナマコ綱Apodacea 亜綱隠足目カウディナ科シロナマコ Paracaudina chilensis の総排泄腔に寄居する。分布は函館湾・陸奥湾・男鹿半島より記録されている。

 

マメガニ亜科ラスバンマメガニPinnixa rathbuni

上記のシロナマコガニ Pinnixa tumida に酷似するも、本種は環形動物門多毛綱フサゴカイ目フサゴカイ科 Loimia 属チンチロフサゴカイ Loimia verrucosa の棲管内に寄生するも、時として大群で海面上を群泳することがある。
 

参照した「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」には、ラスバンマメガニPinnixa rathbuniの最後に記した群泳行動について、『カクレガニ科の他の種類についてもしばしば観察されており、交尾行動と関係があるらしく、群泳のあと、カニは海底に降りてそれぞれの宿主との共生生活にはいるものと考えられている』とある。

 

『支那の古い書物には「※蛣」という名で、この「かに」のことが出て居る』〔「※」=「虫」+(「嗩」-「口)〕は「璅蛣」「瑣蛣」とも書き、「璅蛣腹蟹」という語も検索に掛かる。これは、幻想的博物誌「山海経(せんがいきょう)」の注釈者として知られる西晋・東晋の文学者郭璞(かくはく 二七六年~三二四年)の代表的文学作品「江賦」や、南北朝の陳代(五五七年~五八九年)の作として本草書で引用される沈懐遠「南越志」(現物は消失)に出るが、丘先生の言うような内容のものを見出し得ないでいる。是非とも識者の御教授を乞うものである。

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 智岩寺谷

   智岩寺谷

 阿佛ノ蘭塔屋敷ヨリ北ノ畠ヲ云。古ハ寺有ケレドモ頽敗セリ。近比マデ地藏堂ノミ有ケリ。此地藏今ハ雪下ノ供僧淨國院ニアリ。ドコモ地藏卜云トゾ。

初堂守ノ僧貧窮ニシテ佛餉モ供スべキ物ナキ故ニ、此地ヲ遁去ソト思ヒ定メシ夜ノ夢ニ、地藏枕上ニ現ジテ、ドコモドコモトバカリ云テウセケリ。僧此心ヲ覺リ、何クヘモ行ズシテ、一生ヲ終へケルトゾ。マシテノ翁ノダメシ思ヒ出シ侍リヌ。

[やぶちゃん注:「智岩寺谷」は現在、「智岸寺谷」と書く。

「マシテノ翁」とは鴨長明の「発心集」の三に所収する「一 江州増叟(がうしうましてのおきな)の事」を指す。以下に原文を示す。

 中比(なかごろ)、近江の國に乞食しありく翁ありけり。立ちても居ても、見る事聞く事につけて、「まして」とのみ云ひければ、國の者、「ましての翁」とぞ名付けける。させる德もなけれども、年來へつらひありきければ、人も皆知りて、見ゆるにしたがひて、あはれみけり。其の時、大和の國にある聖の夢に、此の翁必ず往生すべき由見たりければ、結縁(けちえん)のために尋ね來たりて、則ち翁が草の庵にやどりにけり。かくて、「夜なんど、いかなる行をかするらん」とて聞けども、更に勤むる事なし。聖、「いかなる行をかなす」と問へば、翁、更に行なき由を答ふ。聖、重ねて云ふやう、「我、まことは、汝が往生すべき由を夢に見侍てげれば、わざと尋ね來たるなり。隱す事なかれ」と云ふ。其の時、翁云はく、「我、誠は一つの行あり。則ち、『まして』と云ふことくさ、是なり。餓ゑたる時は、餓鬼の苦しみを思ひやりて『まして』と云ふ。寒く熱きに付いても、寒熱地獄を思ふ事、又かくの如し。諸々の苦しみにあふごとに、いよいよ惡道を恐る。むまき味にあへる時は、天の甘露を觀じて執(しう)をとどめず。もし、妙(たへ)なる色を見、勝れたる聲を聞き、かうばしき香を聞く時も、是、何の數にかはあらん。彼の極樂淨土のよそほひ、物にふれて、ましていかにかめでたからんと思ひて、此の世の樂しみにふけらず」とぞ云ひける。聖、此の事を聞きて、涙を流し、掌合はせてなむ去りにける。必ずしも淨土の莊嚴(しやうごん)を觀ぜねども、物にふれて理(ことわり)を思ひけるも、又、往生の業(わざ)となんなりにけり。

・「中比」そう遠くない昔。

・「まして」には①いっそう。なおさら。②言うに及ばす。言うまでもなく。の意があるが、この場合は①で、後に重い対象が措定されている。

・「寒熱地獄」八大地獄の内の極寒地獄と焦熱地獄を併称したもの。

・「惡道」通常は地獄・餓鬼・畜生道の三悪道(三悪趣)を指すが、この場合は地獄を指していよう。

・「よそほひ」様態。有様。趣。

・「莊嚴」浄土や仏を飾っているとされる最上の智徳や相好(そうごう:仏の身体に備わっている三十二相と八十種の美的な特徴。)のこと。

・「業」仏家の行い。修行。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 源氏山/泉谷/扇井/大友屋敷/藤谷/飯盛山/阿佛屋敷

   源 氏 山

 或ハ旗立山トモ云。又御旗山トモイフ。英勝寺ノ上ノ山也。源賴義・義家、安倍貞任ヲ征伐ノ爲二奧州下向ノ時、此山二旗ヲ立、出陣ノ祝ヒアリシ故ニ云トゾ。旗竿ノ跡トテ近比マデ穴有ケルガ、今ハ草木生茂テ見へズ。又扇谷ノ中ノ第一ノ高山ナル故ニ俗ニ大山トモ云。山上ヨリ由比濱・富士嶺、遠近ノ秀麗奇勝目前ニ見ユ。英勝寺ノ後ロニ、不受不施ノ寺アリ。梅立寺ト云。江戸大乘寺ノ末寺也。昔ノ藥王寺ノ舊跡也。公儀ノ法禁ヲ恐ルニ依テ、今ハ藥王寺卜云ナリ。

 

   泉  谷

 英勝寺ノ東ノ二三町バカリ行處ノ總名也。扇井・藤谷ナド皆泉谷ノ内也。或云ク、此谷ノ東ニアカシガ谷ト云地アリト云。

 

   扇  井

 飯盛山ノ下二岩ヲ扇ノ地紙ナリニ切テ、水少シ有處ヲ云。東鑑ニハ扇井・扇谷ト云所見へズ。太平記ニハ扇谷ト書シ事多シ。今按ズルニ海藏寺ヲ扇谷山卜號スル時ハ、海藏寺ノ邊ヲ扇谷卜云べキ歟。

 

   大友屋敷

 扇井ノ南ノ畠也。

 

   藤  谷

 大友屋敷ノ東南ヲ云。藤爲相鎌倉へ下ラレシ時、假二居ケル跡ナリトゾ。山ノ上ニ爲相ノ石塔アリ。藤谷百首トテ爲相ノ歌アリト云。

 

   飯 盛 山

 扇井ノ上ノ山ヲ云。

 

   阿佛屋敷

 源氏山ノ北ノナゾヘニ阿佛ノ蘭塔アル故ニ阿佛ノ蘭塔屋敦トモ云。極樂寺ノ南ニ月影谷卜云所アリ。阿佛ノ住ケル地ナリトゾ。

[やぶちゃん注:「ナゾヘ」「なぞえ」は、斜め。斜交(はすか)い、の意。

「蘭塔」はママ。卵塔が正しい。]

 

   智岩寺谷

 阿佛ノ蘭塔屋敷ヨリ北ノ畠ヲ云。古ハ寺有ケレドモ頽敗セリ。近比マデ地藏堂ノミ有ケリ。此地藏今ハ雪下ノ供僧淨國院ニアリ。ドコモ地藏卜云トゾ。

初堂守ノ僧貧窮ニシテ佛餉モ供スべキ物ナキ故ニ、此地ヲ遁去ソト思ヒ定メシ夜ノ夢ニ、地藏枕上ニ現ジテ、ドコモドコモトバカリ云テウセケリ。僧此心ヲ覺リ、何クヘモ行ズシテ、一生ヲ終へケルトゾ。マシテノ翁ノダメシ思ヒ出シ侍リヌ。

[やぶちゃん注:「智岩寺谷」は現在、「智岸寺谷」と書く。]

耳嚢 巻之五 陰凝て衰へるといふ事

 陰凝て衰へるといふ事

 

 右藤田元壽へ右尼の語りけるは、近年吉原町(まち)次第に衰へて不繁昌に成し事、譯こそあるべき也、吉原町は江戸の北方に當りて陰地也、陰地陰を集めて渡世なせる事故、古へ庄司勘左衞門右曲輪(くるわ)取建(とりたて)ける頃より、廓中に井戸を掘る事を禁じ、廓外より日々汲事(くむこと)にてありしが、いつの頃にや、江戸町に住(すめ)る丁子屋(ちやうじや)といへる遊女屋、右の事にも心付ざりしや、當時の便理(べんり)を思ひて掘拔井(ほりぬきゐ)を拵(こしらへ)けるを、追々見及(みおよび)て今は廓中に數多(あまた)の井戸を掘りしが、陰に陰をかさねければ、土地の衰へしもことわり也と言しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前話の藤田元寿聴取になる数奇な運命の尼ごぜの語りの続話。

・「吉原町(ちやう)は江戸の北方に當り」吉原では「京町(きょうまち)」以外は「町」は「ちょう」と呼ぶ(本注で参照したウィキの「吉原遊廓」にそうある)。この話は当時の江戸庶民が読んでも「おや?」っと思う疑問がある。何故なら、吉原は当初、当時の海岸に近い日本橋葦屋町(現在の日本橋人形町付近)とよばれる(葦=葭(よし)の茂る原であったことから「吉原」と呼称)にあり、ここだと江戸城の真東に当たるからである。明暦三(一六五七)年一月の明暦の大火の後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ(但し、幕府による移転命令自体は前の年の明暦二年十月に出されていた)。以下は元吉原創建当時の話から始まっており、北で陰地というのは当て嵌まらないからである。なお、新吉原も細かく言うと真北ではなく東北に当たる。おや? 正に鬼門だ。そうか! 江戸の鬼門は実に数多の遊女たちによって鉄壁の守りがひかれていたのか!

・「北方に當りて陰地也、陰地陰を集めて渡世なせる」陰陽五行説では「北」は陰、「女」も陰であるから、新吉原は重陽ならぬ重陰の劣性の地と生業(なりわい)だと言うのである。

・「庄司勘左衞門」底本には『(尊經閣本「甚左衞門」』という傍注が附される。ウィキの「吉原遊廓」には元誓願寺(豊島区南長崎にある寺か)前で遊女屋を営んでいた『庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)』とある(但し、底本の鈴木氏注には、『北条氏に仕えたが、小田原没落後江戸柳原に住んだ』とあってやや齟齬がある。因みに鈴木氏の注にある没年と享年から彼の生没年は天正四(一五七六)年~正保元(一六四四)年である。名前は現代語訳では正しいものに変えた)。以下、ウィキの記載で略史を辿る。天正一八(一五九〇)年八月一日の家康の江戸に入府後、『江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる』(江戸中期のデータでは人口の三分の二が男性という記録があると記す)。『そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようにな』ったが、『江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初は幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後』、慶長一七(一六一二)年に、この庄司甚右衛門を代表として、陳情が行われ、そこでは、

 一、客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。

 二、偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。

 三、犯罪者などは届け出る。

という三つの条件を示して受理され、元和三(一六一七)年になって『甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある』。明暦の大火後の六月には『大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転し』、新吉原が開業する。その後、寛文八(一六六八)年に行われた江戸市中の私娼窟取締りで娼家主五十一人、遊女五百十二人が検挙されて新吉原に移されたが、『これらの遊女に伏見の墨染遊郭や堺の乳守遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。またこの時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」と定め、遊郭での格付けに大きな影響を与えた』とある。『明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされていった。一方で、次第に主に東北地方から身売りされた少女達が遊女になるようになり、昭和年間には大半が東北地方出身者で占められるようになっていった。彼女達は年季奉公という形で働かされていたが、一定の年限を働いても郷里に帰ることはほとんど無く、年季を明ける率は極度に低いものであった。まして、彼女達は貧農出身者が多かったがために遊女を購った金額を実家が返却できる様な事は非常に稀であった。結果、大半の遊女が生涯を遊廓で終えることとなった。この背景には農民層の貧困が存在していた』。『戦後、純潔主義を掲げるキリスト教女性団体である婦人矯風会の運動などによ』る、昭和三二(一九五七)年四月一日に売春防止法の施行によって『吉原遊廓はその歴史に幕を下ろし、一部は「トルコ風呂」(ソープランド)に転身』した、とある。

・「廓中に井戸を掘る事を禁じ」陰陽五行説では「水」も陰である。

・「江戸町に住る丁子屋といへる遊女屋」岩波版長谷川氏注に『新吉原江戸町二丁目に丁字屋があった』と記す。幾つかの記録を見ても、この丁字屋は新吉原からのものと思われ、ここから尼の話は場所が新吉原に移っていることになる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 陰が凝りて衰えるという事

 

(前話の続き)

 藤田元寿へ、この尼は、次のような話も致いた。

「……近年、吉原町(よしわらちょう)は次第に寂(さび)れて、往時の繁昌は見る影も御座いませぬが、これには、訳が御座います。……

……吉原町は江戸の北方(きたかた)に当たって、これ、陰地で御座います。その陰の地に陰なる女性(にょしょう)らを集め、生業(なりわい)と致いたこと故、その昔、庄司甚右衛門なるお方が、かの廓(くるわ)を葭原(よしはら)として創建致しました頃より、廓内(くるわうち)にては井戸を掘ることを禁じ、廓の外より水は汲むことと定めて御座いましたが……それがいつの頃で御座いましょう、江戸町(ちょう)に店を構える丁子屋とか申す遊女屋が、こうした訳も心得ず御座ったものか、当座の便利をのみ思うて、掘り抜きの井戸を拵えましたのを周囲も見及び、これを真似て、どこもかしも、廓中に数多(あまた)の井戸を掘りまして御座います。……陰に陰、更に今一つ陰を重ねたことなれば、土地の衰えたも、これ、理(ことわり)に御座います。……」

と申した、とのことで御座る。

(後日に続く)

蓮の花見えざる蟲の顏をうつ 畑耕一

蓮の花見えざる蟲の顏をうつ

2012/10/16

芥川龍之介 澄江堂日録 附やぶちゃんマニアック注釈+同縦書版

 「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、我、我鬼となって、芥川龍之介「澄江堂日録」附やぶちゃんマニアック注釈+同縦書版を公開した。

分かって貰える方には――分かって貰える――トンデモマニアック注――だぜ――

耳嚢 巻之五 怪尼奇談の事

 怪尼奇談の事

 

 或人語りけるは、藤田元壽とて駒込邊に住居せる醫者ありしが、或日早稻田に住(すめ)る由の尼たく鉢に來りて、雨を凌(しのぎ)て元壽が椽(えん)に腰をかけ雨やみを待(まち)けるが、色々の咄しなどせしが、懸物を見て和歌など口ずさみ、其外物語のさま凡ならざるゆへ、元壽も感心して詠歌など聞しに、此程詠(よめ)る由にて、

  さほ姫の年を越なでいとけなくういたつ霞春をしれとや

  けふはなを長閑き春の鄙までも霞にきゆる雪の山里

二首を見せて、雨晴れて立別れし故、兼て聞し早稻田の彼尼が庵を尋ければ、近き頃箕輪(みのわ)へ引移りしと聞し故、元壽も事を好む癖ありて、箕輪を所々搜して彼尼が庵(いほり)に尋當りて、暫く色々の物語りして、御身のむかしいか成(なる)人に哉(や)と尋ければ、妾(わらは)はむかし吉原町の遊女をなしけるが、富家(ふけ)の商家へ請出(うけだ)されしが、右夫死せし後は世の中の憂(うき)を感じて、かゝる身と成(なり)しと語りし由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。しっとりとしてしみじみとした和歌を嗜んだ芸妓後日譚で、次と二十一項後で同聞き書きとして続篇が二つある。同一人の聞き書きはあっても、話柄の主人公が一貫して同一の尼であり、強い連続性を有し、たこうした形式は「耳嚢」では珍しい。

・「さほ姫の年を越なでいとけなくういたつ霞春をしれとや」読み易く書き直す。

 佐保姫(さほひめ)の年を越(こ)えなで幼(いとけな)く初(う)い立つ霞春を知れとや

佐保姫は元は佐保山の神霊で春の女神。五行説で春は東の方角に当たることから平城京の東の現在の奈良県法華寺町法華町にある佐保山が同定されたもの。白く柔らかな春霞の衣を纏う若々しい女性とイメージされた。竜田山の神霊で秋の女神竜田姫と対を成す。参照したウィキの「佐保姫」によれば、『竜田姫が裁縫や染めものを得意とする神であるため、対となる佐保姫も染めものや機織を司る女神と位置づけられ古くから信仰を集めている。古来その絶景で名高い竜田山の紅葉は竜田姫が染め、佐保山を取り巻く薄衣のような春霞は佐保姫が織り出すものと和歌に歌われる』とある。一首は、春霞の棚引く佐保山を佐保姫になぞらえた優美なもので、「初い立つ」と「立つ霞」の掛詞で、

佐保山の佐保姫は、未だに年頃を迎えておられぬ幼く初々しいお姿じゃ――なれど、その初々しきお姿にも、幽かに初めて自然、女人の香気が、山に靡きかかる春霞のように、浮き立って――そこに春の、恋の、あの予感を、知っておらるるようじゃ……

といった歌意を含ませていよう。

・「けふはなを長閑き春の鄙までも霞にきゆる雪の山里」読み易く書き直す。

 今日はなほ長閑(のど)けき春の鄙(ひな)までも霞に消ゆる雪の山里

「霞に消ゆる」と「消ゆる雪」の掛詞で、

――今日はなお一層、この長閑かな春の田舎にまで春霞が棚引き掛かって――雪に埋もれていた山々の雪はすっかり消え――かわりに暖かな雪のようにふっくらとした白き霞が――この里を包み込んで、山里はまた、消えておりまする……

といった新春の景物を言祝ぐ美しい佳品である。私は和歌が好きではないが、二首ともに技巧を感じさせず、素直な迎春歌として好感が持てる。

・「箕輪」浅草の北西、現在のJR常磐線南千住駅西方にある日比谷線三ノ輪駅周辺の地名。江戸切絵図を見ると田地の多い田舎で、新吉原総霊塔のある有名な浄閑寺が直近で、新吉原からも五百メートル程しか離れていない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 曰くありげなる妖しき尼僧の奇談の事

 

 ある人の語ったことで御座る。

 駒込辺に藤田元寿と申す医者が御座った。

 ある春の日のこと、俄かに雨となったが、丁度そこに、早稲田邊に住めると申す尼が托鉢(たくはつ)に参って、雨を凌いで、元寿が家の縁に腰を掛け、雨止(あまや)みを待って御座った。

 その折り、色々と話なんど致いたが、縁から見える元寿の家内の掛軸を見、何やらん、和歌なんど口ずさんでみたり、また、その四方山の話柄の風雅なること、これ凡そ、並の尼とも思われぬ故、元寿も感心致いて、

「……一つ、そなたの詠歌など、これ、お聴かせあれかし。」

と乞うたところ、

「……お恥ずかしながら……近頃、詠みましたものにて……」

とて、

  さほ姫の年を越なでいとけなくういたつ霞春をしれとや

  けふはなを長閑き春の鄙までも霞にきゆる雪の山里

という二首を書き記して見せた。

 丁度、その折り、雨も晴れたによって、その尼ごぜとは、そこで相い別れて御座った。

 元寿はこの尼のことが気になり、後日、かねて尼の申して御座った早稲田の庵(いおり)を訪ねてみたところが、

「近頃、箕輪辺へ引っ越したぜ。」

とのこと故――まあ、元寿も物好きな質(たち)で御座ったれば――わざわざ、そのまま箕輪まで足を延ばいて、あちこちと捜し廻って、漸っとのことに尼の庵を訊ね当てて御座った。

 また、その庵の縁にて、暫く二人して物語なんど致いたが、

「……ところで……御身、昔は如何なるお人にて御座ったものか、の?」

とさり気なく水を向けたところ、尼ごぜは、

「……妾(わらわ)は昔、吉原町の遊女を生業(なりわい)と致いておりました……富家(ふけ)の商家の檀那に請け出して貰(もろ)うたものの……その夫(ひと)の亡(の)うなってから後(のち)は、これ、世の中の憂きことを感じまして……かかる身となって御座います……」

と語ったと申す。(続く)

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 英勝寺

   英 勝 寺

 東光山卜云。扇谷源氏山ノ下ニアリ。山門ノ額英勝寺、寛永帝之敕筆也。太田道灌ノ故屋敷也。委ハ縁起ニ見へタリ。五百石ノ寺領アリ。寺寶

 惠心一尊彌陀             一幅〔始ノジャウソウ庵上ル〕

 後陽成院寅翰天神名號      一幅
 弘法兩界曼多羅         一幅

 中將姫稱讚淨土經        一箱
  同繡梵字ノ三尊         一幅

 小野ノ於通天神畫        一幅

 同天神畫〔自畫自贊假名ナリ〕  一幅

 増上寺國師短册         一枚

 同名號             一幅

 南光坊東照三所權現ノ墨蹟    一幅

 源空ノ自畫像          一幅

 同證文裏書〔本願寺第七世眞譽筆〕一幅

 源空手蹟板行ノ名號       一幅

 伏見院宸筆ノ阿彌陀經      一部

 松嶋瑞岩寺雲居作〔英勝寺拈香文〕一軸

 惠心三尊ノ彌陀         一幅
 中將姫繡梵字          一幅

 惠心金泥ノ曼多羅繪       一幅

 同筆廿五菩薩          一幅

 大文字ノ繪名號〔弘法筆カト云〕 一幅〔故相承院上ル〕

 法華經一部〔天神ノ筆〕     八軸〔長曲尺ニテ八寸二分半〕

 西明寺圓測ガ撰仁王經疏     一箱
 智恩院ノ宮ノ名號        一幅

 同ジ宮ノ法然一枚起請      一幅

 ミダレハンギ          一幅

 天神法華經ノ添狀〔後陽成院ノ宸筆〕 一幅
 毘須羯摩作三尊         一厨子

 法皇勅額            一枚

 英勝院殿追悼詩歌〔五山名緇ノ諸作也〕 一軸

 高野山文殊院立詮        一軸

 佛舍利〔小寶塔ニ入〕      一箱

 御朱印             一箱

   通計三十二種

[やぶちゃん注:「寛永帝」後水尾天皇。

「〔始ノジャウソウ庵上ル〕」底本には右に『(ママ)』注記がある。この庵は新編鎌倉四」の英勝寺にも載らず、英勝寺にはこのような名の庵があったという記載は見出し得ない(但し、新編鎌倉四」に付随する境内絵図には数多くの建物は散見する)。

「曼多羅」の表記はママ。

「ミダレハンギ」未詳。新編鎌倉四」の「英勝寺」寺宝にも相当物は見当たらない識者の御教授を乞う(そもそも「鎌倉志」では寺宝は項目総計二十種で大幅に数が異なっている)。]

西瓜うまし蚊が鳴いてゐるぼんのくぼ 畑耕一

西瓜うまし蚊が鳴いてゐるぼんのくぼ

2012/10/15

芥川龍之介 澄江堂雜詠 附やぶちゃん注 ☆昨日公開のものとは同題異作品☆

 「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に『新潮』掲載の俳文様作品芥川龍之介「澄江堂雜詠」(附やぶちゃん注)を公開した。昨日公開した「澄江堂雜詠」と同題であるが、あれは『文藝日本』に掲載された韻文作品で、全く異なるものである。これも実はこれから私が公開しようとする「澄江堂日錄」(ややこしいことにこれも先日公開した「澄江堂日錄」とは別物である)の注釈にどうしても必要なテクストであったため、急遽、電子化した。実は僕のHPでは昨日の者と同じく、分散した形で総て公開済みであるが、今回、一括にしてしかも注も新たに増補して作成してあるので、昨日のものと合わせ、やっつけ仕事では決して、ない。ネット上には、本日公開の一括テクストは恐らく現存しないはずである。

さくらんぼ二句 畑耕一

戀人はめんだうな人さくらんぼ

さくらんぼ舌に置くとき風まろし

[やぶちゃん注:両句ともに鈴木しづ子の句の中に忍ばせても分かるまい。]

2012/10/14

Glenn Gould BWV 974 Adagio

Glenn Gould BWV 974 Adagio

グールドのスッタカート奏法が生きる、ロマン主義的な過度の傾斜を排した厳粛なバッハ――

芥川龍之介 澄江堂雜詠 附やぶちゃん注

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に芥川龍之介「澄江堂雜詠」(附やぶちゃん注)を公開した。本テクストの公開理由は冒頭注を参照されたい。

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 五大堂/梶原屋敷/馬冷場/持氏屋敷/佐々木屋敷

   五 大 堂

 海道ヨリ北ノ河向ヒニアリ。明王院大行寺ト云。眞言宗也。本寺ハ御室仁和寺也。本ハ大藏谷ニ有テ、賴朝ノ所願所也卜云。東鑑ニ文應二年正月廿一日、五大尊堂ヲ建立、幕府ノ鬼門ニ相當ル。六月廿九日二供養トアリ。平經時、重テ修造ス。本尊ハ不動、筑後法橋作ナリ。或云、願行ノ作ナリト。近比マデ五大尊トモニ有シガ、四ツハ燒失シテ不動ノミ殘レリ。

 明石一心院卜云モ舊跡ニテ、光觸寺ノ南ノ谷、柏原山ノ下ニアリトゾ。

 好見月輪寺卜云モ舊跡也。光觸寺ノ北ノ谷ニアリトゾ。

 大慈寺ノ舊跡ハ五大堂卜光觸寺ノ間ノ南ノ谷ニアリ。此三ケ寺ノ事ハ具二束鑑ニ見へタリ。

 

   梶 原 屋 敷

 五大堂ノ南、道ヨリ北ノ山際ニアリ。梶原平藏景時ガ舊跡也。

[やぶちゃん注:景時の通称は「平藏」ではなく「平三」。]

 

   馬 冷 場

 梶原屋敷ノ北ノ山下ニ、生唼・磨墨ノスソシタル所也土石。岩窟ノ内三水アリ。

[やぶちゃん注:「生唼・磨墨」は「いけずき」「するすみ」と読み、源頼朝の持っていた名馬。「平家物語」の「宇治川の先陣争い」で知られ、生唼(「生食」「池月」とも書くが、後者なら「いけづき」となる。名の表記が変わるのは馬主の身分の違いを憚った変名と思われる)は佐々木高綱に、磨墨は梶原景季に、それぞれに戦闘に先立って与えられた。「生唼」とは、馬でありながら生き物に喰らいつくような勇猛なる馬の意、「磨墨」は墨を磨ったようなあくまで深く玄(くろ)い毛並の意である。「新編鎌倉志卷之二」の「公方屋敷」の条に「御馬冷場(ヲンムマヒヤシバ)」として出るが、特にここでは「生唼」の名の由来を記したかったので特に注した。]

 

   持 氏 屋 敷

 馬冷場ノ前、梶原屋敷ノ東ノ芝野也。是ヲ時氏屋敷トモ基氏屋敷トモ云。土俗ニハ公方屋敷卜云テ、持氏將軍ノ屋敷也卜云。光觸寺へ近シト云へバ持氏ノ屋敷ナルべシ。時ハ持ノ字ノ篇ヲ誤リ、基ハ持ノヨミヲ、ヲ云誤ルナラン歟。大友興廢記ニ持氏屋敷トアリ。公方代々ノ屋敷也。

[やぶちゃん注:伝承の字音の誤伝考証をここで光圀本人が行っているところに着目したい。彼は優れた考証家であったのだ。「大友興廢記」は「新編鎌倉志」の引用書目にも載るが、杉谷宗重著になる四百年に及ぶ豊後大友氏の興廃を記した史書。寛永十二(一六三七)年頃の成立か。剣巻及び二十二巻二十三冊。大友氏の興廃を描く。八十歳の杉谷の父と老翁の話をもとに書かれたとされる。]

 

   佐々木屋敷

 馬冷場ヨリ西ニアル芝野也。是ヨリ滑川ノ端(ハタ)ヲ通リ、淨妙寺・杉本ノ觀音ノ前ヲ歴テ、歌橋ト云小橋ヲ渡リ、灯時ニ雪ノ下ヲ過ギ、英勝寺ニ至テ寺主ニ見へ、終ニ春高庵ニ入ヌ。時既戌ニ近シ。江府ヨリ近侍ノ者來リ迎ヘ、酒ナド勸テ喜ブ。漸ク江邸ニ至ル心地シテ長途ノ勞ヲイコヘヌ。三日辰起、上衣下裳シテ英勝寺ノ佛堂ニ詣リ、拈香作禮シ、方丈二入テ齋膳ヲ喫シ畢リ、庵ニ歸リ上衣ヲ脱シテ馬ニ乘ジ泉谷ニ到ル。

[やぶちゃん注:「戌」午後八時。
「江邸」は「がうてい(ごうてい)」で江戸の上屋敷のことか。
「辰」午前八時。この日の光圀の旅程はなかなかの強行軍で(たった一日で上総から金沢に入って八景近辺、更に朝比奈を越えて英勝寺までの旅程である)、また、翌三日の朝には御老公御自ら騎馬して精力的に歷覧しているさまが活写されている。これ――ドラマの黄門様をたった一回の鎌倉で演じている本人――という気がしてくるから不思議。]

耳嚢 巻之五 幽靈なきとも難申事

 幽靈なきとも難申事

 

 予が許へ來る栗原何某といへる者、小日向(こひなた)に住居して近隣の御旗本へ常に立入(たちい)りしが、分て懇意に奧迄行(ゆき)しが、壹人の子息ありて其年五歳に成しが、至て愛らしき生れ故、栗原甚だ寵して行通(ゆきかよ)ふ時は土産など携へ至りしが、暫く音信(おとづれ)ざりし所、右屋敷今晩は是非に來(きたる)べしと申越(まうしこし)ける故、玄關より上(あが)りて勝手の方廊下へ行しに、彼小兒例の通り出て栗原が袖を引勝手の方へ行しに、勝手の方に何かしめやかに屏風など立(たて)ありし故、病人にてもありしやと何心なく通りしに、主人出て兼て不便がりし倅(せがれ)五歳に成りしが、疱瘡(はうさう)にて相果しと語られければ、驚(おどろき)しのみにもあらずこわけ立しと、直に右栗原語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:似非幽霊から真正幽霊へ幽霊繋がりで、三つ前の「天野勘左衞門方古鏡の事」が「小日向」で舞台が連関。先の「幽霊」話柄は私には今一つ後味の悪いものであったが、逆にこの子供の霊は(話者が怖がってはいるが)何か哀しくも、しみじみとする。私は子どもの霊が好きだ。

・「幸十郎」「卷四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行(ありく)栗原幸十郎と言る浪人』と初出する根岸のニュース・ソースと同一人物であろう。しかも語りの話柄が疱瘡(天然痘)でも連関している。本巻でも既に「麩踏萬引を見出す事」「在方の者心得違に人の害を引出さんとせし事」に登場している。

・「疱瘡」「卷之三」の高利を借すもの殘忍なる事の「疱瘡」の私の注を参照。

・「こわけ立し」「こわげ立ちし」で、慄っとして立ち竦むこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幽霊など実在しないとも申し難き事

 

 私の元へしばしば参る栗原何某という者、これ、小日向(こひなた)に住まいがあり、近隣の御旗本の屋敷へも出入り致し、分けても殊に奥向きへも立ち入って、御当主の御家族とも懇意に致いて御座った。……

 

……その御当主には御子息があられ、当年とって五歳になって御座ったが、至って愛らしき姿なれば、我らも、よう、可愛がりましての、行き通う折り折りには、きっと、この子(こお)がために、土産なんど携えて参りました。……

……我ら、こちら様とはここ暫くの間、御無沙汰致いておりましたところが、ある日のこと、かの御屋敷より、

「今晩は是非来られたし。」

との仰せが寄越されました故、お訪ね申して、玄関よりお声掛け致いた上、勝手知ったる御屋敷で御座いましたから、そのまま御勝手方への廊下を歩いておりました。

……と……

……かの子(こお)が何処からとものう、走り出でて参り、我らの袖を引きながら、頻りに御勝手方へと引き連れて参ります。引かれるままに勝手方の入口まで参りましたところ――子(こお)は、そのままそこへ走り入って姿が見えずなりましたが――御勝手方は、何やらん、しめやかに屏風などが引き廻して御座って、しーんと静まっておりました故、

『……これは、誰ぞ、病人にても御座るものか……』

と思うておりました、その折り、奥方より御主人が出でて参られ、

「……栗原殿……かねてより貴殿の可愛がって下された、かの倅……五歳にて御座ったが……疱瘡(ほうそう)にて……これ……相い果て申した……」

と語られましたればこそ……

 

「……我ら……驚きしのみならず……正直、怖気立(おぞけだ)つて御座いました……」

とは、直(じか)に、かの栗原の語った話で御座る。

牡丹三句 畑耕一

こめかみのしばしば昏し牡丹園

佇めば牡丹わづかに應へたる

蒼天に雷籠り來る牡丹かな

2012/10/13

一首

ゆめうつつにも夢をみず儚き現の夢にゑふ我 唯至

僕は見つけしまったよ……愛する芥川龍之介君……

日記とは……いや……本当の「日記」でも、実は誰も本当のことを書くとは限らないのさ……それは僕も同じだからね。このブログもおんなじさ……芥川君……だから君が残した「日録」と称する、偽った「日録」の大嘘を……僕は今日……確かに見つけてしまったのだ……僕の注釈は容赦はしない……でも、それは……

きっと君を「文学史的著名文学者」という……実は君の最も呪詛したところの世界から……君を解き放つ……

僕は確かにそう感じている……

君が言ったように――

わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。 

私は君の「造り出した」またの「失敗」である――

しかし無数の「失敗」の果てにたまさかの真理は光るのではないだろうか?――

さあ行こう!――

君の――
ビルマに今もいる――
最愛の多加志の魂を誘って――

スマトラの勿忘草の花の元へと……芥川君……

僕のやっていることは『文学研究』なんて木乃伊みたいなもんじゃあ――ない――

それはちっぽけな――今生きて行かねばならぬ「人」とは何か――ちっぽけなそんな「人」の――ちっぽけな各人の孤独な世界を――そうしてそれを作った、ちっぽけな「死者」との――ちっぽけでも温もりに満ちた対話とは――何だったのか――だったのさ……

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(4)トタテグモ


Totategumo

[とたてぐも]

 

 「くも」類のなかには地中に孔を造つて、その中に隱れて居るものが幾種類もあるが、その中で「とたてぐも」と名づけるものは、絲を編んで孔の入口に丁度嵌るだけの圓形の開き戸をつくり、常にはこれを閉ぢて置くので外面からは孔の有り場處が少しも分らぬ。平地にも崖の處にもあつて、決して珍しいものではないが、蓋の外面にはその周圍と同樣に、赤土の處ならば赤土、苔のある處ならば苔が附けてあるから、餘程注意して見てもなかなか見出だし難い。今から最早四十年許りも前になるが、東京本郷の大學構内の池の傍で、この類の「くも」が偶然見附けられたのは、「くも」の體に寄生した菌が孔の蓋を下から押し開けて、地上へ延び出して居たからであつた。この「くも」は箱のなかに飼うて置いても、巧みに土中に孔を穿ち蓋を造るから、詳にその擧動を觀察することが出來るが、最も面白いことは戸の裏に二つ小さな凹みを造つて置き、若し何者かが來て、外から戸を開かうとすると、「くも」は内から足の爪をこれに掛けて開けさせぬやうに力を込めて引いて居る。

[やぶちゃん注:「とたてぐも」節足動物門鋏角亜門クモ上綱蛛形(クモ)綱クモ亜綱クモ目クモ亜目のカネコトタテグモ科 Antrodiaetidae 及びトタテグモ科 Ctenizidae に属する種の総称。以下、ウィキトタテグモ」から引用するが、その殆んどの部分が本文との関連の濃密な記載であるので、ほぼ全文を引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に代え、記号も変更した)。『日本で最も普通の種は、キシノウエトタテグモ Latouchia swinhoei typica である。本州中部以南に分布し、人家周辺にも普通に生息する。コケの生えたようなところが好きである。地面に真っすぐに穴を掘るか、斜面に対してやや下向きに穴を掘る。穴は深さが約一〇センチメートル程度、内側は糸で裏打ちされる。巣穴の入り口にはちょうどそれを隠すだけの楕円形の蓋がある。蓋は上側で巣穴の裏打ちとつながっている。つながっている部分は狭く、折れ曲がるようになっていて、ちょうど蝶番のようになる。蓋は、巣穴と同じく糸でできている。そのため、裏側は真っ白だが、表側には周囲と同じような泥や苔が張り付けられているため、蓋を閉めていると、回りとの見分けがとても難しい』。『クモ本体は体長一五ミリメートルくらい。触肢が歩脚と見かけ上区別できないので十本足に見える。これは原始的なクモ類に共通する。鋏角は鎌状で、大きく発達していて、穴掘りに使用する。全身黒紫色で、腹部にはやや明るい色の矢筈(やはず)模様がある。クモは巣穴の入り口におり、虫が通りかかると、飛び出して捕まえ、巣穴に引きずり込んで食べる。大型動物が近づくと、蓋を内側から引っ張って閉じる。さらに接近すると、巣穴の奥に逃げ込む。巣穴の奥に産卵し、子供としばらくを過ごす。子供は巣穴を出てから空を飛ぶことなく、歩いて住みかを探す』。『環境省のレッドデータブックでは、「準絶滅危惧」とされる』。『両開きの扉を作るものもある。カネコトタテグモ科に属するもので、日本では本州の固有種であるカネコトタテグモがそれである。多くは苔の生えた斜面に巣穴を掘る。その巣穴の入り口は、左右に開くようになっているが、キシノウエトタテグモの場合のように、蝶番部がはっきりしている訳ではないので、あまり扉らしくは見えない。閉じている時には、中央に、縦に閉じ目がわずかに見えるが、蓋の表面は周囲と同じ苔などで覆われ、発見するのは大変困難である。北海道のエゾトタテグモも同様の巣を作る』。『キシノウエトタテグモには、冬虫夏草の一種であるクモタケがよくつく。クモタケがクモにつくと、巣穴の底で死んだクモからキノコの子実体が伸び、扉を押し上げて地上にその姿を現す。キシノウエトタテグモの巣はなかなか発見しづらいので、キノコが出現したことで、初めてクモの存在に気が付くという場合がある』(『冬虫夏草の一種であるクモタケ』とは菌界子嚢菌門核菌綱ボタンタケ目バッカクキン科 Nomuraea 属クモタケ Nomuraea atypicola。子実体は主に春から夏にかけて庭園や民家近くなどの地上に巣を作ったクモから発生する。形状は棍棒状で長さ約三~八センチメートルとなり、薄紫色の分生子に覆われる(以上はウィキクモタケ」に拠る)。この記載から、丘先生の記される東京大学の三四郎池と思しい場所で発見されたというのも、このキシノウエトタテグモ Latouchia swinhoei typical と考えられる)。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鹽嘗地藏 /乞情報!「明道ノ石佛ノ放光ノ事」

   鹽嘗(シホナメノ)地藏
 光觸寺ノ門前、海道ノ北ノ瑞、辻堂ノ内ニ石像アリ。六浦ノ鹽ウリ、鎌倉へ出ル毎ニ商ノ最花トテ鹽ヲ供スル故ニ云也。或云、昔石像光リヲ放シテ、鹽賣打タヲシケル故ニ云卜也。明道ノ石佛ノ放光ノ事、思合セ侍ヌ。五大堂二到ル。
[やぶちゃん注:「最花」初穂料のこと。
「明道ノ石佛」不詳。安土桃山時代の僧に光空明道(こうくうみょうどう)なる人物がいるが、関係あるか? 識者の御教授を乞うものである。【二〇一三年一月二十五日追記】「ひょっとこ太郎」氏より御指摘を戴いたが、これは、全くの私の凡ミスであった。「新編鎌倉志卷之二」の「鹽甞地藏」の項に記載があった。以下に引用すると、
異域にも亦是あり。程明道、京兆の鄠(う)の簿(ぼ)に任ずる時、南山の僧舍に石佛あり。歳々(としとし)傳へ云ふ、其の首光(ひかり)を放つと。男女集まり見て晝夜喧雜たり。是よりさき政(まつりごと)をなす者、佛罰を畏れて敢て禁ずる事なし。明道始て到る時、其僧を詰(なじ)つて云く、我聞く石佛歳々光を現ずと、其の事有(あり)や否や。僧の云く、これあり。明道戒めて云、又光を現ずるを待ちて、必ず來り告よ。我職事あれば往事(ゆくこと)あたはず。まさに其首を取て、就(つい)て是を見るべしと云ふ。是よりして又光を現ずることなし。此事明道の行状に見へたり。
大陸の故事の引用であった。「ひょっとこ太郎」氏のメールには『朱子学を極めた光圀としては、朱子学・陽明学の源流と言われた程顥ていこうに私淑していたと考えられますので、こんな逸話を知っていたのかも知れません。あるいは、注釈なしで書いているところから、江戸時代の武士階級なら誰もが知っている有名な逸話だったのでしょうか。私は、聞いたこともない逸話ですが。』とあった。因みに、程顥(一〇三二年~一〇八五年)は北宋の儒学者で、明道先生と称された朱子学・陽明学の源流の一人である。「ひょっとこ太郎」氏に謝意を表する。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 光觸寺

   光觸寺〔或ハ光澤寺工作ル、非ナリ〕

 光觸寺ハ道ヨリ南ノ端也。山號モ光觸山卜云。開山ハ一遍上人、藤澤ノ末寺也。光觸寺卜額アリ。後醍醐天皇ノ宸筆也。本尊ハ阿彌陀也。長ハ法ノ三尺卜云、靈佛也。脇立ハ勢至、湛慶作、觀音、安阿彌作ナリ。

 順德院ノ御宇、建保三年ニ源實朝ノ婢妾村主ノ氏女卜云者、運慶ヲ賴テ此彌陀ヲ作ラシム。彌陀ノ四十八願ニ准ジテ四十八日ニ成就ス。又湛慶・安阿彌ヲシテ、同體ノ彌陀三像四十八日メノ同時工作リ畢ラシム。氏女持佛堂ニ安置シテ萬藏法師卜云者ヲシテ、常ニ香華ヲ捧ゲシム。後寓歳法師ガ勸(スヽメ)ニ因テ、男女佛道ニ歸依シ、薙染シテ遁去ル者多シ。氏女怒テ火印ヲ以テ寓歳ガ頰エアテケル時、此彌陀身替ニタチテ左ノ頰燒タリ。因玆(茲に因りて)寓歳罪ヲユルサル。氏女懺悔シテ佛師ヲ召テ廿一度迄火痕ヲ修理スレドモ成就セズ。今ニ燒痕アリト云ドモ、時既ニ闇シテ見へズ。俗ニ頰燒阿彌陀卜云也。委クハ縁起二見へタ[やぶちゃん注:底本には編者により『(リ)』と送られている]。縁起二卷、筆者ハ藤爲相、繪ハ土佐ナリトゾ。究テ奇絶ナル繪ナリ。跋ニ文和第四暦暮秋下旬權大僧都靖嚴トアリ。縁起ヲ寄進スル由ヲ書ケリ。厨子ハ持氏將軍ノ寄進ナリトテ、誠ニ昔ノ風彩殘テ見ユ。初ハ田代ノ阿闇梨卜云者、比企谷[やぶちゃん注:底本には編者により『(ニ)』と送られている]〔或ハ岩ニ作ル〕藏寺卜云寺ヲ立テ、此佛ヲ安置ス。其時ハ天台宗ニテ有シヲ、持氏ノ屋敷へ近キ故ニ、此所へ移シテ時宗ニナルト也。尊氏・氏滿・滿兼・持氏ノ位牌アリ。堂ノ前ニ小祠アリ。熊野權現ヲ勸請シタリトナリ。

[やぶちゃん注:「源實朝ノ婢妾村主ノ氏女卜云者」の「婢妾」は下女兼側室の謂いである。こうはっきりと書かれたもの見たことがないが、考えて見れば村主(すぐり)という父姓を示し、他の伝承では「町の局(つぼね)」という房号が示され、尚且つ、運慶を始めとする当代の名仏師に彼女自ら作仏を命じ得るというのは、これ、相当な地位でなければならぬことになる(私の偏愛する頰焼阿彌陀について私が今日までこの事実に思い至らなかったことに慚愧の念を覚える)。

「後寓歳法師ガ勸ニ因テ、男女佛道ニ歸依シ、薙染シテ遁去ル者多シ。氏女怒テ火印ヲ以テ寓歳ガ頰エアテケル」というカタストロフへのプロットも微妙に新編鎌倉の「光觸寺」に載る、現在、人口に膾炙するものと異なる。寧ろ、当該注で示した「沙石集」の信心者の少女のストーリーからの推移過程が窺われて興味深い。是非、比較されたい。

「闇シテ」「くらくして」と訓じていよう。

「文和第四暦」正平十(一三五五)年。

「靖嚴」不詳。この奥書の寄進文は「新編鎌倉志卷之五」や「鎌倉攬勝考」にも載らない。

「〔或ハ岩ニ作ル〕藏寺」の右上方には『像ヲ歟』という傍注がある。これは割注の上に本来は字があったが、恐らくは書写の中で失われたか判読が著しく難しくなり、昔の書写した人物が「像」の字が「藏寺」の割注の前にあったか、と書き添えたものと思われる。くどい様だが即ち、「像藏寺」は或いは「岩藏寺」にも作る、の謂いである。正しくは恐らく現在の山号である「岩藏」であろう。因みに、これについては後掲される「田代觀音」の条も参照のこと。]

耳嚢 巻之五 幽靈奉公の事

 幽靈奉公の事

 

 紀州高野山は淸淨不怠(しやうじやうふたい)の靈場とて、女人堂(によにんだう)よりは女を禁じ、虵柳(じややなぎ)の靈は人口に會炙(くわいしや)せる事なれど、後世無慙(むざん)の惡僧ありて始組の教戒を犯しけるもあるや、寛政八年の頃、營士(えいし)花村何某の許に抱(かかへ)し女、至て色靑く關東の者ならざれば、傍輩の女子抔出生を尋しに、高野にて幽靈奉公といへるを勤し由。幽靈に成て凡俗を欺き、惡僧の渡世となしけると也。虛談もあるべけれど、又あるまじき事とも思われず、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。落語めいた話ではあるが、短過ぎるのも手伝ってか、消化不良な上に、私なんどはどうも妙な憶測(この幽霊奉公の顛末について)をしてしまい、後味が良くない。根岸は神道尊崇で仏教系には辛いことは周知の通り。

・「淸淨不怠」六根清浄と同義的意味の祝詞である百体清浄太祓(ふとばらい)と、真言宗の祈禱不怠法味若しくは単に日夜(日夕)不怠の意を添えたものであろう。要は不断に身の清浄を怠らざるの結界の意である。

・「女人堂」高野山には高野七口と呼ばれる七つの登り口があったが、明治五(一八七二)年の女人禁制解除までは女性の立ち入りが厳しく制限され、それぞれの各登り口に女性のための参籠所が設けられた。現在は不動坂を登ったところにある一堂のみが遺跡として現存する。

・「虵柳の靈」「虵」は「蛇」。蛇柳は高野山の山上にある大橋(一の橋)より奥の院に至る右側の路傍の奥にあった(現在は枯死して存在せず、ガイドや地図にも所収しない)。一説に弘法大師の得度によって蛇の変じた(若しくは法力によって蛇に変じさせた)松と言われた。高野山の古い案内記によれば、この柳は、低く匍匐して蛇が臥せたのに似ていることから名づけられた、とある。調べてみると、どうもここが諸案内に載らないのは、松が枯れた以外にも、高野山の「暗部」に相当する不浄の地であるからのように推察される。「高野山霊宝館」の公式HPには、高野山で犯罪を犯した者への処刑方法として「万丈転の刑」(手足を紐で縛った上に簀巻にして谷底へ突き転がされる刑)を説明するページがあるが、罪状が軽い場合は鬢(びん)を片方だけそり落とし、そこに朱で入れ墨された上で寺領外への追放で、万丈転でも万一命拾いした者はそのまま放免となったが、逆に重罪の場合は奥之院の蛇柳付近の地中に生きたまま埋められる極刑となる、とあるのである。本記載では大いに参考になった個人のHP、上村登氏の「土佐の植物」(昭和一九(一九四四)年共立出版刊か)を電子化されたものと思われるサイト内にある「紀州高野山の蛇柳」によれば、『以前高野山で植物採集会が催された時、その指導者として私も行ったのだが、その折私は同山幹部の或る僧に向ってこの蛇柳の由来をたずねてみたら、その答えに「昔高野山の寺の内に一人の僧があって陰謀を廻らし、寺主の僧の位置を奪い自らその位に据らんと企てたことが発覚して捕えられ、後来の見せしめのためにその僧を生埋にした処があの場所で、そこへあの通り柳を植え、そして右のような事情ゆえその罪悪を示すためその柳の名も蛇柳と名づけたようだ」と語られた』とあるのも興味深い。なお、同記載によれば植物学者白井光太郎氏がここでこの柳を採取した上、ヤナギ科ヤナギ属ジャヤナギ(別名オオシロヤナギ)Salix eriocarpa に同定、和名もここで決まった。

・「無慙」特にこれや「無慚」と書いた場合、仏教用語として仏教の戒律を破りながら心に少しも恥じるところがないことを言う。

・「寛政八年」西暦一七九六年。本巻の記事下限は寛政九(一七九七)年春であるから極めてホットな『オルレアンの噂』の寛政版ということになる。

・「營士」岩波版長谷川氏注に柳営(将軍・幕府)の武士の謂いかとする。但し、根岸が今までの巻で用いたことのない単語である。なお、長谷川氏がかく推定する理由は次注参照。

・「花村何某」岩波版長谷川氏注に花村『正利(まさとし)。書院番組頭・御先鉄砲頭より寛政八年家慶付き』とある。家慶(寛政五(一七九三)年~嘉永六(一八五三)年)は江戸幕府第十二代将軍。

・「幽靈奉公」これは、悪僧がユウタ(幽太:幽霊の役を演じる者。)役をこの「靑白い」もってこいの女にやらせ、まず幽霊騒ぎを引き起させては、そこにやおら「高野聖」として自らが現われ、祈禱をやらかし、霊は往生致いたと称して金を巻き上げるというものであろう。本文では「高野にて」とあるが考えようによれば「高野聖」と称していただけで、おそらくは僧形の乞食僧(若しくは実際の高野聖から身を落とした者)であり、その親族ででもあったものか、女は幼き日より高野の結界外で、その者に体よく幽霊役として使役されていた、というストーリーであろう。ただ幽霊役だけで、済んでいたのなら、まだ、いいが……彼女のこれからの幸いを心より祈念するものである……。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幽霊奉公の事

 

 紀州高野山は清浄不怠(しょうじょうふたい)の霊場として、女人堂より先は女人を禁じ――邪悪なる大蛇さえも弘法大師の霊力によって柳と化して往生致いたと申す――かの蛇柳(じゃやなぎ)の霊なんどの霊験譚も、これ、人口に膾炙(かいしゃ)して御座れど……後世には無慙の悪僧があって、これ、始祖弘法大師の教戒を犯しながら、平気の平左にて「高野聖」を名乗り、思いも寄らぬ悪事を働いておる輩も、これ、あるのであろうか?……

……寛政八年の頃、将軍附きの花村某(なにがし)殿の元で雇うて御座った女、これ、異様に顔色が青白うして、言葉も関東の者にては、これ、御座らねば、朋輩(ほうばい)の女たちが郷里なんどを尋ねてみたところが、

「……高野山にて、幽霊奉公と申すものを、これ、勤めておりました。……」

と申す。

――幽霊奉公とは……

……幽霊に化けては凡俗の民を欺き、悪僧の渡世のおぞましき手伝いを致いておったとか申す。……

 これ、作り話にてもあろうかとは思うものの……いや……また、あり得ぬこととも思われず……ここに記しおくことと致す。

若葉の日みじろぐ胸を走り落つ 畑耕一

若葉の日みじろぐ胸を走り落つ

「耳嚢」訳注夢+母夢

――毎日「耳嚢」をテクスト化して訳注を加えているうちに、本未明は夢でそれをやっていた。――



……僕は「伊勢屋丸薬の事」という「耳嚢」の一節を訳注しようとしている(注:そんな条は実際の「耳嚢」に存在しない)。……「伊勢屋」という薬種屋は現在まで続いて居てそれが現在のどの製薬会社に当たるのか、私はネット検索で現存する薬メーカーのHPをマニアックに総覧している。……ところが……調べて行くうちに……ある薬品メーカーのCPに忍び込み、その極秘の丸薬の調剤方法をダウンロードすることに成功する……それを僕は小さな丸薬状のデータ・チップに保存する……

――と――そこで目が覚めた。同時に顔に違和感があって左の蟀谷(こめかみ)を触ると「小さな丸薬状の」クロットが感じられた。僕はそれを剥がした(これらは覚醒時の事実である)。さっき見たら、小さな傷がそこにはあった。――



……他にも、母が出て来る夢が前後に挟まっていた……
……前のそれは……昔の今の家の回りにすっかり雪が積もって母と小学生の僕が二人静かに風呂に浸かっている……
……後のそれは……その風呂から上がった僕は既に母がALSであることを知っていて、何とか母を助けなければ、と子供ながらに何かをしようと昔の家の中を右往左往している……
……さらにその間に……家の下水が溢れかえる映像が何度もインサート、フラッシュ・バックされ……
……それらの間に間歇的な覚醒が挟まって……



4:28に臥所に居たたまれずなって起きた。夢自体の不快さではなく、度重なる覚醒が不快であったためである。但し、それは妻の就寝やトイレに起きる物音による外的要因が作用もして、相乗効果を齎した結果である。妻は室内でもスチール製の杖を突かねば歩けない。寝室は二階にあり、妻の杖と足音は、これ、存外に深夜の静寂に大きく響くのである。

2012/10/12

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(3)フナクイムシ

 海中には材木に穴を穿つてその中に隱れる貝もある。岩に孔をあけるのとは違ひ、人の造つた棧橋や船底の木を孔だらけにするのであるから、なかなか損害が大きい。日本で風流な住宅の周圍の塀に用ゐる船板には、表面に蜿曲した長い凹みが澤山に見えるが、これが皆、「船食ひ貝」〔フナクイムシ〕の仕業であつて、このために船は廢物となり、板のみが後に利用せられてゐるので居る。大抵の二枚貝は、「はまぐり」でも「あさり」でも「かき」でも「しゞみ」でも、殼を閉ぢれば柔い肉は全部その内に收まるが、「船食ひ貝」だけは、普通の貝とは違ひ、體は「みみず」のやうな細長い形で殆ど全部露出し、殼は左右とも極めて小さく、僅に體の前端を被ふに過ぎぬ。幼時は水中を游いで居るが、材木の表面に付著すると直にこれに孔を穿つて入り込み、段々隧道を延してその内面に薄い石灰質の壁を造り、自身はその内部に隱れて、たゞ體の後端だけを材木の表面に出して居る。多くの二枚貝には體の後端に二本の管が竝んであつて、殼を開いて居る間は絶えずその一本から水を吸ひ入れ、他の一本から水を吐き出してゐるが、吸ひ入れられる水の中にはいつも微細な藻類などが浮んで居るから、貝はこれを食つて生きて居ることが出來る。「船喰ひ貝」の生活もかやうな具合で材木の中に隱れては居るが、體の後端を表面まで出して居る所から考へると、やはり水とともに微細な餌を吸ひ込んで食ふのであらう。今では大きな船は皆鋼鐵で造るから、この貝のために受ける損害は非常に減じたが、昔の木造船の蒙つた害は實に甚しいものであつた。それ故この貝には「船の恐れ」といふ意味の學名が附けてある。


Funakuimusi

  [船食ひ貝害  船食ひ貝]

[やぶちゃん注:「蜿曲」「ゑんきよく(えんきょく)」と読み、幾重にも折れ曲がっているさま、くねくねしているさまを言う

「船食ひ貝」現在の船食虫(ふなくいむし)、二枚貝綱異歯亜綱ニオガイ上科フナクイムシ科 Teredinidae に属する海産の貝類を指す呼称(貝類であるから標準和名は丘先生のようにフナクイガイとするべきであったとは私は思う)。実はこれは「第三章 生活難 六 泥土を嚥むもの」の注に既出なのであるが、そこで丘先生は『港の棧橋の棒杭などは「わらじむし」に似た小さな蟲』として、節足動物門甲殻亜門軟甲綱等脚(ワラジムシ)目有扇(コツブムシ)亜目スナホリムシ科 Cirolanidae のスナホリムシ類を「船食蟲」(フナクイムシ)として示されておられ、それについての疑義を私が掲げた部分であるから、再注しておく。本邦産フナクイムシは十一属二十二種を数えるが、中でも Teredo 属がよく見られる。殻は球状で殻頭は小さな三角形を呈し、そこと殻体前部との間には細い肋があり、その上部は鋸歯状となっている。殻体と殼翼とは喰い違っており、殻頂からは棒状の突起も出ている。石灰質の棲管を作り、主として木材に穿孔、木造船や海辺に設置された木造建築物などに甚大な被害を与える。軟体部は非常に細長く、穿孔口の水管の出る部分に栓の役割を持つ尾栓があって、これが種によって矢羽・麦穂状などの多様な形態を示すため、それが分類の目安とされる。ウィキの「フナクイムシ」には『水管が細長く発達しているため、蠕虫(ぜんちゅう)状の姿をしているが、二枚の貝殻が体の前面にある。貝殻は木に穴を空けるために使われ、独特の形状になって』おり、『その生態は独特で、海中の木材を食べて穴を空けてしまう。木材の穴を空けた部分には薄い石灰質の膜を張りつけ巣穴にする。巣穴は外に口が空いており、ここから水管を出して水の出し入れをする。 危険を感じたときは、水管を引っ込めて尾栓で蓋をすれば何日も生きのびることができる』。『木のセルロースを特殊な器官「デエー腺」(gland of Deshayes)中のバクテリアによって消化することができる』とある。

「板のみが後に利用せられてゐるので居る」ママ。「居る」は「ある」の誤植であろう。

『「船の恐れ」という意味の學名』代表種の一種であるフナクイムシ Teredo navalis japonica の学名は、ラテン語で“Teredo”は「穴をあけるもの」、“navalis”は「船舶の」の意である。他の一般的な四種の学名も見て見たが、「船の恐れ」の意のものを見出すことは出来ない。失礼ながら丘先生は“teredo”の綴りを、「怖がらす」の意の“terreo”と見誤ったものではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 能見堂

   能見堂 〔一作濃見堂、又作能化堂、能見道(一つに濃見堂に作り、又、能化堂・能見道にも作る。)〕

 能見堂ハ近年久世大和守廣之建之(之を建つ)。此邊ノ鹽燒濱ヲカマリヤノ谷卜云。相傳フ、能見堂ハ繪師巨勢金岡、此所ノ美景ヲ寫ント欲シテ模スルコトヲ得ズ。アキレテノツケニソリタル故ニ俗ニノツケン堂卜云。或ハ云ク、風光ノ美、此所ヨリ能ミユル故ニ能見堂ト云。又能見道トモ書ク。昔ハ此堂ナシ。此地ヨリ望メバ瀨戸ノ海道能ミユル故也トゾ。堂ノ前ニ筆捨松ト云一株有リ。金岡多景ヲ寫シヱズシテ筆ヲ此松ニ捨シト也。又二本アル松ヲ夫婦(メウト)松卜云。此地ヨリ上下總、房州、天神山、鋸山等海上ノ遠近ノ境地、不殘(殘らず)見ユル天下ノ絶景也卜云。里俗相傳テ有八景(八景有り)ト云。

 山市晴嵐。能見堂ノ東ニ町屋ト云所ノ民村連リタル地ヲ云。或云、峠ト云所ヲ云ト也。或ハ瀨戸明神ノ前、辨才天ノ西ノ方ヲ云トナリ。

 平沙落雁。町屋ノ東、野嶋ガ崎ノ東北ノ方平方卜云所ノ西ヲ云。

 漁村夕照。野島ガ崎ノ南へ出張タル所ヲ云。或曰、瀨戸ノ浦邊ヲ云。又夏嶋ヲ云。

 遠浦歸帆。野嶋ノ西ニ室ノ木卜云所ノ東前ヲ云。

 江天暮雪。室ノ木ノ少南、セガ崎ト云所ヲ云。或曰、野島ノ少シ西ヲ云也。或云、富士ヲ望タル景ヲ云。

 瀟湘夜雨。六浦ノ西ニ照天ノ宮トテ叢祠アルヲ云。或云、コヅミト云所ヲ云。釜利屋村ノ内テコノ明神ノ北、鹽屋ノアル邊ヲ云。或曰、笠嶋ナリ。

 遠寺晩鐘。六浦ノ南ノ茂林ヲ云。或云、瀨戸ノ橋ノ邊ヲ云ナリ。

 洞庭秋月。野嶋ノ北、稱名寺ノ少東ノ出崎二紫村權現ノ叢祠アリ。其南ヲ云。或云、ハラト云所也。里俗マチマチニ云故ニ其所一決シガタシ。今見聞ノ僅二書シルシ侍リヌ。

 此圖別紙ニアリ。烏帽子島ノ入江ヲ雀浦卜云。菅公ノ小祠アリ。鎌倉荏柄ノ天神モ雀柄ト書ト里翁物語シ侍リヌ。金澤ヨリ濱路ヲ帷子へ出ル通有リ。路程甚近シト云。遂ニ能見堂ヲ下イ、鎌倉ヘ行ニ、瀨戸ノ南ニ金龍院ト云禪寺、道ノ側ニ有。六浦濱ヲスギ、六浦河幷六浦橋ヲ渡ル。此橋ヨリ照天姫身ヲ投タル河ナリ。其南ニ小川流レ出ル。侍從川卜云。照天ガ乳母ナリトゾ。此所ニ油堤ト云所アリ。是モ侍從ガ舊跡也。ソレヨリシテ相武州ノ境ノ地藏トテ、岩ニ大ナル地藏ヲ切付テ有。鼻缺地藏ト云。爰ヲ過テ大切通シ、小切通シトテ二ツ有り。朝夷奈義秀ガ一夜ニ切ヌキタルト云也。六浦ヨリ鎌倉へノ入口也。上總介ガ石塔トテ大切通ト小切通トノ間、南ノ方ノ田ノ中ニアリ。此所ヲ過テ海道ノ西北ノ方ヲ牛房谷卜云。首塚卜云モ爰ニアリ。

[やぶちゃん注:「八景」新編鎌倉志八」の記載はもとより、鎌倉攬勝考卷之十一附録にある、後年(元禄八(一六九五)年)、明からの渡来僧で光圀の友人でもあった東皐心越(とうこうしんえつ 崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)の「八景詩歌」及び、私が附した歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の図版もお楽しみあれ。なお、「此圖別紙ニアリ」の「此圖」とは八景の位置(若しくはスケッチか)を指すものと思われる。この「別紙」の発見が望まれる。

「牛房谷」牛蒡谷。新編鎌倉志二」の掉尾にあり、そこでは正しく「牛蒡」とある。]

耳嚢 巻之五 傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事

 傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事

 

 堂上(たうしやう)にてありしや、又地下(ぢげ)也(なり)しや、箱根にての詠歌也と見せける。

  雲を踏足がら箱根松杉も仰げば富士の雪の下草

とありし由をかたりし者ありけるに、予がしれる望月翁聞て、趣向面白けれ共語りし者あやまりて歌主の心も野鄙(やひ)にや落(おち)ん、行(ゆく)雲の足がら山の松杉もと上の句はよむべき也、雲を踏(ふむ)とは天狗めきておかしく、足がらといひ箱根といふも物(もの)うし、松杉と言はゞ箱根のとの文字もありたし。歌主のあやまりしか、傳へ語る人の聞たがへるかと望月翁の語りし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:二つ前の「小がらす丸の事」のエンディングにヒッチコックみたように登場する儒学者望月翁連関。

・「瑾」は「きず」と読ませていると思われるが、これはしばしば見られる慣用誤用で「瑾」は美しい玉の意である。「瑕疵(かし)」としたいところ。

・「望月翁」「卷之四」に登場した根岸のニュース・ソースの一人で儒学者。特に詩歌に一家言持った人物で、ここはその真骨頂。

・「野鄙」は野卑に同じい。対象が下品で洗練されていない、言動が下品で賤しい。また、そのさまを言う。

・「雲を踏足がら箱根松杉も仰げば富士の雪の下草」分かり易く書き直すと、

 雲を踏む足がら箱根松杉も仰げば富士の雪の下草

で、「足がら」は松材杉材の名産地として知られた地名の「足柄」に、「がら」は原因理由を示す形式名詞「から」(助詞「から」の起源とされる)で、その足ゆえに、その足で雲を踏む、の意が掛けられているように私には思われる。また「柄」には木(や草)の幹の意があるから、「柄」「松杉」「下草」は縁語としても機能していよう。

――雲を踏むように聳える足柄山や箱根山、そこに屹立する松や杉も、一たび、富士山を仰ぎ見ると、もう、ただの雪が積もった地面の下草のようなもの――

といった如何にもな富士讃歌ではある。望月翁の補正歌も全体を示しておく。

 行く雲の足柄山の松杉も仰げば富士の雪の下草

短歌嫌いの私に正直言わせて貰うならば、これ、狂歌風の野卑な面白みがスマートになった分、一回り陳腐にして一向つまらぬ和歌となり果てたと感じるのであるが、如何?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 伝え誤りて作者の思わぬ瑕疵をも生じてしまう事

 

 知れる者、さる御仁より、

「……公家方のものか、はたまた、庶民のものかは分からねど、箱根にての詠歌なる由に御座る。」

とて見せられた歌に、

  雲を踏足がら箱根松杉も仰げば富士の雪の下草

とあった由、私に語って御座ったが、このことを、私の知り合いの――既に何話にも登場致いて御座るところの、件(くだん)の、和歌に薀蓄を持ったる老儒で御座る――望月翁に話したところ、

「……趣向は面白う御座れども、その最初に語ったと申す者が誤りて伝えたによって、本来の詠歌された歌主の心も、これ、すっかり野鄙(やひ)に落ちて仕舞(しも)うたように思われまするな。これは、

――行く雲の足がら山の松杉も

と上の句は詠みしものと存ずる。

――雲を踏む

とは、これ、天狗めいて可笑しゅう御座るし、

――足柄

――箱根

と重ねて続くるも、重うなって、これ、如何にもつまらぬもので、

――松杉

と言はば、これはもう、

――箱根の

と申す文字(もんじ)が、これ、ありとう御座る。……さても……これ、本来の歌主の誤りて詠めるものか……いやいや、大方は伝え語った、その御仁の聴き違えによる致命的な瑕疵にて御座いましょうのぅ……」

と、望月翁の語って御座った。

新樹二句 畑耕一

銀行の中も新樹のあかるさに

いつぽんの新樹に炊ぎ人住めり

2012/10/11

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(2)ニオガイ/イシマテ

 敵の多い世の中に、全身を露出して居ることは餘程不安の感じを起こすものと見えて、海産動物を飼養する場合に、もし砂や石塊を入れて隱れ家を造つてやると長く元氣に生活するが、たゞ水ばかりの中に入れて置くと、暫く的(あて)なしに匐ひ廻つた後に段々衰弱して死ぬものが多い。動物を採集に行つた人は誰でもよく知つて居る通り、現れた處のみを探しては何も居らぬやうなときにも、石を覆し、泥を掘り、皮を剝がし、枝を打ちなどすると、意外に多くの動物が出て來る。海の底から取つて歸つた石を海水に漬けて置くと、二、三日過ぎて水が少し腐りかゝるころになつて、初め見えなかつた蟲が澤山に匐ひ出すことがあるが、これは石の穴のなかに隱れて居たのが苦しくなつて、出て來るのである。特に不思議に見えるのは、岩に穴を穿つて、そのなかに生きた貝が、嵌り込んで居ることで、「しゞみ」や「はまぐり」と同類の二枚貝が如何にして岩石に孔を穿ち、その固く嵌つて取り出せぬやうになるかは、餘程ほど詳しく研究せぬと明にならぬ。處によると海岸の岩に一面に孔があつて、中には「にほ貝」といふ貝殼の薄い貝が一疋づつ居る。また海岸の岩を破ると、中から「石食ひ貝」または「石まて」と名づける、椎の實を長くした如き形の貝が澤山出て來るが、これらは自分で穿つた孔の中に隱れて居たものである。「にほ貝」は夜光を發するから、イタリヤの漁夫の子供らはこれを嚙んで口中を光らせ、暗い處で人を驚かして戲れる。

Isikuigai

[石食ひ貝]

[やぶちゃん注:「にほ貝」二枚貝綱異歯(ハマグリ)亜綱マルスダレガイ(ハマグリ)目ニオガイ上科ニオガイ科ニオガイ(鳰貝)Barnea manilensis。「鳰」はカイツブリ目カイツブリ科の水鳥カイツブリ Tachybaptus ruficollis の古名で、貝の輪郭がカイツブリを連想させることに由来するとも言われるが、余り似ているようには思われない。ニオガイ科の貝類は多くは白色で両殻が膨らみ、前端や後端は開いているが、特に前端部には石灰質の被板が出来る種が多く、それらでは殻の表面の前部には放射肋が出るか若しくは成長脉(みゃく)がおろし金状になって後部と明白に区別される。靭帯や鉸歯(こうし:“hinge teeth”は貝殻の蝶番部にある歯で二枚貝では大きな分類学的特徴を現わす。)もない。殻の内面は殻頂の下から棒状突起が出ており、殻の背や復部側に複数の石灰版が出来る場合もあるが活動時には容易に失われる。多くは砂泥岩に穿孔して棲息している。本邦産は八属十二種(但し、以上の記載及び後のニオガイの記載は主に昭和三六(一九六一)年保育社刊波部忠重「続原色日本貝類図鑑」に基づいたので産種数などは増えている可能性がある)。ニオガイは潮間帯から水深一〇メートルまでの岩に穿孔して生息する。殻は白色で薄く、殻長約七センチメートル、殻高・殻幅共に約二・五センチメートルで、前後に細長く殻頂は前方に寄る。殻前部は細く尖り、成長脉と放射肋とが交わって弱い刺状になっており、これを用いて物理的に泥岩を削って穴を開けてそこを棲管とする。南方の個体は大きく棘も強いが、北方では小形になる。左右の殻は広く開いており、生貝ではここから軟体部の太い斧足を出し、この足で穴中に固着、殻を回転させながら穴を開ける(以上の大きさのデータと掘削行動については個人の図鑑「そらいろネット」の「ニオガイ」を参照した。リンク先には画像もある)。

『「石食ひ貝」または「石まて」』は二枚貝綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イシマテ LithophagaLeiosolenuscurta。異名イシワリ。殻は前後に細長く円筒形を呈し、靭帯の後端背部の縁で僅かに高まる。殻表面は褐色、成長脉のみで外に外形的特異性は認められないが、所々に石灰層を付着している。石灰層は後端で厚くなり、且つ殻の端より少し延長されており、腹面方向では縦に襞状に刻まれている。内面には歯も内縁の刻みもない。本類は珊瑚礁や岩石に穿孔して棲息、甚だしいものでは同種の他の個体の殻にさえ穿孔する。岩礁性海岸に無数の小孔を見るが、これは『本類その他、スズガイ、ニオガイ、カモガイなどの穿孔したものであり、多くはこれら岩礁を割って採集する』(保育社刊昭和四九(一九七四)年改訂版吉良哲明「原色日本貝類図鑑」より)。

『「にほ貝」は夜光を發する』ウィキの「オオノガイ目」Myoidaによれば、『二枚貝類としては珍しい発光性の種を含み、ツクエガイ科のツクエガイやニオガイ科のヒカリカモメガイ Pholas dactylus、ヒカリニオガイ Barnea candida などが発光液を分泌して細胞外発光をすることが古くから知られている』(目が異なるが、以上の記載にはこのオオノガイ目は分子系統解析から単系統ではないとの研究結果もあり、将来的には所属する科が変わったり、分類階級が目以外のものになる可能性もあると記されている)。]

 

清流 火野葦平

   淸流

 

 水藻(みづも)のあひだにゆらめきただ絲くづのやうなみぢんこのすがたさへも、はつきりと見わけられるこの川底では、晝間の時折はまぶしくて兩眼とも開けて居られないことがある。河童たちは水底のやはらかい砂地によこたはつて片眼をとぢ、きらきらと水を透して屈折しながらさしこんで來る陽(ひ)の光の中に、またも生まれたばかりの車蝦(くるまえび)が群れをなして弾(は)ねてゐるのにほくそ笑む。この直角の運動をする蝦たちが次から次に無數に生まれながら、このあまりひろくない流れのなかにいつぱいに滿たされることの決してないのは、かれらがすべて河童たちの唯一の食餌(しよくじ)となるからである。蝦のからだはほとんど透明に近く、からだを通して水面にゆらぐ波紋も見わけられるほどであつて、このやうな淸潔な食物がほかにあらうとは考へられない。しかし、この美しい餌が時にはうすぐろい髭だらけのみぢんこと區別することが出來ないやうにきたなく見えることがある。それは太陽の光がささず、天には黑雲が蔽(おほ)ひかぶさり、はげしい風が吹き、すさまじい雨が落ちてゐるやうな天候の時である。潔癖な河童たらはそのやうな時には、眼の前に游弋(いうよく)してゐる蝦が晴天の日には美しく透明に見えるからだを持つた蝦とまつたく同じものであつて、黑く見えるのは單に天候のせゐにすぎないとわかつてゐても、その薄ぐろく見える蝦を食べない。どんなに空腹の時でもさうなのである。

 いつたい、この蓮は雨風がつよく嵐(あらし)の多い地方であつた。海拔六千尺の天拜山(てんぱいさん)から源を發してゐる白魚川(しらうをがは)は、そのやうな時にはしばしば河岸を越えて氾濫(はんらん)をする。いくつかある瀧は溢れたつ水量をうけかねてすさまじい飛沫を散らし、岩をたたき、つんざくやうな物音を立てて迸(ほとばし)る。しかし、このやうな時でも河童たちのゐる川底は割合に靜かであつた。川面は雨にたたかれ風になぶられて亂れるけれども、水底ではただ暗く流れが少しばかり早くなるにすぎなかつた。

 河童たちは川底の砂地に寢そべつて嵐のすぎるのを待つ。嵐が過ぎる。すると嵐の間にも、暗澹たる水底で蝦といふものは間斷ない繁殖をつづけてゐるのか、明るい日ざしがさしはじめた水中には、意外にも多くの蝦の群が直角の運動をしながら游弋してゐるのである。

 しかしながら、このやうな川底を見棄てて、多くの河童たらが遠くの地方へさまよひ出た。白魚川の淸流に殘つた河童たらは、常に去つて行つた友だらのことを忘れることができない。遠國の友だちのことは風のたよりによつてかれらの耳に入る。河童たちが水底を棄てて飛翔(ひしやう)をこととするやうになつたために、さまざまの悲劇が起つた。千軒岳(せんげんだけ)では噴火口の上を飛びまはつてゐた多くの河童たちが、火山の爆發とともに熔岩の中にまきこまれて生命を終つたといふことである。また、高塔山(たかたふやま)では、河童同士ではしたない爭をはじめ、人間の山伏の法力に敗れて多くの河童たちは靑いどろどろの液體となつて溶けながれ、また、多くの河童たちは一本の釘によつて永遠に地中に封じこめられたといふことである。また、或るものは飛翔中放屁をしたために、天帝の怒りに觸れて一本の樹の中に閉ぢこめられてしまつたといふことを聞いたこともある。このやうに河童としての純粹さを失つた友だちが、遠い國々で受けてゐる懲罰の笞(しもと)が、ひとごとではなく、白魚川の水底に殘つてゐる河童たちのからだにも、鞭をあてるがごとくにひびいて來るのであつた。かれらは友だちが一日も早くこの淸流に歸つて來ることを日夜願つてゐたのであるが、ひとたび出て行つた友だちは、どうしたものか、誰ひとり歸つて來るものがなかつた。

 或る日、嵐(あらし)あげくの雨水をはげしく落下きせてゐた瀧から、ひとりの美しい人間の女が落ちて來た。

 きらびやかな衣裝につつまれ、水々しい髮を結び、あでやかに化粧をほどこしてゐた若い娘は、落下するとともにその生命を失ひ、流れのままに下流の方へ押し流されて行つた。河童たちは呆氣にとられ、ただぼんやりとその方をその生命を失ひ、流れのままに下流の方へ押し流されて行つた。河童たちは呆氣にとられ、ただぼんやりとその方を見送つたのみである。ところが、このやうなことがそれから相ついで起つた。幾人もの若く美しい女が瀧壺に落ちて死んだ。後(のち)になると、河童たちはそれらの女たちは、決して自分で好んで瀧に落ちるのではなく、多くの人々から強要されてやむなく水中に投じてゐるに違ひないと考へるやうになつた。

 それらの儀式を水面から首を出して眺めたことがある。そのおごそかな式は、たいてい嵐が來て水が溢れ、さうして水がひいたあとに行はれるやうであつた。瀧の上に多くの人々があらはれ、色々の旗を立て、神主のやうな烏帽子水干姿の男が出て來てなにごとか長々と唱へる。瀧口のまへには着飾つた若い娘がゐる。やがて娘は掌を合はせ眼を瞑(と)ぢて瀧の中に飛びこむ。それはある時には水干帽の男によつて突きおとされたやうにも見えた。百二十尺もある瀧から落ちて生命のあらう筈がない。屍になつた若い娘は長い黑髮を水面にただよはし、奔流にのせられてまたたく間に下流に見えなくなつてしまふ。

 或る時、河童たちは氣になる言葉を聞きとがめた。それは人間の言葉ではつきりとわからなかつたが、なんでもそれはたしかに、ガラッパよ、汝の美しき花嫁をかはることなく愛(いつく)しめ、といふ意味に相違なかつたのである。河童たちは顏見合はせ首をひねつたけれども、どうしてもそのことの意味をさとることができなかつた。やがてその美しい娘が瀧から落らることが止まつた時になつて、はじめて河童たらは一切を理解した。それはこの地方をしばしば襲ふところの暴風雨は、すべてガラッパ(河童のことをこの地方の人はさう呼んでゐた。)のせゐである。そのたびに水害があるのは、なにかガラッパの氣を損じてゐるからに違ひない。ガラッパにきれいな花嫁をあたへたなれば災(わざわひ)を避けることが出來るであらう。そこで村中からもつとも美しい娘が選拔され、瀧から身を棄てたのである。人々の犧牲となつて河童の花嫁となるといふやうな決心は、若い娘にとつてはたぐひなく美しい浪漫精神であらうか。ともあれ、白魚川の河童たちはこのことを知るに及んで茫然となる思ひであつた。しかしそのことは間もなく止まつた。都から流されて來たひとで、位高く情に滿ちた人がこのことを中止させた。その人の名は和氣(わけ)の淸麻呂(きよまろ)といひ、その流謫(るたく)の寓居が瀧を眞正面に望む山腹の杉林の中にあつた。この智慧ある人はこの儀式が良からぬ神主たちの陰謀であることを看破した。災をおさめるための花嫁を買ふ金だといつて、近郷の人達から多くの金品を捲きあげてゐたのである。惡神主たちは和氣淸麻呂のために瀧壺の上から落され、幾人もの花嫁が辿つたと同じ運命に落ちた。彼等は瀧の上で和氣公からお前たらがまづ行つてガラッパを迎へて來い、結婚式は水中で行ふ必要はない、といはれたのである。

 河童たちはこのやうな人間たちのいとなみによつて、たいへんな迷惑を蒙つた。かれらの唯一の淸潔な食餌である車蝦の中で、落ちて來た人間をつつくものができてきて、河童たちがかれらを食餌とせんとする時に、はたしてその蝦がけがれてゐるかゐないかといふことを、見きはめなければならないやうな面倒を生じたからである。

 このごろ、瀧の上で奇妙なことが行はれる。瀧口のところに舞臺が組まれ、多くの人々が思ひ思ひの服裝をしてその上で踊つたり歌つたりする。太鼓や笛や鉦の音がし、夜になると篝火(かがりび)が焚(た)かれ、舞臺を踏み鳴らすみだれた音が聞える。それから瀧の中に胡瓜や茄子や西瓜や玉萄黍(たうもろこし)などの野菜がしきりに投げこまれる。水面からちよつと顏を出してみるが、河童たちはつまらないのですぐ川底にかへつて寢ころんでしまふ。人間たちのすることが、河童たちには腑に落ちない。これはガラッパ祭といふもので、嵐をしづめ水害を防ぐ目的をもつて、河童を慰め河童の心を和げるために行はれてゐるものだと聞いたこともある。さうして河童の好物である胡瓜や玉萄黍を投げこむといふのである。河童たちは人間のいだいてゐる傳説にあきれる。暴風雨をおこす自然の法則について、河童たちはなにも知らない。また車蝦といふたぐひない食餌があるのに、生ぐさい胡瓜や茄子などがすこしもここの河童たちは好きではない。いろんなものを放りこむので水がよごれるばかりだ。瀧口の上の得體の知れない騷ぎは、ただうるさくて仕方がない。河童たちはほとんど何日もつづけられるガラッパ祭の間、淸流の底にふかく沈んで退屈し、砂の上に寢ころんで欠伸(あくび)ばかりを連發してゐるのであつた。

 

[やぶちゃん注: 二箇所の「みじんこ」は底本では傍点「ヽ」。

「車蝦」甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目根鰓(クルマ)亜目クルマエビ上科クルマエビ科クルマエビ Marsupenaeus japonicas。『波が穏やかな内湾や汽水域の砂泥底に生息する。昼間は砂泥の中に浅くもぐり、目だけを出して休む』。『夜になると海底近くで活動するので、夜間に海岸の海中を照明で照らすと、クルマエビ類の複眼が照明を反射し光って見える。食性は雑食性で、藻類や貝類、多毛類、小魚、動物の死骸等を食べる。天敵は人間の他、クロダイ、マゴチ、タコ』、ガラッパ等である。『クルマエビ、サクラエビ、ヒゲナガエビなどを含む根鰓亜目(クルマエビ亜目)のエビは、受精卵を海中に放出し、卵の時期からプランクトンとして浮遊生活を送る。卵を腹肢に抱えて保護するエビ亜目に比べて産卵数が多いが、放出された時点で他の動物の捕食が始まるため、生き残るのはごくわずかである』。『クルマエビの産卵期は六月―九月で、メスは交尾後に産卵する。産卵数は体長二〇センチメートルのメス一匹で七〇万―一〇〇万に達する』。『受精卵は直径〇・三ミリメートル足らずの靑色で、海中をただよいながら発生し、半日ほどで孵化する』。『孵化直後の幼生はノープリウス幼生(Nauplius)とよばれる形態で、成体とは似つかない丸い体に大きな三対の遊泳脚がついた体型である。大きな遊泳脚で水をかいて泳ぐが、この脚は後に触角と大顎になる。なおこの時期の数日間は餌をとらず、蓄えられた卵黄だけで成長する』。『ノープリウス幼生を過ぎるとゾエア幼生(Zoea)となる。腹部がやや後方に伸び、成体に近い体型となる。ゾエア幼生では遊泳脚が増えるが、これらは後に顎脚や歩脚となる。なおクルマエビ亜目のゾエア幼生後期を、アミ類(Mysis)に似ていることから特に「ミシス幼生」と呼ぶ』。『孵化からおよそ一〇日後、ミシス幼生が成長すると、今までの遊泳脚が顎脚や歩脚などに変化し、腹部に腹肢ができ、ポストラーバ幼生(Postlarva)となる。ポストラーバ幼生は腹肢で水をかいて泳ぎ、最初のうちは浮遊生活を送るが、やがて海底生活を送るようになり、脱皮を繰り返して稚エビとなる。産まれた年の秋頃にはもう漁獲サイズの一〇センチメートル以上になる』。『クルマエビの稚エビは海岸のごく浅いところにいて、夏から秋にかけて潮の引いた干潟などで見ることもできるが、成長するにつれ深場に移動し冬眠する。寿命は一年半―二年半とみられる』(以上はウィキの「クルマエビ」から引用したが、アラビア数字を漢数字にし、記号の一部を変更した)。なお、本作品により、カッパは(少なくとも本作中のガラッパは)河口直近の汽水域でも棲息可能であることが分かる(一般的なカッパは純淡水産のイメージが強い)。

「弾ねて」の「弾」はママ。

「游弋」定まったルートをもたずに徘徊することを言う語で、特に軍艦が縦横に航行して敵に備える行動に用いる。河童の遊泳にこれを用いるのも、戦争文学の火野ならではという感じがする。

「天拜山」この名の山は福岡県筑紫野市(太宰府市の南方)にある。但し、標高二五八メートルである(尺換算なら約八五一尺になり、本文の「海拔六千尺」はおかしい。これでは一八一八メートルになる。もしかするとこ本文の尺は一尺を四・三センチメートルとするガラッパ尺なのかも知れない)。その名は大宰府に流された菅原道真が自らの無実を訴えるべく幾度も登頂して天を拝したという伝記に由来する。古名は天判山(てんぱんざん)と言った(但し、これらの同定推理は恐らくハズレである。後の「和気の淸麻呂」の注を参照されたい)。

「白魚川」不詳。「昇天記」に既出。そこでは『江戸時代から白魚漁が盛んな福岡市の博多湾に注ぐ室見川があるが、ここか?』と注したが、ここでは「天拜山から源を發している」とあり、室見川は福岡県糸島市瑞梅寺を水源としているので違う。天拝山を水源とする川として知られるものは地蔵川というのがある(但し、これらの同定推理は恐らくハズレである。後の「和気の淸麻呂」の注を参照されたい)。

「千軒岳」同じく「昇天記」に登場するも、不詳。噴火口とあるところを見ると、阿蘇山か雲仙岳か、若しくは霧島山(ここまで南下させる理由は後の「和気の淸麻呂」の注を参照されたい)などがイメージされているか?

「高塔山では、河童同士ではしたない爭をはじめ、人間の山伏の法力に敗れて多くの河童たちは靑いどろどろの液體となつて溶けながれ、また、多くの河童たちは一本の釘によつて永遠に地中に封じこめられたといふことである」先行する「石と釘」に描かれた伝承である。実在する高塔山(福岡県北九州市修多羅)を含め、同作と私の同注を参照されたい。

「百二十尺」約三十六メートル。

「ガラッパ(河童のことをこの地方の人はさう呼んでゐた。)」以下、ウィキガラッパより引用する(主人公であり、詳細をイメージする必要性からほぼ全文の引用を行ったが、注記号は省略し、記号の一部を変更した)。『ガラッパは、南九州に伝わる妖怪。河童に似た名前の通り、単に河童の訛りとも言われるが、河童に似た別の妖怪という説もある』。『川辺に住み、頭に皿があり、春と秋に山と川を行き来するといわれていることなどは、河童と共通している。目に見えずに声や音だけが聞こえる正体不明の化け物とも言われている。特定の人にしか見えないともいう』。外見の形状は『一般の河童より手足が長いのが特徴で、座ると膝が頭より高い位置にくる』。性格は『悪戯が大好き。山中で驚いたり道に迷ったりするのはすべてガラッパの仕業とされる』。『人間から理不尽な攻撃を受けた場合は必ず仕返しをしたと伝えられている。山でガラッパの悪口を言うと必ず仕返しされ、特に悪口を言った者が靴を履かずに裸足だった際には、その悪口は数キロメートルまで離れたガラッパの耳にも届くという』。『悪戯好きの反面、恩義を忘れない性格とされる。熊本県では、川で悪さをしたガラッパをある者が懲らしめ、もう悪さはしないよう言い聞かせた上で許して逃がしてあげたところ、その川では水難が起きなくなったという』。『かつて数多くの悪戯を働いたガラッパたちも、現在ではいつも考えごとをして静かに振舞っているという説もある。これについては、かつてガランデンドンというガラッパの神が、鹿児島の神社でガラッパたちを集めて悪事を働かないよう説得し、戒めの文字を石に刻み、その石がある限りガラッパは悪さができないとされている』。『人間の仕事を手伝う話も多い。熊本には薬売りに膏薬の作り方を教えた話や、魚採りを手伝ってくれる話がある。特に魚については、ガラッパと友達になることで面白いように魚が沢山取れるという。また鹿児島の薩摩川内市では、田植えを手伝った話が残されている』。「声」の項。『ヒョーヒョーと鳴くとされる。実際にはこの声の主は小鳥のトラツグミとされるが、一説によればガラッパの神秘性を保つため、敢えてこのことは公にされていないという。他に大正時代に鹿児島で、夜来て倒木や矢を射る音をさせたり、フンフンフンと鳴いたという話もある』。「嗜好」の項。『一般の河童に増して女好きであり、鹿児島の伊佐郡などでは、ガラッパが人間の色気に惑わされて川に落ちたという、「河童の川流れ」ならぬ「ガラッパの川流れ」の伝承がある』。『同じく鹿児島の熊毛郡屋久島町では、ガラッパに犯されて妊娠した女の話が伝わっており、その女は胎内のガラッパに肝を食べられたため、やがて死んでしまったという。産まれた子は焼き殺されそうとしていたところ、どこかへ消えたという』。「趣味」の項。『種子島には、ガラッパに相撲で挑まれた子供の逸話がある。その子供はガラッパを投げ飛ばしたものの、次から次へとガラッパが現れ、何度投げ飛ばしてもきりがない。遂に相撲に負けた子供は、妙な色を口に塗られて家に帰り、長い間目を覚まさなかったという』。『薩摩川内市の五代町では、何日もガラッパの相撲につきあっていた者が、やがて病気になって死んでしまったとも伝えられている』。「弱点」の項。『仏飯(仏壇に供えるご飯)が弱点。熊本では、仏飯を口にしたガラッパが力を失ってしまったという伝承がある。また伊佐郡や薩摩川内市では、仏飯を食べた人間や動物に対しては、ガラッパは恐れて近寄らないと言われている』。『光り物の金属類も大の弱点のひとつで、ガラッパの難を避けるにはこれを身に付けると良いとされる』。『その他、伊佐郡では人間の歯を恐れているとも言われている。また、鹿児島の大島郡では網が嫌いとされ、網をかぶることでガラッパの難を逃れた者の話が伝わっている』。最後の「その他」。同『大島郡の瀬戸内町では、善行を行なわなかった人間が海で死ぬと、その霊魂がガラッパになると伝えられている』。『川内市(現在の薩摩川内市川内地域)では、赤ちゃんの歯が生え始める際に下より上の方が先に生えると、川でガラッパに引きずり込まれるとされ、赤ちゃんの名前を改名すると共に、人形を作って川に流すという』。なお、本文の火野の( )注の位置はママ。同段落の最初の一文中に「ガラッパ」は初出するのであるが、ここは一種の直接話法部分であるため、火野は注括弧の挿入が興を殺ぐと嫌って、後ろへ回したものと思われる。何気ないことであるが、私は、火野の読者への優しい心遣いが知られて、心和む思いがするのである。

「和氣の淸麻呂」(天平五(七三三)年~延暦一八(七九九)年)奈良末期から平安初期の貴族。従三位・民部卿、贈正三位、正一位。以下、ウィキの「和気清麻呂より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。七六九年(神護景雲三年)七月頃、宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳天皇へ奏上する。道鏡はこれを信じて、あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自ら皇位に就くことを望む』。『称徳天皇は側近の尼僧和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられぬため、弟の和気清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。清麻呂は天皇の使者(勅使)として八幡宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ九メートルの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」』『を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した(宇佐八幡宮神託事件)』。『七六二年(天平宝字六年)道鏡は孝謙上皇の病を宿曜秘法を用いて治療し、それ以来、孝謙上皇と道鏡は密接な関係があったとされる。七六四年(天平宝字八年)孝謙上皇は藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧の後、淳仁天皇を廃して自ら称徳天皇として重祚すると、道鏡の権勢は非常に強まり、七六五年(天平神護元年)太政大臣禅師、翌七六六年(天平神護二年)には法王となった。こうした状況に、道鏡に欲が出たのではないか、とも推測されている。さらに、称徳天皇も道鏡を天皇の位に就けたがっていたとも言われ、清麻呂の報告を聞いた天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷の上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした』。神護景雲四(七七〇)年八月、『称徳天皇は崩御し、道鏡失脚後、光仁天皇により従五位下に復位した。その後、播磨・豊前の国司を歴任する。この時清麻呂は自ら強く望んで、美作・備前両国の国造に任じられている』。『七八五年(延暦四年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。その後、七八八年(延暦七年)にのべ二十三万人を投じて上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとしたが工事を行ったが費用がかさんで失敗している(堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある)。清麻呂は桓武朝で実務官僚として重用されて高官となる。平安遷都の建設に進言し延暦一二年(七九三年)自ら造営大夫として尽力した』。『また、延暦五年(七八六年)民部卿として民部大輔菅野真道とともに庶政の刷新にあたった。桓武天皇の勅命により天皇の母・高野新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し、和氏譜として撰上した。子の広世・真綱らは、父の没後に官人として活躍した。広世は最澄を招聘して高雄(たかお)の法華会(ほっけえ)を開き、天皇へ最澄を斡旋して勅を蒙り、唐へ留学させ、五男・真綱と六男・仲世は高雄山で最澄と共に空海から密教の灌頂を受けて仏法に帰依し、新仏教興隆に一役買っている。また、姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、孤児救済事業で知られる』。以上の事蹟から、本件は和気清麻呂が大隅国(現在の鹿児島県霧島市)へ配流となっていた間の出来事として描かれていることが分かる。すると、実はこの本文に現れる「瀧」やそこを源流とする「白魚川」の実在モデルが明らかとなる。MORIMORI氏の鹿児島観光ページの「犬飼滝(犬飼の滝)」をご覧頂きたい。この鹿児島県霧島市牧園町下中津川にある犬飼の滝の落差は三十六メートルとあり、本作の「百二十尺」の「瀧」と完全に一致する。「犬飼滝とゆかりの人々」の部分を見て頂こう(アラビア数字を漢数字に代えた)。『史実によると西暦七六九年(称徳天皇の御世)には、皇位争いをめぐり、道鏡の怒りにふれ和気清麻呂公がこの地に流され一年間滞在している。この間、和気公は、村の美女を生贄に供える河童祭の陋習を止めさせたほか、中津川の開削工事をし、人々や田園を守るため河川変更の大事業を行った』とある。従って、少なくともこの伝承に従うなら、「天拜山」のモデルは天孫降臨神話を持つ(「天拜」とはその謂いか)霧島山であり(標高は最高峰の韓国一七〇〇メートルで本文の「海拔六千尺」の一八一八メートルに近い)、「白魚川」とは霧島山を源流として鹿児島湾へ注ぐ天降川がモデルということになる。天降川はウィキによれば、古くは上流部から中流部にかけては金山川又は安楽川、下流部は大津川又は広瀬川と呼ばれていたとあり、更に『江戸時代初期以前の河口は現在の河口より約二キロメートル東方にあり、現在霧島市の中心市街地となっている地域は海へと続く河道あるいは湿地帯であった。下流部は大雨によってしばしば洪水が発生したことから、江戸時代初期の寛文元年(一六六一年)、薩摩藩藩主島津光久によって大規模な流路変更工事の命令が下され、翌年から約四年間をかけて現在の河口に至る放水路が開削された』(アラビア数字を漢数字に代え、記号も変更した)とあって、本作の洪水被害の甚大な河川という設定とも完璧に一致する。因みに、MORIMORI氏の記載によれば、この美しい犬飼の滝は、坂本龍馬が妻お龍と日本初の新婚旅行で訪れた場所である。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 称名寺

   稱名寺

 金澤村ニアリ。眞言律ニテ西大寺ノ末也。寺領百石アリ。龜山院ノ敕願所、越後守平實時本願主、同顯時建立ナリトゾ。開山ハ審海和尚也。本尊ハ彌勘佛、運慶ノ作也。昔ノ塔二重ハ頽廢シ、一重ノミ殘レリ。二王アリ。運慶ノ作也ト云。堂ノ左ニ鐘アリ。銘ニ武州六浦庄稱名寺ト云々トアリ、平實時・顯時ナドノ字略見ユレドモ、銅靑浮ンデ文章分明ナラズ。昔ノ盛ソナル時、唐土ヨリ書籍多ク船ニノセ來テ、此地ニ納ム。所謂金澤ノ文庫也。儒書ニハ黑印、佛書ニハ朱印ニテ、金澤文庫卜云文字アリ。今ハ書籍四方ニ散ウセヌト也。一切經モ切レ殘リタルヲ本堂ニ籠置タリトゾ。文庫ノ舊地ハ長者谷トテ、此後ロナリト云。或ハ此寺内トモ、門前ニアリトモ云。未詳。道春丙辰紀行ニ、越後守平貞顯此所ニテ淸原教隆ニ群書治要ヲ讀セケルト云。道春ガ見侍リシモ文選、清原師光ガ左傳、教隆ガ群書治要、齊民要術、律令義解、本朝粹ノ類、私續日本紀ナドノ類、其外人家ニ所々アリケルモ、一部ト調タルハ稀也。

[やぶちゃん注:「銘ニ武州六浦庄稱名寺ト云々トアリ」とあるが、「新編鎌倉志卷之八」には『大日本國武州六浦莊稱名寺鐘銘』とあり、この「稱名寺ト云々」の「ト」は衍字である。

「平實時・顯時ナドノ字略見ユレドモ、銅靑浮ンデ文章分明ナラズ」とあるが新編鎌倉志八」には美事に全文が翻刻されている。その内、「鐘銘」の方に「實時」の名が、「改鑄鐘銘幷序」の方に「顯時」の名がそれぞれ見える。

「道春丙辰紀行」林羅山(道春は出家後の法号)が元和二(一六一六)年に書いた江戸から京都までの東海道紀行。本書は「新編鎌倉志」の引用書目に挙がらず、称名寺の項にも言及がない。以下の列記される書名も含め、本日記オリジナルの記載である。]

 

 寶物 十六羅漢畫像一幅、細字 禪月大師筆

 釋迦像一幅、西大寺ノ興正菩薩ノ作也。

 愛染像一幅〔或云天照大神ノ作也、龜山院ノ御守本尊ト云。〕

 三尊ノ彌陀木像〔長三寸五分 惠心ノ作〕

 不動立像〔長二寸五分〕 弘法一刀三禮作

 彌勒泥塑像〔長三寸坐像〕 同作

 法華經信解品一卷 同筆

 細字瑜伽論一卷 天神筆

 請雨經一卷 同筆

 一切經  彌勤堂ニアリト云。

 佛舍利   數不知(知らず)多シ

  八祖相承ノ舍利トテ祖代々相傳、弘法ニ至テ大和ノ室山ニ納置シヲ、龜山院ノ勅ニ因テ此寺ニ納卜也。往昔ハ敕符アリト云。

 牛玉一ツ  鹿玉一ツ

 靑磁花瓶 四ツ 同香爐

  昔唐船三艘、瀨戸ノ浦ニツク。其時靑磁ノ花瓶、香爐等ヲ持來ル故、其地ヲ三艘ノ浦卜云。

アラハシヤノウノ五寸文殊畫像細字一幅 弘法筆

[やぶちゃん注:「アラハシヤノウ」は「新編鎌倉志卷之八」に「阿羅波左曩」とあり、これは文殊を表す真言(梵語原音)である。]

楊貴妃簾〔尾州熱田ノ寶物ナリシヲ龜山院ノ勅ニ因テ此寺ニ納ム。〕

  五箇院アリ。一﨟ハ光明院、二ーハ阿彌陀院、三ーハ大寶院、四ーハ一室、五ーハ開眼院卜云。

[やぶちゃん注:「﨟」は僧院の順位を示すもの。「ー」は「﨟」の字の繰り返しを示す記号であろう。]

 此地二四石八木卜云名物アリ。美女石・姥石ノ二ツハ此堂ノ右ノ池邊ニアリ。布石卜云ハ瀨戸明神ノ前ノ池ノ端ニアリ。飛石卜云ハ金龍院ノ山ノ上ニアリ。三島大明神ノ飛クル石ナリト云。八木ハ靑葉楓、爲相歌ニ

  イカニシテ此一本二時雨ケン 山ニ先タツ庭ノ紅葉々

 西湖梅白シ。八重ノ花也。普賢櫻花千葉シベアリ。色白シ。櫻梅八重ノ櫻ナリ。瀨戸ノ大柏槇、雀浦松、此六本ハ今猶現ニ有。黑梅・文殊櫻此二本今ハナシ。西湖梅・普賢櫻・靑葉楓・櫻梅ノ四本ハ、昔ノヒコバヘトテ小木ニテ、此堂前ノ庭ニアリ。右何レモ唐土ヨリ傳タリト云。或云、室木ノ山ニ箱根權現ノ小社アリ。神木トテ犬楠ノ大樹アリ。コレハ八木ノ一ツ也ト。

 金澤ハ武藏ノ内也。徒然草ニ甲香此浦ヨリ出ヅ。所ノ者ハヘナタリト云卜野槌ニ書リ。今金澤ニテ尋ヌレバ、バイト云。亦ツブトモ云。兼好ガ時ハヘナタリト云ケルニヤ。往古此所へ唐船ノツキケル時、名猫ヲノセ來クル故ニ、今至テ金澤ノカラネコトテ名物ナリ。

春芝二句 畑耕一

春の芝犬と鎖を引きあうて

春の芝人に疲れて人あゆむ

耳嚢 巻之五 天野勘左衞門方古鏡の事

 天野勘左衞門方古鏡の事

 

 小日向(こひなた)に天野勘左衞門といへる御旗本の家古き丸鏡有しが、唐の玄宗皇帝の鏡なる由申傳(まうしつた)へけるが、予が許へ來れる人も右の鏡を見し由。いかにも古物と見へて鐡色(かないろ)に常ならざれど、形は通途(つうと)の丸鏡にて革の家に入りて服紗(ふくさ)に包、いかにも大切に祕藏するよし。右に付(つき)勘左衞門語りけるは、右鏡玄宗の所持といふも不慥(たしかならず)、しかれ共年古き品には無相違(さうゐなく)、祖父とやらん曾祖父とやらんの代に、鏡面曇りある故、懷(ふところ)にして下町邊江戸表あらゆる鏡屋持行(もちゆき)て研(とぎ)を申付(まうしつけ)しに、是は古き鏡故金味(かなあぢ)も不知(しれず)、研難(とぎがた)しとて斷(ことわり)ける故、詮方なく持歸りて門前を通る鏡研(かがみとぎ)などを呼て研を求(もとむ)れど何(いづ)れも斷りて不研(とがざ)しが、或年壹人の老鏡研を呼入(よびいれ)て右の鏡を見せしに、暫く詠(なが)めて先々(まづまづ)元の如く入置(いれおき)給へとて、手洗ひ口すゝぎて扨(さて)右の鏡を得(とく)と見て、是は古き鏡也(なり)、我等六拾年來かゝる鏡を此鏡共に見る事二度也、定て此鏡を研(とが)んといふ者あらじ、我等は親は江戸にて鄽(みせ)を出し相應にくらしけるが、不仕合(ふしあはせ)にて今は落魄(らくはく)せしが、いとけなき時かゝる鏡を親なる者研(とぎ)し時咄しける事あれば某(それがし)は研得(とぎう)べし、され共(ども)家寶を我宿に持歸らんもいかゞなり、又渡し返し給ふべき樣もなければ、一七日(いちしちにち)潔齋して爰に來りて研可申(とぎまうすべし)、朝夕の食事は與へ給へといひし故、其約を成せしに、七日過て齋濟しとて來りて、主人の古き麻上下(あさがみしも)をかりて、扨(さて)一室に入て鏡を都合三日にて研上(とぎあげ)しに、實(げ)にも淸明光潔にして誠に可貴樣成(たふとぶべきさまなる)故、主じも悦びて價ひ謝禮を成さんと言しが、曾て不求之(これをもとめず)。我等幸ひにかゝる古物を研得(とぎえ)しは職分の譽れ也(なり)、謝禮を受ては却(かへつ)て恐れあれば、右細工中の古麻上下を給はるべし、子孫の光輝になさんといふ故、その乞ひに任せけると也。其時の儘にて今に研(とぎ)し事なしとかたりけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:骨董連関。

・「小日向」現在の東京都文京区小日向。茗荷谷の南。

・「天野勘左衞門」天野昌淳(まさきよ)。底本の鈴木氏注に、『宝暦五年(十七歳)祖父の遺跡(四五〇石)を相続。明和三年西城御小性組の番士となる』とある。これにより彼の生年は元文四(一七三九)年となり、執筆推定の寛政九(一七九七)年当時生きていれば満五十八歳である。

・「革の家」底本の鈴木氏注に『革製の箱。』とある。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には『革の袋』とあって、この方が自然で、筆写の際、「嚢」の崩し字を「家」と誤読したもののように思われる。訳は袋を採った。

・「鏡面曇りある」ガラスに銀鍍金(めっき)を施した現在の鏡と異なり、当時の鏡は青銅の一面の上に水銀を鍍金した反射面を利用するもので、暫くすると錆が生じて直に曇ってしまった。

・「研(とぎ)」は底本のルビ。

・「金味(かなあぢ)」は底本のルビ。金属の材質・性質。

・「鏡研」鏡研ぎ(鍍金のし直し)をする行商の職人。三谷一馬「江戸商売図絵」(中央公論社一九九五年刊)の「鏡研ぎ」のよれば、『この職人は殆ど加賀出身の老人で、専ら寒中に来たといいます。鏡を磨くときは柘榴の汁を使ったそうです』とある。その細かな研ぎの方法については、個人のHP「大宝天社絵馬」の中の「柄鏡と髪飾り」に(コンマを読点に代え、改行を繫げた)、『まず、表面を細かい砥石で研ぎ、朴炭で磨き上げてから、水銀とすずの合金に砥の粉、焼きみょうばん、梅酢などの有機酸をまぜたものを塗って蒿(ヨモギ)でこすりつける。最後に柔らかい美濃紙で磨き上げると、青銅の表面は新しい水銀メッキ層で覆われ、再び金属光沢の輝きを取り戻すのである』とある。「朴炭」は「ほおずみ」と読み、双子葉植物綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ Magnolia obovata を原材とした木炭、均質なため、銀・銅・漆器などの研磨に用いられる。三谷氏の柘榴はこの解説の『梅酢などの有機酸をまぜたもの』に相当しよう(の個人ブログに絵本「彩画職人部類」(天明四年橘珉江画)の絵があり、また株式会社「クリナップ」の公式HPの江戸散策」には「江戸名所図会 四谷内藤新駅」(部分)の鏡研ぎの絵がある)。

・「得(とく)」は底本のルビ。

・「又渡し返し給ふべき樣もなければ」訳で最も困った部分である。まず「又」とあるから、前の鏡を預かることに関連するのであれば、これは研ぎのために預かった鏡を研ぎ終えて「渡し返す」の意以外にはない。しかし、「渡し返す」動作の主体は研ぎ師本人であり、尊敬の補助動詞「給ふ」はおかしい。この動作主体は旧主天野であることは動かない。さればここは本来、「渡し返させ給ふ」という使役表現であったのではなかろうか? 旅商いのどこの馬の骨とも分からぬ鏡研ぎに、お目出度くも家宝の鏡を預け置いて、仕上げて「渡し返」させるまで、何の心配もしないということはない、だから預けることはない、という意味で意訳しておいた。大方の識者の御意見を乞うものである。

・「一七日」七日間。

・「實にも淸明光潔にして……」底本は「爰にも」であるが、「ここにも」では文脈上、おかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『実(げ)にも』とあって、これならおかしくない。筆写の際、「實」の崩し字を「爰」と誤読したもののように思われるので、特に本文を「實」に変えた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 天野勘左衛門方にある家伝の古鏡の事

 

 小日向(こひなた)の天野勘左衛門殿と申される御旗本の家に古い丸鏡が御座る。

 唐の玄宗皇帝所持の鏡と伝えられておるが、私の元へ来る知人も、この鏡を実見致いたとのこと。

 如何にも古物(こぶつ)と見えて金属の色は尋常ではないものの、形は普通の丸鏡で、革の袋に入れ、それを更に袱紗(ふくさ)に包み、如何にも大切に秘蔵なされておらるる由。

 この鏡について、勘左衛門殿が話されたことには……

 

……この鏡、玄宗皇帝の所持しておったと申すものの、これ、確かな話にては御座らぬ。然れども、余程古き品であることは、これ、相違御座らぬ……

……祖父の、いや、曾祖父とやらの代に、鏡面に曇りが出た故、懐ろに入れて下町、江戸表の、ありとあらゆる鏡屋へと持ち込んで、研(と)ぎ呉るるよう申し付けたところ、

「……これは……古き鏡なれば、材質もようは分からず……とてものことに、研ぐこと、これ、出来難(がと)う御座いますれば……」

と何処(いずこ)も断る故、詮方なく持ち帰って、その後は、門前を通る鏡研ぎなんどを呼び入れ、研がせんと致いたが、何(いず)れも、同じ理由にて断わられ、研ぐこと、これ出来申さず……

……ところが、ある年、一人の老鏡研ぎを見かけて呼び入れ、この鏡を見せたところが――暫くの間――凝っと、眺めて御座ったが、

「……まずまず、元の如く、一度御仕舞下され。……」

と申すと、かの老人、手水(ちょうず)を借り、手を洗い、口を漱ぎ終えると、

「――さても――」

と、改めて鏡を取り出だいて、これ、じっくりと検分致いて御座った……

……そうして、やおら語り出すことには、

「……これは、まっこと、古き鏡にて御座る。……我ら、この六十年来……かかる名物を見るは、これで二度目のことにて御座る。……定めて……これを研がんと申した者は、これ、御座いますまい。……我ら……親は、江戸にて鏡研ぎの店を出いて……相応に暮らいて御座ったれど……今は落魄(らくはく)致いておりまするが……我ら、幼き折り、かかる鏡を親なる者の研いだ時の話を、これ、訊いて記憶に残って御座ればこそ……我らこと、この鏡、研ぎ得ようと存ずる。……されども、御家宝を我が旅宿に持ち帰ると申すも如何(いかが)なものか、また、我ら流浪(るろう)の旅商いの身なれば、安心して預けおかれ、返却させるなさるというお目出度い仕儀も、これ、お考えにはなりますまい……されば、七日の間、潔斎(けっさい)致いて、こちらさまに参り、こちらさまにて研がせて頂きまする。研ぎに入(い)って後の朝夕の食事だけは、これ、ご用意下さいますよう、お願い申し上げまする。……」

と申した故、かくの如く約しおいた……

……七日過ぎて、

「潔斎、これ、済み申した。」

とて老人が来たり、我ら旧主の古き麻裃(かみしも)を借りて、さても、屋敷の一室に籠って研ぎに入(い)って御座った……

……それよりきっかり三日の後、老研ぎ師は、この鏡を研ぎ上げて御座った。

 研ぎ上がった鏡は、ほれ、この通り、実に清明光潔にして、まっこと、貴き伝家の宝鏡と呼ぶに相応しき様なればこそ、我らが旧主も大悦び致いて、

「謝礼は、これ、望むだけ、取らそうぞ!」

と申したところ、老研ぎ師は、

「……いえ、これ、戴きませぬ。」

と申す。そうして、

「……我らこと、幸いにしてかかる古物の鏡を研ぎ得たことは、研ぎ師として、これ以上の誉れ、これ、御座ない。……謝礼を戴いては、これ、却って畏れ多きことなれば……そうさ、かの細工の間、お借り致いた、この麻裃、これを、賜りとう存ずる。……これを以って我ら、これ、名宝の古鏡(こきょう)を研ぎ上げたる、子孫代々への光輝と致さん、と存ずる。……」

と申したそうじゃ。我ら旧主、その乞いに任せ、その麻裃を褒美として与えて御座った……

 

「……その時、研いだ儘(まま)にて、我らが当主となってからは、一度として研いだことは、これ、御座らぬ。」

と、天野殿御自身、語られたとのことで御座る。

2012/10/10

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(1)

   二 隱れること

 

 隱れるといふ中には、敵に見える場處から敵に見えぬ場處へ移ることと、平常から見えぬ場處に止まつて居ることとがあるが、兩方ともに動物界にはその例が澤山にある。巧に隠れることは、敵に食はれぬ法の中で、最も有功なしかも勞力を費すことの最も少い經濟的なものである。しかし、またこれを探し出すことを専門とする動物が必ずあるから、隱れたりとて決して全く安全とはいはれぬ。但し、隱れなければ數百數千の敵に襲はれるべき所を、隱れて居るためにわずかに二三の特殊の敵に攻められるだけで濟むのであるから、隱れただけの功能は勿論ある。その上獅子・虎の如き無敵の猛獸でも、安心して休息するためにはやはり隱れ場處を要するから、動物中で眞に隱れる必要のないものは、恐らく大洋の表面に浮んで居る「くらげ」の如き種類の外にはなからう。

[やぶちゃん注:クラゲが生物で唯一、隠れる必要のない生物である、という丘先生の叙述は何やらん、哲学的で面白いではないか。]

 

 敵が近づけば忽ち隱れる動物は頗る多い。これは見える處から見えぬ處へ移るのであるから逃げるのの一種であるが、そのとき即座の鑑定によつて適當な隱れ場處を求めて逃げ込むものと、豫め隱れ場處を造つて置き、常にその近邊のみに居て、敵が見えれば忽ちそこへ逃げ歸るものとある。海岸の岩や石垣の上に澤山走り廻つて居る船蟲は、人の影を見れば直に最も近い割目に這ひ込むだけで、別に巣の如き定まつた場處はないが、砂濱に多數にいる「小がに」は各自に一つづつ孔を穿ち、常にその近くに居て、若し人が來り近づくと、皆一齊に自分の穴に逃げ込む。潮の干たときに、鋏で砂粒を挾んで餌を求め食ふ擧動が、恰も招く如くであるから、俗に「潮招き」と名づける。走ることが極めて速で、且穴が近くにあるから、捕へることは頗る難い。狐・狸でも兎の類でも、追はれれば直に穴に逃げ込むもの故、これを獵するには特に足の短い獵犬の助けを借らねばならぬ。

[やぶちゃん注:「潮招き」は、丘先生は砂浜海岸に棲息する小蟹類(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ Ocypode stimpsoni やスナガニ科コメツキガニ亜科コメツキガニ Scopimera globosa など)の砂泥からの摂餌行動を、土俗で広義に「潮招き」と呼ぶ、と叙述されているのであって、これは、所謂、狭義の種としてのスナガニ科スナガニ亜科のシオマネキ属 Uca 類を指しているのではない点に注意されたい。因みに、シオマネキ類のオスが大きな鋏脚を振る「潮招き」行動、ウェービング(waving)は、摂餌行動ではなく、求愛行動である。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 巻首/瀬戸明神

鎌倉日記

 甲寅五月二日辰ノ刻、上總ノ湊ノ旅寓ヲ出、鎌倉ヲ歴攬セントテ金澤ノ浦ヘ渡ル。松平山城守重治、送錢ノ爲ニ船數艘ヲ飾リテ海ニ浮ブ。群船順風ニ䌫ヲトヒテ前後ニ行ク。船中ニテ燈寵崎ノ前海馬嶋ヲ望ミ、旗立山ヲ過ル。番所アリ。大岡次郎兵衞守之(之を守る)。走水ノ觀音堂ヲ見ル。金澤ノ御代官坪井次郎右衞門ヨリ、案内船三四艘ヲ出シ迎フ。北ノ方二本目ノ出嶋アリ。南方猿嶋ヲ見テ、夏嶋ノ北ヲ廻リ、野嶋崎へ入ル。野嶋又ハ百間嶋卜云。此所ニ紀州南龍院ノ鹽風呂ノ舊地アリ。南方ニ笠島・烏帽子嶋・箱崎・雀浦ヲ望ミ、瀨戸ノ辨才天ノ社ヲ見テ瀨戸橋ニツキ、明神ニ至ル。橋ノ北三松一本アリ。俗二傳フ、照天姫ヲフスべシ所ナリトゾ。

[やぶちゃん注:「送錢」は見送りの意の「送餞」(「餞送(せんそう)」の方が一般的)の誤りであろう。

「松平山城守重治」上総佐貫藩第二代藩主松平重治(寛永一九(一六四二)年~貞享二(一六八五)年)。当時は奏者番、延宝六(一六七八)年に寺社奉行、天和元(一六八一)年には修理亮に遷任したが、この光圀来訪の十年後ノ貞享元(一六八四)年十一月、濫りに身分の低い者と交わって綱紀を乱したとして改易され、身柄は陸奥会津藩主保科正容(まさかた)に預けられた。重治は三〇〇俵高となって佐貫城は破却、貞享二(一六八五)年二月に身柄を江戸から会津に移送されたが、直後に病に倒れて同年八月二日に享年四十四歳で死去した。貞享二年は奇しくも「新編鎌倉志」が成った年である(重治の事蹟はウィキの「松平重治」に拠った)。

「燈寵崎」不詳。識者の御教授を乞う。(以下の追記参照)

「海馬嶋」不詳。識者の御教授を乞う。(以下の追記参照)

「旗立山」不詳。識者の御教授を乞う。(以下の追記参照)

【二〇一三年一月二十日追記】本日未明、近世史の研究家であられる金沢八景近くに在住されておられる「ひょっとこ太郎」氏よりメールを頂戴し、以下の事実が判明した。まず、光圀の金沢への経由ルートに問題を解く鍵があった。底本では単に延宝二(一六七四)年『五月二日に上総から船で金沢に渡ったが』、『三浦半島の走水の観音堂を過ぎた頃には、金沢の代官が案内船三、四艘を出してい』た、とあたかも直線コースで金沢へ向かったように記すだけなのだが、本文の『走水ノ觀音堂ヲ見ル』に着目すべきであった(これは現在の観音崎であり、実は彼らは、ここで一時下船している可能性さえ見えてきた)。以下、「ひょっとこ太郎」氏のメールから引用させて戴く。
   《引用開始》
光圀一行が、房総半島の上総湊を船出したのが、延宝二年五月二日で、金沢に同日到着したようです。
「徳川光圀」(鈴木暎一著・吉川弘文館)では、海上を直線コースで来ているように書かれていますが、光圀は金沢に来るときに、日記から、走水→猿島→夏島→野島というルートを辿っていることから、観音崎(走水)方面から北上してきていると考えられます。
ですので、「海馬嶋」は、久里浜沖にある「海驢(アシカ)島」のことだと考えています。
「燈寵崎」とは、その目前に「海馬嶋」があるということは、浦賀の「燈明崎」のことだと考えています。
地元で「旗立山」といえば、葉山(鎌倉時代に三浦氏の城があった)と鎌倉(光圀が行った英勝寺の裏)にある山の名前で、これらは東京湾側からは絶対に見えません。
この日記が時系列で記述されているとすれば、久里浜と走水の途中に「旗立山」があるわけで、この辺りで山といえば観音崎の灯台がある山くらいしか思い当りません。
ここを「旗立山」と呼んだという記録は見たことがありません。
ここに、旗でも立ってあったのでしょうか……。
光圀は、その後二回も家臣を金沢、鎌倉に派遣してから日記を完成させていますので、誤記は無い筈なんですが。
   《引用終了》
これで、「海馬嶋」は久里浜沖の海驢(あしか)島であり、「燈寵崎」は浦賀の燈明崎と同定された。後は「旗立山」であるが、これは「ひょっとこ太郎」氏もおっしゃられている通り、漁師などは旗を立てた山を目印に操舵することが多いから、もしかすると、同船していた船頭が名指した土地の通称の山名などを、そのままに記したのかも知れない。以上、「ひょっとこ太郎」氏の御協力に深く謝意を表したい。
【二〇一三年一月二十二日追記】本日、前記の「ひょっとこ太郎」氏より再度メールを頂戴し、以下の事実が更に判明した。
   《引用開始》
ここ数日、「旗立山」が気になって、「新編鎌倉志」を読み直してみて、ようやく理解ができた気がします。
「旗立山」とは、江戸時代に走水奉行所があった「旗山崎」のことではないかと考えます。
「散策コース1(東京湾眺望コース) 10 御所ケ崎・走水番所跡」
旗山崎の名は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が上総に渡る時海が荒れて進めず、臨時の御所を設けて軍旗を立てたことに由来するそうで、ここを「旗立山」と言ったかは不明ですが、光圀の頃にも伝説はあったのでしょうね。
延宝二年当時の奉行が大岡次郎兵衛直政だそうです。
リンク先の写真は、走水小学校方面から、岬の小山を見たものですが、この小山が「旗立山」になると考えます。岬の小山を船で過ぎると、すぐ走水番所のある海岸に出ますので、ここで上陸して大岡に引見し、走水観音を見てから、船で金沢方面に向かったのだろうと思います。
   《引用終了》
これを以って、上記三つの不詳は美事に氷解したと言ってよいと思う。「ひょっとこ太郎」氏に多謝!


「大岡次郎兵衞」当時、走水奉行(はしりみずぶぎょう)であった人物(大岡直成?)。走水奉行とは、江戸湾(現在の東京湾)の水上交通の拠点であった走水(現在の神奈川県横須賀市)を支配した江戸幕府の遠国奉行。三崎奉行や下田奉行と連携して江戸から出る船舶の監視取締に当たった。元禄二(一六八九)年に廃止。

「金澤ノ御代官坪井次郎右衞門」底本の編者注によれば、「壺井」が正しい。]

   瀨戸明神〔瀨戸或ハ作迅門(迅門に作る)〕

 社司ガ云。此浦ハ治承四年四月八日、源賴朝豆州三嶋大明神ヲ勸請アリ。社司ハ千葉ノ氏族ナリト云。社領百石、御當家四代ノ御朱印アリ。其文ニ武州久良岐郡六浦郷ノ内云々トアリ。額二正一位大山積神宮ト、二行ニアリ。裏書ニ、延慶四年辛亥四月廿六日〔戊□〕沙彌寂尹トアリ。神殿ニ是ヲ納ムトゾ。舊記ニ正一位第三赤神宮卜云ハ誤也。社ノ左ニ大ナル古木ノ柏槇アリ。里民蛇柏槇卜云。金澤八木ノ一也。其外此邊ニ柏槇ノ大樹多シ。

 寶物 龍王ノ面、拔頭ノ面〔倶ニ古物ニテ妙作ナリ〕 左右二隨身アリ。安阿彌作卜云。二王ハ運慶ノ作卜云。鐘アリ。銘別紙ニ載タリ。

[やぶちゃん注:「迅門」は「新編鎌倉志卷之八」の「瀨戸明神」では『或作迫門(或は迫門に作る)』とある。「迫門」で「せと」、「迫」の誤字のようにも見えるが、瀬戸は潮汐の干満により激しく早い潮流が生じるから、速い意を持つ「迅」を当てて「せ」と読ませているとすれば、表記の一つとして認めることは可能である。

「戊□」は戊辰。

「別紙」少なくとも底本の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」には「別紙」相当のものは所収しない。この「鎌倉日記」には失われた付属資料があるものと思われる。]

芥川龍之介 澄江堂日録 附やぶちゃん注

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に芥川龍之介「澄江堂日録」(附やぶちゃん注)を公開した(発表時の特殊性と内容から目次では「日録」ではなく、小説群の関連の濃厚な「子供の病氣」の前に配した)。

お蔵入り通販生活 2011年秋冬号 巻頭特集「原発国民投票」 CM ナレーション故大滝秀治氏

お蔵入り通販生活 2011年秋冬号 巻頭特集「原発国民投票」 CM ナレーション故大滝秀治氏

僕はずっと言ってきました。

原発国民投票をしましょう!

東京スポーツ「故大滝秀治さん幻の反原発CM」

なめんよ!

ワレ!

この糞馬鹿どもが!

うまごやし三句 畑耕一

ポケツトの時計が聞ゆうまごやし

犬の乳房は八方へ搖れうまごやし

苜蓿わかき太白くだりて來

[やぶちゃん注:「苜蓿」は「うまごやし」。「太白」は金星で「わかき」は明けの明星のことを指しているか。]

2012/10/09

耳嚢 巻之五 小がらす丸の事

 小がらす丸の事

 

 右小がらす丸の太刀は、曩祖(なうそ)より傳りしや、伊勢萬助(まんすけ)に寶として所持なるを、御具足師岩井播磨近頃見たりし由。播磨は古實を糺す事を常に好む癖有しが、家業の事にも委(くは)しき由。帶とりの革を見て、是は古きものなれど忠盛淸盛などの品にあらず、足利時代の革なるべしと目利(めきき)せしかば萬助手を打(うち)て、能(よく)も見たる哉(かな)、添狀(そへじやう)に應仁の頃此太刀修復せし事ありとて書記(かきしる)しあれど、其後は手入の沙汰もなきが、不思議は此太刀今以(いまもつて)サビを生ぜずと申けるゆへ、中(なか)ごを見れば朽(くち)も入(いり)て甚(はなはだ)古びしが、其刄(そのは)はいさゝかのさびもなく、不思議は三寸程切先(きつさき)の方諸刄(もろは)なる由。伊勢の家にてはつるぎ太刀と唱へる由語りし由。予が許へ來る望月翁のいへるは、つるぎ太刀とは何と哉(や)らん可笑しき言葉なり、萬葉集につるぎ太刀と詠める歌二三ケ所に見へし、然れば古き言葉也。(と語りぬ。)

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。

・「小がらす丸」平家重代の名刀とされる小烏丸。刀剣類は私の守備範囲ではないので、以下、ウィキの「小烏丸」よりその殆んどを引用させて頂く(アラビア数字や記号の一部を改変した。なお、引用元に『集古十種』よりの図がある)。『刀工「天国」作との説があり、「天国」の銘があったとの伝承もあるが、現存するものは生ぶ茎(うぶなかご)、無銘で』、『日本の刀剣が直刀から反りのある湾刀へ変化する過渡期の平安時代中期頃の作と推定され、日本刀の変遷を知る上で貴重な資料である。一般的な「日本刀」とは違い、刀身の先端から半分以上が両刃になっている独特の形状を持つ。これを鋒両刃造(きっさきもろはづくり、ほうりょうじんづくり)と呼び、以降、鋒両刃造のことを総称して「小烏造(こがらすまるつくり)」とも呼ぶようになった』。茎(なかご:後注参照。)『と刀身は緩やかな反りを持っているが、刀身全体の長さの半分以上が両刃になっていることから、断ち切ることに適さず、刺突に適した形状となっている』。『刃長六二・七センチメートル、反り一・三センチメートル、腰元から茎にかけ強く反っているが、上半身にはほとんど反りが付かない。鎬は後世の日本刀と異なり、刀身のほぼ中央にあり、表裏の鎬上に樋(ひ)を、棟方に掻き流しの薙刀樋(なぎなたひ)を掻く。地鉄は小板目肌が流れごころとなり、刃文は直刃(すぐは)で刃中の働きが豊かなものである』(刀剣用語の解説は省略するが、引用元の図を参照されれば概ね意味は分かる)。『刀身と併せて、柄・鞘共に紺地雲龍文様の錦で包み、茶糸平巻で柄巻と渡巻を施した「錦包糸巻太刀拵」様式の外装が付属しているが、この外装は明治時代の作である。寛政十二年(西暦一八〇〇年)に編纂された「集古十種」には「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀図」(後述)より転載された蜀江錦包の刀装の絵図が収録されており、現在の外装はそれらを参考に作り直されたものとみられる』。伝承では『桓武天皇の時代、大神宮(伊勢神宮)より遣わされた八尺余りある大鴉によってもたらされたと伝えられ、「小烏丸」の名はその大鴉の羽から出てきた』ことに由来するという。『後に平貞盛が平将門、藤原純友らの反乱を鎮圧する際に天皇より拝領し、以後平家一門の重宝となる。壇ノ浦の戦い後行方不明になったとされたが、その後天明五年(一七八五年)になり、平氏一門の流れを汲む伊勢氏で保管されていることが判明し、伊勢家より刀身及び刀装と伝来を示す「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀図」の文書が幕府に提出された。この「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀」は伊勢家より徳川将軍家に献上されたものの、将軍家はそのまま伊勢家に預け、明治維新後に伊勢家より対馬国の宗氏に買い取られた後、明治一五年(一八八二年)に宗家当主の宗重正伯爵より明治天皇に献上された』。『現在はこれが皇室御物「小烏丸」として、外装共に宮内庁委託品として国立文化財機構で保管されている』。『正倉院宝物の直刀の中には鋒両刃造のものがある。御物の「小烏丸」の他にも「鋒両刃造」の太刀は幾振りか現存しており、各地各時代の刀工が研究のため写しとして製作していたようである』。戦前、『「小烏丸」は時の天皇より朝敵討伐に赴く将に与えられた、という故事に基づき、日本陸海軍で元帥号を授けられた大将に下賜される「元帥刀」の刀身にも、「鋒両刃造の太刀」の様式が用いられていた』。『現在でも「鋒両刃造の太刀」は現代刀の様式の一つとして作刀されているものがあり、上述の「元帥刀」の他にも「靖国神社遊就館」の展示刀や新潟県新発田市の「月岡カリオンパーク」内の「カリオン文化館」の展示品(人間国宝認定刀工の天田昭次の作刀)などを見ることができる。数は少ないながら、刀剣店で取り扱われる刀剣類としても時折見られる様式である』とある。

・「曩祖」先祖。祖先。「曩(ノウ)」は、先・昔・以前の意。

・「伊勢萬助」伊勢貞春(宝暦一〇(一七六〇)年~文化九(一八一三)年)は有職故実家。万助は通称。江戸生。父貞敦(さだたけ)は現在、伊勢故実家で最も知られる伊勢貞丈の養子で、母は貞丈の娘であった。父が病身のため惣領を辞し、明和五(一七六八)年に貞春が嫡孫承祖として家督相続人となった(諸書が貞春を貞丈の子と記すのはこれによる)。天明四(一七八四)年、貞丈の死去により食禄三〇〇石を継ぎ、寛政元(一七八九)年御小姓組御番勤となる。家学を継承して門人の求めに応じて貞丈の著書を刊行した。本巻執筆推定の寛政九(一七九七)年の前年寛政八年には幕命を受けて「武器図説」を編集している。国学者屋代弘賢は彼の門人である(以上は「朝日日本歴史人物事典」の白石良夫氏の記載に基づく)。伊勢氏は藤原道長全盛の時代に遡る桓武平氏の平維衡(これひら)の流れを汲む氏族で、室町期には政所執事を世襲、江戸期には旗本として仕えて武家の礼法「伊勢礼法」を創始、有職故実の家として知られていた(以上はウィキの「伊勢氏」に拠る)。

・「岩井播磨」岩波版長谷川氏注に『幕府御用の具足師』とある。

・「帶とり」は太刀の鞘の足金物(あしかなもの:太刀の鞘上部にある、この帯取りの革緒(かわお)を通す一対の金具。足金(あしがね)とも単に足とも言う。)と、腰に巻く佩き緒とを繫ぐ紐。飾り太刀や細太刀では紫革又は藍革、野太のこと。野太刀(大型の太刀である大太刀の別称)では燻(ふす)べ革・白革などを用いる。

・「忠盛淸盛」平忠盛とその長子清盛。

・「應仁」西暦一四六七年から一四六九年。

・「中ご」茎(なかご)。刀身の柄に被われる部分。呼称は柄の中に込めるに由来。「中心」とも書く。

・「三寸程切先の方諸刄なる」「小がらす丸」の注に見たように『刀身の先端から半分以上が両刃』であり「三寸」(約九センチメートル)では如何にもおかしい。谷川士清纂「和訓栞」(安永六(一七七七)年~文化二(一八〇五)年刊)の「たち」(太刀)の項には以下のように記す(底本は早稲田大学図書館古典籍総合データベースの画像を視認した。一部に濁点と句読点を打って読み易くした)。

〇小烏のたちハ、平家の寶とする所にて、今、伊勢氏傳ふる所は、もと一尺ばかりは、よにつねの平つくりの刀にして、末は両刃(モロハ)也。きつさき尖れるとぞ。

とある。一尺(約三〇センチメートル)なら、先の『刃長六二・七センチメートル』の凡そ半分で一致する。「寸」は「尺」の誤りであろう。現代語訳では「三尺」とした。

・「望月翁」「卷之四」に登場した根岸のニュース・ソースの一人で儒学者。特に詩歌に一家言持った人物で、この二つ後に現れる「傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事」でも和歌の薀蓄を述べており(「瑾」は「きず」と読ませていると思われるが、これはしばしば見られる慣用誤用で「瑾」は美しい玉の意である)、ここでもエンディングに和歌絡みの薀蓄で登場している。

・「つるぎ太刀」「つるぎたち」と本来は濁らない。鋭くよく切れる刀、若しくは単に刀の意でも用いる古くからの語である。

・「萬葉集につるぎ太刀と詠める歌二三ケ所に見へし」「剣太刀」は以下の和歌の例を見れば分かる通り、そのものとして詠み込まれるのではなく、枕詞としての用法が圧倒的に多い。刀剣は身に着けるものであるから「身」「身にそふ」「み」、名刀は本小烏丸の如く命名するのが常であるから「名」「汝(な)」「な」、刀は研ぐから「とぐ」などに掛かる。これらの例を「万葉集」で見る(引用底本は講談社文庫版中西進「万葉集」を用いたが、私のポリシーに則り、正字に代えてある。また、訳は私のオリジナルである)。まず、有名どころでは巻二の一九四番歌、「柿本人麿の柿本朝臣泊瀨部皇女(はつせべのひめみこ)と忍坂部皇子(をさかべのみこ)に獻れる歌一首」に現れる。これは川島皇子(天智天皇の第二皇子)逝去後に妃泊瀬部皇女(天武天皇皇女)へ忍坂部皇子(天武天皇皇子泊瀬部皇女は同母)が献じる歌を人麻呂が代作したものらしい。但し、和歌自体の語り掛ける主体は泊瀬部皇女である。

飛鳥(とぶとり)の 明日香の川の 上(かみ)つ瀨に 生ふる玉藻は 下つ瀨に 流れ觸らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし 嬬(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔膚(にぎはだ)すらを 劒刀(つるぎたち) 身に副へ寢ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂の 越智の大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣は沾(ぬ)れて 草枕 旅寢かもする 逢はぬ君ゆゑ

当該箇所「か寄りかく寄り 靡かひし 嬬の命の たたなづく 柔膚すらを 劒刀 身に副へ寢ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ」は、「……藻の如く、何度も何度も親しくく寄り添うてはともに横になった夫のあなた、その柔らかな気持ちのいい肌えさえも、亡くなった今となっては、太刀を身に添えるように寝ることも出来なくなってしまった故、漆黒の闇の夜には、二人だけのものであったあの寝間もすっかり荒れ果てております……」といた謂いであろう。また巻二の二一七番歌、入水自殺した采女への、同じく柿本人麻呂の挽歌「吉備の津の采女の死(みまか)りし時に、柿本人麿の作れる一首」の、

秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひをれか 栲繩(たくなは)の 長き命を 露こそば 朝(あした)に置きて 夕(ゆふべ)は 消ゆと言へ 霧こそば 夕に立ちて 朝は 失すと言へ 梓弓(あづさゆみ) 音(おと)聞く吾も おぼに見し 事悔(くや)しきを 敷栲(しきたへ)の 手枕(たまくら)まきて 劒刀 身に副(そ)へ寢けむ 若草の その嬬(つま)の子は さぶしみか 思ひて寢(ぬ)らむ 悔しみか 思ひ戀ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと

当該箇所「敷栲の 手枕まきて 劒刀 身に副へ寢けむ」は、「幾重にも布を重ねた枕のような柔らかな手枕を交わし、太刀を身に添えるように寄り添って寝た、懐かしの貴女」の意である。その他、六〇四番歌、

劒大刀(つるぎたち)身に取り副ふと夢(いめ)に見つ如何なる怪(け)そも君に相はせむ

――女である私が、太刀を身に添えて臥す夢を見ました。この不思議な夢は、何? 貴方さまの御覧になった夢と、夢合わせをしてみたいわ……

巻第四の六一六番歌、

劒大刀名の惜しけくもわれは無し君に逢はずて年の經ぬれば

――名刀の銘など、私は惜しくは、ない――そなたに逢わず、もう、何年の経ってしまった絶望の中では……

であるとか、巻第十一の二四九八番歌、

劒刀諸刃の利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君に依りなむ

――二人の寝床に添えた貴方太刀の諸刃の鋭い刃を、踏んでしまって死ぬるのなら死にます、もう、貴方さまのお側に寄り添ったのだから、永久に貴方さまを頼りと致しましょう……

及びこれの相聞と思われる次の二四九九番歌、

吾妹子(わぎもこ)に戀ひし渡れば劒刀名の惜しけくも思ひかねつも

――愛しいお前に恋続けたから、太刀の刃(刀の刃(やいば)を古くは「な」と呼称した)――我が名を惜しむ――という男の甲斐性も忘れてしまいそうだよ……

二四九八の同工異曲男ヴァージョン(と私は思う)、同巻の二六三六番歌、

劒大刀諸刃の上に行き觸れて師にかも死なむ戀ひつつあらずは

――太刀の諸刃の上にぐいと当たって触れ、ずぶり斬! と、死ぬのなら死んでしまいたいものだ! かくも恋に苦しんでなどいないで……

巻二十の四四六七番歌の大伴家持の歌、

劒大刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ淸けく負ひて來にしその名そ

――太刀のをいや増しに磨くがよいぞ! 古えより連綿と背負うて参ったその銘刀を!

これは一見、即物的だが、実際にはこの歌は同族の者が讒言で失脚した際の義憤の歌であり、大伴一族の家名のシンボルとして詠まれている。

以上ように、望月翁の言う「二三ケ所」どころの騒ぎではなく、「万葉集」での用例は甚だ多い。

・「(と語りぬ。)」底本では右に『(一本)』と傍注する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 小がらす丸の事

 

 かの知られた平家重代の銘刀『小がらす丸』の太刀は、これ、先祖より伝わったものか、伊勢萬助殿の家で家宝として所持されておるもので御座るが、最近、幕府御用の具足師岩井播磨が見たとの由。

 播磨は何にあれ、故実を糺すことを何より好んで、それを趣味と致いておるが、これ無論、家業の武具刀剣のことにも頗る詳しい由。

 その彼、『小がらす丸』実見に際して、その帯取りの革紐に、まず、目をつけた。

「――これは古いもので御座るが――まず、忠盛・清盛といった頃の品にては、これ、御座らぬ。――まあ、一見した限りでは、足利時代の革で御座ろう。」

と一瞬にして目利(めき)き致いたところが、万助、手を打って、

「――流石じゃ! この「小がらす丸」には添状があって、そこには応仁の頃、この太刀を修復致いたことが、これ、書き記してあった。……なれど……その後は手入れもなされずに参ったものと思わるるが……これ、不思議なは、この太刀、今以て錆を生ぜずにある、ということじゃ……」

と申した故、播磨が茎(なかご)を確かめて見たところ、茎(なかご)の方は流石にすっかり朽ちて甚だ古色蒼然と致いておったが、その抜き放った刃(やいば)には――これ、聊かの錆も御座なく――不思議なは、実に三尺ほど切先の部分が諸刃であった由。

 伊勢家にては『つるぎ太刀』と呼び習わしておるとの由。

以上のことを、私の元へしばしば来たれる望月翁に話したところ、

「……『つるぎ太刀』とは、屋上屋の如くにて、何とやらんおかしい言葉のようにお感じになられましょうが……『万葉集』に、『つるぎ太刀』と詠み込んだ歌、これ、二、三箇所に見えますればこそ、これ、古き詞(ことば)にて御座る。」

と語って御座った。

懵然とあることは愉し 四句 畑耕一

   懵然とあることは愉し(四句)

熱もてる口にあそばす柳絮かな

 

[やぶちゃん注:「懵然」は「ぼうぜん」と読み、心の昏いさま、無知なさまを言う。] 

 

しづかなる瞳にもてる柳絮かな 

 

ますぐなる日を得てのぼる柳絮かな 

 

日のひかりさらに柳絮をゆかしむる

2012/10/08

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 電子テクスト化始動

「新編鎌倉志」及び「鎌倉攬勝考」の完全テクスト化終了を受けて、カテゴリ「 鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」を創始し、「新編鎌倉志」の原型である同記録の電子テクスト化を始動する。

本日は、まずその「目録」部分。



鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀

 

[やぶちゃん注:本日記(德川光圀歴覽記と通称)は私の全テクスト化注釈を終えた「新編鎌倉志」(リンク先は巻一)のプロトタイプである、水戸藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)が、延宝二(一六七四)年五月(水戸出発は四月二十二日、五月二日上総から乗船して金沢に入った)に、相州金沢・鎌倉の名所旧跡を歴遊した際の家臣に記録させた日記である(因みに、ドラマで水戸黄門諸国漫遊は知らぬ者とてないが、実際には彼の大きな旅行は、この鎌倉行たった一度きりであったと言われていることは知っておいてよかろう)。

 底本は吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」を用いたが、私のポリシーに則り、恣意的に漢字を正字化したが、正字化に際しては影印本「新編鎌倉志」の表記に準じた(例えば「跡」は圧倒的に「跡」で「蹟」とするものは少なく、「天台」という記す場合は「臺」ではなく「台」である)。従って原本を確認したわけではないが、この方がより原本に近いものと考えよいと思われる。割注は同ポイントで〔 〕表記とし、ルビはブログ版では( )で示した。なお、本文中に底本編者によるママ表記や誤字正字注があるが、そのままでは編集権を侵害するので、私が確認にした上で、私の注として直後に配した。

 底本解説によれば、鎌倉では水戸家所縁の英勝寺(徳川家康側室英勝院(お梶の方)の菩提を弔うために創建された。光圀は英勝院の庇護の元で成長し、寛永一一(一六三四)年にはこの英勝院に伴われて江戸城で将軍家光に謁見している。「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」の項及び私の注なども参照されたい)の塔頭春高庵を宿所とし、七日間に亙って歴覧した。その際、勿論、諸社寺に於いても種々の供応がなされ、特別な開帳が行われた場合もあり、当時の一般庶民の鎌倉遊覧とは自ずと異なるものではある。

 光圀は若き日より、歴史への関心がいや増しに深く、明暦三(一六五七)年、水戸家の世子教育を受けていた江戸小石川藩邸に於いて、早くも史局を設置、紀伝体歴史書「大日本史」の編纂作業に着手している。寛文元(一六六一)年、常陸国水戸藩二十八万石の第二代藩主となった後、寛文年(一六六三)年には史局を小石川邸に移して彰考館としている。

 この祖父家康が尊崇した最初の武家政権を樹立した源家鎌倉幕府(家康の愛読書は「吾妻鏡」であったとされる)、東国武士団の本拠であった本鎌倉来訪は、光圀満四十四歳で時であった。

 その二年後の延宝四(一六七六)年の秋、この資料をもとに彰考館館員であった河井恒久に鎌倉の社寺名刹の来歴に就いて本格的に調べるよう命じ、当時、鎌倉の地誌に詳しい鎌倉英勝寺に療養中であった現地医師松村清之に自身の記載の補正をさせたが、業半ばにして河井が亡くったため、同館員力石忠一が代わって、実に十一余の歳月を費やして貞亨二(一六八五)年に書き上げられたのが、「新編鎌倉志」全八巻十二冊からなる史上初の本格的な鎌倉地誌であった。

 これは私の「新編鎌倉志」及びそれに継ぐ幕末の植田孟縉の手になる鎌倉地誌書「鎌倉攬勝考」(リンク先はそれぞれ巻一)の全テクスト化(注釈附)を受けて、電子テクスト化を開始するものである。【テクスト作業開始:二〇一二年十月八日】]

 

 鎌倉日記 乾

 

鎌倉日記目錄

[やぶちゃん注:目録は底本では四段組。改行されていると判断される部分や、下巻標題の前後は一行空けとした。]

 

 瀨戸明神

 稱名寺〔附金澤文庫〕

 能見堂〔附金岡筆捨松〕

 

 光觸寺

 鹽嘗(シホナメ)地藏

 五大堂

 梶原屋敷

 馬冷場

 持氏屋敷

 佐々木屋敷

 英勝寺

 源氏山〔附藥王寺〕

 泉谷

 扇井

 大友屋敷

 藤谷

 飯盛山

 阿佛屋敷

 智岩寺谷
[やぶちゃん注:「岩」は、現代の鎌倉地誌資料では「岸」とする(以下、「現代の鎌倉地誌資料では」の部分は省略して「現在、~。」と表記する)。]

 尼屋敷

 ホウセン寺舊跡

[やぶちゃん注:「ホウセン寺」は現在、「法泉寺」。]

 靑龍寺谷

[やぶちゃん注:これは位置と音の類似から見て、「清涼寺谷(しょうりょうじがやつ)」のことである。]

 景淸籠

 山王堂跡

 播磨屋敷

 六國見

 六本松

 假粧(ケハイ)坂

 葛原岡〔附唐絲籠(カライトノロウ)〕

[やぶちゃん注:ママ。「唐絲籠」は釈迦堂ヶ谷の南でここでは位置がおかしい。]

 梅谷

 武田屋敷

 海藏寺

 淨光明寺

 網引地藏

 藤爲相石塔

 壽福寺

 鶴岡八幡宮

 鐵井

 鐵觀音

 志一上人石塔〔附稻荷社〕

 日金山

 岩不動

 鳥金原

[やぶちゃん注:「金」は現在、「合」。原本記載の誤りであろう。]

 賴朝屋敷

 キドブン

[やぶちゃん注:本文には頼朝屋敷の北西の田の呼称とし、頼朝の同時代の人名としつつ、『未だ審らかならず』とあり、私は初耳の(「新編鎌倉志」には所収しない)現在に伝わらない貴重な地名である。当該項で考証する。]

 報恩寺

 永福寺

 西御門

 高松寺

 来迎寺

 法華堂

 東御門

 荏(ヱ)柄天神

 天台山

 大樂寺

 覺園寺

 大塔宮土籠

 サン堂

[やぶちゃん注:本文に、大塔宮土籠の北東の田の呼称とする。私は初耳の(「新編鎌倉志」には所収しない)現在に伝わらない貴重な地名である。当該項で考証する。]

 獅子谷

 瑞泉寺

 鞘阿彌陀

 杉本觀音

 犬翔谷

[やぶちゃん注:これで「いぬかけがやつ」と読ませているものと思われる。]

 衣張山

 封國寺

[やぶちゃん注:「報國寺」の誤りであろう。]

 滑(ナメリ)川

 淨妙寺

 鎌足大明神〔附鎌倉山里谷七郷〕

 十二郷谷

[やぶちゃん注:十二所の別称(旧称とも言われる)。]

 胡桃谷

 中谷

[やぶちゃん注:本文参照。釈迦堂ヶ谷のことらしい。]

 大御堂谷

 歌橋

 文覺屋敷

 屏風山

 畠山屋敷

 

是ヨリ下卷

 

 寶戒寺

 葛西谷〔塔辻〕

 大町小町

 妙隆寺

 妙勝寺

[やぶちゃん注:廃寺。「新編鎌倉志」に所収しない。]

 大行寺

 本覺寺

 夷堂橋

 妙本寺

 田代屋敷

 田代觀音

 辻藥師

 亂橋

 材木座村

 丁子谷

[やぶちゃん注:本文には、乱橋橋の東の谷とするが、不詳。「新編鎌倉志」に所収しない今は失われた鎌倉の谷戸名である。]

 紅谷

 桐谷

 補陀落寺

 逆川橋

 光明寺

 道寸城

[やぶちゃん注:住吉城址のこと。]

 景政石塔

[やぶちゃん注:景政を祀る御霊神社内の石塔(若しくは様のもの)を指しているように思われるが、後に「御靈宮」があるので違う。本文では由比ヶ浜の北にある、としている。]

 荒井閻魔

 下若宮

 裸(ハダカ)地藏

 畠山石塔

 巽荒神

 人丸塚

 興禪寺

 無量寺谷

 法性寺屋敷

 千葉屋敷

 諏訪屋敷

 佐介谷〔附稻荷大明神隱里〕 

 裁許橋

 天狗堂

 七觀音谷

 飢渇畠

 笹目谷

 塔辻

 盛久首座

 甘繩明神

 水無瀨

 大梅寺

[やぶちゃん注:光則寺の別称。]

 大佛

 御輿嶽

 長谷觀音

 御靈宮

 星月夜井

 虛空藏堂

 極樂寺

 月景谷

[やぶちゃん注:現在は「月影ヶ谷」。]

 靈山崎

 針磨橋

 音無瀧

 日蓮袈裟懸松

 稻村崎

 袖浦

 十一人塚

 七里濱

 金洗澤

 腰越村

 萬福寺

 袂浦

 龍口寺

 龍口明神

 片瀨川

 西行見歸松

 笈燒松

 唐原

 砥上原

 江嶋

 杜戸

 小坪村〔附多古江〕

 鷺浦

 飯嶋

 龜井坂

[やぶちゃん注:亀ヶ谷切通の別称。]

 長壽寺

 管領屋敷

 明月院

 禪興寺

 浄知寺

[やぶちゃん注:「浄智寺」。原本の誤り。]

 松岡山

 圓覺寺

 建長寺

 地藏坂

[やぶちゃん注:本文には建長寺の前を出て、南に行く路の路傍に伽羅陀山の地蔵堂がある所とあるが、不詳。当該項で考証する。]

 小袋坂

[やぶちゃん注:巨福呂坂切通のこと。]

 聖天坂

[やぶちゃん注:これは巨福呂坂切通の旧道を言っているか。]

 佐竹屋敷

 安養院

 花谷〔附蛇谷〕

 松葉谷

 妙法寺

 安國寺

 名越入

[やぶちゃん注:本文によれば材木座村と名越切通を結ぶ道の呼称。]

 長勝寺

 日蓮乞水

 名越坂

 名越三昧場

[やぶちゃん注:本文によれば、古い記録に、名越切通の北方の山巓に少し開けた場所があり、そこに石塔が一基立つとも、男石塔・女石塔の二基があるとも記すが、今は場所さえ不明である、と記すもの。これも初耳の、光圀の時代には失われていた古跡のようにも見えるが、これはどうも現在のまんだら堂を指しているようにも思われるが、如何?]

 法性寺

耳嚢 巻之五 日野資枝卿歌の事

 日野資枝卿歌の事

 

 或人の許に、日野大納言資枝(すけき)卿の自筆の歌ありしが、

  雲霧は風にまかせて月ひとり心高くや空にすむらむ

面白き歌なれば爰に記しぬ。資枝卿の詠歌は何れも趣向面白き事と、人の語りし。一二首をも爰に記しぬ。

   五月雨 きのふけふ雲には風の添ひながら日影も洩らぬ五月雨の空

   納 涼 歸りての宿のあつさの思はれて更るもしらず遊ぶ川面

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌技芸譚二連発。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には、最後に以下のように続く(漢字を正字化、読みを歴史仮名遣表記としたが、本文の「思われて」はママとした)。

 

或人曰(いはく)、

  かきくらし降(ふる)日は風の添ながら払ふともなき五月雨の空

  歸りての宿の暑さのおもわれて夜深き程にすゞむ川面

 

これは前二句の別伝異型ということであろう。

・「日野大納言資枝」日野資枝(ひのすけき 元文二(一七三七)年~享和元(一八〇一)年)は公家日野家第三十六代当主。烏丸光栄末子であったが日野資時の跡を継いだ。後桜町天皇に子資矩(すけのり)とともに和歌をもって仕えた。優れた歌人として塙保己一らに和歌伝授、「和歌秘説」を著している。また、画才にも優れて当代第一の文化人として知られ、本居宣長に金銭援助などもしている(ウィキの「日野資枝」に拠る)。

・「更る」は「ふくる」と訓じていよう(カリフォルニア大学バークレー校版も「ふくる」とルビする)。

・「川面」は「かわをも」と訓じているか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 日野資枝卿の歌の事

 

 ある人の許に、日野大納言資枝卿の自筆の歌が御座ったが、

  雲霧は風にまかせて月ひとり心高くや空にすむらむ

とあって、これ、実に面白い歌で御座れば、ここに記しおくことと致す。資枝卿の詠歌は、何れも趣向、これ、面白しと申す。人の教えて呉れた一、二首をもここに記しおく。

 

   五月雨 きのふけふ雲には風の添ひながら日影も洩らぬ五月雨の空

 

   納 涼 歸りての宿のあつさの思はれて更るもしらず遊ぶ川面

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (一)逃げること~(2) 了

 飛魚が水上に飛び出すのも敵から逃れるためである。水中には飛魚を追ひか捕へて食はうとする大魚が澤山に居るが、これから逃れるために、飛魚はまづ全身の筋肉を働かせ、尾で水を跳ねて空中に躍り出て殆ど身體と同じ長さの大きな胸鰭を扇の如くに開き、空中に身を支へながら三四囘も波形を畫いた後、出發點から二百米以上も隔つた處で再び水中に歸る。かくすれば水中の敵からは逃げられるが、空中にはまた「かもめ」の類が飛魚の飛び出すのを覗つて、捕へ食はうと待ち受けて居るから、何疋かは必ずその餌となるを免れぬ。どこへ行つても生活は決して安樂ではない。

Tobiuob


Tobiuoa

[飛魚]

[やぶちゃん注:上が大正一五(一九二六)年版の図(国立国会図書館蔵。同ホームページより挿絵のみトリミングして転載)。下が講談社学術文庫掲載図。全く異なる。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国
図電1301044-1-5703号)】]


[やぶちゃん注:「飛魚」ダツ目トビウオ科 Exocoetidae に属する魚類の総称(科名はギリシア語“exo koitos”、「棲家から出て来る」の意)。太平洋・インド洋・大西洋の亜熱帯から温帯の海に棲息、全五〇種ほどの内、日本近海では三〇種弱が観察出来る。その形態は、体躯自体が細い筒状の逆三角形の断面を持つ体をしており、最大種でも全長約三〇~四〇センチメートルに留まり、背は藍色で腹は白色(青魚のブルーバック効果)、胸鰭が発達して著しく大きく、尾鰭は上端と下端が長く伸びたV字状となっており、特に下端が長く、水面から飛び立つ際の推進力を効率よく伝えられるようになっている。滑空時には胸鰭を広げ、グライダーの翼のような役割を担う。同様に腹鰭も大きな種がおり、この場合には四枚の翼で飛ぶように見える。飛翔の目的は主にトビウオを好餌とするシイラ・サメ・マグロなどの捕食者から逃げるためとされている。一般的な滑空は一〇〇メートル程度は普通に可能で、水面滑走速度は時速三五キロメートル、空中滑空速度は時速五〇~七〇キロメートル、滑空高度は高い場合は水面から三~五メートルまで達する(日本おさかな雑学研究会 「頭がよくなる おさかな雑学大事典」に拠れば、大型のものでは六〇〇メートル程度滑空するものがあるとする)。シイラに飛翔を読まれて逆にシイラの口に飛び込んでしまったり、漁船などに自ら飛び込んでしまうケースもある。二〇〇八年五月にNHKクルーが鹿児島沖のフェリーから四五秒間にわたって(途中、水面を何度か尾鰭で叩きながら)飛翔し続ける様子を撮影したものがあるが、は映像として捕えられた過去最長記録と報じられた(以上は主にウィキの「トビウオ」を参照した。飛翔映像のリンク先は二〇〇八年五月二〇日附のBBCニュースの動画で、本注を附した二〇一二年一〇月八日現在でも視聴出来る)。]

 

 以上はいづれも敵を後に殘して空中へ飛び出すものであるが、敵に食はれぬために水中へ逃げ込む動物も澤山ある。「をつとせい」・「あしか」・「あざらし」のやうな海獸は身體の形狀が遊泳に適して、陸上では運動が頗る拙であるから、敵に遇へば直に水中に飛び込んで逃げる。「かはをそ」〔カワウソ〕なども危險にぎ遇へばまづ水中に逃げ込む。南極に近い方の無人島に非常に數多く棲息する「ペンギン鳥」も、常には岩の上に一面に竝んで居るが、攻められれば忽ち水中に飛び込んで逃げる。翼が極めて短く、且羽毛が殆ど鱗の如くであるから、無論この鳥は空中に飛翅することは出來ぬが、その代り水中に入れば翼を用ゐて恰も魚の如くに自由自在に遊泳する。「がん」や「かも」が泳ぐのは全く足の運動によるが、「ペンギン鳥」では足はたゞ舵の役を務めるだけである。なほ逃げることによつて身を護る運動は幾らでもあつて誰でも知つて居るものが多いから、わざわざ例を擧げることは以上だけに止めて置く。

Pengin

[ペンギン鳥]

[やぶちゃん注:「かはをそ」食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科 Lutrinae に属するカワウソ類の古称。「かわをそ」とは「川恐」で、川に住む恐ろしい魔物の謂いである。なお、カワウソ亜科にはカワウソ属ユーラシアカワウソ亜種 Lutra lutra whiteleyi ニホンカワウソ(独立種とする考え方もある。但し、昭和五四(一九七九)年以来目撃例がなく、今年(二〇一二年八月)、環境省はレッドリスト改訂で正式に絶滅種と認定した。昭和まで棲息していた哺乳類で絶滅種に指定されたものは本種が初めてである)などの他、ラッコ類も属す。

「飛翅」「飛翔」の誤植とも思われるが(講談社学術文庫版は「飛翔」)、農作物を食害する昆虫を謂うのに「飛翅害虫」という専門用語があるので、一応、ママとしておく。]

赤城大沼木の芽に落す雲とどろ 畑耕一

赤城大沼木の芽に落す雲とどろ

2012/10/07

耳嚢 巻之五 おた福櫻の歌の事

 おた福櫻の歌の事

 

 いつの頃にや六位の藏人(くらうど)の詠(よめ)るよし。或日右藏人二條家へまかりてけるに、何か案じ入給へる樣子故其事を伺ひしに、此頃禁中の御慰みに難題を出して歌よむ事なりしが、おたふく櫻といへる題をとりて案ずるよし、汝もよむまじきやとありければ、しばし考へて、

  谷あひに咲る櫻は色白く兩方たかし花ひきくして

かくよみければ、二條殿も殊のふ感じ給ひし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。十六項前の「和歌によつて蹴鞠の本意を得し事」以来の和歌技芸譚。

・「おた福櫻」仁和寺に咲く御室桜(ソメイヨシノの八重で、丈が低く、這うような枝振りの遅咲きである)の愛称として今に伝わり、

〽わたしゃ、お多福、御室の桜、花が低(ひく)うても、人が好く

という歌謡もで知られる。

・「六位の藏人」五位蔵人に次ぐ殿上人。位階が六位で特に蔵人に任ぜられた者を指す(通常の蔵人は五位)。本来の殿上人は五位以上であるが、メッセンジャー・ボーイとしての職務が必要であったため、特に許された。一日交代制